第一章 二十番目のゴールのあと
十一月の京都は、昼を過ぎるとすぐに光の色が変わる。正午のあいだはまだ秋の白さを残していた陽射しが、メインレースの発走時刻が近づくころには蜂蜜を薄く溶かしたような色になり、スタンドの屋根の影を芝の上へ長く伸ばしていた。風は北から吹いていた。強くはないが、頬に触れると冬の手前の乾いた冷たさがあって、観客席の人々はみなコートの襟を立て、手袋をした指で新聞やプログラムの角を押さえていた。
ゴール板を過ぎてから、スティルインラブは自分の脚がまだ前へ進もうとしていることに、しばらく気づかなかった。
身体は減速を始めていた。一完歩ごとに歩幅が縮み、靴の底が芝を噛む音が、低く重い連打から、少しずつ間の空いた音へと変わっていく。それでも胸の奥の何かは、まだ直線の途中にいるつもりで、前にいるはずの誰かの背中を探していた。探して、見つからなかった。前には誰もいなかった。視界の端から端まで、緑の芝と、白い内ラチと、その向こうで揺れている人の群れしかなかった。
息が、肺の底まで落ちていかなかった。吸っても吸っても胸の上のほうで空気が止まり、喉の奥が乾いた紙のように張りついている。勝負服の胸元が汗で肌に貼りつき、赤い襷の生地がいつもより重く感じられた。走っているあいだは気にならなかった重さが、止まりかけた身体の上に、一枚ずつ戻ってくるようだった。
四コーナーを回るまでは、何も考えていなかったと思う。中団の内で脚を溜め、前の集団の呼吸を背中越しに聞きながら、外へ持ち出す瞬間だけを待っていた。直線に向いたとき、前にいたのは、二年半前の春、阪神の桜のトライアルで初めて「喰らった」相手だった。先行して粘る、あの背中。それから外から、春の宝塚で下した年下の実力者が、真っ直ぐに伸びてきた。二人の気配を同時に感じた瞬間、スティルは自分が笑ったのを知っていた。口角が上がり、目が細くなる。四年のあいだ何度も経験した、あの感覚。
けれど今日、その笑いは、いつもと少しだけ違う場所から来ていた。
いつもなら、そこで何かが切り替わった。理性の自分が一歩うしろへ下がり、もう一人の自分が前へ出る。前へ出たもう一人は、強いものを見つけて喜び、追い、喰らい、そしてゴールのあと、理性の自分が迎えに行くのを待っている。迎えに行く道のりは、ときに短く、ときに長かった。名前を呼ばれて戻った日もあった。呼ばれずに、自分で閉じた日もあった。閉じたあとで、遅れて照れが来た日もあった。
今日は、迎えに行かなかった。
行く必要がなかったのだと、ゴール板を過ぎて三十完歩ほど走ったところで、スティルはようやく理解した。直線で笑った自分と、いま減速している自分のあいだに、継ぎ目がなかった。喰らいたいと思ったのも自分で、内ラチの位置を測ったのも自分で、最後の百メートルで脚を伸ばしながら「ここで終わりなのだ」と静かに思っていたのも、同じ一人の自分だった。二つの声が交互に話すのではなく、一つの声が、ずっと続いていた。
その事実が、勝ったことよりも先に胸に届いた。
スティルは、ゆっくりと首を回した。
スタンドが鳴っていた。音というより、厚みのある空気の壁のようなものが、正面からぶつかってくる。拍手と歓声と、誰かが叫ぶ自分の名前が混ざり合って、一つ一つを聞き分けることはできなかった。掲示板の着順の一番上に、自分の番号が灯っているのが見えた。その下の数字は、もう目に入らなかった。
探さなくても、どこにいるか分かっている気がした。分かっている気がして、それでも目は勝手にスタンドの関係者席のほうを辿っていった。人の顔、人の顔、人の顔。帽子、手を振る腕、カメラのレンズの光。そのあいだに、黒いコートの肩が見えた。
見つけた。
いつもは、見つけてもらっていた。影の薄い自分を、あの人はどこにいても、すぐに見つけた。学園の廊下の隅でも、練習場の柵の陰でも、雨の日の図書室の奥でも。今日は、スティルのほうが先に見つけた。手すりの前に立って、両手をそこに置いたまま、こちらを見ている。腕を振り上げてもいないし、声を上げてもいない。ただ、見ていた。四年前の夏の夜、公園の高台で、走ってくる自分から目を逸らさなかったときと同じ顔で。
頬が熱くなった。
照れはいつも、本能の高揚を追い越すようにしてやってきた。胸の奥で暴れかけたものを、顔の熱がさっと覆い隠して、そのあいだに理性が足場を取り戻す。そういう順序を、スティルは四年かけて覚えた。今日の熱は、何も覆い隠していなかった。静めるべき高揚がもう残っていなかったから、熱はただ熱のまま、頬の上に留まっていた。
あの人に会えたことが嬉しい。それだけの熱だった。
スティルは、自分が笑っていることに気づいた。鏡の前で練習した笑顔ではなかった。直線で浮かべた、獲物を見るときの笑顔でもなかった。その両方が、どこかで混ざり合ったような顔だった。どんな顔をしているのか、自分では見えなかった。見えなくて、いいと思った。
地下バ道は、スタンドの喧噪が嘘のように静かだった。
コンクリートの壁が音を吸い、天井の蛍光灯が白く均一な光を落としている。外の風がここまでは届かず、空気は湿っていて、土と芝と、誰かが使った消毒液の匂いが薄く混ざっていた。靴音が壁に反響して、自分の足音だけが妙に大きく聞こえる。スティルは、歩く速さをわざと落とした。急いで戻りたいような、戻りたくないような、どちらともつかない気持ちだった。
通路の途中で、アドマイヤグルーヴとすれ違った。
同じレースには出ていなかった。今日は観戦に来ていたのだろう、勝負服ではなく制服の上に厚手のコートを羽織り、関係者用の通路の脇に立っていた。一年前の同じレースで、最後に並んで走った相手だった。二年前の秋華賞でも、その前のローズステークスでも。スティルが四度、ゴールの手前で背中を越えた人。
アドマイヤグルーヴは、壁に背を預けたまま、こちらを見た。気高い顔立ちに、表情らしい表情は浮かんでいなかった。祝福もしなかったし、目を逸らしもしなかった。ただ、通り過ぎようとするスティルの顔を、正面から一度だけ見た。
「……走り方が、変わったのね」
低く抑えた声だった。問いではなかった。
スティルは足を止めた。何かを言わなければと思った。言葉を探して、口を開きかけて、何も出てこなかった。アドマイヤグルーヴの目の奥に、一年前、同じこの通路で見たものと似た光があった。悔しさとも違う、もっと硬くて、もっと冷えたもの。相手の強さを測って、測り終えて、それでも納得していない人の目。
「……はい」
ようやく出たのは、それだけだった。
アドマイヤグルーヴは、わずかに顎を引いた。それから壁から背を離し、通路の向こうへ歩いていった。振り返らなかった。コートの裾が角を曲がって見えなくなるまで、スティルは立ち止まったままでいた。
何が変わったのか、あの人には見えたのだろうか。見えたのだとしたら、どこまで。スティルはしばらく考えて、考えるのをやめた。アルヴさんは、たぶん、全部は見ていない。全部見ていたら、もっと何か言ったはずだった。けれど、何かは見ていた。四度も同じ直線で並んだ相手にだけ見える何かを。それを確かめに、わざわざ通路に立っていたのかもしれなかった。
胸の奥で、ほんの一瞬、紅いものが身じろぎした。強い人に見られた、という感覚。あの人ともう一度並びたい、という、どうにもならない欲。それはもう叶わないことを、スティルは知っていた。知っていて、それでも身じろぎしたものを、恥ずかしいとは思わなかった。そっと胸の内側に戻して、また歩き出した。
通路の奥、控室へ続く角の手前に、雅也が立っていた。
関係者席から降りてくるには、少し早すぎる気がした。走ってきたのかもしれない、と思ったが、息は乱れていなかった。コートのポケットに両手を入れて、壁際の消火器の箱の横に、いつもの姿勢で立っていた。背が高いので、天井の蛍光灯がちょうど彼の頭のあたりで白く光っている。
スティルは、三歩手前で止まった。
何を言えばいいのか、四年のあいだ一度も迷ったことがなかったわけではない。けれど、今ほど何も浮かばなかったことはなかった。勝ちました、と言うのは変だった。あの人は見ていた。終わりました、と言うのも違う気がした。何かが終わったのは確かだったが、何が終わったのかを、まだうまく言葉にできなかった。
雅也は、ポケットから右手を出した。出して、そのまましばらく、宙に置いたままにしていた。何かを差し出そうとしたのか、肩を叩こうとしたのか、自分でも決めかねているような手つきだった。それから、わずかに困ったように眉を下げて、手を下ろした。
「……四年、よく走った」
声は低くて、いつもよりほんの少しだけ掠れていた。
スティルは、泣くのだろうかと思った。こういうときに人は泣くものだと、どこかで読んだ気がした。目の奥が熱くなる気配を待ったが、それは来なかった。代わりに、胸の真ん中から何か柔らかいものがせり上がってきて、それが口元までたどり着いたとき、スティルは笑っていた。声は出なかった。肩が小さく揺れて、息が一つ、短く抜けた。
「……はい」
言ってから、もう少し何か言いたいと思った。四年分の何かを。けれど、口から出てきたのは、自分でも思いがけない言葉だった。
「……あの、トレーナーさん。……今日、私、迎えに行かなかったんです」
雅也は、すぐには答えなかった。スティルの顔を見ていた。言葉の意味を急いで掴もうとはせず、言葉が置かれた場所を確かめるように、少しだけ首を傾けた。
「……迎えに」
「……いつもは、ゴールのあとで……行っていたので。もう一人の、私のところへ。今日は、行かなくても……最初から、そこにいました」
うまく言えていない気がした。もっと正確な言い方があるはずだった。父となら、もっと上手に言葉を選べたかもしれない。歴史の本の中の、二つに分かれた王国がやがて一つの名前で呼ばれるようになる話のように。けれど今は、その言い方を探す余裕がなかった。
雅也は、少しのあいだ黙っていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……直線で、笑ってたな」
「……見えましたか」
「見えた。……いつもと、少し違う顔だった」
スティルは、自分の頬に手をやりかけて、やめた。どんな顔をしていたのか、知りたいような、知りたくないような気がした。
「……どう、違いましたか」
雅也は、少し考えた。考えているあいだ、彼の視線はスティルの顔から外れて、通路の床のほうへ落ちていた。言葉を選ぶときの癖だった。四年間、何度も見てきた。適当な言葉で済ませない人だった。分からないときは、分からないと言う人だった。
「……うまく言えない。ただ、ゴールのあとで、君がどっちの顔に戻るか、俺は考えなかった。考えなくていいと思った」
それは、スティルが言いたかったことと、たぶん同じことだった。違う言葉で、違う場所から言われた、同じこと。スティルは、何も返せなかった。返せないまま、頬の熱がまた少し上がるのを感じた。
雅也は、ちらりと腕時計を見た。
「……ライブの準備がある。それから、取材。疲れてたら、取材は俺が短くしてもらう」
「……大丈夫です。……でも、短いほうが、嬉しいです」
「分かった。……いや、短くする」
言い直したのが、少しおかしかった。スティルは、また小さく笑った。雅也は気づいたのか気づかなかったのか、もう一度だけスティルの顔を見て、それから通路の先の控室のほうへ、顎で軽く示した。
「行ってこい」
スティルは頷いて、控室へ向かった。
すれ違うとき、雅也のコートの袖が、ほんのわずかにスティルの肩をかすめた。冷えた布の感触だった。外の風を纏ったまま、ここまで降りてきたのだと分かった。急いで来たのだ、とスティルは思った。息は乱れていなかったけれど、袖はまだ冷たかった。
控室には、小さな手鏡が一つあった。
大きな姿見は、部屋の隅に布を掛けて寄せてもらっていた。四年前、初めてこの手の控室を使ったときに、スティルが恥ずかしそうに頼んだことを、学園の係の人はずっと覚えていてくれて、どのレース場でも、いつのまにかそうなっていた。
スティルは椅子に座り、手鏡を膝の上に置いたまま、しばらく覗かなかった。
勝負服の袖口から、左手が出ていた。薬指の爪だけが赤い。いつもと同じ色だった。走る日にだけ塗ってきた色。明日からは、塗る理由がなくなる。そう思っても、まだ実感がなかった。爪の赤さは、ただそこにあって、照明を受けて小さく光っていた。
手鏡を、ようやく持ち上げた。
映っていたのは、汗で前髪が額に貼りついた、少し疲れた顔だった。頬が赤い。走ったせいなのか、それ以外のせいなのか、鏡は教えてくれなかった。目の奥を見た。紅は浮かんでいなかった。いつもなら、レースのあとしばらくは、瞳の奥にかすかな色が残っていて、それが消えるまで鏡を見ないようにしていた。今日は、最初から何もなかった。消えたのではない、とスティルは思った。どこかへ行ってしまったのではなく、もう、目の奥に隠れている必要がなくなったのだ。
スティルは、鏡に向かって笑ってみた。
練習した笑顔を作るつもりだった。ライブの前にはいつもそうしていた。口角をこの高さに、目元はこのくらい、と、何年もかけて覚えた形。けれど、作ろうとした形の上に、別のものが重なってしまって、うまくいかなかった。練習した笑顔より、口元が緩んでいた。少しだけ、目が細かった。
これでいい、と思った。今日は、これでいい。
控室の扉が、二度、控えめに叩かれた。
「……スティル」
扉の向こうから聞こえた声に、スティルは顔を上げた。
ネオユニヴァースだった。扉を細く開け、その隙間から顔だけを覗かせている。栗東寮で同じ部屋を使って、四年になる。影の薄い自分を、雅也の次によく見つけてくれる人だった。
「……ユニヴァースさん。来ていたんですね」
「スタンドから“観測”してた。……入ってもいい?」
「……どうぞ」
ネオユニヴァースは、するりと部屋に入ってきて、扉を閉めた。椅子には座らず、スティルから少し離れた壁際に立って、首を傾けるようにしてこちらを見た。いつも何かを測っているような目だった。星を見るときと同じ目で、人を見る。
「今日の“軌道”、いつもと違ってた」
スティルは、手鏡を膝の上に戻した。
「……違って、見えましたか」
「アファーマティブ。……いつもは、ゴールのあとに“再突入”がある。大気に入るときの、熱。今日は、なかった。最初から、地表にいた」
言葉の選び方はいつも独特で、スティルには半分くらいしか分からない。けれど、ネオユニヴァースがでたらめを言わないことは知っていた。この人の言葉にはこの人なりの筋道があって、それを辿っていけば、たいていの場合、ちゃんと同じ場所に着く。
「……はい。最初から、そこにいました」
ネオユニヴァースは、満足したように一度だけ頷いた。それから、ふと視線を部屋の隅の、布を掛けられた姿見に移した。
「“鏡”、まだ苦手?」
「……苦手です。たぶん、ずっと」
「そう。……でも、さっきのスティル、手鏡、ちゃんと見てた」
見られていたのか、とスティルは少し驚いた。扉の隙間から、どのくらいのあいだ覗いていたのだろう。
「……少しだけ、です」
「少しだけ、で十分。……“観測記録”に、残しておく」
ネオユニヴァースはそれだけ言うと、もう用は済んだというふうに扉のほうへ戻りかけた。ノブに手をかけたところで、振り返った。
「……おつかれさま。四年分の」
扉が閉まった。
スティルは、しばらく閉じた扉を見ていた。それから、膝の上の手鏡をもう一度持ち上げて、ほんの一瞬だけ、自分の顔を見た。頬の赤さは、さっきよりも少しだけ引いていた。
四年分の、おつかれさま。
その言葉を、スティルは口の中で一度だけ繰り返した。声には出さなかった。
ウイニングライブが終わったのは、日が完全に落ちてからだった。
ステージの照明が消えると、京都の夜は急に冷え込んだ。観客が少しずつ出口へ流れていくのを、スティルは舞台袖の暗がりから眺めていた。白い息が、照明の残光の中でゆっくりとほどけていく。誰かが手を振っていた。振っている先に自分がいるのかどうか、ここからは分からなかった。
取材は、本当に短かった。雅也が事前に、学園の広報の人と話をつけていたらしい。記者たちは、いくつかの質問を投げかけ、スティルはそれに短く答えた。二十戦二十勝について。最後のレースについて。今の気持ちについて。どの質問にも、うまく答えられた気はしなかった。ただ、嘘は言わなかった。言葉が足りないぶん、言わないことのほうが多かった。
帰りの車の中で、スティルは窓の外を見ていた。
京都の街の灯りが、窓ガラスの上を流れていく。古い町並みの低い屋根と、その向こうに立つ新しいビルの窓明かり。信号で止まるたびに、横断歩道を渡る人たちの白い息が、車のライトの中に浮かんだ。
運転しているのは学園の職員で、雅也は助手席に座っていた。後部座席には、スティル一人だった。車内は静かで、暖房の低い唸りと、タイヤが路面を転がる音だけが聞こえていた。
スティルは、膝の上で手を組んでいた。左手の薬指の爪が、街灯の光が差し込むたびに、一瞬だけ赤く光った。
――次で、終わりにします。
一か月前、府中のゴールのあとで、自分はそう言った。言ったときには、もう決めていた。夏のあいだから、本能と理性が同じ答えを出し始めていたことに気づいていて、その答えがどこへ向かっているのかも、うっすらと分かっていた。最後は、一番強い人たちと走りたい。それも、本当だった。
そして今日、走り終えた。
走り終えて、明日からは、何もない。
何もない、というのは、正確ではなかった。学校がある。高等部三年の、残りの数か月。卒業の準備。寮の部屋の片付け。けれど、レースのための予定は、もうなかった。次の目標のレースも、そのための調整の計画も、朝の練習の時間も。四年間、毎日の時間割の一番上にあったものが、今夜を境に、全部消える。
スティルは、そのことを怖いとは思わなかった。少なくとも、今はまだ。ただ、どんな形をしているのか分からないものが、明日の朝、自分を待っているような気がした。
助手席の雅也は、何も言わなかった。窓の外を見ているのか、目を閉じているのか、後部座席からは分からなかった。肩の線が、車の揺れに合わせて、ほんのわずかに動いていた。
スティルは、ふと、その肩を見ていたいと思った。
見ていたいと思ったことに、少し遅れて気づいて、頬が熱くなった。誰も見ていないのに。暗い車の中で、誰にも気づかれないのに。スティルは窓のほうへ顔を向けて、ガラスに額を寄せた。冷たかった。その冷たさが、頬の熱と混ざって、少しずつ溶けていった。
四年前の夏、初めてあの人を見たとき、自分は何を思ったのだろう。満月の下を走っていて、本能の自分のままで、一直線にあの人のほうへ向かった。速かったはずだ。あの人は、逃げなかった。下がらずに、自分の走りを見ていた。目の前で止まったとき、あの人の顔を見て、何かが止まった。本能が、止まった。何が起きたのか分からなかった。分からないまま、顔が熱くなって、逃げるようにその場を離れた。
今なら、分かる。
分かる、と言ってしまうには、まだ早いのかもしれなかった。けれど、あの夜からずっと、自分の中で何かが当たり前のように決まっていた。この人の傍にいる、ということ。それは、誰かに教えられたことでも、自分で選んだことでもなかった。最初からそうだった、と思えるほどに、当たり前のことだった。
五月に十八歳になってから、その当たり前の中身に、名前がついた。名前がついたとき、スティルは誰にも言わなかった。言う必要がなかった。言わなくても、そうなると思っていた。いつか。全部が終わったあとで。
全部が終わるのは、まだ先だった。今日、レースが終わった。けれど、自分はまだ学園の生徒で、あの人はまだ自分の担当トレーナーだった。卒業して、契約が終わるまでは。
スティルは、窓ガラスから額を離した。
助手席の雅也が、わずかに身じろぎした。それから、前を向いたまま、低い声で言った。
「……スティル」
「……はい」
「明日は、朝練はない」
「……はい。知っています」
「寝ていていい。何時まででも」
スティルは、少しだけ考えた。
「……起きてしまうと、思います。いつもの時間に」
「起きたら、起きたでいい。……何もしなくていい日だ」
何もしなくていい日。
スティルは、その言葉を胸の中で転がした。四年間、そういう日は一日もなかった。休養日はあった。けれど、休養日は、次の練習のための休みだった。何もしなくていい日、というのは、それとは違う。
「……トレーナーさんは」
「ん」
「……トレーナーさんも、何もしなくていい日、ですか」
雅也は、笑ったようだった。後部座席からは顔が見えなかったが、肩がわずかに揺れたので、そう分かった。
「……俺は、書類がある。四年分」
「……四年分」
「学園に出す報告と、URAに出す報告と。……あとは、明日は、たぶん、少し寝る」
「……少しだけ、ですか」
「少しだけ」
スティルは、小さく笑った。笑ったあとで、少しだけ心配になった。この人は、いつも自分のことを後回しにする。四年間、そうだった。レースの前の夜は、自分より遅くまで起きていた。遠征の帰りは、自分より先に起きていた。
「……ちゃんと、寝てください」
言ってから、少し出過ぎたことを言ったような気がした。雅也は、しばらく黙っていた。
「……ああ。寝る」
車は、京都の街を抜けて、高速道路へ乗った。窓の外の灯りが少なくなり、代わりに、暗い山の稜線が、夜空よりもう少しだけ濃い黒として、遠くに連なっていた。月は出ていなかった。今夜が満月ではないことを、スティルは数日前から知っていた。暦を確かめるのは、四年前からの習慣だった。
月のない夜で、よかった。
スティルは、座席の背にもたれて、目を閉じた。眠るつもりはなかった。けれど、身体の奥のほうから、ゆっくりと重いものが広がってきて、気づくと、意識の輪郭が少しずつ柔らかくなっていった。
最後に覚えているのは、助手席から聞こえた、小さな衣擦れの音だった。雅也が、自分のコートを脱いでいる音。それから、それが後ろの座席へ、そっと差し出される気配。膝の上に、温かくて重いものが掛けられた。外の風の冷たさは、もうすっかり抜けていた。代わりに、あの人の体温が、まだ残っていた。
スティルは、目を開けなかった。開けたら、何か言わなければならない気がした。言わなくていいと思った。コートの端を、膝の上でそっと握った。
第二章 白い時間割
目が覚めたのは、五時四十分だった。
栗東寮の部屋は、まだ夜の名残の暗さに沈んでいた。カーテンの合わせ目から、ほんのわずかに外の空の色が覗いている。青と灰色のあいだの、まだ名前のない色。窓ガラスの下のほうがうっすらと曇っていて、十一月の朝の冷えが、壁の向こうから静かに部屋の中へ染みてきていた。
スティルインラブは、布団の中で目を開けたまま、しばらく動かなかった。
身体が、起きる準備をしていた。四年間、毎朝この時刻に目を開け、顔を洗い、ジャージに袖を通し、練習場へ向かってきた。脚の筋肉が、もう芝の感触を思い出そうとしている。指先が、靴紐を結ぶ形にわずかに曲がっている。呼吸が、走り出す前の深さに近づいていく。どれも、スティルが命じたわけではなかった。身体が、勝手に覚えていた。
今日は、走らない。
頭では分かっていた。昨夜、車の中で、あの人も言っていた。何もしなくていい日だ、と。けれど、分かっていることと、身体が納得することのあいだには、思っていたよりも長い距離があった。
隣のベッドから、規則正しい寝息が聞こえていた。ネオユニヴァースは、宵っ張りの朝寝坊だった。昨夜も、スティルが京都から戻ったときにはまだ起きていて、窓辺に置いた小さな望遠鏡を覗きながら、何かをノートに書きつけていた。スティルがおやすみなさいと言うと、顔を上げずに「おやすみ。“着陸”おめでとう」と返した。そのあと何時まで起きていたのかは知らない。
スティルは、そっと布団を出た。
床が冷たかった。スリッパを探して足先で床を撫で、見つけて履く。カーテンの合わせ目を、指一本ぶんだけ開けた。寮の中庭の向こうに、学園の練習場の照明が見えた。もう点いている。朝の早い誰かが、走り始めているのだろう。白い光の中に、小さな人影が一つ、二つ。コースの上を、ゆっくりと周回している。
スティルの耳が、無意識にそちらへ向いた。
遠くて、足音は聞こえなかった。聞こえないはずの音を、耳が探していた。芝を踏む重さ、呼吸の間隔、コーナーで外へ膨らむときの、ほんのわずかな体重移動の音。四年間、毎朝あの中にいた。あそこにいるのが当然だった。
スティルは、カーテンを閉じた。
机の上に、手帳が置いてあった。一年ごとに買い替えてきた、焦げ茶色の革の小さな手帳。表紙の角が擦れて、わずかに色が薄くなっている。スティルはそれを手に取って、椅子に座り、机の小さなスタンドの明かりを点けた。
今日の頁を開いた。
十一月十四日、月曜日。
白かった。
昨日の頁には、びっしりと書き込みがあった。起床時刻、朝食の内容、移動の時刻、控室に入る時刻、パドックの時刻、発走時刻。それから、雅也に言われた短い言葉が、小さな字で一つ。「今日は、最初から最後まで、君でいい」。発走の一時間前に、控室の前で言われた言葉だった。それを書き留めたのは、レースのあとの夜、寮に戻ってからだった。
その前の頁も、その前の頁も、文字で埋まっていた。練習の内容、調子の自己評価、天気、食事。それから、ときどき、レースとは関係のない小さな出来事。ジャムを煮た日。ボビンレースの模様を一つ仕上げた日。父と電話で、古い城の話をした日。
今日の頁だけが、白かった。
スティルはペンを手に取った。何か書こうと思った。起床時刻、と書きかけて、手が止まった。起床時刻を書いて、それから何を書けばいいのだろう。朝食の時刻。授業の時刻。それは書ける。けれど、それはこれまで、書く必要のないことだった。授業はただそこにあって、練習の予定の隙間を埋めるものだった。
ペン先が、紙の上で浮いたまま動かなかった。
白い頁を見つめているうちに、胸の奥に、小さな冷たいものが落ちてきた。怖い、というほどではなかった。けれど、足場が一枚抜けたような、ふわりとした感覚だった。四年間、毎日の一番上にあったものが、なくなった。その下に何があるのか、スティルはまだ見たことがなかった。
――自分について、語るべきことは、ない。
昔、そう名乗っていた。誰かに自己紹介を求められるたびに、少し困ったように、そう答えていた。語るべきことがないのは、本当にないからではなかった。あるものを、どう語ればいいのか分からなかったからだった。お菓子が好きなこと。コーヒーがあると、もっと幸せなこと。ボビンレースの糸の、指先に触れる細さ。赤い果実を煮詰めるときの、鍋の中の泡の音。父と話す、遠い国の昔の話。それから、走るときの自分の中にいる、もう一人の自分。
走ることがなくなったら、自分は何なのだろう。
スティルは、そう考えかけて、考えるのをやめた。今はまだ、考えなくていい気がした。昨日、二つの自分が一つになったばかりだった。一つになった自分が、走らない日をどう過ごすのか、まだ誰も知らない。自分も、知らない。
ペンを置いた。白い頁は、白いままにしておいた。
朝食の食堂は、思っていたよりも賑やかだった。
月曜日の朝の、少しだけ眠そうな空気。トレーを持って列に並ぶ生徒たちの足音、食器の触れ合う音、湯気の立つ味噌汁の鍋、焼き魚の匂い。窓の外はようやく明るくなり始めていて、ガラス越しの光が、長いテーブルの上に淡く落ちていた。
スティルがトレーを持って席を探していると、何人かの生徒が、こちらに気づいて振り返った。
「……あ、スティルインラブさん」
「昨日、すごかった……!」
「二十戦二十勝、おめでとうございます!」
声をかけてきたのは、中等部の後輩たちだった。三人、四人。顔は見覚えがあったが、名前までは知らなかった。スティルは、驚いて立ち止まった。
四年間、食堂で誰かに声をかけられることは、ほとんどなかった。影が薄いのだと、自分でも分かっていた。勝った翌朝でさえ、食堂ではたいてい、誰にも気づかれずに隅の席で朝食を済ませた。レースの話をされるのは、決まって雅也と、ネオユニヴァースと、それからたまに、同じレースを走った人たちだけだった。
「……ありがとう、ございます」
小さな声で答えると、後輩たちはぱっと顔を明るくして、何かを言い合いながら自分たちの席へ戻っていった。
スティルは、トレーを持ったまま、少しのあいだ立ち尽くしていた。
引退すると決めた人には、人は声をかけるのだ、と思った。走っているあいだは、次のレースがあるから、遠慮していたのかもしれない。邪魔をしてはいけないと。あるいは、単に、二十という数字が、影の薄い自分にも人の目を向けさせたのかもしれない。
どちらでも、悪い気はしなかった。けれど、くすぐったかった。
隅の席に座って、味噌汁を一口飲んだ。温かかった。昨日の夜、ライブのあとで何も食べなかったことを、その温かさで思い出した。お腹が空いていたのだと、今ごろになって気づいた。
焼き魚の身を、箸でほぐしていると、向かいの席に誰かが座った。
「……おはよう、スティル」
ネオユニヴァースだった。いつのまに起きたのか、制服に着替えて、トレーを持っていた。トレーの上には、パンとサラダと、なぜか牛乳が三本並んでいた。
「……おはようございます。……早いですね」
「スティルの“離陸”を、検知したから。……五時四十分」
「……起こしてしまいましたか」
「ネガティブ。もともと、眠りが浅い周期だった」
ネオユニヴァースは、牛乳の一本目の蓋を開けて、半分ほど一気に飲んだ。それから、パンをちぎりながら、スティルの手元を見た。
「……箸の動き、いつもより遅い」
スティルは、焼き魚をほぐす手を止めた。
「……そう、ですか」
「いつもの朝は、急いでる。練習のあとで、次の授業までの時間を、計算しながら食べてる。今日は、計算してない」
言われてみれば、そうだった。時計を見ていなかった。食べ終わらなければならない時刻を、考えていなかった。
「……今日は、急がなくていいので」
「アファーマティブ。……でも、急がなくていい、を、スティルはまだ、使い方が分からない」
スティルは、少し考えた。
「……分からない、です。……たぶん」
ネオユニヴァースは、ちぎったパンを口に入れて、ゆっくりと噛んだ。噛みながら、窓の外の空を見ていた。朝の光が、ようやく雲の切れ間から差し込んできて、食堂のテーブルの上を斜めに横切っていた。
「“軌道”を外れた衛星は、最初、どっちへ行けばいいか分からない」
「……はい」
「でも、どっちへも行かなくていい時間がある。慣性で、しばらく漂う。……漂ってるあいだに、新しい“重力”を見つける」
スティルは、その言葉を、頭の中で一度だけなぞった。漂う。新しい重力。
「……漂っていて、いいのでしょうか」
「“推奨”。……急いで新しい軌道に乗ると、だいたい、また同じところを回る」
ネオユニヴァースは、二本目の牛乳を開けた。それから、ふと何かを思い出したように、スティルの顔を見た。
「……あと、“重力”は、もう一つ、近くにある」
スティルは、箸を持ったまま、固まった。
「……」
「それは、スティルが一番よく知ってる」
