・桜花賞、オークス、秋華賞を制覇し、トリプルティアラ達成
・その後、自らの意思で短距離・マイル路線へ転向
・短距離GⅠを2勝
・マイルGⅠを2勝
ダイイチルビーと早瀬雅也、その子供たち
朝の屋敷は、外から見るより静かだった。広い敷地の奥、冬の薄い光を受けた庭木にはまだ夜の冷気が残っていて、松の葉先に結んだ露が、触れれば落ちそうな重さで光を宿している。石畳は夜のあいだに芯まで冷え切り、踏めばそのまま足の裏から膝まで冷たさが上がってくる。屋敷の東側にある長い廊下は、庭に沿って伸び、途中に曲がり角が二つある。磨き込まれた床板と障子、庭側の硝子戸が続く、家族が日常的に使う廊下だった。左側は障子、右側は硝子戸。その硝子戸から差し込む朝日が、磨き込まれた床板を斜めに切り取って、光の帯を何本も並べていた。埃が、その帯の中だけで見える。舞っているのではなく、ほとんど止まったまま、ごくゆっくりと沈んでいく。
その光のなかを、小さな影がひとつ駆け抜ける。
ダイイチシガーは、八歳の女児だった。
ただし、人間の八歳児と同じ速度で走ると思ってはいけない。彼女が本気で床を蹴れば、大人が早足で歩く速さなど、あっという間に置き去りになる。三十間の廊下を端から端まで、息を切らさずに往復できる。曲がり角では外側の足で床を掴み、身体を内側へ倒して、減速らしい減速をせずに曲がる。それが彼女にとっての普通だった。屋敷の使用人たちは、朝のこの時間に廊下の角で出会い頭にならないよう、いつのまにか自然と曲がる手前で足音を大きくする習慣を身につけていた。
「シガー、廊下は走らないでください」
後ろから母の声が飛んだ。
シガーは止まろうとした。止まろうとはしたのだ。
けれど、ウマ娘の脚は人間の子供よりずっと強い。床を蹴った一歩の勢いが大きい。急に止まろうとすれば、身体のほうが先へ出る。止まるというのは、彼女たちにとって走るより難しい技術で、それを覚えるには何年もかかる。母はそれを知っている。だから、走るなと言うのだ。
「わっ」
靴下の足が磨かれた床を滑り、シガーは身体を半回転させた。普通なら転んでいた。少なくとも、人間の八歳の子供なら、膝か手のひらのどちらかを板に打ちつけていただろう。けれど八歳のウマ娘には、人間の子供にはない反射がある。床へ手をつく直前、腰を左へひねって重心を戻し、遊んでいた右足を後ろへ送って支えにし、そのまましゃがみ込む。膝が板に触れる寸前で、勢いが消えた。
頭の上の耳が、ぴんと立った。
長い尾が、遅れて大きく揺れた。
「……止まりました」
「止まり方が派手すぎます」
ダイイチルビーは、眉ひとつ動かさずに言った。
その姿は、トレセン学園にいた頃から何ひとつ変わっていないように見える。背筋はまっすぐで、首の角度が一定で、歩くときに肩が上下しない。淡い色の和装の上に薄手の羽織を重ね、袖口から出た手は、指の先まで無駄な力が抜けている。髪はきちんとまとめられ、頭頂の耳は隠れていない。声には一切の無駄がなかった。華麗なる一族の令嬢としての威厳が、そのまま冬の朝の廊下に立っている。
けれど、シガーには分かる。
母の尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
怒っているわけではない。心配しているのだ。母の尻尾は、怒っているときには止まる。完全に止まって、一ミリも動かなくなる。あれが本当に怖いときだ。いま揺れているということは、母は怒っていない。
「申し訳ありません、お母さま」
「分かれば結構です。……怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
ルビーはその場にしゃがみ込んだ。和装のまま、膝も背中も曲げず、股関節だけで沈み込む。動きに一切の上下動がない。そして娘の両手を取り、手のひらを返して、掌線に沿って指の腹で軽くなぞった。小さな傷すらないことを確かめてから、今度は手首をそっと持って、指を軽く曲げ伸ばしさせた。
「痛みませんね」
「はい」
「それなら、朝食にしましょう」
「はい」
母が立ち上がる。やはり上下動がない。膝から先だけが伸びて、あとは全部が同時に上がる。シガーは何度もそれを真似ようとして、何度も失敗している。真似ができないわけではないのだ。母と同じ動きをしているつもりでも、必ずどこかが揺れる。母はそれを見て、一度だけ「あと十年です」と言った。慰めではなかった。あの人は慰めというものを言わない。あれは見積もりだった。
シガーは母の隣を歩いた。歩幅を合わせようとすると、どうしても少し詰まる。母の歩幅は、走る人の歩幅だ。歩いているだけなのに、床を押す量が違う。けれど八歳のシガーは、母の真似をしたくて仕方がない。背筋を伸ばし、顎を少し引き、母と同じように足音を小さくしようとする。そのたびに長い尾が左右へ揺れ、本人が隠そうとしている張り切った気持ちを正直に伝えていた。
そのとき、玄関側から鍵の音がした。
金属が金属に触れる、ごく小さな音だった。廊下の端から玄関まで、まだ二十間以上ある。使用人には聞こえていない。母には――たぶん聞こえている。けれど母は歩調を変えなかった。
シガーの耳が、母とは違う意味で立った。
「お父さま?」
「ええ。今朝もコースへ行っていたのでしょう」
「どうして分かるの?」
「あなたのお父さまですから」
その言葉が妙に嬉しくて、シガーは少しだけ歩幅を広げた。そして広げすぎて、また母に見られて、慌てて戻した。
玄関へ着くと、早瀬雅也が靴を脱いでいた。
黒いブルゾン。襟のある簡素なシャツ。首元にタオルはない。手には薄いファイルと、ストップウォッチがひとつ。トレーナーとして学園を歩くときの父だった。靴底に泥がついていて、脱いだあと、彼は自分でそれを玄関の外へ持っていって、二度叩いて落としてから戻ってきた。屋敷の使用人が何度もそれをやると申し出ているのに、彼は一度も任せたことがない。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、雅也さん」
ルビーの声はいつもの調子だった。高さも、速さも、朝の廊下で娘を叱ったときと変わらない。
シガーは父を見た。父も母を見た。
ほんの一瞬だけ、雅也の表情がほどけた。
「ただいま、ルビー」
その声が、トレーナーのときより少しだけ低く、柔らかい。
シガーはそこに違和感を覚えた。違和感、という言葉を八歳の彼女はまだ正確には知らない。ただ、何かが一致していないと感じる。父はさっきの「ただいま」と、いまの「ただいま、ルビー」を、別の場所から出している。同じ人の、同じ喉から出ているのに、通ってきた道が違う。
シガーは、映像で見る学園の父を知っていた。
去年の暮れ、屋敷の大きな画面で、レースの中継の合間に父が映ったことがある。パドックの端で、担当のウマ娘の斜め前に立っていた。手ぶらだった。何も持たず、何も言わず、ただ立っていた。カメラが寄ると、担当が何かを言い、父が短く二言だけ返した。何を言ったのかは音声が拾っていなかった。ただ、口の動きが二回しかなかったことだけが分かった。あの父は、もっと静かだ。担当ウマ娘に「もう一度」と言われれば、黙って映像を巻き戻す。走りを見て、「三コーナーで少しだけ肩が浮いた」と言う。勝てば笑うこともある。しかし、仕事場の父は、どこまでもトレーナーだった。
家では違う。
「シガー、今朝また廊下を走った?」
「……少しだけ」
「少しだけなら、俺も昔コースを一周した」
「お父さまも走ったの?」
「走った。死ぬかと思った」
「大げさです」
