本作は、その後の二人を描く物語。ウェディング企画の撮影をきっかけに、クロノジェネシスは雅也への想いと向き合っていく。
一
トレーナー室の除湿機は、七月に入ってから一度も止まっていなかった。
低い唸りが部屋の隅でずっと続いていて、窓ガラスの向こうでは、梅雨の終わりきらない空が白く濁っている。雨は降っていない。降っていないのに、空気のほうが水を含んで重たかった。机の上に積んだ紙の端が、ほんのわずかに波打っている。クロノジェネシスはその波を見つけるたびに、手のひらで一枚ずつ押さえ直していた。押さえても戻らないことは分かっているのに、それでも押さえる。資料を守ろうとする手つきというより、資料に向かって小さく詫びているような手つきだった。
雅也は、その横で封書を開けていた。
差出人は学園広報部とURAの連名で、中身は三枚綴りの企画書だった。一枚目に大きく「特別ビジュアル企画 ウェディング」とあり、二枚目に撮影の趣旨と媒体が、三枚目に当日の工程表が並んでいる。雅也は一枚目を読み、二枚目を読み、三枚目の工程表の途中で目を止めた。止めたまま、紙の角を指で揃えた。もともと揃っていた角だった。
その紙の擦れる音で、クロノの耳が先に動いた。顔はまだ資料に向いていて、手は紙の波を押さえている。耳だけが、音のしたほうへ静かに角度を変えていた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「今、読むのを止めましたよね。三枚目の、中ほどで」
「止めた」
「……何か、ありましたか」
雅也は紙を差し出した。クロノは両手でそれを受け取り、いつもの速さで目を走らせた。記録を読むときの速さである。行頭から行末まで、視線が一定の拍で動いていく。その拍が、一枚目の見出しで一度だけ乱れた。
「……ウェディング、ですか」
「そう書いてある」
「私が、花嫁の……」
「役。撮影の演出として」
クロノは企画書を膝の上に置き、しばらく黙っていた。黙っているあいだに、除湿機の唸りがひときわ大きく聞こえた。彼女の指が、企画書の余白を小さく叩いている。ペンを持っていないのに、何かを書き留めようとする指の動きだった。
「……この企画は、過去にも例があるのでしょうか」
「広報の人に訊いたら、形を変えて何度かやってるらしい。ウマ娘の撮影に慣れたチームが入るそうだ。衣装も、耳と尻尾に合わせて一から作る」
「一から……」
「嫌なら断っていい。理由は要らない」
雅也がそう言うと、クロノは顔を上げた。
迷っている顔ではなかった。迷っているというより、目の前にある未知の項目を、どの棚に収めればいいのか分からずにいる顔だった。彼女はこれまで、何百という記念写真を見てきた。優勝レイを掛けた先人の写真、表彰台の写真、引退式の写真。けれど、花嫁衣装を着た写真を、自分の年表のどこかに置く想像は一度もしたことがなかったのだろう。
「……断りません」
やがて、クロノは言った。
「理由を訊いていいか」
「……記録に、残るからです」
そこで一度言葉を切り、それから、少しだけ声を落とした。
「……それと、たぶん、それだけではありません。でも、そちらのほうは、まだうまく言葉にできないので……今日は、記録に残るから、ということにさせてください」
「分かった」
雅也はそれ以上を訊かなかった。訊かなかったのは、訊かないほうがいいと判断したからではなく、彼女が「今日は」と言ったからだった。今日ではない日に、言葉になるのだろうと思った。
「日程は、七月の第二週。宝塚から二週間空いてる。凱旋門の準備に入る前だから、身体的には問題ない。ただ、当日は一日立ちっぱなしになる。翌日の練習は落とす」
「……はい」
「あと、一つ」
「はい」
「撮影には、俺も入る。伴侶役で」
クロノの手から、企画書が滑りかけた。
落ちる前に彼女は自分で押さえたが、押さえた指先に、ほんの少し力が入りすぎていた。紙の真ん中に、小さな皺が寄った。
「……それは」
「三枚目の中ほどに書いてある。俺も今、読んで止まった」
「……そう、でしたか」
クロノは企画書の皺を丁寧に伸ばした。伸ばしながら、耳が一度だけ、除湿機のほうへではなく、雅也のほうへ向いた。本人はそれに気づいていなかった。
二
撮影の会場は、郊外にある旧い図書館だった。
明治の終わりに建てられたという石造りの建物で、いまは閉架書庫の一部を残したまま、撮影用のスタジオとして貸し出されている。正面の扉は重い樫の木でできていて、押し開けると、紙と木と古い革の匂いが一度に流れ出てきた。天井の高い閲覧室には、背の高い書架が壁に沿って並び、上段へ届くための移動式の梯子が、鉄のレールの上にいくつか止められている。高窓から差し込む光は、午前のうちはまだ白く、床に敷かれた古い寄木の上に、細長い四角をいくつも落としていた。
クロノジェネシスは、扉をくぐったところで足を止めた。
止めたまま、動かなかった。視線だけが、書架の背表紙を一段ずつ辿っていく。右から左へ、上から下へ。まるで一冊ずつ題名を読んでいるかのような、ゆっくりとした目の動きだった。耳が、建物の奥から聞こえる何かの音──書架のどこかで木が軋む音か、空調の吹き出し口の音か──に向かって、細かく角度を変えている。
「……クロノ」
「……はい」
「息、止まってる」
「……あ」
彼女は小さく息を吐いた。それから、少しだけ恥ずかしそうに雅也を見上げた。
「……すみません。この建物、大正期のレース年鑑の初版を所蔵していると、どこかで読んだことがあって」
「今日は撮影だぞ」
「分かっています。……分かっています」
二度言ったところで、奥から早足の足音が近づいてきた。学園広報部の担当者だった。三十代の半ばほどの女性で、腕に分厚いファイルを抱え、首から入館証を下げている。その後ろから、撮影ディレクターと名乗る五十がらみの男性が、ゆっくりとした足取りで現れた。