ネオユニヴァースは、それ以上は何も言わなかった。牛乳を飲み、パンを食べ、サラダのトマトを一つずつフォークで刺していった。スティルは、頬が熱くなるのを感じながら、焼き魚の身をほぐす作業に戻った。ほぐしすぎて、身が細かくなりすぎた。
授業は、思っていたよりもすんなりと身体に入ってきた。
一時間目は現代文で、二時間目は日本史だった。日本史の先生が、平安時代の終わりの話をしていた。院政と、武士の台頭。二つの力が、一つの国の中で、互いに引っ張り合いながら、やがて形を変えていく時代。スティルは、ノートをとりながら、父が昔話してくれた、遠い国の二つの王家の話を思い出していた。ばらばらだった二つの家が、一つの婚姻で結ばれて、一つの名前で呼ばれるようになる話。父はその話をするとき、いつも少しだけ楽しそうだった。
三時間目は数学で、四時間目は英語だった。
昼休み、スティルは食堂ではなく、中庭のベンチに座った。
十一月の中庭は、木々の葉がほとんど色を変えていて、風が吹くたびに、黄色や赤や茶色の葉が、石畳の上をかさかさと転がっていった。陽射しは柔らかく、ベンチの木の座面がほんのりと温まっていた。スティルは、鞄から小さな包みを取り出した。朝、食堂のパンを一つもらって、寮の部屋に置いてある手作りのジャムを塗っておいたものだった。木苺のジャム。夏の終わりに煮たもので、瓶はもう残り少なかった。
パンを一口かじった。木苺の甘酸っぱさが、舌の上で広がった。種のつぶつぶとした感触が、歯の間で小さく弾けた。
中庭の向こうに、トレーナー棟が見えた。
三階の、右から二番目の窓。雅也のトレーナー室だった。四年間、毎日あの部屋に通った。練習のあとの振り返り、次のレースの作戦の相談、遠征の準備の確認。それから、ときどき、何の用事もなく、ただお菓子とコーヒーを持って。
窓は閉まっていた。カーテンが半分だけ引かれていて、中の様子は見えなかった。
今日は、行く理由がなかった。
そう思ったとき、パンを持つ手が止まった。
行く理由がない。練習の振り返りも、作戦の相談も、遠征の準備も、もうない。四年間、あの部屋に行くには、いつも理由があった。理由があったから、行けた。理由がなくても行ってよかったのかもしれない。けれど、スティルは、理由のない日にあの部屋の扉を叩いたことが、一度もなかった。お菓子とコーヒーを持っていった日でさえ、それは練習のあとの、ほんの少しの延長だった。
今日、あの扉を叩いたら、何と言えばいいのだろう。
――何もしなくていい日、です。
それは、理由になるのだろうか。
スティルは、パンの残りをゆっくりと食べた。食べ終えて、包み紙を丁寧に畳んで、鞄にしまった。それから、ベンチの上で膝を抱えて、トレーナー棟の窓を、しばらく見ていた。
窓のカーテンが、わずかに動いた。
中で誰かが窓辺に立ったのか、それとも暖房の風が揺らしたのか、ここからは分からなかった。スティルは、膝を抱えた腕に、少しだけ力を込めた。
放課後になった。
いつもなら、着替えて練習場へ向かう時刻だった。スティルは、教室の自分の席に座ったまま、鞄の留め金を開けたり閉めたりしていた。かちり、かちり。小さな金属の音が、生徒たちが出ていったあとの静かな教室に響いた。
窓の外で、練習場の方角から、掛け声が聞こえてきた。遠く、風に乗って、断片的に。
スティルは、鞄を持って立ち上がった。
どこへ行くのか、決めていなかった。寮に戻ってもよかった。図書室へ行ってもよかった。寮の部屋で、ボビンレースの続きをしてもよかった。作りかけの模様が、ボビンの重りをぶら下げたまま、枕元の台の上で待っている。
足は、トレーナー棟のほうへ向いていた。
気づいたとき、スティルはもう、トレーナー棟の一階の玄関をくぐっていた。階段を上る。一段ずつ。二階を過ぎて、三階へ。廊下は静かだった。どの部屋も、トレーナーたちは担当の練習に出ている時間で、扉はほとんど閉まっていた。
右から二番目の扉の前で、スティルは足を止めた。
扉は閉まっていた。中から、何の音も聞こえなかった。いや、耳を澄ますと、かすかに紙をめくる音がした。それから、ペンが紙の上を走る、細い音。
スティルは、扉の前に立ったまま、手を上げかけて、下ろした。
何と言えばいいのか、まだ決まっていなかった。
四年前、初めてこの扉の前に立ったときのことを思い出した。満月の夜の翌日だった。謝りに来た。怖がらせてしまったことを、謝らなければと思った。扉の前で、ずいぶん長いあいだ立っていた。影が薄いから、廊下を通る誰にも気づかれなかった。ノックをする勇気が出なくて、手を上げては下ろし、上げては下ろした。
あのとき、扉は、内側から開いた。
ノックをする前に、雅也が扉を開けて、廊下に立っている自分を見つけた。驚いた顔はしなかった。首を傾けて、「……昨日の」と言った。それだけだった。
スティルは、もう一度手を上げた。今度は下ろさなかった。
指の関節が、扉の木に触れる寸前で、扉が内側から開いた。
雅也が立っていた。
ワイシャツの袖を肘のあたりまで捲り上げて、手には書類の束を持っていた。目の下に、うっすらと影があった。ちゃんと寝てください、と昨夜言ったことを、スティルは思い出した。
「……スティル」
雅也は、驚いた顔をしなかった。四年前と同じように、少しだけ首を傾けた。
「……どうした」
スティルは、上げたままの手を、ゆっくりと下ろした。
「……あの」
言葉が出てこなかった。理由を探した。何か、ここへ来る理由になるものを。書類の確認、とか。報告書に必要なこと、とか。そういうものがあれば、すんなり言えた。
何もなかった。
「……何も、ないんです」
言ってしまってから、自分の言葉に驚いた。驚いて、頬が熱くなった。何もない、なんて、何を言っているのだろう。何もないのに、来たのだ。理由もないのに、扉を叩こうとしたのだ。
雅也は、しばらくスティルの顔を見ていた。それから、手に持っていた書類の束に目を落として、考えるような顔をした。
「……ちょうどよかった」
「……え」
「四年分の書類、一人で片付けるのは、正直、気が滅入ってた」
雅也は、扉を大きく開けて、半歩下がった。
「……コーヒー、淹れる。飲んでいくか」
スティルは、何も言えなかった。
ちょうどよかった、と言われた。理由もないのに来た自分に、この人は、理由をくれた。書類を片付けるのに気が滅入っている、という、わずかに情けない理由を。それが本当なのかどうか、スティルには分からなかった。たぶん、半分くらいは本当なのだろう。残りの半分は、たぶん、自分のための嘘ではなく、自分のための言い方なのだろう。
「……はい」
スティルは、トレーナー室の中へ入った。
部屋の中は、いつもと同じだった。窓際の机、壁際の本棚、部屋の隅の小さな冷蔵庫と、その上の電気ケトル。机の上には、書類が山のように積まれていた。四年分。ファイルの背に、日付と、レースの名前が書いてある。メイクデビュー。ラジオたんぱ杯二歳ステークス。紅梅ステークス。一つずつ、順番に。
雅也は、電気ケトルに水を入れて、スイッチを押した。それから、棚から豆の袋を取り出した。
「……豆、まだ残ってたか」
「……先月、私が持ってきたものです。……まだ、半分くらいは」
「よかった」
雅也は、豆を挽く小さな手回しの器械を取り出して、豆を入れた。ハンドルを回す。ごりごりと、低い音がした。部屋の中に、挽きたての豆の香りが広がっていった。深くて、少しだけ甘い香り。
スティルは、机の横の、いつも座っていた椅子に腰を下ろした。それから、積まれた書類の一番上のファイルを、そっと手に取った。
背表紙に、「#20 エリザベス女王杯」と書いてあった。
中を開くと、まだほとんど何も書かれていなかった。日付と、天候と、バ場状態と、着順。それだけ。昨日のことだから、当然だった。
スティルは、ファイルを膝の上に置いて、空白の欄を見つめた。
「……これ、私も、書いていいですか」
雅也は、豆を挽く手を止めた。
「……書く?」
「……レースの、振り返りの欄です。いつもは、トレーナーさんが書いて、私が読んで、確認していましたけど」
スティルは、空白の欄を指でなぞった。
「……最後のは、私も、書きたいです」
雅也は、しばらく黙っていた。それから、豆を挽く手をまた動かし始めた。
「……書いてくれ。俺は、俺の分を書く。並べて綴じる」
「……並べて」
「君の分と、俺の分。……最後だからな」
スティルは、ファイルを膝の上に置いたまま、俯いた。最後だから、と雅也は言った。そう、最後だった。最後のファイル。最後の振り返り。
電気ケトルの湯が沸く音がした。かちり、とスイッチが切れた。雅也は、挽いた豆をドリッパーに移して、細い注ぎ口から、ゆっくりと湯を落とした。最初の数滴で、粉が膨らんだ。ふつふつと、小さな泡が立った。香りが、さっきよりも濃くなった。
スティルは、その香りを吸い込みながら、ペンを取った。
何を書けばいいのか、まだ分からなかった。けれど、朝、手帳の白い頁の前で止まったペンとは、少しだけ違った。書くことがあった。あった、というより、ここにいると、書けそうな気がした。
――直線で、笑いました。
最初の一行を、スティルはそう書いた。
――いつもと、違う場所から笑っていた気がします。
二行目を書いて、ペンが止まった。止まったけれど、朝のように動けなくなったわけではなかった。次に何を書くか、考えているだけだった。
雅也が、カップを二つ持ってきて、一つを机の端に置いた。スティルの手の届くところ。湯気が、ゆらゆらと立ちのぼっていた。
雅也は、自分の椅子に座って、もう一つのカップを手に持った。それから、机の上の別のファイルを開いて、自分のペンを取った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、練習場の掛け声が、遠く風に乗って聞こえていた。部屋の中には、ペンが紙の上を走る音が二つ、重なったり離れたりしながら続いていた。コーヒーの湯気が、窓から差し込む午後の光の中で、ゆっくりとほどけていった。
スティルは、三行目を書いた。
――最初から最後まで、私でした。
書き終えて、ペンを置いた。カップを両手で包んで、一口飲んだ。苦かった。その奥に、豆の甘さが残った。
胸の奥が、温かかった。
白い時間割の、今日の欄に、何か書くことができた。書いたのは、たぶん、ほんの三行だった。けれど、それで十分だと思った。
ふと顔を上げると、雅也がペンを止めて、こちらを見ていた。目が合うと、雅也はわずかに視線を逸らして、自分のファイルに戻った。
「……豆、いい香りだな」
「……はい。……この豆、いつもより、少し深く焙ってあるんです。……冬になると、こういうのが、飲みたくなるので」
「……そうなのか」
「……はい。……夏は、もう少し浅いほうが、好きです」
言ってから、少しだけ饒舌になった自分に気づいた。コーヒーの話になると、いつもそうだった。雅也は、何も言わずに、カップをもう一度口元に運んだ。
「……確かに、深い」
それだけ言って、また書類に戻った。
スティルは、カップを両手で包んだまま、窓の外を見た。午後の光が、少しずつ傾いていた。練習場の掛け声が、一つ、また一つと、風の中に溶けていった。
第三章 ひとつだけ、私の中に
引退会見は、十一月の第四週の火曜日に決まった。
日程を知らされたのは、京都から戻って一週間ほどが過ぎた頃だった。学園の広報の担当者が、雅也と一緒にトレーナー室で待っていて、スティルが入っていくと、薄い紙を一枚差し出した。会見の日時、場所、出席者、進行の流れ。場所は学園の本館の会議室で、時間は午後二時から三十分ほど。出席者は、スティルと、担当トレーナーの雅也と、学園を代表して理事長秘書の駿川たづな。
紙には、想定される質問の一覧も添えられていた。引退を決めた理由。二十戦二十勝という記録について。最も印象に残ったレース。今後の予定。担当トレーナーについて。
スティルは、その一覧を、指で一行ずつなぞりながら読んだ。
「……答えは、こちらで用意しなくていいんですか」
広報の担当者は、困ったように笑った。
「用意していただいても構いません。ただ、早瀬トレーナーから、本人の言葉で答えてもらうのが一番いいと伺っていまして」
スティルは、雅也を見た。雅也は、机の端に腰を預けて、腕を組んでいた。
「……原稿を読むより、君が考えて答えたほうがいい。短くていい。答えたくない質問は、答えなくていい」
「……答えなくて、いいんですか」
「いい。俺が引き取る」
広報の担当者が、小さく頷いた。
「無理に話していただく必要はありません。記者の皆さんにも、事前にお願いしておきますので」
スティルは、紙を胸の前で軽く持ったまま、少しだけ俯いた。
答えたくない質問は、答えなくていい。四年間、何度か取材を受けた。たいていは、レースの直後だった。息が整わないまま、マイクを向けられて、何を訊かれたのかもよく分からないまま、短く答えた。雅也は、いつも少し離れたところに立っていて、スティルが言葉に詰まると、さりげなく取材を切り上げてくれた。
今度の会見は、レースの直後ではない。息は整っている。考える時間もある。
考える時間があるということが、かえって怖かった。
会見の前の週末、スティルは寮の部屋で、ボビンレースの台に向かっていた。
台の上には、作りかけの模様が広がっていた。細い麻の糸が、何十本ものボビンにそれぞれ巻きつけられて、台の縁から重りのように垂れ下がっている。模様の図案は、台の上に留めた方眼紙に描いてあった。小さな花が、蔓でつながりながら、横へ横へと続いていく帯の模様。まだ三分の一ほどしか進んでいなかった。
スティルは、二本のボビンを指先でつまんで、交差させた。交差させて、ピンを一本、台に刺す。また二本をつまんで、ねじる。ボビンが触れ合うたびに、木と木がかすかに鳴った。からり、ころり。乾いた、小さな音。
手を動かしていると、頭の中が静かになった。
想定される質問の一覧が、頭の隅に浮かんでは消えた。引退を決めた理由。走りたいものを、走り切ったから。それは、たぶん言える。二十戦二十勝について。数えたことは、あまりない。それも、本当だった。最も印象に残ったレース。一つに決められない。強い人たちと走れたことが、全部。
今後の予定。
ボビンをねじる手が、わずかに遅くなった。
お菓子を作ること。レースを編むこと。父と歴史の話をすること。それから。
それから、もう一つ。
スティルは、手を止めた。ボビンを二本つまんだまま、台の上の模様を見下ろした。
もう一つのことは、ずっと前から決まっていた。決まっていた、というのは正確ではないのかもしれなかった。決めたことはなかった。決める前から、そうだった。あの人の傍にいること。それは、未来の予定というより、自分が自分であることの前提のようなものだった。
会見で、それを言うつもりはなかった。言うべきことではなかった。あの人はまだ自分の担当トレーナーで、自分はまだ学園の生徒で、二人のあいだにあるのは、担当と、担当される者という関係だけだった。それ以外の言葉を、公の場で口にすることは、あの人を困らせる。それに、そもそも、あの人に、まだ一度も言ったことがなかった。
けれど、今後の予定を訊かれたら。
何も決めていません、と答えるのは、嘘になる。
スティルは、ボビンを交差させた。ピンを刺した。また二本つまんで、ねじった。
ねじったとき、隣のボビンの糸に、指が引っかかった。
ほんのわずかな引っかかりだった。けれど、糸はするりと隣の糸に絡みついて、小さな結び目を作った。スティルは手を止めて、結び目を見下ろした。
――また、絡んだ。
雅也の前では、いつも絡んだ。トレーナー室でボビンレースの続きをしていると、ふとした拍子に、あの人の視線を感じて、指先が狂った。糸が絡み、瓶の蓋を閉め忘れ、コーヒーのカップを置く位置を間違えた。あの人のいないところでは、ほとんど絡まなかった。四年間、ずっとそうだった。
今、あの人はここにいない。
それなのに、絡んだ。
スティルは、細い針を取り出して、結び目をそっとほどき始めた。糸を傷めないように、少しずつ、少しずつ。結び目はかたく締まっていて、なかなかほどけなかった。針の先で糸をすくい、引き、またすくう。
あの人のことを、考えていたからだ、と思った。
あの人がいなくても、あの人のことを考えると、指が狂う。それに気づいて、頬が熱くなった。誰もいない部屋で。ネオユニヴァースは、今朝早くから天文部の観測会に出かけていて、夕方まで戻らないはずだった。
結び目が、ようやくほどけた。糸は、ほんの少しだけ縮れていた。スティルは指先でそっと撫でて、縮れを伸ばした。完全には伸びなかった。かすかな波打ちが、糸の上に残った。
――この模様は、誰のためのものなのだろう。
作り始めたとき、スティルは何も考えていなかった。図案集をめくっていて、蔓でつながる小さな花の帯が目に留まった。綺麗だと思った。それだけだった。何に使うのかも、誰に渡すのかも、決めていなかった。
けれど、今、縮れた糸を見下ろしながら、スティルは少しだけ分かった気がした。
この模様は、細長い。細長くて、端と端が、きちんと揃っている。本の頁のあいだに挟めば、ちょうどいい長さになる。
栞だ、と思った。
栞にするなら、誰に渡すのか。
スティルは、台の上の模様から目を離して、窓の外を見た。十一月の夕方の空が、薄い橙色に染まり始めていた。トレーナー棟の三階の窓が、ここからは見えない。見えないけれど、どの方角にあるのかは知っていた。
スティルは、もう一度ボビンをつまんだ。
今度は、絡まなかった。
会見の日は、晴れていた。
本館の会議室は、思っていたよりも広かった。正面に長い机が置かれ、白いクロスが掛けられていた。机の上には、三本のマイクと、三つの水差しと、三つのグラス。机の後ろの壁には、学園の校章を染め抜いた紺色の幕が掛かっていた。向かい側には、記者たちのための椅子が三列ほど並び、その後ろにカメラの三脚が立っていた。
スティルは、控え室で制服の襟を整えながら、小さな手鏡を覗いた。
顔色は悪くなかった。わずかに頬が硬かった。緊張しているのだと分かった。手鏡の中の自分に向かって、口角を上げてみた。練習した笑顔。それから、上げた口角をゆっくりと戻した。今日は、笑わなくてもいいような気がした。
控え室の扉が叩かれて、駿川たづなが顔を覗かせた。
「スティルインラブさん、そろそろお時間です」
「……はい」
たづなは、いつもの穏やかな笑顔で、スティルの顔を見た。それから、ほんの少しだけ声を落とした。
「緊張されていますか」
「……少しだけ、です」
「大丈夫ですよ。早瀬トレーナーも、私も、隣にいますから」
スティルは、小さく頷いた。
会議室に入ると、フラッシュが一斉に光った。
白い光が、何度も、何度も、目の奥に焼きついた。スティルは、思わず目を細めた。細めたまま、机の真ん中の椅子へ歩いていった。椅子を引いて、座る。右隣にたづなが、左隣に雅也が座った。
記者たちの顔が、正面に並んでいた。二十人ほどだろうか。見覚えのある顔もあった。レースのあとの取材で、何度かマイクを向けてきた人たち。手帳を開き、ペンを構え、録音機を机の上に置いて、こちらを見ていた。
スティルは、膝の上で両手を重ねた。左手の薬指の爪は、もう赤くなかった。京都から戻った翌日に、色を落とした。落としたあとの爪は、他の指と同じ、淡い色をしていた。
たづなが、会見の始まりを告げた。学園を代表しての短い挨拶。それから、スティル本人から一言、と促された。
スティルは、マイクに少しだけ顔を近づけた。
「……スティルインラブです。……このたび、引退することを、決めました。……四年間、応援してくださった皆さまに、……ありがとうございました」
声は小さかった。けれど、途切れなかった。言い終えて、頭を下げた。フラッシュが、また光った。
質疑が始まった。
最初の記者が手を上げた。年配の男性で、何度か見たことのある顔だった。
「無敗のまま引退を決めた理由を、お聞かせください。まだ走れる状態だったと思いますが」
スティルは、間を置いた。
「……走りたいものを、走り切ったので。……もう、探さなくてもいいと、思えたので」
「探さなくてもいい、というのは」
「……強い人と、走ることです。……レースで。……もう、十分に、走らせていただきました」
記者は、少し考えるような顔をして、手帳に何かを書いた。
次の記者が手を上げた。若い女性だった。
「二十戦二十勝という記録について、どのように受け止めていらっしゃいますか」
スティルは、膝の上の手を、わずかに握った。
「……数えたことは、あまり、ありません」
会議室が、少しだけざわめいた。記者たちの何人かが、顔を見合わせた。
「……ただ、最後のレースだけは、はっきり覚えています」
スティルは、そこで少し言葉を切った。言うつもりのなかった言葉が、喉の奥まで来ていた。言うかどうか、迷った。迷っているうちに、口が勝手に動いた。
「……最初から、一人で、走っていた気がするので」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
一人で。それは、二人の自分が一つだった、という意味だった。理性と本能が、別々に話すのではなく、最初から最後まで、同じ一人の声だった、という意味。けれど、それを説明する言葉を、スティルは持っていなかった。説明しようとすれば、本能のことを話さなければならない。四年間、誰にも話してこなかったことを。
記者は、首を傾げて、それから微笑んだ。
「……つまり、最後のレースは、ご自身の力だけで走り切った、と」
「……」
スティルは、何も言わなかった。違う、と言いたかった。そういう意味ではなかった。けれど、どう違うのかを言えなかった。
記者は、それを謙遜だと受け取ったようだった。手帳に何かを書いて、満足そうに頷いた。
隣で、雅也が、ほんのわずかに身じろぎした。
スティルは、横目でそちらを見た。雅也は、正面を向いたまま、表情を変えていなかった。けれど、机の上に置いた手の指先が、手元の資料の端を、ほんの少しだけ押さえていた。
この人には、分かっているのだ、と思った。
一人で、の意味が。
記者たちには伝わらなかった。伝わらなくていい、とスティルは思った。伝わってほしい人には、ちゃんと伝わっている。
質疑は続いた。
「四年間で、最も心に残ったレースはどれですか」
「……一つに、決められません」
スティルは、少し考えた。
「……強い方々と、走れたことが、……全部、嬉しかったので」
強い方々、と言ったとき、胸の奥で何かが身じろぎした。アドマイヤグルーヴの背中。桜のトライアルの、先行して粘る相手の息遣い。宝塚の直線で外から伸びてきた年下の実力者の、まっすぐな目。秋の府中の、東京の長い直線。あの全部が、自分の中でまだ生きていた。生きていて、もう一度並びたいと、小さく疼いた。
瞳の奥に、ほんの一瞬、何かが灯ったのを、スティルは自分で感じた。灯って、すぐに消えた。消したのではなかった。灯ったまま、奥のほうへ戻っていった。
記者たちは、誰も気づかなかった。
「引退後は、どのように過ごされる予定ですか」
来た、とスティルは思った。
膝の上の手を、もう一度重ね直した。
「……お菓子を、作ったり。……レースを、編んだり。……父と、歴史の話をしたり」
「レース、というのは」
「……ボビンレース、です。……糸で、模様を編むものです」
「ああ、なるほど」
記者は、少し微笑んだ。会議室の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……それから」
スティルは、そこで言葉を切った。
会議室が、静かになった。記者たちが、ペンを止めて、こちらを見ていた。
「……決めていることが、ひとつだけ、あります」
言ってしまってから、心臓が、とくん、と一つ大きく鳴った。
「……でも、それは、まだ、……私の中だけに」
会議室が、少しざわめいた。記者の一人が、すかさず手を上げた。
「その、決めていることというのは、具体的には」
スティルは、何も答えなかった。
答えられなかったのではなかった。答えないと決めていた。マイクの前で、膝の上で手を重ねたまま、ただ黙っていた。会議室の空気が、少しずつ張り詰めていくのが分かった。記者たちが、次の言葉を待っている。
たづなが、穏やかに口を挟んだ。
「申し訳ありません、その件については、ご本人のご意向で、これ以上は」
記者は、少し残念そうな顔をして、手を下ろした。
スティルは、小さく息を吐いた。
隣の雅也を、もう一度横目で見た。雅也は、相変わらず正面を向いていた。表情は変わっていなかった。けれど、さっきまで資料の端を押さえていた指が、今は、資料の上でじっと止まっていた。押さえるでもなく、離すでもなく。
分かっているのだろうか、とスティルは思った。
ひとつだけ、の意味が。
分かっているような、分かっていないような。たぶん、どちらでもあるのだろう、とスティルは思った。分かりかけていて、分かりかけていることに、少しだけ戸惑っている。そういう指の止まり方だった。
次の記者が手を上げた。
「担当トレーナーの早瀬さんについて、どのような方でしたか」
スティルの頬が、一瞬で熱くなった。
予想していた質問だった。紙の一覧にも書いてあった。答えも、考えてあった。四年間支えてくださった方です、とか。いつも冷静に見ていてくださった方です、とか。
考えてあった答えが、全部、どこかへ飛んでいった。
「……ずっと」
声が、上ずった。
「……ずっと、傍に、いてくださった方です」
それだけ言って、スティルは口を閉じた。それ以上は、何も出てこなかった。顔が熱かった。耳の先まで熱かった。膝の上の手を、ぎゅっと握りしめていた。
会議室が、ざわめいた。
さっきまでとは違うざわめきだった。記者たちの何人かが、顔を見合わせ、何人かが、ペンを走らせ、何人かが、スティルの隣の雅也に視線を移した。
雅也は、正面を向いたまま、動かなかった。
けれど、スティルには見えた。机の上の、資料の角を、雅也の指が押さえていた。さっきよりも、ほんの少しだけ強く。
記者の一人が、雅也に向かって手を上げた。
「早瀬トレーナーにお伺いします。トレーナーとして、今後もスティルインラブさんと関わっていかれるご予定はありますか」
雅也は、マイクにわずかに顔を近づけた。
「……担当契約は、本人の卒業まで続きます。その後のことは、本人と話して決めます」
短い答えだった。公の場の声だった。一人称を使わず、余計なことを何も言わなかった。
記者は、もう少し何かを引き出そうとした。
「二十戦二十勝という前例のない記録を、トレーナーとしてどのように支えてこられたのでしょう」
「……走ったのは、彼女です。私は、そこまで一緒にいただけです」
会議室が、少し静かになった。
スティルは、膝の上の手を見下ろした。
――私は、そこまで一緒にいただけです。
四年間、この人は、一度も自分の手柄を語らなかった。勝った日も、記者に囲まれた日も。「スティルが勝った」としか言わなかった。それが、この人の誠実さだと、スティルは知っていた。
けれど、今日、少しだけ思った。
一緒にいただけ、ではなかった。
一緒にいてくれたことが、全部だった。
それを、記者たちの前で言うことはできなかった。言えば、また頬が熱くなって、何も言えなくなる。それに、この人は、きっと困る。困って、首の後ろに手をやって、何も言えなくなる。
会見は、予定どおり三十分で終わった。
フラッシュが、最後にもう一度、一斉に光った。スティルは立ち上がり、頭を下げた。顔を上げたとき、記者席の一番後ろに、見覚えのある顔があった。
ネオユニヴァースだった。
記者ではないのに、なぜかそこにいた。カメラの三脚のあいだに、ちょこんと立って、こちらを見ていた。目が合うと、ネオユニヴァースは、片手を胸の前で小さく上げた。親指と人差し指で、輪を作っていた。
スティルは、口元を緩めた。
会見が終わって、控え室に戻ると、スティルは椅子に座り込んだ。
身体の力が、一度に抜けた。レースのあとの疲れとは違う疲れだった。脚ではなく、胸の奥が、じんわりと重かった。
扉が叩かれて、雅也が入ってきた。手に、紙コップを二つ持っていた。
「……お疲れ」
「……お疲れさまでした」
雅也は、紙コップを一つ、スティルの前の机に置いた。湯気が立っていた。コーヒーだった。廊下の自動販売機で買ったものらしく、香りはトレーナー室で淹れるものより、ずっと薄かった。
「……悪い。ちゃんとしたのは、部屋に戻ってから淹れる」
「……いいえ。……嬉しいです」
スティルは、紙コップを両手で包んだ。温かかった。指先が、少しだけ冷えていたことに、そのとき気づいた。
雅也は、向かいの椅子に座った。自分の紙コップを持ったまま、しばらく何も言わなかった。窓の外を見ていた。午後の光が、少しずつ傾いて、控え室の床に長い影を落としていた。
「……『一人で』のところ」
雅也が、ぽつりと言った。
スティルは、紙コップから顔を上げた。
「……はい」
「記者には、伝わらなかったな」
「……はい」
「……訂正しなくて、よかったのか」
スティルは、少し考えた。
「……いいんです。……伝わってほしい人には、伝わっていたので」
言ってから、自分の言葉の意味に気づいて、頬が熱くなった。伝わってほしい人。それが誰なのか、言わなくても、目の前の人には分かってしまう。
雅也は、視線を逸らした。窓の外へ。それから、紙コップを口元に運んで、一口飲んだ。
「……薄いな」
「……薄い、です」
「部屋に戻ったら、ちゃんと淹れ直す」
「……はい」
二人とも、それきり黙った。
スティルは、紙コップのコーヒーを少しずつ飲んだ。薄くて、わずかに苦くて、温かかった。
ひとつだけ、決めていること。
この人は、それについて何も訊かなかった。会見のあいだも、今も。訊かれたら、どう答えればいいのか、スティルには分からなかった。だから、訊かれなくて、少しだけほっとした。
けれど、訊いてほしかった気もした。
訊かれないことにほっとして、訊かれないことが寂しい。その両方が、胸の中に同時にあった。どちらも本当で、どちらも自分だった。
スティルは、紙コップを机の上に置いた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……今週の、土曜日。……二十六日、ですよね」
雅也は、少しだけ目を瞬いた。
「……ああ。そうだな」
「……お菓子、焼いてきても、いいですか」
雅也は、何かを言いかけて、口を閉じた。それから、困ったように、首の後ろに手をやった。
「……覚えてたのか」
「……四年、毎年、焼いていますから」
十一月二十六日。雅也の誕生日だった。担当になった最初の年から、スティルは毎年、その日に焼き菓子を持っていった。最初の年は、何を焼けばいいのか分からなくて、自分の好きなフィナンシェを焼いた。雅也は、少し驚いた顔をして、それから、具体的に一つだけ感想を言った。縁が香ばしい。それだけだった。それだけで、スティルは一年分嬉しかった。
「……今年は、何を」
「……まだ、決めていません。……何が、いいですか」
雅也は、少し考えた。
「……君が、焼きたいものでいい」
「……それでは、決められません」
「……じゃあ、最初の年のやつ」
スティルは、わずかに目を見開いた。
「……フィナンシェ、ですか」
「縁が、香ばしかった」
