ウマ娘のそれぞれの未来   作:乙姫さん

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【本ルート・ミスターシービーの戦績】
・メイクデビューを制覇
・札幌2歳ステークスを制覇
・東京スポーツ杯2歳ステークスを制覇
・ラジオNIKKEI杯2歳ステークスを制覇
・共同通信杯を制覇
・皐月賞、日本ダービー、菊花賞を制覇し、クラシック三冠達成
・その後も中長距離路線を中心に勝利を重ねる
・天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップを制覇
・有馬記念を2年連続で制覇
・最終的に19戦19勝、生涯無敗を達成


始まる前の、たった一度の朝〜ミスターシービー

 一

 

 枕元で、スマートフォンが一度だけ震えた。

 

 早瀬雅也は、それを夢の続きだと思った。思って、寝返りを打って、それから、夢にしては音が具体的すぎることに気づいた。布団の中から手を伸ばす。冷えた空気が手首に触れて、一気に目が覚めた。

 

 画面の明るさに目を細める。四時七分。

 

 通知は一件だった。

 

 ――朝日、見に行かない?

 

 送り主の名前を確かめるまでもなかった。こういう文面を、こういう時刻に送ってくる人間を、雅也は一人しか知らない。句読点もなく、絵文字もなく、理由もない。三年間、彼女から届いた連絡の大半はこうだった。今から走っていい? あのパン屋、今日開いてる? 雨、止んだね。

 

 雅也は、画面を見たまま、しばらく動かなかった。

 

 正月の三が日が明けて、四日が過ぎていた。学園はまだ冬休みの最中で、年明けの初仕事は来週からだった。引退の手続きに必要な書類は、年末のうちに半分まで揃えて、残りは窓口が開くのを待つだけになっている。担当契約が書類の上で終わるのは、その窓口が開いてから数日後になる。

 

 つまり今、彼はまだ、彼女のトレーナーだった。

 

 レースはもうない。けれど、まだトレーナーだった。

 

 そのことが、この一週間、雅也の中で妙な形をして座っていた。練習メニューを組まなくていい朝に、目覚ましが鳴る前に起きてしまう。天気予報を開いて、バ場状態の欄を探してしまう。探して、そんな欄がないことに気づいて、アプリを閉じる。

 

 画面の上で、指が止まっていた。

 

 何のために、とは思わなかった。なぜ今、とも思わなかった。彼女がそう書いてきたなら、たぶん彼女がそう思ったのだろう。理由はあとで分かるかもしれないし、分からないかもしれない。三年間、そういうものだった。

 

 ――分かった。行こう。

 

 送信してから、少し考えて、もう一行付け足した。

 

 ――三十分で行く。厚着してこい。

 

 既読がついた。返事は来なかった。来ないことが、返事だった。

 

 雅也は布団から出た。床の冷たさが足の裏から上がってくる。暖房のリモコンに手を伸ばして、やめた。どうせすぐに出る。

 

 洗面所で顔を洗う。水が指の骨に染みるほど冷たかった。鏡の中の自分は、寝癖がひどかった。直そうとして、直らなかったので、諦めてニット帽を被ることにした。

 

 台所で湯を沸かした。魔法瓶にほうじ茶を淹れる。それから、少し考えて、もう一本出して、同じものを淹れた。棚の奥から使い捨てのカイロを四つ取り出し、コートのポケットに押し込んだ。後部座席に積みっぱなしの毛布があることを、頭の中で確かめた。

 

 玄関の鍵を閉めたとき、四時二十一分だった。

 

 外は、まだ完全に夜だった。

 

 

 二

 

 彼女の住むアパートの前に車を停めたのは、四時四十分だった。

 

 学園の寮には入らず、一人で部屋を借りて暮らしている。それを初めて聞いたとき、雅也は少し驚いた。驚いたことを顔に出したらしく、彼女はそれを面白がった。寮だと、門限とか、点呼とか、並ばなきゃいけないでしょ、と言った。アタシ、並ぶの苦手なんだよね。

 

 三年経った今も、雅也はこの建物の中に入ったことがない。いつも、こうして外で待つ。

 

 エンジンをかけたまま、暖房を少しだけ強くした。フロントガラスの端に、白い霜が薄く張っていた。街灯の光がそれを透かして、ぼんやりと橙色ににじんでいる。

 

 アパートの二階の、端の窓に灯りがついていた。

 

 ついて、消えた。

 

 数分後、外階段を下りてくる足音がした。軽くて、速くて、でも急いではいない足音だった。

 

 ミスターシービーは、厚手のコートの前をきっちり閉めて、首に長いマフラーを二重に巻いていた。耳当ての代わりに、ニット帽を深く被っている。帽子の横から耳が出るように、自分で穴を開けたらしい。縁の糸が少しほつれていた。帽子の穴から出た耳は、冷気にさらされてわずかに縮こまり、彼女が階段を下りるたびに左右へ小さく揺れていた。眠気がまだ残っているのか、右耳だけが少し遅れて動く。その不揃いさまで、今の彼女らしかった。

 

 彼女は助手席のドアを開けて、乗り込むなり、言った。

 

「寒っ」

 

「厚着してこいって言っただろ」

 

「したよ。したけど寒い」

 

「じゃあ、したのが足りなかったんだ」

 

「えー」

 

 シービーは座席に深く沈み込み、両手をエアコンの吹き出し口にかざした。指先が赤くなっていた。帽子の横から出た耳も、暖房の風が当たる方向へわずかに傾いている。尻尾はコートの裾からこぼれるようにシートの脇へ落ち、エンジンの振動に合わせて先だけが小さく揺れていた。

 

「おはよ、トレーナー」

 

「おはよう」

 

「来てくれたんだ」

 

「行こうって言っただろ」

 

「言ったね」

 

 彼女は満足そうに笑った。それから、何かを思いついたように、雅也のほうを見た。

 

「その帽子、似合わないね」

 

「寝癖を隠してるんだ。似合うかどうかは関係ない」

 

「寝癖? 見せて」

 

「見せない」

 

「ケチ」

 

 雅也はギアを入れた。車がゆっくりと動き出す。

 

 シービーは、どこへ行くのかを言わなかった。雅也も、訊かなかった。朝日を見に行くなら、東へ向かえばいい。東へ向かえば、いずれ海に出る。それで足りる気がした。

 

 ハンドルを切りながら、雅也はコートのポケットに手を入れた。カイロを二つ取り出して、助手席に放った。

 

「ん」

 

「振ってから使え」

 

「それくらい分かってるって」

 

 シービーはそれを受け取ると、一つを両手で包み、もう一つをコートのポケットに入れた。カイロの薄い包装を指先で確かめるように撫で、それから両手の中でころころと転がす。耳がほんの少し前へ向いた。暖かいものを受け取ったことが、言葉より先に表情へ出ていた。

 

「用意いいね」

 

「冬の朝に外に出るなら、当然だろ」

 

「アタシ、持ってくるの忘れた」

 

「だろうと思った」

 

「……だから持ってきたの?」

 

 雅也は、答えなかった。

 

 答えなかったことを、シービーは面白がった。くすくすと笑いながら、カイロを両手の中で振った。

 

 

 三

 

 高速道路に乗ると、車の数はほとんどなかった。

 

 オレンジ色の照明が、等間隔で後ろへ流れていく。その光が、フロントガラスを通って二人の膝の上を撫で、また暗くなり、また照らされる。規則正しい明滅だった。タイヤがアスファルトの継ぎ目を踏むたびに、低い音が床から響いた。

