第一章 面白い、の中身
ジャパンカップのゴール板を駆け抜けた瞬間、ミスターシービーは、自分の身体の中で何かが静かに止まるのを感じた。
止まったのは、脚ではなかった。脚はまだ芝を蹴っていたし、肺は冬の乾いた空気を貪るように吸い込んでいたし、心臓は胸の内側で、いつもの勝った日と同じ速さで跳ねていた。東京レース場のスタンドから押し寄せる歓声は、耳の奥の骨まで震わせるほど大きかった。何もかもが、いつもと同じだった。十八回目の勝利。十八回目の、最後の直線を大外から一気に駆け上がって、前にいた全員を置き去りにする、あの瞬間。
それなのに、何かが止まっていた。
シービーは、惰性で走り続けながら、その正体を探した。探して、しばらく見つからなかった。見つからないまま一コーナーの手前で脚を緩め、振り返り、掲示板の一番上に自分の番号が灯っているのを確かめた。勝った、と思った。思っただけだった。
いつもなら、この瞬間に、もう次のことを考えている。
次は何を走ろう。次はどこで仕掛けよう。次は、今日とは違う勝ち方をしてみたい。そういう考えが、ゴールした直後の熱い身体の中で、泡のようにいくつも浮かんでは弾けていく。それがシービーにとっての「面白い」だった。走り終えた瞬間に、もう次が気になって仕方がない。だから走る。ずっとそうだった。
今日は、それが浮かんでこなかった。
泡が、一つも立たなかった。
代わりに、胸の中が、驚くほど静かだった。冬の朝の湖のように。風のない日の、凪いだ海のように。歓声は相変わらず耳を打っていたけれど、その音は胸の奥までは届いてこなくて、表面で柔らかく跳ね返されていた。
シービーは、呼吸を整えながら、スタンドを見上げた。
何万という顔がこちらを見ていた。名前を呼ぶ声、拍手、揺れる応援旗。その一つひとつが、十八回分の勝利と同じように、自分に向けられていた。
悪くない、と思った。
いや、悪くないどころか、いい景色だった。晩秋の午後の低い光が、スタンドの屋根の縁を金色に縁取っていて、その下で人々の吐く息が白く立ちのぼっていた。遠くで、子どもが父親の肩の上に乗って、両手を振っていた。
始まる前も、たった一度の景色。
自分がいつも言っていることだった。出走前の、ゲートに入るまでのあの時間を、シービーは何よりも愛していた。二度と同じ形では来ない時間。同じレース名でも、同じ競馬場でも、同じ相手でも、その日の風とその日の光とその日の自分は、一度しかない。
だとしたら、終わったあとも、たった一度なのだ。
シービーは、そのことに、初めて気づいた気がした。
*
「走るの、まだ楽しい?」
その夜、トレーナー室で、雅也がそう訊いた。
机の上には、今日のレース映像を映したノートパソコンと、飲みかけの缶コーヒーと、半分ほど減ったどら焼きの包みが並んでいた。どら焼きは、帰りの車の中で雅也が買ったものだった。糖分の補給です、と真顔で言っていた。シービーは一度も信じたことがない。
シービーは、窓際のソファに寝転がって、天井を見ていた。
「うん」
答えは、すぐに出た。嘘ではなかった。走るのは楽しい。今日だって、最後の直線で外に持ち出して、脚を伸ばした瞬間は、身体中の血が歌っていた。
「じゃあ、まだ走る」
雅也は、それだけ言って、画面に目を戻した。
シービーは、天井の染みを数えるのをやめて、横目で雅也を見た。
いつもと同じ横顔だった。黒い短髪。地味な色のシャツ。映像を止めては、手元のノートに何かを書き込んでいる。ペンを持つ指が、ときどき机の上で、何かのリズムを刻むように小さく跳ねる。本人は気づいていない。ピアノの運指だ、と前に一度言ったら、弾けるとは言ってない、と返された。
「楽しくなくなったら?」
シービーが訊いた。
雅也のペンが、止まった。
数秒、止まっていた。それから、雅也はペンを置き、椅子を回してシービーのほうを向いた。
「そのときは辞める」
シービーが言う前に、雅也が言った。
いや、違う。雅也は、シービーが言うはずだった言葉を、先に言ったのではなかった。シービーの顔を見て、シービーがそう答えるだろうと分かったうえで、その答えを確かめるように口にしたのだ。
シービーは、ソファの上で身体を起こした。
「……なんで分かるの」
「分かるっていうか」
雅也は、少しだけ困ったように頭を掻いた。
「前にそう言ってたろ。春ごろ」
「言ったっけ」
「言った。桜の頃、阪神の帰りに」
シービーは、覚えていなかった。けれど、たぶん言ったのだろう。自分なら言いそうなことだった。
雅也は、それ以上何も訊かなかった。どうして今そんなことを訊くのか、とも。何か変わったのか、とも。ただ、机の上のどら焼きの残りを半分に割って、片方をシービーのほうへ差し出した。
「食うか」
「糖分の補給?」
「そうです」
真顔だった。シービーは吹き出して、どら焼きを受け取った。
夏に、一度だけ、二人は大きくぶつかった。
札幌記念の前後だった。眠りが浅くなっていたことを、シービーは言わなかった。言うほどのことではないと、自分で判断していた。雅也は気づいていて、一度だけ訊いて、それ以上は訊かなかった。本人が話したくないなら、踏み込むのは失礼だと思ったのだと、あとで言っていた。
気づいてて黙ってるの、嘘と同じじゃん。
あのとき自分が言った言葉を、シービーは今でも覚えている。雅也は言い訳をしなかった。悪かった、俺も、もう少し聞けばよかった、とだけ言った。そしてその次の日から、毎日一度、どこか無理してないか、と訊くようになった。説明もなく。三週間ほど経ってから、シービーはそれに気づいた。気づいて、何も言わなかった。
秋になって、今度はシービーのほうから、言った。アタシも、言わなかったね、と。言えばよかったとは今でも思っていない、でも言わないと決めたなら、それは自分で決めたことだから、キミのせいにするのは違った、と。
あれから、二人の間の空気は、少しだけ変わった。
雅也は、訊くようになった。一度では終わらせなくなった。けれど、しつこくはなかった。二度目の問いは、いつも少しだけ角度を変えてやってくる。一度目で「大丈夫」と答えたら、二度目は「じゃあ、今日の夕飯何食った」になる。夕飯の答え方で、だいたい分かるのだと雅也は言う。シービーは、それを聞いて笑った。
だから今夜、雅也がそれ以上訊かなかったのは、訊かなくても分かったからではない、とシービーは思った。
待っているのだ。
シービーが、自分から言うのを。
シービーは、どら焼きを一口かじった。甘かった。餡子の粒が、舌の上でほろほろと崩れた。
それから、窓の外を見た。
学園の敷地の向こうに、夜の街の灯りが、細く連なって見えた。晩秋の空気は澄んでいて、灯りの一つひとつが、輪郭を持ってくっきりと瞬いていた。冬が近い。もうすぐ、年の終わりが来る。
有馬記念。
シニア級の、最後のG1。三年前、契約した日に雅也と一緒に眺めたカレンダーの、一番最後に書いてあったレース。
「……ねえ、トレーナー」
「ん」
「今日、ゴールした瞬間にさ」
シービーは、窓の外を見たまま、言った。
「次のこと、考えなかったんだよね」
雅也は、何も言わなかった。ペンも持たず、画面も見ず、ただ椅子の上で、シービーのほうを向いていた。
「いつもなら考えるじゃん。次、どこ走ろうとか。次はどう仕掛けようとか。今日のああいうの、次はこうしたら面白いかなとか」
「……うん」
「それが、なかった」
シービーは、どら焼きの包み紙を指で折りたたんだ。小さく、小さく。
「嫌だったとか、疲れたとか、そういうんじゃないんだよ。楽しかった。すごく。最後の直線とか、身体中が歌ってるみたいだった」
「見てた。三コーナーの手前で一回、息入れ直したろ。あれで最後まで保った」
「うん。……でも、なんていうか」
言葉を探した。探すのは得意ではなかった。長く説明するのは、自分の性に合わない。短く、核心だけを言いたい。
「ゴールしたあとの景色が、いい景色だったんだよね」
雅也が、少しだけ首を傾げた。
「いつもは、ゴールしたあとって、次のための景色だったんだ。通り過ぎる景色。でも今日は、あそこで止まって、ちゃんと見たいって思った。……そう思ったの、初めてだったかも」
しばらく、部屋が静かになった。
廊下のどこかで、誰かが笑う声が遠く聞こえて、すぐに消えた。暖房の低い唸りだけが、部屋の隅で続いていた。
雅也は、長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……それは」
言いかけて、止まった。
シービーは、雅也の顔を見た。
何かを言おうとしている顔だった。言葉を選んでいる顔。いや、選んでいるのではない。選ばないようにしている顔だった。自分の言葉で、シービーの考えに名前をつけてしまわないように。それが何なのかを、先に決めてしまわないように。
それが分かって、シービーは、少しだけ笑った。
「いいよ、言って」
「……いや」
雅也は首を振った。
「俺が言ったら、それが答えになりそうだから。……君が言うまで、待つ」
シービーは、包み紙を折る手を止めた。
待つ。
三年前なら、この人はきっと、もっと上手に黙っていただろう。何も言わずに、ただ待っていただろう。それはそれで、この人らしかった。けれど今は、待つ、と言う。待っているということを、ちゃんと言葉にする。黙って待たれるのと、待つと言われて待たれるのとでは、まるで違う。夏に、二人でそれを知った。
「……じゃあ、もうちょっと考える」
シービーはそう言って、ソファにまた寝転がった。
「ちゃんと自分で決めたら、言う」
「うん」
雅也は椅子を回して、画面に向き直った。映像が再び動き出す。十八戦目の、最後の直線。大外を駆け上がっていく、自分の影。歓声の音量は絞ってあって、ノートパソコンの小さなスピーカーから、かすかに聞こえるだけだった。
シービーは、天井を見上げたまま、その音を聞いていた。
自分が走っている音。自分を呼ぶ声。
たった一度の、景色の音。
*
それから一週間、シービーは、いつものように過ごした。
朝は少し遅く起きて、一人暮らしの部屋の窓から、寝ぼけたまま朝日を撮った。スマートフォンの壁紙は、もう何枚目の朝日なのか分からない。どれも少しずつぶれていて、少しずつ色が違って、同じ朝は一枚もなかった。
昼は、練習をした。雅也のメニューは相変わらず少なかった。できると思う、でもやらない。三年前に初めて聞いたその理屈を、シービーは今では自分の身体で理解していた。明日も、同じように走れるようにするため。
放課後は、学園の中をぶらぶらと歩いた。後輩たちが、廊下ですれ違うたびに頭を下げていった。何人かは、シービーの髪型を真似していた。真似しなくていいのに、と思う。けれど、口には出さない。真似をしたいと思うのも、その子が自分で決めたことだから。
夜、一度だけ、ダイイチルビーとお茶を飲んだ。
昔から仲の良い、少し年下の友人だった。華麗なる一族の令嬢である彼女は、いつも完璧な所作で紅茶を淹れる。シービーはその手元を眺めるのが好きだった。一つひとつの動作に、迷いがない。迷いがないのに、窮屈そうでもない。自分とはまるで違う種類の自由が、そこにはある気がした。
シービーは、ジャパンカップのあとのことを、ルビーに話した。
雅也にはまだ言っていない言葉まで、話した。
ゴールしたあとの景色を、止まって見たいと思ったこと。次のことを考えなかったこと。それが寂しいのではなく、どこか満ち足りていたこと。
ルビーは、紅茶のカップを両手で包んだまま、しばらく黙って聞いていた。そして、多くを語らなかった。ただ一言、それは、終わりの気配ではなく、区切りの気配なのではございませんか、と言った。
シービーは、その言葉を、何度か口の中で転がした。
区切り。
終わりではなく。
ルビーの部屋を出て、冬の夜道を一人で歩きながら、シービーは空を見上げた。星が、いくつか見えた。吐く息が白かった。
自分の部屋に戻ると、机の上に、書きかけの短歌の紙があった。ジャパンカップの前の晩に、何かを詠もうとして、途中でやめたものだった。上の句だけが書いてあって、下の句がなかった。
