ウマ娘のそれぞれの未来   作:乙姫さん

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本ルート・ファインモーションの戦績

・メイクデビューを制覇
・札幌2歳ステークスを制覇
・京都2歳ステークスを制覇
・チューリップ賞を制覇
・桜花賞、オークス、秋華賞を制覇し、トリプルティアラを達成
・その後もマイル・中距離路線を中心に勝利を重ねる
・大阪杯、宝塚記念、エリザベス女王杯を制覇
・4年目には中山記念、ヴィクトリアマイル、札幌記念、京都大賞典、エリザベス女王杯を制覇
・最終的に18戦18勝0敗、生涯無敗を達成
・引退理由は故障ではなく、本人の意思による


分からないままの、四年目の夜〜ファインモーション

分からないままの、四年目の夜

 

 

 

 一

 

 早瀬雅也が目を覚ますと、隣の枕はもう空いていた。

 

 五時四十分。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ青い。秋の朝の空気は冷たく、布団から出した肩に、ひやりとした感触が触れた。雅也はしばらく天井を見ていた。四年前、ここに越してきたばかりの頃は、この天井の木目が落ち着かなかった。一族が手配した家は、どこもかしこも丁寧に作られすぎていて、自分の住む場所だという実感が湧くまでに半年かかった。

 

 今は、木目の一本一本を知っている。

 

 ファインモーションが現役を退いてから、四年が経っていた。

 その四年間、雅也は「誰の担当でもないトレーナー」ではなかった。ファインの引退後、彼は三人のウマ娘を担当した。最初の一人は現役のまま無敗を積み重ねている。二人目も一度も敗れることなく現役を終え、引退後には子を授かっている。そして現在の三人目も、現役のまま一度も敗れていない。

 担当を引き受けるたび、雅也はそのウマ娘自身の走りを見て、本人と相談し、必要なものだけを積み上げてきた。三人とも結果だけを見れば異様なほど綺麗な戦績だったが、雅也自身はそれを自分の勲章として扱ってはいなかった。

 それでも世間は、いつからか彼を「常勝無敗のトレーナー」と呼ぶようになった。

 本人は、その呼び名を好んでも嫌ってもいない。ただ、担当のウマ娘が一度も負けていないという事実だけは、記録として残っている。勝ったのは彼ではなく、走った彼女たちだった。

 

 廊下に出ると、居間のほうから、ごく小さな声が聞こえた。日本語ではなかった。ラジオのような、少し平たい響きの英語だった。

 

 ファインモーションは、居間のソファの端に座って、タブレットの画面を見ていた。寝間着の上にカーディガンを羽織り、膝の上にクッションを抱えている。画面の中では、見覚えのあるキャスターが、母国――いや、今は一族が暮らしている国の、朝のニュースを読み上げていた。

 

 起きたらすぐ、あちらのニュースを確かめる。学園にいた頃からの習慣だった。結婚しても、母親になっても、それは一日も途切れていない。

 

「……おはよう」

 

 雅也が声をかけると、ファインは顔を上げた。

 

「おはよ、雅也。早いね」

 

「君のほうが早い」

 

「私はいつも通りだよ?」

 

 彼女はタブレットの音量を少し下げて、ふふっ、と笑った。その笑い方は、学園で初めて会った頃と何も変わっていなかった。朝の薄い光の中で、彼女の髪がやわらかく光っていた。

 

「何か、あったか」

 

「ううん。向こうは平和。……あ、でもね、叔母様の庭のバラが、品評会で賞を取ったんだって。ニュースになってた」

 

「それはニュースなのか」

 

「向こうでは、なるの」

 

「……そうか」

 

「ふふ、今の『そうか』、全然分かってない『そうか』だね」

 

「分かってない」

 

「正直でよろしい♪」

 

 雅也は台所へ向かい、湯を沸かした。やかんが小さく鳴り始めるまでの間、窓の外を見た。庭の芝が、夜露に濡れて光っていた。塀の向こう、門のそばに停まった黒い車の中に、人影が一つ見える。夜間の当番の、SP部隊の一人だった。

 

 四年前から、変わらない景色だった。

 

 やかんが鳴った。

 

 雅也がマグを二つ並べてお茶を淹れていると、廊下の奥で、何かがぱたぱたと床を叩く音がした。軽くて、速くて、少し不規則な音。

 

 続いて、扉の開く音。

 

「おかあさーん!」

 

 廊下から転がるように飛び出してきたのは、パジャマ姿の小さなウマ娘だった。寝癖で後ろ髪が跳ねていて、頭の上の耳が、音のするほうへ忙しく向きを変えている。尻尾が、走るたびに左右へ大きく振れていた。

 

「おはよう、ハーモニー」

 

 ファインがタブレットを脇に置き、両腕を広げた。ファインハーモニーは、その腕の中へまっすぐ飛び込んだ。ソファのクッションが大きく沈んだ。

 

「あのね、おかあさん、ゆめみたの!」

 

「どんな夢?」

 

「あのね、ラーメンのね、おふろにはいってたの!」

 

「……ラーメンの、お風呂?」

 

「うん! あったかくて、いいにおいで、でもちょっとあつかった!」

 

 ファインが、声を上げて笑った。

 

「それは、とっても素敵な夢だね♪ お母さんも入りたいな」

 

「おかあさんもはいる? じゃあ、こんどいっしょにみようね!」

 

「うん。約束」

 

 雅也は、マグを手にしたまま、廊下のほうを見た。

 

 もう一人が、まだ来ていなかった。

 

 廊下の奥の扉が、細く開いていた。その隙間から、もう一人の小さなウマ娘が、こちらを覗いていた。耳だけが先に扉の隙間から出ていて、居間の音を拾うように、ゆっくりと前へ傾いている。

 

 ファインセレナーデは、姉が飛び出していったあとも、しばらくそうしている子だった。部屋の様子を確かめて、誰がどこにいるのかを見て、それから出てくる。

 

「……おはよう、セレナーデ」

 

 雅也が声をかけると、扉の隙間の目が、瞬きをした。

 

 それから、扉がもう少しだけ開いて、パジャマの裾を握ったセレナーデが出てきた。ぬいぐるみを一体、脇に抱えている。耳はまだ少し寝ていた。尻尾が、足元でゆっくり揺れていた。

 

「……おはよう、おとうさん」

 

「眠いか」

 

「……ちょっと」

 

「そうか」

 

 セレナーデは、雅也の足元まで歩いてきて、そこで止まった。見上げてくる。雅也はマグを台所の縁に置いて、しゃがんだ。

 

 小さな腕が、首に回ってきた。

 

 持ち上げると、思っていたより重かった。毎朝そう思う。昨日より、ほんの少しだけ重い気がする。気のせいかもしれない。四歳のウマ娘の身体は、柔らかくて、温かくて、寝起きの匂いがした。布団の匂いと、子供の髪の匂い。

 

 セレナーデは、雅也の肩に顎を乗せて、居間のほうを見た。

 

「……ハーモニー、うるさい」

 

「朝から元気だな」

 

「……うん」

 

 それだけ言って、セレナーデは雅也の肩に顔をうずめた。耳の先が、雅也の頬にかすかに触れた。

 

 ソファの上では、ハーモニーがファインの膝の上で、夢の続きを身振り手振りで説明していた。麺が長くて、泳げなかったの。ナルトが浮き輪だったの。ファインは一つ一つに「それで?」「どうして?」と訊き返していた。訊き返されるたびに、ハーモニーの話は長くなった。

 

 

 二

 

 朝食の支度は、二人で分けていた。

 

 雅也がパンを焼き、卵を焼く。ファインは果物を切り、子供たちのコップに牛乳を注ぐ。ハーモニーはテーブルの周りをぐるぐる回りながら、今日は何をするの、と十回くらい訊いた。セレナーデは自分の椅子に先に座って、スプーンとフォークの位置を何度も直していた。

 

「今日はね、お母さん、お仕事があるの」

 

「またおしごと?」

 

「うん。午前中は、画面の向こうの人とお話しするの。午後は、小学校に行くよ」

 

「しょうがっこう!」

 

 ハーモニーの耳が、ぴんと立った。

 

「ハーモニーもいく!」

 

「ごめんね、今日はお母さんだけ。でも、帰ってきたら、どんなところだったか、全部教えてあげる」

 

「ぜんぶ?」

 

「ぜーんぶ」

 

「……ほんとに?」

 

「本当♪」

 

 ハーモニーは、それで納得したらしかった。すぐに別の話題に移って、今日は庭で何をして遊ぶかを話し始めた。

 

 セレナーデは、パンの耳を小さくちぎりながら、母親の顔を見ていた。

 

「……おかあさん」

 

「なぁに、セレナーデ」

 

「……きょう、びょういんのひ?」

 

 ファインの手が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

 雅也は、それに気づいた。気づいて、何も言わなかった。

 

「……そうだよ。よく覚えてたね」

 

「……カレンダーに、かいてあった」

 

