十二月に入ってから、栗東寮の廊下は夜になると少しだけ乾いた匂いがするようになった。暖房の吹き出し口が温めた空気は、窓際へ行くほど薄くなり、硝子の内側で冷えて、指先を置けばすぐに分かる程度の湿りに変わる。ドリームジャーニーはその窓に背を向けて机に向かい、手帳の十二月の頁を開いていた。
有馬記念まで、あと三週間と少し。予定表の升目は、いつもと同じ細さの字で埋まっている。坂路の日、医療スタッフの計測の予約、中山への移動の切符の手配、当日の控室の割り当ての確認。その一つ一つの右端に、彼女だけが分かる小さな印が付いていた。済んだもの、まだのもの、他人に任せたもの。印の形は三年前から変わっていない。変わったのは、印の付いていない欄が今年になって一つ増えたことだった。頁の端に引いた細い線の内側、「自分の分」と見出しを立てた狭い欄である。秋に一行だけ埋めてから、そこはまた白いままになっている。
ジャパンカップの夜に書きかけて止めた二文字は、どの頁にも残っていない。ペン先を紙に置いて、置いただけで持ち上げた。インクは滲まなかった。残らなかったものを、彼女は残らなかったまま扱うことに決めている。有馬で終わりにすると告げたのも、その翌日のことだった。トレーナーさんは理由を訊き、彼女は答え、彼は引き止めなかった。最後まで最高の状態にする、と言った声の低さを、手帳には書いていない。書かなくても覚えている種類のことだった。
机の端で、カモミールティーが冷めかけていた。寝る前に妹へ淹れる一杯のついでに、今夜は自分の分も淹れた。湯気はもう細く、湯呑みの縁に触れると、陶器の温度が掌の真ん中まで届くより先に途切れる。彼女はそれを一口だけ含んで、また予定表に目を戻した。
今日の夕方、練習の終わりにも、いつもの問いは来た。今日、あなた自身のためにしたことは何ですか。去年の秋から一日も欠かされない、彼からのただ一つの質問だった。最初の三週間、彼女は「特には」としか答えられず、そのたびに彼は「そうですか」とだけ言って、翌日も同じことを訊いた。今はもう、何かしらの答えを持っている日の方が多い。今日の彼女は、洗ったものを自分の分から先に畳んだ、と答えた。彼は少し考えて、それは一つですね、と言った。そう言われると、本当に一つになるのだと、彼女はこの一年で学んだ。
その時の彼は、照明の下で少しだけ鼻の頭を赤くしていた。寒さのせいだろう。ブルゾンの襟を立て、手をポケットに入れ、彼女の答えを聞くときだけその手を出して、意味もなくストップウォッチの紐を指に巻いていた。そのようなことを記録する欄は、手帳のどこにもない。ないのに、彼女はそれを覚えている。覚えていることが何なのかを、彼女はもう知っていた。知っていて、何も変えないと決めた。敬語も、呼び方も、世話の量も。変えないことそのものが、今の彼女の、最後の段取りだった。
部屋の冷蔵庫が、小さく唤りを上げて止んだ。一段にはいつものようにドルチェが入っている。三年前から同じ場所だ。妹はそこに手を付けない。姉が「どうぞ」と言った日だけ、黙って一つ取る。去年の冬、彼女はそこに二つ買って入れたことがある。一つは妹に、一つは自分に。そう答えたとき、じゃあ一つですね、と彼は言った。あの一つが、彼女が自分のためにしたこととして彼に数えられた、最初のものだった。
扉が開いたのは、消灯までまだ一時間ほどある頃だった。
「戻った」
オルフェーヴルはそれだけ言って、部屋の自分の側へ歩いていく。部屋の半分は几帳面に整い、もう半分は持ち主の性格のとおりに堂々としている。脱いだ上着が椅子の背に掛けられる音、靴が揃えられないまま床に置かれる音。姉は手を伸ばしたくなるのを、いつものように机の上で止めた。片付けないと決めてから、もうずいぶん経つ。
妹はしかし、ベッドには向かわなかった。上着を脱いだ姿のまま、もう一度こちらへ戻ってきて、姉の机の横に立つ。灯りの下で、その顔はいつもと同じく尊大で、いつもと同じく何かを決めた後の顔だった。
「姉上。これを見よ」
差し出されたのはウマホだった。画面はすでに点いていて、白い光が姉の手帳の上に四角く落ちる。
「廊下で、下の学年の者どもが騒いでおった。いずれ姉上の耳にも入る。他の口から入るより先に、見ておくがよいのである」
ドリームジャーニーは、すぐには受け取らなかった。妹の言葉の後半が、少しだけ胸の奥に引っかかったからだ。他の口から入るより先に。去年の秋、妹に関する根も葉もない噂が学園の外を巡ったとき、彼女は誰にも言わずにそれを片付けた。片付け終えてから、妹に正面から言われたのだ。姉上は決して口にせぬ、と。トレーナーさんに向けられたその言葉を、彼女はあとで知った。今、妹は同じことを裏返してしているのだと分かった。姉が一人で抱える前に、先に渡しておく。それが妹なりの段取りなのだろう。
「ありがとう、オル」
受け取ったウマホは、妹の掌の温度をまだ残していた。
画面にあったのは、週刊誌の記事を写した投稿だった。見出しが太い字で二行。
――ハイセイコーに年下の恋人? ――冬の街、隣にいた長身の男性は誰なのか
その下に写真が二枚、並んでいる。一枚目は、街路樹の並ぶ通りの歩道だった。つば広の帽子を目深にかぶり、細いフレームの眼鏡をかけた女性が、隣を歩く男に何か話しかけている。帽子の陰からこぼれた口元が、笑っているのが分かる。顔の半分しか写っていなくても、その笑い方だけで、誰なのか見当がつく人は多いだろう。最初のレースブームを巻き起こし、今も舞台に立ち続けるアイドル。ドリームジャーニー自身、その名前を知らない時期がなかった。
二枚目は、喫茶店の入口らしい硝子扉の前だった。女性が男の胸元に手を伸ばし、襟を直している。男は両手に紙袋を提げていて、されるがままになっている。
彼女が最初に見たのは、顔ではなかった。
紙袋の持ち方だった。二つの袋の持ち手を左手にまとめ、右手を空けている。誰かが段差でつまずいたとき、すぐに手を出せるように。遠征先の駅で、彼女の分の荷物を持とうとしては断られ、それでも自分の鞄は必ず片手にまとめていた人の持ち方だった。次に、黒のブルゾン。襟の形。中に着ているシャツの、いつも同じ色。同じ型を何枚もまとめて買うのだと、本人から聞いたことがある。選ぶのが面倒だから、と。