シービーは、ペンを取った。
しばらく考えて、それから、下の句を書き足した。
読み返して、少しだけ笑った。
それから、スマートフォンを手に取って、雅也に短いメッセージを送った。
明日、ちょっと話がある。
返事は、すぐに来た。
了解。何時がいい。
シービーは、少し考えて、朝、と打った。朝日が見える時間に、と付け加えようとして、やめた。朝、とだけ送った。
それから、書き上げた短歌の紙を、もう一度だけ眺めた。
通り過ぎる はずの景色に 立ち止まる
ゴールの先の 風の静けさ
上手い歌かどうかは、分からなかった。技巧らしい技巧もない。字余りもしているかもしれない。
けれど、今の自分の、正直な歌だった。
第二章 朝日と、最後の準備
約束の朝、空はよく晴れていた。
学園のコースの外れ、東の端にある小さな土手の上で、シービーは雅也を待っていた。まだ日は昇りきっていなくて、地平線のあたりが薄い橙色に滲んでいるだけだった。空の上のほうは、まだ夜の名残の群青を残していた。息を吐くと、白く濁って、ゆっくりと冷たい空気に溶けていった。
土手の草は、霜で白くなっていた。踏むと、かさりと小さな音がした。靴の底から、冷たさがじわりと上がってくる。
足音が聞こえた。
シービーの耳が、そちらへ向いた。振り返らなくても分かった。少し重くて、急いでいなくて、けれど遅れてもいない足音。
「寒いな」
雅也が、土手を登ってきた。黒いブルゾンの襟を立てて、両手をポケットに突っ込んでいた。手には、湯気の立つ紙コップが二つ。
「ほら」
片方を差し出される。受け取ると、指先がじんと痺れるほど熱かった。中身はココアだった。甘い匂いが、冷たい朝の空気の中で、やけに濃く立ちのぼった。
「甘いの、トレーナーの趣味でしょ」
「糖分の補給です」
「朝から?」
「朝だからだ」
真顔だった。シービーは笑って、ココアを一口飲んだ。熱くて、甘くて、喉の奥から身体の芯まで、ゆっくりと温まっていった。
二人は並んで、土手に腰を下ろした。霜の降りた草が、ズボン越しに冷たかった。雅也は一瞬顔をしかめたが、何も言わずにそのまま座っていた。
地平線が、少しずつ明るくなっていく。
橙色が、金色に変わっていく。群青が、薄い水色に溶けていく。学園の校舎の屋根が、一枚ずつ、光を受けて輪郭を取り戻していく。コースの芝の上に降りた霜が、ちらちらと細かく光り始める。
シービーは、スマートフォンを取り出して、一枚だけ撮った。
寝ぼけていない朝日を撮るのは、久しぶりだった。
「……決めた」
シービーが、言った。
雅也は、何も言わなかった。紙コップを両手で持ったまま、朝日のほうを見ていた。
「有馬で、辞める」
言ってしまうと、驚くほど簡単な言葉だった。三文字と、三文字。それだけで、三年間の全部が、一つの形になって、冷たい朝の空気の中に置かれた。
雅也は、しばらく動かなかった。
シービーは、横目で雅也を見た。
雅也の横顔が、朝日に照らされていた。表情は、あまり変わっていなかった。ただ、紙コップを持つ手の指が、少しだけ強く握られていた。それから、ゆっくりと、一度だけ、瞬きをした。
「……そうか」
短い言葉だった。
それから、少し間を置いて、雅也はシービーのほうを向いた。
「理由、訊いていいか」
「うん」
シービーは、ココアをもう一口飲んだ。
「走れないからじゃないよ。まだ走れる。たぶん、来年も勝てると思う」
「俺もそう思う」
「でしょ。……でもさ」
朝日が、完全に地平線から離れた。光が一気に強くなって、土手の霜が、一斉に白く輝いた。
「自分の中で、ここまでだって思ったんだよね。ジャパンカップのあとから、ずっと考えてて。この前ルビーにも話して。それで、昨日の夜、短歌書いてたら、なんか分かった」
「短歌で」
「短歌で」
雅也が、少しだけ笑った。
「見せてもらえるか」
「やだ」
「そうか」
「……引退したら見せてあげる」
「楽しみにしとく」
それから、また少しの沈黙があった。
シービーは、雅也が何を言うのかを待っていた。止めるだろうか。止めないだろう、とは分かっていた。三年前、契約の条件の二つ目に、雅也は「必要なときは反対意見を出す」と言った。今、この人は反対するだろうか。
雅也は、紙コップの中を覗き込んでいた。ココアの表面に、朝日が小さく映り込んでいた。
「……一つだけ、確認させてくれ」
「うん」
「身体のどこかが悪いとか、そういうのじゃないんだな」
「違うよ」
「嘘じゃないな」
シービーは、雅也の顔を見た。
雅也は、まっすぐにシービーを見ていた。
これは、夏の続きだ、とシービーは思った。一度訊いて、それで終わりにしない。二度目を、ちゃんと訊く。角度を変えずに、まっすぐに。
「嘘じゃない」
シービーは、はっきりと答えた。
「アタシ、嘘つくの苦手なの、知ってるでしょ」
雅也は、数秒、シービーの目を見ていた。
それから、肩の力を抜くように、長く息を吐いた。白い息が、朝日の中で、ゆっくりと広がって消えた。
「……分かった」
雅也は、紙コップを土手の草の上に置いた。
「じゃあ、有馬まで、最高の状態を作る」
それだけだった。
止めなかった。勧めもしなかった。惜しいとも、寂しいとも、言わなかった。ただ、これから先の一か月に、自分が何をするかだけを言った。
シービーは、雅也の横顔を見つめた。
朝日に照らされたその顔は、静かだった。けれど、よく見ると、目の端が、ほんの少しだけ光っていた。朝日のせいかもしれなかった。冷たい風のせいかもしれなかった。
シービーは、それを指摘しなかった。
代わりに、自分の紙コップを、雅也の紙コップの隣に置いた。二つの紙コップが、霜の降りた草の上で、並んで湯気を立てていた。
*
引退の発表は、その週のうちに行われた。
大げさなものではなかった。学園の広報を通じて、短い文書が出されただけだった。ミスターシービーは、シニア級有馬記念をもって、トゥインクル・シリーズを引退する。理由は、本人の意思による。
それだけの文書が、一晩で、国中を駆け巡った。
翌朝、学園の正門の前には、報道陣の車が何台も並んでいた。テレビのニュースは、朝から晩まで、十八戦十八勝という数字を繰り返していた。新聞の見出しには、惜別、衝撃、なぜ今、という言葉が並んだ。ファンの声を集めた記事には、まだ見たかった、もっと走ってほしかった、という言葉が溢れていた。
シービーは、それらを、ほとんど見なかった。
見ないようにしていたのではない。見る必要がないと思ったのだ。惜しんでくれる人がいることは、嬉しかった。けれど、惜しまれるために決めたわけではない。自分で決めたことだった。その決定を、他人の言葉で揺らしたくなかった。
それでも、学園の中を歩くと、いろいろな声が耳に入ってきた。
廊下ですれ違う後輩たちが、目を潤ませて頭を下げていった。何人かは、何か言いたそうにして、結局何も言えずに走り去っていった。シービーの髪型を真似していた子が、廊下の角で、友達に肩を抱かれて泣いていた。
シービーは、その子に、声をかけなかった。
かける言葉が、見つからなかった。
泣かなくていいよ、と言えば、その子が泣きたいと思った気持ちを否定することになる。ありがとう、と言えば、その子の涙を自分のものにしてしまう気がした。何を言っても、何かを決めつけてしまいそうだった。
だから、ただ、その子の前を通り過ぎるときに、ほんの少しだけ歩く速さを緩めた。それだけだった。
夕方、コースの外れで、シービーは一人のウマ娘に呼び止められた。
カツラギエースだった。
同期の、三年間ずっと、本気で自分に挑み続けてきた相手。クラシックの三冠のすべてで、同じゲートに並んだ。そのあとの大舞台でも、何度も同じレースを走り、いつも最後の直線で、自分の背中に食らいついてきた。
一度も、勝たせなかった。
けれど一度も、諦めなかった。
エースは、夕日を背にして立っていた。表情は、逆光でよく見えなかった。ただ、肩が、少しだけ上下していた。走ってきたのだろう。発表を聞いて、たぶん、どこかから。
エースは、多くを言わなかった。
最後のレースで、今度こそ勝つ、と。それだけを、まっすぐにシービーの目を見て言った。自分らしい、飾り気のない言葉で。辞めるなとも、なぜ辞めるのかとも訊かなかった。
シービーは、その言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。
エースが本気で挑んでくるから、レースは面白かった。三年間、ずっとそうだった。
「……うん」
シービーは、笑った。
「待ってる」
エースは、それを聞いて、一度だけ強く頷いた。それから、踵を返して、夕日の中を走り去っていった。
その背中を、シービーは見えなくなるまで見送った。
最後のレースでも、自分は手を抜かない。エースが本気で来るなら、自分も本気で走る。それが、三年間を共に走った相手への、自分なりの礼儀だった。
その夜、生徒会室の前を通りかかったとき、扉が開いた。
シンボリルドルフだった。
一つ年下の、けれど決して格下ではない、学園の生徒会長。クラシック級の有馬記念で、一度だけ直接走った。接戦だった。ほんのわずかな差で、シービーが先にゴール板を過ぎた。
ルドルフは、シービーの顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……聞いたよ、シービー」
穏やかな声だった。
「うん」
「惜しむ声は多いだろう。私も、その一人だ」
シービーは、ルドルフの顔を見た。皇帝と呼ばれる後輩の顔には、からかいも、非難もなかった。ただ、静かな、正直な表情があった。
「だが、君が自分で決めたのなら、それが一番いい。……君は、納得するまで動かないからな」
ルドルフは、そう言って、小さく笑った。
「有馬記念では、全力で行かせてもらう。最後だからといって、譲るつもりはない」
「知ってる。そういうとこ、好きだよ」
シービーが言うと、ルドルフは、少しだけ驚いたような顔をして、それから、声を出して笑った。
二人は、それ以上何も言わなかった。ルドルフは生徒会室へ戻り、シービーは廊下を歩いていった。
ルドルフが、これから自分の時代を作っていくことを、シービーは知っていた。自分がいなくなったあとの学園を、あの後輩が背負っていく。自分とはまるで違うやり方で。自分には決してできないやり方で。
それでいい、と思った。
*
最後の一か月の練習は、いつもと何も変わらなかった。
雅也のメニューは、相変わらず少なかった。坂路を何本、併走を何本、あとは流し。できると思う、でもやらない。変わったのは、雅也が毎朝、紙コップのココアを二つ持ってくるようになったことくらいだった。糖分の補給です、と彼は言い張った。
雅也は、いつもと同じように、複数のレースプランを用意した。前が速くなった場合、遅くなった場合、エースが早めに動いた場合、ルドルフが内で溜めた場合。それぞれに、いくつかの選択肢と、その結果として起こりうることを並べた。どれを使うかは、当日、シービーが決める。三年間、ずっとそうしてきた。
ある晩、トレーナー室で、二人はポーカーをした。
言い出したのは、シービーだった。練習のあと、雅也がいつものように記録の整理をしていたところへ、トランプを一組持ってきて、机の上に置いた。
「たまには、息抜き」
「……俺、弱いぞ」
「知ってる。だからやるの」
雅也は、少しだけ抵抗するような顔をしたけれど、結局、ペンを置いた。
賭けるのは、机の上にあったチョコレートの粒だった。雅也の糖分の補給用の。シービーが十粒、雅也が十粒。
シービーは、ポーカーが得意だった。プロフィールの得意なことの欄にも書いてある。相手の顔を見るのが好きなのだ。カードを見たときの、ほんの一瞬の表情の変化。指先の動き。呼吸の間。そういうものから、相手が何を持っているのかを読む。
雅也は、その意味で、最悪の相手だった。
いい手が来ると、ほんの少しだけ、口の端が上がる。悪い手が来ると、眉がわずかに寄る。ブラフをかけようとすると、視線が一瞬だけ、カードから外れて、天井のあたりをさまよう。