「早瀬トレーナー、クロノジェネシスさん。本日はよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします。今日は一日、お世話になります」
雅也は頭を下げた。公の場での、いつもの声だった。クロノもそれに続いて、深く礼をした。
「……クロノジェネシスと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
ディレクターは穏やかに頷き、それから、閲覧室の奥を指した。
「先に一つ、お伝えしておきます。この建物は湿気が溜まりやすいので、昨日から除湿を入れています。控室と衣装部屋には二台ずつ置きました。広報さんから、クロノジェネシスさんは湿気が苦手だと伺ったので」
クロノが、はっきりと目を見開いた。
「……ご存じだったのですか」
「学園が公開しているプロフィールに記載されておりましたので」広報担当がファイルを軽く掲げた。「それと、以前ウマ娘さんの撮影をこちらでしたとき、髪がまとまらずに苦労したことがありまして。今回は最初から対策をしておこうと」
「……ありがとうございます」
クロノはもう一度、深く頭を下げた。下げたまま、ほんの少し長くそうしていた。
雅也は、その間に閲覧室の床を歩き始めていた。
寄木の一枚一枚を、靴の裏で確かめるように踏んでいく。書架の前の通路の幅を歩幅で測り、移動式の梯子のレールが床から何センチ浮いているかを屈んで見る。照明のスタンドが立てられる位置を確認し、その脚に這っている電源ケーブルを目で辿り、通路を横切っている一本を見つけて、近くにいた照明助手に声をかけた。
「すみません。このケーブル、書架側に寄せていただけますか。裾の長い衣装で歩くと、足元が見えないので」
「あ、はい。すぐに」
照明助手が手際よくケーブルを動かした。その手つきの迷いのなさに、雅也は内心で少し安堵した。こういう現場に慣れている人たちなのだと、それだけで分かる。
顔を上げると、クロノがこちらを見ていた。
「……トレーナーさんは、いつも、そうして床を確かめますね」
「踏んでみないと、硬さは分からないから」
「……レース場でも、朝、必ず」
「うん」
「……一度、記録に残してもいいですか。今日の、その、トレーナーさんを」
彼女の手には、いつの間にか、使い込まれた一眼レフが握られていた。肩から提げてきた鞄の、一番取り出しやすい場所に入れてきたのだろう。
雅也は少し困った顔をして、ディレクターのほうを見た。ディレクターは笑って、手を振った。
「どうぞ。誌面には使いませんが、ご本人の記録として撮られる分には。ただ、衣装に着替えられてからは、カメラは私どもでお預かりさせてください。レンズの縁で布を引っかけることがありますので」
「……はい。承知しました」
シャッターの音がした。
撮られたのは、床に屈んで梯子のレールを覗き込んでいる男の横顔だった。本人は、撮られたことに気づいてから、首の後ろを掻いた。
三
打ち合わせは、閲覧室の隅に置かれた長机で行われた。
ディレクターが工程表を広げ、一日の流れを順番に説明していく。午前中に衣装の最終調整とヘアメイク、正午前に単独カット、昼の休憩を挟んで雅也の着替え、午後からツーショットと演出カット、夕方の光で最後の一枚。モニター確認は各工程の終わりに必ず入れる。休憩は最低三回。水分は、一時間に一度は必ず取っていただく。
「演出の中身についても、ここで確認させてください」
ディレクターは紙を一枚めくった。
「午後の後半に、指輪を使うカットがあります。早瀬トレーナーから、クロノジェネシスさんへ撮影用の指輪をお渡しいただく構図です。プロポーズを模した演出になりますが、あくまでビジュアル上の演出です。指輪は小道具で、撮影が終わりましたら回収いたします」
「……はい」
「その際、早瀬トレーナーから短いお言葉をいただく工程を入れています。台詞は決めておりません。お二人の関係を表すような、短い言葉を。言いにくいようでしたら、台詞なしで撮ることもできますし、工程ごと外すこともできます」
「外さなくて大丈夫です」
クロノが先に言った。言ってから、自分の声が思ったより早かったことに気づいたのか、少しだけ口元を押さえた。
「……あの。私が決めることではありませんでした。トレーナーさんが、言いにくいのでしたら」
「俺は大丈夫だ」
「……そうですか」
「ただ、クロノ。当日、やっぱり嫌だと思ったら、その場で言っていい。何回でも確認する」
「……はい。分かりました」
ディレクターは二人のやり取りを穏やかに聞いていた。それから、工程表の端に小さく何かを書き足した。
「あと、ポーズについて一点。ツーショットの際、早瀬トレーナーに腰の位置へ手を添えていただくカットがあります。衣装の側に、手を置いても身体に負担のかからない位置を作ってあります。そちらは衣装担当から説明させます。耳と尻尾には、私どもも一切触れません。どうしても調整が必要な場合は、必ずご本人に声をかけてから行います」
「よろしくお願いします」
雅也が頭を下げた。クロノも頭を下げた。下げながら、彼女の手は膝の上で、手帳の角を指でなぞっていた。何かを書き留めたいのに、書くべき言葉がまだ決まっていない指だった。
四
衣装部屋は、閲覧室の奥の、かつて司書の作業室だった小部屋だった。
窓は北向きで、直射日光が入らない。壁際に除湿機が二台、並んで唸っていた。部屋の中央にトルソーが立てられ、そこに白い布が掛けられている。
白、と言い切るには、少しだけ色があった。月の光を布にしたら、こういう色になるのかもしれない、とクロノは思った。わずかに銀を含んだ白で、見る角度によって灰にも青にも寄る。胸元から腰までは細い縦のタックが並び、そこから裾へ向かって、薄い生地が幾層にも重なって落ちていく。その重なりの縁に、極小のビーズが縫い込まれていた。一粒一粒は砂粒ほどしかない。けれど、窓からの弱い光が動くたびに、それが一斉に、少しずつ時間をずらして光った。
