神殺し、墓場より還りしもの   作:ちじさん

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古い縫い目は、底を知らない

 

第九十七話 古い縫い目は、底を知らない

 

 扉が開くと、緑のローブを着た魔女が立っていた。

 

 ハリーは顔を上げた。

 

 髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばしている。ハグリッドよりずっと小柄なのに、その前に並ぶ子供たちの話し声は、すぐに収まった。

 

「一年生を連れてきたぞ、マクゴナガル先生」

 

「ありがとうございます、ハグリッド。ここからは私が」

 

 彼女は列を見渡した。

 

 ハリーの方にも視線が来た。その隣のキーノと、鬼太郎のところでも、一瞬止まった。

 

「皆さん、こちらへ」

 

 扉の奥には、広い玄関ホールがあった。

 

 石の床を進むと、右手の方から大勢の話し声が聞こえてくる。ハリーが顔を向ける前に、マクゴナガル先生は別の小さな部屋の扉を開けた。

 

 全員が入ると、肩と肩が近くなった。

 

 彼女は入口へ立ち、子供たちが落ち着くのを待った。

 

「ホグワーツへようこそ。宴の前に、皆さんの寮を決める組分けを行います」

 

 グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリン。

 

 四つの名前が、順に告げられた。

 

 寮は、これから学校で暮らすうえでの家となる。同じ寮の生徒と眠り、談話室を使い、寮の得点も共に増やしたり、失ったりする。

 

 ハリーは話を聞きながら、ロンを見た。

 

 ロンは唇を結び、真っ直ぐ前を向いている。

 

 マクゴナガル先生は服装を整えて待つように言い、部屋を出た。

 

 扉が閉じる。

 

 誰かが、大きく息を吐いた。

 

「どうやって決めるんだろう」

 

 ハリーが小声で尋ねた。

 

「分からない。フレッドは、怖いことを言ってたけど」

 

 ロンは答え、ローブの袖口を引いた。

 

 ハーマイオニーが近くで唇を動かしていた。覚えた呪文を確かめているようだった。

 

 ハリーも、自分が使える魔法を考えた。

 

 考えても、学校で試されそうなものは出てこなかった。

 

「試験なら、どこまでやればよいかは教えてくださるでしょう」

 

 鬼太郎が言った。

 

 落ち着いた声だったが、彼も部屋の外を知っている顔ではなかった。

 

 キーノは彼の横で、黒いローブの前を直していた。

 

「まだ習っていないことまで、できるとは言わんぞ」

 

「それでよいと思いますよ」

 

 鬼太郎は頷いた。

 

 その会話の向こうから、別の声が上がった。

 

「聞いたか? 今年はハリー・ポッターが来てるぞ」

 

 ハリーは顔を向けた。

 

 マルフォイが、こちらを見ていた。

 

     ◆

 

 近くにいた子供たちが振り返った。

 

 マルフォイは、その反応を見て口元を上げる。

 

「あそこにいる。僕はもう、汽車で話したんだ」

 

 小さな部屋に、ハリーの名が広がった。

 

 誰かが背伸びをする。別の子が、額の方へ目を向けた。

 

 ハリーは前髪へ触れかけ、手を下ろした。

 

 マルフォイが近づいてくる。

 

 クラッブとゴイルは、今度は少し後ろにいた。ゴイルは片手を反対の手で包んでいる。

 

「まだ、そんな連中とつるんでるのか、ポッター」

 

 マルフォイはロンへ目を向け、それからハリーを見る。

 

「ここで暮らすなら、友達は選ぶことだ。僕なら、もっとましな相手を紹介してやれるぞ」

 

「さっき、答えたよ」

 

 ハリーは言った。

 

「ここへ来ても、考えを変える気はないのか?」

 

「うん」

 

 マルフォイの笑みが薄くなる。

 

「何も知らないくせに、よく言うよ」

 

「だからって、君に決めてもらう必要はない」

 

 ハリーは、彼の顔を見て答えた。

 

 周囲が静かになっていた。

 

 マルフォイが目を動かす。

 

 みんなにハリーを見せようとしたのは、彼自身だった。今は、そのみんなの前で断られていた。

 

「せっかく忠告してやったのに」

 

「聞いたよ」

 

 ハリーは答えた。

 

 ロンが隣へ寄ってきた。

 

 キーノもその場を離れず、マルフォイが次に何をするか見ている。鬼太郎は少し後ろに立ったままだった。

 

 マルフォイは唇を曲げ、クラッブとゴイルの方へ戻った。

 