四年前と、同じ感想だった。
スティルは、何も言えなかった。紙コップを、また両手で包んだ。もう冷めかけていた。それでも、手のひらは温かかった。
十一月二十六日の土曜日、スティルは寮の共用の台所で、フィナンシェを焼いた。
焦がしバターを作るとき、鍋の中でバターが泡立ち、やがて泡が細かくなって、底のほうから薄い茶色に色づいていく。ナッツのような香りが、台所いっぱいに広がった。スティルは、鍋を火から下ろすタイミングを、香りで計った。早すぎると香りが立たず、遅すぎると焦げて苦くなる。
四年前は、何度も失敗した。焦がしすぎて、三回作り直した。
今年は、一度で決まった。
型に生地を流し込み、オーブンに入れる。焼き上がるまでの十数分、スティルは台所の窓辺に立って、外を眺めていた。十一月の終わりの空は、高く澄んでいた。中庭の木々は、もうほとんど葉を落としていて、裸の枝が空に細い線を描いていた。
オーブンの中から、甘い香りが漂ってきた。
焼き上がったフィナンシェを、網の上で冷ます。縁がこんがりと色づいて、表面は薄い金色に光っていた。一つ、指先でそっと押してみた。外は少しだけかりっとしていて、中はしっとりと柔らかかった。
スティルは、冷めたフィナンシェを、小さな紙箱に詰めた。六つ。四年前と同じ数。
箱に、リボンをかけようとして、手が止まった。
今年は、リボンをどうしようか。四年前は、何もかけなかった。二年目から、細い赤いリボンをかけるようになった。理由は、特になかった。ただ、なんとなく。
今年は、担当トレーナーとして過ごすあの人の、最後の誕生日だった。
来年の十一月二十六日には、もう担当ではない。そのとき、自分はどこにいて、あの人とどういう関係で、何を渡すのだろう。
スティルは、細い赤いリボンを手に取った。
いつもと同じリボン。いつもと同じ結び方。
――来年も、同じリボンで、渡せたら。
そう思って、リボンを結んだ。結び目は、いつもよりほんの少しだけ、きつかった。
トレーナー室へ向かう途中、廊下でネオユニヴァースとすれ違った。ネオユニヴァースは、スティルの手の中の紙箱を見て、首を傾けた。
「……“記念日”の、補給物資?」
「……はい。……誕生日、なので」
「アファーマティブ。……リボンの結び目、いつもより、張力が強い」
スティルは、紙箱を胸に抱えた。
「……そう、ですか」
「“推測”。……来年のことを、考えてた」
スティルは、何も言えなかった。ネオユニヴァースは、それ以上は何も言わずに、すれ違っていった。すれ違いざまに、ほんの小さな声で、
「……“軌道”、いい感じ」
とだけ言った。
トレーナー室の扉の前で、スティルは足を止めた。
今日は、理由があった。誕生日。フィナンシェ。四年間、毎年の理由。
けれど、スティルは、扉を叩く前に、少しだけ考えた。
――理由がなくても、来ていいのだろうか。
二週間前、何もないのに、ここへ来た。何もない、と言った。あの人は、ちょうどよかった、と言った。
スティルは、扉を叩いた。
扉が、内側から開いた。
「……スティル」
「……お誕生日、おめでとうございます」
スティルは、紙箱を差し出した。
雅也は、紙箱を受け取って、しばらく見下ろしていた。細い赤いリボン。きつい結び目。
「……ありがとう」
それから、雅也は、扉を大きく開けて、半歩下がった。
「……コーヒー、淹れる。一緒に食べよう」
スティルは、小さく頷いた。
トレーナー室の中に入ると、机の上の書類の山は、二週間前よりずいぶん低くなっていた。四年分のファイルが、本棚の一段にきれいに並べられていた。一番端のファイルの背に、「#20 エリザベス女王杯」と書いてあった。その隣に、もう一冊、薄いファイルが並んでいた。背表紙には、何も書かれていなかった。
「……そのファイルは」
スティルが訊くと、雅也は豆を挽きながら、ちらりとそちらを見た。
「……君が書いた振り返り。綴じ方を、考えてた」
「……並べて綴じる、って」
「並べようとしたら、俺の分と君の分で、紙の大きさが違った」
スティルは、わずかに笑った。
「……私、手帳の頁を、破いて渡しましたから」
「……だから、別にした。君のは、君の手帳の大きさのまま、綴じた」
雅也は、豆を挽く手を止めて、少しだけ考えるような顔をした。
「……並べるより、そのほうが、いい気がした」
スティルは、本棚の薄いファイルを、もう一度見た。背表紙に何も書かれていない、薄いファイル。中には、三行だけの振り返りが入っているはずだった。
――直線で、笑いました。
――いつもと、違う場所から笑っていた気がします。
――最初から最後まで、私でした。
その三行が、四年分のファイルの隣に、自分の手帳の大きさのまま、並んでいた。
スティルは、何も言わなかった。言えなかった。代わりに、紙箱のリボンをほどいて、フィナンシェを一つ取り出し、小皿の上に置いた。それから、もう一つ取り出して、もう一枚の小皿の上に置いた。
雅也が、コーヒーを二つ淹れて、机の上に置いた。
二人で、フィナンシェを食べた。
雅也は、一口かじって、目を細めた。
「……縁が、香ばしい」
四年前と、同じ言葉だった。
スティルは、フィナンシェを持ったまま、俯いた。俯いたまま、少しだけ笑った。
――来年も、同じ言葉を、聞けたら。
そう思った。思ったことを、口には出さなかった。出さなくても、たぶん、そうなると思った。
第四章 最後の併走
十二月に入ると、学園の朝は、白い息から始まるようになった。
スティルインラブは、相変わらず五時四十分に目を覚ましていた。身体が覚えている時刻は、そう簡単には変わらなかった。けれど、二週間が過ぎるあいだに、目を覚ましてからの過ごし方は、少しずつ形を持ち始めていた。
布団を出て、カーテンを指一本ぶん開ける。練習場の照明を確かめる。確かめて、カーテンを閉める。机のスタンドを点けて、手帳を開く。今日の頁に、起床の時刻を書く。それから、その日にしたいことを、一つだけ書く。授業や行事のような、決まっている予定ではなく、自分がしたいと思うことを、一つだけ。
――ジャムの瓶を、洗う。
――図書室で、父がすすめてくれた本の続きを読む。
――ボビンレースを、二段進める。
――中庭の銀杏の葉を、一枚拾う。
どれも、小さなことだった。書いてみると、少し恥ずかしいくらいに小さかった。けれど、書いておくと、その日の白い時間割の中に、ぽつんと一つ、灯りがともるような気がした。灯りがあれば、その周りをうろうろしているうちに、一日が過ぎていった。
ネオユニヴァースの言った、漂う、ということの意味が、分かってきた気がした。
その日の手帳には、何も書かなかった。
書けなかった、のではなかった。書く前に、扉の外から声がしたのだった。
朝の六時を少し過ぎた頃、寮の部屋の扉が叩かれた。二度、短く、硬い音。ネオユニヴァースは、まだ布団の中で眠っていた。スティルは、カーディガンを羽織って、扉を細く開けた。
廊下に、アドマイヤグルーヴが立っていた。
ジャージ姿だった。首にタオルを掛け、髪を後ろで一つにまとめている。廊下の窓から差し込む、まだ青みの残る薄明かりの中で、彼女の顔は、京都の地下バ道で見たときと同じように、表情らしい表情を浮かべていなかった。
スティルは、驚いて、扉を開けたまま立ち尽くした。
アドマイヤグルーヴが、この部屋を訪ねてきたことは、四年間で一度もなかった。同じ寮にいて、同じ学年で、同じレースを何度も走った。けれど、レースの外で言葉を交わしたことは、数えるほどしかなかった。どれも、短く、硬く、互いの距離を確かめるような言葉だった。
「……アルヴさん」
「起きていたのね」
「……はい。……いつもの、時間に」
「そう」
アドマイヤグルーヴは、わずかに視線を落とした。スティルのカーディガンの袖口のあたりを見て、それからまた顔を上げた。
「……少し、付き合ってもらえるかしら」
「……え」
「練習場。……一周だけでいいわ」
スティルは、何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「……一周、ですか」
「併走。……あなた、もう引退したのでしょう。レースじゃないわ。ただ、走るだけ」
アドマイヤグルーヴの声は、相変わらず低く抑えられていた。けれど、その奥に、何かが張り詰めているのが分かった。言うかどうか、ずいぶん迷ってから、ここへ来たのだと分かった。
「……どうして、ですか」
スティルが訊くと、アドマイヤグルーヴは、少しだけ眉を寄せた。答えたくない、という顔だった。答えたくないけれど、答えなければ来た意味がない、という顔でもあった。
「……京都の、あの日。あなたの走りが変わったのは、見えたわ。でも、何が変わったのかは、見えなかった」
「……」
「レースじゃない場所で、隣で走れば、分かるかもしれないと思ったの。……それだけよ」
スティルは、扉のノブを握ったまま、アドマイヤグルーヴの顔を見ていた。
胸の奥で、何かが身じろぎした。
強い人が、隣で走りたいと言っている。四度、同じ直線で並んだ人が。最後の一年は、一度も並ばなかった。並べなかった。アドマイヤグルーヴは、今年、別の道を選んで、別のレースを走っていた。
もう一度、並べる。
身じろぎしたものが、少しずつ、熱を帯びていった。瞳の奥に、何かが灯りかけた。
スティルは、それを押し込めなかった。
「……着替えてきます。……五分だけ、待っていてください」
アドマイヤグルーヴは、小さく頷いた。
練習場には、まだほとんど人がいなかった。
朝の照明が、コースの芝を白く照らしていた。芝の上には、夜のあいだに降りた霜が、うっすらと残っていた。踏むと、靴の下で、かすかにしゃりっと鳴った。吐く息が、照明の光の中で白く浮かび、すぐに冷たい空気の中へ溶けていった。
コースの外周を、二人で軽く歩いて身体を温めた。
何も話さなかった。アドマイヤグルーヴは、まっすぐ前を見て歩いていた。スティルは、半歩うしろを歩いていた。ジャージの袖口から出た指先が、冷たさで少しずつ痺れていった。
久しぶりに、ジャージを着た。
京都から戻って、三週間ぶりだった。袖を通したとき、身体が、まるで待っていたかのように、すっと馴染んだ。靴紐を結んだとき、指が、勝手に正しい強さで締めた。四年間、毎朝そうしてきた手つきだった。
一周、軽く流してから、スタート地点に戻った。
アドマイヤグルーヴが、スティルの隣に並んだ。
「……一周。全力じゃなくていいわ。でも、最後の直線だけは」
「……はい」
「……合図は、なし。どちらかが出たら、それが合図」
スティルは、頷いた。
二人で、並んで立った。照明の光が、二人の影を芝の上に長く伸ばしていた。
遠くで、早起きの鳥が鳴いた。
スティルは、目を閉じた。呼吸を、四拍で数えた。吸って、二つ、三つ、四つ。吐いて、二つ、三つ、四つ。四年前、満月の夜、雅也に教わった数え方だった。ピアノのテンポのように、拍を数える。拍が乱れなければ、自分は自分のまま。
目を開けたとき、アドマイヤグルーヴが、もう半歩前に出ていた。
スティルも、出た。
最初の数十メートルは、軽かった。脚が、芝の霜を蹴り、しゃりっ、しゃりっと、小さな音を立てた。アドマイヤグルーヴの背中が、斜め前にあった。まっすぐに伸びた背筋。一定のリズムで振られる腕。四年間、何度も見た背中だった。
一コーナーを回った。二コーナー。向正面。
アドマイヤグルーヴは、少しずつ速度を上げていった。スティルは、その少しうしろで、間隔を保ちながらついていった。呼吸は、まだ四拍で数えられていた。
三コーナー。
アドマイヤグルーヴの呼吸が、変わった。
深く、長く、溜めるような呼吸。仕掛けの前の呼吸だった。スティルの耳が、それを拾った。拾った瞬間、胸の奥で、何かがぱっと灯った。
――来る。
四コーナーを回った。
直線。
アドマイヤグルーヴが、出た。
背中が、一気に遠ざかった。速かった。レースではないのに、全力ではないはずなのに、その脚は、四年間で一番速く見えた。
スティルの口角が、上がった。
目が、細くなった。
四拍で数えていた呼吸が、一瞬、乱れかけた。乱れかけて、スティルはそれを、無理に戻そうとはしなかった。乱れたまま、その乱れの中に、自分の身体を預けた。
脚が、勝手に伸びた。
芝を蹴る音が、低く、重くなった。しゃりっ、という霜の音ではなく、どすん、という、地面の底を叩くような音。小柄な身体から出るとは思えない、低くて重い足音。
アドマイヤグルーヴの背中が、近づいてきた。
半バ身。
四分の一。
並んだ。
隣に、アドマイヤグルーヴの横顔があった。歯を食いしばっていた。目が、まっすぐ前を見ていた。誇り高い横顔。四年間、何度も、この横顔の隣を走った。
スティルは、笑っていた。
喰らいたい、と思った。この人を、もう一度。
思って、その思いを、恥ずかしいとは思わなかった。それも自分だった。この人と並んで、この人の強さを全身で感じて、喜んでいるのも自分だった。喜んでいる自分を、迎えに行く必要はなかった。最初から、ここにいた。
ゴールの代わりに引いてある白い線を、二人はほとんど同時に越えた。
どちらが前だったのか、スティルには分からなかった。分からなくて、いいと思った。
減速して、二人はコースの外ラチのそばで立ち止まった。
息が、白く、大きく、何度も吐き出された。スティルは膝に手をついて、呼吸を整えた。肺の奥が、冷たい空気で痛かった。痛くて、気持ちがよかった。
アドマイヤグルーヴは、膝に手をつかなかった。背筋を伸ばしたまま、空を見上げて、肩で息をしていた。首のタオルが、汗で湿っていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
照明の光の外で、空がようやく明るくなり始めていた。東の空の低いところが、淡い桃色に染まっていた。
「……笑っていたわね」
アドマイヤグルーヴが、空を見上げたまま言った。
「……はい」
「レースのときと、同じ顔」
「……はい」
「……でも、違ったわ」
スティルは、膝から手を離して、身体を起こした。
アドマイヤグルーヴは、空から視線を下ろして、スティルの顔を見た。
「レースのとき、あなたは、笑ったあとで、どこかへ戻っていった。……ゴールのあとで、少しだけ、別人みたいになって、それからまた、いつものあなたに戻る。……それが、ずっと、不気味だったの」
スティルは、何も言えなかった。
不気味だった。
その言葉が、胸の奥に、冷たく落ちた。四年前まで、自分の本能を見た人は、みんな離れていった。不気味だと思われて、避けられた。アドマイヤグルーヴも、そう思っていたのだ。
「……でも、今日は、戻らなかった」
アドマイヤグルーヴが、続けた。
「笑ったまま、ゴールして、笑ったまま、今ここにいる。……戻る場所が、なくなったのね」
「……なくなった、というより」
スティルは、言葉を探した。
「……最初から、同じ場所にいたんです。……笑っている私も、今ここにいる私も」
アドマイヤグルーヴは、しばらくスティルの顔を見ていた。
それから、ふっと、息を吐いた。笑ったのかと思った。けれど、彼女の口元は、ほとんど動いていなかった。
「……そう」
「……アルヴさんには、……不気味、でしたか。……四年間」
訊いてしまってから、スティルは少しだけ後悔した。訊くべきではなかったかもしれない。答えを聞くのが、怖かった。
アドマイヤグルーヴは、眉を寄せた。
「……不気味だったわ。でも」
言葉を切って、彼女はまた空を見上げた。
「……それ以上に、腹が立っていたの。あなたが、自分のその顔を、どこか恥ずかしそうにしていたことに」
「……え」
「あんなふうに走れるのに。あんなふうに、相手を喰らうような顔で笑えるのに。……あなたは、ゴールのあとで、いつも、それを隠そうとしていた」
アドマイヤグルーヴの声が、ほんの少し、熱を帯びた。
「私は、あなたに四度負けた。……四度とも、あの顔に負けたのよ。それなのに、あなたが、あの顔を恥じていたら。……私は、何に負けたことになるの」
スティルは、息を止めた。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
自分の本能を、恥じていた。それは、本当だった。四年前、雅也に出会うまでは、ずっと恥じていた。雅也に出会ってからも、完全には消えなかった。ゴールのあとで迎えに行くとき、いつも、わずかに申し訳ないような気持ちがあった。もう一人の自分に対しても、周りの人に対しても。
その恥が、相手を傷つけていたかもしれないとは、考えたことがなかった。
「……ごめんなさい」
スティルは、小さく言った。
アドマイヤグルーヴは、首を振った。
「謝らないで。……謝られたら、余計に腹が立つわ」
「……はい」
「……今日は、隠さなかったわね」
「……はい。……隠しませんでした」
「それでいいの」
アドマイヤグルーヴは、首のタオルを外して、額の汗を拭った。それから、タオルを肩に掛け直して、スティルのほうに向き直った。
「……四度負けた相手が、最後に、自分の顔を恥じずに走るのを見られた。……それで、十分よ」
スティルは、アドマイヤグルーヴの顔を見た。
誇り高い顔だった。四年間、何度も見た顔。悔しさを、決して表に出さない顔。その顔が、今、ほんのわずかに、緩んでいた。緩んだ、と言っていいのかどうか分からないくらい、わずかに。
「……アルヴさん」
「何」
「……私、アルヴさんと走るのが、……一番、嬉しかったです。……四年間で」
言ってしまってから、スティルの頬が熱くなった。
本当のことだった。強い相手と走るのは、いつも嬉しかった。けれど、アドマイヤグルーヴと並ぶときだけ、胸の奥の紅が、一番大きく、一番まっすぐに燃えた。喰らいたいと、一番強く思った。そして同時に、一番、敬意を感じた。
アドマイヤグルーヴは、何も言わなかった。
少しだけ目を見開いて、それから、ふいと顔を背けた。
「……知っているわ」
小さな声だった。
「……あなたが、私と並ぶとき、いつも一番、嬉しそうに笑っていたこと。……知っていたから、腹が立ったのよ」
スティルは、何も言えなかった。
アドマイヤグルーヴは、それきり、顔を背けたまま、しばらく黙っていた。それから、肩のタオルを握り直して、寮のほうへ歩き出した。
三歩ほど進んで、足を止めた。振り返らなかった。
「……来年、私がどこを走るにしても。……スタンドにいるなら、見ていなさい。今日みたいな顔で」
スティルは、その背中を見ていた。
「……はい。……必ず」
アドマイヤグルーヴは、また歩き出した。今度は、止まらなかった。
寮に戻る途中、スティルはトレーナー棟の前を通りかかった。
三階の、右から二番目の窓に、明かりが点いていた。
こんな朝早くから、と思った。担当の練習がなくなったのに、あの人はまだ、いつもの時刻に部屋にいる。
スティルは、トレーナー棟の前で、立ち止まった。
汗が、冷えてきていた。ジャージの背中が、少しずつ冷たくなっていた。早く寮に戻って、シャワーを浴びなければ、と思った。思いながら、足が動かなかった。
今朝のことを、あの人に話したかった。
アルヴさんと走ったこと。笑ったこと。隠さなかったこと。アルヴさんが、腹が立っていたと言ったこと。四度負けた相手が、自分の顔を恥じずに走るのを見られて、十分だと言ったこと。
話したかった。けれど、今はジャージ姿で、汗をかいていて、髪も乱れていた。
窓の明かりを見上げていると、カーテンが少しだけ動いた。
誰かが、窓辺に立った。
スティルは、慌てて俯いた。俯いて、そのまま寮のほうへ歩き出した。早足で。見つかったかもしれない、と思った。見つかったとしたら、あの人は、自分がジャージ姿でトレーナー棟の前に立っていたのを見たことになる。
何をしていたのか、と訊かれるだろうか。
訊かれたら、話そう。全部。
訊かれたのは、その日の午後だった。
放課後、スティルがトレーナー室を訪ねると、雅也は、机に向かって何かの書類を書いていた。スティルが入っていくと、顔を上げて、首を傾けた。
「……朝、練習場にいたか」
スティルは、扉を閉めて、いつもの椅子に座った。
「……見えましたか」
「窓から。……ジャージだった」
「……アルヴさんに、誘われたんです。……一周だけ、併走を」
雅也は、ペンを置いた。
それから、何も言わずに、立ち上がって、電気ケトルのスイッチを入れた。豆の袋を取り出して、手回しの器械に入れた。ハンドルを回し始めた。ごりごりと、低い音。
話を聞くときの、この人のやり方だった。相づちを打つ代わりに、手を動かす。コーヒーを淹れる。聞いている、ということを、行動で示す。
スティルは、話した。
朝、扉が叩かれたこと。アルヴさんが、ジャージ姿で立っていたこと。一周だけ、と言われたこと。霜の降りた芝。四拍の呼吸。三コーナーで、アルヴさんの呼吸が変わったこと。直線で、自分が笑ったこと。隠さなかったこと。
それから、アルヴさんが言ったこと。
不気味だった、と。でも、それ以上に、腹が立っていた、と。あなたが、自分のその顔を恥じていたことに。
話しながら、スティルは、自分の声がわずかに震えていることに気づいた。
「……私、恥じていたんです。……ずっと。……トレーナーさんに会ってからも、少しだけ」
雅也は、豆を挽く手を止めていた。
「……恥じていたことが、アルヴさんを、……傷つけていたかもしれないなんて、……考えたこと、なかったんです」
電気ケトルの湯が沸く音がした。かちり、とスイッチが切れた。
雅也は、すぐには湯を注がなかった。ドリッパーに粉を入れたまま、しばらく手を止めていた。
「……そうか」
短い言葉だった。けれど、それは相づちではなかった。何かを受け止めて、受け止めたものの重さを確かめているような声だった。
雅也は、湯を注ぎ始めた。細く、ゆっくりと。粉が膨らみ、小さな泡が立った。香りが、部屋の中に広がった。
「……アドマイヤグルーヴは、強いな」
「……はい」
「レースの強さじゃなくて。……四度負けた相手に、それを言いに来る強さ」
スティルは、膝の上で手を握った。
「……はい」
「俺には、言えなかった」
スティルは、顔を上げた。
雅也は、ドリッパーに湯を注ぎながら、こちらを見ていなかった。手元の、細く落ちる湯の筋を見ていた。
「……君が、あの顔を恥じてるのは、知ってた。……ずっと。でも、恥じなくていい、とは、言えなかった」
「……どうして、ですか」
「……君が恥じてるのを、俺が否定したら、君の気持ちを、上から塗り替えることになる気がした。……恥じるのも、君の気持ちだから」
雅也は、湯を注ぎ終えて、ケトルを置いた。それから、ようやくスティルのほうを見た。
「……でも、アドマイヤグルーヴは、言った。……腹が立った、って。自分が負けた相手の顔だから、って。……それは、俺には言えない言葉だ。俺は、君と並んで走ったことがない」
スティルは、何も言えなかった。
雅也は、カップを二つ持ってきて、一つをスティルの前に置いた。湯気が、ゆらゆらと立ちのぼった。
「……よかったな。今日、走って」
短い言葉だった。けれど、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
スティルは、カップを両手で包んだ。温かかった。朝、冷えた指先が、ようやく温まっていくような気がした。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……走っているとき、私、四拍で数えていたんです。……最初は」
「……ああ」
「……直線で、乱れかけて。……でも、戻さなかったんです。……乱れたまま、走りました」
雅也は、カップを口元に運びかけて、止めた。
「……戻さなかったのか」
「……はい。……戻さなくても、私のままだったので」
雅也は、しばらく黙っていた。
それから、カップを机の上に置いて、笑った。困ったような、嬉しいような、どちらともつかない笑い方だった。
「……四年前、満月の夜に、四拍で数えろって言った」
「……はい」
「戻ってくるための、目印のつもりだった」
「……はい」
「……もう、要らないな」
スティルは、カップを持ったまま、俯いた。
要らない、と言われた。四拍の数え方。名前を呼ぶこと。戻ってくるための目印。四年間、自分を支えてきたもの。
要らない、と言われて、寂しいかと思った。寂しくなかった。
代わりに、胸の奥に、温かいものが広がった。
要らなくなったのは、自分で戻れるようになったからだった。戻る必要が、なくなったからだった。それを、この人は、ちゃんと見ていた。
「……でも」
スティルは、小さく言った。
「……でも、要らなくなっても、……捨てたく、ないです」
雅也は、少しだけ目を見開いた。
「……四拍の数え方。……覚えておきたいです。……ずっと」
雅也は、何も言わなかった。
しばらくして、視線を手元のカップに落とした。それから、カップを手に取って、一口飲んだ。
「……捨てなくていい」
それだけ言って、また書類に向き直った。
スティルは、カップを両手で包んだまま、窓の外を見た。十二月の午後の光が、薄く、低く、トレーナー室の床を斜めに横切っていた。
その夜、寮の部屋で、スティルは手帳を開いた。
今日の頁は、まだ白かった。朝、アルヴさんに扉を叩かれて、書く前に部屋を出たからだった。
スティルは、ペンを取った。
――アルヴさんと、走った。
――笑った。隠さなかった。
――四拍の数え方を、捨てないことにした。
三行、書いた。書いて、ペンを置いた。
隣のベッドで、ネオユニヴァースが、天井を見上げていた。今夜は天文部の観測会がなく、早めに布団に入っていた。
「……スティル」
「……はい」
「今朝の、“重力波”。……ここまで、届いてた」
スティルは、手帳を閉じた。
「……見ていたんですか」
「ネガティブ。……寝てた。でも、帰ってきたスティルの“周波数”が、違った」
ネオユニヴァースは、天井を見上げたまま、笑った。
「……いい周波数。……“二重星”が、一つの光に見える、みたいな」
スティルは、少し考えた。
「……二重星、ですか」
「近すぎて、望遠鏡で見ないと、一つの星に見える。……本当は、二つ。でも、二つが、互いの周りを回ってる。だから、一つの光になる」
スティルは、手帳を胸に抱えたまま、ネオユニヴァースの横顔を見た。
「……二つで、一つ、なんですね」
「アファーマティブ。……どっちかが消えたら、もう一つも、軌道を失う」
ネオユニヴァースは、そこで目を閉じた。
「……おやすみ、スティル」
「……おやすみなさい、ユニヴァースさん」
スティルは、スタンドの明かりを消した。
暗くなった部屋の中で、窓のカーテンの合わせ目から、細く、月の光が差し込んでいた。満月ではなかった。半分より少し欠けた、白い月。
スティルは、カーテンを閉めなかった。
布団の中から、その細い光を、しばらく見ていた。
第五章 山あいの宿へ
その話が出たのは、十二月の半ば、期末の試験が終わった日の夕方だった。
トレーナー室の窓の外では、もう日が落ちかけていた。冬の夕暮れは早く、四時を過ぎると、練習場の照明が一つ、また一つと点き始める。スティルインラブは、いつもの椅子に座って、試験の答案が返ってくるまでの数日をどう過ごそうか、ぼんやり考えていた。
雅也は、机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「……これ」
差し出された紙を、スティルは両手で受け取った。
宿の案内だった。山あいの温泉地にある、小さな宿。写真が一枚印刷されていて、木造の二階建ての建物が、雪を被った杉林を背にして建っていた。部屋数は多くないらしく、案内文には、静かに過ごしたい方へ、と書かれていた。
「……温泉、ですか」
「慰労。……四年分の」
雅也は、自分のカップを手に取って、一口飲んだ。少しだけ、視線が逸れていた。
「学園の、担当ウマ娘の慰労旅行の制度を使う。引退した担当と、トレーナーで。……申請は通ってる。君のお父さんにも、もう話した」
「……父に、ですか」
「電話で。……行ってきなさい、と言ってた」
スティルは、紙を見下ろした。
父は、何も言っていなかった。週末に電話をしたとき、試験はどうだ、と訊かれて、本の続きは読んだか、と訊かれて、それだけだった。娘を驚かせたかったのか、それとも、自分が言うことではないと思ったのか。どちらでも、父らしいと思った。
「……部屋は、別々。二部屋取ってある」
雅也が、付け加えるように言った。
スティルは、紙から顔を上げた。
雅也は、カップを机に置いて、こちらを見ていた。その目は、いつも通り落ち着いていた。けれど、言い方が、ほんの少しだけ早かった。言っておかなければならないことを、先に言っておく、という言い方だった。
「……はい」
スティルは、頷いた。
当然のことだった。自分はまだ担当で、まだ生徒で、この人はまだトレーナーだった。部屋が別々なのは当然で、わざわざ言わなくても分かっていた。
分かっていたけれど、この人がそれを先に言ったことが、なぜか、わずかに嬉しかった。
ちゃんと、考えてくれている。自分のことを、生徒として、担当として、大事に扱おうとしてくれている。その線を、この人自身が、きちんと引こうとしている。
「……行きたいです」
スティルは、紙を胸に抱えた。
「……行かせて、ください」
雅也は、少しだけ頷いた。
「……二十四日から、一泊。……クリスマスと重なるけど、いいか」
「……はい」
クリスマス。
スティルは、紙を抱えたまま、俯いた。クリスマスに、この人と、山あいの宿へ行く。部屋は別々で、慰労旅行で、担当とトレーナーで。それでも、クリスマスだった。
耳が、ほんの外側へ傾いた。
スティルは、それに気づいて、慌てて背筋を伸ばした。
出発の朝は、よく晴れていた。
学園の正門の前で、雅也の車が待っていた。いつもの車だった。四年間、レース場への行き帰りに、何度も乗った車。助手席のシートの位置も、膝掛けの置き場所も、ドアポケットに入っている小さな飴の缶も、全部覚えていた。
スティルは、小さな旅行鞄を一つだけ持っていた。着替えと、洗面道具と、手帳と、読みかけの本。それから、ボビンレースの道具を、少しだけ。
ボビンレースの道具を入れるかどうか、前の晩、ずいぶん迷った。迷って、結局、入れた。宿で時間が余ったら、進めようと思った。あの人に見られないように。
「……おはようございます」
「おはよう。……荷物、それだけか」
「……はい」
雅也は、スティルの鞄を受け取って、後部座席に置いた。それから、助手席のドアを開けた。
スティルは、助手席に座った。シートベルトを締めると、膝の上に、いつもの膝掛けが置かれた。雅也が、何も言わずに置いていった。
車が動き出した。
学園の正門が、ゆっくりと後ろへ遠ざかっていった。
高速道路に乗ると、景色が少しずつ変わっていった。
ビルが減って、家が減って、田畑が増えて、やがて山が見えてきた。冬の山だった。葉を落とした木々が、灰色と茶色の斜面を作っていた。その上のほうに、ところどころ、白いものが見えた。雪だった。
車の中は、静かだった。
雅也は、ラジオを点けなかった。いつもそうだった。レース場への行き帰りも、この人は、ラジオを点けなかった。点けないかわりに、時々、短く何かを言った。あの山の名前。あのサービスエリアのうどん。この先のトンネルが長いこと。
