波間の星
第一章 温かさを拒む朝――七月二十五日から二十七日
七月二十五日の朝、合宿所の食堂の窓は、潮気で薄く曇っていた。
海に面した二階建ての宿舎の一階、板張りの広い部屋に長机が四列並び、合宿に来ている生徒たちが朝食をとっている。窓の外では、まだ低い日差しが砂浜を白く照らし、その向こうの海が、細かい光の粒を絶え間なく散らしていた。開け放した窓の網戸越しに、波の音と、遠くの海鳥の声が入ってくる。扇風機が三台、天井の近くで首を振り、湿った空気をかき回していた。
アドマイヤグルーヴは、窓際の端の席で、決めた量の朝食を前にしていた。
茶碗に一杯半の飯、焼いた鯵が一尾と小鉢、味噌汁、青菜の和え物。合宿中は主菜を半分増やすことになっていて、鯵の横に、卵焼きが二切れ添えてある。手を合わせ、いただきます、と小さく言った。
箸を取った指に、力が入りすぎていた。
自分でそれに気づき、一度だけ箸を置いて、指を開いた。それから、もう一度取る。味噌汁の椀を持ち上げると、湯気が鼻先に当たった。若布の匂い。いつもと同じ味のはずだった。舌の上で、味がうまく形にならなかった。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
合宿の五日目の夜だった。午後の砂浜の練習で、右脚にかすかな違和感があった。誰にも言わずに走り続けた。言うほどのものではないと思った。自分の脚のことは、自分がいちばんよく分かっている。そう思っていた。
トレーナーが、練習を止めた。
走り方のわずかな変化に気づいたのだと、あとで医療担当から聞いた。医療担当の評価は軽い張りで、二日休めば問題ないとのことだった。それだけのことだった。
夜、一人で宿の裏の浜に出ると、彼が先にいた。砂の上に腰を下ろして、膝の上の手帳に、翌日以降の練習の組み直しを書いていた。
なぜ、気づいたんですか。
自分がそう聞いたのは、本当に知りたかったからだった。自分ですら気づかないふりをしていた変化を、どうして外から見て分かったのか。
見てたから。
彼はそれだけ答えて、手帳に目を戻した。
その一言で、胸の中にあったものに、名前がついてしまった。
信頼だと思っていた。安心だと思っていた。二年と少し、毎日同じ時刻に資料を持ってくる人の隣にいると、なぜか呼吸が楽になる。その理由を、自分は考えないようにしてきた。考える必要がないと思っていた。合理的な分析をくれる人だから。自分の判断を最後まで聞く人だから。それだけだと思っていた。
それだけではなかった。
見ていてほしい。見ていてくれることが、嬉しい。その気持ちは、信頼や安心という言葉の外側にはみ出していた。はみ出した部分に、名前がついた。
おやすみなさい、とだけ言って、宿へ戻った。彼は、おやすみ、と普段どおりに返した。
部屋の布団に入っても、波の音がいつまでも耳に残った。イヤホンを探して耳元に手をやりかけ、やめた。何を流しても、消えない音だと分かっていた。
*
朝食のあと、合宿所の打ち合わせ用の小部屋で、その日の練習の確認があった。
窓の外に海が見える小さな部屋で、長机が一つと、椅子が四つ。扇風機が一台、窓際でゆっくり首を振っている。トレーナーは、いつもと同じ時刻に、いつもと同じように資料を持って現れた。
「おはよう、アルヴ」
「おはようございます」
彼の声を聞いて、自分の耳がそちらへ向きかけたのを、アルヴは意識して止めた。止めたことで、かえって首のあたりがこわばった。
彼は資料を机の上に置き、今日の内容を説明しはじめた。右脚の張りを考えて、今日と明日は砂浜での負荷を下げる。代わりに、宿舎の近くの平らな道で、フォームの確認を中心にする。医療担当の評価も添えてある。
アルヴは資料に目を落としていた。
彼の顔を見なかった。いつもなら、説明の要所で一度だけ顔を上げ、彼の目を見て、理解したことを確かめる。今日は、それができなかった。顔を上げれば、昨夜の浜の暗がりで、手帳から目を上げなかった彼の横顔が、一緒に浮かんでくる気がした。
「質問は」
「ありません」
「張りは、今朝はどうだ」
「問題ありません」
短く答えた。彼は少しだけ間を置いて、それから頷いた。
「分かった。何かあったら言ってくれ」
彼は資料の横に、小さな水筒を一本置いた。合宿が始まってから毎朝、彼が用意してくる麦茶だった。宿の厨房で煮出してもらい、冷やして持ってくる。水分補給は合理的です、と第二年の冬に言ってから、アルヴは毎朝それを受け取ってきた。
「結構です」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
「自分で、用意しています」
彼は水筒を見下ろし、それからアルヴを見た。ほんの一瞬、何か言いかけたように見えた。だが、言わなかった。
「そうか」
彼は水筒を自分の鞄に戻した。その動作は、急いでもいなかったし、ためらってもいなかった。いつもと同じ手つきだった。
アルヴは資料を持って立ち上がり、浅く礼をして、部屋を出た。
廊下に出て、扉を閉めた。背中を扉に預けたくなるのを、こらえた。歩き出す。足音が、板張りの廊下にいつもより硬く響いた。
自分で用意している、というのは、嘘だった。
*
七月二十六日。
宿舎の近くの平らな道は、松林に沿って海岸と平行に延びていた。舗装の上に、夜のうちに吹き寄せられた細かい砂が薄く積もっている。朝の日差しが松の枝の隙間から落ちて、道の上に揺れる影の模様をつくっていた。蝉が鳴きはじめていた。
フォームの確認の合間に、トレーナーは二度、助言をした。一度目は、腕の振りの角度について。二度目は、右脚に体重が乗る瞬間の、上体の傾きについて。どちらも、普段なら素直に受け取る内容だった。
「それは、私が決めます」
一度目の助言に、そう返した。
彼は少しだけ眉を上げ、それから、分かった、と言った。
二度目の助言にも、同じ言葉を返した。
三度目は、助言ではなかった。練習の終わりに、彼が明日の予定を説明し、砂浜に戻すのは明後日からにしようと言った。それにも、アルヴは同じ言葉を返した。
「それは、私が決めます」
言ってから、自分でも言いすぎたと思った。明日の予定は、医療担当の評価に基づいたものだった。自分が決めることではない。決めるのは、医療担当の評価と、彼の計画と、自分の申告の三つを合わせた結論だった。二年以上、そうやってきた。
彼は、手帳を閉じた。
「分かった。計画はここに置いておく。使うかどうかは、アルヴが判断してくれ」
彼は紙を一枚、道端の柵の上に置き、小石で押さえた。それから、宿舎のほうへ歩いていった。振り返らなかった。
アルヴは、柵の上の紙を見ていた。
松の枝のあいだを、海からの風が抜けていった。紙の端が、小石の下でかすかに震えた。
彼女は紙を手に取った。読む前に、四つに折って、ジャージのポケットにしまった。
*
その日の夜、宿舎の部屋で、同室のレッドディザイアが、机の上の折り鶴を見ていた。
合宿に持ってきた折り紙の束から、アルヴは毎晩、一羽か二羽を折る。考えごとがあるときは、紙を折っていると、結論が出る。折り鶴が一羽できるころには、たいてい何かが決まっている。
今夜の机の上には、四羽並んでいた。どれも、首のところで少しだけ形が崩れていた。
ディザイアの視線が、折り鶴の上で少し長く止まった。何かを言いかけるように、唇がわずかに動いた。
「放っておいてください」
アルヴは、ディザイアが口を開く前に言った。
ディザイアは何も言わなかった。言わずに、自分の布団に入り、明かりを消していいかと目で尋ねた。アルヴは頷いた。
暗くなった部屋で、波の音だけが聞こえた。
*
同じ夜、合宿所の離れで、早瀬雅也は手帳を開いていた。
離れは宿舎の裏手にある平屋で、トレーナーの寝泊まり用に貸し出されている。六畳の部屋に、座卓と布団と小さな冷蔵庫。窓を開けると、松林越しに波の音が届く。蚊取り線香の煙が、窓辺で細く立ちのぼっていた。
今日の欄に、雅也は練習の記録を書き写した。フォームの確認。腕の振りの角度、右脚の荷重。数字は悪くない。張りも、本人の申告では問題ない。
その下に、一行足した。
助言、三度とも本人判断を希望。
書いてから、ペンを止めた。
昨日から、彼女の様子が違う。目を合わせない。麦茶を断った。助言に、それは私が決めます、と返す。二年前の春、最初に会ったころの彼女に、少し似ていた。誰とも組むつもりはありません、と言った彼女。
理由は分からない。
聞けば分かるのかもしれない。だが彼女は、聞いてほしそうな顔をしていなかった。自分で決めたいと言っている。それなら、決めさせればいい。彼女はもともと、自分の判断で走る競技者だった。そのために資料を作り、二つ以上の案を渡し、選ぶのは本人に任せてきた。
計画は、置いてきた。使うかどうかは、彼女が決める。
雅也は手帳を閉じた。窓の外で、波が一つ、砂の上に崩れる音がした。
*
七月二十七日の午後、アルヴは、宿舎の裏の広場で、トレーナーが他の生徒と話しているのを見た。
合宿の後半に予定されている合同練習の打ち合わせだった。他のチームのトレーナーと、そのチームの生徒が二人、彼と向かい合って立っている。彼は手帳を開き、日程の表を指で示しながら、何かを説明していた。生徒の一人が質問をし、彼が短く答え、相手が笑った。
それだけの光景だった。
仕事の話だと、見れば分かった。合同練習の日程を合わせるのは、トレーナー同士の当たり前の仕事だった。彼が他の生徒に丁寧に答えるのも、いつものことだった。誰に対しても、彼は同じ声で話す。
胸の奥が、ざわついた。
ざわついたことに、アルヴは驚いた。驚いて、それから、腹が立った。誰に対してでもなく、自分に対して。
こんなことで心が乱れるのは、規律の乱れだった。自分は、なれ合いを必要としないと言ってきた。周囲の評価は雑音だと思ってきた。誰かが誰かと話しているのを見て胸がざわつくのは、その雑音に、自分から耳を傾けているのと同じだった。
彼女は踵を返し、宿舎の中へ戻った。
廊下の窓の外で、海がまぶしく光っていた。耳元に手をやりかけて、止めた。イヤホンは部屋に置いてきていた。
部屋に戻ると、ディザイアはいなかった。机の上に、湯呑みが一つ置いてあった。中に、温かいお茶が入っていた。湯気がまだ細く立っている。
アルヴはそれを見下ろした。
放っておいてください、と昨夜、ディザイアに言ったのを思い出した。ディザイアは本当に放っておいた。何も聞かなかったし、何も言わなかった。ただ、お茶だけが、そこにあった。
アルヴは湯呑みに手を伸ばしかけ、止めた。
それから、手を伸ばした。
両手で包むと、陶器の熱が手のひらに沁みた。夏なのに、指先が冷えていたことに、そのとき初めて気づいた。
一口飲んだ。少し苦かった。
温かいものを受け取ると、均衡が崩れる。そう思って、今朝、麦茶を断った。昨日、助言を断った。今日、彼が誰かと話しているのを見て、胸がざわついた。受け取ってしまえば、もっと崩れる。だから、受け取らないことにした。
それなのに今、自分はディザイアのお茶を飲んでいる。
矛盾していた。矛盾していると分かっていて、湯呑みを置くことができなかった。
窓の外で、日が傾きはじめていた。明日から、砂浜の練習に戻る。彼の計画では、そうなっている。ジャージのポケットの中で、四つに折った紙が、まだ読まれないまま、乾いた音を立てた。
第二章 「気まぐれ」という言葉――七月二十八日
七月二十八日、砂浜の練習は、朝の涼しいうちに始まった。
干潮に近い時刻で、波打ち際から乾いた砂のところまで、濡れた砂の帯が広く延びていた。濡れた砂は締まっていて、足を置くと、靴の形がくっきりと残る。乾いた砂は柔らかく、踏み込むたびに足首まで沈む。合宿の砂浜の練習は、この二種類の砂を使い分けて組まれていた。
早瀬雅也は、乾いた砂の手前に立ち、ストップウォッチを首から下げていた。
計画では、今日は濡れた砂の上だけを使う。右脚の張りを考えて、柔らかい砂で踏み込む負荷はまだ戻さない。それは昨日、柵の上に置いた紙に書いてあった。彼女がそれを読んだかどうかは、分からなかった。
アルヴは、濡れた砂の上を走った。
一本目は、計画どおりだった。二本目も。三本目の終わりで、彼女は進路をわずかに陸側へ寄せ、乾いた砂の縁を、数歩だけ踏んだ。踏んで、すぐに濡れた砂へ戻った。
雅也は、それを見ていた。
意図があってのことなのか、ただ進路がぶれただけなのか、遠目には判断がつかなかった。乾いた砂を踏んだ数歩で、右脚に体重が乗る瞬間の上体の傾きが、ほんのわずかに浅くなった。張りをかばう動きなのか、それとも砂の柔らかさに足を取られただけなのか。
四本目、彼女は濡れた砂から一度も外れなかった。
走り終えた彼女は、波打ち際を歩いて息を整えた。雅也は近づき、いつもの距離で立ち止まった。
「三本目の終わり、乾いた砂を踏んだな」
「進路が、ぶれました」
「右脚は」
「問題ありません」
短い答えだった。彼女は雅也の顔を見ず、波打ち際の白い泡を見ていた。耳はまっすぐ立っていたが、こちらへは向いていなかった。波の音のほうを向いたまま、動かない。
「分かった。今日は、これで上がる」
「まだ、本数が」
「計画では四本だ」
彼女は何か言いかけて、口を閉じた。それから、はい、とだけ言って、宿舎のほうへ歩いていった。
*
午後の練習は、宿舎の裏手にある合宿用の練習コースで行われた。
砂浜から少し内陸に入った、芝を張った周回のコースだった。周囲を松林が囲んでいて、海からの風は木々にさえぎられ、コースの上の空気はむっとこもっていた。日差しは傾きかけていたが、まだ強い。芝の上に陽炎がゆらいでいる。蝉の声が、松林のあらゆる方向から降ってきて、耳の中を満たしていた。
夕方の練習が終わったのは、六時を少し回ったころだった。
他の生徒たちは、それぞれのトレーナーと短く言葉を交わして、宿舎のほうへ引き上げていった。コースの周りに、少しずつ人がいなくなる。蝉の声が、昼のものからヒグラシの声へ、いつのまにか入れ替わっていた。
アルヴは、コースの端の木のベンチのそばで、タオルで首筋の汗を拭いていた。
雅也は手帳から一枚の紙を外し、彼女のほうへ歩いた。
明日の計画だった。右脚の張りは、医療担当の今朝の評価では、ほぼ抜けている。それでも、明日はもう一日だけ、負荷を下げておきたい。砂浜は濡れた砂だけ、本数は今日と同じ。午後は平地で、フォームの持続を見る。張りが完全に抜けたと確認できたら、明後日から乾いた砂を戻す。紙には、その理由を三行で書き添えてあった。
