ウマ娘のそれぞれの未来   作:乙姫さん

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光の編年記、刊行のあとで〜クロノジェネシス

一

 

 撮影から十日が過ぎても、トレーナー室の除湿機は止まらなかった。

 七月の終わりの空は、梅雨が明けたと気象台が言ったあとも、しばらくは白く霞んだままだった。窓を開ければ蝉の声が一斉に流れ込んでくるのに、その声まで湿って重たく聞こえる。雅也は窓を閉めたまま、除湿機のタンクを空にして戻ってきた。タンクの中の水は、たった半日でまた縁の線まで溜まっていた。

 机の上には、写真が並んでいた。

 クロノジェネシスが撮ったものだった。撮影の翌日、練習を落とした日に、彼女は宣言どおり写真の整理をした。休めという意味だと雅也は言い、彼女は休みますと答え、そして実際に、一日じゅう机に向かっていたらしい。ただ、並んでいる写真の数は、いつもの遠征のあとよりずっと少なかった。衣装に着替えてからは、一眼レフをディレクターに預けていたからだ。だから机の上にあるのは、午前のうちに撮った数枚だけだった。石造りの図書館の外観。朝の光が寄木の床に落とした細長い四角。上段へ届く移動式の梯子と、その鉄のレール。そして、レールを覗き込んで床に屈んでいる男の横顔。

 雅也はその一枚を見て、それから見なかったことにして、次の写真へ目を移した。

「……トレーナーさん。今、一枚、飛ばしましたね」

「飛ばしてない」

「レールの写真を、〇・五秒で」

「計ったのか」

「……計っていません。そう感じただけです」

 クロノは、写真の端をそっと指で揃えた。揃える必要のない角だった。いつか企画書を読んで止まった雅也が同じことをしていたのを、彼女は知っているのだろうか。知っていてやっているのなら、ずいぶん静かな意趣返しだと雅也は思い、それを口には出さなかった。

 彼女の手元には、いつもの手帳があった。表紙の角が丸く擦れ、背には細い傷がいくつも走っている。一年目の終わりに買い替えたもので、中は分刻みの走り書きで埋め尽くされている。本人以外には読めない字だ。雅也だけが、担当になって半年ほどで読めるようになった字でもある。

 クロノはその手帳を開いていた。今日の日付の頁を開いて、今日の練習の記録を書き込んでいる。朝の気温、湿度、芝の状態、ダートを避けて坂路を使った本数、それぞれの時計、息の入り方。ペンが速い。紙の上を、雨垂れのような音がひっきりなしに打っている。

 書き終えると、彼女はペンを置いた。置いてから、指先が手帳の頁の端に触れた。触れて、少しだけめくりかけて、やめた。

 めくりかけたのは、十日前の頁だった。雅也にはそれが分かった。分かったのは、そこだけ頁の端がわずかに柔らかくなっていたからだ。何度も指で触れられた紙は、そういうふうに柔らかくなる。湿気のせいではなかった。

「脚のほうは」

 雅也は、写真から目を上げずに訊いた。

「……今朝、保健室で診ていただきました。左の脹脛の張りは、もう、ないそうです。念のため、あと三日は坂路の本数を半分にするように、と」

「医療スタッフがそう言ったなら、そうする。三日じゃなくて四日にしよう」

「……四日、ですか」

「一日は、俺の気のせいの分だ」

 クロノは少し考えて、それから手帳の三日後の欄に小さな印をつけ、その隣に、もう一つ印を足した。気のせいの分の一日だった。

「……トレーナーさんの気のせいは、私の気のせいより、よく当たるので」

「そうでもない」

「そうです。記録があります」

 雅也は笑った。声は立てなかったが、口の端が上がったのが自分でも分かった。記録があると言われてしまうと、この子の前では反論のしようがない。

 除湿機が、低く唸り続けている。窓の外では、欅の葉が風に裏返って白く光った。撮影の日、高窓の向こうで揺れていたのと同じ種類の木だった。学園の欅はもっと太く、枝ぶりも荒々しいが、葉が裏返るときの色は変わらない。

 クロノが、その葉を見ていた。

 見ていることに、雅也は気づいていた。気づいていて、自分も同じ枝を見た。風速を測るためではなかった。少なくとも、今は。

「……広報の方から、ご連絡はありましたか」

 しばらくして、クロノが言った。

「来週、初校を持ってくるそうだ。君にも写真を確認してほしいって」

「……初校」

「載せる写真を、本人が見て決める工程があるらしい。載せたくないものがあれば、外せる」

「……外せる」

 クロノはその言葉を、口の中で転がすように繰り返した。

 外せる、という言葉が、彼女の中でどんな形をしているのか、雅也には分からなかった。分からないまま、彼は机の引き出しに手を伸ばしかけて、やめた。引き出しの中には、担当契約の日に彼女から渡された写真が入っている。パドックを見ている自分の横顔。撮影の日、彼女の前で「今も机の引き出しにある」と言ってしまった一枚である。言ってしまったからといって、見せる理由はない。見せないからといって、そこにないことにはならない。

 クロノの耳が、引き出しの取っ手に指がかかったかすかな音のほうへ、ほんの少しだけ向いた。それから、何事もなかったように元の角度へ戻った。顔は窓のほうを向いたままだった。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……あの日、写真を撮られていたのは、私だけではなかったんですよね」

「俺も撮られてた」

「……トレーナーさんは、どの写真が載ってほしいですか」

 雅也は答えに詰まった。載ってほしい写真など、考えたこともなかった。載らないでほしい写真なら、いくつか思いつく。膝をついたときの自分の顔とか、腰の縫い目に手を置いたときの、たぶん硬くなっていた首の角度とか。

「……俺はいい。君の本だ」

「……私の、本」

「URAと広報が君の名前で出す本だ。俺は、写ってるだけだ」

 クロノは、また少し考えた。考えている間、彼女の指はもう一度、手帳の十日前の頁の端に触れていた。

「……写っているだけ、の人が、一番よく写っていることも、あります」

「何の話だ」

「……レース史の話です」

 そう言って、彼女は写真の束の一番上に、レールを覗き込む男の横顔を戻した。雅也が飛ばした一枚だった。

 

 その夜、寮の机で、クロノは手帳の十日前の頁を開いた。

 開くのは、撮影の日から数えて、たぶん十一度目だった。数えていないふりをしていたが、本当は数えていた。数えることをやめられる性分なら、そもそもこんな手帳は持っていない。

 頁の上半分は、朝のうちに書いた工程表で埋まっている。九時、到着。九時十分、閲覧室。九時二十五分、打ち合わせ。十時、衣装部屋。そこから先は、衣装を着たあとのことなので、時刻の書き込みが途中で一度途切れている。途切れたところから、夕方、制服に戻ってから書き足した走り書きが続く。衣装の裾の糸の色。ヘアメイク担当の言葉。背表紙の年号。ファンファーレ。欅の枝。手が冷たかったこと。そして――。

 そして、頁の一番下に、一行分の白がある。

 書かれていない一行。空けておくように言われた一行。

 クロノは、その白を見ていた。見ていると、あの日の石畳の匂いと、夕方の空気の軽さが戻ってくる。雨の気配が抜けていった空。藍色に変わりはじめた空の端。「俺の返事のところは、まだ空けておいてくれ」という声。

 記録というものは、書かれたことによって残る。彼女はずっとそう思ってきた。レース史の資料館で、何千という年鑑の頁をめくりながら、書かれなかったことは、歴史のどこにも残らないのだと思ってきた。書かれなかった勝負、記録されなかった涙、誰も撮らなかった瞬間。それらは消える。消えたものを、あとから誰かが推測で埋めることはできるけれど、推測は記録ではない。

 けれど、この頁の白は、消えたものの跡ではなかった。

 空けておかれたもの、だった。

 その違いを、彼女はまだうまく言葉にできなかった。言葉にできないことを、言葉にできないまま手帳に書くのは、彼女のやり方ではない。だから、白は白のまま、そこにあった。

 隣のベッドから、寝返りを打つ音がした。同室のラヴズオンリーユーが、薄い夏掛けの下で小さく身じろぎをしたのだ。クロノの耳が、その衣擦れの音に先に反応した。顔を上げる前に、手のほうが勝手に手帳を閉じていた。

