第九十七話 古い縫い目は、底を知らない
扉が開くと、緑のローブを着た魔女が立っていた。
ハリーは顔を上げた。
髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばしている。ハグリッドよりずっと小柄なのに、その前に並ぶ子供たちの話し声は、すぐに収まった。
「一年生を連れてきたぞ、マクゴナガル先生」
「ありがとうございます、ハグリッド。ここからは私が」
彼女は列を見渡した。
ハリーの方にも視線が来た。その隣のキーノと、鬼太郎のところでも、一瞬止まった。
「皆さん、こちらへ」
扉の奥には、広い玄関ホールがあった。
石の床を進むと、右手の方から大勢の話し声が聞こえてくる。ハリーが顔を向ける前に、マクゴナガル先生は別の小さな部屋の扉を開けた。
全員が入ると、肩と肩が近くなった。
彼女は入口へ立ち、子供たちが落ち着くのを待った。
「ホグワーツへようこそ。宴の前に、皆さんの寮を決める組分けを行います」
グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリン。
四つの名前が、順に告げられた。
寮は、これから学校で暮らすうえでの家となる。同じ寮の生徒と眠り、談話室を使い、寮の得点も共に増やしたり、失ったりする。
ハリーは話を聞きながら、ロンを見た。
ロンは唇を結び、真っ直ぐ前を向いている。
マクゴナガル先生は服装を整えて待つように言い、部屋を出た。
扉が閉じる。
誰かが、大きく息を吐いた。
「どうやって決めるんだろう」
ハリーが小声で尋ねた。
「分からない。フレッドは、怖いことを言ってたけど」
ロンは答え、ローブの袖口を引いた。
ハーマイオニーが近くで唇を動かしていた。覚えた呪文を確かめているようだった。
ハリーも、自分が使える魔法を考えた。
考えても、学校で試されそうなものは出てこなかった。
「試験なら、どこまでやればよいかは教えてくださるでしょう」
鬼太郎が言った。
落ち着いた声だったが、彼も部屋の外を知っている顔ではなかった。
キーノは彼の横で、黒いローブの前を直していた。
「まだ習っていないことまで、できるとは言わんぞ」
「それでよいと思いますよ」
鬼太郎は頷いた。
その会話の向こうから、別の声が上がった。
「聞いたか? 今年はハリー・ポッターが来てるぞ」
ハリーは顔を向けた。
マルフォイが、こちらを見ていた。
◆
近くにいた子供たちが振り返った。
マルフォイは、その反応を見て口元を上げる。
「あそこにいる。僕はもう、汽車で話したんだ」
小さな部屋に、ハリーの名が広がった。
誰かが背伸びをする。別の子が、額の方へ目を向けた。
ハリーは前髪へ触れかけ、手を下ろした。
マルフォイが近づいてくる。
クラッブとゴイルは、今度は少し後ろにいた。ゴイルは片手を反対の手で包んでいる。
「まだ、そんな連中とつるんでるのか、ポッター」
マルフォイはロンへ目を向け、それからハリーを見る。
「ここで暮らすなら、友達は選ぶことだ。僕なら、もっとましな相手を紹介してやれるぞ」
「さっき、答えたよ」
ハリーは言った。
「ここへ来ても、考えを変える気はないのか?」
「うん」
マルフォイの笑みが薄くなる。
「何も知らないくせに、よく言うよ」
「だからって、君に決めてもらう必要はない」
ハリーは、彼の顔を見て答えた。
周囲が静かになっていた。
マルフォイが目を動かす。
みんなにハリーを見せようとしたのは、彼自身だった。今は、そのみんなの前で断られていた。
「せっかく忠告してやったのに」
「聞いたよ」
ハリーは答えた。
ロンが隣へ寄ってきた。