ベンチを挟んで、斜め向かいに立った。いつもの距離だった。腕を伸ばせば紙が届く。それより近づかない。
「明日の計画だ」
雅也は紙を差し出した。
「右脚の負荷を、もう一日下げる。医療担当の評価だと、張りはほぼ抜けてる。ただ、今朝の三本目で乾いた砂を踏んだとき、上体の傾きが少しだけ浅くなった。かばってるのか、砂に取られただけなのか、俺には判断がつかなかった。だから、明日一日、様子を見たい」
アルヴは、紙を見なかった。
タオルを首にかけたまま、手を下ろしていた。視線は、雅也の胸のあたりに落ちていた。顔ではなかった。
紙は、二人のあいだの空中で、差し出されたまま止まっていた。ヒグラシの声が、松林の奥から、高く途切れ途切れに響いた。
雅也は、紙を引っ込めるべきかどうか、一瞬迷った。
そのとき、彼女が口を開いた。
「必要ありません」
声は小さかった。だが、はっきりしていた。
「あなたの分析がなくても、私は走れます」
雅也は、紙を差し出した姿勢のまま、動かなかった。
彼女は顔を上げなかった。視線は雅也の胸元に置いたまま、言葉だけが、一つずつ、平らな温度で出てきた。
「最近、あなたは構いすぎです」
敬語は、崩れていなかった。言葉の端も、乱れていなかった。いつもと同じ、丁寧な言葉遣いだった。ただ、その温度だけが、ひどく低かった。
「同情で構われるのは、迷惑です」
ヒグラシが鳴きやんだ。
ほんの数秒、松林の中が静かになった。その静けさの中に、彼女の最後の言葉が落ちた。
「気まぐれで構うのは、やめてください」
*
言葉が、どこに当たったのか、雅也はすぐには分からなかった。
まず、差し出した紙を持つ指が、止まった。止まっていたことに、遅れて気づいた。指先に、紙の端の硬さだけが残っていた。
彼女の顔を見た。
彼女は、まだ顔を上げていなかった。視線は同じ場所、自分の胸元のあたりにあった。表情は、横からの夕日の影になって、よく見えなかった。頬のあたりが、少しこわばっているようにも見えた。そう見えたのは、自分がそう見たかっただけかもしれなかった。
雅也は、視線を落とした。
足元の芝。夕方の湿気を含んで、色が少し濃くなっている。その上に、自分の靴と、彼女の靴の先が見えた。二つの靴のあいだに、ベンチの脚が一本、地面に沈んでいる。
気まぐれ。
その一語が、遅れて、胸の奥のどこかに届いた。
二年と三か月、毎朝、同じ時刻に資料を持っていった。雨の日も、彼女がレースに負けた日も、彼女が口をきかなかった日も。第一年の最初の春、彼女は、毎日同じ時刻に来る自分を警戒していた。いつか来なくなるだろうと思っていたのかもしれない。それでも行った。行き続けた。いつのまにか、彼女は、来ない日があると落ち着かない、という顔をするようになった。
その二年と三か月を、彼女は、気まぐれと呼んだ。
何かを言い返そうとして、口を開きかけた。
気まぐれじゃない。同情でもない。二年間、毎日、仕事として、アルヴの走りを見てきた。
言葉は、口の手前まで来て、そこで止まった。
言い返せば、それは彼女の言葉を否定することになる。彼女がそう感じた、ということを。理由は分からない。分からないが、彼女は今、そう言った。自分の判断で、自分の言葉で。それを打ち消して、俺はそうじゃないと主張したところで、何が変わるのか。
言い返さない、と決めた。
決めるまでに、どれくらいの時間がかかったのか、雅也には分からなかった。数秒だったのかもしれない。もっと長かったのかもしれない。そのあいだ、彼女は一度も顔を上げなかった。
顔の筋肉が、ゆっくりと動いた。
自分が何かの表情をつくろうとしていることに、雅也は気づいた。何をつくろうとしているのか、自分でも分からなかった。気づいたときには、口の端が、わずかに持ち上がっていた。困ったような、苦い笑みだった。どうしてそんな顔になったのか、説明できなかった。
「分かった」
声は、思っていたより落ち着いていた。
「計画は、置いておく」
雅也は、差し出したままだった紙を、ベンチの上に置いた。風で飛ばないように、自分の手帳の下から取り出した小さなクリップで、ベンチの板の縁に留めた。指が、クリップの金具を一度押し損ねた。二度目で、留まった。
「使うかどうかは、アルヴが決めろ」
それだけ言って、雅也は踵を返した。
声を荒げなかった。理由も聞かなかった。何があった、とも、どうしたんだ、とも。聞くべきかどうかを、考えなかったわけではない。ただ、彼女は今、聞いてほしそうな顔をしていなかった。自分を拒んでいる顔だった。拒まれている相手に、理由を問いただすことは、さらに踏み込むことになる。それを、彼女は望んでいない。
そう判断した。
コースの端から宿舎のほうへ、松林の中の小道を歩いた。足元の砂混じりの土が、靴の下で乾いた音を立てた。振り返らなかった。振り返れば、彼女がまだそこに立っているのが見えるだろう。見て、何を思えばいいのか分からなかった。
松林の切れ目まで来て、ようやく足を止めた。
手帳を開こうとして、手が止まった。今日の欄に、何を書けばいいのか。練習の記録は、もう書いてある。それ以外のことは、記録ではなかった。
ヒグラシが、また鳴きはじめていた。
*
アルヴは、ベンチのそばに立ったまま、動かなかった。
クリップで留められた紙が、ベンチの板の上で、夕方の風に端だけをわずかに震わせていた。
彼女はそれを見下ろしていた。
手に取らなかった。取ろうとすれば、手が届く距離だった。腕を少し伸ばすだけでいい。だが、手は身体の横に下ろしたまま、指先さえ動かなかった。
彼の足音が、松林の小道を遠ざかっていくのが聞こえていた。砂混じりの土を踏む、乾いた、規則正しい音。少しずつ小さくなり、やがてヒグラシの声に紛れて、聞こえなくなった。
それでも、耳はまだそちらを向いていた。
気づいて、アルヴは耳を正面へ戻そうとした。戻らなかった。耳は、もう誰もいない小道の方角を向いたまま、硬く止まっていた。尻尾は身体の後ろで張りつめ、先のほうだけが、押さえきれずに一度、揺れた。
最後に見えた彼の顔を、思い出していた。
困ったような、苦い笑み。
彼の苦笑は、二年と少しのあいだに何度も見てきた。資料の誤字を指摘したときの、助かったと言うときの苦笑。チョコレートのケーキを頼んで、堕落です、と言われたときの苦笑。レースで負けて、自分が内を選んだと言ったときの、それでも筋は通っていた、と答えるときの苦笑。種類ごとに、少しずつ形が違う。いつのまにか、その違いが見分けられるようになっていた。
さっきのは、どれとも違った。
初めて見る形だった。
口の端は持ち上がっていたのに、目が笑っていなかった。笑っていないのに、怒ってもいなかった。何かを受け取って、それをどこに置けばいいか分からないまま、仕方なく顔に出てきた、という形だった。
アルヴは、その形を、頭の中から追い出そうとした。
追い出せなかった。
ベンチの上で、紙がまた、風に端を震わせた。彼女はそれを見下ろしたまま、長いあいだ立っていた。松林の向こうで、日が落ちていった。コースの芝の色が、緑から灰色へ、ゆっくりと沈んでいった。
第三章 同じ浜辺での後悔――七月二十八日夜
夜の九時を過ぎると、宿舎の窓の明かりは、半分ほどに減っていた。
アルヴは、宿舎の裏口から外に出た。裏口の扉は重く、閉めるときに蝶番がかすかに軋んだ。その音が、思ったより大きく夜の中に響いて、彼女は一瞬だけ足を止めた。誰も出てこなかった。
松林を抜ける小道は、昼間とはまるで違う場所に見えた。
木々の幹が黒い柱のように並び、そのあいだに、宿舎の窓から漏れる明かりが細く差し込んでいる。足元の砂混じりの土は、昼の熱をまだかすかに残していて、靴底越しにぬるい温度が伝わってきた。蝉は鳴きやみ、代わりに、草むらのどこかで虫が細く鳴いていた。
松林が途切れると、波の音が急に大きくなった。
四日前の夜と、同じ浜だった。
だが、同じには見えなかった。四日前は、もっと潮が引いていた。濡れた砂の帯が広く、その上に月の光が白く伸びていた。今夜は潮が満ちかけていて、波打ち際が、乾いた砂のすぐ近くまで寄ってきている。月は雲の向こうに隠れ、海は黒く、波頭だけが、宿舎の明かりを受けて、ときおり鈍く白く光った。
風が、海から吹いていた。
四日前より、少し強い。湿った潮の匂いを含んで、頬に当たると、肌の上に細かい塩の粒が残るような気がした。
アルヴは、乾いた砂の上を歩いた。
足が砂に沈む。一歩ごとに、靴の中に細かい砂が入り込んでくる。四日前に座った場所は、覚えていた。宿舎の明かりと、松林の一番端の木との位置関係で。あのとき、彼はそこから少し波打ち際に寄った場所にいて、膝の上の手帳に何かを書いていた。
今夜、そこには誰もいなかった。
彼女は、四日前に座ったのと同じ場所に、腰を下ろした。
乾いた砂は、昼の熱をもう失っていた。ジャージ越しに、ひんやりとした感触が腿の裏に伝わってきた。膝を立て、その上に、手に持っていたものを置いた。
紙が一枚と、折り紙が一枚。
*
紙は、あのあと、結局拾った。
トレーナーの足音が聞こえなくなってから、どれくらい立っていたのか、覚えていない。日が落ちて、コースの芝が灰色に沈み、ヒグラシが鳴きやんだころだった。ベンチの上で、クリップに留められた紙が、薄暗がりの中で白く浮かんでいた。
置いていけば、誰かが見つける。見つけた誰かが、それを彼のところへ届けるかもしれない。そう思った。それは嫌だった。彼の計画が、自分に読まれないまま、誰かの手で彼に返される。その光景を想像したとき、手が勝手に伸びていた。
クリップを外した。金具は、彼が一度押し損ねたらしく、紙の縁に小さな皺が寄っていた。
今、その紙が、膝の上にある。
アルヴは、それを開かなかった。開かなくても、何が書いてあるかは分かっていた。明日の計画。右脚の負荷を、もう一日下げる。濡れた砂だけ、本数は今日と同じ。午後は平地で、フォームの持続。理由は三行。彼は、自分が判断に迷った点まで書いてくる人だった。俺には判断がつかなかった、と。今朝の三本目の、乾いた砂を踏んだ数歩のこと。
乾いた砂を踏んだのは、進路がぶれたからではなかった。
右脚の張りが、本当に抜けているのか、自分で確かめたかった。確かめて、問題ないと分かれば、彼の計画がなくても自分は走れる、と思えるかもしれなかった。
実際には、乾いた砂を踏んだ瞬間、右脚にかすかな重さが戻った。かばった。上体の傾きが浅くなった。彼はそれを、遠くから見ていた。
見ていた。
四日前の夜と、同じだった。
紙の上に置いた折り紙を、アルヴは手に取った。
正方形の、淡い水色の紙だった。合宿に持ってきた束の、残り少ない一枚。考えごとがあるとき、彼女は紙を折る。折り鶴が一羽できるころには、たいてい結論が出る。そうやって、何年も前から、いくつもの結論を出してきた。
三角に折る。もう一度、三角に。開いて、四角に潰す。
指が、そこで止まった。
次の折り目を、うまくつけられなかった。紙の角と角を合わせようとすると、指先がかすかに震えて、角がずれる。ずれたまま折ると、形が崩れる。崩れないように、もう一度合わせ直す。また、ずれる。
風が吹いて、紙の端がめくれた。
アルヴは、紙を膝の上に押さえつけた。押さえた手のひらの下で、水色の紙が、浅く皺になっていく感触があった。
折れなかった。
何年も前から、一度も失敗したことのない、何百回も折ってきた形だった。それが、今夜は、四つ目の折り目から先へ進まなかった。
*
気まぐれ、と言った。
波が、一つ、砂の上に崩れた。白い泡が、乾いた砂の縁まで這い上がって、音もなく引いていった。
彼の仕事を、気まぐれと呼んだ。
毎朝、同じ時刻に資料を持ってくる人だった。二年と少し、一日も欠かさずに。第一年の春、自分はそれを警戒していた。いつか来なくなる。どうせ一時的な熱意だと思っていた。そう思いながら、毎朝、扉の前で彼の足音を待っていた自分がいた。
来なかった日は、一日もなかった。
気まぐれな人間は、毎日同じ時刻には来ない。そんなことは、誰よりも自分が知っていた。知っていて、その言葉を選んだ。いちばん刺さる言葉を。温かさを切り捨てるには、いちばん温かいところを、いちばん冷たい言葉で否定するしかないと思った。
同情で構われるのは、迷惑です。
彼が自分に向けていたのは、同情ではなかった。それも、分かっていた。彼は、自分を気の毒がったことが一度もない。神童と呼んだことも、一度もない。自分の判断を最後まで聞いて、筋が通っていれば、筋が通っていると言う。それだけの人だった。それだけのことが、どれほど得難いかを、自分は知っていた。
知っていたから、怖かった。
アルヴは、膝の上の紙と、皺の寄った水色の折り紙を、両手で押さえたまま、黒い海を見ていた。
謝らなければならない。
その言葉が、胸の中で、はっきりと形になっていた。明日の朝、打ち合わせの小部屋で、彼が資料を持って現れたら。あるいは、今夜のうちに、離れまで歩いていって、扉を叩いて。言うべき言葉は、もう分かっている。気まぐれと言ったのは、間違いでした。ごめんなさい。
そこまで考えて、思考が止まった。
謝れば、彼は理由を聞くかもしれない。聞かないかもしれない。彼は、聞いてほしそうな顔をしていない人間には聞かない人だった。それでも、謝ったあとで、自分はきっと、彼の顔を見ることになる。見れば、四日前の夜に名前のついてしまったものが、顔に出る。出れば、彼は気づくかもしれない。
気づかれたら、どうなるのか。
自分は、なれ合いは必要ないと言ってきた。愛など、自分には必要ないと。その自分が、担当のトレーナーを好きになった。見ていてほしい、と思った。見ていてくれることが嬉しい、と。
それを認めることが、怖かった。
謝ることと、気持ちを認めることが、同じ一本の糸でつながっているような気がした。片方を引けば、もう片方もついてくる。謝りたい。謝れば、全部が出てしまう。出てしまうのが怖い。だから、謝れない。
その二つが、胸の中で、同じ強さで引き合っていた。どちらも、もう片方を消してはくれなかった。
*
耳が、後ろへ倒れていた。
波の音を遮ろうとするように、頭の後ろのほうへ、ぴったりと。倒した耳の内側で、それでも波の音は聞こえ続けていた。耳を伏せたところで、消える音ではなかった。
尻尾は、身体の後ろの砂の上に、下がったまま動かなかった。毛の先に、乾いた砂が少しついているのが分かった。いつもなら、すぐに払う。尻尾の手入れは、誰にも任せたことがない。今夜は、払う気になれなかった。
目の奥が、熱かった。
