・メイクデビューを制覇
・札幌ジュニアステークスを制覇
・東京スポーツ杯ジュニアステークスを制覇
・ホープフルステークスを制覇
・皐月賞、日本ダービーを制覇
・菊花賞は3着となり、唯一の敗戦を記録
・その後も中距離・長距離路線を中心に勝利を重ねる
・大阪杯、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念を制覇
・最終的に19戦18勝1敗を達成
・引退理由は故障ではなく、本人の意思による
拝啓、『私』へ ――読書灯の下の冬
一
目が覚めたのは、五時十二分だった。
枕元の時計の数字が、闇の中で淡く浮かんでいる。アドマイヤベガはしばらくそれを見ていた。見ているうちに、数字の最後の一桁が三に変わった。五時十三分。いつもなら、あと二分で身体を起こしている時刻だった。靴下を履き、ジャージの上着を羽織り、同室の寝息を乱さないように扉を開ける。廊下の冷たさを足裏で確かめながら、寮の玄関まで歩く。外に出ると、夜と朝の境目の、どちらでもない色をした空気が肺に入ってくる。
今日は、それをしなくていい。
分かっていた。分かっていて、目が覚めた。身体のほうが、まだそれを知らないのだった。
有馬記念から、四日が経っていた。
布団の中で、右手をゆっくりと握ってみる。指の付け根に、爪が食い込むほどの力を込める。ゲートに入る前、いつもそうしてきた。少し痛むくらいに握らないと、自分が今から何をしに行くのかを、身体が忘れてしまう気がしたからだ。痛みで確かめる。ここにいること、走ること、勝たなければならないこと。
有馬記念の日、彼女はそれをしなかった。
しなかった、というのは正確ではない。拳は握った。いつものように。ただ、痛むほどには力が入らなかった。入れようとして、入らなかったのではない。入れる必要が、どこにもなかったのだ。そのことに気づいたのはゲートが開く三秒前で、驚いている暇はなかった。
今、握った拳を開く。掌に、爪の跡が四つ、薄く残っていた。
隣のベッドから、規則正しい寝息が聞こえる。カレンさんは冬休みに入ってから、起きる時刻が一時間ずつ遅くなっている。それを咎めたことはない。咎める理由もない。ただ、自分の起床時刻が一分も遅くならないことを、少しだけ持て余していた。
アドマイヤベガは布団から手を出して、床に置いたスリッパの縁に指先で触れた。柔らかい毛足が、冷えた指に絡む。今シーズンのうちに何足か試したなかで、これがいちばん良かった。毛足の長さが均一で、踏んだときに沈みすぎない。去年のものは三か月で毛が寝てしまった。
そんなことを考えている自分に気づいて、彼女は小さく息を吐いた。
布団を肩まで引き上げる。天井を見る。カーテンの隙間から、街灯の橙色が細い線になって差し込んでいた。
眠れなかった。
眠れないまま、六時になった。
二
トレーナー室の扉を開けると、早瀬雅也は床に座っていた。
正確には、床に広げた段ボール箱の前に胡座をかいて、紙の束を一枚ずつめくっていた。机の上にも、棚の前にも、似たような箱が三つ積まれている。窓から差し込む冬の低い陽が、舞い上がった埃を細かく光らせていた。暖房の効きの悪い部屋で、彼は上着を着たままだった。
「……何してるの」
「片付け」
雅也は顔を上げずに答えた。
「引退の書類を出す前に、記録をまとめろって言われた。三年分」
「……今日?」
「今日から。年明けに出す」
「手伝う?」
「いや」彼はようやく顔を上げた。「君の記録だから、君に見せると、たぶん一枚ずつ読み始めて終わらない」
アドマイヤベガは返事をしなかった。反論できなかったからだ。
彼女はいつもの椅子を引いて座った。机の正面ではなく、斜め後ろ。視線が真正面からぶつからない位置。三年前、この部屋に初めて入ったとき、彼女は扉にいちばん近い椅子に座った。いつでも出ていけるように。そこから少しずつ、椅子は部屋の奥へ移ってきて、ここに落ち着いてから二年近くになる。
麦茶のポットが、机の端に置かれていた。冬なのに冷蔵庫から出したままの、冷たい麦茶だった。彼は一年中これを飲んでいる。寒くないのかと一度訊いたことがある。寒い、と彼は答えた。でも温かいお茶を淹れると、淹れたことを忘れて冷ます、と。
彼女は棚から自分のマグを取り、ポットを傾けた。
「……冷たい」
「知ってる」
「どうして温めないの」
「温めても、冷ますから」
「……三年間、同じこと言ってる」
「三年間、同じことしてるからな」
雅也は紙の束をひとつ箱に戻し、別の束を取り出した。表紙に日付が書いてある。彼女の位置からは読めない。けれど、紙の端の色で分かった。彼は記録用紙の種類を、年ごとに変えている。一年目は白。二年目は薄い青。三年目は薄い黄色。今、彼が持っているのは、薄い青の束だった。
二年目。クラシック級。
彼の手が、その束の途中で止まった。
止まったのは一瞬だった。すぐにまた、ページがめくられた。アドマイヤベガはマグを両手で包んだまま、その一瞬を見ていた。何のページで止まったのかは分からない。分からないけれど、見当はついた。
秋だ、と彼女は思った。
「……トレーナーさん」
「ん」
「その束、菊花賞のところ?」
雅也の手が、今度ははっきりと止まった。彼は束を膝の上に置いたまま、少しのあいだ黙っていた。それから、顔を上げずに言った。
「……いや。神戸新聞杯の二週間後。十月の頭」
「……そう」
「夜の練習記録。君がつけてた分と、俺がつけてた分」
彼女は、マグの縁に視線を落とした。
十月の頭。夜の練習。つけていた、と彼は言ったけれど、あの頃の自分の記録には、本当のことは書いていなかった。終了時刻を自分で決めて守る。一年目の最初に渡された三つの課題のうち、最初のひとつだった。あの頃、彼女は毎晩、決めた時刻を用紙に書いて、決めた時刻に寮に戻った。そして、寮の裏手の坂を、誰にも見られないように、もう一度走った。
記録用紙には、書いていない。
書いていないことを、彼は知っていた。知っていて、一度だけ訊いた。眠れてるか、と。
大丈夫、と彼女は答えた。
