古き縁の社〜吾妻様
序章 母の手
その朝、早瀬雅也が目を覚ましたとき、家の中にはもう母の気配が満ちていた。
六月の初めだった。夜のうちに降った雨が上がったばかりで、寝室の窓の外では、隣家の紫陽花が重たそうに頭を垂れていた。カーテンの隙間から差し込む光はまだ白く薄く、床の上に細長い四角を一つだけ置いている。台所のほうから、湯の沸く音と、食器の触れ合う軽い音が聞こえた。それから、鼻歌。言葉のない、短い旋律だった。同じところを何度か行き来して、途中で少しだけ形を変え、また最初に戻る。
雅也は布団の中で、その旋律をしばらく聞いていた。聞いたことのある節のような気もしたし、初めて聞くような気もした。母はときどき、そういう歌い方をする。歌いながら作っているのか、どこかで覚えた歌を途中から崩しているのか、雅也にはまだ見分けがつかなかった。
台所へ行くと、母はもう着替えていた。いつもの、家で過ごすときの柔らかな服ではなかった。淡い色のきちんとした上着に、膝の下まである落ち着いた色のスカート。髪もいつもより丁寧にまとめてあって、頭の上の耳が、まとめた髪の両脇からすっと立っていた。
「おはよう、雅也。顔、洗ってきた?」
「まだ」
「じゃあ、洗ってからね。今日はお出かけだから、朝ごはんはちゃんと食べること」
母は振り返って笑った。テレビや街の大きな看板で、たくさんの人に向けられているのと同じ笑い方だった。けれど、こうして台所で、自分ひとりに向けられると、それは少しだけ違うものに見えた。どこが違うのかは、うまく言えなかった。
洗面所で顔を洗って戻ると、食卓には焼いたパンと、半熟の卵と、小さく切った果物が並んでいた。向かいの席では父が、湯気の立つ珈琲の器を手にして座っていた。首に、仕事のときに使う大きなヘッドホンを掛けたままだった。
「おはよう」
「おはよう、父さん」
父は短く頷いて、雅也のパンの皿を少しだけこちらへ押した。父はいつもそうだった。言葉は少ないが、手のほうが先に動く。
「直人さん、今日は夕方までに戻るからね。お昼は冷蔵庫に入れてあるの、温めて食べて」
「分かった。……気をつけて」
「うん。雅也がいるから、安全運転です」
母は父の肩に軽く手を置いて、それから雅也の向かいに座った。卵の殻を割りながら、雅也は母の顔を見上げた。
「どこ行くの」
「お社。古い、神社みたいなところ」
「おまいり?」
「そう、お参り。昔からね、うちの家と縁があるところなの。母さんも、ちっちゃいころに、母さんのお母さんに連れていってもらったんだよ」
「ばあちゃんに?」
「そう。今日は雅也を、ちゃんとご挨拶に連れていこうと思って」
ご挨拶、という言葉が、雅也には少しだけ大げさに聞こえた。誰にするのだろう、と思ったが、口の中にパンが入っていたので、訊くのは後にした。
父が、珈琲の器を置いた。
「向こうの人に、よろしく」
「うん。伝えておく」
母はそれだけ答えた。父も、それ以上は訊かなかった。二人のあいだでは、それで足りているようだった。
*
車は、雨上がりの道を走った。
母の運転は、テレビの中の母が見せるような賑やかさとは違って、とても静かだった。曲がり角の手前では必ず速度を落とし、信号が黄色に変わればきちんと止まる。助手席の後ろの座席で、雅也は窓の外を眺めていた。
はじめのうちは、見慣れた景色だった。駅前の通り、いつも行く公園、角のパン屋。それが少しずつ、知らない町に変わっていった。家の数が減り、建物の背が低くなり、道の両側に田んぼが広がりはじめる。田んぼには水が張られていて、植えられたばかりの苗の細い緑が、水面に映った空の上に、規則正しい点線のように並んでいた。雨に洗われた空は高く、薄い雲が、ゆっくりと東へ流れていた。
窓を少しだけ開けると、湿った土の匂いが入ってきた。草の匂いと、水の匂い。どこかで蛙が鳴いていた。
「雅也、寒くない?」
「だいじょうぶ」
「眠くなったら、寝ていいからね。着いたら起こすから」
「ねむくない」
本当に眠くなかった。知らない景色が窓の外を流れていくのを、見逃したくなかった。
母はまた鼻歌を歌いはじめた。朝、台所で歌っていたのと同じ旋律だった。今度は、さっきより少しだけ長かった。同じところを行き来したあと、途中で一度、音が高く上がって、それからゆっくりと下りてくる。下りきったところで、母は歌うのをやめた。
「それ、なんの歌?」
「ん? なんだろうね」
母は少し笑った。
「母さんのお母さんが、ときどき歌ってたの。ちゃんとした歌の名前は、母さんも知らないんだ。歌詞もないの。ふん、ふん、って、こうやって歌うだけ」
「ふうん」
雅也は、窓の外の田んぼを見ながら、今聞いた旋律を頭の中で繰り返してみた。高く上がるところまでは、思い出せた。そこから先が、少しあやふやだった。
*
第一章 祖先の話
車が山あいの道に入ると、空気が変わった。