それから、ようやく顔を見た。写真の中の彼は横を向いていて、少し困ったように眉を寄せている。襟を直されながら、口の端だけで苦笑している。その顔は、彼女がトレーナー室で何度も見てきたものだった。何かを指摘されて、言い返すほどのことでもないと思ったときの顔。うるさい、と言う一歩手前の顔。
指先が、画面の端で止まっていた。
「姉上のトレーナーであろう」
妹の声は、問いの形をしていなかった。
「ええ。……そのようですね」
自分の声が、いつもと同じ高さで出たことに、ドリームジャーニーは小さく安堵した。微笑みも、たぶん崩れていない。頬の筋肉がどこにあるのかを、普段より正確に意識できる。意識できるということは、いつもより少しだけ力が入っているということだった。
オルフェーヴルはしばらく姉の顔を見ていた。見て、何かを言いかけるように口を開き、閉じた。
「伝えるべきことは伝えた。それだけである。後は姉上が決めよ」
そう言って妹は自分の側へ戻り、ベッドに腰を下ろした。それ以上は何も訊かない。開かれたままの姉の手帳にも、一度も目を落とさなかった。開かないことが、妹の敬意だった。
ウマホの画面は、まだ白く光っていた。冷めたカモミールティーの表面に、その光が小さく映り込んでいる。ドリームジャーニーは画面を指でなぞり、記事の続きを開いた。返すのは、読み終えてからでいい。妹もたぶん、そのつもりで渡したのだろう。
窓の外で、風が一度だけ硝子を鳴らした。
記事の本文は、見出しほど断定していなかった。
先週の日曜の午後、都内の街で。変装したハイセイコーが、二十代後半から三十代とみられる長身の男性と二人で書店と雑貨店を回り、喫茶店で一時間ほど過ごした。男性は荷物を持ち、彼女はしきりに笑っていた。関係者は「私的な外出と聞いている」とだけ話している。結婚していることは公表しているが、家族については多くを語らない人である。「年下の恋人」なのか。それとも別の関係なのか。編集部は引き続き取材を。
答えを書かずに、問いだけを置いていく文章だった。問いを置けば、読んだ者が勝手に答えを入れる。それを分かっていて書かれた文章だと、ドリームジャーニーには分かる。交渉の席で、相手に自分の口で結論を言わせるために質問を並べるやり方を、彼女自身よく知っているからだ。
記事の下には、転載した投稿への返信が連なっていた。結婚してるって前に言ってたよね、という声。息子さんがいるって聞いたことある、という声。親戚の人じゃないの、という声。本当に恋人なら反対はしないけど言ってほしかった、という声。どれもこれも、自分の知っている範囲のことを、自分の好きな形で並べているだけだった。そして、その中に混じって、少しずつ別の声が増えていく。
この人、トレセンの早瀬トレーナーじゃない?
三冠のときの会見で見た顔と同じ気がする、という返信があり、その返信に、似てるだけでしょうという声と、いや骨格が同じだという声がぶら下がっている。学園の中からだろうと分かる書き方の投稿もあった。あの人が日曜に車じゃなくて電車で出かけてるの見た、という、何の証拠にもならない一行。
先週の日曜。
ドリームジャーニーは手帳の頁を一枚戻した。索引を引くまでもなかった。その日の欄には、彼女の字で「トレーナーさん、私用」と書いてある。前の週の終わりに、彼のほうから言ったのだ。日曜は家の用事で少し出ます、練習は自主で軽めに。彼女は承知しましたと答え、用事の中身は訊かなかった。訊く理由がなかったからだ。
家の用事。
その四文字を、彼女はしばらく見つめていた。彼は嘘をつかない人だ。四年間、彼女はそれを一度も疑ったことがない。言わないことは多い。けれど、言ったことに嘘が混じったことはない。だとすれば、あの日曜は本当に家の用事だったのだろう。家の用事に、あの人がいた。
そこまで考えて、彼女は自分が何を考えようとしているのかに気づき、考えるのをやめた。やめたつもりで、指はまた画面を二枚目の写真に戻していた。
一枚目の写真で、彼は歩道の車道側を歩いていた。
彼女はそれを、荷物を詰めるときの目で見てしまった。二人の肩の間にある隙間の幅。紙袋を提げた左手が、車道の側にあること。空いた右手が、女性の側にあること。遠征先の駅前でも、学園の外の横断歩道でも、彼は彼女と歩くとき、いつもそういう位置に立った。理由を訊いたことはない。訊かなくても分かることは、訊かない。彼女はそれを、自分に向けられた気遣いの一つとして、手帳には書かず、ただ受け取ってきた。
その同じ位置に、彼は今、別の誰かの隣で立っている。当たり前のことだった。あの人の気遣いは、彼女一人のために用意されたものではない。分かっていた。分かっていたはずのことが、写真の中に形を持って置かれると、分かっていたことの重さが、少しだけ変わった。
喫茶店の硝子扉の前。帽子の女性の手が、彼の襟にある。人差し指と親指で布の端をつまみ、折り返しの向きを直している。迷いのない手だった。初めて触れるものへの手つきではない。何度も、何年も、同じようにそこを直してきた人の手。そして彼は、それを許している。許しているという自覚もないほど自然に、両手に紙袋を提げたまま、少しだけ顎を引いて直されやすい角度を作っている。
その顎の角度を、彼女は知らなかった。
四年間、彼の机の資料を並べ替え、彼の切符を取り、彼の宿を押さえ、彼が何も言わないうちに彼の予定を四年分、他の誰よりも正確に把握してきた。それでも、彼の襟に手を伸ばしたことは一度もない。伸ばそうと思ったこともない。彼の生活の周りにあるものは、こちらからいくらでも整えられた。けれど、彼の身体に触れるものは、彼女の段取りの外側にあった。外側にあるものを、この女性は当たり前のように指でつまんでいる。
胸の中に、細い針のようなものが一本だけ入ったような感じがした。痛むというほどではない。息を吸うときだけ、その一点がどこにあるのかが分かる。吐くと分からなくなる。彼女はゆっくり息を吐き、針を見失ったことにした。