嘘が、下手なのだ。
三年間で、シービーはそれをよく知っていた。夏に、それで一度ぶつかった。気づいていて黙っていることが、この人にはできない。できないのに、しようとした。だから、すぐにばれた。
最初の三回で、雅也のチョコレートは四粒に減った。
「……やっぱり弱いじゃん」
「だから言ったろ」
雅也は、苦笑して、残りの四粒を見下ろした。
四回目。
カードを配って、シービーは、雅也の顔を見た。
雅也は、自分のカードを見ていた。表情が、変わらなかった。口の端も上がらず、眉も寄らず、視線も天井へ行かなかった。ただ、静かに、カードを見ていた。
シービーは、少しだけ首を傾げた。
読めなかった。
三年間で、初めてだった。
「……全部」
雅也が、残りの四粒を、全部前に押し出した。
シービーは、自分のカードを見た。悪くない手だった。けれど、最高の手ではなかった。
雅也の顔を、もう一度見た。
やっぱり、読めなかった。
シービーは、しばらく考えて、それから、カードを伏せた。
「降りる」
雅也が、少しだけ笑った。
それから、自分のカードを、表に返した。
何の役も、できていなかった。
シービーは、目を丸くした。
「……うそ」
「嘘だ」
雅也は、四粒のチョコレートと、シービーが場に出していた二粒を、自分のほうへ引き寄せた。
「……なんで読めなかったんだろ」
シービーが呟くと、雅也は、チョコレートを一粒、口に放り込んだ。
「……有馬のこと、考えてたからだろうな」
「え」
「カード見ながら、有馬のプラン考えてた。四枚目の、ルドルフが内で溜めた場合のやつ。だから、たぶん、顔に何も出てなかった」
シービーは、しばらく黙っていた。
それから、吹き出した。
「……ずるい」
「ずるくない。偶然だ」
「ずるいよ」
シービーは笑いながら、残りのカードを集めた。
笑いながら、少しだけ、胸の奥が温かくなった。
この人は、ポーカーをしているあいだも、自分のレースのことを考えていたのだ。
嘘の下手な人が、一回だけ、嘘をつけた。その理由が、自分のためだった。
シービーは、それが、なんだか可笑しくて、嬉しかった。
ある日、練習の帰り道、雅也が言った。
「ご両親には、連絡したか」
「したよ。発表の前に」
「なんて言ってた」
「お父さんは、そうか、って。お母さんは、好きにしなさい、って」
雅也は、少しだけ考えるような顔をした。
「……いいご両親だな」
「でしょ」
シービーは笑った。
両親は、昔、ウマ娘とそのトレーナーだった。半ば駆け落ちのようにして結婚した。今でも、とても仲がいい。二人とも、何にも縛られず、妥協せず、自分たちの心が望んだものを選んだ人たちだった。
そういう人たちだから、娘が自分で決めたことに、何も言わなかった。
それが、シービーには嬉しかった。
*
有馬記念の前夜、シービーは、トレーナー室にいた。
練習は、もう終わっていた。明日の準備も、すべて終わっていた。レースプランは、四枚の紙にまとめて、机の上に並べてあった。どれを使うかは、明日の朝、決める。
雅也は、窓際で、窓の外を見ていた。
夜の学園は静かだった。冬の空気が澄んでいて、遠くの街の灯りが、細かく瞬いていた。
シービーは、ソファに座って、膝を抱えていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
暖房の低い唸りだけが、部屋の隅で続いていた。
「明日、勝ちたい」
シービーが、言った。
雅也は、振り向かなかった。窓の外を見たまま、何も言わなかった。
シービーは、膝を抱える腕に、少しだけ力を込めた。
「最後だからじゃなくて、走りたいから」
雅也が、ゆっくりと振り向いた。
「分かってる」
それだけ言って、雅也は、少しだけ笑った。
最後だから、とは、訊かなかった。
訊けば、自分に理由を用意させることになる。最後だから勝ちたいのか、それとも走りたいから勝ちたいのか。その区別を、シービーに説明させることになる。雅也は、それを訊かなかった。ただ待って、シービーが自分から言うのを聞いた。
シービーは、それが分かっていた。
分かっていたから、少しだけ、泣きそうになった。
泣かなかった。代わりに、笑った。
雅也が、窓際から離れて、机の前に戻ってきた。四枚のレースプランを、指で揃えて、シービーの前に差し出した。
「じゃあ、勝つ準備をしよう」
「うん」
シービーは、四枚の紙を受け取った。
一枚ずつ、ゆっくりと読んだ。三年間、何十回も、こうして読んできた。雅也の字は、きれいではなかった。けれど、読みやすかった。どの紙にも、最後に一行だけ、同じ言葉が書いてあった。
――どれを選ぶかは、シービーが決める。
三年間、一度も変わらなかった一行だった。
第三章 たった一度の、始まる前
十二月の終わりの中山は、冬の光に満ちていた。
朝から雲一つない空で、空気はきんと冷えていた。陽射しは低く、長く、あらゆるものに斜めの影を落としていた。スタンドの屋根の影、並木の影、行き交う人々の影。それらが全部、芝の上に細長く伸びて、ゆっくりと形を変えていった。
控室へ向かうとき、シービーは、エレベーターの前で立ち止まった。
案内のスタッフが、ボタンを押して待っていた。扉が開いて、狭い箱の中が見えた。蛍光灯の白い光。四方を囲む金属の壁。
シービーは、少しだけ眉を寄せた。
それから、スタッフに、にっこりと笑いかけた。
「階段で行きます」
スタッフが、目を丸くした。控室は四階だった。
隣で、雅也が、小さく息を吐いた。
「……今日くらい、乗ったらどうだ。脚、使うぞ」
「四階くらい、脚にこないよ」
「そういう問題じゃ」
「エレベーター、ちょっと苦手なの。知ってるでしょ」
雅也は、何か言い返そうとして、やめた。
三年間で、何度このやり取りをしただろう。雅也は、そのたびに一度だけ止めて、それ以上は止めなかった。エレベーターが苦手なのは、理屈ではなかった。狭いところに閉じ込められて、自分で扉を開けられない、あの感じが、どうしても好きになれない。
雅也は、スタッフに小さく頭を下げてから、シービーのあとについて、階段を上り始めた。
「……トレーナーは乗ればいいのに」
「いい。俺も上る」
「なんで」
「併走だ」
シービーは、階段の途中で、吹き出した。
*
シービーは、控室の窓から、その光を眺めていた。
窓ガラスの向こうで、人がうねっていた。朝早くから詰めかけたファンたちが、スタンドを埋め尽くし、通路を埋め尽くし、なお外の広場にまで溢れていた。遠くからでも、横断幕の文字が読めた。ありがとう。忘れない。最後まで。ミスターシービー。
その文字の一つひとつを、シービーは、ゆっくりと目で追った。
読みながら、不思議な気持ちになった。
あの横断幕を書いた人たちは、自分のことを、どんなふうに思っているのだろう。十八戦十八勝の三冠ウマ娘。天衣無縫。ターフの演出家。何にも縛られない自由人。そういう言葉で自分を語る記事を、シービーは何度も読んだことがある。どれも、間違いではなかった。けれど、どれも、自分のことではないような気もした。
自分は、そんなに自由だったろうか。
シービーは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
自由に見えるのは、結果だった。納得できないことを飲み込めないから。嘘や誤魔化しが苦手だから。折り合いをつけるのが下手だから。だから、自分で選ぶしかなかった。自分で選んで、その結果を自分で引き受けるしかなかった。それが、たまたま外から見ると、自由に見えただけだった。
三年前、雅也に言われたことを思い出す。
自由って、自分で選んだ結果を、自分で引き受けられることだと思う。
あのときは、面白いことを言う人だと思った。今は、あの言葉が、自分の身体のどこかに、根を下ろしている気がする。
扉が、ノックされた。
「入るぞ」
雅也だった。
いつものように、黒いブルゾン。けれど今日は、その下に、少しだけきちんとしたシャツを着ていた。襟に、アイロンの跡がくっきりとついていた。自分でかけたのだろう。慣れない手つきで。
「……シャツ、どうしたの」
「引退試合だからな」
雅也は、少しだけ気まずそうに襟を指でつまんだ。
「普段のだと、さすがにまずいかと思って」
「似合ってないね」
「知ってる」
シービーは笑った。雅也も、苦笑した。
雅也は、手に持っていた紙を、机の上に置いた。四枚のレースプラン。昨夜、二人で最後に確認したものだった。
「どれにする」
シービーは、窓際から離れて、机の前に立った。
四枚の紙を、一枚ずつ、ゆっくりと見た。前が速くなった場合。遅くなった場合。エースが早めに動いた場合。ルドルフが内で溜めた場合。どれも、よく考えられていた。どれを選んでも、勝てる可能性がある。どれを選んでも、負ける可能性もある。
シービーは、しばらく黙って、四枚の紙を見下ろしていた。
それから、四枚全部を、指で揃えて、雅也に返した。
雅也が、眉を上げた。
「全部、覚えた」
シービーは言った。
「どれにするかは、走りながら決める。……いつもは、朝に一つ選んでたけど。今日は、最後まで選べる位置にいたい」
雅也は、四枚の紙を受け取ったまま、しばらくシービーの顔を見ていた。
それから、ゆっくりと、笑った。
「……君らしいな」
「でしょ」
「後ろに置くのは消極性じゃない。最後の一瞬まで、自分で選べる位置にいるため」
雅也が、ぽつりと言った。
シービーは、少しだけ目を丸くした。
それは、三年前、初めて追込という走り方について話したときに、シービーが言った言葉だった。雅也は、それを覚えていた。一言一句、そのまま。
「……覚えてたんだ」
「覚えてる。君が言ったことは、だいたい」
雅也は、紙を折りたたんで、ブルゾンの内ポケットにしまった。
「じゃあ、今日は、選ばないことを選んだってことだな」
「そういうこと」
シービーは、にっと笑った。
*
雅也が控室を出ていく少し前に、もう一度、扉がノックされた。
顔を覗かせたのは、シービーの両親だった。
関係者用の通路を、スタッフに案内されてきたらしかった。父は、少しだけ白髪の増えた頭に、古びた帽子を被っていた。母は、厚手のコートの襟を立てて、首元に、見覚えのある色のスカーフを巻いていた。昔、自分が走っていたころの勝負服と、同じ色のスカーフだった。
「来たよ」
母が、短く言った。
「うん」
シービーも、短く答えた。
それ以上、何も言わなかった。言わなくても、分かっていた。
父は、控室の中を一度だけ見回してから、雅也のほうを見た。
前にも一度、雅也は両親に会っている。現役の二年目の夏だった。あのとき、父は、雅也の人柄ではなく、別のところを見ていた。担当の決定権を、どこまで本人に残しているか。かつて同じ立場にいた人間の見方だった。
今日も、父は同じところを見ていた。
机の上の四枚の紙。それを、シービーが全部まとめて雅也に返したこと。雅也が、それを黙って受け取って、内ポケットにしまったこと。
父は、しばらくそれを見ていて、それから、雅也に向かって、小さく頭を下げた。
雅也も、少し慌てたように、頭を下げ返した。
父は、何も言わなかった。帽子のつばに指をかけて、少しだけ持ち上げて、それから、母の肩に手を置いた。
「行こうか」
「そうね」
母は、出ていく前に、一度だけシービーの顔を見た。じっと。会話のテンポを確かめるように、娘が自然体でいられているかを確かめるように。
それから、少しだけ笑った。
「いい顔してる」
それだけ言って、扉を閉めた。
足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
シービーは、閉まった扉を、しばらく見ていた。
雅也が、小さく咳払いをした。
「……緊張した」
「なんで」
「親御さんの前だぞ」
「三年目なのに?」
「三年目でもだ」
シービーは、吹き出した。
それから、窓の外を見た。スタンドのどこかに、あの二人も座るのだろう。昔、ウマ娘とそのトレーナーだった二人が。何にも縛られず、妥協せず、自分たちの心が望んだものを選んだ二人が。