そして彼は、それ以上訊かなかった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「あのとき、どうして訊かなかったの」
言ってから、彼女は自分の声に少し驚いた。責める調子ではなかった。ただ、訊きたかったから訊いた。一年以上、訊かずにいたことだった。
雅也は、膝の上の束を見たまま、しばらく答えなかった。
暖房が、低く唸った。窓の外で、誰かが自転車のブレーキを鳴らした。
「……訊いたら、君が嘘をつかなきゃいけなくなると思った」
彼はそう言ってから、首の後ろに手をやった。
「……いや。違うな。それは、あとから考えた理由だ」
「……」
「本当は、君が話したくなさそうだったから。話したくない人に、二回訊くのは失礼だと思った。それだけだ」
アドマイヤベガは、マグの中の麦茶を見た。表面に、窓の光が小さく映っていた。
「……私も、話したくなかった」
「うん」
「話したら、自分で認めることになるから」
「うん」
「……だから、訊かれなくて、ほっとした」
雅也が顔を上げた。
「……でも」
彼女は、そこで一度言葉を止めた。続きを探す。探しているあいだ、彼は何も言わなかった。三年前から、彼はそうだった。彼女が言葉を探しているとき、その沈黙を自分の言葉で埋めない。待つ。待たれていると分かると、かえって言葉が出てこないこともあった。けれど最近は、待たれていることが、言葉を探すための時間をくれているのだと、分かるようになった。
「……でも、ほっとしたあとで、少しだけ、寂しかった」
「……」
「誰にも気づかれないように走ってたのに、気づかれないことが、寂しかった」
変な話、と彼女は付け加えた。
雅也は、しばらく何も言わなかった。それから、膝の上の束を閉じて、箱の中にそっと戻した。
「……悪かった」
一年前と同じ言葉だった。
菊花賞の数日後、この部屋で、カレンさんが彼に言った。アヤベさん、九月からずっと夜中まで起きてたんです。トレーナーさん、気づいてましたよね。彼は言い訳をしなかった。尊重したつもりだった、とも言わなかった。悪かった、俺も、もう少し聞けばよかった。それだけ言って、あとは黙った。
アドマイヤベガはその場にいなかった。あとで、カレンさんから聞いた。
それから毎日、彼は一度だけ訊くようになった。どこか無理してないか、と。練習の前だったり、後だったり、廊下ですれ違ったときだったりした。毎日、一度だけ。理由は言わなかった。
彼女がそれに気づいたのは、三週間ほど経ってからだった。気づいた日、彼女は初めて、その問いに正直に答えた。少し、眠い、と。
「……謝らなくていい」
「謝りたい」
「……一年前に、謝ったでしょ」
「一年前に謝ったから、今日謝らなくていいってことにはならない」
彼女は、マグをゆっくりと机に置いた。
「……あれは、あなたのせいじゃない」
「全部じゃない。でも、一部はそうだ」
「……菊花賞で負けたのは、私」
「知ってる」
「最後の四百で、勝たなきゃって思った。妹に返さなきゃって。……それで、仕掛けが早くなった。あなたが訊いても、訊かなくても、たぶん同じだった」
「……たぶん、な」
「たぶん」
彼女は繰り返した。
「だから、全部を持っていかないで」
雅也は、しばらく彼女を見ていた。それから、ほんの少しだけ、口の端を緩めた。
「……分かった。俺の分だけ持ってく」
「……うん」
「残りは、君の分だ」
「……分かってる」
窓の外の光が、少しだけ角度を変えた。埃の粒が、その光の中をゆっくりと落ちていった。
雅也は次の束を取り出した。薄い黄色。三年目。彼はそれをめくりながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、有馬の最後の四百」
「……何」
「一回、ちゃんと息を入れ直しただろ。四コーナーの手前で」
アドマイヤベガは、少しだけ目を見開いた。
「……見てたの」
「見てた。あそこで入れられるようになったのは、今年の夏からだ。春はまだ、直線に入ってから慌てて吸ってた」
「……」
「最後のレースで、いちばん綺麗に入ってた」
彼女は、返事をしなかった。視線を窓のほうへ逸らした。逸らしたまま、しばらく何も言わなかった。
ややあって、小さく言った。
「……今、言うの」
「今思い出した」
「……三年間、そういうの、後から言う」
「後からのほうが、正確に言える」
「……そう」
彼女は、窓の外を見たまま、膝の上で指を一度だけ組み直した。
褒められることに、彼女はまだ慣れていなかった。抽象的な言葉なら、聞き流せる。すごいとか、強いとか、さすがとか。そういう言葉は、どこにも引っかからずに通り過ぎていく。けれど彼の褒め方は、いつも具体的だった。何秒のところで、どこの角で、何をしたか。見ていなければ言えないことを、彼は言う。だから、聞き流せない。
三年間、ずっとそうだった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「今日、何か課題ある?」
雅也は、紙をめくる手を止めた。
「課題?」
「最初に三つ。ダービーの前に四つ目。……それから、何もない」
「……ああ」
「引退するまでに、もう一つくらい、ないの」
彼は、少し考えるような顔をした。それから、首を横に振った。
「ない」
「……どうして」
「もう、俺が渡すものじゃない気がする」
「……」
「課題は、君が次に何をすればいいか分からないときに渡すものだ。今の君は、分かってる。分かってて、まだ言葉にしてないだけだ」
アドマイヤベガは、何も言わなかった。
言葉にしていないことが、確かにあった。有馬記念のゴールを過ぎた瞬間に、胸の奥で何かが静かにほどけた。それが何なのか、四日経った今も、彼女はまだ名前をつけられずにいた。
「……あなたは、分かってるの」
「何を」
「私が、何を言葉にしてないのか」
雅也は、首の後ろに手をやった。
「分からない」
「……」