熱いだけで、何も落ちてこなかった。落ちてくれれば、少しは楽になるのかもしれないと思った。だが、身体のどこかが、それを許さなかった。泣くのは、また別の甘えのような気がした。自分が壊したものの前で、自分が泣くのは、筋が違う。
アルヴは、膝の上の紙を、ようやく開いた。
月が雲から少しだけ出ていて、紙の上の文字が、かろうじて読めた。彼の字だった。几帳面で、少し右上がりの字。明日の計画。右脚の負荷を、もう一日下げる。理由の三行目に、こう書いてあった。
――かばってるのか、砂に取られただけなのか、判断がつかなかった。明日、本人の感覚を聞きたい。
本人の感覚を聞きたい。
アルヴは、その一行を、何度も読んだ。
彼は、聞くつもりでいた。今日の夕方、あのベンチの前で、自分が何も言わなければ。必要ありません、と言わなければ。明日、彼は、右脚の感覚を自分に聞いていた。聞いて、自分の言葉を待っていた。
その機会を、自分で潰した。
紙を畳んだ。皺の寄った水色の折り紙と一緒に、ジャージのポケットにしまった。折り紙は、結局、四つ目の折り目のまま、鶴にはならなかった。
立ち上がろうとして、すぐには立てなかった。膝に力が入らなかったわけではない。立ち上がれば、宿舎へ戻ることになる。戻れば、明日が来る。明日の朝、彼は、いつもの時刻に資料を持ってくるのだろうか。
来ない、とは思えなかった。来る、とも思えなかった。
アルヴは、もうしばらく、そこに座っていた。
満ちてくる潮が、少しずつ、乾いた砂の縁を濡らしていった。最初は遠かった白い泡が、一つ、また一つと、座っている場所へ近づいてくる。やがて、ひときわ大きな波が崩れ、その泡が、彼女の靴の先から、指一本ぶんのところまで這い上がって、止まった。
それで、ようやく立ち上がった。
ジャージの尻についた砂を払う。尻尾の先の砂も、指で一度だけ払った。宿舎の明かりのほうへ、乾いた砂の上を歩き出す。振り返らなかった。
松林に入る手前で、宿舎の裏手の、離れの窓が見えた。
明かりがついていた。
彼女は、それを見て、足を止めた。窓には、薄いカーテンが引かれていて、中の様子は見えなかった。ただ、明かりが、そこにあった。
しばらく、そうして立っていた。
それから、松林の小道を、宿舎の裏口のほうへ歩いた。裏口の扉は、出るときと同じように、蝶番をかすかに軋ませた。
*
離れの六畳間で、雅也は座卓の前に座っていた。
手帳が、開いたまま置いてあった。今日の欄の下半分が、白いままだった。ペンは手帳の横に置いてある。キャップは外れていた。一時間前に外して、そのまま何も書いていなかった。
練習の記録は、もう書いてある。夕方に、明日の計画を渡したことも。本人、受け取らず。ベンチに置く。そこまでは書けた。
その先が、書けなかった。
気まぐれで構うのは、やめてください。
その言葉を、記録の欄にどう書けばいいのか。書く必要があるのか。書かなければ、明日の判断の材料が欠けることになる。書けば、それは仕事の記録の中に、仕事ではない何かを持ち込むことになる気がした。
雅也は、ペンにキャップをかぶせた。
窓の外で、波が一つ崩れた。蚊取り線香の煙が、窓辺で細く揺れていた。
明日の朝、いつもの時刻に資料を持っていく。それは、決めていた。行かない理由は、どこにもなかった。行って、受け取られなければ、置いていく。それだけのことだった。
それだけのことだと、自分に言い聞かせるのに、少し時間がかかった。
雅也は、手帳を閉じた。照明を消すと、窓の外の夜が、カーテン越しに薄く青く見えた。布団に横になっても、波の音は、いつまでも同じ間隔で続いていた。
第四章 記録だけが残る日々――七月二十九日・三十日
七月二十九日、打ち合わせ用の小部屋の扉を開けたのは、いつもと同じ時刻だった。
朝の七時。窓の外の海は凪いでいて、水平線のあたりが薄く白く霞んでいた。扇風機はまだ回っていない。部屋の空気は夜のあいだに冷えきらず、木の机の表面が、指で触れるとかすかに湿っていた。
部屋には、誰もいなかった。
早瀬雅也は、長机の上に資料を置いた。今日の計画と、昨日の夕方にベンチに置いてきたのと同じ内容を、もう一部。右脚の負荷を、もう一日下げる。濡れた砂だけ。本数は昨日と同じ。午後は平地で、フォームの持続。理由の三行。三行目の、本人の感覚を聞きたい、という一文も、同じように書いた。
机の端に、麦茶の水筒を置こうとして、手が止まった。
鞄に戻した。
椅子に座り、扉のほうを見た。廊下の向こうから、食堂へ向かう生徒たちの足音と話し声が聞こえる。誰かが笑い、誰かが走るなと注意される。その中に、彼女の足音が混ざっていないかを、雅也は耳で探していた。探していることに気づいて、手帳を開いた。
七時十五分になっても、扉は開かなかった。
七時半。
雅也は立ち上がり、資料の上に、風で飛ばないように手帳の重しを載せかけて、やめた。手帳は自分の仕事の道具だった。代わりに、窓際の棚にあった小さな石の文鎮を借りて、資料の上に置いた。それから部屋を出た。
扉を閉めるとき、廊下の角の向こうに、黒髪の後ろ姿がちらりと見えた気がした。振り返ると、誰もいなかった。
*
砂浜の練習は、八時からだった。
アルヴは、来ていた。
他の生徒たちより少し早く、波打ち際の濡れた砂の上で、ひとりで身体をほぐしていた。ジャージの上着を脱いで、乾いた砂の上に畳んで置いている。その上に、イヤホンが一組、載っていた。
雅也は、乾いた砂の手前で立ち止まった。いつもなら、ここから彼女に声をかけ、今日の本数と速さを確認する。今日は、声をかけるべきかどうか、少し迷った。
迷っているうちに、彼女は走り出した。
濡れた砂の上を、一本。
速さは、計画に書いた範囲の中だった。濡れた砂から外れなかった。右脚に体重が乗る瞬間の上体の傾きは、昨日の三本目より、深かった。かばっている様子は見えない。
二本目、三本目。
四本目を終えたところで、雅也は、計画と違う点に気づいた。彼女は四本目のあと、休まずに五本目に入った。速さを少し落として、濡れた砂の上を、波打ち際に沿って長く。計画にはない一本だった。その一本は、六本目、七本目と続いた。速さはどれも抑えてあり、距離だけが長い。
フォームの持続を見る練習だった。午後の平地でやるはずのものを、彼女は、砂浜で、自分で組み直していた。
雅也は、ストップウォッチを押した。止めた。数字を手帳に書いた。
彼女は一度も、こちらを見なかった。
七本目を終え、波打ち際を歩いて息を整える。整え終わると、畳んであった上着を取り、イヤホンを耳に入れ、宿舎のほうへ歩いていった。雅也の横を通るとき、歩幅は変わらなかった。顔は前を向いたままだった。
会話は、一言もなかった。
雅也は手帳の今日の欄に、彼女が走った本数と距離と速さを書き写した。計画との差も、そのまま書いた。本数、計画四本に対して七本。五本目以降は低速・長距離、フォーム持続の内容。濡れた砂のみ。右脚、かばう様子なし。
そこまで書いて、ペンが止まった。
本人の感覚、聞けず。
その一行を足して、手帳を閉じた。
午後の平地の練習に、彼女は来なかった。砂浜で、もう済ませたということなのだろう。理屈は通っていた。午前のうちに、フォームの持続は十分に見た。それを午後に重ねれば、かえって負荷が増える。彼女の判断は、合理的だった。
合理的だということが、雅也には分かった。分かったうえで、手帳の今日の欄の白いところを、しばらく見ていた。
夕方、打ち合わせの小部屋に戻ると、朝に置いた資料は、そのままそこにあった。石の文鎮の下で、紙の位置は一ミリも動いていなかった。
*
七月三十日は、朝から曇っていた。
雲が低く、海の色は灰色に沈んでいた。湿気が重く、肌にまとわりつく。砂浜の砂は、乾いたところも湿り気を帯びていて、足跡の縁がいつもより崩れにくかった。風はほとんどなかった。
雅也は、いつもの時刻に資料を持っていき、いつものように小部屋の机に置いた。昨日の資料は、まだ石の文鎮の下にあった。その上に、今日の分を重ねた。
今日の計画には、乾いた砂を戻すかどうかの判断が入っていた。医療担当の昨日の評価で、張りは抜けたとされた。本人の感覚を確かめてから戻したい、と書いた。確かめる機会がないことは、分かっていた。それでも、書いた。
砂浜の練習に、彼女は来ていた。
今日は、昨日と順番が違った。最初の二本を濡れた砂で走り、三本目から、乾いた砂を使った。柔らかい砂に足首まで沈め、踏み込んで、抜く。その動作を、一本ずつ、丁寧に確かめるように繰り返していた。速さは抑えてあった。本数も、乾いた砂の練習としては少なかった。
右脚の張りが抜けたという医療担当の評価を、彼女は自分で読んだのか、それとも自分の身体で確かめたのか。雅也には分からなかった。
乾いた砂を踏む右脚の動きは、昨日より、さらに滑らかだった。上体の傾きは崩れていない。かばってもいない。
見ている限り、問題はなかった。
雅也はそれを手帳に書いた。乾いた砂、三本目より、本人判断。右脚、問題なし。速さ・本数、抑制。
そして、昨日と同じ一行を、もう一度書いた。
本人の感覚、聞けず。
昨日とは違う日だった。走った内容も違い、空の色も違い、砂の湿り方も違った。それでも、その一行だけが、昨日とまったく同じ形で、手帳の上に並んでいた。
*
その日の夕食の時刻、雅也は宿舎の食堂の入口で、足を止めた。
食堂の中は、合宿の夕食の時刻で、ほとんどの席が埋まっていた。天井の扇風機が、湯気と話し声をまとめてかき回している。焼き魚の匂い、味噌汁の匂い、炊きたての飯の匂い。
窓際の端の席に、彼女がいた。
一人で座り、盆を前にしていた。手を合わせて、いただきます、と言う口の動きが、遠くからでも見えた。それから、箸を取った。
雅也は、トレーナーたちが食事をする奥の席へ向かった。彼女の席の前は通らない。通れば、彼女はまた、歩幅を変えずに前を向くだろう。それを、今は見たくなかった。
奥の席で食事をしながら、雅也は、ときおり窓際のほうに目をやった。
彼女は、ゆっくり食べていた。いつもよりも、ずっとゆっくり。箸を口に運んでは、しばらく止まり、また運ぶ。食べながら話さない人だったから、食べる速さが遅いのは、話しているからではなかった。誰とも話していなかった。
食べる時間の長さ。それは、彼女が緊張しているときに出る変化だった。二年と少し、雅也はそれを記録の端に書いてきた。量は変えないが、食べる時間が長くなる。大きなレースの前の週に、よく見た。
しばらくして、彼女は箸を置いた。
手を合わせ、立ち上がる。盆を持って、返却口へ歩いていく。
雅也の席から、返却口に置かれた彼女の盆が、斜めに見えた。
茶碗の中に、飯が半分残っていた。焼き魚は、身が半分ほどほぐされたまま、皿の上にあった。味噌汁の椀は空だった。小鉢は手がつけられていなかった。
彼女が食事を残すのを、雅也は、二年と少しのあいだ、ほとんど見たことがなかった。
返却口の職員が、盆を受け取り、一瞬だけ中を見て、何も言わずに洗い場へ回した。彼女は浅く頭を下げ、食堂を出ていった。
雅也は、自分の盆の上の、半分残った味噌汁を見下ろした。
食事量の記録は、普段からの増減として読む。数値を本人には見せない。本人が数字に合わせて削りにいくから。それが、二人のあいだで決めた手順だった。
今夜の欄には、こう書くことになる。主食、半量。主菜、半量。小鉢、手つかず。
それは、記録だった。記録は、書かなければならない。
雅也は残りの味噌汁を飲み干し、盆を持って立ち上がった。窓の外は、もう暗くなりかけていた。曇った空の下で、海は、灰色から黒へ、音もなく色を変えていった。
*
離れに戻って、座卓の上に手帳を広げた。
二日分の欄が、並んでいた。
二十九日。本数、計画四本に対して七本。本人判断。右脚、問題なし。本人の感覚、聞けず。
三十日。乾いた砂、本人判断。右脚、問題なし。夕食、主食・主菜半量、小鉢手つかず。本人の感覚、聞けず。
二日とも、彼女は練習に来ていた。走りに、問題はなかった。判断は、どれも合理的だった。
計画は、使われていなかった。
会話は、一言もなかった。
雅也は、二つの欄を見比べた。数字は、どちらも悪くなかった。悪くないということが、かえって、何かがすっかり抜け落ちていることを、はっきりさせていた。数字の横の余白に、二年分、毎日書いてきたものがあった。彼女が言った一言。脚は、と聞いて、問題ありません、と返ってきた言葉。張りは、と聞いて、少しだけ、と返ってきた言葉。今日はここが良かった、と言って、そうですか、と返ってきた言葉。
その余白が、二日続けて、白かった。
窓の外で、波が崩れた。曇った夜で、星は一つも見えなかった。
雅也は、手帳のページを、明日の欄までめくった。
七月三十一日。
そこに書くべきことを、雅也は、もう半分、決めかけていた。
第五章 手続きを始める――七月三十一日から八月三日
七月三十一日の朝、雅也は、離れの座卓の前で、手帳の二十五日からのページを、一日ずつ順にめくっていった。
窓の外はよく晴れていた。昨日の曇りが嘘のように、空が高く、海がまぶしい。蝉が早くから鳴いていた。蚊取り線香の燃えさしが、窓辺の皿の上で、灰の渦をつくったまま冷えていた。
二十五日。麦茶、受け取らず。打ち合わせ中、視線合わず。
二十六日。助言三度、本人判断を希望。計画、柵の上に置く。
二十七日。合同練習の打ち合わせ。本人、練習後に宿舎へ。
二十八日。午前、乾いた砂を数歩。午後、計画を渡す。本人、受け取らず。ベンチに置く。
その日の欄の一番下に、昨夜、一行だけ書き足してあった。必要ない、構いすぎ、同情、気まぐれ。言葉だけを、事実として。
二十九日。計画不使用。本数、本人判断。本人の感覚、聞けず。
三十日。計画不使用。乾いた砂、本人判断。夕食、半量。本人の感覚、聞けず。
雅也は、一行ずつ、指でなぞった。
何が起きているのかを、確かめたかった。気持ちではなく、事実として。担当トレーナーとして、自分の仕事が今、どういう状態にあるのかを。
計画は、四日続けて使われていない。
会話は、三日続けて、一言もない。
本人の身体の感覚を、五日続けて聞けていない。
練習の内容は、合理的だった。本人の判断は、筋が通っていた。走りにも、問題はない。だがそれは、彼女が自分ひとりで判断し、自分ひとりで走っているということだった。そこに、自分の仕事は入っていなかった。担当トレーナーとしての計画も、分析も、身体の確認も。
指導の関係が、成り立っていなかった。
雅也は、その一文を、頭の中ではっきりと言葉にした。言葉にしてから、もう一度、手帳を最初から見直した。見落としはないか。自分が勝手にそう思い込んでいるだけではないか。