 

 シービーは、窓の外を見ていた。時折、車体が小さく揺れるたびに、帽子から覗く耳もわずかに揺れた。けれど、それは車の振動に合わせた動きなのか、外の景色に反応したものなのか、雅也には判別できなかった。

 

 何も見えないはずだった。防音壁と、その上の暗い空と、ときどき遠くに見える工場の灯りくらいしかない。それでも彼女は、額をガラスに寄せるようにして、ずっと外を見ていた。

 

 雅也は、話しかけなかった。

 

 三年間、こういう時間はいくらでもあった。遠征の移動中、レース前日の宿へ向かう道、勝った後の帰り道。彼女は喋るときはよく喋るけれど、黙るときは徹底して黙る。その沈黙を、雅也は埋めようとしたことがない。埋めなくていいものだと、一年目のどこかで分かった。

 

 しばらくして、シービーがコートの内ポケットから、薄い本を一冊取り出した。

 

 文庫本よりも少し小さい、布張りの表紙の本だった。角が擦り切れて、白い糸がのぞいている。彼女はそれを膝の上で開いて、照明が膝を照らすたびに、一行ずつ目で追っていた。暗くなると、手を止める。明るくなると、また読む。高速の照明の間隔に合わせて、ページが少しずつ進んでいった。

 

「……読めるのか、それ」

 

「読めない」

 

「じゃあ、なんで開いてるんだ」

 

「一行ずつなら読める。照明が来たときだけ」

 

「……目、悪くするぞ」

 

「一行だけだから」

 

 詩集だった。表紙の題字が、照明の光の中で一瞬だけ見えた。去年の正月、彼女は本屋でこれを買っていた。新年の抱負を訊かれて、何も答えずに、詩集を一冊だけ買って帰ってきた。一年経って、表紙はずいぶん擦り切れていた。

 

 やがて、彼女は本を閉じて、ポケットに戻した。耳がほんの少しだけ後ろへ倒れ、読んでいた内容を頭の中に残すように、一度だけ目を閉じた。

 

「……今の一行、よかった」

 

「どんな」

 

「教えない。自分で読んで」

 

「読まない」

 

「えー」

 

 雅也は、少しだけ笑った。

 

 魔法瓶を一本、ドリンクホルダーから外して、助手席のほうへ差し出した。シービーが受け取ると、耳がわずかに前を向いた。礼を言うより先に、温度を確かめるような動きだった。

 

「お茶」

 

「ん、ありがと」

 

 シービーはそれを受け取って、蓋を開けた。湯気が立ち上がって、フロントガラスの下のほうを一瞬だけ白く曇らせた。ほうじ茶の、焦げたような香ばしい匂いが車内に広がった。

 

「……あったかい」

 

「そりゃそうだ」

 

「キミ、こういうの、いつから用意するようになったんだっけ」

 

「……どうだったかな」

 

「一年目はなかったよ。二年目の冬くらいから」

 

「……覚えてるのか」

 

「覚えてるよ。アタシが朝練のとき、手、真っ赤にしてたから」

 

 雅也は、少しだけハンドルを握り直した。

 

 覚えていなかった。二年目の冬、確かにそういうことがあったような気はする。けれど、それがきっかけだったかどうかは、はっきりしない。気づいたら用意するようになっていた、というほうが近い。

 

「そうだったか」

 

「そうだよ」

 

 シービーは魔法瓶を両手で包んで、小さく一口飲んだ。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「なんで、って訊かないんだね」

 

「何を」

 

「朝日。なんで急に見に行こうって言ったのか」

 

 雅也は、前を見たまま、少し考えた。

 

「訊いてほしいか」

 

「別に」

 

「じゃあ、訊かない」

 

「……ふうん」

 

 シービーは、窓の外に視線を戻した。

 

「アタシも、よく分かってないんだよね」

 

「そうか」

 

「起きたら、なんか見たくなった。それだけ」

 

「それで十分だろ」

 

「……そう?」

 

「朝日を見るのに、理由が要るのか」

 

 シービーは、少しのあいだ黙っていた。それから、ふっと笑った。

 

「要らないね」

 

「だろ」

 

「キミ、たまにそういうこと言うよね」

 

「そういうこと、って」

 

「当たり前のこと。当たり前すぎて、アタシが忘れてるようなこと」

 

 雅也は、返事をしなかった。どう返事をすればいいのか、分からなかった。

 

 照明の光が、また二人の膝の上を撫でていった。

 

 

 サービスエリアで一度、車を停めた。

 

 五時を少し過ぎていた。駐車場はがらんとしていて、トラックが三台、エンジンをかけたまま停まっているだけだった。建物の中の灯りが、白々と駐車場の端まで届いている。

 

 シービーは、車を降りるなり大きく伸びをした。両腕を頭の上に伸ばして、背中を反らせる。コートの裾が持ち上がって、その下で尻尾がゆっくりと揺れた。先端の長い毛が、夜明け前の冷たい風を受けて細かくほどける。伸びを終えると、彼女は一度だけ肩を回し、耳をぴくりと動かして周囲の音を確かめた。誰もいないことが分かると、耳の力が抜け、尻尾も自然な位置へ戻った。

 

 雅也は、何となく鼻に残った匂いに気づいた。車の中では、ほうじ茶の香りに紛れて分からなかった。外の冷たい空気の中で、それがはっきりした。

 

 柑橘系の、少し甘い匂い。先月までは、もっと草のような、青い匂いだった気がする。

 

 また変えたのか、と思った。

 

 彼女は尻尾のトリートメントを、しょっちゅう変える。理由を訊いたことはない。飽きたのかもしれないし、新しいものを試したいのかもしれない。どちらでもよかった。気づいても、雅也はそれを口にしたことがなかった。口にしたら、彼女はたぶん、なんで分かったの、と面白がる。面白がられるのが嫌なのではなかった。ただ、言う必要のないことだと思っていた。風が吹くたび、尻尾の毛先だけが細かく揺れ、そのたびに柑橘系の香りがわずかに混ざる。走っているときには見られない、ごく私的な手入れの痕跡だった。

 

「トイレ行ってくる」

 

「ああ」

 

「なんか買う?」

 

「いや」

 

「じゃ、アタシの分だけ買ってくる」

 

 シービーは、建物のほうへ歩いていった。途中で一度振り返って、何か言いかけて、やめて、また歩き出した。

 

 雅也は車に寄りかかって、空を見上げた。

 

 まだ暗かった。けれど、東の端のほうが、ほんのわずかに色を変え始めているような気がした。気のせいかもしれなかった。

 

 白い息が、上へ昇って消えた。

 

 しばらくして、シービーが戻ってきた。両手に、紙袋を一つずつ提げていた。

 

「……自分の分だけって言ってなかったか」

 

「言ったよ。こっちがアタシの分。こっちもアタシの分」

 

「両方か」

 

「両方」

 

 彼女は、片方の紙袋から肉まんを取り出して、半分に割った。湯気が、冷たい空気の中で勢いよく立ち上がった。

 

「はい」

 

「……君の分じゃなかったのか」

 

「アタシの分だから、アタシが誰にあげてもいいでしょ」

 

 雅也は、差し出された半分を受け取った。手のひらに、熱が染みた。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 二人は車に寄りかかって、並んで肉まんを食べた。どちらも、何も話さなかった。遠くでトラックのエンジンが唸り、一台が駐車場を出ていった。その音が消えると、また静かになった。