「本当に分からない。見当もつかない、とは言わないけど。見当がついても、それが合ってるかどうかは、君にしか分からない」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「……正直」
「嘘ついても、君はすぐ分かるだろ」
「……分かる」
「だから言わない」
彼はそう言って、また紙の束に視線を戻した。
アドマイヤベガは、冷たい麦茶を最後まで飲み干した。喉を落ちていく冷たさが、胸の真ん中あたりで少しだけ留まって、それからゆっくりと消えた。
三
廊下に出ると、窓の外で誰かが走っていた。
冬休みに入った学園は、人の気配が薄い。帰省した生徒も多い。それでも、コースには何人かの姿があった。年明けの初戦に向けて、休まずに走っている者たち。
その中に、見覚えのある走りがあった。
背筋がまっすぐに伸びていて、腕の振りに無駄がない。前へ、前へと、ひたむきに進む走り方。ナリタトップロードだった。
アドマイヤベガは、窓の前で足を止めた。
トップロードさんは、第三コーナーを回ったところで一度ペースを落とし、それからまた上げた。何度も繰り返している。仕掛けのタイミングを確かめているのだろう。来年の春に向けて。
来年の春。
トップロードさんには、来年がある。オペラオーにも、ドトウにも。自分には、ない。
そのことを、寂しいと思うかどうか、彼女は自分に訊いてみた。答えは、すぐには出なかった。寂しくないと言えば嘘になる。けれど、寂しいと言い切るのも、違う気がした。
ガラスに額を寄せると、冷たさが皮膚に染みた。
一年前の冬も、こうして窓からトップロードさんを見ていた。菊花賞の後だった。
あの頃、彼女は走れなかった。
身体は動いた。脚にも、肺にも、どこにも異常はなかった。検査でもそう言われた。それなのに、走ろうとすると、足が前に出なかった。どこへ向かって走ればいいのか、分からなくなっていた。
それまでは、分かっていた。
ずっと、隣に誰かがいる気がしていた。スタートのゲートの中で、コーナーを回るときに、最後の直線で、すぐ横を、誰かが一緒に走っている気がしていた。自分だけが生まれて、生まれることのできなかったもう一人。その子の分まで走らなければならない。その子が走りたかったはずの景色を、自分が代わりに見なければならない。
そう思って、走ってきた。
それが本当に誰かの気配だったのか、自分がそう感じたかっただけなのか、彼女には分からない。分からないままで、構わなかった。確かなのは、その感覚が自分を走らせてきたということだけだった。
菊花賞の最後の直線で、彼女は勝ちたいと思った。
妹のためではなかった。自分が、勝ちたかった。前を走るトップロードさんの背中に届きたかった。あの背中を追い越して、誰よりも先にゴールを駆け抜けたかった。それを、自分自身が望んでいた。
その瞬間、隣にいたはずの気配が、分からなくなった。
ゴールしたとき、彼女は三着だった。トップロードさんが勝った。観客席が揺れるような歓声が上がって、トップロードさんが両手を上げて、泣きながら笑っていた。それを見ながら、アドマイヤベガは、自分の隣を見た。
誰もいなかった。
いなかった、と感じた。それが何を意味するのか、あの頃の彼女には分からなかった。分からないまま、罰だと思った。妹のことを忘れて、自分のために走ろうとしたから。楽しいと思ってしまったから。勝ちたいと思ってしまったから。だから、いなくなったのだと。
レースの後、彼女は雅也に言った。私、楽しかった、と。走るのも、競い合うのも、楽しかった、と。それが間違いみたいで、と。
違う、と彼は言った。楽しかったことと、妹を大切に思うことは、両立する、と。
その言葉を、あの頃の彼女は受け取れなかった。両立するなら、どうしていなくなったの、と思った。口には出さなかった。
冬のあいだ、雅也は彼女に予定表を渡さなかった。まず寝ろ、と言った。食べろ、と言った。散歩でもしてこい、と言った。トレーニングの話は、しなかった。練習時刻を一時間遅らせた日があって、どうして、と訊いたら、昨日かなり走ったから、と言われた。まだできる、と言うと、知ってる、だから休む、と返された。
その冬、彼女を走らせたのは、彼ではなかった。
年が明けて、しばらく経った日の、まだ暗い朝だった。寮の扉を開けると、外にトップロードさんが立っていた。ジャージ姿で、白い息を吐きながら、少し緊張した顔で。
走りませんか、と彼女は言った。海のほうまで、と。
断ろうとした。断る理由を探しているうちに、トップロードさんはもう歩き出していた。振り返って、待っています、と言った。菊花賞の前、アドマイヤベガが受け取らなかった手のことは、一言も言わなかった。
結局、ついていった。
夜明け前の海岸を、二人で走った。どちらも何も話さなかった。砂に足を取られ、波打ち際で靴を濡らし、それでも走った。どちらかが止まれば、もう一人も止まったかもしれない。どちらも止まらなかった。太陽が水平線から顔を出す頃には、二人とも息が上がって、脚が棒のようになって、砂の上に倒れ込んでいた。
倒れたまま、空を見た。
朝焼けの色が、雲の縁を染めていた。波の音がした。隣で、トップロードさんが荒い息をしながら笑っていた。
楽しかった、と、アドマイヤベガは思った。
思ってから、隣を見た。そこにいたのは、トップロードさんだった。息を切らして、髪に砂をつけて、笑っているトップロードさんだった。
その朝、アドマイヤベガは、初めて誰かに聞こえる声で言った。楽しい、と。
トップロードさんは、少し驚いた顔をして、それから、はい、と答えた。私もです、と。
窓の外で、トップロードさんが最後のコーナーを回り終えた。ゴール板の前で減速して、膝に手をついて、呼吸を整えている。
アドマイヤベガは、ガラスから額を離した。
冷たさの跡が、額に残っていた。
四
寮の部屋に戻ると、カレンさんが起きていた。
ベッドの上で膝を抱えて、スマートフォンを眺めている。アドマイヤベガが扉を開けると、顔を上げて、ぱっと笑った。
「アヤベさん、おかえり。トレーナーさんのとこ?」
「……うん」
「片付け、進んでた?」
「……三年分だって」