両側に杉の木が立ち並び、道の上に濃い影を落としていた。窓から入ってくる風が、さっきまでよりひんやりとしている。木々の匂いが濃くなった。雨を吸った樹皮と、湿った落ち葉の、少し甘いような、少し苦いような匂いだった。道はゆるやかに曲がりながら上っていき、曲がるたびに、木々の隙間から、遠くの山の稜線が見え隠れした。
「母さん」
「なあに」
「ご挨拶って、だれにするの」
母は、ハンドルを握ったまま、少しだけ考えるような間を置いた。
「お社でね、お祭りを司っている方がいるの。吾妻様っていうんだよ」
「あづまさま」
「そう。とっても大事な、古いお祭りをお守りしている方。母さんも、何度かお会いしたことがあるの」
「えらいひと?」
「うーん。えらい、っていうのとは、ちょっと違うかな」
母は、言葉を探すように前を見た。
「みんなが、大事に思っている人。それに、昔のことを、たくさん知っている人。ウマ娘と人が、ずうっと昔からどうやって一緒にいたのかを、誰よりもよく知ってるんだって」
「母さんよりも?」
「母さんなんか、ぜんぜん。比べものにならないよ」
母は声を立てて笑った。それから、少しだけ声の調子を落とした。
「それとね、うちのご先祖様が、昔、そのお社でお勤めをしていたんだって」
「おつとめ?」
「巫女さんっていってね。お社で、神様のお世話をしたり、お祭りのお手伝いをしたりする人。白い着物に、赤い袴をはいて」
「ごせんぞさまって、だれ?」
「母さんのお母さんの、そのまたお母さんの……もっともっと前の人。ずうっと昔の人だよ」
「なんていうひと?」
母は、すぐには答えなかった。
「それがね、分からないの」
雅也は、窓の外から母の後ろ頭へ視線を移した。
「わからないの?」
「うん。名前も、いつごろの人なのかも、ちゃんとは伝わってないの。母さんのお母さんも、知らなかった。ただ、うちの家の誰かが、昔あのお社に仕えていた。それだけは、ずっと言い伝えられてきたんだって」
「それだけ?」
「それだけ。だから、うちの家はね、何かのたびに、あのお社にお参りに行くの。ご先祖様がお世話になりました、ありがとうございます、って」
母はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「大げさな話じゃないんだよ。お祭りの日に行かなきゃいけない、とか、何年に一度は必ず、とか、そういう決まりもないの。行けるときに、行けるひとが行く。母さんは、結婚したときに一度、それから雅也が生まれたときに一度、ご報告に行ったんだ」
「ぼくのこと、いったの?」
「言ったよ。男の子が生まれました、元気です、って」
雅也は、それがどういう意味なのか、よく分からなかった。自分の知らないところで、自分のことが誰かに伝えられていた。それが、少しだけくすぐったかった。
「みこさんって、なにするの」
「そうだなあ。お社をきれいにしたり、お参りに来た人をお迎えしたり。それから、お祭りの日には、神様の前で舞を舞うこともあるんだって」
「まい?」
「踊りみたいなもの。ゆっくりで、きれいなの」
「どうして、ずっとおまいりするの」
しばらくして、雅也はもう一つ訊いた。
「ごせんぞさま、もういないのに」
母は、ハンドルを握り直した。カーブの手前で速度を落とし、曲がりきってから、答えた。
「いなくなっても、ありがとう、は言えるでしょう?」
「うん」
「それにね、母さんのお母さんが、母さんを連れていってくれたの。そのお母さんも、たぶん、自分のお母さんに連れていってもらったんだと思う。そうやって、誰かが誰かの手を引いて、ずっと続いてきたの。それを、母さんの代で終わりにしちゃうのは、なんだかもったいないなって」
「もったいない」
「そう。でもね、雅也」
母は、前を向いたまま、言った。
「雅也が大きくなって、行きたくないなって思ったら、行かなくてもいいんだよ。母さんは、雅也にお参りを押しつけたいわけじゃないの。ただ、こういうところがあるんだよ、うちの家にはこういうお話があるんだよ、って、一度ちゃんと見せておきたかっただけ」
雅也は、母の言っていることの全部は分からなかった。けれど、行かなくてもいい、という言葉だけは、はっきりと耳に残った。それを聞いて、なぜか、行ってみたい、と思った。
第二章 古い社
車を降りると、足もとの砂利が、湿った音を立てた。
山の中腹を切り開いた、小さな駐車場だった。他に停まっている車は二台だけで、そのどちらにも人の姿はない。木々の梢から、ときおり雨の名残の雫が落ちてきて、車の屋根を小さく叩いた。空気は冷たく、深く吸い込むと、胸の奥まで草と土の匂いが広がった。遠くで鳥が鳴いていた。高く、長く、一度だけ。それから、また静かになった。
母は、雅也の手を取った。
母の手は、いつも温かかった。雨上がりの冷たい空気の中では、その温かさがいっそうはっきりと分かった。
「行こうか」
「うん」
駐車場の端から、石段が上へ続いていた。