 

 シービーが、口の端についた皮を指で拭いながら言った。

 

「……こういうの、久しぶりだね」

 

「こういうの?」

 

「何の用事もないのに、どっか行くの」

 

「……そうだな」

 

「現役のときは、どこ行くにも理由があったから。レースとか、遠征とか、合宿とか」

 

「うん」

 

「理由がないのに出かけるの、なんか、変な感じ」

 

 雅也は、肉まんの最後のひと口を食べ終えてから、言った。

 

「嫌か」

 

「嫌じゃないよ」

 

 シービーは、すぐに答えた。

 

「嫌じゃない。……ただ、変な感じ」

 

「そりゃ、今までと違うからな」

 

「うん。レースがなくなっただけで、一日の形まで変わるんだなって」

 

 シービーは、自分でも少し意外そうに笑った。

 

「でも、嫌じゃないなら、それでいいんじゃないか」

 

「……うん。たぶん、それでいい」

 

 彼女は、空になった紙袋を丁寧に畳んで、コートのポケットに入れた。

 

 彼女は、空になった紙袋を丁寧に畳んで、コートのポケットに入れた。

 

「行こ」

 

「ああ」

 

 

 四

 

 高速を降りて、しばらく国道を走った。

 

 信号の少ない道だった。両側に畑が広がり、ところどころに古い民家が眠るように建っている。家々の窓は、どれも暗かった。一軒だけ、新聞配達のバイクが止まっている家の前を通り過ぎた。

 

 やがて、道の先に防風林が見えてきた。黒い松の影が、横一列に並んでいる。その向こうから、低い音が聞こえてきた。

 

 波の音だった。

 

 シービーが、窓を少しだけ開けた。冷気が入った瞬間、帽子の横から出た耳が風上へ向き、すぐに少し伏せる。寒さを嫌がったというより、風の強さを確かめるような動きだった。

 

 冷たい空気が、細い隙間から一気に流れ込んできた。潮の匂いがした。濃くて、重くて、少し生臭い、冬の海の匂い。暖房で温まっていた車内の空気が、あっという間に冷えていく。

 

「寒いぞ」

 

「分かってる。けど、海の匂いがしてきたから」

 

 シービーは、窓を閉めなかった。目を細めて、その隙間から流れ込む風を顔に受けていた。耳は帽子の陰でわずかに後ろへ傾き、尻尾の先だけが座席の脇で小さく揺れている。寒いはずなのに、彼女はそのままにしていた。

 

 雅也は、何も言わずに暖房の温度を二度上げた。

 

 松林の切れ目にある小さな駐車場に、車を停めた。他に車はなかった。舗装が途中で途切れて、その先は砂になっている。街灯が一本だけ立っていて、その光が砂の上に丸い輪を作っていた。

 

 エンジンを切ると、波の音が急に大きくなった。

 

 シービーは、もうドアを開けていた。

 

「待て」

 

「なに」

 

「毛布、持ってけ」

 

 雅也は後部座席に手を伸ばして、丸めてあった毛布を引っ張り出した。少し埃っぽかった。合宿の移動のときに使ったまま、ずっと積みっぱなしになっていたものだった。

 

 シービーはそれを受け取って、ちょっと匂いを嗅いで、顔をしかめた。

 

「……車の匂いする」

 

「嫌なら置いてけ」

 

「持ってく」

 

 彼女は毛布を肩に掛けて、砂の上に降りた。

 

 雅也は、魔法瓶を二本ともコートのポケットに入れてから、車の鍵をかけた。

 

 

 松林を抜けると、視界が一気に開けた。

 

 海だった。

 

 まだ暗い。空と海の境目が、はっきりとは分からない。ただ、ずっと遠くの水平線のあたりが、ほかの場所よりも少しだけ薄い色をしていた。黒ではなく、深い藍。その藍が、ゆっくりと、ほとんど分からないくらいの速さで、上へ広がりつつあった。

 

 波が、寄せては返していた。

 

 白い泡の線が、暗い砂の上に現れては消える。そのたびに、ざあ、という音が、低く長く響いた。遠くの沖合に、漁船らしい灯りが二つ、三つ、揺れていた。

 

 風が強かった。

 

 海のほうから吹きつけてくる風が、コートの隙間から容赦なく入り込んでくる。頬が痛いほど冷たかった。吐く息が、白く流れて、すぐに風にさらわれた。

 

 シービーは、波打ち際のほうへ歩いていった。耳が海鳴りの方向へ自然に向き、波が寄せるたびに、その角度がほんの少し変わる。尻尾はコートの後ろで大きく揺れ、砂を踏むたびに毛先が跳ねた。

 

 砂が柔らかくて、足が沈んだ。一歩ごとに、スニーカーの底が砂に埋まって、抜くたびに小さな音がした。彼女はそれを楽しむように、わざと大きく足を踏み出していた。

 

 雅也は、少し後ろからついていった。

 

 波打ち際の手前、砂が濡れて固くなり始めるあたりで、シービーは足を止めた。それから、振り返らずに、その場にしゃがみ込んだ。尻尾が砂につかないように、無意識に腰を少し浮かせ、そのあとで自分の右側へ逃がす。結果として、尻尾の先は雅也の側へ寄った。触れることはなかったが、毛先だけが彼のコートの裾に近い場所で揺れていた。

 

 砂に手を当てていた。

 

「……冷た」

 

「そりゃ冷たいだろ」

 

「うん。すごい冷たい」

 

 彼女は、手のひらを砂に押し当てたまま、しばらく動かなかった。

 

 雅也も、その隣にしゃがんだ。少し距離を空けて。それから、自分も手袋を外して、砂に触れてみた。湿った砂の冷たさが、手のひらに吸いついてきた。指の間に、細かい粒が入り込んだ。

 

「……バ場より冷たいな」

 

 言ってから、雅也は自分の言葉に少し驚いた。

 

 シービーが、横を向いて彼を見た。暗くて、表情はよく見えなかった。けれど、笑っているのは分かった。

 

「今、バ場って言った?」

 

「言った」

 

「癖?」

 

「……癖だ」

 

「アタシも、さっき思った」

 

「何を」

 

「ここ、走ったらどうなるかなって」

 

 シービーは、手のひらについた砂を払いながら立ち上がった。

 

「脚、取られるね。たぶん。最初の三歩で」

 

「走るなよ」

 

「走らないよ」

 

「本当か」

 

「本当。……今日は、走りに来たんじゃないから」

 

 そう言って、彼女は毛布を肩に掛け直した。

 

 雅也も立ち上がった。膝の砂を払う。手袋をはめ直そうとして、指が冷えきっていてなかなか入らなかった。

 

 シービーが、それを見ていた。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「どこか無理してない?」

 

 雅也は、手袋を半分はめかけたまま、固まった。

 

 それは、彼の台詞だった。

 

 札幌記念の夜から、毎日一度、彼が彼女に訊いてきた言葉だった。練習の前でも後でも、廊下ですれ違ったときでも。有馬記念が終わってからも、なんとなくやめられずに、年末まで続けていた。正月の三が日は、会わなかったから訊いていない。

 

 今日、まだ訊いていなかった。

 

「……それ、俺が訊くやつだろ」

 

「今日はまだ訊かれてないから。先に訊いた」

 

「……」

 

「で? 無理してない?」

 

 雅也は、手袋をはめ終えてから、答えた。

 