これは、懸念です。
心の中で、彼女はそう分類した。有馬記念を三週間後に控えた担当トレーナーの顔が、週刊誌の写真と結び付けられ、学園の中で名前が出回り始めている。取材が来るかもしれない。彼は記者対応が得意ではない。最後の一戦の前に、余計なものが彼の周りに積もるのは望ましくない。それに、写っている女性の方にも、私生活がある。結婚しているという人の私生活が、こういう形でばらばらにされるのは、誰にとっても褒められたことではない。
理由は、並べればいくつでも並んだ。彼女はそれを手帳の余白に箇条で書き、すぐにその下へ対応の案を書き足していった。たづなさんへの相談。学園の取材窓口への確認。下級生の間で話題が大きくなる前に、遠征支援委員会の後輩たちへ、それとなく話を逐らすように頂み、と書きかけて、ペンが止まった。
字が細かかった。
自分でも驚くほど、いつもの予定表の字より一回り細かく、詰まっている。一行に入れる文字の数が増え、行と行の間が狭くなり、余白がどんどんなくなっていく。余白を埋めたいのだと、書いている手が知っているようだった。空いたところを残せば、そこに何か別の言葉が入ってしまうから。
そして、もう一つ。
大きなレースの翌週、トレーナー室の端で、彼が自分の端末を見つめたまま、返信に長い時間をかけていたことがあった。書いては消し、また書いていた。口元が少しだけ緩んでいて、それを自分でも持て余しているような顔だった。送り主を、彼女は訊かなかった。訊くべきことではないと思ったし、今でもそう思っている。ただ、あのときの彼の口元と、写真の中で襟を直されている彼の口元が、よく似ていた。
針が、またどこにあるか分かった。
彼女はペンを置いた。置いて、置いた自分の指を見た。去年の秋も、こうして一人で案を三つ書いた。三つとも実行し、三つともうまくいった。うまくいったことの後で、妹は彼を問い詰め、彼は彼女に謝った。笑ってたから、訊けなかった。それは、俺の都合だ。それから毎日、彼は一つだけ同じことを訊くようになった。今年の始めには、課題が一つ足された。準備したことを、一つでいい。終わったあとじゃなくて、やる前に言ってください。
やる前に。
彼女は手帳の細かい字をもう一度たどり、その上に細い線を一本だけ引いた。消したのではない。保留の印だった。その横に、今度は普段の大きさの字で書く。
「明日、先に申し上げること」
それは、理屈としては完璧に通っていた。四つ目の課題に従うだけのことだ。段取りを組んだのだから、動く前に彼に伝える。それ以上の意味はない。そう自分に言い聞かせながら、彼女は、理屈が通っていることに少しだけ救われている自分を、彼方から眺めているような気がした。理屈がなければ、あの部屋の扉を叩く口実がない。口実が必要だと思っていること自体が、何かを語っていた。
ウマホを妹の側の小さな棚に戻し、冷め切ったカモミールティーを流しで捨て、湯呑みを洗う。水が冷たかった。指の関節の内側まで冷たさが入り込んできて、それでようやく、頬に入っていた力が抜けた。
消灯の後、部屋の暗い天井を見上げていると、妹の寝息がいつもより少し遅く始まった。それに気づいている自分が、まだ眠れていないことにも気づいた。眠れない理由は、懸念のせいだと、もう一度だけ心の中で分類して、彼女は目を閉じた。分類した札の字が、自分でも読めないほど小さかった。
朝のコースには、霜が降りていた。
妹の寝顔を確かめてから身支度を整え、自主練のために寮を出たのは、空がようやく薄い藍色を帯び始めた頃だった。芝の先に乗った霜が、照明を受けて細かく光っている。細い破片を敷き詰めたようなその広い面の向こう、向正面の内柵沿いを、一人の人影がゆっくり歩いていた。
遠くても、誰なのかは分かった。歩きながら、ときどき立ち止まっては、靴底で芝を踏む。踏んだ足を一度引いて、もう一度同じ場所を踏む。踏んでみないと硬さは分からないので、と、四年前に彼は言った。その習慣を、彼は一日も欠かしたことがない。週刊誌に顔が載った翌朝も、彼はこうして一人で芝を踏んでいる。
彼女は、柵のこちら側で足を止めた。声をかければ届く距離ではない。歩いていけば、何分もかからない。それでも彼女は、そこで立ち止まったまま、白い息を一つ吐いただけだった。今、あの人の前で何かを言えば、それは段取りの報告の形をしていないだろうと思った。段取りの形をしていない言葉を、彼女は、霜の降りた朝の空気の中で口にできる気がしなかった。
彼はこちらに気づかなかった。第四コーナーの方へ、同じ速さで歩いていく。その背中が、昨夜の画面の中の背中と同じ形をしていることを確かめて、彼女は自分の練習に戻った。放課後にしよう、と決めた。決めた自分が、少しだけ逃げているような気がしたが、その気のすることには、今は名前を付けなかった。
翌日の学園は、思っていたより静かだった。
騒がしいのは画面の中だけで、廊下や教室では、話題は声を落として交わされていた。その分、拾いやすい。一限の前に階段を上っているとき、踊り場の隅で二人連れの下級生がひとつの画面を覗き込んでいた。やっぱ早瀬トレーナーだよね、という声が、彼女の足音に気づいて途中で切れた。二人は加減なく会釈し、彼女はいつもどおりに微笑んで会釈を返した。その微笑みが、二人の目にどう映ったのかは分からない。ただ、担当は一人しかいないと学園中が知っているトレーナーの、その一人の顔を、二人がそれとなく確かめたことだけは分かった。
昼の食堂で、トーセンジョーダンがトレイを持って向かいに座った。遠征の荷物の相談をしたいのだと言いながら、相談の前に一度だけ、言いにくそうに箸を止めた。
「ジャーニーさん、あのさ。……やっぱいいや。アタシが訊くことじゃないし」
「お気遣い、ありがとうございます、ジョーダンさん。それで、荷物の方はどちらまで?」
