ウマ娘とオリ主によるそれぞれの未来   作:乙姫さん

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宵待ち珈琲店と家族の物語〜マンハッタンカフェ

第一部 宵待ちの朝

一 五時の台所

 

 十月の朝の五時、台所の小さな明かりの下で、マンハッタンカフェは豆を挽いていた。

 手回しのミルの把手を、ゆっくりと回す。乾いた豆が、刃の間で砕けていく。ごり、ごり、と低い音が、まだ眠っている家の中に、控えめに響いた。挽きはじめの香りは、いつも少しだけ青い。それが、回すほどに深くなって、焦がした砂糖のような甘さと、雨上がりの土のような重さを帯びてくる。

 窓の外は、まだ暗かった。

 夜と朝の境目の、色のない暗さだった。台所の窓ガラスに、自分の姿がうっすらと映っていた。黒い長い髪を、首の後ろで一つに束ねて、紺色の厚手のカーディガンを羽織っている。前髪が、目元に少しかかっている。三十一の秋になっても、鏡に映る自分は、学園にいた頃とあまり変わらないように見えた。変わったのは、たぶん、手のほうだった。豆を挽く手。湯を落とす手。小さな頬を拭く手。

 背後で、廊下の床が、かすかに軋んだ。

「……おはよう」

 低い、まだ眠そうな声だった。

「おはようございます」

 カフェは、ミルを回す手を止めずに言った。振り返らなくても、誰か分かった。足音の重さで。廊下の、いつも軋む板を、いつもと同じように踏んだので。

 早瀬雅也が、台所の入口に立っていた。トレーニングウェアの上に、薄いジャケットを羽織っていた。髪の後ろが、少しだけ寝癖で跳ねていた。四十を過ぎて、目元に細い皺が増えた。けれど、寝起きの顔は、あまり変わらない。

「今日も、五時半ですか」

「うん。セレネの朝の坂路、見ておきたい。……カザハナは、昨日の疲れが残ってたら、軽めにする」

「はい」

 カフェは、挽き終えた粉を、ネルの袋に移した。

 ケトルの湯は、もう沸いていた。火から下ろして、少しだけ待つ。湯の温度が落ち着くのを。待つ時間を、急がない。それは、ずっと昔、学園の小さな部屋で、自分のためにだけコーヒーを淹れていた頃からの習慣だった。

 湯を、細く落とした。

 粉が、ふっくらと膨らんだ。小さな泡が、表面に浮かんでは、消えていった。湯気が、台所の明かりの中を、ゆらりと昇った。

 雅也は、何も言わずに、台所のテーブルの椅子に座っていた。

 カフェが湯を落とすあいだ、雅也は、話しかけない。結婚して、七年と少し。付き合いはじめてから数えれば、十二年。担当だった頃から数えれば、もっと長い。その長い時間のどこかで、自然にそうなった。湯を落とすあいだは、黙って待つ。待つことを、この人は、苦にしない。

 カップに注いだ。

 雅也の分は、少し濃いめに。自分の分は、いつもより少しだけ薄めに。

「どうぞ」

「ありがとう」

 雅也は、両手でカップを包んだ。指先が、いつものように冷たそうだった。一口飲んで、目を閉じた。

「……今日のは、少し苦味が強い」

「はい。昨日、焙煎の時間を、少しだけ延ばしました。朝の分は、これくらいの方が、目が覚めるかと思って」

「覚める。……でも、店で出すなら、もう少し手前で止めた方がいいかもしれない。昼に飲む人には、強いかも」

「……そう思います。店の分は、別に煎りました」

「さすが」

 雅也は、少しだけ笑った。

 カフェは、自分のカップを両手で持って、ゆっくりと一口飲んだ。熱い液体が、喉を通って、胸の奥へ落ちていった。一気に飲むと、お腹が痛くなる。だから、ゆっくり。子どもの頃からずっと、そうしてきた。

 窓の外が、ほんの少しだけ、白みはじめていた。

「……今日、迎えは」

 雅也が、カップを置いて言った。

「レッドは、学童に寄らずに、まっすぐ店に来ます。クインは、延長保育の日です。……雅也さんは」

「今日は、夕方の練習が六時に終わる。クインは、俺が迎えに行ける」

「お願いします」

「レッドは、店で宿題か」

「はい。カウンターの端で。……コトノハさんが、見てくれると言っていました」

「コトノハは、今週テストだろ」

「……そうでした」

 カフェは、カップを持ったまま、少しだけ眉を寄せた。

 コトノハリズムは、店で働いてくれている学園の生徒の一人だった。高等部の二年生。今週は、中間試験だった。シフトは、試験が終わるまで減らしてある。それなのに、昨日の帰りに、「レッドちゃんの宿題、見ときますね!」と言ってくれた。カフェは、その言葉を、少し嬉しく受け取って、そのまま試験のことを忘れていた。

「……コトノハさんには、今週は休んでもらいます。レッドの宿題は、私が見ます」

「店、回るか」

「平日の午後は、そんなに混みません」

「……そうか」

 雅也は、それ以上は言わなかった。店のことは、カフェが決める。それも、店を開いてからの八年の間に、二人の間で自然に決まったことだった。

 廊下の奥で、小さな足音がした。

 ぺた、ぺた、と、裸足で床を踏む、軽い音だった。

 

 二 小さな足音

 

「……ママぁ」

 台所の入口に、小さな影が立っていた。

 レッドディザイアだった。六つになったばかりの、上の娘。黒い髪を、肩のあたりで切りそろえている。寝癖で、片方だけが外に跳ねていた。パジャマの上着の裾を、片手でぎゅっと握っていた。耳が、半分寝ているように、少し伏せていた。

「レッド。まだ、五時半ですよ」

「……おしっこ、いきたくて、おきたの」

「行ってきましたか」

「いってきた」

「えらいです」

 レッドは、台所の明かりを、眩しそうに目を細めて見ていた。それから、テーブルの雅也を見つけて、ぱっと目を開いた。

「パパ、もう、いくの?」

「うん。もうすぐ」

「……はやい」

「早いな。ごめんな」

 レッドは、裸足のまま、ぺたぺたとテーブルに歩いていった。雅也の膝に、よじ登ろうとした。雅也は、カップをテーブルの奥に避けて、レッドを膝の上に抱き上げた。

「冷たい足だな」

「つめたくない」

「冷たい。……靴下、履いてこなかったのか」

「おしっこだったから」

「そうか。おしっこなら、仕方ない」

 レッドは、雅也の胸に頭をもたせかけて、目を閉じた。半分、眠っていた。耳が、雅也の顎の下で、くすぐったそうに、ぴくりと動いた。

「……パパ、コーヒーのにおいがする」

「ママのコーヒー、飲んだからな」

「……ママのコーヒー、いいにおい」

「いいにおいだな」

「レッドも、のみたい」

「大人になったらな」

「……おとなって、いつ」

「レッドが、もう少し、大きくなったら」

「……もうすこしって、どのくらい」

 雅也は、少し困ったような顔で、カフェの方を見た。

 カフェは、小さなミルクパンを火にかけた。牛乳を、少しだけ温めた。それから、小さなマグカップに注いで、ほんの一滴だけ、コーヒーを垂らした。白い牛乳の表面に、薄い茶色の輪が、ふわりと広がった。

「……どうぞ。レッドの分です」

 レッドが、目を開けた。マグカップを見て、それから、カフェの顔を見た。

「……コーヒー?」

「コーヒー、一滴だけ。あとは、牛乳です」

「……コーヒー、はいってるの?」

「入っています。一滴だけ」

 レッドは、両手でマグカップを受け取った。熱くないか、確かめるように、少しだけ唇をつけた。それから、こくりと飲んだ。

「……コーヒーのあじ、する」

「本当ですか」

「する。……ちょっとだけ」

「よかったです」

 レッドは、満足そうに、マグカップを両手で包んで、雅也の膝の上で、ゆっくりと飲んだ。ゆっくり。カフェがそうするのを、いつも見ているからだと、カフェは知っていた。

 雅也が、レッドの頭の上から、カフェを見た。

 少しだけ、笑っていた。何も言わなかった。けれど、その目が、ありがとう、と言っていた。

 ――一滴だけ、ですけど。

 カフェは、心の中で、そう答えた。

 時計の針が、五時四十分を指していた。雅也は、レッドを膝から降ろして、椅子に座らせた。それから、ジャケットの前を閉めて、立ち上がった。

「行ってくる」

「いってらっしゃい」

「……レッド。ママと、クインをよろしくな」

「うん。……パパ、いってらっしゃい」

「いってきます」

 雅也は、レッドの頭に手を置いた。それから、カフェの方へ一歩近づいて、カフェの肩に、そっと手を置いた。冷たい手だった。いつも冷たい。

「……今日のコーヒー、うまかった。苦味が強いのも、目が覚めてよかった」

「店の分は、別ですから」

「分かってる。……夕方、迎えに行くとき、店に寄る」

「はい」

 雅也が、玄関へ向かった。靴を履く音。扉が開く音。外の冷たい空気が、ほんの一瞬だけ、廊下を流れてきた。扉が閉まる音。

 家の中が、また、静かになった。

 レッドが、マグカップを両手で持ったまま、窓の外を見ていた。

「……ママ」

「はい」

「そら、まだ、くらいね」

「まだ、暗いですね」

「……くらいの、すき」

「……私も、好きです」

 レッドは、マグカップの縁に唇をつけたまま、くふっと笑った。

 カフェは、自分のカップを両手で持って、レッドの隣の椅子に座った。二人で、まだ暗い窓の外を、しばらく黙って見ていた。台所の明かりが、二人の影を、テーブルの上に、並べて落としていた。

 ――あと三十分だけ。

 カフェは、そう思った。あと三十分経ったら、クイーンズリングを起こして、二人の着替えを手伝って、朝ごはんを食べさせて、レッドを小学校へ、クインを保育園へ送っていく。それから、店へ行く。豆を量って、湯を沸かして、床を拭いて、十一時に扉の札を返す。

 けれど、今は、まだ。

 まだ暗い窓の外を、娘と二人で、黙って見ていられる。

 

 三 朝の嵐

 

 六時半、クイーンズリングを起こしにいくと、クインは、布団の中で丸くなって、尻尾だけを外に出していた。

「クイン。朝です」

「……やだ」

「やだ、ではありません」

「……クイン、まだ、ねてるの」

「寝ている人は、やだ、と言いません」

 布団の中で、もぞもぞと何かが動いた。それから、ぴょこんと、顔が出た。

 下の娘は、姉とは違って、髪の色が少しだけ明るかった。夜明けの空のような、青みがかった黒。くせっ毛で、寝起きは、いつも、頭の上で小さな渦を巻いている。目が、ぱちりと大きかった。四つになって、言葉が急に増えた。増えた言葉の半分くらいが、少しずつ、どこかで取り違えられていた。

「ママ」

「はい」

「きょう、なんようび?」

「木曜日です」

「もくようび……。じゃあ、ほいくえん、カレーのひ?」

「カレーの日は、金曜日です」

「……えー」

 クインは、また布団の中に潜りこんだ。

「カレーのひじゃないなら、いかない」

「行きます」

「いかない」

「今日は、粘土の日だと、先生が言っていました」

 布団が、ぴたりと止まった。

「……ねんど?」

「はい。粘土です」

「……クイン、ねんど、すき」

「そうでしたね」

 布団から、また顔が出た。今度は、さっきより、ずっと目が覚めた顔をしていた。

「ねんどで、なにつくるの?」

「それは、クインが決めることです」

「……じゃあ、ママつくる」

「私を、ですか」

「うん。ママと、パパと、おねえちゃんと、クイン。……あと、ねこ」

「猫は、うちにはいません」

「いないけど、つくるの」

 クインは、布団から跳ね起きた。寝癖の渦が、ぴょんと揺れた。

 朝の台所は、そこから、急に騒がしくなった。

 レッドは、自分で着替えると言って、シャツのボタンを一つずつ留めていた。一番上のボタンが、二番目の穴に入っていた。カフェが黙って直すと、レッドは少しだけ唇を尖らせた。「じぶんで、できたのに」。カフェは「できていました。一つだけ、ずれていました」と言った。レッドは、何も言い返さずに、もう一度、自分で全部外して、最初から留め直した。今度は、ずれなかった。

 クインは、靴下を片方だけ履いて、もう片方をどこかに置き忘れていた。台所のテーブルの下から、食卓の椅子の上から、廊下の隅から、三人で探した。結局、クイン自身のパジャマのポケットの中から出てきた。「……なんで、ここにあるの?」とクインが不思議そうに言った。レッドが「クインが、いれたんだよ」と言った。クインは「いれてないもん」と言った。

 朝ごはんは、トーストと、ゆで卵と、小さく切った林檎だった。

 クインは、林檎を一つずつ、指でつまんで、窓の光に透かしてから食べた。レッドは、ゆで卵の殻を、一枚の大きな欠片になるように、慎重に剥いていた。剥き終えると、殻をカフェに見せた。

「ママ、みて。いっこで、むけた」

「……本当です。一枚で、剥けましたね」

「うん。……ママ、ほめて」

「上手です。殻と白身の間に、指をちゃんと入れていました。慌てずに、少しずつ回していました。だから、一枚で剥けました」

 レッドは、胸を張った。張ったまま、少しだけ、照れたように笑った。

 ――具体的に、褒める。

 カフェは、自分がそう言ったことに、言ってから気づいた。あの人の言い方だった。担当だった頃、レースの後に、あの人がいつもそうしてくれた。三コーナーで、どこを見ていたか。最後の直線で、手の振りがどう変わったか。勝ったことより先に、勝つまでの何かを、言葉にしてくれた。

 十二年経って、自分の口から、同じ形の言葉が出てくる。

 それが、少しだけおかしくて、少しだけ嬉しかった。

 

 四 小さな店

 

 七時四十分にレッドを小学校の門まで送り、八時十分にクインを保育園に預けて、カフェは、店へ向かった。

 店は、学園から歩いて二十分ほどの、古い住宅街の外れにあった。大通りから一本入った、静かな通りの角。両隣は、小さな古書店と、二階建ての古い民家だった。通りの向かいには、桜の古木が一本、枝を広げていた。春には花びらが、秋には色づいた葉が、店の前の石畳に落ちる。

 二階建ての、細長い木造の建物だった。一階が店で、二階は倉庫と、小さな事務机を置いた部屋になっている。築年数は、カフェよりずっと年上だった。外壁の板は、何度も塗り直された跡があって、深い焦げ茶色に落ち着いていた。

 入口の扉の横に、小さな木の看板が、一枚だけ掛けてあった。

 ――喫茶・宵待ち。

 白い字で、それだけ。ほかには何も書いていない。営業時間も、メニューも、店の外には出していない。扉の内側に、小さな紙で貼ってあるだけだった。

 カフェは、鍵を開けて、扉を押した。

 扉の上の鈴が、ちりん、と小さく鳴った。

 店の中は、まだ薄暗かった。

 朝の店は、昨日の夜の匂いを、少しだけ残している。焙煎した豆の甘い焦げの匂い。床を拭いたあとの、木と石鹸の匂い。古い本の紙の匂い。それらが、冷えた空気の中で、静かに混ざり合っていた。

 カフェは、明かりを点けた。

 入口から奥へ、細長く伸びた店だった。右手に、七席のカウンター。左手の壁際に、二人掛けの小さなテーブルが、二つ。それで全部だった。九席。開店したときから、増やしていない。増やすつもりもなかった。

 カウンターの一番奥、店の突き当たりに、大きな窓があった。

 西向きの窓だった。

 朝のうちは、窓の外は、建物の影になって、少し暗い。けれど、午後になると、光が少しずつ角度を変えて、窓から差し込むようになる。夕方には、窓の向こうの空が、橙から紫へ、それから深い青へと色を変えていくのが、店の奥からよく見える。

 その窓の前の、カウンターの一番端の席には、小さな木の札が置いてあった。

 ――予約席。

 開店してから八年、その札は、一度も外されたことがなかった。

 常連の客は、誰も、その席に座らない。訊く人も、ほとんどいない。最初の頃に、一度だけ訊かれたことがある。「あの席は、誰の予約なんですか」と。カフェは、少し考えてから、「いつも来る、友人の席です」と答えた。訊いた客は、それ以上は訊かなかった。

 カフェは、エプロンを締めた。

 焦げ茶色の、厚手の綿のエプロンだった。腰の紐を、背中で二度回して、前で結んだ。

 それから、いつもの順番で、朝の仕事を始めた。

 窓を開けて、空気を入れ替える。床を、乾いた布で一度、固く絞った布でもう一度、拭く。カウンターを拭く。九つの椅子の脚を、一つずつ確かめる。ぐらついているものがないか。棚のカップを、一つずつ手に取って、欠けがないか、曇りがないかを見る。冷蔵庫の温度を確かめて、記録帳に書く。牛乳の日付を確かめる。焼き菓子の仕込み。今日の豆の量。

 開店した頃は、この順番を、毎朝、紙に書いて確かめていた。何か一つ忘れるのが、怖かった。今は、紙を見なくても、身体が順番を覚えている。それでも、記録帳だけは、毎朝つける。温度と、日付と、豆の量と、気づいたこと。

 ――気づいたこと:西の窓の、左下の木枠が、少し乾いている。冬の前に、油を塗る。

 ペンを置いて、カフェは、窓の方を見た。

 予約席の椅子の上に、朝の薄い光が、少しだけ落ちていた。

 誰もいなかった。

 誰もいないように見えた。けれど、カフェには、その椅子が、空いていないことが分かっていた。

 お友だちは、今日も、そこにいた。

 昔は、いつも、カフェの前を走っていた。レースのときも、普段の道でも。カフェは、その背中を追いかけて走った。追いつきたかった。追いつけなかった。最後のレースのゴールで、初めて、並んだと感じた。追い越したかどうかは、今も分からない。

 今、お友だちは、前を走っていない。

 隣にいる日もある。後ろにいる日もある。どこにもいないように感じる日もある。この店を開いてからは、あの窓際の席に座っていることが、一番多かった。

 何をしているのかは、分からない。何を考えているのかも。

 ただ、そこにいる。

 カフェは、それ以上、その席を見なかった。ケトルに水を入れて、火にかけた。

 十一時、カフェは、扉の内側の札を、裏返した。

 ――営業中。

 

 五 午後の客

 

 昼過ぎの「宵待ち」は、静かだった。

 カウンターの真ん中の席に、沢井さんが座っていた。七十を少し越えた、背筋のまっすぐな女性だった。昔は、近くの中学校で国語を教えていたという。開店して三週目に初めて来て、それ以来、週に三度、同じ時間に、同じ席に座る。注文は、いつも同じだった。中煎りのブレンドを一杯と、焼き菓子を一つ。それから、一時間半、鞄から出した文庫本を、ゆっくりと読む。

 入口に近い二人掛けのテーブルには、作業着姿の若い男性が一人、ノート型の端末を広げていた。近くの工務店の人だった。昼の休憩の時間に、ときどき来る。注文は、深煎りを一杯。それを飲み終えるまで、図面のようなものを、指で拡大したり縮めたりしていた。

 カフェは、カウンターの内側で、次の湯を沸かしていた。

 湯が沸く音。ミルの音。湯を落とす音。カップを受け皿に置く、小さな音。沢井さんが文庫本のページをめくる音。作業着の男性の、端末を叩く音。古い柱時計の、振り子の音。

 店の中にある音は、それだけだった。

 カフェは、その音の重なりが、好きだった。

「……マスター」

 沢井さんが、文庫本から顔を上げずに言った。

「はい」

「今日のブレンド、少し、変えたでしょう」

 カフェは、ケトルを持つ手を止めた。

「……分かりますか」

「分かりますよ。後味が、ほんの少しだけ、長い」

「秋の豆を、一種類、入れ替えました。……前のものより、冷めたときに甘さが残るので」

「冷めたときに、ね」

 沢井さんは、カップを持ち上げて、もう一口飲んだ。本を読みながら飲むので、沢井さんのコーヒーは、いつも、最後の方は冷めている。

「……いいわね。私みたいに、ゆっくり飲む人間には、ありがたい」

「ありがとうございます」

 カフェは、少しだけ頭を下げた。

 沢井さんは、それ以上は何も言わなかった。また、文庫本のページをめくった。

 カフェは、カウンターの内側で、小さく息を吐いた。

 ゆっくり飲む人に、合う味。

 それを、豆を入れ替えるときに、考えていた。誰かに言ったわけではない。沢井さんのために変えたのでもない。けれど、店に来る人の半分くらいは、ゆっくり飲む人たちだった。本を読む人。考えごとをする人。窓の外を見ている人。そういう人たちのカップの底に、最後の一口まで、何かが残っていてほしかった。

 ――気づいてくれる人がいる。

 それだけで、豆を入れ替えた意味があった、と思った。

 

 三時を少し過ぎた頃、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

「ただいまぁ」

 レッドだった。

 背中に、赤いランドセルを背負っていた。新しいランドセルは、まだ少し大きすぎて、歩くたびに、背中で小さく跳ねていた。扉の外で、同じ方向に帰る小学生たちが、「レッドちゃん、ばいばーい」と手を振っていた。レッドは、振り返って、小さく手を振った。

「おかえりなさい」

 カフェは、カウンターの内側から言った。

 レッドは、扉の内側で、一度立ち止まった。店の中を、ぐるりと見回した。お客さんが、何人いるか。誰が、どこに座っているか。それから、声を、少しだけ小さくした。

「……ただいま、ママ」

「おかえりなさい」

 カフェは、もう一度言った。今度は、少しだけ、声を柔らかくした。

 店の中に入ると、レッドは、声を小さくする。誰に教えられたわけでもなかった。最初は、大きな声で「ママー!」と言って、店に飛び込んできた。お客さんが、振り返った。沢井さんが、文庫本から顔を上げて、にっこり笑った。レッドは、その笑顔を見て、それから、他のお客さんの顔を見て、急に黙った。その日から、レッドは、店の中では、声を小さくするようになった。

 六つの子が、自分で考えて、そうした。

 カフェは、それを、少しだけ誇らしく思い、少しだけ、寂しく思った。

「あら、レッドちゃん。おかえりなさい」

 沢井さんが、文庫本を閉じて言った。

「……さわいせんせい、こんにちは」

「こんにちは。学校、楽しかった?」

「……うん。きょう、かけっこした」

「かけっこ。速かった?」

 レッドは、少し考えるように、首を傾げた。

「……にばん」

「二番。すごいわね」

「……いちばんじゃなかった」

「二番も、すごいのよ」

 沢井さんは、そう言って、レッドの頭を、優しく撫でた。レッドは、少しだけ、照れたように俯いた。

 カフェは、カウンターの内側で、それを聞いていた。

 ――二番。

 かけっこの、二番。六つの子の、学校の、かけっこの二番。

 何かを言おうとして、言葉が見つからなかった。代わりに、カウンターの端の、レッドの指定席に、小さなマグカップを置いた。温めた牛乳に、ほんの少しの蜂蜜。

「……手を洗ってきてください。宿題は、それからです」

「はーい」

 レッドは、ランドセルを背負ったまま、店の奥の、小さな洗面台へ歩いていった。

 沢井さんが、カフェの方を見て、小さく笑った。

「……マスター。何か、言いたそうな顔ね」

「……いえ」

「二番、ですって」

「……はい」

「あなたは、二番になったこと、ないのよね」

 カフェは、カップを拭く手を止めた。

 沢井さんは、知っていた。この店に来る人の中には、カフェの昔を知っている人もいる。知っていて、ほとんど誰も、それを口にしない。沢井さんも、八年間で、この話をしたのは、たぶん、二度目だった。

「……ありません」

「だから、何て言えばいいか、分からないのね」

 カフェは、何も答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 沢井さんは、文庫本を開き直しながら、言った。

「……あの子が、二番で悔しいのか、嬉しいのか。それを訊いてあげるだけで、いいんじゃないかしら。何て言えばいいかは、それから」

「……」

「教師をやってた頃の、受け売りよ」

 沢井さんは、そう言って、また本の世界へ戻っていった。

 カフェは、拭きかけのカップを、そっと棚に戻した。

 

 六 試験の週

 

 四時半、扉の鈴が、勢いよく鳴った。

「こんにちはー! マスター、遅くなりましたっ!」

 コトノハリズムだった。

 学園の制服の上に、紺色のカーディガンを羽織っていた。肩までの栗色の髪を、高い位置で一つに結んでいた。息が、少し上がっていた。走ってきたのだと、すぐに分かった。手に、教科書の入った重そうな鞄を提げていた。

 カフェは、カウンターの内側から、コトノハを見た。

「……コトノハさん」

「はい! レッドちゃんの宿題、見に来ました!」

「今週は、試験ですよね」

 コトノハの笑顔が、ほんの少しだけ、固まった。

「……あ、えっと、明日は数学と化学なんですけど、数学は得意なので、だいじょうぶで、化学は、えっと、帰ってから――」

「帰って、ください」

 カフェは、静かに言った。

 コトノハが、目を瞬いた。

「レッドの宿題は、私が見ます。……昨日は、ありがとうございました。そう言ってくれたこと、嬉しかったです。でも、私が、試験のことを忘れていました。ごめんなさい」

「え、そんな、マスターが謝ることじゃ――」

「今週は、試験のための週です。この店のシフトも、そのために減らしました。……コトノハさんが、ここで時間を使ったら、減らした意味がなくなります」

 コトノハは、鞄を持ったまま、立ち尽くしていた。

 カフェは、カウンターの内側から出て、コトノハの前に立った。コトノハの方が、少しだけ背が高かった。

「化学、苦手なんですよね」

「……はい。ちょっとだけ」

「なら、今日は、化学をしてください。……試験が終わったら、また、レッドの宿題を見てもらえますか」

 コトノハは、しばらくカフェの顔を見ていた。

 それから、少しだけ、肩の力を抜いた。

「……はい。終わったら、絶対」

「お願いします」

「……あの、マスター」

「はい」

「わたし、化学、ほんとに苦手で。……モル、っていうのが、全然、分かんなくて」

「……モル」

 カフェは、少しだけ考えた。

 それから、カウンターの内側に戻って、小さな紙袋を一つ取り出した。今朝焼いた、胡桃のクッキーが二枚、入っていた。

「これを、持っていってください」

「え」

「試験勉強の、休憩のときに。……モルは、私にも、分かりません。でも、甘いものを食べると、少しだけ、分からないものと付き合いやすくなります」

 コトノハは、紙袋を受け取った。中を覗いて、目を丸くした。

「……マスターのクッキー」

「試験の後のシフトで、感想を聞かせてください」

「……はいっ!」

 コトノハは、深く頭を下げた。それから、カウンターの端で宿題を広げているレッドに、手を振った。レッドが、鉛筆を持ったまま、小さく手を振り返した。

 扉の鈴が鳴って、コトノハが出ていった。走って。来たときと同じように。

 カフェは、その背中を、扉のガラス越しに見送った。

 ――走らなくても、いいのに。

 そう思って、少しだけ笑った。走らずにはいられない子たちを、この店は、たくさん見てきた。

 

 七 二番の気持ち

 

 五時を過ぎると、窓から差し込む光が、少しずつ色を変えはじめた。

 沢井さんが、文庫本を閉じて、帰っていった。「また明後日ね」と言って、扉の鈴を鳴らして。作業着の男性は、とうに帰っていた。店の中には、カフェと、レッドだけが残っていた。

 レッドは、カウンターの端で、宿題の算数のプリントを広げていた。足し算と引き算の、小さな問題が並んでいた。鉛筆を握る手に、力が入りすぎていた。消しゴムで消した跡が、紙の上に、灰色の雲のように残っていた。

 カフェは、カップを拭きながら、レッドの手元を見ていた。

 訊こうか、と思った。

 沢井さんの言葉が、耳の奥に残っていた。悔しいのか、嬉しいのか。それを訊いてあげるだけで、いい。

 ――訊かれたくない子も、いる。

 自分がそうだった。子どもの頃、何かを訊かれるのが、苦手だった。見えているものを、説明しなければならなくなるから。説明しても、分かってもらえないから。だから、訊かれないように、壁際にいた。

 レッドは、どうだろう。

 カフェは、拭き終えたカップを棚に戻した。それから、カウンターの内側から出て、レッドの隣の席に、そっと腰を下ろした。

「……レッド」

「ん」

「かけっこ、二番だったんですね」

 レッドの鉛筆が、止まった。

「……うん」

「悔しかったですか。それとも、嬉しかったですか」

 レッドは、しばらく、プリントを見下ろしていた。

 耳が、少しだけ、横を向いた。何かを考えているときの、この子の耳の向きだった。カフェは、それを知っていた。急かさなかった。

「……わかんない」

 小さな声だった。

「わからない」

「うん。……いちばんのこ、すごく、はやかったの。ハルちゃん。ハルちゃん、いつも、いちばん」

「はい」

「レッド、ハルちゃんに、まけたの。……でも、さんばんのこには、かったの」

「はい」

「だから、わかんない。……くやしいのと、うれしいの、どっちも、ちょっとずつ、ある」

 レッドは、鉛筆を、プリントの上にそっと置いた。

「……ママは?」

「……私、ですか」

「ママは、いつも、いちばんだったんでしょ。……パパが、いってた。ママは、ずっと、いちばんだったって」

 カフェは、すぐには答えなかった。

 窓の外の光が、少しだけ、橙色を帯びはじめていた。予約席の椅子の上に、その光が、斜めに落ちていた。

「……一番でした」

 カフェは、正直に言った。

「でも、ずっと、前に、誰かがいました」

「……だれか?」

「はい。……私より、いつも、少しだけ前を走っている人です。私は、その人に、ずっと追いつけませんでした。一番だったけど、一番だと、思ったことは、あまりありません」

 レッドは、目を丸くして、カフェを見ていた。

「……ママより、はやいひと、いたの?」

「いました」

「……だれ?」

「……友だちです」

 カフェは、それ以上、言わなかった。

 レッドは、しばらく、カフェの顔を見ていた。何かを訊きたそうに、口を開いた。それから、閉じた。代わりに、少しだけ、カフェの方に身体を寄せた。肩が、触れた。

「……じゃあ、ママも、くやしいのと、うれしいの、どっちもあった?」

「……ありました。たくさん」

「そっか」

 レッドは、少しだけ、ほっとしたように笑った。

「……レッドとおなじだね」

「……同じですね」

 カフェは、レッドの頭に、そっと手を置いた。黒い髪が、指の間で、さらさらと流れた。

「二番の気持ちは、悔しいのと、嬉しいの、両方でいいんだと思います。……どちらか一つに、決めなくていいです」

「……きめなくて、いいの?」

「はい。決めなくていいです」

 レッドは、カフェの手の下で、小さく頷いた。

 それから、鉛筆を持ち直して、プリントの次の問題に向かった。さっきより、少しだけ、力の抜けた手だった。

 