キーノもその場を離れず、マルフォイが次に何をするか見ている。鬼太郎は少し後ろに立ったままだった。
マルフォイは唇を曲げ、クラッブとゴイルの方へ戻った。
誰かが、ハリーの名前をもう一度囁いた。
ハリーは聞こえなかったふりをした。
そのとき、壁を通り抜けて白いものが現れた。
短い悲鳴が上がる。
ハリーも肩を引いた。
半透明の人影が、何人も部屋の中へ入ってくる。足は床についていない。互いに話しながら、子供たちの頭の上へ滑るように進んだ。
太った修道士の姿の幽霊が、一年生に気づいて笑った。
キーノがハリーの横で、目を大きくした。
鬼太郎はその輪郭と、通り抜けてきた壁を見ていた。
幽霊が挨拶をしても、ハリーはすぐには返事ができなかった。
扉が開いた。
マクゴナガル先生が戻ってくる。
「そろそろ始めます。幽霊の皆さんは、大広間へお願いします」
それから、一年生へ顔を向けた。
「一列になって、ついてきてください」
ハリーはロンと目を合わせ、前の子供の後ろへ並んだ。
◆
一年生を迎えるためにミネルバが大広間を離れた少し前、ダンブルドアは古い帽子を手に取っていた。
生徒たちの話し声が、長いテーブルの間を満たしている。
その喧騒へ紛れるくらいの声で、帽子へ話しかけた。
「今夜、一人だけ、先に伝えておきたい生徒がおる」
帽子の裂け目が動いた。
「名簿にいれば、私が呼ばれるのを待つ」
「墓場鬼太郎じゃ。彼には、開心術を使わんでくれ」
帽子の先が、僅かに傾いた。
「組分けをするのは私だ、ダンブルドア」
「知っておる。本人と話し、その希望を聞いてほしい。拒まれたら、内側へ踏み込むのはやめるんじゃ」
「私は、何百年ここにいると思っている」
古い縫い目が、口の端のように持ち上がった。
「君より長く、子供を見てきた。あの闇の帝王だって、私が組分けをした。一人増えたからといって、いちいち手順を教わる必要はない」
ダンブルドアは帽子を見た。
他者の心を探ることを、彼自身は珍しい手段と思っていなかった。
言葉だけでは分からないことがある。隠された思いを知ることで、守れるものも、先に防げることもあった。必要と判断すれば、これまでもそうしてきた。
だが、鬼太郎には使っていない。
あの予言の子と話を続けるための足場は、強制して従わせることでは作れなかった。
約束を交わし、それを守る理由を互いに持つ。
その関係を、心を覗いたという一事で終わらせるわけにはいかない。
今後も、その手段を彼に使うつもりはなかった。
「経験があるからこそ、頼んでおる」
ダンブルドアは声を変えずに言った。
「本人が断ったことを、軽く扱わんでほしい」
帽子は返事の代わりに、裂け目を閉じた。
ダンブルドアは少し待ってから、帽子をミネルバへ渡した。
◆
大広間へ入ると、キーノは顔を上げた。
蝋燭が、空中に浮いていた。
長いテーブルの上にいくつも並び、炎が静かに揺れている。その先には、夜空があった。
屋根がないのかと思った。
だが、外の冷たい風は入ってこない。
「天井には、魔法がかかっているの」
近くでハーマイオニーが小声で言った。
「外の空が見えるようになっているのよ。『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ」
キーノはもう一度、星を見た。
鬼太郎も上を見ている。
尋ねたいことが増えたときの顔だった。
四つのテーブルに、上級生が座っていた。奥の高いところにもテーブルがあり、大人たちがこちらを見ている。
真ん中にいる老人の顔は、知っていた。
ダンブルドアだ。
彼が小さく頷く。
キーノはそれを見てから、前へ顔を戻した。
マクゴナガル先生が、一年生を教師たちの前へ並ばせる。