スティルは、窓の外を見ていた。
何も言わなくても、気まずくなかった。四年間で、そうなった。最初の頃は、沈黙が怖かった。何か話さなければ、と思って、何を話せばいいか分からなくて、膝の上で手を握りしめていた。今は、違った。沈黙が、膝掛けと同じくらい、温かかった。
途中のサービスエリアで、休憩を取った。
車を降りると、空気が冷たかった。学園よりも、ずっと冷たかった。吐く息が、白く、大きく浮かんだ。
雅也は、自販機で温かい缶のコーヒーを二本買った。一本を、スティルに渡した。
「……微糖」
「……ありがとうございます」
スティルは、缶を両手で包んだ。熱くて、指先がじんとした。
二人で、サービスエリアの端の、山が見える柵のところまで歩いた。柵の向こうに、谷が広がっていた。谷の底を、細い川が流れていた。川の向こうに、また山があった。その山の上のほうが、白く光っていた。
「……雪、ですね」
「宿のあたりも、少し積もってるらしい」
「……雪の中の温泉、初めてです」
雅也は、缶を開けて、一口飲んだ。
「……俺も」
スティルは、雅也の横顔を見た。
「……トレーナーさんも、初めてなんですか」
「温泉自体、ほとんど行ったことがない。……学生の頃も、仕事を始めてからも」
「……どうして、ですか」
雅也は、少し考えるように、谷の向こうの山を見ていた。
「……行く理由が、なかった。一人で行っても、何をすればいいか分からないし」
「……」
「今回は、理由がある」
短く言って、雅也はまた缶を口元に運んだ。
スティルは、缶を両手で包んだまま、谷を見下ろした。
理由がある。
慰労、と言っていた。四年分の。担当ウマ娘の慰労。それが理由。
分かっていた。分かっていて、それでも、胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
宿に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
山道を登り切ったところに、宿はあった。写真で見たとおりの、木造の二階建て。屋根にも、玄関の前の植え込みにも、雪が薄く積もっていた。杉林の匂いがした。冷たくて、湿っていて、わずかに甘い匂い。
玄関で、宿の女将が出迎えてくれた。年配の、物腰の柔らかい人だった。スティルの顔を見て、少しだけ目を見開いた。それから、何も言わずに、深く頭を下げた。
「……ようこそ、お越しくださいました」
スティルは、頭を下げ返した。
女将は、自分のことを知っているのだ、と思った。テレビで見たのかもしれない。けれど、女将は、それについては何も言わなかった。宿帳を差し出して、部屋の場所を説明して、夕食の時間を確認しただけだった。
部屋は、二階の、隣り合った二部屋だった。
スティルの部屋は、奥のほうだった。襖を開けると、八畳ほどの和室が広がっていた。畳の匂いがした。窓の外に、広縁があった。広縁の向こうに、雪を被った杉林と、その向こうの山並みが見えた。
スティルは、鞄を置いて、広縁に出た。
窓ガラスが、冷たかった。息を吐くと、ガラスが白く曇った。曇ったガラスの向こうで、杉の枝から、雪がひとかたまり、音もなく落ちた。
隣の部屋の襖が、開く音がした。閉まる音がした。
壁一枚向こうに、あの人がいる。
スティルは、広縁の椅子に座った。座って、窓の外を見た。
四年間、レース場への遠征で、何度も宿に泊まった。いつも、部屋は別々だった。いつも、壁一枚向こうに、あの人がいた。それは、同じだった。
同じなのに、何かが違った。
遠征のときは、翌日にレースがあった。レースのために泊まって、レースのために眠った。壁一枚向こうのあの人は、トレーナーで、自分は担当ウマ娘だった。それ以外のことは、考えなかった。考える余裕がなかった。
今日は、翌日にレースがなかった。
何のために泊まるのか、と考えると、答えが、慰労、という言葉だけでは足りないような気がした。
スティルは、膝の上で、手を握った。
午後は、宿の周りを歩いた。
雅也が、散歩でもするか、と言った。女将に、近くに小さな滝がある、と教えてもらったのだった。
宿の裏手から、細い山道が続いていた。道には、雪が踏み固められていた。踏むと、靴の下で、きゅっ、きゅっ、と鳴った。
スティルは、雅也の半歩うしろを歩いた。
杉林の中は、静かだった。風が吹くと、梢が揺れて、雪が落ちた。落ちた雪が、地面の雪に当たって、ぽす、と柔らかい音を立てた。それ以外の音は、ほとんどなかった。自分たちの足音と、呼吸の音と、遠くでかすかに聞こえる水の音だけ。
水の音が、少しずつ大きくなっていった。
やがて、木々の切れ目から、滝が見えた。
小さな滝だった。高さは、学園の校舎の二階くらいしかなかった。岩肌を、細い水の筋が流れ落ちていた。滝の周りの岩には、氷柱が何本も垂れ下がっていた。水しぶきが凍って、白い枝のように岩にへばりついていた。
スティルは、立ち止まった。
「……きれい」
思わず、声が出た。
雅也も、隣で立ち止まった。何も言わずに、滝を見ていた。
しばらく、二人で滝を見ていた。
水の音が、一定のリズムで、耳に届いていた。どどど、と低く、絶え間なく。その音を聞いていると、身体の奥のほうで、何かがゆっくりとほどけていくような気がした。
スティルは、四拍で呼吸を数えてみた。
吸って、二つ、三つ、四つ。吐いて、二つ、三つ、四つ。
滝の音に、呼吸の拍が、少しずつ重なっていった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……四年間、ありがとうございました」
言ってから、スティルは、自分が何を言ったのか、少し遅れて理解した。
言うつもりは、なかった。少なくとも、今ここで言うつもりは、なかった。引退式で言うつもりだった。卒業式で言うつもりだった。もっとちゃんとした場所で、もっとちゃんとした言葉で。
けれど、滝の音を聞いていたら、口から出てしまった。
雅也は、すぐには何も言わなかった。
滝を見たまま、少しだけ息を吐いた。白い息が、冷たい空気の中に浮かんで、消えた。
「……まだ、終わってない」
「……え」
「担当は、卒業まで続く。……ありがとうは、そのときでいい」
スティルは、雅也の横顔を見た。
雅也は、滝を見ていた。その横顔は、いつも通り落ち着いていた。けれど、口元が、ほんの少しだけ硬かった。
「……でも、受け取っておく。……今の分は」
小さな声だった。滝の音に、半分かき消されそうなくらい。
スティルは、俯いた。
頬が、冷たい空気の中で、熱かった。
「……はい」
宿に戻ると、夕食の前に、風呂の時間があった。
宿には、男女別の大浴場と、露天風呂があった。女将が、露天風呂は雪見ができますよ、と教えてくれた。
スティルは、一人で女湯の暖簾をくぐった。
脱衣所には、誰もいなかった。宿の客は、自分たちの他に、二組か三組しかいないようだった。
露天風呂は、岩で囲まれた、小さな湯船だった。湯船の向こうに、雪を被った杉林が見えた。空は、もう薄暗くなりかけていた。湯気が、白く、ゆらゆらと立ちのぼっていた。
スティルは、湯に浸かった。
熱かった。冷えきった身体に、湯の熱さが、じわじわと染み込んでいった。指先から、足の先から、少しずつ。
肩まで浸かって、空を見上げた。
空から、ちらちらと、白いものが落ちてきていた。雪だった。大きな、柔らかい雪の粒。湯船の上に落ちて、湯に触れる前に、湯気の中で消えた。
スティルは、湯の中で、膝を抱えた。
四年間を、思い出していた。
初めて会った日のこと。トレーナー室の扉を叩いて、自分の本能のことを話した日。この人が、何も言わずに、最後まで聞いてくれたこと。それから、満月の夜。四拍の数え方。名前を呼ばれること。
レースのこと。二十のレース。二十のゴール。どのゴールのあとでも、この人は、迎えに来てくれた。迎えに来て、名前を呼んで、手を伸ばしてくれた。最後のゴールのあとだけ、迎えに来なかった。迎えに来る必要が、なかったから。
四年分の、この人の姿。
スティルは、湯の中で、膝を抱える腕に力を込めた。
――この人の、傍にいたい。
ずっと、そう思っていた。いつから思っていたのか、もう分からなかった。最初は、ただ、安心できる人だった。迎えに来てくれる人。名前を呼んでくれる人。それが、いつの間にか、それだけではなくなっていた。
この人が笑うと、嬉しかった。この人が困った顔をすると、どうにかしたいと思った。この人が誰かほかの担当の話をすると、胸の奥がざわついた。この人のフィナンシェを焼くとき、リボンを結ぶ手が、いつも震えた。
それが何なのか、スティルは、もう知っていた。
知っていて、言葉にしていなかった。言葉にしたら、何かが変わってしまう気がした。変わってしまったら、この人を困らせてしまう気がした。この人は、トレーナーで、自分は担当ウマ娘で、まだ生徒だった。
けれど。
卒業まで、あと三か月だった。
三か月後、自分はもう生徒ではなくなる。契約が終われば、もう担当でもなくなる。そうなったら、この人と自分のあいだには、何が残るのだろう。
何も残らなかったら。
スティルは、湯の中で、目を閉じた。
――言わなければ、と思った。
今夜、言わなければ。全部ではなくていい。この人を困らせるようなことは、言わなくていい。ただ、自分がどう思っているのかを、わずかに。この人の傍にいたい、ということを。
卒業してからも。契約が終わってからも。
雪が、湯気の中で、また一つ消えた。
夕食は、雅也の部屋で、二人で取った。
宿の決まりで、食事は部屋に運ばれてくることになっていた。二部屋に別々に運ぶか、どちらか一部屋にまとめるか、と女将に訊かれて、雅也は少し考えてから、自分の部屋にまとめてください、と言った。それから、スティルのほうを見て、いいか、と訊いた。スティルは、はい、と答えた。
座卓の上に、料理が並んだ。
山の幸の料理だった。小さな鍋に、きのこと鶏肉と、名前の分からない山菜が入っていた。川魚の塩焼き。蕎麦の実の入った茶碗蒸し。漬物。それから、炊きたてのご飯。
スティルは、浴衣の上に、宿の羽織を着ていた。雅也も、浴衣に羽織だった。四年間、遠征の宿で何度も見た格好だった。それなのに、今夜は、少しだけ目のやり場に困った。
「……いただきます」
「……いただきます」
二人で、手を合わせた。
鍋の蓋を開けると、湯気が立ちのぼった。きのこの香りが、ふわりと広がった。
スティルは、箸を取って、鍋の中のきのこを一つ、口に運んだ。
「……おいしい」
雅也も、鍋に箸を伸ばした。鶏肉を一切れ、口に運んで、しばらく噛んでいた。
「……出汁が、違うな」
「……はい。……きのこの出汁、だと思います」
「家で作ったら、こうはならないだろうな」
「……トレーナーさん、お料理、されないですよね」
言ってから、スティルは、口元を緩めた。
雅也は、箸を止めて、少しだけ眉を寄せた。
「……しない、わけじゃない。……できない、だけだ」
「……知っています」
「……知ってるのか」
「……四年前、トレーナー室で、カップ麺を作っているのを見ました。……お湯を入れて、三分待たずに、蓋を開けていました」
雅也は、何も言わなかった。
しばらくして、首の後ろに手をやった。
「……二分半で、食べられる」
「……麺が、硬かったと思います」
「……硬かった」
スティルは、小さく笑った。
笑ってから、口元に手を当てた。笑い声が、思ったより大きかった気がした。
雅也も、笑っていた。困ったような、照れたような笑い方だった。
鍋の湯気の向こうで、この人が笑っている。
スティルは、その笑顔を見ながら、胸の奥で、言葉の形を探していた。
今夜、言わなければ。
第六章 月のない夜に
夕食の膳が下げられたのは、八時を少し過ぎた頃だった。
女将が、仲居さんと二人で器を片付けていった。座卓が拭かれ、急須と湯呑みが置かれた。布団は、それぞれの部屋に、九時過ぎに敷きに来るという。
スティルインラブは、自分の部屋に戻るべきだと思った。
夕食は終わった。ここは雅也の部屋で、自分の部屋は隣だった。食事のために来ていたのだから、食事が終われば戻るのが当然だった。
けれど、立ち上がるきっかけを、うまく見つけられなかった。
「……コーヒー、飲むか」
雅也が、言った。
スティルは、顔を上げた。
雅也は、鞄の中から、小さな布の包みを取り出していた。包みを開くと、中から、手回しの器械と、紙のフィルターと、豆の袋が出てきた。トレーナー室にあるものより、ずっと小さかった。旅行用の、折りたためるドリッパーまであった。
「……持ってきたんですか」
「宿のお茶も、悪くないけど」
雅也は、豆の袋の口を開けた。香ばしい匂いが、ふわりと広がった。
「……深煎り。……君が、好きなやつ」
スティルは、膝の上で手を握った。
「……はい」
「……外で、飲むか。廊下の突き当たりに、縁側がある。女将さんが、夜も開けてるって言ってた」
廊下の突き当たりには、宿の客なら誰でも使える、小さな縁側があった。
ガラス戸を開けると、冷たい空気が、一気に流れ込んできた。縁側には、木の長椅子が二つと、小さな火鉢が置かれていた。火鉢には、炭が熾してあった。女将が、夜のために用意しておいてくれたらしかった。
縁側の向こうは、真っ暗だった。
杉林も、山並みも、何も見えなかった。空を見上げても、月がなかった。痩せた月が昇ってくるのは、日付が変わってずっと後のはずだった。星が、いくつか、雲の切れ間に見えるだけだった。
雅也は、長椅子の一つに腰を下ろして、膝の上で豆を挽き始めた。ごりごりと、低い音が、夜の静けさの中に響いた。
スティルは、もう一つの長椅子に座った。
二つの長椅子のあいだには、火鉢があった。火鉢の炭が、赤く、静かに燃えていた。炭の熱が、ほんのりと頬に届いた。
宿の羽織の上から、雅也が持ってきた膝掛けを掛けた。車の中で、いつも膝に置かれていたものだった。部屋を出るときに、雅也が、何も言わずに渡してくれた。
豆を挽く音が、止まった。
雅也は、魔法瓶から湯を注いだ。宿の厨房で、分けてもらった湯だった。細く、ゆっくりと。粉が膨らみ、泡が立った。暗がりの中で、湯気だけが、火鉢の明かりに照らされて、白く浮かんでいた。
香りが、冷たい夜の空気の中に広がった。
雅也は、宿の湯呑みに、コーヒーを注いだ。一つを、スティルに差し出した。
「……湯呑みで悪いけど」
「……いいえ」
スティルは、湯呑みを両手で包んだ。熱かった。
一口、飲んだ。
苦かった。それから、少し遅れて、甘いような、香ばしいような味が、舌の奥に残った。四年間、トレーナー室で何百杯も飲んだ味だった。同じ豆。同じ挽き方。同じ淹れ方。
それなのに、山の夜の冷たい空気の中で飲むと、わずかに違う味がした。
「……おいしいです」
「……ああ」
雅也も、湯呑みに口をつけた。
しばらく、二人で黙って、コーヒーを飲んだ。
火鉢の炭が、ぱち、と小さく爆ぜた。
遠くで、杉の枝から雪が落ちる音がした。
それ以外の音は、何もなかった。
「……月、ないな」
雅也が、空を見上げて言った。
「……夜明け前まで、昇らないそうです。……女将さんが、言っていました」
「……そうか」
「……四年前、満月の夜に、四拍の数え方を教えていただきました」
「……ああ」
「……今夜は、月がありません」
雅也は、空を見上げたまま、少しだけ笑った。
「……ちょうど、反対だな」
「……はい」
スティルは、湯呑みを膝の上に下ろした。
膝掛けの上で、湯呑みの熱が、じんわりと腿に伝わってきた。
月のない夜。
四年前の満月の夜、自分は、初めてこの人に、自分の本能のことを話した。話して、怖かった。離れていかれるのが、怖かった。この人は、離れていかなかった。最後まで聞いて、それから、四拍の数え方を教えてくれた。名前を呼ぶと言ってくれた。迎えに行くと言ってくれた。
月が満ちていた夜に、始まったのだった。
今夜は、月がなかった。
何かが終わるのかもしれない、と思った。
何かが始まるのかもしれない、とも思った。
スティルは、湯呑みを握る指に、力を込めた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……今朝、言えなかったことが、あるんです」
今朝、ではなかった。滝の前で、だった。けれど、言葉が、うまく出てこなかった。
雅也は、空から視線を下ろして、スティルのほうを見た。
火鉢の明かりが、雅也の顔を、下から赤く照らしていた。その顔は、いつも通り落ち着いていた。けれど、湯呑みを持つ手が、少しだけ止まっていた。
「……ありがとう、ではなくて」
スティルは、言葉を探した。
探して、探して、見つからなかった。
見つからないまま、口が開いた。
「……これからも、トレーナーさんのお傍に、いたい、と」
声が、震えた。
言ってしまった。
言ってしまってから、続きの言葉が、喉の奥で詰まった。言わなければならないことが、もう一つあった。この言葉だけでは、足りなかった。この言葉だけでは、本当のことの、半分にしかならなかった。
スティルは、目を閉じた。
胸の奥で、何かが熱を帯びていた。瞳の奥で、何かが灯りかけていた。レースのときの、あの紅ではなかった。もっと静かで、もっと深いところで灯る、別の何か。
――どちらの私も。
スティルは、目を開けた。
「……二人とも、です」
雅也は、何も言わなかった。
スティルは、湯呑みを両手で握りしめたまま、雅也の顔を見ていた。見ていられなくて、視線を落としかけて、落とさなかった。
二人とも。
レースのとき、喰らいたいと笑う自分も。ゴールのあとで、静かに頭を下げる自分も。どちらも、この人の傍にいたいと思っている。どちらか一人ではなく、二人とも。
それが、本当のことだった。
火鉢の炭が、また、ぱち、と爆ぜた。
雅也は、長いあいだ、何も言わなかった。
湯呑みを膝の上に下ろして、火鉢の炭を見ていた。炭の赤い明かりが、雅也の目の中で、小さく揺れていた。
スティルは、待った。
待つのは、慣れていた。四年間、この人の言葉を待つことには、慣れていた。この人は、いつも、考えてから話す。考えて、言葉を選んで、それから、短く話す。
今夜は、いつもより、ずっと長かった。
やがて、雅也が、小さく息を吐いた。
「……嬉しかった」
短い言葉だった。
スティルは、息を止めた。
「……今の言葉。……嬉しかった。それは、本当だ」
雅也は、火鉢から視線を上げて、スティルの顔を見た。
その目は、まっすぐだった。逸らさなかった。
「……でも、今は、答えない」
スティルは、湯呑みを握る指に、力を込めた。
「……君は、まだ俺の担当で、まだ生徒だ。……俺は、まだ君のトレーナーだ」
雅也の声は、低く、静かだった。けれど、その一言一言が、はっきりと、夜の空気の中に置かれていった。
「……だから、今は、答えられない。……答えたら、俺は、トレーナーとして、君にしてはいけないことをすることになる」
スティルは、何も言えなかった。
分かっていた。分かっていて、言ったのだった。この人が、今、答えられないことは、分かっていた。それでも、言わなければならなかった。言わないまま、卒業を迎えたくなかった。
「……卒業して、契約が終わったら」
雅也が、続けた。
「……そのときに、ちゃんと答える。……今夜の言葉に」
スティルは、顔を上げた。
雅也は、まだ、まっすぐこちらを見ていた。その目の中に、火鉢の明かりが映っていた。小さく、赤く、揺れていた。
「……それまで、待たせることになる。……悪い」
短い謝罪だった。
スティルは、湯呑みを膝の上に下ろした。
胸の奥で、何かが、ゆっくりとほどけていった。
答えない、と言われた。今は、答えられない、と。
けれど、それは、断られたのではなかった。
嬉しかった、と言われた。卒業して、契約が終わったら、ちゃんと答える、と言われた。この人は、今夜の言葉を、なかったことにしなかった。受け止めて、受け止めたまま、預かっておく、と言ったのだった。
そして、この人がそう言うとき、その答えが何なのか。
スティルは、知っていた。
四年間、この人の傍にいた。この人の言葉の選び方を、この人の沈黙の長さを、この人が嘘をつかないことを、全部知っていた。この人が、答えられないと言いながら、嬉しかったと先に言ったこと。その順番の意味を、知っていた。
「……はい」
スティルは、小さく言った。
それから、わずかに間を置いて、もう一つ、言った。
「……知って、いました」
雅也は、少しだけ目を見開いた。
「……トレーナーさんが、今は答えないって、言うこと。……知っていました」
スティルは、湯呑みを両手で包んだまま、俯いた。
俯いた口元が、ほんのわずかに緩んでいた。
雅也は、何も言わなかった。
しばらくして、火鉢のほうへ小さく息を吐いた。それから、湯呑みを手に取って、冷めかけたコーヒーを、一口飲んだ。
「……そうか」
小さな声だった。
困ったような、どこか安堵したような声だった。
それから、二人は、しばらく黙っていた。
火鉢の炭が、少しずつ小さくなっていった。湯呑みのコーヒーは、すっかり冷めていた。冷めたコーヒーを、スティルは少しずつ飲んだ。冷めても、苦くて、香ばしかった。
空を見上げると、雲が少しだけ切れていた。
雲の切れ間から、星が見えた。さっきより、ずっと多かった。学園の空では見えない、小さな星まで、たくさん見えた。
「……星、多いですね」
「……ああ」
「……ユニヴァースさんが、いたら、全部名前を教えてくれると思います」
「……そうだろうな」
雅也は、空を見上げて、笑った。
「……俺は、オリオン座くらいしか分からない」
「……私も、です」
「……あれ、そうか」
雅也が、空の一点を指さした。
スティルは、その指の先を見上げた。
三つの星が、斜めに並んでいた。その周りに、少し大きな星が四つ。
「……オリオン座、ですね」
「……たぶん」
「……たぶん、ですか」
「……自信はない」
スティルは、小さく笑った。
雅也も、わずかに笑っていた。
ネオユニヴァースの言葉を、思い出した。二重星。近すぎて、一つの星に見える、二つの星。互いの周りを回っているから、一つの光に見える。
どれが二重星なのか、スティルには分からなかった。望遠鏡がなければ、分からない。一つの星に見えるものが、本当は二つなのかどうか。
分からなくても、いいと思った。
九時を過ぎて、廊下の向こうから、仲居さんの足音が聞こえてきた。布団を敷きに来たのだった。
雅也が、湯呑みを片付けて、立ち上がった。
「……戻るか」
「……はい」
スティルも、立ち上がった。膝掛けを畳んで、雅也に返そうとした。
雅也は、首を振った。
「……持っていっていい。部屋、寒いかもしれないから」
「……ありがとうございます」
二人で、廊下を歩いた。
板張りの廊下が、足の下で、ぎ、と小さく鳴った。廊下の灯りは、薄暗かった。両側の障子の向こうから、他の客の話し声が、かすかに聞こえた。
雅也の部屋の前で、雅也が立ち止まった。
スティルの部屋は、その奥だった。
「……おやすみ」
「……おやすみなさい」
スティルは、頭を下げた。
頭を上げると、雅也がまだ、こちらを見ていた。何か言いかけて、やめたような顔だった。
「……今夜のこと」
「……はい」
「……忘れない」
それだけ言って、雅也は自分の部屋の襖を開けて、中に入っていった。襖が、静かに閉まった。
スティルは、しばらく廊下に立っていた。
膝掛けを、胸に抱えていた。膝掛けは、コーヒーの匂いがした。
自分の部屋に入ると、布団が敷かれていた。
部屋の灯りを消して、布団に入った。膝掛けを、布団の上に重ねた。
暗い天井を見上げた。
壁一枚向こうに、あの人がいた。遠征の宿と同じように。
同じなのに、もう、違った。
――嬉しかった。
――今は、答えない。
――卒業して、契約が終わったら、ちゃんと答える。
――忘れない。
スティルは、布団の中で、胸の上に手を置いた。
心臓が、まだ少しだけ速く打っていた。四拍で数えようとして、数えられなかった。数えられなくても、いいと思った。
窓の外は、真っ暗だった。月のない夜だった。
けれど、星が、たくさん見えていた。
スティルは、目を閉じた。
三か月後、この人は、ちゃんと答えてくれる。
それまで、待てる。
――知って、いましたから。
布団の中で、口元が、もう一度だけ緩んだ。
第七章 父の書斎と、次の春
年末から年始にかけての五日間を、スティルインラブは実家で過ごした。
実家は、学園から電車を二度乗り継いで、二時間ほどの町にあった。駅から歩いて十五分。古い住宅地の、坂の途中に建つ、小さな二階家だった。玄関の脇に、父が何年も前に植えた沈丁花の株があった。冬のあいだは、固い蕾をつけたまま、じっと黙っていた。
大晦日の夕方、駅の改札を出ると、父が待っていた。
厚手のコートを着て、マフラーを首に巻いて、改札の脇の柱にもたれていた。スティルの姿を見つけると、柱から身体を離して、手を上げた。
「……おかえり」
「……ただいま、帰りました」
父は、スティルの旅行鞄を受け取ろうとした。スティルは、首を振った。
「……自分で、持てます」
「そうか」
父は、それ以上は言わなかった。二人で、並んで坂道を歩いた。
夕暮れの住宅地は、静かだった。どの家の窓にも、灯りが点いていた。台所から、出汁の匂いがした。どこかの家で、子どもが笑う声がした。遠くで、寺の鐘を試し撞きする音が、一つだけ、低く響いた。
「……レース、見たよ」
坂の途中で、父が言った。
「……京都の」
「……はい」
「最後の直線で、笑っていたね」
「……はい」
「……いい顔だった」
父は、前を向いたまま言った。
スティルは、鞄の持ち手を握り直した。
「……父さん」
「ん」
「……私、あの顔を、恥ずかしいと思っていたんです。……ずっと」
父は、歩きながら、少しだけスティルのほうを見た。
「……知っているよ」
「……え」
「小さい頃から、そうだった。……走ったあとで、いつも、少し申し訳なさそうな顔をしていた」
父は、また前を向いた。
「……だから、京都で、あの顔のまま帰ってきたのを見て、……ほっとした」
スティルは、何も言えなかった。
坂の上に、家の灯りが見えてきた。二階の、父の書斎の窓に、明かりが点いていた。出かけるときに、消し忘れたのだろう。父は、いつもそうだった。
年越しの夜は、二人で蕎麦を食べた。
父が茹でた蕎麦だった。父は、料理が得意なほうではなかった。けれど、蕎麦だけは、毎年、自分で茹でた。スティルが物心ついた頃から、大晦日の台所に立つのは、いつも父だった。
台所のテーブルで、向かい合って蕎麦をすすった。
テレビは点いていなかった。ラジオから、年末の音楽番組が、小さく流れていた。
「……温泉は、どうだった」
父が、蕎麦をすすりながら訊いた。
スティルは、箸を止めた。
「……雪が、きれいでした」
「そうか」
「……滝を、見に行きました。……小さな滝で、氷柱が、たくさん下がっていて」
「……そうか」
「……コーヒーを、縁側で飲みました。……月のない夜で、星が、たくさん見えました」
父は、蕎麦をすすっていた手を、止めた。
それから、また蕎麦をすすった。
「……早瀬さんは、元気そうだったかい」
「……はい」
「……そうか」
父は、それ以上は訊かなかった。
スティルは、蕎麦の汁を見下ろした。
話したほうがいいのだろうか、と思った。縁側で、自分が何を言ったのか。あの人が、何と答えたのか。
話したかった。けれど、どう話せばいいのか、分からなかった。
父は、何も訊かなかった。訊かないまま、蕎麦を食べ終えて、箸を置いた。
「……卒業したら、どうするか、もう決めたかい」
「……まだ、です」
「そうか」
「……大学の、課程のことを、考えています。……学園の、卒業後の」
「……うん」
「……でも、まだ、決めていません」
父は、湯呑みのお茶を一口飲んだ。
「……急がなくていい。……自分で決めなさい」
「……はい」
「……誰かのためじゃなくて、自分のために。……それが、結果的に、誰かの傍にいることになるなら、それはそれで、いいと思うよ」
スティルは、顔を上げた。
父は、湯呑みを両手で包んで、窓の外を見ていた。窓の外は、もう真っ暗だった。
――誰かの傍に、いることになるなら。
父は、何を知っているのだろう、と思った。
何も知らないのかもしれない。何も知らないまま、ただ、娘の顔を見て、何かを察したのかもしれない。
どちらでも、父らしいと思った。
遠くで、除夜の鐘が鳴り始めた。
元日の午後、父の書斎で、二人で本を読んだ。
書斎は、二階の、北向きの部屋だった。壁の三面が、天井まで本棚になっていた。本棚には、古い本がぎっしりと詰まっていた。歴史の本が多かった。古い戦の記録。城の図面。昔の人の日記を、今の言葉に直した本。
父は、窓際の机で、分厚い本を開いていた。スティルは、書斎の隅の、古い一人掛けのソファに座っていた。小さい頃から、ここが自分の場所だった。
読んでいたのは、父がすすめてくれた本の続きだった。昔の、ある城の、最後の一年を書いた本。籠城の記録。食べ物が少しずつ減っていく日々。城主と家臣たちが、何を話し、何を決めたのか。
「……父さん」
「ん」
「……この城の人たちは、最後まで、どうして城を出なかったんですか」
父は、本から顔を上げた。
眼鏡を外して、わずかに考えるように、天井を見上げた。
「……いろいろな説がある。……出たら、命は助かったかもしれない。でも、出たら、守っていたものが、なくなる」
「……守っていたもの」
「城じゃなくて。……城の中にいる人たちの、関係とか、約束とか。……一緒にいた時間、と言ってもいい」
スティルは、膝の上の本を見下ろした。
「……一緒にいた時間を、守るために、残ったんですか」
「……そう読む人もいる。……違う読み方をする人もいる」
父は、眼鏡をかけ直した。
「……歴史は、そういうものだよ。……同じ記録を読んでも、読む人によって、違うことが見える。……でも、どの読み方でも、変わらないことが、一つだけある」
「……何ですか」
「……その人たちが、そこにいた、ということ」
父は、また本に視線を落とした。
「……何を考えていたかは、分からない。でも、そこにいたことは、記録に残っている。……それだけは、誰にも書き換えられない」
スティルは、本を閉じた。
膝の上で、本の表紙を撫でた。古い紙の、少しざらついた手触り。
――そこにいた、ということ。
四年間、あの人は、自分の傍にいた。二十のレース。二十のゴール。どのゴールのあとにも、あの人はそこにいた。それは、記録に残っている。誰にも書き換えられない。
これからは、どうだろう。
卒業して、契約が終わって。そのあとも、あの人の傍にいたい。そこにいた、という記録を、これからも、続けていきたい。
「……父さん」
「ん」
「……私、卒業してからも、……学園の近くに、いたいと思っています」
父は、本から顔を上げなかった。
「……そうか」
「……大学の課程に、進もうかと、思っています」
「……そうか」
「……自分のために、です」
スティルは、少しだけ言葉を切った。
「……自分のために、決めたことが、……結果的に、誰かの傍にいることになるなら。……それで、いいと思いますか」