「そっか。セレナーデは、よく見てるね」

 

 ファインは、娘の頭を撫でた。その手つきは、いつもと同じだった。声も、いつもと同じだった。

 

「お母さんね、年に一回、身体の検査をするの。朝いちばんに行って、すぐ帰ってくるよ。そのあとお仕事」

 

「……いたい?」

 

「痛くないよ。ちょっと、じっとしてるだけ」

 

「……ふうん」

 

 セレナーデは、それ以上訊かなかった。パンの耳を口に入れて、ゆっくり噛んでいた。

 

 雅也は、自分の皿に視線を落とした。

 

 年に一度の定期検査。一族の主治医が、この国の病院と連携して行っている。出産のあと、経過観察という名目で始まったものだった。毎年、結果は変わらなかった。ファインも毎年、変わらなかったよ、とだけ言った。何が変わらなかったのかを、雅也は訊いたことがない。

 

 訊かなかった理由を、彼は自分でよく分かっていた。四年前も、同じ理由で訊かなかったことがある。

 

「雅也は?」

 

 ファインが、話を変えるように言った。

 

「今日、学園?」

 

「午前だけ。午後は家で映像を見る」

 

「じゃあ、午後は子供たちと一緒だね」

 

「隊長もいる」

 

「ふふ、隊長がいたら、雅也はいらないかもね?」

 

「……それは困る」

 

「困るの?」

 

「困る」

 

 ファインが、くすくす笑った。ハーモニーが、何がおかしいのか分からないまま一緒に笑った。セレナーデは、笑っている二人と、笑っていない父親を、交互に見ていた。

 

 玄関のチャイムが鳴った。

 

 音が鳴る前に、子供たちの耳が、同時に玄関のほうを向いていた。ウマ娘の耳は、門の開く音も、石畳を踏む足音も、チャイムより先に拾う。

 

「たいちょうだ!」

 

 ハーモニーが椅子から飛び降りた。

 

「ハーモニー、ご飯中だよ」

 

「たいちょう、きた!」

 

「お座りして、隊長がお部屋に入ってくるのを待とうね」

 

 ファインの声は穏やかだった。けれど、その一言には、学園にいた頃から変わらない、有無を言わせない響きが確かにあった。ハーモニーは、ぴたりと止まって、耳を少しだけ伏せて、椅子に戻った。

 

 扉が開いた。

 

 SP隊長は、今日も黒いスーツを寸分の乱れもなく着こなしていた。背筋を伸ばし、踵を揃えて、居間の入り口で一礼する。四年前、学園の廊下で初めて見たときと、立ち方も、礼の角度も、何ひとつ変わっていなかった。

 

「おはようございます、殿下。早瀬さま」

 

「おはよう、隊長♪」

 

「おはようございます」

 

 隊長は、それから視線を少しだけ下げた。テーブルの端から、二組の小さな耳がこちらを向いていた。

 

「おはようございます、ハーモニーさま。セレナーデさま」

 

「おはよう、たいちょう!」

 

「……おはよう、たいちょう」

 

「朝食の途中にお邪魔いたしました。どうぞ、お続けください」

 

 隊長はそう言って、壁際に立った。子供たちの視線がそちらへ流れても、彼女は表情を崩さなかった。ただ、ハーモニーがパンを口に詰め込みすぎて頬を膨らませたとき、その口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。

 

 雅也は、それを見なかったことにした。

 

 四年前、この家に双子が帰ってきた日のことを、彼は覚えている。病院の玄関から車までの短い距離を、隊長は二人の揺りかごを乗せたベビーカーのすぐ脇について歩いていた。周囲に目を配り、車の扉を開け、ファインが乗り込むのを確認し、ベビーカーから子供たちを抱き上げる手つきを、黙って見ていた。

 

 扉を閉める直前、隊長は一度だけ、揺りかごの中を覗き込んだ。

 

 覗き込んで、それから、ほんの一瞬だけ、目元を指で押さえた。

 

 すぐに姿勢を戻して、助手席に乗り込んだ。帰り道の車の中で、彼女は一度も後ろを振り向かなかった。ずっと前と、窓の外を見ていた。

 

 あのとき何を思っていたのか、雅也は訊いたことがない。

 

 

 三

 

 ファインが検査に出ていたのは、一時間ほどだった。

 

 戻ってきた彼女は、玄関で靴を脱ぐなり、居間で遊んでいた子供たちのところへまっすぐ歩いていって、二人をまとめて抱きしめた。

 

「ただいま♪」

 

「おかえり! いたくなかった?」

 

「痛くなかったよ。ほら、この通り」

 

「……ほんとに?」

 

「本当。セレナーデ、心配してくれたの?」

 

「……ちょっとだけ」

 

「ありがとう。お母さん、嬉しい」

 

 雅也は、その様子を廊下から見ていた。ファインの笑顔は、いつもと同じだった。声も、同じだった。抱きしめる腕の力も、たぶん、同じだった。

 

 ファインが顔を上げて、雅也と目が合った。

 

「どうだった」

 

 雅也は、短く訊いた。

 

「うん。いつも通り」

 

 ファインは笑顔のまま答えた。

 

「結果は、夕方にお医者様から電話が来るって」

 

「……そうか」

 

「ふふっ、心配性だね、キミは」

 

「……そうでもない」

 

「そうでもあるよ?」

 

 ファインは立ち上がって、子供たちの頭を順番に撫でた。それから、腕時計を見た。

 

「あ、そろそろ準備しなきゃ。十時から会談なの」

 

「書斎、使うか」

 

「ううん、今日は居間の奥のお部屋でやる。向こうの教育省の方と、あとね、大使館の人も入るって。……子供たちの声、聞こえちゃうかな」

 

「外で遊ばせる」

 

「お願いね」

 

 彼女は着替えのために寝室へ向かった。途中で振り返って、言った。

 

「雅也、今日学園は?」

 

「会談の間は家にいる。終わったら行く」

 

「ありがとう。……あ、そうだ」

 

「ん」

 

「隊長には、子供たちと遊ぶときも、ちゃんと門の方を見ててって言ってあるから。雅也は、遊ぶのに集中していいよ」

 

「……それは、隊長のほうが大変じゃないか」

 

「隊長はね、それが得意なの」

 

 ファインは、いたずらっぽく目を細めた。

 

「私が子供のときも、そうだったから」

 

 そう言って、寝室の扉の向こうに消えた。

 

 

 庭は、秋の光でいっぱいだった。

 

 芝はまだ緑を残していたが、塀のそばの楓が赤く色づき始めていた。落ち葉が数枚、芝の上に散っている。空は高く、雲が薄く流れていた。風は冷たかったが、日なたに立てば、背中にじんわりと温かさが染みてきた。

 

「おとうさん! おいかけっこ!」

 

 ハーモニーが、庭の真ん中で両腕を広げて叫んだ。

 

「……一回だけな」

 

「じゅっかい!」

 

「三回」

 

「ごかい!」

 

「……四回」

 

「やったー!」

 

 ハーモニーは、返事を待たずに走り出した。芝を蹴る小さな足音。四歳のウマ娘の走りは、まだ不安定で、ときどき自分の脚に自分でつまずきそうになる。けれど、速かった。人間の四歳児とは比べものにならないほど。

 走り出した瞬間、頭の上の耳は前方へ揃った。父親の足音が後ろから近づくと、片方だけが一度だけ後ろへ向く。視線を振らなくても、後ろにいる相手との距離を音で確かめているのだ。曲がる直前には両耳が進行方向へ戻り、身体が先に向きを変える。尻尾も、ただ左右に振っているのではない。速度を落として曲がるときには大きく外へ流れ、加速すると身体の動きに合わせて後ろへ伸びる。

 ウマ娘の耳と尻尾は、幼い子供ほど感情と動きがそのまま表に出る。本人が何も言わなくても、耳が拾った音、注意を向けた方向、走ることへの高揚が、微細な動きとして現れる。

 雅也は、そういう変化を見慣れていた。トレーナーとして長くウマ娘の走りを見てきたからだ。

 

 雅也は、少しだけ本気を出して追いかけた。

 

 ハーモニーは、きゃあきゃあと笑いながら、庭の端から端まで駆け回った。曲がるたびに、尻尾がぶんと大きく振れた。耳が、背後の父親の足音を拾って、くるくると向きを変えた。

 

 セレナーデは、縁側に座って、それを見ていた。

 

 膝の上に、朝から持っていたぬいぐるみを乗せている。走り回る姉と父親を、目で追っていた。耳は、姉の笑い声が聞こえるたびにそちらへ向き、雅也の足音が近づけば、ほんの少しだけ後ろへ戻る。二つの音を同時に拾いながら、どちらを見ればいいのか迷っているような動きだった。

 尻尾も、感情を大きく示すように振り回すことはない。板の上で先端だけが、ゆっくり左右へ揺れている。安心しているときの幼いウマ娘に見られる、ごく小さな反応だった。

 

 隣には、SP隊長が立っていた。

 

