第99話 空を見る先生
試合の前夜、ロンは、宿題のときには見せない速さで羊皮紙へ線を引いた。
両端に輪を三つずつ描き、間へ七つの丸を並べる。鬼太郎が、どの球を見ればよいのかと尋ねたためだった。
「全部、同じ球を追うわけじゃないんですね」
「同じだったら、ハリーがあそこに一人でいる意味がないだろ。まず、赤いクアッフル。チェイサー三人が運んで、相手の輪に入れる。一回十点」
ロンは輪の前にある丸を、ペンの尻で叩いた。
「こっちはキーパー。ウッドだよ。三つの輪を守る」
「三つとも、一人で?」
「だから難しいんだ。で、黒いブラッジャーが二つ。選手を箒から落とそうとしてくるから、ビーター二人がバットで打ち返す。フレッドとジョージの役目だ」
「相手へ打っても、いいのか」
隣からキーノが覗き込んだ。
「もちろん。そのためのバットだもの」
「球を持っている者より、そちらを先に見ておきたいですね」
「ハリーも、ちゃんと避ける練習をしてるよ。シーカーが探すのは、もっと小さくて、金色のスニッチ。羽が生えてて、すごく速いんだ」
紙の端に、小さな丸と羽が描き足された。
「捕まえたら百五十点。それで試合が終わる」
鬼太郎は、六つの輪を見直した。
「ゴール十五回分ですか」
「そう」
「では、ほかの人もそれを探す方が、早そうですが」
「捕まえていいのはシーカーだけ。それに、探してる間に点を取られるだろ。例えば、こっちが二十点で、向こうが百八十点だったら?」
「捕まえても、百七十点ですね」
「十点負ける。だから、ほかの六人も必要なんだよ」
ロンは二つの数字を書き、その下に答えを添えた。
自分が説明したことを、鬼太郎がすぐに紙で確かめるので、話す声にも弾みがついている。
「それじゃ、負けると分かっていたら、捕まえないのか?」
キーノが尋ねた。
「味方が追いつくまで待つこともあるさ。でも、向こうのシーカーもいるんだから、待ってくれるわけじゃないよ。何日も終わらない試合だってある」
「帰れないのか」
「明日がそうなるって言ってないだろ」
ハーマイオニーが、紙のそばからインク瓶を持ち上げた。
「ロン。続きを描くなら、先にこれをどけて。今、袖が当たりそうだったわ」
「ああ、ありがとう。ほら、この黒い球が――」
ロンの説明が、もう一度ビーターへ戻った。
鬼太郎は、描かれた丸を目で追った。
飛んで逃げられるなら安全、とはいかないらしい。背後から球が来る。避けた先にも選手がいる。その中で、別の小さな球を見つけなくてはならない。
紙の向こうで、ハリーが本を閉じた。
先ほどから、頁は動いていなかった。
「明日、どの辺りに座る?」
「早めに行って、よく見える席を取るよ」
ロンが答える。
「君も、見えるところにいてよ。小さすぎて分からなかったら困る」
「探すのは、スニッチの方だろ」
ハリーは笑った。
その肩を、通りかかった上級生が叩く。
期待しているぞ、と言われ、ハリーはまた頷いた。
◆
寝室に戻ってからも、ハリーには、その声が耳に残っていた。
期待している。
スリザリンを倒してくれ。
顔を覚えていなかった相手まで、今日は名前を呼んだ。
ベッドのそばに置いたニンバス二〇〇〇は、練習のときと同じだった。
握れば、飛ぶときのことを思い出せる。曲がりたい方へ身体を傾け、速度を上げる。地面にいるときより、ずっと自由に動けた。
ただ、明日は大勢の前で、それをする。
最初の一回で落ちたら、どうなるだろう。
「ハリー。寝ないの?」
ロンが、隣のベッドから顔を出した。
「うん。もう寝る」
「ウッドが大丈夫だって言ったんだから、平気さ」
「僕を選んだのは、マクゴナガル先生だよ」
「じゃあ、先生とウッドだ。二人とも、箒のことは分かってるだろ」
ハリーは、少し笑った。