古い石段だった。一段一段の幅が不揃いで、角は長い年月のあいだにすり減って丸くなっている。石の表面には薄く苔がつき、雨に濡れて、深い緑色に光っていた。両脇には杉の大木が並び、その根が、石段の縁を押し上げるように地面から盛り上がっている。見上げると、杉の梢がはるか上で重なり合い、その隙間から、細い光が幾筋も斜めに差し込んでいた。
雅也は、一段ずつ上った。段の高さが、雅也の脚には少し高かった。母は手を離さず、雅也の歩幅に合わせて、ゆっくりと上った。
「すべるから、気をつけてね。苔のところは踏まないように」
「こけ」
「その、緑のふわふわしたところ」
雅也は、足もとの苔を見下ろした。指で触ってみたかったが、母の手を離すのはやめておいた。
石段を上りきると、鳥居が立っていた。
朱色の鳥居だった。ところどころ塗りが剥げて、下から古い木肌がのぞいている。雨に濡れた朱は、色が濃く沈んで、周りの杉の緑の中で、そこだけが静かに燃えているように見えた。鳥居の向こうに、玉砂利を敷いた参道がまっすぐ延び、その奥に、木の色をした社殿の屋根が、木々に囲まれて低く見えていた。
母は、鳥居の手前で立ち止まった。
雅也の手を、そっと離した。それから、背筋を伸ばし、鳥居に向かって、浅く頭を下げた。
雅也は、母を見上げた。母は顔を上げて、雅也に小さく頷いた。
雅也も、頭を下げた。下げすぎて、少しよろけた。
「上手、上手。お家に入るときに、お邪魔します、って言うのと同じだよ」
「おじゃまします」
雅也は、鳥居に向かって小さな声で言った。母は、何も言わずに笑った。
鳥居をくぐると、空気がもう一段、冷たくなった気がした。
気のせいかもしれなかった。ただ、さっきまで聞こえていた鳥の声が遠くなり、代わりに、玉砂利を踏む自分たちの足音が、やけに大きく聞こえた。じゃり、じゃり、と、一歩ごとに砂利が沈み、靴の裏で小さな石同士がこすれる。母は参道の真ん中を避けて、少し端寄りを歩いた。雅也も、母の隣を歩いた。
「どうして、はしっこあるくの」
「真ん中は、神様が通るところだって言う人もいるの。だから、ちょっとだけ、譲ってあげるんだって。母さんも、そう教わった」
「かみさま、とおるの?」
「どうだろうね。でも、譲っておいたほうが、気持ちがいいでしょう」
雅也は、参道の真ん中をちらりと見た。白っぽい玉砂利が、まっすぐ社殿のほうへ続いているだけだった。誰も歩いていなかった。それでも、雅也は、そこを踏まないように、少しだけ母の側へ寄った。
*
参道の途中に、手水舎があった。
四本の柱に支えられた小さな屋根の下に、石をくり抜いた大きな水盤が据えてあった。水盤の縁に竹の樋が渡され、その先から、細い水が絶え間なく落ちていた。水の落ちる音が、静かな境内の中で、とてもはっきりと聞こえた。とく、とく、と、同じ調子で、途切れることなく。水盤の縁には、木の柄杓が何本か伏せて並べられていた。
母は柄杓を一本取り、雅也の前にしゃがんだ。
「いい? まず、この柄杓を右手で持って、お水をすくうの」
雅也は、柄杓を右手で受け取った。思っていたより重かった。母の手を添えてもらって、樋から落ちる水をすくう。柄杓の中に、冷たい水が溜まった。
「そのお水で、まず左手を洗うの。水盤の中に、こぼさないようにね」
左手に水をかけた。
冷たかった。思わず、肩がすくんだ。山の水だった。雨の夜を越えて、まだ夜の冷たさを残しているような水だった。指の先から手首まで、皮膚の上をすっと冷たさが走り、それから、じんわりと手のひらに残った。
「つめたい」
「冷たいね。じゃあ、今度は柄杓を左手に持ち替えて、右手」
持ち替えようとして、柄杓が傾いた。中の水が、半分ほどこぼれて、雅也の靴の先を濡らした。
「あ」
「いいよ、いいよ。もう一回すくおう」
母は、慌てなかった。雅也の手に自分の手を添えて、もう一度水をすくわせた。今度は、こぼさずに右手を洗えた。
「それから、もう一回右手に持って、左の手のひらにお水を受けて、お口をすすぐの。柄杓には、直接お口をつけないこと」
雅也は、言われたとおりにした。手のひらに受けた水を口に含むと、冷たさが歯にしみた。少しだけ、石のような匂いがした。どうしていいか分からずに、しばらく口に含んだまま母を見ていると、母が、足もとの溝を指さした。
「そこに、そっと出していいよ」
雅也は、溝に水を出した。それから、母に教わったとおり、残った水を左手にかけ、柄杓を立てて柄に水を流し、元の場所に伏せて置いた。
全部終わってから、自分の両手を見下ろした。指の先が、少し赤くなっていた。冷たさはもう引きかけていて、代わりに、手のひらの真ん中が、ほんのりと温かかった。
「これ、なんのため?」
「お参りする前に、手とお口をきれいにするの。お社の神様に、ご挨拶する前の身支度、かな」
「みじたく」
「朝、顔を洗ってから、朝ごはんを食べるでしょう。あれと同じ」