 隊長は、縁側の端に、姿勢を崩さずに立っていた。視線は、庭の子供たちに向いているように見えた。けれど、雅也には分かっていた。彼女の目は、数秒ごとに、門へ、塀へ、道路へ、隣家の窓へと、静かに移動している。耳も、同じだった。庭の笑い声を拾いながら、その向こうの車の音、人の足音、風の音を、一つも逃さずに聞いている。

 

 四年前から、ずっとそうだった。

 

「……たいちょう」

 

 セレナーデが、小さな声で隊長を呼んだ。

 

「はい、セレナーデさま」

 

「……たいちょうは、はしらないの?」

 

「私は、ここでお二人をお守りするのが仕事でございますので」

 

「……おしごと?」

 

「はい」

 

「……ずっと?」

 

「はい。ずっと」

 

 セレナーデは、少し考えるような顔をした。それから、膝の上のぬいぐるみを持ち上げて、隊長のほうへ差し出した。

 

「……じゃあ、このこも、まもって」

 

 隊長は、一瞬だけ動きを止めた。

 

 それから、ゆっくりと膝を折り、セレナーデと目の高さを合わせた。両手で、ぬいぐるみを受け取った。黒い手袋に包まれた指が、ぬいぐるみの柔らかい耳をそっと整えた。

 

「……かしこまりました。命に代えましても」

 

「……いのち、かけなくていいよ」

 

「……では、全力で」

 

「……うん」

 

 セレナーデは、満足したように頷いた。

 

 隊長は、ぬいぐるみを腕に抱えたまま立ち上がった。そして、また姿勢を正して、門の方へ視線を戻した。ぬいぐるみを抱えたSP隊長の姿は、傍目にはひどく奇妙だったはずだ。けれど、彼女の目の動きは、ほんの一秒も途切れていなかった。

 

「ねえ、おとうさん! つかまえられないの?」

 

 庭の向こうで、ハーモニーが得意げに叫んだ。

 

「……もうちょっとだ」

 

「おとうさん、おそーい!」

 

「……今のは、手を抜いた」

 

「うそだー!」

 

 雅也は、息を整えながら、縁側のほうを見た。セレナーデが、じっとこちらを見ていた。

 

「セレナーデも、走るか」

 

「……みてる」

 

「そうか」

 

「……おとうさん、つかれてる?」

 

「……少しな」

 

「……じゃあ、セレナーデ、かわってあげる」

 

 セレナーデは縁側から降りて、芝の上を歩いてきた。姉のように飛び出しはしない。一歩一歩、芝の感触を確かめるように歩いてくる。それから、雅也の前で止まって、姉のほうを見た。

 

 耳が、ぴんと前を向いた。

 

「……ハーモニー」

 

「なに?」

 

「……つかまえる」

 

 言うなり、セレナーデが走り出した。

 

 静かな子の、静かな走り出しだった。けれど、最初の三歩で、雅也は目を見張った。上体がぶれない。姉のように大きく腕を振り回さない。まっすぐ前を見て、小さな身体を低くして、芝を蹴る。

 

 ハーモニーが、きゃあ、と悲鳴を上げて逃げた。

 

 二人のウマ娘が、秋の庭を駆け回った。笑い声と、芝を蹴る音と、落ち葉が舞い上がる音。ハーモニーは大きく回り込み、セレナーデは最短距離を詰めた。追いつきそうになって、ハーモニーが急に方向を変えた。セレナーデの足がもつれた。

 

 小さな身体が、芝の上に転んだ。

 

 雅也の身体が、考えるより先に動いていた。

 

 駆け寄ろうとして、三歩目で止まった。

 

 セレナーデは、芝の上にうつ伏せになったまま、動かなかった。泣き声は、まだ上がっていない。

 耳が、ぺたんと伏せられていた。さっきまで姉の声を追っていた耳が、今は外から入ってくる音を避けるように頭へ沿っている。尻尾も芝の上で小さく丸まり、先端まで動かなかった。

 ウマ娘の耳や尻尾は、言葉より先に身体の状態を知らせることがある。痛みや驚き、怖さが強ければ、耳は伏せ、尻尾の動きも小さくなる。だから雅也には、泣く前から、この子が怖かったことが分かった。

 

 雅也は、その横にしゃがんだ。

 

 何か言わなければ、と思った。痛くないか。大丈夫か。立てるか。どれも、違う気がした。どれを言っても、この子の顔を見ずに言う言葉のような気がした。

 

「……セレナーデ」

 

 名前だけ呼んで、あとが続かなかった。

 

 セレナーデが、ゆっくりと顔を上げた。頬に、芝の切れ端がついていた。目に、涙が溜まり始めていた。溜まって、まだ落ちていなかった。

 

「……ころんだ」

 

「……ああ。転んだな」

 

「……いたい」

 

「どこが」

 

「……ここ」

 

 セレナーデは、膝を指した。擦りむいてはいなかった。芝の上だったから、少し赤くなっているだけだった。

 

「……痛いな」

 

 雅也は、それだけ言った。言ってから、自分がもっと気の利いたことを言うべきだったと思った。何も浮かばなかった。

 

 結局、彼は手を伸ばして、セレナーデの頭を撫でた。

 

 小さな頭だった。髪が、日向の匂いがした。耳には触れないように、その少し前の、額に近いあたりを、ゆっくりと撫でた。

 

 セレナーデは、しばらく黙って撫でられていた。溜まっていた涙が、ぽろりと一粒、落ちた。それだけだった。二粒目は落ちなかった。

 

「……もう、いたくない」

 

「そうか」

 

「……おとうさん、なでるの、へた」

 

「……自覚はある」

 

「……でも、いい」

 

 セレナーデは、自分で起き上がった。膝についた芝を、小さな手で払った。

 

 ハーモニーが、駆け寄ってきていた。

 

「セレナーデ、だいじょうぶ?」

 

「……だいじょうぶ」

 

「ごめんね、きゅうにまがったから」

 

「……ううん。セレナーデが、おそかった」

 

「つぎは、ゆっくりまがるね」

 

「……ほんき、だして」

 

「えー」

 

 二人は、手を繋いで、また庭の真ん中へ歩いていった。

 

 雅也は、しゃがんだまま、その後ろ姿を見ていた。

 

 縁側で、隊長が、ぬいぐるみを抱えたまま、門の方を見ていた。けれど、その耳だけが、ほんのわずかに、こちらを向いていた。

 

 

 四

 

 会談は、居間の奥の小さな部屋で行われた。

 

 扉は閉められていたが、ときどき、ファインの声が廊下まで漏れてきた。雅也が庭から子供たちを連れて戻り、手を洗わせているとき、その声がちょうど聞こえた。

 

 英語だった。朝、ニュースを聞いていたときの彼女の声とは、少しだけ違っていた。一語一語がはっきりしていて、抑揚が控えめで、落ち着いていた。笑い声は、なかった。ときどき、相手の話を聞いているらしい長い沈黙があり、それから、短く、正確な言葉が返される。

 

 ハーモニーが、洗面所の蛇口の前で耳を立てた。

 

「……おかあさん、ちがうひとみたい」

 

「お仕事中だからな」

 

「おしごとのとき、おかあさん、ちがうひとになるの?」

 

 雅也は、少し考えた。

 

「……違う人にはならない。同じ人が、違う声を使ってるだけだ」

 

「ちがうこえ?」

 

「お父さんも、学園では違う声で喋る」

 

「えー、ほんと?」

 

「本当だ」

 

「どんなこえ?」

 

「……『本日はお越しいただき、ありがとうございます』」

 

 ハーモニーが、きょとんとした。それから、腹を抱えて笑い出した。

 

「へんなのー! おとうさん、へんなのー!」

 

「……そうか」

 

 セレナーデは、姉が笑っている横で、タオルで手を拭きながら、父親の顔をじっと見ていた。笑ってはいなかった。けれど、尻尾が一度だけ、ぱたりと揺れた。

 

 会談が終わったのは、十一時半を少し過ぎた頃だった。

 

 扉が開いて、ファインが出てきた。スーツ姿だった。髪をきちんとまとめ、襟元にシャムロックの形をした小さなブローチを留めている。背筋が伸びていて、歩き方に一分の隙もなかった。

 

 廊下の角を曲がって、子供たちの姿が見えた瞬間、彼女の顔がふわりとほどけた。

 

「ただいま♪ ……じゃないね、ずっと家にいたもんね」

 

「おかあさん、おしごとのこえ、へんだった!」

 

「えっ、聞こえてた?」

 

「きこえてた! おとうさんもね、がくえんで、へんなこえだすんだって!」

 

「ふふっ、聞こえてたよ。『本日はお越しいただき』でしょ?」

 

 雅也は、首の後ろに手をやった。

 

「……聞こえてたのか」

 

「聞こえてたよ? 会談の相手の方、途中でちょっと笑ってた」

 

「……それは、悪かった」

 

