ウマ娘のそれぞれの未来   作:乙姫さん

2 / 2
【本ルート・メジロドーベルの戦績】
・メイクデビューを制覇
・新潟2歳ステークスを制覇
・阪神ジュベナイルフィリーズを制覇
・チューリップ賞を制覇
・桜花賞、オークス、秋華賞を制覇し、トリプルティアラ達成
・その後も中距離・マイル路線を中心に勝利を重ねる
・大阪杯、ヴィクトリアマイル、宝塚記念、安田記念を制覇
・エリザベス女王杯を2年連続で制覇
・最終的に19戦19勝、生涯無敗を達成


引退後・正月の温泉旅行

正月の温泉街には、雪の匂いがしていた。

 

匂いという言い方が正しいのかどうか、雅也にはよく分からない。雪そのものに匂いがあるわけではないのだろう。ただ、冷えた空気が鼻の奥をわずかに刺して、そこに濡れた木と石の気配が混ざると、人はそれを雪の匂いと呼ぶ。少なくとも彼は、子供の頃からそう呼んできた。

 

昼過ぎまで降っていたものが、屋根の端や石畳の脇にまだ残っていた。踏み固められた道の中央だけが濡れて黒く光り、その両脇に白が寄せられている。夕暮れが近づくにつれて、その白の輪郭が、少しずつ青に沈んでいった。橙から桃色へ、桃色から灰へ、灰から青へ。雪というものは、それ自体が光を持っているわけではないのに、空の色を全部拾ってしまう。

 

そして、音がない。

 

正確には、音はある。どこかで戸を閉める音。湯の落ちる音。誰かが雪を踏む音。だが、そのどれもが遠い。雪がすべての音の角を丸めて、届く前に吸い取ってしまっている。

 

旅館の廊下は、畳の乾いた匂いと、少し遅れて流れてくる出汁の匂いが混じっていた。年季の入った木の床は、歩くたびに小さく鳴った。磨き込まれた廊下は足の裏に冷たく、その冷たさが、湯上がりの身体にはむしろ心地よかった。

 

部屋の障子を閉めると、外の気配が一段遠くなった。

 

八畳の和室に、火鉢代わりの小さな暖房が一つ。その乾いた熱が、部屋の空気を上のほうから緩めている。畳は新しくはないが、よく手入れされていた。窓際に低い座卓があり、その上に急須と湯呑みが二つ置かれている。

 

雅也は、そのうちの一つに手を伸ばした。湯呑みの縁から、細い湯気が立ち上がって、天井の手前で形を失った。

 

「……寒くない?」

 

向かいに座っていたドーベルが、少しだけ首を横に振る。

 

浴衣の襟を右手で軽く押さえたまま、彼女は膝を揃えて座っていた。頭上にはウマ娘特有の一対の耳があり、今は静かに立っている。けれど雅也が声をかけるたび、その耳の先だけがわずかに彼のほうへ向いた。背後の尻尾も浴衣の帯の下でかすかに揺れ、緊張が強くなると、本人の意思とは別にぴたりと止まる。湯から上がってまだ間もない。首筋にわずかに湿った髪が張りついていて、頬にはまだ熱が残っている。

 

「大丈夫。温泉、あったかかったから」

 

「そうか」

 

それだけ言って、雅也は少し笑った。

 

昔なら、こんな短い会話でさえ、彼女は身構えていた。

 

男性と二人きりで部屋にいる。それだけで、彼女にとっては容易なことではなかった。三年前の彼女なら、こういう場面でまず視線をどこに置くかに困り、次に手の置き場に困り、最終的に「別に」と言って話を終わらせようとしただろう。

 

けれど今は違う。

 

目の前にいるのが雅也なら、沈黙さえ苦痛ではない。

 

むしろ、言葉のない時間のほうが、ずっと楽だった。

 

