第一部 宵待ちの朝
一 五時の台所
十月の朝の五時、台所の小さな明かりの下で、マンハッタンカフェは豆を挽いていた。
手回しのミルの把手を、ゆっくりと回す。乾いた豆が、刃の間で砕けていく。ごり、ごり、と低い音が、まだ眠っている家の中に、控えめに響いた。挽きはじめの香りは、いつも少しだけ青い。それが、回すほどに深くなって、焦がした砂糖のような甘さと、雨上がりの土のような重さを帯びてくる。
窓の外は、まだ暗かった。
夜と朝の境目の、色のない暗さだった。台所の窓ガラスに、自分の姿がうっすらと映っていた。黒い長い髪を、首の後ろで一つに束ねて、紺色の厚手のカーディガンを羽織っている。前髪が、目元に少しかかっている。三十一の秋になっても、鏡に映る自分は、学園にいた頃とあまり変わらないように見えた。変わったのは、たぶん、手のほうだった。豆を挽く手。湯を落とす手。小さな頬を拭く手。
背後で、廊下の床が、かすかに軋んだ。
「……おはよう」
低い、まだ眠そうな声だった。
「おはようございます」
カフェは、ミルを回す手を止めずに言った。振り返らなくても、誰か分かった。足音の重さで。廊下の、いつも軋む板を、いつもと同じように踏んだので。
早瀬雅也が、台所の入口に立っていた。トレーニングウェアの上に、薄いジャケットを羽織っていた。髪の後ろが、少しだけ寝癖で跳ねていた。四十を過ぎて、目元に細い皺が増えた。けれど、寝起きの顔は、あまり変わらない。
「今日も、五時半ですか」
「うん。セレネの朝の坂路、見ておきたい。……カザハナは、昨日の疲れが残ってたら、軽めにする」
「はい」
カフェは、挽き終えた粉を、ネルの袋に移した。
ケトルの湯は、もう沸いていた。火から下ろして、少しだけ待つ。湯の温度が落ち着くのを。待つ時間を、急がない。それは、ずっと昔、学園の小さな部屋で、自分のためにだけコーヒーを淹れていた頃からの習慣だった。
湯を、細く落とした。
粉が、ふっくらと膨らんだ。小さな泡が、表面に浮かんでは、消えていった。湯気が、台所の明かりの中を、ゆらりと昇った。
雅也は、何も言わずに、台所のテーブルの椅子に座っていた。
カフェが湯を落とすあいだ、雅也は、話しかけない。結婚して、七年と少し。付き合いはじめてから数えれば、十二年。担当だった頃から数えれば、もっと長い。その長い時間のどこかで、自然にそうなった。湯を落とすあいだは、黙って待つ。待つことを、この人は、苦にしない。
カップに注いだ。
雅也の分は、少し濃いめに。自分の分は、いつもより少しだけ薄めに。
「どうぞ」
「ありがとう」
雅也は、両手でカップを包んだ。指先が、いつものように冷たそうだった。一口飲んで、目を閉じた。
「……今日のは、少し苦味が強い」
「はい。昨日、焙煎の時間を、少しだけ延ばしました。朝の分は、これくらいの方が、目が覚めるかと思って」
「覚める。……でも、店で出すなら、もう少し手前で止めた方がいいかもしれない。昼に飲む人には、強いかも」
「……そう思います。店の分は、別に煎りました」
「さすが」
雅也は、少しだけ笑った。
カフェは、自分のカップを両手で持って、ゆっくりと一口飲んだ。熱い液体が、喉を通って、胸の奥へ落ちていった。一気に飲むと、お腹が痛くなる。だから、ゆっくり。子どもの頃からずっと、そうしてきた。
窓の外が、ほんの少しだけ、白みはじめていた。
「……今日、迎えは」
雅也が、カップを置いて言った。
「レッドは、学童に寄らずに、まっすぐ店に来ます。クインは、延長保育の日です。……雅也さんは」
「今日は、夕方の練習が六時に終わる。クインは、俺が迎えに行ける」
「お願いします」
「レッドは、店で宿題か」
「はい。カウンターの端で。……コトノハさんが、見てくれると言っていました」
「コトノハは、今週テストだろ」
「……そうでした」
カフェは、カップを持ったまま、少しだけ眉を寄せた。
コトノハリズムは、店で働いてくれている学園の生徒の一人だった。高等部の二年生。今週は、中間試験だった。シフトは、試験が終わるまで減らしてある。それなのに、昨日の帰りに、「レッドちゃんの宿題、見ときますね!」と言ってくれた。カフェは、その言葉を、少し嬉しく受け取って、そのまま試験のことを忘れていた。
「……コトノハさんには、今週は休んでもらいます。レッドの宿題は、私が見ます」
「店、回るか」
「平日の午後は、そんなに混みません」
「……そうか」
雅也は、それ以上は言わなかった。店のことは、カフェが決める。それも、店を開いてからの八年の間に、二人の間で自然に決まったことだった。
廊下の奥で、小さな足音がした。
ぺた、ぺた、と、裸足で床を踏む、軽い音だった。
二 小さな足音
「……ママぁ」
台所の入口に、小さな影が立っていた。
レッドディザイアだった。六つになったばかりの、上の娘。黒い髪を、肩のあたりで切りそろえている。寝癖で、片方だけが外に跳ねていた。パジャマの上着の裾を、片手でぎゅっと握っていた。耳が、半分寝ているように、少し伏せていた。
「レッド。まだ、五時半ですよ」
「……おしっこ、いきたくて、おきたの」
「行ってきましたか」
「いってきた」
「えらいです」
レッドは、台所の明かりを、眩しそうに目を細めて見ていた。それから、テーブルの雅也を見つけて、ぱっと目を開いた。
「パパ、もう、いくの?」
「うん。もうすぐ」
「……はやい」
「早いな。ごめんな」
レッドは、裸足のまま、ぺたぺたとテーブルに歩いていった。雅也の膝に、よじ登ろうとした。雅也は、カップをテーブルの奥に避けて、レッドを膝の上に抱き上げた。
「冷たい足だな」
「つめたくない」
「冷たい。……靴下、履いてこなかったのか」
「おしっこだったから」
「そうか。おしっこなら、仕方ない」
レッドは、雅也の胸に頭をもたせかけて、目を閉じた。半分、眠っていた。耳が、雅也の顎の下で、くすぐったそうに、ぴくりと動いた。
「……パパ、コーヒーのにおいがする」
「ママのコーヒー、飲んだからな」
「……ママのコーヒー、いいにおい」
「いいにおいだな」
「レッドも、のみたい」
「大人になったらな」
「……おとなって、いつ」
「レッドが、もう少し、大きくなったら」
「……もうすこしって、どのくらい」
雅也は、少し困ったような顔で、カフェの方を見た。
カフェは、小さなミルクパンを火にかけた。牛乳を、少しだけ温めた。それから、小さなマグカップに注いで、ほんの一滴だけ、コーヒーを垂らした。白い牛乳の表面に、薄い茶色の輪が、ふわりと広がった。
「……どうぞ。レッドの分です」
レッドが、目を開けた。マグカップを見て、それから、カフェの顔を見た。
「……コーヒー?」
「コーヒー、一滴だけ。あとは、牛乳です」
「……コーヒー、はいってるの?」
「入っています。一滴だけ」
レッドは、両手でマグカップを受け取った。熱くないか、確かめるように、少しだけ唇をつけた。それから、こくりと飲んだ。
「……コーヒーのあじ、する」
「本当ですか」
「する。……ちょっとだけ」
「よかったです」
レッドは、満足そうに、マグカップを両手で包んで、雅也の膝の上で、ゆっくりと飲んだ。ゆっくり。カフェがそうするのを、いつも見ているからだと、カフェは知っていた。
雅也が、レッドの頭の上から、カフェを見た。
少しだけ、笑っていた。何も言わなかった。けれど、その目が、ありがとう、と言っていた。
――一滴だけ、ですけど。
カフェは、心の中で、そう答えた。
時計の針が、五時四十分を指していた。雅也は、レッドを膝から降ろして、椅子に座らせた。それから、ジャケットの前を閉めて、立ち上がった。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
「……レッド。ママと、クインをよろしくな」
「うん。……パパ、いってらっしゃい」
「いってきます」
雅也は、レッドの頭に手を置いた。それから、カフェの方へ一歩近づいて、カフェの肩に、そっと手を置いた。冷たい手だった。いつも冷たい。
「……今日のコーヒー、うまかった。苦味が強いのも、目が覚めてよかった」
「店の分は、別ですから」
「分かってる。……夕方、迎えに行くとき、店に寄る」
「はい」
雅也が、玄関へ向かった。靴を履く音。扉が開く音。外の冷たい空気が、ほんの一瞬だけ、廊下を流れてきた。扉が閉まる音。
家の中が、また、静かになった。
レッドが、マグカップを両手で持ったまま、窓の外を見ていた。
「……ママ」
「はい」
「そら、まだ、くらいね」
「まだ、暗いですね」
「……くらいの、すき」
「……私も、好きです」
レッドは、マグカップの縁に唇をつけたまま、くふっと笑った。
カフェは、自分のカップを両手で持って、レッドの隣の椅子に座った。二人で、まだ暗い窓の外を、しばらく黙って見ていた。台所の明かりが、二人の影を、テーブルの上に、並べて落としていた。
――あと三十分だけ。
カフェは、そう思った。あと三十分経ったら、クイーンズリングを起こして、二人の着替えを手伝って、朝ごはんを食べさせて、レッドを小学校へ、クインを保育園へ送っていく。それから、店へ行く。豆を量って、湯を沸かして、床を拭いて、十一時に扉の札を返す。
けれど、今は、まだ。
まだ暗い窓の外を、娘と二人で、黙って見ていられる。
三 朝の嵐
六時半、クイーンズリングを起こしにいくと、クインは、布団の中で丸くなって、尻尾だけを外に出していた。
「クイン。朝です」
「……やだ」
「やだ、ではありません」
「……クイン、まだ、ねてるの」
「寝ている人は、やだ、と言いません」
布団の中で、もぞもぞと何かが動いた。それから、ぴょこんと、顔が出た。
下の娘は、姉とは違って、髪の色が少しだけ明るかった。夜明けの空のような、青みがかった黒。くせっ毛で、寝起きは、いつも、頭の上で小さな渦を巻いている。目が、ぱちりと大きかった。四つになって、言葉が急に増えた。増えた言葉の半分くらいが、少しずつ、どこかで取り違えられていた。
「ママ」
「はい」
「きょう、なんようび?」
「木曜日です」
「もくようび……。じゃあ、ほいくえん、カレーのひ?」
「カレーの日は、金曜日です」
「……えー」
クインは、また布団の中に潜りこんだ。
「カレーのひじゃないなら、いかない」
「行きます」
「いかない」
「今日は、粘土の日だと、先生が言っていました」
布団が、ぴたりと止まった。
「……ねんど?」
「はい。粘土です」
「……クイン、ねんど、すき」
「そうでしたね」
布団から、また顔が出た。今度は、さっきより、ずっと目が覚めた顔をしていた。
「ねんどで、なにつくるの?」
「それは、クインが決めることです」
「……じゃあ、ママつくる」
「私を、ですか」
「うん。ママと、パパと、おねえちゃんと、クイン。……あと、ねこ」
「猫は、うちにはいません」
「いないけど、つくるの」
クインは、布団から跳ね起きた。寝癖の渦が、ぴょんと揺れた。
朝の台所は、そこから、急に騒がしくなった。
レッドは、自分で着替えると言って、シャツのボタンを一つずつ留めていた。一番上のボタンが、二番目の穴に入っていた。カフェが黙って直すと、レッドは少しだけ唇を尖らせた。「じぶんで、できたのに」。カフェは「できていました。一つだけ、ずれていました」と言った。レッドは、何も言い返さずに、もう一度、自分で全部外して、最初から留め直した。今度は、ずれなかった。
クインは、靴下を片方だけ履いて、もう片方をどこかに置き忘れていた。台所のテーブルの下から、食卓の椅子の上から、廊下の隅から、三人で探した。結局、クイン自身のパジャマのポケットの中から出てきた。「……なんで、ここにあるの?」とクインが不思議そうに言った。レッドが「クインが、いれたんだよ」と言った。クインは「いれてないもん」と言った。
朝ごはんは、トーストと、ゆで卵と、小さく切った林檎だった。
クインは、林檎を一つずつ、指でつまんで、窓の光に透かしてから食べた。レッドは、ゆで卵の殻を、一枚の大きな欠片になるように、慎重に剥いていた。剥き終えると、殻をカフェに見せた。
「ママ、みて。いっこで、むけた」
「……本当です。一枚で、剥けましたね」
「うん。……ママ、ほめて」
「上手です。殻と白身の間に、指をちゃんと入れていました。慌てずに、少しずつ回していました。だから、一枚で剥けました」
レッドは、胸を張った。張ったまま、少しだけ、照れたように笑った。
――具体的に、褒める。
カフェは、自分がそう言ったことに、言ってから気づいた。あの人の言い方だった。担当だった頃、レースの後に、あの人がいつもそうしてくれた。三コーナーで、どこを見ていたか。最後の直線で、手の振りがどう変わったか。勝ったことより先に、勝つまでの何かを、言葉にしてくれた。
十二年経って、自分の口から、同じ形の言葉が出てくる。
それが、少しだけおかしくて、少しだけ嬉しかった。
四 小さな店
七時四十分にレッドを小学校の門まで送り、八時十分にクインを保育園に預けて、カフェは、店へ向かった。
店は、学園から歩いて二十分ほどの、古い住宅街の外れにあった。大通りから一本入った、静かな通りの角。両隣は、小さな古書店と、二階建ての古い民家だった。通りの向かいには、桜の古木が一本、枝を広げていた。春には花びらが、秋には色づいた葉が、店の前の石畳に落ちる。
二階建ての、細長い木造の建物だった。一階が店で、二階は倉庫と、小さな事務机を置いた部屋になっている。築年数は、カフェよりずっと年上だった。外壁の板は、何度も塗り直された跡があって、深い焦げ茶色に落ち着いていた。
入口の扉の横に、小さな木の看板が、一枚だけ掛けてあった。
――喫茶・宵待ち。
白い字で、それだけ。ほかには何も書いていない。営業時間も、メニューも、店の外には出していない。扉の内側に、小さな紙で貼ってあるだけだった。
カフェは、鍵を開けて、扉を押した。
扉の上の鈴が、ちりん、と小さく鳴った。
店の中は、まだ薄暗かった。
朝の店は、昨日の夜の匂いを、少しだけ残している。焙煎した豆の甘い焦げの匂い。床を拭いたあとの、木と石鹸の匂い。古い本の紙の匂い。それらが、冷えた空気の中で、静かに混ざり合っていた。
カフェは、明かりを点けた。
入口から奥へ、細長く伸びた店だった。右手に、七席のカウンター。左手の壁際に、二人掛けの小さなテーブルが、二つ。それで全部だった。九席。開店したときから、増やしていない。増やすつもりもなかった。
カウンターの一番奥、店の突き当たりに、大きな窓があった。
西向きの窓だった。
朝のうちは、窓の外は、建物の影になって、少し暗い。けれど、午後になると、光が少しずつ角度を変えて、窓から差し込むようになる。夕方には、窓の向こうの空が、橙から紫へ、それから深い青へと色を変えていくのが、店の奥からよく見える。
その窓の前の、カウンターの一番端の席には、小さな木の札が置いてあった。
――予約席。
開店してから八年、その札は、一度も外されたことがなかった。
常連の客は、誰も、その席に座らない。訊く人も、ほとんどいない。最初の頃に、一度だけ訊かれたことがある。「あの席は、誰の予約なんですか」と。カフェは、少し考えてから、「いつも来る、友人の席です」と答えた。訊いた客は、それ以上は訊かなかった。
カフェは、エプロンを締めた。
焦げ茶色の、厚手の綿のエプロンだった。腰の紐を、背中で二度回して、前で結んだ。
それから、いつもの順番で、朝の仕事を始めた。
窓を開けて、空気を入れ替える。床を、乾いた布で一度、固く絞った布でもう一度、拭く。カウンターを拭く。九つの椅子の脚を、一つずつ確かめる。ぐらついているものがないか。棚のカップを、一つずつ手に取って、欠けがないか、曇りがないかを見る。冷蔵庫の温度を確かめて、記録帳に書く。牛乳の日付を確かめる。焼き菓子の仕込み。今日の豆の量。
開店した頃は、この順番を、毎朝、紙に書いて確かめていた。何か一つ忘れるのが、怖かった。今は、紙を見なくても、身体が順番を覚えている。それでも、記録帳だけは、毎朝つける。温度と、日付と、豆の量と、気づいたこと。
――気づいたこと:西の窓の、左下の木枠が、少し乾いている。冬の前に、油を塗る。
ペンを置いて、カフェは、窓の方を見た。
予約席の椅子の上に、朝の薄い光が、少しだけ落ちていた。
誰もいなかった。
誰もいないように見えた。けれど、カフェには、その椅子が、空いていないことが分かっていた。
お友だちは、今日も、そこにいた。
昔は、いつも、カフェの前を走っていた。レースのときも、普段の道でも。カフェは、その背中を追いかけて走った。追いつきたかった。追いつけなかった。最後のレースのゴールで、初めて、並んだと感じた。追い越したかどうかは、今も分からない。
今、お友だちは、前を走っていない。
隣にいる日もある。後ろにいる日もある。どこにもいないように感じる日もある。この店を開いてからは、あの窓際の席に座っていることが、一番多かった。
何をしているのかは、分からない。何を考えているのかも。
ただ、そこにいる。
カフェは、それ以上、その席を見なかった。ケトルに水を入れて、火にかけた。
十一時、カフェは、扉の内側の札を、裏返した。
――営業中。
五 午後の客
昼過ぎの「宵待ち」は、静かだった。
カウンターの真ん中の席に、沢井さんが座っていた。七十を少し越えた、背筋のまっすぐな女性だった。昔は、近くの中学校で国語を教えていたという。開店して三週目に初めて来て、それ以来、週に三度、同じ時間に、同じ席に座る。注文は、いつも同じだった。中煎りのブレンドを一杯と、焼き菓子を一つ。それから、一時間半、鞄から出した文庫本を、ゆっくりと読む。
入口に近い二人掛けのテーブルには、作業着姿の若い男性が一人、ノート型の端末を広げていた。近くの工務店の人だった。昼の休憩の時間に、ときどき来る。注文は、深煎りを一杯。それを飲み終えるまで、図面のようなものを、指で拡大したり縮めたりしていた。
カフェは、カウンターの内側で、次の湯を沸かしていた。
湯が沸く音。ミルの音。湯を落とす音。カップを受け皿に置く、小さな音。沢井さんが文庫本のページをめくる音。作業着の男性の、端末を叩く音。古い柱時計の、振り子の音。
店の中にある音は、それだけだった。
カフェは、その音の重なりが、好きだった。
「……マスター」
沢井さんが、文庫本から顔を上げずに言った。
「はい」
「今日のブレンド、少し、変えたでしょう」
カフェは、ケトルを持つ手を止めた。
「……分かりますか」
「分かりますよ。後味が、ほんの少しだけ、長い」
「秋の豆を、一種類、入れ替えました。……前のものより、冷めたときに甘さが残るので」
「冷めたときに、ね」
沢井さんは、カップを持ち上げて、もう一口飲んだ。本を読みながら飲むので、沢井さんのコーヒーは、いつも、最後の方は冷めている。
「……いいわね。私みたいに、ゆっくり飲む人間には、ありがたい」
「ありがとうございます」
カフェは、少しだけ頭を下げた。
沢井さんは、それ以上は何も言わなかった。また、文庫本のページをめくった。
カフェは、カウンターの内側で、小さく息を吐いた。
ゆっくり飲む人に、合う味。
それを、豆を入れ替えるときに、考えていた。誰かに言ったわけではない。沢井さんのために変えたのでもない。けれど、店に来る人の半分くらいは、ゆっくり飲む人たちだった。本を読む人。考えごとをする人。窓の外を見ている人。そういう人たちのカップの底に、最後の一口まで、何かが残っていてほしかった。
――気づいてくれる人がいる。
それだけで、豆を入れ替えた意味があった、と思った。
三時を少し過ぎた頃、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
「ただいまぁ」
レッドだった。
背中に、赤いランドセルを背負っていた。新しいランドセルは、まだ少し大きすぎて、歩くたびに、背中で小さく跳ねていた。扉の外で、同じ方向に帰る小学生たちが、「レッドちゃん、ばいばーい」と手を振っていた。レッドは、振り返って、小さく手を振った。
「おかえりなさい」
カフェは、カウンターの内側から言った。
レッドは、扉の内側で、一度立ち止まった。店の中を、ぐるりと見回した。お客さんが、何人いるか。誰が、どこに座っているか。それから、声を、少しだけ小さくした。
「……ただいま、ママ」
「おかえりなさい」
カフェは、もう一度言った。今度は、少しだけ、声を柔らかくした。
店の中に入ると、レッドは、声を小さくする。誰に教えられたわけでもなかった。最初は、大きな声で「ママー!」と言って、店に飛び込んできた。お客さんが、振り返った。沢井さんが、文庫本から顔を上げて、にっこり笑った。レッドは、その笑顔を見て、それから、他のお客さんの顔を見て、急に黙った。その日から、レッドは、店の中では、声を小さくするようになった。
六つの子が、自分で考えて、そうした。
カフェは、それを、少しだけ誇らしく思い、少しだけ、寂しく思った。
「あら、レッドちゃん。おかえりなさい」
沢井さんが、文庫本を閉じて言った。
「……さわいせんせい、こんにちは」
「こんにちは。学校、楽しかった?」
「……うん。きょう、かけっこした」
「かけっこ。速かった?」
レッドは、少し考えるように、首を傾げた。
「……にばん」
「二番。すごいわね」
「……いちばんじゃなかった」
「二番も、すごいのよ」
沢井さんは、そう言って、レッドの頭を、優しく撫でた。レッドは、少しだけ、照れたように俯いた。
カフェは、カウンターの内側で、それを聞いていた。
――二番。
かけっこの、二番。六つの子の、学校の、かけっこの二番。
何かを言おうとして、言葉が見つからなかった。代わりに、カウンターの端の、レッドの指定席に、小さなマグカップを置いた。温めた牛乳に、ほんの少しの蜂蜜。
「……手を洗ってきてください。宿題は、それからです」
「はーい」
レッドは、ランドセルを背負ったまま、店の奥の、小さな洗面台へ歩いていった。
沢井さんが、カフェの方を見て、小さく笑った。
「……マスター。何か、言いたそうな顔ね」
「……いえ」
「二番、ですって」
「……はい」
「あなたは、二番になったこと、ないのよね」
カフェは、カップを拭く手を止めた。
沢井さんは、知っていた。この店に来る人の中には、カフェの昔を知っている人もいる。知っていて、ほとんど誰も、それを口にしない。沢井さんも、八年間で、この話をしたのは、たぶん、二度目だった。
「……ありません」
「だから、何て言えばいいか、分からないのね」
カフェは、何も答えなかった。
答えないことが、答えだった。
沢井さんは、文庫本を開き直しながら、言った。
「……あの子が、二番で悔しいのか、嬉しいのか。それを訊いてあげるだけで、いいんじゃないかしら。何て言えばいいかは、それから」
「……」
「教師をやってた頃の、受け売りよ」
沢井さんは、そう言って、また本の世界へ戻っていった。
カフェは、拭きかけのカップを、そっと棚に戻した。
六 試験の週
四時半、扉の鈴が、勢いよく鳴った。
「こんにちはー! マスター、遅くなりましたっ!」
コトノハリズムだった。
学園の制服の上に、紺色のカーディガンを羽織っていた。肩までの栗色の髪を、高い位置で一つに結んでいた。息が、少し上がっていた。走ってきたのだと、すぐに分かった。手に、教科書の入った重そうな鞄を提げていた。
カフェは、カウンターの内側から、コトノハを見た。
「……コトノハさん」
「はい! レッドちゃんの宿題、見に来ました!」
「今週は、試験ですよね」
コトノハの笑顔が、ほんの少しだけ、固まった。
「……あ、えっと、明日は数学と化学なんですけど、数学は得意なので、だいじょうぶで、化学は、えっと、帰ってから――」
「帰って、ください」
カフェは、静かに言った。
コトノハが、目を瞬いた。
「レッドの宿題は、私が見ます。……昨日は、ありがとうございました。そう言ってくれたこと、嬉しかったです。でも、私が、試験のことを忘れていました。ごめんなさい」
「え、そんな、マスターが謝ることじゃ――」
「今週は、試験のための週です。この店のシフトも、そのために減らしました。……コトノハさんが、ここで時間を使ったら、減らした意味がなくなります」
コトノハは、鞄を持ったまま、立ち尽くしていた。
カフェは、カウンターの内側から出て、コトノハの前に立った。コトノハの方が、少しだけ背が高かった。
「化学、苦手なんですよね」
「……はい。ちょっとだけ」
「なら、今日は、化学をしてください。……試験が終わったら、また、レッドの宿題を見てもらえますか」
コトノハは、しばらくカフェの顔を見ていた。
それから、少しだけ、肩の力を抜いた。
「……はい。終わったら、絶対」
「お願いします」
「……あの、マスター」
「はい」
「わたし、化学、ほんとに苦手で。……モル、っていうのが、全然、分かんなくて」
「……モル」
カフェは、少しだけ考えた。
それから、カウンターの内側に戻って、小さな紙袋を一つ取り出した。今朝焼いた、胡桃のクッキーが二枚、入っていた。
「これを、持っていってください」
「え」
「試験勉強の、休憩のときに。……モルは、私にも、分かりません。でも、甘いものを食べると、少しだけ、分からないものと付き合いやすくなります」
コトノハは、紙袋を受け取った。中を覗いて、目を丸くした。
「……マスターのクッキー」
「試験の後のシフトで、感想を聞かせてください」
「……はいっ!」
コトノハは、深く頭を下げた。それから、カウンターの端で宿題を広げているレッドに、手を振った。レッドが、鉛筆を持ったまま、小さく手を振り返した。
扉の鈴が鳴って、コトノハが出ていった。走って。来たときと同じように。
カフェは、その背中を、扉のガラス越しに見送った。
――走らなくても、いいのに。
そう思って、少しだけ笑った。走らずにはいられない子たちを、この店は、たくさん見てきた。
七 二番の気持ち
五時を過ぎると、窓から差し込む光が、少しずつ色を変えはじめた。
沢井さんが、文庫本を閉じて、帰っていった。「また明後日ね」と言って、扉の鈴を鳴らして。作業着の男性は、とうに帰っていた。店の中には、カフェと、レッドだけが残っていた。
レッドは、カウンターの端で、宿題の算数のプリントを広げていた。足し算と引き算の、小さな問題が並んでいた。鉛筆を握る手に、力が入りすぎていた。消しゴムで消した跡が、紙の上に、灰色の雲のように残っていた。
カフェは、カップを拭きながら、レッドの手元を見ていた。
訊こうか、と思った。
沢井さんの言葉が、耳の奥に残っていた。悔しいのか、嬉しいのか。それを訊いてあげるだけで、いい。
――訊かれたくない子も、いる。
自分がそうだった。子どもの頃、何かを訊かれるのが、苦手だった。見えているものを、説明しなければならなくなるから。説明しても、分かってもらえないから。だから、訊かれないように、壁際にいた。
レッドは、どうだろう。
カフェは、拭き終えたカップを棚に戻した。それから、カウンターの内側から出て、レッドの隣の席に、そっと腰を下ろした。
「……レッド」
「ん」
「かけっこ、二番だったんですね」
レッドの鉛筆が、止まった。
「……うん」
「悔しかったですか。それとも、嬉しかったですか」
レッドは、しばらく、プリントを見下ろしていた。
耳が、少しだけ、横を向いた。何かを考えているときの、この子の耳の向きだった。カフェは、それを知っていた。急かさなかった。
「……わかんない」
小さな声だった。
「わからない」
「うん。……いちばんのこ、すごく、はやかったの。ハルちゃん。ハルちゃん、いつも、いちばん」
「はい」
「レッド、ハルちゃんに、まけたの。……でも、さんばんのこには、かったの」
「はい」
「だから、わかんない。……くやしいのと、うれしいの、どっちも、ちょっとずつ、ある」
レッドは、鉛筆を、プリントの上にそっと置いた。
「……ママは?」
「……私、ですか」
「ママは、いつも、いちばんだったんでしょ。……パパが、いってた。ママは、ずっと、いちばんだったって」
カフェは、すぐには答えなかった。
窓の外の光が、少しだけ、橙色を帯びはじめていた。予約席の椅子の上に、その光が、斜めに落ちていた。
「……一番でした」
カフェは、正直に言った。
「でも、ずっと、前に、誰かがいました」
「……だれか?」
「はい。……私より、いつも、少しだけ前を走っている人です。私は、その人に、ずっと追いつけませんでした。一番だったけど、一番だと、思ったことは、あまりありません」
レッドは、目を丸くして、カフェを見ていた。
「……ママより、はやいひと、いたの?」
「いました」
「……だれ?」
「……友だちです」
カフェは、それ以上、言わなかった。
レッドは、しばらく、カフェの顔を見ていた。何かを訊きたそうに、口を開いた。それから、閉じた。代わりに、少しだけ、カフェの方に身体を寄せた。肩が、触れた。
「……じゃあ、ママも、くやしいのと、うれしいの、どっちもあった?」
「……ありました。たくさん」
「そっか」
レッドは、少しだけ、ほっとしたように笑った。
「……レッドとおなじだね」
「……同じですね」
カフェは、レッドの頭に、そっと手を置いた。黒い髪が、指の間で、さらさらと流れた。
「二番の気持ちは、悔しいのと、嬉しいの、両方でいいんだと思います。……どちらか一つに、決めなくていいです」