「……クロノちゃん、まだ起きてるの?」

 眠そうな、柔らかい声だった。

「……はい。すみません。明かりを、落とします」

「いいのよ。でも、あんまり遅くならないようにね。明日の朝、湿気がすごいって天気予報で言ってたから」

「……はい」

 クロノはスタンドの明かりを落とした。暗くなった部屋の中で、閉じた手帳を胸の上に置き、しばらく天井を見ていた。窓の外で、夜の蝉が一匹だけ、思い出したように鳴いて、すぐに黙った。

 

  二

 

 初校が届いたのは、八月の最初の週だった。

 広報担当の女性は、撮影の日と同じように分厚いファイルを腕に抱えて、トレーナー室の扉をノックした。首から下げた入館証は学園のものに変わっていて、髪は夏らしく短く切りそろえられている。部屋に入るなり、彼女は除湿機を見て、それからクロノを見て、少しだけ笑った。

「こちらも、除湿が効いていますね」

「……はい。トレーナーさんが、一台、譲ってくださったので」

「譲ったんじゃない。置いてるだけだ」

「……置いてくださっているので」

 広報担当は、ファイルを長机の上に広げた。中から出てきたのは、大判の紙を二つ折りにして束ねたものだった。表紙はまだ仮のもので、白い紙の中央に、黒い細い文字で書名だけが刷られている。

『光の編年記 クロノジェネシス 特別ビジュアルブック』

 クロノは、その文字を見て、しばらく動かなかった。

「……編年記」

「書名の案は、いくつかあったんです」と広報担当は言った。「URAの側からは、もっと勝負服の名前に寄せた案も出ました。でも、最終的にこれになりました。レースの記録を年代順にまとめた本、という意味と、今回の撮影の衣装の、光の入り乱れる感じと。両方を拾えるので」

「……光が、年代順に並んでいる」

「そういうことになりますね」

「……とても、いい題だと思います」

 クロノは表紙の文字の上を、指先で一度だけなぞった。紙の上には、まだ何の凹凸もない。本になれば箔が押されるのかもしれない。けれど今はただの黒い印刷で、その黒い線の上を、彼女の指は資料館の年鑑の背表紙を撫でるときと同じ速さで通り過ぎた。

 構成は、三つの部に分かれていた。

 第一部は、これまでのレースの写真だった。小倉の新馬戦から、先日の宝塚記念まで。学園の広報部とURAが持っている記録写真の中から、一戦に一枚か二枚ずつ選ばれている。第二部が、今回の特別撮影。第三部は資料編で、戦績の一覧と年表、関係者の談話が収められることになっていた。

「年表のほうは、ご本人に確認していただくのが一番確実だと、編集の者が申しておりまして」

 広報担当がそう言って最終頁に近い紙を差し出すと、クロノの耳が、はっきりと前を向いた。

 それまでは、どちらかといえば遠慮がちに、写真の頁の上をさまよっていた視線が、急に一点に定まった。行頭から行末まで、一定の拍で視線が動いていく。記録を読むときの速さだった。雅也が隣で見ていると、その拍が、三行目で一度だけ止まった。

「……ここ、です」

「はい」

「アイビーステークスの日付が、一日、ずれています。十月の、二十日です。二十一日ではなくて」

 広報担当が慌ててペンを取り出した。

「失礼しました。確認いたします」

「……それと、ここの、京都記念の馬場の状態が、良になっていますが、重でした。前日の雨が残っていて……紙が、よれたので、覚えています」

「紙が」

「……控室で、メモ帳が」

 雅也は、そこで小さく咳払いをした。笑いを咳でごまかしたのを、クロノは横目で見て、何も言わなかった。言わなかったが、耳の先が一瞬だけ雅也のほうへ傾いた。

 広報担当は、クロノの指摘を一つずつ赤で書き込んでいった。全部で四か所あった。四か所目を書き込み終えたところで、彼女はペンを置き、感心したように息を吐いた。

「編集部の者が、三回見直したと言っていたんです」

「……三回では、足りないことも、あります。私も、自分のことだと、見落とすかもしれません。ですから、もう一度、別の方に」

「承知しました」

 それから、第二部の頁が開かれた。

 特別撮影の頁は、第一部とは紙の手触りが違っていた。わずかに光沢を抑えた厚い紙で、指の腹に吸いつくような感触がある。見開きの最初の頁に、書架の前に立つウマ娘の姿があった。

 月の光を布にしたような衣装。銀を含んだ白。背の高い書架を背に、踵に重心を落とし、顎を引き、視線をわずかに上げている。どこも揺れていない。裾のビーズも、光っていない。光るのは動いたときだけだからだ。写真なのに、動画の一時停止を見ているような、とカメラマンが言ったあの一枚だった。

 クロノは、その頁をしばらく見ていた。

 見ながら、彼女の中で何かが二つに分かれていくのを、彼女自身が感じていた。一つは、記録を読む目だった。これは何年何月何日の何時ごろ、どこで、誰によって撮られた写真か。光の角度から見て、午前十一時を少し過ぎたころ。書架の三段目の背表紙の並びから見て、閲覧室の東側。写っている衣装の仕様、耳飾りの位置、ベールの留め方。記録者の目は、そういうものを淡々と拾い上げていく。

 もう一つの目は、それができなかった。

 写真の中の自分が、自分であるということを、その目はうまく扱えなかった。見ているうちに、頬のあたりがじわりと熱くなってくる。この写真を、これから見知らぬ誰かが見る。駅の本屋で、学園の売店で、どこかの家の居間で。見知らぬ誰かが、この立ち方を見て、何かを思う。そのことを考えると、記録者の目のほうが、少しずつ後ろへ退いていく。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……これは、私、でしょうか」

 雅也は、頁を覗き込んだ。

「君だろ」

「……そう、ですよね」

「パドックの立ち方だ。重心が踵の少し前にある」

「……はい」

「一ミリも動いてない」

「……トレーナーさんには、そう、見えますか」

「見える。俺の記録でも、そうなってる」

 クロノは、小さく息を呑んだ。それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。雅也の記録、という言い方が、彼女の中の記録者の目を、もう一度前へ押し出してくれたようだった。

 頁がめくられた。

 次の見開きには、何枚かの写真が並んでいた。衣装部屋で裾の糸を指先で辿る手元のカット。ヘアメイクの鏡の前の、後ろ姿。そして、書架の前で、背表紙の年号を読んでいて頬を染め、耳が伏せかけたところで止まった一枚。

 その一枚は、頁の右側に、ほかよりも少し大きく配置されていた。

 クロノの耳が、今度こそ、はっきりと伏せかけた。写真の中の耳と、ほとんど同じ角度だった。伏せかけて、止まった。止まったのも、写真と同じだった。

 雅也は、それを見て、見なかったふりをしようとして、失敗した。

「……同じ角度だな」

「……言わないでください」

「悪い」

「……謝らないでください」

 広報担当は、この一連のやりとりの間、ファイルの別の頁に目を落としていた。落としたまま、口元だけで笑っていた。

「そちらの一枚は、カメラマンからの強い推薦で入っています。ご本人が一番欲しがる一枚だ、と申しておりました。撮影の日にも、同じことを言っていましたね」

「……はい。覚えています」

「キャプションの案もございます。ご確認いただけますか」

 写真の下に、小さな文字で一行が添えられていた。

 ――書架の前で。背表紙の年号に目を留めて。

 クロノは、その一行を読み、もう一度読んだ。

「……あの」

「はい」

「……正確には、私が読んでいたのは、年号だけではなくて……三段目の、左から七冊目の背に、年鑑の巻号と、刊行年と、発行元の名前が、金の文字で……その、年号から数えて、明治の終わりの……」

 言いかけて、クロノは口をつぐんだ。

「……すみません。つい」

「いえ」広報担当は笑いをこらえきれずに言った。「それ、キャプションに入れましょうか」

「……入れないでください」

「冗談です」

 ヘアメイク担当と同じような冗談の言い方だった、とクロノは思った。あの日の現場にいた人たちは、皆、少しずつ同じ種類のやさしさを持っていた。からかっているようで、からかっていない。踏み込みそうで、踏み込まない。

 頁がめくられるたびに、あの日が戻ってきた。欅の枝を二人で見ていたカット。アシスタントが、お二人とも同じところを見ていらっしゃる、と笑ったあの一枚は、ほとんど手を加えずにそのまま載せられていた。正面を向くように言われていたのに、二人とも正面の少し右上、窓の外を見ている。クロノの視線と雅也の視線が、写真の外の同じ一点で交わっている。その一点は、写真には写っていない。欅の枝は、画面の外にある。