ルビーが静かに突っ込んだ。雅也は苦笑した。
シガーは思わず笑う。笑いながら、頭の隅で同じことをまた考えた。父は、仕事場ではこんな顔をしない。そして母も、学園にいた頃には、こんなふうに父の冗談を受け流す人ではなかったのだろう。母が父を「雅也さん」と呼ぶ声の柔らかさは、たぶん、はじめからそうだったわけではない。
二人は、長い時間をかけてこうなったのだ。
その「長い時間」がどれくらいなのかを、シガーはまだ知らなかった。
朝食の部屋は、屋敷の南側にある。正式な食堂は別にあり、格式の高い長いテーブルと椅子が置かれているのだが、家族だけの食事には使わない。使うのは、庭に面した十二畳ほどの、畳ではなく板張りの部屋で、真ん中に楢の一枚板の卓が置かれている。この卓は父と母が二人で見に行って決めたものだと、シガーは聞いたことがある。どちらが決めたのかと訊いたら、母は「私です」と言い、父は「そうだな」と言った。
四人の娘たちが、それぞれの速度で食事をしていた。
ダイイチビビットは六歳の女児で、姉より先に食べ終わる。食べるのが速いのではなく、噛む回数が少ないのだと母はよく言う。言われるたびにビビットは「ちゃんと噛んでる」と答えて、その直後にまた飲み込む。明るく、感情が豊かで、母の所作を真似したがる。真似は上手い。上手いのだが、三十秒もたないうちに尻尾が左右に振れて、本音が全部ばれる。今朝も、卵焼きの一番きれいな一切れを取ったところで、尻尾が大きく一往復した。
「ビビット」
「はい」
「今、何を取りましたか」
「……いちばんきれいなの」
「なぜ」
「……いちばんきれいだから」
「理由になっておりません」
ビビットは箸を止めた。耳もぴたりと止まり、尾だけが落ち着かなさそうに揺れる。少し考えてから、皿の上の一切れを姉の皿へそっと移した。
「どうぞ」
「……いいよ、別に」
「どうぞ」
シガーは受け取った。受け取ってから、半分に割って、片方を戻した。ビビットの耳がぴんと立って、尻尾が一度、床を打つ勢いで振れた。
ダイイチサンデーは五歳の女児で、この食卓では姉たちより少し静かなほうだった。落ち着いていて、父に似て周囲をよく観察する。ただし、五歳らしい好奇心も強い。今朝も、父が卓の端に置いたストップウォッチが気になって仕方がない。黒い小さな機械へ耳を向け、尾をゆっくり左右に揺らしながら、何度も横目で見る。手を伸ばしかけては、母の視線に気づいて引っ込める。けれど興味そのものは隠せず、とうとう人差し指だけをそっと伸ばして、卓の端をつん、と触った。
「サンデー」
「……はい」
「食べてから、見なさい」
「はい」
サンデーはしゅんと耳を伏せ、それでも名残惜しそうにストップウォッチをもう一度見た。尾の先だけが、まだ小さく揺れている。父が笑って、食べ終わったら一緒に見せてやる、と言うと、今度は耳がぱっと立った。
「ほんと?」
「本当だ」
「……やった」
小さな声で呟いてから、サンデーは箸を持ち直した。五歳児らしく、さっきまでのしょんぼりした顔が嘘のように明るくなる。
アイアンビューティは三歳の女児で、母の隣で眠そうに目をこすっている。この時間の彼女は、まだ半分眠っている。椅子ではなく母の膝の横に座布団を敷いてもらって、そこに斜めに寄りかかっている。時々、眠そうに箸を持ち上げては、途中で力が抜けてまた下ろす。耳も半分眠ったように横へ倒れ、尾の先だけが母の着物へ触れている。母はそれを急かさない。急かさないが、器の位置だけは黙って三度直した。
四人とも、頭の上にはウマ娘の耳がある。人間の子供よりも鋭い聴覚を持つ耳は、家族の誰かが名前を呼べばすぐに動く。誰の声かで、動く速さがわずかに違う。父の声にはいちばん速く反応する。母の声には、反応が速いのではなく、正確に向く。尻尾もまた感情を隠せない。ビビットが楽しそうなら左右に振れ、サンデーが考え込めばゆっくり止まり、アイアンビューティが甘えると母の腕のほうへ寄っていく。
シガーは、それを当たり前だと思って育った。耳が動くことも、尻尾が勝手に自分の気持ちを喋ってしまうことも、廊下を走れば危ないと言われることも、全部が当たり前だった。
けれど父は、ときどき言う。
「お前たちは、俺が子供の頃よりずっと速いな」
「当然です」
ルビーが言う。
「ウマ娘ですから」
「そうだな」
雅也は笑った。
その笑顔を見ながら、シガーはふと思った。
父は、母のどこを好きになったのだろう。そして、母は父のどこを好きになったのだろう。
食卓の上では、味噌汁の椀から湯気が細く立っている。窓の外の庭では、南天の実の上にまだ霜が残っている。父はご飯を食べ終わったあと、いつものように、小皿に残った漬物を全部まとめて口に入れてから、湯呑みに手を伸ばした。母がその手つきを見て、何も言わずに、少しだけ目を細めた。
「雅也さん」
「ん?」
「今日は、何時にお戻りに」
「……八時は過ぎると思う」
「そうですか」
「遅くなる」
「分かりました」
それだけの会話だった。ただ、そのあとで母が、父の湯呑みに二杯目を注いだ。父は「ありがとう」と言った。
シガーは、それも当たり前だと思って育った。
その日の午後、シガーは屋敷の庭で父と一緒にいた。
庭は広い。広いけれど、この家の庭は見せるための庭で、遊ぶための場所ではない。石の配置にも、木の植え方にも意味があるのだと、祖母が一度だけ教えてくれた。その意味をシガーはまだ全部は覚えていない。ただ、走り回ってはいけない場所と、走ってもいい場所の境界だけは、身体で覚えている。境界は、庭の東側にある低い生垣だ。そこから向こうは、蹴った土が飛んでも構わない場所ということになっている。父がそう決めた。母は最初、それに反対した。父は「じゃあ、どこなら走っていいですか」とだけ言った。母は三日考えて、生垣の向こうを指した。
その生垣のこちら側、縁側に近い石の上に座って、父は仕事をしていた。
机代わりの盆の上にファイルが置かれている。膝の上には薄型の端末。今日も担当しているウマ娘の調教映像を確認していたらしい。
シガーは父の隣から画面を覗き込んだ。
そこに映っている父は、朝とは別人に見えた。
表情が鋭い。鋭い、というのも八歳の語彙としては正確ではないのだろうが、ほかに言いようがなかった。目のまわりの筋肉が一段引き締まって、瞬きの回数が減っている。視線が走りを追い、手元のペンが一度だけ動く。動くのは本当に一度だけで、あとはずっと止まっている。画面の中では、一人のウマ娘がコースを一周している。ただそれだけの映像だった。音は消してある。父はいつも音を消す。
「ここ」
父が言った。
「二コーナーから三コーナーへ入るところ。少しだけ呼吸が詰まってる」
「分かるの?」
「分かる」
「どうして?」
「見てれば分かる」
短い。仕事の父だった。
シガーは食い下がった。父が短く答えるとき、たいていその後ろにもっと長い理由がある。それを知っているのは、この家で母と自分だけだと、シガーは半分本気で思っている。
「……見ても、分からないもん」
「そうか」
父は画面を止めた。それから、少しだけ巻き戻して、また再生した。
「足の音を聞いてる」
「音?」
「消してるから聞こえないけどな。俺は、この映像を見る前に、現場で見てる。そのとき音を聞いてる。……四つの足が地面につく間隔が、少しずつずれることがある。ずれ方で、どこが苦しいか分かる」
「……ふうん」
「今のは、間隔が詰まった。呼吸が詰まると、脚も詰まる」
「痛いの?」
「痛くはない。ただ、続けば痛くなる」
「どうするの?」
「メニューを変える。……あとは、専門の人に見てもらう」
