第98話 枝より先に来るもの
羽根は、机の上へ戻った。
置いたところから少し横へ滑り、チョークの線を越える。
鬼太郎は杖先を下げた。
浮かせることには、前ほど時間がかからなくなっていた。だが、線の内側へ下ろそうと近づけると、羽根はその先へ行く。戻そうとして動かせば、今度は反対へ揺れた。
「最後まで、同じ速さで運ぼうとしていませんか」
机のそばへ来たフリットウィックが尋ねた。
「止めたいところで、杖を止めたのですが」
「では、その少し手前から、ゆっくりにしてみましょう。そこへ届いてから慌てて戻すと、また動かすことになりますよ」
鬼太郎は羽根を置き直した。
ハロウィーンの後、授業へは戻っていたが、左腕を強く使うことは控えていた。右手の杖も、立つ場所を変えずに使っている。
昨日出した復習の紙には、上げた後に揺れを直そうとして、余計に動かしたと書いた。
今日は、机の二つの印の間を移す練習だった。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
羽根が浮く。
鬼太郎は印へ向け、ゆっくり運んだ。
近づいたところで、さらに速さを落とす。羽根の端が揺れたが、すぐに戻そうとはしなかった。
線の手前へ下ろす。
軸が机へ触れ、柔らかな先が遅れて落ちた。
「今は、線を越えませんでしたね」
「もう一度、同じようにできるか確かめてごらんなさい」
フリットウィックはそう言って、次の机へ移った。
鬼太郎は杖を戻した。
一度うまくいったことと、必要なときにできることは、別だった。
もう一度唱える。
今度は途中で羽根が回り、下ろした軸の先が線に掛かった。
◆
数日かけて、鬼太郎は同じ練習を続けた。
ポンフリー夫人にも左腕を診てもらった。指を曲げ、軽く握り、痛むところを尋ねられる。
初めは握り込んだときだけ疼いた。それも薄れ、腕を伸ばしたときの引き攣れがなくなってから、普段の動きを少しずつ戻した。
浮遊術では、教師に見てもらいながら、小さな木片も試した。
指ほどの長さで、片手に載る薄いものだった。
唱えると、端が持ち上がる。
鬼太郎は、先に浮いた方だけを追って杖を上げかけ、止めた。トロールの前では、そうして木片を跳ねさせた。
浮いていない端も見ながら、全体を机から離そうとする。
木片は斜めになったまま、少し浮いた。
横へ動かすと、片方の端が机を擦る。
「こちらは、羽根より戻すのが遅れますね」
鬼太郎が言うと、フリットウィックは、持ち上がった高さを指した。
「まず、両端とも机から離してみましょう。今は片方を引きずっています。そのまま横へ運ぶ前に、止めて確かめてください」
木片を下ろし、初めからやり直した。
二度目は、指の厚みほどの隙間ができた。
鬼太郎はそこで止めた。先に持ち上がった端が、少し下がる。
まだ水平ではなかったが、両端とも机には触れていない。
それを見てから、短く横へ運ぶ。
下ろすと、木片は片側から着いた。
乾いた音がした。
「急がずに置けるようになったら、距離を延ばしましょう。大きいものは、その後です」
「はい」
鬼太郎は頷いた。
腕の中へ来る重さは、自分で持ち上げるときとは違う。それでも、見ている物が重くなれば、同じ動かし方では済まなかった。
授業が終わると、彼は紙へ結果を書いた。
羽根は、印の手前から速さを落とす。
木片は、両端を離してから横へ動かす。
その下へ、もう一つ書く。
その間、相手は待たない。
「それは、先生に出す方じゃないだろ」
キーノが隣から言った。
彼女は自分の紙へ、羽根を下ろす前に杖を引きすぎた、と書いている。
「こちらは、尋ねることをまとめている方です」
「誰に?」
「まだ、決めていません。歩きながら唱える練習や、相手が動くところで使う練習も、できないかと思いまして」
キーノは紙の下を見た。
教師に相談、と書いてある。
「今度は先に、聞くんだな」
「ええ。夜中に場所を決めるのは、もう止められていますから」
キーノは鼻を鳴らした。
「それでも、相手を探したいんだろう」
「もちろん。机から動かない木片は、僕を追ってきませんので」
鬼太郎は笑い、紙を二つに分けた。
提出する復習の方には、最後の一行を写さなかった。
◆
授業のない時間に、鬼太郎は窓の続く廊下へ入った。
いつもの教室へ向かう道からは、少し外れている。窓の下に見える庭の向きが違い、角の先には、まだ入ったことのない扉があった。
「君、墓場だよね」
後ろから声がした。
振り向くと、本を抱えた上級生が立っていた。ローブには、ハッフルパフの色がある。
「はい。何か御用ですか」