雅也は、もう一度手のひらを見た。顔を洗ったときとは、少し違う気がした。どこが違うのかは、分からなかった。
*
拝殿は、参道の突き当たりにあった。
大きな建物ではなかった。けれど、近づくにつれて、その木の色の深さが目に入ってきた。柱も、梁も、長い年月のあいだに雨と日差しを吸い込んで、黒に近い茶色に沈んでいた。表面には細かな木目が浮き出ていて、ところどころに、古い修繕の跡のような、色の違う木が継ぎ当てられていた。軒の下は薄暗く、奥のほうに、白い布と、何かの金色の飾りが、かすかに見えた。
建物の前に立つと、木の匂いがした。古い木の、乾いたような、少し甘いような匂い。それに混じって、どこかで焚かれた香の残り香が、ごく薄く漂っていた。
拝殿の前には、木の箱が置かれていた。その上の軒から、太い縄が一本垂れ下がり、縄の先に、丸い大きな鈴が吊るされていた。鈴は、薄暗い軒下で、鈍い金色に光っていた。
雅也は、鈴を見上げた。
「あれ、なに」
「鈴。あの縄を振って、鳴らすの。神様に、来ましたよ、ってお知らせするんだって」
「ならしていい?」
「いいよ。でも、その前に、お賽銭」
母は、小さな財布から硬貨を取り出し、一枚を雅也の手のひらに乗せた。雅也はそれを、木の箱の格子の隙間に、そっと落とした。硬貨は、箱の中で、ころん、と小さな音を立てた。
それから、縄に手を伸ばした。
縄は太く、雅也の手には余った。両手でつかんで、背伸びをして、引っ張った。縄が揺れて、上のほうで鈴が、がらん、と一度だけ鳴った。思っていたより、低い音だった。もう一度引くと、今度は、がらん、がらん、と二度鳴った。その音が、軒の下に響き、それから、境内の静けさの中に、ゆっくりと溶けていった。
鈴の音が消えたあと、境内は、さっきよりもっと静かになった気がした。
母は、雅也の隣に並んで立った。
「お辞儀を二回。それから、手を二回たたいて、最後にもう一回お辞儀。母さんの真似をしてごらん」
母は、背筋を伸ばしたまま、深く頭を下げた。腰からまっすぐに折れる、きれいなお辞儀だった。もう一度。それから、胸の前で両手を合わせ、ぱん、ぱん、と二回打った。乾いた、澄んだ音が、軒の下に響いた。
雅也も、真似をした。お辞儀は、母ほど深くはできなかった。手を打つのが、母より一拍遅れた。ぱん、と鳴ったのは一回だけで、二回目は、手のひらが少しずれて、ぺち、という気の抜けた音になった。
母が、手を合わせたまま、目を閉じていた。
雅也も、目を閉じた。
何を言えばいいのか、分からなかった。母は何かを心の中で言っているのだろう、と思った。ご先祖様に、ありがとう、と言っているのかもしれない。雅也は、ご先祖様の顔を知らなかった。名前も知らなかった。母も知らなかった。だから、何を言えばいいのか、分からなかった。
しばらく迷ってから、雅也は、心の中で、こんにちは、とだけ言った。
目を開けると、母はまだ目を閉じていた。軒の下の薄暗がりの中で、母の横顔は、いつもよりずっと静かだった。テレビの中の母とも、台所の母とも違う顔だった。
やがて、母が目を開けた。もう一度、深く頭を下げた。雅也も、慌てて頭を下げた。
第三章 吾妻様
拝殿の脇から、白い着物の人が一人、こちらへ歩いてきた。
若い女の人だった。白い着物に、鮮やかな赤い袴。玉砂利の上を、ほとんど音を立てずに歩いてくる。雅也は思わず、母の上着の裾をつかんだ。母が車の中で話していた、巫女さんだ、と思った。
巫女は、母の前で立ち止まり、丁寧に頭を下げた。
「ようこそお参りくださいました。早瀬様でいらっしゃいますね」
「はい。今日は、ご連絡していたとおり、息子を連れてまいりました」
「お待ちしておりました。吾妻様も、奥でお待ちでございます」
巫女は、雅也にも目を向けて、柔らかく微笑んだ。雅也は、母の上着の裾をつかんだまま、小さく頭を下げた。
「どうぞ、こちらへ」
巫女のあとについて、拝殿の脇を抜け、境内の奥へ進んだ。参道から外れると、玉砂利の代わりに、平たい飛び石が、苔の上に点々と並んでいた。雅也は、一つずつ飛び石を踏んで歩いた。母の手は、もう一度雅也の手を握っていた。
「吾妻様は、いつからこちらに?」
母が、歩きながら巫女に訊いた。巫女は、少しだけ振り返った。
「私どもも、存じ上げないのです。私がこちらにご奉仕するようになったときには、もう、吾妻様がお祭りを司っておられました。その前の者に訊いても、同じことを申します」
「そうですか」
母は、それ以上は訊かなかった。雅也は、二人の会話の意味がよく分からなかった。ただ、巫女の声に、何か大事なものの話をするときのような、少しだけ改まった響きがあることには気づいた。
飛び石の先に、小さな建物があった。
拝殿よりもさらに古そうな、平屋の建物だった。障子の戸が閉められ、縁側が建物の前に長く延びている。縁側の板は、何度も磨かれてきたのだろう、表面が鈍く光っていた。縁側の前に、低い沓脱ぎの石が一つ。軒の端から、雨の名残の雫が一つ、ゆっくりと膨らんで、落ちた。