 八 黄昏の店

 

 六時近くになると、窓の外の空が、燃えるような橙色に変わった。

 カフェは、扉の内側の札を、裏返した。

 ――準備中。

 「宵待ち」の閉店は、日によって違う。日の入りの三十分前。季節によって、四時半の日もあれば、七時の日もある。扉の内側に、その月の閉店時間を、小さく書いた紙を貼ってある。開店した頃、それを見た客に、「変わった店ですね」と言われた。カフェは「はい」とだけ答えた。

 黄昏時は、なるべく、一人でいたい。

 子どもの頃からの、カフェの決まりごとだった。理由を、人にうまく説明できたことはない。夕方の光が、昼と夜の境目で揺れているとき、世界の音が、少しだけ遠くなる。そのとき、カフェは、いつもより多くのものが見えて、いつもより多くのものが聞こえる。その時間を、誰にも邪魔されずに、ただ過ごしたかった。

 店を持つと決めたとき、それを、どうするか、何日も考えた。

 喫茶店は、夕方に客が来る。仕事帰りの人。学校帰りの人。夕暮れを見ながら、コーヒーを飲みたい人。西向きの窓のある店なら、なおさら。

 それでも、カフェは、黄昏の前に店を閉めることにした。

 店の名前に、その時間を入れた。宵を待つ、店。夜が来るのを待ちながら、その手前で、扉を閉める店。客には、黄昏の手前までの時間を出す。黄昏そのものは、自分のために取っておく。

 ――わがままですね。

 開店の前、雅也に、そう言った。雅也は、少し考えて、言った。

 ――わがままだな。……でも、カフェの店だ。

 それだけだった。

 カフェは、カウンターの内側に戻った。明かりを、一段だけ落とした。

 それから、西の窓の前に立った。

 窓の外の空が、ゆっくりと色を変えていた。橙から、薄い桃色へ。桃色から、淡い紫へ。通りの向かいの桜の木が、黒い影になって、その空を、細い枝で区切っていた。どこかの家の窓に、明かりが一つ、灯った。烏が、二羽、遠くの屋根の上を、ゆっくりと渡っていった。

 予約席の椅子が、窓の光を受けて、長い影を床に落としていた。

 カフェは、その隣に立って、空を見ていた。

 カウンターの端で、レッドが、静かに宿題をしていた。鉛筆が、紙の上を走る音だけが、小さく聞こえた。

 レッドは、この時間、話しかけてこない。

 誰に言われたわけでもなかった。四つの頃、初めて店で黄昏を迎えた日に、レッドは、カフェの背中に「ママ」と呼びかけた。カフェは、振り返って、「はい」と答えた。それから、少しだけ困った顔をしてしまったのだと思う。レッドは、何も言わずに、カウンターの端に戻って、絵本を開いた。

 それ以来、レッドは、黄昏の間、話しかけてこなくなった。

 ――ママの、しずかなじかん。

 レッドは、それを、そう呼んでいるらしかった。保育園の先生から聞いた。

 カフェは、それを聞いたとき、胸の奥が、少しだけ痛んだ。六つの子に、気を遣わせている。それでいいのだろうか、と。

 けれど、雅也は言った。

 ――気を遣ってるんじゃないと思う。……レッドも、たぶん、あの時間が好きなんだ。

 カフェは、窓の外の空から、カウンターの端へ、視線を移した。

 レッドは、宿題の手を止めて、窓の外を見ていた。鉛筆を持ったまま。頬杖をついて。黙って。

 その横顔が、燃えるような空の色に、ほんのりと染まっていた。

 ――同じ空を、見ている。

 話しかけない。けれど、一人でもない。

 それは、カフェが子どもの頃に知っていた黄昏とは、少しだけ違う黄昏だった。

 空が、深い青に沈んでいった。

 通りの街灯が、一つずつ、灯りはじめた。

 

 九 帰り道

 

 六時半、扉の鈴が鳴った。

「ママー!!」

 クインだった。

 扉が開くのと同時に、小さな身体が、店の中に飛び込んできた。保育園の黄色い帽子が、頭の後ろにずり落ちていた。手に、何か茶色い塊を握りしめていた。

 その後ろから、雅也が入ってきた。クインの小さな鞄と、自分の記録用の板を、両手に提げていた。

「……ただいま。ごめん、走るの止められなかった」

「おかえりなさい」

 カフェは、カウンターの内側から出た。クインが、カフェの腰に、勢いよく抱きついた。

「ママ、みて! ねんど!」

 クインが、握りしめていた塊を、カフェの目の前に突き出した。

 茶色い粘土の塊だった。丸いものが四つ、くっついていた。大きいのが二つ、中くらいが一つ、小さいのが一つ。その横に、とがった耳のようなものが二つついた、細長い何かがあった。

「……これは」

「ママと、パパと、おねえちゃんと、クイン! あと、ねこ!」

「猫は、うちにはいません」

「いないけど、つくったの!」

 クインは、胸を張った。

 カフェは、粘土の塊を、両手で受け取った。まだ、少しだけ柔らかかった。四つの丸いものが、ぎゅっと寄り集まって、一つの塊になっていた。ところどころ、クインの小さな指の跡が、くぼみになって残っていた。

「……みんな、くっついていますね」

「うん! みんな、なかよしだから!」

「……猫も、くっついていますね」

「ねこも、なかよし!」

 カフェは、粘土の塊を見下ろした。

 四つの丸いもの。それから、とがった耳の、細長い何か。

 ――五つ目。

 ほんの一瞬、そう思った。思ってから、自分で、その考えを、そっとしまった。猫だ。クインがそう言った。猫でいい。

「……ありがとう、クイン。店に、飾ります」

「ほんと!?」

「本当です」

 カフェは、粘土の塊を、レジの横の小さな棚に、そっと置いた。

 クインは、満足そうに頷いて、それから、カウンターの端のレッドのところへ駆けていった。

「おねえちゃん! みて、ねんど!」

「……みた。ママのとこに、あるやつでしょ」

「そう! おねえちゃんも、いるよ!」

「……どれ」

「いちばん、ちゅうくらいの!」

「……なんで、ちゅうくらい」

「おねえちゃんだから!」

 レッドは、宿題のプリントを見たまま、少しだけ口元を緩めた。

 雅也が、カフェの隣に来て、レジの横の粘土を覗き込んだ。

「……五人家族か」

「猫だそうです」

「猫か。……うちに、猫はいないけどな」

「いないけど、作ったそうです」

 雅也は、少しだけ笑った。それから、カフェの顔を見た。

「……今日、どうだった」

「沢井さんが、ブレンドの変化に気づいてくれました。コトノハさんを、試験勉強に帰しました。……レッドが、かけっこで二番でした」

「二番か」

「悔しいのと、嬉しいの、両方だそうです」

「……それ、カフェが訊いたのか」

「はい。……沢井さんに、教えてもらいました。訊き方を」

 雅也は、しばらく、カフェの顔を見ていた。

 それから、カフェの頭に、そっと手を置いた。冷たい手だった。一日の練習を終えて、外の冷えた空気をまとった手だった。

「……いい一日だったな」

「はい」

「俺の方は、セレネの坂路がよかった。カザハナは、やっぱり疲れが残ってた。今日は軽めにして、正解だった」

「よかったです」

 カフェは、エプロンの紐を、背中で解いた。

 カウンターの端で、クインが、レッドの宿題のプリントを覗き込んで、「これ、なに?」と訊いていた。レッドが、「たしざん」と答えた。クインが、「たしざんって、なに?」と訊いた。レッドが、「ふえること」と答えた。クインが、「じゃあ、ねこも、ふえる?」と訊いた。レッドが、少し考えて、「……ねこは、ふえない」と言った。

 カフェは、雅也と顔を見合わせた。

 二人とも、声を立てずに、笑った。

 店の明かりを消して、扉の鍵をかけた。

 四人で、夜の通りを、並んで歩いた。クインが、雅也の肩車の上で、何か歌っていた。レッドが、カフェの手を、ぎゅっと握っていた。街灯の光が、四つの影を、石畳の上に、長く、短く、落としていった。

 

 

第二部 学ぶ手

 

 一 古い温度計

 

 その夜、娘たちが眠ったあとで、カフェは、居間の棚の一番上から、古い木の箱を下ろした。

 手のひらに載るくらいの、小さな箱だった。蓋に、焼印のような模様が、薄く残っていた。中に、細長い金属の温度計が一本、柔らかい布にくるまれて入っていた。

 十九の誕生日に、雅也からもらったものだった。

 まだ、担当契約が終わる前だった。学園の小さな部屋で、タキオンとユキノビジンが、ささやかに祝ってくれた日。雅也が、少し照れたように差し出した箱を開けて、カフェは、しばらく黙っていた。それから、「仕事の道具みたいですね」と言った。言いながら、自分の声が、少しだけ上ずっているのが分かった。

 今、その温度計の目盛りは、少しかすれていた。先の方に、細い傷がいくつもついていた。十二年、使ってきた傷だった。

「……それ、まだ持ってたのか」

 居間の入口で、雅也が言った。風呂上がりで、首にタオルを掛けていた。

「持っています。……店では、もう、新しいものを使っていますけど」

「捨てていいのに」

「捨てません」

「なんで」

「最初の一本なので」

 カフェは、温度計を布ごと手のひらに載せて、ソファーに座った。雅也が、隣に座った。湯上がりの、石鹸の匂いがした。

「……今日、レッドに訊かれました」

「何を」

「ママは、ずっと一番だったんでしょ、と。……パパが言っていた、と」

 雅也が、少しだけ、気まずそうな顔をした。

「……言ったな。去年の冬、テレビで昔のレースの映像が流れてて。レッドが、これママ? って訊くから」

「はい」

「ずっと一番だったんだよ、って。……まずかったか」

「いえ」

 カフェは、温度計を見下ろした。

「本当のことですから。……ただ、私は、レッドに、何て言えばいいのか、分からなくて」

「何て言った」

「一番だったけど、ずっと前に誰かがいた、と。……友だちが、と」

 雅也は、しばらく黙っていた。

 それから、言った。

「……いい答えだと思う。本当のことだし、レッドに分かる言葉だ」

「分かったでしょうか」

「全部は分からないだろうな。……でも、ママにも、追いつけない誰かがいたってことは、たぶん、分かった」

 カフェは、温度計を、布で包み直した。

 それから、箱の底に、もう一冊、薄いノートが入っていることに気づいた。表紙の角が擦り切れて、丸くなっていた。開くと、最初のページに、自分の字で、こう書いてあった。

 ――大学課程 二年目 履修。

 カフェは、そのページを、しばらく見ていた。

 

 二 履修表

 

 十二年前の四月、カフェは、学園の大学課程の事務室の前の廊下で、履修表を前に、立ち尽くしていた。

 前の年の暮れに、走ることをやめた。二月に、引退式で、勝負服を着て、レース場を一周歩いた。三月に、担当契約が終わった。その数日後、黄昏の練習コースの外側で、あの人が、一度だけ、自分から気持ちを伝えてくれた。

 すべてが、一度に終わって、一度に始まった春だった。

 大学課程に籍を置いたのは、その一年前だった。高等部を卒業して、現役を続けながら、遠征の合間に課題を出す形で、一年目を過ごした。正直に言えば、一年目のことは、あまり覚えていない。ドバイ。春の京都。イギリスの夏。秋の京都。冬の東京と中山。レースと、移動と、身体の記録のことで、頭がいっぱいだった。

 二年目の春、初めて、学ぶことだけを考える時間が来た。

 履修表には、たくさんの科目が並んでいた。

 経営学の基礎。食品衛生学。食品化学。飲食店経営論。原価管理と会計。接客と顧客理解。店舗設計の基礎。メニュー開発演習。飲料学――コーヒーと茶。

 カフェは、その一つ一つを、指でなぞった。

 どれも、自分の店のために、必要なものだった。必要なものだと、分かっていた。分かっていて、指が、少しだけ震えていた。

 ――私に、できるだろうか。

 走ることなら、分かった。自分の身体の、どこが崩れやすくて、どこが強いのか。どの距離で、どの位置で、誰を追えばいいのか。四年間、それだけを考えて生きてきた。

 店を持つことは、何も分からなかった。

「カフェ。……迷っているのかい」

 背後から、声がした。

 振り返ると、アグネスタキオンが、白衣の袖を揺らしながら、廊下を歩いてきていた。手に、紅茶の入った紙コップを持っていた。甘い匂いが、ここまで漂ってきた。また、砂糖をたくさん入れたのだと分かった。

「タキオンさん」

「履修表か。……ふむ」

 タキオンは、カフェの肩越しに、履修表を覗き込んだ。それから、眉をひそめた。

「抽出化学の講義はないのか」

「……ありません」

「飲料学という科目があるが、内容は」

「コーヒーと、茶の、基礎だそうです」

「基礎、か。……抽出温度と溶出成分の相関、焙煎度と酸の変化、そういったものを扱わない飲料学に、何の意味が――」

「タキオンさん」

「……何だい」

「私は、店を開きたいんです。研究室を開きたいわけでは、ありません」

 タキオンは、紙コップを持ったまま、カフェの顔を見た。

 それから、肩をすくめて、くつくつと笑った。

「……実に、君らしい答えだ。いいだろう。抽出化学は、私が研究室で、勝手に講義してあげよう。受講料は、君のコーヒー一杯」

「受講しません」

「では、聴講で」

「……聴講も、しません」

「勝手に話すから、勝手に聞きたまえ」

 タキオンは、そう言って、紅茶をすすった。

 カフェは、小さくため息をついた。それから、履修表に、もう一度視線を戻した。

 ――食品衛生学。原価管理と会計。

 二つの科目の名前の上で、指が止まった。この二つが、一番、自分から遠い気がした。だから、一番、取らなければならない気がした。

 カフェは、ペンを取って、その二つに、丸をつけた。

 それから、残りの科目にも、一つずつ、丸をつけていった。

「……全部、取るのかい」

「全部、要りますから」

「一年で、全部は無理だよ」

「……では、二年で」

 タキオンは、何も言わなかった。紙コップを口に運んで、少しだけ、目を細めた。

 廊下の窓から、春の午後の光が、斜めに差し込んでいた。履修表の上に、その光が、細長い四角を作っていた。

 カフェは、ふと、廊下の突き当たりを見た。

 誰もいなかった。誰もいないように、見えた。

 けれど、お友だちが、そこに立っているのが、カフェには分かった。こちらを見ているのかどうかは、分からなかった。顔は、昔から、見たことがない。

 ――追いかけなくて、いい。

 カフェは、そう思った。最後のレースの後から、ずっと、そう思っていた。お友だちは、もう、前を走らない。廊下の突き当たりに立っているだけだ。

 カフェは、履修表を鞄にしまって、歩き出した。

 お友だちの方へではなく、事務室の扉の方へ。

 

 三 わからないこと

 

 食品衛生学の最初の試験で、カフェは、ぎりぎりの点数しか取れなかった。

 微生物の名前が、覚えられなかった。温度と時間と、菌が増える速さの関係が、頭の中で、ぐちゃぐちゃに絡まった。教科書の図表を、何度見ても、それが自分の手の中のカップや皿とどうつながるのか、分からなかった。

 原価管理と会計は、もっとひどかった。

 表計算の画面に並んだ数字を見ていると、目の前が、白く霞んだ。仕入れの値段。一杯あたりの豆の量。水道代。電気代。家賃。人件費。それを全部足して、一杯のコーヒーの値段で割る。理屈は分かった。けれど、計算するたびに、答えが違った。どこかで、何かを、必ず間違えていた。

 大学課程の図書室の、窓際の席で、カフェは、ノートの上に突っ伏していた。

 夕方だった。窓の外が、少しずつ橙色に染まりはじめていた。

 ――黄昏時は、なるべく、一人。

 いつもなら、この時間は、図書室を出て、一人で、学園の裏手の林の小道を歩く。今日は、立ち上がれなかった。計算が、まだ、合っていなかった。

「……カフェさん?」

 声がした。

 顔を上げると、ユキノビジンが、本を抱えて、心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「ユキノさん……」

「どしたの? 具合、悪いんだべか」

「……いえ。計算が、合わなくて」

「計算」

 ユキノビジンは、カフェのノートを覗き込んだ。表計算の画面と、ノートの手書きの数字を、見比べた。それから、少し首を傾げた。

「……カフェさん、これ、電気代、月のと、年のと、混ざってねぇか?」

「……え」

「ここ。ひと月分の欄に、一年分の電気代が入ってるべ。そりゃ、一杯の値段もえらいことになるんでねぇかな」

 カフェは、画面を見た。

 ユキノビジンが指さしたところを、見た。

 本当だった。月の欄に、年の数字が入っていた。それだけだった。たった、それだけ。それだけのことに、二時間、気づかなかった。

「……ありがとうございます」

「いんや。おら、実家で採れたもんを売る手伝いしてたから、こういう数字はちっちぇ頃から見慣れてたんだ」

「……そうだったんですね」

「んだなぁ。カフェさん、こういう計算は苦手だったんだな」

「苦手です。……とても」

 カフェは、ノートの上に、また突っ伏した。

 ユキノビジンが、隣の席に座った。抱えていた本を、机の上に置いた。それから、カフェの背中を、一度だけ、ぽんと叩いた。

「……カフェさん、走るときはあんなに速かったのになぁ」

「走るのと、計算は、違います」

「んだな。走るのと、商いの計算は別物だべ」

 ユキノビジンは、くすくすと笑った。

 カフェは、突っ伏したまま、少しだけ、顔を横に向けた。窓の外の空が、もう、紫色に変わりはじめていた。黄昏の時間が、過ぎていこうとしていた。

 一人ではなかった。

 けれど、嫌ではなかった。

「……ユキノさん」

「ん」

「一つ、お願いがあります」

「なんだべ」

「来週から、原価計算の宿題を、一緒にしてもらえませんか。……お礼に、コーヒーを淹れます」

 ユキノビジンは、目を丸くした。

 それから、満面の笑みを浮かべた。

「いいよ! カフェさんのコーヒー、飲めるなら、なんぼでも!」

「……なんぼでも、は、お腹が痛くなります」

「それは、カフェさんだけだべ」

 ユキノビジンは、また笑った。カフェも、少しだけ、笑った。

 窓の外で、一番星が、小さく光りはじめていた。

 

 四 ノートの一行目

 

 その年の夏、カフェは、初めて、自分の店のことを、ノートに書いた。

 大学課程の夏休みだった。雅也の部屋の、小さな食卓だった。雅也は、そのとき、まだトレーナー寮の個室を出たばかりで、学園から少し離れた古いアパートに住んでいた。窓の外で、蝉が鳴いていた。扇風機が、首を振るたびに、ノートの端をぱたぱたと鳴らした。

 カフェは、ノートの一番上に、こう書いた。

 ――席は、少なく。

 それから、少し考えて、その下に書いた。

 ――窓は、西向き。黄昏が、見える場所。

 ペンを持ったまま、カフェは、しばらく動かなかった。

 黄昏が、見える場所。自分は、黄昏時に一人でいたい。それなのに、店の窓から黄昏が見えるようにしたい。矛盾しているような気がした。けれど、書いてみると、それ以外の窓は、考えられなかった。

 向かいで、雅也が、ルーズリーフに何かを書き込んでいた。次の担当になるかもしれない子の、選抜レースの記録だった。カフェの担当が終わってから、まだ半年も経っていなかった。雅也は、次の担当をすぐには決めなかった。何人かの子の走りを、時間をかけて見ていた。

 カフェは、ノートを、そっと雅也の方へ押しやった。

「……見てもらえますか」

 雅也は、ペンを置いて、ノートを手に取った。

 二行だけの、ノートだった。雅也は、その二行を、何度か読んだ。それから、顔を上げた。

「……カフェの店か」

「はい。……まだ、何も決まっていません。ただ、思ったことを、書いてみました」

「うん」

 雅也は、ノートを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。

 何か、言いたそうな顔だった。言ってもいいのか、迷っている顔だった。この人は、カフェのことを、カフェより先に決めない。担当だった頃から、ずっとそうだった。

「……一つだけ、いいか」

「はい」

「入口の段差は、なくした方がいいと思う」

 カフェは、目を瞬いた。

「段差、ですか」

「うん。……席が少なくて、静かな店なら、たぶん、年配の人も来る。杖をついてる人とか。車椅子の人とか。ベビーカーを押してる人とか。……入口に段差があると、それだけで、入るのをやめる人がいる」

「……」

「俺の実家の近くに、いい喫茶店があったんだけど、入口に三段の階段があって。毎朝通ってた近所のおばあさんが、足を悪くしてから、行けなくなった。……そういうのを、ちょっと思い出した」

 カフェは、ノートを受け取った。

 二行の下に、三行目を書いた。

 ――入口に、段差を作らない。

「……ありがとうございます」

「俺が言ったのは、それだけだ。あとは、カフェが決めることだから」

「はい。……でも、三行目は、雅也さんの行です」

 雅也は、少しだけ照れたように、首の後ろを掻いた。

 それから、ノートの三行目を、もう一度覗き込んだ。

「……カフェの字の中に、俺の言ったことが入ってるの、なんか、変な感じだな」

「変ですか」

「変じゃない。……嬉しい」

 雅也は、そう言って、また自分のルーズリーフに目を戻した。耳の後ろが、少しだけ赤かった。

 カフェは、ノートの三行を、指でなぞった。

 席は、少なく。窓は、西向き。入口に、段差を作らない。

 ――私の店。

 まだ、どこにもない店だった。けれど、三行だけ、確かに、ここにあった。

 

 五 時計台

 

 翌年の春、カフェは、学園から電車で三駅離れた町の、古い喫茶店で働きはじめた。

 ――珈琲 時計台。

 駅前の商店街の、二階だった。急な木の階段を上がると、真鍮の取っ手のついた重い扉があって、その向こうに、薄暗い、天井の低い店があった。壁に、大きな古い柱時計が掛かっていた。店の名前は、その時計から来ているのだと、あとで知った。カウンターが八席と、窓際にテーブルが三つ。窓から、商店街のアーケードの屋根が見えた。

 店主は、柏木という、七十を少し越えた男だった。

 白髪を短く刈り込んで、いつも、糊の利いた白いシャツに、黒い蝶ネクタイを締めていた。痩せていて、背が少し曲がっていた。口数は、ほとんどなかった。客に「いらっしゃいませ」と言うときと、「ありがとうございました」と言うときくらいしか、声を聞かなかった。

 カフェは、その店に、客として、半年通っていた。

 最初は、大学課程の課題のために、近隣の喫茶店を調べて回っていたときだった。たまたま入って、ブレンドを一杯頼んだ。一口飲んで、カフェは、カップを置いた。それから、しばらく、何もできなかった。

 おいしかった、という言葉では、足りなかった。

 静かな味だった。強くも、弱くもなかった。苦味と酸味と甘さが、どれも、自分が一番だと主張しないで、カップの中で、並んで座っていた。

 それから、週に一度、通うようになった。カウンターの端の席に座って、ブレンドを一杯だけ頼んだ。柏木が湯を落とす手を、見ていた。湯を細く落とす。止める。また落とす。その間の、長い沈黙。

 半年経った秋の終わりに、カフェは、帰り際、扉の前で振り返った。

「……あの」

 柏木が、カウンターの内側で、カップを拭く手を止めた。

「ここで、働かせていただけませんか」

 柏木は、しばらく、カフェの顔を見ていた。

 何も言わなかった。長い沈黙だった。柱時計の振り子の音だけが、聞こえていた。

「……学生さんかね」

「はい。トレセン学園の、大学課程の」

「何を、学んでる」

「経営と、食品と、衛生と……コーヒーのことを。自分の店を、持ちたいと思っています」

「自分の店」

「はい」

 柏木は、カップを、棚に戻した。

「……給料は、安いよ」

「構いません」

「最初の三月は、コーヒーには触らせない。皿洗いと、掃除と、注文取りだけだ」

「はい」

「それでも、来るかね」

「来ます」

 柏木は、また、しばらく黙っていた。

 それから、カウンターの内側から、一枚の紙を出した。古い、手書きの、勤務表だった。

「……春から。火曜と、木曜と、土曜。授業の、ない日に」

「……ありがとうございます」

 カフェは、深く頭を下げた。

 顔を上げると、柏木は、もう、次のカップを拭いていた。

 あとで知ったことがある。柏木は、カフェのことを、最初から知っていた。テレビで、何度も見ていた。けれど、半年間、一度も、そのことを口にしなかった。働きはじめてからも、口にしなかった。

 ――うちに来る客は、みんな、ただの客だ。

 一度だけ、柏木はそう言った。カフェが、常連の客の一人に、昔のレースのことを話しかけられて、困っていたときだった。その客が帰ったあと、柏木は、カップを拭きながら、独り言のように、そう言った。

 ――あんたも、ここでは、ただの店の者だ。

 カフェは、その言葉を、ずっと覚えている。

 

 六 割れたカップと、足りない釣り銭

 

 時計台での最初の三か月、カフェは、本当に、一度もコーヒーに触らなかった。

 皿を洗った。床を拭いた。窓を磨いた。テーブルの脚の埃を、柔らかい布で一本ずつ拭った。注文を取って、柏木に伝えた。できあがったカップを、客の前に運んだ。

 最初の週に、カップを二つ割った。

 一つは、洗い場で、手を滑らせた。もう一つは、客の前に置こうとして、受け皿の縁に指を引っかけた。熱いコーヒーが、テーブルの上に広がった。客は、常連の老人だった。服にはかからなかった。老人は、「いいよいいよ」と笑って、布巾で自分でテーブルを拭こうとした。カフェは、その手を止めて、「私が拭きます」と言った。声が、震えていた。

 柏木は、何も言わなかった。新しいカップに、新しいコーヒーを淹れて、カフェに渡した。カフェは、それを、今度は両手で、ゆっくりと運んだ。

 閉店後、洗い場で、割れたカップの欠片を新聞紙に包みながら、柏木が、初めて、仕事のことで口を開いた。

「……走ってた頃、転んだことは」

「……ありません」

「一度も」

「一度も、です」

「そうか」

 柏木は、新聞紙の包みを、ゴミ袋に入れた。

「なら、ここで転べばいい。……転び方を覚えるのも、仕事のうちだ」

 カフェは、何も答えられなかった。

 二か月目に、レジの釣り銭を間違えた。

 閉店後に、柏木と二人で、売上を数えた。千円、足りなかった。何度数えても、足りなかった。カフェは、その日の会計を、一つずつ思い出そうとした。思い出せなかった。誰に、いくら渡したのか。どの客の、どの会計で、間違えたのか。

「……すみません」

「足りないのは、千円だ」

「はい」

「千円は、豆、百グラムと少しだ」

 柏木は、それだけ言って、売上の帳面に、赤い字で、マイナス千円と書いた。

 カフェは、その赤い字を、ずっと見ていた。

 豆、百グラムと少し。カップにして、十杯くらい。十人の客の、十杯のコーヒー。それが、自分の不注意で、どこかへ消えた。

 その夜、寮の部屋で、カフェは、眠れなかった。

 ユキノビジンが、向かい側のベッドから、「カフェさん、起きてるべ?」と声をかけた。カフェは、「起きています」と答えた。ユキノビジンは毛布をめくって起き上がり、小さな卓の上に林檎を一つ置いた。実家から送られてきた、赤い林檎だった。

「……林檎、食べてみな。少しは気持ち、落ち着くと思うべ」

「……ありがとうございます」

「なんかあったの?」

「……千円、なくしました」

「千円」

「お店の、売上を。……私の、計算の間違いで」

 ユキノビジンは、少し考えた。

「……おらんちでも、そういうこと、よくあったよ」

「……そうなんですか」

「母ちゃんが、レジの前でよく『あーっ!』って叫んでたんだ。そんで、お釣りを渡すときは声に出して数えるようにしたんだべ。『千円お預かりします、三百二十円のお返しです』ってな。そうしたら、間違えなくなったんだ」

「……声に、出して」

「んだ。声に出せば、自分の耳にも入るべ? 目で追うだけより間違えにくいって、母ちゃんが言ってたんだ」

 カフェは、林檎を手に取った。

 冷たかった。つるつるしていた。

「……明日から、やってみます」

「うん。……でもさ、カフェさん。千円のことで眠れなくなるなんて、ほんと真面目だなぁ」

「らしい、ですか」

「んだ。そういうとこ、きちんとしてるべ。カフェさんのいいところだと思うよ」

 ユキノビジンは、そう言って、自分のベッドに戻った。

 カフェは、暗い部屋の中で、林檎を手のひらに載せたまま、しばらく座っていた。

 次の日から、カフェは、釣り銭を渡すとき、声に出して数えるようになった。声は小さかった。客の何人かは、少し驚いた顔をした。けれど、それ以来、レジの売上が足りなくなったことは、一度もなかった。

 

 七 最初の一杯

 

 三か月が経った日の朝、柏木が、カウンターの内側で、カフェを呼んだ。

「……淹れてみな」

 カフェは、雑巾を持ったまま、立ち止まった。

「……私が、ですか」

「ブレンドを、一杯。俺に」

 柏木は、カウンターの客席の側に回って、端の席に腰を下ろした。カフェが、半年間、客として座っていた席だった。

 カフェは、雑巾を洗い場に置いて、手を洗った。

 カウンターの内側に立った。

 豆を量った。ミルで挽いた。湯を沸かした。温度を測った。十九の誕生日にもらった、あの温度計で。ネルの袋に粉を入れた。

 湯を、細く落とした。

 粉が、膨らんだ。カフェは、湯を止めた。待った。柏木が湯を止めていた時間を、思い出しながら。半年間、カウンターの端から見ていた、あの長い沈黙を。

 また、湯を落とした。

 カップに注いで、受け皿に載せて、柏木の前に置いた。

 柏木は、何も言わずに、カップを持ち上げた。香りを嗅いだ。一口、飲んだ。

 長い沈黙だった。

 柱時計の振り子の音が、ことり、ことり、と鳴っていた。カフェは、カウンターの内側で、両手を前で重ねて、立っていた。指先が、冷たかった。

 柏木が、カップを置いた。

「……うまい」

 カフェは、息を止めた。

「だが、これは、あんたのコーヒーだ。俺の店のコーヒーじゃない」

「……」

「湯を止めてる時間が、俺より、ほんの少し長い。だから、苦味が、少し奥に沈んでる。……悪くない。だが、うちの客は、うちの味を飲みに来てる。あんたの味を、飲みに来てるんじゃない」