ロンはそれで済んだと思ったらしく、カーテンを閉めた。
ハリーも、箒から手を離した。
飛んでしまえば、練習の続きだ。
高いところから探す。見つけたら追う。
布団の中で柄を握る形にした指を、少しだけ緩めた。
◆
翌朝、ハリーの皿に取られた卵は、なかなか減らなかった。
ロンがトーストを寄せ、ハーマイオニーも、何か食べておくように言う。
「分かってるよ。でも、あんまり入らないんだ」
「落ち着くまで待っていたら、試合が始まりそうですね」
鬼太郎が言った。
ハリーは、一口だけトーストをかじった。
「君は、人に見られてても平気なの?」
「何をするかにも、よりますね。飛ぶところでしたら、見られる前に降りたいですが」
「ハリーより先に、落ちるからな」
キーノがカップを置いた。
鬼太郎は頷いた。
「思い出し玉を捕まえたときも、僕では、あの場所まで行けませんでした。ハリーさんは、初めて乗った日でしたね」
「あれは、取られたから追っただけだよ」
「今日は、取ってよいものを追えますね」
ハリーの口元が緩んだ。
「マルフォイには、投げてもらわなくて済む」
「応援はするぞ」
キーノが言った。
「でも、こっちを探して、落ちるなよ」
「分かってるって」
ハリーは、残ったトーストをもう一口かじった。
ウッドが迎えに来たときには、皿にあった卵も半分ほどなくなっていた。
◆
競技場へ続く道には、赤と金、緑と銀の色が揺れていた。
風に引かれたマフラーを、キーノが巻き直す。
階段を上ると、輪のついた高い柱が見えた。その向こうにも観客席があり、赤い旗を振る生徒の列と、緑の塊とが向かい合っていた。
ロンは空いている一列を見つけ、先に手を振った。
「ここ! ほら、実況の近くだ」
鬼太郎たちが座ると、ネビル、シェーマス、ディーンも同じ列へ入ってきた。
斜め前では、髪を細かく編んだ生徒が、広げた羊皮紙を押さえている。
隣に立つミネルバの声が、風の切れ目から届いた。
「ジョーダン。両チームのプレーを、公平に伝えなさい」
「はい、先生」
「選手への侮辱も、余計な私情も要りません。続けるようなら、交代させます」
「まだ始まってませんよ」
「始まる前に言っているのです」
ミネルバは席へ着き、膝の上で指を組んだ。
授業で説明を待つときと同じ、真っ直ぐな背だった。
「先生も、応援をなさるんですね」
鬼太郎が言うと、ロンはそちらを見た。
「……まあ、始まれば分かるよ」
「今のは、応援より注意だったぞ」
キーノが言った。
ロンは答えず、下へ目を向けた。
赤い試合着の選手たちが、競技場へ入ってくる。
ハリーは、ウッドの隣にいた。ここからでは顔までは分からないが、箒を握り、前を向いて歩いている。
ハーマイオニーが手を上げかけ、キーノと顔を見合わせて下ろした。
「今、こっちを探させちゃいけないわね」
「飛ぶ前なら、まだいいと思うが」
その後ろから、二人分ほどの大きな声が来た。
「おう、ハリー!」
ハグリッドだった。
近くの生徒へ身体をぶつけないよう、横を向いて通ってくる。
「ここで見てえんだが、入れるか?」
ロンたちが身体を寄せた。
ハグリッドは礼を言い、後ろの席へ収まった。膝だけが、前の背もたれの近くまで来ている。
鬼太郎は一度、下の階段を振り返った。
高いところから、競技場の端まで見渡せる席だった。ただ、地面へ下りるには、今来た道を戻るしかなかった。
緑の選手が並ぶ。
中央のフーチが、二人の主将へ何か告げた。
銀色の笛が、口元へ上がった。
◆
選手たちが、一斉に地面を離れた。
赤と緑が広がる。
クアッフルへ伸びた手の中から、一人の選手が抜け出した。
「グリフィンドール、アンジェリーナ・ジョンソンが取った!」
ジョーダンの声が、競技場を渡った。