「してない。……寒いだけだ」

 

「そっか」

 

 シービーは、それ以上何も言わなかった。

 

 雅也は、少し迷ってから、訊いた。

 

「……君は」

 

「アタシ?」

 

「どこか無理してないか」

 

「してないよ。寒いだけ」

 

「……そうか」

 

「うん」

 

 二人とも、それで満足した。

 

 波が、また大きく寄せてきた。白い泡が、二人の足元の少し手前まで伸びて、それからゆっくりと引いていった。

 

 

 五

 

 波打ち際から少し離れた、乾いた砂の上に並んで座った。

 

 シービーは毛布を広げて、自分の膝と、少し考えてから、雅也の膝の端にも掛けた。一枚の毛布を二人で分けるには、少し小さかった。雅也の膝には、端の三分の一くらいしか掛かっていなかった。

 

「……君のほうに寄せろ」

 

「いいよ、これで」

 

「俺はいいから」

 

「アタシがいいって言ってるんだから、いいの」

 

 雅也は、それ以上言わなかった。

 

 魔法瓶の一本を、彼女に渡した。もう一本を、自分で開けた。湯気が、風に吹かれて横に流れた。ほうじ茶はまだ熱かった。喉を落ちていく熱が、胸の奥に留まって、ゆっくりと広がっていく。

 

 水平線のあたりが、さっきより少しだけ明るくなっていた。

 

 藍色が薄くなって、その下に、ほんのわずかに、灰色がかった青が滲み始めている。空のてっぺんは、まだ夜だった。星が、いくつか残っていた。

 

 シービーは、両手で魔法瓶を包んだまま、水平線を見ていた。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「有馬、終わったね」

 

「終わったな」

 

「……最後だったね」

 

「そうだな」

 

 シービーは、少し黙った。

 

 雅也は、何も付け足さなかった。寂しいか、とは訊かなかった。訊けば、彼女は答えを用意しなければならなくなる。用意できていない答えを、無理に形にさせることになる。

 

「……なんかさ」

 

 やがて、シービーが言った。

 

「思ったより、普通なんだよね」

 

「普通?」

 

「うん。もっとこう……ぽっかり穴があくとか、そういうの来るのかなって思ってた。最後のレースが終わったら」

 

「来なかったのか」

 

「来てない。今のところ」

 

 彼女は、魔法瓶の縁に口をつけて、小さく一口飲んだ。

 

「朝起きて、ご飯食べて、ちょっと散歩して、本読んで、夜になったら寝る。それだけ。……普通」

 

「そっか」

 

「変かな」

 

「変じゃないだろ」

 

「そう?」

 

「まだ一週間ちょっとだ。来るかもしれないし、来ないかもしれない。来なくても、別に変じゃない」

 

「……来たら?」

 

「来たら、そのとき考えればいい」

 

 シービーは、少しのあいだ雅也の横顔を見ていた。それから、ふっと笑った。

 

「キミ、答え決めないね」

 

「決めるのは俺じゃないからな」

 

「うん。ずっと一緒にいたんだから」

 

 言い終えたあと、シービーは一度だけ雅也の横顔を見た。からかうでもなく、確かめるでもなく、ただそこにいることを確認するような視線だった。

 

 毛布が少しずれて、雅也の膝からさらに離れた。彼女はそれに気づいて、端を引っ張って戻した。そのとき、背中側へ流れていた尻尾も一緒に動く。風にさらされていた毛先を、自分の身体の後ろから少し内側へ巻き込むようにして、雅也の側へ寄せた。毛布の内側に入った尻尾の先が、彼のコートの脇に近いところで止まる。

 

 触れてはいない。ただ、風が強く当たる場所より、二人の身体が作る小さな隙間のほうが暖かかったのだろう。

 

 シービーは、それを特別なこととして扱わなかった。雅也も、何も言わなかった。

 

 波の音が、途切れずに続いていた。

 

「……三年前さ」

 

 シービーが、水平線を見たまま言った。

 

「選抜レースのあとの面談で、キミ、なんて訊いたか覚えてる?」

 

「……ああ」

 

「なんて訊いた?」

 

「最後の二百メートル、楽しかったか」

 

「そう」

 

 シービーは、嬉しそうに頷いた。

 

「みんな、三冠狙えるとか、もっと上に行けるとか、そういう話しかしなかったのに。キミだけ、楽しかったかって訊いた」

 

「……変なこと訊いたな、とは思ってた」

 

「変だったよ。すごく変だった」

 

 彼女は、声を立てて笑った。笑い声が、波の音に混じって、すぐに風にさらわれた。

 

「だから、キミにしたんだけど」

 

「ああ。あのとき、そう言ってたから」

 

「知ってた?」

 

「そう言ったからな、あのとき。じゃあキミにする、って」

 

「……言ったね」

 

 シービーは、笑いを収めて、少し静かになった。

 

「有馬のあとさ」

 

「うん」

 

「ゴールして、息整えて、スタンド見て。それから、キミのほう見たでしょ、アタシ」

 

「見てたな」

 

「あのとき、思い出してたんだ。最後の二百メートル、楽しかったかって、キミが訊いたこと」

 

 雅也は、魔法瓶を持つ手を止めた。

 

「……楽しかったか」

 

 今、同じことを訊いた。訊いてから、気づいた。

 

 シービーは、すぐには答えなかった。

 

 水平線の上の空が、灰色から、ほんのわずかに赤みを帯び始めていた。まだ朱色と呼べるほどではない。ただ、青の中に、温度のある色がほんの少しだけ混ざった、という程度だった。

 

「……楽しかった」

 

 やがて、シービーは言った。

 

「でも、楽しかっただけじゃない気がする。……うまく言えない」

 

「言えなくていい」

 

「……うん」

 

 彼女は、膝の上で魔法瓶を転がした。

 

「楽しいのと、苦しいのと、終わっちゃうのが惜しいのと、早く終わってほしいのと。全部あった。最後の直線」

 

「……全部か」

 

「全部。一個に決められない」

 

「決めなくていいだろ」

 

「……そっか」

 

「全部あったなら、全部あったんだ」

 

 シービーは、雅也を見た。

 

 それから、また水平線に視線を戻して、小さく言った。

 

「……うん」

 

 

 六

 

 しばらく、二人とも何も話さなかった。

 

 風が、少しだけ弱まった気がした。空の色が、ゆっくりと変わっていく。藍が薄れ、灰色が退き、その下から、淡い橙と桃色が混ざり合ったような色が滲み出てくる。水平線の真上だけが、ほかよりも明るかった。そこから、光が上へ向かって扇のように広がり始めていた。

 

 遠くの漁船の灯りが、その光の中で、少しずつ見えにくくなっていった。

 

 シービーは、膝を抱えたまま、ぼんやりとそれを見ていた。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「札幌記念のあとのこと、覚えてる?」

 

 雅也は、少しだけ身体を固くした。

 

「……覚えてる」

 

「アタシ、怒ったよね」

 

「怒ったな」

 

「気づいてて黙ってるの、嘘と同じじゃん、って」

 

「……言われた」

 

 シービーは、自分の言葉を思い出すように、少し目を細めた。

 

「あれ、今でも間違ってないと思ってるんだ」

 

「……ああ」

 

「キミが気づいてたのに訊かなかったのは、やっぱり嫌だった。今でも」

 

「……悪かった」

 

「謝んなくていいよ。もう謝ってもらったし」

 