 柏木は、もう一口、飲んだ。

「うちの店では、うちの味を淹れてもらう。……あんたの味は、あんたの店で出せばいい」

 カフェは、何も言えなかった。

 嬉しいのか、悔しいのか、分からなかった。両方だった。

 柏木は、カップを置いて、立ち上がった。カウンターの内側に戻る途中で、カフェの横を通り過ぎるとき、一言だけ、言った。

「……コーヒーの味は、店の半分だ」

「……半分、ですか」

「残りの半分は、客が、ここに座ってる時間だ。……その時間を、どう出すか。それは、あんたが、自分で考えな」

 柏木は、それだけ言って、次の仕込みに取りかかった。

 カフェは、柏木の飲みかけのカップを、そっと手に取った。まだ、温かかった。

 ――あんたの味は、あんたの店で。

 その言葉を、カフェは、その日、何度も、胸の中で繰り返した。

 

 その夜、雅也の部屋で、カフェは、自分の味のコーヒーを淹れた。

 雅也は、それを一口飲んで、しばらく黙っていた。

「……どう、ですか」

「うまい」

「……具体的に」

 雅也は、少し笑った。担当だった頃、カフェが一度も言わなかった言葉だった。具体的に、と。言われる側だったから。

「最初に、苦味が来ない。後から、ゆっくり来る。……湯を止めてる時間が、長いんだと思う。だから、苦味が、奥に沈んでる。冷めてきても、甘さが残ってる。……カフェの飲み方に、合ってる。ゆっくり飲む人のための、味だ」

 カフェは、カップを両手で持ったまま、雅也の顔を見た。

「……柏木さんと、同じことを、言いました」

「柏木さんも、そう言ったのか」

「湯を止めている時間が、長い、と。……でも、それは、柏木さんの店の味ではない、と」

「……そうか」

 雅也は、もう一口飲んで、カップを置いた。

「なら、いつか、それを出す店を、作ればいい」

「……はい」

「急がなくていい。……でも、この味は、ちゃんと覚えておいて」

 カフェは、カップの中の、黒い液面を見下ろした。

 台所の明かりが、その表面に、小さく映っていた。

 ――ゆっくり飲む人のための、味。

 それが、自分の味だった。

 自分が、ずっと、そうしてきたから。一気に飲むと、お腹が痛くなる。だから、ゆっくり飲む。ゆっくり飲むから、冷めていく。冷めても、おいしいコーヒーが、欲しかった。

 自分のためだけに淹れてきたコーヒーが、いつか、誰かの時間のためのコーヒーになる。

 カフェは、そのとき初めて、それが、本当に、できるかもしれないと思った。

 

 

第三部 自分の店という言葉

 

 一 研究室の温度

 

 大学課程の最後の冬、カフェは、学園の古い研究室で、タキオンと向かい合って座っていた。

 研究室は、昔と変わらなかった。部屋の半分は、タキオンの側だった。実験器具と、記録紙の束と、紅茶のセットと、何に使うのか分からない、怪しい色の液体の入った瓶。もう半分は、カフェの側だった。コーヒー豆の缶、手回しのミル、ドリッパー、カップ。それから、窓際の、誰も座らない椅子。

 部屋の境目に、折りたたみの椅子が一脚、置いてあった。昔、雅也が座っていた椅子だった。今は、誰も座らない。けれど、カフェもタキオンも、それを片づけなかった。

「……九十二度で、三十秒の蒸らし。九十度で、二十秒。八十八度で、四十秒」

 タキオンが、記録紙に、細い字で数字を書き込んでいた。机の上には、カフェが淹れた三杯のコーヒーが、並んでいた。どれも、同じ豆、同じ挽き方だった。違うのは、湯の温度と、蒸らしの時間だけ。

「味の評価は、私の主観では信頼できない。私は紅茶派だからね。……カフェ、君の舌で、順位をつけてくれたまえ」

「……八十八度の、四十秒です」

「理由は」

「苦味が、一番、奥にあります。最初の一口では、ほとんど感じません。冷めてくると、甘さと一緒に、出てきます」

「ふむ。……低い温度で、長く蒸らすと、苦味成分の溶出が遅れる。だから、時間差で感じる。実に、仮説通りだ」

 タキオンは、満足そうに、記録紙の端に丸をつけた。

「これが、君の味か」

「……はい。たぶん」

「たぶん、とは」

「時計台の柏木さんに、これは、あなたの味だ、と言われました。……自分では、まだ、よく分かりません」

 タキオンは、記録紙から顔を上げた。

 紅茶のカップを手に取って、一口すすった。甘い匂いが、コーヒーの香りと混ざって、部屋の中に漂った。

「カフェ」

「はい」

「卒業したら、どうするつもりだい」

 カフェは、すぐには答えなかった。

 窓の外は、冬の夕方の手前だった。灰色の雲が、低く垂れこめていた。研究室の窓ガラスが、内側から、少しだけ曇っていた。

「……時計台で、働きつづけます。柏木さんが、そうしていいと言ってくれました」

「それから」

「……それから」

 カフェは、膝の上で、両手を重ねた。

「……分かりません」

 タキオンは、何も言わなかった。

 紅茶のカップを、ゆっくりと置いた。

「君は、走っていた頃、前を走る誰かを、ずっと追いかけていた」

「……はい」

「今は、追いかける相手がいない。……だから、どこへ向かえばいいのか、分からなくなっている。違うかい」

 カフェは、顔を上げた。

 タキオンの赤い目が、まっすぐにこちらを見ていた。からかっている目ではなかった。昔、カフェの身体の記録を取っていたときと、同じ目だった。面白がりながら、本気で見ている目。

「……違わないかもしれません」

「君の店のノート。……三行の。まだ、持っているかい」

「持っています」

「三行のままかい」

「……四行です。……去年、一行、増えました」

「何と」

「……黄昏の前に、閉める店」

 タキオンは、目を見開いた。

 それから、肩を揺らして、笑った。声を立てずに。けれど、本当におかしそうに。

「黄昏の前に閉める喫茶店。……西向きの窓で、黄昏が見えるのに、黄昏の前に閉める。実に、矛盾している。実に、君らしい」

「……わがままだと、思います」

「わがままだね。……だが、それを、四行目に書いたのは、君だ」

 タキオンは、記録紙の束を揃えて、机の端に置いた。

「カフェ。……追いかける相手がいないなら、そのノートを、追いかければいい。四行の。君が、自分で書いた、四行を」

 カフェは、何も答えなかった。

 窓際の、誰も座らない椅子の方を、ちらりと見た。

 お友だちは、そこにいた。窓の外の曇り空を、見ているようだった。

 ――追いかけなくて、いい。

 そう思っていた。最後のレースの後から、ずっと。

 けれど、何も追いかけないことと、どこにも向かわないことは、違うのかもしれなかった。

「……タキオンさん」

「何だい」

「この部屋の、湿度は、今、どのくらいですか」

 タキオンは、目を瞬いた。それから、机の上の小さな計器を見た。

「四十八。……なぜだい」

「店を探すとき、湿度を測ってもらえますか。……豆の保管に、関わるので」

 タキオンは、しばらく、カフェの顔を見ていた。

 それから、満面の笑みを浮かべた。白衣の袖を、大きく広げた。

「もちろんだとも! 湿度、温度、日照時間、それから建物の材質と通気性と――」

「湿度だけで、いいです」

「……湿度と、温度だけ」

「湿度だけです」

「……善処しよう」

 カフェは、小さくため息をついた。それから、少しだけ、口元を緩めた。

 

 二 夕方の時計台

 

 卒業して、半年が過ぎた秋だった。

 時計台は、夜の八時まで開いていた。夕方には、仕事帰りの客が増える。カウンターが埋まり、窓際のテーブルも埋まる。柏木は、その時間、ほとんど休まずに、湯を落としつづけた。カフェは、注文を取り、カップを運び、皿を洗った。

 その日も、夕方の五時を過ぎて、店は混んでいた。

 窓の外の、商店街のアーケードの屋根の向こうに、空が見えた。橙色に、染まりはじめていた。

 カフェは、カップを三つ載せた盆を持って、窓際のテーブルへ向かっていた。

 その途中で、足が、止まった。

 窓の外の空が、燃えていた。ほんの数分だけ。昼と夜の境目の、一番濃い色。世界の音が、少しだけ遠くなる時間。

 店の中は、騒がしかった。客の話し声。カップの触れ合う音。柱時計の振り子の音。けれど、その全部が、急に、遠くなった。

 窓際のテーブルの、空いた椅子に、お友だちが座っていた。

 窓の外の空を、見ていた。

 ――ああ。

 カフェは、盆を持ったまま、立ち尽くした。

 ――私は、この時間を、ここで過ごしたくない。

 はっきりと、そう思った。

 嫌なのではなかった。時計台の夕方が、嫌なのではなかった。柏木の店は、好きだった。常連の客も、好きだった。けれど、この時間だけは。この、空が燃えている数分だけは。カップを運びながら、誰かの注文を聞きながら、過ごしたくなかった。

 ずっと、そうだった。子どもの頃から。黄昏時は、なるべく、一人で。

 時計台で働いて二年半、カフェは、この時間を、我慢してきた。我慢できると思っていた。我慢するのが、仕事だと思っていた。

「……マンハッタンさん」

 背後から、柏木の声がした。

 カフェは、我に返った。盆の上のカップが、かすかに揺れていた。

「三番テーブル。冷めるよ」

「……はい。すみません」

 カフェは、カップを三番テーブルに運んだ。声に出して、注文を確かめた。客が、ありがとうと言った。カフェは、頭を下げて、カウンターに戻った。

 窓の外の空は、もう、紫色に変わっていた。

 閉店後、洗い場で、カフェは、柏木の隣に立った。

 柏木は、黙って、カップを洗っていた。カフェは、黙って、それを拭いていた。柱時計の振り子の音と、水の音だけが、静かな店の中に響いていた。

「……柏木さん」

「何だ」

「私、自分の店を、持ちたいです」

 柏木の手が、止まった。

 水が、蛇口から流れつづけていた。

「……いつ」

「分かりません。……でも、もう、考えはじめたいです。どこで、どういう店を、どうやって。……ここで学んだことを、全部、持っていって」

 柏木は、蛇口を閉めた。

 水の音が、止んだ。

 柏木は、濡れた手を、前掛けで拭いた。それから、カフェの方を見た。

「……夕方、窓の前で、止まってたな」

「……はい」

「あれは、何だ」

 カフェは、すぐには答えなかった。

 答え方が、分からなかった。黄昏時のこと。お友だちのこと。それを、どう言えばいいのか。

「……あの時間は、一人でいたいんです」

 結局、それだけを言った。

「子どもの頃から、ずっと。……理由は、うまく言えません。でも、あの時間に、誰かのためにカップを運ぶのは、私には、できないかもしれないと、今日、分かりました」

 柏木は、しばらく、何も言わなかった。

 それから、ふっと、息を吐いた。笑ったのだと、カフェには分かった。柏木が笑うのを、二年半で、三度目に見た。

「……やっと、言ったか」

「……え」

「二年半、毎日、夕方になると、あんたの手が、少しだけ遅くなってた。気づいてないと思ってたか」

 カフェは、言葉を失った。

「店の者が、店の時間に合わせるのは、当たり前だ。……だが、自分の店なら、店の時間を、自分に合わせられる」

 柏木は、洗い終えたカップを、一つ、カフェに渡した。

「あんたの味は、あんたの店で出せばいいと、前に言ったな」

「……はい」

「あんたの時間も、あんたの店で決めればいい。……夕方に閉める喫茶店があったって、いいだろう」

 カフェは、渡されたカップを、両手で持ったまま、動けなかった。

 柏木は、また、蛇口をひねった。水の音が、戻ってきた。

「……急ぐなよ。店は、逃げない」

「……はい」

「ただし、決めたら、迷うな。迷いながら開けた店は、客にも、迷いが伝わる」

「……はい」

 カフェは、カップを拭いた。

 拭きながら、自分の手が、少しだけ震えていることに気づいた。

 怖かった。

 怖くて、それより、ずっと、何かが明るかった。

 

 三 遠い国からの電話

 

 その夜、雅也は、日本にいなかった。

 二人目の担当――ソラノカナタが、フランスの秋の大きなレースに挑む、その十日前だった。雅也は、カナタと一緒に、向こうの小さな町の練習場にいた。カフェが二度、同じレースに挑んだときと、同じ町だった。

 寮の部屋に戻ったカフェは、携帯の画面を、しばらく見ていた。

 向こうは、まだ昼過ぎだった。練習の時間かもしれなかった。食事の時間かもしれなかった。カナタの調子を見ている、大事な時間かもしれなかった。

 ――急がない。

 カフェは、短い文を打った。

 ――今日、柏木さんに、自分の店を持ちたいと言いました。急ぎではありません。時間のあるときに、話を聞いてください。

 送信して、携帯を伏せた。

 電話が鳴ったのは、十分後だった。

『……カフェ』

 雅也の声だった。少しだけ、息が上がっていた。後ろで、風の音がしていた。外にいるのだと分かった。

「……雅也さん。急ぎではないと、書きました」

『読んだ。……急ぎじゃないけど、今、聞きたかった』

「カナタさんは」

『今、医療スタッフと、脚の確認中。……俺は、外で待ってる。二十分くらい、時間がある』

 カフェは、ベッドの端に腰を下ろした。

 向かい側のベッドで、ユキノビジンは気を利かせてイヤホンをつけ、壁の方を向いた。

「……今日、時計台で、夕方、窓の前で止まってしまいました」

『うん』

「黄昏の時間に、誰かのためにカップを運ぶのは、私には、できないかもしれないと、思いました。……それで、柏木さんに、言いました」

『柏木さんは、何て』

「やっと言ったか、と」

 電話の向こうで、雅也が、小さく笑う気配がした。

『……さすがだな、あの人』

「二年半、夕方になると、私の手が遅くなっていたそうです。……気づいていなかったのは、私だけでした」

『……そうか』

 風の音が、少しだけ強くなった。

『カフェ』

「はい」

『どこで、どういう店を、やりたい』

「……まだ、全部は、決まっていません。でも、ノートの四行は、決まっています。席は少なく。窓は西向き。入口に段差を作らない。……黄昏の前に、閉める」

『四行目、増えたんだな』

「去年、増えました」

『いい四行だと思う』

 雅也は、それだけ言った。

 それ以上、何も言わなかった。どこがいいとも、どうすればいいとも。カフェは、それが、この人の答えだと分かっていた。決めるのは、カフェだ、と。

「……雅也さん」

『ん』

「物件を、探しはじめたいです。……雅也さんが、帰ってきてからで、いいので」

『帰ってからじゃなくていい』

「……え」

『カフェが探したいと思ったときに、探せばいい。俺を待たなくていい。……俺は、帰ったら、運転手でも、荷物持ちでも、何でもする。でも、最初の一歩は、カフェが行きたいときに』

 カフェは、携帯を、耳に強く押し当てた。

 雅也の声の後ろで、誰かが、フランス語で、何か短く言った。それから、日本語の、若い声が聞こえた。カナタの声だった。「トレーナー、終わりましたー!」と。

『……悪い。戻らないと』

「はい。……カナタさんに、よろしく伝えてください」

『伝える。……カフェ』

「はい」

『自分の店を持ちたいって、言えて、よかったな』

 電話が、切れた。

 カフェは、携帯を、膝の上に置いた。

 向かい側のベッドで、ユキノビジンがイヤホンを外す音がした。

「……カフェさん」

「はい」

「店、やるの?」

「……やります」

 ユキノビジンは自分のベッドを出て、カフェの枕元へ身を寄せた。顔を覗き込むと、満面の笑みだった。

「開いたら、いちばんに行くべ!」

 カフェは、思わず、声を立てて笑った。

 笑いながら、その約束を、胸の中に、丁寧にしまった。

 

 四 三軒の建物

 

 物件を探しはじめたのは、その年の冬だった。

 雅也が帰国して、カナタのフランスでの勝利の取材が少し落ち着いた頃だった。雅也は、その少し前に、中古の小さな車を買っていた。担当の遠征で、荷物が増えたからだと言っていた。助手席に座ると、古い革のシートの匂いがした。

 後部座席には、タキオンが座っていた。

 膝の上に、小さな計器を三つ、抱えていた。

「……湿度だけで、いいと言いました」

「湿度計と、温度計と、照度計だ。照度計は、西日の入り方を測るためのものだよ。君の、西向きの窓のために」

「……照度計は、頼んでいません」

「頼まれていないことをするのが、研究者というものだ」

 雅也が、運転席で、肩を震わせていた。

 一軒目は、駅前の、新しい建物の一階だった。

 ガラス張りの、明るい空間だった。天井が高く、床は白い石だった。人通りが多く、立地は申し分なかった。不動産屋の若い男性が、「ここなら、お客さんには困りませんよ」と、少し得意そうに言った。

 カフェは、空っぽの部屋の真ん中に立った。

 明るすぎた。

 窓は、南と東を向いていた。西には、隣のビルの壁があった。黄昏は、見えなかった。

 それに、と、カフェは思った。

 部屋の隅に、お友だちが立っていた。入口の、扉の脇に。中へ、入ってこなかった。

 ――ここは、違う。

 お友だちが、そう言ったわけではなかった。何も言わない。けれど、入ってこないことが、カフェには、答えのように思えた。

 いや、とカフェは、すぐに思い直した。

 ――お友だちに、決めてもらうのではない。

 窓が、西を向いていない。黄昏が見えない。それで、十分だった。

「……ありがとうございました。ここは、違うと思います」

 カフェは、不動産屋の男性に、頭を下げた。男性は、少し驚いた顔をした。

「湿度、四十一。温度、十九。照度は――」

「タキオンさん。もう、大丈夫です」

「……そうかい」

 二軒目は、古い商店街の、地下の店舗だった。

 前は、小さなバーだったという。木のカウンターが、そのまま残っていた。落ち着いた、いい空間だった。けれど、窓が、一つもなかった。

 カフェは、カウンターの端に、そっと手を置いた。古い木の、なめらかな手触りだった。何人の人が、ここで、何杯の何かを飲んだのだろう。

「……いい店だったんだろうな」

 隣で、雅也が言った。

「はい。……でも、窓が、ありません」

「ないな」

「黄昏が、見えません」

「……地下だからな」

 カフェは、カウンターから手を離した。

 お友だちは、階段の一番上で、立ち止まっていた。降りてこなかった。

「湿度、六十三。豆の保管には、少し高い」

 タキオンが、計器を見ながら言った。

「……ありがとうございます、タキオンさん。それは、大事な情報です」

「だろう?」

 タキオンは、少しだけ、得意そうな顔をした。

 三軒目は、学園から歩いて二十分ほどの、古い住宅街の外れだった。

 大通りから、一本入った、静かな通りの角。両隣に、小さな古書店と、二階建ての古い民家。通りの向かいに、大きな桜の木が一本、冬の裸の枝を広げていた。

 建物は、古い木造の二階建てだった。前は、小さな仕立て屋だったという。店主が高齢で店を畳んでから、二年、空いていた。外壁の板は、色あせて、ところどころ、塗装が剥げていた。入口の扉は、木の枠に、すりガラスがはまっていた。

 入口の前に、石の段差が、一段だけあった。

 不動産屋の年配の女性が、鍵を開けた。扉が、ぎい、と軋んだ。

 中は、細長い部屋だった。入口から、奥へ、まっすぐに伸びていた。床は、古い板張り。壁には、仕立て屋の頃の棚が、まだ残っていた。埃の匂いと、古い木の匂いがした。

 一番奥に、大きな窓があった。

 カフェは、細長い部屋の真ん中を、ゆっくりと歩いた。古い床板が、足の下で、小さく鳴った。窓の前で、立ち止まった。

 窓の外に、隣の家の小さな庭と、その向こうの、低い屋根並みと、空が見えた。

 冬の午後の、三時過ぎだった。陽が、少しずつ、傾きはじめていた。窓から差し込む光が、床の上に、長い四角を作っていた。

「……この窓、どちらを向いていますか」

 カフェは、振り返らずに訊いた。

 不動産屋の女性が、手元の書類を見た。

「ええと……西ですね。真西より、ほんの少し南寄り」

 カフェは、何も言わなかった。

 窓の外の空を、見ていた。

 あと一時間もすれば、この窓の向こうが、燃えるような色に変わる。それが、目に見えるようだった。

 ふと、横を見た。

 窓の前の、何もない床の上に、お友だちが立っていた。カフェと並んで。窓の外を、見ていた。

 カフェは、何も言わなかった。

 お友だちも、何も言わなかった。

「……湿度、四十五。温度、十六。照度は――」

 タキオンが、後ろで言いかけて、止まった。

 それから、計器を持ったまま、静かに、窓の方を見た。

「……カフェ。今、ここに、誰かいるかい」

「……います」

「そうか」

 タキオンは、それ以上、何も訊かなかった。計器を、膝の上に下ろした。記録も、取らなかった。

 雅也は、入口の、石の段差の前に立っていた。

 しゃがみこんで、段差の高さを、手のひらで測っていた。それから、立ち上がって、カフェの方を見た。

「……段差、ある」

「はい」

「一段だけだ。……削るか、スロープにするか。工事で、どうにかなると思う」

「……はい」

「カフェ」

「はい」

「ここか」

 カフェは、窓の外を見たまま、答えた。

「……ここです」

 

 

第四部 宵待ち

 

 一 自分の名前

 

 契約の書類に、自分の名前を書いたのは、翌年の二月だった。

 不動産屋の小さな事務所の、奥の応接の机だった。石油ストーブが、低く唸っていた。窓ガラスが、内側から白く曇っていた。年配の女性が、書類の一枚一枚を、指でなぞりながら、丁寧に説明してくれた。家賃。保証金。修繕の範囲。契約の期間。

 カフェは、一枚ずつ、読んだ。分からない言葉があると、訊いた。女性は、嫌な顔をせずに、もう一度、別の言葉で説明してくれた。

 隣には、誰も座っていなかった。

 雅也は、事務所の外の車の中で、待っていた。「一緒に入ろうか」と言われたとき、カフェは、首を振った。「一人で、行きます」と。雅也は、それ以上、何も言わなかった。

 書類の一番下の欄に、ペンを置いた。

 ――契約者。

 カフェは、自分の名前を書いた。

 書き終えて、ペンを置いて、その名前を、しばらく見ていた。走っていた頃、何度も、何百回も書いた名前だった。出走の書類に。サインを求められた色紙に。けれど、こんなふうに、自分の名前を、自分の責任の重さとして見たことは、たぶん、一度もなかった。

 お金のことは、去年の秋から、何度も、何度も、考えた。

 走っていた頃に得た賞金は、まだ、手つかずで残っていた。それだけで、店を開くことは、たぶん、できた。けれど、カフェは、それを全部は使わないことにした。一部だけを使って、残りは、学園の大学課程で知り合った、地域の金融機関の相談窓口で、借り入れの相談をした。

 ――なぜ、と、窓口の人に訊かれた。お持ちのお金で、足りるのではありませんか、と。

 カフェは、少し考えてから、答えた。

 ――毎月、返さなければいけないものがある方が、店のことを、毎月、ちゃんと考えられると思うので。

 窓口の人は、少し驚いた顔をした。それから、笑って、書類を出してくれた。

 豆のことは、両親に相談した。

 両親は、昔から、コーヒーが好きだった。家には、遠い国から直接取り寄せた豆の袋が、いつも、いくつも並んでいた。カフェがコーヒーを好きになったのは、たぶん、その匂いの中で育ったからだった。

 電話で、店のことを話すと、父は、しばらく黙っていた。それから、「取引先を、紹介しよう」と言った。古くから付き合いのある、小さな輸入の会社だった。

 ――紹介してもらえますか。でも、値段と量の話は、私がします。

 カフェがそう言うと、父は、また少し黙った。それから、電話の向こうで、母に何か言っているのが聞こえた。母の、小さな笑い声がした。

 ――……分かった。お前の店だからな。

 父の声は、少しだけ、嬉しそうだった。

 不動産屋の事務所を出ると、二月の冷たい風が、頬を打った。

 車の助手席の窓を、軽く叩いた。雅也が、運転席から、ドアの鍵を開けた。

「……終わりました」

「お疲れさま」

 カフェは、助手席に座った。古い革のシートが、冷えていた。

 雅也は、何も訊かなかった。エンジンをかけて、暖房を強くした。温かい風が、足元から吹き上がってきた。

「……名前を、書きました」

「うん」

「自分の名前を、自分の店のために書いたのは、初めてでした」

「……どうだった」

 カフェは、膝の上で、手袋をはめた両手を重ねた。

「……重かったです」

「そうか」

「でも、嫌な重さでは、ありませんでした」

 雅也は、ハンドルに手を置いたまま、少しだけ笑った。

「……カフェの店だな」

「はい。私の店です」

 

 二 削られた段差

 

 工事が始まったのは、三月の終わりだった。

 近くの工務店の、若い職人と、年配の棟梁が、二人で来た。棟梁は、カフェの描いた、拙い図面を見て、「ふうん」と言った。それから、建物の中を、ゆっくりと歩いて回った。床板を叩いた。柱に耳を当てた。窓枠を指で押した。

「いい建物だ。古いけど、しっかりしてる。……前の仕立て屋さんが、大事に使ってたんだな」

 棟梁は、そう言って、入口の段差の前で、しゃがみこんだ。

「これは、削るかね。それとも、スロープを付けるかね」

「……削れますか」

「削れる。下の土台を少しいじれば。……ただ、雨の日に、水が入りやすくなる。入口の外に、水はけの溝を切らないと」

「お願いします」

「スロープの方が、安いよ」

「……削りたいです」

 カフェは、言った。

「スロープも、いいと思います。でも、スロープだと、そこに、段差があったことが分かります。……段差が、最初からなかったように、したいんです」

 棟梁は、カフェの顔を、じっと見た。

 それから、にやりと笑った。

「……分かった。削ろう」

 段差を削る日、雅也は、仕事の合間に、二時間だけ、手伝いに来た。

 棟梁に言われて、削った石の欠片を、手押し車に積んで、裏手まで運んだ。何往復も。重い石だった。雅也の額に、汗が浮かんでいた。三月の終わりの、まだ少し肌寒い日だったのに。

 カフェは、店の中で、古い棚を外す若い職人を手伝っていた。手伝う、といっても、外した板を受け取って、壁際に立てかけるだけだった。

 ふと、入口の方を見た。

 雅也が、手押し車を押して、店の前を横切っていった。息が、少し上がっていた。シャツの袖を、肘までまくっていた。腕に、石の粉が、白くついていた。

 ――トレーナーさんは、重い物を運ぶ人ではないのに。

 ふと、そう思った。担当だった頃の呼び方で。それから、自分で少し笑った。

 トレーナーさん、ではない。雅也さんだ。

 それに、トレーナーでも、重い物は運ぶ。遠征の荷物。練習の器具。それを、カフェは、四年間、見てきた。この人は、自分にできることなら、何でもする人だった。何でもするけれど、自分がしたことを、誰にも言わない人だった。

 夕方、段差は、なくなっていた。

 入口の扉の前の地面が、店の中の床と、同じ高さになっていた。扉の外に、細い溝が一本、切られていた。雨の水を、逃がすための溝だった。

 カフェは、扉の外に立って、それから、一歩、店の中に入った。

 足が、何にも引っかからなかった。

 段差が、最初から、なかったように。

「……どうだ」

 雅也が、隣に立っていた。腕の石の粉を、手で払いながら。

「……つまずきませんでした」

「だろ」

「三行目が、できました」

「……三行目」

「入口に、段差を作らない。……雅也さんの行です」

 雅也は、手を払う動きを止めた。

 それから、少しだけ照れたように、首の後ろを掻いた。石の粉が、また、少しだけ散った。

 カフェは、エプロンのポケットからハンカチを出して、雅也の腕の粉を、黙って拭いた。

 

 三 名前のない店

 

 五月になっても、店には、まだ、名前がなかった。

 工事は、ほとんど終わっていた。古い板張りの床は、職人が丁寧に磨き直して、深い飴色に光っていた。仕立て屋の棚は外されて、代わりに、カウンターが据えつけられた。古材を使った、焦げ茶色の、厚い一枚板のカウンターだった。七席。壁際に、二人掛けのテーブルが二つ。

 九席。

 ノートの一行目の通りだった。

 カフェは、毎日、大学課程の頃のノートを開いて、店の準備を一つずつ進めた。焙煎機の選定。小さな、家庭用より少しだけ大きなもの。一度に焼ける量は少ない。そのぶん、毎日、少しずつ焼く。カップは、二十客。九席の店に、二十客。洗っている間にも、出せるように。皿。スプーン。砂糖壺。ミルクピッチャー。どれも、時計台で使っていたものより、少しだけ小さくて、少しだけ素朴なものを選んだ。

 メニューは、何度も、書いては消した。

 最初は、十種類以上あった。産地ごとの豆。焙煎の深さの違い。カフェオレ。ウインナーコーヒー。水出し。紅茶が三種類。焼き菓子が五種類。軽食が三種類。

 それを、一つずつ、消していった。

 ――これを、毎日、自分一人で、同じ味で出せるか。

 消すたびに、そう自分に訊いた。

 最後に残ったのは、六つだった。

 ――宵待ちブレンド(中煎り)。深煎りブレンド。その日の豆(一種類)。カフェオレ。紅茶(一種類)。焼き菓子(日替わり一種類)。

 紅茶を残したのは、タキオンのせいだった。

 研究室で、メニューの話をしていたとき、タキオンが、紅茶のカップを片手に、ぼそりと言った。

 ――私のような、コーヒーを飲まない人間は、君の店に、入ってはいけないのかい。

 カフェは、そのとき、何も答えなかった。けれど、その夜、メニューの最後に、一行、書き足した。紅茶、一種類。砂糖は、テーブルに置く。好きなだけ。

 名前だけが、決まらなかった。

 候補は、ノートの一ページを埋めるほど、書いた。どれも、少しずつ違った。どれも、自分の店の名前だと、思えなかった。

「……店の名前、まだか」

 その日の夕方、雅也が、店に来た。仕事帰りだった。手に、紙袋を二つ提げていた。中に、注文していたカップの、最後の十客が入っていた。配送の都合で、学園の近くの店に届いたのを、取ってきてくれたのだった。