「……きめなくて、いいの?」
「はい。決めなくていいです」
レッドは、カフェの手の下で、小さく頷いた。
それから、鉛筆を持ち直して、プリントの次の問題に向かった。さっきより、少しだけ、力の抜けた手だった。
八 黄昏の店
六時近くになると、窓の外の空が、燃えるような橙色に変わった。
カフェは、扉の内側の札を、裏返した。
――準備中。
「宵待ち」の閉店は、日によって違う。日の入りの三十分前。季節によって、四時半の日もあれば、七時の日もある。扉の内側に、その月の閉店時間を、小さく書いた紙を貼ってある。開店した頃、それを見た客に、「変わった店ですね」と言われた。カフェは「はい」とだけ答えた。
黄昏時は、なるべく、一人でいたい。
子どもの頃からの、カフェの決まりごとだった。理由を、人にうまく説明できたことはない。夕方の光が、昼と夜の境目で揺れているとき、世界の音が、少しだけ遠くなる。そのとき、カフェは、いつもより多くのものが見えて、いつもより多くのものが聞こえる。その時間を、誰にも邪魔されずに、ただ過ごしたかった。
店を持つと決めたとき、それを、どうするか、何日も考えた。
喫茶店は、夕方に客が来る。仕事帰りの人。学校帰りの人。夕暮れを見ながら、コーヒーを飲みたい人。西向きの窓のある店なら、なおさら。
それでも、カフェは、黄昏の前に店を閉めることにした。
店の名前に、その時間を入れた。宵を待つ、店。夜が来るのを待ちながら、その手前で、扉を閉める店。客には、黄昏の手前までの時間を出す。黄昏そのものは、自分のために取っておく。
――わがままですね。
開店の前、雅也に、そう言った。雅也は、少し考えて、言った。
――わがままだな。……でも、カフェの店だ。
それだけだった。
カフェは、カウンターの内側に戻った。明かりを、一段だけ落とした。
それから、西の窓の前に立った。
窓の外の空が、ゆっくりと色を変えていた。橙から、薄い桃色へ。桃色から、淡い紫へ。通りの向かいの桜の木が、黒い影になって、その空を、細い枝で区切っていた。どこかの家の窓に、明かりが一つ、灯った。烏が、二羽、遠くの屋根の上を、ゆっくりと渡っていった。
予約席の椅子が、窓の光を受けて、長い影を床に落としていた。
カフェは、その隣に立って、空を見ていた。
カウンターの端で、レッドが、静かに宿題をしていた。鉛筆が、紙の上を走る音だけが、小さく聞こえた。
レッドは、この時間、話しかけてこない。
誰に言われたわけでもなかった。四つの頃、初めて店で黄昏を迎えた日に、レッドは、カフェの背中に「ママ」と呼びかけた。カフェは、振り返って、「はい」と答えた。それから、少しだけ困った顔をしてしまったのだと思う。レッドは、何も言わずに、カウンターの端に戻って、絵本を開いた。
それ以来、レッドは、黄昏の間、話しかけてこなくなった。
――ママの、しずかなじかん。
レッドは、それを、そう呼んでいるらしかった。保育園の先生から聞いた。
カフェは、それを聞いたとき、胸の奥が、少しだけ痛んだ。六つの子に、気を遣わせている。それでいいのだろうか、と。
けれど、雅也は言った。
――気を遣ってるんじゃないと思う。……レッドも、たぶん、あの時間が好きなんだ。
カフェは、窓の外の空から、カウンターの端へ、視線を移した。
レッドは、宿題の手を止めて、窓の外を見ていた。鉛筆を持ったまま。頬杖をついて。黙って。
その横顔が、燃えるような空の色に、ほんのりと染まっていた。
――同じ空を、見ている。
話しかけない。けれど、一人でもない。
それは、カフェが子どもの頃に知っていた黄昏とは、少しだけ違う黄昏だった。
空が、深い青に沈んでいった。
通りの街灯が、一つずつ、灯りはじめた。
九 帰り道
六時半、扉の鈴が鳴った。
「ママー!!」
クインだった。
扉が開くのと同時に、小さな身体が、店の中に飛び込んできた。保育園の黄色い帽子が、頭の後ろにずり落ちていた。手に、何か茶色い塊を握りしめていた。
その後ろから、雅也が入ってきた。クインの小さな鞄と、自分の記録用の板を、両手に提げていた。
「……ただいま。ごめん、走るの止められなかった」
「おかえりなさい」
カフェは、カウンターの内側から出た。クインが、カフェの腰に、勢いよく抱きついた。
「ママ、みて! ねんど!」
クインが、握りしめていた塊を、カフェの目の前に突き出した。
茶色い粘土の塊だった。丸いものが四つ、くっついていた。大きいのが二つ、中くらいが一つ、小さいのが一つ。その横に、とがった耳のようなものが二つついた、細長い何かがあった。
「……これは」
「ママと、パパと、おねえちゃんと、クイン! あと、ねこ!」
「猫は、うちにはいません」
「いないけど、つくったの!」
クインは、胸を張った。
カフェは、粘土の塊を、両手で受け取った。まだ、少しだけ柔らかかった。四つの丸いものが、ぎゅっと寄り集まって、一つの塊になっていた。ところどころ、クインの小さな指の跡が、くぼみになって残っていた。
「……みんな、くっついていますね」
「うん! みんな、なかよしだから!」
「……猫も、くっついていますね」
「ねこも、なかよし!」
カフェは、粘土の塊を見下ろした。
四つの丸いもの。それから、とがった耳の、細長い何か。
――五つ目。
ほんの一瞬、そう思った。思ってから、自分で、その考えを、そっとしまった。猫だ。クインがそう言った。猫でいい。
「……ありがとう、クイン。店に、飾ります」
「ほんと!?」
「本当です」
カフェは、粘土の塊を、レジの横の小さな棚に、そっと置いた。
クインは、満足そうに頷いて、それから、カウンターの端のレッドのところへ駆けていった。
「おねえちゃん! みて、ねんど!」
「……みた。ママのとこに、あるやつでしょ」
「そう! おねえちゃんも、いるよ!」
「……どれ」
「いちばん、ちゅうくらいの!」
「……なんで、ちゅうくらい」
「おねえちゃんだから!」
レッドは、宿題のプリントを見たまま、少しだけ口元を緩めた。
雅也が、カフェの隣に来て、レジの横の粘土を覗き込んだ。
「……五人家族か」
「猫だそうです」
「猫か。……うちに、猫はいないけどな」
「いないけど、作ったそうです」
雅也は、少しだけ笑った。それから、カフェの顔を見た。
「……今日、どうだった」
「沢井さんが、ブレンドの変化に気づいてくれました。コトノハさんを、試験勉強に帰しました。……レッドが、かけっこで二番でした」
「二番か」
「悔しいのと、嬉しいの、両方だそうです」
「……それ、カフェが訊いたのか」
「はい。……沢井さんに、教えてもらいました。訊き方を」
雅也は、しばらく、カフェの顔を見ていた。
それから、カフェの頭に、そっと手を置いた。冷たい手だった。一日の練習を終えて、外の冷えた空気をまとった手だった。
「……いい一日だったな」
「はい」
「俺の方は、セレネの坂路がよかった。カザハナは、やっぱり疲れが残ってた。今日は軽めにして、正解だった」
「よかったです」
カフェは、エプロンの紐を、背中で解いた。
カウンターの端で、クインが、レッドの宿題のプリントを覗き込んで、「これ、なに?」と訊いていた。レッドが、「たしざん」と答えた。クインが、「たしざんって、なに?」と訊いた。レッドが、「ふえること」と答えた。クインが、「じゃあ、ねこも、ふえる?」と訊いた。レッドが、少し考えて、「……ねこは、ふえない」と言った。
カフェは、雅也と顔を見合わせた。
二人とも、声を立てずに、笑った。
店の明かりを消して、扉の鍵をかけた。
四人で、夜の通りを、並んで歩いた。クインが、雅也の肩車の上で、何か歌っていた。レッドが、カフェの手を、ぎゅっと握っていた。街灯の光が、四つの影を、石畳の上に、長く、短く、落としていった。
第二部 学ぶ手
一 古い温度計
その夜、娘たちが眠ったあとで、カフェは、居間の棚の一番上から、古い木の箱を下ろした。
手のひらに載るくらいの、小さな箱だった。蓋に、焼印のような模様が、薄く残っていた。中に、細長い金属の温度計が一本、柔らかい布にくるまれて入っていた。
十九の誕生日に、雅也からもらったものだった。
まだ、担当契約が終わる前だった。学園の小さな部屋で、タキオンとユキノビジンが、ささやかに祝ってくれた日。雅也が、少し照れたように差し出した箱を開けて、カフェは、しばらく黙っていた。それから、「仕事の道具みたいですね」と言った。言いながら、自分の声が、少しだけ上ずっているのが分かった。
今、その温度計の目盛りは、少しかすれていた。先の方に、細い傷がいくつもついていた。十二年、使ってきた傷だった。
「……それ、まだ持ってたのか」
居間の入口で、雅也が言った。風呂上がりで、首にタオルを掛けていた。
「持っています。……店では、もう、新しいものを使っていますけど」
「捨てていいのに」
「捨てません」
「なんで」
「最初の一本なので」
カフェは、温度計を布ごと手のひらに載せて、ソファーに座った。雅也が、隣に座った。湯上がりの、石鹸の匂いがした。
「……今日、レッドに訊かれました」
「何を」
「ママは、ずっと一番だったんでしょ、と。……パパが言っていた、と」
雅也が、少しだけ、気まずそうな顔をした。
「……言ったな。去年の冬、テレビで昔のレースの映像が流れてて。レッドが、これママ? って訊くから」
「はい」
「ずっと一番だったんだよ、って。……まずかったか」
「いえ」
カフェは、温度計を見下ろした。
「本当のことですから。……ただ、私は、レッドに、何て言えばいいのか、分からなくて」
「何て言った」
「一番だったけど、ずっと前に誰かがいた、と。……友だちが、と」
雅也は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「……いい答えだと思う。本当のことだし、レッドに分かる言葉だ」
「分かったでしょうか」
「全部は分からないだろうな。……でも、ママにも、追いつけない誰かがいたってことは、たぶん、分かった」
カフェは、温度計を、布で包み直した。
それから、箱の底に、もう一冊、薄いノートが入っていることに気づいた。表紙の角が擦り切れて、丸くなっていた。開くと、最初のページに、自分の字で、こう書いてあった。
――大学課程 二年目 履修。
カフェは、そのページを、しばらく見ていた。
二 履修表
十二年前の四月、カフェは、学園の大学課程の事務室の前の廊下で、履修表を前に、立ち尽くしていた。
前の年の暮れに、走ることをやめた。二月に、引退式で、勝負服を着て、レース場を一周歩いた。三月に、担当契約が終わった。その数日後、黄昏の練習コースの外側で、あの人が、一度だけ、自分から気持ちを伝えてくれた。
すべてが、一度に終わって、一度に始まった春だった。
大学課程に籍を置いたのは、その一年前だった。高等部を卒業して、現役を続けながら、遠征の合間に課題を出す形で、一年目を過ごした。正直に言えば、一年目のことは、あまり覚えていない。ドバイ。春の京都。イギリスの夏。秋の京都。冬の東京と中山。レースと、移動と、身体の記録のことで、頭がいっぱいだった。
二年目の春、初めて、学ぶことだけを考える時間が来た。
履修表には、たくさんの科目が並んでいた。
経営学の基礎。食品衛生学。食品化学。飲食店経営論。原価管理と会計。接客と顧客理解。店舗設計の基礎。メニュー開発演習。飲料学――コーヒーと茶。
カフェは、その一つ一つを、指でなぞった。
どれも、自分の店のために、必要なものだった。必要なものだと、分かっていた。分かっていて、指が、少しだけ震えていた。
――私に、できるだろうか。
走ることなら、分かった。自分の身体の、どこが崩れやすくて、どこが強いのか。どの距離で、どの位置で、誰を追えばいいのか。四年間、それだけを考えて生きてきた。
店を持つことは、何も分からなかった。
「カフェ。……迷っているのかい」
背後から、声がした。
振り返ると、アグネスタキオンが、白衣の袖を揺らしながら、廊下を歩いてきていた。手に、紅茶の入った紙コップを持っていた。甘い匂いが、ここまで漂ってきた。また、砂糖をたくさん入れたのだと分かった。
「タキオンさん」
「履修表か。……ふむ」
タキオンは、カフェの肩越しに、履修表を覗き込んだ。それから、眉をひそめた。
「抽出化学の講義はないのか」
「……ありません」
「飲料学という科目があるが、内容は」
「コーヒーと、茶の、基礎だそうです」
「基礎、か。……抽出温度と溶出成分の相関、焙煎度と酸の変化、そういったものを扱わない飲料学に、何の意味が――」
「タキオンさん」
「……何だい」
「私は、店を開きたいんです。研究室を開きたいわけでは、ありません」
タキオンは、紙コップを持ったまま、カフェの顔を見た。
それから、肩をすくめて、くつくつと笑った。
「……実に、君らしい答えだ。いいだろう。抽出化学は、私が研究室で、勝手に講義してあげよう。受講料は、君のコーヒー一杯」
「受講しません」
「では、聴講で」
「……聴講も、しません」
「勝手に話すから、勝手に聞きたまえ」
タキオンは、そう言って、紅茶をすすった。
カフェは、小さくため息をついた。それから、履修表に、もう一度視線を戻した。
――食品衛生学。原価管理と会計。
二つの科目の名前の上で、指が止まった。この二つが、一番、自分から遠い気がした。だから、一番、取らなければならない気がした。
カフェは、ペンを取って、その二つに、丸をつけた。
それから、残りの科目にも、一つずつ、丸をつけていった。
「……全部、取るのかい」
「全部、要りますから」
「一年で、全部は無理だよ」
「……では、二年で」
タキオンは、何も言わなかった。紙コップを口に運んで、少しだけ、目を細めた。
廊下の窓から、春の午後の光が、斜めに差し込んでいた。履修表の上に、その光が、細長い四角を作っていた。
カフェは、ふと、廊下の突き当たりを見た。
誰もいなかった。誰もいないように、見えた。
けれど、お友だちが、そこに立っているのが、カフェには分かった。こちらを見ているのかどうかは、分からなかった。顔は、昔から、見たことがない。
――追いかけなくて、いい。
カフェは、そう思った。最後のレースの後から、ずっと、そう思っていた。お友だちは、もう、前を走らない。廊下の突き当たりに立っているだけだ。
カフェは、履修表を鞄にしまって、歩き出した。
お友だちの方へではなく、事務室の扉の方へ。
三 わからないこと
食品衛生学の最初の試験で、カフェは、ぎりぎりの点数しか取れなかった。
微生物の名前が、覚えられなかった。温度と時間と、菌が増える速さの関係が、頭の中で、ぐちゃぐちゃに絡まった。教科書の図表を、何度見ても、それが自分の手の中のカップや皿とどうつながるのか、分からなかった。
原価管理と会計は、もっとひどかった。
表計算の画面に並んだ数字を見ていると、目の前が、白く霞んだ。仕入れの値段。一杯あたりの豆の量。水道代。電気代。家賃。人件費。それを全部足して、一杯のコーヒーの値段で割る。理屈は分かった。けれど、計算するたびに、答えが違った。どこかで、何かを、必ず間違えていた。
大学課程の図書室の、窓際の席で、カフェは、ノートの上に突っ伏していた。
夕方だった。窓の外が、少しずつ橙色に染まりはじめていた。
――黄昏時は、なるべく、一人。
いつもなら、この時間は、図書室を出て、一人で、学園の裏手の林の小道を歩く。今日は、立ち上がれなかった。計算が、まだ、合っていなかった。
「……カフェさん?」
声がした。
顔を上げると、ユキノビジンが、本を抱えて、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「ユキノさん……」
「どしたの? 具合、悪いんだべか」
「……いえ。計算が、合わなくて」
「計算」
ユキノビジンは、カフェのノートを覗き込んだ。表計算の画面と、ノートの手書きの数字を、見比べた。それから、少し首を傾げた。
「……カフェさん、これ、電気代、月のと、年のと、混ざってねぇか?」
「……え」
「ここ。ひと月分の欄に、一年分の電気代が入ってるべ。そりゃ、一杯の値段もえらいことになるんでねぇかな」
カフェは、画面を見た。
ユキノビジンが指さしたところを、見た。
本当だった。月の欄に、年の数字が入っていた。それだけだった。たった、それだけ。それだけのことに、二時間、気づかなかった。
「……ありがとうございます」
「いんや。おら、実家で採れたもんを売る手伝いしてたから、こういう数字はちっちぇ頃から見慣れてたんだ」
「……そうだったんですね」
「んだなぁ。カフェさん、こういう計算は苦手だったんだな」
「苦手です。……とても」
カフェは、ノートの上に、また突っ伏した。
ユキノビジンが、隣の席に座った。抱えていた本を、机の上に置いた。それから、カフェの背中を、一度だけ、ぽんと叩いた。
「……カフェさん、走るときはあんなに速かったのになぁ」
「走るのと、計算は、違います」
「んだな。走るのと、商いの計算は別物だべ」
ユキノビジンは、くすくすと笑った。
カフェは、突っ伏したまま、少しだけ、顔を横に向けた。窓の外の空が、もう、紫色に変わりはじめていた。黄昏の時間が、過ぎていこうとしていた。
一人ではなかった。
けれど、嫌ではなかった。
「……ユキノさん」
「ん」
「一つ、お願いがあります」
「なんだべ」
「来週から、原価計算の宿題を、一緒にしてもらえませんか。……お礼に、コーヒーを淹れます」
ユキノビジンは、目を丸くした。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「いいよ! カフェさんのコーヒー、飲めるなら、なんぼでも!」
「……なんぼでも、は、お腹が痛くなります」
「それは、カフェさんだけだべ」
ユキノビジンは、また笑った。カフェも、少しだけ、笑った。
窓の外で、一番星が、小さく光りはじめていた。
四 ノートの一行目
その年の夏、カフェは、初めて、自分の店のことを、ノートに書いた。
大学課程の夏休みだった。雅也の部屋の、小さな食卓だった。雅也は、そのとき、まだトレーナー寮の個室を出たばかりで、学園から少し離れた古いアパートに住んでいた。窓の外で、蝉が鳴いていた。扇風機が、首を振るたびに、ノートの端をぱたぱたと鳴らした。
カフェは、ノートの一番上に、こう書いた。
――席は、少なく。
それから、少し考えて、その下に書いた。
――窓は、西向き。黄昏が、見える場所。
ペンを持ったまま、カフェは、しばらく動かなかった。
黄昏が、見える場所。自分は、黄昏時に一人でいたい。それなのに、店の窓から黄昏が見えるようにしたい。矛盾しているような気がした。けれど、書いてみると、それ以外の窓は、考えられなかった。
向かいで、雅也が、ルーズリーフに何かを書き込んでいた。次の担当になるかもしれない子の、選抜レースの記録だった。カフェの担当が終わってから、まだ半年も経っていなかった。雅也は、次の担当をすぐには決めなかった。何人かの子の走りを、時間をかけて見ていた。
カフェは、ノートを、そっと雅也の方へ押しやった。
「……見てもらえますか」
雅也は、ペンを置いて、ノートを手に取った。
二行だけの、ノートだった。雅也は、その二行を、何度か読んだ。それから、顔を上げた。
「……カフェの店か」
「はい。……まだ、何も決まっていません。ただ、思ったことを、書いてみました」
「うん」
雅也は、ノートを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
何か、言いたそうな顔だった。言ってもいいのか、迷っている顔だった。この人は、カフェのことを、カフェより先に決めない。担当だった頃から、ずっとそうだった。
「……一つだけ、いいか」
「はい」
「入口の段差は、なくした方がいいと思う」
カフェは、目を瞬いた。
「段差、ですか」
「うん。……席が少なくて、静かな店なら、たぶん、年配の人も来る。杖をついてる人とか。車椅子の人とか。ベビーカーを押してる人とか。……入口に段差があると、それだけで、入るのをやめる人がいる」
「……」
「俺の実家の近くに、いい喫茶店があったんだけど、入口に三段の階段があって。毎朝通ってた近所のおばあさんが、足を悪くしてから、行けなくなった。……そういうのを、ちょっと思い出した」
カフェは、ノートを受け取った。
二行の下に、三行目を書いた。
――入口に、段差を作らない。
「……ありがとうございます」
「俺が言ったのは、それだけだ。あとは、カフェが決めることだから」
「はい。……でも、三行目は、雅也さんの行です」
雅也は、少しだけ照れたように、首の後ろを掻いた。
それから、ノートの三行目を、もう一度覗き込んだ。
「……カフェの字の中に、俺の言ったことが入ってるの、なんか、変な感じだな」
「変ですか」
「変じゃない。……嬉しい」
雅也は、そう言って、また自分のルーズリーフに目を戻した。耳の後ろが、少しだけ赤かった。
カフェは、ノートの三行を、指でなぞった。
席は、少なく。窓は、西向き。入口に、段差を作らない。
――私の店。
まだ、どこにもない店だった。けれど、三行だけ、確かに、ここにあった。
五 時計台
翌年の春、カフェは、学園から電車で三駅離れた町の、古い喫茶店で働きはじめた。
――珈琲 時計台。
駅前の商店街の、二階だった。急な木の階段を上がると、真鍮の取っ手のついた重い扉があって、その向こうに、薄暗い、天井の低い店があった。壁に、大きな古い柱時計が掛かっていた。店の名前は、その時計から来ているのだと、あとで知った。カウンターが八席と、窓際にテーブルが三つ。窓から、商店街のアーケードの屋根が見えた。
店主は、柏木という、七十を少し越えた男だった。
白髪を短く刈り込んで、いつも、糊の利いた白いシャツに、黒い蝶ネクタイを締めていた。痩せていて、背が少し曲がっていた。口数は、ほとんどなかった。客に「いらっしゃいませ」と言うときと、「ありがとうございました」と言うときくらいしか、声を聞かなかった。
カフェは、その店に、客として、半年通っていた。
最初は、大学課程の課題のために、近隣の喫茶店を調べて回っていたときだった。たまたま入って、ブレンドを一杯頼んだ。一口飲んで、カフェは、カップを置いた。それから、しばらく、何もできなかった。
おいしかった、という言葉では、足りなかった。
静かな味だった。強くも、弱くもなかった。苦味と酸味と甘さが、どれも、自分が一番だと主張しないで、カップの中で、並んで座っていた。
それから、週に一度、通うようになった。カウンターの端の席に座って、ブレンドを一杯だけ頼んだ。柏木が湯を落とす手を、見ていた。湯を細く落とす。止める。また落とす。その間の、長い沈黙。
半年経った秋の終わりに、カフェは、帰り際、扉の前で振り返った。
「……あの」
柏木が、カウンターの内側で、カップを拭く手を止めた。
「ここで、働かせていただけませんか」
柏木は、しばらく、カフェの顔を見ていた。
何も言わなかった。長い沈黙だった。柱時計の振り子の音だけが、聞こえていた。
「……学生さんかね」
「はい。トレセン学園の、大学課程の」
「何を、学んでる」
「経営と、食品と、衛生と……コーヒーのことを。自分の店を、持ちたいと思っています」
「自分の店」
「はい」
柏木は、カップを、棚に戻した。
「……給料は、安いよ」
「構いません」
「最初の三月は、コーヒーには触らせない。皿洗いと、掃除と、注文取りだけだ」
「はい」
「それでも、来るかね」
「来ます」
柏木は、また、しばらく黙っていた。
それから、カウンターの内側から、一枚の紙を出した。古い、手書きの、勤務表だった。
「……春から。火曜と、木曜と、土曜。授業の、ない日に」
「……ありがとうございます」
カフェは、深く頭を下げた。
顔を上げると、柏木は、もう、次のカップを拭いていた。
あとで知ったことがある。柏木は、カフェのことを、最初から知っていた。テレビで、何度も見ていた。けれど、半年間、一度も、そのことを口にしなかった。働きはじめてからも、口にしなかった。
――うちに来る客は、みんな、ただの客だ。
一度だけ、柏木はそう言った。カフェが、常連の客の一人に、昔のレースのことを話しかけられて、困っていたときだった。その客が帰ったあと、柏木は、カップを拭きながら、独り言のように、そう言った。
――あんたも、ここでは、ただの店の者だ。
カフェは、その言葉を、ずっと覚えている。
六 割れたカップと、足りない釣り銭
時計台での最初の三か月、カフェは、本当に、一度もコーヒーに触らなかった。
皿を洗った。床を拭いた。窓を磨いた。テーブルの脚の埃を、柔らかい布で一本ずつ拭った。注文を取って、柏木に伝えた。できあがったカップを、客の前に運んだ。
最初の週に、カップを二つ割った。
一つは、洗い場で、手を滑らせた。もう一つは、客の前に置こうとして、受け皿の縁に指を引っかけた。熱いコーヒーが、テーブルの上に広がった。客は、常連の老人だった。服にはかからなかった。老人は、「いいよいいよ」と笑って、布巾で自分でテーブルを拭こうとした。カフェは、その手を止めて、「私が拭きます」と言った。声が、震えていた。
柏木は、何も言わなかった。新しいカップに、新しいコーヒーを淹れて、カフェに渡した。カフェは、それを、今度は両手で、ゆっくりと運んだ。
閉店後、洗い場で、割れたカップの欠片を新聞紙に包みながら、柏木が、初めて、仕事のことで口を開いた。
「……走ってた頃、転んだことは」
「……ありません」
「一度も」
「一度も、です」
「そうか」
柏木は、新聞紙の包みを、ゴミ袋に入れた。
「なら、ここで転べばいい。……転び方を覚えるのも、仕事のうちだ」
カフェは、何も答えられなかった。
二か月目に、レジの釣り銭を間違えた。
閉店後に、柏木と二人で、売上を数えた。千円、足りなかった。何度数えても、足りなかった。カフェは、その日の会計を、一つずつ思い出そうとした。思い出せなかった。誰に、いくら渡したのか。どの客の、どの会計で、間違えたのか。
「……すみません」
「足りないのは、千円だ」
「はい」
「千円は、豆、百グラムと少しだ」
柏木は、それだけ言って、売上の帳面に、赤い字で、マイナス千円と書いた。
カフェは、その赤い字を、ずっと見ていた。
豆、百グラムと少し。カップにして、十杯くらい。十人の客の、十杯のコーヒー。それが、自分の不注意で、どこかへ消えた。
その夜、寮の部屋で、カフェは、眠れなかった。
ユキノビジンが、向かい側のベッドから、「カフェさん、起きてるべ?」と声をかけた。カフェは、「起きています」と答えた。ユキノビジンは毛布をめくって起き上がり、小さな卓の上に林檎を一つ置いた。実家から送られてきた、赤い林檎だった。
「……林檎、食べてみな。少しは気持ち、落ち着くと思うべ」
「……ありがとうございます」
「なんかあったの?」
「……千円、なくしました」
「千円」
「お店の、売上を。……私の、計算の間違いで」
ユキノビジンは、少し考えた。
「……おらんちでも、そういうこと、よくあったよ」
「……そうなんですか」
「母ちゃんが、レジの前でよく『あーっ!』って叫んでたんだ。そんで、お釣りを渡すときは声に出して数えるようにしたんだべ。『千円お預かりします、三百二十円のお返しです』ってな。そうしたら、間違えなくなったんだ」
「……声に、出して」
「んだ。声に出せば、自分の耳にも入るべ? 目で追うだけより間違えにくいって、母ちゃんが言ってたんだ」
カフェは、林檎を手に取った。
冷たかった。つるつるしていた。
「……明日から、やってみます」
「うん。……でもさ、カフェさん。千円のことで眠れなくなるなんて、ほんと真面目だなぁ」
「らしい、ですか」
「んだ。そういうとこ、きちんとしてるべ。カフェさんのいいところだと思うよ」
ユキノビジンは、そう言って、自分のベッドに戻った。
カフェは、暗い部屋の中で、林檎を手のひらに載せたまま、しばらく座っていた。
次の日から、カフェは、釣り銭を渡すとき、声に出して数えるようになった。声は小さかった。客の何人かは、少し驚いた顔をした。けれど、それ以来、レジの売上が足りなくなったことは、一度もなかった。
七 最初の一杯
三か月が経った日の朝、柏木が、カウンターの内側で、カフェを呼んだ。
「……淹れてみな」
カフェは、雑巾を持ったまま、立ち止まった。
「……私が、ですか」
「ブレンドを、一杯。俺に」
柏木は、カウンターの客席の側に回って、端の席に腰を下ろした。カフェが、半年間、客として座っていた席だった。
カフェは、雑巾を洗い場に置いて、手を洗った。
カウンターの内側に立った。
豆を量った。ミルで挽いた。湯を沸かした。温度を測った。十九の誕生日にもらった、あの温度計で。ネルの袋に粉を入れた。
湯を、細く落とした。
粉が、膨らんだ。カフェは、湯を止めた。待った。柏木が湯を止めていた時間を、思い出しながら。半年間、カウンターの端から見ていた、あの長い沈黙を。
また、湯を落とした。
カップに注いで、受け皿に載せて、柏木の前に置いた。
柏木は、何も言わずに、カップを持ち上げた。香りを嗅いだ。一口、飲んだ。
長い沈黙だった。
柱時計の振り子の音が、ことり、ことり、と鳴っていた。カフェは、カウンターの内側で、両手を前で重ねて、立っていた。指先が、冷たかった。
柏木が、カップを置いた。