父は、ようやく本から顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、細くなった。笑ったのだと、スティルには分かった。父は、笑うとき、口元よりも先に、目が細くなる。
「……昨日、そう言ったよ」
「……はい」
「……覚えていてくれたなら、いい」
父は、また本に視線を落とした。
スティルは、ソファの上で、膝を抱えた。
窓の外で、冬の午後の光が、少しずつ傾いていった。書斎の床に、本棚の影が、長く伸びていった。
学園に戻ったのは、一月四日の夕方だった。
寮の部屋に荷物を置いて、スティルは、そのままトレーナー棟へ向かった。新年の挨拶を、しなければならなかった。それに、実家から、父が持たせてくれたものがあった。
トレーナー室の扉を叩くと、中から、どうぞ、という声がした。
扉を開けると、雅也が、机に向かって、何かの書類を読んでいた。顔を上げて、スティルの姿を見ると、少しだけ表情を緩めた。
「……おかえり」
「……ただいま、戻りました。……明けまして、おめでとうございます」
「……おめでとう。……今年も、よろしく」
スティルは、頭を下げた。それから、手に持っていた紙袋を差し出した。
「……父から、です。……地元の、和菓子屋さんの、最中です」
「……ありがとう。お父さんに、よろしく伝えてくれ」
雅也は、紙袋を受け取って、机の脇に置いた。
スティルは、いつもの椅子に座った。
雅也は、読んでいた書類を、机の上で揃えた。揃えて、少しだけ、手を止めた。
スティルは、その書類の一番上に、何が書かれているのか、見るともなく見た。
――新規担当契約に関する面談記録。
胸の奥で、何かが、かすかに身じろぎした。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……新しい、担当の方、ですか」
雅也は、書類を見下ろした。それから、スティルのほうを見た。
「……ああ。……まだ、決まったわけじゃない。学園から、春からの担当候補について、話があった」
「……そう、ですか」
「……三月までは、君の担当だから。……その先の話だ」
スティルは、膝の上で、手を握った。
分かっていた。
自分が卒業したら、この人は、また新しい担当を持つ。それは、当然のことだった。この人はトレーナーで、トレーナーは担当ウマ娘を育てるのが仕事だった。自分一人のための人ではなかった。
分かっていた。
それなのに、胸の奥で、何かが熱を帯びていった。
瞳の奥に、紅いものが、ちらりと灯った。
喰らいたい、ではなかった。もっと別の、もっと熱くて、もっと苦しい何か。この人の傍に、自分以外の誰かがいる。この人が、自分以外の誰かの名前を呼んで、自分以外の誰かを迎えに行く。
スティルは、目を閉じた。
四拍で、呼吸を数えた。吸って、二つ、三つ、四つ。吐いて、二つ、三つ、四つ。
数えながら、紅いものを、押し込めようとはしなかった。
押し込める必要はなかった。これも、自分だった。この人の傍に、他の誰かがいることを、嫌だと思っている自分。それも、自分だった。
けれど、それを、この人に向けるべきではなかった。
この人の仕事を、邪魔するべきではなかった。新しい担当の子の、邪魔をするべきではなかった。その子にも、きっと、この人が必要なのだ。四年前の自分と、同じように。
スティルは、目を開けた。
「……いい方だと、いいですね」
声は、思ったより、落ち着いていた。
雅也は、スティルの顔を見ていた。
何かを見ていた。スティルの顔の、どこか。瞳の奥の、何か。
「……ああ」
雅也は、短く答えた。
それから、ほんの少し、間を置いた。
「……今、何か、灯ったな」
スティルは、息を止めた。
「……目の、奥」
「……見えましたか」
「……少しだけ」
スティルは、俯いた。頬が、熱くなった。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
雅也の声は、低く、静かだった。
「……灯ったのは、悪いことじゃない。……それを、君がどうしたかのほうが、大事だ」
「……」
「……押し込めなかった。でも、ぶつけもしなかった。……いい方だといいですね、って、言った」
雅也は、書類を机の引き出しにしまった。
「……それは、君が選んだことだ。……君の、判断だ」
スティルは、顔を上げた。
雅也は、引き出しを閉めて、こちらを見ていた。その目は、いつも通り落ち着いていた。けれど、口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
「……四年前の君なら、たぶん、どこかへ走りに行ってた」
「……はい」
「……今は、ここに座ってる」
「……はい」
「……よく、ここに座ってた」
スティルは、膝の上で、手を握り直した。
――よく、ここに座ってた。
褒められた、と思った。具体的に。何がよかったのか。何が変わったのか。四年前と、今と。この人は、いつもそうやって褒める。
胸の奥の紅いものが、ゆっくりと、静まっていった。消えたのではなかった。静まって、胸の奥の、元の場所に戻っていった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……新しい方が、決まったら、……教えて、いただけますか」
「……ああ。……ちゃんと、話す」
「……私も、……挨拶、したいです。……先輩として」
雅也は、目を見開いた。
それから、わずかに笑った。
「……そうか」
「……はい」
「……喜ぶと思う。……たぶん」
「……たぶん、ですか」
「……君の名前を出したら、緊張するかもしれない」
スティルは、少しだけ首を傾けた。
「……どうして、ですか」
「……二十戦二十勝の先輩だ。……緊張しないほうが、おかしい」
スティルは、何も言えなかった。
それから、口元に手を当てて、小さく笑った。
雅也も、笑っていた。
窓の外では、一月の夕暮れが、早くも暗くなり始めていた。練習場の照明が、一つ、また一つと点いていった。新年の練習を始めた、後輩たちの声が、かすかに聞こえてきた。
その夜、寮の部屋で、スティルは手帳を開いた。
一月四日の頁に、書いた。
――学園に、戻った。
――トレーナーさんに、新しい担当の方の話を聞いた。
――紅いものが、灯った。押し込めなかった。ぶつけなかった。
――よく、ここに座ってた、と言われた。
四行、書いた。書いて、少しだけ考えて、もう一行、書き足した。
――大学の課程のこと、来週、ちゃんと調べる。
ペンを置いた。
隣のベッドで、ネオユニヴァースが、まだ帰省先から戻っていなかった。部屋の中は、静かだった。
スティルは、手帳を閉じて、胸に抱えた。
――自分のために、決めたことが、結果的に、誰かの傍にいることになるなら。
父の言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。
それで、いいのだと思った。
第八章 真ん中に立つ日
引退式は、一月の二週目の日曜日、京都レース場で行われることになった。
最後のレースを走った場所だった。学園と主催者のあいだで日程が決まったのは、年末のことで、スティルインラブがそれを聞いたのは、正月明けにトレーナー室を訪ねた翌週だった。
「……京都で、いいか」
雅也は、日程の書かれた紙をスティルの前に置いて、そう訊いた。
スティルは、紙の上の「京都」という二文字を、しばらく見ていた。
十一月の、あの日。最後の直線。笑ったまま、ゴールを駆け抜けたこと。迎えに来なかった人。地下バ道で、アルヴさんが言った言葉。
「……はい。……京都が、いいです」
「……そうか」
「……最後に走った場所で、……最後に、勝負服を着たいです」
雅也は、頷いた。
それから、紙の下のほうを指さした。
「……当日、挨拶がある。短くていい。……何を言うかは、君が決めてくれ」
「……はい」
「……原稿、見てほしかったら、見る。見せたくなかったら、見ない」
スティルは、少し考えた。
「……見ないで、ください」
「……分かった」
雅也は、それ以上は何も言わなかった。
勝負服は、学園の衣装室に保管されていた。
引退式の三日前、スティルは衣装室を訪ねて、勝負服の試着をした。担当の職員が、丁寧に手入れをしてくれていた。十一月の京都で着たときの、芝の匂いは、もう残っていなかった。代わりに、衣装室の、防虫の香りと、アイロンの熱の匂いがした。
袖を通した。
身体が、すっと馴染んだ。ジャージのときと同じだった。四年間、何度も着た服だった。肩の線、腰の位置、裾の長さ。全部、自分の身体を覚えていた。
衣装室の壁に、大きな姿見があった。
スティルは、姿見の前を、足早に通り過ぎた。通り過ぎて、壁際の小さな鏡の前に立った。顔だけが映る大きさの、丸い鏡。そこで、襟元を整えた。
大きな鏡は、まだ苦手だった。
全部、映ってしまうから。
職員が、裾の丈を確かめながら、ふと、スティルの左手を見た。
「……爪、そのままにしておきますか」
スティルは、左手を見下ろした。
薬指の爪だけが、赤く塗られていた。
デビューのときから、ずっとそうだった。勝負服を着るときは、いつもこの爪を赤くした。誰かに言われたわけではなかった。最初のときに、なぜかそうしたくなって、それからずっと続けていた。
理由を、誰かに話したことはなかった。
訊かれたことも、なかった。あの人にも。四年間、あの人は、この爪のことを一度も口にしなかった。気づいていないはずはなかった。あの人は、何でも見ている人だった。気づいていて、何も言わなかった。
「……はい。……そのままで、お願いします」
スティルは、左手を、そっと右手で包んだ。
引退式の日は、晴れていた。
京都の一月の空は、高く、薄く、青かった。風は冷たかったけれど、日差しはやわらかかった。レース場のスタンドには、思っていたよりもずっと多くの人が来ていた。
控え室で、スティルは勝負服に着替えた。
鏡台の小さな鏡で、髪を整えた。手鏡を取り出して、笑顔の練習をした。口角を、わずかに上げる。目を、少しだけ細める。四年間、毎朝やってきたことだった。
手鏡の中の自分は、緊張していた。
扉が叩かれた。
「……スティル。そろそろ」
雅也の声だった。
「……はい」
スティルは、手鏡を閉じて、立ち上がった。
扉を開けると、雅也が廊下に立っていた。スーツを着ていた。いつものトレーナーの上着ではなく、黒い、きちんとしたスーツ。ネクタイは、紺色だった。
スティルは、少しだけ目を見開いた。
「……スーツ、ですね」
「……式だから」
「……初めて、見ました」
「……レースの表彰式でも、着てた」
「……そう、でしたか」
「……君は、いつも、表彰式の前に、どこか遠くを見てたから」
スティルは、何も言えなかった。
そうだった。表彰式の前は、いつも、ゴールのあとの余韻の中にいた。もう一人の自分が、まだ近くにいた。周りのことは、あまり見えていなかった。
「……今日は、ちゃんと見えます」
「……そうか」
雅也は、笑った。
「……行くか」
地下バ道を、二人で歩いた。
十一月と、同じ道だった。コンクリートの壁。天井の照明。遠くから聞こえる、スタンドのざわめき。靴音が、壁に反響して、低く響いた。
十一月は、一人で歩いた。ゴールのあとで、雅也が迎えに来なかったから。一人で地下バ道を戻って、途中でアルヴさんとすれ違った。
今日は、二人で歩いていた。
雅也は、スティルの半歩うしろを歩いていた。いつもそうだった。レースの前、地下バ道を歩くとき、この人は必ず半歩うしろにいた。前に出すぎず、離れすぎず。
出口の光が、近づいてきた。
スティルは、立ち止まった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……ここから先は、一人で行きます」
雅也は、わずかに目を見開いた。
「……コースに出るときは、いつも、一人でしたから。……最後も、そうしたいんです」
雅也は、しばらくスティルの顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かった。……スタンドの前で、待ってる」
「……はい」
スティルは、出口の光の中へ、歩き出した。
コースに出ると、冷たい風が頬を撫でた。
芝は、冬の色をしていた。枯れた緑と、淡い茶色が混じった、冬の芝。十一月より、少しだけ色が薄くなっていた。
スタンドから、拍手が起こった。
スティルは、その拍手の中を、ゆっくりと歩いた。走らなかった。今日は、走る日ではなかった。勝負服を着て、コースを歩いて、スタンドの前まで行く。それだけの日だった。
歩きながら、スタンドを見上げた。
たくさんの人がいた。たくさんの顔があった。横断幕が、いくつか掲げられていた。自分の名前が書かれていた。
影の薄い自分を、こんなにたくさんの人が、見つけてくれていた。
胸の奥が、熱くなった。
スタンドの最前列に、見覚えのある顔があった。
父だった。
厚手のコートを着て、マフラーを首に巻いて、手すりにもたれていた。スティルと目が合うと、手を上げた。大晦日の駅と、同じ仕草だった。
その少し後ろに、もう一人、見覚えのある顔があった。
アルヴさんだった。
ジャージではなく、私服のコートを着ていた。腕を組んで、まっすぐにスティルを見ていた。表情は、ほとんど動いていなかった。けれど、スティルと目が合うと、ほんの顎を引いた。
――見ていなさい。今日みたいな顔で。
十二月の朝、アルヴさんはそう言った。来年、自分がどこを走るにしても、と。
今日は、逆だった。アルヴさんが、自分を見に来てくれた。
スティルは、アルヴさんに向かって、小さく頭を下げた。
アルヴさんは、腕を組んだまま、ふいと視線を逸らした。
スタンドの前に、小さな壇が設けられていた。
壇の脇に、雅也が立っていた。スーツ姿で、背筋を伸ばして、両手を前で組んでいた。
スティルは、壇の上に上がった。
マイクの前に立った。
スタンドが、静かになった。
スティルは、勝負服の胸元に、手を当てた。原稿は、持ってきていなかった。三日間、何度も書き直して、最後には、書くのをやめた。書いた言葉を読むより、今、ここで思っていることを話したかった。
「……スティルインラブです」
声が、マイクを通して、スタンドに響いた。
自分の声が、こんなに大きく響くのを聞いたのは、初めてだった。
「……今日は、来てくださって、ありがとうございます」
頭を下げた。
顔を上げると、スタンドのたくさんの顔が、こちらを見ていた。
「……私は、……影が薄いと、よく言われます」
スタンドの何人かが、小さく笑った。温かい笑いだった。
「……集合写真で、写っていないことも、ありました。……授業で、名前を呼ばれないことも、ありました。……隣に座っていても、気づかれないことも」
スティルは、少しだけ言葉を切った。
「……でも、皆さんは、見つけてくださいました。……二十回、走って、……二十回とも、見つけてくださいました」
スタンドが、静かだった。
「……走っているときの私は、……少し、怖い顔をしていたと思います。……笑っていたと、思います。……そういう私も、……見つけてくださって、……ありがとうございました」
声が、震えた。
スティルは、震えを、無理に止めようとはしなかった。
「……これからは、走りません。……でも、どこかで、また見つけていただけたら、……嬉しいです」
もう一度、頭を下げた。
長く、深く。
スタンドから、拍手が起こった。
最初は、ぱらぱらと。それから、少しずつ大きくなって、やがて、スタンド全体を包むような拍手になった。
スティルは、頭を下げたまま、その拍手を聞いていた。
目の奥が、熱かった。
式の最後に、記念撮影があった。
壇の前に、関係者が並んだ。主催者の人たち。学園の理事長と、たづなさん。スティルの父。それから、雅也。
カメラマンが、並び方を指示した。
「スティルインラブさん、真ん中へどうぞ」
スティルは、わずかに戸惑った。
写真のときは、いつも端にいた。端にいて、写っていないことも多かった。真ん中に立ったことは、ほとんどなかった。レースの表彰式でさえ、どこか端のほうに立っていたような気がする。
けれど、今日は、真ん中だった。
スティルは、並んだ人たちの真ん中に立った。
それから、左右を見た。
右側に、理事長とたづなさん。左側に、父と、主催者の人たち。
雅也は、どこにいるのだろう、と思った。
探すまでもなかった。雅也は、一番左の端に立っていた。父のさらに外側。カメラのフレームに、ぎりぎり入るかどうかの位置。
いつもの、自分の場所だった。
スティルは、雅也のほうを見た。
「……トレーナーさん」
雅也が、顔を上げた。
「……こちらへ、来てください」
スティルは、自分の左隣を、目で示した。
雅也は、少しだけ目を見開いた。それから、小さく首を振った。
「……いや、俺は、ここで」
「……来て、ください」
スティルの声は、小さかった。けれど、はっきりしていた。
雅也は、迷うような顔をした。
父が、何も言わずに、一歩だけ横へずれた。雅也とスティルのあいだに、一人分の隙間ができた。
雅也は、父のほうを見た。父は、前を向いたまま、何も言わなかった。眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなっていた。
雅也は、首の後ろに手をやった。
それから、ゆっくりと、スティルの隣まで歩いてきた。
隣に立った。
スティルは、前を向いた。
隣に、雅也がいた。スーツの肩が、自分の肩の、すぐ横にあった。触れてはいなかった。けれど、触れそうなくらい近かった。
「……撮りまーす」
カメラマンが言った。
雅也が、半歩だけ、外側へ下がろうとした。いつもの癖だった。誰かの隣に立つとき、この人は、いつも半歩うしろに下がる。前に出すぎないように。主役を、奪わないように。
スティルは、雅也のほうを見ずに、小さく首を振った。
雅也の足が、止まった。
下がらなかった。
そのまま、隣に立っていた。
「……はい、笑ってくださーい」
スティルは、笑った。
手鏡で練習した笑顔ではなかった。口角を上げる、目をわずかに細める、という笑顔ではなかった。もっと自然に、もっと勝手に、顔がほころんだ。
隣で、雅也が、少しだけ息を吐く音がした。
シャッターの音がした。
式が終わって、控え室で勝負服を脱いだ。
脱ぐ前に、もう一度だけ、小さな鏡で自分の姿を見た。勝負服の襟元。肩の線。それから、左手の薬指の赤い爪。
今日、雅也は、この爪のことを何も言わなかった。
スティルも、何も言わなかった。
それでいいと思った。
言わなくても、知っている。あの人は、きっと、四年前から知っている。知っていて、何も言わない。それが、あの人のやり方だった。
勝負服を脱いで、丁寧に畳んだ。衣装室の職員が、引き取りに来てくれることになっていた。
畳んだ勝負服の上に、そっと手を置いた。
「……ありがとう、ございました」
小さく、言った。
四年間、一緒に走ってくれた服に。
控え室を出ると、廊下に雅也が待っていた。
スーツのまま、壁にもたれていた。手には、主催者から渡された、記念の封筒を持っていた。
「……お疲れさま」
「……お疲れさまでした」
二人で、廊下を歩き出した。
「……挨拶、よかった」
雅也が、前を向いたまま言った。
「……原稿、なかったんだな」
「……はい。……書いて、やめました」
「……そうか」
「……どこが、よかったですか」
スティルは、自分でも驚くくらい、自然にそう訊いていた。
雅也は、足を緩めた。
「……怖い顔をしていた、って、自分で言ったところ」
「……」
「……それを、ありがとう、で終わらせたところ。……見つけてくださって、ありがとう、って。……怖い顔の自分も、ちゃんと、自分の一部として言ってた」
スティルは、俯いた。
「……四年前の君なら、言えなかったと思う」
「……はい」
「……今日は、言えた」
雅也は、それ以上は言わなかった。
廊下の窓から、一月の午後の光が、斜めに差し込んでいた。光の中を、二人で歩いた。
スティルは、雅也の半歩うしろを歩いていた。
いつもの距離だった。
けれど、さっきの写真では、隣に立っていた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……写真、……下がらないで、くださって、ありがとうございました」
雅也は、足を止めなかった。
ほんのわずかに歩幅が乱れた。
「……君が、首を振ったから」
「……はい」
「……振られたら、下がれない」
スティルは、小さく笑った。
笑いながら、少しだけ足を速めた。
半歩うしろから、一歩分だけ、前へ。
雅也の、隣へ。
雅也は、何も言わなかった。歩く速さも、変えなかった。
二人で、並んで、廊下を歩いた。
第九章 自分で引く線
一月の後半は、手帳の頁が、少しずつ埋まっていく日々になった。
引退式の翌週から、スティルインラブは、放課後の時間の多くを図書室で過ごすようになった。目的のない漂い方ではなかった。机の上には、いつも同じ種類の紙が広がっていた。学園の進路指導室でもらってきた、卒業生の進学先をまとめた冊子。いくつかの大学の、課程の案内。履修の仕組みを説明した薄いパンフレット。それから、自分で書き込んだ、手帳の一頁を破いたメモ。
年明けに父の書斎で口にした言葉は、口にした時点では、まだ半分くらいしか形になっていなかった。学園の近くにいたい。大学の課程に進みたい。自分のために。そこまでは言えた。けれど、どの大学の、どの課程で、何を学ぶのかは、何も決まっていなかった。決まっていないまま、言葉だけが先に出たのだった。
言葉が先に出たのなら、あとから中身を追いつかせればいい。そう思えるようになったのは、たぶん、引退してからの二か月のおかげだった。白い時間割の上に、一日に一つずつ、自分のしたいことを書き込んできた。小さな灯りを一つずつともすやり方なら、もう、身体が覚えていた。
候補は、三つまで絞れていた。
一つは、学園から電車で二駅のところにある大学の、生活文化を学ぶ課程だった。衣食住の歴史や、手仕事の技術や、地域に伝わる菓子や織物のことを扱う講義が並んでいた。案内の頁の端に、小さな写真が載っていた。大きな木の机の上に、古い糸巻きと、色褪せた布の見本が並べられている写真だった。その写真を初めて見たとき、スティルは、しばらく頁をめくる手を止めた。
二つ目は、同じ大学の、史学の課程だった。父の書斎の本棚に並んでいるような本を、もっと深く読むための課程。古い記録を読む演習があり、城や寺や町の成り立ちを調べる実習があった。
三つ目は、少し離れた場所にある、製菓の専門の学校だった。焼き菓子の技術を、基礎から身につけられる。けれど、学園からは遠く、通うなら住まいを移さなければならなかった。
スティルは、三つの案内を、何度も並べ替えた。
並べ替えるたびに、自分の指が、最初の一つの上で止まる時間が、少しずつ長くなっていった。
史学の課程にも、心は引かれた。父と話すとき、いつも楽しかった。古い記録の中に、そこにいた人たちの気配を探すのは、好きだった。けれど、史学の案内を読んでいると、どこか、父の背中を追いかけているような気がした。父の書斎の、父の本棚の、父の読み方を、そのままなぞっているような。
製菓の学校は、案内を読むだけで、胸の奥が温かくなった。けれど、焼き菓子を焼くことは、もう自分の手の中にあった。学校で習わなくても、毎週、寮の調理室で焼いている。フィナンシェの縁が香ばしく焼けるまでの時間も、ジャムの火を止める瞬間も、誰に教わったわけでもなく、自分の手が覚えている。それを、わざわざ学校で習い直すことが、自分のしたいことなのかどうか、分からなかった。
生活文化の課程は、違った。
案内に並んでいた講義の名前を、一つずつ、指でなぞった。手仕事と暮らしの歴史。食文化論。染織の基礎。地域の菓子と年中行事。どの講義も、自分の手の中にあるものと、父の書斎の中にあるものの、ちょうどあいだにあるような気がした。
ボビンレースの糸を、なぜ自分はこんなふうに交差させているのか。この編み方は、どこで生まれて、誰が、どんな部屋で、どんな灯りの下で編んでいたのか。赤い果実のジャムは、いつから、どこで、どんな人たちが煮ていたのか。焼き菓子を誰かに贈るという習慣は、いつ、どうやって始まったのか。
自分の手が知っていることを、自分の頭でも知りたい。
そう思ったのは、初めてだった。
「……“軌道計算”、してる」
図書室の机に、影が落ちた。
顔を上げると、ネオユニヴァースが、机の向かいに立っていた。腕に、分厚い本を何冊も抱えていた。天文学の本と、物理の本と、なぜか古い詩集が一冊。
「……ユニヴァースさん」
「三つの“候補天体”。……そのうち一つに、引力が偏ってる」
ネオユニヴァースは、抱えていた本を机の端に置いて、向かいの椅子に座った。それから、スティルの前に広げられた三つの案内を、上から順に覗き込んだ。
最初の案内の上で、ネオユニヴァースの視線が止まった。それから、スティルの右手の指先を見た。指先は、案内の、糸巻きの写真の端に触れたままになっていた。
「……観測、完了」
「……何が、ですか」
「スティルの指。……さっきから、ずっとここ。ほかの二つに移っても、三十秒以内に戻ってくる」
スティルは、慌てて指を引っ込めた。
ネオユニヴァースは、表情を変えずに、案内を指先でとん、と叩いた。
「……迷ってる理由、“雑音”じゃない?」
「……雑音、ですか」
「史学は、お父さんの“周波数”に似てる。製菓は、もう持ってる“光”。……生活文化は、まだ観測されてない領域。……スティルが、自分で見つけた星」
スティルは、何も言えなかった。
ネオユニヴァースの言い方は、いつも遠回りで、わずかに分かりにくかった。けれど、分かりにくい言葉の芯にあるものは、いつも正確だった。この子は、四年間、同じ部屋で、自分の寝息と、起きる時間と、溜息の数を、全部聞いてきた。
「……でも、ユニヴァースさん」
「ん」
「……この大学、……学園から、近いんです」
スティルは、案内の住所の欄を指さした。電車で二駅。学園の最寄りの駅から、乗り換えなしで行ける。
「……近いから、選ぼうとしている、のかもしれないって、……思ったんです。……自分で」
ネオユニヴァースは、少しだけ首を傾けた。
「近いと、だめ?」
「……近いのが理由なら、……自分のために選んだことに、ならない気がして」
言いながら、スティルは膝の上で手を握った。
学園の近く。それは、つまり、あの人の近く、ということだった。卒業しても、契約が終わっても、あの人はこの学園で働き続ける。新しい担当を持つ。トレーナー棟の三階の、右から二番目の窓には、これからも明かりが点く。その窓から、電車で二駅。
近いから選ぶ。それは、あの人の傍にいたいから選ぶ、ということと、どれくらい違うのだろう。
父は、自分のために決めなさい、と言った。それが結果的に誰かの傍にいることになるなら、それはそれでいい、と。けれど、結果的に、と、最初から、のあいだには、きっと線がある。その線のどちら側に自分が立っているのか、スティルには、まだ見分けがつかなかった。
ネオユニヴァースは、しばらく黙っていた。
図書室の窓から、一月の午後の光が、低く差し込んでいた。光の中を、細かい埃がゆっくりと漂っていた。遠くの書架のあいだで、誰かが本を棚に戻す、乾いた音がした。
「……スティル」
「……はい」
「仮に、この大学が、すごく遠かったら」
ネオユニヴァースは、案内の住所の欄に、指を置いた。
「たとえば、北のほう。……電車で、何時間も」
「……」
「それでも、この課程を選ぶ? ……“アファーマティブ”? “ネガティブ”?」
スティルは、案内を見下ろした。
糸巻きの写真。色褪せた布の見本。手仕事と暮らしの歴史。地域の菓子と年中行事。
遠かったら。
あの人から、電車で何時間も離れた場所だったら。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。縮んで、それから、時間をかけて、また広がった。
遠くても、この講義を受けたいと思うだろうか。
この写真の、木の机の前に座りたいと思うだろうか。
「……分かりません」
正直に言った。
「……でも、……たぶん、……選ぶと思います。……迷うと思いますけど、……最後には」
ネオユニヴァースは、指を案内から離した。
「なら、近いのは“おまけ”」
「……おまけ、ですか」
「重力の中心は、課程のほう。……近いのは、たまたま軌道が重なっただけ。……それは、悪いことじゃない。“幸運な配置”」
スティルは、ネオユニヴァースの顔を見た。
ネオユニヴァースは、表情を変えなかった。けれど、目の奥が、少しだけ柔らかくなっていた。
「……ユニヴァースさんは、……卒業したら、どうするんですか」
訊いてしまってから、スティルは、自分がこれまで一度もそれを訊いたことがなかったことに気づいた。四年間、同じ部屋にいた。この子の進路を、自分は一度も訊かなかった。
ネオユニヴァースは、机の端に置いた本の山の、一番上の一冊に手を置いた。
「……“観測”を、続ける。……空の。たぶん、同じ大学の、理学のほう」
「……同じ、大学」
「アファーマティブ。……だから、スティルが来たら、“近傍軌道”」
ネオユニヴァースは、そこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……でも、ユニヴァースは、スティルが来るから選んだんじゃない。……空が、そこから見えるから」
スティルは、小さく息を吐いた。
それが、たぶん、線の引き方なのだと思った。
決めたのは、その週の土曜日だった。
スティルは、一人で、その大学のキャンパスを見に行った。
誰にも言わなかった。ネオユニヴァースにも、父にも、あの人にも。手帳の土曜日の頁に、ただ一行、「見に行く」とだけ書いて、朝の九時過ぎの電車に乗った。
二駅は、思っていたより短かった。窓の外を、冬の住宅地が流れていった。屋根の上に、うっすらと霜が残っていた。電車の暖房が足元から吹き上げてきて、膝のあたりだけが温かかった。
駅を出ると、ゆるやかな坂があった。坂の両側に、古い商店が並んでいた。小さなパン屋の前を通ると、焼きたての生地の匂いがした。古本屋の店先に、色褪せた文庫本の箱が出ていた。坂を上り切ったところに、大学の門があった。
土曜日のキャンパスは、静かだった。
門をくぐると、銀杏の並木があった。葉はすっかり落ちて、裸の枝が、冬の空に細い線を描いていた。並木の先に、古い煉瓦の建物と、新しいガラスの建物が並んでいた。ところどころに、ベンチがあった。ベンチの一つに、学生らしい人が座って、分厚い本を読んでいた。
スティルは、並木道を、ゆっくり歩いた。
誰も、自分に気づかなかった。
学園の中なら、引退したばかりのスティルインラブを、誰かが振り返ることもあった。けれど、ここでは、誰も振り返らなかった。影の薄さが、ここでは、ちょうどよかった。誰にも見られずに、自分のペースで、この場所を見ることができた。
案内の地図を頼りに、生活文化の課程が入っている建物を探した。
煉瓦の建物の、二階だった。土曜日なので、建物の中には入れなかった。けれど、一階の廊下の窓から、中の様子が見えた。掲示板に、講義の案内が貼られていた。その隣に、学生の作品らしいものが、ガラスのケースに入れて展示されていた。