「……まだです」

 カフェは、カウンターの内側で、ノートを広げたまま、言った。

 雅也は、紙袋をカウンターの上に置いた。それから、カウンターの客席の側の、真ん中の椅子に座った。

「候補は」

「……たくさん、あります。でも、どれも、違う気がします」

「見せてもらってもいいか」

 カフェは、ノートを雅也の方へ押しやった。

 雅也は、一つずつ、目で追った。何も言わなかった。最後まで読んで、ノートを閉じて、カフェに返した。

「……どれも、いい名前だと思う」

「……」

「でも、カフェが違うと思うなら、違うんだろうな」

 カフェは、ノートを胸の前で抱えた。

 窓の外が、少しずつ、橙色に染まりはじめていた。

 五月の夕方の、六時を少し過ぎた頃だった。

「……雅也さん」

「ん」

「少しだけ、一人にしてもらえますか。……黄昏の、間だけ」

 雅也は、何も訊かなかった。

「外にいる。……桜の木の下」

「ありがとうございます」

 雅也が、扉を開けて、出ていった。扉が閉まった。

 店の中に、カフェ一人が残った。

 カフェは、明かりを消した。

 それから、カウンターの内側から出て、店の一番奥の、西の窓の前に立った。

 窓の外の空が、燃えていた。

 低い屋根並みの向こうに、大きな夕陽が、ゆっくりと沈んでいこうとしていた。その周りの雲が、橙色と、金色と、薄い紅色に、縁取られていた。磨き直した床板の上に、窓の形の光が、長く、長く伸びていた。その光が、少しずつ、色を変えていった。橙から、桃色へ。桃色から、紫へ。

 カフェは、窓の前の床に、そっと腰を下ろした。

 カウンターの、一番端の席の、すぐ下だった。

 膝を抱えて、窓の外を見た。

 隣に、お友だちが、座っていた。

 カウンターの一番端の椅子に。窓の外を、見ていた。

 カフェは、何も言わなかった。お友だちも、何も言わなかった。

 世界の音が、遠くなっていた。通りの車の音も。どこかの家の、夕食の支度の音も。烏の声も。全部、遠くなって、ただ、窓の外の空だけが、目の前にあった。

 ――この時間を、待っている。

 ふと、そう思った。

 一日のうちで、一番好きな時間。一番、一人でいたい時間。その時間が来るのを、自分は、毎日、待っている。朝から、昼から、午後から。豆を挽きながら。湯を落としながら。カップを拭きながら。この、昼と夜の境目の時間が来るのを。

 ――宵を、待っている。

 カフェは、膝を抱えたまま、目を閉じた。

 宵待ち。

 その言葉が、胸の中で、静かに、形になった。

 夜が来るのを、待つ時間。誰かを、待つ時間。黄昏の、手前の時間。この店に来る人たちが、ここで過ごすのは、その時間だ。昼の終わりから、夕方の手前まで。それぞれの、宵を待つまでの時間。

 そして、店は、宵が来る前に、扉を閉める。

 カフェは、目を開けた。

 窓の外の空は、もう、深い紫色に変わっていた。通りの街灯が、一つ、灯った。

 隣の椅子を見た。

 お友だちは、まだ、そこにいた。窓の外を、見ていた。

 カフェは、立ち上がった。明かりを点けた。カウンターの内側に戻って、ノートを開いた。名前の候補が並んだページの、一番下に、ペンで、小さく書いた。

 ――宵待ち。

 書いてから、その三文字を、しばらく見ていた。

 それから、扉を開けた。

 通りの向かいの、桜の木の下に、雅也が立っていた。葉桜の枝の下で、腕を組んで、空を見上げていた。

「……雅也さん」

 雅也が、こちらを向いた。

「名前、決まりました」

 雅也は、何も言わずに、通りを渡ってきた。

 カフェは、ノートを開いて、一番下の三文字を見せた。

 雅也は、それを、しばらく見ていた。

「……よいまち」

「はい。宵待ち、です」

「喫茶・宵待ち」

「……はい」

 雅也は、ノートから顔を上げて、店を見た。古い木造の、細長い建物。すりガラスの扉。まだ何も掛かっていない、扉の横の壁。

 それから、カフェを見た。

「……似合ってる」

「……店に、ですか」

「店にも。カフェにも」

 カフェは、ノートを胸の前で閉じた。

 頬が、少しだけ、熱かった。

 

 四 真鍮の鈴

 

 開店を一週間後に控えた日、時計台の柏木が、宵待ちを訪ねてきた。

 夕方ではなく、昼過ぎだった。時計台の定休日の、水曜日だった。いつもの白いシャツに、黒い蝶ネクタイを締めて、杖をついていた。カフェは、その杖を、初めて見た。

「……柏木さん」

「近くまで来たから」

 柏木は、それだけ言って、入口の前で、立ち止まった。

 足元を、見た。段差のない、入口を。それから、ゆっくりと、店の中に入ってきた。杖の先が、磨き直した床板の上で、こつ、こつ、と鳴った。

 柏木は、店の中を、ゆっくりと見て回った。

 七席のカウンター。二つのテーブル。棚に並んだ二十客のカップ。小さな焙煎機。それから、一番奥の、西の窓。窓の前の、カウンターの一番端の席。その上の、小さな木の札。

 ――予約席。

 柏木は、その札を、しばらく見ていた。

 何も、訊かなかった。

「……座ってもいいかね」

「どうぞ」

 柏木は、カウンターの、入口から三番目の席に座った。カフェが、時計台で、半年間座っていた席と、同じくらいの位置だった。

「……一杯、淹れてもらおうか」

「……はい」

 カフェは、カウンターの内側に立った。

 豆を量った。挽いた。湯を沸かして、温度を測った。十九の誕生日の温度計で。

 湯を、細く落とした。止めた。待った。

 時計台の味ではなかった。自分の味だった。

 カップを、柏木の前に置いた。

 柏木は、杖をカウンターに立てかけて、カップを手に取った。香りを嗅いだ。一口、飲んだ。

 長い沈黙だった。

 古い柱時計は、この店にはなかった。代わりに、窓の外で、雀が鳴いていた。

「……うまい」

 柏木が、言った。

「あんたの味だ」

「……はい」

「ここで、出すんだな」

「はい」

 柏木は、もう一口飲んで、カップを置いた。

 それから、上着のポケットから、小さな布の包みを取り出した。カウンターの上に、そっと置いた。

「……開けてみな」

 カフェは、包みを開いた。

 中に、小さな真鍮の鈴が、一つ、入っていた。古い鈴だった。表面が、長い年月で、くすんだ金色に落ち着いていた。上に、扉に掛けるための、小さな金具がついていた。

「……これは」

「時計台を開いたときに、扉に掛けてた鈴だ。四十年前。……途中で、新しいのに替えた。こいつは、しまってあった」

 カフェは、鈴を手のひらに載せた。

 思っていたより、重かった。少しだけ揺らすと、ちりん、と、小さな、柔らかい音がした。

「……いただけません。こんな、大事なもの」

「大事だから、持ってきた」

 柏木は、カップに残ったコーヒーを、最後まで飲んだ。

「店の扉が開くたびに、鳴る。……客が来たって、教えてくれる。客が帰ったって、教えてくれる。忙しいときも、ぼんやりしてるときも。……店の者が、客の時間を、聞き逃さないように」

 カフェは、鈴を、両手で包んだ。

 何も、言えなかった。

 柏木は、杖を手に取って、立ち上がった。代金を払おうとして、カウンターの上に、小銭を置いた。カフェが、「開店前ですから」と言うと、柏木は「客だ」とだけ言って、小銭を置いたまま、入口の方へ歩いていった。

 扉の前で、柏木は、一度だけ振り返った。

「……急いだな」

「……え」

「店は逃げないと、言ったのに。……一年と、少しだ」

「……はい」

「だが、迷ってない顔をしてる」

 柏木は、それだけ言って、扉を開けて、出ていった。

 カフェは、真鍮の鈴を、両手で包んだまま、立っていた。

 その日の夕方、カフェは、脚立に乗って、扉の内側の上に、その鈴を掛けた。

 扉を開けた。

 ちりん、と鳴った。

 柔らかい、小さな音だった。四十年、どこかの扉の上で、誰かの来訪を告げてきた音。

 

 五 いちばんの客

 

 十月の最初の月曜日、喫茶・宵待ちは、扉の札を、初めて裏返した。

 十一時ちょうどだった。

 店の前の通りに、誰かが立っているのが、すりガラス越しに見えた。カフェは、扉を開けた。

 ちりん、と鈴が鳴った。

「……カフェさん!」

 ユキノビジンだった。

 薄い秋のコートを着て、肩に、大きな紙袋を提げていた。紙袋の中に、赤い林檎が、いっぱいに詰まっていた。頬が、走ってきたように、赤くなっていた。

「……ユキノさん」

「一番乗りだべ!? おらが一番だべ!?」

「……はい。一番です」

「やったぁ!」

 ユキノビジンは、両手で紙袋を抱えたまま、ぴょんと跳ねた。

「朝の五時に起きて、始発の新幹線さ乗ってきたんだ! 実家から! 母ちゃんが林檎を持ってけって!」

「……実家から、ですか」

「んだ! 開店したら一番に行くって約束したべ!」

 カフェは、何も言えなかった。

 大学課程の寮の部屋で、向かい側のベッドに座ったユキノビジンが、満面の笑みでそう言った。もう、一年も前のことだった。

 その約束を、ユキノビジンは大切にしてくれていた。

 だからこそ、始発の新幹線に乗って、ここまで来てくれたのだ。

「……どうぞ。……一番の、お客様」

 カフェは、扉を大きく開けた。

 ユキノビジンは、段差のない入口を、何の引っかかりもなく、店の中に入ってきた。それから、細長い店の中を、ぐるりと見回した。焦げ茶色のカウンター。磨かれた床。二十客のカップ。西の窓。

「……わぁ」

 ユキノビジンは、小さく声を漏らした。

「……カフェさんの、お店だ」

「……はい」

「カフェさんの、においがする」

「……コーヒーの、匂いです」

「んだ。……やっぱり、カフェさんの店の匂いだべ」

 ユキノビジンは、カウンターの、入口から四番目の席に座った。それから、メニューの六つの行を、指でなぞった。

「……宵待ちブレンド、ください」

「はい」

 カフェは、カウンターの内側に立った。

 豆を量った。挽いた。湯を沸かして、温度を測った。湯を、細く落とした。

 ユキノビジンは、カウンターに頬杖をついて、カフェの手元を、じっと見ていた。

 カップを、ユキノビジンの前に置いた。

 ユキノビジンは、両手でカップを持って、一口飲んだ。

 それから、カップを持ったまま、しばらく、何も言わなかった。

「……どう、ですか」

 カフェが訊いた。

 ユキノビジンは、顔を上げた。目が、潤んでいた。

「……おいしい」

「……」

「寮で淹れてくれたのと同じ味がする。……でも、ちょっと違うんだ。なんていうか、こっちはちゃんと『お店の味』になってる」

「……そう、ですか」

「んだ。カフェさんが作った、宵待ちの味だべ」

 ユキノビジンは、もう一口、飲んだ。それから、目元を、手の甲で、ぐいっと拭った。

「……カフェさん、おめでとう」

「……ありがとうございます」

「ほんとに、おめでとう」

 カフェは、カウンターの内側で、両手を前で重ねて、立っていた。

 何か言おうとした。言葉が、出てこなかった。

 代わりに、ユキノビジンが持ってきた林檎を一つ取って、丁寧に皮を剥いて、小さく切って、皿に載せて、ユキノビジンの前に置いた。

「……サービスです」

「……それ、おらの林檎だべ」

「はい。ユキノさんの、林檎です」

 ユキノビジンは、ぷっと吹き出した。それから、声を立てて笑った。

 カフェも、笑った。

 扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

 二人目の客が、入ってきた。

 

 

第五部 最初の冬

 

 一 誰も来ない午後

 

 開店して三週目の木曜日、午後の三時まで、客は一人も来なかった。

 十一時に札を裏返した。豆を量った。湯を沸かした。カップを温めた。それから、待った。

 十二時になった。誰も来なかった。

 一時になった。誰も来なかった。

 カフェは、カウンターの内側で、何度も、同じカップを拭いた。拭く必要のないカップを。窓の外の通りを、何人かの人が、通り過ぎていった。誰も、扉の前で、立ち止まらなかった。

 二時になった。

 カフェは、扉の外に出て、看板を見た。

 ――喫茶・宵待ち。

 白い字で、それだけ。営業時間も、メニューも、何も書いていない。扉のすりガラス越しには、中の様子がほとんど見えない。

 ――入りにくいのかもしれない。

 そう思った。思って、すぐに、店の中に戻った。

 看板を変えるべきか。営業時間を、外に出すべきか。メニューを、扉の横に貼るべきか。黒板を置いて、今日の豆の名前を書くべきか。大学課程の、飲食店経営論の講義で、何度も聞いた。客は、店の中が分からないと、入らない。不安を取り除くことが、最初の一歩だ、と。

 分かっていた。

 分かっていて、看板に、何も書き足さなかった。

 開店前に、何度も考えて、決めたことだった。外には、名前だけ。中のことは、中に入った人だけが知ればいい。静かな店だから。九席しかない店だから。たくさんの人に、通りすがりに覗かれる店には、したくなかった。

 ――それは、ただの、わがままではないのか。

 カウンターの内側で、カフェは、拭いていたカップを置いた。

 店を開いて、三週間。来た客は、一日に平均して、十人ほどだった。ユキノビジンが一番に来た初日は、学園の知り合いや、時計台の常連が何人か顔を出してくれて、二十人を超えた。それから、少しずつ、減っていった。

 毎月、返さなければいけないものがある方が、店のことを、毎月、ちゃんと考えられる。

 金融機関の窓口で、そう言った自分の声が、今は、少しだけ、遠く聞こえた。

 三時を、少し過ぎた頃だった。

 扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

 カフェは、顔を上げた。

 背筋のまっすぐな、白髪の女性が、扉の内側に立っていた。七十を、少し越えたくらいに見えた。灰色のコートを着て、手に、布の手提げを持っていた。

 女性は、店の中を、ゆっくりと見回した。七席のカウンター。二つのテーブル。誰もいない店。西の窓。

「……やってるのかしら」

「……はい。いらっしゃいませ」

「看板に、何も書いてないから。……喫茶店なのか、骨董屋さんなのか、分からなくて。三回くらい、前を通ったのよ」

 カフェは、何と答えればいいのか、分からなかった。

「……すみません」

「謝ることじゃないわ。……でも、入ってみたら、喫茶店だった。よかった」

 女性は、そう言って、カウンターの真ん中の席に座った。手提げから、文庫本を一冊、取り出した。

「……一番、普通のコーヒーを、ください」

「……宵待ちブレンドで、よろしいですか。中煎りの」

「よいまち?」

「店の、名前です」

「ああ。……看板の。よいまち、って読むのね。いい名前」

 女性は、文庫本を開いた。

 カフェは、豆を量った。挽いた。湯を落とした。ゆっくりと。

 カップを、女性の前に置いた。

 女性は、文庫本から目を離さずに、カップを手に取って、一口飲んだ。それから、また、文庫本のページをめくった。

 何も言わなかった。

 カフェは、カウンターの内側で、次の湯を沸かしはじめた。

 女性は、一時間半、そこに座っていた。文庫本を、ゆっくりと読んでいた。ときどき、カップを持ち上げて、一口ずつ飲んだ。最後の方は、もう冷めていたはずだった。

 帰り際、女性は、レジの前で、財布を出しながら言った。

「……冷めても、おいしいのね。ここのコーヒー」

 カフェは、釣り銭を数える手を止めた。

「……ありがとうございます」

「私、本を読みながら飲むから、いつも、最後は冷めちゃうの。……冷めたら、苦くなるコーヒーが多いのよね。ここのは、冷めたら、甘くなった」

「……」

「また、来るわね。……沢井です。近くに住んでるの」

「……お待ちしています。沢井さん」

 沢井さんは、扉の鈴を鳴らして、帰っていった。

 カフェは、レジの前に立ったまま、しばらく動かなかった。

 ――冷めたら、甘くなった。

 時計台で、柏木に言われた。湯を止めている時間が、長い。だから、苦味が、奥に沈む。雅也に言われた。ゆっくり飲む人のための、味だ。

 それを、初めて、知らない人が、言葉にしてくれた。

 何も知らない人が。看板に何も書いていない店の前を、三回通り過ぎて、四回目に入ってきた人が。

 カフェは、カウンターの内側に戻って、沢井さんのカップを洗った。

 カップの底に、ほんの少しだけ、コーヒーが残っていた。

 最後の一口まで、飲んでくれていた。

 

 二 閉まっている扉

 

 十一月の初めの、ある夕方のことだった。

 カフェは、扉の札を、裏返していた。準備中。その月の閉店時間は、四時半だった。窓の外の空が、もう、薄い橙色に染まりはじめていた。

 扉のすりガラスの向こうに、人影が立った。

 扉が、外から押された。札が、揺れた。

「……あれ。閉まってる?」

 若い男性の声だった。仕事帰りのような、スーツ姿だった。

 カフェは、扉を少しだけ開けた。鈴が、ちりん、と鳴った。

「……すみません。今日は、もう、閉店です」

「え。……まだ、四時半ですよね」

「はい。……日の入りの前に、閉める店なので」

 男性は、扉の内側に貼られた小さな紙を見た。その月の閉店時間が、書いてあった。

「……変わってますね」

「……はい」

「仕事帰りに、寄れる店を探してたんですけど。……夕方に閉まる喫茶店って、珍しいですね」

 男性の声は、責めてはいなかった。ただ、少し残念そうだった。

「……申し訳ありません」

 カフェは、深く頭を下げた。

 男性は、少し困ったように笑った。

「いや、謝らなくても。……じゃあ、休みの日に、来てみます」

 男性は、そう言って、通りを歩いていった。

 カフェは、扉を閉めた。

 鈴が、ちりん、と鳴った。

 西の窓の前に立った。窓の外の空が、燃えはじめていた。けれど、いつものようには、世界の音が遠くならなかった。さっきの男性の声が、耳の奥に残っていた。

 ――仕事帰りに、寄れる店を探してたんですけど。

 この店に、来たかった人がいた。来られなかった。自分が、黄昏の前に、扉を閉めたから。

 その夜、カフェは、店の二階の小さな事務机で、帳面を広げていた。

 十月の売上。十一月の、ここまでの売上。毎月の返済。家賃。豆の仕入れ。電気代。水道代。

 足りないわけではなかった。けれど、余裕があるわけでもなかった。

 もし、閉店を、夜の七時まで延ばしたら。仕事帰りの客が、来るかもしれない。夕方の、西の窓から黄昏が見える時間を、目当てに来る客も、きっといる。売上は、たぶん、増える。

 カフェは、帳面の上に、ペンを置いた。

 階段を、誰かが上がってくる音がした。

 雅也だった。仕事帰りに、迎えに来てくれたのだった。二人とも、まだ、別々の部屋に住んでいた。週に何度か、雅也が、閉店後の店に寄って、カフェを寮まで送っていた。

「……まだ、やってたのか」

「……はい」

 雅也は、事務机の横の、古い木の椅子に座った。帳面を、覗き込まなかった。カフェの顔を、見ていた。

「……何か、あったか」

「……夕方、お客さんを、一人、断りました」

「閉店後に来た人か」

「はい。仕事帰りに、寄れる店を探していた、と。……閉店時間を、延ばすべきか、考えていました」

 雅也は、何も言わなかった。

 カフェは、帳面の数字を、指でなぞった。

「……延ばせば、売上は、増えると思います。夕方の、西の窓は、きっと、たくさんの人が見たいと思う景色です。……私が、黄昏の時間を、一人でいたいというだけで、それを、閉じてしまっていいのか、分かりません」

「……」

「わがまま、だと思います」

 雅也は、しばらく、黙っていた。

 それから、言った。

「……カフェ」

「はい」

「訊かれたから、言う。……訊かれてないなら、言わないけど」

「……訊いています」

「なら、言う」

 雅也は、椅子の背にもたれた。

「黄昏の時間に、店を開けたら、カフェは、どうなる」

「……」

「時計台で、二年半、夕方に、手が遅くなってた。……柏木さんが、そう言ったんだろ。あの時間に、誰かのためにカップを運ぶのは、カフェには、できないかもしれないって。カフェが、自分で、そう言った」

「……はい」

「できないことを、売上のために、無理にやる。……一年は、できるかもしれない。二年も、できるかもしれない。でも、十年は、たぶん、できない」

 カフェは、顔を上げた。

「……十年」

「十年、続けたいだろ。この店」

 カフェは、何も答えなかった。

 答えなくても、答えは、分かっていた。

「担当の子に、俺は、いつも言ってた。……勝つために、身体を壊すような走り方は、させないって。一回勝っても、それで走れなくなったら、意味がない。……店も、たぶん、同じだ」

 雅也は、そこで、言葉を切った。

「……俺は、店のことは、分からない。経営のことも。だから、これは、トレーナーの言葉だ。カフェが、自分の店に当てはまるかどうか、決めてくれ」

 カフェは、帳面を閉じた。

 それから、しばらく、閉じた帳面の表紙を見ていた。

「……閉店時間は、変えません」

「うん」

「代わりに、扉の外に、閉店時間を、小さく書きます。……来てくれる人が、無駄足を踏まないように。それなら、わがままの、半分くらいは、許してもらえるかもしれません」

 雅也は、少しだけ笑った。

「半分か」

「半分です。……残りの半分は、私のわがままのまま、取っておきます」

「いいと思う」

「……雅也さん」

「ん」

「トレーナーの言葉、役に立ちました」

 雅也は、少し照れたように、首の後ろを掻いた。

 次の朝、カフェは、扉の横の、看板の下に、小さな真鍮の札を、一枚だけ取り付けた。

 ――日の入りの、少し前まで。

 それだけだった。

 店の名前と、その一行。それ以外は、やはり、何も書かなかった。

 

 三 焦げた豆

 

 十二月の初め、カフェは、豆を焦がした。

 朝の焙煎だった。小さな焙煎機の、回転する釜の中で、生の豆が、少しずつ色を変えていく。緑がかった淡い色から、黄色へ。黄色から、薄い茶色へ。ぱちぱちと、豆が爆ぜる音がする。一度目の爆ぜ。それから、少し間を置いて、二度目。

 その朝、カフェは、二度目の爆ぜの音を、聞き逃した。

 扉の鈴が、鳴ったからだった。

 開店前の、十時過ぎだった。扉の鍵は、まだ閉めていたはずだった。けれど、鈴は、確かに、ちりん、と鳴った。

 カフェは、焙煎機から目を離して、入口の方を見た。

 誰もいなかった。扉は、閉まったままだった。鍵も、かかったままだった。

 鈴だけが、まだ、かすかに揺れていた。

 ――お友だち。

 そう思った。思って、それから、焙煎機の方へ振り返った。

 釜の中から、細い煙が、上がっていた。

 焦げた匂いが、鼻をついた。

 カフェは、慌てて、焙煎機の火を止めた。釜を開けて、豆を冷却の網の上に出した。豆は、黒かった。表面に、油が浮いて、てらてらと光っていた。いつもより、ずっと深く、焼けすぎていた。

 一回分の、豆が、だめになった。

 カフェは、冷却の網の前に、しばらく立っていた。

 焦げた豆の匂いが、店の中に、重く広がっていた。苦くて、煙たくて、少しだけ、甘い匂い。

 ――お友だちの、せいではない。

 すぐに、そう思った。

 鈴が鳴ったのは、お友だちだったかもしれない。そうでなかったかもしれない。風かもしれない。古い鈴の、気まぐれかもしれない。分からない。けれど、焙煎機から目を離したのは、自分だった。二度目の爆ぜを待っている間に、目を離してはいけないと、分かっていた。分かっていて、離した。

 カフェは、焦げた豆を、一粒、指でつまんで、噛んでみた。

 苦かった。舌の奥が、痺れるほど。

 その苦さを、しばらく、口の中に残したまま、カフェは、焙煎の記録帳を開いた。

 ――十二月三日。焙煎、一回目、失敗。二度目の爆ぜの後、目を離した。深く焼けすぎ。廃棄。

 ――原因:焙煎中に、目を離した。

 ――次から:焙煎中は、鈴が鳴っても、焙煎機から目を離さない。扉は、焙煎が終わるまで、開けない。

 書き終えて、ペンを置いた。

 それから、窓際の、予約席の方を見た。

 お友だちは、そこに座っていた。窓の外を、見ていた。いつもと、同じように。

 カフェは、何も言わなかった。

 言う必要は、なかった。

 

 その日の午後、焦げた豆の匂いが、まだ少しだけ、店の中に残っていた。

 沢井さんが、文庫本から顔を上げて、鼻をひくひくさせた。

「……今日、何か、焦がした?」

「……はい。朝、豆を、少し」

「あら」

「ご迷惑を、おかけしました。……お出ししているのは、昨日焼いた分です」

「迷惑なんて。……ちょっと、いい匂いよ。焚き火みたいで」

 沢井さんは、そう言って、また文庫本に戻った。

 カフェは、カウンターの内側で、小さく頭を下げた。

 

 四 夜勤明けの人

 

 年が明けて、一月の半ばを過ぎた頃、新しい常連の客が、一人できた。

 開店してすぐの、十一時五分だった。扉の鈴が鳴って、灰色のダウンコートを着た女性が、入ってきた。三十代の半ばくらいに見えた。髪を、首の後ろで、きつく一つに結んでいた。目の下に、薄い影があった。

 女性は、カウンターの、一番入口に近い席に座った。座るなり、カウンターに両肘をついて、両手で顔を覆った。

「……一番、濃いのを、ください」

 声が、掠れていた。

「……深煎りブレンドで、よろしいですか」

「……はい。それで」

 カフェは、深煎りの豆を量った。挽いた。湯を落とした。

 カップを、女性の前に置いた。

 女性は、両手で顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと手を下ろして、カップを持ち上げた。一口飲んで、長く、息を吐いた。

「……生き返る」

 小さな声だった。

 カフェは、何も言わなかった。次の湯を、沸かしはじめた。

 女性は、それから三十分、カウンターに座っていた。何もしなかった。本も、端末も、出さなかった。ただ、カップを両手で包んで、少しずつ、飲んでいた。ときどき、窓の外を見ていた。昼前の、まだ白っぽい光の、窓の外を。

 帰り際、レジの前で、女性が言った。

「……ここ、静かでいいですね」

「……ありがとうございます」

「夜勤明けなんです。近くの病院の。……家に帰る前に、どこかで、少しだけ、ぼーっとしたくて。でも、駅前のチェーン店は、うるさくて」

「……そうでしたか」

「看板に、何も書いてないから、最初、入るの、ちょっと勇気いりました」

「……すみません」

「いえ。……入ってよかった」

 女性は、そう言って、少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。けれど、来たときより、ずっと、表情がほどけていた。

「また、来ます。……夜勤の、次の日に」

「お待ちしています」

 女性は、三枝と名乗った。

 それから、三枝さんは、本当に、夜勤の次の日に、必ず来た。週に二度か、三度。いつも、十一時五分。いつも、入口に一番近い席。いつも、深煎り。いつも、三十分。

 三度目に来た日、カフェは、深煎りのカップの横に、小さな皿を一つ、置いた。

 焼き菓子だった。その日の日替わりの、胡桃のクッキー。

「……頼んでないですけど」

「……夜勤明けは、甘いものがあると、少しだけ、楽になると、聞いたので」

「誰に」

「……昔、身体の記録を、つけてくれていた人に」

 三枝さんは、目を瞬いた。それから、クッキーを一枚、手に取って、かじった。

「……ほんとだ。ちょっと、楽になる」

「よかったです」

「……これ、お代は」

「今日は、いりません。……次から、ご注文ください」

 三枝さんは、声を立てて笑った。疲れていない方の、笑い方だった。

 次の夜勤明けから、三枝さんの注文は、深煎りと、焼き菓子になった。

 

 五 引き出しの紙

 

 三月の初めの、日曜日の夜だった。

 店は、日曜が定休日だった。カフェは、雅也の部屋の小さな食卓で、雅也と向かい合って座っていた。

 食卓の上に、一枚の紙が置いてあった。

 役所でもらってきた、真新しい紙だった。

 二人とも、その紙を、しばらく黙って見ていた。

「……書くか」

 雅也が、言った。

「……はい」

 二人で決めたことだった。去年の秋、店を開く少し前に。店が落ち着いたら、と。冬を一つ越えて、店が、少しずつ、自分の足で立ちはじめた頃に、と。

 カフェの、二十四の誕生日の、二日前だった。

 雅也が、ペンを取った。それから、ふと、手を止めた。

「……ちょっと、待ってくれ」

 雅也は、立ち上がって、部屋の隅の、古い木の机の前へ行った。一番上の引き出しを開けて、中から、折り畳まれた一枚の紙を、取り出した。

 少し黄ばんだ紙だった。折り目が、何度も開いて閉じたように、柔らかくなっていた。

 雅也は、それを、食卓の上の、新しい紙の隣に広げた。

 ――婚姻届。

 何も、書かれていなかった。

 カフェは、その紙を見て、息を止めた。

 覚えていた。

 大学課程の三年目の冬だった。学園の研究室で、雅也と、タキオンと、三人でいた。何の話をしていたのかは、もう覚えていない。突然、どこからともなく、一枚の紙が飛んできて、雅也の顔に、ぱさりと当たった。雅也は、それを拾って、しばらく、表と裏を、交互に見ていた。