赤い球は、追いすがる緑の選手の手前で横へ飛んだ。
受けた味方が、高度を変えて運ぶ。
「行け! そのまま突っ込め!」
鬼太郎は、前の席を見た。
ミネルバが立っていた。
組まれていた指がほどけ、両手で手すりを掴んでいる。
「左が空いてるだろう! 何をもたもたしてるんだい!」
キーノが、ハーマイオニーの袖を引いた。
「今の、先生か?」
「……そうね」
ハーマイオニーも、競技場よりそちらを見ていた。
球が一度奪われ、ウッドの守る方へ運ばれる。
伸ばした手が、それを弾いた。
ロンの拳が上がる。
鬼太郎が球を見直したときには、既に別の選手の手へ渡っていた。
「赤い服の、左から来た人ですか」
「ケイティ・ベル! ほら、今渡した!」
ロンの指した先で、黒い球が飛んだ。
赤い選手が身を沈め、クアッフルはまた緑の手へ入る。そこへ別のブラッジャーが来て、運び手が進路を変えた。
その脇から、アンジェリーナが球を取る。
鬼太郎は、今度は目を離さなかった。
彼女は輪の前で腕を振った。
赤い球が、守り手の指を抜ける。
「グリフィンドール、十点!」
立ち上がったロンに、膝がぶつかった。
後ろからハグリッドの歓声が響く。
「そうだよ、ジョンソン! いいぞ!」
ミネルバも、手すりを叩いていた。
鬼太郎は笑い、ロンへ顔を寄せた。
「公平に、とおっしゃっていましたね」
「実況には、そう言うんだ!」
ロンは、競技場を見たまま答えた。
キーノが吹き出す。
次の攻撃は、反対へ向かった。
ウッドの伸ばした腕の下を、緑の選手が抜ける。横へ渡った球を追ってウッドが動いたが、投げられた先は別の輪だった。
「スリザリンも得点、これで――痛っ!」
乾いた音がした。
ミネルバの手が、ジョーダンの背中から離れた。
「何やってるんだい! そっちに渡すのは見えてただろうが!」
「先生、僕はここにいます!」
「分かってます! ちゃんと実況なさい!」
「今、してたんですけど!」
ジョーダンが椅子を横へ引いた。
ミネルバは追わず、競技場へ顔を向けたままだった。
鬼太郎の隣で、キーノが膝へ手を置いた。
「どっちを見ればいいんだ、これ」
「先生の方は、声でも分かりますよ」
答えながら、鬼太郎もまだ笑っていた。
◆
ハリーは、選手たちより高いところにいた。
クアッフルが運ばれても、ついていかない。競技場の端へ目を向け、ときどき高度を変えていた。
黒い球が、下から近づいた。
ハリーの箒が傾く。
赤い試合着の裾を掠めるように、ブラッジャーが抜けていった。
追ってきた選手のバットが鳴った。
「今のはフレッドだ!」
ロンが教えた。
鬼太郎は頷き、ハリーの方を見続けた。
地面で杖を向け合ったときには、こちらが近づくと、ハリーの足が止まった。
今は、止まらない。
背後を確かめてから箒を戻し、もう別の場所を見ている。球の来た方へ、目を残してはいなかった。
昨日、枝を下ろすところまで見ようとしていた自分を思い出す。
「あれだけ動きながら、別の球を探しているんですね」
「だから言ったろ。ハリーは上手いんだよ」
ロンが嬉しそうに言った。
緑の選手の耳元を、金色のものが抜けた。
クアッフルが、その手から落ちる。
ハリーが動いた。
同じ高さにいた緑の選手も、箒を向ける。
「ヒッグズも見つけた!」
ジョーダンの声が高くなる。
二本の箒が、並んで降りた。
前にいる小さな光へ、ハリーの手が伸びかける。
その横から、大きな緑の身体が割り込んだ。
肩がぶつかった。
ハリーの箒が、横へ流れた。
「何してやがるんだ、あの馬鹿!」
ミネルバが怒鳴った。
キーノの口が、半分開く。
ジョーダンも立ち上がり、フリントが故意にぶつかったと叫んだ。
「笛を吹きなさい! 球も見てなかっただろうが!」