彼女が話を戻すと、ジョーダンはほっとしたように遠征先の地名を口にした。重いものは下に、といつもの助言をしながら、ドリームジャーニーは自分の皿のご飯が、いつもより少し減りにくいことに気づいていた。おかわりには立たなかった。立たなかったことを、彼ならたぶん気づくだろうと思い、気づかれることを想像した自分に、少しだけ困った。
放課後、練習の前に、彼女はトレーナー室へ向かった。
校舎の端へ続く渡り廊下は、この時期になると夕方の光を斜めに入れる。西側の窓から差し込む橙色が、床の継ぎ目ごとに細い帯を作り、歩くたびに靴のつま先がその帯を一つずつ跨いでいく。彼女はいつもこの廊下を、同じ速さで歩いてきた。四年間、過不足なく。今日は、帯を跨ぐ間隔がいつもより短い気がして、一度だけ歩幅を戻した。急いでいるように見えるのは、段取りのうちに入っていない。
扉の前で、手帳を一度開いて閉じた。昨夜の細かい字は、一夜経っても細かいままだった。その横に普段の大きさで書いた一行だけが、少し浮いて見える。
ノックを二度。どうぞ、という声が、少し遅れて返ってきた。
部屋の中は、いつもどおりに暖房が弱かった。彼は寒さに鈍いのではなく、暢いと頭が動かなくなるのだと言っていた。窓際の机でトレーナーさんは端末の画面に向かっていて、ちょうど映像を止めるところだった。音は出していない。中山の芝を四コーナーから映した、去年の有馬記念の映像だと、彼女には一目で分かった。去年、彼女自身はそのレースには出ていない。今年のために、彼は去年の芝を見ている。
「早いですね。練習まで、まだ少しありますよ」
「申し上げたいことがありましたので」
彼は端末を伏せ、椅子を少しだけ彼女の方へ回した。その顏に、いつもの様子を確かめる色が一瞬だけ浮かぶ。申し上げたいこと、という言い方を彼女が使うとき、それはたいていもう済んでいることの報告だった。今年になってから、それが少しずつ、まだ済んでいないことの報告に変わってきている。彼はその変化を、たぶん彼女自身よりも正確に数えている。
「準備したことを一つ、先に申し上げます」
「はい」
「先日の週刊誌の記事です。写真の方がトレーナーさんではないかと、学園の中で話題になり始めております。有馬の前に取材が来るようでしたら、お手間でしょう。収める段取りを、三通り考えてまいりました」
彼女は手帳を開いて、たづなさんへの相談、取材窓口への確認、委員会の後輩たちへの声かけを、順に短く説明した。言葉はよどみなく出た。出すべき順番も、どこで一度息を入れるかも、昨夜のうちに決めてあったからだ。
彼は途中で一度だけ、目を見開いた。
「学園の中で、ですか」
「ご存じではなかったのですか」
「記事が出たのは知ってました。でも、俺だって分かる人がいるとは思ってなかった。顔、半分しか写ってないのに」
苦笑いだった。口の端だけで笑って、それから首の後ろを一度だけ掻いた。新聞も週刊誌も読まない人だ。自分の顔がどこでどう知られているのかを、彼はたぶん、学園で一番知らない。そのことに、ドリームジャーニーは少しだけ安堵し、安堵した自分を不思議に思った。彼が一人で全部を把握していなかったことに、安堵する理由はないはずだった。
彼は、彼女が開いた手帳の頁には目を落とさなかった。彼女の顔を見て、少し考えてから口を開いた。
「ありがとう。先に言ってくれて、助かりました。……でも、それは使わないでください」
「……と、言いますと」
「向こうの事務所が、今朝のうちに短いコメントを出してます。私的な外出で、記事にあるような事実はない。家族の生活への配慮をお願いしたいって。それ以上は、たぶん広がらない。取材が来たら、俺が自分で駿川さんに話します。下手でも、自分で」
そこで彼は一度言葉を切り、彼女の手元の手帳ではなく、手帳を持っている指の方を見た。
「それは、あなたの仕事じゃない。去年も、本当はそうだった」
声は低かった。責めているのではなかった。去年の秋のことを、彼は一度謝ってから、二度と自分からは口にしなかった。その彼が、今それを短く持ち出した。持ち出すことに、彼なりの迷いがあったのだろうと分かる間が、言葉の前にあった。
ドリームジャーニーは、「承知いたしました」と言って手帳を閉じた。
閉じてから、自分がこの部屋にいる理由が何も残っていないことに気づいた。
段取りは申し上げた。使わないようにと言われた。理屈はそこで終わっている。練習まではまだ少しあるが、空いた時間を埋める話題ならいくらでも持っている。中山の芝の状態も、当日の控室の動線も、年末の宿の選び方も。そのどれを口にしても、このまま帰れる。帰れば、針はどこにあるのか分からないまま、胸のどこかに残る。
暖房の弱い部屋で、窓の外の光が、彼の肩の輪郭を薄い橙色に縁取っていた。その肩の少し上に、シャツの襟がある。写真の中で直されていたのと同じ型の、同じ色の。今日は一方の端が少しだけ内側へ折れ込んでいる。直す人は、ここにはいない。
「ジャーニー?」
呼ばれて、自分が黙っていた時間の長さを知った。四年前に彼女自身が決めた、呼びかけの時間が短くて済む呼び方。その短い響きが、今日は少しだけ長く耳に残った。
訊く理由はない。彼の私生活である。担当として知っておくべきことでもない。彼が言わないことを、彼女は四年間、一度もこちらから開けなかった。それが彼女の礼節であり、たぶん、自分のことも開けられたくないという気持ちの裏返しでもあった。
けれど今年、彼は彼女に課題を一つ足した。そして毎日、彼女自身のために何をしたのかを訊いてくる。その問いに、彼女はまだ一度も、自分のために誰かに何かを訊いた、と答えたことがない。
自分でもそうと分かるほど、彼女は息を一度、深く吸った。指先は膭の上で揃えていた。揃えていなければ、何かをつかんでしまいそうだった。
「トレーナーさん」
「はい」
「あの写真の方は。……貴方にとって、大切な方なのですか」
言ってしまってから、それがどの段取りにも入っていない言葉だと気づいた。言い回しを選んだ覚えがない。丁寧語の形だけが、慣れた道を通って勝手に整って出てきた。中身は、整える暇もなかった。
トレーナーさんは少しだけ驚いた顔をした。それから、訊かれたことそのものには迷いのない人の顔で、素直に頷いた。