 誰かが、ハリーの名前をもう一度囁いた。

 

 ハリーは聞こえなかったふりをした。

 

 そのとき、壁を通り抜けて白いものが現れた。

 

 短い悲鳴が上がる。

 

 ハリーも肩を引いた。

 

 半透明の人影が、何人も部屋の中へ入ってくる。足は床についていない。互いに話しながら、子供たちの頭の上へ滑るように進んだ。

 

 太った修道士の姿の幽霊が、一年生に気づいて笑った。

 

 キーノがハリーの横で、目を大きくした。

 

 鬼太郎はその輪郭と、通り抜けてきた壁を見ていた。

 

 幽霊が挨拶をしても、ハリーはすぐには返事ができなかった。

 

 扉が開いた。

 

 マクゴナガル先生が戻ってくる。

 

「そろそろ始めます。幽霊の皆さんは、大広間へお願いします」

 

 それから、一年生へ顔を向けた。

 

「一列になって、ついてきてください」

 

 ハリーはロンと目を合わせ、前の子供の後ろへ並んだ。

 

     ◆

 

 一年生を迎えるためにミネルバが大広間を離れた少し前、ダンブルドアは古い帽子を手に取っていた。

 

 生徒たちの話し声が、長いテーブルの間を満たしている。

 

 その喧騒へ紛れるくらいの声で、帽子へ話しかけた。

 

「今夜、一人だけ、先に伝えておきたい生徒がおる」

 

 帽子の裂け目が動いた。

 

「名簿にいれば、私が呼ばれるのを待つ」

 

「墓場鬼太郎じゃ。彼には、開心術を使わんでくれ」

 

 帽子の先が、僅かに傾いた。

 

「組分けをするのは私だ、ダンブルドア」

 

「知っておる。本人と話し、その希望を聞いてほしい。拒まれたら、内側へ踏み込むのはやめるんじゃ」

 

「私は、何百年ここにいると思っている」

 

 古い縫い目が、口の端のように持ち上がった。

 

「君より長く、子供を見てきた。あの闇の帝王だって、私が組分けをした。一人増えたからといって、いちいち手順を教わる必要はない」

 

 ダンブルドアは帽子を見た。

 

 他者の心を探ることを、彼自身は珍しい手段と思っていなかった。

 

 言葉だけでは分からないことがある。隠された思いを知ることで、守れるものも、先に防げることもあった。必要と判断すれば、これまでもそうしてきた。

 

 だが、鬼太郎には使っていない。

 

 あの予言の子と話を続けるための足場は、強制して従わせることでは作れなかった。

 

 約束を交わし、それを守る理由を互いに持つ。

 

 その関係を、心を覗いたという一事で終わらせるわけにはいかない。

 

 今後も、その手段を彼に使うつもりはなかった。

 

「経験があるからこそ、頼んでおる」

 

 ダンブルドアは声を変えずに言った。

 

「本人が断ったことを、軽く扱わんでほしい」

 

 帽子は返事の代わりに、裂け目を閉じた。

 

 ダンブルドアは少し待ってから、帽子をミネルバへ渡した。

 

     ◆

 

 大広間へ入ると、キーノは顔を上げた。

 

 蝋燭が、空中に浮いていた。

 

 長いテーブルの上にいくつも並び、炎が静かに揺れている。その先には、夜空があった。

 

 屋根がないのかと思った。

 

 だが、外の冷たい風は入ってこない。

 

「天井には、魔法がかかっているの」

 

 近くでハーマイオニーが小声で言った。

 

「外の空が見えるようになっているのよ。『ホグワーツの歴史』に書いてあったわ」

 

 キーノはもう一度、星を見た。

 

 鬼太郎も上を見ている。

 

 尋ねたいことが増えたときの顔だった。

 

 四つのテーブルに、上級生が座っていた。奥の高いところにもテーブルがあり、大人たちがこちらを見ている。

 

 真ん中にいる老人の顔は、知っていた。

 

 ダンブルドアだ。

 

 彼が小さく頷く。

 

 キーノはそれを見てから、前へ顔を戻した。

 

 マクゴナガル先生が、一年生を教師たちの前へ並ばせる。

 

 椅子ではなく、四本脚の腰掛けが一つ置かれた。

 

 その上へ、古びた帽子が載る。

 

 継ぎ当てがあり、くたびれた布が折れていた。

 

 キーノは帽子と、腰掛けを見比べた。

 

 何をするのだろう。

 

 帽子の裂け目が開いた。

 

 歌が始まった。

 