「僕はセドリック・ディゴリー。組分けのときから、一度話してみたかったんだ」
鬼太郎は彼の顔を見た。
知らない相手だった。
「帽子が、あんなに騒いだのは初めて見たよ。何があったの?」
「何を見て驚いたのかは、僕にも分かりません」
セドリックは少し首を傾けたが、続けて尋ねなかった。
「そうか。聞かれる方も困るよね。学校には、慣れた?」
「授業へ行く道は覚えました。まだ、歩いたことのないところは多いですね」
「今日は、城を見て回ってるんだ」
「ええ。それと、練習に使えるところがあるのかと思いまして。勝手に使ってよいとは、思っていませんが」
鬼太郎は廊下の先へ目を向けた。
セドリックも隣へ来る。鬼太郎は、近づいた分だけ半歩、窓側へ位置を変えた。
「何の練習?」
「覚えた呪文を、動く相手にも使ってみたいんです。物を浮かせていると、そちらを見ている間に近づかれますから」
「決闘をしてみたい、ってことかな」
「そういう練習ができれば、助かります。先生には、これから相談するつもりです」
セドリックは、本を抱え直した。
「許可が取れたら、僕ともやってみない?」
鬼太郎は彼を見た。
「僕は、まだ一年生ですよ」
「知ってる。僕は三年。でも、君とは面白い練習ができそうだ」
「どこを見て、そうお思いになったのですか」
セドリックは、二人の足元へ目を落とした。
「近づいたら、すっと離れたから。僕が嫌だっていう顔じゃないのに、手は届かなくなった」
鬼太郎は自分の立つ場所を見た。
意識して大きく退いたつもりはなかった。
「気にされる方は、少ないですね」
「杖を向けたら、もうそこにいなさそうだと思ったんだ」
鬼太郎の口元に、笑みが浮かんだ。
力があるかは、まだ分からない。
だが、そこを見て誘ってくる相手とは、話してみたかった。
「機会がありましたら、ぜひ。セドリックさん」
「じゃあ、また声を掛けるよ。先生に相談できたら、教えて」
彼は本を持ち直し、別の廊下へ歩いていった。
鬼太郎は見送り、窓の外へ目を戻した。
練習できる場所も、教師の許可も、まだない。
しかし、相手の候補は一人、できた。
◆
次の帰還の日までには、左腕の痛みはなくなっていた。
経過を診てもらい、伸ばしても握っても痛まないことを確かめる。普段の動きを戻してから荷を整え、二人で学校を出た。
学校外の指定地点で、金属の輪へ手を添える。
腹の奥を引かれる感覚が来た。
次に地面を踏んだときには、砦の門が目の前にあった。
門内の発着場所は空いていた。脇へ置かれた荷は、その線へ入らないよう寄せられている。
キーノが鞄を持ち直した。
「帰ってきたな」
「ええ」
鬼太郎は、木々の向こうで葉の擦れる音を聞いた。
出る前と全く同じ景色ではなかった。道の端へ落ち葉が寄り、戸口に掛けた布も替わっている。
窓口で帳面を広げているボグダンのところへ顔を出した。
挨拶をすると、彼は帳面の一か所を指した。
乾きの足りなかった糸の包みについて、数量を直した跡が残っている。
持ち主が受渡しを見送ったときの訂正だった。元の数だけを頼りに、窓口が勝手に足したわけではない。
鬼太郎は、誰が数量を直したかを確かめ、帳面を返した。
受け取ってよい品かを決める者がいて、運ぶ日を相談する者もいる。自分が帰るまで、全部を止めておく約束ではない。
「侵入者の知らせは?」
「今、お前に回す話はない」
ボグダンは答えた。
「道で見たものがいれば、見た場所と一緒に持ってくる。森中を歩いて確かめたわけじゃないぞ」
「ええ。分かっています」
鬼太郎は帳面から手を離した。
外へ出ると、キーノが顔を見ていた。
「残念そうにするなよ」
「まだ、何も言っていませんよ」
「何かいないかって顔をしてる」
鬼太郎は笑った。
森を荒らす相手がいるなら、学校で覚えたものを試す機会にもなる。だが、そのために、いない相手を探して歩くつもりはなかった。
部屋へ荷を置き、持って帰ってきた紙を机へ出した。
「では、グロブニクさんへお願いしてみましょうか」
「先に、何をするか話せよ」
「もちろん。今日は、杖で教わったものを試したいんです」
キーノも鞄を下ろした。
「私も行く。帰ったら、こっちもやるぞ」
彼女が指した紙には、浮遊させた物を決めた場所へ下ろすとき、何を変えたかを書く欄がある。
「ええ。今日、分かることも増えそうですからね」
◆
北の谷へ続く道は、湿っていた。
鬼太郎は白い石の手前で止まり、キーノもその後ろへ立った。
「グロブニクさん。お時間はありますか」
呼んでから、待つ。
枝が揺れたのは、しばらく後だった。
大きな黒い身体が、石の向こうへ出てくる。暗赤色の右目が二人を見た。