「うわあ。大変そう」
カレンさんは大げさに目を丸くしてから、またスマートフォンに視線を戻した。アドマイヤベガは自分の机の前に座った。読みかけの本が置いてある。天文の本だった。栞は、三日前から同じページに挟まったままだった。
「ねえ、アヤベさん」
「……何」
「お正月、実家帰るの?」
「……帰る。二日だけ」
「そっか。カレンも三日に帰るんだ。入れ違いだね」
「……そう」
カレンさんは、しばらく何か言いたそうにしていた。アドマイヤベガは気づいていたけれど、訊かなかった。この子は、言いたいことがあるときは自分から言う。言わないときは、言わない理由がある。三年近く同じ部屋で暮らして、それだけは分かるようになった。
「……アヤベさん、最近、夜遅くまで起きてるでしょ」
アドマイヤベガは、本の表紙から顔を上げた。
「……起きてない」
「起きてるよ。読書灯、ついてるもん」
「……」
「本、読んでるわけじゃないよね。ページ、めくってないもん」
カレンさんは、スマートフォンから目を離さないまま言った。責める調子ではなかった。ただ、見ていたことを伝えるだけの声だった。
一年前の冬も、この子は見ていた。夜中まで起きていたことも、それを誰にも言えなかったことも。そして、自分で言えなかった言葉を、代わりに雅也のところまで運んでいった。
あのとき、アドマイヤベガは少しだけ腹を立てた。勝手なことをしないで、と思った。けれど、腹を立てたのは最初の一日だけで、二日目には、それが自分にはできなかったことだと分かった。三日目には、ありがとうと言えないまま、パンケーキを食べに行こうと誘われて、断らなかった。
「……考え事、してるだけ」
「うん。知ってる」
「……眠れないわけじゃない」
「うん」
「……たぶん」
カレンさんが、ふふ、と笑った。
「アヤベさん、たぶんって言うようになったよね」
「……そう?」
「前は、絶対とか、必ずとか、そういうのばっかりだった」
「……」
「今は、たぶんって言う。カレン、そっちのほうが好き」
アドマイヤベガは、返す言葉が見つからなかった。
カレンさんはベッドから降りて、自分の机の引き出しを開けた。しばらく何かを探して、それから、薄い包みを取り出した。
「これ、あげる」
「……何」
「便箋。可愛いの見つけたから、つい買っちゃった。カレン、手紙あんまり書かないから」
差し出された包みを、アドマイヤベガは受け取った。薄い紙袋の中に、便箋の束と封筒が入っていた。淡い藍色の紙で、隅に小さな銀の箔押しがある。星の形ではなかった。細い線が一本、斜めに引かれているだけの、控えめな意匠だった。
指先で、紙の表面を撫でた。
少しだけ、ざらりとした手触りがあった。柔らかくはない。けれど、ペン先が滑りすぎない、書くための紙の手触りだった。
「……どうして、私に」
「なんとなく。アヤベさん、頭の中でずっと誰かとお話ししてる顔してるから」
カレンさんは、ベッドに戻りながら言った。
「言いたいことがあるなら、書いてみたら? 誰に出さなくてもいいし」
「……」
「カレン、これからお昼寝するね。起こさないで」
そう言って、カレンさんは本当に布団をかぶってしまった。
アドマイヤベガは、膝の上に置いた便箋の包みを見ていた。窓から入る午後の光が、藍色の紙の上で、銀の細い線を一瞬だけ光らせた。
五
夕方、食堂へ向かう途中で、声をかけられた。
「おお、アヤベさん! 麗しき一等星よ! こんなところで会うとは、やはり我らは運命の糸で結ばれ――」
「……長い」
テイエムオペラオーは、両腕を大きく広げた姿勢のまま、なんと、と言った。その後ろで、メイショウドトウがおろおろと両手を胸の前で組んでいた。
「す、すみません、アヤベさん……オペラオーさん、今日ずっとこんな感じで……」
「……いつものことでしょ」
「い、いつもより、三割くらい……」
ドトウは申し訳なさそうに肩をすくめた。オペラオーはまったく意に介さず、アドマイヤベガの横に並んで歩き始めた。
「聞いてくれたまえ。ボクは今日、この一年を振り返っていたのだよ。そして気づいたのだ。この一年、ボクたちは同じ舞台に何度立ったと思う?」
「……数えてない」
「ボクは数えた! 春も、夏も、秋も、そしてこの冬も。ボクと君と、そしてドトウ。この三人が、一年を通して同じ舞台に立ち続けた。これがどれほどの奇跡か、分かるかい?」
アドマイヤベガは、答えなかった。
この一年、オペラオーは一度も彼女に勝てなかった。どのレースも、差は僅かだった。首差、半馬身、ハナ差。ゴールの瞬間まで、どちらが前か分からないレースばかりだった。そのたびにオペラオーは、次こそは、と大仰に宣言した。宣言して、また次のレースに現れた。
有馬記念の前の晩、同期の四人で、この三年間の話をしたことがあった。誰が誰に何度勝ったのか、オペラオーが指を折って数えていた。数え終えてから、彼女は腕を組んで、しばらく黙っていた。アドマイヤベガは、そのとき何を言えばいいのか分からなかった。
今も、分からなかった。
「……奇跡っていうほどのことじゃない」
「なんと!」
「……みんな、走りたかったから走っただけ」
「それこそが奇跡なのだよ!」
オペラオーは、足を止めて振り返った。夕陽を背にして、芝居がかった仕草で片手を胸に当てる。けれど、その目は笑っていなかった。まっすぐに、アドマイヤベガを見ていた。
「君が来年いないのは、実に寂しいことだ」
「……」
「だが、ボクは来年、必ず全てを勝つ。君のいない舞台で、君のいた一年よりも強く輝いてみせる。それが、君に負け続けたボクにできる、最高の返礼だ」
廊下の窓から差し込む橙色の光が、オペラオーの髪の縁を燃えるように光らせていた。
アドマイヤベガは、しばらく何も言わなかった。
この人は、本気で言っている。そして、たぶん本当にそうするだろう、と彼女は思った。この一年、自分が奪った舞台の数を、彼女は知っていた。本当ならオペラオーが立つはずだった場所に、自分が立っていたことを。オペラオーはそれを一度も口にしなかった。
「……うるさい」
そう言うと、オペラオーは満足げに笑った。