見落としは、見つからなかった。
では、どうするべきか。
このままの関係で、担当を続ける。それが、彼女の競技生活にとって、最善なのか。
最善だとは、思えなかった。
彼女は今、自分の計画を必要としていない。分析がなくても走れると、彼女自身が言った。それが事実かどうかは別として、少なくとも今の彼女には、自分の言葉が届かない。届かない言葉を、毎朝、机の上に置き続けることが、彼女のためになるのか。
彼女に合う人が、他にいるかもしれない。
その考えが浮かんだとき、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
雅也は、それを無視しなかった。無視しないで、どこから来たものかを確かめた。気まぐれ、と言われたことが、まだ胸のどこかに刺さっている。それは分かっていた。傷ついていることも。
だからこそ、その傷を判断に混ぜてはいけない、と思った。
傷ついたから離れるのではない。指導が成り立っていないから、彼女のために別の可能性を考える。その二つを、はっきり分けなければならなかった。分けるためには、気持ちが固まる前に、手続きを先に動かすほうがいい。
担当であり続けることそのものを、目的にしてはいけない。
雅也は、手帳を閉じた。
*
合宿所の事務室の電話は、廊下の突き当たりの小部屋にあった。
受話器を取って、学園の事務の番号を押した。三回目の呼び出し音で、相手が出た。
「はい、トレセン学園事務室、駿川です」
「早瀬です。合宿所からかけています。担当契約の解除の手続きについて、確認したいことがあります」
電話の向こうで、短い沈黙があった。紙をめくる音がした。
「……承知しました。どのようなことでしょう」
「申請の書類と、効力が発生する日を確認したい」
「担当契約の解除は、担当トレーナーと担当ウマ娘のどちらからでも申請できます。効力は、申請からおよそ一か月後に発生します。それまでは、担当契約はこれまでどおり有効です。トレーナーからの申請の場合、効力発生日までに、担当ウマ娘ご本人の意思を確認する面談を行います」
たづなの声は、いつもと同じように落ち着いていた。
「今日、申請していただいた場合、効力発生日は八月三十一日になります。それより前であれば、申請者の側から取り下げることができます」
「後任については」
「後任の決定には、ご本人の同意が必要です。トレーナーの側で、候補の方に受け入れの余地を事前に確認していただくことはできますが、決定はできません」
「分かりました」
雅也は、手帳の今日の欄に、たづなの言葉を一つずつ書き取った。申請、本日。効力発生日、八月三十一日。それまで契約有効。本人の意思確認の面談。取り下げ可、効力発生前。後任、本人同意必須。事前確認のみ可。
「書類は、本日中にこちらからお送りします。合宿所の事務室の端末で受け取れるようにしておきますね」
「お願いします」
受話器を置こうとしたとき、たづなが、もう一言だけ付け加えた。
「早瀬トレーナー。ご本人には、もうお話しされましたか」
雅也は、受話器を持ったまま、一瞬、言葉に詰まった。
「……まだです。手続きの内容を整理してから、説明します」
「そうですか。分かりました」
たづなはそれ以上何も言わず、電話を切った。
午後、合宿所の事務室の端末に、書類が届いた。
担当契約解除申請書。一枚目に、担当トレーナーの氏名、担当ウマ娘の氏名、契約の開始日、申請の理由。理由の欄は、短い文章で書くようになっていた。
雅也は、ペンを持った。
指導関係が健全に成立しにくい状態にあると判断したため。
それだけを書いた。それ以上の言葉は、書く必要がなかった。書けば、仕事ではないものが混ざる。
署名をした。日付を書いた。七月三十一日。
効力発生予定日、八月三十一日。
その欄の数字を見たとき、指先が、一瞬だけ冷たくなった気がした。冷房の効いた事務室の空気のせいだと、雅也は思うことにした。
*
八月一日の夕方、雅也は、合宿所の裏の松林の入口で、電話をかけた。
相手は、同じ年に資格を取った同期のトレーナーだった。チームに所属していて、中距離の指導に定評がある。雅也より口数が多く、冗談が多い。
「早瀬か。珍しいな、そっちからかけてくるの。合宿どうよ」
「相談がある。仕事の話だ」
「おう」
「アドマイヤグルーヴの担当を、引き継いでもらえる余地があるかどうか、確認したい」
電話の向こうが、静かになった。蝉の声が、雅也の頭の上の松の枝で、急に大きく聞こえた。
「……は?」
「まだ何も決めていない。可能性の確認だけだ。受け入れの余地があるかどうか、それだけ聞きたい」
しばらく、相手は黙っていた。それから、息を吐く音がした。
「余地は、ある。チームの枠も空いてるし、あの子の走りなら、うちで見てみたい気持ちもある。……でもさ」
声の調子が、少しだけ変わった。
「本人は、それでいいのか」
「本人には、まだ話していない」
「話してないのに、俺に聞いてんの」
「順番が、逆なのは分かってる」
「分かってんなら、なんで」
雅也は答えなかった。答えられなかった。相手はもう一度、長く息を吐いた。
「……まあ、お前がそう判断したんなら、理由はあるんだろ。受け入れの余地はある。それは伝えとく。ただ、本人と話してからにしろよ。俺も、本人が嫌がってんのに引き受けるのはごめんだからな」
「分かった。ありがとう」
電話を切った。松林の向こうで、夕日が海のほうへ傾いていた。
*
同じ時刻、宿舎の二階の廊下の窓から、アルヴは松林の入口を見下ろしていた。
トレーナーが、携帯電話を耳に当てて立っていた。松の幹のそばで、こちらに背を向けて。声は聞こえなかった。距離がありすぎた。ただ、彼が一度、空いている手で額を押さえるのが見えた。それから、何かを言い、しばらく黙って、また何かを言った。
誰と話しているのかは、分からなかった。
分からないまま、アルヴは窓のそばから離れられなかった。彼が電話を切り、ポケットにしまい、しばらくそこに立っていて、それから離れのほうへ歩いていくまで、ずっと見ていた。
見ていることに、気づいていた。
会わなければ、落ち着くと思っていた。顔を見なければ、声を聞かなければ、あの夜に名前のついてしまったものも、少しずつ形を失っていくと思っていた。
実際には、反対だった。会わない時間が長くなるほど、彼の姿を探してしまう。練習の砂浜で、食堂の奥の席で、廊下の窓の外で。探して、見つけて、見つけたあとで、目を逸らす。その繰り返しだった。
耳が、窓の外のほうへ向いたままだった。
アルヴは、それを手で押さえるように、耳元に手をやりかけた。やめた。廊下の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。彼女は窓から離れ、自分の部屋のほうへ歩いた。
*
八月二日の午後、雅也は、離れの縁側で、もう一本電話をかけた。
相手は、サブトレーナーとして二年間仕えた元上司だった。ベテランのチームトレーナーで、厳しく、言葉が短い。
雅也が用件を話すと、元上司は、最後まで黙って聞いた。
「規程の運用は、たづなさんが言ったとおりだ。申請から一か月で効力。それまでは契約は生きてる。本人の面談がある。後任は本人の同意。受け入れの余地は、うちにもある」
「ありがとうございます」
「それで」
元上司の声が、少しだけ低くなった。
「お前、手放したいのか。それとも、手放すべきだと思っているのか。どっちだ」
雅也は、縁側の板の木目を見下ろした。日に焼けて、色が抜けかけている。
「後者です」
答えるまでに、少しだけ時間がかかった。
「そうか」
元上司は、それ以上は聞かなかった。
「なら、本人に、ちゃんと説明しろ。後者だってことをな」
「はい」
電話が切れた。縁側の向こうで、松の枝が風に揺れ、木漏れ日が板の上でちらちらと動いていた。
*
八月三日、雅也は一日かけて、引き継ぎの資料を整理した。
離れの座卓の上に、二年分の手帳と、記録用紙の束を広げた。アルヴの能力。練習の履歴。身体管理の要点。右脚の張りの経過。競技方針。本人の希望。それを、後任の候補が読んで、すぐに使えるように、一冊の綴りにまとめていく。
作業は、思ったより時間がかかった。
記録用紙をめくるたびに、余白の書き込みが目に入った。脚は、と聞いて、問題ありません、と返ってきた日。今日はここが良かった、と言って、そうですか、と返ってきた日。宝塚記念の後、内を選んだのは私です、と彼女が言った日。
そういう書き込みは、綴りには入れなかった。入れたのは、数字と、練習の内容と、身体の状態と、競技上の判断の傾向だけだった。自分の気持ちも、彼女の言葉の温度も、何も書かなかった。後任に必要なのは、彼女がどう走るかであって、自分が彼女の言葉をどう聞いてきたかではない。
綴りが一冊にまとまったのは、夕方だった。
それから、本人に説明する文面を、手帳に書いた。
手続きを始めたこと。効力発生日。それまでは自分が担当であること。同期と、元上司に相談したこと。誰にも決めていないこと。決めるのは本人であること。考える時間があること。
書いて、読み直した。
君のためにならない。
その一文で、ペンが止まった。断定していた。自分がそう判断した、というより、そうだと決めつけている言い方だった。
消して、書き直した。
アルヴのためにならないかもしれない。
読み直して、また少し直した。三度目に書き直したところで、ようやく、言葉がそれ以上動かなくなった。
手帳を閉じかけて、雅也は、ふと手を止めた。
理由を、聞いていない。
彼女がなぜ急に冷たくなったのか。なぜ麦茶を断り、助言を拒み、気まぐれという言葉を選んだのか。その理由を、一度も、本人に聞いていない。
聞くべきだったのか。
考えて、雅也は、その考えを手帳の外に置いた。彼女は、聞いてほしそうな顔をしていなかった。自分を拒んでいる顔だった。拒んでいる相手に理由を問うのは、さらに踏み込むことになる。それを彼女が望んでいないなら、聞かないことが、彼女の意思を尊重することになる。
自分の基準に、従うことにした。
夜、雅也は、学園の選抜レースの資料を、一度だけ鞄から出した。
契約が解除されたら、自分は次に誰を担当するのか。それを考えておくのも、トレーナーの仕事だった。資料を開き、数ページめくった。名前と、走りの記録と、適性の欄が並んでいる。
誰の名前も、頭に残らなかった。
雅也は、資料を閉じた。鞄に戻した。それ以上、考えなかった。
窓の外で、波が崩れる音がした。明日の朝、いつもの時刻に、小部屋へ行く。今度は、資料を置いて出ていくのではない。彼女を待って、説明する。
*
その夜、宿舎の部屋で、アルヴは布団の上に座っていた。
ディザイアはもう眠っていた。窓の外の、松林の向こうに、離れの明かりがかすかに見えた。
膝の上に、四つに折った紙が二枚あった。柵の上に置かれていた紙と、ベンチに留められていた紙。それから、皺の寄った水色の折り紙が一枚。
謝る言葉を、考えていた。
気まぐれと言ったのは、間違いでした。
それでは足りない気がした。足りないぶんを足そうとすると、足した言葉の端から、隠しておきたいものがのぞいた。だから、削る。削ると、また足りなくなる。
何度も、それを繰り返した。
気づくと、窓の外が、ほんのわずかに白みはじめていた。
第六章 「少し考えさせてください」――八月四日
八月四日の朝、打ち合わせ用の小部屋の机の上には、いつもの資料の上に、一枚だけ小さな紙が載っていた。
――朝の練習の後、ここで待ってる。話したいことがある。
雅也の字だった。几帳面で、少し右上がりの。
アルヴがそれを見たのは、朝の七時を少し過ぎたころだった。トレーナーが資料を置いて出ていった直後、廊下の角で彼の足音が遠ざかるのを待ってから、部屋に入った。ここ数日、毎朝そうしていた。資料を読むためではなかった。読まずに、そこにあることだけを確かめて、出ていく。
今朝は、小さな紙に気づいて、足が止まった。
話したいことがある。
その一文を、彼女は三度読んだ。読むたびに、胸の奥が冷えていった。何の話なのか、想像はつかなかった。想像しようとすると、どれも悪い形にしかならなかった。
紙を元の位置に戻し、部屋を出た。
*
朝の練習は、砂浜で、いつもどおりに終わった。
アルヴは、自分で組んだ内容を走った。乾いた砂を三本、濡れた砂を四本。右脚には、もう何も残っていなかった。走りながら、乾いた砂の手前に立つ人影を、一度も見なかった。見なかったが、その人がそこにいて、ストップウォッチを押しているのは、分かっていた。
練習のあと、宿舎に戻ってシャワーを浴び、髪を乾かした。乾かすのに、いつもより時間がかかった。鏡の中の自分の顔を、彼女は見なかった。
九時半。
小部屋の扉の前に立った。
ノックをする前に、一度だけ、深く息を吸った。扉の向こうから、扇風機の回る音が聞こえていた。
二度、叩いた。
「どうぞ」
彼の声だった。普段と同じ高さ。普段と同じ速さ。
扉を開けた。
部屋の中は、窓から差し込む夏の午前の光で、白く明るかった。窓の外に海が見え、その手前の松の枝が、風にかすかに揺れている。扇風機が窓際で首を振り、そのたびに、机の上の紙の端が持ち上がっては、また落ちた。
トレーナーは、長机の向こう側に座っていた。
机の上には、資料が一冊だけ置いてあった。綴じた紙の束。表紙には何も書いていなかった。その横に、彼の手帳が閉じて置かれていた。
「座ってくれ」
アルヴは、長机のこちら側の椅子を引いた。椅子の脚が、板張りの床を短く擦った。座る。背筋を伸ばし、膝の上に手を置いた。机を挟んで、彼と向かい合う形になった。
彼の顔を、見た。
五日ぶりに、まっすぐ見た気がした。
彼は、いつもと変わらない顔をしていた。疲れているようにも、怒っているようにも見えなかった。ただ、目の下に、うっすらと影があった。それに気づいたとき、アルヴは視線を、机の上の綴じた紙へ落とした。
扇風機の風が、一度、二人のあいだを横切った。
*
「契約の解除の手続きを、始めた」
彼の声は、静かだった。
アルヴは、顔を上げなかった。上げられなかった。机の上の綴じた紙の、表紙の白さだけを見ていた。
「この数日のやり取りで、今の関係のまま担当を続けるのは、アルヴの競技生活にとって、最善じゃないかもしれないと判断した」
最善じゃないかもしれない。
断定ではなかった。かもしれない、と彼は言った。その言い方に、アルヴは、彼がこの一文を何度も考えたのだと分かった。分かったことが、かえって、胸のどこかを強く押した。
「効力が出るのは、八月三十一日。それまでは、俺がアルヴの担当だ」