 ――……何これ。

 カフェは、一瞬で、全部、分かった。顔が、燃えるように熱くなった。

 ――ち、違います。私じゃありません。お友だちが……お友だちが、勝手に……私は、そんなこと、一度も……。

 言葉が、止まらなかった。

 雅也は、紙を見たまま、言った。

 ――分かってる。カフェが投げたなら、もっとまっすぐ渡すだろ。

 カフェは、もっと赤くなった。タキオンが、隣で、「霊的存在が人間の法制度を理解している可能性について――」と言い出して、カフェが「タキオンさん」と止めた。

 雅也は、その紙を、丁寧に畳んで、ポケットに入れた。捨てなかった。

 それから、どうしたのか、カフェは、知らなかった。訊かなかった。訊けなかった。

「……持っていたんですか」

「持ってた。……引き出しに、ずっと」

「どうして」

「捨てる理由が、なかった」

 雅也は、少しだけ照れたように、首の後ろを掻いた。

「あの紙は、カフェのお友だちが投げたものだ。……カフェが書いたものじゃない。だから、使わない。今日、書くのは、こっちの新しい方だ」

「……はい」

「でも、捨てない。……あの日、ちょっと、嬉しかったから」

 カフェは、顔を上げた。

「……嬉しかったんですか」

「嬉しかった。……困ってたけど」

 カフェは、何も言えなくなった。

 黄ばんだ紙と、真新しい紙が、食卓の上に、並んでいた。

 窓際の、何もない空間を、カフェは、ちらりと見た。お友だちが、そこに立っていた。食卓の方を、見ているようだった。何もしなかった。紙も、飛ばなかった。鈴も、鳴らなかった。

 ただ、そこにいた。

「……雅也さん」

「ん」

「書きましょう。……新しい方に」

「うん」

 雅也が、先に書いた。少し角ばった、几帳面な字だった。

 それから、ペンを、カフェに渡した。

 カフェは、ペンを持った。

 自分の名前を、書いた。

 店の契約書に書いたときと、同じ名前だった。同じくらい、重かった。けれど、違う重さだった。

 書き終えて、ペンを置いた。

 雅也が、黄ばんだ方の紙を、また丁寧に畳んで、引き出しにしまった。

 二日後の、カフェの誕生日の朝、二人は、役所の窓口に、新しい紙を出した。

 その日の夜、店の定休日でもないのに、カフェは、閉店後の宵待ちで、二人分のコーヒーを淹れた。

 雅也の分は、雅也の好みの濃さで。

 自分の分は、自分の好みの濃さで。

 カウンターの真ん中に、二人並んで座って、ゆっくりと飲んだ。

 窓の外は、もう、夜だった。黄昏は、とうに過ぎていた。

 予約席の椅子は、空いていなかった。

 

 

第六部 放課後の店

 

 一 受け皿の向き

 

 十月の終わりの、火曜日の午後だった。

「……あ、あの、マスター。これで、いいですか」

 カウンターの内側で、シズクドロップが、小さな声で訊いた。

 高等部の一年生だった。この秋から、宵待ちで働きはじめて、まだ三週間だった。薄い水色がかった銀色の髪を、肩の上で切りそろえて、前髪を、小さな雫の形の髪留めで留めていた。背が低く、手が小さかった。その小さな手で、カップと受け皿を、慎重に持っていた。

 カフェは、シズクの手元を見た。

 受け皿の上に、カップが載っていた。カップの取っ手が、左を向いていた。

「……取っ手を、右に向けてください」

「あ、はいっ」

 シズクは、慌てて、カップを回した。回しすぎて、受け皿の上で、カップがかちゃりと鳴った。シズクの耳が、びくっと跳ねた。

「……ご、ごめんなさい」

「大丈夫です。……もう一度、ゆっくり」

 シズクは、深く息を吸った。それから、カップを、ゆっくりと回した。取っ手が、右を向いた。

「……できました」

「はい。それから、スプーンは、取っ手と同じ向きに。カップの手前に」

「はい……」

 シズクは、スプーンを置いた。手が、少しだけ震えていた。

 カフェは、それを見て、少しだけ考えた。

「……シズクさん」

「は、はい」

「なぜ、取っ手を右に向けるか、分かりますか」

 シズクは、目を瞬いた。

「……え、えっと。……決まり、だから?」

「決まり、でもあります。でも、理由があります」

 カフェは、自分の手で、カップを一つ、受け皿ごと持ち上げた。

「右手で、カップを持つ人が、多いからです。取っ手が右を向いていれば、置かれたまま、すぐに持てます。カップを回さなくていい。……座っている人が、何もしなくていいように、先に、こちらで向けておくんです」

「……座ってる人が、何もしなくていいように」

「はい。……でも、左手で持つ人もいます」

 カフェは、カウンターの、入口から二番目の席を見た。今は、空いていた。

「火曜と金曜の夕方に来る、絵描きの方。……あの方は、左利きです。だから、あの方のカップは、取っ手を、左に向けます」

「……え」

「決まりは、座っている人のためにあります。決まりのために、座っている人がいるのでは、ありません」

 シズクは、しばらく、カップを見下ろしていた。

 それから、顔を上げた。

「……じゃあ、さっき、わたしが左に向けちゃったのも、もしかしたら、合ってたかもしれないってこと、ですか」

「……左利きの方なら、合っていました」

「……でも、今、お客さん、いないです」

「はい。だから、どちらでも、合っていませんでした」

 シズクは、目を丸くして、それから、ぷっと吹き出した。慌てて口を押さえた。

 カフェも、少しだけ、口元を緩めた。

 シズクドロップがこの店に来たのは、九月の終わりだった。学園の掲示板に、宵待ちのアルバイトの募集を一枚だけ貼った。週に二日か三日、放課後の二時間。試験期間と、レースの前の週は、休み。それだけを書いた紙だった。

 応募してきたのは、三人だった。その中で、シズクだけが、面接の最後に、こう言った。

 ――わたし、人前で話すの、すごく苦手で。……だから、練習したくて。静かなお店なら、練習できるかなって。

 カフェは、その言葉を聞いて、シズクを雇うことにした。

 コトノハリズムを雇ったときも、似たような理由だった。去年の春、コトノハは、面接で、こう言った。

 ――わたし、レースの前の日、緊張して、眠れないんです。何かしてないと、落ち着かなくて。……コーヒーの淹れ方、覚えたら、自分で淹れて、落ち着けるかなって。

 二人とも、有名な店だから、とは言わなかった。カフェの昔のことも、一度も口にしなかった。

 ――言わないで、くれている。

 カフェは、それを、知っていた。学園の生徒なら、誰でも、カフェのことを知っている。知っていて、二人とも、この店の中では、カフェを、ただ「マスター」と呼んだ。

 扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

「こんにちはー! マスター、試験、終わりましたーっ!」

 コトノハリズムだった。

 

 二 試験のあと

 

 コトノハは、扉の内側で、両手を高く上げていた。

 学園の制服の上に、紺色のカーディガン。高い位置で結んだ栗色の髪が、跳ねるように揺れていた。顔が、晴れ晴れとしていた。

「……お疲れさまでした」

「化学、赤点じゃなかったです! ぎりぎりだけど!」

「……ぎりぎり」

「ぎりぎり、セーフです! マスターのクッキーのおかげ!」

「……クッキーのおかげでは、ないと思います」

「おかげです! 休憩のたびに、一枚ずつ、ちょっとずつ食べたんです。一気に食べると、なくなっちゃうから。……マスターがコーヒー飲むみたいに、ゆっくり」

 カフェは、カウンターの内側で、手を止めた。

 ――ゆっくり。

 コトノハは、それを、見ていたのだった。カフェが、カウンターの端で、自分の分のコーヒーを、少しずつ飲むのを。働きはじめてから、一年半。何も言わずに。

「……感想は」

「え?」

「試験の後のシフトで、感想を聞かせてください、と言いました」

 コトノハは、目を瞬いた。それから、満面の笑みを浮かべた。

「胡桃が、大きかったです! ちょっと、しょっぱくて、甘くて。……化学のモルのこと考えてて、頭がぐちゃぐちゃになったとき、一口かじると、胡桃の、かりってするのが、なんか、頭の中のぐちゃぐちゃを、ちょっとだけ、砕いてくれる感じでした!」

「……頭の中を、砕く」

「はい! ……あ、変な感想ですか」

「……いいえ」

 カフェは、少しだけ首を振った。

「いい感想です。……次の焼き菓子の、参考にします」

 コトノハは、また、両手を上げた。

 それから、カウンターの内側にいるシズクに気づいて、ぱっと笑った。

「あ、シズクちゃん! こんにちは!」

「……こ、こんにちは、コトノハ先輩」

「どう? 慣れた?」

「……カップの取っ手の向き、さっき、教わりました」

「あー、あれ! 左利きのお客さんの話でしょ!」

「……よく気づきましたね」

「わたしも、最初に、教わったもん! ……ね、マスター」

 カフェは、頷いた。

 コトノハは、エプロンを締めながら、シズクの隣に並んだ。

「シズクちゃん、あとね、お釣り渡すとき、声に出して数えるの。マスターがやってるやつ。あれ、最初、恥ずかしいけど、やってると、ぜったい間違えなくなるよ」

「……声に、出して」

「うん。千円お預かりします、五百五十円のお返しです、って。……マスター、それ、誰に教わったんですか?」

 カフェは、カップを拭く手を止めた。

「……昔、同じ部屋に住んでいた友人に」

「へえ! その人も、お店の人だったんですか?」

「実家が、お店でした」

「そうなんだ。……じゃあ、シズクちゃんは、マスターの、マスターの、友だちの、お母さんの、やり方を、教わってるんだね」

「……え、えっと」

 シズクが、指を折って数えはじめた。

 カフェは、その様子を見ながら、少しだけ、胸の奥が、温かくなるのを感じた。

 ――ユキノさんの、お母様の、やり方。

 十何年も前に、寮の部屋で、林檎を一つ、手渡されながら、教わったこと。それが、今、カウンターの内側で、高等部の子から、高等部の子へ、渡されていく。

 扉の鈴が、鳴った。

 カフェは、顔を上げた。

 レッドだった。ランドセルを背負って、扉の内側で、一度立ち止まった。それから、コトノハを見つけて、ぱっと顔を明るくした。

「……コトノハおねえちゃん」

 声は、小さかった。けれど、弾んでいた。

「レッドちゃん! おかえり! 試験、終わったよー!」

「……ママが、そう言ってた」

「宿題、見るよ! 約束したもんね!」

「……うん」

 レッドは、カウンターの端の、いつもの席に、ランドセルを下ろした。それから、カウンターの内側のシズクに、小さく会釈した。シズクも、慌てて、会釈を返した。

 二人とも、店の中では、声を小さくする子だった。

 カフェは、レッドの指定席に、温めた牛乳のマグカップを置いた。

 取っ手を、左に向けて。

 レッドは、左利きだった。

 

 三 土曜日の研究者

 

 十一月の最初の土曜日の午後、アグネスタキオンが、宵待ちに来た。

 扉の鈴が鳴ったとき、カフェは、顔を上げる前に、誰が来たのか分かった。紅茶の、甘い匂いがした。いつものように、学園の研究棟の自販機で、砂糖をたっぷり入れた紅茶を買って、それを飲みながら、ここまで歩いてきたのだと分かった。

「やあ、カフェ。……おや、今日は、小さな観測対象が二人もいるじゃないか」

 白衣の上に、くたびれた灰色のコートを羽織っていた。長い袖が、手の先まで垂れていた。十何年経っても、袖の長さは、変わらなかった。

 タキオンは、今、学園の研究棟で、競技者の身体の回復についての研究をしていた。引退した後、大学課程と、その先の研究の課程を経て、そのまま学園に残った。研究室の、カフェの側の半分は、カフェが卒業した後、タキオンの資料置き場になった。けれど、窓際の椅子だけは、今も、そのままにしてあるという。

 土曜日の宵待ちには、娘たちがいた。

 雅也は、土曜も、担当の練習があった。保育園も、学童も、土曜は休みだった。だから、土曜の午後は、娘たちが、店の奥の、二人掛けのテーブルの一つで、絵を描いたり、本を読んだりして過ごす。コトノハかシズクのどちらかが、シフトに入ってくれていた。今日は、コトノハだった。

「……タキオンちゃん!」

 クインが、テーブルから、椅子を飛び降りて駆け寄った。

「タキオンちゃん、きょうも、おさとう、いっぱい?」

「やあ、クイーンズリング。今日も、砂糖は、いっぱいだ」

「なんで、いっぱいいれるの?」

「エネルギー効率の問題だよ。脳の主なエネルギー源は、ブドウ糖だからね。思考の速度を維持するためには、適切な――」

「ぶどう?」

「ブドウ糖。……ああ、ブドウとは、少し違うんだが」

「ぶどう、すき!」

「……それは、何よりだ」

 タキオンは、困ったように眉を下げて、カフェの方を見た。

 カフェは、カウンターの内側で、黙って、紅茶の葉を量っていた。

「……タキオンさん。いつもの、紅茶で、いいですか」

「頼むよ。砂糖は――」

「テーブルに、置いてあります。好きなだけ」

「さすがだ」

 タキオンは、カウンターの、入口から五番目の席に座った。クインが、その隣の席によじ登ろうとした。コトノハが、慌てて、クインの脇を抱えて、椅子に座らせた。

「……クインちゃん、お客さんの席だよ」

「タキオンちゃん、おきゃくさん?」

「お客さんだよ」

「……でも、タキオンちゃんだよ」

「タキオンちゃんでも、お客さん」

 クインは、少し考えて、それから、こくりと頷いた。

「……じゃあ、クインも、おきゃくさん」

「クインちゃんは、おきゃくさんじゃないよ」

「えー」

 タキオンが、肩を揺らして、くつくつと笑っていた。

 奥のテーブルで、レッドが、絵本から顔を上げずに、言った。

「……クイン。タキオンさんの、じゃましちゃだめ」

 声は、小さかった。けれど、はっきりしていた。姉の声だった。

 クインは、むっと頬を膨らませた。それから、椅子から降りて、奥のテーブルに戻っていった。戻る途中で、レッドの方を振り返って、べーっと舌を出した。レッドは、絵本から顔を上げなかった。けれど、耳が、ほんの少しだけ、クインの方を向いていた。

 カフェは、紅茶を淹れて、タキオンの前に置いた。

 タキオンは、角砂糖を、四つ入れた。それから、五つ目を、手に取って、少し迷ってから、入れた。

「……カフェ。上の子は、だいぶ、君に似てきたね」

「……そうでしょうか」

「声を小さくするところ。それから、見ていないふりをして、耳だけ向けるところ」

 カフェは、何も答えなかった。

 タキオンは、紅茶をかき混ぜながら、奥のテーブルの方を、ちらりと見た。

「下の子は、誰に似たのかな」

「……分かりません」

「トレーナー君かな」

「……雅也さんは、あんなに、大きな声は出しません」

「では、トレーナー君の、お母上かな」

 カフェは、手を止めた。

 タキオンは、紅茶を一口すすって、何でもないような顔をしていた。

 タキオンは、知っていた。雅也の母のことを。誰から聞いたのか、カフェは知らない。雅也が話したのかもしれない。タキオンが、何かから推測したのかもしれない。けれど、タキオンは、それを、外で口にしたことは、一度もなかった。

「……かもしれません」

 カフェは、それだけ言った。

 タキオンは、満足そうに頷いて、また紅茶をすすった。

 しばらく、二人とも、黙っていた。

 奥のテーブルで、クインが、クレヨンで何か描いていた。レッドが、ときどき、横から覗き込んでいた。コトノハが、カウンターの内側で、カップを拭いていた。窓の外で、秋の午後の光が、少しずつ、傾きはじめていた。

「……カフェ」

「はい」

「今も、そこに、いるのかい」

 タキオンは、紅茶のカップを持ったまま、窓際の、予約席の方を見ていた。

 カフェも、そちらを見た。

「……います」

「そうか」

 タキオンは、それ以上、何も訊かなかった。

 昔なら、訊いた。どんな姿勢で、どちらを向いて、何をしているのか。記録を取りたがった。測りたがった。説明しようとした。

 今は、訊かなかった。

「……私の観測ノートの、最後のページには、まだ、結論が書けていないよ」

 タキオンは、紅茶のカップを置いて、言った。

「十何年、書けていない。……たぶん、一生、書けないのかもしれない」

「……」

「だが、それで、いいのかもしれないと、最近は思うんだ。……結論の出ない観測も、観測には違いない」

 カフェは、カップを拭く手を止めて、タキオンの横顔を見た。

 白い前髪の下の、赤い目が、窓際の、誰もいない椅子を、静かに見ていた。

「……タキオンさん」

「何だい」

「紅茶、もう一杯、いかがですか」

「……いただこう。砂糖は――」

「テーブルに、あります」

 タキオンは、くつくつと笑った。

 

 四 東北の林檎

 

 その次の週の水曜日、ユキノビジンが、林檎の箱を抱えて、宵待ちに来た。

「カフェさーん! ひさしぶりだべー!」

 扉の鈴が、勢いよく鳴った。

 ユキノビジンは、明るい色のコートを着て、肩までの髪を、少し大人っぽく巻いていた。都会の百貨店で、地方の産物を集めた催しの企画をしているのだと、前に聞いた。仕事で、東北と東京を、何度も行き来しているのだと。

 両手に、段ボールの箱を一つ、抱えていた。箱の横に、赤い林檎の絵が描いてあった。

「……ユキノさん。重かったでしょう」

「重かった! でも、母ちゃんがカフェさんとこさ持ってけって。今年一番いい林檎だって言ってたべ!」

「……ありがとうございます」

 カフェは、カウンターの内側から出て、箱を受け取った。ずっしりと重かった。林檎の、甘い、少しだけ酸っぱい匂いが、箱の隙間から漏れてきた。

 カウンターの内側で、シズクが、目を丸くして、ユキノビジンを見ていた。

「……あ、あの、いらっしゃいませ」

「あ、こんにちは! 新しいアルバイトさん?」

「……は、はい。シズクドロップです」

「シズクちゃん! めんこい名前だべ!」

 ユキノビジンは、カウンターの、入口から四番目の席に座った。開店の日に座った席と、同じ席だった。

「……カフェさん、宵待ちブレンド、ください」

「はい」

 カフェは、豆を量った。挽いた。湯を落とした。

 その間、ユキノビジンは、カウンターに頬杖をついて、シズクと話していた。どこの出身か。何年生か。走っているのか。シズクは、最初、小さな声で、短く答えていた。けれど、ユキノビジンが、自分の実家の林檎畑の話をはじめると、少しずつ、声が大きくなっていった。

「……わたしの実家も、果物、作ってるんです。さくらんぼ、ですけど」

「さくらんぼ! いいなぁ!」

「……でも、さくらんぼ、すぐ傷むから、売るの、大変で。……母が、いつも、お店の前で、お客さんに、声かけてて」

「わかるー! おらの母ちゃんも店先で、いっつも声を張り上げてたべ!」

 カフェは、カップを、ユキノビジンの前に置いた。

 ユキノビジンは、両手でカップを持って、一口飲んだ。それから、「……ああ、カフェさんの味だ」と、小さく言った。

 シズクが、レジの前で、別の客の会計をはじめた。小さな声で、けれど、はっきりと、声に出して数えていた。

「……せ、千円お預かりします。……さんびゃくはちじゅう、円の、お返しです」

 ユキノビジンの手が、止まった。

 カップを持ったまま、シズクの方を見た。それから、カフェの方を見た。

「……カフェさん」

「はい」

「あれ」

「……はい」

「あれ、母ちゃんがいつもやってた数え方だべ」

 カフェは、カウンターの内側で、静かに頷いた。

「……ユキノさんに、教わりました。大学課程の、寮の部屋で。千円、なくした夜に」

 ユキノビジンは、何も言わなかった。

 カップを、ゆっくりとカウンターに置いた。目が、少しだけ、潤んでいた。

 会計を終えたシズクが、カウンターの内側に戻ってきた。ユキノビジンが、シズクを見上げた。

「……シズクちゃん」

「は、はい」

「今の、お釣りの数え方。……それ、誰に教わったの?」

「……マスターと、コトノハ先輩に。……あ、えっと、コトノハ先輩が、マスターの、マスターの、友だちの、お母さんの、やり方だって」

 ユキノビジンは、ぷっと吹き出した。

 それから、カウンターに突っ伏して、肩を震わせて笑った。笑いながら、目元を、手の甲でこすっていた。

「……その、友だち、おらだべ」

「……え」

「そんで、そのお母さん、おらの母ちゃんだべ」

 シズクは、目を丸くした。それから、カフェの方を見た。カフェは、黙って頷いた。

「……え、ええっ」

「母ちゃんに話すべ。カフェさんの店の子が、母ちゃんのやり方でお釣りを数えてたって。……きっと喜ぶべなぁ」

 ユキノビジンは、また笑った。

 シズクは、まだ、目を丸くしたまま、カフェとユキノビジンの顔を、交互に見ていた。

 カフェは、カウンターの内側で、届いたばかりの林檎の箱を開けた。一番赤いのを一つ取って、丁寧に皮を剥いて、小さく切って、皿に載せた。

 ユキノビジンの前に、置いた。

「……サービスです」

「……それ、おらの林檎だべ」

「はい。ユキノさんの林檎です」

 ユキノビジンは、八年前の開店の日と、まったく同じことを言った。

 カフェも、まったく同じことを答えた。

 二人で、顔を見合わせて、笑った。

 

 

第七部 トレーナーの席

 

 一 三人の朝

 

 十一月の第二月曜日、朝の五時四十分。

 学園の練習コースは、まだ、夜の名残の青さに沈んでいた。外ラチの白い柱が、薄闇の中に、ぼんやりと浮かんでいた。芝の先に、霜が降りかけていた。吐く息が、白かった。

 早瀬雅也は、コースの脇に立って、記録用の板を小脇に抱えていた。首から、ストップウォッチを下げていた。手袋の指先を、何度か握ったり開いたりした。冷えていた。四十を過ぎてから、冬の朝の冷えが、指先に、前より長く残るようになった。

 コースの向こうから、三つの足音が近づいてきた。

「おはようございます、トレーナー」

 最初に声をかけてきたのは、ミナヅキセレネだった。

 シニア級の二年目。背が高く、長い黒髪を、首の後ろで低く一つに束ねていた。落ち着いた灰色の目をしていた。長い距離を、最後まで同じ形で走りきる脚だった。今年の春、京都の三千二百メートルで、初めての大きなタイトルを取った。それでも、勝った翌朝の練習に、いつもと同じ時間に、いつもと同じ顔で現れた。

「おはよう、セレネ。……昨日の夜、眠れたか」

「七時間。寝つきは、少し遅かったです。十一時半くらい」

「理由は」

「カザハナが、夜中に、部屋で、ストレッチしてました。……壁が薄いので」

 セレネの後ろで、小柄なウマ娘が、びくっと肩をすくめた。

「……ご、ごめんなさい、セレネ先輩」

 カザハナノートだった。

 クラシック級。明るい栗色の髪を、両耳の上で二つに結んでいた。大きな目が、少しだけ赤くなっていた。千六百から二千の距離で、ゴールの手前で、もう一度伸びる脚だった。今週の日曜日、京都で、秋のマイルの大きなレースに出る。

「眠れなかったのか」

「……ちょっとだけ」

「ちょっと、ってどのくらいだ」

「……五時間、くらい」

 雅也は、記録用の板に、数字を書き込んだ。

「今日の練習、軽めにする。坂路一本と、ゲートの確認だけ」

「え、でも、日曜――」

「日曜だからだ。……今週は、身体を、日曜に合わせて整える週だ。眠れない分を、練習で取り返そうとしなくていい」

 カザハナは、何か言いたそうに口を開いた。それから、閉じた。

 雅也は、それを見ていた。何も訊かなかった。今は、まだ。

「……トレーナー」

 最後の一人が、低い声で言った。

 イブキフォルテだった。

 ジュニア級。この夏にデビューしたばかりだった。三人の中で一番小柄で、一番、肩幅が広かった。短く切った焦げ茶色の髪が、寝癖で、あちこちに跳ねていた。砂の上を、力でねじ伏せるように走る脚だった。北の方の、小さな町の出身だった。砂のレースで、いつか、一番大きな舞台に立ちたいと言っていた。

「どうした」

「……左の、足首」

 イブキは、自分の左足を、少しだけ前に出した。

「朝、起きたとき、ちょっとだけ、変な感じ、した。……痛くはない。でも、なんか、いつもと違う」

 雅也は、記録用の板を、脇に挟んだ。

「いつから」

「今朝。……昨日の夜は、何ともなかった」

「歩いてみてくれ。……ゆっくり。ここから、あの柱まで」

 イブキは、言われた通りに、歩いた。

 雅也は、イブキの足元を見ていた。左の足首の、着地の角度。体重の乗せ方。ほんのわずかに、左の着地が、右より浅かった。浅いのを、イブキ自身が、無意識に、右でかばおうとしていた。

 ――見ただけでは、分からない。

 雅也は、それを、自分に言い聞かせた。何かあるのか、ないのか。それを判断するのは、自分ではない。

「……イブキ。今朝の練習は、なしだ」

 イブキが、振り返った。眉が、ぐっと寄っていた。

「……なんで」

「左の着地が、右より浅い。……何でもないかもしれない。でも、何でもないかどうかを決めるのは、俺じゃない。八時に、医療スタッフのところへ行く。俺も一緒に行く」

「痛くないって、言ってる」

「痛くないのは、本当だと思う。……いつもと違うって、言ってくれたのも、本当だと思う。だから、診てもらう」

「……土曜の、レースは」

 イブキの声が、少しだけ、低くなった。

 土曜日に、ジュニア級の、砂の小さなレースがあった。デビューして、二戦目。イブキが、夏からずっと、目標にしてきたレースだった。

 雅也は、イブキの目を、まっすぐに見た。

「……まだ、分からない。診てもらってから、一緒に決める」

 イブキは、何も言わなかった。

 唇を、きつく結んでいた。それから、ふいと顔を背けた。

 セレネが、イブキの肩に、そっと手を置いた。イブキは、それを振り払わなかった。

「……セレネ。カザハナ。二人は、予定通り。セレネは坂路三本。カザハナは坂路一本と、ゲート。俺は、イブキと、八時まで、ここで待つ」

「はい」

「……はい」

 二人が、坂路の方へ歩いていった。

 イブキは、コースの脇の、冷たいベンチに、どさりと座った。腕を組んで、前を見ていた。雅也は、その隣に、黙って座った。

 空が、少しずつ、白みはじめていた。

 

 二 分からないこと

 

 八時。学園の医療棟の、診察室の前の廊下だった。

 イブキは、廊下の長椅子に座って、膝の上で、拳を握っていた。雅也は、その隣に立っていた。

 診察室の扉が開いて、医療スタッフの女性が、二人を呼んだ。

 診察は、三十分ほどかかった。足首を触って、動かして、押して、それから、機械で画像を撮った。イブキは、その間、一言も喋らなかった。

 医療スタッフは、画像を見ながら、ゆっくりと言った。

「……今の時点で、はっきりした損傷は、見当たりません」

 イブキの肩が、ほんの少しだけ、緩んだ。

「ただ、左の足首の周りに、軽い炎症の兆候があります。疲労の蓄積だと思います。……今日明日は、強い負荷を避けてください。水曜日に、もう一度診ます。そこで炎症が引いていれば、土曜日の出走は、可能だと思います。引いていなければ――」

「出られない、ってこと」

 イブキが、低い声で言った。

「……その可能性があります」

 イブキは、また、拳を握った。

 雅也は、医療スタッフに、頭を下げた。

「ありがとうございます。……水曜日、また連れてきます」

「お願いします。……早瀬トレーナー、気づいたのは、今朝ですか」

「本人が、今朝、言ってくれました。……いつもと違う、と」

「いい申告です」

 医療スタッフは、イブキの方を見て、少しだけ笑った。

「痛くないうちに、違うって言えるのは、大事なことですよ」

 イブキは、何も答えなかった。

 医療棟を出ると、朝の光が、学園の中庭の銀杏を、金色に照らしていた。冷たい風が、落ち葉を、石畳の上で転がしていた。

 イブキは、早足で、雅也の前を歩いていた。

 雅也は、少し後ろを、黙ってついていった。

 中庭の真ん中で、イブキが、急に立ち止まった。振り返らなかった。

「……トレーナー」

「うん」

「言わなきゃ、よかった」

 低い声だった。

「足首。……言わなきゃ、今朝、普通に練習して、土曜、普通に走れた。……痛くなかったんだから」

 雅也は、イブキの背中を見ていた。

 小柄で、肩幅の広い背中だった。その肩が、少しだけ、震えていた。

「……そうかもしれない」

 雅也は、言った。

 イブキが、振り返った。驚いた顔をしていた。

「言わなくても、何ともなかったかもしれない。土曜、普通に走れたかもしれない。……俺には、分からない。医療スタッフにも、たぶん、全部は分からない」

「……」

「でも、言ってくれなかったら、もし、何かあったとき、俺は、気づけなかった。……イブキが、話してくれたから、自分の見えていないことにも、目を向けられた」

 イブキは、眉を寄せた。

「……意味、わかんない」

「俺も、うまく言えない」

 雅也は、少しだけ笑った。

「イブキ。……俺は、怪我を防げるトレーナーじゃない。そんなこと、誰にもできない。……俺にできるのは、イブキが、いつもと違うって言ってくれたときに、ちゃんと聞いて、ちゃんと診てもらって、一緒に決めることだけだ」

「……」

「今朝、イブキは、言ってくれた。……ありがとう」

 イブキは、何も言わなかった。

 しばらく、雅也の顔を見ていた。それから、ふいと、また前を向いた。

「……水曜、炎症、引いてたら、走る」

「うん」

「引いてなかったら」

「……そのときは、また、一緒に決めよう」

「……走れなかったら、次の、いつ」

「十二月の、二週目に、同じ距離のがある。……砂の、ジュニアの」

 イブキは、また、黙った。

 中庭の銀杏から、黄色い葉が、一枚、ひらりと落ちてきた。イブキの肩に、乗った。イブキは、それを、指でつまんで、しばらく見ていた。

「……十二月なら、地元の、じいちゃん、見に来れるかも」

 ぽつりと、言った。

「土曜は、じいちゃん、漁協の仕事で、来れないって、言ってたから」

 雅也は、何も言わなかった。

 イブキは、銀杏の葉を、ポケットにしまった。それから、また、早足で歩き出した。

 今度は、雅也が追いつけるくらいの、速さで。

 

 三 取材の席

 

 その週の火曜日の午後、学園の広報室の小さな応接室で、雅也は、スポーツ誌の記者と向かい合っていた。

 日曜日のマイルのレースの、事前取材だった。カザハナノートについての質問が、半分。残りの半分は、雅也自身についての質問だった。

 記者は、四十代くらいの、落ち着いた男性だった。手元の手帳に、細かい字で、何かを書きつけていた。

「……早瀬トレーナーは、これまでに担当されたウマ娘の中に、故障で競技生活を終えた方が、一人もいらっしゃいませんね」

 雅也は、出されたお茶のカップに、手を伸ばしかけて、止めた。

「……はい」

「最初の担当の方が、二十一戦二十一勝。二人目の方が、フランスの大きなレースを。三人目の方が、無敗で三冠を。……そして、どなたも、故障ではなく、ご自身の意思で引退されている。これは、業界の中でも、かなり珍しいことだと聞いています」