「ああ。大切な人だよ」
その一瞬、部屋から音が消えたように感じた。
膝の上で揃えていた指は、そのまま動かなかった。微笑みも、たぶんそこにあった。口元も、背筋も、彼女が四年間そうしてきたように、彼女の置いた場所にあった。ただ、頭の上で、耳の先が一度だけ、彼女の許しを待たずに揺れた。前へ傾きかけて、その後ろに何かを聞き逃したかのように、元の角度へ戻る。そのわずかな動きを、彼女は耳の付け根で感じた。制御が間に合わなかったと、あとから分かった。
返事をしなければと思った。そうですか、でも、失礼いたしました、でもいい。丁寧語の引き出しにはいくらでも備えがあるのに、どれも喉の手前で引っかかり、その引っかかりがいつもより一拍だけ長く続いた。その一拍の間に、写真の女性の指が、彼の襟をつまむところが、一枚だけ頭の中を通り過ぎた。
彼は、彼女の沈黙を待たなかった。待たなかったのは、たぶん彼にとって、その答えが説明の途中だったからだ。少し照れたように端末を手に取り、それから、あっさりと続けた。
「大切な家族なんです。……俺の、母親なので」
母親。
その言葉は、耳には届いたのに、しばらくのあいだどこにも収まらなかった。荷物を詰めるとき、入るはずの場所に先に別のものが入っていて、手に持ったままどこにも置けない。そういう時間に似ていた。昨夜から胸の中に組み上がっていた絵が、左右の重さを失って傾いていくのが分かる。傾いていくのに、崩れきらない。
微笑みが消えていることに、彼女は少し遅れて気づいた。
「お母様、と仰いましたか」
「言いました」
「ハイセイコーさんが。……トレーナーさんの」
最後まで言えなかった。問いの形を作ろうとして、その前に言葉の後ろが消えた。質問に質問で返すことならいくらでもできるのに、今は何を訊き返せばいいのかが分からない。
トレーナーさんは、その反応を予想していたようでもあり、予想していなかったようでもあった。端末を持ったまま、少しだけ視線を外して咋払いをする。照れているときの彼のやり方だった。
「まあ、そういう顔になりますよね。外では言ってないんです。結婚してて息子がいる、ってところまでは母が公表してますけど、その息子が誰かは誰も知らない。学園でも、たぶんほとんど」
先週の日曜は、母が都内で収録の仕事があって、その帰りに半日だけ空いたのだと、彼は言った。父の仕事で使う辞書の新しい版を書店で受け取り、台所の細々したものを買い足し、喫茶店で、母がどうしても食べたいと言った季節のタルトを二人で分けた。紙袋が重かったのは辞書のせいで、二枚目の写真の、あの襟は。
「あれは、昔からなんです。会うたびに直される。二十九にもなって、店の前で」
彼は自分で言って、自分で少し笑った。笑ってから、その笑いを持て余したように端末の画面を点けた。
「見ますか。信じろって言うのも、変な話なので」
信じていないわけではなかった。彼は嘘をつかない人だ。それを、彼女は昨夜も一度、自分に言い聞かせている。ただ、頭で分かったことと、胸の中で傾いた絵が元の形に戻ることとの間に、まだ距離があった。その距離を彼に見抜かれたような気がして、けれど彼が見抜いたのはたぶん、彼女が驚いているということだけだ。
「拝見して、よろしいのですか」
「ここでだけなら。どこにも載せてないやつなので」
差し出された端末を、彼女は両手で受け取った。太陽の光が画面に反射しないよう、自分の影の中へ引き寄せる。他人の端末を持つのは、この四年間で初めてだった。彼の日程を、彼より正確に持っているのに。
一枚目は、古い写真を撮り直したものらしかった。角が少し褐せ、光がやわらかく滲んでいる。家の中だ。壁際に置かれたアップライトのピアノと、その前の椅子に、足が床に届かない男の子が座っている。五つか六つか。黒い髪が寝癖で一房だけ跳ねていて、鍵盤に置いた小さな手の上に、大人の手が重ねられている。その手の持ち主は、男の子の隣に腰をかがめ、カメラの方を振り向いて口を大きく開けて笑っていた。髪を後ろで無造作にまとめ、エプロンを着ている。舞台衣装でもなければ、変装の帽子もない。それでも、その笑い方は、昨夜の写真の帽子の陰からこぼれていた口元と、同じものだった。
「母が、最初にピアノを教えてくれた頃のです。俺は覚えてないんですけど。写真が残ってるだけで」
彼女はその写真を、自分でも長いと分かるあいだ見つめていた。小さな男の子は、笑っていなかった。鍵盤だけを真剣に見ている。その真剣さの方は、今、音を消した映像を等速で繰り返し見る人の横顔に、そのまま残っているような気がした。
幼い頃、彼女はこの人を画面越しに見たことがある。
年の瀬の、音楽番組だったと思う。舞台の真ん中で衣装の裾を翻し、客席に向かって両手を大きく振っていた。受け取った声援を一つも取りこぼさずに返そうとするような、あの強い声と笑顔を、彼女は隣に座った妹の小さな肩越しに見ていた。あの人は、人に観られることを恐れない人なのだと、幼い彼女はぶんやり思ったものだ。
その人が今、エプロン姿で、五つか六つの男の子の指の上に自分の指を重ねている。舞台の上の笑い方と、この写真の笑い方は、まったく同じだった。家に帰って別の人になるのではなく、同じ明るさを、この人はただ、向ける先を変えて持ち帰っている。そういう風に見えた。その向ける先に、小さな彼が座っていた。
指で画面を送るように促されて、二枚目を開く。
窓の小さな部屋だった。本棚が壁一面を占め、机の上に画面が二つ並んでいる。その前で、首にヘッドホンを掛けた男の人が、印刷した台本の束を片手に、こちらを指されて振り返ったところだった。眉が少し寄っていて、口の端だけが上がっている。
ドリームジャーニーは、あっ、と声にならない声を出した。
その顔を、昨夜見た。週刊誌の写真の中で、襟を直されながら眉を寄せ、口の端だけで苦笑していた顔。四年間、トレーナー室で何度も見てきた、うるさいと言う一歩手前の顔。それが、彼より少しだけ細い縁の眼鏡の奥で、そっくり同じ形をしていた。