巫女が、縁側の前で膝をつき、障子の向こうへ声をかけた。
「吾妻様。早瀬様が、お見えになりました」
障子の向こうで、衣擦れの音がした。
それから、障子が、内側から静かに開いた。
*
吾妻様は、白と朱の装束を纏っていた。
白い衣の上に、朱を差した重ねの衣。袖口から、細い指先がのぞいている。長い髪が背に流れ、髪に挿した飾りが、障子越しの柔らかな光を受けて、かすかに光った。背筋はまっすぐで、膝を折って座る姿には、少しの揺らぎもなかった。
顔立ちは、穏やかだった。目元が柔らかく、口元にはごく薄い微笑みが浮かんでいる。けれど、雅也はその顔を見上げたとき、なぜか、自分よりもずっと大きなものの前に立っているような気がした。年を取っているのか、若いのか、よく分からなかった。母より年上なのか、年下なのかも、分からなかった。分からないことが、不思議と怖くはなかった。ただ、母の手を、少しだけ強く握り直した。
母が、縁側の前で、深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、吾妻様」
「ようこそ、お越しくださいました」
吾妻様の声は、静かだった。高くも低くもなく、ゆっくりとしていて、一つ一つの言葉が、障子越しの光のように、柔らかく縁側の上に置かれていく。
「お元気そうで、何よりでございます。お嫁にいかれたとき、それからお子様がお生まれになったとき。お知らせに来てくださったこと、よく覚えております」
「覚えていてくださったんですね」
「長くこちらに参ってくださるお家のことは、忘れられるものではございません。お母様も、そのまたお母様も、こうして折に触れて、足を運んでくださいました」
母は、もう一度頭を下げた。それから、雅也の背中に、そっと手を添えた。
「息子です。雅也、といいます」
雅也は、母の手に押されて、半歩だけ前に出た。
吾妻様が、雅也を見た。
最初は、穏やかな目だった。小さな子どもを見るときの、柔らかな、少しだけ楽しそうな目。吾妻様は、縁側の上で、雅也の目の高さに近づくように、わずかに身をかがめた。
「ようこそ、雅也様。遠いところを、よくお参りくださいました」
雅也は、様、と呼ばれたのが初めてだった。どう返せばいいのか分からずに、黙って頭を下げた。下げてから、顔を上げた。
吾妻様の目を、まっすぐに見た。
*
そのとき、吾妻様の指先が、膝の上で、一度だけ止まった。
それは、ほんのわずかな動きだった。重ねていた指の、一本が、何かを掴みかけて、掴まずに止まる。それだけのことだった。微笑みは、消えなかった。目元の柔らかさも、変わらなかった。ただ、次の言葉が出てくるまでの間が、さっきよりも、ほんの少しだけ長かった。
雅也には、それが何なのか分からなかった。ただ、吾妻様が自分の顔を見ている時間が、少しだけ長いような気がした。
母は、気づいたようだった。雅也の背中に添えた手が、かすかに動いた。
吾妻様の視線が、一瞬だけ、雅也の顔から外れた。障子の奥の、薄暗い部屋のほうへ。それから、また雅也に戻ってきた。
――ああ、と、吾妻様は胸のうちで思った。
はじめに触れたのは、この子の顔ではなかった。顔よりも、もっと奥のほうにあるものだった。この子がこの世界のどこに、どんなふうに置かれているのか。その在りどころの響きが、遠い記憶の中の、ある人のものに、よく似ていた。かつてこの社に仕え、朝ごとにこの縁側を拭き清め、祭りの日には神前で舞を納めた、一人の巫女。この子の母の、遠い祖先にあたる人。同じ場所に、同じように灯っている、と感じた。同じものだとは、思わなかった。ただ、よく似ていた。
そして、それとはまったく別のところで、もう一つのものが、胸の奥を静かに叩いた。
この子の目元だった。まっすぐに相手を見上げる、その角度だった。言葉を返さずに黙って頭を下げ、それから顔を上げて、怖がりもせず、はしゃぎもせず、ただこちらを見ている、その沈黙の形だった。
遠い昔、心からお慕いした方が、同じ目をして、同じようにこちらを見たことがあった。
巫女の魂の響きと、その方の面影。二つは、同じ理由で重なっているのではなかった。片方は、この子の奥底の在りどころに。もう片方は、この子の顔と佇まいに。別々の記憶が、別々の道を通って、一人の幼い子どもの上に、ふいに同時に降りてきた。
吾妻様は、ゆっくりと、息を吐いた。
目の前にいるのは、あの巫女ではない。あの方でもない。ハイセイコー様のご子息で、雅也という名の、今日初めてこの社に来た、幼い子どもだ。その子が、母の手を握ったまま、少しだけ不思議そうに、こちらを見上げている。
それを、見失ってはならない、と吾妻様は思った。
「失礼いたしました」
吾妻様は、微笑んだ。今度の微笑みは、さっきよりも、ほんの少しだけ深かった。
「あまりにまっすぐに見てくださるので、つい、見入ってしまいました。どうぞ、お上がりくださいませ」
