第九十六話 遠い灯りが、窓になる
窓に、客室の明かりが映り始めていた。
キーノは額をガラスへ近づけ、外を見た。昼間は遠くまで見えていた畑がなくなり、木々の影が重なる。その向こうに、空よりも暗い山の形があった。
汽車の揺れは変わらない。
それなのに、座っていられる時間が、急に短くなった気がした。
「そろそろ、着替えた方がいいかな」
ハリーが言った。
ロンは窓を見てから、自分の荷物へ手を伸ばす。
「そうだね。着いてからじゃ、間に合わないかも」
キーノも、制服を出しておいた包みを膝へ載せた。
横丁の店で合わせたときには、鏡に映る自分を見る余裕があった。今は留め具を外す手に、少し力が入る。
向かいで鬼太郎が、読みかけの本を閉じた。
「キーノさん、先に着替えますか。僕たちは通路へ出ていますから」
「ああ。すぐに済む」
ハリーも頷き、ロンと一緒に立ち上がった。
三人が外へ出ると、狭い客室が広くなった。
キーノは扉を閉め、窓に映る自分を見た。
ここへ来るまでに、知らない名前をいくつも聞いた。
自分も、名前を答えた。
何を話せばよいか分からない時間はあった。怒ったことも、笑ったこともあった。それでもハリーとロンは、別の客室へ行かなかった。
廊下から、ロンの声が聞こえる。
「兄貴たち、もう着替えてるかな」
キーノは包みを開いた。
黒い布を広げる。
まだ寮の色も紋章もない制服を、頭からかぶった。
◆
ハリーは客室へ戻り、畳んでいたローブを取り出した。
キーノは今度は自分が外へ出ると言い、扉の向こうへ行った。鬼太郎が通路側の窓の覆いを引く。
ロンはネズミを座席へ置いてから、服を着替え始めた。
「同じ寮になるといいね」
ローブの袖に腕を通しながら言う。
ハリーは、頭が襟を抜けるまで返事を待った。
「うん」
眼鏡を掛け直す。
「別々だったら、授業も全部違うの?」
「全部じゃないと思う。兄貴たちは、ほかの寮と一緒の授業の話もしてたし」
ロンは少し考えた。
「でも、寝る部屋とか、談話室は違うよ」
ハリーは自分の袖口を直した。
学校へ着けば、この客室で話していた時間が、そのまま続くと思っていた。
誰かに寮を決められることは、さっきも聞いた。そのときには寮の名前が気になったが、今は、ロンと別の場所へ行くかもしれないという方が気になった。
鬼太郎は着替えを終え、旅に使っていた上着を畳んでいた。
大きな黒い杖を、すぐ取り出せる位置へ収める。
「授業が同じでなくても、話す機会はあるでしょう。食事をする場所も、同じでしたね」
「大広間だよ」
ロンが答えた。
「寮ごとにテーブルがあるんだって」
「では、そこで顔は見られますね」
鬼太郎はそう言って、服の包みを閉じた。
簡単なことのように聞こえた。
まだ決まっていない寮のために、今から話せなくなるわけではない。
ハリーは少し息をつき、扉を開けた。
「もう大丈夫だよ」
キーノが顔を向ける。
黒いローブの裾が、通路の揺れに合わせて動いた。
彼女も、ロンも、鬼太郎も、同じ服になっていた。
ハリーはそのことが、何となく嬉しかった。
◆
到着が近いことを告げる声が、車内へ響いた。
大きな荷物は汽車に残すように、という案内も続く。
鬼太郎は拡張鞄の口を閉じ、留め具を確かめた。移動に使ったものを戻した後、財布と杖は身につけたままにする。
キーノも帳面をしまった。
「これも、運んでくれるのか」
「そういう案内でしたね」
鬼太郎は、鞄を席の下へ寄せた。
どこへ運ぶかは、学校側が分かっているらしい。寮がまだ決まっていない新入生の荷物まで扱うなら、その後で振り分ける手順があるのだろう。
車輪の音が変わった。
ロンがスキャバーズをポケットへ入れる。ハリーは網棚の方を見てから、立ち上がった。
通路には、もう何人も出ていた。
鬼太郎は扉のそばへ立ち、先の動きを見る。まだ汽車は止まっていないのに、出口へ向かって身体を押す者がいる。
「止まってからでよさそうです。ここからでも、降りられますから」