 彼女は、首を横に振った。

 

「そうじゃなくて。……あのあと、アタシも考えたんだ。アタシも言わなかったなって」

 

「……」

 

「言わないって決めたのは、アタシだった。言えばよかったとは、今でも思ってない。でも、言わないって決めたなら、それはアタシが決めたことで。キミのせいにするのは違ったなって」

 

「……秋に、そう言ってたな」

 

「言ったね」

 

 シービーは、少し笑った。

 

「なんか、あれからずっと、それが残ってるんだよね。自分で決めたことは、自分で持つ、っていうの」

 

「うん」

 

「引退決めたときも、そうだった。有馬で終わるって決めたのはアタシだから。まだ走れるって言われても、それはアタシが持ってればいいことで」

 

 彼女は、膝から顔を上げた。

 

「……だからさ。今、次に何するか決まってないのも、アタシが持ってればいいことなんだよね」

 

 雅也は、何も言わなかった。

 

 シービーは、少しのあいだ、言葉を探しているようだった。探しているあいだ、雅也は待った。風が、毛布の端をはためかせた。

 

「……決まってないの、怖くないんだよね」

 

「そうか」

 

「うん。……不思議なくらい、怖くない」

 

「正月、家に帰ってたんだろ」

 

「帰ったよ。三が日だけ」

 

「何か言われたか。これからのこと」

 

 シービーは、少しだけ首を傾げた。

 

「お母さんには訊かれた。これからどうするの、って」

 

「なんて答えた」

 

「まだ決めてない、って」

 

「……それで」

 

「それで、おしまい。お母さん、そう、って言って、お雑煮のおかわり持ってきてくれた」

 

 雅也は、少しだけ笑った。

 

「お父さんは?」

 

「お父さんはね、何も訊かなかった。……帰る日の朝、玄関で靴履いてたら、後ろから一言だけ言われた」

 

「何て」

 

「決まってない時間は、あとから思うと、けっこう短いぞ、って」

 

 シービーは、そう言って、水平線を見た。

 

「お父さんとお母さん、昔いろいろあったでしょ。周りに反対されて、家を出るみたいにして一緒になって。……たぶん、あの二人にも、決まってない時間があったんだと思う。どこに住むとか、どうやって暮らすとか、何にも決まってない時間」

 

「……うん」

 

「お父さん、それが短かったって言いたかったのか、楽しかったって言いたかったのか、よく分かんなかった。訊き返す前に、アタシ、もう電車の時間だったから」

 

「……訊かなかったのか」

 

「うん。訊かなくても、いいかなって。今度会ったとき、覚えてたら訊く。覚えてなかったら、それでいい」

 

 雅也は、何も言わなかった。

 

 彼女の両親が、どういう道を歩いてきたのか、彼は少しだけ知っていた。三年のあいだに、一度だけ会ったことがある。父親は、自分が担当の決定権をどこまで本人に残しているかを、黙ってじっと見ていた。かつて同じ立場にいた人間の目だった。母親は、娘の顔ばかり見ていた。帰り道、シービーは長いあいだ黙っていて、しばらく歩いてから、よかった、とだけ言った。何がよかったのかは、言わなかった。

 

「……いいお父さんだな」

 

「うん。いいお父さん」

 

 シービーは、あっさりと頷いた。

 

 それから、手のひらを開いて、それをじっと見た。

 

「レースのときはさ、ゴールがあったでしょ。どこまで走ればいいか、決まってた。それが終わっちゃったら、どこまで走ればいいか分かんなくなるのかなって、ちょっと思ってた」

 

「うん」

 

「でも、分かんないほうが、面白いかもしれない」

 

 シービーは、開いた手のひらを握って、また開いた。耳が風の音に合わせて小さく動き、尻尾の毛先だけが砂の上で同じリズムを刻んでいた。

 

「どこまで行ってもいいってことでしょ。決まってないってことは」

 

「……そうだな」

 

「何してもいいし、何もしなくてもいい。どっち向いて歩いてもいい」

 

「うん」

 

「……それって、けっこう、いいよね」

 

 雅也は、少しだけ笑った。

 

「いいと思う」

 

「キミもそう思う?」

 

「思う。……ただ」

 

「ただ?」

 

「決まってないのが面白いって思えるのは、君がそういう人間だからだと思う」

 

 シービーは、首を傾げた。

 

「どういう意味?」

 

「……分からない。言ってみたけど、うまく説明できない」

 

「なにそれ」

 

「悪い」

 

「謝んなくていいって」

 

 シービーは、声を立てて笑った。耳がその笑い声に合わせて軽く跳ね、尻尾も一度だけ大きく揺れた。それから、ふと真顔になって、雅也の顔を覗き込んだ。

 

「……キミはさ」

 

「ん」

 

「次、何するの」

 

「俺か」

 

「うん。アタシの担当、終わったら」

 

 雅也は、魔法瓶の蓋を閉めた。

 

「……トレーナーは続ける。たぶん」

 

「たぶん?」

 

「次の担当を持つかどうかは、まだ決めてない」

 

「ふうん」

 

「しばらく、記録の整理がある。君の三年分」

 

「アタシの?」

 

「ああ。窓口に出す分とは別に、自分用にまとめておきたい」

 

 シービーは、少しだけ目を丸くした。

 

「……なんで?」

 

「……さあな。まとめたいから」

 

「理由、要らないってやつ?」

 

「そういうやつだ」

 

 シービーは、しばらく雅也の顔を見ていた。それから、ふっと視線を海に戻した。

 

「……アタシも、決まってないよ」

 

「まあ、そんな気はしてた」

 

「でも、決まってないのは、キミも一緒なんだね」

 

「俺だけ決めてても、たぶん面白くないだろ」

 

「それ、アタシと一緒にする必要ある?」

 

「今のところ、する必要はないと思ってる」

 

「ふふ。なんか、キミらしい」

 

「そうだな」

 

「……そっか」

 

 シービーは、小さく息を吐いた。白い息が、朝の光の中で、ゆっくりと形を失っていった。

 

 

 七

 

 空が、はっきりと色を変え始めた。

 

 水平線のすぐ上に、細く、濃い朱色の帯が引かれていた。その上に橙が重なり、橙の上に淡い桃色が、桃色の上にまだ夜の名残の青が、層になって積み重なっている。雲が、東の低いところに薄く伸びていた。その縁だけが、下から照らされて、金色に光り始めていた。

 

 海の色も、変わっていた。

 

 さっきまで黒い塊にしか見えなかった水面が、少しずつ、自分の形を取り戻していく。波の一つ一つが、空の色を映して、揺れるたびに鈍く光った。沖のほうから、光の粒が細かく散らばって、こちらへ向かって伸びてくるように見えた。

 

 シービーは、身じろぎひとつしなかった。

 

 魔法瓶を膝の上に置いたまま、両手を毛布の中に引っ込めて、水平線をじっと見ていた。帽子の横から出た耳が、風の方向に少しだけ傾いていた。

 

 尻尾も、いつもより静かだった。コートの後ろから出た毛先が砂の上に細い影を落としている。冷たい風が吹くたびに毛先だけが揺れるのに、彼女自身はほとんど動かない。

 

 やがて風向きが変わると、尻尾がゆっくりと持ち上がった。風を避けるように身体の後ろへ引かれ、それから自然に雅也の側へ流れた。毛布の端と一緒になって、二人の間に小さな影を作る。

 