「父です。早瀬直人といいます。映画の字幕とか吹替の台本とかを、家で訳してる人で。この顔、俺と同じだって母によく言われます」
「……ええ。まったく、同じですね」
自分の声が、少しだけ緩んでいた。緩んだ理由は、彼女自身にも分からなかった。二つの顔が似ていることが、なぜかひどく可笑しかった。可笑しいのに、喉の奥が少しだけ熱い。
三枚目は、新しい写真だった。照明の色から、夜の居間だと分かる。炬燵の上に蜜柑の籠と、重箱の蓋。年始らしい。炬燵の一辺で父親が新聞を広げており、その向かいで、今より少しだけ若い彼が、立ち上がりかけた姿勢のままカメラの方を向いていた。その彼の胸元に、彼の横から手が伸びている。
人差し指と親指で、セーターの下からのぞいたシャツの襟をつまんでいる。帽子も眼鏡もなく、髪は下ろしたままだった。その人はカメラではなく、息子の襟だけを見ていて、その横顔は笑っているのに、どこか、出走前に勝負服の紐を確かめる人のように真剣だった。
同じ指だった。
昨夜、画面の中で、喫茶店の硝子扉の前の彼の襟を直していた指。迷いのない、何度も何年も同じようにそこを直してきた人の手。彼女はその手を、自分でもそう読んだのだ。何度も、何年も。読みは正しかった。ただ、その年数が、彼女の想像したものよりずっと長かっただけだ。この人の一生分の長さだった。
胸の中で傾いていた絵が、音もなく元の場所へ座った。
彼女は息を吐いた。吐いてから、今までどれだけ浅く息をしていたのかを知った。肩の力が、彼女の許しを待たずに抜けていく。それは耳のように勝手に動いたわけではなかったが、彼女はそれを止めようともしなかった。
「本当に、お母様なのですね」
それは問いではなかった。彼もそう受け取ったようで、「はい」とだけ短く言った。
端末を返す前に、彼女は一つだけ訊いた。訊くべきかどうかを考えるより先に、口が動いていた。
「大きなレースの翌週に、ご連絡が届いていらっしゃいましたね。返信に、少しお時間をかけていらした。あれは」
彼は一瞬、何のことかという顔をして、それから少しだけ耳の縁を赤くした。そんなところを見られていたとは思っていなかった、という顔だった。
「母です。担当の名前は書かないんですけど。一行だけ。……毎回、ちゃんと見てるんですよ。あなたのレースを」
その一行の中身を、彼は言わなかった。彼女も訊かなかった。中身を知らなくても、あのときの彼の口元を思い出せば十分だった。針だと思っていたものの一つが、先を失って、ただの温かい重さに変わる。自分の走りを、あの写真の笑い方をする人が、画面の向こうで見ていた。その事実が、思いがけない角度から胸に入ってきた。
端末を返そうとしたとき、画面の上に短い通知が降りてきた。彼女は反射的に目を逸らし、端末をそのまま彼の手へ渡した。彼は画面を一瞥して、眉を下げた。
「母からです。学校の方は大丈夫かって。事務所には自分でもう一回、きつく言っておいたから、あとは有馬のことだけ考えなさい、だそうです」
そう言ってから、彼は少しだけ声を落として付け足した。
「あと、直人さんは、雅也はたぶん気にしてないって言ってるけど、ちゃんと顔を上げて歩きなさい。……だそうです。気にしてないんですけどね、俺は」
その一通の中に、彼女は舞台の上の人と、炬燵の上で襟を直す人とが、同じ一人の人間として重なるのを見たような気がした。騒がれている当人が、先に周りの心配をしている。自分のことは一行も書いていない。それでいて、引くべきところはもう引いて、言うべきことはもう言ってある。たくましい人だ、と思った。そして、その人に「直人さん」と呼ばれる人が、写真の苦笑いの顔をしていることも。
彼女は、返された端末の暗い画面に、自分の指の影が映っているのを見ていた。
「……四年間、貴方の予定は、どなたよりも正確に存じ上げているつもりでおりました」
言うつもりのなかった言葉だった。段取りのどこにも、その一文は入っていない。
「切符も、宿も、お休みの日付も。……けれど、ご家族のお話は、一度も伺ったことがございませんでした。私が存じ上げていたのは、お仕事の時の貴方だけだったのかもしれません」
彼は端末をポケットにしまいかけた手を止めて、少し考える顔をした。それから、何でもないことを言うように、写真の消えた画面に目を落としたまま言った。
「言う理由が、なかったので。……でも、いつか、あなたには両親を紹介するつもりだったんですけどね」
そこで、彼の言葉が止まった。
止まったのは、言い終えたからではなかった。自分が今、何を言ったのかに、言い終えた後で気づいた人の止まり方だった。彼は一度だけ口を閉じ、視線を窓の方へ外し、首の後ろを掻いた。照れたときの順番だった。けれど、言い直しはしなかった。冗談です、とも言わなかった。
「……いつ、とか、決めてたわけじゃないです。機会があれば、って。それだけで」
ドリームジャーニーは、微笑みを崩さなかった。崩さないことには、慣れている。けれど、膝の上で揃えた指先が、彼女の許しを待たずに一度だけ、スカートの布を小さくつまんだ。耳の先が前へ傾きかけて、今度は、元の角度へ戻るのが一拍遅れた。
それは、いつの段取りに入っていたのですか。
その問いが、喉の手前まで来た。来て、そこで止まった。問えば、答えがある。答えがあれば、それはいつか予定表の升目になる。升目になってしまえば、この一言は、彼の中にあった余白ではなくなる。計画表のどこにも書かれていないのに、この人の中では、とうに空けてあった場所。彼女の知らないうちに、彼女の分として置かれていた、日付のない欄。
「……そうでしたか」
それだけを、いつもの高さの声で言った。言えたことに、自分で少しだけ驚いた。
彼は「そうでした」と小さく答え、それから、自分の言ったことの重さを持て余したように、もう一度だけ首の後ろに手をやった。
「この話は」と彼が言いかけた。
「どなたにも申し上げません。オルにも」
彼女は、彼が言い終える前に答えていた。先回りの癖だった。それから、少しだけ考えて付け足した。