キーノは頷いたが、窓の外へ顔を戻した。
小さな明かりが、いくつも後ろへ流れていく。
やがて、その間隔が広がった。
最後の揺れに合わせて、通路の子供たちが一斉に足を踏み直す。
汽車が止まった。
◆
ホームへ降りると、ハリーの頬に冷たい空気が当たった。
ロンドンを出たときとは違う匂いがする。
湿った土と、汽車の煙。
すぐ前を、大きなトランクを持たない生徒たちが歩いていく。あちこちで友達を呼ぶ声が上がり、扉から降りてくる者の足音が重なった。
ハリーは一度、後ろを振り返った。
ロンがすぐそばにいた。
キーノが段差を下り、その後ろから鬼太郎も降りてくる。
「こっちかな」
ロンが、人の流れる方へ首を伸ばした。
その向こうで、ランプが揺れた。
子供たちの頭より、ずっと高いところにある。
一年生を呼ぶ、大きな声が聞こえた。
ハリーは顔を上げた。
「ハグリッド!」
髭に覆われた顔が、こちらを向く。
「おお、ハリー! 着いたな。汽車はどうだった?」
「楽しかったよ」
返事は、考えるより先に出た。
ハグリッドが笑った。
ハリーも笑い、後ろの三人を見た。
「同じ客室だったんだ」
ロンたちが近づく。
ハグリッドは三人へ頷いたが、その間にも、後ろから来る小さな生徒を手で招いていた。
「一年生は、こっちへ集まってくれ。そこの子もだ。上級生についていくんじゃないぞ」
呼び掛けに、迷っていた少年が戻ってきた。
ハリーはその様子を見ながら、ハグリッドのそばへ寄った。
ここに知っている顔がある。
それだけで、暗いホームが少し歩きやすくなった。
◆
鬼太郎は、ランプを持つ手を見た。
指も、手の甲も大きい。
ホームの人混みでも、肩から上はほとんど隠れなかった。傍に立つと、自分たちの顔を見るために、かなり視線を下げなければならない。
森で会った人間たちよりも、サーシェスよりも、ずっと大きかった。
巨人の血でもあるのだろうか。
今の姿だけで決めることはできない。だが、足を置く幅と、荷物のない片手を動かす様子は、よく見えた。
彼は、後ろから押されてきた子供の肩に手を添えた。
大きな手で道を変えさせ、隣へ寄せる。
それからもう一度、ホームの奥へ声を掛けた。
「まだいるか? 一年生、こっちだぞ」
声はよく通るが、急いで来た者を叱りつける調子ではなかった。
鬼太郎の隣で、キーノが見上げている。
「大きいな」
「ええ」
鬼太郎は答えた。
キーノはハグリッドの顔から、ランプへ目を移す。
「あれなら、どこにいるか分かる」
「助かりますね」
ランプが動いた。
ハグリッドは集まった子供たちを見回し、ついてくるように言った。
鬼太郎も足を進める。
ホームを離れると、足元の明かりが少なくなった。
◆
細い道は、下り坂になっていた。
キーノは前を歩くハリーの背を見ながら進んだ。道の端には草が生え、その先で木が重なっている。
足元に小石があった。
避けて歩く。
後ろで誰かが滑り、短く声を上げた。鬼太郎が振り返ったが、近くの子供がその腕を支え、すぐに列は動き出した。
闇の中に、何人もの足音があった。
森を歩くのには慣れた。それでも今夜の道は違う。
前にも後ろにも、自分と同じような制服を着た子供がいる。誰かが声を落として話すと、それを聞いた別の子が笑う。
「学校って、まだ先なのか?」
キーノが尋ねた。
ロンは木々の向こうを見た。
「もうすぐだと思う。兄貴たちは、一年生は湖を渡るって言ってた」
「湖?」
「舟で行くんだって」
キーノは顔を上げた。
建物の入口まで、道を歩いていくのだと思っていた。
「お前の兄たちも、そうしたのか」
「うん。毎年、一年生はそうらしいよ」
ロンは答え、裾を踏まないよう片手で持ち上げた。
その先で、ハグリッドが歩く速さを落とした。
もうすぐ城が見える、と後ろへ知らせる。
子供たちの話し声が小さくなった。
キーノはハリーの肩越しに、前を見た。
木々が途切れた。
◆
ハリーは、足を止めた。