 キーノは目を瞬かせた。

 

 動く絵も、浮く箒も見た。それでも、布でできた帽子が大広間に響く声で歌うのは、初めてだった。

 

 歌には、四つの寮の名があった。

 

 勇気、誠実さ、知恵、野心。

 

 それぞれの寮が、どんな者を迎えるか。

 

 自分を被れば、ふさわしい場所を決めてやると、帽子は歌った。

 

 最後の声が終わると、広間に拍手が起きた。

 

 キーノも手を合わせた。

 

 隣でロンが、はっきりと息をついた。

 

「被るだけか」

 

 ハリーが少し笑った。

 

 キーノも、肩の力を抜いた。

 

 マクゴナガル先生が名簿を広げる。

 

 呼ばれた生徒は帽子を被り、決まった寮のテーブルへ向かうように、と説明した。

 

 最初の名が呼ばれた。

 

     ◆

 

 ハンナ・アボットという少女が進み出た。

 

 帽子が頭へ載る。

 

 少しの間があって、ハッフルパフと告げられた。

 

 一つのテーブルで拍手が起きる。

 

 少女は帽子を外し、そちらへ急いだ。上級生が席を空けて迎える。

 

 鬼太郎は、その流れを見ていた。

 

 名簿は姓の順で進んでいるようだった。

 

 ただし自分の名前は、別のところに書かれている。

 

 マクゴナガルは、名簿を確かめた際に鬼太郎へだけ、最後に呼ぶと小声で伝えていた。漢字で記された名前が、ほかの生徒の並びとは別の欄に載っているためだった。

 

 読み方を確認されたので答えた。

 

 呼ばれる順番に、特に不満はない。

 

 その分、帽子の働きを長く見ていられた。

 

 すぐ決まる者もいる。

 

 しばらく腰掛けに座る者もいた。

 

 帽子が何かを尋ねているのか、被ったまま唇を動かす者がいるが、言葉はここまで聞こえなかった。

 

 スーザン・ボーンズはハッフルパフへ、テリー・ブートはレイブンクローへ向かった。

 

 ラベンダー・ブラウンがグリフィンドールと告げられると、赤と金の色が見えるテーブルから大きな拍手が起こった。

 

 ミリセント・ブルストロードはスリザリンへ。

 

 呼ばれるたびに、一年生の列が短くなっていく。

 

 シェーマス・フィネガンには少し時間がかかった。

 

 隣でキーノが、帽子の先を見ている。

 

 何も試されないと分かってから、表情は和らいでいた。それでも、呼ばれる順番が近づくにつれて、指が袖口を押さえる回数は増えていた。

 

 ハーマイオニー・グレンジャーが呼ばれる。

 

 彼女はすぐに前へ出て、帽子を被った。

 

 グリフィンドールと告げられる。

 

 鬼太郎はそのテーブルへ目を向けた。

 

 勉強熱心な彼女は、知識を求める寮へ行くかと思っていた。

 

 目に見える一つの性質だけで、決めているわけではないらしい。

 

 ハーマイオニーが席へ着く。

 

 次の名が呼ばれた。

 

「キーノ・ファスリス・インベルン」

 

     ◆

 

 キーノは、一歩目を少し大きく踏み出した。

 

 ローブの裾が足へ触れる。

 

 踏まずに済んだ。

 

 腰掛けまで進み、座る。

 

 帽子を被ると、蝋燭の明かりが隠れた。

 

 目の前が、古い布の裏になった。

 

 耳ではないところへ、声が届いた。

 

 ――さて。ずいぶん遠くから来たのだね。

 

 キーノは息を止めた。

 

 声が、頭の内側にある。

 

 ――でも、ここへ来ることは、自分で選んだ。

 

 そうだ。

 

 キーノは思った。

 

 それに、声が答えた。

 

 ――よろしい。君は、自分の意思を持っている。

 

 小さな身体が、生きることを手放さなかった。

 

 逃げ道が見えなくても、次があると信じられなくても、それでも終わりにしなかった。

 

 帽子の言葉は、そこへ触れた。

 

 見世物小屋の光景を、人前に並べられたわけではない。

 

 誰にも聞こえていないところで、自分が何を捨てずにいたかを言われた。

 

 キーノは腰掛けの縁へ手を置いた。

 

 ――怖さを知らないことだけが、勇気ではない。君は怖いと知っていて、ここへ来た。

 

 キーノの胸が、少し熱くなった。

 

 友達ができるかは、分からない。

 

 自分を知っても、隣にいてくれるかも。

 