「……これ、載せるのか」

 雅也が言った。首の後ろに手をやりかけて、途中で止めた。

「載せたいと、編集は申しております」と広報担当は言った。「お二人とも、よそ見をされている写真なので、最初は外す方向でした。でも、カメラマンが、これは外すなと」

「理由は」

「……二人が同じものを見ている写真は、なかなか撮れないんだそうです。並んで立っていても、人は、たいてい別々のものを見ているので」

 雅也は、それ以上は何も言わなかった。

 腰の縫い目に手を添えたカットもあった。雅也の手は、指の付け根だけが衣装に触れていて、掌は浮いている。写真で見ると、その浮き方がよく分かった。クロノの背中は、写真の中でもわずかに硬い。硬さがほどける前の一瞬を、シャッターは切り取っていた。

 クロノは、その写真の、雅也の指先を見ていた。

 手が冷たかった。そのことは、写真には写っていない。写真に写るのは形と光だけで、温度は写らない。けれど、彼女はその指先を見ると、あの日の、衣装越しに伝わってきたひやりとした感触を、今でもはっきり思い出すことができた。記録には残らない。けれど、覚えている。覚えていることは、記録ではない。けれど、確かにある。

 その区別を、彼女は長いあいだ、きちんと分けて考えてきたつもりだった。

「……表紙は」

 雅也が訊いた。

 広報担当は、ファイルの一番後ろから、別に分けてあった一枚を取り出した。

 指輪の、撮り直しのカットだった。

 月の色の衣装を着たウマ娘が、黒い礼装の男を見上げている。左手の指に銀の輪があって、その手を、男の手がまだ離しきっていない。裾の縁のビーズが、右から左へ順番に光っている途中。そして、よく見なければ分からないほどわずかに、裾の後ろの布が持ち上がっている。

「……尻尾が、写っています」

 クロノは言った。撮影の日と、同じ言葉だった。

「写っています」と広報担当も言った。「カメラマンから、ご本人がそのままでとおっしゃった、と聞いております。編集部でも、修整はしておりません。……外しますか」

 クロノは、首を振った。

「……いいえ。そのままで、お願いします」

 理由は、言わなかった。言わなくても、広報担当は頷いた。頷いてから、彼女はほんの少しだけ声を落とした。

「念のため、お伝えしておきます。当日、撮影が止まっていた時間のものは、一枚も入っておりません。撮っていないものは、載りようがありませんので」

 トレーナー室の空気が、一瞬だけ静かになった。除湿機の唸りだけが、変わらずに続いていた。

「……はい」

 クロノが答えた。

「……ありがとうございます」

 雅也は何も言わなかった。言わなかったが、机の端に置いていた手が、ほんの少しだけ動いた。書類の角を揃えようとして、揃えるべき書類が手の下にないことに気づいた動きだった。

 

  三

 

 八月の半ば、広報担当から、談話の原稿がまとめて届いた。

 第三部の資料編に収める予定の、撮影に関わった人たちの言葉だった。ディレクター、カメラマン、衣装担当、ヘアメイク担当。それぞれが、あの日のことを数百字ずつ語っている。本人の確認を経てから入稿するので、事実に誤りがないか見てほしい、と添え書きがあった。

 届いたのは、朝の練習が終わった直後だった。朝の坂路は、湿気がまだ地面から立ち上がりきらない時間を選んで使っている。それでも走り終えたクロノの前髪は額に貼りつき、白いメッシュの部分だけが、濡れて少し透けて見えた。タオルで髪を押さえながらトレーナー室に戻ってきた彼女は、机の上の封筒を見て、タオルを首にかけたまま手を止めた。

「……先に、手を洗ってきます」

「読むだけだぞ」

「……原稿は、紙なので」

 雅也はそれ以上言わなかった。彼女が紙に触れる前に手を洗うのは、今に始まったことではない。資料館でも、古書店でも、湿った手で頁を触らない。三年半見てきて、例外を見たことが一度もなかった。

 戻ってきたクロノは、ハンカチで指の一本一本を拭ってから、封筒の中身を取り出した。

 衣装担当の談話が、一番長かった。

 ――ご本人の勝負服のお名前に、光が入り乱れて輝くさま、という意味があると伺い、そこから考えました。白と言い切れない、わずかに銀を含んだ生地を選んでいます。月の光を布にしたら、と申し上げると大げさですが、作っている間、私たちの作業場ではずっと「月の色」と呼んでいました。裾の重なりの縁には、極小のビーズを縫い込んであります。一粒ずつ、糸の張りをわずかに変えてあるので、ご本人が動くと、光るまでの時間が一粒ごとにずれます。止まっているときは光りません。動いたときだけ、少しずつ遅れて光ります。

 クロノの指が、原稿の余白を小さく叩いた。ペンを持っていないのに、何かを書き留めようとする指の動きだった。

 ――一番下の縁の糸だけ、色を変えました。ご本人の髪は、毛先に向かって色が深くなります。その順番どおりに、暗い銀から黒に近い色へ、糸を何種類も継いでいます。撮影の日、ご本人が最初にその糸を指で辿ってくださいました。気づいていただけるかどうか、正直に申し上げると、賭けのようなものでしたので、あのときは作業場の全員の苦労が報われた気がしました。

 ――背面の構造について。ウマ娘さんの衣装は、尻尾のことを考えずには作れません。内側の層は尻尾の付け根を避けて左右に割り、外側の層は浅く覆うだけにしています。尻尾は押さえません。歩いたときの振れ幅と、止まったときに布がどう追いつくかは、学園広報さんからお借りした宝塚記念の映像を、何度も見て計算しました。ゴールのあと、減速して止まるまでの間に、尻尾が三回揺れるんです。三回目だけ、間隔が長い。これは撮影当日に、ご本人から教えていただいたことです。私どもは二回目までしか数えられていませんでした。それを伺って、止まったあとに一拍遅れて布が落ちるよう、裾の内側の重りを少しだけ後ろへずらしています。

 ――左耳の飾りは、ご本人が普段から着けていらっしゃるものを、そのまま使っています。真珠の飾りに替える案もご用意していましたが、そのままでとおっしゃったので。結果として、あの飾りがあってよかったと思っています。衣装がどれほど光っても、あの小さな歯車のおかげで、写真の中のご本人が、ご本人のままでいらっしゃる。

 読み終えたクロノは、しばらく原稿を膝の上に置いたまま動かなかった。

 動かなかったが、尻尾が、椅子の脇でほんのわずかに持ち上がり、それから、ゆっくりと下りた。揺れたのではない。何かを確かめるように一度だけ浮いて、そっと戻った。本人は、それに気づいていないようだった。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……この、耳飾りのところ、ですが」

「うん」

「……私が、どうして、そのままでとお願いしたのか、は、書かれていませんね」

 雅也は、原稿を横から覗き込んだ。確かに書かれていなかった。衣装担当は、クロノがあの日言った言葉を、一言も引いていなかった。時を刻むものなので。今日のことも、ちゃんと、刻んでおきたいので。あの言葉は、衣装担当とクロノと、衣装部屋にいた数人だけが聞いている。

「……書いてほしかったか」

「……いいえ」

 クロノは首を振った。

「……書かれていなくて、よかったです。……書かれていないのに、ちゃんと、分かる文章になっているのが……すごいと、思いました」

 彼女は原稿の、耳飾りの段落のところに、鉛筆でごく小さな丸をつけた。修正の印ではなかった。確認済みの印でもなかった。資料館で、何度でも読み返したい一節に出会ったときにだけ、彼女がつける印だった。雅也はその印を、これまでに数えるほどしか見たことがない。

 カメラマンの談話は、短かった。

 ――記録をなさる方だと伺っていました。記録する人を撮るのは難しい。撮られることに慣れていないからではなく、撮る側の気持ちが分かってしまうからです。こちらがシャッターを切る瞬間を、あの方は、たぶん、半分くらい読んでいらっしゃった。ですから、一番いい写真は、あの方が何か別のものを読んでいるときに撮れました。書架の年号とか、窓の外の枝とか。