スティルは、窓に顔を近づけた。
ガラスのケースの中に、小さな布が並んでいた。刺繍。織物の見本。それから、一つだけ、白い糸で編まれた、細長いレースがあった。
ボビンレースだった。
自分が編んでいるものとは、模様が違った。もっと素朴で、もっと規則正しくて、どこか古い時代の匂いのする模様。ケースの中の小さな札に、何か書かれていたけれど、窓越しでは読めなかった。
スティルは、しばらく、そのレースを見ていた。
窓ガラスに、自分の息が当たって、白く曇った。曇った部分を、袖で拭いた。拭いて、また見た。
この模様は、どこで生まれたのだろう。誰が、どんな部屋で、どんな灯りの下で、この糸を交差させたのだろう。
知りたい、と思った。
電車で二駅だから、ではなかった。あの人の近くだから、でもなかった。このレースの模様の向こう側にあるものを、知りたいと思った。
それだけで、十分だった。
帰りの電車の中で、スティルは手帳を開いた。
土曜日の頁の「見に行く」の下に、もう一行、書いた。
――ここに、決めた。
書いてから、ペンを止めて、窓の外を見た。冬の午後の光が、住宅地の屋根を、斜めに照らしていた。電車が揺れるたびに、光の角度が少しずつ変わった。
決めた。
自分で。誰にも相談せずに。
そのことが、なぜか誇らしかった。
四年前の自分なら、きっと、誰かに決めてほしかったと思う。あの人に、どうすればいいですか、と訊いていたと思う。あの人は、きっと、君が決めることだ、と言っただろう。そして自分は、決められずに、膝の上で手を握りしめていただろう。
今日は、誰にも訊かなかった。
月曜日の放課後、スティルはトレーナー室を訪ねた。
雅也は、机に向かって、何かの資料を読んでいた。新しい担当候補の資料かもしれない、と思った。思って、胸の奥がわずかに身じろぎしたけれど、それはすぐに静まった。
「……トレーナーさん。……進路のこと、決めました」
雅也は、資料から顔を上げた。
スティルは、鞄から大学の案内を取り出して、机の上に置いた。生活文化の課程の頁を開いて。
雅也は、案内を見下ろした。しばらく、黙って頁を読んでいた。手仕事と暮らしの歴史。食文化論。染織の基礎。地域の菓子と年中行事。指先が、講義の名前の上を、一つずつ、ゆっくりと辿っていった。
スティルは、雅也の指先を見ていた。
何を言われるだろう、と思った。何を言われても、もう決めたことは変わらない。けれど、この人が何と言うのかは、知りたかった。
雅也の指が、糸巻きの写真の上で止まった。
「……土曜日、見に行ったのか」
スティルは、少しだけ目を見開いた。
「……どうして、分かるんですか」
「……月曜日に決めた、って顔じゃない。……もっと前から、決まってた顔だ」
雅也は、案内から顔を上げた。
「……それに、君は、自分の目で見ないと決めない」
スティルは、何も言えなかった。
四年間、レースの前に、必ずコースを自分の足で歩いた。芝の硬さを確かめて、コーナーの角度を確かめて、直線の長さを確かめた。この人は、それを全部、見ていた。
「……ボビンレースが、展示されていたんです。……一階の、ガラスのケースに」
「……そうか」
「……私のとは、模様が違いました。……もっと古い、素朴な模様で。……どこで生まれた模様なのか、知りたいと思ったんです」
スティルは、膝の上で手を握った。
「……それで、決めました。……ここが、学園から近いのは、……たまたまです」
言いながら、頬が少し熱くなった。たまたま、と言い切れるほど、自分の気持ちが澄んでいるとは思えなかった。けれど、ネオユニヴァースの言葉を借りるなら、重力の中心は、課程のほうにあった。それだけは、確かだった。
雅也は、少しのあいだ、何も言わなかった。
案内を閉じて、両手で揃えて、スティルの前へ戻した。それから、机の上で、指を軽く組んだ。
「……いい選び方だと思う」
短い言葉だった。
「……手で知ってることを、頭でも知りたい、っていうのは、……たぶん、一番強い動機だ。走るのと同じで」
スティルは、顔を上げた。
「……走るのと、同じ、ですか」
「君は、走り方を、身体で先に覚えて、あとから理由を知っていった。……コーナーで内に寄る理由も、直線で脚を溜める理由も。最初は、なんとなくやってた。あとから、なぜそうするのかを知って、もっと速くなった」
雅也は、組んだ指を、ほどいた。
「……ボビンレースの糸も、たぶん、同じだ」
スティルは、膝の上の手を、ゆっくりと開いた。
この人は、自分が近いからここを選んだのかどうかを、訊かなかった。訊かなくても、分かっていたのかもしれない。それとも、分かっていなくて、それでも訊かないことにしたのかもしれない。どちらにしても、この人は、自分の選んだ理由を、自分の言葉のままで受け取ってくれた。
近いのはたまたまだ、と言った自分の言葉を、疑わなかった。
それが、何よりも嬉しかった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……入学の手続き、……自分で、やります。……書類も、全部」
「……分かった」
言ってから、雅也は少しだけ苦い顔をした。自分の口から出た言葉が、薄い相づちになったことに、気づいたような顔だった。
「……いや。……手伝えることがあったら、言ってくれ。言われなかったら、手を出さない」
スティルは、小さく頷いた。
「……はい。……言いたくなったら、言います」
その夜、寮の部屋で、スティルは手帳の一番後ろの頁を開いた。
四年前から、その頁だけは、一度も使っていなかった。将来のこと、と小さな文字で見出しだけが書かれていて、その下は、ずっと白いままだった。中等部のときの進路調査で、将来の欄に何を書けばいいのか分からなかった。あの人のいない未来の書き方が、分からなかった。分からないまま、見出しだけを書いて、閉じてしまった頁だった。
スティルは、ペンを取った。
――生活文化の課程。手仕事と、菓子と、暮らしの歴史を学ぶ。
――ボビンレースの模様が、どこで生まれたのかを知る。
――赤い果実のジャムが、いつから煮られていたのかを知る。
三行、書いた。
書いてから、ペンを止めた。
あの人の名前は、書かなかった。
書かなくても、この頁のどこかに、あの人はいる気がした。書かなくてもいいくらい、当然のこととして。けれど、この三行は、あの人とは関係のない、自分だけの三行だった。自分の手と、自分の頭と、自分の好きなもののための三行。
隣のベッドで、ネオユニヴァースが、天井の暗がりに向かって小さく言った。
「……“初期軌道”、確定?」
「……はい。……確定、しました」
「……“ミッション開始”まで、あと二か月」
「……はい」
スティルは、手帳を閉じた。
閉じた手帳の、一番後ろの頁が、もう白くないことを、指先で確かめるように、表紙を一度だけ撫でた。
第十章 四度目の二月十四日
二月に入ると、寮の調理室は、いつもより混み合うようになった。
放課後になると、調理台のあちこちで、誰かがチョコレートを刻んでいた。湯煎の鍋から甘い湯気が立ちのぼり、オーブンの前には順番待ちの小さな列ができた。窓ガラスが内側から白く曇り、廊下まで、溶かしたバターと焦がした砂糖の匂いが漂っていた。調理室の扉の前を通るだけで、二月が来たのだと分かった。
スティルインラブは、その賑わいを避けて、毎晩、消灯の一時間前に調理室を使った。
その時間になると、たいていの子は自分の部屋に戻っていた。調理台は片付けられ、オーブンは冷えかけていて、窓の曇りも少しずつ晴れていた。スティルは、エプロンを着けて、髪を後ろでまとめて、一人で焼き菓子の試作をした。
今年で、四度目だった。
中等部の三年の二月。担当契約を結んで、まだ一年も経っていない頃。何を渡せばいいのか分からなくて、結局、いつも焼いているフィナンシェを、いつもよりわずかに丁寧に焼いて渡した。あの人は、ありがとう、と言って受け取って、その場で一つ食べた。縁が香ばしい、と言った。それだけだった。それだけで、二月の残りの日々が、全部明るくなった。
二度目も、三度目も、フィナンシェだった。
四度目の今年も、フィナンシェにするつもりだった。けれど、試作を始めてから、三晩、四晩と、少しずつ配合を変えていた。焦がしバターの色を、ほんの少しだけ深くした。アーモンドの粉を、少しだけ多くした。焼き時間を、一分だけ長くした。
理由は、自分でもよく分からなかった。
去年までと同じものを渡したい、と思う気持ちと、去年までとは違うものを渡したい、と思う気持ちが、同じくらいの強さで胸の中にあった。同じものを渡せば、四年間の続きとして受け取ってもらえる。違うものを渡せば、何かが変わったことを、伝えられるかもしれない。
何が変わったのか。
十二月の、月のない夜。縁側の火鉢の前で、自分が言ったこと。あの人が答えたこと。
――嬉しかった。今は、答えない。卒業して、契約が終わったら、ちゃんと答える。
あれから二か月が経っていた。あの人は、あの夜のことを、一度も口にしなかった。自分も、口にしなかった。トレーナー室で、いつものようにコーヒーを飲んで、いつものように焼き菓子を食べて、いつものように進路の話をした。何も変わらなかった。
何も変わらないことが、あの人の答えの預け方なのだと、スティルは分かっていた。
変わらないまま、三月まで、預かっていてくれる。だから自分も、変わらないまま、待っていればよかった。
それなのに、焼き菓子の配合だけは、少しずつ変わっていった。
五日目の夜、ようやく、これだ、と思える色に焼き上がった。
オーブンの扉を開けると、熱い空気が顔に当たった。天板の上に、小さな舟形の焼き菓子が、十二個並んでいた。表面は、濃い黄金色だった。縁だけが、去年より深い茶色になっていた。焦がしバターの香りが、熱と一緒に、調理室いっぱいに広がった。
スティルは、一つを型から外して、網の上に置いた。
冷めるのを待つあいだ、調理台に寄りかかって、窓の外を見た。窓の曇りは、もうほとんど晴れていた。ガラスの向こうに、寮の中庭の、葉の落ちた木々が、暗く浮かんでいた。空には、半分より少し太った月が出ていた。
満月まで、あと数日。
スティルは、少しだけ視線を逸らした。
四年前より、ずっと平気になった。満月の夜でも、カーテンを早めに閉めることさえ忘れなければ、眠れるようになった。それでも、満ちていく月を、まっすぐ見上げるのは、まだ苦手だった。
網の上の焼き菓子が、手で触れられるくらいに冷めた。
スティルは、それを半分に割った。
割れ目から、湯気が細く立ちのぼった。中は、しっとりと柔らかかった。縁の部分だけが、かりっと乾いていた。
一口、食べた。
焦がしバターの深い香りが、まず鼻に抜けた。それから、アーモンドの甘さが、舌の上でゆっくりと広がった。最後に、縁の香ばしさが、わずかに苦く、少しだけ甘く残った。
去年と、少し違う味だった。
けれど、同じ味でもあった。四年前、初めてあの人に渡したときと、根っこのところは、何も変わっていなかった。
スティルは、残りの半分を、そっと口に入れた。
これでいい、と思った。
二月十四日は、火曜日だった。
朝から、学園全体が、どこかそわそわしていた。廊下ですれ違う子たちが、小さな紙袋を大事そうに抱えていた。教室の後ろのロッカーの前で、誰かが誰かに何かを渡して、周りから小さな歓声が上がった。スティルは、その様子を、教室の窓際の席から、ぼんやりと眺めていた。
鞄の中に、小さな箱が入っていた。
白い紙の箱に、細い赤いリボンを掛けてあった。十一月の、あの人の誕生日と同じリボン。結び目は、あのときよりも、さらにきつく結んであった。結び直したのは、三回だった。一回目は緩すぎて、二回目は形が崩れて、三回目で、ようやくまっすぐに結べた。
中には、フィナンシェが六個入っていた。
放課後まで、箱は鞄の中で、ずっと静かにしていた。授業中、何度か鞄に手を伸ばしかけて、そのたびに、膝の上に戻した。昼休み、ネオユニヴァースが、スティルの鞄を一瞥して、何も言わずに、自分のパンの袋を開けた。
何も言わないことが、ネオユニヴァースなりの気遣いなのだと、スティルには分かった。
放課後、トレーナー棟の階段を上がった。
三階の廊下は、静かだった。他のトレーナーの部屋の扉の前に、小さな紙袋がいくつか置かれていた。担当の子たちが、置いていったのだろう。
右から二番目の扉の前で、スティルは立ち止まった。
扉の前には、何も置かれていなかった。
あの人の担当は、今は自分一人だけだった。三月までは。
スティルは、鞄から箱を取り出して、両手で持った。それから、深く息を吸って、扉を叩いた。
「……どうぞ」
扉を開けると、雅也が、窓際に立っていた。
机ではなく、窓際だった。窓の外の練習場を、見下ろしていた。夕方の光が、窓ガラス越しに、雅也の横顔を斜めに照らしていた。
スティルが入っていくと、雅也は窓から振り返った。
それから、スティルの手の中の箱を見た。
ほんの一瞬、雅也の表情が止まった。止まって、それから、少しだけ緩んだ。驚いたのではなかった。来ることは、分かっていたはずだった。四年間、毎年、この日に来ていたのだから。それでも、実際に箱を見たときに、何かが表情に出た。
「……今年も」
「……はい。……今年も、です」
スティルは、箱を両手で差し出した。
雅也は、窓際から歩いてきて、箱を受け取った。両手で。四年前から、ずっとそうだった。この人は、自分が渡すものを、いつも両手で受け取る。
雅也は、箱の赤いリボンを見下ろした。
結び目のところで、視線が止まった。
「……十一月と、同じリボンだな」
「……はい」
「……結び目が、きつい」
スティルは、頬が熱くなるのを感じた。
「……ほどけないように、です」
「……そうか」
雅也は、箱を机の上に置いて、リボンには手をかけなかった。いつもなら、その場で開けて、一つ食べた。今年は、すぐには開けなかった。
その代わりに、電気ケトルのスイッチを入れた。
手回しの器械に、豆を入れた。ハンドルを回し始めた。ごりごりと、低い音が部屋に響いた。
スティルは、いつもの椅子に座った。
豆を挽く音を聞きながら、スティルは、膝の上で手を重ねた。
言おう、と思っていた言葉があった。
四年間、この日に箱を渡すとき、いつも、何か一言だけ添えたいと思っていた。いつもお世話になっています、とか。いつもありがとうございます、とか。けれど、毎年、言えなかった。箱を差し出すだけで、精一杯だった。
今年は、言おうと思っていた。
感謝の言葉ではなかった。
もっと、当たり前のこと。自分にとっては、当然のこと。
電気ケトルの湯が沸いた。雅也が、ドリッパーに湯を注ぎ始めた。粉が膨らんで、香りが立った。深煎りの、苦くて香ばしい香り。
雅也は、カップを二つ持ってきて、一つをスティルの前に置いた。それから、机の上の箱のリボンを、ようやくほどいた。
ほどくのに、わずかに時間がかかった。結び目がきつかったから。雅也は、何も言わずに、指先で根気よく結び目を緩めた。
蓋を開けると、焦がしバターの香りが、コーヒーの香りと混じり合った。
雅也は、一つを取り出して、しばらく眺めていた。
「……色が、少し違う」
スティルは、カップを持ち上げかけて、止めた。
「……縁が、去年より深い」
「……はい。……少しだけ、焼き時間を、変えました」
「……そうか」
雅也は、フィナンシェを口に運んだ。
噛んで、しばらく、何も言わなかった。目を少しだけ伏せて、ゆっくりと噛んでいた。味を確かめているときの顔だった。レースの映像を見返しているときと、同じ顔。
「……香ばしい。……でも、去年より、少しだけ苦い。……いい苦さだ」
スティルは、カップを両手で包んだ。
「……バターを、少しだけ、深く焦がしました」
「……ああ。それだ」
雅也は、残りの半分を口に入れた。
それから、コーヒーを一口飲んだ。
「……コーヒーに、合う。……去年より」
スティルは、俯いた。
去年より、コーヒーに合う。
それを狙ったわけではなかった。けれど、そう言われてみると、そうだったのかもしれない、と思った。四年間、この部屋で、この人のコーヒーと一緒に、自分の焼き菓子を食べてきた。いつの間にか、自分の手が、この人のコーヒーの苦さを覚えていたのかもしれない。
スティルは、カップを机に置いた。
今だ、と思った。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……来年も、……再来年も、……お渡し、しますね」
言い終えてから、スティルは、自分の声が思ったより落ち着いていたことに驚いた。
当然のことを言う声だった。明日も朝が来る、というのと同じ調子の。来年の二月十四日にも、再来年の二月十四日にも、自分はこの人に焼き菓子を渡す。それは、約束でも、お願いでもなかった。ただの、予定だった。自分の人生の、白い時間割の、ずっと先のほうに、最初から書き込まれている予定。
けれど、声が落ち着いていたのとは裏腹に、顔は、どうしようもなく熱かった。耳の先まで、熱くなっているのが分かった。
雅也は、カップを持ったまま、動かなかった。
部屋の中が、静かになった。
窓の外で、練習場の照明が、一つ点いた。後輩たちの掛け声が、遠く、かすかに聞こえた。
雅也は、カップをゆっくりと机に置いた。
置いて、しばらく、スティルの顔を見ていた。
何かを言いかけて、やめた。口元が、一度だけ、わずかに動いた。動いて、止まった。この人が、言葉を選んでいるときの顔だった。選んで、選び直して、それでもまだ足りなくて、何度も選び直しているときの顔。
スティルは、待った。
十二月の縁側でも、待った。あのときよりは、怖くなかった。
やがて、雅也が、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
それから、間を置いた。
「……受け取る」
短い言葉だった。
スティルは、その言葉を、胸の中で、もう一度繰り返した。
――受け取る。
ありがとう、だけではなかった。受け取る、と言った。今日の箱を、ではなかった。来年も、再来年も、という言葉を。
答えたのではなかった。あの人は、十二月の夜の約束を、ちゃんと守っていた。今は答えない、と言った。答えないまま、受け取る、とだけ言った。
でも、受け取ってくれた。
来年も、再来年も、という未来を、あの人は、押し返さなかった。
スティルの口元が、自然にほころんだ。
笑った、と自分でも分かった。手鏡で練習した笑顔ではなかった。引退式の写真のときと、同じ笑い方だった。勝手に、顔がほころぶ笑い方。
雅也は、スティルの笑顔を見て、少しだけ目を細めた。
それから、視線を逸らして、箱の中から、もう一つフィナンシェを取り出した。
「……二つ目、食べていいか」
「……はい。……全部、トレーナーさんのですから」
「……全部は、多い。……一つ、食べないか」
雅也は、箱をスティルのほうへ、押した。
スティルは、箱の中を見下ろした。残り四つ。去年までは、こんなふうに勧められたことはなかった。あの人は、いつも一人で、六つ全部を、何日かに分けて食べていた。
「……では、一つだけ」
スティルは、箱から一つ取り出した。
二人で、同じ焼き菓子を食べた。
縁の香ばしさと、わずかに深い苦さが、コーヒーと一緒に、口の中で溶けていった。
トレーナー室を出たのは、六時を少し過ぎた頃だった。
廊下の窓の外は、もう暗かった。練習場の照明が、全部点いていた。冷たい光の中を、後輩たちが走っていた。
スティルは、階段を下りながら、自分の手を見た。
両手とも、空っぽだった。箱を渡して、何も持っていない手。それなのに、何かを受け取って帰るような気がした。
――受け取る。
あの人は、そう言った。
受け取った、ではなかった。受け取る。これからも。来年も、再来年も。
トレーナー棟の玄関を出ると、冷たい夜気が、頬を撫でた。熱かった顔が、少しずつ冷えていった。
空を見上げた。
丸い月が、東の空の低いところから昇りかけていた。昨夜が、満月だった。まだほとんど欠けていない、大きな月。
スティルは、その月を、少しのあいだだけ、まっすぐに見上げた。
いつもより、少しだけ長く。満ちた月を見上げて、胸の奥が騒がないことを、静かに確かめるように。
寮の部屋に戻ると、ネオユニヴァースが、机に向かって何かの計算をしていた。スティルが入ってくると、計算の手を止めずに言った。
「……“着陸”、成功?」
「……着陸、ですか」
「“探査機”、無事に届いた?」
スティルは、鞄を床に置いて、ベッドの端に座った。
「……届きました。……受け取る、って、言われました」
ネオユニヴァースの手が、止まった。
振り返って、スティルの顔を見た。しばらく見て、それから、また机に向き直った。
「……“受信確認”。……いい信号」
「……はい」
「……でも、“返信”は、まだ」
「……はい。……三月まで、です」
「……アファーマティブ」
ネオユニヴァースは、計算の続きを書き始めた。ペンの音が、静かな部屋の中に、さらさらと響いた。
スティルは、ベッドに仰向けになった。
天井を見上げながら、指を折って数えた。
卒業式まで、あと三週間と少し。
契約が終わるまで、あと、もう少し。
数えながら、スティルは、自分の口元がまたほころんでいることに気づいた。気づいて、両手で顔を覆った。
隣の机で、ネオユニヴァースのペンの音が、一瞬だけ止まって、また動き出した。
第十一章 空けていく棚
二月の終わりの、雨の日だった。
朝から降り続いた細い雨は、放課後になっても止まなかった。トレーナー棟の階段の窓ガラスに、雨粒が斜めに筋を引いていた。踊り場の床に、誰かの傘から落ちた水滴が、小さな水たまりを作っていた。スティルインラブは、それを避けて、三階まで上がった。
腕に、空の紙袋を二つ提げていた。
卒業式まで、あと十日だった。寮の部屋の荷物は、少しずつ箱に詰め始めていた。けれど、片付けなければならない場所は、寮の部屋だけではなかった。
右から二番目の扉を叩くと、いつものように、どうぞ、と声がした。
雅也は、机に向かって書類を書いていた。スティルが提げている紙袋を見て、ペンを止めた。何のための袋なのか、訊かなくても分かったようだった。目を伏せて、それから、ペンを置いた。
「……今日か」
「……はい。……少しずつ、持って帰ろうと思って」
雅也は、何も言わずに頷いた。立ち上がって、電気ケトルに水を入れた。
四年間で、この部屋には、自分のものが、ずいぶん増えていた。
最初は、何もなかった。担当契約を結んだばかりの頃、この部屋にあるものは、全部あの人のものだった。机も、本棚も、資料の山も、電気ケトルも、手回しの器械も。自分は、この部屋の中では、ただ椅子に座っているだけの客だった。
それが、いつの間にか、少しずつ変わっていった。
窓際の棚の、一番下の段。そこに、自分のカップが置かれるようになったのは、一年目の秋だった。それまでは、来客用の白いカップでコーヒーを飲んでいた。ある日、部屋に来ると、棚の一番下に、見覚えのないカップが一つ置かれていた。厚手の、淡い灰色の陶器。取っ手が、少しだけ小さめに作られていた。
――……それ、君の。
あの人は、資料から顔を上げずに、そう言っただけだった。どこで買ったのかも、どうして選んだのかも、言わなかった。スティルも、訊かなかった。訊いたら、あの人は困った顔をするだろうと思った。だから、ありがとうございます、とだけ言って、そのカップでコーヒーを飲んだ。取っ手が、自分の指に、ちょうどよく収まった。
同じ棚の二段目には、ジャムの瓶が並んでいた。
赤い果実のジャム。苺、木苺、クランベリー。寮の調理室で煮て、ラベルに日付を書いて、この部屋に持ってきた。あの人は、朝のトーストに塗るのだと言って、いつも一瓶ずつ持って帰った。空になった瓶は、きれいに洗って、この棚に戻してくれた。空き瓶が三つ溜まると、自分が寮に持ち帰って、また新しいジャムを詰めて持ってきた。四年間、その繰り返しだった。
机の脇の、小さな引き出しの一つには、焼き菓子を入れておく缶が入っていた。
それから、部屋の隅の、資料の山の陰に、ボビンレースの台が一つ置かれていた。この部屋で編むための台だった。編むたびに、糸が絡まった。絡まった糸をほどいているうちに、あの人のコーヒーが冷めてしまったことも、一度や二度ではなかった。それでも、台は、ずっとこの部屋に置いたままにしていた。
全部、持って帰らなければならなかった。
スティルは、まず、ボビンレースの台から片付けることにした。
資料の山の陰から、台を引き出した。台の上には、編みかけのレースが、ピンに留められたまま残っていた。最後にこの部屋で編んだのは、去年の秋、京都へ発つ前の週だった。白い糸の、小さな花の模様。三段目の途中で、糸が絡まって、そのまま手を止めていた。
スティルは、台を膝の上に置いて、絡まった糸を見下ろした。
四か月、絡まったままだった。
ほどこうか、と思った。ほどいて、続きを編んで、完成させてから持って帰ろうか、と。
指を伸ばして、絡まった糸の端に触れた。
背中のほうで、ごりごりと豆を挽く音がしていた。あの人が、コーヒーを淹れようとしていた。
指先が、少しだけ、ぎこちなくなった。
四年経っても、同じだった。あの人が同じ部屋にいると、指が、思うように動かない。
スティルは、糸から指を離した。
ほどかないことにした。
絡まったまま、ピンを一本ずつ抜いて、編みかけのレースを、そっと台から外した。小さな、白い、未完成の花。三段目の途中で、糸が絡まったまま止まっている花。
それを、和紙で包んで、紙袋の底に入れた。
この部屋で編んだものは、全部、こうだった。どれも、途中で絡まって、完成しなかった。完成したのは、寮の部屋で、一人で編んだものだけだった。
けれど、この絡まった花も、捨てたくなかった。
この部屋で、あの人の豆を挽く音を聞きながら、指をもつれさせていた時間。それも、自分の四年間だった。
「……コーヒー」
雅也が、机の端にカップを置いた。
淡い灰色の、取っ手の小さなカップだった。
スティルは、台を床に置いて、いつもの椅子に座った。カップを両手で包んだ。
雨の日の部屋は、いつもより暗かった。窓の外の空は、低く、重い灰色だった。練習場の照明が、まだ夕方なのに、もう点いていた。雨の中を、何人かの後輩たちが、合羽を着て走っていた。濡れた芝の上で、靴が水を跳ね上げていた。
「……台、持っていくのか」
「……はい」
「……編みかけのやつは」
「……絡まったまま、持って帰ります」
雅也は、自分のカップを持って、机の椅子に座った。
少しのあいだ、何も言わなかった。それから、床の上の台を見下ろした。
「……一度も、完成しなかったな。この部屋で編んだのは」
スティルは、カップを持ち上げかけた手を、止めた。
見ていたのだ、と思った。
四年間、この人は、自分が糸を絡ませるのを、何度も見ていた。見ていて、一度も、何か言ったことはなかった。手伝おうか、とも、どうして絡まるんだ、とも。ただ、自分がほどき終わるまで、黙ってコーヒーを飲んでいた。
「……はい」
「……俺がいると、やりにくかったか」
スティルは、カップを膝の上に下ろした。
どう答えればいいのか、分からなかった。
やりにくかった。それは本当だった。けれど、やりにくかった理由は、この人が思っているような理由ではなかった。邪魔だったのでも、見られて緊張したのでもなかった。
この人が同じ部屋にいると、指先まで、意識がこの人のほうへ引っ張られていった。耳が、豆を挽く音や、ページをめくる音や、カップを置く音を、一つずつ拾ってしまった。拾うたびに、指が、糸の順番を一つずつ忘れた。
それを、どう言えばいいのか。
「……やりにくかった、のでは、なくて」
スティルは、言葉を探した。
「……ほかのことに、気を取られて、……しまって」
「……ほかのこと」
「……はい」
それ以上は、言えなかった。
頬が、熱くなった。
雅也は、しばらくスティルの顔を見ていた。それから、ふっと視線を窓の外へ逸らした。
「……そうか」
それだけ言って、コーヒーを一口飲んだ。
スティルには、この人が、何をどこまで分かったのか、分からなかった。分かったのかもしれないし、分からなかったのかもしれない。けれど、この人は、それ以上は訊かなかった。
訊かないまま、窓の外の雨を見ていた。
カップを空にしてから、スティルは、窓際の棚の前に立った。
二段目の、ジャムの瓶。
中身の入った瓶が、一つ。空き瓶が、二つ。
中身の入った瓶は、木苺のジャムだった。去年の夏に煮たもの。ラベルに、煮た日付が書いてあった。自分の字だった。
この人の分の瓶だけ、ラベルの字が、少しだけ震えている。
自分では、そう思っていた。寮の調理室で、何十本も瓶にラベルを貼ってきた。自分の分や、ネオユニヴァースの分や、父に送る分は、まっすぐに書けた。この人の分だけ、どうしても、ペン先が揺れた。
この人は、それに気づいているのだろうか。
スティルは、空き瓶を二つ、紙袋に入れた。
それから、中身の入った瓶に、手を伸ばした。
伸ばして、止まった。
「……それは、置いていってくれないか」
背中のほうから、雅也の声がした。
スティルは、振り返った。
雅也は、机の椅子に座ったまま、こちらを見ていた。ほんの少し、気まずそうな顔をしていた。
「……まだ、半分しか食べてない。……三月中に、食べ切る」
「……はい」
スティルは、瓶から手を離した。
木苺のジャムの瓶は、棚の二段目に、一つだけ残った。
「……食べ終わったら、瓶、どうすればいい」
「……どう、とは」
「……いつもは、洗って、ここに戻してた。……でも、三月が終わったら、君は、もうこの部屋に来ない」
スティルは、棚の前に立ったまま、少しだけ俯いた。
そうだった。
三月が終わったら、自分は、もう担当ではない。この部屋に来る理由は、なくなる。空き瓶を三つ溜めて、寮に持ち帰って、新しいジャムを詰めて、また持ってくる。その繰り返しは、三月で終わる。
終わる、はずだった。
「……洗って、取っておいてください」
スティルは、顔を上げずに言った。
「……いつか、また、詰めますから」
雅也は、何も言わなかった。
雨の音が、窓ガラスを、細かく叩いていた。
「……分かった。……取っておく」
短い返事だった。
スティルは、顔を上げなかった。上げたら、この人の顔を見てしまう。見てしまったら、自分の顔も、見られてしまう。
代わりに、棚の一番下の段に、手を伸ばした。
淡い灰色の、取っ手の小さなカップ。
さっきまで、コーヒーを飲んでいたカップだった。洗って、棚に戻されていた。
スティルは、カップを手に取った。
持って帰らなければならなかった。この部屋の、自分のものは、全部。
手の中で、カップは、重かった。陶器の、ざらりとした手触り。取っ手の、指に馴染む小ささ。四年間、何百回も、この取っ手に指を通してきた。
「……それも、持っていくのか」
雅也の声が、わずかに低かった。
「……はい。……私のもの、ですから」
「……そうだな」
雅也は、それきり黙った。
スティルは、カップを和紙で包もうとして、手を止めた。
包んで、紙袋に入れて、寮に持って帰って、それから、四月からの新しい部屋の棚に置く。そこで、自分でコーヒーを淹れて、このカップで飲む。
それは、きっと、この部屋で飲むコーヒーとは、違う味がする。