八月三十一日。
あと、二十七日。
「同期と、前に世話になった先輩に、引き継ぎを受けられる余地があるか、相談した。誰に決めたわけでもない」
彼は、机の上の綴じた紙に、指を一本だけ置いた。
「これは、引き継ぎの資料だ。アルヴの練習の履歴と、身体の管理と、競技の方針をまとめてある。誰かに渡すと決めたわけじゃない。もし、その必要が出たときのために、作っておいた」
アルヴは、その紙を見ていた。
自分の二年と少しが、その中に入っている。走った距離と、速さと、右脚の張りと。彼が毎日、記録の欄に書いてきたこと。その一冊が、今、自分と彼のあいだの机の上に置かれていた。
「決めるのは、アルヴだ」
彼の声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「どうしたいか、考える時間はある」
それで、彼の言葉は終わった。
*
扇風機が、首を振った。
風が、アルヴの前髪をかすかに揺らし、通り過ぎていった。窓の外で、波が一つ、遠く崩れる音がした。
アルヴは、何も言えなかった。
自分から、距離を取っていた。麦茶を断り、助言を拒み、計画を使わず、会話をせず、そして、気まぐれ、と言った。彼に構われないように。彼の温かさに、これ以上寄りかからないように。
それなのに、彼が本当に離れる準備を進めていたとは、思っていなかった。
思っていなかったことに、今、気づいた。
彼は、毎朝、同じ時刻に資料を持ってくる人だった。どれだけ拒んでも、それだけは変わらないと、どこかで思っていた。変わらないと思っていたから、拒めた。拒んでも、明日の朝、また扉の前で足音が聞こえると、無意識のうちに信じていた。
その足音が、二十七日後に、止まる。
口を開いた。
何かを言わなければ、と思った。違います、と言うのか。やめてください、と言うのか。ごめんなさい、と言うのか。どれも、喉のところで形を失った。
口を、閉じた。
耳が、後ろへ倒れていた。部屋の中の音を、全部拒もうとするように、ぴったりと。扇風機の音も、波の音も、彼の呼吸の音も。倒した耳の内側で、自分の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
尻尾は、椅子の背の後ろで、ぴたりと動きを止めていた。
膝の上で、手を握った。爪が、手のひらに食い込んだ。
彼は、黙って待っていた。急かさなかった。机の向こうで、両手を膝の上に置いたまま、こちらを見ていた。目は、まっすぐだった。責めてもいなかったし、何かを求めてもいなかった。ただ、答えが来るのを、そこで待っていた。
長い沈黙だった。
扇風機が、何度も首を振った。窓の外の松の枝の影が、机の上をゆっくりと移動していった。
アルヴは、ようやく、息を吸った。
「……少し」
声が、かすれた。
「少し、考えさせてください」
それだけだった。それ以上は、何も出てこなかった。
彼は、頷いた。
「分かった」
短い答えだった。
アルヴは、立ち上がった。椅子を引く音が、さっきより大きく響いた。椅子を机の下へ戻す。浅く礼をする。いつもと同じ角度、いつもと同じ速さで。そうしないと、どこかが崩れてしまいそうだった。
扉へ歩いた。取っ手に手をかける。
開けて、廊下に出る。振り返らずに、扉を閉める。
扉を閉める手が、いつもより遅かった。最後の数センチを、閉めきるまでに、時間がかかった。閉めきってしまえば、何かが決まってしまうような気がした。それでも、扉は閉まった。
*
小部屋に一人残った雅也は、しばらく、扉のほうを見ていた。
閉まる直前の、扉の動きの遅さを、見ていた。
それから、立ち上がって、窓際の扇風機のスイッチを切った。羽根が少しずつ速度を落とし、やがて止まった。部屋の中が、急に静かになった。窓の外の波の音と、松林の蝉の声だけが、遠くから聞こえた。
椅子に戻り、座った。
少し、考えさせてください。
それは、拒絶ではなかった。同意でもなかった。そのどちらでもない答えだということに、雅也は気づいていた。
気づいて、それでも、立ち上がって彼女の後を追うことはしなかった。
何を考えたいのか。何が引っかかっているのか。それを聞くことは、できた。今からでも、廊下に出て、彼女の名前を呼べば。
彼女は、聞いてほしそうな顔をしていなかった。
考えさせてほしい、と言った。考える時間がほしいと。それなら、時間を渡すのが、彼女の意思を尊重することだった。
そう判断した。
判断して、それが本当に正しいのか、確かめる方法はなかった。
雅也は、手帳を開いた。今日の欄に書く。本人に説明。本人、少し考えさせてください、と回答。
それから、午後の練習の計画を書いた。いつもどおりに。右脚の張りは抜けた。乾いた砂も、もう戻していい。午後は平地でフォームの持続。本人の感覚を聞きたい、の一行も、また書いた。
書き終えた紙を持って、宿舎の、彼女の部屋がある棟の受付へ歩いた。受付の係の人に紙を預け、アドマイヤグルーヴさんへ、と頼んだ。係の人は、紙を受け取り、何も聞かずに預かった。
*
その夜、宿舎の部屋で、アルヴは、彼の言葉を一つずつ思い返していた。
契約の解除の手続きを、始めた。
最善じゃないかもしれないと、判断した。
効力が出るのは、八月三十一日。それまでは、俺がアルヴの担当だ。
誰に決めたわけでもない。
決めるのは、アルヴだ。
最後の言葉のところで、思考が止まった。
決めるのは、アルヴだ。
その言葉を、彼女は、前にも聞いたことがあった。
第一年の五月、期限付きの契約を結んだ日。自分が、決着をつけるまでの契約を、と言ったとき、彼は、分かった、決めるのはアルヴだ、と言った。第二年の十月、秋華賞のあと、契約を更新するかどうかを自分が迷っていたとき、彼は同じことを言った。練習の計画を二つ渡して、どちらを選ぶかを任せるときも。レースの作戦を決めるときも。
出会った日から、一度も、変わっていなかった。
彼は、自分の判断を、一度も奪わなかった。今日も、奪わなかった。手続きを始めたと言いながら、決めるのはアルヴだと言った。
アルヴは、イヤホンを耳に入れた。
何も流さなかった。雑音を消したかったのではなかった。外の音を全部遮って、自分の中の音だけを、聞きたかった。波の音が遠くなり、隣の布団のディザイアの寝息が聞こえなくなり、自分の呼吸と鼓動だけが残った。
鼓動は、速かった。
机の上の、折り紙の束から、一枚を取った。淡い桃色の紙だった。
三角に折る。もう一度、三角に。開いて、四角に潰す。
四つ目の折り目で、指が止まらなかった。
角と角が、きれいに合った。折り目を指でなぞる。紙の繊維が、爪の下で、かすかに鳴った。五つ目、六つ目。首を折り上げ、尾を折り上げ、最後に羽根を開く。
一羽、できた。
机の上に置いた。淡い桃色の鶴が、電気スタンドの光の中で、小さく首を立てていた。首のところも、崩れていなかった。
結論は、まだ出なかった。
鶴が一羽できるころには、たいてい何かが決まっている。何年も、そうだった。今夜は、鶴ができても、何も決まらなかった。
ただ、指が、震えなかった。
アルヴはイヤホンを外し、電気スタンドを消した。暗くなった部屋の窓の外で、波が、変わらない間隔で崩れていた。机の上の鶴の輪郭が、窓からの薄い明かりの中に、ぼんやりと浮かんでいた。
第七章 エアグルーヴが海辺で見つける――八月五日午後
八月五日の午後、エアグルーヴは、合宿所の事務室の窓から、砂浜を見下ろしていた。
生徒会の用務で、二日前から合宿所に来ていた。合宿の運営の確認と、学園へ戻る日程の調整。書類は昼前に片付いていた。午後の便で学園へ戻るつもりでいた。
そのつもりが、昨日の夕方、学園の事務室にかけた電話で変わった。
日程の確認のついでに、駿川たづなが、ほんの少しだけ声を落として言った。早瀬トレーナーから、担当契約の解除の申請が出ています。合宿中ですので、もし何かあれば。たづなは、それ以上は言わなかった。言わなかったが、言わなくても、エアグルーヴには分かった。
アルヴのことは、第一年の四月から見てきた。
三女神像の前で、初めて言葉を交わした日。お誘いはありがたいですが、結構です、と彼女は言った。誰とも組むつもりはない、と。その声の硬さを、エアグルーヴは今でも覚えている。断られても、視線を外さなかった。外す気にならなかった。あの声の奥に、何か、硬く閉じたものが見えた気がしたからだ。
それから、彼女は早瀬トレーナーと組んだ。最初は期限付きで。それから、無期限で。
この一年、エアグルーヴは、アルヴが少しずつ変わっていくのを、誰よりも近くで見てきた。練習のあと、トレーナーの資料を受け取る前に、一度だけ彼の顔を見るようになったこと。食堂で、気づくと彼の向かいの席に座っていること。笑う回数が増えたと言われて、否定していたこと。
何が起きたのかは、だいたい察しがついた。
察しがついたからこそ、放っておけなかった。
窓の外の砂浜は、午後の強い日差しで白く焼けていた。波打ち際では、合宿の生徒たちが練習をしている。その賑わいから少し離れた、松林寄りの乾いた砂の上に、一人で座っている人影があった。
黒い髪。膝を抱えている。
エアグルーヴは、窓から離れた。
*
乾いた砂は、午後の熱をたっぷり吸い込んでいて、靴底越しにも熱が伝わってきた。
エアグルーヴは、波打ち際の賑わいを背にして、松林のほうへ歩いた。日差しが首筋を焼く。潮の匂いと、日に焼けた砂の匂いが、熱気と一緒に立ちのぼってくる。遠くで、誰かが掛け声を上げ、別の誰かが笑った。
アルヴは、膝を抱えて座っていた。
耳にイヤホンを入れていた。小さな白いイヤホン。ノイズキャンセリングのものだと、エアグルーヴは知っていた。雑音を嫌う彼女が、手放さない道具だった。
エアグルーヴが近づいても、アルヴは顔を上げなかった。気づいていないのか、気づいていて顔を上げないのか、遠目には分からなかった。
エアグルーヴは、アルヴの隣に立った。
座らなかった。立ったまま、アルヴと同じ方向を見た。
海が、目の前にあった。午後の日差しを受けて、水面が無数の光の粒に砕けている。まぶしくて、目を細めなければ見ていられなかった。水平線のあたりは白く霞んで、空と海の境目が曖昧だった。沖のほうを、小さな船が一艘、ゆっくりと横切っていく。
エアグルーヴは、黙って、それを見ていた。
波が、寄せては返した。乾いた砂の縁まで這い上がる白い泡が、太陽の下で一瞬だけ光り、音もなく砂に吸い込まれて消える。それが、何度も繰り返された。
隣で、アルヴが身じろぎした。
膝を抱える腕に、少しだけ力が入ったのが分かった。耳が、イヤホンの上から、ほんのわずかにこちらへ向いた。すぐに、海のほうへ戻った。
エアグルーヴは、まだ、何も言わなかった。
船が、水平線の霞の中に消えた。
どれくらいそうしていたのか、エアグルーヴは数えていなかった。首筋の汗が一筋、襟の中へ流れ込んだ。
「イヤホンで、何を聞いている」
ようやく、口を開いた。
アルヴは、答えなかった。
答えないまま、膝を抱えた腕を、少しだけ緩めた。それから、片方のイヤホンを、ゆっくりと耳から外した。外したイヤホンを、手のひらの中に握り込んだ。
何も流れていなかったのだと、エアグルーヴは、その仕草で分かった。
*
「早瀬トレーナーが、解除の手続きをしたそうだな」
アルヴの肩が、わずかに動いた。
ほんのわずかだった。息を吸うときの肩の動きと、ほとんど見分けがつかないほど。それでも、エアグルーヴには見えた。
「お前が、そうさせた。違うか」
アルヴは、黙っていた。
波が一つ、大きく崩れた。泡が、乾いた砂の縁を、いつもより少しだけ深く濡らした。
「なぜ、突き放した」
しばらく、答えは返ってこなかった。
アルヴは、手のひらの中のイヤホンを、親指でゆっくりとなぞっていた。白いプラスチックの表面を、何度も、何度も。
「必要なかったからです」
声は、小さかった。平らだった。
エアグルーヴは、海から目を離して、アルヴを見下ろした。
アルヴは顔を上げていなかった。膝の上に顎を載せるようにして、波打ち際を見ていた。横顔は、日差しの中で、少し青白く見えた。目の下に、うっすらと影があった。
「嘘をつくな」
エアグルーヴの声は、低かった。大きくはなかった。
「お前は、必要なものほど遠ざける」
アルヴの耳が、後ろへ倒れた。
ぴたりと、頭の後ろのほうへ。何かを遮ろうとするように。エアグルーヴの言葉を、波の音を、日差しの熱さを。倒れた耳の先が、かすかに震えていた。
エアグルーヴは、それ以上は言わなかった。言わずに、待った。
波が、寄せては返した。遠くの賑わいの声が、風に乗って、途切れ途切れに届いた。
アルヴの手のひらの中で、イヤホンがかすかに軋んだ。握る力が、強くなっていた。
「……好きに」
アルヴの声が、波の音にまぎれそうなほど、小さく出た。
「好きに、なってしまったんです」
*
エアグルーヴは、すぐには何も言わなかった。
予想していなかったわけではなかった。察しはついていた。それでも、本人の口から、その言葉が、その温度で出てきたことを、彼女は一度、胸の中で受け止める時間が必要だった。
アルヴは、言ったあとで、膝を抱える腕にもう一度力を込めた。顔を、膝のほうへ少しだけ伏せた。黒い髪が肩から滑り落ちて、横顔を半分隠した。
「そうか」
エアグルーヴは、短く言った。
それから、少しだけ間を置いた。海を見た。光の粒が、まだ水面で砕けていた。
「誰かを好きになることは、弱さではない」
アルヴが、顔を上げた。
ゆっくりと、膝から顔を離し、エアグルーヴのほうを見上げた。目が、わずかに見開かれていた。何かを言われるとしたら、責められるのだと思っていた、という顔だった。
エアグルーヴは、その目をまっすぐ見下ろした。
「だが」
声の温度が、少しだけ下がった。
「気持ちを伝えもせず、拒絶だけを積み重ねたのは、お前の過ちだ」
アルヴの目が、揺れた。
「信頼している相手を、傷つけた。弱さを隠すために、他人を遠ざけた」
エアグルーヴは、一語ずつ、区切るように言った。
「それは、誇りではない」
アルヴは、唇を噛んだ。
噛んだ唇の端が、白くなっていた。目を逸らさなかった。逸らせないでいる、というほうが近かった。エアグルーヴの言葉が、一つずつ、どこか深いところに落ちていくのが、表情の動かなさで分かった。
エアグルーヴは、自分の言葉の重さを、自分でも感じていた。
厳しすぎるかもしれない、と思った。好きになってしまった、と打ち明けたばかりの後輩に、過ちだ、誇りではない、と言うのは。もっと柔らかい言い方があるのかもしれない。だが、柔らかく言えば、アルヴはそれを、許されたのだと受け取るかもしれない。好きだから仕方なかったのだと。