 それでも学校へ行きたいと思い、汽車へ乗った。

 

 帽子の声が、近くで笑った。

 

 ――君の席は、ここだ。

 

「グリフィンドール!」

 

 声が、今度は外へ響いた。

 

 キーノは帽子を持ち上げた。

 

 明かりが戻る。

 

 拍手が聞こえた。

 

 テーブルの方から、こちらを招く手が見える。

 

 キーノは立ち上がり、帽子を腰掛けへ戻した。

 

 列にいる鬼太郎を見た。

 

 彼が頷く。

 

 ハリーも笑っていた。ロンは片手を上げてから、まだ組分けを待っていることを思い出したように、すぐ下ろした。

 

 キーノはテーブルへ向かった。

 

 空いた席へ座ると、ハーマイオニーが顔を向けた。

 

「一緒ね」

 

「ああ」

 

 キーノは答えた。

 

 皿と杯が目の前にある。

 

 自分の座る席が、決まった。

 

 列へ目を戻すと、先ほどより離れていた。

 

 それでも、三人の顔は見つけられた。

 

     ◆

 

 ハリーは、キーノが席へ着くまで見ていた。

 

 ネビルもグリフィンドールになった。

 

 帽子を被ったまま歩き出しかけ、慌てて戻したため、笑い声が起きる。ネビルは赤くなったが、迎える拍手は止まらなかった。

 

 マルフォイは帽子を載せると、ほとんど間を置かずにスリザリンと告げられた。

 

 ハリーは彼が席へ向かうのを見て、目を戻した。

 

 次々に名前が呼ばれる。

 

 待っている間に、掌が湿ってきた。

 

 帽子が自分の中に何を見るのか、分からない。

 

 魔法界のことを知らないまま育った子供に、ここで暮らす席をくれるだろうか。

 

 前の生徒が腰掛けを離れた。

 

「ハリー・ポッター」

 

 名が響いた。

 

 広間のあちこちで、囁きが重なる。

 

 ハリーは腰掛けへ向かった。

 

 足を置く場所を、一つずつ見た。

 

 座り、帽子を被る。

 

 目が隠れた。

 

 声がした。

 

 考える力がある。

 

 勇気もある。

 

 自分で思っている以上に、何かを成し遂げようとする気持ちもある。

 

 帽子は、いくつものものを見つけた。

 

 ハリーは、布の裏を見たまま思った。

 

 スリザリンへは、行きたくない。

 

 帽子が、その思いを拾った。

 

 そこへ行けば、自分の力を伸ばせると語りかけてくる。

 

 ハリーは膝の上で、手を握った。

 

 自分が何になれるのかは、まだ分からない。

 

 でも、マルフォイの隣へ行きたいとは思わなかった。

 

 キーノが座った席を思い浮かべる。

 

 ハーマイオニーも、ネビルも、あそこへ行った。

 

 帽子はすぐには答えを出さなかった。

 

 暗い布の向こうで、広間の物音が遠くなる。

 

 長い間、座っているように感じた。

 

 やがて、頭の中の声が調子を変えた。

 

 ハリー自身の希望を、もう一度確かめる。

 

 彼は、同じ答えを返した。

 

 帽子が決めた。

 

「グリフィンドール!」

 

 広間が、爆発したように騒がしくなった。

 

 ハリーは帽子を外した。

 

 立ち上がっている生徒がいた。

 

 赤毛の双子が両手を上げ、歓声を重ねている。ほかの生徒たちもテーブルを叩き、空いた席を示していた。

 

 ハリーは帽子を戻し、そちらへ歩いた。

 

 誰かが手を握り、誰かが背中へ触れた。

 

 褒められるほどのことをした覚えはなかったが、追い返されなかった。

 

 ここへ座ってよいのだ。

 

 キーノが、通路側へ身体を寄せた。

 

「こっちだ」

 

 ハリーは空いた席へ腰を下ろした。

 

 向かいで、ハーマイオニーも拍手をしていた。

 

 まだ自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 

 ハリーは笑おうとして、ようやく息をついた。

 

     ◆

 

 残りの生徒が組分けされていった。

 

 ディーン・トーマスがグリフィンドールへ来た。

 

 ロンの名が呼ばれると、ハリーも身体を起こした。

 

 帽子は、長く待たせなかった。

 

 グリフィンドール。

 

 ロンは帽子を外し、こちらを見た。

 

 ハリーが手を振る。

 

 キーノも、席を示した。

 

 ロンは早足でやってきて、二人のそばへ座った。

 