「……うまい」
カフェは、息を止めた。
「だが、これは、あんたのコーヒーだ。俺の店のコーヒーじゃない」
「……」
「湯を止めてる時間が、俺より、ほんの少し長い。だから、苦味が、少し奥に沈んでる。……悪くない。だが、うちの客は、うちの味を飲みに来てる。あんたの味を、飲みに来てるんじゃない」
柏木は、もう一口、飲んだ。
「うちの店では、うちの味を淹れてもらう。……あんたの味は、あんたの店で出せばいい」
カフェは、何も言えなかった。
嬉しいのか、悔しいのか、分からなかった。両方だった。
柏木は、カップを置いて、立ち上がった。カウンターの内側に戻る途中で、カフェの横を通り過ぎるとき、一言だけ、言った。
「……コーヒーの味は、店の半分だ」
「……半分、ですか」
「残りの半分は、客が、ここに座ってる時間だ。……その時間を、どう出すか。それは、あんたが、自分で考えな」
柏木は、それだけ言って、次の仕込みに取りかかった。
カフェは、柏木の飲みかけのカップを、そっと手に取った。まだ、温かかった。
――あんたの味は、あんたの店で。
その言葉を、カフェは、その日、何度も、胸の中で繰り返した。
その夜、雅也の部屋で、カフェは、自分の味のコーヒーを淹れた。
雅也は、それを一口飲んで、しばらく黙っていた。
「……どう、ですか」
「うまい」
「……具体的に」
雅也は、少し笑った。担当だった頃、カフェが一度も言わなかった言葉だった。具体的に、と。言われる側だったから。
「最初に、苦味が来ない。後から、ゆっくり来る。……湯を止めてる時間が、長いんだと思う。だから、苦味が、奥に沈んでる。冷めてきても、甘さが残ってる。……カフェの飲み方に、合ってる。ゆっくり飲む人のための、味だ」
カフェは、カップを両手で持ったまま、雅也の顔を見た。
「……柏木さんと、同じことを、言いました」
「柏木さんも、そう言ったのか」
「湯を止めている時間が、長い、と。……でも、それは、柏木さんの店の味ではない、と」
「……そうか」
雅也は、もう一口飲んで、カップを置いた。
「なら、いつか、それを出す店を、作ればいい」
「……はい」
「急がなくていい。……でも、この味は、ちゃんと覚えておいて」
カフェは、カップの中の、黒い液面を見下ろした。
台所の明かりが、その表面に、小さく映っていた。
――ゆっくり飲む人のための、味。
それが、自分の味だった。
自分が、ずっと、そうしてきたから。一気に飲むと、お腹が痛くなる。だから、ゆっくり飲む。ゆっくり飲むから、冷めていく。冷めても、おいしいコーヒーが、欲しかった。
自分のためだけに淹れてきたコーヒーが、いつか、誰かの時間のためのコーヒーになる。
カフェは、そのとき初めて、それが、本当に、できるかもしれないと思った。
第三部 自分の店という言葉
一 研究室の温度
大学課程の最後の冬、カフェは、学園の古い研究室で、タキオンと向かい合って座っていた。
研究室は、昔と変わらなかった。部屋の半分は、タキオンの側だった。実験器具と、記録紙の束と、紅茶のセットと、何に使うのか分からない、怪しい色の液体の入った瓶。もう半分は、カフェの側だった。コーヒー豆の缶、手回しのミル、ドリッパー、カップ。それから、窓際の、誰も座らない椅子。
部屋の境目に、折りたたみの椅子が一脚、置いてあった。昔、雅也が座っていた椅子だった。今は、誰も座らない。けれど、カフェもタキオンも、それを片づけなかった。
「……九十二度で、三十秒の蒸らし。九十度で、二十秒。八十八度で、四十秒」
タキオンが、記録紙に、細い字で数字を書き込んでいた。机の上には、カフェが淹れた三杯のコーヒーが、並んでいた。どれも、同じ豆、同じ挽き方だった。違うのは、湯の温度と、蒸らしの時間だけ。
「味の評価は、私の主観では信頼できない。私は紅茶派だからね。……カフェ、君の舌で、順位をつけてくれたまえ」
「……八十八度の、四十秒です」
「理由は」
「苦味が、一番、奥にあります。最初の一口では、ほとんど感じません。冷めてくると、甘さと一緒に、出てきます」
「ふむ。……低い温度で、長く蒸らすと、苦味成分の溶出が遅れる。だから、時間差で感じる。実に、仮説通りだ」
タキオンは、満足そうに、記録紙の端に丸をつけた。
「これが、君の味か」
「……はい。たぶん」
「たぶん、とは」
「時計台の柏木さんに、これは、あなたの味だ、と言われました。……自分では、まだ、よく分かりません」
タキオンは、記録紙から顔を上げた。
紅茶のカップを手に取って、一口すすった。甘い匂いが、コーヒーの香りと混ざって、部屋の中に漂った。
「カフェ」
「はい」
「卒業したら、どうするつもりだい」
カフェは、すぐには答えなかった。
窓の外は、冬の夕方の手前だった。灰色の雲が、低く垂れこめていた。研究室の窓ガラスが、内側から、少しだけ曇っていた。
「……時計台で、働きつづけます。柏木さんが、そうしていいと言ってくれました」
「それから」
「……それから」
カフェは、膝の上で、両手を重ねた。
「……分かりません」
タキオンは、何も言わなかった。
紅茶のカップを、ゆっくりと置いた。
「君は、走っていた頃、前を走る誰かを、ずっと追いかけていた」
「……はい」
「今は、追いかける相手がいない。……だから、どこへ向かえばいいのか、分からなくなっている。違うかい」
カフェは、顔を上げた。
タキオンの赤い目が、まっすぐにこちらを見ていた。からかっている目ではなかった。昔、カフェの身体の記録を取っていたときと、同じ目だった。面白がりながら、本気で見ている目。
「……違わないかもしれません」
「君の店のノート。……三行の。まだ、持っているかい」
「持っています」
「三行のままかい」
「……四行です。……去年、一行、増えました」
「何と」
「……黄昏の前に、閉める店」
タキオンは、目を見開いた。
それから、肩を揺らして、笑った。声を立てずに。けれど、本当におかしそうに。
「黄昏の前に閉める喫茶店。……西向きの窓で、黄昏が見えるのに、黄昏の前に閉める。実に、矛盾している。実に、君らしい」
「……わがままだと、思います」
「わがままだね。……だが、それを、四行目に書いたのは、君だ」
タキオンは、記録紙の束を揃えて、机の端に置いた。
「カフェ。……追いかける相手がいないなら、そのノートを、追いかければいい。四行の。君が、自分で書いた、四行を」
カフェは、何も答えなかった。
窓際の、誰も座らない椅子の方を、ちらりと見た。
お友だちは、そこにいた。窓の外の曇り空を、見ているようだった。
――追いかけなくて、いい。
そう思っていた。最後のレースの後から、ずっと。
けれど、何も追いかけないことと、どこにも向かわないことは、違うのかもしれなかった。
「……タキオンさん」
「何だい」
「この部屋の、湿度は、今、どのくらいですか」
タキオンは、目を瞬いた。それから、机の上の小さな計器を見た。
「四十八。……なぜだい」
「店を探すとき、湿度を測ってもらえますか。……豆の保管に、関わるので」
タキオンは、しばらく、カフェの顔を見ていた。
それから、満面の笑みを浮かべた。白衣の袖を、大きく広げた。
「もちろんだとも! 湿度、温度、日照時間、それから建物の材質と通気性と――」
「湿度だけで、いいです」
「……湿度と、温度だけ」
「湿度だけです」
「……善処しよう」
カフェは、小さくため息をついた。それから、少しだけ、口元を緩めた。
二 夕方の時計台
卒業して、半年が過ぎた秋だった。
時計台は、夜の八時まで開いていた。夕方には、仕事帰りの客が増える。カウンターが埋まり、窓際のテーブルも埋まる。柏木は、その時間、ほとんど休まずに、湯を落としつづけた。カフェは、注文を取り、カップを運び、皿を洗った。
その日も、夕方の五時を過ぎて、店は混んでいた。
窓の外の、商店街のアーケードの屋根の向こうに、空が見えた。橙色に、染まりはじめていた。
カフェは、カップを三つ載せた盆を持って、窓際のテーブルへ向かっていた。
その途中で、足が、止まった。
窓の外の空が、燃えていた。ほんの数分だけ。昼と夜の境目の、一番濃い色。世界の音が、少しだけ遠くなる時間。
店の中は、騒がしかった。客の話し声。カップの触れ合う音。柱時計の振り子の音。けれど、その全部が、急に、遠くなった。
窓際のテーブルの、空いた椅子に、お友だちが座っていた。
窓の外の空を、見ていた。
――ああ。
カフェは、盆を持ったまま、立ち尽くした。
――私は、この時間を、ここで過ごしたくない。
はっきりと、そう思った。
嫌なのではなかった。時計台の夕方が、嫌なのではなかった。柏木の店は、好きだった。常連の客も、好きだった。けれど、この時間だけは。この、空が燃えている数分だけは。カップを運びながら、誰かの注文を聞きながら、過ごしたくなかった。
ずっと、そうだった。子どもの頃から。黄昏時は、なるべく、一人で。
時計台で働いて二年半、カフェは、この時間を、我慢してきた。我慢できると思っていた。我慢するのが、仕事だと思っていた。
「……マンハッタンさん」
背後から、柏木の声がした。
カフェは、我に返った。盆の上のカップが、かすかに揺れていた。
「三番テーブル。冷めるよ」
「……はい。すみません」
カフェは、カップを三番テーブルに運んだ。声に出して、注文を確かめた。客が、ありがとうと言った。カフェは、頭を下げて、カウンターに戻った。
窓の外の空は、もう、紫色に変わっていた。
閉店後、洗い場で、カフェは、柏木の隣に立った。
柏木は、黙って、カップを洗っていた。カフェは、黙って、それを拭いていた。柱時計の振り子の音と、水の音だけが、静かな店の中に響いていた。
「……柏木さん」
「何だ」
「私、自分の店を、持ちたいです」
柏木の手が、止まった。
水が、蛇口から流れつづけていた。
「……いつ」
「分かりません。……でも、もう、考えはじめたいです。どこで、どういう店を、どうやって。……ここで学んだことを、全部、持っていって」
柏木は、蛇口を閉めた。
水の音が、止んだ。
柏木は、濡れた手を、前掛けで拭いた。それから、カフェの方を見た。
「……夕方、窓の前で、止まってたな」
「……はい」
「あれは、何だ」
カフェは、すぐには答えなかった。
答え方が、分からなかった。黄昏時のこと。お友だちのこと。それを、どう言えばいいのか。
「……あの時間は、一人でいたいんです」
結局、それだけを言った。
「子どもの頃から、ずっと。……理由は、うまく言えません。でも、あの時間に、誰かのためにカップを運ぶのは、私には、できないかもしれないと、今日、分かりました」
柏木は、しばらく、何も言わなかった。
それから、ふっと、息を吐いた。笑ったのだと、カフェには分かった。柏木が笑うのを、二年半で、三度目に見た。
「……やっと、言ったか」
「……え」
「二年半、毎日、夕方になると、あんたの手が、少しだけ遅くなってた。気づいてないと思ってたか」
カフェは、言葉を失った。
「店の者が、店の時間に合わせるのは、当たり前だ。……だが、自分の店なら、店の時間を、自分に合わせられる」
柏木は、洗い終えたカップを、一つ、カフェに渡した。
「あんたの味は、あんたの店で出せばいいと、前に言ったな」
「……はい」
「あんたの時間も、あんたの店で決めればいい。……夕方に閉める喫茶店があったって、いいだろう」
カフェは、渡されたカップを、両手で持ったまま、動けなかった。
柏木は、また、蛇口をひねった。水の音が、戻ってきた。
「……急ぐなよ。店は、逃げない」
「……はい」
「ただし、決めたら、迷うな。迷いながら開けた店は、客にも、迷いが伝わる」
「……はい」
カフェは、カップを拭いた。
拭きながら、自分の手が、少しだけ震えていることに気づいた。
怖かった。
怖くて、それより、ずっと、何かが明るかった。
三 遠い国からの電話
その夜、雅也は、日本にいなかった。
二人目の担当――ソラノカナタが、フランスの秋の大きなレースに挑む、その十日前だった。雅也は、カナタと一緒に、向こうの小さな町の練習場にいた。カフェが二度、同じレースに挑んだときと、同じ町だった。
寮の部屋に戻ったカフェは、携帯の画面を、しばらく見ていた。
向こうは、まだ昼過ぎだった。練習の時間かもしれなかった。食事の時間かもしれなかった。カナタの調子を見ている、大事な時間かもしれなかった。
――急がない。
カフェは、短い文を打った。
――今日、柏木さんに、自分の店を持ちたいと言いました。急ぎではありません。時間のあるときに、話を聞いてください。
送信して、携帯を伏せた。
電話が鳴ったのは、十分後だった。
『……カフェ』
雅也の声だった。少しだけ、息が上がっていた。後ろで、風の音がしていた。外にいるのだと分かった。
「……雅也さん。急ぎではないと、書きました」
『読んだ。……急ぎじゃないけど、今、聞きたかった』
「カナタさんは」
『今、医療スタッフと、脚の確認中。……俺は、外で待ってる。二十分くらい、時間がある』
カフェは、ベッドの端に腰を下ろした。
向かい側のベッドで、ユキノビジンは気を利かせてイヤホンをつけ、壁の方を向いた。
「……今日、時計台で、夕方、窓の前で止まってしまいました」
『うん』
「黄昏の時間に、誰かのためにカップを運ぶのは、私には、できないかもしれないと、思いました。……それで、柏木さんに、言いました」
『柏木さんは、何て』
「やっと言ったか、と」
電話の向こうで、雅也が、小さく笑う気配がした。
『……さすがだな、あの人』
「二年半、夕方になると、私の手が遅くなっていたそうです。……気づいていなかったのは、私だけでした」
『……そうか』
風の音が、少しだけ強くなった。
『カフェ』
「はい」
『どこで、どういう店を、やりたい』
「……まだ、全部は、決まっていません。でも、ノートの四行は、決まっています。席は少なく。窓は西向き。入口に段差を作らない。……黄昏の前に、閉める」
『四行目、増えたんだな』
「去年、増えました」
『いい四行だと思う』
雅也は、それだけ言った。
それ以上、何も言わなかった。どこがいいとも、どうすればいいとも。カフェは、それが、この人の答えだと分かっていた。決めるのは、カフェだ、と。
「……雅也さん」
『ん』
「物件を、探しはじめたいです。……雅也さんが、帰ってきてからで、いいので」
『帰ってからじゃなくていい』
「……え」
『カフェが探したいと思ったときに、探せばいい。俺を待たなくていい。……俺は、帰ったら、運転手でも、荷物持ちでも、何でもする。でも、最初の一歩は、カフェが行きたいときに』
カフェは、携帯を、耳に強く押し当てた。
雅也の声の後ろで、誰かが、フランス語で、何か短く言った。それから、日本語の、若い声が聞こえた。カナタの声だった。「トレーナー、終わりましたー!」と。
『……悪い。戻らないと』
「はい。……カナタさんに、よろしく伝えてください」
『伝える。……カフェ』
「はい」
『自分の店を持ちたいって、言えて、よかったな』
電話が、切れた。
カフェは、携帯を、膝の上に置いた。
向かい側のベッドで、ユキノビジンがイヤホンを外す音がした。
「……カフェさん」
「はい」
「店、やるの?」
「……やります」
ユキノビジンは自分のベッドを出て、カフェの枕元へ身を寄せた。顔を覗き込むと、満面の笑みだった。
「開いたら、いちばんに行くべ!」
カフェは、思わず、声を立てて笑った。
笑いながら、その約束を、胸の中に、丁寧にしまった。
四 三軒の建物
物件を探しはじめたのは、その年の冬だった。
雅也が帰国して、カナタのフランスでの勝利の取材が少し落ち着いた頃だった。雅也は、その少し前に、中古の小さな車を買っていた。担当の遠征で、荷物が増えたからだと言っていた。助手席に座ると、古い革のシートの匂いがした。
後部座席には、タキオンが座っていた。
膝の上に、小さな計器を三つ、抱えていた。
「……湿度だけで、いいと言いました」
「湿度計と、温度計と、照度計だ。照度計は、西日の入り方を測るためのものだよ。君の、西向きの窓のために」
「……照度計は、頼んでいません」
「頼まれていないことをするのが、研究者というものだ」
雅也が、運転席で、肩を震わせていた。
一軒目は、駅前の、新しい建物の一階だった。
ガラス張りの、明るい空間だった。天井が高く、床は白い石だった。人通りが多く、立地は申し分なかった。不動産屋の若い男性が、「ここなら、お客さんには困りませんよ」と、少し得意そうに言った。
カフェは、空っぽの部屋の真ん中に立った。
明るすぎた。
窓は、南と東を向いていた。西には、隣のビルの壁があった。黄昏は、見えなかった。
それに、と、カフェは思った。
部屋の隅に、お友だちが立っていた。入口の、扉の脇に。中へ、入ってこなかった。
――ここは、違う。
お友だちが、そう言ったわけではなかった。何も言わない。けれど、入ってこないことが、カフェには、答えのように思えた。
いや、とカフェは、すぐに思い直した。
――お友だちに、決めてもらうのではない。
窓が、西を向いていない。黄昏が見えない。それで、十分だった。
「……ありがとうございました。ここは、違うと思います」
カフェは、不動産屋の男性に、頭を下げた。男性は、少し驚いた顔をした。
「湿度、四十一。温度、十九。照度は――」
「タキオンさん。もう、大丈夫です」
「……そうかい」
二軒目は、古い商店街の、地下の店舗だった。
前は、小さなバーだったという。木のカウンターが、そのまま残っていた。落ち着いた、いい空間だった。けれど、窓が、一つもなかった。
カフェは、カウンターの端に、そっと手を置いた。古い木の、なめらかな手触りだった。何人の人が、ここで、何杯の何かを飲んだのだろう。
「……いい店だったんだろうな」
隣で、雅也が言った。
「はい。……でも、窓が、ありません」
「ないな」
「黄昏が、見えません」
「……地下だからな」
カフェは、カウンターから手を離した。
お友だちは、階段の一番上で、立ち止まっていた。降りてこなかった。
「湿度、六十三。豆の保管には、少し高い」
タキオンが、計器を見ながら言った。
「……ありがとうございます、タキオンさん。それは、大事な情報です」
「だろう?」
タキオンは、少しだけ、得意そうな顔をした。
三軒目は、学園から歩いて二十分ほどの、古い住宅街の外れだった。
大通りから、一本入った、静かな通りの角。両隣に、小さな古書店と、二階建ての古い民家。通りの向かいに、大きな桜の木が一本、冬の裸の枝を広げていた。
建物は、古い木造の二階建てだった。前は、小さな仕立て屋だったという。店主が高齢で店を畳んでから、二年、空いていた。外壁の板は、色あせて、ところどころ、塗装が剥げていた。入口の扉は、木の枠に、すりガラスがはまっていた。
入口の前に、石の段差が、一段だけあった。
不動産屋の年配の女性が、鍵を開けた。扉が、ぎい、と軋んだ。
中は、細長い部屋だった。入口から、奥へ、まっすぐに伸びていた。床は、古い板張り。壁には、仕立て屋の頃の棚が、まだ残っていた。埃の匂いと、古い木の匂いがした。
一番奥に、大きな窓があった。
カフェは、細長い部屋の真ん中を、ゆっくりと歩いた。古い床板が、足の下で、小さく鳴った。窓の前で、立ち止まった。
窓の外に、隣の家の小さな庭と、その向こうの、低い屋根並みと、空が見えた。
冬の午後の、三時過ぎだった。陽が、少しずつ、傾きはじめていた。窓から差し込む光が、床の上に、長い四角を作っていた。
「……この窓、どちらを向いていますか」
カフェは、振り返らずに訊いた。
不動産屋の女性が、手元の書類を見た。
「ええと……西ですね。真西より、ほんの少し南寄り」
カフェは、何も言わなかった。
窓の外の空を、見ていた。
あと一時間もすれば、この窓の向こうが、燃えるような色に変わる。それが、目に見えるようだった。
ふと、横を見た。
窓の前の、何もない床の上に、お友だちが立っていた。カフェと並んで。窓の外を、見ていた。
カフェは、何も言わなかった。
お友だちも、何も言わなかった。
「……湿度、四十五。温度、十六。照度は――」
タキオンが、後ろで言いかけて、止まった。
それから、計器を持ったまま、静かに、窓の方を見た。
「……カフェ。今、ここに、誰かいるかい」
「……います」
「そうか」
タキオンは、それ以上、何も訊かなかった。計器を、膝の上に下ろした。記録も、取らなかった。
雅也は、入口の、石の段差の前に立っていた。
しゃがみこんで、段差の高さを、手のひらで測っていた。それから、立ち上がって、カフェの方を見た。
「……段差、ある」
「はい」
「一段だけだ。……削るか、スロープにするか。工事で、どうにかなると思う」
「……はい」
「カフェ」
「はい」
「ここか」
カフェは、窓の外を見たまま、答えた。
「……ここです」
第四部 宵待ち
一 自分の名前
契約の書類に、自分の名前を書いたのは、翌年の二月だった。
不動産屋の小さな事務所の、奥の応接の机だった。石油ストーブが、低く唸っていた。窓ガラスが、内側から白く曇っていた。年配の女性が、書類の一枚一枚を、指でなぞりながら、丁寧に説明してくれた。家賃。保証金。修繕の範囲。契約の期間。
カフェは、一枚ずつ、読んだ。分からない言葉があると、訊いた。女性は、嫌な顔をせずに、もう一度、別の言葉で説明してくれた。
隣には、誰も座っていなかった。
雅也は、事務所の外の車の中で、待っていた。「一緒に入ろうか」と言われたとき、カフェは、首を振った。「一人で、行きます」と。雅也は、それ以上、何も言わなかった。
書類の一番下の欄に、ペンを置いた。
――契約者。
カフェは、自分の名前を書いた。
書き終えて、ペンを置いて、その名前を、しばらく見ていた。走っていた頃、何度も、何百回も書いた名前だった。出走の書類に。サインを求められた色紙に。けれど、こんなふうに、自分の名前を、自分の責任の重さとして見たことは、たぶん、一度もなかった。
お金のことは、去年の秋から、何度も、何度も、考えた。
走っていた頃に得た賞金は、まだ、手つかずで残っていた。それだけで、店を開くことは、たぶん、できた。けれど、カフェは、それを全部は使わないことにした。一部だけを使って、残りは、学園の大学課程で知り合った、地域の金融機関の相談窓口で、借り入れの相談をした。
――なぜ、と、窓口の人に訊かれた。お持ちのお金で、足りるのではありませんか、と。
カフェは、少し考えてから、答えた。
――毎月、返さなければいけないものがある方が、店のことを、毎月、ちゃんと考えられると思うので。
窓口の人は、少し驚いた顔をした。それから、笑って、書類を出してくれた。
豆のことは、両親に相談した。
両親は、昔から、コーヒーが好きだった。家には、遠い国から直接取り寄せた豆の袋が、いつも、いくつも並んでいた。カフェがコーヒーを好きになったのは、たぶん、その匂いの中で育ったからだった。
電話で、店のことを話すと、父は、しばらく黙っていた。それから、「取引先を、紹介しよう」と言った。古くから付き合いのある、小さな輸入の会社だった。
――紹介してもらえますか。でも、値段と量の話は、私がします。
カフェがそう言うと、父は、また少し黙った。それから、電話の向こうで、母に何か言っているのが聞こえた。母の、小さな笑い声がした。
――……分かった。お前の店だからな。
父の声は、少しだけ、嬉しそうだった。
不動産屋の事務所を出ると、二月の冷たい風が、頬を打った。
車の助手席の窓を、軽く叩いた。雅也が、運転席から、ドアの鍵を開けた。
「……終わりました」
「お疲れさま」
カフェは、助手席に座った。古い革のシートが、冷えていた。
雅也は、何も訊かなかった。エンジンをかけて、暖房を強くした。温かい風が、足元から吹き上がってきた。
「……名前を、書きました」
「うん」
「自分の名前を、自分の店のために書いたのは、初めてでした」
「……どうだった」
カフェは、膝の上で、手袋をはめた両手を重ねた。
「……重かったです」
「そうか」
「でも、嫌な重さでは、ありませんでした」
雅也は、ハンドルに手を置いたまま、少しだけ笑った。
「……カフェの店だな」
「はい。私の店です」
二 削られた段差
工事が始まったのは、三月の終わりだった。
近くの工務店の、若い職人と、年配の棟梁が、二人で来た。棟梁は、カフェの描いた、拙い図面を見て、「ふうん」と言った。それから、建物の中を、ゆっくりと歩いて回った。床板を叩いた。柱に耳を当てた。窓枠を指で押した。
「いい建物だ。古いけど、しっかりしてる。……前の仕立て屋さんが、大事に使ってたんだな」
棟梁は、そう言って、入口の段差の前で、しゃがみこんだ。
「これは、削るかね。それとも、スロープを付けるかね」
「……削れますか」
「削れる。下の土台を少しいじれば。……ただ、雨の日に、水が入りやすくなる。入口の外に、水はけの溝を切らないと」
「お願いします」
「スロープの方が、安いよ」
「……削りたいです」
カフェは、言った。
「スロープも、いいと思います。でも、スロープだと、そこに、段差があったことが分かります。……段差が、最初からなかったように、したいんです」
棟梁は、カフェの顔を、じっと見た。
それから、にやりと笑った。
「……分かった。削ろう」
段差を削る日、雅也は、仕事の合間に、二時間だけ、手伝いに来た。
棟梁に言われて、削った石の欠片を、手押し車に積んで、裏手まで運んだ。何往復も。重い石だった。雅也の額に、汗が浮かんでいた。三月の終わりの、まだ少し肌寒い日だったのに。
カフェは、店の中で、古い棚を外す若い職人を手伝っていた。手伝う、といっても、外した板を受け取って、壁際に立てかけるだけだった。
ふと、入口の方を見た。
雅也が、手押し車を押して、店の前を横切っていった。息が、少し上がっていた。シャツの袖を、肘までまくっていた。腕に、石の粉が、白くついていた。
――トレーナーさんは、重い物を運ぶ人ではないのに。
ふと、そう思った。担当だった頃の呼び方で。それから、自分で少し笑った。
トレーナーさん、ではない。雅也さんだ。
それに、トレーナーでも、重い物は運ぶ。遠征の荷物。練習の器具。それを、カフェは、四年間、見てきた。この人は、自分にできることなら、何でもする人だった。何でもするけれど、自分がしたことを、誰にも言わない人だった。
夕方、段差は、なくなっていた。
入口の扉の前の地面が、店の中の床と、同じ高さになっていた。扉の外に、細い溝が一本、切られていた。雨の水を、逃がすための溝だった。
カフェは、扉の外に立って、それから、一歩、店の中に入った。
足が、何にも引っかからなかった。
段差が、最初から、なかったように。
「……どうだ」
雅也が、隣に立っていた。腕の石の粉を、手で払いながら。
「……つまずきませんでした」
「だろ」
「三行目が、できました」
「……三行目」
「入口に、段差を作らない。……雅也さんの行です」
雅也は、手を払う動きを止めた。
それから、少しだけ照れたように、首の後ろを掻いた。石の粉が、また、少しだけ散った。
カフェは、エプロンのポケットからハンカチを出して、雅也の腕の粉を、黙って拭いた。
三 名前のない店
五月になっても、店には、まだ、名前がなかった。
工事は、ほとんど終わっていた。古い板張りの床は、職人が丁寧に磨き直して、深い飴色に光っていた。仕立て屋の棚は外されて、代わりに、カウンターが据えつけられた。古材を使った、焦げ茶色の、厚い一枚板のカウンターだった。七席。壁際に、二人掛けのテーブルが二つ。
九席。
ノートの一行目の通りだった。
カフェは、毎日、大学課程の頃のノートを開いて、店の準備を一つずつ進めた。焙煎機の選定。小さな、家庭用より少しだけ大きなもの。一度に焼ける量は少ない。そのぶん、毎日、少しずつ焼く。カップは、二十客。九席の店に、二十客。洗っている間にも、出せるように。皿。スプーン。砂糖壺。ミルクピッチャー。どれも、時計台で使っていたものより、少しだけ小さくて、少しだけ素朴なものを選んだ。
メニューは、何度も、書いては消した。
最初は、十種類以上あった。産地ごとの豆。焙煎の深さの違い。カフェオレ。ウインナーコーヒー。水出し。紅茶が三種類。焼き菓子が五種類。軽食が三種類。
それを、一つずつ、消していった。
――これを、毎日、自分一人で、同じ味で出せるか。
消すたびに、そう自分に訊いた。
最後に残ったのは、六つだった。
――宵待ちブレンド(中煎り)。深煎りブレンド。その日の豆(一種類)。カフェオレ。紅茶(一種類)。焼き菓子(日替わり一種類)。
紅茶を残したのは、タキオンのせいだった。
研究室で、メニューの話をしていたとき、タキオンが、紅茶のカップを片手に、ぼそりと言った。
――私のような、コーヒーを飲まない人間は、君の店に、入ってはいけないのかい。
カフェは、そのとき、何も答えなかった。けれど、その夜、メニューの最後に、一行、書き足した。紅茶、一種類。砂糖は、テーブルに置く。好きなだけ。
名前だけが、決まらなかった。
候補は、ノートの一ページを埋めるほど、書いた。どれも、少しずつ違った。どれも、自分の店の名前だと、思えなかった。
「……店の名前、まだか」
その日の夕方、雅也が、店に来た。仕事帰りだった。手に、紙袋を二つ提げていた。中に、注文していたカップの、最後の十客が入っていた。配送の都合で、学園の近くの店に届いたのを、取ってきてくれたのだった。