それでは、早瀬トレーナーが受けた傷は、どこへ行くのか。
毎日同じ時刻に資料を持ってくる人を、何日も突き放し続けたことは、好きだったからという理由で消えるものではなかった。
「明日、話せ」
エアグルーヴは言った。
「自分の言葉で」
アルヴは、長いあいだ、黙っていた。
波が三つ、四つと崩れた。手のひらの中のイヤホンを握る指から、少しずつ力が抜けていくのが見えた。耳は、まだ後ろへ倒れていたが、先の震えは、いつのまにか止まっていた。
「……考えます」
分かりました、とは言わなかった。
エアグルーヴは、それでいいと思った。分かりました、と言われれば、それはただ自分の言葉に従っただけになる。考えます、と言ったのは、自分で考えるということだった。
「そうしろ」
エアグルーヴは、それだけ言って、踵を返した。
乾いた砂の上を、宿舎のほうへ歩いた。振り返らなかった。背中に、アルヴの視線を感じた気がした。気のせいかもしれなかった。
*
宿舎の二階の廊下には、窓が海に向かって一列に並んでいた。
エアグルーヴは、その一つの前で立ち止まった。
窓の外に、さっきまで自分が立っていた砂浜が見えた。松林寄りの乾いた砂の上に、黒い髪の人影が、まだ座っていた。膝を抱えて、海のほうを向いている。イヤホンは、もう両方とも耳から外しているようだった。
エアグルーヴは、窓枠に手を置いた。
木の窓枠は、午後の日差しで温まっていた。
あれでよかったのか、と考えた。
言うべきことは、言った。言わなければならないことだった。好きになることは弱さではない。だが、拒絶を積み重ねたのは過ちだ。その両方を、伝えなければならなかった。片方だけでは、アルヴは、自分を責めるだけになるか、自分を許すだけになる。どちらも、彼女のためにならない。
それでも、言葉を選ぶことに、迷いがなかったわけではなかった。
唇を噛んだアルヴの顔が、目に残っていた。
エアグルーヴは、窓の外の海を、長いあいだ見ていた。午後の日差しが少しずつ傾き、水面の光の粒が、白から淡い金色へ、ゆっくりと色を変えていった。
夕方には、もう一人、話をしなければならない相手がいた。
彼女は窓枠から手を離した。廊下の先の階段のほうへ、歩き出した。
第八章 二人それぞれへの叱責――八月五日夕方
夕方の五時を過ぎると、離れの縁側には、松林の影が長く伸びてきた。
雅也は、縁側の板の上に、引き継ぎの資料の綴りを広げていた。昨日、彼女に見せたものだった。見せただけで、渡してはいない。机の上に置いて、指を一本載せただけ。
その綴りを、今日、もう一度読み直していた。
誤りがないか。後任の候補が読んだとき、迷う箇所がないか。右脚の張りの経過は、日付と医療担当の評価を正確に写してあるか。読み直すたびに、細かい直しが一つ二つ見つかった。数字の桁の位置。言い回しの曖昧さ。それを鉛筆で直していく。
手を動かしていると、考えずに済んだ。
少し、考えさせてください。
昨日から、その言葉が、何をしていても頭の片隅にあった。彼女は今日、練習に来ていた。自分で組んだ内容を走り、会話はなかった。昨日までと同じだった。違ったのは、宿舎へ戻っていくとき、彼女の歩幅が、ほんのわずかに乱れていたことだけだった。
松林の小道のほうから、足音が近づいてきた。
砂混じりの土を踏む、しっかりとした足音だった。歩幅が一定で、迷いがない。雅也は鉛筆を止め、顔を上げた。
エアグルーヴが、縁側の前に立っていた。
生徒会の用務で合宿所に来ていることは、知っていた。だが、彼女がここへ来る理由は、思い当たらなかった。いや、思い当たらないふりをしようとして、それができなかった。
「早瀬トレーナー。少し、いいか」
「ああ」
雅也は綴りを閉じ、縁側の端へずらした。座るように勧めたが、エアグルーヴは首を振った。縁側の前に立ったまま、腕を組みもせず、まっすぐこちらを見下ろした。
夕方の光が、彼女の背中から差していた。顔の半分が影になって、表情が読みにくかった。
*
「本人に説明する前に、引き継ぎの相談を進めたな」
前置きはなかった。
雅也は、彼女がどこからそれを聞いたのか、一瞬考えた。たづなか。同期か。元上司か。どこからでも、おかしくはなかった。
「可能性の確認だけだ。誰にも決めていない」
「本人の意思を、後回しにした」
「説明して、考える時間を渡した」
雅也は、自分の声が落ち着いていることを確かめながら答えた。昨日、彼女に説明したとおりのことだった。手続きの内容も、効力発生日も、決めるのは本人だということも。
エアグルーヴは、少しのあいだ黙っていた。
縁側の向こうの松林で、ヒグラシが一つ鳴きはじめた。高く、途切れ途切れの声が、夕方の空気の中に細く響いた。
「なぜ、理由を聞かなかった」
雅也は、答えようとして、言葉が出てこなかった。
「あいつが、突然冷たくなった理由を」
エアグルーヴの声は、低かった。責める調子ではなかった。ただ、事実を確かめるように、一語ずつ置いていく声だった。
雅也は、膝の上で、指を組みかけて、ほどいた。
なぜ、聞かなかったのか。
答えは、自分の中にあった。聞いてほしそうな顔をしていなかったから。拒んでいる相手に理由を問えば、さらに踏み込むことになるから。彼女の意思を、尊重したかったから。
それを口にしようとして、その答えが、今ここで、エアグルーヴの前で、どれほど薄く響くかが分かった。
昨夜、手帳を閉じかけたときにも、一度だけ気づいていた。理由を聞いていない、と。気づいて、自分の基準に従うことにした。その判断の手触りが、今になって、指先によみがえった。
「……聞かなかった」
雅也は、ようやくそれだけ言った。
「聞いてほしそうな顔を、していなかった。だから、聞かなかった」
言ってから、それが言い訳に聞こえることに気づいた。言い訳に聞こえるだけでなく、言い訳そのものだった。
エアグルーヴは、その言葉を、黙って受け取った。
「相性のよい次の担当を探せばいいと、割り切ったように見える」
彼女は、少しだけ声の調子を変えた。
「それが、あいつにどう映るか、考えたか」
雅也は、縁側の板の木目を見下ろした。
日に焼けて、色が抜けかけた木目。そこに、松林の影が、細い縞になって落ちていた。
割り切ったつもりは、なかった。傷ついていることを分かっていたからこそ、それを判断に混ぜないように、手続きを先に動かした。彼女のために、別の可能性を考えた。それは、職務上の責任だと思っていた。
だが、彼女の側から見れば、どうだったのか。
自分は彼女に何も聞かずに、同期と元上司に電話をかけ、引き継ぎの資料を作り、それから彼女の前に座って、手続きを始めた、と言った。誰に決めたわけでもない、と言いながら、その机の上には、彼女の二年分を綴じた一冊が置いてあった。
それが、彼女の目に、どう映ったのか。
「割り切ったつもりは、ない」
雅也は、顔を上げた。
「……でも、そう見えたなら、俺の説明が足りなかった」
*
エアグルーヴは、しばらく雅也の顔を見ていた。
夕方の光が少しずつ傾いて、彼女の顔の影の位置が変わっていった。影が浅くなり、表情が見えるようになった。厳しい顔だった。だが、その厳しさの奥に、何か別のものがあった。怒りではなかった。何かを確かめ終えたあとの、静かな顔だった。
「あなたの判断には、職務上の筋が通っている」
彼女は言った。
「それは認める。指導が成り立っていないと判断したなら、担当を続けることを目的にしないのは、正しい」
「……」
「だが、本人が状況を理解する前に、結論を進めたのは、問題だ」
雅也は、その言葉を、一つずつ聞いた。
職務上の筋は通っている。結論を進めたのは問題だ。その二つが、同じ一つの判断の、表と裏だった。彼女は、その両方を見ていた。どちらか片方だけを見て、自分を責めたり、許したりはしなかった。
「分かった」
雅也は、短く言った。
それ以上の言葉は、要らない気がした。言い訳を重ねれば、今認めたことが薄まる。認めたことは、認めたまま、そこに置いておくべきだった。
「明日、あいつと話してほしい」
エアグルーヴは言った。
「推測ではなく、本人の言葉で」
「話す」
雅也は答えた。答えるまでに、迷いはなかった。
エアグルーヴは、小さく頷いた。それから、少しだけ、口元を緩めた。ほんのわずかだった。笑ったというより、張りつめていた何かを、一度だけほどいた、という動きだった。
「明日、私も同席する」
「……同席?」
「二人きりにすると、どちらも黙りそうだからな」
雅也は、思わず苦笑した。
否定できなかった。自分は、聞いてほしそうな顔をしていない人間には聞かない。彼女は、必要なものほど遠ざける。二人きりで机を挟んで座れば、きっと、扇風機の音と波の音だけが、長いあいだ部屋を満たすことになる。
「場所は、宿舎の小会議室を押さえる。午前十時。あいつには、私から伝える」
「頼む」
エアグルーヴは踵を返しかけて、もう一度、雅也のほうを見た。
「早瀬トレーナー」
「何だ」
「あいつは、あなたの資料を、受け取る前に、必ず一度、あなたの顔を見ていた。この一年、ずっと」
雅也は、何と答えればいいのか分からなかった。
「それだけだ」
エアグルーヴは、それ以上は言わずに、松林の小道を戻っていった。足音が、砂混じりの土の上を、一定の速さで遠ざかっていった。
*
エアグルーヴの姿が松林の向こうに消えてから、雅也は、しばらく縁側に座ったまま動かなかった。
ヒグラシが、いつのまにか何匹にも増えていた。松林のあらゆる方向から、高い声が重なり合って降ってくる。空の色が、青から、薄い橙へ、ゆっくりと変わりはじめていた。
受け取る前に、必ず一度、顔を見ていた。
雅也は、それに気づいていなかった。毎朝資料を渡すとき、自分は資料の内容を説明するのに気を取られていた。彼女がいつ顔を上げ、いつ目を落とすのか。それを記録の欄に書いたことは、一度もなかった。
見ていたつもりだった。走り方の変化も、食べる時間の長さも、右脚の張りも。見ていたから、気づいた。
それなのに、一番近いところにあったものを、見ていなかった。
雅也は、縁側の端に寄せた綴りを、手に取った。
表紙をめくり、最初のページを見た。アドマイヤグルーヴ。練習の履歴、身体管理、競技方針、本人の希望。本人の希望の欄には、二年分の記録から拾い上げた、彼女の言葉がいくつか並んでいた。最後の二百メートルが一番好きです。休むのも計画のうちです。内を選んだのは私です。
その欄の一番下に、何も書いていない行が、一つあった。
今の彼女の希望。それを、自分は聞いていなかった。
雅也は、綴りを閉じた。
*
同じころ、宿舎の部屋で、アルヴは窓際に座っていた。
ディザイアは夕食に出ていて、部屋にはいなかった。机の上には、昨夜折った淡い桃色の鶴と、皺の寄った水色の折り紙と、四つに折った紙が二枚。
扉が、二度叩かれた。
アルヴは、立ち上がって扉を開けた。
エアグルーヴが立っていた。
「明日の午前十時。宿舎の小会議室だ。早瀬トレーナーも来る。私も、同席する」
アルヴは、扉の取っ手を握ったまま、すぐには答えられなかった。
「……トレーナーにも、何か、言ったんですか」
「言うべきことを、言った」
エアグルーヴは、それ以上は説明しなかった。
「来るかどうかは、お前が決めろ」
その言葉を聞いたとき、アルヴは、胸の奥で何かがかすかに鳴るのを感じた。
決めるのは、アルヴだ。
昨日、彼もそう言った。
「……行きます」
エアグルーヴは、頷いた。それから、踵を返しかけて、振り返った。
「夕食は、食べろ。明日、話すのには体力が要る」
そう言い残して、廊下を歩いていった。
アルヴは扉を閉め、机の前に戻った。
しばらくして、部屋を出た。食堂へ向かった。
その夜の夕食を、彼女は、まだ全部は食べられなかった。それでも、昨日より、茶碗の中の飯は少なく残った。
第九章 小会議室――八月六日午前、三者の対話と抱擁
八月六日の朝、合宿所の宿舎は、いつもより少しだけ静かだった。
合宿の後半に入り、生徒たちの疲れが溜まってくる時期だった。朝食の時刻の食堂でも、話し声は控えめで、箸と食器の音のほうがよく聞こえた。窓の外の海は凪いでいて、波打ち際の白い泡が、ゆっくりと寄せては返していた。空は高く、雲がほとんどない。今日も暑くなる、と誰かが言った。
アルヴは、朝食を、いつもの量の半分ほど食べた。
食べ終えて、部屋に戻り、顔を洗った。鏡の中の自分を、今朝は見た。目の下の影は、昨日より少しだけ薄くなっていた。髪を梳かし、結び直す。指先が、一度だけ、櫛の歯に引っかかった。
ポケットに、四つに折った紙が二枚入っていた。柵の上と、ベンチの上に置かれていた計画。それから、机の上の淡い桃色の鶴を、少しだけ見た。持っていくかどうか迷って、置いていくことにした。
九時五十分、部屋を出た。
宿舎の二階の廊下の突き当たりに、小会議室があった。扉は木製で、真鍮の取っ手が、廊下の窓から差し込む光を受けて、鈍く光っていた。
扉の前で、アルヴは立ち止まった。
中から、扇風機の音が聞こえていた。人の話し声は、聞こえなかった。
耳元に手をやりかけて、止めた。イヤホンは、部屋に置いてきた。今日は、何も遮らないと決めていた。
二度、扉を叩いた。
「入れ」
エアグルーヴの声だった。
*
小会議室は、思っていたより明るかった。
窓が二つ、海に向かって並んでいた。夏の午前の光が、そこから斜めに差し込み、部屋の中央の長机の上に、白い四角を二つ落としていた。長机は一つで、その周りに椅子が六脚。窓の外には、松林の向こうに海が見えた。光を受けて白く光る水面が、窓枠に切り取られて、絵のように静かだった。
部屋の隅で、扇風機が首を振っていた。冷房は弱く、空気がぬるい。日に焼けた畳と、古い木の机の匂いが、潮の匂いに混ざっていた。
エアグルーヴは、窓際の椅子に座っていた。長机から少し離れて、窓を背にした位置。脚を揃え、膝の上に手を置いていた。
長机の向こう側に、トレーナーが座っていた。
雅也は、アルヴが入ってくるのを見て、少しだけ姿勢を正した。机の上には、何も置いていなかった。手帳も、綴じた紙も。両手を、机の上に軽く重ねていた。
アルヴは、長机のこちら側の、彼の正面の椅子を引いた。
椅子の脚が、板張りの床を短く擦った。その音が、部屋の中でやけに大きく響いた。座る。背筋を伸ばす。膝の上に手を置く。
机を挟んで、彼と向かい合った。
距離は、机の幅ぶんだった。腕を伸ばしても、届かない。
誰も、口を開かなかった。