「ううん。あのあと、場が和んだの。ありがとう、雅也」

 

 ファインはそう言って、ふふっ、と笑った。

 

 

 午後一時。

 

 ファインは、玄関で靴を履いていた。

 

 黒いパンプスだった。学校訪問用に、少しだけヒールの低いものを選んでいた。隣には、SP隊長がすでに控えていた。門の外には、車が二台、エンジンをかけたまま待っていた。

 

 子供たちが、玄関の上がり框に並んで立っていた。ハーモニーは片手を壁について、もう片方の手をぶんぶん振っている。セレナーデは、隊長から返してもらったぬいぐるみを胸に抱いて、母親の靴を見下ろしていた。

 

 ファインは、靴を履き終えると、立ち上がる前に、その場にしゃがんだ。

 

 二人と、目の高さが揃った。

 

「行ってくるね」

 

「いってらっしゃい!」

 

「……いってらっしゃい」

 

「いい子で待っててね。お父さんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」

 

「きく!」

 

「……うん」

 

「小学校のお話、帰ってきたら全部するからね」

 

「ぜんぶ!」

 

「全部♪」

 

 ファインは、両手を伸ばして、二人の頬を順番に包んだ。それから、額に一つずつ、軽く唇を当てた。ハーモニーはくすぐったそうに笑い、セレナーデは目を閉じてそれを受けた。

 

 立ち上がったとき、ファインの顔は、もう半分だけ公務の顔に戻っていた。背筋が伸び、肩の線が整い、表情から柔らかさが少しだけ引いていく。それでも、目元だけは、まだ母親のままだった。

 

 隊長が、静かに扉を開けた。

 

「参りましょう、殿下」

 

「うん。……雅也」

 

「ん」

 

「夕方、電話が来たら、帰ってから話すね」

 

 雅也は、ファインの顔を見た。

 

 笑っていた。いつもと同じ笑顔だった。

 

「……分かった」

 

「行ってきます♪」

 

 ファインは扉の外へ出た。隊長が一礼し、その後に続いた。扉が閉まる直前、隊長の視線が一瞬だけ雅也に向けられた。何かを確かめるような目だった。雅也が小さく頷くと、隊長も同じだけ、頷き返した。

 

 扉が閉まった。

 

 車のドアが閉まる音がして、エンジン音が遠ざかっていった。

 

 ハーモニーが、まだ閉まった扉に向かって手を振っていた。セレナーデは、ぬいぐるみを抱いたまま、扉の磨りガラスの向こうを見ていた。耳が、遠ざかっていく車の音を、最後まで追っていた。

 

 

 五

 

 雅也が学園へ向かったのは、子供たちの昼寝を見届けてからだった。

 

 家には、隊長の代わりに、別のSP隊員が二人残った。どちらも、四年前からファインの警護に就いている顔ぶれだった。子供たちは二人を「おねえさん」と呼んでいて、昼寝の前に絵本を読んでもらうのを楽しみにしていた。雅也が出かけるとき、一人がセレナーデの布団の横で、絵本の同じページを三回目に読み返していた。

 

 学園に着くと、正門の前で西澤千帆が待っていた。

 

 四年前はサブトレーナーだった彼女は、今は自分の担当を二人持っている。今日の用件は、その担当の一人の、次走に向けたローテーションの相談だった。

 

「すみません、早瀬さん。お休みのところ」

 

「いや。今日は午後、空いてた」

 

「お子さんたちは?」

 

「昼寝してる。SPの人が見てくれてる」

 

「……SPさんが、お昼寝の番ですか」

 

「絵本も読んでくれる」

 

 千帆は、少し笑った。

 

「相変わらずですね、あのお家は」

 

 トレーナー室で、映像を見た。千帆の担当の、先月のレースだった。

 机の端には、雅也自身の現在の担当についてまとめた記録も置かれていた。担当を持っている以上、彼は自分の仕事を途中で放り出すわけにはいかない。ファインとの生活と、トレーナーとしての仕事。その二つを、雅也は四年間ずっと並行して続けてきた。雅也は二回通して見て、三回目で一時停止し、四コーナーの手前の一瞬を指差した。

 

「ここで、一回、外を見てる」

 

「……え、どこですか」

 

「耳。ここで、右耳だけ外に向いてる。外から来る相手を気にしてる。その分、仕掛けが半完歩遅れてる」

 

 千帆は、画面に顔を近づけた。しばらく見てから、息を吐いた。

 

「……本当だ。気づきませんでした」

 

「気づかないほうが普通だ。俺も、映像で三回見て、やっと分かった」

 

「……早瀬さん、それ、本人に言っていいですか」

 

「言うかどうかは、西澤さんが決めることだ。担当は西澤さんだから」

 

 千帆は、少し黙ってから、頷いた。

 

 帰り際、彼女は廊下で雅也を呼び止めた。

 

「……早瀬さん」

 

「ん」

 

「今の担当の子、今日も無敗なんですよね」

 

「今のところは」

 

「それなのに、本人には『勝ち続けてる』って言わないんですか」

 

「言う必要がない。次のレースに必要なことを言う」

 

 千帆は、少し笑った。

 

「……早瀬さんらしいです」

 

「そうか」

 

「そうですよ。ファインさんのあと、三人見て、その三人とも無敗。引退した子まで無敗で子供がいるんでしょう?」

 

「そう聞いてる」

 

「学園では、もう完全に『常勝無敗の早瀬』ですよ」

 

「……俺が走ってるわけじゃない」

 

「分かってます。でも、世間はそう呼ぶんです」

 

 雅也は返事をしなかった。

 呼び名は、本人の手を離れたところで勝手に育つものだった。

 

「それに、担当を持たないどころか、今もちゃんと担当がいるじゃないですか」

 

「……いる」

 

「なら、安心しました」

 

 千帆は一礼して、自分のトレーナー室のほうへ戻っていった。

 

 雅也は、しばらく廊下に立っていた。窓の外に、コースが見えた。午後の光の中で、何人かのウマ娘が走っていた。四年前、あのコースの外ラチ沿いを、彼は毎朝歩いていた。バ場の硬さを確かめるために。今も、ときどき歩いている。現在の担当が走る時間とは別に、誰も担当していない時間のコースを歩くこともある。担当を持っているからこそ、見落としたくないものがある。

 

 

 家に戻ったのは、四時半を過ぎた頃だった。

 

 玄関の扉を開けた瞬間、小さな足音が二つ、廊下の奥から駆けてきた。

 

「おとうさん、おかえり!」

 

「……おかえり」

 

「ただいま」

 

 ハーモニーは雅也の脚にしがみつき、セレナーデは一歩後ろで止まって、見上げてきた。雅也は片手でハーモニーの頭を撫で、もう片方の手を、セレナーデのほうへ差し出した。セレナーデは、少しだけ考えてから、その手を握った。小さな指が、雅也の人差し指を包んだ。

 

 SPの一人が、廊下の奥で一礼した。

 

「お帰りなさいませ、早瀬さま。お二人とも、一時間半お休みになりました。起床後、おやつを召し上がって、庭で二十分ほど。その後、ハーモニーさまが粘土を、セレナーデさまが塗り絵を」

 

「ありがとうございます」

 

「それと、セレナーデさまから、早瀬さまにお渡しするようにと」

 

 隊員は、一枚の紙を差し出した。塗り絵だった。

 

 犬の形をした、何かのキャラクターの輪郭に、色が塗られていた。はみ出していなかった。一か所も。耳は緑、尻尾は金色、胴体は青。色の選び方は四歳らしく奔放だったが、線の内側を埋める手つきは、驚くほど丁寧だった。

 

「……上手だな」

 

 雅也が言うと、セレナーデの耳が、ぴくりと動いた。

 

「……ほんと?」

 

「はみ出してない。一か所も」

 

「……がんばった」

 

「うん。見れば分かる」

 

 セレナーデは、それ以上何も言わなかった。ただ、握っていた雅也の指を、少しだけ強く握った。

 

 ハーモニーが、脚にしがみついたまま叫んだ。

 

「ハーモニーのもみて! ねんど! ラーメンつくった!」

 

「……ラーメン、好きだな」

 

「おかあさんのまね!」

 

 居間のテーブルの上に、粘土でできた丼が置かれていた。中に、細長く伸ばした黄色い粘土が、ぐるぐると渦を巻いている。その上に、白と桃色の渦巻きが一つ。ナルトだった。

 

「……すごいな。ナルトまである」

 

「おかあさん、ナルトすきだから!」

 

「そうだな」

 

「おかあさんにみせる!」

 

 ハーモニーは、粘土の丼を両手で持ち上げて、玄関の方をじっと見た。まだ母親は帰ってこない。それでも、耳は玄関の方へ、ずっと向いていた。

 

 

 六

 

 ファインが帰ってきたのは、六時を少し回った頃だった。

 

 門の外で車の止まる音がした瞬間、ハーモニーが粘土の丼を抱えて玄関へ走った。セレナーデも、今度は姉とほとんど同時に走り出した。雅也は、台所で火を止めてから、少し遅れて廊下へ出た。