光が、入り乱れて輝いている。
クロノは、そのことに気づいて、息を止めた。
「……これは」
「勝負服の名前から、着想をいただきました」
衣装担当の女性が言った。四十代の後半ほどの人で、髪を後ろで一つにまとめ、首から巻尺を提げている。手首には、待ち針を刺した小さなクッションが革のベルトで留めてあった。
「光が入り乱れて輝くさま、と伺いましたので。派手な装飾にはしたくなかったんです。ご本人が動いたときにだけ、少しずつ光るように。それと」
衣装担当は、裾の一番外側の層をそっと持ち上げた。
「いちばん下の縁だけ、糸の色を変えてあります。毛先に向かって色が深くなる、髪のグラデーションに合わせて」
クロノは、何も言えなかった。
言えないまま、裾の縁の糸を、指先で一度だけ辿った。暗い銀から、ほとんど黒に近い色へ。糸の色が、ほんのわずかずつ変わっていく。その変わり方が、自分の髪の毛先と同じ順番だった。
「……こんなに、見てくださって」
「仕事ですので」衣装担当は笑った。「それに、ウマ娘さんの衣装は、ご本人の身体と走り方を見ないと作れませんから。人間のモデルさんの衣装とは、最初の型紙から違うんです」
そう言って、彼女は衣装の背面をこちらへ向けた。
「背中の開き方は、勝負服を参考にしています。ただ、腰から下は二層に分けました。内側の層が尻尾の付け根を避けて左右に割れていて、外側の層はその上を浅く覆うだけです。尻尾は押さえません。歩いたときの振れ幅と、急に止まったときの布の追従は、以前の撮影記録から計算してあります」
「以前の、記録……」
「学園広報さんが、宝塚記念の映像を貸してくださいました。ゴールした後、減速して止まるまでの尻尾の動きを、何度か見させていただいて」
クロノの耳が、ぴくりと動いた。
「……それは、私も何度も見返しました」
「そうでしたか」
「六バ身のあと、止まるまでに、尻尾が三回揺れているんです。一回目と二回目の間隔が短くて、三回目だけ長くて……」
そこまで言って、クロノは口をつぐんだ。
「……すみません。つい」
「いえ」衣装担当は、手帳を取り出して何かを書きつけた。「三回目が長い、ですね。いいことを伺いました。止まった後に一拍遅れて布が落ちるよう、裾の内側の重りを少し後ろへずらします」
雅也は、部屋の入口の壁にもたれて、そのやり取りを聞いていた。何も言わなかった。言わなかったが、口元が少しだけ緩んでいた。
衣装担当が振り返った。
「早瀬トレーナー。採寸と着付けのとき、私が衣装の上から身体に触れる場面がございます。腰の位置と、肩の線と、裾丈の確認で。そのたびにクロノジェネシスさんご本人にお声がけして、よろしいと言っていただいてから触れます。耳と尻尾は触りません。念のため、ご本人とトレーナーの双方に確認を」
「本人がよければ、私からは何も。ただ、脚の膝から下は、できれば避けていただけると助かります。凱旋門の前なので、少しでも違和感が出ると本人が気にします」
「承知しました。裾丈は床から測ります」
クロノは、その会話を聞きながら、雅也のほうを見た。
膝から下。自分でもまだ誰にも言っていない、ほんのわずかな張りのことを、この人は知っている。知っていて、何も言わずに、先に守る線を引いている。
「……クロノジェネシスさん、よろしいですか」
「……はい。お願いいたします」
「では、トレーナーは一度外へ」
「はい」
雅也が扉を閉めた。閉まる直前、クロノは小さく息を吸って、何か言いかけて、やめた。
五
着付けは四十分ほどかかった。
衣装担当は宣言どおり、一度触れるたびに声をかけた。「肩の線を確認します。よろしいですか」「腰の縫い目の位置を合わせます。少し押さえます」「裾を持ち上げます。一歩前へ出ていただけますか」。そのたびにクロノは「はい」と答え、衣装担当はそれを確かめてから手を動かした。手つきは速いのに、急いでいる感じがまったくしない。長いこと同じ仕事を続けてきた人の、無駄のない速さだった。
着付けが終わると、衣装担当は部屋の中央に空いた床を指した。
「では、動きの確認をさせてください。まず、普通に歩いて、部屋の端で止まっていただけますか」
クロノは歩いた。
三歩。四歩。裾が、歩幅に合わせて前へ流れ、後ろへ引かれ、また前へ流れる。部屋の端で止まった。止まった瞬間、裾はまだ前へ行こうとして、それから、一拍遅れて、音もなく落ちた。
「……一拍、遅れますね」
「遅れます。でも、身体を追い越さない」衣装担当が膝をついて、裾の落ちた位置を確かめた。「今度は、その場で向きを変えていただけますか。右へ九十度」
クロノは踵を軸にして、右へ回った。
その回り方が、あまりにも静かだった。上体がまったくぶれない。重心の位置が一瞬も浮かない。裾のほうが遅れて弧を描き、それが止まる頃には、彼女はもう次の姿勢で立っていた。部屋の隅で見ていたアシスタントの若い男性が、小さく声を漏らした。
「……今、足、動いてました?」
「動いていました」クロノは不思議そうに答えた。「……普通に、回っただけです」
「普通に、ですよね。すみません」
衣装担当は笑って、次の指示を出した。
「座ってみてください。そちらの椅子へ」
クロノは椅子の前へ行き、腰を下ろす前に一度だけ、ほんのわずかに腰を浮かせた。尻尾を逃がす、彼女にとっては何でもない動作だった。外側の層が尻尾の上を滑り、内側の層が左右に割れる。座った後も、尻尾はどこにも押さえつけられていなかった。
「……どこも、きつくありません」
「立ち上がるときも、手をつかずに」
クロノは立った。膝と腰が、一本の線のまま伸びた。
「最後に、階段を想定して、そちらの台へ」