「開示しないことにかけては、いくらか心得がございますので」
彼は一拍置いて、吹き出した。声を出して笑うのは、この人にしては珍しい。
「それは、信用してます」
その笑い声が収まるまでの短い間、彼女は彼の襟の、内側へ折れ込んだ端を見ていた。手は伸ばさなかった。伸ばしていい手ではないと、分かっていた。それは今の彼女の手でもなければ、段取りで取りに行くものでもない。
「心配かけて、すみませんでした」と彼は言った。有馬の前に、余計なことで。
彼にとって、この一件はそういう形をしているのだと、彼女には分かった。担当が、トレーナーの噂を心配して、段取りを持って来た。それだけの話。彼は、彼女の耳が一度揺れたことに、気づいていたとしても、そこにそれ以上の意味を読もうとはしていない。読まない人だと、四年間で彼女は知っていた。
「いえ」
彼女は微笑んだ。いつもの位置に、いつもより少し遅れて戻ってきた微笑みだった。
「心配だけでは、ございませんでしたので」
それ以上は言わなかった。彼は不思議そうに少し首を傾けたが、訊き返さなかった。訊かれないように終わらせる言い方を、彼女は選んだ。それは、今日この部屋で彼女が使った、ただ一つの段取りだった。
その日の練習は、日が落ちてからの坂路だった。
十二月の夕暮れは短い。西の空に残っていた橙色は、坂の下まで歩く間に紫へ、紫から灰色へと沈んでいき、やがて照明の白い光だけが、ウッドチップの路面を斜めに照らすようになる。息を吐くと、白いものがしばらく目の前に留まってから消えた。足の下で、木片の層が冷えて硬くなり始めているのが、靴底越しに伝わってくる。
一本目、彼女はいつもどおり低く沈んで坂を駆け上がった。重心を前へ、接地を短く。脚が地面を押すたびに、身体の奥に溜めた力が少しずつ前へ送られていく。その感覚が、昨日までよりも少しだけ軽かった。軽い理由を、彼女は走りながら考えないようにした。考えれば、その分だけ重くなる気がしたからだ。
二本目を終えて坂の上で息を整えていると、下でストップウォッチを握っていた彼が、少しずつ上ってきた。照明の下で、彼の吐く息も白かった。ブルゾンの襟は、立てたままだった。
「二本目、沈むのが一歩早かった。それでも最後まで上体が起きてこなかった。……今日は、迷ってない走りですね」
「そう、見えましたか」
「見えました。昨日の三本目は、坂の途中で一度だけ考えてたでしょう」
彼女は一拍遅れて、「ええ」とだけ答えた。昨日の夕方は、まだあの記事を知らなかった。考えていたのは、中山の四コーナーのことだ。それを彼は坂の下から、走りの崩れとして見ていた。この人は、彼女が何を考えているかは分からなくても、考えていることだけは分かる。そして中身を、自分からは当てに来ない。そのことが、今日は、いつもと少し違う意味でありがたかった。
三本目を走り、クールダウンの歩行を終えると、彼はいつものように坂路の脳のベンチの前で立ち止まった。あの秋から続いている問いが来る。彼女はそれを、もう身体で覚えていた。彼が立ち止まる位置も、ストップウォッチをポケットにしまう手の動きも、問う前に一度だけ彼女の顔を見る間も。
「今日、あなた自身のためにしたことは何ですか」
彼女は、答えを探した。
探して、探すまでもないことに気づいた。今日のどの時間を切り取っても、自分のためにしたことは一つしかなかった。それは、彼のためでも、妹のためでも、委員会の後輩たちのためでも、写真の中のあの人の私生活のためでもなかった。段取りを口実にして扉を叩き、口実がなくなった後で、それでも訊いた。訊かなければ、自分が苦しかったからだ。
「訊きに参りました」
彼は少しだけ眉を上げた。
「……自分のために、です」
それを言うとき、声が少しだけ短くなった。本音を言うときの、自分の癖だと分かっていた。分かっていて、今日はそれを直さなかった。
彼は、何を訊きに来たのかを訊かなかった。それが今日の午後の、あの部屋でのことなのだと、たぶん分かっていて、それでも訊かなかった。照明の下で、彼はしばらく彼女の顔を見ていて、それから、口の端を緩めた。
「それは、一つですね」
「ええ。……一つです」
寮への帰り道は、もうすっかり夜だった。
街灯の間隔は広く、灯りと灯りの間には、冬の暗さがそのまま残っている。彼女は歩く速さを、自分のためだけに決めた。誰も隣にいないとき、彼女はいつもより少しだけ速く歩く。それが今夜は、いつもより少しだけ遅かった。
安堵と痛みは、別々のものだった。
歩きながら、彼女は自分の中で起きたことを、荷を解くように一つずつ取り出して並べた。安堵は写真と一緒に来た。炬燵の上の蜜柑の籠と、セーターの下からのぞいた襟と、同じ指。それは確かに、一つの絵を元の形に戻した。けれど痛みの方は、写真より前に来ていた。昨夜のウマホの画面で、今日の午後の「大切な人だよ」で。その痛みは、答えが母親だと分かった後も、来たという事実だけは元に戻らない。
懸念ではなかった。
そう認めるのに、寮の門の灯りが見えるところまでかかった。有馬の前の噂を心配したのも、あの人の私生活を気にかけたのも、嘘ではない。ただ、そのどれも、画面の中の指を見たときの針のようなものとは、形が違った。針は彼の評判のために刺さったのではない。彼の襟に、迷わず伸ばされる手があるということに刺さったのだ。
嫉妬。
その言葉を、彼女は心の中で初めて、他の札を貼り替えずに読んだ。
これまでにも似たものはあったのだと、今になって分かる。二年前の夏、他のウマ娘が彼に遠征の相談をした翌朝、彼女は頼まれてもいない資料をいつもより多い頁数で彼の机に置いた。その後も、彼が他のトレーナーと食事の約束をしたとき、後輩が彼に差し入れをしたとき。彼女はそのどれもを、効率や、次の段取りや、淀れ忘れた紅茶の中へ、上手に詰め込んできた。今月の初め、彼が新人のトレーナーの指導を頼まれたときには、もうそれが何なのか分かっていて、言葉がいつもより丁寧に、長くなるのを止めなかった。そして自分の小ささを手帳に一行だけ書き、それで片付けた。詰め込めるだけの空きが、いつもどこかにあった。