ドーベルは膝の上で指を組み、ふと窓のほうを見た。障子越しの光は、もうほとんど残っていない。かすかに青みがかった明るさだけが、紙の向こうから染みてくる。

 

「……変な感じ」

 

「何が?」

 

「こうやって、二人で旅行してること」

 

湯呑みを置く音が、思ったより大きく響いた。

 

「俺も少し思ってる」

 

「……昔なら、絶対無理だった」

 

「知ってる」

 

その返事に、ドーベルが小さく笑った。

 

「そこ、否定しないんだ」

 

「事実だから」

 

「……もう」

 

声に、昔にはなかった柔らかさがあった。呆れているようで、呆れていない。言葉の最後の一音が、ほんの少し上がっている。

 

雅也は、そんな彼女を見ていた。

 

パドックで顔を伏せていた少女のことを、彼はまだ覚えている。その後の彼女は、十九戦十九勝。メイクデビューから阪神ジュベナイルフィリーズ、桜花賞、オークス、秋華賞のトリプルティアラ、大阪杯、ヴィクトリアマイル、宝塚記念、安田記念、そしてエリザベス女王杯二連覇。G1は十勝、G2・G3は八勝。長距離適性の制約から2401m以上には一度も出ず、短距離路線にも寄らず、海外遠征も選ばなかった。数字だけなら華々しい。けれど雅也が覚えているのは、十九勝という結果より、その一戦一戦で彼女が自分の意思を持つようになっていった過程だった。

 

人の視線から逃げるように、前を見ずに歩いていた。名前を呼ばれるたびに肩が跳ねた。取材があると聞けば、その日は朝から様子が違った。彼女はそれを隠すのが上手ではなくて、だから隠せていないことにも気づいていなかった。

 

それでも、彼女は自分の足でトレーナールームまで来た。

 

最初の日のことは、細部まで思い出せる。ノックが三回。間が長く、それから、開いた扉の隙間から覗いた顔が、すでに真っ赤だった。

 

――アタシの、担当に……なって、くださいませんか。

 

声が震えていた。制服の裾を握った指が白くなっていた。彼女は視線を、彼の顔ではなく胸元のあたりで止めていた。

 

その彼女が、いま、自分の隣で笑っている。

 

「ドーベル」

 

「なに?」

 

「……ありがとう」

 

突然の言葉に、彼女の耳がわずかに動いた。 左右ともに、一度だけ、彼のほうへ向く。それから、自分でも気づいたのだろう、少しばつが悪そうに視線を落とした。

 

「何が?」

 

「一緒に来てくれて」

 

「……それ、アタシが言うことじゃない?」

 

「そうかもな」

 

二人とも笑った。

 

静かな笑いだった。声も出さない、息だけの笑いだった。

 

旅館の外から、雪を踏む足音が聞こえる。ざく、ざく、と規則的な音。誰かが夕暮れの道を歩いていく。その音がゆっくりと遠ざかって、やがて雪に吸われて消えた。

 

あとに残ったのは、部屋の柱時計の針の音だけだった。

 

暖房の音。湯呑みの中で茶葉が沈む音。そのどちらでもない、もっと小さい何か。

 

ドーベルは、自分の膝の上の手を見ていた。

 

指が、組まれたままだった。

 

組んだ指が、一度ほどけた。

 

それから、また組まれた。

 

そして、もう一度ほどけて――今度は組まれなかった。

 

彼女の右手が、畳の上を数センチ動いた。ごく短い距離だった。座卓の端に置かれた雅也の左手まで、まだ十センチ以上ある。

 

そこで、止まった。

 

雅也は、気づいていた。だが何も言わなかった。

 

急がない、というのは、彼にとって技術ではなく性格だった。三年間、彼はずっとそうしてきた。彼女が言葉を探している間、彼は待った。彼女が「別に」と言ったとき、彼はそれを一度は信じた。信じすぎて失敗したこともある。それも含めて、三年だった。

 

ドーベルの手が、また動いた。

 