 シービーは気づいていないようだった。あるいは、気づいていても、わざわざ言葉にするほどのことではないと思っているのかもしれなかった。雅也も、視線を水平線から動かさなかった。

 

 雅也も、黙って見ていた。

 

 寒さを、もうあまり感じなかった。感じなくなったのではなく、それどころではなくなっていた。

 

 ふいに、シービーが小さく何か呟いた。

 

「……ん?」

 

「なんでもない」

 

「今、何か言っただろ」

 

「言ってない」

 

「言った」

 

 シービーは、少し口を尖らせた。それから、観念したように言った。

 

「……五七五、浮かんだ」

 

「短歌か」

 

「うん。上の句だけ」

 

「聞かせてくれ」

 

「やだ」

 

「なんで」

 

「下の句が出てこないから。途中のやつ聞かせるの、やだ」

 

「……そうか」

 

「うん」

 

 シービーは、また水平線に視線を戻した。唇が、音を出さずに小さく動いていた。言葉を転がしているのだろう、と雅也は思った。何度も口の中で繰り返して、五音と七音の並びを探している。

 

 彼女は短歌が得意だった。練習ノートの端に、よく書きつけていた。雅也はそれを見つけても、読んだことがない。読んでいいか訊いて、いいと言われたものだけを読んだ。三年間で、五首くらいだった。

 

 どれも、レースの前の景色を詠んだものだった。スタート前のゲートの中で見た空とか、パドックで聞いた風の音とか。始まる前の景色ばかりだった。

 

「……始まる前って、いいよね」

 

 シービーが、ぽつりと言った。

 

「始まる前?」

 

「うん。レースの前。ゲートが開く前の、あの何秒か」

 

「……ああ」

 

「あれ、毎回一回きりだったでしょ。同じレースでも、同じ景色は二度とない」

 

「そうだな」

 

「だから、始まる前も楽しまなきゃって、ずっと思ってた。始まってからだけじゃなくて」

 

 彼女は、膝を抱える腕に、少しだけ力を込めた。

 

「……今も、そんな感じ」

 

「今?」

 

「うん。朝日が出る前。……出ちゃったら、もう終わりでしょ。今しか見れない」

 

 雅也は、水平線を見た。

 

 朱色の帯の中心が、ほかよりも明るく、白に近くなり始めていた。まもなくだった。

 

「……引退してからのこともさ」

 

 シービーが、続けた。

 

「なんか、それに似てる気がする」

 

「始まる前、か」

 

「うん。何が始まるのか分かんないけど。……始まる前の景色って、今しか見れないから」

 

 雅也は、答えなかった。

 

 答える必要がないと思った。彼女は、自分で言葉を見つけた。その言葉に、何かを付け足せば、それは彼女のものではなくなる。

 

「……楽しもうかなって」

 

 シービーは、最後にそう言った。

 

 そして、水平線の一点が、光った。

 

 最初は、針の先のような光だった。朱色の帯の真ん中に、白く、鋭く、一点だけ。それが、ゆっくりと、しかし確実に、横へ広がっていく。光の縁が水平線を押し上げるようにして、弧を描いて、少しずつ膨らんでいった。

 

 眩しかった。

 

 目を細めずにはいられなかった。それでも、目を逸らせなかった。光が、海面を一直線に走ってきた。沖から、波打ち際まで。砂の上まで。二人の足元まで。一本の、揺れる光の道が、海の上に敷かれた。

 

 空の色が、一気に塗り替えられていった。朱が橙に、橙が金に、金が白に。残っていた星が、一つずつ消えた。雲の縁が燃えるように光って、その下側が、濃い紫の影に沈んだ。

 

 風が、止んだ。

 

 正確には、止んでいなかった。けれど、雅也にはそう感じられた。波の音も、遠くなったような気がした。何もかもが、あの一点の光に吸い込まれていくような気がした。

 

 シービーは、何も言わなかった。

 

 毛布の中から片手を出して、目の上にかざしていた。指の隙間から、光を見ていた。頬が、朝日の色に染まっていた。吐く息が、白く、光の中に溶けていった。

 

 太陽が、水平線から完全に離れるまで、どちらも一言も話さなかった。

 

 離れた瞬間、海面の光の道が、ふっと形を変えた。一本だった道が、無数の細かい光の粒に砕けて、海全体に散らばった。波が、その粒を運んで、寄せては返した。

 

 空は、もう朝の色だった。

 

 シービーが、かざしていた手を、ゆっくりと下ろした。

 

「……出たね」

 

「出たな」

 

「……すごかったね」

 

「すごかった」

 

「……ねえ、今の、ちゃんと見てた?」

 

「見てた」

 

「……アタシも、見てた」

 

 彼女は、そう言って、小さく笑った。

 

 笑ったまま、目元を指の背で拭った。眩しかったからだろう、と雅也は思った。本当にそうだったのかどうかは、訊かなかった。

 

 

 八

 

 日が昇りきると、急に寒さが戻ってきた。

 

 光は明るいのに、熱はまだ届いていなかった。風がまた吹き始めて、毛布の端がはためいた。シービーは、毛布を肩に掛け直して、それからポケットからスマートフォンを取り出した。

 

 時刻を確かめるつもりだったのだろう。画面が明るくなった。

 

 雅也の位置から、壁紙が見えた。

 

 いつもの写真だった。三年間、彼女が一度も変えていない写真。ピントが甘くて、画面の端が少し傾いていて、空の色が滲んでいる。どこかの窓から撮った、朝日の写真だった。

 

 寝ぼけながら撮った、と彼女は言っていた。いつ撮ったのか、どこで撮ったのか、本人もよく覚えていないらしい。起きたら、撮ってあった、と。

 

 シービーは、しばらく、その画面を見ていた。

 

 それから、顔を上げて、目の前の海を見た。

 

 もう一度、画面を見た。

 

 また、海を見た。

 

「……全然違うね」

 

「何が」

 

「これと、あれ」

 

 シービーは、スマートフォンの画面と、水平線を、交互に指差した。

 

「同じ朝日なのに。全然違う」

 

「……そりゃ、場所が違うだろ」

 

「そういうことじゃなくて」

 

 彼女は、少し考えてから、言った。

 

「これ撮ったとき、アタシ、たぶん半分寝てたんだよね。ぼーっとしてて、なんか綺麗だなって思って、手が勝手に撮ってた」

 

「うん」

 

「だから、この写真のこと、あんまり覚えてないの。撮ったときのこと」

 

「うん」

 

「でも、今日のは」

 

 シービーは、画面を消した。暗くなったスマートフォンを、膝の上に置いた。

 

「……今日のは、ちゃんと起きて見た」

 

「そうだな」

 

「寒かったし、眩しかったし。キミが隣にいたし。肉まん食べたし。五七五浮かんだけど下の句出てこなかったし」

 

 雅也は、少し笑った。

 

「全部覚えてるな」

 

「覚えてるよ。……たぶん、ずっと覚えてる」

 

 シービーは、膝の上のスマートフォンを見下ろした。

 

「撮らないの?」

 

 雅也が訊くと、彼女は少し考えた。

 

「……撮らない」

 

「いいのか」

 

「うん。撮らなくても、覚えてるから」

 

 彼女は、スマートフォンをポケットにしまった。

 

「それに、この壁紙、変える気ないし」

 

「……変えないのか」

 

「変えないよ。これはこれで好きなんだ。半分寝てたアタシが、なんか綺麗だなって思ったやつだから」

 

「……そうか」

 