「……まだです」
カフェは、カウンターの内側で、ノートを広げたまま、言った。
雅也は、紙袋をカウンターの上に置いた。それから、カウンターの客席の側の、真ん中の椅子に座った。
「候補は」
「……たくさん、あります。でも、どれも、違う気がします」
「見せてもらってもいいか」
カフェは、ノートを雅也の方へ押しやった。
雅也は、一つずつ、目で追った。何も言わなかった。最後まで読んで、ノートを閉じて、カフェに返した。
「……どれも、いい名前だと思う」
「……」
「でも、カフェが違うと思うなら、違うんだろうな」
カフェは、ノートを胸の前で抱えた。
窓の外が、少しずつ、橙色に染まりはじめていた。
五月の夕方の、六時を少し過ぎた頃だった。
「……雅也さん」
「ん」
「少しだけ、一人にしてもらえますか。……黄昏の、間だけ」
雅也は、何も訊かなかった。
「外にいる。……桜の木の下」
「ありがとうございます」
雅也が、扉を開けて、出ていった。扉が閉まった。
店の中に、カフェ一人が残った。
カフェは、明かりを消した。
それから、カウンターの内側から出て、店の一番奥の、西の窓の前に立った。
窓の外の空が、燃えていた。
低い屋根並みの向こうに、大きな夕陽が、ゆっくりと沈んでいこうとしていた。その周りの雲が、橙色と、金色と、薄い紅色に、縁取られていた。磨き直した床板の上に、窓の形の光が、長く、長く伸びていた。その光が、少しずつ、色を変えていった。橙から、桃色へ。桃色から、紫へ。
カフェは、窓の前の床に、そっと腰を下ろした。
カウンターの、一番端の席の、すぐ下だった。
膝を抱えて、窓の外を見た。
隣に、お友だちが、座っていた。
カウンターの一番端の椅子に。窓の外を、見ていた。
カフェは、何も言わなかった。お友だちも、何も言わなかった。
世界の音が、遠くなっていた。通りの車の音も。どこかの家の、夕食の支度の音も。烏の声も。全部、遠くなって、ただ、窓の外の空だけが、目の前にあった。
――この時間を、待っている。
ふと、そう思った。
一日のうちで、一番好きな時間。一番、一人でいたい時間。その時間が来るのを、自分は、毎日、待っている。朝から、昼から、午後から。豆を挽きながら。湯を落としながら。カップを拭きながら。この、昼と夜の境目の時間が来るのを。
――宵を、待っている。
カフェは、膝を抱えたまま、目を閉じた。
宵待ち。
その言葉が、胸の中で、静かに、形になった。
夜が来るのを、待つ時間。誰かを、待つ時間。黄昏の、手前の時間。この店に来る人たちが、ここで過ごすのは、その時間だ。昼の終わりから、夕方の手前まで。それぞれの、宵を待つまでの時間。
そして、店は、宵が来る前に、扉を閉める。
カフェは、目を開けた。
窓の外の空は、もう、深い紫色に変わっていた。通りの街灯が、一つ、灯った。
隣の椅子を見た。
お友だちは、まだ、そこにいた。窓の外を、見ていた。
カフェは、立ち上がった。明かりを点けた。カウンターの内側に戻って、ノートを開いた。名前の候補が並んだページの、一番下に、ペンで、小さく書いた。
――宵待ち。
書いてから、その三文字を、しばらく見ていた。
それから、扉を開けた。
通りの向かいの、桜の木の下に、雅也が立っていた。葉桜の枝の下で、腕を組んで、空を見上げていた。
「……雅也さん」
雅也が、こちらを向いた。
「名前、決まりました」
雅也は、何も言わずに、通りを渡ってきた。
カフェは、ノートを開いて、一番下の三文字を見せた。
雅也は、それを、しばらく見ていた。
「……よいまち」
「はい。宵待ち、です」
「喫茶・宵待ち」
「……はい」
雅也は、ノートから顔を上げて、店を見た。古い木造の、細長い建物。すりガラスの扉。まだ何も掛かっていない、扉の横の壁。
それから、カフェを見た。
「……似合ってる」
「……店に、ですか」
「店にも。カフェにも」
カフェは、ノートを胸の前で閉じた。
頬が、少しだけ、熱かった。
四 真鍮の鈴
開店を一週間後に控えた日、時計台の柏木が、宵待ちを訪ねてきた。
夕方ではなく、昼過ぎだった。時計台の定休日の、水曜日だった。いつもの白いシャツに、黒い蝶ネクタイを締めて、杖をついていた。カフェは、その杖を、初めて見た。
「……柏木さん」
「近くまで来たから」
柏木は、それだけ言って、入口の前で、立ち止まった。
足元を、見た。段差のない、入口を。それから、ゆっくりと、店の中に入ってきた。杖の先が、磨き直した床板の上で、こつ、こつ、と鳴った。
柏木は、店の中を、ゆっくりと見て回った。
七席のカウンター。二つのテーブル。棚に並んだ二十客のカップ。小さな焙煎機。それから、一番奥の、西の窓。窓の前の、カウンターの一番端の席。その上の、小さな木の札。
――予約席。
柏木は、その札を、しばらく見ていた。
何も、訊かなかった。
「……座ってもいいかね」
「どうぞ」
柏木は、カウンターの、入口から三番目の席に座った。カフェが、時計台で、半年間座っていた席と、同じくらいの位置だった。
「……一杯、淹れてもらおうか」
「……はい」
カフェは、カウンターの内側に立った。
豆を量った。挽いた。湯を沸かして、温度を測った。十九の誕生日の温度計で。
湯を、細く落とした。止めた。待った。
時計台の味ではなかった。自分の味だった。
カップを、柏木の前に置いた。
柏木は、杖をカウンターに立てかけて、カップを手に取った。香りを嗅いだ。一口、飲んだ。
長い沈黙だった。
古い柱時計は、この店にはなかった。代わりに、窓の外で、雀が鳴いていた。
「……うまい」
柏木が、言った。
「あんたの味だ」
「……はい」
「ここで、出すんだな」
「はい」
柏木は、もう一口飲んで、カップを置いた。
それから、上着のポケットから、小さな布の包みを取り出した。カウンターの上に、そっと置いた。
「……開けてみな」
カフェは、包みを開いた。
中に、小さな真鍮の鈴が、一つ、入っていた。古い鈴だった。表面が、長い年月で、くすんだ金色に落ち着いていた。上に、扉に掛けるための、小さな金具がついていた。
「……これは」
「時計台を開いたときに、扉に掛けてた鈴だ。四十年前。……途中で、新しいのに替えた。こいつは、しまってあった」
カフェは、鈴を手のひらに載せた。
思っていたより、重かった。少しだけ揺らすと、ちりん、と、小さな、柔らかい音がした。
「……いただけません。こんな、大事なもの」
「大事だから、持ってきた」
柏木は、カップに残ったコーヒーを、最後まで飲んだ。
「店の扉が開くたびに、鳴る。……客が来たって、教えてくれる。客が帰ったって、教えてくれる。忙しいときも、ぼんやりしてるときも。……店の者が、客の時間を、聞き逃さないように」
カフェは、鈴を、両手で包んだ。
何も、言えなかった。
柏木は、杖を手に取って、立ち上がった。代金を払おうとして、カウンターの上に、小銭を置いた。カフェが、「開店前ですから」と言うと、柏木は「客だ」とだけ言って、小銭を置いたまま、入口の方へ歩いていった。
扉の前で、柏木は、一度だけ振り返った。
「……急いだな」
「……え」
「店は逃げないと、言ったのに。……一年と、少しだ」
「……はい」
「だが、迷ってない顔をしてる」
柏木は、それだけ言って、扉を開けて、出ていった。
カフェは、真鍮の鈴を、両手で包んだまま、立っていた。
その日の夕方、カフェは、脚立に乗って、扉の内側の上に、その鈴を掛けた。
扉を開けた。
ちりん、と鳴った。
柔らかい、小さな音だった。四十年、どこかの扉の上で、誰かの来訪を告げてきた音。
五 いちばんの客
十月の最初の月曜日、喫茶・宵待ちは、扉の札を、初めて裏返した。
十一時ちょうどだった。
店の前の通りに、誰かが立っているのが、すりガラス越しに見えた。カフェは、扉を開けた。
ちりん、と鈴が鳴った。
「……カフェさん!」
ユキノビジンだった。
薄い秋のコートを着て、肩に、大きな紙袋を提げていた。紙袋の中に、赤い林檎が、いっぱいに詰まっていた。頬が、走ってきたように、赤くなっていた。
「……ユキノさん」
「一番乗りだべ!? おらが一番だべ!?」
「……はい。一番です」
「やったぁ!」
ユキノビジンは、両手で紙袋を抱えたまま、ぴょんと跳ねた。
「朝の五時に起きて、始発の新幹線さ乗ってきたんだ! 実家から! 母ちゃんが林檎を持ってけって!」
「……実家から、ですか」
「んだ! 開店したら一番に行くって約束したべ!」
カフェは、何も言えなかった。
大学課程の寮の部屋で、向かい側のベッドに座ったユキノビジンが、満面の笑みでそう言った。もう、一年も前のことだった。
その約束を、ユキノビジンは大切にしてくれていた。
だからこそ、始発の新幹線に乗って、ここまで来てくれたのだ。
「……どうぞ。……一番の、お客様」
カフェは、扉を大きく開けた。
ユキノビジンは、段差のない入口を、何の引っかかりもなく、店の中に入ってきた。それから、細長い店の中を、ぐるりと見回した。焦げ茶色のカウンター。磨かれた床。二十客のカップ。西の窓。
「……わぁ」
ユキノビジンは、小さく声を漏らした。
「……カフェさんの、お店だ」
「……はい」
「カフェさんの、においがする」
「……コーヒーの、匂いです」
「んだ。……やっぱり、カフェさんの店の匂いだべ」
ユキノビジンは、カウンターの、入口から四番目の席に座った。それから、メニューの六つの行を、指でなぞった。
「……宵待ちブレンド、ください」
「はい」
カフェは、カウンターの内側に立った。
豆を量った。挽いた。湯を沸かして、温度を測った。湯を、細く落とした。
ユキノビジンは、カウンターに頬杖をついて、カフェの手元を、じっと見ていた。
カップを、ユキノビジンの前に置いた。
ユキノビジンは、両手でカップを持って、一口飲んだ。
それから、カップを持ったまま、しばらく、何も言わなかった。
「……どう、ですか」
カフェが訊いた。
ユキノビジンは、顔を上げた。目が、潤んでいた。
「……おいしい」
「……」
「寮で淹れてくれたのと同じ味がする。……でも、ちょっと違うんだ。なんていうか、こっちはちゃんと『お店の味』になってる」
「……そう、ですか」
「んだ。カフェさんが作った、宵待ちの味だべ」
ユキノビジンは、もう一口、飲んだ。それから、目元を、手の甲で、ぐいっと拭った。
「……カフェさん、おめでとう」
「……ありがとうございます」
「ほんとに、おめでとう」
カフェは、カウンターの内側で、両手を前で重ねて、立っていた。
何か言おうとした。言葉が、出てこなかった。
代わりに、ユキノビジンが持ってきた林檎を一つ取って、丁寧に皮を剥いて、小さく切って、皿に載せて、ユキノビジンの前に置いた。
「……サービスです」
「……それ、おらの林檎だべ」
「はい。ユキノさんの、林檎です」
ユキノビジンは、ぷっと吹き出した。それから、声を立てて笑った。
カフェも、笑った。
扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
二人目の客が、入ってきた。
第五部 最初の冬
一 誰も来ない午後
開店して三週目の木曜日、午後の三時まで、客は一人も来なかった。
十一時に札を裏返した。豆を量った。湯を沸かした。カップを温めた。それから、待った。
十二時になった。誰も来なかった。
一時になった。誰も来なかった。
カフェは、カウンターの内側で、何度も、同じカップを拭いた。拭く必要のないカップを。窓の外の通りを、何人かの人が、通り過ぎていった。誰も、扉の前で、立ち止まらなかった。
二時になった。
カフェは、扉の外に出て、看板を見た。
――喫茶・宵待ち。
白い字で、それだけ。営業時間も、メニューも、何も書いていない。扉のすりガラス越しには、中の様子がほとんど見えない。
――入りにくいのかもしれない。
そう思った。思って、すぐに、店の中に戻った。
看板を変えるべきか。営業時間を、外に出すべきか。メニューを、扉の横に貼るべきか。黒板を置いて、今日の豆の名前を書くべきか。大学課程の、飲食店経営論の講義で、何度も聞いた。客は、店の中が分からないと、入らない。不安を取り除くことが、最初の一歩だ、と。
分かっていた。
分かっていて、看板に、何も書き足さなかった。
開店前に、何度も考えて、決めたことだった。外には、名前だけ。中のことは、中に入った人だけが知ればいい。静かな店だから。九席しかない店だから。たくさんの人に、通りすがりに覗かれる店には、したくなかった。
――それは、ただの、わがままではないのか。
カウンターの内側で、カフェは、拭いていたカップを置いた。
店を開いて、三週間。来た客は、一日に平均して、十人ほどだった。ユキノビジンが一番に来た初日は、学園の知り合いや、時計台の常連が何人か顔を出してくれて、二十人を超えた。それから、少しずつ、減っていった。
毎月、返さなければいけないものがある方が、店のことを、毎月、ちゃんと考えられる。
金融機関の窓口で、そう言った自分の声が、今は、少しだけ、遠く聞こえた。
三時を、少し過ぎた頃だった。
扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
カフェは、顔を上げた。
背筋のまっすぐな、白髪の女性が、扉の内側に立っていた。七十を、少し越えたくらいに見えた。灰色のコートを着て、手に、布の手提げを持っていた。
女性は、店の中を、ゆっくりと見回した。七席のカウンター。二つのテーブル。誰もいない店。西の窓。
「……やってるのかしら」
「……はい。いらっしゃいませ」
「看板に、何も書いてないから。……喫茶店なのか、骨董屋さんなのか、分からなくて。三回くらい、前を通ったのよ」
カフェは、何と答えればいいのか、分からなかった。
「……すみません」
「謝ることじゃないわ。……でも、入ってみたら、喫茶店だった。よかった」
女性は、そう言って、カウンターの真ん中の席に座った。手提げから、文庫本を一冊、取り出した。
「……一番、普通のコーヒーを、ください」
「……宵待ちブレンドで、よろしいですか。中煎りの」
「よいまち?」
「店の、名前です」
「ああ。……看板の。よいまち、って読むのね。いい名前」
女性は、文庫本を開いた。
カフェは、豆を量った。挽いた。湯を落とした。ゆっくりと。
カップを、女性の前に置いた。
女性は、文庫本から目を離さずに、カップを手に取って、一口飲んだ。それから、また、文庫本のページをめくった。
何も言わなかった。
カフェは、カウンターの内側で、次の湯を沸かしはじめた。
女性は、一時間半、そこに座っていた。文庫本を、ゆっくりと読んでいた。ときどき、カップを持ち上げて、一口ずつ飲んだ。最後の方は、もう冷めていたはずだった。
帰り際、女性は、レジの前で、財布を出しながら言った。
「……冷めても、おいしいのね。ここのコーヒー」
カフェは、釣り銭を数える手を止めた。
「……ありがとうございます」
「私、本を読みながら飲むから、いつも、最後は冷めちゃうの。……冷めたら、苦くなるコーヒーが多いのよね。ここのは、冷めたら、甘くなった」
「……」
「また、来るわね。……沢井です。近くに住んでるの」
「……お待ちしています。沢井さん」
沢井さんは、扉の鈴を鳴らして、帰っていった。
カフェは、レジの前に立ったまま、しばらく動かなかった。
――冷めたら、甘くなった。
時計台で、柏木に言われた。湯を止めている時間が、長い。だから、苦味が、奥に沈む。雅也に言われた。ゆっくり飲む人のための、味だ。
それを、初めて、知らない人が、言葉にしてくれた。
何も知らない人が。看板に何も書いていない店の前を、三回通り過ぎて、四回目に入ってきた人が。
カフェは、カウンターの内側に戻って、沢井さんのカップを洗った。
カップの底に、ほんの少しだけ、コーヒーが残っていた。
最後の一口まで、飲んでくれていた。
二 閉まっている扉
十一月の初めの、ある夕方のことだった。
カフェは、扉の札を、裏返していた。準備中。その月の閉店時間は、四時半だった。窓の外の空が、もう、薄い橙色に染まりはじめていた。
扉のすりガラスの向こうに、人影が立った。
扉が、外から押された。札が、揺れた。
「……あれ。閉まってる?」
若い男性の声だった。仕事帰りのような、スーツ姿だった。
カフェは、扉を少しだけ開けた。鈴が、ちりん、と鳴った。
「……すみません。今日は、もう、閉店です」
「え。……まだ、四時半ですよね」
「はい。……日の入りの前に、閉める店なので」
男性は、扉の内側に貼られた小さな紙を見た。その月の閉店時間が、書いてあった。
「……変わってますね」
「……はい」
「仕事帰りに、寄れる店を探してたんですけど。……夕方に閉まる喫茶店って、珍しいですね」
男性の声は、責めてはいなかった。ただ、少し残念そうだった。
「……申し訳ありません」
カフェは、深く頭を下げた。
男性は、少し困ったように笑った。
「いや、謝らなくても。……じゃあ、休みの日に、来てみます」
男性は、そう言って、通りを歩いていった。
カフェは、扉を閉めた。
鈴が、ちりん、と鳴った。
西の窓の前に立った。窓の外の空が、燃えはじめていた。けれど、いつものようには、世界の音が遠くならなかった。さっきの男性の声が、耳の奥に残っていた。
――仕事帰りに、寄れる店を探してたんですけど。
この店に、来たかった人がいた。来られなかった。自分が、黄昏の前に、扉を閉めたから。
その夜、カフェは、店の二階の小さな事務机で、帳面を広げていた。
十月の売上。十一月の、ここまでの売上。毎月の返済。家賃。豆の仕入れ。電気代。水道代。
足りないわけではなかった。けれど、余裕があるわけでもなかった。
もし、閉店を、夜の七時まで延ばしたら。仕事帰りの客が、来るかもしれない。夕方の、西の窓から黄昏が見える時間を、目当てに来る客も、きっといる。売上は、たぶん、増える。
カフェは、帳面の上に、ペンを置いた。
階段を、誰かが上がってくる音がした。
雅也だった。仕事帰りに、迎えに来てくれたのだった。二人とも、まだ、別々の部屋に住んでいた。週に何度か、雅也が、閉店後の店に寄って、カフェを寮まで送っていた。
「……まだ、やってたのか」
「……はい」
雅也は、事務机の横の、古い木の椅子に座った。帳面を、覗き込まなかった。カフェの顔を、見ていた。
「……何か、あったか」
「……夕方、お客さんを、一人、断りました」
「閉店後に来た人か」
「はい。仕事帰りに、寄れる店を探していた、と。……閉店時間を、延ばすべきか、考えていました」
雅也は、何も言わなかった。
カフェは、帳面の数字を、指でなぞった。
「……延ばせば、売上は、増えると思います。夕方の、西の窓は、きっと、たくさんの人が見たいと思う景色です。……私が、黄昏の時間を、一人でいたいというだけで、それを、閉じてしまっていいのか、分かりません」
「……」
「わがまま、だと思います」
雅也は、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「……カフェ」
「はい」
「訊かれたから、言う。……訊かれてないなら、言わないけど」
「……訊いています」
「なら、言う」
雅也は、椅子の背にもたれた。
「黄昏の時間に、店を開けたら、カフェは、どうなる」
「……」
「時計台で、二年半、夕方に、手が遅くなってた。……柏木さんが、そう言ったんだろ。あの時間に、誰かのためにカップを運ぶのは、カフェには、できないかもしれないって。カフェが、自分で、そう言った」
「……はい」
「できないことを、売上のために、無理にやる。……一年は、できるかもしれない。二年も、できるかもしれない。でも、十年は、たぶん、できない」
カフェは、顔を上げた。
「……十年」
「十年、続けたいだろ。この店」
カフェは、何も答えなかった。
答えなくても、答えは、分かっていた。
「担当の子に、俺は、いつも言ってた。……勝つために、身体を壊すような走り方は、させないって。一回勝っても、それで走れなくなったら、意味がない。……店も、たぶん、同じだ」
雅也は、そこで、言葉を切った。
「……俺は、店のことは、分からない。経営のことも。だから、これは、トレーナーの言葉だ。カフェが、自分の店に当てはまるかどうか、決めてくれ」
カフェは、帳面を閉じた。
それから、しばらく、閉じた帳面の表紙を見ていた。
「……閉店時間は、変えません」
「うん」
「代わりに、扉の外に、閉店時間を、小さく書きます。……来てくれる人が、無駄足を踏まないように。それなら、わがままの、半分くらいは、許してもらえるかもしれません」
雅也は、少しだけ笑った。
「半分か」
「半分です。……残りの半分は、私のわがままのまま、取っておきます」
「いいと思う」
「……雅也さん」
「ん」
「トレーナーの言葉、役に立ちました」
雅也は、少し照れたように、首の後ろを掻いた。
次の朝、カフェは、扉の横の、看板の下に、小さな真鍮の札を、一枚だけ取り付けた。
――日の入りの、少し前まで。
それだけだった。
店の名前と、その一行。それ以外は、やはり、何も書かなかった。
三 焦げた豆
十二月の初め、カフェは、豆を焦がした。
朝の焙煎だった。小さな焙煎機の、回転する釜の中で、生の豆が、少しずつ色を変えていく。緑がかった淡い色から、黄色へ。黄色から、薄い茶色へ。ぱちぱちと、豆が爆ぜる音がする。一度目の爆ぜ。それから、少し間を置いて、二度目。
その朝、カフェは、二度目の爆ぜの音を、聞き逃した。
扉の鈴が、鳴ったからだった。
開店前の、十時過ぎだった。扉の鍵は、まだ閉めていたはずだった。けれど、鈴は、確かに、ちりん、と鳴った。
カフェは、焙煎機から目を離して、入口の方を見た。
誰もいなかった。扉は、閉まったままだった。鍵も、かかったままだった。
鈴だけが、まだ、かすかに揺れていた。
――お友だち。
そう思った。思って、それから、焙煎機の方へ振り返った。
釜の中から、細い煙が、上がっていた。
焦げた匂いが、鼻をついた。
カフェは、慌てて、焙煎機の火を止めた。釜を開けて、豆を冷却の網の上に出した。豆は、黒かった。表面に、油が浮いて、てらてらと光っていた。いつもより、ずっと深く、焼けすぎていた。
一回分の、豆が、だめになった。
カフェは、冷却の網の前に、しばらく立っていた。
焦げた豆の匂いが、店の中に、重く広がっていた。苦くて、煙たくて、少しだけ、甘い匂い。
――お友だちの、せいではない。
すぐに、そう思った。
鈴が鳴ったのは、お友だちだったかもしれない。そうでなかったかもしれない。風かもしれない。古い鈴の、気まぐれかもしれない。分からない。けれど、焙煎機から目を離したのは、自分だった。二度目の爆ぜを待っている間に、目を離してはいけないと、分かっていた。分かっていて、離した。
カフェは、焦げた豆を、一粒、指でつまんで、噛んでみた。
苦かった。舌の奥が、痺れるほど。
その苦さを、しばらく、口の中に残したまま、カフェは、焙煎の記録帳を開いた。
――十二月三日。焙煎、一回目、失敗。二度目の爆ぜの後、目を離した。深く焼けすぎ。廃棄。
――原因:焙煎中に、目を離した。
――次から:焙煎中は、鈴が鳴っても、焙煎機から目を離さない。扉は、焙煎が終わるまで、開けない。
書き終えて、ペンを置いた。
それから、窓際の、予約席の方を見た。
お友だちは、そこに座っていた。窓の外を、見ていた。いつもと、同じように。
カフェは、何も言わなかった。
言う必要は、なかった。
その日の午後、焦げた豆の匂いが、まだ少しだけ、店の中に残っていた。
沢井さんが、文庫本から顔を上げて、鼻をひくひくさせた。
「……今日、何か、焦がした?」
「……はい。朝、豆を、少し」
「あら」
「ご迷惑を、おかけしました。……お出ししているのは、昨日焼いた分です」
「迷惑なんて。……ちょっと、いい匂いよ。焚き火みたいで」
沢井さんは、そう言って、また文庫本に戻った。
カフェは、カウンターの内側で、小さく頭を下げた。
四 夜勤明けの人
年が明けて、一月の半ばを過ぎた頃、新しい常連の客が、一人できた。
開店してすぐの、十一時五分だった。扉の鈴が鳴って、灰色のダウンコートを着た女性が、入ってきた。三十代の半ばくらいに見えた。髪を、首の後ろで、きつく一つに結んでいた。目の下に、薄い影があった。
女性は、カウンターの、一番入口に近い席に座った。座るなり、カウンターに両肘をついて、両手で顔を覆った。
「……一番、濃いのを、ください」
声が、掠れていた。
「……深煎りブレンドで、よろしいですか」
「……はい。それで」
カフェは、深煎りの豆を量った。挽いた。湯を落とした。
カップを、女性の前に置いた。
女性は、両手で顔を覆ったまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと手を下ろして、カップを持ち上げた。一口飲んで、長く、息を吐いた。
「……生き返る」
小さな声だった。
カフェは、何も言わなかった。次の湯を、沸かしはじめた。
女性は、それから三十分、カウンターに座っていた。何もしなかった。本も、端末も、出さなかった。ただ、カップを両手で包んで、少しずつ、飲んでいた。ときどき、窓の外を見ていた。昼前の、まだ白っぽい光の、窓の外を。
帰り際、レジの前で、女性が言った。
「……ここ、静かでいいですね」
「……ありがとうございます」
「夜勤明けなんです。近くの病院の。……家に帰る前に、どこかで、少しだけ、ぼーっとしたくて。でも、駅前のチェーン店は、うるさくて」
「……そうでしたか」
「看板に、何も書いてないから、最初、入るの、ちょっと勇気いりました」
「……すみません」
「いえ。……入ってよかった」
女性は、そう言って、少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。けれど、来たときより、ずっと、表情がほどけていた。
「また、来ます。……夜勤の、次の日に」
「お待ちしています」
女性は、三枝と名乗った。
それから、三枝さんは、本当に、夜勤の次の日に、必ず来た。週に二度か、三度。いつも、十一時五分。いつも、入口に一番近い席。いつも、深煎り。いつも、三十分。
三度目に来た日、カフェは、深煎りのカップの横に、小さな皿を一つ、置いた。
焼き菓子だった。その日の日替わりの、胡桃のクッキー。
「……頼んでないですけど」
「……夜勤明けは、甘いものがあると、少しだけ、楽になると、聞いたので」
「誰に」
「……昔、身体の記録を、つけてくれていた人に」
三枝さんは、目を瞬いた。それから、クッキーを一枚、手に取って、かじった。
「……ほんとだ。ちょっと、楽になる」
「よかったです」
「……これ、お代は」
「今日は、いりません。……次から、ご注文ください」
三枝さんは、声を立てて笑った。疲れていない方の、笑い方だった。
次の夜勤明けから、三枝さんの注文は、深煎りと、焼き菓子になった。
五 引き出しの紙
三月の初めの、日曜日の夜だった。
店は、日曜が定休日だった。カフェは、雅也の部屋の小さな食卓で、雅也と向かい合って座っていた。
食卓の上に、一枚の紙が置いてあった。
役所でもらってきた、真新しい紙だった。
二人とも、その紙を、しばらく黙って見ていた。
「……書くか」
雅也が、言った。
「……はい」
二人で決めたことだった。去年の秋、店を開く少し前に。店が落ち着いたら、と。冬を一つ越えて、店が、少しずつ、自分の足で立ちはじめた頃に、と。
カフェの、二十四の誕生日の、二日前だった。
雅也が、ペンを取った。それから、ふと、手を止めた。
「……ちょっと、待ってくれ」
雅也は、立ち上がって、部屋の隅の、古い木の机の前へ行った。一番上の引き出しを開けて、中から、折り畳まれた一枚の紙を、取り出した。
少し黄ばんだ紙だった。折り目が、何度も開いて閉じたように、柔らかくなっていた。
雅也は、それを、食卓の上の、新しい紙の隣に広げた。
――婚姻届。
何も、書かれていなかった。
カフェは、その紙を見て、息を止めた。
覚えていた。
大学課程の三年目の冬だった。学園の研究室で、雅也と、タキオンと、三人でいた。何の話をしていたのかは、もう覚えていない。突然、どこからともなく、一枚の紙が飛んできて、雅也の顔に、ぱさりと当たった。雅也は、それを拾って、しばらく、表と裏を、交互に見ていた。
――……何これ。
カフェは、一瞬で、全部、分かった。顔が、燃えるように熱くなった。
――ち、違います。私じゃありません。お友だちが……お友だちが、勝手に……私は、そんなこと、一度も……。
言葉が、止まらなかった。
雅也は、紙を見たまま、言った。
――分かってる。カフェが投げたなら、もっとまっすぐ渡すだろ。
カフェは、もっと赤くなった。タキオンが、隣で、「霊的存在が人間の法制度を理解している可能性について――」と言い出して、カフェが「タキオンさん」と止めた。
雅也は、その紙を、丁寧に畳んで、ポケットに入れた。捨てなかった。
それから、どうしたのか、カフェは、知らなかった。訊かなかった。訊けなかった。
「……持っていたんですか」
「持ってた。……引き出しに、ずっと」
「どうして」
「捨てる理由が、なかった」
雅也は、少しだけ照れたように、首の後ろを掻いた。
「あの紙は、カフェのお友だちが投げたものだ。……カフェが書いたものじゃない。だから、使わない。今日、書くのは、こっちの新しい方だ」