「お父さまは診ないの?」
「診ない」
そこだけ、少し強かった。
「俺の仕事じゃない。俺が診たら、その人が本当のことを言えなくなる」
シガーには、その最後の一文の意味が分からなかった。分からなかったが、覚えておこうと思った。この家では、意味の分からない言葉のほうが、あとで大事になることが多い。
その直後、ルビーが庭へ出てきた。盆に湯呑みを二つ載せている。
「雅也さん」
「ん?」
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
雅也が顔を上げる。その瞬間、表情が変わった。
ほんのわずかな変化だった。目のまわりの引き締まりが緩んで、視線の速度が落ちた。それだけだ。写真に撮っても、たぶん違いは写らない。
けれど、シガーには分かった。
鋭かった目が、柔らかくなった。
「疲れているようですね」
ルビーが言う。
「少しだけ」
「なら、今日は早めに休んでください」
「分かった」
「本当に?」
「……善処する」
「信用できません」
シガーは吹き出した。父も笑った。母は呆れた顔をした。
それでも、母の耳は嬉しそうに少しだけ動いていた。
母は、盆をその場に置いて、父の隣に腰を下ろした。和装のまま、石の上に。この人がそういう座り方をするのを、シガーは家の中でしか見たことがない。外では、母は絶対に、座る場所を選ぶ。
「その方は、どなたですか」
母が画面を指した。
「……名前は言えない」
「存じております。伺っておりません」
「そうか」
「順調ですか」
「今のところは」
「そう」
母は、それ以上訊かなかった。父も、それ以上言わなかった。
シガーは、二人が同じ画面を見ながら黙っているのを、しばらく見ていた。母は走りを見ていた。見ている目の速度が、父と同じだった。父が二コーナーのところで一度だけ視線を止めたとき、母も同じ場所で止めた。
「……詰まりましたね」
「ああ」
「二歩」
「……二歩だ」
父が、少しだけ驚いた顔をした。驚いてから、笑った。
「まだ見えるのか」
「見えますわ」
母は湯呑みを持ち上げた。
「一度覚えたものは、忘れませんもの」
学園へ行ったのは、その週の終わりだった。
年に何度か、そういう日がある。父の仕事場に子供が入ることは普通は許されない。ただ、年末年始の前後だけは、学園の一部が開放される期間があって、家族が施設を見学できる。母は毎年、行くかどうかを子供たちに訊く。訊いて、行きたいと言った子だけを連れていく。今年、手を挙げたのはシガーとサンデーだった。ビビットは「つまんなそう」と言って行かなかった。あとで後悔した顔をしていたが、母は「あなたが決めたことです」としか言わなかった。
トレセン学園は、屋敷とは何もかも違った。
まず、音が多い。屋敷の廊下は、歩けば自分の足音しか聞こえない。学園は違う。声、足音、笛、扉、遠くの歓声、誰かが何かを引きずる音。それが全部、同時に耳に入ってくる。シガーの耳は、最初の十分でひどく疲れた。どこを向いていいか分からなくなって、結局、何度も母のほうを向いた。母は何も言わずに、彼女の手を握った。
「耳を、一つだけに向けなさい」
「……一つ?」
「全部を聞こうとするから疲れるのです。聞くものを一つ決めて、あとは流しなさい」
「どうやって?」
「慣れです」
母は、そう言って少しだけ笑った。
「私も、最初は同じでした」
コースの脇に、父がいた。
シガーは、離れたところからそれを見た。母が「近づいてはいけません」と言ったからだ。仕事中のトレーナーに、家族が声をかけてはいけない。それは礼儀ではなく、規則だと母は言った。
父は、フェンスの内側に立っていた。手には何も持っていない。ストップウォッチは首から下げているだけで、手では持っていない。彼はただ立って、コースを走っている一人のウマ娘を見ていた。
見ている時間が、長かった。
一周。二周。三周。その間、父は一度も手元を見なかった。時計も見なかった。視線がずっと同じ高さで、走っている相手の腰のあたりを追っている。顔を見ていない。脚も見ていない。腰を見ている。
四周目が終わって、そのウマ娘が近づいてきた。息が上がっている。父が、はじめて口を開いた。
「三本目、二コーナーの入りで一度、息を入れ直しただろう」
「……はい」
「あれでいい。四本目は入れ直さなかった」
「……気づいてました」
「それで、どうだった」
「……最後、脚が残りませんでした」
「そうか」
父は、そこで少しだけ黙った。それから、
「じゃあ、次は入れ直そう。三本目と同じところで」
「はい」
「今日はもう走らなくていい。歩いてくれ」
「はい」
それだけだった。
シガーは、遠くから見ていて、思った。
短い。
父の言葉は、家にいるときより、はっきりと短い。家では、あんな話し方はしない。家の父は、もっと余計なことを言う。今朝の「死ぬかと思った」みたいなことを言う。ここでは言わない。
けれど、冷たいわけではないのだ。
シガーは、それも同時に思った。父は、あの人の顔を見ていなかった。腰を見ていた。ずっと見ていた。四周分、ずっとだ。あれは、見ていないのではなくて、見すぎているのだと思った。
「……お母さま」
「何でしょう」
「お父さま、あの人の顔、見てない」
ルビーは、娘の言葉に一度だけ視線を落とした。
「……よく見ていますね」
「だって」
「お父さまは、走っている間は顔を見ません」
「どうして?」
「顔を見ると、その人が『どう見られているか』を気にするからです」
シガーは、また意味が分からなかった。
「……終わってから、見ます」
母が続けた。
「終わって、戻ってきて、話すときには、ちゃんと顔を見ます。……そうでしたでしょう」
シガーは思い返した。確かに、父はさっき、あの人が近づいてきてから、はじめて顔を上げた。
「……ほんとだ」
「私も、三年間、ずっとそうされました」
母の声が、そのとき、ほんの少しだけ変わった。
その日、学園の建物の前で、シガーは記者というものを初めて見た。
三人いた。一人はカメラを持っていて、二人は何も持っていなかった。何も持っていない二人のほうが、たくさん喋っていた。
父は、その前を通り過ぎようとしていた。
「早瀬トレーナー! 少しよろしいですか!」
父は、止まった。止まって、少しだけ困った顔をした。家で見る困り顔とよく似ていた。似ていたが、同じではなかった。家の困り顔はもっと柔らかい。
「……手短にお願いします」
「今季もまた無敗での年越しになりそうですが」
「……はい」
「『常勝無敗』という呼び名について、ご本人はどうお考えですか」
父は、そこで一度、黙った。
その沈黙が、シガーには少し長く感じられた。母が、娘の手を少しだけ強く握った。
「……その言い方は、やめていただきたいです」
「といいますと」
「勝っているのは、走っている人たちです。私ではありません」
「しかしトレーナーの手腕が――」
「本人が走った結果です」
父は、そこで一度、頭を下げた。
「それ以上のことは、心当たりがありません。失礼します」
そして、歩き出した。
記者たちは追わなかった。追わなかったが、カメラは父の背中を撮っていた。
シガーは、その背中を見ていた。
「お母さま」
「はい」
「お父さま、怒った?」
「いいえ」
「でも」
「怒ってはおりません。……あの人は、あれを本当に嫌がっているだけです」
「どうして?」
母は、少し考えてから答えた。
「嘘だからです」
「うそ?」
「ええ。……あの人は、一度も走っておりません」
シガーは、しばらくそれを噛み砕いた。