第四章 魂の響き
縁側の奥の部屋は、ひんやりとしていた。
畳の匂いがした。古い藺草の、乾いた、少し青い匂い。部屋の隅に置かれた小さな香炉から、細い煙が一筋、まっすぐに立ちのぼり、天井の近くでふっとほどけて消えていた。障子越しの光は白く柔らかく、部屋の中の何もかもの輪郭を、ぼんやりと滲ませていた。
雅也は、母の隣に正座した。座布団の上に座ると、足の甲に畳の目が当たった。
巫女が、茶を運んできた。母の前に湯呑みを一つ。雅也の前には、小さな器に入った麦茶と、和紙に包まれた干菓子が一つ。
「どうぞ。雅也様には、甘いものがよろしいかと思いまして」
雅也は、母を見た。母が頷いたので、干菓子を一つ、口に入れた。舌の上で、ほろりと崩れて、ほのかな甘さが広がった。
「おいしい」
「それは、よろしゅうございました」
吾妻様は、雅也の向かいに座っていた。さっきの、一瞬の間は、もうどこにもなかった。穏やかな顔で、雅也が干菓子を食べ終えるのを、静かに待っていた。
「雅也様は、今日、お母様とどちらから?」
「おうちから。くるまで」
「遠かったでしょう」
「田んぼ、いっぱいあった。かえるが、ないてた」
「蛙でございますか。この季節は、よく鳴きますね」
「あと、木が、いっぱい」
「杉の木でございます。ずっと昔から、同じ場所に立っております」
「雅也様は、何がお好きですか」
雅也は、少し考えた。
「ピアノ」
「ピアノ」
「母さんに、おしえてもらってる。まだ、ちょっとだけ」
「それは、素敵でございますね」
吾妻様が、母のほうを見た。母は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「本当に、基礎だけなんです。この子、こっちが歌ったり弾いたりしたものを、耳で覚えて、勝手に鍵盤で探すんですよ」
「耳で」
「今日も、車の中で歌っていたのを、じっと聞いてました」
吾妻様は、雅也のほうへ視線を戻した。
「どんな歌を、お聞きになったのですか」
「なまえ、ないの。ふん、ふん、っていうの。ばあちゃんが、うたってたって」
吾妻様の目が、ほんのわずかに細くなった。何かを思い出そうとしているようでもあり、何かを思い出さないようにしているようでもあった。けれど、それはすぐに消えた。
「お家に伝わる歌なのですね。大切になさってください」
雅也は、頷いた。
吾妻様は、しばらく雅也を見ていた。
雅也は、その視線から目を逸らさなかった。逸らす理由がなかった。吾妻様の目は、静かで、少しも怖くなかった。ただ、自分の顔の、どこか一点を見ているのではなく、もっと全体を、あるいは自分の後ろにある何かまで、一緒に見ているような気がした。
「雅也様」
吾妻様が、静かに言った。
「少し、不思議なお話をしてもよろしいですか」
雅也は、母を見た。母は、雅也ではなく、吾妻様を見ていた。少しだけ、背筋が伸びていた。それから、雅也に小さく頷いた。
「うん」
「ありがとうございます」
吾妻様は、膝の上で、両手を軽く重ね直した。
「雅也様の魂の置かれているところが、昔、この社にお仕えした巫女と、よく似ておられるのです」
「たましい?」
「人の、いちばん奥にあるもの、と申しましょうか。目には見えませんが、その人がその人であるところ」
「みこさんって、ごせんぞさま?」
「ええ。雅也様のお母様の、そのまたずっと昔のお母様。この縁側を毎朝きれいにして、お祭りの日には、神様の前で舞を納めておられました」
雅也は、自分の胸のあたりを見下ろした。何も見えなかった。いつもの服の胸があるだけだった。
「ぼく、その人なの?」
「いいえ」
吾妻様は、はっきりと言った。
「雅也様は、その方ではございません。似ている、というだけでございます。同じ場所に、同じような灯りがともっている。そう感じた、というだけ」
「ふうん」
「それから、もう一つ」
吾妻様は、少しだけ言葉を切った。
視線が、一度だけ、雅也の顔から障子のほうへ移った。障子の紙に映る、木々の淡い影のほうへ。それから、戻ってきた。
「雅也様のお顔を拝見しておりますと、別の方を思い出してしまうのです」
「べつのひと?」
「遠い昔、心からお慕いした方でございます」
吾妻様の声は、変わらず静かだった。けれど、その一言を言うときだけ、言葉と言葉のあいだに、ほんのわずかな隙間があった。
「おしたい、って?」
「大好きだった、ということでございます」
雅也は、吾妻様の顔を見た。吾妻様は、微笑んでいた。けれど、その微笑みの奥に、雅也にはうまく名前のつけられない何かがあった。母が、昔の写真を見ているときに、ときどきする顔に、少しだけ似ていた。
「その人と、ぼく、にてる?」
「目元が。それから、こうしてまっすぐに相手をご覧になるところが」
「おんなじひと?」
「いいえ。それも、違います」
吾妻様は、ゆっくりと首を横に振った。