「……はい」
「でも、捨てない。……あの日、ちょっと、嬉しかったから」
カフェは、顔を上げた。
「……嬉しかったんですか」
「嬉しかった。……困ってたけど」
カフェは、何も言えなくなった。
黄ばんだ紙と、真新しい紙が、食卓の上に、並んでいた。
窓際の、何もない空間を、カフェは、ちらりと見た。お友だちが、そこに立っていた。食卓の方を、見ているようだった。何もしなかった。紙も、飛ばなかった。鈴も、鳴らなかった。
ただ、そこにいた。
「……雅也さん」
「ん」
「書きましょう。……新しい方に」
「うん」
雅也が、先に書いた。少し角ばった、几帳面な字だった。
それから、ペンを、カフェに渡した。
カフェは、ペンを持った。
自分の名前を、書いた。
店の契約書に書いたときと、同じ名前だった。同じくらい、重かった。けれど、違う重さだった。
書き終えて、ペンを置いた。
雅也が、黄ばんだ方の紙を、また丁寧に畳んで、引き出しにしまった。
二日後の、カフェの誕生日の朝、二人は、役所の窓口に、新しい紙を出した。
その日の夜、店の定休日でもないのに、カフェは、閉店後の宵待ちで、二人分のコーヒーを淹れた。
雅也の分は、雅也の好みの濃さで。
自分の分は、自分の好みの濃さで。
カウンターの真ん中に、二人並んで座って、ゆっくりと飲んだ。
窓の外は、もう、夜だった。黄昏は、とうに過ぎていた。
予約席の椅子は、空いていなかった。
第六部 放課後の店
一 受け皿の向き
十月の終わりの、火曜日の午後だった。
「……あ、あの、マスター。これで、いいですか」
カウンターの内側で、シズクドロップが、小さな声で訊いた。
高等部の一年生だった。この秋から、宵待ちで働きはじめて、まだ三週間だった。薄い水色がかった銀色の髪を、肩の上で切りそろえて、前髪を、小さな雫の形の髪留めで留めていた。背が低く、手が小さかった。その小さな手で、カップと受け皿を、慎重に持っていた。
カフェは、シズクの手元を見た。
受け皿の上に、カップが載っていた。カップの取っ手が、左を向いていた。
「……取っ手を、右に向けてください」
「あ、はいっ」
シズクは、慌てて、カップを回した。回しすぎて、受け皿の上で、カップがかちゃりと鳴った。シズクの耳が、びくっと跳ねた。
「……ご、ごめんなさい」
「大丈夫です。……もう一度、ゆっくり」
シズクは、深く息を吸った。それから、カップを、ゆっくりと回した。取っ手が、右を向いた。
「……できました」
「はい。それから、スプーンは、取っ手と同じ向きに。カップの手前に」
「はい……」
シズクは、スプーンを置いた。手が、少しだけ震えていた。
カフェは、それを見て、少しだけ考えた。
「……シズクさん」
「は、はい」
「なぜ、取っ手を右に向けるか、分かりますか」
シズクは、目を瞬いた。
「……え、えっと。……決まり、だから?」
「決まり、でもあります。でも、理由があります」
カフェは、自分の手で、カップを一つ、受け皿ごと持ち上げた。
「右手で、カップを持つ人が、多いからです。取っ手が右を向いていれば、置かれたまま、すぐに持てます。カップを回さなくていい。……座っている人が、何もしなくていいように、先に、こちらで向けておくんです」
「……座ってる人が、何もしなくていいように」
「はい。……でも、左手で持つ人もいます」
カフェは、カウンターの、入口から二番目の席を見た。今は、空いていた。
「火曜と金曜の夕方に来る、絵描きの方。……あの方は、左利きです。だから、あの方のカップは、取っ手を、左に向けます」
「……え」
「決まりは、座っている人のためにあります。決まりのために、座っている人がいるのでは、ありません」
シズクは、しばらく、カップを見下ろしていた。
それから、顔を上げた。
「……じゃあ、さっき、わたしが左に向けちゃったのも、もしかしたら、合ってたかもしれないってこと、ですか」
「……左利きの方なら、合っていました」
「……でも、今、お客さん、いないです」
「はい。だから、どちらでも、合っていませんでした」
シズクは、目を丸くして、それから、ぷっと吹き出した。慌てて口を押さえた。
カフェも、少しだけ、口元を緩めた。
シズクドロップがこの店に来たのは、九月の終わりだった。学園の掲示板に、宵待ちのアルバイトの募集を一枚だけ貼った。週に二日か三日、放課後の二時間。試験期間と、レースの前の週は、休み。それだけを書いた紙だった。
応募してきたのは、三人だった。その中で、シズクだけが、面接の最後に、こう言った。
――わたし、人前で話すの、すごく苦手で。……だから、練習したくて。静かなお店なら、練習できるかなって。
カフェは、その言葉を聞いて、シズクを雇うことにした。
コトノハリズムを雇ったときも、似たような理由だった。去年の春、コトノハは、面接で、こう言った。
――わたし、レースの前の日、緊張して、眠れないんです。何かしてないと、落ち着かなくて。……コーヒーの淹れ方、覚えたら、自分で淹れて、落ち着けるかなって。
二人とも、有名な店だから、とは言わなかった。カフェの昔のことも、一度も口にしなかった。
――言わないで、くれている。
カフェは、それを、知っていた。学園の生徒なら、誰でも、カフェのことを知っている。知っていて、二人とも、この店の中では、カフェを、ただ「マスター」と呼んだ。
扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
「こんにちはー! マスター、試験、終わりましたーっ!」
コトノハリズムだった。
二 試験のあと
コトノハは、扉の内側で、両手を高く上げていた。
学園の制服の上に、紺色のカーディガン。高い位置で結んだ栗色の髪が、跳ねるように揺れていた。顔が、晴れ晴れとしていた。
「……お疲れさまでした」
「化学、赤点じゃなかったです! ぎりぎりだけど!」
「……ぎりぎり」
「ぎりぎり、セーフです! マスターのクッキーのおかげ!」
「……クッキーのおかげでは、ないと思います」
「おかげです! 休憩のたびに、一枚ずつ、ちょっとずつ食べたんです。一気に食べると、なくなっちゃうから。……マスターがコーヒー飲むみたいに、ゆっくり」
カフェは、カウンターの内側で、手を止めた。
――ゆっくり。
コトノハは、それを、見ていたのだった。カフェが、カウンターの端で、自分の分のコーヒーを、少しずつ飲むのを。働きはじめてから、一年半。何も言わずに。
「……感想は」
「え?」
「試験の後のシフトで、感想を聞かせてください、と言いました」
コトノハは、目を瞬いた。それから、満面の笑みを浮かべた。
「胡桃が、大きかったです! ちょっと、しょっぱくて、甘くて。……化学のモルのこと考えてて、頭がぐちゃぐちゃになったとき、一口かじると、胡桃の、かりってするのが、なんか、頭の中のぐちゃぐちゃを、ちょっとだけ、砕いてくれる感じでした!」
「……頭の中を、砕く」
「はい! ……あ、変な感想ですか」
「……いいえ」
カフェは、少しだけ首を振った。
「いい感想です。……次の焼き菓子の、参考にします」
コトノハは、また、両手を上げた。
それから、カウンターの内側にいるシズクに気づいて、ぱっと笑った。
「あ、シズクちゃん! こんにちは!」
「……こ、こんにちは、コトノハ先輩」
「どう? 慣れた?」
「……カップの取っ手の向き、さっき、教わりました」
「あー、あれ! 左利きのお客さんの話でしょ!」
「……よく気づきましたね」
「わたしも、最初に、教わったもん! ……ね、マスター」
カフェは、頷いた。
コトノハは、エプロンを締めながら、シズクの隣に並んだ。
「シズクちゃん、あとね、お釣り渡すとき、声に出して数えるの。マスターがやってるやつ。あれ、最初、恥ずかしいけど、やってると、ぜったい間違えなくなるよ」
「……声に、出して」
「うん。千円お預かりします、五百五十円のお返しです、って。……マスター、それ、誰に教わったんですか?」
カフェは、カップを拭く手を止めた。
「……昔、同じ部屋に住んでいた友人に」
「へえ! その人も、お店の人だったんですか?」
「実家が、お店でした」
「そうなんだ。……じゃあ、シズクちゃんは、マスターの、マスターの、友だちの、お母さんの、やり方を、教わってるんだね」
「……え、えっと」
シズクが、指を折って数えはじめた。
カフェは、その様子を見ながら、少しだけ、胸の奥が、温かくなるのを感じた。
――ユキノさんの、お母様の、やり方。
十何年も前に、寮の部屋で、林檎を一つ、手渡されながら、教わったこと。それが、今、カウンターの内側で、高等部の子から、高等部の子へ、渡されていく。
扉の鈴が、鳴った。
カフェは、顔を上げた。
レッドだった。ランドセルを背負って、扉の内側で、一度立ち止まった。それから、コトノハを見つけて、ぱっと顔を明るくした。
「……コトノハおねえちゃん」
声は、小さかった。けれど、弾んでいた。
「レッドちゃん! おかえり! 試験、終わったよー!」
「……ママが、そう言ってた」
「宿題、見るよ! 約束したもんね!」
「……うん」
レッドは、カウンターの端の、いつもの席に、ランドセルを下ろした。それから、カウンターの内側のシズクに、小さく会釈した。シズクも、慌てて、会釈を返した。
二人とも、店の中では、声を小さくする子だった。
カフェは、レッドの指定席に、温めた牛乳のマグカップを置いた。
取っ手を、左に向けて。
レッドは、左利きだった。
三 土曜日の研究者
十一月の最初の土曜日の午後、アグネスタキオンが、宵待ちに来た。
扉の鈴が鳴ったとき、カフェは、顔を上げる前に、誰が来たのか分かった。紅茶の、甘い匂いがした。いつものように、学園の研究棟の自販機で、砂糖をたっぷり入れた紅茶を買って、それを飲みながら、ここまで歩いてきたのだと分かった。
「やあ、カフェ。……おや、今日は、小さな観測対象が二人もいるじゃないか」
白衣の上に、くたびれた灰色のコートを羽織っていた。長い袖が、手の先まで垂れていた。十何年経っても、袖の長さは、変わらなかった。
タキオンは、今、学園の研究棟で、競技者の身体の回復についての研究をしていた。引退した後、大学課程と、その先の研究の課程を経て、そのまま学園に残った。研究室の、カフェの側の半分は、カフェが卒業した後、タキオンの資料置き場になった。けれど、窓際の椅子だけは、今も、そのままにしてあるという。
土曜日の宵待ちには、娘たちがいた。
雅也は、土曜も、担当の練習があった。保育園も、学童も、土曜は休みだった。だから、土曜の午後は、娘たちが、店の奥の、二人掛けのテーブルの一つで、絵を描いたり、本を読んだりして過ごす。コトノハかシズクのどちらかが、シフトに入ってくれていた。今日は、コトノハだった。
「……タキオンちゃん!」
クインが、テーブルから、椅子を飛び降りて駆け寄った。
「タキオンちゃん、きょうも、おさとう、いっぱい?」
「やあ、クイーンズリング。今日も、砂糖は、いっぱいだ」
「なんで、いっぱいいれるの?」
「エネルギー効率の問題だよ。脳の主なエネルギー源は、ブドウ糖だからね。思考の速度を維持するためには、適切な――」
「ぶどう?」
「ブドウ糖。……ああ、ブドウとは、少し違うんだが」
「ぶどう、すき!」
「……それは、何よりだ」
タキオンは、困ったように眉を下げて、カフェの方を見た。
カフェは、カウンターの内側で、黙って、紅茶の葉を量っていた。
「……タキオンさん。いつもの、紅茶で、いいですか」
「頼むよ。砂糖は――」
「テーブルに、置いてあります。好きなだけ」
「さすがだ」
タキオンは、カウンターの、入口から五番目の席に座った。クインが、その隣の席によじ登ろうとした。コトノハが、慌てて、クインの脇を抱えて、椅子に座らせた。
「……クインちゃん、お客さんの席だよ」
「タキオンちゃん、おきゃくさん?」
「お客さんだよ」
「……でも、タキオンちゃんだよ」
「タキオンちゃんでも、お客さん」
クインは、少し考えて、それから、こくりと頷いた。
「……じゃあ、クインも、おきゃくさん」
「クインちゃんは、おきゃくさんじゃないよ」
「えー」
タキオンが、肩を揺らして、くつくつと笑っていた。
奥のテーブルで、レッドが、絵本から顔を上げずに、言った。
「……クイン。タキオンさんの、じゃましちゃだめ」
声は、小さかった。けれど、はっきりしていた。姉の声だった。
クインは、むっと頬を膨らませた。それから、椅子から降りて、奥のテーブルに戻っていった。戻る途中で、レッドの方を振り返って、べーっと舌を出した。レッドは、絵本から顔を上げなかった。けれど、耳が、ほんの少しだけ、クインの方を向いていた。
カフェは、紅茶を淹れて、タキオンの前に置いた。
タキオンは、角砂糖を、四つ入れた。それから、五つ目を、手に取って、少し迷ってから、入れた。
「……カフェ。上の子は、だいぶ、君に似てきたね」
「……そうでしょうか」
「声を小さくするところ。それから、見ていないふりをして、耳だけ向けるところ」
カフェは、何も答えなかった。
タキオンは、紅茶をかき混ぜながら、奥のテーブルの方を、ちらりと見た。
「下の子は、誰に似たのかな」
「……分かりません」
「トレーナー君かな」
「……雅也さんは、あんなに、大きな声は出しません」
「では、トレーナー君の、お母上かな」
カフェは、手を止めた。
タキオンは、紅茶を一口すすって、何でもないような顔をしていた。
タキオンは、知っていた。雅也の母のことを。誰から聞いたのか、カフェは知らない。雅也が話したのかもしれない。タキオンが、何かから推測したのかもしれない。けれど、タキオンは、それを、外で口にしたことは、一度もなかった。
「……かもしれません」
カフェは、それだけ言った。
タキオンは、満足そうに頷いて、また紅茶をすすった。
しばらく、二人とも、黙っていた。
奥のテーブルで、クインが、クレヨンで何か描いていた。レッドが、ときどき、横から覗き込んでいた。コトノハが、カウンターの内側で、カップを拭いていた。窓の外で、秋の午後の光が、少しずつ、傾きはじめていた。
「……カフェ」
「はい」
「今も、そこに、いるのかい」
タキオンは、紅茶のカップを持ったまま、窓際の、予約席の方を見ていた。
カフェも、そちらを見た。
「……います」
「そうか」
タキオンは、それ以上、何も訊かなかった。
昔なら、訊いた。どんな姿勢で、どちらを向いて、何をしているのか。記録を取りたがった。測りたがった。説明しようとした。
今は、訊かなかった。
「……私の観測ノートの、最後のページには、まだ、結論が書けていないよ」
タキオンは、紅茶のカップを置いて、言った。
「十何年、書けていない。……たぶん、一生、書けないのかもしれない」
「……」
「だが、それで、いいのかもしれないと、最近は思うんだ。……結論の出ない観測も、観測には違いない」
カフェは、カップを拭く手を止めて、タキオンの横顔を見た。
白い前髪の下の、赤い目が、窓際の、誰もいない椅子を、静かに見ていた。
「……タキオンさん」
「何だい」
「紅茶、もう一杯、いかがですか」
「……いただこう。砂糖は――」
「テーブルに、あります」
タキオンは、くつくつと笑った。
四 東北の林檎
その次の週の水曜日、ユキノビジンが、林檎の箱を抱えて、宵待ちに来た。
「カフェさーん! ひさしぶりだべー!」
扉の鈴が、勢いよく鳴った。
ユキノビジンは、明るい色のコートを着て、肩までの髪を、少し大人っぽく巻いていた。都会の百貨店で、地方の産物を集めた催しの企画をしているのだと、前に聞いた。仕事で、東北と東京を、何度も行き来しているのだと。
両手に、段ボールの箱を一つ、抱えていた。箱の横に、赤い林檎の絵が描いてあった。
「……ユキノさん。重かったでしょう」
「重かった! でも、母ちゃんがカフェさんとこさ持ってけって。今年一番いい林檎だって言ってたべ!」
「……ありがとうございます」
カフェは、カウンターの内側から出て、箱を受け取った。ずっしりと重かった。林檎の、甘い、少しだけ酸っぱい匂いが、箱の隙間から漏れてきた。
カウンターの内側で、シズクが、目を丸くして、ユキノビジンを見ていた。
「……あ、あの、いらっしゃいませ」
「あ、こんにちは! 新しいアルバイトさん?」
「……は、はい。シズクドロップです」
「シズクちゃん! めんこい名前だべ!」
ユキノビジンは、カウンターの、入口から四番目の席に座った。開店の日に座った席と、同じ席だった。
「……カフェさん、宵待ちブレンド、ください」
「はい」
カフェは、豆を量った。挽いた。湯を落とした。
その間、ユキノビジンは、カウンターに頬杖をついて、シズクと話していた。どこの出身か。何年生か。走っているのか。シズクは、最初、小さな声で、短く答えていた。けれど、ユキノビジンが、自分の実家の林檎畑の話をはじめると、少しずつ、声が大きくなっていった。
「……わたしの実家も、果物、作ってるんです。さくらんぼ、ですけど」
「さくらんぼ! いいなぁ!」
「……でも、さくらんぼ、すぐ傷むから、売るの、大変で。……母が、いつも、お店の前で、お客さんに、声かけてて」
「わかるー! おらの母ちゃんも店先で、いっつも声を張り上げてたべ!」
カフェは、カップを、ユキノビジンの前に置いた。
ユキノビジンは、両手でカップを持って、一口飲んだ。それから、「……ああ、カフェさんの味だ」と、小さく言った。
シズクが、レジの前で、別の客の会計をはじめた。小さな声で、けれど、はっきりと、声に出して数えていた。
「……せ、千円お預かりします。……さんびゃくはちじゅう、円の、お返しです」
ユキノビジンの手が、止まった。
カップを持ったまま、シズクの方を見た。それから、カフェの方を見た。
「……カフェさん」
「はい」
「あれ」
「……はい」
「あれ、母ちゃんがいつもやってた数え方だべ」
カフェは、カウンターの内側で、静かに頷いた。
「……ユキノさんに、教わりました。大学課程の、寮の部屋で。千円、なくした夜に」
ユキノビジンは、何も言わなかった。
カップを、ゆっくりとカウンターに置いた。目が、少しだけ、潤んでいた。
会計を終えたシズクが、カウンターの内側に戻ってきた。ユキノビジンが、シズクを見上げた。
「……シズクちゃん」
「は、はい」
「今の、お釣りの数え方。……それ、誰に教わったの?」
「……マスターと、コトノハ先輩に。……あ、えっと、コトノハ先輩が、マスターの、マスターの、友だちの、お母さんの、やり方だって」
ユキノビジンは、ぷっと吹き出した。
それから、カウンターに突っ伏して、肩を震わせて笑った。笑いながら、目元を、手の甲でこすっていた。
「……その、友だち、おらだべ」
「……え」
「そんで、そのお母さん、おらの母ちゃんだべ」
シズクは、目を丸くした。それから、カフェの方を見た。カフェは、黙って頷いた。
「……え、ええっ」
「母ちゃんに話すべ。カフェさんの店の子が、母ちゃんのやり方でお釣りを数えてたって。……きっと喜ぶべなぁ」
ユキノビジンは、また笑った。
シズクは、まだ、目を丸くしたまま、カフェとユキノビジンの顔を、交互に見ていた。
カフェは、カウンターの内側で、届いたばかりの林檎の箱を開けた。一番赤いのを一つ取って、丁寧に皮を剥いて、小さく切って、皿に載せた。
ユキノビジンの前に、置いた。
「……サービスです」
「……それ、おらの林檎だべ」
「はい。ユキノさんの林檎です」
ユキノビジンは、八年前の開店の日と、まったく同じことを言った。
カフェも、まったく同じことを答えた。
二人で、顔を見合わせて、笑った。
第七部 トレーナーの席
一 三人の朝
十一月の第二月曜日、朝の五時四十分。
学園の練習コースは、まだ、夜の名残の青さに沈んでいた。外ラチの白い柱が、薄闇の中に、ぼんやりと浮かんでいた。芝の先に、霜が降りかけていた。吐く息が、白かった。
早瀬雅也は、コースの脇に立って、記録用の板を小脇に抱えていた。首から、ストップウォッチを下げていた。手袋の指先を、何度か握ったり開いたりした。冷えていた。四十を過ぎてから、冬の朝の冷えが、指先に、前より長く残るようになった。
コースの向こうから、三つの足音が近づいてきた。
「おはようございます、トレーナー」
最初に声をかけてきたのは、ミナヅキセレネだった。
シニア級の二年目。背が高く、長い黒髪を、首の後ろで低く一つに束ねていた。落ち着いた灰色の目をしていた。長い距離を、最後まで同じ形で走りきる脚だった。今年の春、京都の三千二百メートルで、初めての大きなタイトルを取った。それでも、勝った翌朝の練習に、いつもと同じ時間に、いつもと同じ顔で現れた。
「おはよう、セレネ。……昨日の夜、眠れたか」
「七時間。寝つきは、少し遅かったです。十一時半くらい」
「理由は」
「カザハナが、夜中に、部屋で、ストレッチしてました。……壁が薄いので」
セレネの後ろで、小柄なウマ娘が、びくっと肩をすくめた。
「……ご、ごめんなさい、セレネ先輩」
カザハナノートだった。
クラシック級。明るい栗色の髪を、両耳の上で二つに結んでいた。大きな目が、少しだけ赤くなっていた。千六百から二千の距離で、ゴールの手前で、もう一度伸びる脚だった。今週の日曜日、京都で、秋のマイルの大きなレースに出る。
「眠れなかったのか」
「……ちょっとだけ」
「ちょっと、ってどのくらいだ」
「……五時間、くらい」
雅也は、記録用の板に、数字を書き込んだ。
「今日の練習、軽めにする。坂路一本と、ゲートの確認だけ」
「え、でも、日曜――」
「日曜だからだ。……今週は、身体を、日曜に合わせて整える週だ。眠れない分を、練習で取り返そうとしなくていい」
カザハナは、何か言いたそうに口を開いた。それから、閉じた。
雅也は、それを見ていた。何も訊かなかった。今は、まだ。
「……トレーナー」
最後の一人が、低い声で言った。
イブキフォルテだった。
ジュニア級。この夏にデビューしたばかりだった。三人の中で一番小柄で、一番、肩幅が広かった。短く切った焦げ茶色の髪が、寝癖で、あちこちに跳ねていた。砂の上を、力でねじ伏せるように走る脚だった。北の方の、小さな町の出身だった。砂のレースで、いつか、一番大きな舞台に立ちたいと言っていた。
「どうした」
「……左の、足首」
イブキは、自分の左足を、少しだけ前に出した。
「朝、起きたとき、ちょっとだけ、変な感じ、した。……痛くはない。でも、なんか、いつもと違う」
雅也は、記録用の板を、脇に挟んだ。
「いつから」
「今朝。……昨日の夜は、何ともなかった」
「歩いてみてくれ。……ゆっくり。ここから、あの柱まで」
イブキは、言われた通りに、歩いた。
雅也は、イブキの足元を見ていた。左の足首の、着地の角度。体重の乗せ方。ほんのわずかに、左の着地が、右より浅かった。浅いのを、イブキ自身が、無意識に、右でかばおうとしていた。
――見ただけでは、分からない。
雅也は、それを、自分に言い聞かせた。何かあるのか、ないのか。それを判断するのは、自分ではない。
「……イブキ。今朝の練習は、なしだ」
イブキが、振り返った。眉が、ぐっと寄っていた。
「……なんで」
「左の着地が、右より浅い。……何でもないかもしれない。でも、何でもないかどうかを決めるのは、俺じゃない。八時に、医療スタッフのところへ行く。俺も一緒に行く」
「痛くないって、言ってる」
「痛くないのは、本当だと思う。……いつもと違うって、言ってくれたのも、本当だと思う。だから、診てもらう」
「……土曜の、レースは」
イブキの声が、少しだけ、低くなった。
土曜日に、ジュニア級の、砂の小さなレースがあった。デビューして、二戦目。イブキが、夏からずっと、目標にしてきたレースだった。
雅也は、イブキの目を、まっすぐに見た。
「……まだ、分からない。診てもらってから、一緒に決める」
イブキは、何も言わなかった。
唇を、きつく結んでいた。それから、ふいと顔を背けた。
セレネが、イブキの肩に、そっと手を置いた。イブキは、それを振り払わなかった。
「……セレネ。カザハナ。二人は、予定通り。セレネは坂路三本。カザハナは坂路一本と、ゲート。俺は、イブキと、八時まで、ここで待つ」
「はい」
「……はい」
二人が、坂路の方へ歩いていった。
イブキは、コースの脇の、冷たいベンチに、どさりと座った。腕を組んで、前を見ていた。雅也は、その隣に、黙って座った。
空が、少しずつ、白みはじめていた。
二 分からないこと
八時。学園の医療棟の、診察室の前の廊下だった。
イブキは、廊下の長椅子に座って、膝の上で、拳を握っていた。雅也は、その隣に立っていた。
診察室の扉が開いて、医療スタッフの女性が、二人を呼んだ。
診察は、三十分ほどかかった。足首を触って、動かして、押して、それから、機械で画像を撮った。イブキは、その間、一言も喋らなかった。
医療スタッフは、画像を見ながら、ゆっくりと言った。
「……今の時点で、はっきりした損傷は、見当たりません」
イブキの肩が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「ただ、左の足首の周りに、軽い炎症の兆候があります。疲労の蓄積だと思います。……今日明日は、強い負荷を避けてください。水曜日に、もう一度診ます。そこで炎症が引いていれば、土曜日の出走は、可能だと思います。引いていなければ――」
「出られない、ってこと」
イブキが、低い声で言った。
「……その可能性があります」
イブキは、また、拳を握った。
雅也は、医療スタッフに、頭を下げた。
「ありがとうございます。……水曜日、また連れてきます」
「お願いします。……早瀬トレーナー、気づいたのは、今朝ですか」
「本人が、今朝、言ってくれました。……いつもと違う、と」
「いい申告です」
医療スタッフは、イブキの方を見て、少しだけ笑った。
「痛くないうちに、違うって言えるのは、大事なことですよ」
イブキは、何も答えなかった。
医療棟を出ると、朝の光が、学園の中庭の銀杏を、金色に照らしていた。冷たい風が、落ち葉を、石畳の上で転がしていた。
イブキは、早足で、雅也の前を歩いていた。
雅也は、少し後ろを、黙ってついていった。
中庭の真ん中で、イブキが、急に立ち止まった。振り返らなかった。
「……トレーナー」
「うん」
「言わなきゃ、よかった」
低い声だった。
「足首。……言わなきゃ、今朝、普通に練習して、土曜、普通に走れた。……痛くなかったんだから」
雅也は、イブキの背中を見ていた。
小柄で、肩幅の広い背中だった。その肩が、少しだけ、震えていた。
「……そうかもしれない」
雅也は、言った。
イブキが、振り返った。驚いた顔をしていた。
「言わなくても、何ともなかったかもしれない。土曜、普通に走れたかもしれない。……俺には、分からない。医療スタッフにも、たぶん、全部は分からない」
「……」
「でも、言ってくれなかったら、もし、何かあったとき、俺は、気づけなかった。……イブキが、話してくれたから、自分の見えていないことにも、目を向けられた」
イブキは、眉を寄せた。
「……意味、わかんない」
「俺も、うまく言えない」
雅也は、少しだけ笑った。
「イブキ。……俺は、怪我を防げるトレーナーじゃない。そんなこと、誰にもできない。……俺にできるのは、イブキが、いつもと違うって言ってくれたときに、ちゃんと聞いて、ちゃんと診てもらって、一緒に決めることだけだ」
「……」
「今朝、イブキは、言ってくれた。……ありがとう」
イブキは、何も言わなかった。
しばらく、雅也の顔を見ていた。それから、ふいと、また前を向いた。
「……水曜、炎症、引いてたら、走る」
「うん」
「引いてなかったら」
「……そのときは、また、一緒に決めよう」
「……走れなかったら、次の、いつ」
「十二月の、二週目に、同じ距離のがある。……砂の、ジュニアの」
イブキは、また、黙った。
中庭の銀杏から、黄色い葉が、一枚、ひらりと落ちてきた。イブキの肩に、乗った。イブキは、それを、指でつまんで、しばらく見ていた。
「……十二月なら、地元の、じいちゃん、見に来れるかも」
ぽつりと、言った。
「土曜は、じいちゃん、漁協の仕事で、来れないって、言ってたから」
雅也は、何も言わなかった。
イブキは、銀杏の葉を、ポケットにしまった。それから、また、早足で歩き出した。
今度は、雅也が追いつけるくらいの、速さで。
三 取材の席
その週の火曜日の午後、学園の広報室の小さな応接室で、雅也は、スポーツ誌の記者と向かい合っていた。
日曜日のマイルのレースの、事前取材だった。カザハナノートについての質問が、半分。残りの半分は、雅也自身についての質問だった。
記者は、四十代くらいの、落ち着いた男性だった。手元の手帳に、細かい字で、何かを書きつけていた。
「……早瀬トレーナーは、これまでに担当されたウマ娘の中に、故障で競技生活を終えた方が、一人もいらっしゃいませんね」
雅也は、出されたお茶のカップに、手を伸ばしかけて、止めた。
「……はい」
「最初の担当の方が、二十一戦二十一勝。二人目の方が、フランスの大きなレースを。三人目の方が、無敗で三冠を。……そして、どなたも、故障ではなく、ご自身の意思で引退されている。これは、業界の中でも、かなり珍しいことだと聞いています」
「……そうかもしれません」
「何か、秘訣のようなものが」
雅也は、少しだけ、考えた。