 

 扉が開いた。

 

「ただいま♪」

 

「おかえり! みて! みてみて!」

 

 ハーモニーが、粘土の丼を母親の顔の高さまで掲げた。ファインは、靴を脱ぐのも忘れて、その場にしゃがみ込んだ。

 

「わぁ……! ラーメン!」

 

「ハーモニーがつくった!」

 

「すごい、ナルトまである! しかも、ちゃんと渦巻いてる!」

 

「おかあさん、ナルトすきでしょ!」

 

「大好き♪ ……ねぇ、これ、写真撮ってもいい?」

 

「いいよ!」

 

 ファインはスーツのポケットからスマートフォンを取り出して、粘土の丼を玄関の灯りの下に置いた。角度を変えて、三枚撮った。それから、丼の横にしゃがんだハーモニーも入れて、もう一枚撮った。

 

「これ、お母さんの『のれんフォト』に入れていい?」

 

「のれんないよ?」

 

「いいの。これは特別だから」

 

 セレナーデが、母親の袖を引いた。

 

「……おかあさん」

 

「なぁに、セレナーデ」

 

「……セレナーデも、ぬりえ、した」

 

「本当? 見せて見せて♪」

 

 セレナーデは、雅也のほうを振り返った。雅也は、ポケットに入れておいた塗り絵を差し出した。ファインはそれを受け取って、しばらく黙って見ていた。

 

「……はみ出してない」

 

「……うん」

 

「すごいね、セレナーデ。一か所も、はみ出してない」

 

 セレナーデの尻尾が、足元で大きく一度、揺れた。本人は表情をほとんど変えていない。けれど、抑えきれなかった嬉しさだけが、尻尾の一振りとして先に出ていた。

 

 雅也は、その横で、ファインの顔を見ていた。

 

 笑っていた。子供たちに向ける笑顔は、朝と何も変わらなかった。声も、同じだった。けれど、玄関の扉の外で、隊長が一歩だけ下がって立っているのが見えた。彼女は、車から降りてここまで、ずっとファインの一歩後ろにいたはずだった。今、その一歩が、いつもより半歩だけ近かった。

 

 隊長と、目が合った。

 

 隊長は、何も言わなかった。いつもより少しだけ長く、雅也を見ていた。それから、静かに一礼して、扉を閉めた。

 

 ファインが、立ち上がった。

 

「ご飯の匂いがする。今日は何?」

 

「鍋」

 

「わぁ、やった!」

 

「ラーメンじゃないぞ」

 

「締めにラーメン入れよう?」

 

「……入れると思って、麺、買ってある」

 

「さすが雅也♪」

 

 

 夕食のあいだ、ファインは小学校の話をした。

 

 子供たちが、自分の国のことをたくさん質問してきたこと。休み時間に校庭でリフティングを見せたら、三十人くらい集まってきたこと。給食を一緒に食べたこと。揚げパンが、びっくりするくらい美味しかったこと。

 

「ねぇ、雅也、揚げパンって知ってた?」

 

「ああ、小学校で食べたことある」

 

「どうして教えてくれなかったの!?」

 

「……訊かれなかった」

 

「訊いてなくても教えてよ、そういうのは!」

 

「……悪かった」

 

 ハーモニーが、けらけらと笑った。

 

「おとうさん、おこられてるー」

 

「怒られてるな」

 

「おかあさん、あげぱん、たべたい!」

 

「今度、一緒に作ろうか。レシピ、校長先生に教えてもらったの」

 

「つくるー!」

 

 セレナーデは、鍋の中の豆腐を、スプーンで慎重に掬っていた。熱いのが苦手で、何度も息を吹きかけてから、小さく齧る。その合間に、ときどき母親の顔を見ていた。

 

「……おかあさん」

 

「なぁに」

 

「……びょういんの、でんわ、きた?」

 

 ファインの箸が、止まった。

 

 ほんの一瞬だった。雅也が見ていなければ、気づかないほどの一瞬だった。

 

「……来たよ」

 

「……なんて?」

 

「いつもと同じだったよ、って」

 

「……そっか」

 

 セレナーデは、それで満足したように、また豆腐に息を吹きかけ始めた。

 

 ファインは、娘の頭をそっと撫でた。それから、雅也のほうを見た。

 

 笑っていた。

 

 笑顔のまま、ほんの少しだけ、声のトーンが落ちていた。

 

「……雅也。締めのラーメン、入れよっか」

 

「……ああ」

 

 雅也は立ち上がって、台所へ麺を取りに行った。

 

 

 子供たちを寝かしつけたのは、八時半だった。

 

 寝室の、二つ並んだ小さなベッドの間に、ファインが座って絵本を読んだ。雅也は、扉の脇の壁に寄りかかって、それを聞いていた。

 

 絵本は、星の名前の話だった。夜空の星には一つずつ名前があって、その名前には、それぞれ誰かの願いが込められている、という話。ファインは、ゆっくりと、登場人物ごとに声を変えて読んだ。ハーモニーは最初のうち、一ページごとに質問をしていたが、半分を過ぎたあたりから、質問の間隔が長くなった。

 

「……おかあさん」

 

 最後のページをめくったとき、ハーモニーが、半分眠った声で言った。

 

「……なぁに」

 

「……ハーモニーのなまえも、だれかのおねがい?」

 

 ファインは、絵本を閉じた。

 

「……うん。お父さんと、お母さんのお願い」

 

「……どんな?」

 

「ハーモニーってね、いろんな音が一緒に鳴って、きれいになることなの。お父さんが、ピアノを弾いてたでしょ。ピアノはね、いくつもの音を一緒に鳴らせるの」

 

「……うん」

 

「ハーモニーが、いろんな人と一緒に、きれいな音になれますように、って」

 

「……ふうん」

 

 ハーモニーは、枕に頬を埋めた。耳が、ゆっくりと横に寝ていった。

 

「……セレナーデは?」

 

 隣のベッドから、小さな声がした。

 

 セレナーデは、まだ起きていた。布団から目だけを出して、母親を見ていた。胸の上に、あのぬいぐるみを抱いていた。

 

「セレナーデはね」

 

 ファインは、今度は雅也のほうを見た。

 

 雅也は、壁から背を離して、ベッドの足元に立った。

 

「……夜に、大事な人のために弾く曲のことだ」

 

 セレナーデが、父親を見上げた。

 

「……だいじなひと?」

 

「ああ」

 

「……だれ?」

 

「……それは、セレナーデが決めることだ」

 

 セレナーデは、少し考えるような顔をした。それから、胸の上のぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめた。

 

「……じゃあ、このこと、ハーモニーと、おとうさんと、おかあさんと、たいちょう」

 

「……多いな」

 

「……だめ?」

 

「いや。いい」

 

 セレナーデは、満足そうに目を閉じた。尻尾が、布団の中で、一度だけ小さく動いたのが、布の膨らみで分かった。

 

 しばらくすると、二つの寝息が、少しずつ揃い始めた。

 

 ファインは、二人の布団の端を順番に直した。ハーモニーが蹴り飛ばしかけていた毛布を引き上げ、セレナーデの腕からずり落ちかけたぬいぐるみを、胸の上に戻した。

 

 それから、立ち上がって、雅也の横に来た。

 

「……ねぇ、雅也」

 

 囁くような声だった。

 

「……ん」

 

「あとで、書斎、行ってもいい?」

 

「……ああ」

 

「お茶、淹れて持っていくね」

 

 ファインはそう言って、寝室の灯りを消した。

 

 

 七

 

 書斎の机の上には、紙が散らばっていた。

 

 今日、学園で見た映像のメモ。西澤千帆の担当のローテーション案。自分用の、来月の選抜レースのチェックリスト。その脇に、四年前から一度も片付けていない、古い記録用紙の束が積まれている。薄い緑色の紙だった。ファインを担当していた四年間、彼はその色の紙だけを使っていた。

 

 机の端には、写真立てが三つあった。

 

 一つは、ラーメン屋ののれんの写真。ファインが引退前に、十七軒分の中から一枚だけ選んで、彼に渡したものだった。一つは、エリザベス女王杯の、二度目のゴールの瞬間。そして、三つ目は、病院のベッドの上で、ファインが二人の小さなウマ娘を両腕に抱いている写真だった。

 

 その写真を撮ったのは、隊長だった。

 

 雅也は、千帆の担当のメモにもう一行だけ書き足して、ペンを置いた。それから、記録用紙の束の上に置いてあった、一冊のノートを手に取った。

 

 紺色の表紙の、ありふれたノートだった。

 

 表紙には、何も書いていない。中を開くと、日付と、短い文章が、びっしりと並んでいる。

 

 ――ハーモニー、初めて寝返り。セレナーデ、それを見て泣く。

 

 ――セレナーデ、初めて立つ。ハーモニーより三日早い。本人は気づいていない。

 