扇風機が、首を振った。風が、机の上を横切り、窓際のエアグルーヴの前髪をかすかに揺らし、また戻っていった。窓の外から、波の音が聞こえた。遠くで、合宿の生徒たちが何かの掛け声を上げていた。
エアグルーヴは、何も言わなかった。急かさなかった。窓際の椅子で、二人のほうを見ていた。
雅也も、何も言わなかった。
アルヴは、膝の上の手を見下ろしていた。
*
雅也は、彼女が話しはじめるのを待っていた。
自分から話すこともできた。昨日の夕方、エアグルーヴに言われたことを、まず謝るべきかもしれなかった。だが、エアグルーヴは、推測ではなく本人の言葉で、と言った。自分が先に話せば、彼女はまた、自分の言葉を飲み込むかもしれない。
だから、待った。
彼女は、膝の上の手を見ていた。指が、一度、握られた。ほどかれた。また、握られた。
扇風機が、三度首を振った。
彼女の唇が、動いた。
「……合宿の」
声が、かすれていた。彼女は一度、口を閉じた。小さく息を吸った。
「合宿の、夜に」
目は、まだ膝の上にあった。
「右脚を、止めてもらった日の夜です。浜で、あなたに、なぜ気づいたのかと、聞きました」
雅也は、その夜のことを覚えていた。手帳に練習の組み直しを書いていたとき、彼女が来た。なぜ、気づいたんですか、と聞かれた。見てたから、と答えた。それだけの会話だった。
「あなたは、見てたから、と言いました」
彼女の指が、膝の上で、ジャージの布を小さくつまんだ。
「それで、気づいてしまいました」
雅也は、彼女が何に気づいたのか、分からなかった。
分からないまま、待った。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
目が、合った。五日ぶりに、まっすぐ。彼女の目は、少し赤かった。眠れていないのかもしれなかった。それでも、逸らさなかった。
「あなたのことが、好きだと」
部屋の中の音が、一瞬、遠くなった。
扇風機の音も、波の音も、窓の外の掛け声も。雅也の耳には、まだ聞こえていた。聞こえていたのに、どこか薄い膜の向こうから届くような気がした。
好きだと。
その言葉が、自分のどこに落ちたのか、雅也はすぐには分からなかった。
気づかなかった。この五日間、一度も、その可能性を考えなかった。考えなかったのは、彼女を担当として見ていたからだった。彼女の内面を、推測で決めつけないようにしていたからだった。そうやって自分を律していたことが、今、まったく違う形で、目の前に戻ってきていた。
彼女は、目を逸らさなかった。逸らさないまま、言葉を続けた。
「私は、愛など必要ないと、言ってきました。なれ合いは要らないと。ずっと、そう言ってきました」
声が、少しだけ震えた。
「それなのに、と思ったら」
そこで、言葉が途切れた。
彼女は、一度、唇を噛んだ。それから、言い直した。
「怖く、なりました」
雅也は、何も言わなかった。言うべきことは、まだ自分の番ではないと思った。
「あなたの温かさを、なかったことにしようとしました」
彼女の目に、光るものが溜まりはじめていた。落ちはしなかった。彼女は、それを落とさないように、まばたきを我慢しているように見えた。
「だから、ひどいことを言いました」
声が、低くなった。
「気まぐれ、と。……毎日、同じ時間に来てくれる人に」
膝の上の手が、強く握られた。
「同情、とも。迷惑だと。……どれも、本当では、ありませんでした」
彼女は、もう一度、息を吸った。
「ごめんなさい」
短い言葉だった。敬語のまま、崩れていなかった。崩れていないことが、かえって、その言葉が彼女の中のどれほど深いところから出てきたのかを、雅也に伝えていた。
彼女は、頭を下げなかった。下げずに、雅也の目を見たまま、その言葉を置いた。
*
雅也は、自分の手を見た。
机の上で重ねていた両手の、右手の指先が、かすかに冷えていた。
彼女は、話した。自分の言葉で、少しずつ。言い直しながら、途切れながら。それを受け取った今、自分が何を言うべきか。
好きだと言われたことに、まず答えるべきなのか。
違う、と思った。その前に、言わなければならないことがあった。彼女が謝ったように、自分にも、謝らなければならないことがあった。
「手続きを始めたのは」
雅也は、口を開いた。声は、思っていたより低く出た。
「俺が担当でいることが、アルヴにとって、最善じゃないかもしれないと思ったからだ」
彼女は、黙って聞いていた。
「計画が使われなくなって、会話がなくなって、身体の感覚を聞けなくなった。指導が、成り立っていないと思った。このまま続けることが、アルヴの競技生活のためになるとは思えなかった。だから、相性のいい人への引き継ぎも考えた。誰にも、決めてはいない」
そこまで言って、雅也は一度、言葉を切った。
昨日、エアグルーヴに言われたことが、頭の中にあった。本人が状況を理解する前に、結論を進めた。
「悪かった」
雅也は言った。
「理由を聞かずに、結論だけ進めた」
彼女の目が、わずかに揺れた。
「アルヴが急に冷たくなったとき、俺は理由を聞かなかった。聞いてほしそうな顔をしてないと思って、聞かなかった。それで、自分の判断だけで、手続きを進めた。アルヴに説明する前に、同期と先輩に相談した。順番が、逆だった」
言い訳はしなかった。理由を並べれば、それは謝罪ではなく、弁明になる。
雅也は、もう一つ、言わなければならないことがあると思った。言うべきかどうか、一瞬だけ迷った。言えば、彼女を責めることになるかもしれない。だが、言わなければ、それは嘘になる。
「正直に言う」
雅也は、彼女の目を見た。
「あの日の言葉は、こたえた」
彼女の肩が、小さく震えた。
「でも、それは、アルヴのせいだけじゃない。俺の説明も、足りなかった。毎日資料を持っていくことの意味を、言葉にしたことは、一度もなかった。言わなくても伝わると思ってた。伝わっていなかったのなら、それは俺の側の問題でもある」
彼女は、何か言いかけた。唇が動いた。
窓際で、エアグルーヴが、初めて口を開いた。
「推測ではなく、聞け」
短い言葉だった。それだけ言って、エアグルーヴはまた黙った。
雅也は、彼女のほうを見た。
彼女は、何かを言いかけたまま、止まっていた。
「……何か、言いたいことがあるなら」
雅也は、言葉を選んだ。
「聞かせてくれ」
彼女は、少しのあいだ黙っていた。それから、小さく首を振った。
「あなたのせいでは、ありません。……私が、言わなかったんです」
「俺も、聞かなかった」
「……はい」
彼女は、それ以上は言わなかった。言わなかったが、膝の上で握られていた手が、少しだけほどけた。
*
「一つ、確認したい」
雅也は、少しだけ姿勢を正した。
「解除の申請は、まだ効力が出ていない。八月三十一日までは、契約は有効だ。今も、俺はアルヴの担当トレーナーで、アルヴは俺の担当だ」
「……はい」
「それは、変わっていない」
彼女は、頷いた。
雅也は、その頷きを見てから、言葉を続けた。
彼女は、自分の気持ちを隠さずに言った。好きだと。それを、友情だとか、一時の錯覚だとか、依存だとか、別の言葉にすり替えることは、彼女の言葉を軽んじることになる。子ども扱いすることも。拒絶することも、違う。
だが、今、自分が彼女の担当であることも、事実だった。
「アルヴ」
名前を呼んだ。彼女の耳が、まっすぐこちらへ向いた。
「俺も、アルヴを、とても大切にしたい」
彼女の目が、大きく見開かれた。
「だけど、今のアルヴは競技者で、俺はアルヴの担当トレーナーだ」
言葉を、一つずつ、置いていった。
「アルヴが、自分で納得して、競技者としての時間を終えた後も、今と同じ気持ちでいてくれるなら」
そこで、一度、息を継いだ。
「そのときは、俺にも、改めて気持ちを伝えさせてくれ」
部屋の中が、静かになった。
扇風機の音だけが、首を振るたびに、少しずつ近づいては遠ざかった。
雅也は、それ以上は何も言わなかった。いつ競技生活を終えるのか、とは言わなかった。次のレースのことも、言わなかった。それは、彼女が決めることだった。急かすつもりは、少しもなかった。
*
彼女は、長いあいだ、黙っていた。
膝の上の手が、一度握られて、ほどけた。目は、雅也を見ていた。見ていたが、その視線は、どこか遠いところへ向かっているようにも見えた。自分の中のどこかを、確かめているように。
窓の外で、波が三つ、四つと崩れた。
エアグルーヴは、窓際で身じろぎもしなかった。
やがて、彼女は、膝の上で手を一度だけ強く握り、ほどいた。
立ち上がった。
椅子を引く音が、短く響いた。椅子の背に手を置いたまま、彼女は一瞬だけ立ち止まった。それから、手を離した。
長机の端へ、歩いた。
机の角を回る。一歩、また一歩。足音が、板張りの床に小さく響いた。窓から差し込む光の四角の中を、彼女の影が横切った。
雅也は、椅子に座ったまま、彼女が近づいてくるのを見ていた。
何をしようとしているのか、分からなかった。分からないまま、身体が動かなかった。
彼女は、雅也の椅子の横で、立ち止まった。
雅也は、立ち上がった。座ったままでは、彼女を見上げることになる。それは、何か違う気がした。椅子を少し引いて、立つ。彼女と向かい合った。
距離は、もう、腕一本もなかった。
彼女は、雅也の顔を見上げていた。目に、溜まっていたものが、今にも落ちそうだった。肩が、小さく震えていた。
スキンシップが苦手な人だった。第一年の五月、ダンスのレッスンで手を取られただけで、固まっていた人だった。誰かに触れられることも、誰かに触れることも、ずっと避けてきた人だった。
その彼女が、一歩、前に出た。
額が、雅也の胸に触れた。
軽く、ためらうように。触れた瞬間、彼女の肩の震えが、雅也の胸に直接伝わってきた。
それから、両腕が、雅也の背中に回った。
ぎこちない動きだった。どこに手を置けばいいのか分からない、というように、一度だけ指先が迷った。それから、背中の中ほどで、両手が、雅也のシャツの布をつかんだ。
「好きです」
胸に額を押し当てたまま、彼女が言った。
小さな声だった。シャツの布越しに、くぐもって聞こえた。
「……ずっと、大切でした」
*
雅也は、一瞬、動けなかった。
腕を、どこに置けばいいのか分からなかった。彼女の額の温かさが、シャツ越しに胸に伝わってきた。背中をつかむ彼女の指の力が、思っていたより強かった。彼女の呼吸が、浅く、速く、胸に当たっていた。
固まっていたのは、ほんの一瞬だった。
それから、雅也は、両腕を彼女の背中へ回した。
片腕ではなく。背中を一度叩くのでもなく。両腕で、彼女の肩甲骨のあたりから背中を、しっかりと包むように。
力の加減を、確かめた。痛くないように。締めつけないように。それでも、彼女が身を預けられるだけの確かさで。彼女がいつでも、自分の意思で離れられるように、腕の輪には、わずかな余白を残した。
彼女の身体が、腕の中で、一度だけ強張った。
それから、少しずつ、力が抜けていった。
最初に変わったのは、呼吸だった。浅く速かった息が、一つ、長くなった。雅也の胸に当たる息の温度が、少しずつ、ゆっくりになっていく。
次に、肩だった。小さく震えていた肩の動きが、少しずつ収まっていった。収まりきるまでに、時間がかかった。震えが止まりかけては、また小さく震え、それからまた止まりかける。雅也は、腕の力を変えなかった。彼女の呼吸に合わせて、強めることも、緩めることもしなかった。ただ、そこにいた。
彼女の耳が、雅也の肩のほうへ倒れていた。後ろへ倒れていたときの硬さとは違った。力が抜けて、横へ、柔らかく。
窓の外で、波の音がしていた。扇風機の風が、二人の横を通り過ぎていった。
「大切にしたい」
雅也は、彼女の頭の上で、もう一度だけ言った。
腕の中で、彼女が小さく頷いたのが分かった。
背中をつかんでいた彼女の指先の力が、少しずつ、緩んでいった。シャツの布を握りしめていた指が、一本ずつ、ほどけていく。最後に、手のひらが、雅也の背中に、ただ置かれているだけになった。
尻尾が、彼女の身体の後ろで、ゆっくりと一度だけ揺れた。それから、静かに下がった。
雅也は、腕をほどかなかった。
自分から離すつもりはなかった。彼女が離れたいと思うまで、このままでいようと思った。
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。窓から差し込む光の四角が、床の上で、ほんのわずかに位置を変えていた。
彼女が、自分から腕をほどいた。
ゆっくりと、額を雅也の胸から離す。両手を、背中から引く。一歩、下がる。
雅也も、腕をほどいた。
彼女は、下を向いたまま、指で目元を拭った。一度、二度。それから、顔を上げた。背筋を、伸ばした。
目は、赤かった。頬に、拭いきれなかった涙の跡が、細く光っていた。それでも、彼女の顔は、さっきより、ずっと静かだった。
*
アルヴは、雅也の前に立ったまま、少しのあいだ呼吸を整えていた。
それから、口を開いた。
「あなたと、担当の関係を、続けたいです」
声は、もう震えていなかった。
「次のレースも、あなたと、臨みたい」
雅也は、彼女の目を見た。
担当として、続けられるか。職務上の判断として、それを考えた。計画を使うこと。会話をすること。身体の感覚を、言葉で伝えること。それが、また成り立つのか。
成り立つ、と思った。彼女は今、自分の言葉で話した。自分も、聞いた。
「分かった」
雅也は言った。
「手続きを、取り下げる」
ポケットから携帯電話を取り出した。学園の事務室の番号を押す。呼び出し音が、三回。
「はい、トレセン学園事務室、駿川です」
「早瀬です。七月三十一日に申請した、アドマイヤグルーヴの担当契約解除の件です。申請を、取り下げます」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
「……承知しました。効力発生日の前ですので、取り下げは有効です。本日付で処理します。書類は、合宿所の端末にお送りしますので、署名をお願いします」
「お願いします」
「早瀬トレーナー」
たづなの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「よかったです」
電話が切れた。
雅也は、続けて、同期のトレーナーに短いメッセージを送った。相談は終わりにする。手間をかけた。それから、元上司にも、同じ内容を。
送信を終えて、携帯電話をポケットにしまった。
「次のレースだ」
雅也は、アルヴを見た。
「秋の初戦、府中ウマ娘ステークス。十月中旬。宝塚記念の内の判断と、右脚の張りの管理。そこから組み直す」