その二人に、今日の自分を見てもらえる。
それが、少しだけ、誇らしかった。
*
パドックに出た瞬間、音が変わった。
控室の窓越しに聞こえていたざわめきとは、まるで違う音だった。何万という人の声が、一斉にシービーの名前を呼んだ。叫ぶように、泣くように、歌うように。拍手が、地鳴りのように足もとから響いてきた。カメラのシャッター音が、その合間を縫って、細かく鳴り続けていた。
シービーの耳が、その音の中で、いくつかの声を拾った。
近くの柵の前で、小さな男の子が、父親に抱えられて、手を振っていた。何か言っていた。歓声に紛れて、よく聞き取れなかった。けれど、口の形で分かった。がんばれ、と言っていた。
少し離れたところで、年配の女性が、ハンカチで目を押さえていた。
その隣で、若い男性が、自分の胸の前で、黙って両手を組んでいた。祈るように。
シービーは、その一人ひとりの顔を、歩きながら見た。
見ながら、胸の奥が、静かに満ちていくのを感じた。
この人たちは、自分に夢を見ている。
それを否定したくはなかった。三年間、それが一番難しかった。自分の自由を守りながら、他人が自分に見る夢を傷つけない距離を探すこと。勝つたびに「こう走るはず」と決めつけられることが、どれほど嫌だったか。それでも、そう言う人たちが、自分の走りに何かを見て、それを大事にしてくれていることまで、嫌いになりたくはなかった。
その距離が、今日で終わる。
終わるから、今日だけは、全部をちゃんと見ておきたいと思った。
パドックを一周し終えて、柵の近くで立ち止まる。
他の出走者たちも、それぞれの場所で、それぞれの時間を過ごしていた。
カツラギエースが、少し離れたところで、身体を動かしていた。軽く跳ねて、肩を回して、また跳ねる。その動きの一つひとつに、無駄な力みがなかった。三年間で、エースもずっと強くなった。自分と同じ時間を、自分とは違う場所から、ずっと走ってきた。
エースが、ふとこちらを見た。
目が合った。
エースは、何も言わなかった。ただ、口の端だけで、にっと笑った。挑むような、けれど、どこか楽しそうな笑い方だった。
シービーも、同じように笑い返した。
それだけで、十分だった。
少し離れたところに、シンボリルドルフがいた。
皇帝は、静かに立っていた。周囲の歓声にも、カメラにも、まるで動じていなかった。ただ、前を見ていた。これから走るコースを、これから戦う相手を、これから背負う時代を。
ルドルフは、こちらを見なかった。
見なくても、分かっているのだろう、とシービーは思った。今日、自分が全力で来ることを。自分もまた、全力で行くことを。
柵の向こうに、雅也がいた。
関係者の区画の端で、いつものように、何も持たずに立っていた。アイロンの跡のついたシャツの襟が、冬の陽射しの中で、少しだけ白く光っていた。
雅也は、シービーの歩様を見ていた。
三年間、ずっとそうだった。勝つかどうかより先に、脚を見る。歩幅を見る。呼吸を見る。どこか無理していないかを見る。
シービーは、雅也の前まで歩いていった。
「どう?」
「いい。歩幅も戻ってる。夏みたいに詰まってない」
雅也は、短く言った。それから、少しだけ間を置いて、付け加えた。
「……三年間で、一番いい顔してる」
シービーは、一瞬、言葉に詰まった。
それから、笑った。
「トレーナーも、三年間で一番似合わないシャツ着てる」
「知ってる」
雅也も、笑った。
*
本馬場入場の前、地下馬道の暗がりで、シービーは一人、壁にもたれていた。
頭上から、スタンドの歓声が、くぐもって降ってきた。コンクリートの壁が、その振動をかすかに伝えてくる。冷たい壁だった。背中に、その冷たさが、勝負服越しにじわりと染みた。
他の出走者たちは、少し離れたところで、それぞれに集中していた。誰も喋らなかった。聞こえるのは、誰かの深い呼吸と、蹄鉄が床を擦る音と、遠い歓声だけだった。
シービーは、目を閉じた。
始まる前も、たった一度の景色。
自分のプロフィールに、そう書いた。出走前は、いつもそうしている。存分に楽しむ。二度と来ない、この時間を。
今日は、いつもよりもっと、たった一度だった。
この地下馬道の冷たさも。頭上から降ってくる歓声のくぐもりも。誰かの呼吸の音も。背中に触れる壁の感触も。二度と、来ない。
シービーは、それを、全部感じようとした。
目を閉じたまま、耳を澄ませた。冷たい空気を、ゆっくりと吸い込んだ。コンクリートの匂い。芝の匂い。遠くから漂ってくる、何かの食べ物の匂い。それから、自分の身体の匂い。汗と、尻尾用のトリートメントの匂い。今月のは、柑橘系だった。
雅也は、それに気づいていただろうか。
ふと、そんなことを思った。
トリートメントを変えるたびに、雅也が一瞬だけ鼻をひくつかせるのを、シービーは知っていた。知っていて、何も言わなかった。雅也も、何も言わなかった。気づいたことを口にするかどうかは、別の話だった。
シービーは、目を開けた。
地下馬道の先に、光があった。
四角く切り取られた、冬の午後の光。その向こうに、芝があって、スタンドがあって、何万という人がいて、そして、雅也がいる。
シービーは、壁から背中を離した。
一歩、踏み出した。
光の中へ。
第四章 二千五百の、最後の風
ゲートが開いた瞬間、シービーは、わざと一拍遅れた。
遅れたのではない。遅らせた。前へ飛び出していく十幾つの背中を、ほんの一瞬だけ、後ろから眺めた。それから、芝を蹴った。蹄鉄が冬の乾いた地面を叩いて、硬い、澄んだ音が足もとから跳ね返ってきた。
最後方。
いつもの場所だった。
前を行く背中の群れが、一つの塊になって、最初の直線を駆けていく。その先頭に、黒い影が一つ、ぐんと抜け出していくのが見えた。
エースだった。
最初から行くのだ、とシービーは思った。後ろで溜めて、最後に勝負するのではない。最初から前へ出て、自分のペースで引っ張って、そのまま押し切る。エースが三年間で見つけた、エース自身の走り方だった。
前が、速くなる。
一枚目の紙。前が速くなった場合。
シービーの頭の中で、雅也の字が浮かんだ。前が速い場合、後方の脚は溜まりやすい。けれど、先頭が止まらなければ、届かない。先頭の脚がどこで鈍るかを見極めること。
まだ、決めない。
シービーは、呼吸を整えた。
最初のスタンド前を通過する。
音が、壁のように押し寄せてきた。何万という人の声が、一斉に名前を呼んでいた。自分の名前。エースの名前。ルドルフの名前。それから、他の誰かの名前。全部が混じり合って、一つの巨大な音の波になって、スタンドから芝の上へと崩れ落ちてきた。
シービーの耳は、その中から、何も拾わなかった。
拾おうとしなかった。集中すると、周りの雑音は薄れる。いつもそうだった。今日も、そうなった。歓声は、耳の表面を撫でて通り過ぎていくだけで、奥までは入ってこなかった。
聞こえるのは、自分の呼吸と、前を行く脚音と、風の音だけだった。
冬の風が、頬を切るように吹いていた。冷たくて、乾いていて、澄んでいた。
レースにしかない風。
シービーは、その風を、胸いっぱいに吸い込んだ。
一コーナー、二コーナー。
集団が、ゆるやかに弧を描いていく。シービーは最後方のまま、その弧の外側を、少しだけ膨らんで回った。内側は混んでいた。誰かの肩と誰かの肩が、何度か軽く触れ合う音がした。
二コーナーを抜けるあたりで、エースが、もう一段ギアを上げた。
シービーには、それが音で分かった。前方から聞こえてくる脚音の間隔が、ほんの少しだけ短くなった。重心が前へ移って、蹄鉄が芝を叩く音が、少しだけ鋭くなった。
三年前の皐月賞を、思い出した。
あの日は、雨だった。不良馬場で、蹴り上げられた泥で、前を行く誰かの勝負服の色すら分からなかった。シービーは、その泥の中を、力ずくで外から押し上げていった。すぐ隣に、エースがいた。泥だらけの顔で、歯を食いしばって、同じように外を押し上げていた。
あのときから、エースは、ずっと隣にいた。
日本ダービーでは、直線の入口で外へ弾き出された。体勢を崩しかけて、立て直して、それでも差し切った。あのとき、弾き出されたシービーの内側を、エースが先に抜けていった。一瞬だけ、エースの背中が前にあった。
菊花賞では、淀の坂で動いた。セオリーを無視して。後ろから、エースの驚いたような息遣いが聞こえた。それから、エースも、同じ坂で動いた。
三年間、エースは、ずっと自分に食らいついてきた。
そして今日、エースは、自分とは違う走り方を選んでいた。前に出て、引っ張って、押し切る。シービーの背中を追うのではなく、シービーに自分の背中を追わせる走り方。
シービーは、その背中を見ていた。
遠かった。
けれど、嬉しかった。
エースが、自分の走りを見つけたこと。三年間、隣にいた相手が、最後の日に、自分とは違う答えを持ってきたこと。
それが、レースを面白くする。
シービーは、少しだけ笑った。
笑いながら、まだ、動かなかった。
向こう正面に入る。
シービーは、前を見た。
エースは、まだ先頭にいた。二番手との差が、少しずつ開いている。ペースは、落ちていない。むしろ、少しだけ上がっている。
そして、その後ろ。
集団の中ほど、内側の柵沿いに、ルドルフがいた。
動いていなかった。じっと、内で溜めていた。前の背中を風よけにして、自分の脚を一歩も無駄にせず、ただ、そこにいた。静かに。王が玉座に座るように。
四枚目の紙。ルドルフが内で溜めた場合。
内で溜めたルドルフは、最後の直線で、必ず外へ持ち出してくる。そのとき、進路を塞がれないこと。ルドルフより先に外を取ること。あるいは、ルドルフが外へ出たあとの、その外を回ること。
一枚目と、四枚目。
両方が、同時に起きていた。
前が速く、ルドルフが内で溜めている。
シービーは、それを見て、少しだけ笑った。
雅也は、それも考えていただろうか。
たぶん、考えていた。四枚の紙のどこかに、小さな字で、書いてあったのかもしれない。両方起きたら、どうするか。シービーは、それを読んだ記憶がなかった。けれど、読んでいなくてもよかった。
どうするかは、自分で決める。
三コーナーが、近づいてくる。
中山の三コーナー。ここから先は、短い。四コーナーを回ったら、すぐに最後の直線で、その直線も、驚くほど短い。そしてゴールの手前には、急な坂がある。
どこで動くか。
三コーナーの手前で、前の集団が、少しだけ速度を上げた。誰かが動き始めたのだ。後ろのほうの何人かが、外へ持ち出して、じわじわと差を詰めていく。
シービーの脚が、行け、と言った。
まだだ、とは思わなかった。
ここだ、と思った。
三年前、菊花賞で、同じことをした。淀の坂はゆっくり上り、ゆっくり下れ。そう言われていた坂で、シービーは一気に加速した。セオリーを無視したのではなかった。その場で見えたものを、優先しただけだった。
今も、同じだった。
三コーナーで、動く。
それは、四枚のどの紙にも書いていないことだった。
シービーは、外へ出た。
大外。集団の、一番外側。ほかの誰もが内を回ろうとするコーナーで、シービーは、一番遠い道を選んだ。遠回りだった。脚を使う。けれど、誰にも塞がれない。誰にも決められない。自分で選んだ道だった。
脚を、伸ばした。
身体が、前へ傾いた。蹄鉄が、芝を強く叩いた。冬の乾いた地面が、蹴った力をまっすぐに跳ね返してくる。その反発が、脚から腰へ、腰から背中へ、背中から肩へ、一本の線のように伝わっていく。
風が、変わった。
さっきまで頬を切っていた風が、今度は、背中を押していた。
追い風。
自由気ままな、追い風。
*
スタンドの関係者席で、雅也は、立ち上がっていた。
立ち上がったつもりはなかった。気がつくと、椅子から腰が浮いていた。隣の席の誰かが、驚いたようにこちらを見た。雅也は、それに気づかなかった。
三コーナーで、シービーが外へ出た。
大外だった。一番遠い道だった。
四枚の紙の、どれにも書いていないことだった。
雅也は、手すりを握った。冷たかった。指が、痛いほど冷たい金属に食い込んだ。