「よかった」

 

 その声を聞いて、ハリーは笑った。

 

「同じだね」

 

「うん」

 

 ロンは頷き、キーノへも目を向けた。

 

 彼女はもう、前の方を見ていた。

 

 ブレーズ・ザビニがスリザリンへ向かう。

 

 それで終わりだと思った生徒が、教師のテーブルへ顔を向けた。

 

 だが、腰掛けの横には、まだ一人残っていた。

 

 マクゴナガル先生が、名簿の最後の欄へ指を置く。

 

「墓場鬼太郎」

 

 キーノの背筋が伸びた。

 

     ◆

 

 鬼太郎は、腰掛けへ歩いた。

 

 先ほどのハリーほど、多くの目が動くことはなかった。それでも最後の一人になれば、自然に視線は集まった。

 

 教師のテーブルに、ダンブルドアがいる。

 

 こちらを見ていた。

 

 鬼太郎は一度会釈し、腰掛けへ座った。

 

 帽子を取り上げる。

 

「よろしくお願いします」

 

 小さく挨拶をして、頭へ載せた。

 

 視界が隠れた。

 

 古い布の匂いがする。

 

 ――礼儀正しいね。

 

 声が、耳を通らずに届いた。

 

「ありがとうございます」

 

 鬼太郎は答えた。

 

 ――私の歌は聞いていたかな。

 

「ええ。寮ごとに、重んじるものが違うのですね」

 

 ――そのとおり。君は何を求めて、ここへ来た?

 

「学ぶためです。知識だけでは使えないものも、先生方に教えていただけますから」

 

 ――なるほど。知恵を求める心は、よいものだ。何か、目標もありそうだね。

 

「ありますよ」

 

 鬼太郎は微笑んだ。

 

 布が目の上にあるので、その笑みが相手に見えるかは分からなかった。

 

 ――勇気も、野心もありそうだ。だが、答えを並べるだけでは決められない。君の内側を見せてもらおう。

 

 鬼太郎は、膝の上の手を動かさずにいた。

 

「それは、お断りします」

 

 声は、先ほどと同じだった。

 

 ――怖がる必要はない。みんな、そうして組分けを受けている。

 

「怖がっているわけではありません。必要なことは、お尋ねください。答えられることはお話しします」

 

 ――それでは、君が自分でも気づかないものを見落とす。

 

「それでも、許可はしません」

 

 帽子の布が、少し動いた。

 

 鬼太郎は、その声が自分の返事をどう扱うか待った。

 

 ――すぐに終わるよ。

 

 言い終わる前に、何かが触れた。

 

 思考の向こうへ、指を差し込まれたような感覚だった。

 

 鬼太郎の笑みが止まった。

 

     ◆

 

 帽子は、まず、目の前にあるものを見た。

 

 今夜の湖。

 

 汽車の客室。

 

 向かいに座る少女の顔。

 

 そこから辿れば、暮らしと、人間関係と、何を望むかが分かる。

 

 何百年も繰り返してきたことだった。

 

 拒む子供もいた。

 

 知られたくない秘密を抱えた者も、言葉とは違う欲望を持つ者もいた。自分がどの寮へ行くべきか、先に決めてきた者だって珍しくなかった。

 

 言葉をそのまま受け取るだけなら、帽子などいらない。

 

 帽子は、もう少し深く見た。

 

 森があった。

 

 石の砦。

 

 取引する者たち。運ばれる資材。血のついた地面。

 

 人を殺した記憶が続いた。

 

 帽子は、その事実だけでは怯まなかった。

 

 人を傷つけた子供も、自分が生きるために手を汚した者も知っている。行為の名前だけで寮を決めることはできない。

 

 相手をどう見ているか。

 

 何を守り、何を捨てるか。

 

 それを探した。

 

 傷つけられた身体があった。

 

 切り裂かれた脇腹から、熱い血が流れる。見世物小屋の明かりの下で、死が近づいていた。

 

 帽子は、その痛みの向こうに、奇妙な年月を見つけた。

 

 十歳では、足りなかった。

 

 この肉体が生きてきた時間とは、違う。

 

 靄があった。

 

 その手前には、すでに本人が知っているものがある。

 

 力がなければ、次の瞬間には死ぬ場所。

 

 人とは違う形の敵。

 

 火、冷気、雷、風。

 

 それらを、自分の身体の一部のように扱う感覚。

 

 帽子は、そこまでを見た。

 

 遠くに、青い服の男がいた。

 

 顔が定まらない。

 