「戻ったか」
「ええ。少し、相手をしていただけませんか」
鬼太郎は黒檀を見せた。
「今日は、学校で教わった呪文を試したいんです。火も、銃も使わずに」
「それで、我を止めるのか」
「止められるか、確かめたいですね」
グロブニクが、低く息を吐いた。
「短くなら、よい」
鬼太郎は白い石を指した。
「ここまで退いたら、終わりにしましょう。それと、どちらかがやめると言ったときも」
「分かっている」
「中へ入っても?」
グロブニクが身体をずらした。
その許しを得てから、鬼太郎は境界を越えた。
キーノは石の外で、二人の動く先から離れる。
鬼太郎は足元を見た。
濡れた葉。露出した根。道の脇に、折れた細い枝がある。
片腕ほどの長さだった。葉はほとんど落ち、先が細く分かれている。
立つ位置を決め、杖を構えた。
黒い身体が動く。
「リクタスセンプラ」
光が肩口へ当たった。
毛が揺れた。
前脚は、止まらなかった。
鬼太郎は幹の脇へ逃れた。爪が地面を掻き、落ち葉が靴へ掛かる。
トロールにも効かなかった呪文だ。
こちらも同じだった。だが、その結果を見て立ち止まっていれば、肩へ届かれる。
幹を挟んで、距離を取る。
鬼太郎は、先ほどの枝へ杖を向けた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
細い先が持ち上がった。
反対側は、葉の間に引っ掛かっている。
鬼太郎は両端を見ようとした。
太い方が、ようやく地面を離れる。
その向こうから、黒い身体が来た。
枝を高くする間はなかった。
グロブニクは、浮きかけた枝の上を越えた。
鬼太郎は呪文を切り、横へ退く。
枝が落ちた。
幹の陰へ入った直後、肩のあった高さを前脚が通った。
「木を見ている間に、我が来るぞ」
「ええ。まだ、上げるだけで時間がかかりますね」
鬼太郎は答えながら、回り込んだ。
教室なら、両端が浮くまで待てた。
ここでは、片方が動いたところでもう、次に逃げる場所が要る。
グロブニクが幹を回る。
鬼太郎は別の木へ下がり、落ちた枝へもう一度、杖を向けた。
今度は相手の真正面へ上げようとはしない。
枝の向きを少し変え、低いまま横へ寄せる。
グロブニクが、その端を回った。
そちらへ来るなら、もう半歩、こちらへ逃げられる。
鬼太郎は枝を下ろそうとした。
木片を机へ置くときのように、最後まで見届けかける。
落ち葉を蹴る音が、近くで鳴った。
目を戻したとき、黒い肩はもう、枝の外にあった。
杖を向け直すより、先に退いた。
爪がローブの端を掠める。
鬼太郎は足を滑らせかけ、根を避けて踏み直した。
白い石が見える。
そこまで戻り、杖を下げた。
「ここまでですね」
グロブニクが止まった。
鬼太郎は呼吸を整え、境界の向こうの枝を見た。
細い枝だった。
それでも、持ち上げ、向きを変え、置くところまで気にすれば、その間に相手は来た。
「次は、木ばかり見るな」
グロブニクが言った。
「気づいていましたか」
「見ていれば、分かる」
鬼太郎は笑った。
構えも、目を向けた先も見られていた。
「ありがとうございました。次までに、もう少し考えてきます」
「それだけでは、まだ届かん」
重い声だった。
鬼太郎は一礼し、キーノのいる道へ戻った。
◆
砦の机へ、二枚の紙を置いた。
学校へ出す方には、羽根を下ろす手前で動きを遅くしたことを書く。
自分の記録には、枝の両端を見る間に近づかれたことを書いた。
キーノが、その二枚を見比べた。
「先生に教わったとおりに、下ろそうとしたんだな」
「ええ。置き方だけなら、気をつけたつもりでした」
「その間、相手は待たないんだろう」
彼女が、学校で書いた紙を指した。
鬼太郎はその一行を見て、頷いた。
「分かっていることと、できることも、別ですね」
下へ、一つ書き足す。
どこへ置くかは、唱える前に決める。
それだけで足りるかは、まだ分からない。だが、次に教師へ尋ねることは、前よりはっきりした。
キーノも自分の復習を終え、紙を鞄へ入れた。
帰還の時刻に間に合うよう、二人で戸を確かめる。砦の門内へ出る前に、鬼太郎は右腰のホルスターを押さえた。
今日は、一度も抜かなかった。
杖を収め、指定の場所で金属の輪へ触れる。
引かれる感覚に足を踏み直し、次には学校外の指定地点へ降りた。
キーノが一歩、横へずれた。鬼太郎も輪をしまい、城へ向かう道を歩き出す。
「次は、ハリーの試合だな」
キーノが言った。
「ええ。皆さんと、見に行きましょう」
鬼太郎は答えた。
鞄の中には、提出する紙と、次に尋ねる紙が入っていた。