部屋の隅に、高さの違う木箱が三つ置いてあった。クロノは裾を持たずに一段目に上がり、二段目に上がり、三段目で止まって、同じ速さで降りた。裾の縁のビーズが、一段ごとに違う順番で光った。
「……裾を、持たなくても大丈夫でした」
「持たなくていいように作りました」衣装担当は手帳を閉じた。「それと、最後に靴を。ヒールは三センチに抑えています。これ以上高くすると、長く立っていただくときにふくらはぎに負担が来ますので」
「……ありがとうございます」
クロノは、靴の中で指を一本ずつ動かした。どの指も、窮屈ではなかった。
衣装担当がふと、クロノの左耳のほうを見た。
「一つ、ご相談があります。耳の飾りなのですが」
「……はい」
クロノの左耳には、時計のムーブメントを模した小さな飾りが留められている。歯車と、ごく小さなテンプの意匠。いつも着けているものだった。
「衣装に合わせて、真珠の飾りに替える案も用意してあります。ただ、ご本人が普段から着けていらっしゃるものでしたら、そのままのほうがいいかとも思っていて。どちらになさいますか」
クロノは、少し考えた。
考えている間、左耳の飾りに、指先でそっと触れた。
「……このままで、お願いできますか」
「承知しました」
「……時を刻むものなので」クロノは言った。「今日のことも、ちゃんと、刻んでおきたいので」
衣装担当は、それ以上は何も訊かなかった。代わりに、ベールの留め位置を、飾りから指二本分離れた場所に決めた。
「ベールは、耳の後ろを通して、下へ流します。耳の前には何も掛けません。音の聞こえ方、確かめていただけますか」
衣装担当が部屋の反対側へ歩き、そこで小さな声で「聞こえますか」と言った。
クロノの耳が、声のほうへ正確に向いた。ベールの薄い生地が、耳の後ろで少しだけ揺れた。
「……聞こえます。後ろに布があるのも、分かります。でも、邪魔ではありません」
六
ヘアメイクは、閲覧室に面した小部屋で行われた。
鏡の前に座ったクロノの髪を、ヘアメイク担当の女性が櫛で梳きながら、少し首を傾げた。
「……前に拝見した写真より、髪の色が、少し明るくなっていらっしゃいますね」
クロノの肩が、わずかに固くなった。
「……年々、淡くなっていて」
「そうなんですね」
「……気に、なりますか」
「いいえ」ヘアメイク担当は、あっさりと首を振った。「今日の衣装には、今の色のほうが合うと思います。銀の糸と、ちょうど同じくらいの明るさなので。三年前の色だったら、衣装のほうをもう少し暗く作り直していたかもしれません」
クロノは鏡の中の自分を見た。
毛先に向かって黒くなる髪。前髪の白いメッシュ。以前より、全体の色が少しだけ薄い。そのことを気にしていた。写真を見比べるたびに、気にしていた。けれど今、この部屋では、その色が衣装と同じ明るさだと言われている。
「……そう、ですか」
「はい。まとめ方ですが、耳の付け根が見えるように、少し高めにまとめます。耳の動きを隠したくないので」
「……お願いします」
髪がまとめられていく間、クロノは膝の上の手帳を開いていた。何かを書こうとして、ペンを耳に挟もうとした。挟めなかった。考案中のリングは、まだ完成していない。そのことを思い出して、ペンを手帳の間に戻した。
ヘアメイク担当が、その仕草を鏡越しに見ていた。
「……ペン、どこかに挟みます?」
「……いえ。まだ、挟むところを作っている途中なので」
「作っている途中」
「耳に、ペンを挟めるリングを……考えているんです。まだ、うまくいかなくて」
ヘアメイク担当は、少し考えてから、真顔で言った。
「今日は、ベールの留め具の横になら、細いペンが一本通ると思います。……いえ、冗談です。撮影中はさすがに」
「……ですよね」
クロノが小さく笑った。笑った拍子に、耳がふっと揺れた。
七
正午前、単独カットが始まった。
撮影は閲覧室の中央、背の高い書架を背にした場所で行われた。高窓から落ちる光が、正午に近づくにつれて角度を変え、床の四角が短くなっていく。照明は最小限だった。カメラマンは、自然光を主に使うと言った。
カメラマンは四十代の男性で、首からカメラを二台提げていた。三脚を立てる前に、まず自分でクロノの立ち位置に立ち、書架を振り返り、窓を見上げ、それから三脚を置いた。
「クロノジェネシスさん。笑わなくて結構です。そこに立っていてください」
「……はい」
クロノは書架の前に立った。
立った瞬間、スタッフの何人かが、手を止めた。
特別な姿勢をとったわけではなかった。ただ、立っただけだった。踵に重心が落ち、背筋が伸び、肩が下がる。顎が引かれ、視線がわずかに上がる。パドックで何時間でも動かずに、出走するウマ娘たちを見比べてきた立ち方だった。その立ち方のまま、彼女は身じろぎ一つしなかった。裾のビーズさえ、光らなかった。光るのは、動いたときだけだからだ。
カメラマンがシャッターを切った。一枚。間。一枚。
モニターを覗いた彼は、しばらく黙っていた。それから、少し戸惑ったように顔を上げた。
「……早瀬さん。ちょっと、見ていただけますか」
雅也は、閲覧室の隅から歩み寄った。まだ私服のままだった。
画面の中で、月の色をした衣装のウマ娘が、書架の前に立っていた。
「……静止しすぎていて、写真なのに、動画の一時停止を見ているような感じがするんです」とカメラマンは言った。「モデルさんでも、立っているだけのときは、どこかが微妙に揺れるんですよ。呼吸で肩が動いたり、重心が左右に移ったり。この方は、揺れていない」
「パドックの癖です」
「パドック?」
「彼女は、レースの前に、出走するウマ娘をパドックでずっと見ているんです。何時間でも。そのときの立ち方がこれで」雅也は画面を指した。「重心が踵の少し前にあって、そこから一ミリも動かない。見ることに全部使ってるから、身体のほうは余計なことをしないんだと思います」
「……なるほど」