「うん。今日のは、今日のアタシが見たやつ。あれは、あのときのアタシが見たやつ。どっちも、アタシが見たやつ」

 

 そう言ってから、シービーは、自分の言葉に少し驚いたような顔をした。

 

 それから、ゆっくりと、嬉しそうに笑った。

 

「……あ。下の句、出てきたかも」

 

「本当か」

 

「うん。……でも、教えない」

 

「……だろうな」

 

「いつか書いて見せるよ。気が向いたら」

 

「待ってる」

 

「待たなくていいよ。気が向かないかもしれないし」

 

「じゃあ、待たない」

 

「……それはそれで、なんかやだ」

 

 雅也は、笑いをこらえきれなかった。

 

 シービーが、彼の肩を毛布の端でぱたりと叩いた。

 

 

 九

 

 海辺を離れる前に、シービーは一度だけ、波打ち際まで歩いていった。

 

 雅也は、乾いた砂の上に立ったまま、それを見ていた。

 

 彼女は、濡れた砂の手前で立ち止まって、しばらく海を見ていた。それから、スニーカーを脱いだ。靴下も脱いで、裸足になった。

 

「……おい」

 

「ちょっとだけ」

 

「冷たいぞ」

 

「分かってる。ちょっとだけ試したい」

 

 その声は、止められることを予想している声ではなかった。自分で決めたことを、そのまま試してみるときの声だった。

 

 シービーは、裸足のまま、濡れた砂の上に一歩踏み出した。

 

 波が寄せてきた。白い泡が、彼女の足首まで上がってきた。

 

「つめたっ!」

 

 声を上げて、彼女は跳び上がった。跳び上がって、それでも逃げなかった。二回目の波が来て、また足首まで浸かった。彼女は、今度は声を上げずに、目を閉じて、それを受けた。

 

 引いていく波が、足の下の砂をさらっていった。

 

 シービーは、しばらくそのまま立っていた。朝の光の中で、髪が風に揺れていた。コートの裾と、毛布の端と、尻尾が、同じ方向に流れていた。

 

 やがて、彼女は戻ってきた。足が真っ赤になっていた。

 

「……何してるんだ」

 

「冷たかった」

 

「そりゃそうだ」

 

「でも、面白かった」

 

 シービーは、乾いた砂の上に座り込んで、足の砂を払い始めた。尻尾を自分の横へ寄せて、毛先についた砂まで手で軽く払う。雅也は、ポケットからハンカチを出して、無言で渡した。

 

「……用意いいね、ほんと」

 

「たまたまだ」

 

「嘘」

 

「……嘘だ」

 

 シービーは、声を立てて笑った。

 

 

 松林の駐車場へ戻る途中、防風林の端に、小さな鳥居が立っているのが見えた。

 

 来たときは暗くて気づかなかった。石の鳥居で、表面が潮風に削られて丸くなっている。その奥に、人が三人並べばいっぱいになりそうな、小さな社があった。注連縄が新しかった。正月に誰かが掛け替えたのだろう。

 

 シービーが、足を止めた。

 

「……初詣、まだ行ってないや」

 

「俺もだ」

 

「ここでいいかな」

 

「いいんじゃないか」

 

 二人で鳥居をくぐった。玉砂利が、足の下で乾いた音を立てた。シービーの耳が、その乾いた音を拾うように一度だけ後ろへ動く。すぐに雅也の隣へ戻った。

 

 賽銭箱の前で、シービーはコートのポケットを探った。小銭が見つからなかったらしく、雅也のほうを見た。雅也は黙って五円玉を二枚出して、一枚を彼女の手のひらに落とした。

 

 鈴の縄を揺らすと、少し錆びた音がした。

 

 手を合わせて、目を閉じる。

 

 雅也は、何を願えばいいのか分からなかった。去年までは、決まっていた。一年目も、二年目も、三年目も、同じことを書いた。担当が怪我をしませんように。それを知ったとき、シービーは、それずるいでしょ、と言った。それ聞いたら、キミのこと書けないじゃん、と。

 

 今年は、もう、それを願う理由がなかった。

 

 理由がないことに、少しだけ戸惑った。戸惑ったまま、何も願わずに、目を開けた。

 

 隣では、シービーがまだ目を閉じていた。

 

 長かった。雅也が目を開けてから、十秒近く経っても、彼女は手を合わせたままだった。唇は動いていなかった。何かを願っているのか、それとも何も願わずにただ目を閉じているのか、横から見ているだけでは分からなかった。

 

 やがて、彼女は目を開けた。

 

「……長かったな」

 

「うん」

 

「何、お願いした」

 

「言わないよ、そういうの」

 

「そうか」

 

「キミは?」

 

「……何も」

 

 シービーが、驚いたように雅也を見た。

 

「何も?」

 

「何を願えばいいのか、分からなかった」

 

「……去年までのやつは?」

 

「あれは、担当が走るからだろ。もう走らない」

 

 シービーは、しばらく雅也の顔を見ていた。それから、ふっと笑った。

 

「アタシも、ほとんど同じ」

 

「同じ?」

 

「新年の抱負。毎年、なんか決めてたでしょ。今年はダービーとか、今年は秋の盾とか」

 

「……ああ」

 

「今年は、決めてない。決められなかった」

 

 彼女は、社の小さな屋根を見上げた。屋根の端に、朝の光が当たって、苔が淡い緑に光っていた。

 

「だから、今お願いしたのは、抱負じゃないよ。……なんていうか」

 

 少し考えて、彼女は言った。

 

「今日みたいな朝が、また来たらいいな、って。それだけ」

 

「……そうか」

 

「うん。……あ、言っちゃった」

 

「言ったな」

 

「今の、なし」

 

「聞いた」

 

「なしって言ってるでしょ」

 

 シービーは、雅也の腕を軽く押した。それから、先に鳥居のほうへ歩き出した。数歩進んで、振り返らずに言った。

 

「キミも、来年は何かお願いしなよ」

 

「何を」

 

「知らないよ。キミが決めることでしょ」

 

 雅也は、その背中を見ながら、少しだけ笑った。三年間、自分がずっと言ってきた言葉だった。

 

 

 帰りの車の中で、シービーは最初、よく喋った。

 

 海の水が思ったより冷たかったこと。肉まんの皮が少し甘かったこと。漁船が思ったより沖にいたこと。雅也の帽子がやっぱり似合わないこと。それから、急に思い出したように言った。

 

「ねえ、朝ご飯、食べて帰ろうよ」

 

「肉まん食べただろ」

 

「あれは夜ご飯」

 

「……そういう分類なのか」

 

「そういう分類。ラーメンがいい」

 

「朝からか」

 

「朝からやってるとこ、この辺にあるんだって。調べた」

 

「……いつ」

 

「昨日の夜」

 

 雅也は、ハンドルを握ったまま、しばらく黙った。

 

「……昨日の夜から、来るつもりだったのか」

 

「ううん。昨日の夜は、朝ラーのお店を調べてただけ。海のことは考えてなかった」

 

「……」

 

「朝起きたら、朝日見たくなって。朝日見るなら海でしょ。海に行くなら、この辺でしょ。この辺なら、あのラーメン屋さんでしょ。……全部つながった」

 

「……そういうものか」

 

「そういうもの」

 

 シービーは、満足そうに座席に沈み込んだ。

 