「ふふ、それでこそ君だ!」
ドトウが、二人のあいだで小さく息をついた。それから、おずおずとアドマイヤベガのほうを見た。
「あの、アヤベさん……」
「……何」
「わ、私も……来年、頑張ります。アヤベさんに教えてもらったこと、ちゃんと……フォームの、肩のところ……」
「……ここ?」
アドマイヤベガは、自分の右肩の少し下を指で示した。一年前、ドトウに相談されたとき、そこだけを直せばいいと言った場所だった。
「は、はい! そこです! まだ、たまに忘れちゃうんですけど……」
「……忘れたら、思い出せばいい」
「……はい」
ドトウは、泣きそうな顔で笑った。
三人で食堂の入り口まで歩いた。オペラオーは途中からまた独演会を始めて、ドトウがそれに相槌を打ち、アドマイヤベガは黙って聞いていた。うるさかった。けれど、そのうるささが、今日は少しだけ耳に心地よかった。
食堂の扉の前で、オペラオーがふと言った。
「ところで、アヤベさん。君は有馬の最後で、空を見上げていたね」
「……」
「あれは、誰に向けたものだったんだい?」
アドマイヤベガは、足を止めた。
オペラオーは、答えを急かさなかった。大仰な身振りも、しなかった。ただ、首を少しだけ傾げて、彼女の顔を見ていた。
「……分からない」
しばらくして、彼女は答えた。
「……まだ、分からない」
「そうか」
オペラオーは、それ以上訊かなかった。扉を押し開けて、さあ行こう、とドトウの背中を押した。
アドマイヤベガは、その後ろ姿を見送った。
有馬記念のゴールを過ぎたとき、自分は観客席を見て、それから空を見上げた。あれが誰に向けたものだったのか。妹に向けたものだと、以前の自分なら迷わずに答えただろう。今は、迷った。
迷ったことに、彼女は少し驚いていた。
六
夜。
カレンさんの寝息が聞こえ始めてから、三十分ほど待った。
アドマイヤベガは、布団から静かに抜け出した。床のスリッパに足を入れる。机の前に座り、読書灯のスイッチに指をかけた。かちり、と小さな音がした。
白い光が、机の上にだけ落ちた。
部屋の他の場所は、暗いままだった。カレンさんのベッドも、窓も、壁の棚も、光の輪の外にある。読書灯だけで本を読むのは、昔からの習慣だった。真剣に何かを読むとき、部屋全体を明るくすると、目が余計なものを拾ってしまう。光を一点に絞ると、その一点だけが世界になる。
今夜、その一点に置かれているのは、本ではなく、藍色の便箋だった。
ペンを取る。キャップを外す。
書き出しを、考えた。
考えるまでもなかった。ノートの端に、手帳の余白に、レースの前夜に、何度も書いてきた言葉があった。誰にも見せたことのない、たった一人に宛てた言葉。
彼女は、ペン先を紙に下ろした。
――拝啓
そこまで書いて、手が止まった。
次に書くはずの言葉は、決まっていた。三年間、いや、それよりずっと前から、何度も書いてきた宛名だった。生まれてくることのできなかった、もう一人。自分の隣を走っているはずだった、あの子へ。
ペン先が、紙の上で小さく震えた。
書けなかった。
書けない理由が、分からなかった。いつもなら、何も考えずに書けた。今日は勝ったよ。今日は負けた。今日は、あなたの分まで走った。そういう言葉を、彼女は宛名の後にいくらでも続けられた。
今夜は、宛名そのものが、出てこなかった。
アドマイヤベガは、ペンを置いた。
両手を膝の上に置いて、読書灯の光の輪を見つめた。白い光の中に、藍色の紙と、書きかけの二文字だけが浮かんでいた。
どうして、と自分に訊いた。
あの子のことを、忘れたわけではない。忘れるはずがない。毎年、誕生日にはケーキを二つ用意する。今年の三月にも用意するだろう。その次の年も、その次の年も。
それなのに、宛名が書けない。
書けないのは、あの子に向けて言うことが、もうないからだろうか。
違う、と彼女は思った。言いたいことは、たくさんある。有馬記念のこと。オペラオーのこと。トップロードさんのこと。ドトウの肩のこと。カレンさんがくれた便箋のこと。
でも、それは全部、あの子に向けて言うことではなかった。
有馬記念を走ったのは、自分だった。オペラオーと競い合ったのも、トップロードさんの背中を追いかけたのも、ドトウに肩の位置を教えたのも、カレンさんから便箋を受け取ったのも。全部、自分だった。
あの子のために走った三年間は、嘘ではない。けれど、走ったのは、自分の脚だった。見たのは、自分の目だった。
アドマイヤベガは、もう一度ペンを取った。
書きかけの「拝啓」の後に、ゆっくりと、一文字ずつ、書いた。
――拝啓、『私』へ
書き終えてから、しばらくその文字を見ていた。
奇妙な宛名だった。自分に手紙を書く人間なんて、いるのだろうか。いたとして、何を書くのだろう。
分からなかった。分からないまま、彼女は書き始めた。
――あなたは、ずっと誰かのために走ってきましたね。
丁寧語になった。自分に向けて書くのに、なぜか丁寧語になった。書き直そうかと思って、やめた。たぶん、そのほうがいい。自分のことを、少しだけ遠くから見るために。
――選抜レースのとき、あなたは勝ちたくて、焦って、降着になりました。あのとき、映像を三つに分けて見ようと言った人がいました。周りを確認した瞬間、判断を急いだ瞬間、本当なら一呼吸置けた瞬間。あなたは、分かってる、と答えました。分かっていたのに、できなかったのに。
ペンが、紙の上を走った。
――あなたは、一人で走るつもりでした。その人は、知ってる、と言いました。一人で走りたいなら邪魔にならないようにする、と。でも、一人で全部やる必要はない、と。あなたは、変な人だと思いました。
読書灯の光の中で、インクがゆっくりと紙に染みていった。
――皐月賞の前の夜、あなたはノートに同じ目標を何度も書きました。その人は、書くことで落ち着くならそのままでいい、と言いました。それから、明日は妹に勝利を返す日じゃない、君が走る日だ、と言いました。あなたは、同じじゃないの、と訊きました。違う、でもどっちも君の中にあっていい、と言われました。