「……でも、お父さまがいなかったら、勝てなかったかもしれないよ」
「そうかもしれません」
「なら」
「シガー」
母が、娘の目を見た。
「私は、十六回走りました。二回負けて、十四回勝ちました」
「うん」
「そのうちの一回でも、雅也さんが走ったことはありますか」
「……ない」
「そうです」
母は、前を向いた。
「あの人は、私が走れる状態を作りました。走る場所を三つ並べて、どれにするかを私に選ばせました。……ですが、走ったのは私です」
風が吹いた。学園のコースのほうから、乾いた土の匂いが流れてくる。母の耳が、ほんの少しだけ、そちらへ向いた。
「私は、それを誇りに思っております」
その夜、シガーは母と二人きりになった。
妹たちが眠ったあと、母はいつも、屋敷の西側にある小さな居間に一人でいる。そこは客を通す部屋ではない。母が嫁いできてから、自分で使うために整えた部屋で、家具はほとんどない。低い椅子が二脚と、小さな卓と、書きもの用の机が一つ。机の上には万年筆立てと、便箋の束が置いてある。母は今でも、手紙を手で書く。
五人目の子供を身ごもっている母は、いつもよりゆっくり歩いていた。身体は以前より重くなっている。それでも姿勢は崩れない。歩き方が変わっただけで、背筋の角度は一度も変わっていない。
シガーは、部屋の入口で立ち止まった。母は、入っていいとも、いけないとも言わなかった。ただ、椅子をひとつ、自分の隣に向けた。
それが、入っていいという意味だった。
「お母さま」
「何でしょう」
「お父さまのこと、好き?」
母の耳が止まった。
尻尾も止まった。
シガーは、しまったと思った。母の尻尾が止まるのは、怒っているときだ。
けれどルビーは怒らなかった。
しばらく窓の外を見ていた。障子は閉めてあって、外は見えない。それでも母は、そちらを見ていた。
「ええ」
短い返事だった。
「どこが?」
長い沈黙だった。
火鉢の炭が、一度だけ小さく鳴った。
そして、母の顔が変わった。
トレセン学園で見せる凛とした表情ではなかった。家名を背負う令嬢の顔でもない。ただ、一人の女性が、長い年月を一緒に歩いた人を思い出す顔だった。目のまわりの力が抜けて、視線の焦点が、部屋の中から少し離れたところに移った。
「……長くなりますよ」
「いい」
「眠くなっても、途中で寝てはいけません」
「寝ない」
「……そうですか」
母は、湯呑みに手を伸ばした。中身はもう冷めていた。冷めているのに、両手で包んだ。
「最初は、走りを見てくれたからです」
「走り?」
「ええ。私が『ダイイチルビー』だからではなく、私自身を見てくれました」
母は、そこで少し笑った。
「その頃の私は、たくさんの方から声をかけていただいておりました。あなたを勝たせます、あなたにふさわしい舞台を用意します、あなたのご一族の名に恥じない結果を出してみせます。……皆さま、そうおっしゃいました」
「いいことじゃないの?」
「いいことです。……ただ、どなたも、私の走りの話をなさいませんでした」
シガーは黙った。
「私の家のことも、期待も、周囲の評価も。雅也さんは、それらを理由に私を決めつけなかった」
「どうやって決めたの? お父さまに、って」
母は、そこでまた少し笑った。今度は、はっきりと笑った。
「試験をいたしました」
「しけん?」
「専属のトレーナーを決めるための試験です。三十日間。参加の条件はトレーナーであることだけ。実績は問いませんでした」
「なにするの?」
「護身術のお稽古。食事の作法。社交のダンス。お茶会。船の上の宴。……ほかにもいろいろです」
シガーは、想像しようとして、失敗した。
「お父さま、できたの?」
「……できませんでした」
母は、湯呑みを置いた。
「ダンスは壊滅的でした。護身術も下手でした。作法は間違えないだけで、美しくありませんでした。お茶会では一言も喋りませんでした」
「じゃあ、なんで」
「十四日目に」
母の指が、卓の上を一度だけなぞった。
「紙を一枚、いただいたのです」
「かみ?」
「ええ。私の過去三走の、区間ごとの時間が、手書きで書き写してありました。それから、三行だけ」
母は、そらで言った。八年経っても、一言も違えずに言えた。
「――最後の二百メートルに入る直前、一完歩だけ体重を戻している。その一完歩で、毎回〇・二秒失っている。前に置いたままで走ると、たぶん、短い方が速い」
シガーは、意味が分からなかった。分からなかったが、母の声の温度が変わったことだけは分かった。
「……それから、最後に一行」
母は、そこで少し息を吸った。
「『ただ、決めるのはあなたです』」
火鉢が、また鳴った。
「三十日のうち、あの方が私に差し出したものは、その紙が一枚だけです。ほかの方々が差し出したのは、私にふさわしいと思われたいという意思でした。あの方が差し出したのは、私が〇・二秒失っているという事実でした」
「どっちがいいの?」
「私は、後者を選びました」
母は、そう言って、はじめて娘のほうを向いた。
「シガー。覚えておきなさい。……人は、あなたを褒めるとき、たいてい自分のことを話しております」
「それだけ?」
「いいえ」
母は首を横に振った。
「たくさんあります。……ただ、順番に申し上げないと、分からないと思います」
「うん」
「契約をした日に、あの方は二つだけ条件を出しました。一つ、決めるのはあなたです。私は選択肢を並べます。二つ、褒めません。代わりに、課題を渡します」
「褒めないの?」
「褒めない、と最初におっしゃいました」
「ひどい」
「そう思いますか」
「思う」
「私は、結構です、と答えました」
母は、少しだけ目を細めた。
「讃辞は、その十六年で足りておりました」
シガーは、また分からなかった。
「……十六年?」
「私が生まれてから、そのときまでの年数です。……あなたと同じくらいの頃から、私はずっと、褒められて育ちました。華麗なる一族のご令嬢だと。所作が美しいと。走りが優雅だと。……一度も、どこが速いのかを言われたことがありませんでした」
母は、湯呑みの縁を指でなぞった。
「褒められることは、慣れておりました。……信用されることには、慣れておりませんでした」
火鉢の火が、少し弱くなっていた。母は立ち上がって、炭を一つ足した。座り直すのに、少し時間がかかった。お腹に手を添えて、ゆっくり腰を下ろす。シガーは手を出そうとして、出しかけて、やめた。母は手を借りるのを好まない。ただし、差し出された手を払うこともしない。シガーは、その二つの間の距離を、まだ測りかねている。
「……最初に負けたのは、一年目の暮れでした」
母の声が、少し低くなった。
「中山という競馬場の、二千メートル。世代の上のほうが集まるレースでした。私は、まだそこに出る仕上がりではありませんでした」
「なんで出たの?」
「私が、出ると言ったからです」
「お父さまは?」
「反対なさいませんでした。……推奨もなさいませんでした」
母は、そこで一度、言葉を切った。
「『出るなら準備します。ただ、二か月では足りません。それだけは先に申し上げておきます』。……そうおっしゃいました」
「……それで?」
「三着でした」
母は、あっさり言った。
「直線で、一度は先頭に並びかけました。そこから、残り百五十メートルで止まりました」
「どうして」
「加速を二度使ったからです」
シガーは、また分からない言葉に出会った。
「……分かりませんね」
母が言った。
「私も、あの日は分かっておりませんでした」
母は、湯呑みを持ち上げた。冷えた茶を、一口だけ飲んだ。