この質問は、何度も受けてきた。何度受けても、同じ答えしか、できなかった。
「……秘訣は、ありません」
記者が、ペンを止めた。
「走ったのは、本人たちです。私がやったことでは、ありません」
「ですが――」
「故障しなかったのも、本人たちが、自分の身体のことを、正直に話してくれたからです。……いつもと違う、と。少し指先が冷たい、と。眠れなかった、と。そういうことを、毎日、話してくれた。私は、それを聞いて、医療スタッフに、つないだだけです」
雅也は、お茶のカップを手に取った。少し冷めていた。
「怪我を、防げるわけではありません。……私の担当の子たちが、故障しなかったのは、運もあります。たまたま、です。次の子が、故障しないという保証は、どこにもありません」
「……」
「ですから、記事に、故障を防げるトレーナー、とは、書かないでください。……今、担当している子たちが、それを読んで、自分たちが怪我をしたら、トレーナーの記録に傷がつく、と思ってしまったら、困るので」
記者は、しばらく、雅也の顔を見ていた。
それから、手帳の、さっき書いた何行かに、ペンで線を引いた。
「……分かりました。その言葉、そのまま、使わせてもらってもいいですか。故障を防げるトレーナー、とは書かないでください、と」
「……それは、構いません」
記者は、少しだけ笑って、また手帳に書き込んだ。
取材が終わって、応接室を出ると、廊下で、同じ年頃の女性トレーナーと、すれ違った。南雲という人だった。雅也と同じ時期にライセンスを取って、同じ時期に独立した。担当の子たちを、一人ずつ、丁寧に、長く見る人だった。この秋、南雲の担当の子が、長い距離の大きなレースで、セレネと競り合って、勝った。
「早瀬くん。取材?」
「ああ。……日曜の」
「カザハナちゃんね。……うちの子も、出るのよ。マイル」
「ああ。……簡単には勝たせてくれない相手だ」
「お互いさまよ」
南雲は、笑って、手を振って、廊下を歩いていった。
雅也は、その背中を、少しだけ見送った。
――手強い。
本当だった。中央のトレーナーは、みんな、そうだった。誰もが、厳しい試験を通って、何年も現場で学んで、それぞれのやり方で、担当の子を見ている。自分だけが、特別なわけではない。自分の担当の子たちが、故障しなかったのも、自分だけの力ではない。
だから、書いてほしくなかった。
四 壁の薄い部屋
その日の夕方の練習の後、雅也は、カザハナノートを、コースの脇のベンチに呼んだ。
夕陽が、コースの芝を、斜めから、橙色に照らしていた。冷たい風が、ベンチの上を吹き抜けていった。カザハナは、ジャージの上着の前を、首まで閉めて、ベンチの端に、ちょこんと座った。
「……カザハナ」
「……はい」
「昨日の夜は、何時間眠れた」
「……六時間、です」
「一昨日より、一時間増えたな」
「……はい」
雅也は、それ以上、何も言わなかった。
カザハナの横顔を、見ていた。ゴールの手前で、もう一度伸びる脚を持った子だった。春のクラシックの最初のレースで、三着だった。ダービーで、五着だった。秋のトライアルで、二着だった。強い子だった。けれど、まだ、大きなタイトルを、一つも取っていなかった。
しばらくして、カザハナが、口を開いた。
「……トレーナー」
「ん」
「わたし、こわいんです」
小さな声だった。
「日曜。……負けるのが、こわいんじゃなくて」
「……」
「トレーナーの、担当なのに、って。……言われるのが、こわいんです」
雅也は、カザハナの方を見た。
カザハナは、膝の上で、両手を、ぎゅっと握りしめていた。
「早瀬トレーナーの担当は、みんな、すごいじゃないですか。……最初の人は、二十一戦全勝で。二人目の人は、フランスで勝って。アカツキ先輩は、無敗の三冠で。セレネ先輩は、春の天皇賞で。……わたしだけ、まだ、何も取れてなくて」
「……」
「セレネ先輩は、優しいし、イブキは、まだジュニアだから、言われないけど。……わたしは、クラシックで、もう、三回、負けてて。……早瀬トレーナーの担当なのに、って、記者の人とか、ファンの人とかに、言われてるの、知ってて」
カザハナの声が、少しだけ、震えていた。
「……日曜、負けたら、また、言われる。……トレーナーに、迷惑、かける」
雅也は、しばらく、何も言わなかった。
夕陽が、コースの向こうの林に、沈みかけていた。空が、橙から、紫へと、色を変えていた。
「……カザハナ」
「……はい」
「今日、記者に、取材された」
「……はい」
「俺の担当の子に、故障した子がいないのは、なぜか、って訊かれた」
カザハナが、顔を上げた。
「秘訣はない、って答えた。……走ったのは、本人たちだ。俺がやったことじゃない。故障しなかったのも、本人たちが、正直に話してくれたからだ。俺は、聞いて、つないだだけだ」
「……」
「勝ったのも、同じだ。……最初の子が、二十一回勝ったのは、その子が走ったからだ。二人目が、フランスで勝ったのも。アカツキが、三冠を取ったのも。セレネが、春に勝ったのも。……俺が勝ったんじゃない」
雅也は、ベンチの背にもたれた。
「だから、カザハナが負けても、俺の記録に、傷はつかない。……そもそも、俺に、記録なんてない。記録は、全部、走った子たちのものだ」
「……でも」
「それでも、言う人はいる。……俺には止められない。そこは変えられない」
雅也は、カザハナの方を見た。
「……一つだけ、言えることがある」
「……」
「カザハナの、ゴールの手前で、もう一度伸びる脚。……あれは、俺が教えたんじゃない。最初の選抜のとき、もう、持ってた。俺は、それを見て、声をかけた。……カザハナが、あの脚を持ってたから、俺は、カザハナの担当になりたいと思った」
カザハナは、何も言わなかった。
目が、大きく見開かれていた。
「日曜は、その脚で、走ればいい。……早瀬の担当として、じゃなくて。カザハナノートとして」
しばらく、沈黙があった。
コースの向こうで、最後の夕陽が、林の向こうに消えた。空が、深い紫色に沈んでいった。
「……トレーナー」
「ん」
「……ありがとうございます」
「礼は、いらない。……今日は、早く寝ろ。ストレッチは、九時までに」
カザハナが、ぷっと吹き出した。
「……セレネ先輩に、言いました?」
「言われた。壁が薄いって」
「……ごめんなさい」
「俺に謝るな。セレネに謝れ」
カザハナは、声を立てて笑った。笑いながら、目元を、ジャージの袖で、ぐいっと拭った。
五 土曜日の約束
その夜、雅也が家に帰ったのは、九時を過ぎていた。
玄関の明かりを点けると、廊下の奥の居間から、細い光が漏れていた。娘たちは、もう眠っている時間だった。
居間のソファーで、カフェが、一枚のプリントを膝の上に置いて、座っていた。
「……おかえりなさい」
「ただいま。……起きてたのか」
「はい」
カフェは、膝の上のプリントを、雅也の方へ差し出した。
小学校の、学年だよりだった。一番上に、大きな字で、こう書いてあった。
――学習発表会のお知らせ。十一月十五日(土)、九時半より。
雅也は、プリントを受け取って、その日付を、しばらく見ていた。
十一月十五日。今週の、土曜日。
カザハナのレースは、日曜日だった。京都だった。土曜の朝の新幹線で、カザハナと一緒に、京都へ入る予定だった。前の日のうちに、現地の空気に慣れさせる。宿で、ゆっくり眠らせる。それが、カザハナのためだった。
「……忘れてた」
雅也は、正直に言った。
「先月、レッドが劇の台詞を練習するって話してたのは、頭に残ってた。……でも、肝心の日付を確かめてなかった」
「……はい」
カフェの声は、責めていなかった。
責めていないことが、かえって、雅也には、重かった。
「レッドには、言ったのか」
「……言っていません。雅也さんが、来られるかどうか、分からなかったので」
「……」
「レッドは、雅也さんが来ると、思っています。……毎晩、寝る前に、自分の台詞を、練習しています。お父さんに聞かせる、と言って」
雅也は、プリントを持ったまま、ソファーの隣に、腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
居間の時計の、秒針の音だけが、聞こえていた。
「……カザハナが、日曜、京都で走る」
「はい」
「土曜の朝に、一緒に、京都に入る予定だった。……前の日に、現地に慣れさせて、宿で、ちゃんと眠らせたい。今週、ずっと、眠れてなかったから」
「……はい」
「でも、レッドの発表会は、九時半からだ」
「……はい」
カフェは、それ以上、何も言わなかった。
どうしろ、とも。どちらを選べ、とも。
雅也は、それが、カフェの答えだと分かっていた。決めるのは、雅也だ、と。雅也の仕事のことは、雅也が決める。それは、二人の間で、ずっと前から、決まっていることだった。カフェの店のことは、カフェが決めるのと、同じように。
けれど、レッドのことは、雅也一人のことではなかった。
「……カフェ」
「はい」
「ごめん。……日付、確かめなかったのは、俺だ」
「……はい」
「それで、相談したい。……一緒に、考えてくれるか」
カフェは、雅也の顔を見た。
それから、少しだけ、肩の力を抜いた。
「……はい。一緒に、考えます」
二人で、プリントを、もう一度見た。
学習発表会は、九時半から、十一時半まで。一年生の劇は、プログラムの、二番目だった。九時四十五分から、十時十分まで。
「……一年生の劇、二番目だな」
「はい。……レッドは、木の役です。台詞は、一つだけ」
「十時十分に終わる」
「はい」
「学校から、駅まで、二十分。……十時四十分の新幹線なら、間に合うかもしれない」
「……カザハナさんは」
「カザハナは、セレネに、頼めるかもしれない。……セレネは、今週、レースがない。京都は、セレネも、何度も走ってる。朝の新幹線で、カザハナと一緒に先に入ってもらって、俺は、一本遅れて追いかける」
「……セレネさんに、頼んで、いいんですか」
「頼んでみる。……断られたら、また考える」
カフェは、少し考えるように、黙った。
「……カザハナさんは、大丈夫でしょうか。雅也さんが、一緒じゃなくて」
「……分からない」
雅也は、正直に言った。
「明日、カザハナに、訊く。……俺が、一本遅れても、いいか、って。カザハナが、嫌だって言ったら、俺は、朝の新幹線に乗る。そのときは、レッドに、俺から、ちゃんと謝る」
カフェは、雅也の顔を、しばらく見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……はい。それで、いいと思います」
「……いいか」
「はい。……レッドに謝ることになったら、私も、一緒に、そばにいます」
雅也は、プリントを、テーブルの上に置いた。
それから、カフェの肩に、そっと、額を預けた。
「……ありがとう」
「……疲れていますね」
「……疲れてる」
「コーヒー、淹れましょうか。薄めの。眠れるように」
「……頼む」
カフェは、雅也の頭に、そっと手を置いた。
それから、立ち上がって、台所へ行った。湯を沸かす音がした。豆を挽く、低い音がした。
雅也は、ソファーの背にもたれて、目を閉じた。
台所から、コーヒーの香りが、ゆっくりと流れてきた。
次の日の朝、練習の後で、雅也は、カザハナとセレネに、事情を話した。
セレネは、すぐに、「行きます」と言った。それから、少しだけ笑って、「トレーナーの娘さんの、劇ですね」と言った。
カザハナは、少し黙っていた。
それから、言った。
「……トレーナー、行ってください。娘さんの、劇」
「……いいのか」
「はい。……セレネ先輩と、先に行ってます。京都の、宿で、早く寝ます。九時までに、ストレッチ、終わらせます」
「……」
「トレーナーが、来るまでに、ちゃんと、眠れる準備、しておきます。……わたしの脚のことは、わたしが、一番、分かってるので」
雅也は、カザハナの顔を見た。
昨日の夕方、ベンチで、泣きそうになっていた子の顔では、なかった。
「……分かった。頼む」
「はいっ」
水曜日、イブキフォルテの左の足首は、炎症が、まだ少しだけ残っていた。
医療スタッフは、土曜日の出走は、見合わせた方がいい、と言った。
イブキは、診察室の椅子の上で、しばらく黙っていた。それから、「……十二月、二週目」とだけ言った。雅也は、「うん。十二月、二週目」と答えた。イブキは、それ以上、何も言わなかった。
けれど、診察室を出るとき、ポケットから、黄色い銀杏の葉を出して、一度だけ見て、またしまった。
六 木の役
土曜日の朝、九時四十五分。
小学校の体育館は、保護者で、いっぱいだった。
カフェは、クインを膝の上に乗せて、後ろの方の席に座っていた。雅也は、その隣に立っていた。上着の内ポケットに、十時四十分の新幹線の切符が、入っていた。
舞台の幕が上がった。
一年生の劇は、森の動物たちの話だった。うさぎと、きつねと、くまと、ふくろう。それから、森の木が、三本。
レッドは、真ん中の木だった。
緑色の紙の葉っぱを、頭と、両腕に、たくさんつけていた。茶色い布を、身体に巻いていた。舞台の真ん中で、両腕を、枝のように、横に広げて、じっと立っていた。
顔が、こわばっていた。
客席を、見ていた。誰かを、探していた。
雅也は、後ろの方の席から、少しだけ、手を上げた。
レッドの目が、止まった。
それから、ほんの少しだけ、顔がほどけた。
劇は、進んでいった。うさぎが、迷子になった。きつねが、道を教えた。くまが、蜂蜜を分けた。ふくろうが、夜になったと告げた。
森が、暗くなった。舞台の明かりが、少しだけ、落とされた。
真ん中の木が、両腕を広げたまま、一歩、前に出た。
「……だいじょうぶ。よるは、こわくないよ」
小さな声だった。
けれど、体育館の、後ろの席まで、ちゃんと届いた。
「よるが、くるまえに、そらが、きれいないろに、なるから。……それを、みてから、ねむれば、こわくないよ」
客席が、静かになった。
レッドは、台詞を言い終えて、また一歩、後ろに下がった。両腕を広げたまま。木に戻った。
カフェの膝の上で、クインが、「……おねえちゃん、じょうず」と、小さく言った。
カフェは、何も言わなかった。
言えなかった。
――よるが、くるまえに、そらが、きれいないろに、なるから。
台詞を、知らなかった。レッドは、毎晩、寝る前に練習していた。けれど、「本番まで、ないしょ」と言って、カフェには、聞かせてくれなかった。お父さんに、一番に、聞かせたいから、と。
横を見ると、雅也が、舞台の方を見たまま、動かなかった。
口元が、わずかに、震えていた。
十時十分、一年生の劇が終わった。
拍手の中で、レッドが、木の格好のまま、舞台の上から、客席の後ろの方へ、小さく手を振った。
雅也が、手を振り返した。
それから、カフェの方を向いて、少しだけ掠れた声で、言った。
「……行ってくる」
「いってらっしゃい」
「レッドに、伝えてくれ。……台詞、全部、聞こえた。後ろの席まで、ちゃんと届いてた。一歩前に出たのが、よかった。……帰ったら、もう一回、聞かせてほしいって」
「……はい」
雅也は、クインの頭を一度撫でて、体育館の後ろの扉から、静かに出ていった。
次の日の午後、家の居間のテレビの前で、カフェと、レッドと、クインは、並んで座っていた。
京都の、秋のマイルの大きなレースだった。
カザハナノートは、ゴールの手前で、もう一度、伸びた。
前にいた子を、最後の数歩で、かわした。
一着だった。
テレビの画面の中で、カザハナが、スタンドに向かって、両手を高く上げていた。泣いていた。笑っていた。
レッドが、テレビに向かって、小さく拍手した。クインが、それを真似して、大きく拍手した。
しばらくして、テレビの画面に、勝利の後のインタビューが映った。カザハナの隣に、雅也が立っていた。記者に、マイクを向けられていた。
『早瀬トレーナー、おめでとうございます』
『ありがとうございます。……走ったのは、彼女です。私は、そこまで一緒にいただけです』
いつもの、言葉だった。
レッドが、テレビを見たまま、言った。
「……パパ、いつも、それ、いうね」
「……言いますね」
「ほんとのこと?」
カフェは、少しだけ、考えた。
「……本当のことです。でも、全部じゃ、ありません」
「ぜんぶじゃないの?」
「パパは、そこまで、一緒にいました。……一緒にいるのは、とても、大事なことです」
レッドは、少し首を傾げた。それから、何かを思い出したように、言った。
「……きのう、パパ、いっしょに、いてくれた」
「はい」
「いっぽ、まえにでたの、よかったって」
「……はい。そう、言っていました」
レッドは、テレビの画面の中の雅也を、じっと見ていた。
それから、小さく、笑った。
第八部 母が来る日
一 帽子の人
十一月の終わりの、木曜日の午後二時過ぎ、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
つばの広い、深い緑色の帽子をかぶった女性が、入ってきた。
大きな眼鏡をかけて、首に、柔らかい生成りのマフラーを巻いていた。厚手の、焦げ茶色のコートを着ていた。帽子の下から、明るい色の髪が、少しだけこぼれていた。耳が、帽子の脇の、小さな穴から、ぴょこんと出ていた。
女性は、扉の内側で立ち止まって、店の中を、ぐるりと見回した。
カウンターに、沢井さんが一人。テーブルの一つに、若い女性の二人連れ。それだけだった。
女性は、眼鏡の奥で、にっこりと笑った。それから、声を、うんと小さくして、言った。
「……こんにちは〜」
「……いらっしゃいませ」
カフェは、カウンターの内側で、小さく頭を下げた。
女性は、カウンターの、入口から六番目の席に、そっと座った。予約席の、一つ手前の席だった。帽子は、取らなかった。
「……宵待ちブレンド、くださいな」
「はい」
カフェは、豆を量った。挽いた。湯を沸かした。
女性は、カウンターに頬杖をついて、カフェの手元を、楽しそうに見ていた。眼鏡の奥の目が、湯を落とす細い流れを、追いかけていた。
カフェは、カップを、女性の前に置いた。取っ手を、右に向けて。
「……どうぞ」
「ありがと〜」
女性は、両手でカップを持って、香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。それから、一口飲んだ。
「……ん〜っ。おいしい〜」
声は、小さかった。けれど、ほとんど、弾けそうだった。
「今日ね、この近くで、お仕事だったの。収録。……終わったの、一時半で。次まで、ちょっと時間あって。そしたら、もう、足が勝手に、こっち向いてたの」
「……そうでしたか」
「カフェちゃんのコーヒー、飲みたくなっちゃって」
カフェは、カウンターの内側で、少しだけ、口元を緩めた。
――お母さん。
声には、出さなかった。店の中では、出さないことにしていた。この人が、そう望んだからだった。
ハイセイコーは、雅也の母だった。
国中の人が、その名前を知っていた。昔、大きなレースで、たくさんの人に愛された人。今も、歌って、踊って、舞台の上で、たくさんの人を熱狂させている人。テレビをつければ、どこかのチャンネルで、明るい笑い声を響かせている人。
その人が、雅也の母だということを、世間は、知らない。
ハイセイコーが結婚していて、息子が一人いる。それだけは、知られていた。けれど、その息子が誰なのかは、一度も、公にされたことがなかった。雅也の名前も、顔も。ハイセイコーが、何十年も、守ってきたことだった。
――息子には、息子の人生があるから。
いつか、ハイセイコーは、カフェにそう言った。明るい声で。けれど、そのときだけは、少しだけ、静かな声で。
だから、宵待ちに来るとき、ハイセイコーは、帽子をかぶって、眼鏡をかけて、マフラーを巻いてくる。そして、カウンターに座って、ただの客として、コーヒーを一杯、飲んでいく。
カフェも、ただの客として、出迎える。
ハイセイコーが宵待ちに来る理由は、いつも、少しずつ違った。仕事の合間に、コーヒーを一杯だけ飲みに来る日。雅也の顔色を、カフェの口から確かめに来る日。学童の帰りのレッドと、店の前で鉢合わせして、そのまま手をつないで公園へ行ってしまう日。父の誕生日の前に、父の好きな豆を、小さな袋で買いに来る日。一度だけ、何も言わずに来て、何も言わずに一杯飲んで、帰り際に「今日は、ちょっと、疲れちゃったの」とだけ言った日もあった。カフェは、その日、何も訊かなかった。次に来たとき、ハイセイコーは、いつもの明るい声で、「この前は、ありがとね〜」と言った。
テーブルの若い女性の二人連れが、ちらちらと、こちらを見ていた。何か、小声で囁き合っていた。一人が、手元の端末を、そっと持ち上げかけて、もう一人に、腕を押さえられていた。
ハイセイコーは、それに気づいていた。気づいていて、何でもないような顔で、コーヒーを、もう一口飲んだ。
「……カフェちゃん」
「はい」
「雅也、ちゃんと寝てる?」
小さな声だった。
カフェは、カップを拭く手を止めずに、答えた。
「……この前の週末は、少し、寝不足でした。担当の子のレースが、京都であったので」
「あ〜、見た見た! マイルの! カザハナちゃん! 勝ったね〜!」
「はい」
「あの子、最後に、ぐーんって伸びたね! お母さん、テレビの前で、跳ねちゃった。お父さんに、うるさいって言われた」
ハイセイコーは、くすくすと笑った。
「……それで、雅也、インタビューで、また言ってたでしょ。走ったのは、彼女です、って」
「はい」
「あの子、ほんと、昔から、ああなの。……自分のことで、褒められると、困った顔するの。人のことだと、すっごく嬉しそうにするのに」
「……ええ。自分のことになると、今でも少し不器用です」
カフェは、そう言ってから、自分の言葉に、少しだけ驚いた。
ハイセイコーが、眼鏡の奥で、目を細めた。
「……そうだよね。カフェちゃんは、ずっとそばで見てきたんだものね」
ハイセイコーは、それ以上、何も言わなかった。
カップを両手で包んで、窓の外を見ていた。十一月の終わりの、午後の光が、西の窓から、斜めに差し込んでいた。予約席の椅子の上に、その光が、柔らかく落ちていた。
ハイセイコーは、その椅子の方を、ちらりと見た。
何も、言わなかった。
二時四十分、ハイセイコーは、カップの最後の一口を飲み終えた。
「……ごちそうさま〜。おいしかった」
「ありがとうございます」
レジの前で、ハイセイコーは、財布から代金を出した。カフェは、声に出して、釣り銭を数えた。
「……千円、お預かりします。四百五十円の、お返しです」
「はい、ありがと」
ハイセイコーは、釣り銭を受け取って、財布にしまった。それから、少しだけ身を乗り出して、カフェにだけ聞こえる声で、言った。
「……レッドちゃんとクインちゃんに、よろしくね。日曜、お父さんと、遊びに行くから」
「……はい。待っています」
「それから」
「はい」
「雅也に、ちゃんと寝なさいって。……お母さんが、言ってたって」
「……伝えます」
ハイセイコーは、にっこりと笑った。帽子のつばを、少しだけ下げた。
それから、扉の鈴を、小さく鳴らして、出ていった。
テーブルの若い女性の二人連れが、その背中を、扉のガラス越しに、目で追っていた。それから、一人が、そっと、カウンターの方を向いた。
「……あの、すみません」
「はい」
「今の方って、もしかして……」
カフェは、カップを拭く手を止めた。
女性の顔を、まっすぐに見た。
「……お客様のことは、お答えできません」
静かな声だった。
女性は、少し驚いた顔をした。それから、慌てて、首を振った。
「あ、いえ、すみません。……そうですよね」
「いえ」
カフェは、少しだけ頭を下げた。
女性たちは、それ以上、何も訊かなかった。
カウンターの真ん中で、沢井さんが、文庫本から顔を上げずに、小さく言った。
「……いい答えね、マスター」
カフェは、何も答えなかった。
カウンターの内側で、ハイセイコーが使ったカップを、丁寧に洗った。
カップの縁に、ほんの少しだけ、口紅の跡がついていた。明るい、春の花のような色だった。
二 十二年前の玄関
その夜、娘たちを寝かしつけてから、カフェは、居間で、雅也にコーヒーを淹れた。
薄めの、眠れるコーヒーだった。
「……今日、お母さんが、店に来ました」
「母さんが?」
「収録の、帰りだそうです。……雅也さんに、ちゃんと寝なさい、と」
雅也は、カップを持ったまま、苦笑した。
「……毎回、それだな」
「毎回です」
「カフェに言わせるなよ。直接言えばいいのに」
「直接言っても、雅也さんは、寝ないからだと思います」
「……それは、そうかもしれない」
カフェは、自分のカップを両手で持って、ゆっくりと一口飲んだ。
それから、ふと、思い出していた。
十二年前の、夏のことを。
交際を始めて、四か月が経った、八月の初めだった。
雅也の実家は、学園から電車で二時間ほどの、県外の、静かな町にあった。駅から、さらにバスで十五分。坂道を上った先の、古い住宅街の一番奥に、その家はあった。木造の、二階建ての家だった。庭に、大きな百日紅の木が一本、赤い花を咲かせていた。
カフェは、その家の門の前で、立ち止まっていた。
手に、両親から送られてきた、遠い国の豆の小さな袋を持っていた。手土産だった。何を持っていけばいいのか、一週間、考えた。結局、自分が一番よく知っているものにした。
隣で、雅也が、少しだけ、気まずそうな顔をしていた。
「……カフェ。一つ、先に言っておかないといけないことがある」
「……はい」
「母さんのことなんだけど」
「……はい。ウマ娘の方だと、前に、聞きました」
「うん。それは、そうなんだけど。……その」
雅也は、首の後ろを掻いた。
「……会えば、分かると思う。たぶん、驚く。……ごめん。もっと前に、言っておくべきだった」
「……驚く、ですか」
「驚く。……たぶん」
カフェが、何か訊き返そうとしたとき、玄関の扉が、内側から、勢いよく開いた。
「いらっしゃ〜〜いっ!!」
明るい声が、夏の空気を、弾けるように揺らした。
玄関に、一人のウマ娘が立っていた。
明るい色の髪を、頭の高いところで、ゆるく結んでいた。花柄のエプロンをつけていた。両手を、大きく広げていた。目が、きらきらしていた。満面の笑みだった。
カフェは、その顔を、知っていた。
知らない人は、たぶん、いなかった。テレビで。雑誌で。街の大きな広告で。昔の大きなレースの映像で。今も、歌って、踊って、舞台の上で、たくさんの人を笑顔にしている人。
「……ハイセイコー、さん……?」
声が、勝手に、こぼれていた。
「は〜い! ハイセイコーで〜す!」
ハイセイコーは、両手を広げたまま、くるりと一回転した。花柄のエプロンの裾が、ふわりと広がった。
カフェは、豆の袋を持ったまま、動けなかった。
隣で、雅也が、額に手を当てていた。
「……母さん」
「なあに、雅也」
「玄関で、回らなくていい」
「だって、嬉しいんだもん! 雅也が、彼女、連れてきたんだもん!」
「……近所に、聞こえる」
「聞こえてもいいの!」
ハイセイコーは、カフェの方を向いた。
それから、急に、少しだけ、静かな顔になった。
「……あなたが、カフェちゃん」
「……は、はい。マンハッタンカフェ、です」
「テレビで、ずーっと、見てたのよ。……四年間、ずっと」
ハイセイコーは、カフェの前に、一歩、近づいた。
「この子の、担当の子だって、知ってたから。……レースのたびに、テレビの前で、手、ぎゅって握って、見てたの。勝つたびに、跳ねて。お父さんに、うるさいって言われて」
「……」
「……雅也のこと、ずっと、ありがとうね」
カフェは、何と答えればいいのか、分からなかった。
「……お世話に、なっていたのは、私の方です」
「ううん。お世話になってたのは、この子の方よ」
ハイセイコーは、雅也の方を、ちらりと見た。雅也は、横を向いていた。耳の後ろが、赤かった。
「……さ、入って入って! 暑かったでしょ! 麦茶、冷やしてあるの!」
ハイセイコーに手を引かれて、カフェは、玄関に入った。
居間は、古い畳の部屋だった。開け放した縁側から、庭の百日紅の赤い花が見えた。扇風機が、首を振っていた。蚊取り線香の匂いが、かすかにした。
居間の奥の、窓際の座椅子に、一人の男性が座っていた。
人間の男性だった。白髪混じりの短い髪。日に焼けた、穏やかな顔。新聞を、膝の上に広げていた。カフェが入ってくると、新聞を畳んで、座ったまま、小さく頭を下げた。
「……いらっしゃい」
低い、静かな声だった。
「……お邪魔します」
カフェは、深く頭を下げた。
雅也の父だった。
それ以上、何も言わなかった。けれど、カフェが顔を上げると、父は、少しだけ、目元を緩めていた。
――雅也さんに、似ている。
カフェは、そう思った。声が。目元の緩め方が。
ハイセイコーが、台所から、麦茶のグラスを、盆に載せて運んできた。
「はい、どうぞ〜! ……雅也、そこ、座って」
「うん」
雅也は、居間を横切って、座卓の向こう側へ回ろうとした。
そのとき、カフェは、見た。
雅也が、居間の真ん中を、まっすぐに歩かなかったことを。座卓の脇に置かれた、誰も座っていない、古い籐の椅子を、わずかに、よけて歩いたことを。
ほんの少しだけ。誰も気づかないくらいに。
ハイセイコーが、それを見て、くすくすと笑った。
「ほら。……昔から、こうなの、この子」
「……え」
「誰も座ってない椅子、よけて歩くの。小さい頃から、ずーっと。……なんでよけるの、って訊いたら、なんとなく、って言うのよ」