椅子ではなく、四本脚の腰掛けが一つ置かれた。
その上へ、古びた帽子が載る。
継ぎ当てがあり、くたびれた布が折れていた。
キーノは帽子と、腰掛けを見比べた。
何をするのだろう。
帽子の裂け目が開いた。
歌が始まった。
キーノは目を瞬かせた。
動く絵も、浮く箒も見た。それでも、布でできた帽子が大広間に響く声で歌うのは、初めてだった。
歌には、四つの寮の名があった。
勇気、誠実さ、知恵、野心。
それぞれの寮が、どんな者を迎えるか。
自分を被れば、ふさわしい場所を決めてやると、帽子は歌った。
最後の声が終わると、広間に拍手が起きた。
キーノも手を合わせた。
隣でロンが、はっきりと息をついた。
「被るだけか」
ハリーが少し笑った。
キーノも、肩の力を抜いた。
マクゴナガル先生が名簿を広げる。
呼ばれた生徒は帽子を被り、決まった寮のテーブルへ向かうように、と説明した。
最初の名が呼ばれた。
◆
ハンナ・アボットという少女が進み出た。
帽子が頭へ載る。
少しの間があって、ハッフルパフと告げられた。
一つのテーブルで拍手が起きる。
少女は帽子を外し、そちらへ急いだ。上級生が席を空けて迎える。
鬼太郎は、その流れを見ていた。
名簿は姓の順で進んでいるようだった。
ただし自分の名前は、別のところに書かれている。
マクゴナガルは、名簿を確かめた際に鬼太郎へだけ、最後に呼ぶと小声で伝えていた。漢字で記された名前が、ほかの生徒の並びとは別の欄に載っているためだった。
読み方を確認されたので答えた。
呼ばれる順番に、特に不満はない。
その分、帽子の働きを長く見ていられた。
すぐ決まる者もいる。
しばらく腰掛けに座る者もいた。
帽子が何かを尋ねているのか、被ったまま唇を動かす者がいるが、言葉はここまで聞こえなかった。
スーザン・ボーンズはハッフルパフへ、テリー・ブートはレイブンクローへ向かった。
ラベンダー・ブラウンがグリフィンドールと告げられると、赤と金の色が見えるテーブルから大きな拍手が起こった。
ミリセント・ブルストロードはスリザリンへ。
呼ばれるたびに、一年生の列が短くなっていく。
シェーマス・フィネガンには少し時間がかかった。
隣でキーノが、帽子の先を見ている。
何も試されないと分かってから、表情は和らいでいた。それでも、呼ばれる順番が近づくにつれて、指が袖口を押さえる回数は増えていた。
ハーマイオニー・グレンジャーが呼ばれる。
彼女はすぐに前へ出て、帽子を被った。
グリフィンドールと告げられる。
鬼太郎はそのテーブルへ目を向けた。
勉強熱心な彼女は、知識を求める寮へ行くかと思っていた。
目に見える一つの性質だけで、決めているわけではないらしい。
ハーマイオニーが席へ着く。
次の名が呼ばれた。
「キーノ・ファスリス・インベルン」
◆
キーノは、一歩目を少し大きく踏み出した。
ローブの裾が足へ触れる。
踏まずに済んだ。
腰掛けまで進み、座る。
帽子を被ると、蝋燭の明かりが隠れた。
目の前が、古い布の裏になった。
耳ではないところへ、声が届いた。
――さて。ずいぶん遠くから来たのだね。
キーノは息を止めた。
声が、頭の内側にある。
――でも、ここへ来ることは、自分で選んだ。
そうだ。
キーノは思った。
それに、声が答えた。
――よろしい。君は、自分の意思を持っている。
小さな身体が、生きることを手放さなかった。
逃げ道が見えなくても、次があると信じられなくても、それでも終わりにしなかった。
帽子の言葉は、そこへ触れた。
見世物小屋の光景を、人前に並べられたわけではない。
誰にも聞こえていないところで、自分が何を捨てずにいたかを言われた。