今度は、もう少し長く。

 

指先が、雅也の手の甲に触れた。ウマ娘として人間をはるかに上回る脚力と身体能力を持つ彼女でも、こういう瞬間の指先の震えまでは隠せない。耳が小さく揺れ、尻尾が止まる。そのわずかな変化だけで、雅也には彼女がどれほど緊張しているのか分かった。

 

触れた瞬間、彼女の呼吸が浅くなった。

 

一拍。二拍。

 

尻尾が、浴衣の後ろで完全に止まっていた。

 

離そうと思えば、離せる距離だった。触れているのは指の先だけで、動かせばすぐに戻せる。

 

けれど、手は離れなかった。

 

雅也は、それを確かめてから、はじめて自分の手を動かした。

 

ゆっくりと、下から包むように。急に握れば、彼女が驚いてしまう。だから、彼女が引かないことを、もう一度だけ確かめてから。

 

冷たい手だった。

 

長く湯に浸かっていたはずなのに、指先だけが冷えている。緊張すると末端から冷たくなる人だと、彼は知っていた。レースの前も、いつもそうだった。

 

けれど、その冷たさが、今は不思議と安心できた。

 

「……雅也」

 

その呼び方に、彼の表情が変わった。

 

引退してから、彼女は少しずつそう呼ぶようになった。最初は言い間違えたような顔をして、すぐに「トレーナー」と言い直した。次は言い直さずに黙った。三度目から、言い直さなくなった。

 

トレーナーと担当ではない。

 

もう、あの頃とは違う。

 

「ん?」

 

「アタシね……ずっと、言いたかったことがある」

 

「うん」

 

そこで、長い沈黙があった。

 

彼女は口を開きかけて、やめた。もう一度開いて、また閉じた。

 

雅也は急かさなかった。握った手の力も変えなかった。ただ、視線を彼女の顔から、少しだけ下げた。見られていると言いにくいことを、彼は知っている。

 

柱時計の針が、何度か鳴った。

 

「……あなたと出会えてよかった」

 

声が、ほとんど息だけだった。

 

雅也はすぐには答えなかった。

 

代わりに、重ねられた手を、そっと握り返す。さっきより少しだけ強く。

 

「俺も」

 

短い言葉。

 

それだけだった。

 

それでもドーベルには十分だった。彼が長く喋らない人だということは、三年かけて誰よりよく知っている。言葉が短いことと、気持ちが薄いことは、この人においては何の関係もない。

 

彼女は目を伏せた。睫毛が、灯りの下で細く影を落とした。

 

「……アタシ、昔は人に見られるのが怖かった」

 

「知ってる」

 

「男の人なんて、もっと苦手だった」

 

「それも知ってる」

 

「……今も、そんなに変わってない」

 

そこで、彼女は一度だけ顔を上げた。

 

「記者の人とか、まだ無理。声が大きい人も無理。……学園の職員さんに話しかけられて、返事するのに三秒かかる」

 

「……知ってる」

 

「なのに」

 

彼女の指が、彼の手の中で一度だけ動いた。

 

「……なんで、あなただけ平気なんだろうって、ずっと考えてた」

 

暖房の音が、やけに大きく聞こえた。

 

「……あなたは、ずっと急がなかった」

 

雅也は黙って聞いていた。

 

「アタシが話せるまで待ってくれた。アタシが決めるまで待ってくれた」

 

彼女は、そこで少し笑った。

 

「……待ちすぎて、失敗したこともあったけど」

 

「……ああ」

 

「あれは、怒った」

 

「怒られた」

 

「……うん」

 

二人とも、その先を言わなかった。

 

第三年の冬のことである。彼女は「別に」と言い続け、彼はそれを信じ続けた。三週間後、彼女は練習の途中で足を止めた。故障ではなかった。ただ、走れなくなっただけだった。

 

保健室で、彼女は生涯で一度だけ、彼に向かって声を荒げた。

 