 ――表紙の一枚について。撮り直しのカットです。一度目の撮影のあとに少し休憩を入れて、二度目に撮りました。どうして撮り直したのかは、現場の判断です、とだけ申し上げておきます。

 クロノの耳が、その一行のところで、ぴたりと止まった。止まったまま、次の行へ進めなかった。

 現場の判断です、とだけ。

 カメラマンは、撮影が止まっていた十数分間のことを、そういう言葉で包んでいた。包んだうえで、包んだことが分かるように書いていた。隠しているのではない、と言っているような書き方だった。ここには書かないものがある、と正直に言ったうえで、書かない。

 クロノは、その一行をもう一度読んだ。三度目に読んだところで、ようやく次の行へ進んだ。

 ――裾の後ろの布が、少し持ち上がっています。ご本人に確認したうえで、そのまま使っています。なぜ持ち上がっているのかは、写真を見る方それぞれに考えていただければと思います。私から申し上げられるのは、あの瞬間の閲覧室が、とても静かだったということだけです。

「……静か、だったでしょうか」

 クロノは、小さく呟いた。

「……あの、ときは」

 雅也は、答えなかった。答えられなかった。あのとき閲覧室に流れていたのは、ごく小さな音量の金管の旋律だった。静かではなかった。けれど、カメラマンにとってはたぶん、静かだったのだ。音があるのに静かだという状態を、雅也はうまく説明できなかった。説明できないまま、カメラマンの書き方は正しいと思った。

 クロノは、談話の原稿をすべて読み終えると、揃えて封筒に戻し、添え書きの欄に、修正なし、とだけ書いた。修正なしと書いたのは、クロノジェネシスとしては珍しいことだった。年表には四か所の赤を入れた彼女が、他人の言葉には、一字も手を入れなかった。

「……他人の記憶は、その人の記録なので」

 封を閉じながら、彼女は言った。

「……私が直していいものでは、ありません」

 

 見本誌が届いたのは、八月の二十七日だった。

 午後の練習の前に、広報担当から連絡があり、夕方、トレーナー室に小さな段ボール箱が運ばれてきた。宛名は早瀬雅也となっていて、中には十冊の本が、薄い紙に包まれて入っていた。

 雅也は箱の蓋を開け、一冊を取り出そうとして、手を止めた。

 隣に、クロノが立っていた。練習着のまま、首にタオルをかけ、息はもう整っている。整っているのに、胸の前で組んだ手の指が、細かく組み替えられていた。

「……先に、見るか」

「……トレーナーさんの宛名なので」

「君の本だ」

「……では、一緒に」

 雅也は包み紙ごと一冊を取り出し、机の上に置いた。

 クロノは、すぐには触れなかった。

 先に洗面所へ行き、手を洗い、ハンカチで拭い、戻ってきて、もう一度自分の掌を見た。湿っていないことを確かめてから、両手で本を持ち上げた。持ち上げる前に、まず背を見た。背には、書名と、自分の名前と、発行元の名前が並んでいる。背の文字の色は、表紙の写真に使われた衣装と同じ、銀を含んだ白だった。

 次に、彼女は本を裏返した。裏表紙には何も写っていなかった。淡い灰色の地に、小さく価格と、書籍の番号が刷られているだけだ。そこも、ちゃんと読んだ。

 それから、表紙を見る前に、彼女は最後の頁を開いた。

 奥付だった。

 発行日の欄に、九月四日、とあった。その下に、初版第一刷発行。企画、URA、日本ウマ娘トレーニングセンター学園広報部。撮影。衣装制作。ヘアメイク。協力者の名前が続き、印刷所と製本所の名前で終わる。クロノの視線は、その一行一行を、年鑑の奥付を読むときとまったく同じ拍で辿っていった。

 雅也は、それを黙って見ていた。

 この子は、いつもこうだった。資料館で古い本を手に取るとき、彼女はまず背を読み、裏を読み、奥付を読む。いつ、誰が、どこで作った本なのかを確かめてから、ようやく最初の頁を開く。記録を読む人間の、記録に対する礼儀のようなものだった。それを、自分が写っている本に対しても、彼女はまったく同じようにやっている。

「……九月四日」

 クロノが、奥付の日付を声に出して読んだ。

「……土曜日、ですね」

「そうなのか」

「……はい。渡仏までは、あと十二日です」

 彼女は奥付の頁の端を指で押さえ、何かを書き留めるように、しばらくそのままにしていた。それから、ようやく本を閉じ、表紙を上にして机に置いた。

 表紙が、そこにあった。

 初校で見たものと、同じ写真のはずだった。けれど印刷された表紙は、紙の上の試し刷りとはまるで違って見えた。光沢を抑えた紙に刷られた月の色は、見る角度によって灰にも青にも寄る。衣装の生地そのものと同じように。裾の縁のビーズの光は、印刷のインクの粒の中で、それでも右から左へ順番に走っていた。

 そして、裾の後ろの布の持ち上がりが、試し刷りのときよりも、はっきりと見えた。

 よく見なければ分からない、という程度には変わりない。けれど、紙が上等になった分だけ、布の陰影が深くなっていた。持ち上がった布の下に、ほんの少し、影ができている。その影の形が、何かがそこで動いていたことを、静かに示していた。

 雅也は、その影を見ていた。

 見ているうちに、閲覧室の午後の光が戻ってきた。蜂蜜を薄く溶かしたような色から、橙に傾いていった光。ごく小さな音量で流れ出した金管の旋律。指を通っていった銀の輪。見上げてきた顔。そして、その前の、十数分前の、キャップのはまったレンズと、閲覧室の埃の漂う空気の中で消えかけた声。

 彼は、表紙から目を離した。

 離して、窓のほうを見た。窓の外には、夕方の欅があった。風はなかった。枝は一本も揺れていなかった。揺れていない枝を見ても、風速は分からない。分からないのに、彼はしばらくそこを見ていた。咳払いを一つした。もう一つした。

「……トレーナーさん」

「……ん」

「……どう、ですか」

「……いい本だ」

「……はい」

「……表紙も」

「……はい」

「……よく、刷れてる」

 クロノは、小さく息を呑んだ。それから、ほんの少しだけ笑った。

 雅也の言葉が、どれも短く、どれも途中で途切れていることに、彼女は気づいていた。気づいていて、それ以上は訊かなかった。

 

 その日の最後の練習のあと、雅也はクロノの左脚を診ることになっていた。

 張りが消えてから、坂路の本数を半分にした四日が過ぎ、そのあとも念のため、練習の終わりに脹脛の状態を確かめている。医療スタッフの判断はもう出ていて、雅也がやるのは、その判断のあとに残る細かな変化を、自分の手と目で拾っておくことだけだった。痛みがないか、熱がないか、張りが戻っていないか。彼はそれを、毎回、本人に声をかけてから行う。

「左、診るぞ」

「……はい。お願いします」

 トレーナー室の隅の長椅子に、クロノが腰を下ろした。腰を下ろす前に、一度だけ腰を浮かせて、尻尾を逃がす。何でもない動作だった。雅也はその前にしゃがみ、彼女の左の脹脛に手を添えた。

 クロノの脚が、びくりと小さく跳ねた。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……手が、冷たいです」

 雅也は、そこで初めて、自分が手を温めていなかったことに気づいた。

 脚を見る前には、必ず手を温める。掌をこすり合わせるか、湯を張った洗面器に手を浸すか、それができなければ自分の首筋に押し当てて体温を移す。三年半、ほとんど欠かしたことのない手順だった。冷たい手で触れると、筋肉が反射的に縮む。縮んだ筋肉からは、本当の張りが読み取れない。だから温める。理屈で覚えた手順で、理屈で覚えたものは、理屈が働いているかぎり忘れない。

「……悪い」

 雅也は手を離し、掌を二度、強くこすり合わせた。それから、もう一度、脹脛に手を添えた。今度は、クロノの脚は跳ねなかった。

「張りは、ないな」

「……はい」

「熱もない」

「……はい」

「……右と比べても、差はない。明日から、坂路は元の本数に戻そう」

「……はい」

 クロノは、返事をしながら、雅也の顔を見ていなかった。

 見ていたのは、彼の手だった。今はもう温まって、脹脛の上で、いつもの確かさで筋肉の張りを探っている手。さっきまで、冷たかった手。

 手を温めるのを忘れるのは、この人が動揺しているときだけだ。

 そのことを、クロノは知っていた。いつ知ったのか、正確な日付は手帳にある。撮影の日よりずっと前のことだった。二年目の秋、雅也が、ある記者から無遠慮な質問を受けた日の帰りに、彼は彼女の脚を冷たい手で診た。そのときも彼は、悪い、と言って掌をこすった。それが二度目だった。三度目は、撮影の日。腰の縫い目に、指の付け根だけを置いたとき。