「たぶん、今も何か見てます」
雅也は、書架の前のクロノを見た。
彼女の視線の先には、書架の三段目、革装の背表紙が並ぶ棚があった。
「……クロノ」
「……はい」
「何読んでる」
「……読んでいません」
「読んでるだろ」
「……背表紙の、年号を、少し」
スタッフの間から、小さな笑いが起きた。クロノの頬に、わずかに色が差した。耳が、一度だけ伏せかけて、止まった。
カメラマンは、その瞬間を撮っていた。
モニターを確認して、彼は満足そうに頷いた。
「今のがいいですね。……いえ、どちらもいいんですが。静止しているほうは誌面の見開きに、今のほうは、たぶん、ご本人が一番欲しがる一枚だと思います」
「……私が、ですか」
「記録をなさる方だと伺いましたので」カメラマンは言った。「記録する人は、たいてい、自分が一番自分らしくない顔をしている写真を嫌がるんです。今のは、らしい顔をしていらっしゃいました」
クロノは、何も言わなかった。言わなかったが、手が、ここにない手帳を探すように、膝のあたりで一度だけ動いた。
撮影の途中、閲覧室の奥で、音響担当が機材の確認を始めた。短い動画も撮る予定があり、BGMの音量を調整しているのだった。スピーカーから流れたのは、金管の短い旋律だった。
ファンファーレに似た、短い金管の旋律だった。
レース前に鳴る、あの形式のものではない。けれど、よく似た和音の積み方と、よく似た拍の刻み方をしていた。
クロノの尻尾が、動いた。
外側の層の下で、布を押し上げない程度に、しかしはっきりと、拍に合わせて揺れた。一、二、三。四拍目で少しだけ大きく。本人はまったく気づいていなかった。視線は書架の年号から動いていない。尻尾だけが、身体とは別の生き物のように、正確に拍を刻んでいた。
音響担当が慌てて音を止めた。
「す、すみません! 音、出すつもりじゃなくて」
音が止まった瞬間、尻尾が止まった。
止まってから、クロノはようやく、自分の尻尾が動いていたことに気づいた。
耳が、ぴんと立った。そのまま彼女は動けなくなった。顔が、耳の付け根まで赤くなっていく。
「……あの、今のは」
「大丈夫だ」雅也が言った。「誰も見てない」
「……トレーナーさんは、見ていましたよね」
「見てない」
「見ていました」
「……見てた」
カメラマンは、いつの間にかシャッターから指を離していた。モニターも確認しなかった。代わりに、音響担当のほうを振り返って、穏やかに言った。
「今の音、動画のときにもう一度使いましょう。ご本人が、よろしければ」
クロノは、赤い顔のまま、しばらく考えた。
それから、小さく頷いた。
「……はい。ファンファーレは、好きなので」
八
昼の休憩は、閲覧室の隣の小部屋でとった。
衣装のまま座れるよう、背もたれのない丸椅子が用意されていた。スタッフが紙コップの水と、塩分の入った飴を運んできた。クロノは飴を一つ受け取り、包み紙を丁寧に開いて口に入れ、包み紙を小さく畳んで手の中に握った。
「……水、あと半分」
雅也が言った。
「……はい」
クロノは紙コップを傾けた。衣装を濡らさないように、ほんの少しずつ。
「脚はどうだ」
「……張りは、ありません。立っているだけなので」
「立っているだけ、が一番疲れる」
「……レースより、ですか」
「レースより」雅也は腕時計を見た。「もう二時間半立ってる。午後はもう少し休憩を増やしてもらう」
クロノは紙コップを両手で包んで、少しの間、黙っていた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「さっき、膝から下は避けてください、と仰いましたね。衣装担当の方に」
「言った」
「……どうして、分かったんですか。まだ、誰にも」
「宝塚の三日後から、階段を降りるときに、左足の着地がほんの少し柔らかくなってた。痛いんじゃなくて、気にしてる着地」
クロノは、紙コップを見下ろした。
「……そうでした」
「痛くはないんだろ」
「……痛くは、ありません。ただ、張っている気がして。……気のせいかもしれないと思って、言いませんでした」
「気のせいでも、言っていい。凱旋門の前だから、なおさら」
「……はい」
彼女は、紙コップの水を最後まで飲んだ。飲み終えてから、小さく言った。
「……言わなくても、見ていてくださるので。つい」
「それは、困る」
「……困りますか」
「見落とす日もある」雅也は言った。「前に一度、見落としたことがある。見落とさないようにはしてる。でも、君が言ってくれたほうが、確実だ」
「……はい。言います」
クロノは頷いた。頷いてから、手の中の包み紙を、もう一度小さく畳み直した。
九
雅也の着替えは、隣の部屋で行われた。
黒い礼装だった。襟の合わせと肩の線と、ズボンの落ち方だけで見せる種類の服である。衣装担当が採寸したとおりに仕立てられていて、袖の長さが手首の骨にちょうどかかる。雅也は鏡の前で襟を直し、直しすぎて戻し、それから諦めて手を下ろした。
閲覧室に戻ると、クロノは窓際に立っていた。
午後の光が、高窓から斜めに差し込んでいた。午前よりも少しだけ黄みを帯びた光だった。その光の中に、クロノが立っていた。ヘアメイクを直したのだろう、まとめた髪の後れ毛がきちんと収まり、ベールが耳の後ろから背中へ、細い川のように流れている。
彼女が振り返った。
振り返った動きで、裾のビーズが、順番に光った。
右から左へ。時間をずらして。光が、布の上を走った。
雅也は、立ち止まった。
何かを考えるより先に、言葉が出ていた。
「……綺麗だ」
声は、小さかった。
閲覧室が静かだったので、全員に聞こえた。
雅也は、自分の口から出た言葉を、自分の耳で聞いた。聞いてから、それが何だったのかを理解した。理解した瞬間、視線が勝手に横へ逃げた。書架の三段目。さっきクロノが見ていた、革装の年鑑の背表紙。そこに何年と書いてあるのかまったく頭に入らないまま、彼はそこを見ていた。咳払いを一つした。もう一つした。