キーノは腰掛けの縁へ手を置いた。
――怖さを知らないことだけが、勇気ではない。君は怖いと知っていて、ここへ来た。
キーノの胸が、少し熱くなった。
友達ができるかは、分からない。
自分を知っても、隣にいてくれるかも。
それでも学校へ行きたいと思い、汽車へ乗った。
帽子の声が、近くで笑った。
――君の席は、ここだ。
「グリフィンドール!」
声が、今度は外へ響いた。
キーノは帽子を持ち上げた。
明かりが戻る。
拍手が聞こえた。
テーブルの方から、こちらを招く手が見える。
キーノは立ち上がり、帽子を腰掛けへ戻した。
列にいる鬼太郎を見た。
彼が頷く。
ハリーも笑っていた。ロンは片手を上げてから、まだ組分けを待っていることを思い出したように、すぐ下ろした。
キーノはテーブルへ向かった。
空いた席へ座ると、ハーマイオニーが顔を向けた。
「一緒ね」
「ああ」
キーノは答えた。
皿と杯が目の前にある。
自分の座る席が、決まった。
列へ目を戻すと、先ほどより離れていた。
それでも、三人の顔は見つけられた。
◆
ハリーは、キーノが席へ着くまで見ていた。
ネビルもグリフィンドールになった。
帽子を被ったまま歩き出しかけ、慌てて戻したため、笑い声が起きる。ネビルは赤くなったが、迎える拍手は止まらなかった。
マルフォイは帽子を載せると、ほとんど間を置かずにスリザリンと告げられた。
ハリーは彼が席へ向かうのを見て、目を戻した。
次々に名前が呼ばれる。
待っている間に、掌が湿ってきた。
帽子が自分の中に何を見るのか、分からない。
魔法界のことを知らないまま育った子供に、ここで暮らす席をくれるだろうか。
前の生徒が腰掛けを離れた。
「ハリー・ポッター」
名が響いた。
広間のあちこちで、囁きが重なる。
ハリーは腰掛けへ向かった。
足を置く場所を、一つずつ見た。
座り、帽子を被る。
目が隠れた。
声がした。
考える力がある。
勇気もある。
自分で思っている以上に、何かを成し遂げようとする気持ちもある。
帽子は、いくつものものを見つけた。
ハリーは、布の裏を見たまま思った。
スリザリンへは、行きたくない。
帽子が、その思いを拾った。
そこへ行けば、自分の力を伸ばせると語りかけてくる。
ハリーは膝の上で、手を握った。
自分が何になれるのかは、まだ分からない。
でも、マルフォイの隣へ行きたいとは思わなかった。
キーノが座った席を思い浮かべる。
ハーマイオニーも、ネビルも、あそこへ行った。
帽子はすぐには答えを出さなかった。
暗い布の向こうで、広間の物音が遠くなる。
長い間、座っているように感じた。
やがて、頭の中の声が調子を変えた。
ハリー自身の希望を、もう一度確かめる。
彼は、同じ答えを返した。
帽子が決めた。
「グリフィンドール!」
広間が、爆発したように騒がしくなった。
ハリーは帽子を外した。
立ち上がっている生徒がいた。
赤毛の双子が両手を上げ、歓声を重ねている。ほかの生徒たちもテーブルを叩き、空いた席を示していた。
ハリーは帽子を戻し、そちらへ歩いた。
誰かが手を握り、誰かが背中へ触れた。
褒められるほどのことをした覚えはなかったが、追い返されなかった。
ここへ座ってよいのだ。
キーノが、通路側へ身体を寄せた。
「こっちだ」
ハリーは空いた席へ腰を下ろした。
向かいで、ハーマイオニーも拍手をしていた。
まだ自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
ハリーは笑おうとして、ようやく息をついた。
◆
残りの生徒が組分けされていった。
ディーン・トーマスがグリフィンドールへ来た。
ロンの名が呼ばれると、ハリーも身体を起こした。