 今日で、四度目になる。

 クロノは、その数字を、頭の中の手帳に書き込んだ。本物の手帳には、たぶん書かない。書いたら、この人が動揺していたことを記録として残すことになる。記録に残せば、それはいつか誰かに読まれうるものになる。読まれてはいけないとまでは思わない。けれど、この数字は、この人と、自分のあいだにだけあればいいと思った。

 表紙を見て、動揺したのだ、と彼女は思った。

 そう思った瞬間、耳の付け根が熱くなるのが分かった。耳が、勝手に少しだけ後ろへ引かれかけた。伏せるのではなく、何か照れくさいものから顔を背けるように、ほんのわずかに。クロノはそれを押しとどめようとして、押しとどめきれなかった。

 雅也は、脹脛から手を離して立ち上がった。立ち上がる途中で、クロノの耳の角度に目が行き、それから、何も見なかったような顔で、机の上の本のほうへ視線を移した。

「……明日から、元の本数だ」

「……はい。明日から、元の本数です」

 クロノは同じ言葉を繰り返した。繰り返すことで、何かを平らに均そうとするように。

 窓の外で、ようやく欅の枝が揺れた。夕方の風が、どこかから吹きはじめたのだった。二人とも、それを見た。見て、どちらも風速のことは口にしなかった。

 

  四

 

 栗東寮の廊下は、夜になると、どこか遠い場所の匂いがした。

 夏の終わりの湿った空気の中に、誰かの部屋から漏れてくるシャンプーの匂いと、給湯室で温められた牛乳の匂いと、窓の外の植え込みから上がってくる夜の土の匂いが、層になって漂っている。天井の蛍光灯は、消灯前の時間帯だけ、少しだけ光量を落とされていた。どこかの部屋で笑い声がして、すぐに誰かが「しーっ」と言い、笑い声がひそひそ声に変わった。

 クロノは、胸の前に一冊の本を抱えて、その廊下を歩いていた。

 薄い紙に包まれたままの見本誌だった。雅也は十冊のうち三冊を、彼女に持たせた。一冊は君の分、一冊は家族に送る分、もう一冊は好きにしろ、と言った。好きにしろ、と言われた一冊をどうするのか、彼女はまだ決めていなかった。決めていないまま、三冊のうち一冊だけを手提げから出して、胸に抱えて歩いていた。ほかの二冊は、手提げの底で、除湿剤の小袋と一緒に眠っている。

 部屋の前で、彼女は立ち止まった。

 扉の向こうから、話し声が聞こえていた。明るく、柔らかい声。誰かに向かって手を振っているような、弾んだ抑揚。クロノの耳が、その声のほうへ静かに向いた。声は、すぐに終わりの言葉を告げ、少し間を置いてから、ふう、と長い息をついた。

 配信が終わったのだ、とクロノは思った。

 同室のラヴズオンリーユーは、インターネット上で自分のファンクラブを運営していて、会員のために、よく動画の配信をしている。夜のこの時間帯は、たいてい短い配信の枠を取っていて、クロノはそのあいだ、廊下の端の談話スペースで本を読んで待つか、あるいは部屋の中で、画面に映らない位置に座って、音を立てないように手帳を書いている。今夜は、帰りが遅くなったせいで、終わりがけに戸口に立つことになった。

 クロノは、声が完全に止んで、機材を片づける物音がし始めてから、そっと扉を叩いた。

「はーい。どうぞ」

 扉を開けると、ラヴズオンリーユーが机の前で振り返った。配信用の小さな照明を畳みながら、長い髪を片手で耳の後ろへ流している。部屋着のカーディガンの袖が、指先まで少し余っていた。

「おかえりなさい、クロノちゃん。遅かったのね」

「……ただいま、戻りました。すみません。配信の、最中でしたか」

「もう終わってたから大丈夫。最後の挨拶だけ聞こえちゃった?」

「……少しだけ」

「ふふ。恥ずかしいなあ」

 恥ずかしいと言いながら、彼女はちっとも恥ずかしそうではなかった。照明を棚に戻し、机の上のマイクに布をかけ、それから改めてクロノのほうへ向き直った。向き直った瞬間に、その目が、クロノの胸元に抱えられた紙包みに留まった。

「……それ」

「……はい」

「もしかして、例の?」

 クロノは、頷いた。

 撮影のことは、ラヴズオンリーユーには話してあった。七月の、撮影の前の晩に。明日は一日、撮影で帰りが遅くなります、と言った。何の撮影かと訊かれて、少し迷ってから、特別ビジュアル企画です、と答えた。ウェディングの、とまでは言えなかった。けれど、翌日の夜に帰ってきたクロノの顔を見て、ラヴズオンリーユーは、何も訊かずに温かいお茶を淹れてくれた。そのあと、学園の中で企画の話が少しずつ広まって、彼女も内容を知ったはずだった。知ったうえで、彼女は一度も、そのことをからかわなかった。

「……見本誌、というものを、いただきました。発売は、来週の土曜日です」

「見せてもらってもいい?」

「……はい。そのつもりで、持ってきました」

 クロノは机の上に紙包みを置き、包みを開いた。

 表紙が現れた瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。

 ラヴズオンリーユーは、すぐには何も言わなかった。いつもの彼女なら、きっと最初の一秒で何か言う。まあ、とか、かわいい、とか、素敵、とか。そういう言葉を、彼女は惜しまない人だった。惜しまないことが、彼女にとっての誠実さの形でもあった。けれど今は、その最初の一秒に、何も言わなかった。机の上の表紙を見下ろして、ただ、じっと見ていた。

 クロノの尻尾が、椅子の脇で落ち着きなく一度だけ動いた。沈黙の意味を、測りかねているのだった。

「……ラヴちゃん」

「……うん。ごめんね。ちょっと、見とれてた」

 ラヴズオンリーユーは、ようやく顔を上げた。

「すごく、綺麗。クロノちゃん」

「……衣装が、とても、よいものだったので」

「衣装もだけど。クロノちゃんが、よ」

 クロノは、何と答えていいか分からずに、視線を表紙の端に落とした。

 ラヴズオンリーユーは、机の横にしゃがみこむようにして、表紙に顔を近づけた。触れはしなかった。見本誌だと分かっているから、指紋をつけないように、少し離れたところから覗き込んでいる。その目が、写真の上をゆっくりと移動していった。月の色の衣装。銀の輪。見上げている顔。黒い礼装の男の、半分だけ写った横顔。裾のビーズの光。

 そして、その目が、裾の後ろで止まった。

「……あら」

 クロノの耳が、ぴくりと跳ねた。

「ここ。裾の後ろ、布が少し持ち上がってる」

「……はい」

「尻尾?」

「……はい」

「揺れてたのね」

「……はい」

 三度、同じ返事をした。三度目の声は、一度目よりも小さかった。

 ラヴズオンリーユーは、表紙から目を上げて、クロノの顔を見た。クロノの頬が、耳の付け根のほうへ向かって、少しずつ色を濃くしていくのが見えた。その色の濃くなり方を、長く同じ部屋で暮らしてきたラヴズオンリーユーは、よく知っていた。レースの録画を見ていて、自分の尻尾が動いていたことに気づいたときの色だった。

「……何か、聞こえてたの?」

 ラヴズオンリーユーは、やわらかく訊いた。

 クロノは、答えなかった。

 答えられなかったのではない。答えないことを、選んだのだった。あの閲覧室に流れていた金管の旋律のことを、誰かに話すのは、まだ早い気がした。話してはいけないわけではない。音響担当が音量を上げたことも、ファンファーレに似た和音が鳴っていたことも、撮影の現場ではごく当たり前の出来事だった。けれど、それを話そうとすると、そこへ至るまでの十数分間のことが、糸をたぐるように一緒に出てきてしまいそうだった。