 共に戦い、最後には刃を向け合ったという輪郭だけがある。

 

 その先で、靄が濃くなった。

 

 本人が、まだ思い出していないところだ。

 

 帽子は一瞬、動きを止めた。

 

 こんな隠れ方をする記憶は、知らない。

 

 だが、ここを見れば分かる。

 

 目の前の子供が、何でできているか。

 

 帽子は、靄へ触れた。

 

     ◆

 

 布も、床も、大広間の声も、遠ざかった。

 

 そこにいたのは、子供ではなかった。

 

 大人の身体だった。

 

 知らない空の下に立ち、血に汚れた手を下げている。

 

 その後ろへ、いくつもの影が続いた。

 

 角がある。

 

 翼がある。

 

 人の顔に似ていて、人として見てはいけないものがある。

 

 形の違うものが、その男の言葉を待っていた。

 

 悪魔。

 

 帽子が知る書物の挿絵ではない。

 

 恐怖を表すための呼び名でもない。

 

 それらが実際に息をし、力を持ち、男と共に歩いていた。

 

 敵にも、同じように名のある強者がいた。

 

 男は、その中へ入っていく。

 

 逃げ惑う一人ではなかった。

 

 向こうが、その姿を認める。

 

 声が変わる。

 

 向けられる力の重さも変わる。

 

 数ある強者の中で、この男自身も、知られた一人だった。

 

 帽子は後ろへ退こうとした。

 

 次の記憶が重なった。

 

 炎の中で、異形の身体が倒れた。

 

 まだ動く腕を、男が踏み込んで断つ。

 

 こちらを殺そうとする相手へ、殺すための力を返していた。

 

 血が落ちる。

 

 次の相手が来る。

 

 隣を通った悪魔が、男の声に合わせて動いた。

 

 帽子は、それを子供同士の勇気や野心へ置き換えようとした。

 

 できなかった。

 

 景色が変わる。

 

 見上げた先に、光があった。

 

 形があるのに、一つの身体として捉えきれない。

 

 見られたというだけで、記憶を覗く意識が押し潰されそうになった。

 

 従うことを求める力。

 

 世界を裁く側にあると、自ら疑わない存在。

 

 神。

 

 男は、それに頭を下げなかった。

 

 顔の定まらない、青い服の男が傍らにいた。

 

 二人が進む。

 

 悪魔たちが、その戦いへ続いた。

 

 神の力が降りた。

 

 それを受け、避け、破り、男はまだ前へ進んだ。

 

 殺すために。

 

 帽子は、その意思を見てしまった。

 

 最初から、それを殺せる相手として見ていた。

 

 遠くから崇めるものでも、許しを願う相手でもなかった。

 

 最後の一撃が、神へ届く。

 

 声にならないものが、裂けた。

 

 帽子は叫ぼうとした。

 

 どこへ戻れば、大広間なのか。

 

 これは誰の記憶で、今、自分は何を見ているのか。

 

 男が、笑っていた。

 

 今夜、礼儀正しく挨拶をした子供と、同じ笑みだった。

 

     ◆

 

 キーノは、腰掛けの方へ身体を寄せた。

 

 帽子の先が震えている。

 

 鬼太郎は座ったままだった。

 

 膝の上に両手がある。

 

 急に、細い声が響いた。

 

「あ――」

 

 寮の名ではなかった。

 

 帽子の裂け目が大きく開く。

 

「あ、ああ、あああ――!」

 

 キーノは椅子から腰を浮かせた。

 

 帽子の縫い目の間から、煙が出た。

 

 薄い灰色の筋が、鬼太郎の頭の上へ上がっていく。

 

 ハリーも立ちかけた。

 

「キタロウ?」

 

 ロンが皿の横へ手を置く。

 

 上級生たちの話し声が止まった。

 

 帽子の声だけが残る。

 

 叫びが短く切れ、それからまた高くなる。何かを言おうとしていたが、言葉の形にはならなかった。

 

 マクゴナガル先生が、一歩近づいた。

 

「墓場、帽子を――」

 

 鬼太郎の手が動いた。

 

 帽子の縁へ指を掛ける。

 

 叫びが途切れた。

 

「もう、よろしいですか」

 

 彼の声が聞こえた。

 

 いつもより、少し間があった。

 

 それでも、丁寧な話し方は変わらなかった。

 

 帽子が、細く震える。

 

 鬼太郎はグリフィンドールのテーブルへ顔を向けた。

 

 帽子の下から、キーノのいる方を見た。

 