帽子は、長く待たせなかった。
グリフィンドール。
ロンは帽子を外し、こちらを見た。
ハリーが手を振る。
キーノも、席を示した。
ロンは早足でやってきて、二人のそばへ座った。
「よかった」
その声を聞いて、ハリーは笑った。
「同じだね」
「うん」
ロンは頷き、キーノへも目を向けた。
彼女はもう、前の方を見ていた。
ブレーズ・ザビニがスリザリンへ向かう。
それで終わりだと思った生徒が、教師のテーブルへ顔を向けた。
だが、腰掛けの横には、まだ一人残っていた。
マクゴナガル先生が、名簿の最後の欄へ指を置く。
「墓場鬼太郎」
キーノの背筋が伸びた。
◆
鬼太郎は、腰掛けへ歩いた。
先ほどのハリーほど、多くの目が動くことはなかった。それでも最後の一人になれば、自然に視線は集まった。
教師のテーブルに、ダンブルドアがいる。
こちらを見ていた。
鬼太郎は一度会釈し、腰掛けへ座った。
帽子を取り上げる。
「よろしくお願いします」
小さく挨拶をして、頭へ載せた。
視界が隠れた。
古い布の匂いがする。
――礼儀正しいね。
声が、耳を通らずに届いた。
「ありがとうございます」
鬼太郎は答えた。
――私の歌は聞いていたかな。
「ええ。寮ごとに、重んじるものが違うのですね」
――そのとおり。君は何を求めて、ここへ来た?
「学ぶためです。知識だけでは使えないものも、先生方に教えていただけますから」
――なるほど。知恵を求める心は、よいものだ。何か、目標もありそうだね。
「ありますよ」
鬼太郎は微笑んだ。
布が目の上にあるので、その笑みが相手に見えるかは分からなかった。
――勇気も、野心もありそうだ。だが、答えを並べるだけでは決められない。君の内側を見せてもらおう。
鬼太郎は、膝の上の手を動かさずにいた。
「それは、お断りします」
声は、先ほどと同じだった。
――怖がる必要はない。みんな、そうして組分けを受けている。
「怖がっているわけではありません。必要なことは、お尋ねください。答えられることはお話しします」
――それでは、君が自分でも気づかないものを見落とす。
「それでも、許可はしません」
帽子の布が、少し動いた。
鬼太郎は、その声が自分の返事をどう扱うか待った。
――すぐに終わるよ。
言い終わる前に、何かが触れた。
思考の向こうへ、指を差し込まれたような感覚だった。
鬼太郎の笑みが止まった。
◆
帽子は、まず、目の前にあるものを見た。
今夜の湖。
汽車の客室。
向かいに座る少女の顔。
そこから辿れば、暮らしと、人間関係と、何を望むかが分かる。
何百年も繰り返してきたことだった。
拒む子供もいた。
知られたくない秘密を抱えた者も、言葉とは違う欲望を持つ者もいた。自分がどの寮へ行くべきか、先に決めてきた者だって珍しくなかった。
言葉をそのまま受け取るだけなら、帽子などいらない。
帽子は、もう少し深く見た。
森があった。
石の砦。
取引する者たち。運ばれる資材。血のついた地面。
人を殺した記憶が続いた。
帽子は、その事実だけでは怯まなかった。
人を傷つけた子供も、自分が生きるために手を汚した者も知っている。行為の名前だけで寮を決めることはできない。
相手をどう見ているか。
何を守り、何を捨てるか。
それを探した。
傷つけられた身体があった。
切り裂かれた脇腹から、熱い血が流れる。見世物小屋の明かりの下で、死が近づいていた。
帽子は、その痛みの向こうに、奇妙な年月を見つけた。
十歳では、足りなかった。
この肉体が生きてきた時間とは、違う。
靄があった。
その手前には、すでに本人が知っているものがある。
力がなければ、次の瞬間には死ぬ場所。