「先ほどの巫女のことと、今のお話は、別々のことなのです。巫女のことは、雅也様の奥のほうに感じたこと。その方のことは、雅也様のお顔と佇まいに見たこと。二つの、まったく違う昔のことが、たまたま、雅也様お一人のところで、重なって見えた。それだけでございます」
「それだけ」
「ええ」
吾妻様は、雅也の目をまっすぐに見た。
「雅也様は、どちらでもございません。巫女でも、その方でもない。雅也様は、雅也様として、今日ここにいらっしゃるのです。それを、取り違えたりはいたしません」
その最後の言葉は、雅也に向けられていたけれど、同時に、吾妻様自身にも言い聞かせているように聞こえた。雅也には、なぜそう聞こえたのか、分からなかった。
母の手が、膝の上で、雅也の手の上に、そっと重なった。
第五章 幾つもの道
香炉の煙が、一度だけ、揺れた。障子の外を、風が通ったのだろう。
「それでも」
吾妻様が言った。
「雅也様の先には、たくさんの道が見えるのです。まだ、どれか一つには決まっていない道が」
「みち? どこにあるの」
「目に見える道ではございません。これから雅也様が大きくなって、歩いていかれる先のこと」
吾妻様は、言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「その先で、雅也様は、たくさんのウマ娘と出会われるかもしれません。走る方々と。その方々が走るのを、そばで支えたり、迷ったときに、行き先を一緒に探したりする側に、立たれるのかもしれません」
「ぼくが、あんないするの?」
「案内、とは少し違います。行き先を決めるのは、その方々ご自身。雅也様は、その方が自分で選んだ道を、照らして差し上げる。そういうお方になるのかもしれません」
雅也には、よく分からなかった。それでも、母の手の下で、自分の指が少しだけ動いた。
「その道は、一本ではないのでしょう」
吾妻様は、障子の向こうの、木々の影のほうを見た。
「枝のように、幾つにも分かれております。分かれた枝は、互いに重なりません。ある枝の先では、雅也様は、誰かの夢をそばで支える人として。別の枝の先では、走ることを終えたあとも、互いの暮らしを支え合う人として。また別の枝では、信を置き合う仲間として、あるいは、その方の生涯の恩人として。どの枝の先で、どのような間柄になるのか。それは、その時、その場所で、雅也様と、出会われた方とが、それぞれにお選びになることでございます」
「えだ」
「一つの木に、すべての実が同時になるわけではございません。けれど、どの枝にも、実のなる見込みはある。そのように、見えるのです」
雅也は、障子に映る木の影を見た。風が通るたびに、影の枝が、ゆっくりと揺れた。どの枝が、どこへ伸びているのか、雅也には分からなかった。
「吾妻様には、ぜんぶ、みえるの?」
吾妻様は、少し驚いたように雅也を見た。それから、静かに微笑んだ。
「いいえ。昔のことは、少しばかり存じておりますが、先のことは、ほんのかけらしか分かりません。今申し上げたことも、そうなるかもしれない、というだけ。雅也様がお選びになることで、いくらでも形を変えるものでございます」
「ふうん」
「ですから、今は、覚えておかれなくても結構です。いつか大きくなられて、ご自分で知るときが来るかもしれません。来ないかもしれません。それで、よろしいのです」
第六章 母の問い
母が、湯呑みを畳の上に置いた。
小さな音だった。けれど、静かな部屋の中では、はっきりと聞こえた。
「吾妻様」
母の声は、落ち着いていた。いつもの明るさは、少しだけ影をひそめていた。代わりに、雅也がこれまであまり聞いたことのない、まっすぐで、芯の通った声だった。
「今のお話は、この子の将来が、もう決まっている、ということでしょうか」
「いいえ」
吾妻様は、すぐに答えた。
「何一つ、決まってはおりません。ご無礼を承知で申し上げましたが、雅也様に何かを背負わせるつもりは、ございません」
母は、少しのあいだ、吾妻様の顔を見ていた。それから、膝の上の雅也の手を、そっと握った。
「この子に、何かの役目を継いでほしいとは思っていないんです」
母は、ゆっくりと言った。
「ご先祖様のことは大切です。だから今日、連れてきました。でも、この子が何になるか、誰と出会って、どう生きるかは、この子が決めることだと思っています。決まった道があるって言われたら、母親として、たぶん、少し寂しいです」
吾妻様は、目を伏せた。それから、深く頭を下げた。
「おっしゃるとおりでございます」
顔を上げた吾妻様の目は、穏やかだった。
「縁と申しますものは、結ばれた方々がお選びになって、初めて形になるものでございます。こちらが先に決めてしまえば、それはもう縁ではなく、ただの縄でございましょう。雅也様の先に見えたのは、決められた一本の道ではなく、まだ誰も選んでいない、幾つもの枝。それだけは、お約束いたします」
母は、しばらく黙っていた。それから、ふっと肩の力を抜いた。