「キーノさんと同じでお願いします」

 

 少しの間、返事がなかった。

 

 煙が、蝋燭の明かりの中へほどける。

 

「……グリフィンドール」

 

 帽子が言った。

 

 かすれて、弱い声だった。

 

 それでも、広間には聞こえた。

 

 その後、裂け目が閉じた。

 

 もう、動かなかった。

 

     ◆

 

 鬼太郎は帽子を外した。

 

 大広間の明かりが戻る。

 

 頭の内側へ触れていたものも、もう感じなかった。

 

 何を見たかは、相手にしか分からない。

 

 自分の記憶に、新しい顔や名前が増えたわけではなかった。

 

 だが、断った後で踏み込まれたことは分かった。

 

 帽子を見下ろす。

 

 最後の細い煙が、布の折れ目から出ていた。

 

「次は、お返事を聞いてからにしてくださいね」

 

 小さく告げた。

 

 帽子は答えなかった。

 

 鬼太郎は腰掛けの上へ置き、立ち上がった。

 

 マクゴナガルが傍にいる。

 

「痛みや、気分の悪さはありませんか」

 

「今は、ありません」

 

 彼女は顔と、頭のあたりを確かめた。

 

 鬼太郎はその間、待った。

 

 何が起きたか聞きたい顔だったが、彼女は大勢の前で質問を重ねなかった。

 

「分かりました。変わったことがあれば、すぐに知らせてください」

 

「承知しました」

 

 グリフィンドールの席へ向かう。

 

 近くの生徒が、道を空けた。

 

 拍手が少し起こり、揃わないまま静まった。

 

 帽子と、鬼太郎の顔を見比べる者がいる。

 

 ハリーのときの歓声とは、まるで違った。

 

 キーノは立ったまま待っていた。

 

「何をされた」

 

 近くへ来ると、声を落として尋ねた。

 

「心の中を見られました。見せないと言ったのですが、聞いていただけませんでした」

 

「それで、ああなったのか」

 

「向こうが何を見たかは、僕には分かりません」

 

「お前は、平気なのか」

 

「断ったのに内側を見られたのは、不快ですよ。こちらの返事を聞いて、無視したわけですから」

 

 鬼太郎は穏やかな声で答えた。帽子へ目を向けたときだけ、口元の笑みが薄くなる。

 

 鬼太郎は、頭の内側へ触れられた感覚を思い返した。

 

 自分が考えるのとは違うものが入り、記憶の方へ進んでいった。初めての感覚だったが、今はその違いが分かる。

 

「ただ、入ってくるときの感覚は覚えました。次は、少しは抵抗できますね」

 

 声が、わずかに弾んだ。

 

 帽子の置かれた方へ目を向け、鬼太郎は笑みを深めた。知らずに触れられるままだったものを、一つ覚えた。それは彼にとって、持ち帰れる収穫だった。

 

「お前、いい経験をしたと思っているのか」

 

「ええ。一人で練習していても、これは分かりませんでしたから」

 

「勝手に覗かれたんだぞ」

 

「それを許したつもりはありませんよ」

 

 キーノは彼の顔を見た。

 

 何でもなかったことにして、喜ぶ気にはなれなかった。

 

 それでも、彼がここまで歩いてきたことを確かめてから、席へ身体を寄せた。

 

「座れ。ここが空いている」

 

「ありがとうございます」

 

 鬼太郎は腰を下ろした。

 

 ハリーが、まだ前の方を見ていた。

 

「あの帽子、大丈夫なのかな」

 

「先生方が、確かめてくださるでしょう」

 

 鬼太郎は答えた。

 

 ロンは彼を見て、それから帽子を見た。

 

 言いかけた言葉を、いったん飲み込んでいた。

 

 鬼太郎も教師のテーブルへ目を向ける。

 

 ダンブルドアと、視線が合った。

 

     ◆

 

 じゃから言ったのに。

 

 ダンブルドアは、沈黙した帽子を見た。

 

 長い付き合いでも、こんな姿を見たことはない。

 

 何を覗いたのか。

 

 どこまで触れたのか。

 

 帽子が答えなければ、分からなかった。

 

 だが、鬼太郎の言葉は聞こえていた。

 

 次は返事を聞いてからにしろ。

 

 それは、帽子が忠告を守らず、本人の拒否も越えたことを示していた。

 

 ダンブルドアは、ミネルバへ目で合図した。

 

 彼女は頷き、帽子を腰掛けから取り上げた。布の表と裏を確かめ、煙の収まった帽子を安全な場所へ移す。

 