人とは違う形の敵。
火、冷気、雷、風。
それらを、自分の身体の一部のように扱う感覚。
帽子は、そこまでを見た。
遠くに、青い服の男がいた。
顔が定まらない。
共に戦い、最後には刃を向け合ったという輪郭だけがある。
その先で、靄が濃くなった。
本人が、まだ思い出していないところだ。
帽子は一瞬、動きを止めた。
こんな隠れ方をする記憶は、知らない。
だが、ここを見れば分かる。
目の前の子供が、何でできているか。
帽子は、靄へ触れた。
◆
布も、床も、大広間の声も、遠ざかった。
そこにいたのは、子供ではなかった。
大人の身体だった。
知らない空の下に立ち、血に汚れた手を下げている。
その後ろへ、いくつもの影が続いた。
角がある。
翼がある。
人の顔に似ていて、人として見てはいけないものがある。
形の違うものが、その男の言葉を待っていた。
悪魔。
帽子が知る書物の挿絵ではない。
恐怖を表すための呼び名でもない。
それらが実際に息をし、力を持ち、男と共に歩いていた。
敵にも、同じように名のある強者がいた。
男は、その中へ入っていく。
逃げ惑う一人ではなかった。
向こうが、その姿を認める。
声が変わる。
向けられる力の重さも変わる。
数ある強者の中で、この男自身も、知られた一人だった。
帽子は後ろへ退こうとした。
次の記憶が重なった。
炎の中で、異形の身体が倒れた。
まだ動く腕を、男が踏み込んで断つ。
こちらを殺そうとする相手へ、殺すための力を返していた。
血が落ちる。
次の相手が来る。
隣を通った悪魔が、男の声に合わせて動いた。
帽子は、それを子供同士の勇気や野心へ置き換えようとした。
できなかった。
景色が変わる。
見上げた先に、光があった。
形があるのに、一つの身体として捉えきれない。
見られたというだけで、記憶を覗く意識が押し潰されそうになった。
従うことを求める力。
世界を裁く側にあると、自ら疑わない存在。
神。
男は、それに頭を下げなかった。
顔の定まらない、青い服の男が傍らにいた。
二人が進む。
悪魔たちが、その戦いへ続いた。
神の力が降りた。
それを受け、避け、破り、男はまだ前へ進んだ。
殺すために。
帽子は、その意思を見てしまった。
最初から、それを殺せる相手として見ていた。
遠くから崇めるものでも、許しを願う相手でもなかった。
最後の一撃が、神へ届く。
声にならないものが、裂けた。
帽子は叫ぼうとした。
どこへ戻れば、大広間なのか。
これは誰の記憶で、今、自分は何を見ているのか。
男が、笑っていた。
今夜、礼儀正しく挨拶をした子供と、同じ笑みだった。
◆
キーノは、腰掛けの方へ身体を寄せた。
帽子の先が震えている。
鬼太郎は座ったままだった。
膝の上に両手がある。
急に、細い声が響いた。
「あ――」
寮の名ではなかった。
帽子の裂け目が大きく開く。
「あ、ああ、あああ――!」
キーノは椅子から腰を浮かせた。
帽子の縫い目の間から、煙が出た。
薄い灰色の筋が、鬼太郎の頭の上へ上がっていく。
ハリーも立ちかけた。
「キタロウ?」
ロンが皿の横へ手を置く。
上級生たちの話し声が止まった。
帽子の声だけが残る。
叫びが短く切れ、それからまた高くなる。何かを言おうとしていたが、言葉の形にはならなかった。
マクゴナガル先生が、一歩近づいた。
「墓場、帽子を――」
鬼太郎の手が動いた。
帽子の縁へ指を掛ける。
叫びが途切れた。
「もう、よろしいですか」
彼の声が聞こえた。
いつもより、少し間があった。
それでも、丁寧な話し方は変わらなかった。
帽子が、細く震える。
鬼太郎はグリフィンドールのテーブルへ顔を向けた。
帽子の下から、キーノのいる方を見た。