――待つのと、聞かないのは、違うでしょう。

 

あのとき彼が言ったのは、たった一行だった。悪かった、俺も、もう少し聞けばよかった。言い訳をしなかった。反省を長く語りもしなかった。

 

そして翌日から、彼は毎日、必ず一度訊くようになった。

 

何がつらい、と。

 

答えなくてもよかった。答えない日のほうが多かった。それでも彼は訊いた。三年目の冬から、引退の日まで、一日も欠かさず。

 

「……だから」

 

ドーベルは、握られた手を、今度は自分からも握り返した。

 

「いつの間にか、あなたの前だけは大丈夫になってた」

 

声が少し震える。

 

それでも、彼女は逃げなかった。

 

顔も、伏せなかった。

 

「引退してからも、会いたいと思った」

 

「うん」

 

「一緒にいたいと思った」

 

「……うん」

 

「それが」

 

そこで、彼女は息を吸った。

 

深く。走る前に息を整えるときと、同じ吸い方だった。

 

「……トレーナーとしてじゃなくて」

 

「……」

 

「一人の人として、だった」

 

部屋の灯りが、彼女の横顔を柔らかく照らしている。障子の向こうは、もう完全に暗い。

 

雅也は、ゆっくりと彼女の目を見た。

 

「ドーベル」

 

「……なに?」

 

「俺も、同じだよ」

 

その瞬間、彼女の瞳が揺れた。

 

長い間、胸の奥に閉じ込めていたものが、静かにほどけていく。押さえていたわけではない。しまい方が分からなかっただけだ。名前をつけてしまえば、それは形になって、形になったものは失うこともできてしまう。だから彼女は、ずっと名前をつけずにいた。

 

耳が、ゆっくりと前へ倒れた。

 

伏せたのではない。彼のほうへ向いたのである。

 

雅也は急がなかった。

 

彼女の様子を確かめるように、ゆっくりと距離を縮める。座卓の角を避けて、膝を少しだけ動かす。それだけで、二人の間の空気が変わった。

 

ドーベルも逃げなかった。

 

引かなかった、という言い方のほうが近い。身体のどこかが逃げようとするのを、彼女は自分の意思で止めていた。逃げないことを、彼女は自分で選んだ。

 

二人の額が触れそうな距離で、一度だけ呼吸が重なる。

 

彼女の睫毛が震えた。目を閉じるまでに、ほんの少しだけ時間がかかった。

 

そして、二人は静かに唇を重ねた。

 

短い口づけだった。

 

それでも、三年間という時間を思えば、あまりにも長い意味を持っていた。

 

離れたあと、ドーベルは頬を赤くして俯いた。耳の内側まで、はっきりと色が変わっていた。

 

「……恥ずかしい」

 

「俺も」

 

「……嘘」

 

「本当」

 

「……顔、普通じゃない」

 

「そう見える?」

 

「見える」

 

二人で笑った。

 

窓の外では、雪がまた静かに降り始めていた。障子の紙に、時折ごく小さな影が過ぎる。落ちてくる粒が、灯りの前を横切っているのだろう。

 

その夜、二人は言葉を重ねた。

 

過去のこと。

 

彼女がトレーナールームの扉を三回叩いた日のこと。初めて自分から「出たい」と言ったレースのこと。三度届かなかった年のこと。後輩たちのこと。

 

引退を決めた日のこと。

 

――取り返せないままでも、女王にはなれましたわ。あの人はそう言った。あの言葉を、雅也は今でも一言一句覚えている。

 

これからのこと。

 

彼女が学園で始めた仕事のこと。人前が苦手な後輩が、最近また一人増えたこと。相談に来た子が、最初の三十分ずっと黙っていたこと。

 

――アタシ、聞いてもらったことがあるから。

 

そう言った彼女の声が、少しだけ誇らしげだったこと。

 