三コーナーで動けば、四コーナーを回るまでに脚を使う。最後の直線で、どれだけ残っているか。中山の坂を、上り切れるか。
雅也の頭の中で、いくつもの計算が走った。
それから、その計算を、全部止めた。
見ればいい。
自分がすべきことは、もう全部終わっていた。準備も、分析も、プランも、ゲートが開く前に全部渡した。そして、彼女はそのどれも使わなかった。使わずに、自分で選んだ。
それが、三年間で一番見たかったものだった。
雅也は、手すりを握ったまま、息を止めて、見ていた。
*
四コーナーを回る。
シービーは、大外から、集団を一気に飲み込んでいった。一人、二人、三人。背中が、次々と横を過ぎていく。誰かの驚いたような息遣いが、すぐ隣で聞こえて、すぐに後ろへ消えた。
最後の直線に入った。
目の前に、三つの影があった。
先頭に、エース。まだ、止まっていなかった。三コーナーからずっと、先頭のまま、脚を伸ばし続けていた。肩が大きく上下していた。けれど、脚の運びは乱れていなかった。三年間で、エースは本当に強くなった。
その外に、ルドルフ。
内で溜めていた皇帝が、四コーナーで外へ持ち出していた。シービーが三コーナーで大外を取ったから、ルドルフは、その一つ内側、エースのすぐ外に出るしかなかった。それでも、その脚は、少しも鈍っていなかった。溜めに溜めた力を、今、一気に解き放っていた。
そして、その外に、シービー。
三人が、横に並びかけた。
坂が、来た。
中山の、急な坂。ゴールの手前で、最後の力を振り絞る者たちを、容赦なく試す坂。
脚が、重くなった。
三コーナーから、ずっと外を回ってきた。使った脚が、今、代償を求めてきた。太腿の奥が、じんと熱くなった。ふくらはぎが、張り詰めた。息が、苦しかった。
ルドルフが、半歩、前へ出た。
シービーの視界の端で、皇帝の横顔が、ほんの少しだけ先へ行った。
エースが、歯を食いしばって、坂を上っていた。止まらなかった。一歩も、止まらなかった。
三人とも、全力だった。
最後だからではなかった。
走りたいから。勝ちたいから。この二人に、勝ちたいから。
シービーは、脚を止めなかった。
重い脚を、それでも前へ運んだ。一歩。また一歩。坂の傾斜が、身体を後ろへ引き戻そうとする。それに逆らうのではなく、身体を前へ傾けて、重心を坂の上へ預けた。三年間、何百本も坂路を上った。雅也が、できると思う、でもやらない、と言いながら組んだ、少ないメニューの坂路を。一本一本、明日も同じように走れるように、と。
その一本一本が、今、脚の中にあった。
特別な力ではなかった。突然湧いてくる奇跡でもなかった。
積み上げてきたものが、そこにあっただけだった。
坂を、上り切った。
ルドルフの横顔が、また隣に戻ってきた。いや、自分が、ルドルフの横に戻ってきたのだ。
エースの背中が、すぐそこにあった。
ゴール板が、見えた。
シービーは、最後の一歩を、踏み出した。
三つの影が、ほとんど同時に、ゴール板の横を過ぎた。
その瞬間、冬の追い風が、シービーの背中を、もう一度だけ、強く押した。
第五章 肩の上から見た景色
ゴールしても、誰が勝ったのか、分からなかった。
シービーは、惰性で脚を運びながら、隣を見た。ルドルフも、同じように脚を緩めながら、こちらを見ていた。その向こうで、エースが、膝に手をついて、うつむいていた。肩が、大きく上下していた。
三人とも、分からなかった。
スタンドの歓声が、奇妙な形に変わっていた。大きな叫び声ではなく、ざわめきだった。何万という人が、同じ一点を見つめて、息を呑んでいた。掲示板の一番上に、まだ数字が灯っていなかった。
写真判定。
その四文字が、掲示板の隅に、小さく光っていた。
シービーは、脚を止めた。
止めた瞬間、身体中の重さが、一気に戻ってきた。太腿が、自分のものではないように重かった。膝が、かすかに震えていた。肺が、冷たい空気を貪るように吸い込んでは、熱い息を吐き出していた。汗が、額からこめかみを伝って、顎の先から落ちた。冬の風が、その汗を冷やして、肌の上に細い冷たさを残した。
喉が、焼けるように渇いていた。
シービーは、空を見上げた。
雲一つない、冬の青空だった。高くて、澄んでいて、どこまでも続いていた。太陽が、少しだけ西に傾いていて、その光が、目の端をちらちらと刺した。
待つ時間は、長かった。
数十秒だったのかもしれない。一分だったのかもしれない。けれどシービーには、それが、三年間と同じくらい長く感じられた。
隣で、ルドルフが、静かに息を整えていた。
皇帝は、掲示板を見ていなかった。空を見ていた。シービーと同じように。
エースが、顔を上げた。汗まみれの顔で、掲示板を睨みつけていた。唇が、きつく結ばれていた。
それから。
掲示板に、数字が灯った。
一番上に。
シービーの番号が。
その瞬間、スタンドが、爆発した。
さっきまでのざわめきが、一気に解き放たれて、巨大な音の塊になって、芝の上へ崩れ落ちてきた。叫び声。拍手。泣き声。名前を呼ぶ声。地面が、足の裏で震えていた。
シービーは、掲示板を見上げたまま、動かなかった。
勝った。
十九戦目。十九勝目。
最後のレース。
頭では、分かった。けれど、身体が、それを受け止めるまでに、少し時間がかかった。
隣から、手が差し出された。
ルドルフだった。
皇帝は、少しだけ乱れた前髪の下から、まっすぐにシービーを見ていた。悔しさが、その目の奥に、はっきりとあった。隠していなかった。けれど、それと同じくらいはっきりと、何か別のものもあった。
シービーは、その手を握った。
冷たい手だった。けれど、握り返してくる力は、強かった。
「……見事だった、シービー」
ルドルフは言った。声が、少しだけかすれていた。
「三コーナーで外へ出たとき、正直、無謀だと思った。……だが、君は、それを通した」
「アタシも、ちょっと無謀だと思ってた」
シービーが言うと、ルドルフは、一瞬だけ目を丸くして、それから、小さく笑った。
「……そうか。君らしい」
ルドルフは、手を離した。
それから、スタンドのほうを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「ここから先は、私たちが引き受ける」
静かな声だった。誰に聞かせるでもなく、けれど、確かにシービーに向けて。
シービーは、何も言わなかった。
ただ、頷いた。
ルドルフは、それを見て、背を向けた。自分の陣営のほうへ、歩いていった。背筋が、まっすぐに伸びていた。負けた者の背中ではなかった。これから先を背負う者の背中だった。
シービーは、それを見送ってから、振り返った。
エースが、まだ、膝に手をついていた。
顔を上げていた。掲示板を、見上げていた。三年間、一度も勝てなかった。最後の最後まで、勝てなかった。
シービーは、エースのほうへ歩いていった。
何か言わなければ、と思った。
けれど、言葉が、出てこなかった。
エースの前に立って、口を開いて、そのまま閉じた。何を言えばいいのか、分からなかった。おつかれ、と言えばいいのか。ありがとう、と言えばいいのか。いい走りだった、と言えばいいのか。
どれも、違う気がした。
自分は、負けたことがない。
だから、負けた相手に、何を言えばいいのか、知らなかった。
その事実が、胸の奥に、冷たい石のように沈んだ。
エースが、顔を上げた。
シービーの顔を見た。汗と、それから、ほんの少しだけ別のもので濡れた目で。
エースは、何も言わなかった。
ただ、拳を、シービーの胸の前に、軽く突き出した。
シービーは、少しだけ迷ってから、自分の拳を、そこに合わせた。
こつん、と、小さな音がした。
エースは、それで満足したように、にっと笑った。泣きそうな顔で、笑った。それから、背を向けて、歩いていった。
シービーは、自分の拳を見下ろした。
言葉は、最後まで、見つからなかった。
*
スタンドの関係者席で、雅也は、まだ立っていた。
座り直すことを、忘れていた。手すりを握ったまま、掲示板を見上げていた。写真判定の四文字が、冬の光の中で、小さく瞬いていた。
三つの影が、ほとんど同時にゴール板を過ぎた。
雅也の目には、どれが先だったのか、分からなかった。いや、分かろうとしなかった。分かったところで、何も変わらない。判定は、写真が決める。
心臓が、うるさかった。
雅也は、自分の胸に手を当てた。シャツ越しに、鼓動が指先に伝わってきた。速かった。自分が走ったわけでもないのに。
隣の席の誰かが、小声で何かを言っていた。たぶん、どちらが勝ったと思うか、というようなことだった。雅也は、それに答えなかった。
視線を、コースの上に落とした。
シービーが、脚を止めていた。
空を見上げていた。
雅也は、その姿を見て、少しだけ呼吸が楽になった。
立ち方が、まっすぐだった。どちらの脚も庇っていなかった。肩の上下は大きかったけれど、乱れてはいなかった。
無事だ。
それが分かって、雅也は、ようやく、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。
長く、息を吐いた。
それから、掲示板を、もう一度見上げた。
どちらでもいい、とは、思わなかった。
勝ってほしかった。
最後だからではなかった。彼女が、勝ちたいと言ったから。走りたいから勝ちたいと、前の晩に、自分の口で言ったから。
数字が、灯った。
雅也は、手すりを握ったまま、目を閉じた。
一秒だけ。
それから、目を開けて、関係者席の階段を、駆け降りていった。
*
コースから引き上げる通路の先に、雅也がいた。
関係者の区画の端で、柵に手をかけて、こちらを見ていた。アイロンの跡のついたシャツの襟が、少しだけ乱れていた。スタンドから、急いで降りてきたのだろう。
雅也は、シービーの顔を見る前に、脚を見た。
歩き方を見た。呼吸を見た。立ち方を見た。どちらかの脚を庇っていないか。どこかを痛めていないか。
シービーは、それを知っていた。三年間、ずっとそうだった。
だから、雅也の前まで歩いていって、わざとまっすぐに立ってみせた。
「大丈夫」
先に言った。
「脚、どこも痛くない。坂でちょっと重かったけど、それだけ」
雅也は、しばらくシービーの脚を見ていた。それから、ようやく、顔を上げた。
目が合った。
雅也は、何か言おうとして、口を開いた。
それから、閉じた。
それから、もう一度開いて、今度は、言葉ではなく、声が出た。
笑い声だった。
低くて、短くて、けれど、抑えきれずに溢れ出したような笑い声。雅也は、片手で口元を覆って、それでも笑いが止まらなくて、肩を震わせていた。
シービーは、それを見て、目を丸くした。
三年間で、この人がこんなふうに笑うのを、何度見ただろう。G1を勝つたびに、抑えきれずに笑っていた。けれど、今日の笑い方は、そのどれとも少し違っていた。
「……三コーナー」
雅也が、笑いの合間に、ようやく言った。
「三コーナーで、大外。四枚のどれにも、書いてなかった」
「うん」
「……俺、椅子から立ってた。隣の人に、変な目で見られた」
シービーは、吹き出した。
「かっこわる」
「知ってる」
雅也は、ようやく笑いを収めて、少しだけ息を整えた。それから、まっすぐにシービーを見た。
「……坂で、ルドルフに半歩出られたろ。あそこで、重心を前に預けた。上体を起こさなかった。あれがなかったら、たぶん届いてない」
具体的だった。
いつもの雅也だった。すごい、とも、さすが、とも言わない。見ていた箇所を、名指しする。
シービーは、胸の奥が、じんと熱くなるのを感じた。
「……坂路、何百本も上ったからね」
「上ったな」
「キミが、少ししかやらせてくれなかったやつ」
「少しずつ、何百本だ」
雅也が言った。
それから、手を伸ばして、シービーの頭に置いた。
耳には、触れなかった。耳と耳のあいだの、髪の上に、そっと。大きな手だった。少しだけ冷たかった。
撫でた。
一度。二度。
シービーは、撫でられながら、普通に喋り続けた。
「で、このあと、表彰でしょ」
「……ああ」
「写真とか撮るんだよね」
「撮る」