「キーノさんと同じでお願いします」
少しの間、返事がなかった。
煙が、蝋燭の明かりの中へほどける。
「……グリフィンドール」
帽子が言った。
かすれて、弱い声だった。
それでも、広間には聞こえた。
その後、裂け目が閉じた。
もう、動かなかった。
◆
鬼太郎は帽子を外した。
大広間の明かりが戻る。
頭の内側へ触れていたものも、もう感じなかった。
何を見たかは、相手にしか分からない。
自分の記憶に、新しい顔や名前が増えたわけではなかった。
だが、断った後で踏み込まれたことは分かった。
帽子を見下ろす。
最後の細い煙が、布の折れ目から出ていた。
「次は、お返事を聞いてからにしてくださいね」
小さく告げた。
帽子は答えなかった。
鬼太郎は腰掛けの上へ置き、立ち上がった。
マクゴナガルが傍にいる。
「痛みや、気分の悪さはありませんか」
「今は、ありません」
彼女は顔と、頭のあたりを確かめた。
鬼太郎はその間、待った。
何が起きたか聞きたい顔だったが、彼女は大勢の前で質問を重ねなかった。
「分かりました。変わったことがあれば、すぐに知らせてください」
「承知しました」
グリフィンドールの席へ向かう。
近くの生徒が、道を空けた。
拍手が少し起こり、揃わないまま静まった。
帽子と、鬼太郎の顔を見比べる者がいる。
ハリーのときの歓声とは、まるで違った。
キーノは立ったまま待っていた。
「何をされた」
近くへ来ると、声を落として尋ねた。
「心の中を見られました。見せないと言ったのですが、聞いていただけませんでした」
「それで、ああなったのか」
「向こうが何を見たかは、僕には分かりません」
「お前は、平気なのか」
「断ったのに内側を見られたのは、不快ですよ。こちらの返事を聞いて、無視したわけですから」
鬼太郎は穏やかな声で答えた。帽子へ目を向けたときだけ、口元の笑みが薄くなる。
鬼太郎は、頭の内側へ触れられた感覚を思い返した。
自分が考えるのとは違うものが入り、記憶の方へ進んでいった。初めての感覚だったが、今はその違いが分かる。
「ただ、入ってくるときの感覚は覚えました。次は、少しは抵抗できますね」
声が、わずかに弾んだ。
帽子の置かれた方へ目を向け、鬼太郎は笑みを深めた。知らずに触れられるままだったものを、一つ覚えた。それは彼にとって、持ち帰れる収穫だった。
「お前、いい経験をしたと思っているのか」
「ええ。一人で練習していても、これは分かりませんでしたから」
「勝手に覗かれたんだぞ」
「それを許したつもりはありませんよ」
キーノは彼の顔を見た。
何でもなかったことにして、喜ぶ気にはなれなかった。
それでも、彼がここまで歩いてきたことを確かめてから、席へ身体を寄せた。
「座れ。ここが空いている」
「ありがとうございます」
鬼太郎は腰を下ろした。
ハリーが、まだ前の方を見ていた。
「あの帽子、大丈夫なのかな」
「先生方が、確かめてくださるでしょう」
鬼太郎は答えた。
ロンは彼を見て、それから帽子を見た。
言いかけた言葉を、いったん飲み込んでいた。
鬼太郎も教師のテーブルへ目を向ける。
ダンブルドアと、視線が合った。
◆
じゃから言ったのに。
ダンブルドアは、沈黙した帽子を見た。
長い付き合いでも、こんな姿を見たことはない。
何を覗いたのか。
どこまで触れたのか。
帽子が答えなければ、分からなかった。
だが、鬼太郎の言葉は聞こえていた。
次は返事を聞いてからにしろ。
それは、帽子が忠告を守らず、本人の拒否も越えたことを示していた。
ダンブルドアは、ミネルバへ目で合図した。
彼女は頷き、帽子を腰掛けから取り上げた。布の表と裏を確かめ、煙の収まった帽子を安全な場所へ移す。