 ――ハーモニー、「おとうさん」と言う。直後に隊長のことも「おとうさん」と呼ぶ。隊長、固まる。

 

 四年前、ファインを担当していた頃、雅也は彼女に一つ課題を出していた。記録を、面白かったことで埋めること。練習の記録の横に、その日一番面白かったことを一行だけ書く、というものだった。彼女は四年間、一日も欠かさずにそれを書いた。

 

 子供たちが生まれてから、雅也は同じことを自分でやっていた。

 

 今日の日付のところは、まだ空白だった。

 

 雅也は、ペンを取り直して、一行だけ書いた。

 

 ――セレナーデ、転ぶ。一粒だけ泣く。「なでるの、へた」と言われる。

 

 書き終えたとき、扉が小さく叩かれた。

 

「……入っていい?」

 

「ああ」

 

 ファインが、マグを二つ持って入ってきた。

 

 湯気が立っていた。紅茶の香りと、それに混じる、ミルクの甘い匂い。彼女の国のやり方で、牛乳をたっぷり入れた紅茶だった。四年前、初めてこの家で彼女がそれを淹れたとき、雅也は濃すぎると言った。彼女は、これが普通なの、と言った。今は、雅也もこれでないと落ち着かなかった。

 

 ファインは、マグの一つを机の上に置いた。ノートのすぐ横だった。それから、机の脇の、小さな一人掛けの椅子を引き寄せて、雅也の隣に座った。

 

 寝間着の上に、朝と同じカーディガンを羽織っていた。髪は、もうほどいていた。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして♪」

 

 ファインは、自分のマグを両手で包んで、小さく一口飲んだ。

 

 しばらく、二人とも何も話さなかった。

 

 書斎は静かだった。机の上のスタンドライトだけが灯っていて、その光の輪の外は、本棚の影が深く沈んでいた。窓の外で、風が楓の枝を揺らしていた。庭のどこかで、夜間当番の隊員が歩く、ごく微かな足音がした。一定の間隔で、門のほうへ行き、また戻ってくる。

 

 廊下の向こうから、音は聞こえなかった。

 

 それでも、雅也の耳は、ときどき寝室の方向を探していた。人間の耳で聞こえるはずがないと分かっていても、探してしまう。四年前から、ずっとそうだった。

 

「……それ、何書いてたの?」

 

 ファインが、机の上のノートを覗き込んだ。

 

「……今日の分」

 

「見ていい?」

 

「……いい」

 

 ファインはノートを手に取って、今日の一行を読んだ。読んで、ふふっ、と小さく笑った。

 

「……撫でるの下手、って言われたの?」

 

「言われた」

 

「ふふ、セレナーデ、正直だね」

 

「……でも、いいって言われた」

 

「そっか」

 

 ファインは、ノートの前のページを、ぱらぱらとめくった。四年分の、一行ずつの記録。どのページにも、子供たちの小さな出来事が書かれていた。ときどき、ファインのことも書かれていた。隊長のことも。

 

「……キミ、これ、ずっと書いてたんだね」

 

「……ああ」

 

「知らなかった」

 

「言ってなかった」

 

「どうして?」

 

「……訊かれなかった」

 

「……もう」

 

 ファインは、ノートを閉じて、胸に抱えた。それから、少しのあいだ、何も言わなかった。

 

 マグから立ち上る湯気が、スタンドライトの光の中で、ゆっくりとほどけていった。

 

「……雅也」

 

「ん」

 

「今日の、検査のことなんだけど」

 

 雅也は、マグを持ち上げかけていた手を止めた。

 

 ファインは、笑っていた。けれど、声のトーンが、夕食のときと同じように落ちていた。

 

「……お医者様から、電話が来たの。帰りの車の中で」

 

「……うん」

 

「いつもと同じだった、ってセレナーデには言ったけど。……本当に、いつもと同じだったの」

 

 ファインは、ノートを抱えた腕に、少しだけ力を込めた。

 

「……今も、変わってなかった」

 

「……」

 

「私の身体は、やっぱり、子供を産めない身体なんだって」

 

 

 八

 

 雅也は、何も言えなかった。

 

 言葉を探そうとして、探す場所が分からなかった。胸の奥のどこかで、何かが静かに沈んでいくのが分かった。驚いたのかどうかも、自分でよく分からなかった。

 

 四年前の夜、彼女は同じことを言った。帰国の前日、この国で過ごす最後の夜に。私、子供が産めない身体なんだって、と。笑わないで聞いてね、と前置きして。

 

 あのとき、彼は言うことが思いつかなかった。

 

 今も、思いつかなかった。

 

「……そうか」

 

 ようやく出てきたのは、それだけだった。

 

「うん」

 

 ファインは、小さく頷いた。

 

「お医者様、困ってた。電話の向こうで、すごく言葉を選んでたの。……検査の結果は、四年前と変わりません。あのとき確定したことは、今も確定したままです。だから、どうして妊娠が起きたのかは、やっぱり説明できません、って」

 

「……うん」

 

「分からない、って、何回も言ってた。申し訳なさそうに」

 

 ファインは、胸に抱えたノートの表紙を、指先でそっと撫でた。

 

「謝らないでください、って言ったの。分からないって言えるのは、お医者様が誠実だからでしょう、って」

 

「……そうだな」

 

「そしたら、少しだけ笑ってくれた」

 

 雅也は、机の上の写真立てを見た。

 

 病院のベッドの上で、ファインが二人の小さなウマ娘を抱いている写真。生まれて数時間後の二人は、どちらも目を閉じていて、どちらも驚くほど小さかった。耳が、まだ頭に貼りついていた。

 

 あの二人は、今、廊下の向こうで眠っている。

 

 昼間、庭を駆け回っていた。転んで、一粒だけ泣いた。粘土でラーメンを作った。塗り絵を、一か所もはみ出さずに塗った。星の絵本を聞きながら、自分の名前の意味を訊いた。

 

 それは、どれも、事実だった。

 

 医学の書類に何が書かれていても、あの二人がこの家で四年間を過ごしてきたことは、事実だった。

 

「……ファイン」

 

「なぁに」

 

「……あの二人は、いる」

 

 ファインが、雅也を見た。

 

「……うん」

 

「検査がどうだったとしても。……今日、庭で転んだのは、セレナーデだ。ラーメンを作ったのは、ハーモニーだ」

 

「……うん」

 

「それだけは、変わらない」

 

 ファインは、しばらく雅也の顔を見ていた。

 

 それから、ふっと息を吐いた。笑ったような、泣きそうになったような、どちらともつかない息だった。

 

「……うん。そこは、分かってるよ」

 

 彼女は、ノートを膝の上に下ろした。

 

「……でもね、雅也」

 

「ん」

 

「それなのに、どうしてあの二人は、生まれてきたんだろうね」

 

 雅也は、答えなかった。

 

 答えを持っていなかった。四年前から、ずっと持っていなかった。

 

「今日、お医者様の話を聞いてるとき、変な気持ちになったの」

 

 ファインは、マグを両手で包み直した。

 

「怖いとかじゃなくて。……不思議な気持ち。あの二人が、ここにいることが。当たり前みたいに朝ご飯を食べて、当たり前みたいにおかえりって言ってくれることが。……本当は、全然当たり前じゃなかったんだなって」

 

「……ああ」

 

「毎日一緒にいると、忘れちゃうの。あの子たちがどうやって来たのか。……忘れるくらい、普通に暮らしてたんだね、私たち」

 

 ファインは、そう言って、少しだけ笑った。

 

 窓の外で、楓の枝がまた揺れた。夜間当番の足音が、門のほうへ遠ざかっていった。

 

 

 しばらくして、ファインが、ふいに言った。

 

「……ねぇ。婚約会見のこと、覚えてる?」

 

「……忘れるわけないだろ」

 

「ふふっ。キミ、すごく緊張してたよね」

 

「……してない」

 

「してたよ。マイク持つ手、ちょっと震えてた」

 

「……寒かったんだ」

 

「会見場、暖房効きすぎてたよ?」

 

 雅也は、首の後ろに手をやった。

 

「……一週間前に言われたんだぞ」

 

「うん、言ったね」

 

「……婚約会見だって、本当に一週間前に言ったよな」

 

「言ったよ?」

 

「……次から、もうちょっと早く言ってくれ、って言った」

 

「次はないよ? って、私が言った」

 

「……言われた」

 

 ファインが、声を殺して笑った。肩が小さく揺れて、膝の上のノートが滑り落ちそうになった。雅也は、手を伸ばしてそれを押さえた。

 

「……あのとき、キミ、会見で言ったよね。関係が始まったのは担当契約が終わってから、って。はっきり」

 

「……言った」

 

「あれ、会見のあとでいろんな人に言われたの。わざわざ言わなくてもよかったのに、って」

 

「……言う必要があった」

 

「うん。……私も、そう思ってた」

 

 ファインは、落ち着きを取り戻して、マグを一口飲んだ。

 

