第97話 皿に戻した菓子
ダンブルドアは、椅子へ座る鬼太郎の左腕を見た。
袖は替わっていた。
鞄を下ろすのも、椅子を引くのも右手だった。左手は膝へ置き、指を強く曲げようとはしない。
「ポンフリー夫人の言うことは、聞いておったか」
「ええ。今日は、寝台にいました。こちらのお話も、短く済ませるようにと言われています」
「では、わしも叱られぬうちに済ませよう」
菓子の皿を寄せると、少年は右手で一つ取った。
それをすぐには食べず、机の端へ置く。
「昨日のことですね」
「うむ。まず、あの力を使ったこと自体を、咎めるつもりはない」
鬼太郎の目が上がった。
「学校では、むやみに使わないようにというお話でしたね」
「使えるものを使わず、噛まれたり叩かれたりしておれ、という意味ではないよ」
鬼太郎は頷いた。
安堵した様子はなかった。そのために呼ばれたとばかり思っていたわけではないのだろう。
「最初は、教わった呪文で止めようとしたのじゃな」
「はい。効かなかったものと、使うのが間に合わなかったものがありました」
「その後、キーノさんが傷ついた」
「ええ」
短く答えた。
ダンブルドアは、声よりも目を見た。
その名前が出たとき、少年は相手の返事を待つ顔ではなくなった。昨日の場面を、自分の側から見直している。
彼女を生徒として迎えることは、鬼太郎を学校へ連れてくる条件の一つだった。
今は、入学の許可があるだけではない。
キーノには授業があり、隣へ座る友人がいる。ここに戻り、続きを過ごしたいと思う理由が増えていた。
それは、鬼太郎を学校へつなぐ枷にもなる。
本人を押さえつけるより、その方がよく働く。
だが、枷である彼女を傷つければ、こちらへも牙が向くだろう。昨日の死体は、少年が誰かの制止を待たなくなるところを示していた。
「じゃが、命を奪うところまで、行かずには済まなかったかの」
ダンブルドアは尋ねた。
鬼太郎は机へ置いた菓子へ目を落とす。
「気絶したところで、止められたかもしれませんね」
「そうじゃ」
「ただ、あのときは、そうなるまで少しずつ試すつもりはありませんでした。腕も、まだ噛まれていましたので」
少年は左手へ視線を移し、戻した。
「動かなくなったと、確かめられるところまで続けました」
「その確かめる先を、死にだけ置いてほしくはない」
鬼太郎は、黙って老人を見た。
話が通じないのではなかった。通じた上で、同じ結論には向いていない。
「あなたでしたら、もっと前に止められたのでしょうね」
穏やかな声だった。
「あの部屋へ入るより、前に」
ダンブルドアは眉を上げた。
「わしが、城へ入れたと言いたいのかね」
「いいえ。ですが、あなたのいらっしゃる学校で、あれほど大きなものが何体も歩いていたのは、不思議でした」
鬼太郎は菓子を取った。
「学校の側にも、何かご都合があるのかと思いまして」
それから、一口かじる。
証拠を出されたわけではない。
少年はダンブルドアが何をしたか、見てはいなかった。ただ、力を知っている相手へ、知らずに通したのかと尋ねている。
ハリーの名前は出さなかった。
彼へ何を経験させるつもりだったかも、知らない。
トロールが城へ入る動きには、ダンブルドアも気づいていた。
その場で止めれば、生徒たちは宴席を終え、何も知らず眠っただろう。
しかし、ハリーには、友のために自分から動き、その先で知恵と力を使う機会が要る。教師が課題として渡すだけでは、得られないものがあった。
見過ごした箇所は、確かにある。
避難経路へ教師の手を回し、危険を止める余地を残す。それを理由に、自分の選択を支えてもいた。
鬼太郎があの結末を選んだことまで、望んでいたわけではない。
だが、それで自分の選択が消えることもなかった。
「学校側で、確かめねばならぬこともある」
ダンブルドアは答えた。
「それと、お主がどう相手を止めるかは、両方考えねばならん」
「ええ。使える方法は、増やしたいですね」
殺したことを悔いる返事ではなかった。
別の方法を覚えることには、関心がある。
そこを同じものとして受け取れば、次の話を誤る。
「大広間を出る前に、教師へ知らせることもできたはずじゃ」
「はい。それは、ミネルバ先生にも言われました」
「次に、誰かが知らせを聞いておらぬと気づいたら、そばの教師へ伝えてほしい」
「お伝えします。二人がどこにいるか、知っていただいた方がよいですから」
そこには、すぐに返事が来た。
ダンブルドアは頷き、話を移す。
「キーノさんは、学校を続けたいと思っておるようじゃな」
「ええ。今日もグレンジャーさんと、よくお話ししていました」
「ここで過ごしたい理由が、増えておる」
「ですから、安心して過ごせる場所であってほしいですね」
少年の目が、まっすぐに来た。