「りょーかい」
雅也の手が、離れた。
シービーは、何事もなかったように、通路の先へ歩き出した。
歩きながら、ほんの一瞬だけ、自分の頭に手をやった。
自分では、気づいていなかった。
*
ウイナーズサークルは、人で溢れていた。
報道のカメラが、何重にも並んでいた。学園の関係者、スタッフ、それから柵の向こうに押し寄せたファンたち。誰もが、シービーに向かって、何かを叫んでいた。
表彰の品を受け取り、記念の写真を撮る。
シービーは、いつものように、笑った。自然に。作らずに。カメラのほうを見て、それからファンのほうを見て、手を振った。
その間、雅也は、いつものように、一歩下がっていた。
ウイナーズサークルの端、写真の枠に入らない場所に、立っていた。三年間、ずっとそうだった。表彰台では、一歩下がる。ただし、下がったまま、笑っている。
今日も、笑っていた。
隠しきれずに、口の端を上げて、シービーを見ていた。
シービーは、それを見て、ふと、思った。
この人は、三年間、ずっとあそこから見ていた。
写真の枠の外から。ウイナーズサークルの端から。一歩下がった場所から。十九回。一度も、真ん中には来なかった。
あそこから見る景色は、どんな景色だったのだろう。
そして、この人は、一度でも、真ん中から見たことがあるのだろうか。
シービーは、カメラマンたちに、ちょっと待って、と手で合図をした。
それから、ウイナーズサークルの端へ、すたすたと歩いていった。
雅也が、怪訝な顔をした。
「……どうした」
「トレーナー、ちょっと」
「何」
「いいから、ちょっと屈んで」
雅也は、眉を寄せた。けれど、言われたとおりに、少しだけ膝を曲げた。三年間で、シービーの「いいから」には、だいたい何か理由があることを、雅也は知っていた。
シービーは、雅也の背後に回り込んだ。
「……おい、何を」
言い終わる前に、シービーは、雅也の両脚のあいだに頭を差し入れた。
それから、立ち上がった。
雅也の身体が、ふわりと宙に浮いた。
「うわっ」
雅也の声が、裏返った。
シービーの両肩に、雅也の両脚が乗っていた。百八十を超える身体が、シービーの肩の上に、まっすぐ持ち上げられていた。シービーの脚は、少しも揺らがなかった。三年間、何百本も坂路を上った脚だった。
「お、おい、シービー、降ろせ、危な……っ」
「危なくないよ。ほら、手」
シービーは、自分の両手を、頭の上に差し上げた。
雅也の手が、宙をさまよった。
一瞬、その手が、シービーの頭のほうへ伸びかけた。耳のあたりへ。バランスを取るために、掴めるものを探して。
それから、止まった。
雅也の手は、耳に触れる寸前で、ぴたりと止まって、それから、慌てたように方向を変えた。シービーが差し上げた両手を、掴んだ。
シービーは、それに気づいた。
気づいて、何も言わなかった。
三年間、この人は、一度も耳と尻尾に触れなかった。頭を撫でるときも、いつも、耳と耳のあいだの、髪の上だけだった。
肩の上で、宙に浮いて、バランスを崩しかけて、それでも。
シービーは、雅也の手を、しっかりと握り返した。
冷たい手だった。温めていない手だった。
周囲が、一瞬、静まり返った。
それから。
どっと、笑い声が起きた。
報道陣の中から、スタッフの中から、柵の向こうのファンの中から。驚きの声と、笑い声と、拍手が、一斉に湧き上がった。シャッター音が、雨のように降り注いだ。フラッシュが、何度も何度も、冬の午後の光の中で白く瞬いた。
「トレーナー、高いところ似合ってるぞー!」
ファンの誰かが叫んだ。また、笑いが起きた。
「シービー、最高ー!」
「おめでとう、二人ともー!」
拍手が、どんどん大きくなっていった。
雅也は、シービーの肩の上で、固まっていた。
顔が、真っ赤だった。耳の先まで、赤かった。
「……シービー」
「なに」
「……降ろしてくれ」
「やだ」
「頼む」
「もうちょっと」
シービーは、雅也の手を握ったまま、くるりと向きを変えた。
スタンドのほうへ。
「ほら、見て」
雅也は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
そこに、景色があった。
何万という人が、スタンドを埋め尽くしていた。冬の午後の低い光が、スタンドの屋根の縁を金色に縁取っていた。その下で、無数の人の顔が、こちらを見上げていた。笑っていた。泣いていた。手を振っていた。横断幕が揺れていた。ありがとう。忘れない。最後まで。
地面から見るのとは、まるで違う景色だった。
高かった。
シービーの肩の上から見る景色は、シービーがいつもゴールのあとに見ていた景色より、さらに少しだけ高かった。
「……いい景色でしょ」
シービーが、下から言った。得意げな声だった。
「キミ、三年間ずっと端っこにいたから。最後くらい、一番高いとこから見なよ」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、スタンドを見ていた。
シービーの手を握る雅也の手に、少しだけ、力がこもった。
それから。
雅也が、笑った。
シービーの肩の上で、声を出して、笑った。照れくさそうに、困ったように、それでも、抑えきれずに。
その笑い声が、シービーの頭の上から、降ってきた。
シービーも、笑った。
二人の笑い声が、冬の中山の空に、重なって響いた。
シャッター音が、また、雨のように降り注いだ。
「……たった一度の景色、ってやつか」
雅也が、笑いの合間に、ぽつりと言った。
「そう」
シービーは、雅也の手を握ったまま、答えた。
「二度と来ないから、ちゃんと見といて」
雅也は、それ以上何も言わなかった。
ただ、黙って、スタンドを見ていた。
長い時間。
シービーが、ゆっくりと膝を曲げて、雅也を地面に降ろすまで。
第六章 最後のステージと、止まった人
最終レースのあと、コースの上で、短い引退式が行われた。
シービーは、もう一度だけ、勝負服でターフに立った。泥と汗の跡が、まだ袖口に残っていた。着替える時間は、あえて取らなかった。今日走った服のまま、最後の挨拶をしたかった。
西日が、スタンドを斜めに照らしていた。帰らずに残ったファンたちが、正面のスタンドをぎっしりと埋めていた。何万という人が、静かに、コースの中央に立つシービーを見下ろしていた。レースのときのような歓声はなかった。代わりに、息を詰めたような、柔らかい静けさがあった。
秋川やよい理事長が、マイクの前に立った。
帽子の上の猫が、夕日に目を細めていた。理事長は、手にした扇子を、ぱっと開いた。そこに、大きく二文字、墨で書かれていた。
感謝。
「万感ッ!」
理事長の声が、冬の空に響いた。
「三年の疾走、十九の勝利! その一つ一つが、己で選び取った道であったと、私は知っている! ミスターシービー、よくぞ走り切ったッ!」
スタンドから、拍手が起きた。
シービーは、少しだけ笑った。理事長らしい、真っ直ぐな言葉だった。
それから、マイクが、シービーに渡された。
シービーは、マイクを持ったまま、しばらく何も言わなかった。
スタンドを見上げた。
端から端まで。
それから、口を開いた。
「……長く喋るの、苦手なんで、短くするよ」
スタンドに、小さな笑いが起きた。
「三年間、見ててくれて、ありがとう。アタシが好き勝手に走ってるの、面白がってくれて、ありがとう」
シービーは、少しだけ息を吸った。
「たまに、こう走るはず、って言われるのが嫌だった時期もあったんだけど。……でも、みんながアタシの走りに何か見てくれてたのは、ちゃんと嬉しかったんだ」
スタンドが、静まり返った。
「今日で、走るのは最後。でも、アタシは、まだ全部は決めてないんで。……また、どこかで、面白いことしてるの見つけたら、笑っててよ」
それだけ言って、シービーは、マイクを下ろした。
一瞬の静寂があった。
それから、拍手が、スタンドの端から端まで、波のように広がっていった。誰かが、ありがとう、と叫んだ。それにつられるように、あちこちから、同じ言葉が降ってきた。
シービーは、深く頭を下げた。
顔を上げると、コースの端、関係者の区画に、雅也が立っていた。
一歩下がって、けれど、笑っていた。
それから、雅也は、小さく拍手をした。二回だけ。誰にも聞こえないくらいの音で。
シービーには、それが聞こえた。
*
日が傾き始めたころ、中山の空は、薄い茜色に染まっていた。
最終レースが終わり、スタンドの人々が、少しずつライブ会場のほうへ移動していく。その流れを、シービーは控室の窓から眺めていた。着替えはもう済ませていた。勝負服を脱いで、ステージの衣装に袖を通したとき、少しだけ、指が止まった。
勝負服を着ることは、もうない。
そのことに、脱いだ瞬間、初めて気づいた。
ハンガーに掛けた勝負服は、泥と汗で汚れていた。袖口がほつれかけていて、裾に芝の切れ端が一本、絡みついていた。三年間、何度も着て、何度も洗って、何度も走った服だった。
シービーは、その芝の切れ端を、指でつまんだ。
冬の乾いた芝だった。細くて、硬くて、根元のほうが少しだけ白っぽくなっていた。
捨てようとして、やめた。
ポケットに入れた。ステージ衣装のポケットに。なぜそうしたのかは、自分でも分からなかった。
控室の扉がノックされて、スタッフが時間を告げた。
*
ステージの袖は、暗かった。
客席の歓声が、厚い幕越しに、くぐもって聞こえてきた。何万という人の声が、同じ名前を、同じ調子で、繰り返し呼んでいた。シー、ビー。シー、ビー。その声が、床を伝って、足の裏に響いてきた。
隣に、エースが立っていた。
ルドルフも、少し離れたところにいた。
三人とも、何も言わなかった。
レースのあとで、何かを言い合うには、まだ時間が足りなかった。けれど、同じ場所に立って、同じ幕の向こうの歓声を聞いていることが、言葉の代わりになっていた。
袖の奥、スタッフの動線の端に、雅也がいた。
客席に出るのではなく、舞台袖から見守る。三年間、ずっとそうだった。ライブのレッスンのときも、雅也は、振付には口を出さなかった。ただ、テンポと呼吸と入りのタイミングについてだけ、ときどき、短く言った。今の入り、前より半拍早かったな。息、サビの前で一回吸い直してるだろ。ピアノをやっていた人らしい、細かい耳だった。弾けるとは言ってない、とは言い張るけれど。
雅也が、シービーに気づいた。
何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
シービーも、頷き返した。
幕が、上がった。
光が、押し寄せてきた。
無数のペンライトが、客席を埋め尽くしていた。色とりどりの光が、波のように揺れて、ステージの縁まで押し寄せてきた。歓声が、今度は幕を隔てずに、まっすぐにシービーの身体を打った。
音楽が、始まった。
シービーは、センターに立って、歌った。
レースとは、まるで違う身体の使い方だった。脚ではなく、声で。前へ進むのではなく、その場で、客席へ向かって何かを返すために。
歌いながら、客席を見た。
前のほうの席に、パドックで見た男の子がいた。父親の肩の上で、小さなペンライトを、一生懸命に振っていた。その隣で、ハンカチで目を押さえていた年配の女性が、今度は笑っていた。泣きながら、笑っていた。
シービーは、その二人に向かって、手を伸ばした。
振付にはない動きだった。
けれど、止まらなかった。伸ばした手を、そのまま大きく振った。男の子が、目を丸くして、それから、父親の肩の上で跳ねるように手を振り返した。
曲の途中で、エースと目が合った。
エースは、歌いながら、にっと笑った。レースのときと同じ笑い方だった。挑むような、楽しそうな。
ルドルフとも、目が合った。
皇帝は、ステージの上でも、背筋をまっすぐに伸ばしていた。けれど、その口元は、ほんの少しだけ、柔らかかった。
最後のサビに入る前、シービーは、一度だけ、舞台袖を見た。
暗がりの中に、雅也がいた。
腕を組んで、ステージを見ていた。
表情までは、見えなかった。けれど、シービーには分かった。あの人は、今、テンポを聞いている。呼吸を聞いている。入りのタイミングを聞いている。そして、たぶん、笑っている。