「私は、表情を変えずに検量室を出て、礼を言って、控室へ戻りました。誰にも何も言いませんでした。……そういう育ち方をしております」
「泣かなかった?」
「泣きません」
母は即答した。
「弱いところを見せるのは、品位の欠如だと思っておりました。……我慢していたのではありません。見せないことが正しいと、本気で信じておりました」
シガーは、母の顔を見た。母は、そこで少しだけ、困ったような顔をした。
「あの方は、慰めませんでした。よく頑張ったともおっしゃいませんでした。……紙を一枚、置いて、帰ろうとなさいました」
「またかみ?」
「ええ。また紙です。……三行だけ書いてありました。加速を二度使ったこと。二度目が届かなかったこと。次はどこで使えばいいか」
母は、そこで息を吸った。
「私は、呼び止めました」
「なんて?」
「なぜお怒りにならないのですか、と」
「……お父さま、なんて?」
「『怒る理由がありません』。……『決めるのはあなたです。最初にそう言いました』」
母の指が、卓の上で止まった。
「それから、扉のところで一度だけ振り返って、こうおっしゃいました」
シガーは、息を詰めた。
「――ただ、一つだけ。三コーナーで動いたのは、前が見えなかったからじゃない。あなたは、後ろにいる自分を人に見られたくなかった。そう見えました」
母は、そこで長く黙った。
「……それから」
やっと、続けた。
「『違うなら、忘れてください』と」
シガーには、その場面が見えるようだった。父が、扉のところで振り返って、短くそれだけ言って、出ていく。父はそういうことをする。家でもする。言い終わってから「違うなら忘れてくれ」と付け足して、本当に、その話を二度としない。
「……当たってたの?」
「当たっておりました」
母は、はっきり言った。
「私は、走法で負けたのではありません。見栄で負けました。……それを、他人に言い当てられたのは、生まれて初めてでした」
「怒った?」
「怒りません」
母は、そこで、ほんの少しだけ笑った。
「……その夜、部屋の灯りを、朝まで消しませんでした」
「そこから、私はティアラ路線を選び直しました」
「ティアラ?」
「三つのレースです。桜花賞、オークス、秋華賞。……その三つを全部勝つことを、トリプルティアラと申します」
「お母さま、勝ったんでしょ」
「ええ」
「知ってる。おばあさまが言ってた」
「……お祖母さまは、よく言いますね」
母は苦笑した。
「一つ目は、阪神という競馬場の、千六百メートル。私が一番得意な距離でした」
母の声が、少しだけ速くなった。
「その日、パドックで、誰かが言っているのが聞こえました。『華麗なる一族の』と」
「それ、悪いこと?」
「悪くはありません。……ただ、私は十六年、名前の前に必ずその言葉を付けられて生きておりました」
母は、湯呑みを両手で包み直した。
「レースの前に、あの方は一言だけおっしゃいました」
「なんて?」
「『あなたの名前で呼ばれるのは、今日からだ』」
シガーの耳が、勝手に立った。
「……勝ったの?」
「勝ちました。……そして、実況の方が、私の名前を先に呼びました」
母は、そこで目を伏せた。
「『華麗なる一族の』が、その二秒後に来ました。……私は、その二秒を、今でも覚えております」
シガーは、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
「二つ目は、東京の、二千四百メートル。私にとっては、長すぎる距離でした」
「勝てないの?」
「勝てました。……ただ、勝ち方が問題でした」
母は、そこで少し言いよどんだ。言いよどむ、という動作を、この人がするのは珍しい。
「残り四百メートルまで、一切動かない設計でした。道中は、ずっと耐えるだけです。……私は、勝ちました。勝ったのですが」
「……けど?」
「一度も、速く走っておりませんでした」
シガーは、意味を掴めなかった。
「……勝ったのに?」
「勝ちました。設計は完璧でした。……ですが、走っていたのではありません。耐えていたのです」
母は、卓の上に指で三本の線を引く真似をした。
「その夜、私はそれを紙に書きました。あの方が渡してくださった課題の一つに、『走り終わったあと、自分の走りを三行で書く』というものがありましたので」
「なんて書いたの?」
「一、勝てた。二、設計は完璧だった。三、私は、一度も速く走っていない」
母は、そこで少し笑った。
「あの方は、それを読んで、何もおっしゃいませんでした」
「なんにも?」
「なんにも。……ただ、その紙を、ファイルに綴じました」
母の耳が、ほんの少しだけ動いた。
「五か月後に、もう一度出されるまで、私はそのことを忘れておりました」
「三つ目は?」
「京都の、二千メートルです。……三冠を獲りました」
「わあ」
「そのときだけ、あの方は、作戦を一つも用意なさいませんでした」
「なんで」
「『今のあなたなら、どれでも勝てます。好きに走ってください』と」
シガーは、それを聞いて、なぜか少しだけ胸の奥が熱くなった。自分の父が言った言葉なのに、自分に言われたわけでもないのに。
「表彰台で、私は、一族の言葉を唱えませんでした」
「いちぞくの、ことば?」
「ええ。出走の前に、私はいつも唱えておりました。……華麗であれ。至上であれ。常に最たる輝きを」
母は、それをそらで言った。言い慣れているというより、身体に入っている言い方だった。
「その日の表彰台では、唱えませんでした。……気づいたのは、お祖母さまと、雅也さんだけでした」
母は、そこで一度立ち上がって、障子を少しだけ開けた。冷たい空気が入ってきた。庭の向こうで、風が竹を鳴らしている。シガーの耳が、勝手にそちらを向いた。
「……そして、三日後です」
母は、障子を閉めて、戻ってきた。
「あの方が、五か月前の紙を、テーブルの上に出しました」
「あの、三行の?」
「ええ」
シガーは、息を呑んだ。
「そして、こうおっしゃいました。『次は、どうする』」
母は、椅子に腰を下ろした。
「それだけです。……短距離へ行くべきだとも、中距離に残る手もあるとも、おっしゃいませんでした。来年の日程表と、私が自分で書いた三行を置いて、それだけをお訊きになりました」
「お母さま、どうしたの?」
「長く黙りました」
母は、そう言って、実際に少し黙った。
「私は、三つの冠を持っておりました。あのまま中距離に残れば、一族の期待に、これ以上ないほど完璧に応えられました。……ですが」
「けど?」
「そこで走る私は、二千四百メートルのときの私と同じです」
母の声が、静かになった。
「私は、一瞬でいいのです。一瞬、誰にも追いつけない速度を出す。それが、私にできる唯一のことです。その一瞬を、最も美しく使える場所は――千二百と、千六百でした」
「みじかいほう?」
「短いほうです」
母は頷いた。
「参ります、と申しました。短距離と、マイルへ」
「……みんな、なんて言った?」
「『堕ちた』とおっしゃる方が、大勢いらっしゃいました」
シガーは、耳を伏せた。自分でも気づかないうちに。
「一族の後援の方々からも、公然と不満が出ました。短距離など、家の名に傷がつくと」
「ひどい」
「事実として、そう言われました」
母は、淡々と言った。
「私は、半年間、一度も反論いたしませんでした」
「なんで」
「反論する必要がないからです」
母は、湯呑みを置いた。
「そして、あの方は、私の決断を聞いて、四文字だけおっしゃいました」
「よんもじ?」
「『それでいい』」
シガーは、待った。続きがあると思った。
続きはなかった。
「……それだけ?」
「それだけです」