「……悪い。今のは」
続きが出てこなかった。
クロノは、動かなかった。
窓の光の中で、彼女は、パドックで立っているときと同じように、一ミリも動かなかった。けれど、それは午前の静止とは違った。あのときは、見ることに身体のすべてを使っていたから動かなかった。今は、違う。動けないのだと、雅也には分かった。三年半、この子の立ち姿を見てきた人間には、その違いが分かった。
やがて、クロノの唇が、ほんの少しだけ動いた。
「……トレーナーさん」
「……ん」
「……今の、記録しても、よろしいですか」
「は」
「……手帳が、ないので。今、覚えます。でも、あとで、書いてもいいですか。今日の日付と、時刻と、場所と……今の、お言葉を」
雅也は、首の後ろを掻いた。
「……書くのか」
「……書きます」
「……勝手にしろ」
「……はい。勝手に、します」
クロノは、そこでようやく、ほんのわずかに口角を上げた。
小さく息を呑み、それから少しだけ笑う。彼女が本当に嬉しいときの、いつもの順番だった。
カメラマンは、この一連のやりとりのあいだ、シャッターを切らなかった。カメラを下ろして、ただ、光の具合を確かめるふりをしていた。
「……では、ツーショットに入りましょうか」
しばらくして、ディレクターが言った。その声は、ほんの少しだけ、いつもより柔らかかった。
十
二人が並ぶ段になった。
最初、肩と肩のあいだには、拳二つ分ほどの隙間があった。雅也の背は百八十を超えていて、クロノは百五十をわずかに超えるだけだ。並ぶと、彼女の頭の上は、彼の肩のあたりにしか届かない。
「もう少し、寄っていただけますか」とカメラマンが言った。
雅也は動かなかった。代わりに、隣へ顔を向けた。
「ここまででいいか」
「……え」
「距離。近づくのは、途中で止められる。止めるなら早いほうがいい」
クロノは、雅也を見上げた。
見上げたまま、少しだけ考えた。考えている時間は、いつもより短かった。
「……トレーナーさんは、いつも、先に確認をしてくださいます」
「する」
「……ですから、今日は、私のほうから」
彼女は、自分から半歩、横へ動いた。
肩と肩のあいだが、拳一つ分になった。ベールの端が、雅也の袖に触れるか触れないかのところで、静かに止まった。
「……これで、お願いします」
「……分かった」
シャッターが切れた。
モニターを見たカメラマンが、アシスタントを手招きして、画面を指差した。二人で小声で何か言っている。
「どうかしましたか」と雅也が訊いた。
「いえ」アシスタントが答えた。「……お二人とも、同じところを見ていらっしゃるので」
「同じところ?」
「正面を見てください、とお願いしたんですけど、お二人とも、正面の少し右上……あの、窓の外の、同じ木の枝を見ていらっしゃって」
雅也とクロノは、同時に窓を見た。
高窓の向こうに、欅の枝が一本、風で揺れていた。
「……見てたな」
「……見ていました」
「なんで見てた」
「……枝の揺れ方で、風速が分かるので」
「俺もだ」
アシスタントが、こらえきれずに笑った。カメラマンも口元を押さえた。笑われて、クロノの耳がぴくりと動き、雅也は首の後ろを掻いた。
「……もう一度、正面で」とカメラマンが言った。今度は、二人とも正面を見た。
次は、手を添えるカットだった。
「早瀬さん、腰の位置へ手を添えていただけますか」
雅也は手を上げなかった。
「クロノ」
「……はい」
「衣装の腰に、縫い目があるそうだ。そこに手を置けば、身体に負担がかからないって。……置いていいか」
クロノは少しの間、自分の腰の位置を見下ろした。
衣装担当が、少し離れたところから、指で位置を示した。「右の脇から、指四本分ほど後ろです。そこより上ですと肋に当たって、下ですと裾の層を押します」
「……はい」クロノは言った。「……お願いします」
雅也は右手を上げた。縫い目の位置を目で確かめ、そこへ、指の付け根だけを置いた。掌はつけない。体重もかけない。尻尾の付け根からは、指三本分以上離れた位置だった。
クロノの背中が、一瞬だけ、固くなった。
それから、ゆっくりとほどけた。
「……トレーナーさん」
「ん」
「……手が、冷たいです」
「よく言われる」
「……温めなかったんですね。いつもは、脚を見る前に、必ず温めるのに」
雅也は答えなかった。
答えないまま、ほんの少しだけ視線を逸らした。手を温めることを忘れるのは、彼が動揺しているときだけだった。そのことを、クロノが知っているのかどうかは、分からなかった。
シャッターが切れた。
十一
休憩を挟んで、小道具担当が小さな箱を持ってきた。
黒い布張りの箱で、蓋を開けると、銀色の輪が二つ並んでいた。石はない。装飾もない。断面が丸く、内側が磨かれているだけの、簡素な輪だった。
「撮影用の小道具です。撮影が終わりましたら回収いたします。サイズは仮のもので、指に通るだけの調整になっております」
「……はい」
「あえて簡素に作ってあります。本物に見えると、公開後に誤解を招きますので」小道具担当は丁寧に言い添えた。「写真では、質感はきちんと出ますのでご安心ください」
クロノは箱の中を覗き込み、輪の一つを、光に透かすように見た。
「……内側に、何も彫られていませんね」
「はい。何も」
「……余白、ですね」
小道具担当が首を傾げた。クロノは慌てて首を振った。
「……いえ。何でもありません」
雅也が横から言った。
「この後、言葉を言う工程がある。変えたければ、まだ変えられる。台詞なしでもいい」
「……変えません」
「そうか」
「……トレーナーさんこそ、大丈夫ですか。言葉を考えるの、苦手だと……」
「苦手だ」
「……ですよね」
「でも、考えてきた」
クロノは、雅也の顔を見た。
雅也は、箱の中の輪を見ていた。