「はい」
「練習の計画は、前日までに、必ず二人で確認する」
「はい。……不安なことや、身体のことは、私から言います」
「俺も、大きな判断を進める前には、必ず説明して、理由を聞く。アルヴが黙っていても、一度は聞く」
「……はい」
彼女は、小さく頷いた。
すぐに全部が元通りになるとは、雅也は思っていなかった。五日間、計画が使われず、会話がなかった。二人のあいだに、何かが壊れかけた。その跡は、すぐには消えない。九月の練習で、何度か噛み合わない日があるだろう。それでも、今日、二人は言葉で確かめ合った。そこから組み直せばいい。
*
そこまで話して、雅也は、ふと、手帳を開こうとして、手を止めた。
窓際に、エアグルーヴがいた。
忘れていた。この部屋に、自分と彼女以外に、もう一人いたことを。
アルヴも、同時に気づいたらしかった。彼女の耳が、一度、後ろへ倒れた。それから、ゆっくりと、窓際のほうへ顔を向けた。
二人とも、気まずそうに、エアグルーヴを見た。
エアグルーヴは、窓の外から視線を戻し、二人を見ていた。呆れと、それから、何か安堵のようなものが混ざった顔だった。
小さく、息を吐いた。
「距離感を、間違えないように」
声は、低く、静かだった。
「契約が続く限り、あなたたちは、トレーナーと担当だ。その責任と節度を守れ」
「分かってる」
雅也は答えた。
「はい」
アルヴも答えた。
エアグルーヴは、それ以上は何も言わなかった。茶化すことも、祝うこともしなかった。二人が、次のレースの話に戻るのを、少しのあいだ見届けていた。雅也が手帳を開き、アルヴが椅子に戻り、府中ウマ娘ステークスまでの日程を、二人で確かめはじめるのを。
それから、立ち上がった。
椅子を窓際に戻す。扉のほうへ歩く。背筋はまっすぐで、歩幅は一定だった。
扉の前で、彼女は立ち止まった。
振り返らなかった。取っ手に手をかけたまま、少しだけ間を置いた。
「アルヴ」
アルヴが、顔を上げた。
「よく言えたな」
それだけ言って、エアグルーヴは扉を開け、廊下へ出ていった。
扉が、閉まった。
足音が、廊下を遠ざかっていった。一定の速さで、迷いのない足音。やがて、階段のほうへ消えて、聞こえなくなった。
小会議室に、二人だけが残った。
扇風機が、首を振っていた。窓の外で、波が崩れていた。さっきまで窓際の椅子にいた人の不在が、部屋の中で、急に大きく感じられた。
アルヴは、閉まった扉を、しばらく見ていた。
雅也も、見ていた。
それから、二人は、ほとんど同時に、机の上の手帳へ目を戻した。府中ウマ娘ステークスまで、あと十週間と少し。最初の一週間の計画を、雅也が読み上げ、アルヴが一つずつ頷いた。読み上げる声は、いつもと同じ高さだった。頷く角度も、いつもと同じだった。
ただ、彼女は、資料を受け取る前に、一度だけ、雅也の顔を見た。
第十章 扉の向こう、夜の浜辺――八月六日夜
その日の夕食の時刻、宿舎の食堂には、窓から西日が斜めに差し込んでいた。
海に面した窓の網戸越しに、橙色の光が長机の端を照らし、湯気の立つ椀の縁を、細く金色に縁取っていた。天井の扇風機が首を振るたびに、その光の中を、湯気がゆらりと横切っていく。焼き魚の匂い。味噌汁の匂い。炊きたての飯の、甘い湯気。話し声と、食器の触れ合う音が、天井の高い部屋の中で、柔らかく混ざり合っていた。
アルヴは、配膳台の前で、盆を受け取った。
茶碗に一杯半の飯。焼いた鰆の切り身が一つと、小鉢。味噌汁は、茄子と油揚げだった。合宿中の決まりで、主菜の横に、卵焼きが二切れ添えてある。
いつもの量だった。ここ数日、半分も食べられなかった量。
窓際の端の席に座った。盆を、机の上にまっすぐ置く。飯が左手前、主菜が右手前、味噌汁が飯の奥。
両手を合わせた。
「いただきます」
小さな声だった。誰に聞かせるためでもない声。それでも、今日は、その言葉が、口の中でいつもより確かな形をしていた。
味噌汁の椀を、両手で持ち上げた。
湯気が、鼻先に当たった。茄子の柔らかい匂いと、油揚げの、少し香ばしい匂い。一口、すする。熱が、舌の上から喉の奥へ、ゆっくりと降りていった。味が、した。茄子の甘さ。味噌の塩気。出汁の、奥のほうの深さ。ここ数日、同じように口に入れていたはずなのに、形にならなかった味が、今は一つずつ、はっきりと分かった。
椀を置き、箸を取った。
小鉢の和え物を一口。飯を一口。鰆の身を、箸の先でほぐす。皮目に焼き色がついて、身はふっくらと白い。ほぐした身から、湯気が細く立ちのぼった。口に運ぶ。塩の加減が、ちょうどよかった。
ゆっくりと、食べた。
急がなかった。いつもと同じ速さで。食べながら、話さない。窓の外で、西日が少しずつ傾き、海の色が、青から淡い金色へ、それから薄い紫へと変わっていくのを、ときおり目の端で見ていた。
飯を、もう一口。味噌汁を、もう一口。
茶碗の底が見えてきた。
最後の一口を食べ終え、箸を揃えて置いたとき、盆の上には、何も残っていなかった。茶碗も、主菜の皿も、小鉢も、味噌汁の椀も。米粒が一つ、茶碗の縁にくっついているだけだった。彼女はそれを、箸の先でそっと取って、口に入れた。
手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
盆を持って立ち上がる。返却口へ歩く。
返却口の職員が、盆を受け取り、一瞬だけ中を見た。それから、少しだけ目元を緩めて、ありがとうございます、と言った。
アルヴは、浅く頭を下げた。
食堂の奥の、トレーナーたちが座る席のほうを、一度だけ見た。
彼は、そこにいた。食事を終えて、湯呑みを手にしていた。こちらを見てはいなかった。少なくとも、見ているようには見えなかった。
アルヴは、食堂を出た。
*
夜の九時を過ぎて、雅也は、離れの縁側から、浜へ下りた。
手帳は、持っていかなかった。今日の欄には、もう全部書いてあった。手続きの取り下げ。府中ウマ娘ステークス。練習の計画は前日までに二人で確認する。それから、夕食の欄に、一行。主食・主菜・小鉢・汁物、全量。
その一行を書いたとき、ペンの先が、紙の上で一瞬だけ止まった。
松林を抜ける小道は、暗かった。宿舎の窓から漏れる明かりが、木々の幹のあいだに細く差し込み、足元の砂混じりの土を、ところどころ白く浮かび上がらせていた。昼の熱をまだ少しだけ残した土が、靴底越しに、ぬるく感じられた。草むらのどこかで、虫が鳴いていた。
松林が途切れると、波の音が、急に近くなった。
浜は、暗かった。宿舎の明かりは背後の松林にさえぎられ、ここまでは届かない。乾いた砂が、星明かりの下で、うっすらと灰色に見えた。その先の波打ち際で、白い泡が、ゆっくりと寄せては返していた。
雅也は、乾いた砂の上を歩いた。
足が、砂に沈む。一歩ごとに、靴の中に細かい砂が入り込んでくる。気にせずに歩いた。波打ち際から少し離れた、乾いた砂の上に、腰を下ろした。
砂は、ひんやりとしていた。昼の熱は、もうすっかり抜けていた。手のひらをつくと、細かい粒が、指のあいだから静かにこぼれていった。
空を見上げた。
雲は、ほとんどなかった。昼のあいだ高く晴れていた空が、そのまま夜になっていた。星が、多かった。学園の空では見えない数の星が、頭の上いっぱいに散らばっていた。どれがどの星なのか、雅也には分からなかった。分かる必要もなかった。ただ、細かい光の粒が、黒い空の上で、ときおり瞬いていた。
水平線のあたりだけが、空よりわずかに暗かった。海と空の境目が、そこでかろうじて分かる。沖のほうで、波が一つ、白く崩れた。少し遅れて、その音が届いた。
雅也は、膝の上に腕を載せて、そうしていた。
何かを考えようとしていたわけではなかった。
今日一日のことが、まだ、身体のどこかに残っていた。小会議室の、窓から差し込む光の四角。扇風機の音。彼女の、途切れながらの言葉。好きです、と胸に額を押し当てて言った、くぐもった声。腕の中で、少しずつほどけていった、肩の震え。背中をつかんでいた指が、一本ずつ緩んでいった感触。
それを、言葉にしてまとめようとは思わなかった。まとめれば、どこかが削れてしまう気がした。
波が、崩れた。泡が、乾いた砂の縁まで這い上がって、音もなく引いていった。
もう一つ。また一つ。
その間隔を、雅也は数えるでもなく、聞いていた。
*
背後で、砂を踏む音がした。
かすかな音だった。乾いた砂に足が沈むたびに、音が吸い込まれて、ほとんど聞こえない。それでも、波の音の間に、一つ、また一つ、確かに聞こえた。松林のほうから、ゆっくりと近づいてくる。
雅也は、振り返らなかった。
足音が、少し後ろで、止まった。
しばらく、何も聞こえなかった。波の音だけが続いていた。足音の主は、そこに立っているようだった。近づくでもなく、離れるでもなく。
雅也は、それでも振り返らなかった。振り返れば、相手は、何かを言わなければならなくなる。
やがて、足音が、また動き出した。
さっきより、少しだけゆっくりと。乾いた砂の上を、雅也の斜め後ろから、横へ回り込むように。視界の端に、人影が入ってきた。
黒い髪だった。夜の暗がりの中で、星明かりを受けて、輪郭だけがかすかに光っていた。
アルヴは、雅也の隣まで歩いてきて、立ち止まった。
雅也は、顔を少しだけ上げて、彼女を見た。
彼女は、こちらを見ていなかった。海のほうを見ていた。風が、彼女の髪の先を、わずかに揺らしていた。ジャージの上着を羽織っていた。イヤホンは、していなかった。
何も、言わなかった。
雅也も、何も言わなかった。
彼女は、少しのあいだそうして立っていた。それから、膝を折った。ゆっくりと。乾いた砂の上に、雅也の隣に、腰を下ろした。
肩が、触れるか触れないかの距離だった。
触れては、いなかった。腕と腕のあいだに、指一本ぶんくらいの、夜の空気があった。
彼女は、膝を立て、その上に両腕を載せた。雅也と同じ姿勢だった。
それから、空を見上げた。
雅也も、もう一度、空を見上げた。
*
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
波が、寄せては返した。沖のほうで、白い波頭が、星明かりを受けて、一瞬だけ灰色に光り、消えた。少し遅れて、崩れる音が届いた。
風が、海から吹いていた。弱い風だった。湿った潮の匂いを含んで、頬に当たると、肌の上にかすかな冷たさが残った。
空の星は、さっきと同じように、そこにあった。見ているうちに、目が暗さに慣れて、最初は見えなかった細かい星が、少しずつ増えていった。黒い空の奥のほうに、淡い光の帯のようなものが、ぼんやりと浮かんで見えた。それが何なのかを、雅也は確かめなかった。
隣で、彼女の呼吸の音が、かすかに聞こえた。
最初は、少しだけ速かった。歩いてきたせいか、それとも別の理由か。それが、波の音の間で、少しずつ、ゆっくりになっていった。吸って、吐いて。その間隔が、だんだん長くなる。
雅也の呼吸も、気づくと、同じくらいの間隔になっていた。
何も話さなかった。話す必要がなかった。今日、小会議室で、話すべきことは、もう話した。彼女は、自分の言葉で話した。自分も、聞いた。謝った。大切にしたいと言った。契約が続く限り、トレーナーと担当であることも、二人で確かめた。
だから今は、何も足さなくてよかった。
同じ方向を見ていた。同じ空を。同じ波の音を聞いていた。それだけだった。
どれくらいそうしていたのか、雅也には分からなかった。
砂の冷たさが、ジャージ越しに、腿の裏にしみてきていた。膝の上に載せた腕の、肘のあたりが、潮風で少しだけ湿っていた。
隣で、彼女が、身じろぎした。
*
ほんのわずかな動きだった。
膝の上に載せていた両腕を、少しだけ下ろした。身体の向きが、海のほうから、ほんの少しだけ、雅也のほうへ傾いた。
腕と腕のあいだの、指一本ぶんの空気が、半分になった。
それから、止まった。
彼女は、そこで、動かなくなった。息を吸う音がした。吐く音は、すぐには聞こえなかった。何かを確かめるように、あるいは、何かを決めかねているように、彼女はその姿勢のまま、じっとしていた。
雅也は、空を見上げたまま、動かなかった。
彼女の耳が、すぐ近くで、かすかに動いた気配がした。一度、こちらへ向き、それから、止まった。
波が、一つ、崩れた。
彼女の息が、ゆっくりと吐き出された。
それから、彼女の頭が、少しだけ傾いた。
髪の先が、先に雅也の肩に触れた。細い髪の束が、ジャージの肩口を、かすかに撫でた。それから、こめかみのあたりが。最後に、頭の重みが、ゆっくりと、雅也の肩の上に載った。
軽かった。
思っていたより、ずっと軽かった。それでも、その重みは、確かにそこにあった。肩の骨の上に、温かい、小さな重み。彼女の髪から、潮の匂いと、それとは違う、石鹸のかすかな匂いがした。
雅也の身体が、一瞬だけ、強張った。
驚いていた。彼女が、自分から、こうするとは思っていなかった。スキンシップが苦手な人だった。誰かに触れることを、ずっと避けてきた人だった。今朝、小会議室で、自分から腕を伸ばした。それだけでも、彼女にとって、どれほどのことだったのか。
その彼女が、今、自分から頭を預けていた。
雅也は、強張りかけた肩の力を、ゆっくりと抜いた。
動かなかった。
腕を回さなかった。彼女を引き寄せなかった。頭を撫でなかった。何も言わなかった。
彼女が選んだことだった。自分から、ここまで来て、隣に座って、頭を預けた。その選択に、自分が何かを足せば、それはもう、彼女だけの選択ではなくなる。
だから、肩を動かさずに、そのままでいた。
肩の上で、彼女の頭の重みが、少しずつ、落ち着いていった。最初は、どこか遠慮するように、そっと載せられていた重みが、時間とともに、ほんの少しずつ、深くなっていく。こめかみが、肩口に、もう少しだけ沈む。
彼女の耳が、横へ、柔らかく倒れていた。
彼女の呼吸が、肩越しに、かすかに伝わってきた。ゆっくりと、深く。波の音と、ほとんど同じ間隔で。
尻尾が、彼女の身体の後ろの砂の上で、一度だけ、ゆっくりと揺れた。砂の上を、かすかに掃く音がした。それから、静かに、止まった。
雅也は、空を見上げていた。
星は、変わらずにそこにあった。黒い空の上で、細かい光の粒が、ときおり瞬いていた。沖のほうで、波が白く崩れ、少し遅れて、その音が届いた。
肩の上の重みは、もう、動かなかった。
夜の浜辺に、二人は並んで座っていた。砂は冷たく、潮風は湿っていて、宿舎の明かりは、背後の松林の向こうに、遠く小さく灯っていた。
波が、寄せては返した。
雅也は、肩を動かさなかった。