「……そうかもしれません」

「何か、秘訣のようなものが」

 雅也は、少しだけ、考えた。

 この質問は、何度も受けてきた。何度受けても、同じ答えしか、できなかった。

「……秘訣は、ありません」

 記者が、ペンを止めた。

「走ったのは、本人たちです。私がやったことでは、ありません」

「ですが――」

「故障しなかったのも、本人たちが、自分の身体のことを、正直に話してくれたからです。……いつもと違う、と。少し指先が冷たい、と。眠れなかった、と。そういうことを、毎日、話してくれた。私は、それを聞いて、医療スタッフに、つないだだけです」

 雅也は、お茶のカップを手に取った。少し冷めていた。

「怪我を、防げるわけではありません。……私の担当の子たちが、故障しなかったのは、運もあります。たまたま、です。次の子が、故障しないという保証は、どこにもありません」

「……」

「ですから、記事に、故障を防げるトレーナー、とは、書かないでください。……今、担当している子たちが、それを読んで、自分たちが怪我をしたら、トレーナーの記録に傷がつく、と思ってしまったら、困るので」

 記者は、しばらく、雅也の顔を見ていた。

 それから、手帳の、さっき書いた何行かに、ペンで線を引いた。

「……分かりました。その言葉、そのまま、使わせてもらってもいいですか。故障を防げるトレーナー、とは書かないでください、と」

「……それは、構いません」

 記者は、少しだけ笑って、また手帳に書き込んだ。

 取材が終わって、応接室を出ると、廊下で、同じ年頃の女性トレーナーと、すれ違った。南雲という人だった。雅也と同じ時期にライセンスを取って、同じ時期に独立した。担当の子たちを、一人ずつ、丁寧に、長く見る人だった。この秋、南雲の担当の子が、長い距離の大きなレースで、セレネと競り合って、勝った。

「早瀬くん。取材?」

「ああ。……日曜の」

「カザハナちゃんね。……うちの子も、出るのよ。マイル」

「ああ。……簡単には勝たせてくれない相手だ」

「お互いさまよ」

 南雲は、笑って、手を振って、廊下を歩いていった。

 雅也は、その背中を、少しだけ見送った。

 ――手強い。

 本当だった。中央のトレーナーは、みんな、そうだった。誰もが、厳しい試験を通って、何年も現場で学んで、それぞれのやり方で、担当の子を見ている。自分だけが、特別なわけではない。自分の担当の子たちが、故障しなかったのも、自分だけの力ではない。

 だから、書いてほしくなかった。

 

 四 壁の薄い部屋

 

 その日の夕方の練習の後、雅也は、カザハナノートを、コースの脇のベンチに呼んだ。

 夕陽が、コースの芝を、斜めから、橙色に照らしていた。冷たい風が、ベンチの上を吹き抜けていった。カザハナは、ジャージの上着の前を、首まで閉めて、ベンチの端に、ちょこんと座った。

「……カザハナ」

「……はい」

「昨日の夜は、何時間眠れた」

「……六時間、です」

「一昨日より、一時間増えたな」

「……はい」

 雅也は、それ以上、何も言わなかった。

 カザハナの横顔を、見ていた。ゴールの手前で、もう一度伸びる脚を持った子だった。春のクラシックの最初のレースで、三着だった。ダービーで、五着だった。秋のトライアルで、二着だった。強い子だった。けれど、まだ、大きなタイトルを、一つも取っていなかった。

 しばらくして、カザハナが、口を開いた。

「……トレーナー」

「ん」

「わたし、こわいんです」

 小さな声だった。

「日曜。……負けるのが、こわいんじゃなくて」

「……」

「トレーナーの、担当なのに、って。……言われるのが、こわいんです」

 雅也は、カザハナの方を見た。

 カザハナは、膝の上で、両手を、ぎゅっと握りしめていた。

「早瀬トレーナーの担当は、みんな、すごいじゃないですか。……最初の人は、二十一戦全勝で。二人目の人は、フランスで勝って。アカツキ先輩は、無敗の三冠で。セレネ先輩は、春の天皇賞で。……わたしだけ、まだ、何も取れてなくて」

「……」

「セレネ先輩は、優しいし、イブキは、まだジュニアだから、言われないけど。……わたしは、クラシックで、もう、三回、負けてて。……早瀬トレーナーの担当なのに、って、記者の人とか、ファンの人とかに、言われてるの、知ってて」

 カザハナの声が、少しだけ、震えていた。

「……日曜、負けたら、また、言われる。……トレーナーに、迷惑、かける」

 雅也は、しばらく、何も言わなかった。

 夕陽が、コースの向こうの林に、沈みかけていた。空が、橙から、紫へと、色を変えていた。

「……カザハナ」

「……はい」

「今日、記者に、取材された」

「……はい」

「俺の担当の子に、故障した子がいないのは、なぜか、って訊かれた」

 カザハナが、顔を上げた。

「秘訣はない、って答えた。……走ったのは、本人たちだ。俺がやったことじゃない。故障しなかったのも、本人たちが、正直に話してくれたからだ。俺は、聞いて、つないだだけだ」

「……」

「勝ったのも、同じだ。……最初の子が、二十一回勝ったのは、その子が走ったからだ。二人目が、フランスで勝ったのも。アカツキが、三冠を取ったのも。セレネが、春に勝ったのも。……俺が勝ったんじゃない」

 雅也は、ベンチの背にもたれた。

「だから、カザハナが負けても、俺の記録に、傷はつかない。……そもそも、俺に、記録なんてない。記録は、全部、走った子たちのものだ」

「……でも」

「それでも、言う人はいる。……俺には止められない。そこは変えられない」

 雅也は、カザハナの方を見た。

「……一つだけ、言えることがある」

「……」

「カザハナの、ゴールの手前で、もう一度伸びる脚。……あれは、俺が教えたんじゃない。最初の選抜のとき、もう、持ってた。俺は、それを見て、声をかけた。……カザハナが、あの脚を持ってたから、俺は、カザハナの担当になりたいと思った」

 カザハナは、何も言わなかった。

 目が、大きく見開かれていた。

「日曜は、その脚で、走ればいい。……早瀬の担当として、じゃなくて。カザハナノートとして」

 しばらく、沈黙があった。

 コースの向こうで、最後の夕陽が、林の向こうに消えた。空が、深い紫色に沈んでいった。

「……トレーナー」

「ん」

「……ありがとうございます」

「礼は、いらない。……今日は、早く寝ろ。ストレッチは、九時までに」

 カザハナが、ぷっと吹き出した。

「……セレネ先輩に、言いました?」

「言われた。壁が薄いって」

「……ごめんなさい」

「俺に謝るな。セレネに謝れ」

 カザハナは、声を立てて笑った。笑いながら、目元を、ジャージの袖で、ぐいっと拭った。

 

 五 土曜日の約束

 

 その夜、雅也が家に帰ったのは、九時を過ぎていた。

 玄関の明かりを点けると、廊下の奥の居間から、細い光が漏れていた。娘たちは、もう眠っている時間だった。

 居間のソファーで、カフェが、一枚のプリントを膝の上に置いて、座っていた。

「……おかえりなさい」

「ただいま。……起きてたのか」

「はい」

 カフェは、膝の上のプリントを、雅也の方へ差し出した。

 小学校の、学年だよりだった。一番上に、大きな字で、こう書いてあった。

 ――学習発表会のお知らせ。十一月十五日(土)、九時半より。

 雅也は、プリントを受け取って、その日付を、しばらく見ていた。

 十一月十五日。今週の、土曜日。

 カザハナのレースは、日曜日だった。京都だった。土曜の朝の新幹線で、カザハナと一緒に、京都へ入る予定だった。前の日のうちに、現地の空気に慣れさせる。宿で、ゆっくり眠らせる。それが、カザハナのためだった。

「……忘れてた」

 雅也は、正直に言った。

「先月、レッドが劇の台詞を練習するって話してたのは、頭に残ってた。……でも、肝心の日付を確かめてなかった」

「……はい」

 カフェの声は、責めていなかった。

 責めていないことが、かえって、雅也には、重かった。

「レッドには、言ったのか」

「……言っていません。雅也さんが、来られるかどうか、分からなかったので」

「……」

「レッドは、雅也さんが来ると、思っています。……毎晩、寝る前に、自分の台詞を、練習しています。お父さんに聞かせる、と言って」

 雅也は、プリントを持ったまま、ソファーの隣に、腰を下ろした。

 しばらく、何も言わなかった。

 居間の時計の、秒針の音だけが、聞こえていた。

「……カザハナが、日曜、京都で走る」

「はい」

「土曜の朝に、一緒に、京都に入る予定だった。……前の日に、現地に慣れさせて、宿で、ちゃんと眠らせたい。今週、ずっと、眠れてなかったから」

「……はい」

「でも、レッドの発表会は、九時半からだ」

「……はい」

 カフェは、それ以上、何も言わなかった。

 どうしろ、とも。どちらを選べ、とも。

 雅也は、それが、カフェの答えだと分かっていた。決めるのは、雅也だ、と。雅也の仕事のことは、雅也が決める。それは、二人の間で、ずっと前から、決まっていることだった。カフェの店のことは、カフェが決めるのと、同じように。

 けれど、レッドのことは、雅也一人のことではなかった。

「……カフェ」

「はい」

「ごめん。……日付、確かめなかったのは、俺だ」

「……はい」

「それで、相談したい。……一緒に、考えてくれるか」

 カフェは、雅也の顔を見た。

 それから、少しだけ、肩の力を抜いた。

「……はい。一緒に、考えます」

 二人で、プリントを、もう一度見た。

 学習発表会は、九時半から、十一時半まで。一年生の劇は、プログラムの、二番目だった。九時四十五分から、十時十分まで。

「……一年生の劇、二番目だな」

「はい。……レッドは、木の役です。台詞は、一つだけ」

「十時十分に終わる」

「はい」

「学校から、駅まで、二十分。……十時四十分の新幹線なら、間に合うかもしれない」

「……カザハナさんは」

「カザハナは、セレネに、頼めるかもしれない。……セレネは、今週、レースがない。京都は、セレネも、何度も走ってる。朝の新幹線で、カザハナと一緒に先に入ってもらって、俺は、一本遅れて追いかける」

「……セレネさんに、頼んで、いいんですか」

「頼んでみる。……断られたら、また考える」

 カフェは、少し考えるように、黙った。

「……カザハナさんは、大丈夫でしょうか。雅也さんが、一緒じゃなくて」

「……分からない」

 雅也は、正直に言った。

「明日、カザハナに、訊く。……俺が、一本遅れても、いいか、って。カザハナが、嫌だって言ったら、俺は、朝の新幹線に乗る。そのときは、レッドに、俺から、ちゃんと謝る」

 カフェは、雅也の顔を、しばらく見ていた。

 それから、小さく頷いた。

「……はい。それで、いいと思います」

「……いいか」

「はい。……レッドに謝ることになったら、私も、一緒に、そばにいます」

 雅也は、プリントを、テーブルの上に置いた。

 それから、カフェの肩に、そっと、額を預けた。

「……ありがとう」

「……疲れていますね」

「……疲れてる」

「コーヒー、淹れましょうか。薄めの。眠れるように」

「……頼む」

 カフェは、雅也の頭に、そっと手を置いた。

 それから、立ち上がって、台所へ行った。湯を沸かす音がした。豆を挽く、低い音がした。

 雅也は、ソファーの背にもたれて、目を閉じた。

 台所から、コーヒーの香りが、ゆっくりと流れてきた。

 

 次の日の朝、練習の後で、雅也は、カザハナとセレネに、事情を話した。

 セレネは、すぐに、「行きます」と言った。それから、少しだけ笑って、「トレーナーの娘さんの、劇ですね」と言った。

 カザハナは、少し黙っていた。

 それから、言った。

「……トレーナー、行ってください。娘さんの、劇」

「……いいのか」

「はい。……セレネ先輩と、先に行ってます。京都の、宿で、早く寝ます。九時までに、ストレッチ、終わらせます」

「……」

「トレーナーが、来るまでに、ちゃんと、眠れる準備、しておきます。……わたしの脚のことは、わたしが、一番、分かってるので」

 雅也は、カザハナの顔を見た。

 昨日の夕方、ベンチで、泣きそうになっていた子の顔では、なかった。

「……分かった。頼む」

「はいっ」

 水曜日、イブキフォルテの左の足首は、炎症が、まだ少しだけ残っていた。

 医療スタッフは、土曜日の出走は、見合わせた方がいい、と言った。

 イブキは、診察室の椅子の上で、しばらく黙っていた。それから、「……十二月、二週目」とだけ言った。雅也は、「うん。十二月、二週目」と答えた。イブキは、それ以上、何も言わなかった。

 けれど、診察室を出るとき、ポケットから、黄色い銀杏の葉を出して、一度だけ見て、またしまった。

 

 六 木の役

 

 土曜日の朝、九時四十五分。

 小学校の体育館は、保護者で、いっぱいだった。

 カフェは、クインを膝の上に乗せて、後ろの方の席に座っていた。雅也は、その隣に立っていた。上着の内ポケットに、十時四十分の新幹線の切符が、入っていた。

 舞台の幕が上がった。

 一年生の劇は、森の動物たちの話だった。うさぎと、きつねと、くまと、ふくろう。それから、森の木が、三本。

 レッドは、真ん中の木だった。

 緑色の紙の葉っぱを、頭と、両腕に、たくさんつけていた。茶色い布を、身体に巻いていた。舞台の真ん中で、両腕を、枝のように、横に広げて、じっと立っていた。

 顔が、こわばっていた。

 客席を、見ていた。誰かを、探していた。

 雅也は、後ろの方の席から、少しだけ、手を上げた。

 レッドの目が、止まった。

 それから、ほんの少しだけ、顔がほどけた。

 劇は、進んでいった。うさぎが、迷子になった。きつねが、道を教えた。くまが、蜂蜜を分けた。ふくろうが、夜になったと告げた。

 森が、暗くなった。舞台の明かりが、少しだけ、落とされた。

 真ん中の木が、両腕を広げたまま、一歩、前に出た。

「……だいじょうぶ。よるは、こわくないよ」

 小さな声だった。

 けれど、体育館の、後ろの席まで、ちゃんと届いた。

「よるが、くるまえに、そらが、きれいないろに、なるから。……それを、みてから、ねむれば、こわくないよ」

 客席が、静かになった。

 レッドは、台詞を言い終えて、また一歩、後ろに下がった。両腕を広げたまま。木に戻った。

 カフェの膝の上で、クインが、「……おねえちゃん、じょうず」と、小さく言った。

 カフェは、何も言わなかった。

 言えなかった。

 ――よるが、くるまえに、そらが、きれいないろに、なるから。

 台詞を、知らなかった。レッドは、毎晩、寝る前に練習していた。けれど、「本番まで、ないしょ」と言って、カフェには、聞かせてくれなかった。お父さんに、一番に、聞かせたいから、と。

 横を見ると、雅也が、舞台の方を見たまま、動かなかった。

 口元が、わずかに、震えていた。

 十時十分、一年生の劇が終わった。

 拍手の中で、レッドが、木の格好のまま、舞台の上から、客席の後ろの方へ、小さく手を振った。

 雅也が、手を振り返した。

 それから、カフェの方を向いて、少しだけ掠れた声で、言った。

「……行ってくる」

「いってらっしゃい」

「レッドに、伝えてくれ。……台詞、全部、聞こえた。後ろの席まで、ちゃんと届いてた。一歩前に出たのが、よかった。……帰ったら、もう一回、聞かせてほしいって」

「……はい」

 雅也は、クインの頭を一度撫でて、体育館の後ろの扉から、静かに出ていった。

 

 次の日の午後、家の居間のテレビの前で、カフェと、レッドと、クインは、並んで座っていた。

 京都の、秋のマイルの大きなレースだった。

 カザハナノートは、ゴールの手前で、もう一度、伸びた。

 前にいた子を、最後の数歩で、かわした。

 一着だった。

 テレビの画面の中で、カザハナが、スタンドに向かって、両手を高く上げていた。泣いていた。笑っていた。

 レッドが、テレビに向かって、小さく拍手した。クインが、それを真似して、大きく拍手した。

 しばらくして、テレビの画面に、勝利の後のインタビューが映った。カザハナの隣に、雅也が立っていた。記者に、マイクを向けられていた。

『早瀬トレーナー、おめでとうございます』

『ありがとうございます。……走ったのは、彼女です。私は、そこまで一緒にいただけです』

 いつもの、言葉だった。

 レッドが、テレビを見たまま、言った。

「……パパ、いつも、それ、いうね」

「……言いますね」

「ほんとのこと?」

 カフェは、少しだけ、考えた。

「……本当のことです。でも、全部じゃ、ありません」

「ぜんぶじゃないの?」

「パパは、そこまで、一緒にいました。……一緒にいるのは、とても、大事なことです」

 レッドは、少し首を傾げた。それから、何かを思い出したように、言った。

「……きのう、パパ、いっしょに、いてくれた」

「はい」

「いっぽ、まえにでたの、よかったって」

「……はい。そう、言っていました」

 レッドは、テレビの画面の中の雅也を、じっと見ていた。

 それから、小さく、笑った。

 

 

第八部 母が来る日

 

 一 帽子の人

 

 十一月の終わりの、木曜日の午後二時過ぎ、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

 つばの広い、深い緑色の帽子をかぶった女性が、入ってきた。

 大きな眼鏡をかけて、首に、柔らかい生成りのマフラーを巻いていた。厚手の、焦げ茶色のコートを着ていた。帽子の下から、明るい色の髪が、少しだけこぼれていた。耳が、帽子の脇の、小さな穴から、ぴょこんと出ていた。

 女性は、扉の内側で立ち止まって、店の中を、ぐるりと見回した。

 カウンターに、沢井さんが一人。テーブルの一つに、若い女性の二人連れ。それだけだった。

 女性は、眼鏡の奥で、にっこりと笑った。それから、声を、うんと小さくして、言った。

「……こんにちは〜」

「……いらっしゃいませ」

 カフェは、カウンターの内側で、小さく頭を下げた。

 女性は、カウンターの、入口から六番目の席に、そっと座った。予約席の、一つ手前の席だった。帽子は、取らなかった。

「……宵待ちブレンド、くださいな」

「はい」

 カフェは、豆を量った。挽いた。湯を沸かした。

 女性は、カウンターに頬杖をついて、カフェの手元を、楽しそうに見ていた。眼鏡の奥の目が、湯を落とす細い流れを、追いかけていた。

 カフェは、カップを、女性の前に置いた。取っ手を、右に向けて。

「……どうぞ」

「ありがと〜」

 女性は、両手でカップを持って、香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。それから、一口飲んだ。

「……ん〜っ。おいしい〜」

 声は、小さかった。けれど、ほとんど、弾けそうだった。

「今日ね、この近くで、お仕事だったの。収録。……終わったの、一時半で。次まで、ちょっと時間あって。そしたら、もう、足が勝手に、こっち向いてたの」

「……そうでしたか」

「カフェちゃんのコーヒー、飲みたくなっちゃって」

 カフェは、カウンターの内側で、少しだけ、口元を緩めた。

 ――お母さん。

 声には、出さなかった。店の中では、出さないことにしていた。この人が、そう望んだからだった。

 ハイセイコーは、雅也の母だった。

 国中の人が、その名前を知っていた。昔、大きなレースで、たくさんの人に愛された人。今も、歌って、踊って、舞台の上で、たくさんの人を熱狂させている人。テレビをつければ、どこかのチャンネルで、明るい笑い声を響かせている人。

 その人が、雅也の母だということを、世間は、知らない。

 ハイセイコーが結婚していて、息子が一人いる。それだけは、知られていた。けれど、その息子が誰なのかは、一度も、公にされたことがなかった。雅也の名前も、顔も。ハイセイコーが、何十年も、守ってきたことだった。

 ――息子には、息子の人生があるから。

 いつか、ハイセイコーは、カフェにそう言った。明るい声で。けれど、そのときだけは、少しだけ、静かな声で。

 だから、宵待ちに来るとき、ハイセイコーは、帽子をかぶって、眼鏡をかけて、マフラーを巻いてくる。そして、カウンターに座って、ただの客として、コーヒーを一杯、飲んでいく。

 カフェも、ただの客として、出迎える。

 ハイセイコーが宵待ちに来る理由は、いつも、少しずつ違った。仕事の合間に、コーヒーを一杯だけ飲みに来る日。雅也の顔色を、カフェの口から確かめに来る日。学童の帰りのレッドと、店の前で鉢合わせして、そのまま手をつないで公園へ行ってしまう日。父の誕生日の前に、父の好きな豆を、小さな袋で買いに来る日。一度だけ、何も言わずに来て、何も言わずに一杯飲んで、帰り際に「今日は、ちょっと、疲れちゃったの」とだけ言った日もあった。カフェは、その日、何も訊かなかった。次に来たとき、ハイセイコーは、いつもの明るい声で、「この前は、ありがとね〜」と言った。

 テーブルの若い女性の二人連れが、ちらちらと、こちらを見ていた。何か、小声で囁き合っていた。一人が、手元の端末を、そっと持ち上げかけて、もう一人に、腕を押さえられていた。

 ハイセイコーは、それに気づいていた。気づいていて、何でもないような顔で、コーヒーを、もう一口飲んだ。

「……カフェちゃん」

「はい」

「雅也、ちゃんと寝てる?」

 小さな声だった。

 カフェは、カップを拭く手を止めずに、答えた。

「……この前の週末は、少し、寝不足でした。担当の子のレースが、京都であったので」

「あ〜、見た見た! マイルの! カザハナちゃん! 勝ったね〜!」

「はい」

「あの子、最後に、ぐーんって伸びたね! お母さん、テレビの前で、跳ねちゃった。お父さんに、うるさいって言われた」

 ハイセイコーは、くすくすと笑った。

「……それで、雅也、インタビューで、また言ってたでしょ。走ったのは、彼女です、って」

「はい」

「あの子、ほんと、昔から、ああなの。……自分のことで、褒められると、困った顔するの。人のことだと、すっごく嬉しそうにするのに」

「……ええ。自分のことになると、今でも少し不器用です」

 カフェは、そう言ってから、自分の言葉に、少しだけ驚いた。

 ハイセイコーが、眼鏡の奥で、目を細めた。

「……そうだよね。カフェちゃんは、ずっとそばで見てきたんだものね」

 ハイセイコーは、それ以上、何も言わなかった。

 カップを両手で包んで、窓の外を見ていた。十一月の終わりの、午後の光が、西の窓から、斜めに差し込んでいた。予約席の椅子の上に、その光が、柔らかく落ちていた。

 ハイセイコーは、その椅子の方を、ちらりと見た。

 何も、言わなかった。

 

 二時四十分、ハイセイコーは、カップの最後の一口を飲み終えた。

「……ごちそうさま〜。おいしかった」

「ありがとうございます」

 レジの前で、ハイセイコーは、財布から代金を出した。カフェは、声に出して、釣り銭を数えた。

「……千円、お預かりします。四百五十円の、お返しです」

「はい、ありがと」

 ハイセイコーは、釣り銭を受け取って、財布にしまった。それから、少しだけ身を乗り出して、カフェにだけ聞こえる声で、言った。

「……レッドちゃんとクインちゃんに、よろしくね。日曜、お父さんと、遊びに行くから」

「……はい。待っています」

「それから」

「はい」

「雅也に、ちゃんと寝なさいって。……お母さんが、言ってたって」

「……伝えます」

 ハイセイコーは、にっこりと笑った。帽子のつばを、少しだけ下げた。

 それから、扉の鈴を、小さく鳴らして、出ていった。

 テーブルの若い女性の二人連れが、その背中を、扉のガラス越しに、目で追っていた。それから、一人が、そっと、カウンターの方を向いた。

「……あの、すみません」

「はい」

「今の方って、もしかして……」

 カフェは、カップを拭く手を止めた。

 女性の顔を、まっすぐに見た。

「……お客様のことは、お答えできません」

 静かな声だった。

 女性は、少し驚いた顔をした。それから、慌てて、首を振った。

「あ、いえ、すみません。……そうですよね」

「いえ」

 カフェは、少しだけ頭を下げた。

 女性たちは、それ以上、何も訊かなかった。

 カウンターの真ん中で、沢井さんが、文庫本から顔を上げずに、小さく言った。

「……いい答えね、マスター」

 カフェは、何も答えなかった。

 カウンターの内側で、ハイセイコーが使ったカップを、丁寧に洗った。

 カップの縁に、ほんの少しだけ、口紅の跡がついていた。明るい、春の花のような色だった。

 

 二 十二年前の玄関

 

 その夜、娘たちを寝かしつけてから、カフェは、居間で、雅也にコーヒーを淹れた。

 薄めの、眠れるコーヒーだった。

「……今日、お母さんが、店に来ました」

「母さんが?」

「収録の、帰りだそうです。……雅也さんに、ちゃんと寝なさい、と」

 雅也は、カップを持ったまま、苦笑した。

「……毎回、それだな」

「毎回です」

「カフェに言わせるなよ。直接言えばいいのに」

「直接言っても、雅也さんは、寝ないからだと思います」

「……それは、そうかもしれない」

 カフェは、自分のカップを両手で持って、ゆっくりと一口飲んだ。

 それから、ふと、思い出していた。

 十二年前の、夏のことを。

 

 交際を始めて、四か月が経った、八月の初めだった。

 雅也の実家は、学園から電車で二時間ほどの、県外の、静かな町にあった。駅から、さらにバスで十五分。坂道を上った先の、古い住宅街の一番奥に、その家はあった。木造の、二階建ての家だった。庭に、大きな百日紅の木が一本、赤い花を咲かせていた。

 カフェは、その家の門の前で、立ち止まっていた。

 手に、両親から送られてきた、遠い国の豆の小さな袋を持っていた。手土産だった。何を持っていけばいいのか、一週間、考えた。結局、自分が一番よく知っているものにした。

 隣で、雅也が、少しだけ、気まずそうな顔をしていた。

「……カフェ。一つ、先に言っておかないといけないことがある」

「……はい」

「母さんのことなんだけど」

「……はい。ウマ娘の方だと、前に、聞きました」

「うん。それは、そうなんだけど。……その」

 雅也は、首の後ろを掻いた。

「……会えば、分かると思う。たぶん、驚く。……ごめん。もっと前に、言っておくべきだった」

「……驚く、ですか」

「驚く。……たぶん」

 カフェが、何か訊き返そうとしたとき、玄関の扉が、内側から、勢いよく開いた。

「いらっしゃ〜〜いっ!!」

 明るい声が、夏の空気を、弾けるように揺らした。

 玄関に、一人のウマ娘が立っていた。

 明るい色の髪を、頭の高いところで、ゆるく結んでいた。花柄のエプロンをつけていた。両手を、大きく広げていた。目が、きらきらしていた。満面の笑みだった。

 カフェは、その顔を、知っていた。

 知らない人は、たぶん、いなかった。テレビで。雑誌で。街の大きな広告で。昔の大きなレースの映像で。今も、歌って、踊って、舞台の上で、たくさんの人を笑顔にしている人。

「……ハイセイコー、さん……?」

 声が、勝手に、こぼれていた。

「は〜い! ハイセイコーで〜す!」

 ハイセイコーは、両手を広げたまま、くるりと一回転した。花柄のエプロンの裾が、ふわりと広がった。

 カフェは、豆の袋を持ったまま、動けなかった。

 隣で、雅也が、額に手を当てていた。

「……母さん」

「なあに、雅也」

「玄関で、回らなくていい」

「だって、嬉しいんだもん! 雅也が、彼女、連れてきたんだもん!」

「……近所に、聞こえる」

「聞こえてもいいの!」

 ハイセイコーは、カフェの方を向いた。

 それから、急に、少しだけ、静かな顔になった。

「……あなたが、カフェちゃん」

「……は、はい。マンハッタンカフェ、です」

「テレビで、ずーっと、見てたのよ。……四年間、ずっと」

 ハイセイコーは、カフェの前に、一歩、近づいた。

「この子の、担当の子だって、知ってたから。……レースのたびに、テレビの前で、手、ぎゅって握って、見てたの。勝つたびに、跳ねて。お父さんに、うるさいって言われて」

「……」

「……雅也のこと、ずっと、ありがとうね」

 カフェは、何と答えればいいのか、分からなかった。

「……お世話に、なっていたのは、私の方です」

「ううん。お世話になってたのは、この子の方よ」

 ハイセイコーは、雅也の方を、ちらりと見た。雅也は、横を向いていた。耳の後ろが、赤かった。

「……さ、入って入って! 暑かったでしょ! 麦茶、冷やしてあるの!」

 ハイセイコーに手を引かれて、カフェは、玄関に入った。

 居間は、古い畳の部屋だった。開け放した縁側から、庭の百日紅の赤い花が見えた。扇風機が、首を振っていた。蚊取り線香の匂いが、かすかにした。

 居間の奥の、窓際の座椅子に、一人の男性が座っていた。

 人間の男性だった。白髪混じりの短い髪。日に焼けた、穏やかな顔。新聞を、膝の上に広げていた。カフェが入ってくると、新聞を畳んで、座ったまま、小さく頭を下げた。

「……いらっしゃい」

 低い、静かな声だった。

「……お邪魔します」

 カフェは、深く頭を下げた。

 雅也の父だった。

 それ以上、何も言わなかった。けれど、カフェが顔を上げると、父は、少しだけ、目元を緩めていた。

 ――雅也さんに、似ている。

 カフェは、そう思った。声が。目元の緩め方が。

 ハイセイコーが、台所から、麦茶のグラスを、盆に載せて運んできた。

「はい、どうぞ〜! ……雅也、そこ、座って」

「うん」

 雅也は、居間を横切って、座卓の向こう側へ回ろうとした。

 そのとき、カフェは、見た。

 雅也が、居間の真ん中を、まっすぐに歩かなかったことを。座卓の脇に置かれた、誰も座っていない、古い籐の椅子を、わずかに、よけて歩いたことを。

 ほんの少しだけ。誰も気づかないくらいに。

 ハイセイコーが、それを見て、くすくすと笑った。

「ほら。……昔から、こうなの、この子」

「……え」

「誰も座ってない椅子、よけて歩くの。小さい頃から、ずーっと。……なんでよけるの、って訊いたら、なんとなく、って言うのよ」

 雅也が、座卓の向こうで、困ったような顔をしていた。

「……母さん」

「だって、ほんとのことでしょ」

 カフェは、その籐の椅子の方を、見た。

 お友だちが、そこに、座っていた。

 いつの間にか。カフェより先に、この家に入っていたのかもしれなかった。籐の椅子の上で、居間の窓の外の、百日紅の赤い花を、見ているようだった。

 カフェは、思わず、小さく笑った。

 声に出して。

 ハイセイコーが、目を丸くして、カフェを見た。それから、何も訊かずに、もっと嬉しそうに笑った。

 窓際の座椅子で、雅也の父が、新聞を膝に置いたまま、少しだけ、肩を揺らしていた。

 