シービーは、息を吸い直した。
サビの前で、一回。
雅也に言われたとおりに。
最後のフレーズを、歌い切った。
音楽が止んだ。
一瞬の静寂があった。
何万という人が、同時に息を止めた、その一瞬。ペンライトの光だけが、音もなく揺れていた。
それから、歓声が、爆発した。
レースのゴールのときとは違う種類の歓声だった。叫び声ではなく、呼びかけだった。ありがとう。おつかれさま。忘れない。シービー。シービー。シービー。
シービーは、センターに立ったまま、客席を見渡した。
端から端まで。一番前から、一番後ろまで。
たった一度の、景色だった。
シービーは、深く、頭を下げた。
顔を上げたとき、自分が笑っていることに気づいた。泣いてはいなかった。泣く理由が、なかった。
全部、自分で選んだことだった。
*
ライブが終わったあと、控室は、驚くほど静かだった。
さっきまでの歓声が、嘘のように遠かった。扉を一枚隔てただけで、世界が、こんなにも静かになる。聞こえるのは、暖房の低い唸りと、自分の呼吸と、ときどき廊下を通り過ぎるスタッフの足音だけだった。
シービーは、椅子に座って、靴を脱いだ。
足の裏が、じんと熱かった。ステージの上で、ずっと跳ねていた。レースのあとで、ステージの上で。今日一日で、どれだけ脚を使っただろう。
汗が、首筋を伝って、襟元に吸い込まれていった。
扉が、ノックされた。
「入るぞ」
雅也だった。
手に、水のボトルを持っていた。冷えたボトルの表面に、細かい水滴がびっしりとついていた。
雅也は、何も言わずに、それをシービーに渡した。
シービーは、受け取って、一気に半分ほど飲んだ。冷たい水が、喉の奥から胃の底まで、まっすぐに落ちていった。身体の中の熱が、少しだけ引いていった。
「……サビの前」
雅也が、ぽつりと言った。
「一回、吸い直してたな」
「うん」
「入りも、前より半拍早かった」
「うん」
「……振付にない動き、してたろ」
シービーは、ボトルから口を離して、雅也を見た。
雅也は、少しだけ笑っていた。
「前のほうの子に、手、振ってた」
「……見てたんだ」
「見てた」
雅也は、壁にもたれて、腕を組んだ。
「あれ、よかった」
それだけだった。
シービーは、ボトルを両手で握ったまま、しばらく何も言わなかった。
それから、ステージ衣装のポケットに、手を入れた。
芝の切れ端が、まだそこにあった。
取り出して、雅也に見せた。
「……これ、勝負服についてた」
雅也は、その細い芝の切れ端を見た。
「中山の芝だな」
「うん。……捨てられなかった」
シービーは、芝の切れ端を、指先でくるくると回した。
「勝負服、もう着ないんだなって、脱いだとき思って。そしたら、これが目に入って」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、黙って、シービーの指先の芝を見ていた。
しばらくして、雅也は、ブルゾンの内ポケットから、何かを取り出した。
折りたたまれた紙だった。
四枚。
今朝、シービーが「全部覚えた」と言って返した、四枚のレースプランだった。
「……俺も、捨てられなかった」
雅也が、言った。
シービーは、その四枚の紙を見て、それから、雅也の顔を見た。
そして、吹き出した。
「なにそれ」
「……使われなかったプランだぞ。四枚とも」
「うん」
「三年間で初めてだ。一枚も使われなかったの」
雅也は、紙を指で弾いた。
「……でも、一番いいレースだった」
シービーは、笑いながら、少しだけ目の奥が熱くなるのを感じた。
泣かなかった。
代わりに、芝の切れ端を、雅也の手の中の紙の上に、そっと置いた。
「じゃあ、一緒にしといて」
雅也は、芝の切れ端と、四枚の紙を、しばらく見下ろしていた。
それから、紙を丁寧に折りたたんで、芝の切れ端をその間に挟み込んで、内ポケットにしまった。
「……預かっとく」
「うん」
*
翌朝の新聞は、どれも同じ写真を載せていた。
冬の中山のウイナーズサークル。三冠ウマ娘の肩の上で、真っ赤な顔をして、それでも笑っているトレーナー。
見出しは、さまざまだった。
最後の日に最高の笑顔。十九戦十九勝、自由のまま走り終える。演出家、最後の演出は肩車。三年間の感謝を、肩に乗せて。
どの見出しも、温かかった。
ワイドショーでは、その映像が何度も流れた。コメンテーターたちが、微笑ましそうに笑っていた。何人かは、二人の関係について、少しだけ踏み込んだ想像を口にした。けれど、それ以上は誰も言わなかった。あの肩車は、恋愛の話ではなく、三年間を走り切った二人の、あの日だけの景色として、多くの人に受け取られていた。
学園の中でも、その写真は話題になっていた。
廊下ですれ違う後輩たちが、くすくすと笑いながら、シービーに頭を下げていった。何人かは、スマートフォンの画面を見せてきた。先輩、これ最高でした、と。
トレーナー仲間の何人かは、雅也の肩を叩いて、からかうように笑っていた。雅也は、そのたびに、苦笑して頭を掻いていた。取材の申し込みも増えたらしかった。けれど雅也は、個人的な質問には答えず、シービーの走りの話にだけ応じていた。
シービーは、それを遠くから眺めていた。
困っている雅也の顔を見るのは、少しだけ面白かった。
あとで、ルビーからも連絡が来た。短い文面だった。大変に愉快な写真でございました、と。その一文に、シービーは声を出して笑った。
*
引退会見は、三日後に行われた。
学園の講堂に、報道陣が詰めかけた。テレビカメラの列が、壁際にずらりと並んでいた。シービーは、長い机の中央に座り、その隣に、雅也が座った。
雅也は、また、アイロンの跡のついたシャツを着ていた。
今度のアイロンは、少しだけ上手くなっていた。
シービーは、それに気づいて、会見が始まる直前に、小さな声で言った。
「……今日のシャツ、ちょっとましだね」
「練習した」
雅也が、真顔で答えた。
シービーは、吹き出しそうになるのを、必死でこらえた。
司会の合図で、会見が始まった。
最初の質問は、予想どおりだった。
「なぜ、今、引退を決められたのでしょうか」
シービーは、マイクに少しだけ顔を寄せた。
「自分の中で、ここまでだと思ったから」
短い答えだった。講堂が、少しだけざわめいた。
「もう走れないから、とかじゃないんだ。走れるし、たぶん、まだ勝てると思う。でも、ジャパンカップのあとくらいから、ここで区切りだなって、自分で思ったんだ」
記者たちが、ペンを走らせる音がした。
次の質問。
「十九戦十九勝、生涯無敗という記録について、どう受け止めていますか」
シービーは、少しだけ考えた。
「すごいとは、思うんだ。自分でも」
講堂に、小さな笑いが起きた。
「でも、十九勝しようと思って走ったことは、一回もないんだ。一戦ずつ走った結果が、十九になっただけだよ。……それだけを、自分の価値にはしたくないかな」
また、ペンの音。
別の記者が、手を挙げた。
「まだ走れるのに、引退されるのは、もったいないという声も多いですが」
シービーは、その記者の顔を、まっすぐに見た。
「走れるかどうかじゃなくて、今やめたいと思ったから」
それだけ言って、少しだけ笑った。
「もったいないって言ってもらえるのは、嬉しいんだけどね」
次の質問。
「今後の活動については、いかがですか」
「まだ全部は決めてないんだ」
シービーは、即答した。
「決めてないっていうか、決めたくないっていうか。……これから、ゆっくり選ぶよ」
講堂が、少しだけ和やかな空気になった。
それから。
最後の質問が、来た。
「早瀬トレーナーとの関係について、今後はどのようにお考えですか」
講堂の空気が、ほんの少しだけ、変わった。
中山の、ウイナーズサークルでの一幕を、誰もが覚えていた。あの日の夜のニュースで、何度も流れた映像。トレーナーを肩車した三冠ウマ娘と、その肩の上で真っ赤になって笑っていたトレーナー。翌朝の新聞の写真。見出しには、最後の日に最高の笑顔、と書かれていた。
シービーは、すぐには答えなかった。
隣を、見た。
雅也を、見た。
一度だけ。
それから、間を置いた。
講堂が、静まり返った。
何十という記者が、何十というカメラが、息を詰めて、シービーの次の言葉を待っていた。
シービーは、マイクに向き直った。
「これからも、トレーナーと一緒に生きていくよ」
講堂が、ざわめいた。
隣で、雅也が、固まった。
シービーには、それが分かった。見なくても分かった。隣の人の呼吸が、一瞬、止まった。
シービーは、続けた。
「アタシが自分で選んだ人生を、これからも一緒に歩いていくってこと。だって、アタシが一番自由に走れた時間を作ってくれた人だから」
ざわめきが、さらに大きくなった。
記者たちが、顔を見合わせていた。何人かが、雅也のほうにマイクを向けようとして、司会に止められていた。カメラのシャッター音が、一斉に鳴り始めた。
雅也は、まだ固まっていた。
シービーは、そっと横目で見た。
雅也の顔が、少しずつ、赤くなっていった。耳の先から。首筋から。それから、頬へ。
雅也は、何かを言おうとして、口を開いた。
閉じた。
もう一度、開いた。
それから、少し遅れて、笑った。
困ったように。照れたように。けれど、どこか、嬉しそうに。
それを見て、シービーも、いつもの調子で笑った。
*
会見が終わって、講堂の裏の廊下を歩きながら、雅也が言った。
「……かなり踏み込んだね」
「そう?」
「止まった」
「止まりかけただけでしょ」
「止まった」
シービーは、雅也の顔を見上げた。
雅也は、まだ少しだけ耳が赤かった。
「……じゃあ、まだ大丈夫だ」
シービーが言うと、雅也は、何か言い返そうとして、結局、苦笑しただけだった。
そのあと、雅也は、普通に仕事をこなした。
報道陣への個別の対応。学園側との打ち合わせ。記録の整理。いつもと同じように、淡々と、一つずつ。シービーは、その背中を、少し離れたところから眺めていた。
何事もなかったように見えた。
けれどシービーは、知っていた。
この人は、大きな感情が、少し遅れてやってくる人だった。
*
その夜、トレーナー室で、雅也は一人、記録映像を見返していた。
十九戦目の、有馬記念。三コーナーで大外へ出ていく、小さな影。四コーナーで集団を飲み込んでいく影。坂を上り切る影。ゴール板を過ぎる、三つの影。
それから、ウイナーズサークル。
肩の上に持ち上げられて、真っ赤になっている自分。
雅也は、少しだけ苦笑した。
それから、今日の会見の映像を開いた。
シービーが、隣を見る。一度だけ。間を置く。講堂が静まり返る。そして。
これからも、トレーナーと一緒に生きていくよ。
雅也の手が、止まった。
マウスの上で、指が、ぴたりと動かなくなった。
画面の中で、シービーが続けていた。アタシが自分で選んだ人生を。一番自由に走れた時間を作ってくれた人だから。
雅也は、動かなかった。
長い時間。
暖房の唸りだけが、部屋の隅で続いていた。
やがて、雅也は、映像を止めた。
ブルゾンの内ポケットに、手を入れた。折りたたまれた四枚の紙と、その間に挟まった、細い芝の切れ端。
それを、机の上に置いた。
誰にも、何も言わなかった。
第七章 ゴールのない道の、最初の一歩
担当契約の終了手続きは、思っていたより地味だった。
学園の事務棟の小さな会議室で、書類に名前を書いて、判を押して、それで終わりだった。三年間の記録の整理と、身体データの引き継ぎと、いくつかの確認事項。窓の外では、冬の曇り空が、低く垂れこめていた。暖房の効きが悪くて、会議室の中は少しだけ肌寒かった。
シービーは、最後の書類に名前を書き終えて、ペンを置いた。
隣で、雅也も、ペンを置いた。
事務のスタッフが、書類を揃えて、確認して、頷いた。これで、手続きはすべて完了です、と。三年間、お疲れさまでした、と。そう言って、会議室を出ていった。
扉が閉まった。
二人だけになった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