 黙っているクロノの耳が、ゆっくりと後ろへ寝ていった。伏せるというほどではなかった。けれど、何かを守るように、頭の丸みに沿って少しだけ倒れた。

 ラヴズオンリーユーは、その耳の角度を見て、それ以上は訊かなかった。

「……言わなくていいのよ」

 彼女は言った。

「クロノちゃんが、そのままでって言ったんでしょう。この布」

「……はい」

「じゃあ、それが答えね。揺れてたままで残したいくらい、何か、いいことがあったってことでしょう」

 クロノは、小さく頷いた。頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。ラヴズオンリーユーも、それ以上は何も言わなかった。代わりに、立ち上がって、部屋の隅の電気ケトルのスイッチを入れた。

「お茶、飲む?」

「……はい。いただきます」

「晩ごはんは、ちゃんと食べた?」

「……食べ、ました」

「何を?」

「……食堂で、定食を」

「おかずは何だった?」

「……」

「クロノちゃん」

「……覚えて、いません。見本誌のことを考えていたので」

 ラヴズオンリーユーは、呆れたように笑って、棚の上の缶からクッキーを二枚取り出し、小皿に載せてクロノの前に置いた。

「覚えてないのは、食べてないのと半分同じよ。これも食べて」

「……はい」

 これは、いつものことだった。

 クロノは、熱が入ると日常のあれこれを取りこぼす。食事を忘れ、寝る時間を忘れ、髪を乾かすのを忘れる。そういうとき、同室のラヴズオンリーユーは、決して声を荒らげずに、けれど決して見逃さずに、ひとつずつ拾い上げてくれる。今日は食べたの、何を食べたの、髪がまだ濡れてるわよ、もう寝る時間よ。優しく諭す、という言葉が、これほど似合う人をクロノはほかに知らなかった。

 オークスの夜も、そうだった。

 クロノは、そのことを思い出していた。思い出すまいとして、思い出していた。同室の相手の無敗を、自分が止めた夜。寮に帰れずに、学園の資料室にいた夜。雅也が見つけてくれたあと、寮に戻る決心がつかないまま資料室の椅子に座っていると、扉が開いて、ラヴズオンリーユーが立っていた。何を言われるのだろうと身構えたクロノに、彼女が最初に言ったのは、晩ごはん食べてないでしょう、という言葉だった。

 先に立ち直ったのは、ラヴズオンリーユーのほうだった。

 あの夜のことを、二人はそれ以来、一度も言葉にしていない。していないけれど、あの夜から今日まで、ラヴズオンリーユーは毎晩のように、今日は食べたの、と訊いてくる。クロノはそれに、毎晩のように答えている。その繰り返しの中に、あの夜の続きがあるのだと、クロノは思っていた。

 ケトルが、小さく沸騰の音を立てた。

 ラヴズオンリーユーは、湯呑みを二つ並べて茶を淹れながら、背中越しに言った。

「ねえ、クロノちゃん」

「……はい」

「今日の配信でね、ファンクラブのみんなに、来週楽しみにしてることある? って訊かれたの」

「……はい」

「だから、同室の子の本が出るの、って言っちゃおうかと思って。……言っちゃだめ?」

 クロノの耳が、ぴんと立った。

「……あの」

「うん」

「……だめ、では、ありません。でも……」

「でも?」

「……部屋の、様子は、映さないでいただけると……それと、この本が、ここにあることも」

 ラヴズオンリーユーは振り返って、にっこりと笑った。

「当たり前よ。部屋もクロノちゃんも、映したりしないわ。それに、この見本誌のことも言わない。発売日より前に中身の話をしたら、ずるいもの」

「……ずるい、ですか」

「ずるいわよ。みんなには、発売日に、自分で本屋さんに行って、自分で見つけてもらいたいの。表紙を最初に見る瞬間って、一回しかないでしょう。その一回を、私がネタばらしで取っちゃったら、みんなの分の愛が減っちゃう」

 愛が減る、という言い方が、クロノにはよく分からなかった。分からなかったが、ラヴズオンリーユーがそれを本気で言っていることは分かった。この人にとって、ファンと分かち合うものは、いつも「愛」という言葉で呼ばれる。応援という名の愛をもらい、勝利という名の愛を返す。それが彼女の、走る理由の一つだった。

「……ラヴちゃんは」

「うん?」

「……見本誌、一冊、差し上げましょうか。……好きにしろ、と言われた分が、あるので」

 ラヴズオンリーユーは、湯呑みを両手に持ったまま、少し考えた。それから首を振った。

「ありがとう。でも、いらないわ」

「……いらない」

「うん。私の分は、発売日に、自分で買うの。ちゃんとお金を出して、本屋さんの袋に入れてもらって、それを持って帰ってくるの」

「……どうして、ですか」

「だって、それが応援っていうものでしょう?」

 彼女は、湯呑みを一つクロノに手渡した。湯呑みの熱が、クロノの掌にじんわりと移ってくる。

「私がもらうのは、いつもファンのみんなからの応援なの。だから、たまには私も、誰かを応援する側になりたいのよ。クロノちゃんの本を一冊買うのは、私からクロノちゃんへの、小さな愛なの。……ね?」

 クロノは、湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。

 黙っているあいだに、尻尾が、ゆっくりと一度だけ揺れた。椅子の脇で、床に届くか届かないかのところを、振り子のように行って、戻った。ラヴズオンリーユーは、それを見て、何も言わずに微笑んだ。本人は、たぶん気づいていなかった。

「……はい。では、発売日に」

「うん。発売日に」

 ラヴズオンリーユーは自分の湯呑みに口をつけ、それから、ふと思い出したように言った。

「あ、それとね」

「……はい」

「髪の色。前より明るくなったって、ずっと気にしてたでしょう」

 クロノの肩が、わずかに固くなった。

「……はい」

「この写真、すごく綺麗に写ってる。衣装の色と、髪の色が、ちょうど同じくらいの明るさで。……私、前の暗い色も好きだったけど、今の色も好きよ。月の光みたい」

 クロノは、表紙の写真を見下ろした。

 ヘアメイク担当にも、同じようなことを言われた。今日の衣装には、今の色のほうが合う、と。三年前の色だったら、衣装のほうを暗く作り直していたかもしれない、と。そのときも、今も、クロノは同じ気持ちで、その言葉を聞いていた。気にしていたことが、誰かの目の中では、少しも欠けたものとして映っていない。そのことに、どう応えればいいのか分からない気持ちだった。

「……ありがとう、ございます」

「どういたしまして。……さ、お茶飲んだら、髪乾かしてね。まだ湿ってるわよ、前髪」

「……あ」

 クロノは自分の前髪に手をやった。午後の練習のあとにシャワーを浴びて、そのまま乾かすのを忘れていた。雅也の手が冷たかったことを考えていたから、とは言えなかった。

「ドライヤー、使っていいから。その間に私、明日の配信の台本、考えてるから」

「……台本が、あるのですか」

「ないけど、あるふりをするの。そのほうが、クロノちゃんが気を遣わずに済むでしょう」

 ラヴズオンリーユーはそう言って、自分の机に戻った。本当に何かを書き始めたのか、ペンを持ってノートを開いた。開いたノートの頁は、クロノの位置からは見えなかった。

 クロノは、見本誌を丁寧に紙で包み直し、自分の机の、一番湿気の少ない引き出しにしまった。引き出しの中には、除湿剤の小袋が三つ入っている。その隣に、本を平らに置いた。置いてから、引き出しを閉める前に、もう一度だけ表紙の端を見た。包み紙の隙間から、月の色がほんの少しだけ覗いていた。

 ドライヤーの風が、湿った前髪を少しずつ軽くしていく。温かい風を耳に当てないように、手首の角度を気をつける。鏡の中の自分の髪は、暗い銀から、毛先に向かって黒へ移っていく。その移り方が、衣装の裾の糸と同じ順番であることを、クロノはもう知っていた。知っているのに、鏡の中で確かめずにはいられなかった。

 背後で、ラヴズオンリーユーがペンを走らせる音がした。

 配信の台本など、本当はないのだろう、とクロノは思った。あるふりをしている、とラヴズオンリーユー自身が言ったのだから。けれどペンの音は、確かに紙の上を走っていた。何を書いているのかは分からない。分からないままでいいと、クロノは思った。人には、他人の記録を覗かないでいる礼儀がある。自分の手帳の、あの白い一行を、誰にも覗かれたくないのと同じように。