 店は、国道沿いの小さなプレハブだった。暖簾が風に揺れていて、中から豚骨の匂いが漂っていた。朝の七時を少し過ぎたばかりなのに、カウンターには作業着姿の客が三人、並んでいた。

 

 シービーは、迷わず一番大きいサイズを頼んだ。雅也は、普通のサイズを頼んだ。

 

 湯気が、二人の顔を覆った。

 

 シービーは、一口目を啜ってから、しばらく何も言わなかった。二口目を啜って、目を閉じた。三口目を啜ってから、ようやく言った。

 

「……おいしい」

 

「そうか」

 

「冷えた身体に、これはずるい」

 

「ずるいな」

 

 雅也も、自分の丼に箸を入れた。スープが、喉を焼くように熱かった。潮風で冷えきっていた身体の芯に、その熱がじわじわと染みていった。

 

 隣で、シービーが麺を啜る音がした。勢いがよかった。三年間、レースの後に食事をするときも、彼女はいつもこうだった。勝っても、それ以外でも、食べるときは本気で食べた。

 

 雅也は、それを見ながら、ふと思った。

 

 今日、彼女は走らなかった。レースもなかった。目標もなかった。それでも、朝日を見て、足を冷たい海に浸けて、ラーメンを食べて、おいしいと言った。

 

 それで、十分だった。

 

 十分だということを、雅也は口には出さなかった。

 

 

 帰りの高速で、シービーは眠ってしまった。助手席のシートに身体を預けるうち、帽子から出ていた耳が少しずつ力を失い、最後には左右で違う角度のまま止まった。尻尾もコートの脇へ寄せられ、揺れる車内で雅也の側へ静かに傾いていた。

 

 サービスエリアを過ぎたあたりで、急に静かになったと思ったら、助手席で頭を窓に預けて、寝息を立てていた。毛布を首まで引き上げて、両手でカイロを握ったまま。

 

 雅也は、暖房の風量を少しだけ下げた。音楽も、かけなかった。

 

 朝の高速は、来たときよりも車が増えていた。太陽はもう高く、フロントガラスから差し込む光が、ダッシュボードの上に四角い形を落としていた。

 

 助手席で、シービーが小さく何か呟いた。寝言だった。聞き取れなかった。

 

 雅也は、前を見たまま、少しだけ口元を緩めた。

 

 

 十

 

 アパートの前に着いたのは、九時を少し回った頃だった。

 

 エンジンを止めると、シービーが目を開けた。しばらく、自分がどこにいるのか分からないような顔をしていた。窓の外を見て、雅也を見て、それからまた窓の外を見た。

 

「……寝てた」

 

「寝てたな」

 

「どれくらい?」

 

「一時間ちょっと」

 

「……うそ。サービスエリアのあたりから記憶ない」

 

「そのあたりから寝てた」

 

 シービーは、身体を起こして、大きく伸びをした。毛布が膝の上に落ちた。伸びをした拍子に耳がぴんと立ち、尻尾も座席の横から大きく一度だけ振れた。眠気が抜けると、すぐにいつもの自然な角度へ戻っていった。

 

「……なんか、夢見てた気がする」

 

「どんな」

 

「覚えてない。……でも、なんか明るかった」

 

 彼女は、毛布を丁寧に畳んで、後部座席に置いた。それから、ポケットからスマートフォンを取り出して、時刻を確かめた。

 

 画面が明るくなって、いつもの壁紙が映った。

 

 寝ぼけながら撮った、朝日の写真。

 

 シービーは、それを見て、少しだけ笑った。

 

「……寝ぼけてたね、アタシ」

 

「今も若干寝ぼけてるぞ」

 

「うるさい」

 

 彼女は、スマートフォンをポケットにしまって、シートベルトを外した。ドアに手をかけて、それから、少しだけ動きを止めた。

 

「……ねえ、トレーナー」

 

「ん」

 

「一人でも行けたんだよね。今日の」

 

「……そうだな」

 

「電車でも、バスでも。行こうと思えば、一人で行けた」

 

「行けたな」

 

「でも、今日は」

 

 シービーは、ドアに手をかけたまま、少しだけ振り返った。朝の光が、彼女の横顔を照らしていた。帽子の横から出た耳が雅也のほうへ向き、尻尾の先もその向きに沿うようにわずかに寄っていた。すぐに元へ戻ったけれど、その一瞬だけは、今日ずっと隣にいた相手を確かめるような自然な動きだった。

 

「……今日は、キミと見たかったんだ」

 

 雅也は、すぐには答えなかった。

 

 何か言おうとして、言葉が出てこなかった。こういうとき、彼の中では、感情が遅れてやってくる。今はまだ、その到着を待っているところだった。

 

「……そうか」

 

 ようやく、それだけ言った。

 

 シービーは、その返事に満足したように、頷いた。

 

「うん。それだけ」

 

 彼女はドアを開けて、車の外に降りた。冷たい空気が、車内に流れ込んできた。

 

「ありがとね。朝早くに」

 

「いや」

 

「帽子、やっぱり似合わないよ」

 

「……自覚はあるよ」

 

「寝癖、今度見せてね」

 

「見せない」

 

「ケチ」

 

 シービーは笑いながらドアを閉めた。外階段へ向かう背中で、尻尾が軽く左右に揺れる。その動きは、三年間レースへ向かうときに見てきたものとよく似ていた。ただ、今日は急ぐ必要がなかった。

 

 外階段を上っていく足音がした。軽くて、速くて、でも急いではいない足音だった。二階の端の部屋の前で、彼女は一度だけ振り返って、手を振った。

 

 雅也は、ハンドルから片手を離して、小さく手を振った。

 

 扉が閉まった。

 

 雅也は、しばらくそのまま、アパートの二階を見ていた。窓のカーテンが、少しだけ揺れて、それから動かなくなった。

 

 エンジンをかける前に、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 

 メモのアプリを開いた。三年分の記録を、自分用にまとめておきたいと、今朝、彼女に言った。そのための下書きが、そこに少しだけ溜まっていた。

 

 一番下の行に、指で打ち込んだ。

 

 ――一月某日。海。朝日。レースなし。

 

 少し考えてから、もう一行だけ足した。

 

 ――本人、「楽しもうかな」と言う。

 

 それを保存して、画面を消した。

 

 エンジンをかけると、ラジオが朝のニュースを読み上げ始めた。雅也はそれを消して、ギアを入れた。

 

 フロントガラスの向こうで、冬の太陽が、もうずいぶん高いところにあった。海で見た朝日は、もう過ぎた朝だった。それでも、あの水平線と、冷たい風と、隣で笑った彼女の声は、まだ今朝の中に残っている。レースのない朝。次に何をするのか決まっていない朝。そして、何も決まっていないからこそ、好きな場所へ向かえた朝。

 

 始まる前の時間は、もう終わっていた。

 

 けれど、それは何かを失ったという意味ではなかった。

 

 信号が青に変わる。雅也はアクセルをゆっくり踏み込んだ。

 

 海から離れていく車の後ろで、冬の朝が少しずつ遠ざかっていく。今日見た景色は、もう同じ形では戻ってこない。それでも、戻ってこないからこそ、今日の朝は今日の朝のまま残る。

 

 次に何が始まるのかは、まだ決まっていない。

 

 それでいい、と雅也は思った。

 

 助手席には、もういない。けれど、さっきまで隣にいたシービーの声が、耳の奥にまだ残っていた。

 

 ――楽しもうかなって。

 

 その言葉を思い出しながら、雅也は冬の道を走っていった。

 

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