――あのとき、あなたはその意味が分かりませんでした。
ペンが止まった。
アドマイヤベガは、そこで書いた一行を読み返した。あのとき、分からなかった。今は、分かるのだろうか。
分かる、とは言えなかった。けれど、分からない、とも言えなかった。
彼女は、次の行を書いた。
――ダービーのあと、あなたは初めて、勝ちたかった、と言いました。私が、と。言ってしまってから、怖くなりました。自分のために勝ちたいと思ったことが、あの子への裏切りのように思えて。
――菊花賞の前、あなたは夜に走りました。誰にも見られないように。眠れないまま、寮の裏の坂を何度も上りました。その人は一度だけ、眠れているかと訊きました。あなたは、大丈夫と答えました。その人は、それ以上訊きませんでした。
――あなたは、ほっとしました。それから、少しだけ寂しくなりました。
書いているうちに、手が冷えてきた。部屋の暖房は、寝る前に切ってある。アドマイヤベガは一度ペンを置いて、両手を擦り合わせた。息を吐きかける。白くはならなかった。部屋の中は、そこまで寒くはない。寒さは、得意なはずだった。
指先が温まるのを待って、彼女はまたペンを取った。
――菊花賞の最後の直線で、あなたは勝ちたいと思いました。あの子のためではなく、自分のために。トップロードさんの背中に、届きたかった。
――そのとき、隣にいたはずの気配が、分からなくなりました。
――あなたはそれを、罰だと思いました。
ペン先が、紙の上で止まった。
長いあいだ、止まっていた。
読書灯の光の輪の外で、カレンさんが寝返りを打つ音がした。布団の擦れる音。それから、また静かな寝息。
アドマイヤベガは、書いた文字を見ていた。罰だと思いました。一年前の自分は、確かにそう思っていた。今の自分は、どう思っているのだろう。
分からなかった。
分からないまま、彼女は次の行を書いた。
――でも、今は、違うかもしれないと思っています。
――あの子は、いなくなったのではなく。
ペンが、また止まった。
続きの言葉が、喉のあたりまで来ていた。来ていて、出てこなかった。出てこないのは、それが本当かどうか、まだ確かめていないからだった。自分に向けた手紙に、確かめていないことを書くのは、嘘をつくのと同じだと思った。
アドマイヤベガは、そこでペンを置いた。
書きかけの便箋を、光の中に置いたまま、しばらく動かなかった。
窓の外は、真っ暗だった。カーテンの隙間から、冬の夜空の端が細く覗いていた。
七
翌朝も、五時十二分に目が覚めた。
今度は、起き上がった。
ジャージを着る必要はなかった。けれど、手が勝手にそれを選んだ。上着を羽織り、スリッパからスニーカーに履き替えて、カレンさんの寝息を乱さないように扉を開けた。廊下の冷たさが、足裏から上がってきた。
寮の玄関を出ると、空はまだ夜の色をしていた。東の端だけが、わずかに薄くなっている。吐く息が、白く流れた。
コースへ向かう道を、彼女はゆっくり歩いた。走らなかった。走る理由はなかったし、走らない理由もなかった。ただ、歩きたかった。
コースの入り口まで来て、足を止めた。
誰かが、バ場の上を歩いていた。
外ラチ沿いを、一歩ずつ、足元を確かめるように。ときどき立ち止まって、しゃがみ込み、芝に掌を当てる。それからまた立ち上がって、数歩進む。
三年間、何百回と見てきた姿だった。レースの日の朝、彼はいつも彼女より一時間早く競馬場に来て、自分の足でバ場を踏んで確かめていた。今日は内が硬い。外が緩い。昨日の雨で三コーナーが重い。そういう情報を、彼は短く一言だけ伝えて、あとは何も言わなかった。
今日、彼女にはレースがない。
それでも、彼はそこにいた。
「……何してるの」
声をかけると、雅也は振り返った。少し驚いた顔をしていた。
「……早いな」
「あなたも」
「癖だ」
彼は立ち上がり、膝についた芝を払った。
「三年やってると、身体が勝手に来る。起きたら、ここに向かってた」
「……私も」
「知ってる。君の起床時刻は五時十二分だ」
「……十三分」
「……細かいな」
「あなたに言われたくない」
雅也は、少しだけ笑った。それから、外ラチに背中を預けた。アドマイヤベガは、その隣に少し距離を空けて立った。二人とも、コースを見ていた。
東の空が、ゆっくりと色を変えていく。黒から、深い藍へ。藍から、灰を帯びた青へ。芝の上に落ちた霜が、まだ光を拾いきれずに、白く沈んでいた。
「……今日の内は、どう」
彼女が訊くと、雅也は少し意外そうな顔をした。
「……硬い。昨日、冷えたから」
「……そう」
「走るのか」
「走らない」
「そうか」
「……訊いただけ」
雅也は、それ以上何も言わなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。遠くの道路を、始発のバスが通り過ぎる音がした。どこかで鳥が一羽、短く鳴いた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「昨日の夜、手紙を書いてた」
雅也は、コースを見たまま、ああ、と言った。
「……最後まで、書けなかった」
「そうか」
「……誰に宛てたか、訊かないの」
「訊いてほしいか」
アドマイヤベガは、少し考えた。
「……分からない」
「じゃあ、訊かない」
「……うん」
彼女は外ラチに両手を置いた。金属の冷たさが、手袋越しに染みてきた。
訊かれなくて、ほっとした。一年前と同じだった。けれど一年前と違うのは、ほっとしたあとに、寂しくならなかったことだった。訊かないと言ったのは、彼が話したくない人に踏み込まないからではない。自分が、分からないと答えたからだ。分からないと答えたことを、彼はそのまま受け取った。
それが、少しだけ嬉しかった。
「……トレーナーさん」
「ん」
「あなたは、最初から知ってた?」
「何を」
「……私が、誰のために走ってたか」
雅也は、しばらく答えなかった。
東の空の端に、細い朱色の線が一本、引かれ始めていた。
「……知らなかった」
やがて、彼は言った。