窓の外で、風が吹いていた。枯れた木の枝が、かすかに揺れていた。
シービーは、机の上の、自分が書いた名前を見下ろしていた。ミスターシービー。三年前、契約書に同じ名前を書いたときと、字の形が少しだけ変わっていた。少しだけ、大人びていた気がした。
雅也が、立ち上がった。
シービーも、立ち上がった。
二人は、机を挟んで、向かい合った。
雅也が、手を差し出した。
シービーは、その手を握った。
冷たい手だった。いつもどおりの、冷たい手。けれど今日は、握手をする前に、雅也がこっそり手をこすり合わせていたのを、シービーは見ていた。温めようとしたのだ。少しだけ、温まっていた。
「三年間、お疲れさま」
雅也が言った。
「キミも」
シービーが言った。
「楽しかった」
「アタシも」
それだけだった。
手を離した。
競技者とトレーナーとしての関係は、そこで終わった。
雅也は、これからも担当だ、とは言わなかった。シービーも、これからもトレーナー、とだけ呼び続けるつもりはなかった。二人とも、それが終わったことを、ちゃんと認めた。終わったものを終わっていないふりをするのは、嘘や誤魔化しと同じだった。シービーは、それが苦手だった。
会議室を出て、廊下を並んで歩いた。
いつもの距離だった。けれど、何かが、少しだけ違っていた。
何が違うのかは、まだ分からなかった。
*
数日後、学園の中庭のベンチで、二人は並んで座っていた。
冬休みに入って、学園は静かだった。生徒の姿はまばらで、中庭の芝生の上を、雀が数羽、跳ねるように歩いていた。空は晴れていて、冬の低い陽射しが、ベンチの木の座面をほんのりと温めていた。
シービーは、膝の上に、スマートフォンを置いていた。今朝撮った朝日の写真が、画面に映っていた。寝ぼけていなくて、ちゃんとピントが合っていて、少しだけつまらない写真だった。
「ねえ」
シービーが、言った。
「ん?」
雅也が、手に持っていたたい焼きから顔を上げた。糖分の補給だと、今朝も言っていた。
「今日、トレーナーじゃないんだよね」
「そうだな」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
雅也は、たい焼きを持ったまま、少しだけ考えるような顔をした。
「……好きに呼べばいい」
シービーは、雅也の横顔を見た。
三年間、ずっと「トレーナー」と呼んできた。ときどき、会話の中で「キミ」を混ぜた。それ以外の呼び方を、一度もしたことがなかった。
好きに呼べばいい。
そう言われて、シービーは、少しだけ考えた。
考えて、それから、最初に浮かんだものを、そのまま口にした。
「じゃあ、雅也」
雅也の手が、止まった。
たい焼きを持ったまま、ぴたりと。
「……ああ」
短い返事だった。
けれど、その返事の前に、ほんの少しだけ、間があった。
シービーは、それを聞き逃さなかった。
「もう一回言っていい?」
「いいけど」
「雅也」
「……うん」
雅也は、たい焼きを一口かじった。それから、視線を中庭の雀のほうへ向けた。
耳の先が、少しだけ赤かった。
シービーは、それ以上、何も言わなかった。
ベンチの上で、少しだけ足を揺らしながら、冬の陽射しの中で、雀を眺めていた。
雅也も、何も言わなかった。
二人は、そのまま、しばらく並んで座っていた。
雀が、何かに驚いたように、一斉に飛び立っていった。
*
引退してから最初の一週間は、驚くほど何もなかった。
一日目は、契約終了の手続き。二日目は、何の予定も入れなかった。一人暮らしの部屋で、昼過ぎまで寝て、起きてから、歌舞伎の録画を一本観た。三日目、シービーは、雅也に短い連絡を送った。
今日、暇?
返事は、少しだけ遅れて来た。
夕方からなら。
それだけの、短いやり取りだった。
夕方、二人は、学園の外で待ち合わせた。
どこへ行くか、決めていなかった。シービーが歩き出した方向へ、雅也がついてきた。商店街を抜けて、川沿いの道を歩いて、途中で見つけた小さな喫茶店に入った。古い店だった。木の床が軋んで、コーヒーの匂いが、壁の奥まで染み込んでいた。
何を頼むか、シービーが決めた。
何時に帰るか、二人で決めた。
次にどこへ行くか、また今度、と言って決めなかった。
現役のころなら、それは全部、「担当とトレーナー」として処理していたことだった。練習の予定、食事の管理、休養の時間。けれど今は、違った。店を選ぶことも、帰る時間を決めることも、次の予定を話すことも、全部が、二人で一から決めることだった。
決まったルールは、どこにもなかった。
それが、少しだけ怖くて、少しだけ、面白かった。
帰り道、川沿いの道を歩きながら、シービーは、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「……これ」
雅也が、足を止めた。
「約束したでしょ。引退したら見せるって」
あの朝、霜の降りた土手の上で。短歌で分かった、と言ったら、見せてもらえるか、と訊かれた。やだ、と答えて、引退したら見せてあげる、と言った。
雅也は、紙を受け取った。
街灯の下で、広げた。
しばらく、黙って読んでいた。
通り過ぎる はずの景色に 立ち止まる
ゴールの先の 風の静けさ
雅也は、何度か、その短い歌を目で追った。
それから、顔を上げた。
「……いい歌だな」
「上手くないでしょ」
「上手いかどうかは、俺には分からない」
雅也は、正直に言った。
「でも、ジャパンカップのあとの君の顔、思い出した」
シービーは、少しだけ目を丸くした。
「……あの夜の?」
「あの夜の。ソファで、天井見てたろ」
雅也は、紙を丁寧に折りたたんだ。
「あのとき、何考えてたのか、やっと分かった気がする」
シービーは、何も言わなかった。
ただ、雅也の手の中の、折りたたまれた紙を見ていた。
「……それ、あげる」
「いいのか」
「うん。……芝のやつと、一緒にしといて」
雅也は、少しだけ笑って、紙をブルゾンの内ポケットにしまった。
四枚のレースプランと、中山の芝の切れ端が入っている、同じポケットに。
*
それから数週間が経った。
年が明けて、学園に生徒たちが戻ってきた。シービーは、もう走らなかった。けれど、学園には毎日来ていた。卒業まで、あと少しだけ時間があった。引退して、担当契約も終わって、それでもまだ在学している。そういう、宙ぶらりんの時間だった。
その日、シービーは、スタンドにいた。
カツラギエースのレースを、観に来ていた。
エースは、年が明けても走り続けていた。シービーが引退したあとも、自分のレースを、自分の脚で。
その日、エースは、負けた。
最後の直線で、外から来た相手に、わずかに差された。
ゴールのあと、エースは、しばらくコースの上で立ち尽くしていた。それから、うつむいて、ゆっくりと引き上げていった。
シービーは、スタンドから降りて、通路の出口で、エースを待った。
声を掛けようと思った。
エースが、通路の向こうから歩いてきた。汗まみれで、泥まみれで、目が赤かった。シービーに気づいて、少しだけ足を止めた。
シービーは、口を開いた。
言葉が、出なかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
有馬記念のあとと、同じだった。いや、あのときよりも、もっと分からなかった。あのときは、自分が勝った相手だった。今日は、自分とは関係のないレースで、自分の大事な友人が負けた。
それなのに、掛ける言葉が、一つも見つからなかった。
一度も、負けたことがないから。
負けたときに、何を言われたら嬉しいのか。何を言われたら悔しいのか。何を言われたら、もう一度走ろうと思えるのか。
シービーは、それを、何一つ知らなかった。
エースは、しばらくシービーの顔を見ていた。それから、少しだけ笑って、何も言わずに、シービーの肩を軽く叩いた。そして、控室のほうへ歩いていった。
シービーは、その背中を見送った。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいた。
*
その夜、シービーは、雅也に電話をかけた。
今日のことを、話した。エースが負けたこと。声を掛けようとして、言葉が出なかったこと。有馬記念のあとも、同じだったこと。
「……アタシ、持ってないんだよね」
シービーは、電話越しに言った。
「負けた人に掛ける言葉。一回も負けたことないから」
雅也は、しばらく黙っていた。
慰めなかった。大丈夫だ、とも、気にするな、とも言わなかった。
「持ってないなら、これから作ればいい」
雅也が、言った。
「どうやって」
「訊けばいいんじゃないか。何が悔しいのか」
シービーは、電話を耳に当てたまま、黙った。
窓の外で、冬の夜の風が、電線を鳴らしていた。
何が悔しいのか。
訊く。
一回では終わらせずに。角度を変えて、もう一回。
「……それ、キミが三年間やってたやつじゃん」
「そうだな」
電話の向こうで、雅也が、少しだけ笑った気配がした。
シービーも、笑った。
胸の奥の冷たいものが、少しだけ、溶けた気がした。
*
卒業式の少し前、二人は、あの土手の上にいた。
学園のコースの外れ、東の端の、小さな土手。十二月のあの朝、シービーが引退を告げた場所だった。
まだ早い時間だった。地平線のあたりが、薄い橙色に滲み始めていた。霜は、もう降りていなかった。冬の終わりの空気は、まだ冷たかったけれど、どこか、柔らかくなっていた。
雅也は、紙コップを二つ持ってきていた。
中身は、ココアだった。
「朝から?」
「朝だからだ」
同じやり取りだった。シービーは笑って、紙コップを受け取った。
二人は、土手に並んで座った。
地平線が、少しずつ明るくなっていく。
「……ねえ、雅也」
シービーが、言った。
名前を呼ぶのには、少しだけ慣れてきた。けれど、呼ぶたびに、雅也の返事の前に、ほんの少しだけ間があることには、まだ慣れなかった。慣れたくない気もした。
「ん」
「これから、どうする?」
雅也は、ココアを一口飲んだ。
それから、答えを急がずに、シービーのほうを向いた。
「……君は、どうしたい」
シービーは、少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
三年間、ずっとそうだった。この人は、答えを先に言わない。選択肢を並べて、その結果として起こりうることを話して、そして、どれを選ぶかは、シービーが決める。
引退しても、契約が終わっても、それは変わらなかった。
「……まだ、全部は決めてない」
シービーは、会見で言ったのと同じ言葉を言った。
「でも、一個だけ決めてる」
「何」
シービーは、朝日のほうを見た。
地平線から、太陽が、ゆっくりと顔を出し始めていた。橙色が、金色に変わっていく。空の群青が、薄い水色に溶けていく。学園の校舎の屋根が、一枚ずつ、光を受けて輪郭を取り戻していく。
始まる前も、たった一度の景色。
シービーは、スマートフォンを取り出して、一枚だけ撮った。
それから、雅也のほうを向いた。
「ねえ、雅也。これからも面白いことしようよ」
雅也は、少しだけ目を細めた。
「うん」
「約束ね」
「約束」
それだけだった。
どこへ行くのか、何をするのか、何も決まっていなかった。
レース場には、ゴールがあった。ゴール板を過ぎれば、勝ったか負けたかが決まって、次のレースが来た。三年間、ずっとそうだった。
けれど、これから先の道には、決められたゴールがない。
だから、どこへ行くかを、また、自分たちで決める。
一歩ずつ。
シービーは、ココアを飲み干して、立ち上がった。
朝日が、完全に地平線から離れていた。光が一気に強くなって、土手の草が、一斉に金色に輝いた。
シービーは、その光の中で、振り返った。
雅也が、まだ座っていた。飲み干した紙コップを持って、こちらを見上げていた。
「行こ」
シービーが、手を差し出した。
雅也は、その手を見て、少しだけ笑った。
それから、手を取って、立ち上がった。
冷たい手だった。
けれど、ほんの少しだけ、温まっていた。