「それを守るためにも、教師を頼ってほしいのじゃよ」
「頼りにしていますよ。間に合うところに、いてくださるのでしたら」
ダンブルドアは、皿へ伸ばしかけた手を止めた。
「……今日は、随分と刺してくるのう」
「昨日は、僕も噛まれましたので」
鬼太郎が左腕を少し示す。
老人は息を吐いた。
「教師の側で直すこともある。軽く済んだ話にするつもりはないよ」
少年は、そこで続きを重ねなかった。
残った菓子を食べ終え、右手を膝へ戻す。
ダンブルドアも皿から一つ取った。
「こちらからも、伺いたいことがあります」
鬼太郎が言った。
「昨日、トロールに出会う前に、通路で二匹、別のものに襲われました」
菓子を持つ手が止まる。
「別のもの?」
「毛に覆われていて、二本の脚で歩きます。刃物を持って、言葉も話しました。コボルトという、悪魔です」
「その名を、知っておったのか」
「思い出したのは、倒した後です。僕の知っているものが、なぜ学校にいるのか、分かりません」
ダンブルドアは、菓子を皿へ戻した。
鬼太郎は話を続けた。
向こうへ行きたいので、道を空けてほしいと頼んだこと。
相手が刃を上げ、風で一匹を壁へ押したこと。
そこで、話が違うと叫んだこと。
ダンブルドアは机の端へ紙を寄せた。
「その言葉を、覚えておるか」
「魔法を使うじゃないか、話が違う、と。僕の左手を見ていました」
「杖ではない方を、じゃな」
「ええ。その後は二匹とも向かってきましたので、銃と魔法で倒しました」
尋ねるたび、見たことが返ってきた。
倒れた身体が粒へほどけ、武器まで消えたという話には、書く手を止めた。
「何も、残らなかったのか」
「身体も、刃物も。最後の一匹が消えるところは、ハリーさんとロンさんも見ています」
「二人が来たのは、そのときじゃったか」
「はい。ですから、戦っているところまでは、見ていないと思います」
鬼太郎は、一度、老人の顔を確かめた。
「こちらは、ご存じなかったのですね」
ダンブルドアは、紙から目を上げた。
「知らなかった」
飾る言葉はつけなかった。
トロールを通した先へ、自分の知らないものが置かれていた。
少年の言う悪魔を、この城に入る闇の生物の一つとして扱ってよいかも、まだ分からない。
鬼太郎の炎や風は、普通の杖魔法と異なる。ならば、こちらがいつもの方法で確かめている範囲から、外れていた可能性はある。
それは、理由の候補にすぎなかった。
気づかなかったことの埋め合わせにはならない。
「その二匹は、お主の名を呼んだかね」
「いいえ。小さい人間だと、言っていました」
「お主を狙っていたか、通った者を襲ったかまでは、分からぬな」
「僕にも、そこまでは。誰から、どんな話を聞いていたのか、尋ねられればよかったのですが」
少年は少しだけ、悔しそうな顔をした。
死んだ相手が残っていれば、調べられるものもある。だが、今聞いた話では、その身体すらなかった。
呼び出されたのか、連れ込まれたのか。
そのどちらかだと決めるだけのものも、今はない。
「場所を、教えてくれるか」
「はい」
鬼太郎は通った角と階段の位置を説明した。
ダンブルドアはそれを紙へ記す。
目撃した二人にも、別に確かめねばならなかった。
「それから、杖が」
鬼太郎の右手が、黒檀を抜いた。
机へ横たえる。
「消えた二匹から出た力を、取り込みました。僕は、何も命じていません」
「お主の使う力と、似たものじゃったのか」
「ええ。触れた感触で、分かりました。自分から杖へ送ったわけではないのに、向こうから入ってきたんです」
長い黒檀は、机の上で動かなかった。
傷もない。
正体の分からぬ羽根を芯とし、オリバンダーの店で少年を選んだ杖だった。
「確かめても、よいかね」
「お願いします。僕にも、何をしたのか分かりませんので」
ダンブルドアは杖を手に取った。
硬く、重い。
向きを変え、杖の内側へ慎重に意識を向ける。
初めて少年の手で働いたときから、普通の杖とは違うものがあった。その反応を思い出し、今のものと比べる。
同じではなかった。
「一度だけ、いつもの明るさで灯してみなさい。強い光にする必要はない」
黒檀を返す。
鬼太郎は右手で受け取り、先を人のいない方へ向けた。
「ルーモス」
白い光が灯った。
ダンブルドアは、光だけでなく、それを生む杖の反応を見ていた。
消してよいと告げると、少年はノックスを唱えた。
もう一度、差し出された黒檀を受け取る。
「僅かじゃが、力が増しておる」
鬼太郎の目が上がった。
「杖の方が、ですか」
「うむ。以前の反応を知らねば、見過ごす程度の違いじゃ」
少年は杖を見た。
「取り込んだものを、使える力にしたのでしょうか」
「その可能性はある。じゃが、どこで何が変わったのかまでは、まだ分からん」