夜が深くなるにつれて、会話は次第に小さくなっていった。

 

言葉と言葉の間が長くなり、その間を埋めるものが、沈黙ではなくなっていた。

 

障子の向こうでは、雪が音を吸い込んでいる。

 

灯りが、一つ落ちた。

 

二人の間に残ったのは、もう不安ではなかった。

 

その先の時間については、二人だけのものだった。

 

朝の光は、雪の日特有の白さをしていた。

 

障子越しの光には影がない。曇りの日の光ともまた違う、下からも照り返してくる種類の白さで、それが畳の上に淡く広がっている。部屋の中のものが、すべて輪郭を柔らかくして浮かんでいた。

 

ドーベルは目を覚ました。

 

まず感じたのは、布団の中の温度だった。首から下が、不自然なほど温かい。そして、顔に触れる空気が、はっきりと冷たい。この温度差は、旅館の朝にしかない。

 

しばらく、天井を見つめた。

 

木目が、見慣れないほうへ流れている。自分の部屋の天井ではない。

 

昨夜の記憶が、少しずつ戻ってくる。

 

頬が熱くなった。

 

「……っ」

 

思わず布団を引き寄せる。耳が、勝手に後ろへ倒れた。

 

隣を見る。

 

雅也はまだ眠っていた。

 

いつもの落ち着いた顔だった。仕事のときも、レースのときも、彼はこんな顔をしていた。パドックで見送るときも、ゴール板の向こうで待っているときも、表情はほとんど変わらなかった。変わらないから、彼が本当に喜んでいるかどうかを見分けるのに、彼女は二年かかった。

 

けれど今は、その顔が妙に近く感じられる。

 

息の音が聞こえる距離にいる、というのが、こんなに違うことだとは思わなかった。

 

ドーベルは小さく息を吐いた。

 

「……本当に、変な感じ」

 

その声で、雅也が目を開けた。

 

「……おはよう」

 

「……おはよう」

 

二人とも、少し気まずそうに笑った。

 

しばらく沈黙が続く。

 

けれど、嫌な沈黙ではない。

 

昨夜までとは違う。

 

二人の間には、言葉にした気持ちが残っている。それは消えていないし、朝になったからといって形が変わったわけでもない。ただ、それが確かにそこにあるという事実に、二人ともまだ少し慣れていなかった。

 

「眠れた?」

 

雅也が訊く。

 

「……うん」

 

少し間を置いて、ドーベルが答える。

 

「雅也は?」

 

「俺も」

 

「……嘘」

 

「なんで」

 

「顔に出てる」

 

雅也が苦笑した。

 

「そんなに分かりやすい?」

 

「少しだけ」

 

ドーベルは笑った。布団から出した手で、寝癖のついた自分の髪を押さえる。その手が、途中で耳の位置を確かめるように動いた。 寝ている間に変な向きになっていないかを確認する、ほとんど無意識の癖である。

 

その仕草を見て、雅也も笑った。

 

「……何?」

 

「いや」

 

「言って」

 

「……いつも、それやってるなと思って」

 

「……見ないで」

 

「見てないと言えない」

 

「……もう」

 

やがて朝食の時間が近づき、二人は身支度を始めた。

 

障子を開けると、冷気が一息に入ってきた。

 

窓の外は、一面の白だった。

 

昨夜のうちにかなり積もったらしい。庭の石灯籠の笠に、綿を載せたように雪が乗っている。生垣の輪郭はすっかり丸くなっていて、松の枝が重さで少し下がっていた。

 

温泉街はまだ静かで、遠くから雪かきをする音が聞こえていた。スコップが石畳に当たる、乾いた音。それが二度、三度。

 

「……積もったな」

 

「うん」

 

ドーベルは、障子の桟に手をかけたまま、しばらく外を見ていた。

 

耳が、雪かきの音のほうへ向いていた。

 

廊下は、昨夜よりもさらに冷たかった。

 