母は、そこで、はっきりと笑った。
「私は、その四文字を、生涯で最も大きな承認として受け取りました」
「……どうして? 『えらい』とか、『すごい』とかじゃないよ」
「ええ」
母は頷いた。
「『正しい』ともおっしゃいませんでした。……『それでいい』は、正誤の判定ではありません。『あなたが決めたなら、それが決定である』という意味です」
母の指が、卓の上でゆっくり止まった。
「私は、十六年、一度もそう言われたことがありませんでした」
「それから、勝ったの?」
「いいえ」
母は、首を横に振った。
「短距離に移って、三戦目でした。千二百メートル。私は、二着でした」
「また負けたの?」
「負けました。半馬身」
母は、それを言うとき、ほんの少しだけ間を置いた。八年経っても、まだ少しだけ引っかかるものがあるらしい。
「勝ったのは、私の同室の方でした」
「ともだち?」
「……ええ。友人です」
母は、そこで目を伏せた。
「私は、それを誰にも言えませんでした。同室の方に負けたことを。……その方は、気づいていらっしゃいました。気づいていて、一度もそれに触れませんでした」
「やさしい」
「ええ」
母は、静かに言った。
「その方は、そういう方でした」
シガーは、何かを察した。八歳なりに、これ以上訊いてはいけないことを察する程度のことは、できる。
「……そのあと、勝ったの?」
「勝ちました」
母の声が、少しだけ戻った。
「千六百メートル。東京の、大きなレースです。世代も路線も越えた方々が集まります。……そのとき、記者の方に訊かれました。短距離に逃げたという声について、どう思われますか、と」
「お母さま、なんて言ったの?」
母は、そこで背筋を伸ばした。
八歳の娘の前で、彼女は一瞬だけ、あのときと同じ顔をした。
「――逃げた、と仰る方にお伝えします。私は、二千四百を勝ってから参りました。それでも逃げだと仰るのでしたら、どうぞ、そう書いてくださって結構です」
シガーは、思わず声を上げた。
「かっこいい」
「……そうですか」
母は、少し照れたように湯呑みを持ち上げた。耳が、ほんの少しだけ後ろへ倒れていた。
「あの方は、その会見には同席しておりませんでした。……会見には出ない方ですので。翌日、新聞でお知りになりました」
「なんて言ってた?」
「何もおっしゃいませんでした」
母は笑った。
「ただ、その新聞を、切り抜いて持っていらっしゃいました。……私が見つけたのは、ずいぶん後です」
「それから、千二百メートルのレースを勝ちました。その日は、走り終わったあと、自分から言いました」
「なんて?」
「『……速かった』と」
母は、そこで少しだけ、自分でも可笑しそうな顔をした。
「誰にも訊かれていないのに、自分で言いました。……生涯で初めて、自分の走りを自分で評価した言葉です」
「お父さまは?」
「何もおっしゃいませんでした。……ただ、その日の記録用紙に、私の言葉をそのまま書き写していらっしゃいました」
母は、湯呑みを両手で包んだ。
「あの方が、担当の言葉を記録に残したのは、それが唯一だそうです」
「そのあと、もう一つ、大きなレースに出ました。……私の我儘です」
「わがまま?」
「ええ」
母は、そう言って、しばらく黙った。
「同室の方が、走れなくなりました」
シガーは、何も言えなかった。
「その方が、最後に目指していらしたレースがありました。私は、そこに出ると申しました」
「……お父さまは?」
「反対なさいました」
母の声は、静かだった。
「日程が詰まっていました。勝てる確率も落ちます。あの方は、数字でそれをお示しになりました」
「でも、出たんでしょ」
「出ました」
「どうして?」
「あの方が、理由をお訊きになったからです」
母は、そこで顔を上げた。
「あの方は、理由を訊かない方です。人が言いたくないことを、無理に訊かない。……それが、あの方の良いところで、悪いところでもあります」
「わるいところ?」
「ええ。……訊かないせいで、取り返しのつかないことになったことも、一度ございました」
母は、それ以上そのことを話さなかった。シガーも、訊かなかった。
「ですが、そのときは、訊いてくださいました。『理由を、聞かせてください』と」
母の指が、卓の上で一度だけ動いた。
「私は、こう申しました。……私は、責務のために走ってまいりました。責務とは、果たすべきものです。頼まれてもいないことをするのは、責務とは申しません。ですから、これは私の我儘です。生まれて初めての我儘です。お許しいただけますか、と」
シガーは、息を詰めて聞いていた。
「あの方は、三十秒ほど黙って、それから、こうおっしゃいました」
母は、そこで、少しだけ笑った。
「『許すも何も。決めるのは、あなたです』」
「……また」
「ええ。また、それです」
母は笑った。
「あの方は、八年経っても、同じことしかおっしゃいません」
「最後のレースは、私が二着に負けた場所でした」
母は、そう言って、湯呑みを置いた。
「千二百メートル。生涯でただ一度、届かなかったところです」
「勝ったの?」
「勝ちました」
母は、はっきり言った。
「引退を決めたのは、その少し前です。身体が、ほんの少しだけ、上りきったところを過ぎ始めておりました。……私だけが分かっておりました」
「お父さまは?」
「気づいていらっしゃったと思います。……何もおっしゃいませんでしたが」
母は、そこで一度だけ、天井のほうを見た。
「ゲートの前で、あの方は二つだけ言葉を発しました」
シガーは、待った。
「――ルビー。行ってこい」
母の耳が、そのとき、はっきりと動いた。
「……名前?」
「ええ」
母は頷いた。
「あの方が、私を短く呼んだのは、生涯で二度だけです。一度は、私が倒れた日。もう一度が、その日です」
「たおれたの?」
「……ええ」
母は、そこで一度、言葉を選んだ。
「無理をいたしました。あの方が気づいていて、一度だけ訊いて、私が問題ないと申し上げて、それで終わりにしてしまった時期がございます」
シガーの耳が、伏せた。
「……お父さま、怒られた?」
「怒りました」
母は、あっさり言った。
「私が、です」
「お母さまが?」
「ええ。……声を荒げました。生涯で一度だけです」
シガーは、想像できなかった。母が声を荒げるところが、どうしても浮かばなかった。
「あの方は、言い訳をなさいませんでした。……『もう一度、聞く』と、それだけおっしゃいました」
母は、そこで少しだけ目を伏せた。
「そして、その日から、引退するまで、毎日一度、必ずお訊きになりました。『どこか、無理をしていませんか』と」
「まいにち?」
「毎日です」
母は、静かに言った。
「……今も、訊かれます」
シガーは、顔を上げた。
「今も?」
「ええ」
母は、お腹に手を添えた。
「引退してからも、結婚してからも、やめておられません」
「最後のレースは、どんなだったの?」
「私の全部の要約です」
母は、そう言った。
「スタートで無理をせず、流れを見て、残り三百メートルから一度だけ加速を使いました。……使ったのは、一度だけです」
「一度だけ?」
「ええ。私は、ずっとそれしかしてまいりませんでした」
母は、そこで少し笑った。
「ゴールしたあと、私は止まりませんでした。ウイニングランの途中で、一度だけ観客席のほうを見ました」
「だれを見たの?」
母は、答えなかった。
答えずに、少し笑った。
「表彰台で、私は、一族の言葉を言い直しました」
母は、そこで背筋を伸ばした。八歳の娘の前で、もう一度だけ、あの日の姿勢に戻った。
「――華麗であれ。至上であれ。常に最たる輝きを」