 ドライヤーを止めると、部屋の中が急に静かになった。

 その静けさの中で、ラヴズオンリーユーが、背中越しに小さな声で言った。

「ラヴミー♡ ラヴユー♡……なんてね。来週の配信の出だし、これでいこうかな」

「……いつもと、同じでは」

「いつもと同じが、一番大事なのよ」

 クロノは、少しだけ笑った。

 笑った拍子に、耳が揺れた。揺れた耳が、窓の外の、夜の植え込みで鳴き始めた虫の声を拾った。蝉ではなかった。秋の虫だった。八月はもう、終わりかけていた。

 

  五

 

 九月四日の朝、クロノは五時四十分に目を覚ました。

 目覚ましは六時に合わせてあった。二十分早く目が覚めたことを、彼女は手帳の今日の頁の一番上に書き込んだ。五時四十分、起床。予定より二十分早い。理由の欄は、空けておいた。理由は分かっていたが、書くほどのことではないと思った。

 隣のベッドでは、ラヴズオンリーユーがまだ眠っていた。夏掛けを肩まで引き上げ、長い髪を枕の上に扇のように広げている。昨夜も遅くまで配信の準備をしていたらしく、机の上には、閉じたノートと、飲みかけのハーブティーの湯呑みが残っていた。

 クロノは音を立てないように着替え、手提げに一眼レフと手帳と財布を入れた。財布の中身を一度確かめて、それから、確かめたことをもう一度確かめた。発売日に自分で買う、とラヴズオンリーユーは言った。その言い方が、昨夜からずっと、胸のどこかに残っていた。

 寮の玄関を出ると、朝の空気は思ったよりも乾いていた。九月に入って、ようやく夏の湿気が一段だけ引いたのだった。空は薄く青く、植え込みの葉の先に、夜のうちに降りた露がまだ残っている。

「おや、早いね。ポニーちゃん」

 玄関脇の花壇の前に、寮長のフジキセキが立っていた。如雨露を片手に、朝の水やりをしているところだった。朝日を背にして振り向いたその姿は、どこか舞台の袖から出てきた役者のようで、クロノは一瞬、自分が客席にいるような気がした。

「……おはようございます。寮長」

「おはよう。今日は練習、午後からだったね。こんな時間にどこへ?」

「……駅前の、書店へ」

 フジキセキは、ああ、と得心したように頷いた。

「そうか。今日だったね、君の本が出るのは」

「……ご存じだったのですか」

「寮長だからね。寮の子の晴れ舞台の日くらいは、覚えているさ」

 フジキセキは如雨露を傾け、花壇の端の小さな花に水をやった。水は細い弧を描き、朝の光を受けて、一粒ずつ時間をずらすように光った。クロノは、その光り方を見て、衣装の裾のビーズを思い出した。

「行っておいで。開店前に着いても、慌てずにね。本は逃げないから」

「……はい。行ってまいります」

 クロノは深く頭を下げ、門のほうへ歩き出した。数歩行ってから、背後でフジキセキが、誰にともなく小さく言うのが聞こえた。

「……いい朝だ」

 クロノの耳が、その声のほうへ一瞬だけ向き、それから前へ戻った。

 

 駅の改札を通るとき、クロノはいつものように、心の中で小さく呟いた。

 ――ゲートイン完了。

 呟いてから、今日は本当に口に出していなかったかどうか、一瞬だけ不安になった。周りを見回したが、朝の改札を行き交う人たちは、誰も彼女のほうを見ていなかった。休日の朝の駅は、平日よりも人の流れがゆるやかで、ホームへ降りる階段の上から、電車の到着を告げる柔らかな発車メロディが聞こえてきた。

 金管の音色ではなかった。けれど、旋律の切れ目で、クロノの尻尾がほんのわずかに拍を取りかけた。取りかけて、止まった。今度は、自分で気づいて止めたのだった。止めてから、止めたことを少しだけ惜しいと思った。惜しいと思ったことに、自分で驚いた。

 駅前の書店は、駅ビルの二階にあった。

 開店は十時。クロノが着いたのは、九時二十分だった。シャッターの下りた入口の前には、まだ誰もいなかった。フジキセキに言われたとおり、慌てる必要はまったくなかった。慌てる必要がないことは、家を出る前から分かっていた。分かっていて、この時間に着いた。

 彼女は、シャッターの前の柱にもたれず、背筋を伸ばして立った。パドックの立ち方だった。重心を踵の少し前に置いて、身じろぎもしない。四十分間、そのまま立っていても、彼女にとってはまったく苦にならない。

 立ったまま、手帳を開いた。

 ――九時二十分、駅前書店着。開店まで四十分。天気、晴れ。湿度、低め。

 書き込んでから、ペンを耳に挟もうとして、また挟めないことを思い出した。リングは、まだ完成していない。撮影の日、ヘアメイク担当が、ベールの留め具の横になら細いペンが一本通ると言って、すぐに冗談だと付け足した。あの冗談のことを思い出して、クロノは口元だけで少し笑い、ペンを手帳の間に戻した。

 九時四十分を過ぎたころ、ほかの客が一人、二人とやってきた。スーツ姿の男性、大きな鞄を提げた学生、小さな女の子の手を引いた母親。皆、クロノから少し離れたところで、スマートフォンを見たり、ガラス越しの店内を覗いたりしている。クロノに気づいた人は、いなかった。私服で、帽子もかぶらずに立っている小柄なウマ娘は、この駅ではそれほど珍しくない。トレセン学園の最寄り駅なのだ。

 十時ちょうどに、シャッターが上がった。

 開店を告げる短いチャイムが鳴り、店員が入口で頭を下げた。クロノは、ほかの客たちが先に入っていくのを待ってから、最後に店に入った。

 新刊の平台は、入口を入ってすぐ右手にあった。

 クロノは、そこで足を止めた。

 平台の真ん中の列に、月の色の表紙が、五冊ずつ三つの山になって積まれていた。三つの山が、少しずつずらして並べてあり、どの山の一番上の表紙も、正面を向いている。山の手前には、手書きの小さな札が立ててあった。書店員が厚紙に色鉛筆で書いたものらしく、グランプリ三連覇の女帝、はじめてのビジュアルブック、とあって、その下に、凱旋門賞へ向けて、と小さな文字が添えてあった。

 クロノは、動かなかった。

 動かないまま、耳だけが、店内のあらゆる音を拾っていた。レジの電子音。紙袋が開かれる乾いた音。どこかで誰かが雑誌の頁をめくる、ぱらり、という音。天井のスピーカーから流れる、控えめな音量の音楽。そのすべての音の真ん中に、音を立てずに積まれた十五冊の本があった。

 記録者の目が、先に動いた。

 ――十時二分。駅前書店、二階、新刊平台、中央列。三山、各五冊。手書きの札あり。

 頭の中の手帳に、それだけを書き込んだ。書き込み終えると、記録者の目は、音もなく後ろへ下がった。

 あとに残ったのは、自分の顔が十五回、並んでいるのを見ている目だった。

 見知らぬ誰かが、この平台の前を通りかかる。通りかかって、何気なく目を留める。手に取る人もいれば、取らない人もいる。取った人の何人かは、レジへ持っていく。持っていった人は、家に帰って、居間のテーブルの上か、枕元か、本棚のどこかに、この本を置く。そうやって、この表紙は、自分の知らない場所へ散らばっていく。

 レース史の本も、そうやって散らばってきたのだ、とクロノは思った。

 資料館の年鑑も、古書店の片隅の写真集も、かつて誰かがこうして平台から手に取り、自分の家へ持ち帰ったものだった。持ち帰った人が亡くなり、本だけが残り、巡り巡って古書店へ行き、そこでまた誰かの手に取られる。そういう長い旅の、一番最初の日が、今日なのだった。この十五冊にとっての、最初の日。

 そう思ったとき、彼女は初めて、平台に手を伸ばすことができた。

 三つの山のうち、真ん中の山の、上から二冊目を取った。一番上は、ほかの誰かのためにそのままにしておきたかった。表紙を最初に見る瞬間は一回しかない、とラヴズオンリーユーは言った。一番上の一冊は、その一回を持っている人のために、残しておく。