「選抜レースのときも、契約のときも、知らなかった。君が言わなかったから。……ケーキを二つ用意するって話を、カレンさんから聞いたのが最初だ。一年目の冬の終わりだった」
「……カレンが」
「悪気はなかったと思う。君の誕生日が近いって話になって、何か用意したほうがいいのか訊いたら、教えてくれた。そのついでに」
「……」
「それを聞いても、分からなかった。分かっていいことなのかも、分からなかった。……今も、全部は分からない」
アドマイヤベガは、彼の横顔を見た。
朝の光が、少しずつその輪郭を浮かび上がらせていく。いつもと同じ顔だった。三年前、この人を初めて見たとき、何を考えているのか分からない人だと思った。今も、全部が分かるわけではない。けれど、分からないと正直に言う人だということは、分かった。
「……分からないのに、何も言わなかった」
「分からないことを、分かったように言うのは、嫌だったから」
「……」
「それに、君のことだ。俺が決めていいことじゃない」
彼は、ほんの少しだけ首を傾けた。
「……それだけだ。大した理由じゃない」
アドマイヤベガは、何も言わなかった。
手紙の中に、書きかけの一行があった。あの子は、いなくなったのではなく。その続きを、彼女は昨夜、書けなかった。確かめていないことを書くのは、嘘をつくのと同じだと思ったからだ。
今、確かめられる気がした。
「……トレーナーさん」
「ん」
「有馬のゴールのあと、私、空を見たでしょ」
「見てた」
「……誰に向けたと思う?」
雅也は、少し考えるような顔をした。それから、首を横に振った。
「分からない。……君は?」
「……分からなかった。昨日まで」
彼女は、外ラチから手を離した。
「……昔は、あの子に見せたかった。あの子が走りたかったはずの景色を、私が代わりに見るんだって思ってた。代わりに見て、代わりに勝って、それを、あの子に返すんだって」
「うん」
「……途中から、少し変わった気がする。ダービーのあたりから。代わりに、じゃなくて、あの子にも見せたい、って」
「……うん」
「……それで、有馬のとき」
そこで、言葉が止まった。
喉の奥に、何かがせり上がってきていた。それは言葉の形をしていた。けれど、まだ口に出していいのか分からない言葉だった。口に出したら、もう戻れない気がした。
雅也は、何も言わなかった。
彼は彼女を見なかった。コースを見ていた。東の空を見ていた。自分がここにいることを、ことさらに示さないように、ただ隣に立っていた。
三年前、彼女は一人で走るつもりだった。
二年目の冬、彼女はこの人に言った。一人でできる、と。知ってる、と彼は言った。それでも、一緒にやってもいい、と彼女は訊いた。もちろん、と彼は答えた。
あのとき、自分で選んだのだ。一人でもできるけれど、一緒にやると。
それからのことも、全部、自分で選んできた。天皇賞の朝、三つの作戦のうち二つ目を選んだのは自分だった。こっちがいいと思う、と言ったのは自分だった。ジャパンカップの前、トップロードさんに手を差し出したのも自分だった。菊花賞の前に受け取れなかったその手を、今度は自分から。有馬で終わると決めたのも、自分だった。
全部、自分で選んだ。
だから、今言おうとしている言葉も、自分で選んでいい。
「……有馬のとき」
アドマイヤベガは、もう一度言った。
東の空から、最初の光が溢れ出した。芝の上の霜が、一斉に白く輝いた。
「……私も、見たかった」
言ってしまってから、彼女は自分の声を聞いた。低くて、小さくて、少しだけ震えていた。
「……あの子のためじゃなくて。あの子にも、でもなくて。……私が、見たかった」
雅也は、何も言わなかった。
長い沈黙があった。朝の光が、二人の足元まで伸びてきた。
「……そうか」
やがて、彼は言った。それだけだった。
アドマイヤベガは、自分の手を見た。手袋の中で、指が冷えていた。けれど、胸の真ん中のあたりは、不思議と温かかった。
「……それだけ?」
訊くと、雅也は少しだけ口の端を緩めた。
「それ以上言うと、君が次の手紙を書き始めるから」
アドマイヤベガは、一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから、思い出した。一年目の冬、ホープフルステークスを勝った日。今日は良かった、とだけ言った彼に、それだけ、と訊いた。それ以上言うと、君が次の練習を始めるから、と彼は答えた。
あれが、この人の最初の冗談だった。
彼女は、小さく息を吐いた。
吐いた息が、朝の光の中で白く流れた。その白さの向こうで、自分の口元が少しだけ緩んでいるのが分かった。隠そうとは、思わなかった。
八
その夜、彼女はもう一度、読書灯のスイッチを入れた。
白い光の輪の中に、書きかけの便箋を置いた。昨夜の最後の一行が、そこで止まっていた。
――でも、今は、違うかもしれないと思っています。
――あの子は、いなくなったのではなく。
アドマイヤベガは、ペンを取った。
続きを書こうとして、少し考えた。いなくなったのではなく、の後に、何を書くつもりだったのだろう。いなくなったのではなく、自分の中にいる、とか。いなくなったのではなく、遠くから見ている、とか。そういう言葉を、書こうとしていた気がする。
けれど、それは確かめられないことだった。
あの子がどこにいるのか、彼女には分からない。隣を走っていた気配が本当は何だったのか、それも分からない。分からないことを、分かったように書くのは嫌だった。今朝、隣に立っていた人も、そう言っていた。
彼女は、書きかけの一行の横に、細い線を一本引いた。消したのではなかった。読めるように、線を一本だけ。それから、その下に書いた。
――あの子がどこにいるのか、私には分かりません。
――分からないままで、いいと思います。
ペン先が、紙の上をゆっくりと進んでいく。
――菊花賞のあと、あなたは、あの子がいなくなったのは罰だと思いました。自分のために走ろうとしたから、楽しいと思ってしまったから、だから、いなくなったのだと。
――でも、あの子は、あなたを罰するような子だったでしょうか。
手が、そこで少し止まった。