その手つきは、落ち着いていた。
広間を余計に騒がせず、生徒から帽子を遠ざけている。
ダンブルドアは鬼太郎を見た。
少年は、こちらへ視線を返した。
怒鳴ってはいない。
席を離れてもいない。
それだけで、問題がなかったと思うわけにはいかなかった。
約束を守るからこそ、相手が守らなかったことも、彼はよく覚えている。
帽子が独断でしたことだと説明するのは簡単だった。
だが、その帽子を被らせる場を用意したのは、学校だ。
事情を知っていた自分が、もっと確かな返事を得ておくべきだった。
後で、鬼太郎と話さなければならない。
本人が何を断り、何をされたのかを、本人から聞く。
今夜の出来事を、自分も心を覗いてよい理由にはしない。
ダンブルドアは小さく頷いた。
鬼太郎も会釈を返した。
その丁寧さが、どこまで今までと同じ意味を持っているか。
今はまだ、分からなかった。
◆
セブルスは、帽子が運ばれるところを見ていた。
煙は収まっている。
誰も呪文を唱えていなかった。
少年は杖を抜かず、両手を膝へ置いていた。動いたのは、最後に帽子の縁へ触れたときだけだ。
それで、ああなった。
何百年も子供の内面を見てきたものが、声を失うほど取り乱した。
理由は分からない。
だからこそ、軽く扱えなかった。
帽子の術に対する抵抗か。
少年の持つ力へ触れたのか。
あるいは、見た記憶そのものが原因なのか。
どれも、今の席からは確かめられない。
セブルスはグリフィンドールのテーブルを見た。
少年の隣に、キーノがいる。
近くにはポッターとウィーズリーもいた。
彼らは少年へ顔を寄せ、何かを尋ねている。
普通の新入生なら、組分けの後は、どの寮へ行ったかを喜び合う。
今は、帽子が壊れたかどうかを気にしていた。
校長室で伝えた懸念は、消えるどころではなかった。
まだ何も起きていないことで罰するな。
ダンブルドアの言葉を、セブルスは覚えている。
少年が攻撃したと決めつけるだけの証拠はない。
だが、何も異常が起きなかったことにもできない。
セブルスは少年の顔を見た。
怯えてはいなかった。
目の前で帽子が煙を上げた後でも、落ち着いて礼を言い、席へ移った。
その落ち着きまで、従順さと取り違えるつもりはない。
授業では、手を見る。
目が何を追うかを見る。
言葉を聞き、実際の動きと比べる。
この少年については、知らないことが多すぎた。
セブルスは視線を外す前に、その顔をもう一度覚えた。
◆
クィレルの指が、杯の柄へ触れていた。
握ろうとして、止まる。
細い喉が動いた。
その身体の内側で、別の意識が大広間の音を聞いていた。
叫びは、もう終わっている。
あの帽子の声だった。
聞き覚えがある。
かつて、自分も被った。
多少の秘密を抱えた子供に驚くようなものではない。自分の判断を疑わず、ふさわしい寮を告げるだけの経験は持っている。
それが、あんな声を出した。
内側の意識が、クィレルの注意を引いた。
顔を向けさせる。
グリフィンドールのテーブル。
最後に組分けを受けた少年は、そこへ座っていた。
黒に見える髪。
東洋の血を感じさせる顔立ち。
隣の少女へ、穏やかに何かを答えている。
墓場鬼太郎。
呼ばれた名を、覚えた。
帽子が見たものを、こちらが見たわけではない。
煙の原因も、少年が何をしたかも、分からない。
だが、分からないまま目を離すには、面白すぎた。
ポッターとは違う理由で、見る価値がある。
内側の意識が、その顔へ注意を留めた。
クィレルは目を逸らそうとした。
まだだ。
声にならない命令が、彼を止めた。
少年が笑った。
内側に潜む者も、誰にも見えないところで、その笑みを眺めていた。