照明が調整され、窓の光がちょうど、二人の立つ位置を斜めに横切る角度になった。午後三時を過ぎていた。高窓からの光は、もう白ではなく、蜂蜜を薄く溶かしたような色をしていた。閲覧室の空気の中を、細かい埃がゆっくりと光りながら漂っている。除湿機の唸りが、どこか遠くで続いていた。
カメラマンが、準備ができたと手で合図した。
ディレクターが、閲覧室の入口に立っていたスタッフに、目で何かを伝えた。スタッフの何人かが、音を立てずに部屋の外へ出ていった。残ったのは、カメラマンとアシスタント、ディレクター、衣装担当の四人だけだった。
雅也は、箱を持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、口を開いた。
「……クロノ」
「……はい」
「最初に君を知ったのは、レース場じゃなかった」
クロノの耳が、わずかに動いた。
「校内新聞の、『徒然、歴史語り』。ライターC。俺は、あれの読者だった。毎回読んでた。スポーツ科学の論文ばっかり読んでた頃で、レースの記録を、誰かの夢の話として書く文章を、初めて読んだ」
クロノは、何も言わなかった。
「レース場で、パドックを見てる小さいウマ娘がいて、メモを走り書きしてて、カメラを構えてて。それが、あのコラムを書いてる人だって知ったのは、後になってからだった。……正体を知ったとき、俺は、読んでたって正直に言った。君は、顔を真っ赤にして、しばらく何も言わなかった」
クロノの唇が、少しだけ震えた。
「契約の日、君は、写真を一枚くれたろ。初めて会った日に、君が撮ってた写真。パドックを見てる、俺の横顔の」
「……はい」
「あれ、今も机の引き出しにある」
雅也は、そこで一度、息を吸った。
「オークスの夜、君は資料室にいた。同室の子の無敗記録を止めたって。歴史を曲げてしまったって。……俺は、あのとき、うまく言えなかった。曲げたんじゃない、書いたんだろって言って、それでも言葉が足りなくて、悪い、うまく言えないって謝った」
「……覚えています」
「今も、うまくは言えない」雅也は言った。「ただ、この前、君が撮ってきた写真を全部見返した。遠征先のも、学園のも、レース場のも。……俺が写ってる写真が、思ってたより、ずっと多かった」
クロノの呼吸が、一瞬、止まった。
「それだけ君は、俺を見てくれてたんだと思う。レースの歴史を記録する人が、その合間に、ずっと。……だから、今度は俺の番だと思った。君が書くものを、これからも一番最初に読ませてほしい。君がこれから自分の脚で書く歴史も、君が紙に書く歴史も、両方」
雅也は、箱から輪を一つ取り出した。
「……クロノ。君の走りは、誰かをなぞったものじゃなかった。三年半、ずっと、君が書いてきたものだ。……これは、その記録の、しるしみたいなものだと思ってくれ」
差し出された輪は、窓の光を受けて、細く光っていた。
クロノは、左手を上げた。
ゆっくりだった。途中で一度、止まった。指先が、ほんのわずかに震えていた。震えを止めようとして、止まらなかった。それでも、最後まで上げた。
輪が、薬指を通った。
クロノは、その手を、しばらくそのままにしていた。
上げも下げもしなかった。ただ、自分の指に銀の輪がある光景を、一枚の写真を見るように見ていた。記録するための目ではなかった。記録することを、忘れている目だった。
それから、彼女の唇から、言葉がこぼれた。
「……好き、です」
声は、閲覧室の埃の漂う空気の中で、ほとんど消えかけていた。
けれど、雅也には聞こえた。
クロノは、自分が何を言ったのかに、一拍遅れて気づいた。気づいた瞬間、顔を上げた。上げた顔が、驚きで固まっていた。言うつもりのなかった言葉だった。台本のどこにも書かれていない、余白に勝手に書かれてしまった一行だった。
「……あ」
耳が、両方とも、はっきりと伏せた。
「……い、今のは、台詞では、なくて」
声が震えていた。震えたまま、それでも彼女は言葉を探した。控えめに、けれど最後にははっきりと言う。キャッチコピーそのままの、いつもの言い方で。
「……すみません。撮影なのに。でも……嘘では、ありません。……トレーナーさんのことが、好きです。ずっと、前から。……尊敬とか、信頼とか、そういう言葉で整理しようとして、できなくて、……それで、今、書く前に、口から出てしまいました」
雅也は、動けなかった。
手の中に、空になった箱の感触だけがあった。何か言わなければ、と思った。思ったのに、言葉が出てこなかった。資料を持ち直そうとして、持っているのが指輪の箱だと気づいた。咳払いをしようとして、喉が詰まった。
十秒ほど、何もできなかった。
それから、ようやく、息を吐いた。
「……クロノ」
「……はい」
「……ありがとう」
クロノの伏せていた耳が、少しだけ持ち上がった。
「……嬉しい。本当に。そこまで言ってくれて」雅也は言った。言いながら、自分の声が思っていたより低く、掠れていることに気づいた。「……ただ、今の俺は、君の担当だ。君はまだ学生で、凱旋門も、有馬も残ってる。この立場のまま、答えを出すのは、違うと思う」
クロノは、黙って聞いていた。
「だから、今は答えない。……でも、答えないことと、断ることは、違う」雅也は、クロノの目を見た。逸らさなかった。「全部走り終えて、卒業して、担当って関係が終わって、それでも君が同じ気持ちでいてくれるなら。そのときは、俺も、逃げずにちゃんと考える。……それまで、待たせることになる。それで、いいか」
クロノは、長いあいだ、雅也を見ていた。
やがて、小さく息を呑み、それから、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……はい」
声は、もう震えていなかった。
「……待つのは、得意です。記録を読むのは、いつも、全部終わってからなので」