母は、一度息を吸った。
「本日をもちまして、一つだけ、書き加えさせていただきます」
シガーは、動けなかった。
「――その道は、己で選べ」
母は、そこで息を吐いた。
「これが、私の玉条です」
火鉢の炭が、小さく崩れた。
「……表彰台の一歩下に、あの方が立っておられました。手招きしても、動いてくださいませんでした」
母は、そう言って、湯呑みを取った。中身はもう、完全に冷えていた。
「……その夜に、届いたそうです」
「なにが?」
「気持ちが、です」
母は、そう言って、少しだけ笑った。
「あの方は、感情が届くのが遅い方ですので」
「……そして」
母は、少し声を落とした。
「弱いところを見せても、失望なさいませんでした」
シガーは、その一言に、何かが変わったのを感じた。声の重さが変わった。
「私は、弱いところを見せてはいけないと思って生きてまいりました。見せないことが品位だと思っておりました」
「……うん」
「ですが、あの方の前で、私は倒れました。泣きはしませんでしたが、声を荒げました。隠していたことを、全部見られました」
母は、卓の上で指を組んだ。
「……それでも、あの方の態度は、一ミリも変わりませんでした」
シガーは、母の横顔を見ていた。
「翌日も、同じように課題を三つお持ちになりました。同じように、走りの話をなさいました。同じように、甘いものを食べておられました」
「あまいもの?」
「ええ。あの方は、糖分の補給だとおっしゃいますが、誰も信じておりません」
シガーは吹き出した。
「……そういうところです」
母も、少し笑った。
「私が完璧でなくなっても、あの方の世界は何も変わりませんでした。……それを見て、私は思ったのです」
母は、そこで一度、目を閉じた。
「――この方の前では、完璧である必要がない」
シガーは、黙って聞いていた。
「それが、私の答えです」
母は、目を開けた。
「お母さま、今も?」
「今もです」
ルビーは即答した。
「むしろ、今のほうが強く思います」
「どうして?」
「長い時間を一緒に過ごしましたから」
母はお腹へそっと手を添えた。
「勝った日も、負けた日も。引退の日も。あなたたちが生まれた日も。私は、雅也さんと一緒に歩いてきました」
「お父さまは、お母さまのことを好き?」
「……本人に聞いてください」
そう言った母の耳が、わずかに赤くなった。
シガーは笑った。
「お母さま、恥ずかしいの?」
「質問が多いですよ、シガー」
「だって知りたいんだもん」
「……そうですか」
ルビーは困ったように笑った。
尻尾の先が、和装の後ろで、ほんの一度だけ動いた。
それから少しして、雅也が部屋へ入ってきた。手にはファイルを持っている。この時間に彼がここへ来るのは、母の様子を見に来るときだけだ。
「何の話?」
「お父さまがお母さまのどこを好きなのかです」
「……」
雅也が止まった。
書類を持っていた手が、ほんの少し固まる。
ルビーは目を逸らした。
「シガー」
「はい」
「あなたは本当に、質問が多いですね」
「でも、お父さまも答えて」
雅也は困った顔をした。それから母を見た。
長い付き合いの二人にしか分からない沈黙があった。母は目を逸らしたまま、何も言わなかった。言わないことが、答えなさいという意味だと、シガーには分かった。たぶん父にも分かった。
雅也は、椅子に座った。座るのに、少し時間がかかった。
「……ルビーが、自分で決める人だったから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
父は、ファイルを膝の上に置いた。開かなかった。
「……最初に会ったとき、俺は担当を持ってなかった」
「ひとりも?」
「ひとりも。……だから、誰かを担当するのが、どういうことなのか、よく分かってなかった」
シガーは、父がこんなに自分の話をするのを、初めて聞いた気がした。
「ルビーは、俺が並べたものを、全部自分のものにした」
父は、そう言った。
「俺が用意したのは、選べる状態だけだ。どれを選ぶかは、全部あの人が決めた。……勝ったのも、負けたのも、路線を変えたのも、引退したのも」
「それが、好きなの?」
「……ああ」
父は、少し黙った。
「俺が何かを決めてやる必要がなかった。俺が隣にいても、ルビーはルビーの人生を歩いてた。それが好きだった」
ルビーの耳が静かに揺れた。
「それから」
雅也は少し考えた。
「俺が勝ったみたいに言われるのを、ものすごく嫌がるところ」
「そこなの?」
「そこも」
シガーは笑った。
「お父さまらしい」
「そうか?」
「そうです」
ルビーが答える。
三人で笑った。
笑ったあとで、シガーは、もう一つだけ訊いた。
「お父さま」
「ん」
「常勝無敗って、なんで嫌なの?」
父の顔から、笑いが少しだけ引いた。怒ったのではない。真面目になったのだ。
「……嘘だからだ」
母と同じ答えだった。シガーは、少し驚いた。
「俺は、一度も走ってない」
父は、そう言った。
「走ったのは、全部、本人だ。……勝ったのを俺の名前にされると、あの人たちが走ったことが消える」
「消えるの?」
「消える。……新聞に、『早瀬の担当が』って書かれるだろ。あれ、主語が俺なんだ」
父は、少しだけ困った顔をした。
「……名前があるのに」
シガーは、その一言で、なんとなく全部が分かった気がした。分かったというより、腑に落ちた。桜花賞の実況が母の名前を先に呼んだ二秒の話と、それは同じことだった。
「……お父さま」
「ん」
「お母さまの名前、ちゃんと呼んでる?」
雅也は、一瞬、虚を突かれた顔をした。
それから、母を見た。
母も、父を見た。
「……呼んでる」
「そう」
シガーは、満足して頷いた。
母が、小さく息を吐いた。呆れたような、笑ったような音だった。
夜が深くなったころ、子供たちは眠りについた。
アイアンビューティは夕食のあとすぐに眠ってしまい、母が抱えて部屋まで運んだ。三歳とはいえ、ウマ娘の三歳は重い。骨の密度が違うのだと父は言う。母は、それでも人を呼ばなかった。ゆっくり歩いて、階段を一段ずつ上がって、部屋まで運んで、それから戻ってきたときに、少しだけ息が上がっていた。父が何も言わずに椅子を引いた。母は、何も言わずにそこへ座った。
サンデーは、父のストップウォッチを結局一度も触らせてもらえないまま、少しだけ頬を膨らませて寝室へ向かった。父が「明日、触らせる」と言うと、彼女はすぐに振り返り、「本当ですか」と念を押す。父が頷くと、耳がぱっと立った。「約束ですよ」と小指を差し出し、父の小指に自分の小指を絡めてから、ようやく満足して寝室へ入っていった。ビビットは廊下で一度転んで、転んだ拍子にウマ娘らしい反射でころんと受け身を取り、すぐに立ち上がった。そして何事もなかったように「今の見た?」と姉に自慢し、シガーに「転んだんでしょ」と言われて、耳を伏せたあと、尻尾をぶんぶん振って抗議した。
そして、シガーは布団に入った。
入ったが、すぐには眠らなかった。
自分の部屋の襖は薄い。屋敷の西の居間からは少し離れているが、耳を澄ませば、声の形だけは届く。内容までは分からない。ただ、父の声と母の声の交互の間隔で、どんな話をしているのかは、なんとなく分かる。
今夜は、間隔が長かった。
夫婦だけになった部屋で、雅也とルビーは窓の外を見ていた。
障子は開けてある。庭の灯りが一つだけ点いていて、その光の届く範囲だけ、地面が白く見えた。冬の夜の空気は、開けた障子の隙間から、はっきりとした線を引いて入ってくる。
「五人目か」
雅也が言った。
「ええ」
「ここまで来たな」