素足に木の床が刺さるようで、ドーベルは思わず爪先立ちになった。そのまま二歩ほど歩いて、それから普通に歩き直す。

 

「……冷たい」

 

「そうだな」

 

「雅也、平気なの」

 

「平気じゃない」

 

「顔に出てない」

 

「出さないようにしてる」

 

「……ずるい」

 

朝食は、広間の隅の席だった。

 

焼いた魚と、味噌汁と、温泉玉子。小鉢がいくつか。湯気が立っていて、それが冷えた空気の中でやけにはっきり見えた。

 

ドーベルは、味噌汁の椀を両手で包んで、しばらくそのまま持っていた。

 

「……冷えてた?」

 

「……ちょっと」

 

彼女は椀を置いて、それから、ようやく箸を取った。

 

食べ方は、静かで、丁寧だった。昔からそうである。所作の一つ一つに、隠しようのない育ちが出る。ただ、以前は人前で食事をすること自体を避けていたから、こうしてゆっくり食べている姿を、雅也は長いこと見たことがなかった。

 

「……何」

 

「いや」

 

「また見てる」

 

「……悪い」

 

「……別に」

 

そう言いながら、彼女の耳が、ほんの少しだけ上を向いた。

 

朝食を終えたあと、二人はもう一度だけ温泉へ向かった。

 

外湯は、旅館の裏手から短い渡り廊下を通った先にある。木の屋根に雪が積もっていて、その縁から時折、雫が落ちた。

 

暖簾をくぐると、湯気が白く立ち上っていた。

 

外気は氷点下に近い。湯から上がる蒸気が、冷たい空気にぶつかって、そのまま白い塊になって漂う。視界の半分が白く、その向こうに雪を被った岩が見え隠れしていた。

 

冷たい空気に触れた耳が、ぴくりと動いた。

 

ドーベルは湯船に肩まで浸かり、深く息を吐いた。

 

長い息だった。身体の芯まで抜けていくような。

 

「……あったかい」

 

「昨日より?」

 

「うん」

 

雅也も隣で笑う。

 

湯の面に、二人の吐いた息が白く残って、すぐに消えた。

 

岩の上から、湯が細く落ちている。その音だけが、絶え間なく続いていた。

 

しばらくして、ドーベルがぽつりと言った。

 

「……ねえ」

 

「ん?」

 

「ウマ娘のアタシより、なんで雅也のほうが元気なの?」

 

雅也は一瞬、意味が分からないという顔をした。

 

「……何の話?」

 

「体力」

 

「……体力」

 

「昨日、ずっと歩いてたでしょ。駅から、坂上って、温泉街の端まで行って、また戻って」

 

「ああ」

 

「アタシ、途中でちょっと休みたいって思った」

 

「言えばよかったのに」

 

「……言えるわけない」

 

彼女は湯の中で、少しだけ姿勢を沈めた。

 

「ウマ娘なのに疲れましたって、言えないでしょ」

 

「……なるほど」

 

「なのに雅也、全然平気な顔してた」

 

「それは……」

 

雅也は少し考えた。

 

「普段から走ってるから?」

 

「アタシだって走ってる」

 

「……走ってた、だろ。引退したんだから」

 

「……っ」

 

湯の中で、水音が一つ跳ねた。

 

「じゃあ、気合い」

 

「それ一番納得できない」

 

ドーベルが頬を膨らませる。

 

耳が、はっきりと後ろに倒れた。

 

雅也は思わず吹き出した。

 

「ごめん」

 

「笑った」

 

「いや、だって」

 

「……もう」

 

けれど、ドーベルも笑っていた。

 

湯気の向こうで、彼女の耳が小さく揺れる。

 

昔なら、男性とこんなふうに冗談を言い合うことさえ考えられなかった。

 

同じ湯に入ることはもちろん、同じ部屋にいることも、同じ食卓につくことも。三年前の彼女にとって、そのすべてが越えられない壁だった。

 