「あの一言があったから、私、胸を張ってあの子たちのお母さんになれたんだと思う。……誰に何を言われても、順番は間違ってなかったって、言えたから」

 

「……順番は、滅茶苦茶だった」

 

「気持ちの順番は、ね。ちゃんとしてたでしょ」

 

「……そうだな」

 

 雅也は、少しだけ笑った。

 

「……その前の夜のことは、覚えてる?」

 

「前の夜?」

 

「妊娠が分かった夜。キミ、隊長から電話もらったでしょ」

 

 雅也は、少しのあいだ黙った。

 

「……覚えてる」

 

「なんて言われたの? 隊長、教えてくれないの」

 

「……座っておいでですか、って訊かれた」

 

「うん」

 

「いいえ、って言ったら、お座りください、って」

 

 ファインが、目を丸くした。それから、口元を手で押さえた。

 

「……座ったの?」

 

「座る前に、電話を落とした」

 

「……っ」

 

「拾って、座って、もう一回聞いた。同じことを言われた」

 

「……ふふっ、ふふふ」

 

 ファインは、身体を折り曲げるようにして笑った。声を立てないように、必死にこらえていた。目の端に、涙が滲んでいた。笑いすぎたせいなのか、それとも別の理由なのか、雅也には分からなかった。

 

「……隊長らしいね」

 

「……ああ」

 

「隊長、あの電話のあとね、私の部屋に来て、ずっと黙って立ってたの。一時間くらい。何も言わないで。……それで、帰り際に一言だけ」

 

「なんて」

 

「『早瀬さまは、お座りになりました』って」

 

 今度は、雅也が黙る番だった。

 

 ファインは、笑いを収めて、少しだけ遠くを見るような目をした。

 

「……出産の日も、隊長、ずっと分娩室の扉の前に立ってたんだよ」

 

「……ああ。ずっといたな」

 

「何時間も。途中で交代の人が来ても、代わらなかったんだって。あとで看護師さんに聞いたの。……扉の前で、ずっと前を見てたって。泣きそうな顔で。でも、一回も泣かなかったって」

 

 雅也は、写真立ての中の、あの日の写真を見た。

 

 あの日、彼は分娩室の外の長椅子に座っていた。何時間も、ただ座っていた。自分が父親になるという実感は、最後まで湧かなかった。頭のどこかで、これは誰か別の人間に起きていることのように感じていた。医師が出てきて、何か言った。無事です、と言ったのだと思う。そのあとのことを、彼はよく覚えていない。

 

 覚えているのは、一つだけだった。

 

 看護師に案内されて部屋に入ったとき、ベッドの上のファインが、二人を抱いてこちらを見ていた。疲れ切った顔で、それでも笑っていた。そして、腕の中の二人の、信じられないくらい小さな耳が、雅也の足音のほうへ、かすかに動いた。

 

 その瞬間、彼は何も言えなくなった。

 

 言おうとしていた言葉が、全部どこかへ消えた。お疲れさまも、ありがとうも、大丈夫かも。何ひとつ、出てこなかった。ただ、立っていた。

 

 ファインは、そんな彼を見て、言った。キミ、今の顔、写真に撮っておきたかったな、と。

 

「……あのとき、何も言えなかった」

 

 雅也は、写真を見たまま言った。

 

「……ああ。覚えてる」

 

「……今も、ときどき、言えない」

 

「うん。だから、無理に言わなくてもいいよ」

 

 ファインは、そっと雅也の腕に、自分の肩を寄せた。

 

「私、キミが何も言えなくなる顔、好きだよ。……本当に大事なことのときだけ、そうなるから」

 

 

 九

 

 夜が、少しずつ深くなっていった。

 

 スタンドライトの光の中で、マグの紅茶はもう冷め始めていた。ファインは、それでも両手で包んだままだった。

 

「……ねぇ、雅也」

 

「ん」

 

「一つ、訊いてもいい?」

 

「……ああ」

 

 ファインは、少しのあいだ、言葉を選んでいるようだった。いつもなら、訊きたいことはすぐに口から出てくる人だった。どうして、知りたいな、教えて。四年前も、今も。

 

 今は、すぐには出てこなかった。

 

「……私、ちゃんと、お母さんできてるかな?」

 

 笑顔のまま、声のトーンが落ちていた。

 

 雅也は、すぐには答えなかった。

 

 大丈夫だ、とか、いい母親だ、とか、そういう言葉が頭に浮かんで、全部やめた。それは、今日の彼女を見ていなくても言える言葉だった。

 

「……今朝」

 

 雅也は、ゆっくりと言った。

 

「ハーモニーが、ラーメンの風呂の夢を見たって言っただろ」

 

「……うん」

 

「君は、それで? どうして? って、十回くらい訊いてた。あいつの話、どんどん長くなってた」

 

「……うん」

 

「会談の前、ハーモニーが椅子から飛び降りたとき。君は、お座りして隊長を待とうね、って言った。怒鳴らなかった。でも、あいつはちゃんと座った」

 

「……」

 

「玄関で、靴を履いてから、しゃがんだ。二人と目の高さを合わせてから、行ってくるねって言った。毎回そうしてる。俺は、たまに忘れる」

 

 ファインは、何も言わなかった。

 

「それと、セレナーデが、病院の日を覚えてた」

 

「……カレンダーを見てたって」

 

「カレンダーに、君が書いてたからだ。隠さなかったからだ。……隠そうと思えば、隠せただろ」

 

「……」

 

「あいつは、それで、今日一日心配してた。晩飯のとき、電話来た? って訊いた。……自分のお母さんのことを、ちゃんと心配できる子に育ってる」

 

 雅也は、そこで言葉を切った。

 

 それ以上言うと、自分が何を言っているのか分からなくなりそうだった。

 

「……それが、答えだと思う」

 

 ファインは、長いあいだ黙っていた。

 

 それから、マグを机の上に置いて、両手で顔を覆った。

 

 泣いてはいなかった。肩も震えていなかった。ただ、しばらくそうしていた。指の隙間から、小さく、長い息が漏れた。

 

「……キミは、ずるいね」

 

 くぐもった声で、ファインが言った。

 

「……そうか」

 

「そういうの、全部見てるくせに、普段は何にも言わないんだもん」

 

「……訊かれなかった」

 

「……もう」

 

 ファインは、顔から手を下ろした。目元が、少しだけ赤くなっていた。けれど、笑っていた。

 

「……ありがとう」

 

「……ああ」

 

 

 ファインは、膝の上で両手を組んだ。

 

「……ねぇ、雅也。四年前、私、言ったでしょ。ずっと、終わらせ方を整えるのが役目だと思ってた、って」

 

「……言ってたな」

 

「そういうふうに育てられたの。私の代で、この血は終わる。だから私の役目は、きれいに終わらせること。一族の最後の一人として、恥ずかしくないように」

 

「……うん」

 

「でも、終わらなかった」

 

 ファインは、廊下のほうを見た。扉は閉まっていた。その向こうに、寝室があった。

 

「その練習、してないよ、って言ったよね。どうしよう、って」

 

「……言ってた」

 

「……四年経っても、してないの。終わらせ方じゃなくて、続け方の練習。誰も教えてくれなかったから、毎日、自分で探してた」

 

 彼女は、少し笑った。

 

「朝起きて、ニュースを見て、あの子たちが起きてきて、ご飯を作って、公務に行って、帰ってきて、おかえりって言われて、絵本を読んで。……毎日それを繰り返してたら、いつの間にか四年経ってた」

 

「……うん」

 

「一族の人たちはね、今でも言うの。血が続いてよかった、って。一族の誇りだ、って。……それは、嬉しいよ。本当に。あの人たちにとっては、すごく大切なことだから」

 

「……ああ」

 

「でも、私にとっては、ちょっと違うの。……血が続いたから嬉しいんじゃないの。あの子たちが、あの子たちだから嬉しいの。ハーモニーがラーメンの夢を見て、セレナーデが塗り絵をはみ出さないで塗るから、嬉しいの」

 

 雅也は、何も言わなかった。

 

 言う必要がなかった。彼も、同じだった。

 

「……だからね」

 

 ファインは、組んでいた手をほどいて、雅也のほうへ向き直った。

 

「今日、今も変わらないって言われたから、逆に思ったの。……私たち、あの二人が生まれてきたことを、もっとちゃんと考えてもいいのかなって」

 

「……考える?」

 

「うん。今までは、考えないようにしてた気がするの。分からないことだから。考えても答えが出ないから。……でも、答えが出ないからって、考えちゃいけないわけじゃないよね」

 

 雅也は、少しのあいだ、ファインの顔を見ていた。

 

 四年前、彼は答えを探した。妊娠の知らせを受けた夜から、何週間も。医学の本を読み、論文の要約を探し、専門家の書いたものを片端から読んだ。どこにも、答えはなかった。説明のつく機序は、どこにも見つからなかった。

 

 そして、ある夜、探すのをやめた。

 