「……長い道のりでした」
ルビーは静かに答える。
「あなたと出会った頃の私は、自分がこういう人生を歩むとは思っていませんでした」
「俺も」
「あなたは、私の担当トレーナーでした」
「そうだったな」
「そこから、競技生活が終わって。契約が終わって。あなたは一度、私にちゃんと聞きましたね」
「何を?」
「これから、どうしたいのか」
雅也は思い出したように笑った。
「聞いたな」
「……あれは、ずるい訊き方でした」
ルビーが言う。
「ずるいか?」
「ずるうございます。……あなたは、いつもそうです。ご自分の希望は一言も仰らずに、私に訊く」
「……そうかもな」
「そうです」
母は、そこで少し笑った。
「ですが、私は、それに助けられました」
しばらく、二人とも黙った。
庭の灯りの中を、何かが横切った。サフィーだ。この家の犬で、母が学園にいた頃からいる。もう年寄りで、夜になると庭を一周してから小屋へ戻る癖がある。父がその姿を目で追った。母も追った。
「……あいつも、長いな」
「ええ」
「最初に会ったとき、まだ小さかった」
「覚えていらっしゃいますか」
「覚えてる。……噛まれた」
「噛まれておりません。甘噛みです」
「血が出た」
「……出ておりません」
母が、はっきりと言い切った。父が笑った。
「私は、あなたといたいと言いました」
しばらくして、ルビーがそう言った。
「うん」
「そして今、四人の娘がいて、五人目がいる」
ルビーはお腹を撫でる。
「不思議ですね」
「……そうだな」
雅也は、そこで少しだけ考えるような顔をした。
「……あのとき、断られると思ってたんだ」
「え?」
母が、はじめて素の声を出した。
「俺は、あなたの担当だった。それが終わったばかりだった。……その男が何を言っても、全部、立場の話に聞こえると思った」
「……」
「だから、俺の希望は言わなかった」
父は、そう言った。
「言ったら、あなたが断りにくくなる」
ルビーは、長く黙った。
「……雅也さん」
「ん」
「それを、八年間、一度も仰いませんでしたね」
「言う理由がなかった」
「……ございました」
母の声が、少しだけ揺れた。
「たくさん、ございました」
しばらく二人は黙った。屋敷の外では風が木々を揺らしている。竹が擦れる音が、遠くで続いている。
「……今でも、そうなんですか」
母が訊いた。
「何が」
「ご自分の希望を、仰らないのは」
雅也は、少し考えた。
「……今は、そうでもない」
「例えば?」
「……今日は早く帰りたい、とか」
「毎日仰っております」
「じゃあ、それだ」
「……それは希望ではなく、願望です」
母は呆れた顔をして、それから笑った。
「雅也さん」
「ん?」
「私は、もう二人ほど欲しいと思っています」
雅也が目を丸くした。
こういう顔をするのは珍しい。仕事場では絶対にしない顔だ。驚いたときに、この人は目のまわりの力が全部抜ける。
「あと二人?」
「ええ」
「合計七人になるけど」
「はい」
「……多いな」
「嫌ですか?」
雅也は答えなかった。
しばらく考えてから、苦笑した。
「嫌じゃない」
ルビーの耳が、ゆっくり動く。
「では、決まりですね」
「いや、俺の意見は?」
「今、嫌ではないと仰いました」
「そうだけど」
「なら問題ありません」
「……外堀を埋めるのが上手くなったな」
「あなたと長く暮らしておりますから」
雅也は笑った。
その笑い声は、トレーナーとして学園にいるときにはほとんど聞こえない。記者の前でも、コースの脇でも、彼はこういう声を出さない。
けれど、この屋敷では当たり前のように響いている。
「……ルビー」
「はい」
「一つだけ、いいか」
「どうぞ」
雅也は、そこで少しだけ言い淀んだ。言い淀む、という動作を、この人もまた、家の中でしかしない。
「……無理はしてないか」
母の動きが、止まった。
八年間、毎日訊かれている言葉だった。毎日訊かれていて、毎日「いいえ」と答えている言葉だった。
それでも、今夜のそれは、いつもと少し違う場所に落ちた。
「……いいえ」
母は、そう答えた。
「本当に?」
「本当に、いいえです」
母は、そう言って、少しだけ笑った。
「……ですが、訊いてくださって、ありがとうございます」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、椅子を少しだけ動かして、母の隣まで寄せた。それだけだった。
母は、そちらへ肩を預けなかった。預けはしなかったが、身体の向きを、ほんの少しだけ彼のほうへ変えた。
尻尾の先が、和装の後ろで、一度だけ動いた。
その夜、子供たちが眠ったあと、二人は寝室へ向かう廊下で足を止めた。
「雅也さん」
「ん?」
ルビーは静かに彼を見上げた。耳がわずかに伏せられ、尻尾の先が小さく揺れている。雅也が一歩近づくと、ルビーは自分から顔を寄せた。唇が重なり、短いキスのあと、もう一度、今度はゆっくりと深く口づける。唇が離れかけたところで舌先が触れ、互いの呼吸が近くで混ざった。雅也は急がず、ルビーも目を閉じたまま、その時間を受け入れた。
やがて離れると、ルビーは少しだけ視線を伏せた。
「……今日は、もう休みませんか」
雅也は小さく頷いた。
「寝室へ行こう」
「……はい」
雅也が手を差し出し、ルビーがその手を取る。二人は並んで歩き、寝室の前で足を止めた。雅也が扉を開ける。ルビーが先に入り、雅也が続く。最後に扉が静かに閉じた。
シガーは眠る直前、その声を聞いた。
言葉までは分からなかった。父の声と母の声が、交互に、長い間隔で聞こえてくる。ときどき笑い声が混ざる。父の笑い声は低い。母のそれは、ほとんど息だけだ。
父と母の声。
その間に、まだ生まれていない妹の未来がある。
名前は、もう決まっていると聞いた。ダイイチサイレンス、というのだそうだ。誰が決めたのか訊いたら、母は「二人で」と答えた。父は「ルビーだ」と答えた。二人の答えが違ったので、たぶん本当に二人で決めたのだろうと、シガーは思った。
自分たちは四人の娘。
もうすぐ五人目の妹。
そして、母はあと二人欲しいと言った。
シガーは布団の中で少し笑った。七人。多い。多いけれど、この屋敷は広い。廊下も長い。走る場所は、たぶん足りる。
明日になれば、また父は朝早く仕事へ行く。コースの土を踏み、その日の硬さを確かめる。学園では、常勝無敗と呼ばれるトレーナーとして、担当の走りを見ている。記者には「本人が走った結果です」と答え、頭を下げて歩いていくのだろう。
けれど帰ってくれば、廊下を走った娘に困った顔をして、妹のストップウォッチを取り上げ、三歳の娘を抱き上げ、母に「今日は休め」と言われる。言われて、「善処する」と答えて、「信用できません」と返される。
その違いが、シガーには好きだった。
どちらも、本当の父だ。
どちらも同じ人なのだ。ただ、家では少しだけ、優しい。いや――優しいという言い方も、たぶん正確ではない。父は仕事場でも優しい。担当の顔を、走っている間は見ない。それは優しさだ。ただ、家では、その優しさを隠さなくていいのだろう。それだけのことなのだと、八歳のシガーは、言葉にできないまま、なんとなく理解した。
そして母もまた、外では誰より凛としているのに、父を見るときだけ、少しだけ優しい目をする。
母は、十六年間ずっと褒められて育って、誰にも自分の速さを言い当てられないまま生きてきた。そして、たった一枚の紙に書かれた〇・二秒を、生涯の答えにした。
家族だけが知っていればいい。
廊下の灯りが消えた。
シガーの耳が、その音を拾った。
竹が鳴っている。
目を閉じた。