ダンブルドアは机へ杖を置き、指を離した。
「吸い込んだものが残って働いておるのかもしれん。同じことがまた起きるか、取り込めばそのたびに強くなるかも、今は答えられぬ」
「僕の方は、力を使った後の重さが残っていました。杖へ入った分が、そのまま戻った感じはありませんでしたね」
「お主自身が回復したという話とは、分けておこう」
鬼太郎は頷き、黒檀を右手で取った。
指先で向きを少し変え、芯のある内側へ目を落とす。
少年を選んだ理由と、つながっているのかもしれない。
だが、ダンブルドアにも、今その芯の正体を言い当てることはできなかった。
「また悪魔が現れたら、わしにも知らせてほしい」
鬼太郎が顔を上げた。
「城の調べ方も、見直さねばならん。今回のように気づかぬものを、そのままにしてはおけぬ」
「分かりました。そちらで分かったことも、教えていただけますか」
「全てをそのまま、とは約束できん」
「では、出会ったときに必要なところを。何も知らないまま、また通路を塞がれるのは困りますので」
ダンブルドアは少年を見た。
「お主に、対処を任せると言ったわけではないぞ」
「僕も、引き受けたとは言っていませんよ」
返事は柔らかかった。
探して歩くと約束したのではない。しかし、目の前へ来たとき、自分で判断するところまでは手放していない。
そこで言い合いを長くすれば、ポンフリーに叱られるだろう。
「危険から離れるために必要なことは、伝えよう。お主も、見たことは聞かせてほしい」
「ええ。調べてくださる方が増えるのは、助かります」
鬼太郎は杖を収めた。
鞄を右手で持ち直し、椅子から立つ。
ダンブルドアは、菓子皿の横にある紙へ目を落とした。
トロールについての軽口には、返す言葉を選べた。
だが、その向こうにいた二匹については、まず、こちらが知らなければならなかった。
◆
談話室へ戻ると、キーノは窓辺にいた。
鬼太郎を見ると、閉じていた帳面を鞄へ入れる。
「長かったな」
「いくつか、確かめていただきましたので」
向かいの椅子へ座り、鞄を右側へ置いた。
キーノの目が、左腕へ来る。
「痛みは?」
「強く握らなければ、それほどではありません」
「なら、握るな」
「今日は、もう休むように言われました」
「その言葉は、覚えてきたんだな」
鬼太郎は声を落とし、面談のことを伝えた。
使った力よりも、止め方について話したこと。
通路の悪魔を報告すると、校長も知らなかったこと。
黒檀を確かめてもらい、僅かに力が増していると分かったこと。
キーノは鞄へ目を向けた。
「吸い込んだ分か」
「かもしれません。ただ、どう働いたかは、まだ分かりませんね」
「あいつらが来た理由も?」
「そちらも、これからです」
暖炉のそばで、ハリーが顔を上げた。
ロンと一緒に、こちらを見ている。
キーノの話が終わるのを待ち、ハリーが近づいてきた。
「少しだけ、聞いてもいい?」
鬼太郎は頷いた。
「あの通路にいたのって、何だったの?」
「コボルト、と呼ばれているものです」
「ゴブリンとは、違うのか」
ロンが尋ねた。
「ええ。別のものですね」
「倒れると、消えるんだ」
ハリーが言った。
「あの二匹は、消えましたね」
「杖にも、何か入っていったよね」
「何かを取り込んだようです。校長先生にも、お伝えしてきました」
ハリーは、次の言葉を待っていた。
鬼太郎は続けなかった。
こちらにも分からないことが多い。その中のどこまでを話すか、今夜、全部決めるつもりもなかった。
「それと、持ってたのは銃だよね」
「はい」
ロンが顔を向けた。
「銃って、マグルの使う鉄の棒だろ?」
「棒っていうか、武器だよ」
ハリーが言うと、ロンは鬼太郎を見た。
「あの音も、それか」
「ええ。撃った音です」
「どうして、持ってるの?」
ハリーの問いには、少し間を置いた。
鬼太郎は、自分の右腰へ手をやらなかった。
「必要になることがあるので、持っています」
ハリーは口を閉じた。
昨日、実際に必要になったところを見ていた。それでも、その前から持っている理由までは、今の返事から分からないだろう。
キーノが、鬼太郎の鞄を指した。
「続きは、またにしろ。今日は、休むように言われてる」
「うん。ごめん」
ハリーが椅子の前を空けた。
鬼太郎は右手で鞄を持ち、立ち上がった。
階段へ向かう前に、キーノが隣へ来る。
「今夜、その杖を調べるなよ」
「ええ。灯してみるのも、一度で終わりにしましたから」
「一度は、やったのか」
「確かめていただくためですよ」
彼女は鼻を鳴らした。
鬼太郎は、鞄の口へ目を落とす。
あの店で自分を選び、今度は、自分の知らないことをした杖が入っている。
確かめたいことはあった。
それでも右手を紐から離さず、今夜は、そのまま寝室へ向かった。