スティルは、カップを持ったまま、しばらく動かなかった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……四月から、……この部屋に来る、新しい方」
雅也が、少しだけ身じろぎした。
「……その方の、カップも、……用意されるんですか」
言ってから、スティルは、自分が何を訊いたのか、気づいた。
頬が熱くなった。こんなことを訊くつもりではなかった。訊いて、何になるのだろう。新しい担当の子にも、この人はきっと、何かを用意する。自分のときと同じように、何も言わずに、棚の一番下に置いておく。それが、この人のやり方だった。
雅也は、すぐには答えなかった。
しばらくして、椅子から立ち上がった。窓際の棚の前まで歩いてきて、スティルの隣に立った。棚の一番下の段を、見下ろした。
「……来客用の白いのが、ある」
「……」
「……それで、しばらく様子を見る。……その子が、この部屋で、どういうふうにコーヒーを飲むのか、分かるまで」
雅也は、棚の一番下の、空いた場所を見ていた。
「……君のときも、そうだった。……半年、見てた」
スティルは、手の中のカップを見下ろした。
半年。
一年目の秋に、このカップが棚に置かれた。担当契約を結んだのは、春だった。半年。
この人は、半年かけて、自分がどんなふうにカップを持つのか、見ていたのだ。両手で包むこと。指が短いこと。取っ手に、指を一本しか通さないこと。
それから、このカップを選んだ。
「……新しい方にも、……そうしてあげてください」
スティルは、カップを和紙で包んだ。
ゆっくりと、丁寧に。
「……その方に、ちょうどいいカップを」
雅也は、何も言わなかった。
隣で、少しだけ、息を吐く音がした。
紙袋が二つ、いっぱいになった。
ボビンレースの台と、絡まったままの花。空き瓶が二つ。焼き菓子の缶。それから、和紙に包んだ、灰色のカップ。
スティルは、紙袋を両手に提げて、扉の前に立った。
振り返って、部屋の中を見た。
窓際の棚の、一番下の段が、空いていた。二段目には、木苺のジャムの瓶が、一つだけ残っていた。資料の山の陰には、もう何もなかった。
四年間で、少しずつ、この部屋に置いていったものが、全部なくなった。ジャムの瓶、一つを除いて。
それでも、この部屋は、この部屋のままだった。
机も、本棚も、資料の山も、電気ケトルも、手回しの器械も。全部、あの人のもの。最初に来たときと、同じ部屋。
ただ、空いた棚の一番下の段だけが、自分がここにいたことを、静かに覚えているような気がした。
「……卒業式の後で」
雅也が、机の椅子に座ったまま言った。
「……契約の終わりの書類、ここで、一緒に確認することになる。……その日は、来てくれ」
「……はい」
「……カップは、……その日だけ、来客用ので我慢してくれ」
スティルは、少しだけ笑った。
「……はい。……白いので、我慢します」
雅也も、笑った。
扉を開けた。
廊下は、薄暗かった。窓の外の雨は、わずかに弱くなっていた。
「……お疲れさまでした」
「……ああ。……気をつけて帰れ。雨だから」
スティルは、頭を下げて、扉を閉めた。
階段を下りながら、スティルは、紙袋の中の重さを、両手で感じていた。
カップの重さ。空き瓶の重さ。台の重さ。
そして、棚に残してきた、木苺のジャムの瓶。
――いつか、また、詰めますから。
自分で言った言葉を、心の中で、もう一度繰り返した。
いつか。
それが、いつなのか。どこでなのか。この部屋でなのか、別のどこかでなのか。
まだ、分からなかった。
けれど、あの人は、取っておく、と言った。
トレーナー棟の玄関で、傘を開いた。
雨の音が、傘の布を、ぱらぱらと叩いた。
スティルは、紙袋を片手にまとめて、もう片方の手で傘を持って、寮のほうへ歩き出した。
濡れた舗道に、練習場の照明が、白く滲んで映っていた。
その光の中を、ゆっくりと歩いた。
第十二章 一度も絡まなかった糸
卒業式の前夜、スティルインラブは、消灯時刻を過ぎても眠れなかった。
部屋の灯りは消えていた。机のスタンドだけが、小さく、橙色の光を落としていた。光の輪の中に、木の台が一つ置かれていた。ボビンレースを編むときに使う、丸いクッションのような台。その上に、何十本ものピンが刺さり、ピンのあいだを、白い糸と、ほんの少しだけ赤い糸が、細かく交差していた。
栞は、もう、ほとんど出来上がっていた。
あとは、最後の一段を編んで、糸を留めて、ピンを抜くだけだった。
スティルは、台の前に座って、木のボビンを両手に持った。細長い、指ほどの長さの糸巻き。四年前、学園の近くの手芸店で、少しずつ買い揃えたものだった。持ち手の部分が、何年も使ううちに、指の形に合わせて少しだけ艶を帯びていた。
ボビンを、そっと交差させた。
かち、と、木と木が触れ合う、小さな音がした。
隣のベッドで、ネオユニヴァースが、寝返りを打った。スティルは、手を止めて、待った。ネオユニヴァースの寝息が、また静かに整っていくのを聞いてから、もう一度、ボビンを動かした。
かち。かち。
交差させて、ねじって、ピンを一本刺して、また交差させる。
手が、勝手に動いた。四年間、何百回、何千回と繰り返してきた動きだった。どのボビンを、どの順番で、どちらに回すのか。考えなくても、指が覚えていた。
この栞を編み始めたのは、四年前の、春の終わりだった。
担当契約を結んで、まだ二か月も経っていなかった。トレーナー室で、あの人の前でボビンレースを編もうとして、糸が絡まった。何度やり直しても、絡まった。あの人がコーヒーを淹れている音を聞きながら、ボビンを動かそうとすると、指先が、どうしてもうまく動かなかった。
寮に帰って、一人で編むと、一度も絡まなかった。
不思議だった。どうしてあの人の前だと、こんなに手元が乱れるのか。緊張しているのだと思った。見られているから、と。けれど、あの人は、自分の手元を見てはいなかった。コーヒーを淹れながら、資料を読みながら、窓の外の練習場を見ながら、ただ、同じ部屋にいるだけだった。
同じ部屋にいるだけで、糸が絡まった。
その理由を、十四歳のスティルは、うまく説明できなかった。説明できないまま、ある晩、寮の部屋で、新しい糸を台に張った。何を編むのかは、決めていなかった。ただ、あの人のことを考えながら、編んでみようと思った。あの人の前で絡まる糸が、あの人のことを考えながらでも絡まるのかどうか、確かめてみたかった。
絡まらなかった。
あの人のことを考えていても、あの人がそこにいなければ、糸は一度も絡まなかった。
その晩に編んだのが、この栞の、最初の三段だった。
それから、四年間。
レースの前の晩に、少しだけ。レースのあとの晩に、。うまく走れた日にも、うまく戻れなかった日にも。満月の夜にカーテンを閉めたあとで、眠れないまま、わずかに。あの人に名前を呼ばれて戻ってきた日の夜に、少しだけ。
毎日ではなかった。何週間も、台に触れない時期もあった。けれど、台は、いつも机の引き出しの奥に仕舞ってあった。そして、何か、胸の中に置き場所のない気持ちが溜まったときに、そっと取り出して、編み進めた。
途中で、模様を変えた。
最初は、白い糸だけで、蔓草の模様を編んでいた。細い茎が、ゆるやかに曲がりながら伸びていく模様。二年目の秋に、その蔓に、小さな花をつけることにした。花を編むために、赤い糸を一本だけ加えた。白い蔓の、ところどころに、赤い、小さな花が咲いていく模様。
なぜ赤を加えたのか、そのときは、自分でもよく分からなかった。
今は、分かる気がした。
瞳の奥に灯る紅。勝負服を着るたびに塗った、左手の薬指の爪。あの人の誕生日に結んだ、細いリボン。それから、自分が煮る、赤い果実のジャム。
白い蔓だけでは、自分ではなかった。赤い花が咲いて、はじめて、自分になった。
最後の一段を、編み終えた。
スティルは、ボビンを台の上に置いて、両手を膝の上に下ろした。指先が、少しだけ痺れていた。
スタンドの光の中で、栞を見下ろした。
細長い、白いレースだった。幅は、指二本ぶんくらい。長さは、手帳の縦の長さより、短い。白い蔓草が、下から上へ、ゆるやかに曲がりながら伸びていた。蔓のところどころに、赤い小さな花が咲いていた。最初の三段の、わずかに硬い編み目から、最後の一段の、ほどけるように柔らかい編み目まで。四年分の、手の変化が、全部そこに残っていた。
一度も、絡まなかった。
四年間、一度も。
スティルは、ピンを一本ずつ、丁寧に抜いていった。
ピンを抜くたびに、レースが、少しずつ台から離れていった。最後の一本を抜いたとき、栞は、ふわりと、台の上で軽くなった。
両手で、そっと持ち上げた。
軽かった。四年分の重さが、どこにもなかった。指先に、糸の細かな凹凸が、かすかに触れるだけだった。
スティルは、栞を、用意しておいた薄い和紙で包んだ。それから、小さな封筒に入れた。封筒の表には、何も書かなかった。
卒業式の朝は、薄曇りだった。
三月の空は、冬の空よりも白っぽく、ぼんやりとしていた。風はまだ冷たかったけれど、その冷たさの奥に、どこか柔らかいものが混じっていた。中庭の沈丁花が、小さな花を開き始めていた。寮の玄関を出ると、甘く、少しだけ鼻の奥を刺すような香りがした。
実家の玄関の脇にも、同じ花の株があったことを、スティルは思い出した。
講堂には、卒業生と、在校生と、家族と、教職員が集まっていた。
スティルは、卒業生の席の、端のほうに座っていた。隣には、ネオユニヴァースがいた。少し離れた列に、アルヴさんの横顔が見えた。背筋を伸ばして、まっすぐ前を見ていた。
保護者席の後方に、父の姿があった。いつものコートではなく、黒いスーツを着ていた。
教職員の席の、一番後ろの列に、あの人がいた。
スーツを着ていた。引退式のときと同じ、黒いスーツと、紺色のネクタイ。周りのトレーナーたちと並んで、静かに座っていた。
式が始まった。
理事長の挨拶。来賓の祝辞。在校生の送辞。卒業生の答辞。一つずつ、決められた順番で、進んでいった。
スティルは、そのどれも、半分くらいしか聞いていなかった。
膝の上に置いた手の中に、小さな封筒があった。制服のポケットに入れておくつもりだったけれど、結局、式のあいだも、ずっと手の中に持っていた。封筒の角が、手のひらに、かすかに当たっていた。
卒業証書の授与のとき、名前を呼ばれた。
「スティルインラブ」
はい、と答えて、立ち上がった。
壇上へ向かって歩いた。講堂の床が、足の下で、かすかに鳴った。たくさんの視線が、自分に向けられているのが分かった。
壇上で、理事長から証書を受け取った。頭を下げて、受け取って、また頭を下げた。
壇を下りるとき、講堂の後ろのほうを、見た。
教職員の席の一番後ろで、あの人が、こちらを見ていた。
目が合った。
あの人は、何もしなかった。頷きもしなかった。ただ、まっすぐに、こちらを見ていた。
スティルは、目を逸らさずに、壇を下りた。
式が終わると、講堂の外は、人で溢れた。
卒業生と家族が、あちこちで写真を撮っていた。花束を抱えた在校生が、先輩を探して走り回っていた。笑い声と、泣き声と、名前を呼ぶ声が、混じり合って、三月の白い空に溶けていった。
スティルは、父と少しだけ話した。
父は、卒業証書の筒を見て、目を細めた。それから、おめでとう、と言った。それだけだった。それだけで、十分だった。
「……父さん。……少しだけ、待っていてもらえますか」
「……ああ。正門のところにいるよ」
父は、それ以上は何も訊かずに、人混みの中を、正門のほうへ歩いていった。
スティルは、講堂の脇の、銀杏の並木のほうへ歩いた。
人混みから少し離れた場所だった。葉のない銀杏の枝が、白い空に細い線を描いていた。並木の根元に、まだ去年の秋の落ち葉が残っていた。
あの人は、そこにいた。
並木の、三本目の木の下に、一人で立っていた。
探さなくても、分かった。四年間、この人は、いつも、人混みからわずかに離れた場所にいた。レースのあとの表彰式でも、学園の行事でも。主役のいる場所から、半歩だけ外れた場所に。
スティルは、雅也の前で立ち止まった。
「……卒業、おめでとう」
雅也が、先に言った。
「……ありがとう、ございます」
スティルは、頭を下げた。
頭を上げると、雅也が、こちらを見ていた。スーツの肩に、銀杏の枝の影が、細く落ちていた。
「……答辞、ネオユニヴァースだったな」
「……はい」
「……途中で、一回、星の話になった」
「……はい。……原稿には、なかったそうです」
「……そうだろうな」
雅也は、少しだけ笑った。
スティルも、笑った。
それから、手の中の封筒を、両手で持ち直した。
封筒の角が、わずかに手のひらの汗で湿っていた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……これを、受け取って、いただけますか」
スティルは、封筒を差し出した。
雅也は、封筒を見下ろした。何も書かれていない、白い封筒。
両手で、受け取った。
「……開けていいか」
「……はい」
雅也は、封筒の口を開けて、中から和紙の包みを取り出した。和紙を、ゆっくりと開いた。
栞が、雅也の手のひらの上に、現れた。
白い蔓草と、赤い小さな花。
雅也は、しばらく、何も言わなかった。
手のひらの上の栞を、じっと見ていた。指先で、触れようとして、触れなかった。触れたら壊れてしまうものを見るような目だった。
「……ボビンレース」
「……はい」
「……君が、編んだのか」
「……はい」
スティルは、膝の前で手を重ねた。
言おうと思っていたことが、喉の奥に、たくさんあった。いつから編み始めたのか。どんな夜に、少しずつ編み進めたのか。なぜ、赤い糸を加えたのか。
けれど、それを全部言うつもりはなかった。全部言ってしまったら、この栞に編み込んだものが、言葉の中に溶けて、消えてしまうような気がした。
だから、一つだけ、言うことにした。
「……トレーナーさんのいないところで、……少しずつ、編みました。……四年間」
雅也の指先が、ほんの動いた。
「……一度も、糸が、絡まなかったんです」
スティルは、そこで言葉を切った。
トレーナー室で、何度も、この人の前で糸を絡ませた。この人は、それを見ていた。見ていて、何も言わなかった。絡まった糸を、自分がほどくのを、黙って待っていてくれた。
この人の前では、いつも絡まった。
この人のいないところでは、一度も絡まなかった。
その意味を、この人がどう受け取るのか、スティルには分からなかった。分からなくて、いいと思った。この人が分からなくても、自分は分かっていた。四年間、ずっと。
雅也は、栞から顔を上げた。
スティルの顔を見た。
何かを言いかけた。口が、少しだけ開いた。
そして、閉じた。
言わなかった。
スティルには、それが分かった。十二月の縁側で、この人は、今は答えない、と言った。卒業して、契約が終わったら、ちゃんと答える、と。卒業は、今日だった。けれど、契約は、まだ終わっていなかった。この人は、まだ自分のトレーナーだった。
だから、言わなかった。
言わないまま、雅也は、スーツの内ポケットから、黒い手帳を取り出した。
四年間、毎日見てきた手帳だった。練習の記録も、レースの作戦も、自分の体調の変化も、全部この中に書かれていた。角が擦り切れて、表紙の革が、手の形に馴染んでいた。
雅也は、手帳を開いた。
どの頁を開いたのか、スティルには見えなかった。
開いた頁のあいだに、栞を、そっと挟んだ。
白い蔓と、赤い花が、手帳の頁のあいだに、ゆっくりと沈んでいった。最後に、栞の先の、細い房のような糸の端だけが、手帳の上辺から、わずかに覗いていた。
雅也は、手帳を閉じた。
閉じた手帳を、しばらく、両手で持っていた。
それから、内ポケットに戻した。胸の、左側。
「……ありがとう」
それだけだった。
答えではなかった。栞を受け取った、という礼だった。
スティルは、それで十分だと思った。
あの人の手帳の中に、今、自分の栞がある。毎日開く手帳の、どこかの頁に。これから先、あの人が手帳を開くたびに、白い蔓と赤い花が、そこにある。
それが、答えの代わりだった。
答えではなくて、答えを待つあいだの、目印。
「……はい」
スティルは、頭を下げた。
頭を上げると、雅也が、少しだけ視線を逸らしていた。並木の枝の向こうの、白い空を見ていた。耳の端が、ほんの少しだけ、赤くなっているように見えた。
この人が照れているところを見るのは、珍しかった。
スティルは、何も言わなかった。言ったら、この人はきっと、もっと困った顔をするだろう。それも見てみたい気がしたけれど、今日は、やめておくことにした。
「……お父さん、待ってるだろ」
「……はい」
「……行ってやれ」
「……はい」
スティルは、もう一度頭を下げて、並木道を、正門のほうへ歩き出した。
五歩ほど歩いて、立ち止まった。
振り返った。
雅也は、まだ三本目の銀杏の下に立っていた。右手が、スーツの胸の、左側に、そっと当てられていた。内ポケットの、手帳があるあたり。
スティルが振り返ったのに気づいて、雅也は、慌てたように手を下ろした。
スティルは、小さく笑った。
それから、前を向いて、また歩き出した。
正門のところで、父が待っていた。
「……済んだかい」
「……はい」
「……そうか」
父は、それ以上は訊かなかった。
二人で、正門を出た。学園の外の歩道に、春の、まだ冷たい風が吹いていた。
スティルは、一度だけ、学園を振り返った。
正門の向こうに、校舎があった。寮があった。練習場があった。トレーナー棟があった。三階の、右から二番目の窓。
四年間を過ごした場所だった。
卒業した。
もう、生徒ではなかった。
けれど、まだ、あの人の担当だった。
あと、少しだけ。
第十三章 書類の上の終わり
卒業式から十日が過ぎた朝、早瀬雅也は、いつもより三十分早くトレーナー棟に着いた。
三月の終わりの朝は、もう冬の朝ではなかった。駐車場に車を停めて外に出ると、空気の中に、湿った土の匂いが混じっていた。練習場の脇の植え込みで、雪柳が白く咲いていた。風が吹くたびに、細い枝が揺れて、小さな花びらが、ぱらぱらと舗道に散った。
階段を三階まで上がり、右から二番目の扉の鍵を開けた。
部屋の中は、冷えていた。窓を細く開けて、空気を入れ替えた。それから、いつものように、電気ケトルに水を入れて、スイッチを押した。
湯が沸くまでのあいだ、雅也は机の前に立って、机の上に置かれた一通の封筒を見下ろした。
学園の事務局から届いた封筒だった。中には、担当契約の終了に関する書類が入っていた。昨日の夕方、たづなから直接手渡されたものだった。
「……明日の午前中に、スティルインラブさんと、お二人でご確認ください。署名をいただいて、事務局にご提出いただければ、手続きは完了です」
たづなは、いつもの穏やかな声でそう言った。それから、わずかに間を置いて、付け加えた。
「……四年間、お疲れさまでした」
雅也は、短く頭を下げた。
「……走ったのは、彼女です」
たづなは、何も言わずに、少しだけ微笑んだ。
湯が沸いた。
雅也は、豆の袋を開けて、手回しの器械に豆を入れた。ハンドルを回すと、ごりごりと、低い音がした。
この器械を買ったのは、トレーナーになって二年目の冬だった。サブトレーナーとして働いていた頃、先輩のトレーナーの部屋で飲んだコーヒーが、驚くほどおいしかった。どうやって淹れているのか訊くと、豆を挽くところから自分でやっている、と言われた。翌週、同じ器械を買った。最初の数か月は、何度淹れても、先輩の部屋で飲んだ味にはならなかった。粉が細かすぎたり、湯の温度が高すぎたり、注ぐのが早すぎたりした。
料理は、今でもできなかった。カップ麺さえ、待ち切れずに蓋を開けてしまう。けれど、コーヒーだけは、少しずつ、自分の手に馴染んでいった。
四年前、あの子が初めてこの部屋に来た日も、コーヒーを淹れた。
あの子は、カップを両手で包んで、一口飲んで、それから、しばらく何も言わなかった。苦すぎたのかと思った。砂糖を出そうとすると、あの子は小さく首を振って、それから、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
――……おいしい、です。
それから四年間、何百杯淹れたのか、もう数えられなかった。
粉をドリッパーに移して、湯を細く注いだ。
粉が膨らんで、小さな泡が立った。香りが、冷えた部屋の中に、ゆっくりと広がっていった。
雅也は、カップを一つだけ用意した。
あの子が来るのは、十時の約束だった。まだ一時間以上あった。あの子の分は、あの子が来てから淹れればいい。
カップを持って、窓際に立った。
窓の外に、練習場が見えた。春休みの朝の練習場には、まだ誰もいなかった。芝の上に、朝露が光っていた。コースの外ラチの白いペンキが、朝日を受けて、まぶしく光っていた。
十二月の朝、あの子は、あそこで、アドマイヤグルーヴと併走した。
雅也は、この窓から、それを見ていた。
見ていたことを、あの子に言ったのは、その日の午後だった。窓から、ジャージだった、とだけ言った。何を見たのかは、言わなかった。
本当は、全部見ていた。
三コーナーで、アドマイヤグルーヴの呼吸が変わったこと。直線で、あの子が笑ったこと。並んだまま、どちらが前なのか分からないまま、二人が白い線を越えたこと。それから、ラチのそばで、二人が長いあいだ話していたこと。
何を話していたのかは、この窓からは聞こえなかった。あの子が午後に話してくれるまで、分からなかった。
分からなかったことを、雅也は、少しも悔しいと思わなかった。
あの子が、あの子の言葉で話してくれたことのほうが、ずっと大事だった。
雅也は、カップを窓枠に置いて、机に戻った。
机の引き出しを開けた。
一番上の引き出しには、あの子の四年分の記録が入っていた。二十のレースの、一つずつの記録。練習の日誌。体調の変化をまとめた表。それから、引退した直後に、あの子が書いてくれた、二十番目のレースの振り返り。三行だけの、短い文章。
――直線で、笑いました。
――いつもと、違う場所から笑っていた気がします。
――最初から最後まで、私でした。
雅也は、その紙を、あの子の手帳と同じ大きさに揃えて、別の封筒に入れていた。四年分の記録の中で、それだけは、別にしておきたかった。
記録は、今日、事務局に提出する書類と一緒に、学園の資料室に預けることになっていた。担当契約が終われば、記録はトレーナーの手元を離れる。それが決まりだった。
三行の振り返りだけは、預けないつもりだった。
あれは、記録ではなかった。あの子が、自分の言葉で、自分のことを書いたものだった。資料室の棚に並べるものではないと思った。
どうするかは、決めていなかった。あの子に返すのか、自分が持っておくのか。
あの子に、訊けばいい。今日、訊けばいい。
雅也は、スーツの上着の内ポケットから、黒い手帳を取り出した。
卒業式の日から、毎朝、同じことをしていた。手帳を開いて、栞を挟んだ頁を開く。それだけのことだった。
栞を挟んだのは、四年前の、夏の頁だった。
この手帳を使い始めたのは、トレーナーとして独立した年の春だった。仕事の記録と、自分の考えを書きとめるための手帳。最初の頃は、まだ担当がいなかった。だから、最初の数十頁には、他のトレーナーのレースの観察と、学園の行事の予定と、読んだ論文の要約しか書かれていなかった。
その中に、一頁だけ、違うことが書かれた頁があった。
七月の終わりの、蒸し暑い夜の日付。
遅い打ち合わせの帰りに、近道をしようとして、公園を横切った夜だった。高台のほうから、低く、重い足音が聞こえた。一定の間隔で、地面の底を叩くような音。誰が、こんな時間に、こんな走り方をしているのか。見ることを仕事にしている人間の、ただの好奇心で、坂を上った。
満月の下で、小柄なウマ娘が走っていた。
坂を駆け上がり、駆け下り、また駆け上がっていた。笑っていた。
その夜、自分の部屋に帰って、雅也は手帳に書いた。
――公園の高台。満月。小柄なウマ娘。坂の上り下りで、一度もフォームが崩れない。笑っていた。こちらへ来た。速い。目の前で止まった。止まった理由は、分からない。
それから、その下に、一行だけ。
――怖かった。目が離せなかった。
栞は、その頁に挟んであった。
卒業式の日、あの子から栞を受け取って、手帳を開いたとき、雅也は、どの頁に挟むか、考えなかった。考える前に、指が、その頁を開いていた。四年間、何度も読み返した頁だった。開き癖が、ついていた。
白い蔓草と、赤い小さな花。
雅也は、栞には触れずに、頁の上の、四年前の自分の字を見た。
――怖かった。目が離せなかった。
今も、それは変わらなかった。
怖い、の意味は、変わった。四年前は、あの子の本能が怖かった。満月の下で笑いながら走る、あの得体の知れない速さが。今は、もうそれを怖いとは思わなかった。あの子の本能は、あの子の一部だった。あの子が自分で、そう言えるようになった。
今、怖いのは、別のことだった。
自分が、あの子の人生の、どこに立っていいのか。
四年間、トレーナーとして、あの子の隣にいた。半歩うしろ、と言ったほうが正しいかもしれない。ゴールのあとで迎えに行き、名前を呼んで、手を伸ばした。戻ってくるための目印として。
あの子は、もう、目印を必要としなくなった。十一月の京都で、自分で戻ってきた。いや、戻る必要さえなかった。最初から最後まで、あの子は、あの子だった。
目印がいらなくなった人の傍に、自分は、何として立てばいいのか。
十二月の縁側で、あの子は言った。
――これからも、トレーナーさんのお傍にいたい、と。……二人とも、です。
あの言葉を聞いたとき、胸の奥で、何かがほどけた。ほどけたものが何だったのか、雅也は、あのとき、あえて名前をつけなかった。つけたら、答えてしまいそうだった。まだ担当で、まだ生徒だった子に、トレーナーとして、答えてはいけない言葉を。
だから、嬉しかった、とだけ言った。それは、本当のことだった。本当のことの、一番手前の部分だった。
その奥にあるものに、名前をつけることを、三か月以上、自分に禁じてきた。
バレンタインの日に、来年も、再来年も、と言われたときも。卒業式の日に、一度も糸が絡まなかった、と言われたときも。
禁じたまま、受け取る、とだけ言った。ありがとう、とだけ言った。
今日、契約が終わる。
書類に署名をして、事務局に提出すれば、自分は、あの子のトレーナーではなくなる。
そうしたら、もう、禁じる理由はなくなる。
雅也は、手帳を閉じて、内ポケットに戻した。
窓枠に置いたカップを取って、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
苦かった。
――何を言えばいいのか。
三か月、考えてきた。考えても、うまい言葉は出てこなかった。もともと、言葉の多い人間ではなかった。担当を褒めるときも、具体的なことを、短く言うのが精一杯だった。気の利いた言い回しも、相手の胸を打つような台詞も、自分の口からは出てこない。
言えるのは、本当のことだけだった。
本当のことを、短く。
それなら、言えるかもしれない。
場所のことは、卒業式の夜に決めていた。
あの公園の、高台。
四年前の夏の夜、初めてあの子を見た場所。満月の下で、笑いながら走っていた、あの坂の上。
あの子にとって、あの場所がどういう場所なのか、雅也には、正確には分からなかった。本能のままに走っていた場所。誰にも見られたくなかった場所。見られて、逃げ出した場所。
それでも、あそこしかないと思った。
始まった場所で、言いたかった。
ただし、夜ではなく。満月の下ではなく。
昼の、春の光の中で。
あの子が、本能のままにではなく、理性のままにでもなく、両方を一つに抱えたまま、立っていられる時間に。
十時の五分前に、扉が叩かれた。
二度、軽く、控えめに。
「……どうぞ」
扉が開いて、あの子が入ってきた。
制服ではなかった。卒業したのだから、当然だった。淡い色のブラウスに、薄手のカーディガンを羽織っていた。髪は、いつもと同じように整えられていた。手に、小さな鞄を一つ持っていた。
初めて見る私服ではなかった。遠征の移動のとき、何度か見たことがあった。けれど、この部屋で見るのは、たぶん初めてだった。
「……おはようございます」
「……おはよう」
あの子は、いつもの椅子に座った。
雅也は、電気ケトルのスイッチを入れ直した。豆を挽いた。ごりごりと、低い音。あの子は、膝の上に鞄を置いて、その音を、静かに聞いていた。
湯が沸いた。湯を注いだ。
来客用の白いカップを、あの子の前に置いた。棚の一番下の段は、二週間前から空いたままだった。
「……ありがとうございます」
あの子は、白いカップを両手で包んだ。カップが変わっても、包み方は変わらなかった。四年前から、ずっと同じ仕草だった。
雅也は、自分の分のカップを持って、机に座った。
それから、事務局の封筒を開けて、中の書類を、机の上に並べた。
担当契約の終了に関する確認書。二枚綴り。トレーナーの署名欄と、担当ウマ娘の署名欄。日付の欄。
あの子は、カップを机の端に置いて、書類を見下ろした。
しばらく、黙って読んでいた。一行ずつ、指で辿るようにして。読むのが遅いわけではなかった。一行ずつ、確かめていたのだった。四年間、レースの前にコースを自分の足で歩いたように。
「……これに、署名すると」
あの子が、書類から顔を上げずに言った。
「……トレーナーさんは、もう、私のトレーナーさんでは、なくなるんですね」
「……書類の上では」
雅也は、短く答えた。
あの子は、顔を上げた。
目が合った。
「……書類の、上では」
あの子が、その言葉を、ゆっくりと繰り返した。
「……ああ」
あの子は、何も言わなかった。
口元が、ほんのほんの少し、緩んでいた。
雅也は、ペンを二本、机の上に置いた。一本を、あの子のほうへ押した。
あの子は、ペンを取って、担当ウマ娘の署名欄に、自分の名前を書いた。ゆっくりと、丁寧に。一画ずつ、確かめるように。
雅也も、トレーナーの署名欄に、自分の名前を書いた。
日付の欄に、今日の日付を書いた。
二〇〇六年、三月二十四日。
書き終えて、ペンを置いた。
部屋の中が、静かになった。
窓の外で、雪柳の枝が、風に揺れていた。
あの子は、署名を終えた書類を、しばらく見下ろしていた。
それから、カップを手に取って、コーヒーを一口飲んだ。
「……終わり、ましたね」
「……ああ。……事務局に出したら」
「……はい」
あの子は、カップを両手で包んだまま、少しだけ俯いた。
雅也は、書類を揃えて、封筒に戻した。それから、机の引き出しを開けて、別の封筒を取り出した。
「……これ」
あの子が、顔を上げた。
「……十一月に、君が書いてくれた振り返り。……二十番目の」
雅也は、封筒を、あの子の前に置いた。
「……記録は、全部、資料室に預ける。……でも、これは、記録じゃないと思った。……君が、自分のことを書いたものだから」
あの子は、封筒を見下ろした。
「……君に返すか、俺が持っておくか。……君が決めてくれ」
あの子は、封筒を手に取らなかった。
しばらく、黙って見ていた。
それから、小さく首を振った。
「……トレーナーさんが、持っていてください」
「……いいのか」
「……はい。……あの三行は、……トレーナーさんに、読んでほしくて書いたので」