 その日、帰り際の玄関で、ハイセイコーは、カフェの両手を握った。

「……カフェちゃん。また、来てね」

「……はい」

「それと、お願いがあるの」

「……はい」

「お母様、って呼ぶの、やめてくれない? ……なんか、くすぐったいの」

 カフェは、少し困った。

 一日中、そう呼んでいた。ほかに、何と呼べばいいのか、分からなかった。

「……では、何と」

「ハイちゃんでもいいし、セイコさんでもいいし!」

「……それは」

「だめ?」

「……少し、難しいです」

 ハイセイコーは、声を立てて笑った。

「じゃあ、お母さん、でいいよ。……お母様、より、ちょっとだけ、近いでしょ」

 カフェは、しばらく、考えた。

 それから、小さく、言った。

「……お母さん」

 ハイセイコーの目が、少しだけ、潤んだ。

 それから、カフェの両手を、ぎゅっと握りしめた。

「……うん。それがいい」

 

 三 日曜日の二人

 

 その週の日曜日、昼過ぎに、雅也の両親が、家に来た。

 宵待ちは、定休日だった。雅也も、珍しく、午後は休みだった。セレネとカザハナとイブキには、日曜の午後は、自分のために使うように言ってあった。

 玄関のチャイムが鳴る前に、クインが、廊下を駆けていった。

「ばあばだー!!」

 扉が開く音がした。それから、明るい声が、廊下いっぱいに響いた。

「クインちゃーん!! 大きくなったねぇ〜っ!!」

「なってない! まえとおんなじ!」

「なってるよ〜! ばあば、わかるもん!」

 カフェが玄関に出ると、ハイセイコーが、クインを両腕で抱き上げて、くるくると回っていた。クインが、甲高い声で笑っていた。

 その後ろに、雅也の父が、立っていた。

 厚手の灰色のセーターを着て、手に、紙袋を一つ提げていた。紙袋の中から、焼き芋の、甘い匂いがした。

「……いらっしゃいませ、お父さん」

「……お邪魔します」

 父は、小さく頭を下げた。それから、紙袋を、カフェに差し出した。

「……駅前で、売ってたから」

「ありがとうございます。……娘たちが、喜びます」

「……そうか」

 父は、それだけ言って、靴を脱いだ。

 廊下の奥から、レッドが、少しだけ遅れて、出てきた。クインのように、駆けてはこなかった。けれど、足が、いつもより速かった。

「……じいじ、ばあば。いらっしゃい」

「レッドちゃーん!!」

 ハイセイコーが、クインを抱えたまま、レッドの方へ手を伸ばした。レッドは、少しだけ照れたように、その手に、自分の頭を差し出した。ハイセイコーが、レッドの髪を、くしゃくしゃと撫でた。

「レッドちゃん、学習発表会、木の役だったんでしょ! 雅也から、聞いたよ〜!」

「……うん」

「台詞、ばあばにも、聞かせて〜!」

「……あとで」

「え〜、今がいい〜!」

「……あとで」

 レッドは、頬を少し赤くして、居間の方へ、すたすたと戻っていった。

 ハイセイコーは、クインを抱えたまま、くすくすと笑った。

「……レッドちゃん、雅也に似てきたね〜。照れると、すぐ、どっか行っちゃうとこ」

 居間の入口で、雅也が、苦笑していた。

「……母さん。いらっしゃい」

「来たよ〜、雅也! ……ちゃんと寝てる?」

「寝てる」

「ほんと〜? カフェちゃん、ほんと?」

「……昨日は、七時間、寝ていました」

「えらい!」

 ハイセイコーは、クインを床に降ろして、雅也の頬を、両手で挟んだ。雅也は、されるがままになっていた。四十を過ぎた息子の頬を、母は、子どもの頃と同じように、ぎゅっと挟んだ。

「……母さん」

「なあに」

「玄関で、それ、やらなくていい」

「やりたいの〜」

 雅也の父が、その横を、黙って通り過ぎていった。

 居間に入ると、父は、まっすぐに、窓際へ向かった。窓際の、古い一人掛けの椅子。雅也が、引っ越しのときに、実家から持ってきた椅子だった。父が、昔から使っていた椅子だった。

 父は、その椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

 それから、膝の上に、両手を置いた。窓の外の、冬の手前の庭を、見ていた。

 来るたびに、父は、その椅子に座った。誰に言われたわけでもなかった。カフェも、雅也も、何も言わなかった。その椅子は、父が来ない日は、誰も座らない椅子だった。

 ハイセイコーが、居間に入ってきて、父の方を見た。

「……あなた、また、そこ」

「……ここが、落ち着く」

「家でも、窓際でしょ」

「……家でも、ここが、落ち着く」

「同じ椅子だもんね〜」

「……そうだ」

 ハイセイコーは、父の後ろに回って、父の肩を、両手で、ぽんぽんと叩いた。

「腰、今日は、大丈夫?」

「……大丈夫だ」

「電車で、ずっと立ってたでしょ。座ればよかったのに」

「……お前が、座ってたから」

「二人とも、座れる席、あったよ〜」

「……隣のご婦人に、譲った」

「あ、そっか。そうだったね。……優しいね〜、あなた」

「……普通だ」

 ハイセイコーは、父の肩を、もう一度、ぽんと叩いた。それから、父の頭の上に、自分の頬を、ちょこんと乗せた。

 父は、何も言わなかった。けれど、膝の上の手が、少しだけ、緩んでいた。

 カフェは、台所で、コーヒーの豆を量りながら、それを見ていた。

 ――長い時間を、一緒に過ごしてきた人たち。

 何十年も。娘が、息子が、生まれる前から。息子が、育って、家を出て、自分の仕事を見つけて、誰かと家族になるまで。ずっと。

 カフェは、豆を挽きはじめた。

 ごり、ごり、と低い音が、居間に響いた。

 

 四 黄昏の散歩

 

 焼き芋を、みんなで分けて食べた。

 クインは、皮ごと食べようとして、レッドに止められた。「かわは、たべないの」。クインは、「ばあばは、たべてる」と言い返した。ハイセイコーが、「ばあばは、皮も好きなの〜」と言って、皮ごと、豪快にかじった。クインが、目を輝かせて、真似をした。レッドが、カフェの方を見て、助けを求めるような顔をした。カフェは、「皮は、食べても、大丈夫です」と言った。レッドは、少し考えて、それから、自分も、ほんの少しだけ、皮をかじった。

「……ちょっと、にがい」

「でしょ〜? でも、それが、おいしいの〜」

「……わかんない」

「大人になったら、わかるよ〜」

「……おとなって、いつ」

 ハイセイコーが、雅也の方を見た。雅也が、苦笑して、首を振った。

 レッドは、それから、ハイセイコーに、学習発表会の台詞を、聞かせた。

 居間の真ん中に立って、両腕を、枝のように横に広げて、一歩、前に出て。

「……だいじょうぶ。よるは、こわくないよ。……よるが、くるまえに、そらが、きれいないろに、なるから。それを、みてから、ねむれば、こわくないよ」

 ハイセイコーが、両手で、口元を押さえていた。

 窓際の椅子で、父が、膝の上の手を、少しだけ握りしめていた。

「……レッドちゃん」

 ハイセイコーが、少しだけ、震える声で言った。

「その台詞、誰が考えたの?」

「……せんせい。……でも、そらの、ところは、レッドが、かえたの」

「変えたの?」

「うん。……さいしょは、よるがくれば、ほしがでるから、だったの。でも、レッド、ほしより、そらのいろの方が、すきだから」

 ハイセイコーは、何も言わなかった。

 レッドを、ぎゅっと抱きしめた。

 カフェは、台所の入口で、その台詞を、もう一度、胸の中で繰り返していた。

 ――ほしより、そらのいろの方が、すき。

 自分の店の、西の窓。毎日、閉店の後で、一人で見ている、あの空の色。

 レッドは、それを、見ていたのだった。カウンターの端で、宿題の手を止めて、頬杖をついて。黙って。

 窓の外が、少しずつ、橙色に染まりはじめていた。

 四時を、少し過ぎた頃だった。

 ハイセイコーが、レッドを抱きしめたまま、窓の外を見た。それから、カフェの方を、ちらりと見た。

「……ねえ、レッドちゃん、クインちゃん」

「なあに」

「ばあばと、じいじと、お散歩、行かない? ……公園まで。夕焼け、見に」

「いく!!」

 クインが、ぴょんと跳ねた。

 レッドは、少しだけ迷うように、カフェの方を見た。

 カフェが、小さく頷くと、レッドも、こくりと頷いた。

「……いく」

「よーし! じゃあ、上着、着ておいで〜!」

 娘たちが、廊下へ駆けていった。

 ハイセイコーは、立ち上がって、窓際の父の肩を、ぽんと叩いた。父は、何も言わずに、椅子から立ち上がった。

 玄関で、靴を履きながら、ハイセイコーが、カフェにだけ聞こえる声で、言った。

「……カフェちゃんの、時間でしょ。黄昏」

 カフェは、何も答えられなかった。

「雅也から、聞いてるの。……一時間くらい、お散歩してくるね。ゆっくりしてて」

「……お母さん」

「なあに」

「……ありがとうございます」

 ハイセイコーは、帽子をかぶりながら、にっこりと笑った。

「お礼なんて、いいの。……お母さんも、夕焼け、好きだから」

 扉が開いて、四人が出ていった。クインの甲高い笑い声。レッドの小さな声。ハイセイコーの明るい声。父の、低い、短い相槌。それが、少しずつ、遠ざかっていった。

 家の中が、静かになった。

 居間に、カフェと、雅也だけが残った。

 雅也は、ソファーに座って、何も言わなかった。カフェの方を、見なかった。

 カフェは、居間の窓の前に立った。

 窓の外の空が、燃えはじめていた。

 世界の音が、少しずつ、遠くなっていった。

 窓際の、父が座っていた椅子の上に、お友だちが、座っていた。窓の外を、見ていた。

 カフェは、その隣に立って、同じ空を見ていた。

 しばらくして、カフェは、振り返らずに、言った。

「……雅也さん」

「ん」

「今日は、一緒に、いてください」

 ソファーから、雅也が立ち上がる気配がした。

 それから、カフェの隣に、そっと並んだ。肩が、触れた。

 何も、言わなかった。

 二人と、それから、もう一人で、燃えるような空が、紫色に沈んでいくのを、黙って見ていた。

 

 

第九部 姉と妹

 

 一 手伝いたい日

 

 十二月の最初の土曜日、宵待ちは、朝から、少しだけ混んでいた。

 冬の始まりの、冷たい晴れの日だった。カフェは、快晴の日が、あまり得意ではなかった。空が、明るすぎる。影が、くっきりしすぎる。けれど、こういう日に限って、客が多い。日向の窓際で、温かいコーヒーを飲みたい人が、増えるのだった。

 カウンターは、昼過ぎには、ほとんど埋まっていた。二つのテーブルも、埋まっていた。シズクドロップが、カウンターの内側で、慣れない手つきで、カップを洗っていた。

 店の奥の、小さな空間に、娘たちがいた。

 カウンターの内側の、さらに奥。二階への階段の下の、細長い物置のような場所を、半分片づけて、小さな机と、二つの低い椅子を置いてあった。土曜の午後は、娘たちが、そこで過ごす。客席からは、ほとんど見えない場所だった。

「……ママ」

 レッドが、階段の下から、顔を出した。

「はい」

「……レッドも、おてつだい、したい」

 カフェは、湯を落とす手を止めずに、レッドの方を見た。

 レッドは、両手を前で重ねて、立っていた。目が、まっすぐだった。何かを、決めてきた顔だった。

「……今日は、混んでいます」

「だから、おてつだい、したいの」

 カフェは、カップを、客の前に置いた。それから、少しだけ考えた。

 熱湯は、だめ。刃物も、だめ。重い器具も、だめ。お金も、だめ。カップを運ぶのも、まだ、だめ。熱い液体が入っている。

「……では、紙ナプキンを、畳んでください」

 レッドの目が、少しだけ、明るくなった。

「ナプキン?」

「はい。……この箱の中の、紙ナプキンを、三角に、二回折ってください。角を、ぴったり合わせて。できたら、この籠に、重ねて入れてください」

 カフェは、カウンターの内側の、小さな作業台の上に、紙ナプキンの箱と、小さな籠を置いた。階段の下から、手が届く場所だった。

「……できる」

「お願いします」

 レッドは、作業台の前に、低い椅子を引き寄せて、座った。紙ナプキンを一枚取って、三角に折った。角を、指先で、慎重に合わせた。もう一度、折った。

 籠に、入れた。

 それから、もう一枚。

 カフェは、それを、横目で見ていた。角が、ぴったりと合っていた。一枚目より、二枚目の方が、さらにきれいだった。

「……ママ」

 階段の下から、もう一つの声がした。

 クインだった。

「クインも、おてつだい、する」

「……クインは」

「おねえちゃんだけ、ずるい」

 クインは、頬を、ぱんぱんに膨らませていた。

 カフェは、少しだけ、困った。クインに頼める仕事を、頭の中で探した。紙ナプキンは、クインには、まだ少し難しい。角を合わせるのは、四つの子には。

「……では、クインは、砂糖壺の蓋が、ちゃんと閉まっているか、見てください」

「さとうつぼ?」

「はい。あの、白い、小さな壺です。カウンターの、内側の棚に、並んでいます。……蓋が、ずれていたら、教えてください」

 クインは、棚を見上げた。白い小さな砂糖壺が、五つ、並んでいた。

「……みるだけ?」

「見るだけです」

「……つまんない」

「大事な、お仕事です」

 クインは、唇を尖らせた。けれど、棚の前に立って、砂糖壺を、一つずつ、じっと見上げはじめた。

 しばらくは、それで、うまくいっていた。

 レッドは、紙ナプキンを、黙々と畳んでいた。籠の中に、三角の紙が、少しずつ、きれいに積み重なっていった。クインは、砂糖壺を、端から端まで見て、「ずれてない」と報告して、また端から見直していた。

 カフェは、その間に、三杯のコーヒーを淹れて、二組の会計を済ませた。シズクが、声に出して、釣り銭を数えていた。

 

 二 壊れた粘土

 

 三十分ほど経った頃だった。

「……ずれてない。ずれてない。ずれてない。……つまんない」

 クインが、砂糖壺の前から離れて、レッドの作業台の方へ、とことこと歩いていった。

「おねえちゃん、それ、クインも、やる」

「……だめ。クインには、むずかしい」

「むずかしくない」

「むずかしいよ。かど、あわせなきゃいけないの」

「あわせられる」

「あわせられないよ」

「あわせられるもん!」

 クインが、レッドの手から、紙ナプキンを一枚、ひったくった。

 レッドが、「あっ」と声を上げた。

 クインは、紙ナプキンを、ぐしゃっと折った。角は、まったく合っていなかった。それを、籠の上に、ぽんと載せた。

「できた!」

「できてない!」

 レッドの声が、少しだけ、大きくなった。

 それから、籠の上の、クインのぐしゃぐしゃのナプキンを取ろうとして、手を伸ばした。

 クインが、それを、取られまいとして、身体をひねった。

 ひねった肘が、レジの横の、小さな棚に当たった。

 棚の上の、茶色い粘土の塊が、ぐらりと揺れた。

 カフェが、手を伸ばす前に、それは、床に落ちた。

 ごとん、と、鈍い音がした。

 店の中が、一瞬、静かになった。

 カウンターの客たちが、こちらを見ていた。シズクが、カップを持ったまま、固まっていた。

 床の上で、粘土の塊が、割れていた。

 四つの丸いものが、ばらばらになっていた。それから、とがった耳のついた、細長いもの――猫が、塊から外れて、少し離れたところに、転がっていた。

 クインの顔から、血の気が引いていった。

「……あ」

 レッドが、床にしゃがみこんだ。割れた粘土を、両手で、そっと拾い上げた。それから、クインの方を見上げた。

 目に、涙が溜まっていた。

「……クインの、ばか」

 小さな声だった。けれど、震えていた。

「……クインの、ばか。……ママの、おみせの、だいじなのに」

「……ちが、ちがうもん。おねえちゃんが、とろうとしたから」

「クインが、とったからでしょ!」

「おねえちゃんが、だめって、いったから!」

「クインが、できないのに、やるからでしょ!」

 クインの目から、ぼろぼろと、涙がこぼれはじめた。

 それから、声を上げて、泣きはじめた。

 店の中に、四つの子の泣き声が、響いた。

 カフェは、カウンターの内側から出た。

 まず、客席の方を向いて、深く頭を下げた。

「……申し訳ありません。少しだけ、お時間をください」

 カウンターの真ん中で、沢井さんが、文庫本を閉じて、にっこりと笑った。

「気にしないで、マスター。……私、孫が、三人いるのよ」

 ほかの客たちも、何も言わなかった。何人かが、小さく笑っていた。テーブルの若い男性が、「全然、大丈夫です」と、手を振った。

 カフェは、もう一度、頭を下げた。

 それから、シズクの方を向いた。

「……シズクさん。三分だけ、お店を、お願いできますか。新しい注文は、少しだけ、待っていただいてください」

「……は、はいっ」

 シズクは、カップを置いて、背筋を伸ばした。

 カフェは、泣いているクインを抱き上げた。それから、床にしゃがみこんでいるレッドの手を取った。

「……二人とも、こちらへ」

 階段の下の、小さな空間へ、二人を連れていった。

 

 三 どっちの話も

 

 階段の下の、薄暗い小さな空間で、カフェは、二人の前に、膝をついた。

 クインは、まだ、しゃくり上げていた。レッドは、割れた粘土を、両手で抱えたまま、唇を、きつく結んでいた。目から、涙が、一筋、こぼれていた。

 カフェは、すぐには、何も言わなかった。

 どちらが悪いのか。どちらが先だったのか。それを決めるのは、簡単だった。けれど、決めたら、たぶん、どちらかの話を、聞かなくなる。

「……レッド」

「……」

「先に、レッドの話を、聞かせてください」

 レッドは、顔を上げた。

「……クインが、ナプキン、とったの。……レッドが、ちゃんと、かど、あわせてたのに。ぐしゃってして、かごに、いれたの。……だから、とりかえそうとしたの。そしたら、クインが、よけて、ひじが、あたって……」

「はい」

「……ねんど、ママが、おみせに、かざってたのに。……ずっと、かざってたのに」

 レッドの声が、また、震えた。

「……分かりました。ありがとう、レッド」

 カフェは、クインの方を向いた。

「……クイン。クインの話を、聞かせてください」

 クインは、しゃくり上げながら、カフェのエプロンの裾を、ぎゅっと握った。

「……クインも、おてつだい、したかったの」

「はい」

「さとうつぼ、ずっと、ずれてなくて。……つまんなくて。……おねえちゃん、ナプキン、たのしそうで」

「はい」

「クインも、できるって、おもったの。……でも、おねえちゃん、だめって、いったの。むずかしいって。……クイン、むずかしくないって、おもったの」

「……はい」

「とったの、わるかった。……でも、おねえちゃんも、とろうとした」

「……はい」

「ねんど、こわしたの、クインじゃない。……ひじ」

 クインは、そう言って、また泣き出した。

 カフェは、クインの頭に、そっと手を置いた。それから、レッドの頭にも、もう片方の手を置いた。

「……二人の話、両方、聞きました」

 二人とも、カフェの顔を見た。

「レッドは、ちゃんと、お手伝いをしていました。角を、ぴったり合わせて。……クインに、難しいと言ったのは、本当のことです。でも、だめ、と言われたら、クインは、悲しかったと思います」

 レッドは、何も言わなかった。けれど、唇が、少しだけ、ほどけた。

「クインは、お手伝いを、したかった。……砂糖壺を見るのが、つまらなかったのも、本当だと思います。私が、クインにできることを、うまく探せませんでした。……ごめんなさい」

 クインが、目を丸くした。

「……ママ、わるくない」

「少しだけ、悪かったです。……でも、レッドの手から、ナプキンを取ったのは、クインです」

 クインは、うつむいた。

「……うん」

「粘土が落ちたのは、肘が当たったからです。誰かが、わざと落としたのでは、ありません。……でも、二人が、取り合いをしなければ、落ちませんでした」

 二人とも、黙った。

 カフェは、レッドの両手の中の、割れた粘土を見た。四つの丸いもの。それから、レッドの手のひらの端に、とがった耳の、細長いもの。

「……レッド。それを、少しだけ、見せてください」

 レッドは、両手を、カフェの方へ差し出した。

 カフェは、割れた粘土を、一つずつ見た。乾いて、固くなっていた。四つの丸いものは、くっついていた部分が、きれいに割れていた。

「……直せると、思います」

「……なおせるの?」

 レッドとクインが、同時に言った。

「はい。……接着剤で、くっつけます。でも、私一人では、どこに、何がくっついていたか、分かりません。……作ったのは、クインですから」

 クインが、顔を上げた。

「……クインが、つくった」

「はい。……クインが、どこに何をくっつけたか、教えてください。レッドは、角を合わせるのが上手なので、割れたところを、ぴったり合わせるのを、手伝ってください」

 レッドとクインは、顔を見合わせた。

 どちらも、まだ、目が赤かった。

「……いい?」

 クインが、小さな声で、レッドに訊いた。

 レッドは、少しだけ、黙っていた。それから、こくりと頷いた。

「……いいよ」

「……おねえちゃん」

「なに」

「……さっき、ばかって、いった」

「……いった」

「……ごめんなさいの、さかさま、して」

 レッドは、眉を寄せた。

「……さかさま?」

「うん。……ごめんなさいの、さかさま」

「……さいなんめご?」

「ちがう! ……ごめんなさいって、いう、まえの、やつ!」

 レッドは、しばらく考えた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。

「……ごめんね、クイン。ばかって、いって」

「……うん。クインも、ごめんなさい。ナプキン、とって」

 カフェは、二人の頭から、そっと手を離した。

 ――ごめんなさいの、さかさま。

 たぶん、謝ってほしい、という意味だった。自分から謝る前に、相手から謝ってほしい。四つの子の、精一杯の言葉だった。

 カフェは、口元が緩むのを、止められなかった。

 店の方から、シズクの、少しだけ上ずった声が聞こえた。

「……い、いらっしゃいませ。……あの、少々、お待ちください」

 カフェは、立ち上がった。

「……二人とも、ここで、待っていてください。お店が落ち着いたら、三人で、直しましょう」

「……うん」

「うん」

 カフェは、エプロンを直して、カウンターの内側に戻った。

 三分は、とうに過ぎていた。

 シズクが、カウンターの内側で、注文のメモを三枚、握りしめて立っていた。カフェが戻ると、ほっとしたように、息を吐いた。

「……すみません、シズクさん。ありがとうございます」

「い、いえ。……注文、三つ、たまってます」

「はい」

 カフェは、豆を量りはじめた。

 カウンターの真ん中で、沢井さんが、文庫本のページをめくりながら、小さく言った。

「……泣き声、止んだわね」

「……はい」

「どっちの話も、聞いたのね」

 カフェは、ミルを回す手を、少しだけ止めた。

「……はい。沢井さんに、前に、教わったので」

「あら。私、何か教えたかしら」

「……悔しいのか、嬉しいのか、訊いてあげるだけでいい、と」

 沢井さんは、文庫本から顔を上げて、目を細めた。

「……私の言葉が、役に立ったのね」

「はい」

「マスターは、受け取った言葉を、ちゃんと次の誰かに渡せる人ね」

 カフェは、何も答えずに、ミルを回した。

 ごり、ごり、と低い音が、店の中に響いた。

 

 四 直した粘土

 

 その日の夕方、閉店の後、三人で、粘土を直した。

 カウンターの上に、古い新聞紙を広げて、割れた粘土の欠片を並べた。接着剤の、つんとした匂いがした。

 クインが、欠片を一つずつ指さして、「これが、パパ。これが、ママ。これが、おねえちゃん。これが、クイン」と言った。レッドが、割れた面を、一つずつ、ぴったりと合わせた。カフェが、接着剤を、少しずつ塗った。

 四つの丸いものが、また、一つの塊になった。

 最後に、とがった耳の、細長いものが残った。

「……ねこも、なおして」

 クインが言った。

「はい」

 カフェは、猫を、塊の横に、そっと合わせた。もともと、くっついていた場所に。

 レッドが、横から覗き込んで、少しだけ、位置を直した。

「……ここ。ちょっと、ずれてた」

「ありがとう、レッド」

「……ねこ、ちゃんと、くっついた?」

「くっつきました」

 クインが、ほっとしたように、大きく息を吐いた。

「……よかった。ねこも、かぞくだから」

「……猫は、うちには、いませんよ」

「いないけど、かぞくなの」

 カフェは、何も言い返さなかった。

 直した粘土を、レジの横の棚に、そっと戻した。前より、少しだけ、奥の方に。肘が当たっても、落ちないところに。

 割れた跡が、細い線になって、残っていた。四つの丸いものの間に。猫と、塊の間に。

 ――前より、少しだけ、好きになった。

 カフェは、そう思った。

 割れて、直した跡のある方が。

 西の窓の外が、もう、深い紫色になっていた。黄昏は、とうに過ぎていた。今日は、黄昏の時間を、一人で過ごせなかった。粘土を直していたから。

 それでも、嫌ではなかった。

 予約席の椅子の上に、お友だちが座っていた。

 窓の外ではなく、カウンターの上の、直した粘土の方を、見ているような気がした。

 

 五 臨時休業

 

 その週の水曜日の朝、クインが、熱を出した。

 五時に、カフェが台所で豆を挽いていると、廊下の奥から、小さな泣き声が聞こえた。駆けつけると、クインが、布団の中で、真っ赤な顔をして、丸くなっていた。額に手を当てると、熱かった。

 雅也は、もう、玄関で靴を履いていた。

 カフェが、居間から顔を出すと、雅也は、靴紐を結ぶ手を止めた。

「……どうした」

「クインが、熱を出しています」

 雅也は、すぐに、靴を脱いだ。クインの部屋へ行って、額に手を当てた。冷たい手が、熱い額に触れた。クインが、「……パパのて、つめたい」と、小さく言った。

「……熱いな」

「はい。……測ったら、三十八度、少しでした」

 雅也は、しばらく、クインの顔を見ていた。それから、カフェの方を向いた。

「……今日、どうする」

 カフェは、すぐには答えなかった。

 保育園には、行けない。熱がある子は、預けられない。病院に、連れていかなければならない。開くのは、九時。

 店は、十一時に開ける予定だった。水曜日は、三枝さんが、夜勤明けで来る日だった。沢井さんは、来ない日だった。シズクも、コトノハも、学校の日だった。

「……雅也さんは、今日」

「朝の練習と、午後のミーティング。……イブキの、土曜のレースの、最後の確認がある」

「……はい」

「朝の練習は、セレネに、二人を見てもらうこともできる。午後のミーティングは、ずらせない。でも、昼までなら――」

「いいえ」

 カフェは、首を振った。

「雅也さんは、行ってください。イブキさんの、大事な週です」

「でも、店が」

「……店は、今日は、休みます」

 雅也が、目を見開いた。

 開店してから八年、宵待ちは、定休日と、二人の娘が生まれた前後の長い休み以外に、店を閉めたことが、ほとんどなかった。急に閉めるのは、これが初めてだった。

「……いいのか」

「いいです。……私が、決めました」

 カフェは、クインの汗ばんだ前髪を、そっと払った。

「店は、逃げません。……柏木さんが、昔、そう言っていました」

 雅也は、しばらく、カフェの顔を見ていた。

 それから、小さく頷いた。

「……分かった。昼休みに、一度、電話する。何かあったら、すぐに連絡してくれ。午後のミーティングは、抜けられないけど、ほかのことなら、何でも抜ける」

「はい」

「レッドの学校は」

「送っていきます。クインと一緒に。……病院の前に」

「……ごめん」

「謝らないでください。……雅也さんの仕事も、私の店と、同じくらい、大事です」

 雅也は、クインの額に、もう一度だけ手を当てた。それから、カフェの肩に、そっと手を置いて、玄関へ向かった。

 七時半、カフェは、クインをおぶって、レッドの手を引いて、家を出た。

 途中で、宵待ちに寄った。扉の外に、小さな紙を一枚、貼った。

 ――本日、店主の都合により、臨時休業いたします。ご迷惑をおかけいたします。

 カウンターに焼き菓子を置いていくことも考えたが、鍵を掛けた店の中では三枝さんに渡せない。次の夜勤明けに一つ多めに焼き、顔を合わせたときに直接お詫びして渡そう。そう決めて、店の手帳に短く書き留めた。

 扉の鍵を、閉めた。

 鈴が、ちりん、と小さく鳴った。

 

 六 ずるい

 

 クインの熱は、医者の見立てでは、ただの風邪だった。

 薬をもらって、家に帰って、クインは、昼過ぎには、少しだけ熱が下がって、眠った。カフェは、その枕元に座って、クインの額の濡れタオルを、何度も替えた。

 三時過ぎに、レッドが、学校から帰ってきた。

 店ではなく、家に。今日は、学童の先生に頼んで、家の前まで、送ってもらった。

「……ただいま」

 玄関で、小さな声がした。

「おかえりなさい」

 カフェは、クインの部屋から、顔だけ出して言った。

 レッドは、ランドセルを背負ったまま、廊下に立っていた。クインの部屋の方を、ちらりと見た。それから、カフェの顔を見た。

「……クイン、だいじょうぶ?」

「はい。お薬を飲んで、眠っています。……少し、熱が下がりました」

「……よかった」

 レッドは、それだけ言って、居間の方へ歩いていった。

 足音が、いつもより、少しだけ重かった。

 夕方、雅也から、電話があった。ミーティングが終わった、と。早めに帰る、と。それから、イブキの足首は、もう、何ともない、と。土曜日は、走れる、と。イブキの祖父が、北の町から、見に来ることになった、と。