 その手つきは、落ち着いていた。

 

 広間を余計に騒がせず、生徒から帽子を遠ざけている。

 

 ダンブルドアは鬼太郎を見た。

 

 少年は、こちらへ視線を返した。

 

 怒鳴ってはいない。

 

 席を離れてもいない。

 

 それだけで、問題がなかったと思うわけにはいかなかった。

 

 約束を守るからこそ、相手が守らなかったことも、彼はよく覚えている。

 

 帽子が独断でしたことだと説明するのは簡単だった。

 

 だが、その帽子を被らせる場を用意したのは、学校だ。

 

 事情を知っていた自分が、もっと確かな返事を得ておくべきだった。

 

 後で、鬼太郎と話さなければならない。

 

 本人が何を断り、何をされたのかを、本人から聞く。

 

 今夜の出来事を、自分も心を覗いてよい理由にはしない。

 

 ダンブルドアは小さく頷いた。

 

 鬼太郎も会釈を返した。

 

 その丁寧さが、どこまで今までと同じ意味を持っているか。

 

 今はまだ、分からなかった。

 

     ◆

 

 セブルスは、帽子が運ばれるところを見ていた。

 

 煙は収まっている。

 

 誰も呪文を唱えていなかった。

 

 少年は杖を抜かず、両手を膝へ置いていた。動いたのは、最後に帽子の縁へ触れたときだけだ。

 

 それで、ああなった。

 

 何百年も子供の内面を見てきたものが、声を失うほど取り乱した。

 

 理由は分からない。

 

 だからこそ、軽く扱えなかった。

 

 帽子の術に対する抵抗か。

 

 少年の持つ力へ触れたのか。

 

 あるいは、見た記憶そのものが原因なのか。

 

 どれも、今の席からは確かめられない。

 

 セブルスはグリフィンドールのテーブルを見た。

 

 少年の隣に、キーノがいる。

 

 近くにはポッターとウィーズリーもいた。

 

 彼らは少年へ顔を寄せ、何かを尋ねている。

 

 普通の新入生なら、組分けの後は、どの寮へ行ったかを喜び合う。

 

 今は、帽子が壊れたかどうかを気にしていた。

 

 校長室で伝えた懸念は、消えるどころではなかった。

 

 まだ何も起きていないことで罰するな。

 

 ダンブルドアの言葉を、セブルスは覚えている。

 

 少年が攻撃したと決めつけるだけの証拠はない。

 

 だが、何も異常が起きなかったことにもできない。

 

 セブルスは少年の顔を見た。

 

 怯えてはいなかった。

 

 目の前で帽子が煙を上げた後でも、落ち着いて礼を言い、席へ移った。

 

 その落ち着きまで、従順さと取り違えるつもりはない。

 

 授業では、手を見る。

 

 目が何を追うかを見る。

 

 言葉を聞き、実際の動きと比べる。

 

 この少年については、知らないことが多すぎた。

 

 セブルスは視線を外す前に、その顔をもう一度覚えた。

 

     ◆

 

 クィレルの指が、杯の柄へ触れていた。

 

 握ろうとして、止まる。

 

 細い喉が動いた。

 

 その身体の内側で、別の意識が大広間の音を聞いていた。

 

 叫びは、もう終わっている。

 

 あの帽子の声だった。

 

 聞き覚えがある。

 

 かつて、自分も被った。

 

 多少の秘密を抱えた子供に驚くようなものではない。自分の判断を疑わず、ふさわしい寮を告げるだけの経験は持っている。

 

 それが、あんな声を出した。

 

 内側の意識が、クィレルの注意を引いた。

 

 顔を向けさせる。

 

 グリフィンドールのテーブル。

 

 最後に組分けを受けた少年は、そこへ座っていた。

 

 黒に見える髪。

 

 東洋の血を感じさせる顔立ち。

 

 隣の少女へ、穏やかに何かを答えている。

 

 墓場鬼太郎。

 

 呼ばれた名を、覚えた。

 

 帽子が見たものを、こちらが見たわけではない。

 

 煙の原因も、少年が何をしたかも、分からない。

 

 だが、分からないまま目を離すには、面白すぎた。

 

 ポッターとは違う理由で、見る価値がある。

 

 内側の意識が、その顔へ注意を留めた。

 

 クィレルは目を逸らそうとした。

 

 まだだ。

 

 声にならない命令が、彼を止めた。

 

 少年が笑った。

 

 内側に潜む者も、誰にも見えないところで、その笑みを眺めていた。

 

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