雅也は、封筒を見下ろした。
それから、それを、内ポケットの手帳の隣に、そっと入れた。
「……分かった。……預かる」
言ってから、雅也は、自分の言葉が、また薄い相づちになりかけたことに気づいた。
気づいて、言い直そうとして、やめた。
預かる、で、いいと思った。
預かって、ずっと持っている。それ以上の言葉は、今は要らなかった。
事務局に書類を出したのは、十一時を少し過ぎた頃だった。
たづなが、窓口で書類を受け取った。署名と日付を確かめて、受付の印を押した。
「……確かに、お受け取りいたしました」
それから、たづなは、雅也とあの子の顔を、順番に見た。
「……お二人とも、本当に、お疲れさまでした」
あの子が、深く頭を下げた。
雅也も、頭を下げた。
頭を上げると、たづなは、もう次の書類に目を落としていた。その口元が、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
事務局を出て、本館の廊下を、二人で歩いた。
春休みの本館は、静かだった。窓から、昼前の柔らかい光が差し込んでいた。光の中を、細かい埃が、ゆっくりと漂っていた。
あの子は、雅也の半歩うしろを歩いていた。
四年間、ずっとそうだった。
本館の玄関を出たところで、雅也は立ち止まった。
あの子も、立ち止まった。
雅也は、振り返らずに、前を向いたまま言った。
「……午後、少し、時間をもらえるか」
あの子は、すぐには答えなかった。
「……行きたい場所が、ある」
自分から誘うのは、初めてだった。
四年間、この子をどこかへ誘ったことは、一度もなかった。レース場も、合宿所も、温泉の宿でさえ、トレーナーとしての予定だった。担当ウマ娘としての、慰労だった。
今日は、違った。
もう、トレーナーではなかった。書類の上では。
背中のうしろで、あの子が、小さく息を吸う音がした。
「……はい」
短い返事だった。
雅也は、ようやく振り返った。
あの子は、まっすぐに、こちらを見ていた。目を逸らさなかった。頬が、赤かった。
「……どこへ、ですか」
雅也は、わずかに迷った。
言うかどうか。言ってしまえば、あの子には、きっと分かる。何のために、そこへ行くのか。
それでもいい、と思った。
「……あの公園の、高台」
あの子の目が、わずかに見開かれた。
見開かれて、それから、ゆっくりと、元に戻った。
「……はい」
もう一度、あの子は答えた。
今度の返事は、さっきより、ほんの長かった。
第十四章 春の高台
公園には、二人で歩いて行った。
車で行こうか、と雅也は訊いた。スティルインラブは、少しだけ考えてから、歩きたいです、と答えた。学園の裏門から、住宅地の細い道を抜けて、二十分ほどの距離だった。四年前の夏の夜、あの人が近道をしようとして横切った公園。自分が、誰にも見られないように、夜ごと走りに通っていた公園。
昼を少し過ぎた住宅地は、のんびりとしていた。
どの家の庭にも、何かしらの花が咲いていた。塀の上から、木蓮の白い花が、大きな杯のように空を向いていた。生け垣の根元に、菜の花が黄色く群れていた。どこかの家の窓が開いていて、ラジオの音と、皿を洗う水の音が、細く漏れてきた。陽だまりの中で、猫が一匹、丸くなって眠っていた。
スティルは、雅也の半歩うしろを歩いた。
雅也は、スーツの上着を脱いで、腕に掛けていた。ネクタイも外して、シャツの襟元を緩めていた。午後の日差しは、三月の終わりにしては温かかった。歩いていると、首筋に、うっすらと汗が滲むくらいだった。
二人とも、ほとんど話さなかった。
話さなくても、気まずくはなかった。冬の、温泉へ向かう車の中と同じだった。沈黙が、膝掛けのように温かかった。
けれど、その温かさの下で、スティルの心臓は、ずっと速く打っていた。
――あの公園の、高台。
本館の玄関で、あの人がそう言ったとき、全部、分かった。
何のために、そこへ行くのか。
十二月の縁側で、あの人は言った。卒業して、契約が終わったら、ちゃんと答える、と。卒業は、二週間前に終わった。契約は、今朝、終わった。書類の上では。
そして、あの人は、自分から、行きたい場所がある、と言った。
四年間で、初めてだった。あの人が、自分をどこかへ誘ったのは。
スティルは、歩きながら、四拍で呼吸を数えようとした。吸って、二つ、三つ、四つ。数えられなかった。三つ目のところで、いつも、胸の奥の何かが跳ねて、拍が崩れた。
崩れても、いいと思った。
公園の入り口には、古い石の門柱が立っていた。
門柱をくぐると、広い芝生があった。芝生の向こうに、遊具の並ぶ一角があって、子どもたちが何人か、ブランコを漕いでいた。甲高い笑い声が、春の空気の中に、高く、遠く響いていた。芝生の端のベンチで、年配の夫婦が、並んで日向ぼっこをしていた。
夜の公園しか、知らなかった。
四年前、この公園に来るのは、いつも夜だった。誰もいない、暗い公園。街灯の光が、ところどころに丸い輪を落としているだけの。月が出ていれば、芝生が銀色に光った。月が出ていなければ、足元さえ見えなかった。
昼の公園は、まるで、別の場所のようだった。
芝生は、冬の枯れた色から、少しずつ緑に変わり始めていた。ところどころに、白い小さな花が咲いていた。ハコベか、ナズナか。名前は分からなかったけれど、小さな星を撒いたように、芝生のあちこちで光っていた。
芝生を横切って、奥へ進むと、坂があった。
高台へ続く坂だった。
スティルは、坂の下で、少しだけ足を止めた。
坂は、思っていたより、ずっとなだらかだった。
夜に走っていたときは、もっと急な坂だと思っていた。駆け上がるたびに、脚に重く響いた。駆け下りるたびに、身体が前へ投げ出されるようだった。けれど、昼の光の中で見ると、ただの、ゆるやかな上り坂だった。両側に、低い植え込みがあった。植え込みのあいだに、細い木が何本か立っていた。
その木の一本が、花をつけていた。
桜だった。
まだ、満開ではなかった。枝のところどころに、薄い桃色の花が、ほころび始めていた。蕾のほうが、まだ多かった。それでも、坂の途中の、その一本だけが、ほんのりと色づいて、春の日差しの中に、淡く浮かび上がっていた。
「……咲いてる」
雅也が、小さく言った。
「……はい」
「……四年前は、気づかなかった」
スティルは、雅也の横顔を見た。
「……夏、でしたから」
「……ああ。夏だった」
雅也は、桜を見上げたまま、笑った。
「……夏の夜で、葉っぱしかなかった。……それに、俺は、君しか見てなかった」
スティルの心臓が、一つ、大きく跳ねた。
雅也は、それ以上は何も言わずに、坂を上り始めた。
スティルは、その背中を見ながら、少し遅れて、あとを追った。
坂を上り切ったところに、高台があった。
小さな広場だった。周りを、低い木の柵が囲んでいた。柵の向こうに、町が見下ろせた。屋根の連なり。電線の網。遠くに、学園の校舎の白い壁が、小さく見えた。さらにその向こうに、春霞に溶けかけた山並みが、薄く、青く、横たわっていた。
広場の中ほどに、ベンチが一つあった。
四年前の夏の夜、自分は、この広場を、何度も、何度も、走り抜けた。坂を駆け上がって、ここで折り返して、また坂を駆け下りた。満月の光が、広場の土を、白く照らしていた。
そして、この広場の端に、あの人が立っていた。
坂を上がってきたばかりの、スーツ姿の男の人。息をわずかに切らせて、柵のそばに立っていた。自分を見ていた。
自分は、本能のままに、その人のほうへ走った。
一直線に。速く。
あの人は、下がらなかった。
怖くなかったわけではない、と後で言われた。正直、ちょっと怖かった、と。でも、目が離せなかった、と。
あの人の目の前で、自分は、止まった。
止まった理由は、今でも分からない。本能の側のまま、喰らいたいと思っていたはずなのに。あの人の顔を見た瞬間に、何かが止まった。頬が熱くなった。本能の側のまま、照れた。それから、何も言わずに、踵を返して、逃げるように坂を駆け下りた。
あの夜から、四年と八か月。
スティルは、広場の真ん中で、立ち止まった。
昼の光の中で見る高台は、小さかった。夜は、もっと広く感じていた。世界の全部が、この広場と、満月と、自分の足音だけでできているような気がしていた。
今は、遠くでブランコの軋む音がした。子どもたちの笑い声がした。坂の下から、桜の枝を揺らす風の音が上がってきた。町の音が、霞の向こうから、かすかに届いていた。
世界は、この広場の外にも、ちゃんと続いていた。
雅也は、柵のそばに立っていた。
四年前と、ほとんど同じ場所だった。
腕に掛けていた上着を、柵の上に置いた。それから、町のほうを見下ろして、しばらく黙っていた。
スティルは、広場の真ん中に立ったまま、その背中を見ていた。
近づくべきか、ここで待つべきか、分からなかった。
分からないまま、待った。
四年間、この人の言葉を待つことには、慣れていた。
風が吹いた。坂の下の桜の枝から、まだほとんど咲いていない花びらが、一枚だけ、ひらりと舞い上がった。花びらは、高台の上まで運ばれてきて、二人のあいだの、春の光の中を、ゆっくりと横切っていった。
雅也が、振り返った。
スティルを見た。
まっすぐに。
その目を、スティルは、知っていた。四年間、何度も見てきた目だった。レースのあとで、迎えに来てくれるときの目。名前を呼ぶ前の、ほんの一瞬の、静かな目。
けれど、今日の目は、少しだけ違った。
迎えに来る人の目ではなかった。
もっと近い場所から、自分を見ている目だった。
「……スティルインラブ」
名前を、呼ばれた。
フルネームだった。
四年前の、満月の夜の練習で、この人は、いつもこうやって名前を呼んだ。本能に呑まれかけた自分が、戻ってこられるように。四拍の呼吸と、フルネームの呼びかけ。戻ってくるための、目印。
けれど、今は、戻る必要がなかった。
本能に呑まれてはいなかった。理性に閉じこもってもいなかった。両方を一つに抱えたまま、自分は、ここに立っていた。
それなのに、この人は、フルネームで呼んだ。
スティルの耳が、雅也のほうへ、まっすぐに向いた。
向いたまま、動かなかった。
「……最初の夜、ここで、君を見た」
雅也の声は、低く、静かだった。
遠くの子どもたちの声よりも、桜を揺らす風の音よりも、ずっと小さな声だった。それなのに、一言ずつが、はっきりと、耳に届いた。
「……怖かった。……でも、目が離せなかった」
スティルは、息を止めた。
「……今も、それは、変わらない」
雅也は、一度だけ、言葉を切った。
それから、わずかにこちらへ歩いてきた。一歩、二歩。広場の土を踏む足音が、小さく響いた。
スティルの前で、止まった。
四年前、自分が、この人の前で止まったのと、同じくらいの距離だった。
「……もう、戻ってくるための目印は、要らないだろ」
雅也は、スティルの顔を、まっすぐに見ていた。
「……自分で、戻れるようになった。……いや、戻る必要も、なくなった。……京都で、それを見た」
スティルは、目を逸らさなかった。
逸らしたくなった。頬が、熱くて、熱くて、どうしようもなかった。耳の先まで、熱かった。いつもなら、ここで俯いていた。四年間、この人の顔をまっすぐに見ようとすると、いつも、照れて、視線を落としていた。
今日は、落とさなかった。
落としたくなかった。
この人が、今、何を言うのか。この人が、どんな顔で、それを言うのか。全部、見ていたかった。
「……だから、今度は」
雅也の声が、ほんの揺れた。
揺れて、それでも、止まらなかった。
「……目印じゃなくて、隣に、いさせてほしい」
スティルの胸の奥で、何かが、ゆっくりと、ほどけていった。
「……これから先も」
短い言葉だった。
守る、とは言わなかった。受け止める、とも言わなかった。君の本能も全部、とも言わなかった。そういう言葉を、この人は、一つも使わなかった。
隣に、いさせてほしい。
お願いだった。この人が、自分に、お願いをしていた。
四年間、この人は、何かを頼むことが、ほとんどなかった。練習の内容を伝えるときも、レースの作戦を話すときも、君が決めてくれ、と言うことのほうが多かった。自分のために、何かを望むことを、口にする人ではなかった。
その人が、今、隣にいさせてほしい、と言った。
目印としてではなく。トレーナーとしてではなく。
ただの、一人の人として。
スティルは、口を開いた。
何を言うのか、考えていなかった。考える前に、言葉が、胸の奥から、まっすぐに上がってきた。
「……当然、です」
言ってから、スティルは、自分が何を言ったのか、少し遅れて理解した。
当然です。
ずっと、そう思っていた。この人の隣にいることは、当然だった。人生の前提だった。中等部の進路調査の紙に、将来の欄を書こうとして、この人のいない未来の書き方が分からなかった。十二月の縁側で、二人とも、と言った。バレンタインの日に、来年も、再来年も、と言った。全部、当然のことだった。
けれど、それを、こんなふうに、この人の顔を見ながら、口に出したのは、初めてだった。
顔が、一気に熱くなった。
頬も、耳も、首筋も、全部。春の日差しよりも、ずっと熱く。
言ってしまった。こんな言い方で。当然です、なんて。この人が、四年間、一度も口にしなかったお願いを、やっと口にしてくれたのに。それに対して、当然です、なんて。
取り消したい、と思った。
思って、取り消さなかった。
取り消したくなかった。
だって、本当のことだったから。
スティルは、一度だけ、呼吸を整えた。
四拍では、数えなかった。数えなくても、もう、自分は自分のままだった。
それから、もう一度、ゆっくりと言った。
「……当然です」
今度は、声が、震えなかった。
「……ずっと、そう思っていました」
顔は、まだ熱かった。きっと、真っ赤になっていた。それでも、目を逸らさなかった。この人の顔を、まっすぐに見ていた。
雅也は、何も言わなかった。
少しだけ、目を見開いていた。
それから、ゆっくりと、表情が崩れていった。
困ったような顔ではなかった。照れたような顔でもなかった。いや、少しはそうだったかもしれない。けれど、それよりも、もっと、深いところから、何かがあふれてくるような顔だった。
この人が、こんな顔をするのを、スティルは、初めて見た。
四年間、一度も見たことのない顔だった。
「……そうか」
雅也が、言った。
その声が、かすれていた。
「……ずっと、か」
「……はい。……ずっと、です」
雅也は、片手で、顔の下半分を覆った。
しばらく、そうしていた。指のあいだから、小さく息を吐く音がした。
それから、手を下ろして、笑った。
「……俺のほうが、遅かったな」
「……はい」
スティルは、小さく頷いた。
「……少しだけ、です」
風が吹いた。
坂の下の桜の枝が揺れて、また、花びらが一枚、高台の上まで舞い上がってきた。
雅也が、右手を、少しだけ前へ差し出した。
手のひらを上に向けて。
何も言わなかった。
スティルは、その手を見下ろした。
四年間、何度も、この手を見てきた。ゴールのあとで、自分に向かって伸ばされた手。迎えに来て、名前を呼んで、差し出された手。戻ってくるための、目印の手。
今日の手は、違った。
迎えに来た手ではなかった。
隣に並ぶための、手だった。
スティルは、自分の左手を、そっと、その手のひらの上に重ねた。
温かかった。
思っていたより、ずっと大きかった。指が長くて、乾いていて、手のひらの真ん中に、ペンを握り続けてできた、小さな硬いところがあった。
雅也の指が、ゆっくりと、スティルの手を包んだ。
強くはなかった。けれど、離すつもりのない握り方だった。
スティルの左手の薬指の爪は、もう赤くなかった。引退式のあとで、落としていた。けれど、その指は、今、この人の手の中にあった。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
遠くで、ブランコの軋む音がした。子どもたちの笑い声が、高く、遠く、響いていた。桜の枝を揺らす風が、高台の上を、ゆっくりと通り過ぎていった。
スティルは、雅也の手を握ったまま、町のほうを見下ろした。
屋根の連なり。電線の網。遠くの、学園の白い壁。春霞に溶けかけた山並み。
四年前の夜、この景色は、見えなかった。満月の光の中で、世界は、この広場の中にしかなかった。
今は、全部、見えた。
どこまでも、続いていた。
「……トレーナーさん」
呼んでから、スティルは、わずかに言葉に詰まった。
もう、トレーナーさんではなかった。書類の上では。
けれど、ほかの呼び方を、まだ知らなかった。
雅也は、少しだけ笑った。
「……それで、いい」
「……え」
「……呼び方は、急がなくていい。……君が、呼びたいように」
スティルは、雅也の顔を見上げた。
「……いつか、変わるかもしれません」
「……ああ」
「……そのときは、……驚かないで、くださいね」
雅也は、目を細めた。
「……たぶん、驚く」
「……たぶん、ですか」
「……驚いて、たぶん、困った顔をする。……それでもいいなら」
スティルは、小さく笑った。
笑いながら、雅也の手を、少しだけ強く握った。
「……はい。……それで、いいです」
高台を下りるとき、二人は、手を繋いだまま、坂を歩いた。
坂の途中で、桜の木の下を通った。ほころびかけた花の下で、雅也が、足を緩めた。スティルも、足を緩めた。
見上げると、枝の先に、薄い桃色の花が、いくつか開いていた。春の日差しが、花びらを透かして、淡く光っていた。
「……来週には、満開だな」
「……はい」
「……また、来るか」
スティルは、雅也の横顔を見た。
「……昼に、ですか」
「……昼に」
スティルは、わずかに考えた。
夜の高台。満月の高台。誰にも見られたくなかった場所。本能のままに走っていた場所。
もう、夜に来る必要はなかった。
「……はい。……昼に、来たいです」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、繋いだ手に、少しだけ力を込めた。
公園の門を出たところで、雅也が、ようやく手を離した。
離すとき、雅也の指が、ほんの一瞬だけ、名残を惜しむように、スティルの指先に触れた。
スティルは、離れた手を、胸の前で、そっと握った。
まだ、温かかった。
二人で、住宅地の細い道を、学園のほうへ歩いた。
スティルは、雅也の隣を歩いていた。
半歩うしろでは、なかった。
第十五章 全部が映る鏡
その夜、寮の部屋に戻ったのは、夕食の時間を少し過ぎた頃だった。
卒業生は、三月の末日まで寮に残ることが許されていた。スティルインラブの荷物は、もう半分以上が段ボールに詰められていた。机の上の本は、ほとんど箱の中に移っていた。壁に貼っていた予定表も、剥がされていた。四年間、毎朝、指一本ぶんだけ開けていたカーテンだけが、まだ、窓に掛かっていた。
ネオユニヴァースは、部屋にいなかった。机の上に、紙切れが一枚置かれていた。
――観測会。天文部の“最終観測”。二十二時帰還予定。
スティルは、紙切れを、そっと机に戻した。
それから、ベッドの端に座って、自分の左手を見下ろした。
手のひらを、上に向けたり、下に向けたりした。指を、一本ずつ、ゆっくりと折って、また開いた。
何も変わっていなかった。いつもの、自分の手だった。小さくて、指先に、ボビンを握り続けてできた、かすかな硬さがあった。爪は短く切り揃えてあって、薬指の爪にも、もう色はついていなかった。
それなのに、この手が、昼間、あの人の手の中にあった。
あの人の手のひらの温かさが、まだ、皮膚のどこかに残っているような気がした。乾いていて、大きくて、真ん中に、小さな硬いところがあった。強くは握らなかった。けれど、離すつもりのない握り方だった。
スティルは、左手を、右手でそっと包んだ。
引退式の衣装室で、職員に爪のことを訊かれたとき、同じことをした。あのときは、何かを隠すように包んだ。今は、違った。何かを、こぼさないように包んでいた。
部屋の隅に、大きな姿見があった。
寮の部屋に、最初から備え付けられていたものだった。四年間、スティルは、その鏡の前に立ったことが、ほとんどなかった。着替えるときも、髪を整えるときも、机の上の手鏡を使った。姿見の前を通るときは、いつも、少しだけ足を速めた。鏡の面に、自分の全身が映りそうになると、視線を逸らした。
入寮して最初の週に、ネオユニヴァースが、その鏡に布を掛けようか、と言ってくれたことがあった。スティルが、いつも鏡を避けていることに、三日で気づいたのだった。スティルは、首を振った。布を掛けたら、鏡を怖がっていることを、毎日、思い知らされる気がした。だから、布は掛けずに、ただ、前に立たないことにした。
大きな鏡は、全部、映ってしまうから。
手鏡なら、顔だけを映せた。口角を上げて、目をわずかに細めて、笑顔の練習をすることができた。映したいものだけを、映すことができた。
大きな鏡は、選べなかった。
背筋の伸び方も、肩の線も、指先の置き場所も。それから、瞳の奥に灯るかもしれないものも。理性の自分と、本能の自分。どちらか一人だけを映すことは、できなかった。
スティルは、ベッドの端から立ち上がった。
姿見の前まで、歩いていった。
五歩。
鏡の前に、立った。
鏡の中に、自分がいた。
淡い色のブラウスに、薄手のカーディガン。昼間、高台へ行ったときと同じ服だった。髪は、少しだけ乱れていた。坂を上り下りしたからだろう。前髪の一房が、額の上で、跳ねていた。
頬が、まだ、うっすらと赤かった。
高台を下りてから、もう何時間も経っていた。それなのに、まだ、赤かった。
スティルは、鏡の中の自分の顔を見た。
まっすぐに。
四年間、手鏡の中で、何度も見てきた顔だった。けれど、全身と一緒に映った顔は、手鏡の中の顔とは、どこか違って見えた。顔だけでは分からなかったものが、肩の線や、手の位置や、足の向きと一緒になって、初めて、ひとつの人の形になっていた。
これが、自分だった。
スティルは、鏡の中の自分の目を見た。
瞳の奥に、何かがあった。
紅ではなかった。いや、紅だったのかもしれない。けれど、それは、レースのときに灯る、喰らいたいと思うときの、あの激しい紅とは違った。もっと静かで、もっと深いところで、ゆっくりと燃えている、温かい色だった。
本能の自分が、そこにいた。
消えてはいなかった。消える必要も、なかった。
そして、その同じ瞳の手前に、理性の自分もいた。丁寧に言葉を選んで、少しだけ照れて、口元を緩めている自分。
どちらも、笑っていた。
スティルは、鏡の中の自分に向かって、口角を上げてみた。
手鏡で練習した笑顔では、なかった。練習しようとして、うまくいかなかった。口角を上げようとしたら、勝手に、もっと大きく、顔がほころんだ。目をわずかに細めようとしたら、勝手に、もっと細くなった。
昼間、高台で、あの人の手を握ったときと、同じ笑い方だった。
引退式の写真のときと、同じ笑い方だった。
バレンタインの日に、受け取る、と言われたときと、同じ笑い方だった。
京都の、最後の直線で、笑ったときとも――同じだった。
スティルは、鏡の前で、少しだけ目を見開いた。
同じだった。
喰らいたいと思って、強い相手と並んで、直線で笑ったときの顔と。あの人の手を握って、当然です、と言ったあとの顔と。
鏡の中で、二つの笑顔が、一つに重なっていた。
どちらがどちらなのか、もう、分からなかった。
分からなくて、いいと思った。
しばらく、そうして立っていた。
窓の外は、もう真っ暗だった。カーテンの合わせ目から、細く、夜の空が見えていた。月は見えなかった。昼間の空に浮かんでいた、白く薄い月は、もう沈んでしまったのだろう。
鏡の前に立っているのは、一度だけにしよう、と思った。
この鏡を、明日からも毎日見るかどうかは、分からなかった。たぶん、見ないと思う。手鏡のほうが、慣れていた。大きな鏡が、急に得意になったわけではなかった。
けれど、今夜だけは、全部を見ておきたかった。
あの人に、隣にいさせてほしい、と言われた自分を。当然です、と答えた自分を。どちらの自分も、同じ顔で笑っているのを。
スティルは、鏡の中の自分に、小さく頭を下げた。
ありがとう、と、声に出さずに言った。
四年間、手鏡の外に、ずっと置き去りにしていた自分に。
ネオユニヴァースが帰ってきたのは、二十二時を十分ほど過ぎた頃だった。
扉を開けて、部屋に入ってきて、肩から望遠鏡のケースを下ろした。それから、スティルの顔を見た。
スティルは、ベッドの端に座って、手帳を開いていた。
ネオユニヴァースは、しばらく、黙ってスティルの顔を見ていた。それから、部屋の隅の姿見のほうを、ちらりと見た。それから、また、スティルの顔に戻った。
「……“返信”、届いた」
疑問ではなかった。
スティルは、手帳から顔を上げた。
「……分かりますか」
「アファーマティブ。……スティルの“スペクトル”、変わってる」
ネオユニヴァースは、自分のベッドに腰を下ろした。
「……二重星。……今日、分光観測したら、二つの線がはっきり分かれて見えた。……二つで、一つの光。でも、どっちの線も、ちゃんと自分の色をしてる」
スティルは、手帳を閉じた。
「……ユニヴァースさん」
「ん」
「……今夜、姿見の前に、立ちました」
ネオユニヴァースの耳が、ほんのほんの少し、前へ傾いた。
「……全部、映りました。……どっちの私も、笑っていました」
ネオユニヴァースは、何も言わなかった。
しばらくして、望遠鏡のケースを膝の上に引き寄せて、留め金を、一つずつ外し始めた。かちり、かちりと、小さな音がした。
「……四年前。……布、掛けなくてよかった」
スティルは、目を見開いた。
覚えていたのだ、と思った。入寮して最初の週の、あの申し出を。
「……はい。……掛けなくて、よかったです」
ネオユニヴァースは、ケースの中から、望遠鏡のレンズを取り出して、柔らかい布で、ゆっくりと拭き始めた。
「……“ミッション開始”まで、あと一週間」
「……はい」
「……四月から、また“近傍軌道”。……よろしく、スティル」
「……はい。……よろしくお願いします、ユニヴァースさん」
スティルは、手帳を開き直した。
今日の頁に、ペンを走らせた。
――契約が、終わった。
――高台へ、行った。昼の光の中で。
――隣にいさせてほしい、と言われた。
――当然です、と言った。ずっと、そう思っていました、と。
――姿見の前に、一度だけ、立った。
五行、書いた。
書いてから、ペンを止めて、少しだけ考えた。
それから、もう一行、書き足した。
――桜が、来週、満開になる。
四月の最初の土曜日、二人は、もう一度、あの高台へ行った。
約束どおり、昼に。
桜は、満開だった。坂の途中の一本だけでなく、公園の芝生の周りにも、何本かの桜が植えられていて、どれも、薄い桃色の花を枝いっぱいにつけていた。芝生の上には、敷物を広げた家族連れが何組もいた。子どもたちが、花びらを追いかけて走り回っていた。
二人は、高台のベンチに、並んで座った。
スティルは、膝の上に、小さな包みを置いていた。中には、焼き菓子が入っていた。フィナンシェではなく、小さな丸いクッキー。真ん中に、赤い果実のジャムを、ほんの少しだけ落としたもの。
雅也は、膝の上に、魔法瓶と、紙のカップを二つ置いていた。
包みを開いて、魔法瓶の蓋を開けた。コーヒーの香りと、焼き菓子の香りが、春の風の中で混じり合った。
「……ジャム、木苺か」
「……はい。……去年の夏に、煮たものです」
「……ラベル、まだ残ってるのか」
「……はい。……瓶に」
スティルは、俯いた。
ジャムの瓶のラベルには、いつも、煮た日付を書いていた。あの人の分の瓶だけ、その字がわずかに震えていることを、スティルは知っていた。あの人が、それに気づいているかどうかは、知らなかった。
訊こうかと思って、やめた。
いつか、訊けばいい。
時間は、まだ、たくさんあった。
二人で、クッキーを食べた。コーヒーを飲んだ。
スティルは、カップを両手で包んで、町のほうを見下ろした。春霞の向こうに、学園の白い壁が、小さく見えていた。今年の新入生たちが、もうすぐ、あの門をくぐる。トレーナー棟の三階の、右から二番目の窓には、たぶん、新しい担当の子が、扉を叩きに来る。
胸の奥で、何かが、かすかに身じろぎした。
瞳の奥に、紅いものが、ちらりと灯った。
スティルは、それを、押し込めなかった。
押し込めないまま、隣のあの人の横顔を、まっすぐに見た。
雅也は、町を見下ろしていた。コーヒーのカップを、片手で持っていた。春の日差しが、横顔を、柔らかく照らしていた。
スティルの視線に気づいて、雅也が、こちらを向いた。
目が合った。
スティルは、目を逸らさなかった。
四年間、この人の顔を、こんなに長く見ていられたことは、なかった。いつも、途中で照れて、視線を落としていた。今も、照れていた。頬が熱かった。それでも、目を逸らさなかった。
「……どうした」
「……いいえ。……ただ」
スティルは、少しだけ言葉を探した。
「……顔を、見ていたかったんです」
雅也は、目を見開いた。
それから、困ったように、少しだけ視線を泳がせた。泳がせて、それから、また、スティルの顔に戻ってきた。
「……そうか」
「……はい」
「……俺も、だ」
短い言葉だった。
スティルは、カップを持ったまま、小さく笑った。
雅也も、笑った。
二人とも、目を逸らさなかった。
遠くで、子どもたちの笑い声がした。桜の花びらが、風に乗って、高台の上まで、ひらひらと舞い上がってきた。花びらの一枚が、ベンチの、二人のあいだの、ほんのわずかな隙間に、そっと落ちた。
隣に座ることは、四年間と、何も変わらなかった。
トレーナー室の、いつもの椅子と、机の距離。温泉へ向かう車の、助手席と運転席の距離。縁側の、火鉢を挟んだ二つの長椅子の距離。引退式の写真の、肩が触れそうで触れない距離。
隣にいることは、ずっと前から、当然だった。
変わったのは、顔を見ていられる時間だった。
昨日より、わずかに長く。今日より、明日は、もう少しだけ長く。
この先のことは、まだ、何も決まっていなかった。
四月から、自分は大学に通う。生活文化の課程で、手仕事と、菓子と、暮らしの歴史を学ぶ。ボビンレースの模様が、どこで生まれたのかを知る。赤い果実のジャムが、いつから煮られていたのかを知る。
あの人は、学園で、トレーナーを続ける。新しい担当を持つかどうかは、まだ分からない。持つなら、たぶん、自分は、先輩として、挨拶に行く。
その先のこと。
もっと、ずっと先のこと。
スティルは、カップの縁に、そっと唇を当てた。
それは、二人で決めればいい。
急がずに。けれど、当然のこととして。
いつか、この人の手帳の、白い頁のどこかに、それが書き込まれる日が来る。そのとき、その頁には、きっと、あの栞が挟まっている。白い蔓と、赤い小さな花。四年間、一度も絡まなかった糸。
そして、自分の手帳の一番後ろの頁にも、きっと、同じことが書かれている。
スティルは、カップを膝の上に下ろした。
隣で、雅也が、魔法瓶の蓋を開けた。
「……もう一杯、飲むか」
「……はい」
コーヒーが、紙のカップに、細く注がれた。湯気が、春の光の中に、白く、ゆらゆらと立ちのぼった。
スティルは、カップを両手で包んだ。
温かかった。
隣を見ると、あの人が、こちらを見ていた。
スティルは、今度も、目を逸らさなかった。