目の前に、黒い湖が広がっていた。
その向こうの高いところに、城があった。
塔の先が夜空へ伸び、いくつもの窓から明かりがこぼれている。遠くからでも、壁の広がりが分かった。
どこを見ればよいのか、すぐには決まらなかった。
一つの塔を見上げると、その隣にも塔がある。
窓の並びを目で追うと、もっと奥へ建物が続いている。
あそこへ行く。
そう思ってから、ようやく、自分がそこへ住むことも思い出した。
「……あれが」
ロンの声がした。
彼も、顔を上げたままだった。
兄たちの話を知っていても、この場所から城を見るのは初めてなのだ。
ハリーは隣のキーノを見た。
彼女は口を少し開けていた。
寒さのせいで袖の中へ引いていた手が、外へ出ている。
「大きい」
さっきハグリッドを見たときにも、同じことを言った。
今度は、その後の言葉がなかなか出てこなかった。
ハリーは城へ顔を戻した。
明るい窓が、湖の上にも映っている。
家を出る前には、今日の夜、こんなところへ立っているとは思わなかった。
隣で誰かが息をついた。
それが自分の声だったかもしれない。
◆
岸辺には、小舟が並んでいた。
ハグリッドは一艘に乗る人数を四人までにするよう告げ、子供たちを促した。
ロンが近くの舟へ向かった。
「これに乗ろう」
ハリーが続き、キーノも足を進める。
鬼太郎は舟の縁に手を置いた。
押した分だけ、船体が水の上で動く。
ロンが乗ったときに傾いたが、沈み込みは浅かった。ハリーは片足を床へ下ろしてから、身体を移した。
キーノは岸から舟までの幅を見た。
「そこへ足を置けば、大丈夫だよ」
ハリーが空いているところを指す。
「分かる」
キーノは答えたが、彼の指した場所を使った。
舟が小さく揺れる。
腰を下ろすと、湖面がずいぶん近くなった。
最後に鬼太郎が乗った。
膝を少し横へ向け、ローブの裾を足元から上げる。
隣の舟には、ハーマイオニーとネビルがいた。ネビルはまだ岸の方を見ており、空いた手で服のポケットを押さえている。
トレバーは、見つかっていないらしい。
鬼太郎は水へ目を戻した。
櫂がない。
船体のどこにも、漕ぐためのものは見当たらなかった。
ハグリッドが自分の舟から全体を見渡す。
乗り遅れた者がいないことを確かめ、出発を告げた。
舟が進み始めた。
◆
キーノは舟の縁を握った。
自分たちの舟だけではない。
岸に並んでいた小舟が次々に離れ、湖の上へ出ていく。
船首が水を分ける音がした。
「勝手に動くのか」
「魔法だろうね」
ロンが答えた。
鬼太郎は船首を見てから、後ろへ目を向けた。
岸が遠ざかる。
箒は、乗る者が扱っていた。これは全員が座っているだけで、前の舟と同じ方へ進む。
行き先が決まっているのか。
それとも、先頭の合図に従うよう作られているのか。
速度も、隣の舟との間隔も、今のところよく揃っていた。
「どこへ行くかも、舟に分かるのだろうか」
キーノが言った。
鬼太郎は彼女へ顔を向けた。
「そこは、僕も気になります。運ぶ相手を選ぶのか、同じ道を進むだけなのかで、作り方が違いそうですね」
「お前は、乗った途端にそれか」
「キーノさんも、聞いたでしょう」
「聞いたが」
彼女は城を見た。
水の上へ出ると、塔の間に隠れていた壁も見えた。窓の光が水面でほどけ、近くの舟の影に遮られる。
「今は、あっちの方が気になる」
鬼太郎も顔を上げた。
「ええ。僕もです」
いつもの笑みが、そのまま少し深くなった。
広い建物には、それだけ人もいるのだろう。
教科書で読んだものを、実際に扱う者がいる。箒にかかった魔法も、この舟を進める仕組みも、尋ねる相手を探せる。
ダンブルドアから教わったことは、すでに自分の動きに役立っていた。
ほかの教師は、何を教えるのか。
鬼太郎は、明るい窓の並びを見た。
城の大きさを眺めているだけでは、待ちきれなくなりそうだった。
◆
キーノは、舟の縁から指を離した。
座っていれば、舟はちゃんと進んでいた。
ロンが小声で、食事の話を始める。