鋭い笛の音が、歓声を切った。
フーチがフリントへ近づく。
ハリーは、両手で柄を握ったままだった。傾いた身体を戻し、箒を止める。
金色の光は、もう見えなかった。
「退場だろ、今の!」
ディーンが叫ぶ。
ハグリッドも、低い声を出した。
「落ちとったら、どうするつもりだ」
鬼太郎は、フリントからハリーへ目を移した。
反則を取られても、見失った球が戻るわけではない。
箒を立て直したハリーは、もう空を見ていた。
「避けるだけでも、捕まえられなくなるんですね」
「あいつ、わざとそれをやるんだ」
ロンの声には、怒りが残っていた。
グリフィンドールへ与えられたペナルティーを、アリシアが決めた。
ミネルバが手を叩く。
「そうだよ! 取り返せばいいんだ!」
その手が隣へ向いた途端、ジョーダンは肩を引いた。
「先生。今度は、入ってます」
「見ています!」
「じゃあ、僕の背中は、そのままでお願いします」
前の列から笑いが起きた。
ミネルバは一度だけジョーダンを見て、手を下ろした。
ハーマイオニーが、口元を押さえている。
キーノは、まだ笑いを隠す気もなかった。
◆
ハリーは、ぶつけられた肩を小さく動かした。
痛んだが、腕は上がる。
下では、赤と緑がまた球を追い始めていた。フリントも飛んでいる。そちらを睨んでいても、スニッチは見つからない。
高い場所へ戻り、競技場の端へ目を向けた。
ブラッジャーが来た。
箒を傾け、頭を下げて避ける。
耳元を抜けた風が、急に冷たくなった気がした。
次の瞬間、柄が跳ねた。
腹が浮いた。
ハリーは両脚を締め、身体を前へ戻した。
「……何だ?」
穂が震えている。
風に押されたのかと思い、向きを変えようとした。
曲がらなかった。
右へ向けたつもりなのに、ニンバスは左へ振れた。高度を落とそうとすると、逆に持ち上がる。
下のウッドを探した。
そこへ行って、止めてもらおう。
柄が、もう一度強く跳ねた。
ハリーの身体が後ろへ引かれた。
◆
鬼太郎は、笑うのをやめた。
今のハリーのそばには、選手がいなかった。
ブラッジャーも、既に離れている。
箒の先が上下するたび、ハリーは逆向きへ身体を寄せていた。先ほどまでの、身体と箒が一緒に曲がる動きではなかった。
「ロンさん。あれも、技の一つですか」
「え?」
「ハリーさんです」
ロンが、顔を上げた。
赤い身体が、また跳ねた。
「違うよ。あんな飛び方……」
言い終えず、立ち上がる。
後ろでハグリッドが双眼鏡を持ち上げた。
「おかしいぞ。あの箒が、どうして」
鬼太郎は、実況席へ向いた。
「ミネルバ先生!」
彼女は、既に空を見ていた。
ジョーダンの実況が途切れる。
ミネルバは杖を抜き、席の前へ出ようとした生徒へ、鋭く命じた。
「下がっていなさい! 手すりから身を乗り出さない!」
キーノも立った。
ハーマイオニーの両手が、手すりを掴んでいる。
鬼太郎は、ハリーまでの高さを見た。
薄い木片でさえ、傾けずに下ろすことは、まだ難しい。
あの距離を落ちてくる人間へ、浮遊術を使ったことはなかった。枝を持ち上げる間に近づかれた昨日と違い、今度は、届かせる前に落ちてくるかもしれない。
下へ行くには、階段を戻らなくてはならない。
空のハリーへ、近づく箒が見えた。
その前でニンバスが跳ね、さらに高く上がる。
観客席の声が変わった。
歓声の中にあったハリーの名前が、悲鳴に混じる。
鬼太郎は黒檀の杖を抜いた。
右手で握り、通路へ出かけた足を止める。
ミネルバが、杖先を空へ向けていた。
ハリーの箒が、大きく捩れた。
脚が滑った。
赤い身体が、柄の下へ落ちる。
キーノの手が、鬼太郎の袖を掴んだ。
ハリーは、片手だけでぶら下がっていた。
握り直そうとする手の上で、箒はまだ、彼を振り落とすように暴れていた。