あの子がどんな子だったのか、彼女は知らない。一度も会ったことがない。声も、顔も、何も知らない。知らないまま、ずっと隣にいると思ってきた。
知らないのに、罰するような子だと決めつけていたのは、自分のほうだった。
――分かりません。会ったことがないから。
――でも、もしあの子が走れたなら、走るのを楽しいと思ったはずです。それだけは、分かる気がします。私と同じ日に生まれて、私と同じ脚を持っていたなら。
――だから、あなたが楽しいと思ったことを、あの子は怒らないと思います。
――そう思うことを、あなたに許します。
書き終えて、彼女はペンを置いた。
読書灯の光の中で、インクがまだ乾ききらずに、わずかに光っていた。
しばらく、その文字を見ていた。許します、と書いた。誰が誰を許すのだろう。自分が自分を許すのだろうか。そんなことが、できるのだろうか。
できるかどうかは、分からなかった。でも、書いてしまった。書いてしまったものは、そこにあった。
アドマイヤベガは、もう一度ペンを取った。
――今朝、あなたは言いました。私も、見たかった、と。
――三年間、あなたはずっとそれを言えずにいました。あの子のために走ることが、あなたが走っていい唯一の理由だと思っていたから。自分が見たいという理由で走ったら、あの子の場所を奪ってしまう気がしていたから。
――でも、有馬記念の最後の直線で、あなたは誰の場所も奪っていませんでした。あなたは、あなたの場所を走っていました。
――オペラオーも、ドトウも、トップロードさんも、それぞれの場所を走っていました。誰の代わりでもなく。
――あなたも、そうでした。
ペン先が、少しだけ震えた。
――これからも、あの子のことを思います。三月十二日には、ケーキを二つ買います。今年も、来年も、その先も。
――それと同じように、あなたのことも、少しだけ考えてあげてください。
――あなたが何を見たいのか。何を好きなのか。どこへ行きたいのか。
――今まで、訊いたことがありませんでしたね。
最後の一行を書き終えて、アドマイヤベガはしばらく動かなかった。
訊いたことがなかった。本当に、そうだった。自分が何を見たいのか、何を好きなのか。ふわふわしたものが好きだということは、知っていた。星を見るのが好きだということも。けれど、それを自分に問いかけたことは、一度もなかった。好きなものは、いつも、知らないうちにそこにあって、知らないうちに好きになっていた。
これからは、訊いてみよう、と彼女は思った。
答えが出なくてもいい。分からない、と答えてもいい。分からないと答えたら、それをそのまま受け取ればいい。今朝、あの人がそうしたように。
彼女は、便箋の最後に、二文字だけ書いた。
――敬具
それから、少し考えて、その下に名前を書いた。
――アドマイヤベガ
ペンのキャップを閉めた。
便箋を三つに折り、カレンさんがくれた封筒に入れた。封はしなかった。宛名も書かなかった。出すための手紙ではなかったから。
封筒を、机の引き出しの奥にしまった。そこには、何年分ものノートが入っていた。ノートの余白に、何度も書いてきた言葉があった。誰にも見せたことのない、たった一人に宛てた言葉。
新しい封筒は、そのノートの隣に並んだ。
隣に、とアドマイヤベガは思った。どちらかがどちらかの上に重なるのではなく、隣に。
九
読書灯のスイッチを切ると、部屋は暗闇に戻った。
アドマイヤベガは、しばらく椅子に座ったまま、目が暗さに慣れるのを待った。カーテンの隙間から、細い光が一本、床に落ちている。街灯の橙色ではなかった。もっと白くて、冷たい色。月だろうか、と彼女は思った。確かめなかった。
布団に入った。
枕に頬を押し当てると、布の柔らかさが肌に沿った。昨日の昼に干しておいた布団だった。まだ少しだけ、陽の匂いが残っていた。
隣のベッドで、カレンさんが小さく寝言を言った。何を言ったのかは聞き取れなかった。楽しそうな声だった。
アドマイヤベガは、天井を見た。
明日も、たぶん五時十二分に目が覚めるだろう。身体は、まだ知らない。レースがないことを。走らなくていいことを。三年間、毎朝同じ時刻に起きてきた身体は、そう簡単には変わらない。
それでいい、と思った。
目が覚めたら、起きてもいいし、もう一度眠ってもいい。コースへ行ってもいいし、行かなくてもいい。行ったら、たぶんまた、あの人がバ場を歩いているだろう。癖だと言って。
年が明けたら、引退式がある。それから、契約の書類に名前を書く。三年分の記録は、箱の中に整理される。薄い白と、薄い青と、薄い黄色の紙の束。
その先のことは、まだ決めていない。
決めていないことが、今夜は怖くなかった。
枕元のスマートフォンが、一度だけ小さく光った。通知ではなかった。寝返りを打ったときに、手が画面に触れたのだろう。光った画面に、見慣れた壁紙が映っていた。初めて手にしたときから一度も変えていない、浜辺と星空の写真。
変えようか、と一瞬だけ思った。
思ってから、まだいい、と思った。いつか変えるかもしれない。変えないかもしれない。変えるなら、自分で撮った写真にしよう。何を撮るのかは、まだ分からないけれど。
画面が暗くなった。
アドマイヤベガは、目を閉じた。
右手が、布団の中でゆっくりと握られていく。ゲートに入る前と同じように。けれど、爪が食い込むほどの力は、入らなかった。入れる必要が、どこにもなかった。
指が、そっとほどけた。
眠りは、思っていたよりもずっと早く来た。
翌朝、目が覚めたとき、枕元の時計は六時四十一分を示していた。
アドマイヤベガは、しばらくその数字を見ていた。
見ているうちに、隣のベッドから、くすくすと笑う声がした。
「アヤベさん、寝坊だ」
「……うるさい」
「カレン、初めて見た。アヤベさんが寝坊するの」
「……私も、初めて」
カーテンの向こうが、もう明るかった。冬の朝の、白くて柔らかい光が、部屋の床に四角い形を落としていた。
アドマイヤベガは、布団の中で、もう少しだけ目を閉じた。
今日は、それでいいと思った。
それを決めたのは、自分だった。