少し、昔のことです。
私は、どこにでもいるつまらない子供でした。
どこかで読んだ詩歌に騙され、絆され、世界には暗いものしかない気がしていた、幼い子供でした。
当然、学校にも行っていなかった。
母は、私に優しかったですが、やがて会話も少なくなっていきました。
補充されていくオレンジジュースや、朝食の卵の半熟で、私は母の愛情を測っていました。
そんな、あの頃の話です。
♢♢♢♢
人生とは、つまらない事の連続である。
人生とは、くだらない嘘の連続である。
だから、夜が好きだ、人が少なくなった夜には、その分嘘だって少ないからだ。
母は、夜半の少し前には絶対に眠りにつく。
僕はこの小さな家をこっそりと抜け出して、夜の世界を見るのが好きなのだ。
意外な程に、人が減らない最終電車だとか、境界を失った車道と歩道を、僕は歩道橋の上から眺めている。
酷くいい気分だ。
歩道橋を降りて、道をそれれば、世界は僕のものだ。
工事現場は唸っていない、誰かが泣いている公園も酷く静かだ。
やたらと怖い人たちが働いている、謎のテナントが入ったビルだって、みんな暗ければ怖くない。
自販機の前に、人影が見えた。
女性だろうか、影は、驚くほど豊かに踊っている。
僕は、霊障の類は信じていない。
僕は、迂回路を探した。
その時、僕は気づいた。
自販機の反射というわけではない。
その女性には顔がない。
いや、彼女はまるで、白い影だ。
光だけが、彼女の輪郭を作っている。
彼女は、驚くほど豊かに踊っている。
まるで切り絵のように、世界から切り離された彼女は、夜を切り裂くように踊っている。
僕は、気づけば魅入られている。
彼女は、ゆっくりと、踊りながらに歩き出した。
ステップを踏み、腕を揺らし、世界を包み込むように、切り裂くように進んでいく。
僕は、彼女に着いていくことにした。
彼女は、ただ踊り続けていた。
線路沿いの道を歩く、人を下ろし終えた、回送電車が通り過ぎる。
電車の窓から、あまりに明るい光が漏れる。
電車が、あまりに大きな音を鳴らす。
彼女は、ステップを乱すことはない。
恐ろしい早さで過ぎ去っていく窓の光を、彼女はスポットライト替わりに踊っている。
彼女が、ある時急に消えてしまった。
僕は焦って、彼女を探して走り回る。
彼女は、公園の遊具の上で踊っていた。
遊具は、役目を終えたものだ。
遊具は、夜にはなんの価値もない。
彼女は、遊具の上で、あの豊かな踊りを、惜しげも無く振りまいていた。
彼女と、話がしたいと思った。
彼女は、昼間をどうやって生き残って、この夜にやってきたのだろうか。
なぜ、あんなにも世界を愛おしめるのだろうか、楽しめるのだろうか。
なぜ、あんなにも明確に世界に存在できるのだろうか。
彼女に、声を掛けた。
彼女は、声を返してはくれない。
彼女の影には、何故か色が付いている。
彼女は、美しく踊っている。
いつしか、僕にも音楽が聞こえてくる。
誘われるように、僕は下手くそなステップを踏んだ。
彼女に食らいつくように、僕は下手くそなステップを踏んだ。
激しく揺れる身体に反比例して、視線はどこまでも一定だった。
それでも、世界がひどく美しく見えることに驚いた。
彼女は、いつしか消えていた。
僕は、何一つ驚きはしなかった。
家へ帰って、布団に入る。
朝になれば、またいつも通りの朝食が出てくる。
しばらく声を出していないから、声が出にくかった。
今日は、昼間の街を歩いてみる。
人生とは、つまらない事の連続である。
人生とは、くだらない嘘の連続である。
だから、僕は夜が好きだ、人が少なくなった夜には、その分嘘だって少ないからだ。
でも、それだけじゃない。
このとんでもなく酷い世界には、酷く美しい瞬間だってあるのだ。