雅也が、座卓の向こうで、困ったような顔をしていた。
「……母さん」
「だって、ほんとのことでしょ」
カフェは、その籐の椅子の方を、見た。
お友だちが、そこに、座っていた。
いつの間にか。カフェより先に、この家に入っていたのかもしれなかった。籐の椅子の上で、居間の窓の外の、百日紅の赤い花を、見ているようだった。
カフェは、思わず、小さく笑った。
声に出して。
ハイセイコーが、目を丸くして、カフェを見た。それから、何も訊かずに、もっと嬉しそうに笑った。
窓際の座椅子で、雅也の父が、新聞を膝に置いたまま、少しだけ、肩を揺らしていた。
その日、帰り際の玄関で、ハイセイコーは、カフェの両手を握った。
「……カフェちゃん。また、来てね」
「……はい」
「それと、お願いがあるの」
「……はい」
「お母様、って呼ぶの、やめてくれない? ……なんか、くすぐったいの」
カフェは、少し困った。
一日中、そう呼んでいた。ほかに、何と呼べばいいのか、分からなかった。
「……では、何と」
「ハイちゃんでもいいし、セイコさんでもいいし!」
「……それは」
「だめ?」
「……少し、難しいです」
ハイセイコーは、声を立てて笑った。
「じゃあ、お母さん、でいいよ。……お母様、より、ちょっとだけ、近いでしょ」
カフェは、しばらく、考えた。
それから、小さく、言った。
「……お母さん」
ハイセイコーの目が、少しだけ、潤んだ。
それから、カフェの両手を、ぎゅっと握りしめた。
「……うん。それがいい」
三 日曜日の二人
その週の日曜日、昼過ぎに、雅也の両親が、家に来た。
宵待ちは、定休日だった。雅也も、珍しく、午後は休みだった。セレネとカザハナとイブキには、日曜の午後は、自分のために使うように言ってあった。
玄関のチャイムが鳴る前に、クインが、廊下を駆けていった。
「ばあばだー!!」
扉が開く音がした。それから、明るい声が、廊下いっぱいに響いた。
「クインちゃーん!! 大きくなったねぇ〜っ!!」
「なってない! まえとおんなじ!」
「なってるよ〜! ばあば、わかるもん!」
カフェが玄関に出ると、ハイセイコーが、クインを両腕で抱き上げて、くるくると回っていた。クインが、甲高い声で笑っていた。
その後ろに、雅也の父が、立っていた。
厚手の灰色のセーターを着て、手に、紙袋を一つ提げていた。紙袋の中から、焼き芋の、甘い匂いがした。
「……いらっしゃいませ、お父さん」
「……お邪魔します」
父は、小さく頭を下げた。それから、紙袋を、カフェに差し出した。
「……駅前で、売ってたから」
「ありがとうございます。……娘たちが、喜びます」
「……そうか」
父は、それだけ言って、靴を脱いだ。
廊下の奥から、レッドが、少しだけ遅れて、出てきた。クインのように、駆けてはこなかった。けれど、足が、いつもより速かった。
「……じいじ、ばあば。いらっしゃい」
「レッドちゃーん!!」
ハイセイコーが、クインを抱えたまま、レッドの方へ手を伸ばした。レッドは、少しだけ照れたように、その手に、自分の頭を差し出した。ハイセイコーが、レッドの髪を、くしゃくしゃと撫でた。
「レッドちゃん、学習発表会、木の役だったんでしょ! 雅也から、聞いたよ〜!」
「……うん」
「台詞、ばあばにも、聞かせて〜!」
「……あとで」
「え〜、今がいい〜!」
「……あとで」
レッドは、頬を少し赤くして、居間の方へ、すたすたと戻っていった。
ハイセイコーは、クインを抱えたまま、くすくすと笑った。
「……レッドちゃん、雅也に似てきたね〜。照れると、すぐ、どっか行っちゃうとこ」
居間の入口で、雅也が、苦笑していた。
「……母さん。いらっしゃい」
「来たよ〜、雅也! ……ちゃんと寝てる?」
「寝てる」
「ほんと〜? カフェちゃん、ほんと?」
「……昨日は、七時間、寝ていました」
「えらい!」
ハイセイコーは、クインを床に降ろして、雅也の頬を、両手で挟んだ。雅也は、されるがままになっていた。四十を過ぎた息子の頬を、母は、子どもの頃と同じように、ぎゅっと挟んだ。
「……母さん」
「なあに」
「玄関で、それ、やらなくていい」
「やりたいの〜」
雅也の父が、その横を、黙って通り過ぎていった。
居間に入ると、父は、まっすぐに、窓際へ向かった。窓際の、古い一人掛けの椅子。雅也が、引っ越しのときに、実家から持ってきた椅子だった。父が、昔から使っていた椅子だった。
父は、その椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
それから、膝の上に、両手を置いた。窓の外の、冬の手前の庭を、見ていた。
来るたびに、父は、その椅子に座った。誰に言われたわけでもなかった。カフェも、雅也も、何も言わなかった。その椅子は、父が来ない日は、誰も座らない椅子だった。
ハイセイコーが、居間に入ってきて、父の方を見た。
「……あなた、また、そこ」
「……ここが、落ち着く」
「家でも、窓際でしょ」
「……家でも、ここが、落ち着く」
「同じ椅子だもんね〜」
「……そうだ」
ハイセイコーは、父の後ろに回って、父の肩を、両手で、ぽんぽんと叩いた。
「腰、今日は、大丈夫?」
「……大丈夫だ」
「電車で、ずっと立ってたでしょ。座ればよかったのに」
「……お前が、座ってたから」
「二人とも、座れる席、あったよ〜」
「……隣のご婦人に、譲った」
「あ、そっか。そうだったね。……優しいね〜、あなた」
「……普通だ」
ハイセイコーは、父の肩を、もう一度、ぽんと叩いた。それから、父の頭の上に、自分の頬を、ちょこんと乗せた。
父は、何も言わなかった。けれど、膝の上の手が、少しだけ、緩んでいた。
カフェは、台所で、コーヒーの豆を量りながら、それを見ていた。
――長い時間を、一緒に過ごしてきた人たち。
何十年も。娘が、息子が、生まれる前から。息子が、育って、家を出て、自分の仕事を見つけて、誰かと家族になるまで。ずっと。
カフェは、豆を挽きはじめた。
ごり、ごり、と低い音が、居間に響いた。
四 黄昏の散歩
焼き芋を、みんなで分けて食べた。
クインは、皮ごと食べようとして、レッドに止められた。「かわは、たべないの」。クインは、「ばあばは、たべてる」と言い返した。ハイセイコーが、「ばあばは、皮も好きなの〜」と言って、皮ごと、豪快にかじった。クインが、目を輝かせて、真似をした。レッドが、カフェの方を見て、助けを求めるような顔をした。カフェは、「皮は、食べても、大丈夫です」と言った。レッドは、少し考えて、それから、自分も、ほんの少しだけ、皮をかじった。
「……ちょっと、にがい」
「でしょ〜? でも、それが、おいしいの〜」
「……わかんない」
「大人になったら、わかるよ〜」
「……おとなって、いつ」
ハイセイコーが、雅也の方を見た。雅也が、苦笑して、首を振った。
レッドは、それから、ハイセイコーに、学習発表会の台詞を、聞かせた。
居間の真ん中に立って、両腕を、枝のように横に広げて、一歩、前に出て。
「……だいじょうぶ。よるは、こわくないよ。……よるが、くるまえに、そらが、きれいないろに、なるから。それを、みてから、ねむれば、こわくないよ」
ハイセイコーが、両手で、口元を押さえていた。
窓際の椅子で、父が、膝の上の手を、少しだけ握りしめていた。
「……レッドちゃん」
ハイセイコーが、少しだけ、震える声で言った。
「その台詞、誰が考えたの?」
「……せんせい。……でも、そらの、ところは、レッドが、かえたの」
「変えたの?」
「うん。……さいしょは、よるがくれば、ほしがでるから、だったの。でも、レッド、ほしより、そらのいろの方が、すきだから」
ハイセイコーは、何も言わなかった。
レッドを、ぎゅっと抱きしめた。
カフェは、台所の入口で、その台詞を、もう一度、胸の中で繰り返していた。
――ほしより、そらのいろの方が、すき。
自分の店の、西の窓。毎日、閉店の後で、一人で見ている、あの空の色。
レッドは、それを、見ていたのだった。カウンターの端で、宿題の手を止めて、頬杖をついて。黙って。
窓の外が、少しずつ、橙色に染まりはじめていた。
四時を、少し過ぎた頃だった。
ハイセイコーが、レッドを抱きしめたまま、窓の外を見た。それから、カフェの方を、ちらりと見た。
「……ねえ、レッドちゃん、クインちゃん」
「なあに」
「ばあばと、じいじと、お散歩、行かない? ……公園まで。夕焼け、見に」
「いく!!」
クインが、ぴょんと跳ねた。
レッドは、少しだけ迷うように、カフェの方を見た。
カフェが、小さく頷くと、レッドも、こくりと頷いた。
「……いく」
「よーし! じゃあ、上着、着ておいで〜!」
娘たちが、廊下へ駆けていった。
ハイセイコーは、立ち上がって、窓際の父の肩を、ぽんと叩いた。父は、何も言わずに、椅子から立ち上がった。
玄関で、靴を履きながら、ハイセイコーが、カフェにだけ聞こえる声で、言った。
「……カフェちゃんの、時間でしょ。黄昏」
カフェは、何も答えられなかった。
「雅也から、聞いてるの。……一時間くらい、お散歩してくるね。ゆっくりしてて」
「……お母さん」
「なあに」
「……ありがとうございます」
ハイセイコーは、帽子をかぶりながら、にっこりと笑った。
「お礼なんて、いいの。……お母さんも、夕焼け、好きだから」
扉が開いて、四人が出ていった。クインの甲高い笑い声。レッドの小さな声。ハイセイコーの明るい声。父の、低い、短い相槌。それが、少しずつ、遠ざかっていった。
家の中が、静かになった。
居間に、カフェと、雅也だけが残った。
雅也は、ソファーに座って、何も言わなかった。カフェの方を、見なかった。
カフェは、居間の窓の前に立った。
窓の外の空が、燃えはじめていた。
世界の音が、少しずつ、遠くなっていった。
窓際の、父が座っていた椅子の上に、お友だちが、座っていた。窓の外を、見ていた。
カフェは、その隣に立って、同じ空を見ていた。
しばらくして、カフェは、振り返らずに、言った。
「……雅也さん」
「ん」
「今日は、一緒に、いてください」
ソファーから、雅也が立ち上がる気配がした。
それから、カフェの隣に、そっと並んだ。肩が、触れた。
何も、言わなかった。
二人と、それから、もう一人で、燃えるような空が、紫色に沈んでいくのを、黙って見ていた。
第九部 姉と妹
一 手伝いたい日
十二月の最初の土曜日、宵待ちは、朝から、少しだけ混んでいた。
冬の始まりの、冷たい晴れの日だった。カフェは、快晴の日が、あまり得意ではなかった。空が、明るすぎる。影が、くっきりしすぎる。けれど、こういう日に限って、客が多い。日向の窓際で、温かいコーヒーを飲みたい人が、増えるのだった。
カウンターは、昼過ぎには、ほとんど埋まっていた。二つのテーブルも、埋まっていた。シズクドロップが、カウンターの内側で、慣れない手つきで、カップを洗っていた。
店の奥の、小さな空間に、娘たちがいた。
カウンターの内側の、さらに奥。二階への階段の下の、細長い物置のような場所を、半分片づけて、小さな机と、二つの低い椅子を置いてあった。土曜の午後は、娘たちが、そこで過ごす。客席からは、ほとんど見えない場所だった。
「……ママ」
レッドが、階段の下から、顔を出した。
「はい」
「……レッドも、おてつだい、したい」
カフェは、湯を落とす手を止めずに、レッドの方を見た。
レッドは、両手を前で重ねて、立っていた。目が、まっすぐだった。何かを、決めてきた顔だった。
「……今日は、混んでいます」
「だから、おてつだい、したいの」
カフェは、カップを、客の前に置いた。それから、少しだけ考えた。
熱湯は、だめ。刃物も、だめ。重い器具も、だめ。お金も、だめ。カップを運ぶのも、まだ、だめ。熱い液体が入っている。
「……では、紙ナプキンを、畳んでください」
レッドの目が、少しだけ、明るくなった。
「ナプキン?」
「はい。……この箱の中の、紙ナプキンを、三角に、二回折ってください。角を、ぴったり合わせて。できたら、この籠に、重ねて入れてください」
カフェは、カウンターの内側の、小さな作業台の上に、紙ナプキンの箱と、小さな籠を置いた。階段の下から、手が届く場所だった。
「……できる」
「お願いします」
レッドは、作業台の前に、低い椅子を引き寄せて、座った。紙ナプキンを一枚取って、三角に折った。角を、指先で、慎重に合わせた。もう一度、折った。
籠に、入れた。
それから、もう一枚。
カフェは、それを、横目で見ていた。角が、ぴったりと合っていた。一枚目より、二枚目の方が、さらにきれいだった。
「……ママ」
階段の下から、もう一つの声がした。
クインだった。
「クインも、おてつだい、する」
「……クインは」
「おねえちゃんだけ、ずるい」
クインは、頬を、ぱんぱんに膨らませていた。
カフェは、少しだけ、困った。クインに頼める仕事を、頭の中で探した。紙ナプキンは、クインには、まだ少し難しい。角を合わせるのは、四つの子には。
「……では、クインは、砂糖壺の蓋が、ちゃんと閉まっているか、見てください」
「さとうつぼ?」
「はい。あの、白い、小さな壺です。カウンターの、内側の棚に、並んでいます。……蓋が、ずれていたら、教えてください」
クインは、棚を見上げた。白い小さな砂糖壺が、五つ、並んでいた。
「……みるだけ?」
「見るだけです」
「……つまんない」
「大事な、お仕事です」
クインは、唇を尖らせた。けれど、棚の前に立って、砂糖壺を、一つずつ、じっと見上げはじめた。
しばらくは、それで、うまくいっていた。
レッドは、紙ナプキンを、黙々と畳んでいた。籠の中に、三角の紙が、少しずつ、きれいに積み重なっていった。クインは、砂糖壺を、端から端まで見て、「ずれてない」と報告して、また端から見直していた。
カフェは、その間に、三杯のコーヒーを淹れて、二組の会計を済ませた。シズクが、声に出して、釣り銭を数えていた。
二 壊れた粘土
三十分ほど経った頃だった。
「……ずれてない。ずれてない。ずれてない。……つまんない」
クインが、砂糖壺の前から離れて、レッドの作業台の方へ、とことこと歩いていった。
「おねえちゃん、それ、クインも、やる」
「……だめ。クインには、むずかしい」
「むずかしくない」
「むずかしいよ。かど、あわせなきゃいけないの」
「あわせられる」
「あわせられないよ」
「あわせられるもん!」
クインが、レッドの手から、紙ナプキンを一枚、ひったくった。
レッドが、「あっ」と声を上げた。
クインは、紙ナプキンを、ぐしゃっと折った。角は、まったく合っていなかった。それを、籠の上に、ぽんと載せた。
「できた!」
「できてない!」
レッドの声が、少しだけ、大きくなった。
それから、籠の上の、クインのぐしゃぐしゃのナプキンを取ろうとして、手を伸ばした。
クインが、それを、取られまいとして、身体をひねった。
ひねった肘が、レジの横の、小さな棚に当たった。
棚の上の、茶色い粘土の塊が、ぐらりと揺れた。
カフェが、手を伸ばす前に、それは、床に落ちた。
ごとん、と、鈍い音がした。
店の中が、一瞬、静かになった。
カウンターの客たちが、こちらを見ていた。シズクが、カップを持ったまま、固まっていた。
床の上で、粘土の塊が、割れていた。
四つの丸いものが、ばらばらになっていた。それから、とがった耳のついた、細長いもの――猫が、塊から外れて、少し離れたところに、転がっていた。
クインの顔から、血の気が引いていった。
「……あ」
レッドが、床にしゃがみこんだ。割れた粘土を、両手で、そっと拾い上げた。それから、クインの方を見上げた。
目に、涙が溜まっていた。
「……クインの、ばか」
小さな声だった。けれど、震えていた。
「……クインの、ばか。……ママの、おみせの、だいじなのに」
「……ちが、ちがうもん。おねえちゃんが、とろうとしたから」
「クインが、とったからでしょ!」
「おねえちゃんが、だめって、いったから!」
「クインが、できないのに、やるからでしょ!」
クインの目から、ぼろぼろと、涙がこぼれはじめた。
それから、声を上げて、泣きはじめた。
店の中に、四つの子の泣き声が、響いた。
カフェは、カウンターの内側から出た。
まず、客席の方を向いて、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。少しだけ、お時間をください」
カウンターの真ん中で、沢井さんが、文庫本を閉じて、にっこりと笑った。
「気にしないで、マスター。……私、孫が、三人いるのよ」
ほかの客たちも、何も言わなかった。何人かが、小さく笑っていた。テーブルの若い男性が、「全然、大丈夫です」と、手を振った。
カフェは、もう一度、頭を下げた。
それから、シズクの方を向いた。
「……シズクさん。三分だけ、お店を、お願いできますか。新しい注文は、少しだけ、待っていただいてください」
「……は、はいっ」
シズクは、カップを置いて、背筋を伸ばした。
カフェは、泣いているクインを抱き上げた。それから、床にしゃがみこんでいるレッドの手を取った。
「……二人とも、こちらへ」
階段の下の、小さな空間へ、二人を連れていった。
三 どっちの話も
階段の下の、薄暗い小さな空間で、カフェは、二人の前に、膝をついた。
クインは、まだ、しゃくり上げていた。レッドは、割れた粘土を、両手で抱えたまま、唇を、きつく結んでいた。目から、涙が、一筋、こぼれていた。
カフェは、すぐには、何も言わなかった。
どちらが悪いのか。どちらが先だったのか。それを決めるのは、簡単だった。けれど、決めたら、たぶん、どちらかの話を、聞かなくなる。
「……レッド」
「……」
「先に、レッドの話を、聞かせてください」
レッドは、顔を上げた。
「……クインが、ナプキン、とったの。……レッドが、ちゃんと、かど、あわせてたのに。ぐしゃってして、かごに、いれたの。……だから、とりかえそうとしたの。そしたら、クインが、よけて、ひじが、あたって……」
「はい」
「……ねんど、ママが、おみせに、かざってたのに。……ずっと、かざってたのに」
レッドの声が、また、震えた。
「……分かりました。ありがとう、レッド」
カフェは、クインの方を向いた。
「……クイン。クインの話を、聞かせてください」
クインは、しゃくり上げながら、カフェのエプロンの裾を、ぎゅっと握った。
「……クインも、おてつだい、したかったの」
「はい」
「さとうつぼ、ずっと、ずれてなくて。……つまんなくて。……おねえちゃん、ナプキン、たのしそうで」
「はい」
「クインも、できるって、おもったの。……でも、おねえちゃん、だめって、いったの。むずかしいって。……クイン、むずかしくないって、おもったの」
「……はい」
「とったの、わるかった。……でも、おねえちゃんも、とろうとした」
「……はい」
「ねんど、こわしたの、クインじゃない。……ひじ」
クインは、そう言って、また泣き出した。
カフェは、クインの頭に、そっと手を置いた。それから、レッドの頭にも、もう片方の手を置いた。
「……二人の話、両方、聞きました」
二人とも、カフェの顔を見た。
「レッドは、ちゃんと、お手伝いをしていました。角を、ぴったり合わせて。……クインに、難しいと言ったのは、本当のことです。でも、だめ、と言われたら、クインは、悲しかったと思います」
レッドは、何も言わなかった。けれど、唇が、少しだけ、ほどけた。
「クインは、お手伝いを、したかった。……砂糖壺を見るのが、つまらなかったのも、本当だと思います。私が、クインにできることを、うまく探せませんでした。……ごめんなさい」
クインが、目を丸くした。
「……ママ、わるくない」
「少しだけ、悪かったです。……でも、レッドの手から、ナプキンを取ったのは、クインです」
クインは、うつむいた。
「……うん」
「粘土が落ちたのは、肘が当たったからです。誰かが、わざと落としたのでは、ありません。……でも、二人が、取り合いをしなければ、落ちませんでした」
二人とも、黙った。
カフェは、レッドの両手の中の、割れた粘土を見た。四つの丸いもの。それから、レッドの手のひらの端に、とがった耳の、細長いもの。
「……レッド。それを、少しだけ、見せてください」
レッドは、両手を、カフェの方へ差し出した。
カフェは、割れた粘土を、一つずつ見た。乾いて、固くなっていた。四つの丸いものは、くっついていた部分が、きれいに割れていた。
「……直せると、思います」
「……なおせるの?」
レッドとクインが、同時に言った。
「はい。……接着剤で、くっつけます。でも、私一人では、どこに、何がくっついていたか、分かりません。……作ったのは、クインですから」
クインが、顔を上げた。
「……クインが、つくった」
「はい。……クインが、どこに何をくっつけたか、教えてください。レッドは、角を合わせるのが上手なので、割れたところを、ぴったり合わせるのを、手伝ってください」
レッドとクインは、顔を見合わせた。
どちらも、まだ、目が赤かった。
「……いい?」
クインが、小さな声で、レッドに訊いた。
レッドは、少しだけ、黙っていた。それから、こくりと頷いた。
「……いいよ」
「……おねえちゃん」
「なに」
「……さっき、ばかって、いった」
「……いった」
「……ごめんなさいの、さかさま、して」
レッドは、眉を寄せた。
「……さかさま?」
「うん。……ごめんなさいの、さかさま」
「……さいなんめご?」
「ちがう! ……ごめんなさいって、いう、まえの、やつ!」
レッドは、しばらく考えた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「……ごめんね、クイン。ばかって、いって」
「……うん。クインも、ごめんなさい。ナプキン、とって」
カフェは、二人の頭から、そっと手を離した。
――ごめんなさいの、さかさま。
たぶん、謝ってほしい、という意味だった。自分から謝る前に、相手から謝ってほしい。四つの子の、精一杯の言葉だった。
カフェは、口元が緩むのを、止められなかった。
店の方から、シズクの、少しだけ上ずった声が聞こえた。
「……い、いらっしゃいませ。……あの、少々、お待ちください」
カフェは、立ち上がった。
「……二人とも、ここで、待っていてください。お店が落ち着いたら、三人で、直しましょう」
「……うん」
「うん」
カフェは、エプロンを直して、カウンターの内側に戻った。
三分は、とうに過ぎていた。
シズクが、カウンターの内側で、注文のメモを三枚、握りしめて立っていた。カフェが戻ると、ほっとしたように、息を吐いた。
「……すみません、シズクさん。ありがとうございます」
「い、いえ。……注文、三つ、たまってます」
「はい」
カフェは、豆を量りはじめた。
カウンターの真ん中で、沢井さんが、文庫本のページをめくりながら、小さく言った。
「……泣き声、止んだわね」
「……はい」
「どっちの話も、聞いたのね」
カフェは、ミルを回す手を、少しだけ止めた。
「……はい。沢井さんに、前に、教わったので」
「あら。私、何か教えたかしら」
「……悔しいのか、嬉しいのか、訊いてあげるだけでいい、と」
沢井さんは、文庫本から顔を上げて、目を細めた。
「……私の言葉が、役に立ったのね」
「はい」
「マスターは、受け取った言葉を、ちゃんと次の誰かに渡せる人ね」
カフェは、何も答えずに、ミルを回した。
ごり、ごり、と低い音が、店の中に響いた。
四 直した粘土
その日の夕方、閉店の後、三人で、粘土を直した。
カウンターの上に、古い新聞紙を広げて、割れた粘土の欠片を並べた。接着剤の、つんとした匂いがした。
クインが、欠片を一つずつ指さして、「これが、パパ。これが、ママ。これが、おねえちゃん。これが、クイン」と言った。レッドが、割れた面を、一つずつ、ぴったりと合わせた。カフェが、接着剤を、少しずつ塗った。
四つの丸いものが、また、一つの塊になった。
最後に、とがった耳の、細長いものが残った。
「……ねこも、なおして」
クインが言った。
「はい」
カフェは、猫を、塊の横に、そっと合わせた。もともと、くっついていた場所に。
レッドが、横から覗き込んで、少しだけ、位置を直した。
「……ここ。ちょっと、ずれてた」
「ありがとう、レッド」
「……ねこ、ちゃんと、くっついた?」
「くっつきました」
クインが、ほっとしたように、大きく息を吐いた。
「……よかった。ねこも、かぞくだから」
「……猫は、うちには、いませんよ」
「いないけど、かぞくなの」
カフェは、何も言い返さなかった。
直した粘土を、レジの横の棚に、そっと戻した。前より、少しだけ、奥の方に。肘が当たっても、落ちないところに。
割れた跡が、細い線になって、残っていた。四つの丸いものの間に。猫と、塊の間に。
――前より、少しだけ、好きになった。
カフェは、そう思った。
割れて、直した跡のある方が。
西の窓の外が、もう、深い紫色になっていた。黄昏は、とうに過ぎていた。今日は、黄昏の時間を、一人で過ごせなかった。粘土を直していたから。
それでも、嫌ではなかった。
予約席の椅子の上に、お友だちが座っていた。
窓の外ではなく、カウンターの上の、直した粘土の方を、見ているような気がした。
五 臨時休業
その週の水曜日の朝、クインが、熱を出した。
五時に、カフェが台所で豆を挽いていると、廊下の奥から、小さな泣き声が聞こえた。駆けつけると、クインが、布団の中で、真っ赤な顔をして、丸くなっていた。額に手を当てると、熱かった。
雅也は、もう、玄関で靴を履いていた。
カフェが、居間から顔を出すと、雅也は、靴紐を結ぶ手を止めた。
「……どうした」
「クインが、熱を出しています」
雅也は、すぐに、靴を脱いだ。クインの部屋へ行って、額に手を当てた。冷たい手が、熱い額に触れた。クインが、「……パパのて、つめたい」と、小さく言った。
「……熱いな」
「はい。……測ったら、三十八度、少しでした」
雅也は、しばらく、クインの顔を見ていた。それから、カフェの方を向いた。
「……今日、どうする」
カフェは、すぐには答えなかった。
保育園には、行けない。熱がある子は、預けられない。病院に、連れていかなければならない。開くのは、九時。
店は、十一時に開ける予定だった。水曜日は、三枝さんが、夜勤明けで来る日だった。沢井さんは、来ない日だった。シズクも、コトノハも、学校の日だった。
「……雅也さんは、今日」
「朝の練習と、午後のミーティング。……イブキの、土曜のレースの、最後の確認がある」
「……はい」
「朝の練習は、セレネに、二人を見てもらうこともできる。午後のミーティングは、ずらせない。でも、昼までなら――」
「いいえ」
カフェは、首を振った。
「雅也さんは、行ってください。イブキさんの、大事な週です」
「でも、店が」
「……店は、今日は、休みます」
雅也が、目を見開いた。
開店してから八年、宵待ちは、定休日と、二人の娘が生まれた前後の長い休み以外に、店を閉めたことが、ほとんどなかった。急に閉めるのは、これが初めてだった。
「……いいのか」
「いいです。……私が、決めました」
カフェは、クインの汗ばんだ前髪を、そっと払った。
「店は、逃げません。……柏木さんが、昔、そう言っていました」
雅也は、しばらく、カフェの顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かった。昼休みに、一度、電話する。何かあったら、すぐに連絡してくれ。午後のミーティングは、抜けられないけど、ほかのことなら、何でも抜ける」
「はい」
「レッドの学校は」
「送っていきます。クインと一緒に。……病院の前に」
「……ごめん」
「謝らないでください。……雅也さんの仕事も、私の店と、同じくらい、大事です」
雅也は、クインの額に、もう一度だけ手を当てた。それから、カフェの肩に、そっと手を置いて、玄関へ向かった。
七時半、カフェは、クインをおぶって、レッドの手を引いて、家を出た。
途中で、宵待ちに寄った。扉の外に、小さな紙を一枚、貼った。
――本日、店主の都合により、臨時休業いたします。ご迷惑をおかけいたします。
カウンターに焼き菓子を置いていくことも考えたが、鍵を掛けた店の中では三枝さんに渡せない。次の夜勤明けに一つ多めに焼き、顔を合わせたときに直接お詫びして渡そう。そう決めて、店の手帳に短く書き留めた。
扉の鍵を、閉めた。
鈴が、ちりん、と小さく鳴った。
六 ずるい
クインの熱は、医者の見立てでは、ただの風邪だった。
薬をもらって、家に帰って、クインは、昼過ぎには、少しだけ熱が下がって、眠った。カフェは、その枕元に座って、クインの額の濡れタオルを、何度も替えた。
三時過ぎに、レッドが、学校から帰ってきた。
店ではなく、家に。今日は、学童の先生に頼んで、家の前まで、送ってもらった。
「……ただいま」
玄関で、小さな声がした。
「おかえりなさい」
カフェは、クインの部屋から、顔だけ出して言った。
レッドは、ランドセルを背負ったまま、廊下に立っていた。クインの部屋の方を、ちらりと見た。それから、カフェの顔を見た。
「……クイン、だいじょうぶ?」
「はい。お薬を飲んで、眠っています。……少し、熱が下がりました」
「……よかった」
レッドは、それだけ言って、居間の方へ歩いていった。
足音が、いつもより、少しだけ重かった。