今度のものには、空きがなかった。どこに詰めようとしても、他のものが先に入っていた。だから彼女は、それを手に持ったまま、あの部屋の扉を叩くしかなかったのだ。
しかも、その相手は彼の母親だった。
彼女は、少しだけ笑った。声にはしなかった。白い息が一度だけ大きくなり、すぐに夜に溶けた。四年間、あらゆるものを先回りして片付けてきた自分が、二十九歳の息子の襟を店の前で直す母親の手を見て、一晩眠れなかった。笑う以外に、どう扱えばいいのか分からない。
けれど、笑っても、針の痕は消えなかった。消えないことを、彼女はもう恐れてはいなかった。
あの痛みが教えたのは、締め出されることへの恐れではなかった。彼の生活には、彼女の段取りが届かない場所がある。届かない場所で、彼は人に襟を直され、苦笑いをして、それを許している。そういう場所に、自分もいたいと思っている。それを彼女は、あの写真の指を通して、初めて形として見たのだ。
そしてその場所は、外堀を埋めて届くものではない。切符や宿や資料の並べ替えの先には、たぶんない。相手が許し、自分が選んで、それでようやく手を伸ばしていい場所だ。今の彼女は、まだそこへ手を伸ばさない。伸ばさないと、ジャパンカップの夜に決めている。二月の、あの日までは。
それなのに、今日の午後、彼女は一つだけ余計なことを言った。
心配だけでは、ございませんでしたので。寮の門の手前で、彼女はその一文を、自分の口から出た形のままもう一度取り出して眺めた。言い過ぎたのかもしれない。そう思って、それから、そうではないと自分で確かめた。あの一文は、何も告げていない。心配のほかに何があったのかを、彼女は一言も言っていない。ただ、そこに何かがあったという空白だけを、彼の前に一つ置いてきた。
彼はその空白を覗かなかった。不思議そうに首を傾け、それでも訊き返さなかった。訊かれないように終わらせたのは彼女の方で、彼はただ、その終わらせ方を尊重したのだ。いつもと同じように。安堵があった。そして、その安堵のすぐ後ろに、ごく小さな、名前を付けるほどでもない物足りなさがあった。こちらからは開けない。けれど、訊かれれば、答えるかもしれない。そういう扉を、彼女はずっと自分のどこかに持っている。今日、その扉の前に、彼は立ち止まって、そして通り過ぎた。通り過ぎてくれた、と言うべきなのだろう。担当の契約が続く間は、それが正しい。二人ともそれを分かっている。分かっているのは彼女の方だけかもしれないが、それでも。
門をくぐる前に、彼女は一度だけ校舎の方を振り返った。渡り廊下の先の端の部屋に、まだ灯りがついている。音を消した映像の前で、あの人はたぶん、去年の中山の芝をもう一度頭から見ている。彼女の最後の一戦のために。その灯りを、彼女は手帳に書かなかった。書かなくても、忘れない種類のものだった。
耳が動いたことを、彼女は思い出した。前へ傾きかけて、戻った。制御が間に合わなかった。それは彼女にとって、段取りの外側で起きたことだった。これまで、段取りの外側で起きたことは、彼女にとってすべて失敗だった。今夜は、そう分類する札が見当たらない。
部屋の扉を開けると、妹はもう戻っていた。ベッドの端に腰を下ろし、腕を組んでいる。待っていたのだと、姿勢で分かった。
「姉上。昨夜の件は」
「片付きました。……私は、何もしておりません」
オルフェーヴルは、組んだ腕をほどかなかった。ただ、その目が、わずかに大きくなった。姉が何かを一人で片付けなかったという報せを、妹はたぶん、生まれて初めて聞いたのだろう。
「ほう」
それだけだった。中身は訊かない。写真の男性と女性がどういう関係なのかも、訊かない。姉が言わないことを、妹は訊かない。それがこの部屋の、二人の取り決めだった。そして今日、姉は、言えないことを一つ、初めて自分のためではなく他人のために持ち帰ってきた。
机に向かい、手帳を開いた。
昨夜の頁には、細かい字がまだ並んでいた。たづなさんへの相談、取材窓口への確認、後輩たちへの声かけ。その上に引いた細い保留の線。彼女はその線の横に、不要の印を付けた。消しはしない。一人で組み、使わずに終わった段取りとして、残しておく。そういうものも、この手帳にはあっていいと思えた。
それから、頁の端の細い線の内側へ、ペンを移した。「自分の分」。秋に一行だけ埋めてから、白いままになっていた欄。二年前の誕生日に彼から渡された、委員会の備品の替えのペンは、今夜もよく書けた。
「訊いた。」
三文字と句点だけを、普段の大きさの字で書いた。その下にもう一つ、書こうとした言葉があった。ペン先はそこで少しだけ迷って、紙に触れずに持ち上がった。その言葉は、書かなくても、もう自分のものだった。書いてしまえば、それはまた一つの記録になり、記録はいつか段取りの材料になる。二月のあの日に、準備していない言葉で言うためには、今書かないほうがいい。
午後に彼がこぼした「いつか」も、どこにも書かなかった。あれは彼女の欄ではない。彼の中の、彼女の知らない余白に置かれていたものだ。そこに日付を書き込むのは、彼女の段取りの仕事ではなかった。
手帳を閉じる。表紙と裏表紙が合わさる、小さな乾いた音がした。
その音に、後ろで妹が顔を上げたのが分かった。
「……姉上。顔に出ている」
振り返ると、オルフェーヴルは腕を組んだまま、いつもと同じ尊大な顔で姉を見ていた。その目の奥に、問い詰める色はなかった。
「何がでしょう」
ドリームジャーニーは微笑んだ。妹はそれ以上、何も言わなかった。組んでいた腕をほどいて立ち上がり、湯を沸かしに行く。しばらくして、カモミールの匂いが部屋に広がった。湯呑みが二つ、机の端に並べて置かれる。一つは妹の分で、もう一つは、頼んでもいない姉の分だった。
「いただきます、オル」
湯呑みを両手で包むと、陶器の温度が、今度は途切れずに掌の真ん中まで届いた。窓の外では、風がもう硝子を鳴らしていなかった。有馬記念まで、あと三週間。その先に、まだ書かない一行がある。彼女はその一行を、湯気の向こうに、今夜はただ置いておくことにした。