それから、彼女は左手の輪を、右手の指先でそっと撫でた。
「……今の、日付も、時刻も、ちゃんと覚えました」
閲覧室の空気が、ゆっくりと動き出した。
十二
カメラマンは、その間、一度もシャッターを切っていなかった。
カメラは胸の前に下ろされ、レンズには、いつの間にかキャップがはめられていた。アシスタントは三脚の脚を見下ろしていて、衣装担当は裾の重りの位置を確かめるふりをしていた。ディレクターは入口のほうを向いて、何もない廊下を見ていた。
しばらくして、ディレクターが振り返った。
「……少し、休憩を入れましょう。十五分。水分を取っていただいて、それから、指輪のカットをもう一度、撮らせてください。今度は、台詞なしで」
穏やかな声だった。からかうような響きは、一片もなかった。
「今のは……撮っていません。撮っていませんので、ご安心ください」
クロノは、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。撮影の、進行を」
「いいえ」ディレクターは首を振った。「私たちが撮るのは、この企画の写真です。それ以外のものは、お二人のものです。広報さんにも、そうお伝えします」
広報担当が、廊下の奥から戻ってきて、何も訊かずに、紙コップの水を二つ置いていった。
撮り直しは、十五分後に行われた。
同じ位置、同じ光。ただ、窓の光は少しだけ傾いて、さっきより橙色に近くなっていた。雅也は何も言わずに輪を差し出し、クロノは何も言わずに左手を上げた。今度は、途中で止まらなかった。輪が指を通った瞬間、クロノは雅也を見上げた。見上げたまま、ほんの少しだけ笑った。
そのとき、音響担当が、そっと手元のスイッチを入れた。
閲覧室の奥のスピーカーから、午前中に流れたあの金管の旋律が、ごく小さな音で流れ出した。
クロノの尻尾が、裾の下で、拍を刻み始めた。
今度は、彼女はそれに気づいていた。気づいていて、止めなかった。
シャッターが、一度だけ切れた。
モニターを確認したカメラマンは、長く息を吐いた。
「……これを、表紙にしたいと思います」
「……見せていただけますか」とクロノが言った。
画面の中で、月の色の衣装を着たウマ娘が、黒い礼装の男を見上げていた。左手の指に銀の輪があって、その手を、男の手がまだ離しきっていない。裾の縁のビーズが、ちょうど右から左へ、順番に光っている途中だった。そして、よく見なければ分からないほどわずかに、裾の後ろの布が、尻尾の揺れに合わせて持ち上がっていた。
「……尻尾が、写っています」
「写っていますね」とカメラマンは言った。「外しますか」
クロノは、画面をじっと見ていた。
「……いいえ」
彼女は首を振った。
「……これは、そのままにしてください。……ファンファーレが、鳴っていたので」
十三
最後の一枚は、夕方の光で撮った。
高窓の光はもう橙を越えて、茜色に近くなっていた。閲覧室の床に、書架の影が長く伸びている。クロノは窓の下に立ち、雅也はその半歩後ろにいた。指示はなかった。「そのままで」とだけ、カメラマンは言った。
クロノは、窓の外を見ていた。雅也も、同じ方向を見ていた。欅の枝が、夕方の風で揺れていた。
シャッターが一度、切れた。
「お疲れさまでした」
ディレクターの声が、閲覧室に広がった。残っていたスタッフが、小さく拍手をした。クロノは、スタッフの一人一人のところへ行って、深く頭を下げた。衣装担当のところで、少し長く立ち止まった。
「……裾の、糸の色。一生、忘れません」
「こちらこそ」衣装担当は笑った。「尻尾の揺れ、三回目が長いって教えていただいたので。次にどなたかの衣装を作るときにも、使わせていただきます」
着替えを終えたクロノは、制服姿で衣装部屋から出てきた。
手には、小さな黒い箱を持っていた。蓋を開け、中に輪が二つ揃って収まっているのを確かめてから、小道具担当に両手で差し出した。
「……お返しします。ありがとうございました」
「確かにお預かりしました」
小道具担当は箱を受け取り、中を確かめ、蓋を閉じた。クロノは、閉じられた箱を、ほんの一瞬だけ見ていた。それから、もう一度頭を下げた。
建物の外に出ると、空気が、朝よりも少しだけ軽くなっていた。雨の気配が、どこかへ抜けたらしかった。
駐車場へ向かう石畳の上で、クロノが足を止めた。
「……トレーナーさん」
「ん」
雅也も足を止めた。礼装はもう脱いでいて、いつもの襟付きのシャツに黒いブルゾンを羽織っている。
「……今日のこと、手帳に書いても、よろしいですか」
「さっき、書くって言ってたろ」
「……綺麗だ、のほうではなくて」クロノは少し俯いた。「……私が、言ってしまったほうです」
雅也は、しばらく黙っていた。
「……書いていい。君の年表だ」
「……はい」
「ただ」
「……はい」
「俺の返事のところは、まだ空けておいてくれ」
クロノは、顔を上げた。
夕方の光が、彼女の淡くなった髪を透かして、銀色に光らせていた。
「……はい。余白に、しておきます」
彼女は鞄から手帳を取り出し、その場で開いた。今日の日付のページには、朝のうちに書いた工程表が、分刻みの走り書きで埋まっている。その一番下、まだ何も書かれていない余白に、彼女はペンを走らせた。速い字だった。本人以外には読めない、走り書きだった。
ただ一行だけ、雅也にも読める字があった。
それは、書かれたのではなく、書かれずに空けられた一行分の、白い余白だった。
クロノは手帳を閉じ、胸に抱えた。
「……帰りましょう。明日は、練習を落とすんですよね」
「落とす」
「……では、明日は、今日撮った写真の整理をします」
「休めって意味だぞ」
「……休みます。写真を見ながら」
雅也は苦笑した。
クロノは小さく息を呑み、それから、少しだけ笑った。
駐車場の向こうで、夏の終わりきらない空が、ゆっくりと藍色に変わり始めていた。