それが今は、隣にいる人と、くだらないことで言い合って笑っている。

 

その事実が、何よりも嬉しかった。

 

「雅也」

 

「ん?」

 

「……これからも、こういう時間、あるのかな」

 

「あるよ」

 

即答だった。

 

ドーベルは目を瞬かせた。

 

「……即答?」

 

「あるだろ。引退したんだから」

 

「……そっか」

 

彼女は湯の中で、そっと目を閉じた。

 

温泉の熱が身体を包む。

 

朝の空気は冷たい。

 

それなのに、不思議なくらい心は温かかった。

 

雅也はそんな彼女を見ながら、静かに笑った。

 

もうトレーナーと担当ではない。

 

レースの結果も、タイムも、勝敗も、二人の間にはない。渡す課題も、組むローテーションも、確認する脚の状態も、もうない。

 

ただ、一緒にいる。

 

それだけだった。

 

そして、それだけのことに、三年かかった。

 

旅館を出る頃には、雪は止んでいた。

 

白い街の向こうに、冬の青空が広がっている。空気が澄みすぎていて、遠くの山の稜線が近く見えた。屋根から落ちた雪が、道の端に小さな山を作っている。

 

踏み固められていない場所は、一歩ごとに足が沈んだ。

 

ドーベルは、雪の上を歩くのが上手かった。ウマ娘として培ってきた脚の感覚が、雪の沈み方や足元の滑りを細かく拾っている。人間なら踏み込むたびに足を取られそうな新雪でも、彼女は重心をわずかに調整しながら進んだ。現役時代、芝の上で一歩の乱れも許さなかった身体感覚は、引退したからといって消えるものではない。体重の掛け方が違うのだろう、彼女の足跡は雅也のものより浅い。三年間、脚の使い方だけで生きてきた人間である。雪の上でも、それは変わらなかった。

 

雅也は、それを見ていた。見て、少し遅れた。

 

「……雅也」

 

「ん」

 

「遅い」

 

「……悪い」

 

彼女は立ち止まって、待っていた。

 

待っている、ということに、彼は少し驚いた。

 

昔は、逆だった。彼女はいつも半歩後ろにいて、彼のほうが振り返って待っていた。人の視線を避けるように、彼の背中の陰を歩いていた。

 

それが今は、彼女のほうが先にいて、こちらを見ている。

 

ドーベルは歩きながら、隣にいる雅也を見た。

 

「ねえ」

 

「なに?」

 

「来年も、来たい」

 

雅也は少しだけ考えたあと、頷いた。

 

「じゃあ、来年も予約しよう」

 

「……約束?」

 

「約束」

 

ドーベルは笑った。

 

その笑顔は、かつて人前で顔を上げられなかった少女のものではなかった。

 

自分で選び、自分で決め、自分の人生を歩き始めた一人の女性の笑顔だった。

 

誰かに救われたのではない。誰かに変えてもらったのでもない。

 

三回叩いた扉も、震える声で言った一言も、「別に」と言い続けた三週間も、声を荒げたあの日も、走らないと決めた日も――全部、彼女が自分で選んだことだった。

 

彼はそこにいただけだ。急がずに、待っていただけだ。

 

それでも、そこにいてくれる人がいるかどうかで、選べるものは変わる。

 

そのことを、彼女は誰よりよく知っている。

 

雅也はその横顔を見ながら、静かに歩いた。

 

雪を踏む音が、二つ。

 

重なりはしない。けれど、ずれもしない。

 

二人の足跡が、雪の上に並んで残っていく。

 

深さの違う二つの跡が、同じ間隔で、同じ方向へ続いていく。誰かが後からこの道を通れば、ここを二人で歩いたのだと、それだけは分かるだろう。

 

今度は、どちらも先を歩かなかった。

 

同じ速さで。

 

同じ道を。

 

並んで歩いていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。