「よかった」
そう言って、母は笑った。いつもの、明るい笑い方だった。
「それに、この子、母親の言うこともなかなか聞かないんですよ。吾妻様の言うことも、きっと、自分で決めて、自分で選びます」
吾妻様は、ほんの少しだけ、声を立てて笑った。
「それは、何よりでございます」
第七章 小さな約束
縁側に出ると、雲の切れ間から、日が差していた。
苔の上に、木漏れ日がまだらに落ちている。軒の端から、雫がまた一つ落ちて、沓脱ぎの石の上で小さく弾けた。
靴を履き終えた雅也は、縁側に立つ吾妻様を見上げた。
「また、きてもいい?」
吾妻様は、少しだけ目を見開いた。それから、縁側の端で膝を折り、雅也と目の高さを合わせた。
「ええ。いつでも、お参りください。お母様と、あるいは、いつか、ご自分の足で」
「つぎ、もっとじょうずに、てをたたく」
「それは、楽しみでございます」
吾妻様は微笑んだ。そして、少しだけ、声を低くした。
「雅也様。いつか、どなたかが、ご自分の道を選ぼうとなさるとき。どうか、その方の選ばれた道を、大切にして差し上げてください」
雅也は、その言葉の意味が分からなかった。それでも、頷いた。吾妻様が、とても大事なことを言っているのだけは、分かった。
帰りに、母は授与所で小さなお守りを一つ買い、雅也の上着のポケットに入れた。
「今日来た記念ね。なくさないように」
鳥居の前で、雅也は振り返った。母を真似て、社殿のほうへ頭を下げた。今度は、よろけなかった。
*
母子の背中が石段の下へ消えるまで、吾妻様は縁側に立っていた。
それから、部屋に戻り、文机の前に座った。古い帳面を開く。この社に参った人々のこと、祭りのこと、日々のことを、長く書き留めてきた帳面だった。
筆を取り、今日の日付と、一つの家の名と、幼い子の名を記した。
筆の先が、そこで止まった。
障子の外で、風が鳴った。誰かが拝殿の鈴を鳴らしたのか、遠くで、がらん、と一度だけ音がした。
遠い朝、この縁側を拭いていた巫女の、袖をたくし上げた白い腕。それとは別の、もっと遠いある日、こちらをまっすぐに見上げた、あの方の目。二つの記憶を、吾妻様は一つずつ、胸のうちで別々の場所にしまい直した。
帳面には、それ以上は何も書かなかった。ただ、子どもの名の横に、小さく一行だけ添えた。
――幾つもの枝の、そのどれもが、良き実を結びますように。
終章 まだ知らない未来
帰りの車の中で、雅也はずっと黙っていた。
窓の外を、杉の木が後ろへ流れていく。やがて木々が途切れ、水を張った田んぼが、午後の日差しを受けて、一面に白く光った。
「母さん」
「なあに」
「たくさんのみちって、なに?」
母は、ハンドルを握ったまま、少し考えた。
「分からない」
「わからないの?」
「うん。母さんにも、分からないの。吾妻様にも、全部は分からないって言ってたでしょう」
「うん」
「だからね、雅也が大きくなって、自分で歩いて、見つけていくの。それでいいんだと思う」
雅也は、上着のポケットの中で、お守りを握った。布の角が、手のひらに当たった。
吾妻様の言葉は、もう半分も覚えていなかった。魂、という言葉も、枝、という言葉も、どういう意味だったか、もうよく分からなかった。それでも、いくつかの言葉だけが、耳の奥に残っていた。たくさんの道。走る人を、そばで。その人が選んだ道を、大切に。
それが何のことなのか、雅也にはまだ分からなかった。
*
家に着いたのは、夕方だった。
玄関を開けると、父が仕事部屋から顔を出した。ヘッドホンを首に掛けたままだった。
「おかえり」
「ただいま。直人さん、お昼ちゃんと食べた?」
「食べた」
「よろしい」
父は、雅也の頭に、手を一度だけ乗せた。それから、母に、どうだった、と短く訊いた。母は、あとで話すね、とだけ答えた。
雅也は、居間の隅のピアノの前に座った。
蓋を開ける。鍵盤は、ひんやりとしていた。右手の指を一本、白い鍵盤の上に置いて、押した。違う音だった。隣の鍵盤を押す。また違う。三つ目で、朝、台所で母が歌っていた最初の音に近い音が鳴った。
そこから、一つずつ、音を探した。同じところを行き来する節。それから、高く上がるところ。そこまでは、見つかった。
その先で、指が止まった。
高く上がったあと、ゆっくり下りてくるはずの音が、どうしても見つからなかった。いくつか押してみたが、どれも違う気がした。
台所から、母の鼻歌が聞こえた。夕食の支度をしながら、同じ旋律を歌っていた。高く上がって、それから、ゆっくりと下りてくる。
雅也は、鍵盤の上に指を置いたまま、その下りてくる音を、黙って聞いていた。
窓の外では、夕暮れの風が、紫陽花の葉を揺らしていた。遠くで、どこかの寺か社の鐘が、一つだけ鳴った。ポケットの中のお守りの布の角が、まだ、手のひらの形を覚えていた。
旋律の終わりを、雅也はまだ弾けなかった。
いつか、弾けるようになるのかもしれなかった。