 分からないままでいい、と思った。分からないことを、分からないまま受け止めることにした。それが、あの二人を迎える自分にできる、唯一の誠実さだと思った。

 

「……考えてもいい」

 

 雅也は、言った。

 

「……でも、答えは作らなくていい」

 

 ファインは、瞬きをした。

 

「……作らなくていい?」

 

「答えが見つからないとき、人は答えを作りたくなる。……奇跡だった、とか。誰かが見守ってくれた、とか。何かの力が働いた、とか」

 

「……うん」

 

「そう言えば、説明がついたような気になる。……でも、俺には、それが言えない」

 

「……どうして?」

 

「言ったら、分からなかったことを、分かったことにしてしまう気がする」

 

 雅也は、机の上の写真立てを見た。

 

「……あの二人がどうしてここにいるのか、俺には分からない。たぶん、ずっと分からない。……それでも、この四年間、一緒に暮らしてきた。夜泣きで一晩中起きてたことも、熱を出して二人で病院に走ったことも、初めてお父さんって呼ばれた日のことも。全部、本当にあったことだ」

 

「……うん」

 

「分からないことと、本当にあったことは、別だと思う。……分からないままでも、四年間は、ちゃんとあった」

 

 ファインは、長いあいだ、雅也の顔を見ていた。

 

 それから、ゆっくりと、頷いた。

 

「……うん」

 

 もう一度、頷いた。

 

「……うん。そうだね」

 

 彼女は、雅也の肩に、そっと頭を預けた。

 

「分からないままでいいんだね。……分からないまま、明日も、あの子たちにおはようって言えばいいんだね」

 

「……ああ」

 

「……不思議だね。今日、今も変わらないって言われたとき、ちょっと怖かったの。あの子たちのこと、夢だったみたいに思えて。……でも、今は、怖くない」

 

「……そうか」

 

「うん。……不思議だから、大切なのかもしれないね」

 

 雅也は、答えなかった。

 

 ファインの髪から、紅茶の香りと、子供たちの寝室の匂いが、かすかにした。

 

 

 十

 

「……ねぇ」

 

 ファインが、顔を上げた。

 

「見に行こっか。あの子たち」

 

「……起こすなよ」

 

「起こさないよ。ちょっとだけ」

 

 二人は、書斎の灯りを消して、廊下に出た。

 

 廊下は暗かった。足元の常夜灯だけが、床板の上に、ぼんやりとした橙色の輪を落としていた。二人は、その光の輪を一つずつ踏むようにして、静かに歩いた。床板が、ときどき小さく軋んだ。そのたびに、ファインが足を止めて、振り返って、くすくすと声を殺して笑った。

 

 寝室の扉は、指一本分だけ開いていた。

 

 ファインが、それをそっと押し広げた。

 

 窓から差し込む月の光が、部屋の中を淡く照らしていた。二つ並んだ小さなベッド。寝息が、二つ聞こえた。

 

 ハーモニーは、布団をすっかり蹴り飛ばして、ベッドの上で大の字になっていた。片腕がベッドの端から落ちていて、口が少し開いていた。耳が、寝ているのに、ときどきぴくりと動いた。夢の続きを見ているのかもしれなかった。ラーメンの風呂の。

 

 セレナーデは、布団を首まで引き上げて、横向きに丸くなっていた。胸の中に、あのぬいぐるみを抱いていた。尻尾が、布団の中で身体に沿って巻きついているのが、布の膨らみで分かった。耳も完全に力が抜けているわけではなく、ときおり夢の中で何かを聞いたように、先端だけが小さく震える。寝息は、姉よりもずっと小さかった。

 

 ファインが、ハーモニーのベッドに近づいて、蹴り飛ばされた布団をそっと掛け直した。落ちていた腕を、布団の中に戻した。ハーモニーは、むにゃ、と何か言って、また寝息を立て始めた。

 

 雅也は、セレナーデのベッドの横に立った。

 

 ぬいぐるみを抱いた小さな手を、しばらく見ていた。昼間、この手が、雅也の人差し指を握った。一か所もはみ出さずに、塗り絵を塗った。

 

 彼は、少し迷ってから、手を伸ばした。

 

 セレナーデの額に近いあたりを、ゆっくりと撫でた。昼間と同じように。耳には触れないように。

 

 セレナーデは、目を覚まさなかった。ただ、ほんの少しだけ、顔を雅也の手のほうへ寄せたように見えた。

 

 ファインが、その様子を見ていた。

 

 月の光の中で、彼女は声を出さずに笑っていた。

 

 寝室の窓の向こう、庭の端に、人影が一つ見えた。黒いスーツ姿の人影が、門のそばに静かに立っていた。夜間の当番を、隊長が自分で引き受けたのだろう。今夜は、いつもの隊員ではなかった。

 

 隊長は、門の外を見ていた。けれど、寝室の窓の灯りがわずかに揺れたとき、その耳だけが、ほんの一瞬、こちらを向いた。

 

 それから、また門の外へ戻った。

 

 ファインが、窓の外に向かって、小さく手を振った。隊長は振り返らなかった。ただ、ほんの少しだけ、背筋が伸びたように見えた。

 

 二人は、寝室の扉を、また指一本分だけ残して閉めた。

 

 

 廊下を戻りながら、ファインが囁いた。

 

「……ねぇ、雅也」

 

「ん」

 

「あの子たち、将来、走るのかな」

 

「……知らん」

 

「ふふっ。四年前と同じこと言ってる」

 

「……この子たちが決めることだろ」

 

「うん。そうだね」

 

 ファインは、廊下の常夜灯の光の中で、立ち止まった。

 

「セレナーデ、今日お庭で走ったんだってね」

 

「……誰から聞いた」

 

「隊長。……セレナーデが走り出したとき、キミがトレーナーの顔をしてた、って」

 

「……隊長、そんなことまで報告するのか」

 

「警護の報告に入ってたよ? 『早瀬さま、一瞬お仕事のお顔に』って」

 

「……してたか」

 

「してたんだと思うよ。隊長、そういうのは間違えないもの」

 

 雅也は、首の後ろに手をやった。

 

「……でも、それだけだ。走れとは言わない」

 

「うん。そうすると思ってた」

 

「……走りたいって言ったら、その日から全力で調べる」

 

「ふふっ。それも、四年前と同じ」

 

「……変わってないな」

 

「変わってないよ」

 

 ファインは、雅也を見上げた。

 

「キミも、私も。……あの子たちがどうして来てくれたのか、分からないままなのも」

 

「……ああ」

 

「でも、それでいいんだよね」

 

「……ああ」

 

 ファインは、また歩き出した。

 

 寝室の前を通り過ぎるとき、彼女は一度だけ振り返った。指一本分だけ開いた扉の隙間から、二つの寝息が、かすかに漏れていた。

 

「……おやすみ、ハーモニー。おやすみ、セレナーデ」

 

 囁くように、そう言った。

 

 それから、雅也の手を取った。

 

 指が、少しだけ冷えていた。雅也は、その手を握り返した。

 ファインの耳が、廊下の奥――二人の子供が眠る寝室の方向へ、ほんの少しだけ傾いた。何か音がしたわけではない。ただ、母親として身体が先に確かめようとするような動きだった。

 尻尾も、衣服の裾の陰で小さく揺れている。嬉しい、安心した、まだ眠っているだろうか。言葉にするほどではない感情が、耳と尻尾の微細な動きに残っていた。

 雅也はそれを見て、何も言わなかった。ウマ娘の耳や尻尾は、感情をすべて説明するものではない。ただ、本人が言葉にしなかったものの一部を、ふと漏らすことがある。四年間、彼はそれを何度も見てきた。

 

 廊下の先で、書斎の扉が閉まっていた。机の上には、まだ冷めかけた紅茶のマグが二つ、並んで置かれているはずだった。紺色のノートも、開いたまま。

 

 明日の朝、雅也はまた、そのノートに一行だけ書くだろう。何を書くのかは、まだ分からない。ハーモニーがまたラーメンの夢を見るかもしれないし、セレナーデが何か新しいことを覚えるかもしれない。何も起きない一日かもしれない。

 

 分からないまま、明日が来る。

 

 明日になれば、雅也は学園へ行く。今の担当のトレーニングを見て、次のレースの準備をして、必要ならコースを歩く。無敗という記録が続いているからこそ、次も勝てると決めつけない。三人目の担当にも、最初の二人と同じように、次の一歩だけを見せる。

 四年前から、ずっとそうだった。

 ファインが引退したあとも、雅也の仕事は終わらなかった。三人のウマ娘がそれぞれの時間を走り、その三人とも一度も敗れなかった。引退した一人には子が生まれ、現役の二人には、それぞれまだ先のレースが残っている。

 だから世間は、彼を「常勝無敗」と呼ぶ。

 けれど家の中で、その呼び名を聞く者はいない。

 ここで雅也は、ただの父親で、夫で、明日の朝も子供たちに「おはよう」と言う人間だった。

 

 四年前から、ずっとそうだった。

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