夕方、雅也から、電話があった。ミーティングが終わった、と。早めに帰る、と。それから、イブキの足首は、もう、何ともない、と。土曜日は、走れる、と。イブキの祖父が、北の町から、見に来ることになった、と。
電話を切って、居間に行くと、レッドが、ソファーの端に座って、絵本を開いていた。
開いていたけれど、ページを、めくっていなかった。
「……レッド」
「……ん」
「宿題は」
「……おわった」
「そうですか。……えらいですね」
レッドは、何も答えなかった。
カフェは、レッドの隣に、そっと座った。
しばらく、二人とも、黙っていた。窓の外が、少しずつ、橙色に染まりはじめていた。黄昏の時間が、近づいていた。
今日は、店を閉めていた。家にいた。クインの枕元にいた。一日中。
「……ママ」
レッドが、絵本を見たまま、言った。
「はい」
「……きょう、ずっと、クインと、いたね」
「……はい」
「……おみせも、やすんで」
「はい」
「……クイン、ずるい」
小さな声だった。
カフェは、レッドの横顔を見た。
唇を、きつく結んでいた。目が、少しだけ、潤んでいた。
「……レッドが、おねつ、だしたとき、ママ、おみせ、やすまなかった」
カフェは、息を止めた。
覚えていた。去年の冬、レッドが熱を出した日。その日は、雅也が、仕事を休んで、家にいた。カフェは、店を開けた。雅也が、「俺が見てるから、店は開けていい」と言ったから。それが、そのときは、一番いい形だと思った。
レッドは、それを、覚えていた。
「……あのときは、パパが、いてくれました」
「……うん」
「だから、私は、お店に行きました。……でも、レッドは、ママに、いてほしかったんですね」
レッドは、何も言わなかった。
絵本を、膝の上で、ぎゅっと握りしめていた。
それから、急に、絵本を放り出して、カフェの腰に、両腕で、しがみついた。
「……ママ」
声が、震えていた。
「……レッドも、ママと、いたい」
カフェは、レッドの背中に、両腕を回した。
小さな背中だった。六つの子の背中。いつも、声を小さくして、黄昏の時間には話しかけてこなくて、妹に「じゃましちゃだめ」と言って、紙ナプキンの角を、ぴったり合わせる子の背中。
――まだ、甘えたい年なのに。
カフェは、レッドの背中を、ゆっくりと撫でた。
「……ごめんなさい、レッド」
「……」
「レッドが、いつも、ちゃんとしてくれるから。……私は、レッドに、甘えていました」
レッドが、カフェの腰に、顔を押しつけたまま、首を振った。
「……ママ、わるくない」
「少しだけ、悪かったです」
「……すこしだけ?」
「はい。少しだけ」
レッドは、しばらく、カフェにしがみついたまま、動かなかった。
窓の外の空が、燃えはじめていた。
世界の音が、少しずつ、遠くなっていった。
けれど、カフェは、窓の方を見なかった。腕の中の、小さな背中の温度を、感じていた。
「……レッド」
「……ん」
「明日の朝、五時に、起きられますか」
レッドが、顔を上げた。目が、赤かった。
「……ごじ?」
「はい。……パパが、練習に行く前。クインが、まだ寝ている間。……二人だけで、コーヒーを飲みましょう。レッドの分は、一滴だけ、ですけど」
レッドの目が、少しずつ、大きくなっていった。
「……ふたりだけ?」
「二人だけです」
「……クイン、なし?」
「クインは、寝ています」
「……パパも、なし?」
「パパは、もう、出かけています」
レッドは、しばらく、カフェの顔を見ていた。
それから、また、カフェの腰に、ぎゅっとしがみついた。
「……おきる。ぜったい、おきる」
「はい。……約束です」
「やくそく」
窓の外の空が、深い紫色に、沈んでいった。
今日も、黄昏の時間を、一人では過ごさなかった。
それでも、カフェは、嫌ではなかった。
次の日の朝、五時。
台所の小さな明かりの下で、カフェが豆を挽いていると、廊下の床が、ぺた、ぺた、と鳴った。
レッドが、台所の入口に立っていた。
靴下を、ちゃんと、両足に履いていた。
第十部 雨の日の宵待ち
一 祖父の干物
十二月の半ばの木曜日は、朝から、雨だった。
冷たい、細い雨だった。空は、一日中、灰色の厚い雲に覆われていた。店の西の窓の外も、隣の家の屋根も、通りの向かいの桜の裸の枝も、すべてが、しっとりと濡れて、色を沈ませていた。
カフェは、雨の日が、嫌いではなかった。
快晴の日より、ずっと、落ち着いた。空が暗いと、影が柔らかくなる。音が、雨に吸われて、少しだけ遠くなる。店の中の、コーヒーの香りが、湿った空気の中で、いつもより、ゆっくりと広がる。
ただ、雨の日は、客が少ない。
十一時に札を裏返してから、一時間、誰も来なかった。沢井さんは、雨の日は来ない。足元が悪いから、と、前に言っていた。
十二時を少し過ぎた頃、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
「……あの」
扉の内側に、小柄で、肩幅の広いウマ娘が立っていた。
学園のジャージの上に、透明なビニールの雨合羽を着ていた。短く切った焦げ茶色の髪が、雨で、頬に貼りついていた。両手で、何か、新聞紙に包んだ、細長い包みを、大事そうに抱えていた。
カフェは、その顔を、知っていた。
テレビで、見た。先週の土曜日の、砂の、ジュニア級のレース。最後の直線で、力でねじ伏せるように、前の子をかわしていった子。ゴールの後で、スタンドの一角に向かって、何度も、何度も、頭を下げていた子。
「……いらっしゃいませ」
「……あ、あの。……早瀬トレーナーの、担当の、イブキフォルテ、です」
「……はい」
「トレーナーに、この店、聞いて。……昼休み、ちょっとだけ、抜けてきました」
イブキは、扉の内側で、雨合羽を脱いだ。どこに置けばいいのか分からないように、手に持ったまま、立ち尽くした。
カフェは、カウンターの内側から出て、入口の脇の、傘立ての横の小さな掛け金を、指さした。
「……そこに、掛けてください」
「あ、はい」
イブキは、雨合羽を掛けた。それから、新聞紙の包みを、両手で、カフェの方へ差し出した。
「……これ。じいちゃんから」
「……おじい様から」
「はい。……土曜、じいちゃん、北の町から、見に来てくれて。……勝って。……そしたら、じいちゃんが、トレーナーの、奥さんに、これ、渡してくれって」
カフェは、包みを受け取った。
ずっしりと重かった。新聞紙の隙間から、潮の匂いと、干した魚の、香ばしい匂いがした。
「……干物、です。じいちゃんが、漁協で、自分で干したやつ。……トレーナー、魚、好きだって、言ってたから」
「……ありがとうございます」
カフェは、深く頭を下げた。
「おじい様に、よろしくお伝えください。……それから、土曜日、おめでとうございました」
イブキの耳が、ぴくりと動いた。
「……見て、くれたんですか」
「はい。テレビで。……最後の直線で、前の子と並んだとき、一度も、横を見ていませんでした。前だけを、見ていました」
イブキは、目を見開いた。
それから、少しだけ、頬を赤くした。
「……トレーナーと、同じこと、言う」
「……そうですか」
「うん。……じゃなくて、はい。……トレーナーも、レースの後、それ、言ってた。横、見なかったなって」
カフェは、少しだけ、口元を緩めた。
「……時間は、ありますか」
「え」
「昼休み。……少しだけ、座っていきますか」
イブキは、店の中を見回した。誰もいない、雨の日の店。七席のカウンター。二つのテーブル。西の窓。
「……いいんですか」
「はい。……お客様として」
イブキは、少し迷ってから、カウンターの、入口に一番近い席に、そっと座った。三枝さんの、いつもの席だった。今日は、三枝さんの来ない日だった。
メニューの六つの行を、眉を寄せて、じっと見ていた。
「……コーヒー、苦いの、苦手で」
「では、カフェオレは、いかがですか。……牛乳を、多めにします」
「……それ、ください」
カフェは、豆を量った。挽いた。湯を落とした。牛乳を温めた。
イブキは、カウンターに両肘をついて、カフェの手元を、じっと見ていた。
カップを、イブキの前に置いた。取っ手を、右に向けて。
イブキは、右手でカップを持って、一口飲んだ。
「……あまい」
「牛乳の、甘さです。砂糖は、入れていません」
「……え、うそ」
「本当です」
イブキは、もう一口、飲んだ。それから、カップを両手で包んで、窓の外の雨を見た。
「……じいちゃん、この前、言ってたんです」
「はい」
「トレーナーが、イブキの足首、休ませてくれて、よかったって。……あのとき、走ってたら、どうなってたか、分かんないけど。でも、じいちゃんが見に来られる日に、ちゃんと走れて、勝てたから」
「……」
「……あのとき、わたし、トレーナーに、言わなきゃよかったって、言っちゃったんです。足首のこと」
カフェは、カップを拭く手を、止めた。
「……でも、言って、よかった。……今は、そう思う」
イブキは、カフェオレを、もう一口飲んだ。
「トレーナーの、奥さんも、走ってたんですよね。……昔」
「……はい」
「トレーナーに、言ってました? 足が、いつもと違うとか」
カフェは、少しだけ、考えた。
「……最初は、言いませんでした」
「……え」
「言わなくて、身体を、崩しかけました。……それから、毎日、言うようになりました。少し指先が冷たい、とか。眠れなかった、とか」
「……毎日」
「はい。……毎日」
イブキは、カップを持ったまま、カフェの顔を、しばらく見ていた。
それから、小さく、頷いた。
「……わたしも、毎日、言う」
カフェは、何も言わなかった。
ただ、イブキの空になったカップの横に、小さな皿を一つ、置いた。今日の焼き菓子。胡桃のクッキー。
「……これ、頼んでない」
「おじい様の、干物のお礼です」
イブキは、目を丸くした。それから、クッキーを一枚、手に取って、かじった。
かり、と小さな音がした。
「……うまい」
「よかったです」
十二時四十分、イブキは、雨合羽を着て、「ごちそうさまでした」と頭を下げて、雨の中を、学園の方へ走っていった。
走らなくても、いいのに。
カフェは、扉のガラス越しに、その背中を見送りながら、少しだけ、笑った。
二 雨の日の黄昏
午後になっても、雨は、止まなかった。
三時過ぎに、レッドが、黄色い傘を差して、帰ってきた。ランドセルに、透明なカバーをかけていた。長靴の先が、濡れて光っていた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
レッドは、扉の内側で、傘をたたんだ。傘立てに入れようとして、少しだけ迷ってから、雫を、扉の外で、二回、軽く振って落とした。それから、傘立てに入れた。
カフェは、それを見ていた。誰にも教わっていないことだった。
四時、コトノハリズムが、シフトに入った。紺色のカーディガンの肩が、雨で少し濡れていた。
「マスター、今日、お客さん、少ないですね」
「雨ですから」
「雨の日、好きです、わたし。静かで」
「……私も、です」
コトノハは、エプロンを締めながら、西の窓の方を見た。灰色の空が、雨の向こうに、重く垂れていた。
「……雨の日は、黄昏、見えないですね」
カフェは、カップを拭く手を、止めた。
「……見えます」
「え」
「雨の日の黄昏も、あります。……空が、燃えないだけです」
コトノハは、目を瞬いた。それから、窓の外を、もう一度見た。
「……燃えない、黄昏」
「はい。……灰色が、少しずつ、青くなって、それから、暗くなります。雲の向こうで、陽が沈んでいくのが、色で分かります。……燃えるのより、ずっと、ゆっくりです」
「……見たこと、ないかも」
「今日、見られると思います。……閉店の後、少しだけ、残っていきますか」
コトノハは、驚いたように、カフェの顔を見た。
カフェは、黄昏の時間を、一人で過ごす。コトノハは、それを知っていた。働きはじめた日に、カフェが、そう言ったから。閉店の後は、すぐに帰ってください。黄昏の時間は、一人でいたいので、と。
「……いいんですか」
「今日は、雨なので」
コトノハは、何か言いかけて、やめた。それから、こくりと頷いた。
四時半、カフェは、扉の札を、裏返した。
――準備中。
店の明かりを、一段、落とした。
カウンターの端で、レッドが、宿題のプリントを閉じた。コトノハが、エプロンを外して、カウンターの客席の側の、入口から三番目の席に、そっと座った。
カフェは、西の窓の前に立った。
窓の外の雨は、細く、静かに、降りつづけていた。灰色の雲が、空一面を覆っていた。その灰色が、ほんの少しずつ、色を変えはじめていた。
薄い、青みを帯びた灰色へ。
それから、少しだけ、紫を帯びた灰色へ。
雲の向こうのどこかで、陽が、沈んでいこうとしていた。見えなかった。けれど、色で分かった。窓ガラスを伝う雨粒の一つ一つが、その色を、小さく映していた。
世界の音が、遠くなっていった。
雨の音だけが、残った。屋根を叩く音。樋を流れる音。窓ガラスを伝う、かすかな音。
予約席の椅子に、お友だちが座っていた。
窓の外の、燃えない黄昏を、見ていた。
カウンターの端で、レッドが、頬杖をついて、窓の外を見ていた。黙って。
入口から三番目の席で、コトノハが、両手を膝の上に重ねて、窓の外を見ていた。黙って。
誰も、何も言わなかった。
空の色が、ゆっくりと、深い青に沈んでいった。
通りの街灯が、一つ、灯った。雨に濡れた石畳に、その光が、細く、長く、映った。
しばらくして、コトノハが、小さな声で、言った。
「……きれい」
それだけだった。
カフェは、振り返らなかった。
けれど、口元が、少しだけ、緩んでいた。
三 四人の夕ごはん
五時半、扉の鈴が、ちりん、と鳴った。
「……ただいま」
雅也だった。
片手に、大きな黒い傘を。もう片手に、クインの小さな手を握っていた。クインは、赤い長靴を履いて、黄色い雨合羽を着ていた。合羽のフードの下から、くせっ毛の渦が、ぴょんと飛び出していた。
「ママー! あめ、すごいー!」
「おかえりなさい。……早かったですね」
「雨で、夕方の練習、室内に切り替えた。……早めに終わった」
雅也は、傘をたたんで、雫を、扉の外で二回、軽く振って落とした。それから、傘立てに入れた。
カフェは、それを見て、少しだけ、目を細めた。
――レッドと、同じ。
レッドは、これを、見ていたのだった。
コトノハが、席から立ち上がって、雅也に頭を下げた。
「……あ、トレーナーさん、こんばんは」
「こんばんは、コトノハ。……まだ、いたのか」
「マスターが、雨の日の黄昏、見せてくれました」
雅也は、少しだけ、驚いた顔をした。それから、カフェの方を見た。カフェは、何も言わなかった。雅也も、何も訊かなかった。
「……そうか。よかったな」
「はい! ……じゃあ、わたし、帰ります! マスター、ありがとうございました!」
「気をつけて。……走らないでください」
「……はーい!」
コトノハは、傘を差して、雨の中へ出ていった。
走っていた。
カフェは、小さくため息をついた。雅也が、横で、笑いをこらえていた。
扉が閉まって、鈴が鳴った。
店の中に、四人だけが、残った。
「……雅也さん」
「ん」
「今日は、ここで、夕ごはんを、食べませんか」
雅也が、目を瞬いた。
「……店で?」
「はい。……朝のうちに、仕込んでおきました。シチューを」
カフェは、カウンターの内側の、小さなコンロの上の、蓋をした鍋を、指さした。
雅也は、鍋を見た。それから、カフェの顔を見た。
「……初めてだな。店で、四人で、夕飯」
「はい。……雨の日なので」
「雨の日だから?」
「……雨の日は、黄昏が、燃えないので。少しだけ、早く、終わります。……その後の時間を、四人で、ここで、過ごしてみたかったんです」
雅也は、しばらく、黙っていた。
それから、少しだけ笑って、手に持っていた紙袋を、カウンターの上に置いた。
「……ちょうどいい。パン、買ってきた。駅前の。……レッドとクインが、好きなやつ」
カフェは、紙袋を見た。
それから、雅也の顔を見た。
「……シチューに、ちょうど合いそうですね」
「偶然だよ。……雨の日はパンが食べたくなるから、ちょうどよかった」
レッドが、カウンターの端から、ぴょんと椅子を降りた。
「……パン? くるみの?」
「くるみの」
「……やった」
クインが、雨合羽を脱ぎながら、「クインも、くるみ!」と叫んだ。
カフェは、鍋の火を点けた。
シチューの、優しい匂いが、コーヒーの香りと混ざって、店の中に、ゆっくりと広がっていった。
カウンターに、四人並んで座った。
入口から、雅也、クイン、レッド、カフェの順だった。クインは、背の高いカウンターの椅子の上で、膝立ちになって、ようやく、カウンターの上に顎が届いた。雅也が、クインの背中に、片手を添えていた。
白い深皿に、シチューをよそった。くるみのパンを、雅也が、小さく切り分けた。
「いただきます」
「いただきまーす!」
「……いただきます」
四人の声が、雨の音に、重なった。
クインは、スプーンを、ぎゅっと握って、シチューの人参を、一つずつ、すくっては食べていた。レッドは、パンを、シチューに少しだけ浸して、ゆっくりと食べていた。雅也は、クインの口の周りを、ときどき、紙ナプキンで拭いていた。
レッドが畳んだ、角のぴったり合った、三角の紙ナプキンだった。
「……ママ」
クインが、スプーンをくわえたまま、言った。
「はい」
「あのせき、だれの?」
クインは、スプーンで、カウンターの一番奥を指した。
西の窓の前の、予約席だった。
カフェは、スプーンを、皿の上に置いた。
生まれたときから、何度も目にしてきたはずの札のことを、クインは、初めて訊いた。今まで、気にならなかったのかもしれない。今日、初めて、カウンターに、四人で並んで座ったから、気になったのかもしれない。
「……ママの、お友だちの、席です」
「おともだち?」
「はい」
「おともだち、ごはん、たべる?」
カフェは、少しだけ、考えた。
予約席の椅子の方を、見た。
お友だちは、そこに座っていた。窓の外の、もう暗くなった雨の夜を、見ているようだった。
「……どうでしょう」
カフェは、正直に言った。
「分かりません。……訊いたことが、ないので」
「きいて、みて」
「……訊いても、答えてくれないと思います」
「なんで?」
「……そういう、お友だちなんです」
クインは、首を傾げた。それから、すぐに、興味を、パンの方へ移した。
「パパ、くるみ、もういっこ!」
「はいはい」
レッドは、スプーンを持ったまま、予約席の方を、じっと見ていた。
それから、カフェの方を向いた。
「……ママ」
「はい」
「……ママの、ずっと、まえを、はしってたひと?」
カフェは、息を止めた。
十月の、あの夕方。カウンターの端で、二番の気持ちの話をした。ずっと前に、誰かがいた、と。友だちが、と。
レッドは、それを、覚えていた。
「……そうです」
カフェは、答えた。
「いつも、私の前を、走っていた人です。……今は、もう、前を走っていません」
「……じゃあ、どこにいるの?」
「……隣に、いる日もあります。後ろに、いる日もあります。どこにもいないように、感じる日もあります。……この店では、あの席に、座っていることが、多いです」
レッドは、予約席の椅子を、もう一度、見た。
それから、少しだけ、首を傾げた。
「……レッドには、みえない」
「はい。……私にしか、見えません」
「……ふうん」
レッドは、それだけ言って、またシチューの皿に向き直った。
怖がらなかった。疑いもしなかった。それ以上、訊きもしなかった。ただ、ふうん、と言って、パンを、シチューに浸した。
カフェは、その横顔を見ていた。
――分からなくて、いい。
昔、自分が、誰かに、何度も言ってきた言葉だった。分からなくていいです、と。説明しても、分かってもらえないから。分かってもらおうとすることに、疲れていたから。
今は、違う意味で、そう思った。
分からなくて、いい。レッドは、分からないまま、ふうん、と言って、シチューを食べている。それで、いい。
隣で、雅也が、クインの口の周りを拭きながら、ふと、予約席の方を見た。
「……今日は、誰か、いるのか」
「……います」
「そうか」
雅也は、それだけ言って、また、クインの口を拭いた。
雅也には、見えない。昔から、ずっと。けれど、ときどき、なんとなく、そこに誰かいる、と、耳だけで拾う。拾わない日も、外れる日も、ある。
今日は、拾わなかった。
拾わないまま、そうか、と言った。
それが、この人だった。
四 洗い場の二人
夕食を食べ終える頃には、クインは、雅也の膝の上で、眠っていた。
スプーンを握ったまま。口の周りに、シチューの白い跡をつけたまま。くせっ毛の渦が、雅也のセーターの胸に、押しつけられていた。小さな寝息が、雨の音に混じって、規則正しく聞こえていた。
レッドは、カウンターの端の、いつもの席に移って、絵本を開いていた。開いていたけれど、瞼が、少しずつ、重くなっていた。頬杖をついた手から、顔が、ずり落ちかけていた。
カフェは、カウンターの内側で、四人分の皿を洗っていた。
雅也が、クインを抱いたまま、カウンターの内側に回ってきた。片腕でクインを抱えて、もう片方の手で、布巾を取った。
「……拭く」
「片手で、ですか」
「片手で」
「……落とさないでください」
「落とさない。……カップを、二つ割ったことはあるけど」
カフェは、皿を洗う手を止めて、雅也の顔を見た。
「……いつ、ですか」
「カフェが、時計台で働きはじめた頃。……俺の部屋で、カフェの真似して、淹れようとして。手が滑った。二回」
「……知りませんでした」
「言わなかったからな」
「……どうして、言わなかったんですか」
「恥ずかしかったから」
カフェは、思わず、小さく笑った。
雅也は、片手で、皿を一枚ずつ、拭いていった。ぎこちなかった。けれど、落とさなかった。
しばらく、二人とも、黙っていた。
水の音。皿が触れ合う、小さな音。雨の音。クインの寝息。
「……カフェ」
「はい」
「今日、コトノハに、黄昏、見せたんだな」
「……はい」
「一人で、見なくて、よかったのか」
カフェは、皿を洗う手を、止めなかった。
「……昔は、一人でないと、だめでした」
「うん」
「黄昏の時間に、誰かがいると、見えるものが、見えなくなる気がしていました。聞こえるものが、聞こえなくなる気がして。……だから、一人で」
「……」
「今も、一人でいたい日は、あります。……でも、そうでない日も、増えました」
カフェは、最後の皿を、すすいだ。
「レッドが、隣で、黙って、空を見ている日。……雅也さんが、黙って、隣に立っている日。お母さんが、娘たちを連れて、散歩に行ってくれる日。……今日みたいに、コトノハさんが、きれい、と言ってくれる日」
「……」
「見えるものは、見えなくなりませんでした。……お友だちは、今日も、あの席に、座っていました」
カフェは、蛇口を閉めた。
水の音が、止んだ。
「……黄昏は、一人で見るものだと、ずっと、思っていました。でも、たぶん、違ったんです。……黙って、同じ空を見てくれる人がいれば、一人でなくても、よかったんです」
雅也は、布巾を持ったまま、カフェの横顔を見ていた。
何も、言わなかった。
それから、片手で、最後の皿を拭き終えて、棚に戻した。
「……カフェ」
「はい」
「この店、いい店だな」
カフェは、手を拭いていたタオルを、止めた。
「……今さら、ですか」
「今さらだ。……八年、毎日、思ってる。言ったことは、あんまりない」
「……どうして、言わなかったんですか」
「カフェの店だから。……俺が、いい店だって言うのは、なんか、違う気がしてた」
「……」
「でも、今日、思った。……レッドが、傘の雫を、外で二回振ってから、傘立てに入れてた。誰にも、教わってないのに」
カフェは、目を瞬いた。
「……雅也さんも、見ていたんですか」
「俺も、そうしてたから。……昔から。気づいたら、そうしてた。たぶん、レッドは、俺のを見てた」
「……」
「この店に来る人は、たぶん、みんな、そうなんだと思う。……誰にも教わってないのに、ここに来ると、声が小さくなる。傘の雫を、外で落とす。カップを、ゆっくり持つ。……カフェが、そういう店を作ったから」
雅也は、布巾を、カウンターの端に、きちんと畳んで置いた。
「俺は、それを、いい店だと思う。……走ったのも、作ったのも、カフェだ。俺は、そこまで、一緒にいただけだ」
カフェは、何も言えなかった。
タオルを、両手で握ったまま、雅也の顔を見ていた。
十二年前、レースの後で、この人が、いつも言っていた言葉だった。勝ったのは、カフェだ。俺は、そこまで、一緒にいた。
同じ言葉だった。
けれど、レースの後に聞いていたときより、ずっと、近くで聞こえた。
「……雅也さん」
「ん」
「一緒にいるのは、とても、大事なことです」
「……」
「レッドに、そう言いました。……パパは、そこまで、一緒にいた。それは、とても大事なことだ、と」
雅也は、少しだけ、照れたように、首の後ろを掻こうとして、クインを抱えていることを思い出して、やめた。
代わりに、カフェの頭に、空いている方の手を、そっと置いた。
冷たい手だった。
けれど、皿を拭いていたせいか、いつもより、少しだけ、温かかった。
五 宵を待つ店
雨は、八時過ぎに、止んだ。
四人で、店を出た。
雅也が、眠ったクインを、背中におぶっていた。カフェが、半分眠りかけたレッドの手を、引いていた。レッドは、片手で、黄色い傘を、たたんだまま、引きずるように持っていた。
カフェは、扉の鍵を、かけた。
扉の上の、真鍮の鈴が、ちりん、と小さく鳴った。
四十年以上、どこかの扉の上で、誰かの来訪を告げてきた鈴だった。時計台で、三十年。それから、柏木の手で、しまわれて。今は、この扉の上で、八年。
柏木は、三年前に、時計台を閉めた。八十を過ぎて、足が、もう、あの急な階段を上れなくなったからだった。閉めた日、カフェは、時計台の最後の一杯を、カウンターの端の席で、飲んだ。柏木は、湯を落としながら、一言も、喋らなかった。最後に、カップを置いて、「あんたの店の方が、うまい」とだけ言った。
それから、年に一度だけ、宵待ちに来る。杖をついて。秋の、開店の日の頃に。カウンターの、入口から三番目の席に座って、一杯だけ飲んで、何も言わずに帰っていく。
カフェは、扉の前で、一度だけ、振り返った。
すりガラス越しに、暗い店の中が、ぼんやりと見えた。カウンターの一番奥の、西の窓。雨上がりの夜空に、雲の切れ間から、星が一つ、小さく光っていた。
その窓の前の、予約席の椅子。
誰も、座っていないように見えた。
けれど、カフェには、分かっていた。
「……ママ」
レッドが、眠そうな声で、言った。
「はい」
「……おともだち、おるすばん?」
カフェは、少しだけ、考えた。
「……どうでしょう。ついてくる日も、あります」
「……きょうは?」
カフェは、店の中を、もう一度だけ、見た。
それから、レッドの手を、握り直した。
「……今日は、お留守番を、してくれるそうです」
「……そっか」
レッドは、それだけ言って、また、眠そうに目をこすった。
本当かどうかは、分からなかった。お友だちは、何も言わない。どこへ行くのか、何をするのか、教えてくれたことは、一度もない。
けれど、今夜は、そう言っても、いい気がした。
四人で、雨上がりの夜の通りを、歩きはじめた。
濡れた石畳が、街灯の光を、白く映していた。通りの向かいの桜の裸の枝から、雫が、ときどき、ぽたりと落ちた。冷たい冬の空気の中に、雨上がりの、土と、濡れた木の匂いがした。
雅也の背中で、クインが、寝言で、何か言った。「……ねこ……」と聞こえた。
レッドが、カフェの手を、ぎゅっと握った。
「……ママ」
「はい」
「あしたも、ごじ、おきていい?」
「……コーヒーの、一滴の日ですか」
「うん」
「……明日は、パパも、一緒でも、いいですか」
レッドは、少しだけ、考えた。
それから、こくりと頷いた。
「……いいよ。パパも、いっしょで」
「クインは」
「……クインは、ねてるから」
「そうですね」
前を歩く雅也の肩が、小さく揺れていた。笑っているのだと分かった。
カフェは、レッドの手を引きながら、夜の空を見上げた。
雲が、少しずつ、流れていっていた。その隙間から、星が、一つ、また一つと、見えはじめていた。
――宵待ち。
夜が来るのを、待つ店。誰かを、待つ店。黄昏の手前で、扉を閉める店。
けれど、本当に待っていたのは、たぶん、その先だった。
扉を閉めた後の、この時間。黄昏が過ぎて、夜が来て、雨が上がって、四人で、濡れた石畳の上を、家へ帰っていく、この時間。
それを、毎日、待っていた。
明日の朝も、五時に、豆を挽く。ごり、ごり、と低い音を立てて。湯を沸かして、少しだけ待って、細く落とす。雅也の分は、少し濃いめに。自分の分は、少し薄めに。レッドの分は、一滴だけ。
それから、店へ行く。札を、裏返す。
鈴が鳴って、誰かが入ってくる。沢井さんかもしれない。三枝さんかもしれない。コトノハか、シズクか、タキオンか、ユキノか、帽子をかぶった誰かかもしれない。初めての、誰かかもしれない。
その人たちに、宵を待つまでの時間を、一杯ずつ、出す。
そして、黄昏が来る前に、扉を閉めて。
また、この時間を、待つ。
「……カフェ」
前を歩く雅也が、振り返らずに、言った。
「はい」
「明日の朝のコーヒー、少し苦めで頼む」
「……店の分は、別ですから」
「……だから、家の分を頼んでるんだよ」
カフェは、少しだけ、笑った。
声に出して。
雨上がりの夜の通りに、その小さな笑い声が、静かに溶けていった