 電話を切って、居間に行くと、レッドが、ソファーの端に座って、絵本を開いていた。

 開いていたけれど、ページを、めくっていなかった。

「……レッド」

「……ん」

「宿題は」

「……おわった」

「そうですか。……えらいですね」

 レッドは、何も答えなかった。

 カフェは、レッドの隣に、そっと座った。

 しばらく、二人とも、黙っていた。窓の外が、少しずつ、橙色に染まりはじめていた。黄昏の時間が、近づいていた。

 今日は、店を閉めていた。家にいた。クインの枕元にいた。一日中。

「……ママ」

 レッドが、絵本を見たまま、言った。

「はい」

「……きょう、ずっと、クインと、いたね」

「……はい」

「……おみせも、やすんで」

「はい」

「……クイン、ずるい」

 小さな声だった。

 カフェは、レッドの横顔を見た。

 唇を、きつく結んでいた。目が、少しだけ、潤んでいた。

「……レッドが、おねつ、だしたとき、ママ、おみせ、やすまなかった」

 カフェは、息を止めた。

 覚えていた。去年の冬、レッドが熱を出した日。その日は、雅也が、仕事を休んで、家にいた。カフェは、店を開けた。雅也が、「俺が見てるから、店は開けていい」と言ったから。それが、そのときは、一番いい形だと思った。

 レッドは、それを、覚えていた。

「……あのときは、パパが、いてくれました」

「……うん」

「だから、私は、お店に行きました。……でも、レッドは、ママに、いてほしかったんですね」

 レッドは、何も言わなかった。

 絵本を、膝の上で、ぎゅっと握りしめていた。

 それから、急に、絵本を放り出して、カフェの腰に、両腕で、しがみついた。

「……ママ」

 声が、震えていた。

「……レッドも、ママと、いたい」

 カフェは、レッドの背中に、両腕を回した。

 小さな背中だった。六つの子の背中。いつも、声を小さくして、黄昏の時間には話しかけてこなくて、妹に「じゃましちゃだめ」と言って、紙ナプキンの角を、ぴったり合わせる子の背中。

 ――まだ、甘えたい年なのに。

 カフェは、レッドの背中を、ゆっくりと撫でた。

「……ごめんなさい、レッド」

「……」

「レッドが、いつも、ちゃんとしてくれるから。……私は、レッドに、甘えていました」

 レッドが、カフェの腰に、顔を押しつけたまま、首を振った。

「……ママ、わるくない」

「少しだけ、悪かったです」

「……すこしだけ?」

「はい。少しだけ」

 レッドは、しばらく、カフェにしがみついたまま、動かなかった。

 窓の外の空が、燃えはじめていた。

 世界の音が、少しずつ、遠くなっていった。

 けれど、カフェは、窓の方を見なかった。腕の中の、小さな背中の温度を、感じていた。

「……レッド」

「……ん」

「明日の朝、五時に、起きられますか」

 レッドが、顔を上げた。目が、赤かった。

「……ごじ?」

「はい。……パパが、練習に行く前。クインが、まだ寝ている間。……二人だけで、コーヒーを飲みましょう。レッドの分は、一滴だけ、ですけど」

 レッドの目が、少しずつ、大きくなっていった。

「……ふたりだけ?」

「二人だけです」

「……クイン、なし?」

「クインは、寝ています」

「……パパも、なし?」

「パパは、もう、出かけています」

 レッドは、しばらく、カフェの顔を見ていた。

 それから、また、カフェの腰に、ぎゅっとしがみついた。

「……おきる。ぜったい、おきる」

「はい。……約束です」

「やくそく」

 窓の外の空が、深い紫色に、沈んでいった。

 今日も、黄昏の時間を、一人では過ごさなかった。

 それでも、カフェは、嫌ではなかった。

 

 次の日の朝、五時。

 台所の小さな明かりの下で、カフェが豆を挽いていると、廊下の床が、ぺた、ぺた、と鳴った。

 レッドが、台所の入口に立っていた。

 靴下を、ちゃんと、両足に履いていた。

 

 

第十部 雨の日の宵待ち

 

 一 祖父の干物

 

 十二月の半ばの木曜日は、朝から、雨だった。

 冷たい、細い雨だった。空は、一日中、灰色の厚い雲に覆われていた。店の西の窓の外も、隣の家の屋根も、通りの向かいの桜の裸の枝も、すべてが、しっとりと濡れて、色を沈ませていた。

 カフェは、雨の日が、嫌いではなかった。

 快晴の日より、ずっと、落ち着いた。空が暗いと、影が柔らかくなる。音が、雨に吸われて、少しだけ遠くなる。店の中の、コーヒーの香りが、湿った空気の中で、いつもより、ゆっくりと広がる。

 ただ、雨の日は、客が少ない。

 十一時に札を裏返してから、一時間、誰も来なかった。沢井さんは、雨の日は来ない。足元が悪いから、と、前に言っていた。

 十二時を少し過ぎた頃、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

「……あの」

 扉の内側に、小柄で、肩幅の広いウマ娘が立っていた。

 学園のジャージの上に、透明なビニールの雨合羽を着ていた。短く切った焦げ茶色の髪が、雨で、頬に貼りついていた。両手で、何か、新聞紙に包んだ、細長い包みを、大事そうに抱えていた。

 カフェは、その顔を、知っていた。

 テレビで、見た。先週の土曜日の、砂の、ジュニア級のレース。最後の直線で、力でねじ伏せるように、前の子をかわしていった子。ゴールの後で、スタンドの一角に向かって、何度も、何度も、頭を下げていた子。

「……いらっしゃいませ」

「……あ、あの。……早瀬トレーナーの、担当の、イブキフォルテ、です」

「……はい」

「トレーナーに、この店、聞いて。……昼休み、ちょっとだけ、抜けてきました」

 イブキは、扉の内側で、雨合羽を脱いだ。どこに置けばいいのか分からないように、手に持ったまま、立ち尽くした。

 カフェは、カウンターの内側から出て、入口の脇の、傘立ての横の小さな掛け金を、指さした。

「……そこに、掛けてください」

「あ、はい」

 イブキは、雨合羽を掛けた。それから、新聞紙の包みを、両手で、カフェの方へ差し出した。

「……これ。じいちゃんから」

「……おじい様から」

「はい。……土曜、じいちゃん、北の町から、見に来てくれて。……勝って。……そしたら、じいちゃんが、トレーナーの、奥さんに、これ、渡してくれって」

 カフェは、包みを受け取った。

 ずっしりと重かった。新聞紙の隙間から、潮の匂いと、干した魚の、香ばしい匂いがした。

「……干物、です。じいちゃんが、漁協で、自分で干したやつ。……トレーナー、魚、好きだって、言ってたから」

「……ありがとうございます」

 カフェは、深く頭を下げた。

「おじい様に、よろしくお伝えください。……それから、土曜日、おめでとうございました」

 イブキの耳が、ぴくりと動いた。

「……見て、くれたんですか」

「はい。テレビで。……最後の直線で、前の子と並んだとき、一度も、横を見ていませんでした。前だけを、見ていました」

 イブキは、目を見開いた。

 それから、少しだけ、頬を赤くした。

「……トレーナーと、同じこと、言う」

「……そうですか」

「うん。……じゃなくて、はい。……トレーナーも、レースの後、それ、言ってた。横、見なかったなって」

 カフェは、少しだけ、口元を緩めた。

「……時間は、ありますか」

「え」

「昼休み。……少しだけ、座っていきますか」

 イブキは、店の中を見回した。誰もいない、雨の日の店。七席のカウンター。二つのテーブル。西の窓。

「……いいんですか」

「はい。……お客様として」

 イブキは、少し迷ってから、カウンターの、入口に一番近い席に、そっと座った。三枝さんの、いつもの席だった。今日は、三枝さんの来ない日だった。

 メニューの六つの行を、眉を寄せて、じっと見ていた。

「……コーヒー、苦いの、苦手で」

「では、カフェオレは、いかがですか。……牛乳を、多めにします」

「……それ、ください」

 カフェは、豆を量った。挽いた。湯を落とした。牛乳を温めた。

 イブキは、カウンターに両肘をついて、カフェの手元を、じっと見ていた。

 カップを、イブキの前に置いた。取っ手を、右に向けて。

 イブキは、右手でカップを持って、一口飲んだ。

「……あまい」

「牛乳の、甘さです。砂糖は、入れていません」

「……え、うそ」

「本当です」

 イブキは、もう一口、飲んだ。それから、カップを両手で包んで、窓の外の雨を見た。

「……じいちゃん、この前、言ってたんです」

「はい」

「トレーナーが、イブキの足首、休ませてくれて、よかったって。……あのとき、走ってたら、どうなってたか、分かんないけど。でも、じいちゃんが見に来られる日に、ちゃんと走れて、勝てたから」

「……」

「……あのとき、わたし、トレーナーに、言わなきゃよかったって、言っちゃったんです。足首のこと」

 カフェは、カップを拭く手を、止めた。

「……でも、言って、よかった。……今は、そう思う」

 イブキは、カフェオレを、もう一口飲んだ。

「トレーナーの、奥さんも、走ってたんですよね。……昔」

「……はい」

「トレーナーに、言ってました? 足が、いつもと違うとか」

 カフェは、少しだけ、考えた。

「……最初は、言いませんでした」

「……え」

「言わなくて、身体を、崩しかけました。……それから、毎日、言うようになりました。少し指先が冷たい、とか。眠れなかった、とか」

「……毎日」

「はい。……毎日」

 イブキは、カップを持ったまま、カフェの顔を、しばらく見ていた。

 それから、小さく、頷いた。

「……わたしも、毎日、言う」

 カフェは、何も言わなかった。

 ただ、イブキの空になったカップの横に、小さな皿を一つ、置いた。今日の焼き菓子。胡桃のクッキー。

「……これ、頼んでない」

「おじい様の、干物のお礼です」

 イブキは、目を丸くした。それから、クッキーを一枚、手に取って、かじった。

 かり、と小さな音がした。

「……うまい」

「よかったです」

 十二時四十分、イブキは、雨合羽を着て、「ごちそうさまでした」と頭を下げて、雨の中を、学園の方へ走っていった。

 走らなくても、いいのに。

 カフェは、扉のガラス越しに、その背中を見送りながら、少しだけ、笑った。

 

 二 雨の日の黄昏

 

 午後になっても、雨は、止まなかった。

 三時過ぎに、レッドが、黄色い傘を差して、帰ってきた。ランドセルに、透明なカバーをかけていた。長靴の先が、濡れて光っていた。

「……ただいま」

「おかえりなさい」

 レッドは、扉の内側で、傘をたたんだ。傘立てに入れようとして、少しだけ迷ってから、雫を、扉の外で、二回、軽く振って落とした。それから、傘立てに入れた。

 カフェは、それを見ていた。誰にも教わっていないことだった。

 四時、コトノハリズムが、シフトに入った。紺色のカーディガンの肩が、雨で少し濡れていた。

「マスター、今日、お客さん、少ないですね」

「雨ですから」

「雨の日、好きです、わたし。静かで」

「……私も、です」

 コトノハは、エプロンを締めながら、西の窓の方を見た。灰色の空が、雨の向こうに、重く垂れていた。

「……雨の日は、黄昏、見えないですね」

 カフェは、カップを拭く手を、止めた。

「……見えます」

「え」

「雨の日の黄昏も、あります。……空が、燃えないだけです」

 コトノハは、目を瞬いた。それから、窓の外を、もう一度見た。

「……燃えない、黄昏」

「はい。……灰色が、少しずつ、青くなって、それから、暗くなります。雲の向こうで、陽が沈んでいくのが、色で分かります。……燃えるのより、ずっと、ゆっくりです」

「……見たこと、ないかも」

「今日、見られると思います。……閉店の後、少しだけ、残っていきますか」

 コトノハは、驚いたように、カフェの顔を見た。

 カフェは、黄昏の時間を、一人で過ごす。コトノハは、それを知っていた。働きはじめた日に、カフェが、そう言ったから。閉店の後は、すぐに帰ってください。黄昏の時間は、一人でいたいので、と。

「……いいんですか」

「今日は、雨なので」

 コトノハは、何か言いかけて、やめた。それから、こくりと頷いた。

 四時半、カフェは、扉の札を、裏返した。

 ――準備中。

 店の明かりを、一段、落とした。

 カウンターの端で、レッドが、宿題のプリントを閉じた。コトノハが、エプロンを外して、カウンターの客席の側の、入口から三番目の席に、そっと座った。

 カフェは、西の窓の前に立った。

 窓の外の雨は、細く、静かに、降りつづけていた。灰色の雲が、空一面を覆っていた。その灰色が、ほんの少しずつ、色を変えはじめていた。

 薄い、青みを帯びた灰色へ。

 それから、少しだけ、紫を帯びた灰色へ。

 雲の向こうのどこかで、陽が、沈んでいこうとしていた。見えなかった。けれど、色で分かった。窓ガラスを伝う雨粒の一つ一つが、その色を、小さく映していた。

 世界の音が、遠くなっていった。

 雨の音だけが、残った。屋根を叩く音。樋を流れる音。窓ガラスを伝う、かすかな音。

 予約席の椅子に、お友だちが座っていた。

 窓の外の、燃えない黄昏を、見ていた。

 カウンターの端で、レッドが、頬杖をついて、窓の外を見ていた。黙って。

 入口から三番目の席で、コトノハが、両手を膝の上に重ねて、窓の外を見ていた。黙って。

 誰も、何も言わなかった。

 空の色が、ゆっくりと、深い青に沈んでいった。

 通りの街灯が、一つ、灯った。雨に濡れた石畳に、その光が、細く、長く、映った。

 しばらくして、コトノハが、小さな声で、言った。

「……きれい」

 それだけだった。

 カフェは、振り返らなかった。

 けれど、口元が、少しだけ、緩んでいた。

 

 三 四人の夕ごはん

 

 五時半、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。

「……ただいま」

 雅也だった。

 片手に、大きな黒い傘を。もう片手に、クインの小さな手を握っていた。クインは、赤い長靴を履いて、黄色い雨合羽を着ていた。合羽のフードの下から、くせっ毛の渦が、ぴょんと飛び出していた。

「ママー! あめ、すごいー!」

「おかえりなさい。……早かったですね」

「雨で、夕方の練習、室内に切り替えた。……早めに終わった」

 雅也は、傘をたたんで、雫を、扉の外で二回、軽く振って落とした。それから、傘立てに入れた。

 カフェは、それを見て、少しだけ、目を細めた。

 ――レッドと、同じ。

 レッドは、これを、見ていたのだった。

 コトノハが、席から立ち上がって、雅也に頭を下げた。

「……あ、トレーナーさん、こんばんは」

「こんばんは、コトノハ。……まだ、いたのか」

「マスターが、雨の日の黄昏、見せてくれました」

 雅也は、少しだけ、驚いた顔をした。それから、カフェの方を見た。カフェは、何も言わなかった。雅也も、何も訊かなかった。

「……そうか。よかったな」

「はい! ……じゃあ、わたし、帰ります! マスター、ありがとうございました!」

「気をつけて。……走らないでください」

「……はーい!」

 コトノハは、傘を差して、雨の中へ出ていった。

 走っていた。

 カフェは、小さくため息をついた。雅也が、横で、笑いをこらえていた。

 扉が閉まって、鈴が鳴った。

 店の中に、四人だけが、残った。

「……雅也さん」

「ん」

「今日は、ここで、夕ごはんを、食べませんか」

 雅也が、目を瞬いた。

「……店で?」

「はい。……朝のうちに、仕込んでおきました。シチューを」

 カフェは、カウンターの内側の、小さなコンロの上の、蓋をした鍋を、指さした。

 雅也は、鍋を見た。それから、カフェの顔を見た。

「……初めてだな。店で、四人で、夕飯」

「はい。……雨の日なので」

「雨の日だから?」

「……雨の日は、黄昏が、燃えないので。少しだけ、早く、終わります。……その後の時間を、四人で、ここで、過ごしてみたかったんです」

 雅也は、しばらく、黙っていた。

 それから、少しだけ笑って、手に持っていた紙袋を、カウンターの上に置いた。

「……ちょうどいい。パン、買ってきた。駅前の。……レッドとクインが、好きなやつ」

 カフェは、紙袋を見た。

 それから、雅也の顔を見た。

「……シチューに、ちょうど合いそうですね」

「偶然だよ。……雨の日はパンが食べたくなるから、ちょうどよかった」

 レッドが、カウンターの端から、ぴょんと椅子を降りた。

「……パン? くるみの?」

「くるみの」

「……やった」

 クインが、雨合羽を脱ぎながら、「クインも、くるみ!」と叫んだ。

 カフェは、鍋の火を点けた。

 シチューの、優しい匂いが、コーヒーの香りと混ざって、店の中に、ゆっくりと広がっていった。

 

 カウンターに、四人並んで座った。

 入口から、雅也、クイン、レッド、カフェの順だった。クインは、背の高いカウンターの椅子の上で、膝立ちになって、ようやく、カウンターの上に顎が届いた。雅也が、クインの背中に、片手を添えていた。

 白い深皿に、シチューをよそった。くるみのパンを、雅也が、小さく切り分けた。

「いただきます」

「いただきまーす!」

「……いただきます」

 四人の声が、雨の音に、重なった。

 クインは、スプーンを、ぎゅっと握って、シチューの人参を、一つずつ、すくっては食べていた。レッドは、パンを、シチューに少しだけ浸して、ゆっくりと食べていた。雅也は、クインの口の周りを、ときどき、紙ナプキンで拭いていた。

 レッドが畳んだ、角のぴったり合った、三角の紙ナプキンだった。

「……ママ」

 クインが、スプーンをくわえたまま、言った。

「はい」

「あのせき、だれの?」

 クインは、スプーンで、カウンターの一番奥を指した。

 西の窓の前の、予約席だった。

 カフェは、スプーンを、皿の上に置いた。

 生まれたときから、何度も目にしてきたはずの札のことを、クインは、初めて訊いた。今まで、気にならなかったのかもしれない。今日、初めて、カウンターに、四人で並んで座ったから、気になったのかもしれない。

「……ママの、お友だちの、席です」

「おともだち?」

「はい」

「おともだち、ごはん、たべる?」

 カフェは、少しだけ、考えた。

 予約席の椅子の方を、見た。

 お友だちは、そこに座っていた。窓の外の、もう暗くなった雨の夜を、見ているようだった。

「……どうでしょう」

 カフェは、正直に言った。

「分かりません。……訊いたことが、ないので」

「きいて、みて」

「……訊いても、答えてくれないと思います」

「なんで?」

「……そういう、お友だちなんです」

 クインは、首を傾げた。それから、すぐに、興味を、パンの方へ移した。

「パパ、くるみ、もういっこ!」

「はいはい」

 レッドは、スプーンを持ったまま、予約席の方を、じっと見ていた。

 それから、カフェの方を向いた。

「……ママ」

「はい」

「……ママの、ずっと、まえを、はしってたひと?」

 カフェは、息を止めた。

 十月の、あの夕方。カウンターの端で、二番の気持ちの話をした。ずっと前に、誰かがいた、と。友だちが、と。

 レッドは、それを、覚えていた。

「……そうです」

 カフェは、答えた。

「いつも、私の前を、走っていた人です。……今は、もう、前を走っていません」

「……じゃあ、どこにいるの?」

「……隣に、いる日もあります。後ろに、いる日もあります。どこにもいないように、感じる日もあります。……この店では、あの席に、座っていることが、多いです」

 レッドは、予約席の椅子を、もう一度、見た。

 それから、少しだけ、首を傾げた。

「……レッドには、みえない」

「はい。……私にしか、見えません」

「……ふうん」

 レッドは、それだけ言って、またシチューの皿に向き直った。

 怖がらなかった。疑いもしなかった。それ以上、訊きもしなかった。ただ、ふうん、と言って、パンを、シチューに浸した。

 カフェは、その横顔を見ていた。

 ――分からなくて、いい。

 昔、自分が、誰かに、何度も言ってきた言葉だった。分からなくていいです、と。説明しても、分かってもらえないから。分かってもらおうとすることに、疲れていたから。

 今は、違う意味で、そう思った。

 分からなくて、いい。レッドは、分からないまま、ふうん、と言って、シチューを食べている。それで、いい。

 隣で、雅也が、クインの口の周りを拭きながら、ふと、予約席の方を見た。

「……今日は、誰か、いるのか」

「……います」

「そうか」

 雅也は、それだけ言って、また、クインの口を拭いた。

 雅也には、見えない。昔から、ずっと。けれど、ときどき、なんとなく、そこに誰かいる、と、耳だけで拾う。拾わない日も、外れる日も、ある。

 今日は、拾わなかった。

 拾わないまま、そうか、と言った。

 それが、この人だった。

 

 四 洗い場の二人

 

 夕食を食べ終える頃には、クインは、雅也の膝の上で、眠っていた。

 スプーンを握ったまま。口の周りに、シチューの白い跡をつけたまま。くせっ毛の渦が、雅也のセーターの胸に、押しつけられていた。小さな寝息が、雨の音に混じって、規則正しく聞こえていた。

 レッドは、カウンターの端の、いつもの席に移って、絵本を開いていた。開いていたけれど、瞼が、少しずつ、重くなっていた。頬杖をついた手から、顔が、ずり落ちかけていた。

 カフェは、カウンターの内側で、四人分の皿を洗っていた。

 雅也が、クインを抱いたまま、カウンターの内側に回ってきた。片腕でクインを抱えて、もう片方の手で、布巾を取った。

「……拭く」

「片手で、ですか」

「片手で」

「……落とさないでください」

「落とさない。……カップを、二つ割ったことはあるけど」

 カフェは、皿を洗う手を止めて、雅也の顔を見た。

「……いつ、ですか」

「カフェが、時計台で働きはじめた頃。……俺の部屋で、カフェの真似して、淹れようとして。手が滑った。二回」

「……知りませんでした」

「言わなかったからな」

「……どうして、言わなかったんですか」

「恥ずかしかったから」

 カフェは、思わず、小さく笑った。

 雅也は、片手で、皿を一枚ずつ、拭いていった。ぎこちなかった。けれど、落とさなかった。

 しばらく、二人とも、黙っていた。

 水の音。皿が触れ合う、小さな音。雨の音。クインの寝息。

「……カフェ」

「はい」

「今日、コトノハに、黄昏、見せたんだな」

「……はい」

「一人で、見なくて、よかったのか」

 カフェは、皿を洗う手を、止めなかった。

「……昔は、一人でないと、だめでした」

「うん」

「黄昏の時間に、誰かがいると、見えるものが、見えなくなる気がしていました。聞こえるものが、聞こえなくなる気がして。……だから、一人で」

「……」

「今も、一人でいたい日は、あります。……でも、そうでない日も、増えました」

 カフェは、最後の皿を、すすいだ。

「レッドが、隣で、黙って、空を見ている日。……雅也さんが、黙って、隣に立っている日。お母さんが、娘たちを連れて、散歩に行ってくれる日。……今日みたいに、コトノハさんが、きれい、と言ってくれる日」

「……」

「見えるものは、見えなくなりませんでした。……お友だちは、今日も、あの席に、座っていました」

 カフェは、蛇口を閉めた。

 水の音が、止んだ。

「……黄昏は、一人で見るものだと、ずっと、思っていました。でも、たぶん、違ったんです。……黙って、同じ空を見てくれる人がいれば、一人でなくても、よかったんです」

 雅也は、布巾を持ったまま、カフェの横顔を見ていた。

 何も、言わなかった。

 それから、片手で、最後の皿を拭き終えて、棚に戻した。

「……カフェ」

「はい」

「この店、いい店だな」

 カフェは、手を拭いていたタオルを、止めた。

「……今さら、ですか」

「今さらだ。……八年、毎日、思ってる。言ったことは、あんまりない」

「……どうして、言わなかったんですか」

「カフェの店だから。……俺が、いい店だって言うのは、なんか、違う気がしてた」

「……」

「でも、今日、思った。……レッドが、傘の雫を、外で二回振ってから、傘立てに入れてた。誰にも、教わってないのに」

 カフェは、目を瞬いた。

「……雅也さんも、見ていたんですか」

「俺も、そうしてたから。……昔から。気づいたら、そうしてた。たぶん、レッドは、俺のを見てた」

「……」

「この店に来る人は、たぶん、みんな、そうなんだと思う。……誰にも教わってないのに、ここに来ると、声が小さくなる。傘の雫を、外で落とす。カップを、ゆっくり持つ。……カフェが、そういう店を作ったから」

 雅也は、布巾を、カウンターの端に、きちんと畳んで置いた。

「俺は、それを、いい店だと思う。……走ったのも、作ったのも、カフェだ。俺は、そこまで、一緒にいただけだ」

 カフェは、何も言えなかった。

 タオルを、両手で握ったまま、雅也の顔を見ていた。

 十二年前、レースの後で、この人が、いつも言っていた言葉だった。勝ったのは、カフェだ。俺は、そこまで、一緒にいた。

 同じ言葉だった。

 けれど、レースの後に聞いていたときより、ずっと、近くで聞こえた。

「……雅也さん」

「ん」

「一緒にいるのは、とても、大事なことです」

「……」

「レッドに、そう言いました。……パパは、そこまで、一緒にいた。それは、とても大事なことだ、と」

 雅也は、少しだけ、照れたように、首の後ろを掻こうとして、クインを抱えていることを思い出して、やめた。

 代わりに、カフェの頭に、空いている方の手を、そっと置いた。

 冷たい手だった。

 けれど、皿を拭いていたせいか、いつもより、少しだけ、温かかった。

 

 五 宵を待つ店

 

 雨は、八時過ぎに、止んだ。

 四人で、店を出た。

 雅也が、眠ったクインを、背中におぶっていた。カフェが、半分眠りかけたレッドの手を、引いていた。レッドは、片手で、黄色い傘を、たたんだまま、引きずるように持っていた。

 カフェは、扉の鍵を、かけた。

 扉の上の、真鍮の鈴が、ちりん、と小さく鳴った。

 四十年以上、どこかの扉の上で、誰かの来訪を告げてきた鈴だった。時計台で、三十年。それから、柏木の手で、しまわれて。今は、この扉の上で、八年。

 柏木は、三年前に、時計台を閉めた。八十を過ぎて、足が、もう、あの急な階段を上れなくなったからだった。閉めた日、カフェは、時計台の最後の一杯を、カウンターの端の席で、飲んだ。柏木は、湯を落としながら、一言も、喋らなかった。最後に、カップを置いて、「あんたの店の方が、うまい」とだけ言った。

 それから、年に一度だけ、宵待ちに来る。杖をついて。秋の、開店の日の頃に。カウンターの、入口から三番目の席に座って、一杯だけ飲んで、何も言わずに帰っていく。

 カフェは、扉の前で、一度だけ、振り返った。

 すりガラス越しに、暗い店の中が、ぼんやりと見えた。カウンターの一番奥の、西の窓。雨上がりの夜空に、雲の切れ間から、星が一つ、小さく光っていた。

 その窓の前の、予約席の椅子。

 誰も、座っていないように見えた。

 けれど、カフェには、分かっていた。

「……ママ」

 レッドが、眠そうな声で、言った。

「はい」

「……おともだち、おるすばん?」

 カフェは、少しだけ、考えた。

「……どうでしょう。ついてくる日も、あります」

「……きょうは?」

 カフェは、店の中を、もう一度だけ、見た。

 それから、レッドの手を、握り直した。

「……今日は、お留守番を、してくれるそうです」

「……そっか」

 レッドは、それだけ言って、また、眠そうに目をこすった。

 本当かどうかは、分からなかった。お友だちは、何も言わない。どこへ行くのか、何をするのか、教えてくれたことは、一度もない。

 けれど、今夜は、そう言っても、いい気がした。

 四人で、雨上がりの夜の通りを、歩きはじめた。

 濡れた石畳が、街灯の光を、白く映していた。通りの向かいの桜の裸の枝から、雫が、ときどき、ぽたりと落ちた。冷たい冬の空気の中に、雨上がりの、土と、濡れた木の匂いがした。

 雅也の背中で、クインが、寝言で、何か言った。「……ねこ……」と聞こえた。

 レッドが、カフェの手を、ぎゅっと握った。

「……ママ」

「はい」

「あしたも、ごじ、おきていい?」

「……コーヒーの、一滴の日ですか」

「うん」

「……明日は、パパも、一緒でも、いいですか」

 レッドは、少しだけ、考えた。

 それから、こくりと頷いた。

「……いいよ。パパも、いっしょで」

「クインは」

「……クインは、ねてるから」

「そうですね」

 前を歩く雅也の肩が、小さく揺れていた。笑っているのだと分かった。

 カフェは、レッドの手を引きながら、夜の空を見上げた。

 雲が、少しずつ、流れていっていた。その隙間から、星が、一つ、また一つと、見えはじめていた。

 ――宵待ち。

 夜が来るのを、待つ店。誰かを、待つ店。黄昏の手前で、扉を閉める店。

 けれど、本当に待っていたのは、たぶん、その先だった。

 扉を閉めた後の、この時間。黄昏が過ぎて、夜が来て、雨が上がって、四人で、濡れた石畳の上を、家へ帰っていく、この時間。

 それを、毎日、待っていた。

 明日の朝も、五時に、豆を挽く。ごり、ごり、と低い音を立てて。湯を沸かして、少しだけ待って、細く落とす。雅也の分は、少し濃いめに。自分の分は、少し薄めに。レッドの分は、一滴だけ。

 それから、店へ行く。札を、裏返す。

 鈴が鳴って、誰かが入ってくる。沢井さんかもしれない。三枝さんかもしれない。コトノハか、シズクか、タキオンか、ユキノか、帽子をかぶった誰かかもしれない。初めての、誰かかもしれない。

 その人たちに、宵を待つまでの時間を、一杯ずつ、出す。

 そして、黄昏が来る前に、扉を閉めて。

 また、この時間を、待つ。

「……カフェ」

 前を歩く雅也が、振り返らずに、言った。

「はい」

「明日の朝のコーヒー、少し苦めで頼む」

「……店の分は、別ですから」

「……だから、家の分を頼んでるんだよ」

 カフェは、少しだけ、笑った。

 声に出して。

 雨上がりの夜の通りに、その小さな笑い声が、静かに溶けていった

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