兄たちから聞いた皿の数や、好きなだけ食べられるという話だった。
「さっき、あんなに菓子を食べたのに?」
ハリーが言った。
「だって、あれから何時間も経ってるよ」
ロンが答え、自分の腹へ手を置いた。
キーノも、空腹に気がついた。
それまで、窓と城を見ていて忘れていた。
「食べる前に、寮を決めるのだったな」
「うん」
ロンの声が、少し小さくなった。
ハリーも彼を見た。
何をするのかは、まだ分からない。
キーノはローブの袖口を押さえた。
自分にできることだろうか。
それを終えたら、別々の寮へ行くかもしれない。
胸の奥が、また少し縮んだ。
それでも、向かいに座るロンの顔は見えた。ハリーは、城から目を離すたびに誰かへ話しかけている。鬼太郎も、今は同じ舟にいた。
「もし、寮が違っても」
キーノは言った。
三人がこちらを見る。
「明日、会ったら声を掛けてくれ」
ハリーが頷いた。
「もちろんだよ」
「僕も」
ロンがすぐに続けた。
鬼太郎はキーノを見て、穏やかに目を細めた。
「見つけたら、そうしますね」
「私も、見つけたら呼ぶ」
キーノは答えた。
それだけ言うと、少し落ち着いた。
昨日の帳面には、名前を聞くと書いた。
明日は、その名前で呼べる相手がいる。
◆
城が近づくにつれ、ハリーは顔を高く上げなければならなくなった。
岸から見たときには、塔と窓を一度に眺められた。今は、目の前の崖と、その上に続く壁が視界を占める。
ハグリッドの声が、水の上を渡った。
頭を低くするように言っている。
ハリーは身をかがめた。
舟が岩の近くへ進み、垂れた葉の下をくぐる。葉先がローブへ触れ、頭の上から空が消えた。
キーノも膝へ身体を寄せた。
狭いところを通り抜けると、舟の音が変わった。
水を切る音が、壁へ返ってくる。
地下へ入ったのだと分かった。
前のランプの明かりが、濡れた石を照らしている。舟はそのまま進み、小石のある岸へ寄った。
ハリーは舟が止まってから立った。
ロンが先に降り、ハリーも岸へ足を置く。
キーノと鬼太郎が続いた。
後ろの舟から、ハーマイオニーの声が聞こえる。
ネビルが慌てて岸へ上がり、ハグリッドの方へ駆け寄った。
大きな手の中に、ヒキガエルがいた。
「トレバー!」
ネビルの顔が、一気に明るくなった。
受け取る両手が、ずっと大事そうに動く。
ロンがそれを見て、ハリーへ肩を寄せた。
「やっと、見つかったね」
「よかった」
ハリーも答えた。
ネビルはヒキガエルを確かめながら、何度も礼を言っていた。
ハグリッドは全員が降りたか確認し、ランプを持ち直す。
また歩き始めた。
◆
石の通り道を抜けると、夜の空気が戻ってきた。
鬼太郎は階段を上りながら、城の壁へ目を向けた。
湖から見えた灯りのいくつかは、もう頭上にある。
近づけば、どの窓も小さな光の点ではなくなる。厚い壁の中に、部屋があるのだと分かった。
そのどこかで、授業を受ける。
キーノも、歩きながら見上げていた。
「首が痛くなりますよ」
鬼太郎が言う。
「お前も見ているだろ」
「そうですね」
キーノは彼を一度睨んだが、すぐにまた上を見た。
その顔には、疲れよりも、もっと見たいという気持ちが出ていた。
ハリーとロンが、先の数段を上る。
二人が立ち止まったところで、鬼太郎も顔を戻した。
大きな扉があった。
子供たちの列が、その前へ集まっていく。
ハグリッドは後ろを見渡し、最後の生徒が上がるのを待った。
ランプを下げた手の向こうに、黒い制服の肩が並ぶ。
鬼太郎はキーノの隣へ立った。
彼女は袖口を直し、一度だけ深く息を吸った。
ハリーも扉を見ている。
ロンは口を閉じ、自分のローブの前を撫でた。
ハグリッドが、扉へ手を上げる。
叩く音が、厚い木を通って響いた。
鬼太郎は、その奥から来る音を待った。
今度は本の頁をめくるだけではない。
まだ知らないことを、知っている者に尋ねられる。
キーノの足が、ほんの少し前へ出た。
扉の向こうで、人が動く気配がした。