 手に取った本を、クロノは、見本誌のときと同じように扱った。背を読み、裏を読み、最後の頁を開いて奥付を読む。九月四日、初版第一刷発行。見本誌と、一字も違わない。違わないことを確かめて、それでも、彼女はしばらく奥付の頁から目を離せなかった。見本誌の奥付に書かれた九月四日は、未来の日付だった。今、手の中にある奥付の九月四日は、今日だった。同じ文字が、違う意味を持っている。記録というものは、書かれた日と読まれた日のあいだで、少しずつ意味を変えていく。

「……おかあさん、みて」

 すぐ近くで、小さな声がした。

 クロノの耳が、その声のほうへ振り向いた。顔より先に、耳が向いた。

 平台の反対側に、さっき開店前に並んでいた母親と、手を引かれた女の子が立っていた。女の子は五つか六つくらいで、背伸びをして平台の上の表紙を覗き込み、指を差していた。

「このおねえちゃんの、しっぽ、おどってる」

 クロノの全身が、固まった。

 母親は、娘の指の先を見て、首を傾げた。

「しっぽ? どこ?」

「ここ。スカートのうしろ。ふわってなってる」

「ああ……風じゃないの? 写真撮るときって、扇風機で風を当てたりするのよ」

「ちがうの。おどってるの」

 女の子は、譲らなかった。

「わたし、しってるもん。うんどうかいのとき、わたしのしっぽも、こうなるもん。ぱんぱかぱーんってなると、おどるの」

 女の子の背中で、小さな尻尾が、話しながら左右に揺れていた。ウマ娘の子どもだった。

 クロノは、息をするのを忘れていた。

 ぱんぱかぱーん、と女の子は言った。運動会で鳴る、あのファンファーレのことを言っているのだろう。徒競走のスタートの前か、表彰のときか。とにかく、あの金管の音が鳴ると、自分の尻尾は踊るのだと、この子は言っている。そして、写真の中のお姉さんの尻尾も、同じように踊っているのだと。

 誰も知らないはずのことを、この子だけが、言い当てていた。

 言い当てていることを、この子自身は知らない。母親も知らない。店の中の誰も知らない。知っているのは、平台のこちら側で固まっている、写真の中のお姉さん本人だけだった。

 女の子が、ふと顔を上げた。

 平台の向こうの、固まっているウマ娘と、目が合った。女の子は、目をまん丸に見開き、それから、表紙とクロノの顔とを交互に見比べた。見比べて、クロノの左耳の、小さな時計の歯車の飾りに目を留めた。

「……おなじだ」

 女の子は、表紙の中の耳飾りを指差し、それからクロノの耳を指差した。

「おかあさん、おなじのついてる」

 母親が顔を上げ、クロノを見て、それから表紙を見て、また顔を上げた。その顔に、驚きがゆっくりと広がっていくのが見えた。

「……あ、あの……もしかして」

 クロノは、小さく頭を下げた。

「……おはよう、ございます」

 母親は慌てて娘の肩を抱き寄せ、失礼しました、と何度も頭を下げた。指を差してしまってすみません、と。クロノは首を振り、平台を回って、二人のそばへ行った。そして、女の子の目の高さまで、しゃがんだ。

 しゃがむとき、手提げの中の一眼レフが、小さく鞄の底に当たる音がした。

「……しっぽ、見つけてくれたんですね」

 女の子は、こくんと頷いた。まだ少し緊張しているのか、尻尾は揺れるのをやめて、脚の後ろにぴたりと添っていた。

「……おどってた?」

 女の子が、小さな声で訊いた。

 クロノは、少し考えた。

 考えている時間は、長くなかった。答えは、もう決まっていた。この子は、正しく見ていた。正しく見た人に、嘘をつくことはできない。けれど、あの閲覧室で何が鳴っていたのかを話すことも、できなかった。話せば、この子はきっと、次の運動会でそれを誰かに話すだろう。それはそれで構わない、と思う自分もいた。けれど、今はまだ、その音は自分と、あの日の閲覧室にいた数人のものにしておきたかった。

「……はい。踊って、いました」

 クロノは言った。

「……いいことが、あったので」

 女の子の顔が、ぱっと明るくなった。脚の後ろに添っていた尻尾が、ほどけるように揺れ始めた。

「わたしも、いいことあると、おどる!」

「……同じ、ですね」

「おなじ!」

 母親が、何度目かの頭を下げた。この本を買いに来たのだと言った。娘が、テレビで宝塚記念を見てから、ずっとこのお姉さんが好きなのだと。クロノは、ありがとうございます、と言った。それしか言えなかった。それ以外の言葉は、胸のどこかで渋滞していて、喉まで上がってこなかった。

 母子が平台の一番上の一冊を取ってレジへ向かうのを、クロノは見送った。一番上の一冊。表紙を最初に見る一回を持っている人のために、残しておいた一冊だった。それが、あの子のところへ行った。

 そのことを、彼女は頭の中の手帳に書こうとして、書けなかった。記録者の目が、どこかへ行ってしまっていた。

 

 買い物を済ませたあと、クロノはレジの横で、店員に声をかけた。

「……あの。お忙しいところ、申し訳ありません。平台を、一枚だけ、写真に撮らせていただいてもよろしいでしょうか。お客様が写らないように、気をつけますので」

 レジにいたのは、二十代の半ばほどの女性店員だった。手書きの札を書いたのは、たぶんこの人だろうとクロノは思った。店員は、クロノの顔を見て、それから手元の、今しがた自分が袋に入れた本の表紙を見て、声にならない声を上げた。

「……ほ、本人……」

「……はい。あの、クロノジェネシスと申します」

「ど、どうぞ! 撮ってください! いくらでも!」

「……一枚で、大丈夫です」

 クロノは一眼レフを取り出し、平台の前に立った。客が途切れた一瞬を待って、ファインダーを覗いた。月の色の表紙が十三冊、三つの山になって並んでいる。二冊減っていた。一冊は自分が、一冊はあの女の子が持っていった。手書きの札の、色鉛筆の線の揺れまで、ファインダーの中にくっきりと見えた。

 シャッターを切った。

 その音に、自分の耳が反応した。自分で切ったシャッターの音に、耳が向いたのは、たぶん初めてだった。いつもは、シャッターの音は自分の指先から生まれるもので、耳で聞くものではなかった。けれど今は、その音を、どこか外から聞いているような気がした。記録する側が、記録される側の本を、記録している。その入れ子の真ん中で、シャッターの音だけが、いつもと同じ乾いた響きで鳴った。

 店員が、恐る恐る近づいてきた。

「あの……もしよろしければ、この札に、サインを……いえ、すみません、だめですよね」

「……申し訳ありません。広報を通していただかないと、判断ができなくて」

「ですよね! すみません、忘れてください!」

「……でも」

 クロノは、手書きの札を見た。

「……この札の、字。とても、丁寧でした。凱旋門賞へ向けて、と書いてくださって、ありがとうございます」

 店員は、真っ赤になって、何も言えなくなった。

 

 学園に戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。

 午後の練習までは、まだ一時間ほどある。クロノはトレーナー室の扉を叩き、返事を待って中に入った。雅也は机に向かって、何かの書類を読んでいた。除湿機は、今日は止まっていた。湿度が下がったからだ。止まった除湿機の横で、窓が細く開けられていて、九月の風が、カーテンの裾をわずかに揺らしていた。

「……戻りました」

「おかえり。早かったな、朝」

「……はい。九時二十分に、着きました」

「開店、十時だろ」

「……はい」

 雅也は、何か言いかけて、やめた。やめて、代わりに笑った。四十分前から並んでいたのか、とは訊かなかった。訊かなくても分かる、という顔だった。

 クロノは、机の端に目をやった。

 そこに、学園の売店の紙袋が置いてあった。口を折り返しただけの、白い紙袋だった。袋の形から、中に入っているものの大きさが分かった。見本誌と、ちょうど同じ大きさだった。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……それは」

 雅也は、紙袋のほうを見て、それからクロノのほうを見て、また紙袋に目を戻した。首の後ろに手をやった。

「……朝、売店の前を通ったら、並んでた」

「……はい」

「並んでるのを見たら……買ってた」

「……見本誌が、十冊、ありますよね」

「七冊ある。君に三冊渡した」

「……七冊、ありますよね」

「……ある」

「……それでも、買ったのですか」

「……見本と、売ってるのは、違うだろ」

 クロノは、小さく息を呑んだ。

 見本と、売ってるのは、違う。平台から手に取った一冊と、段ボール箱から出てきた一冊は、同じ印刷で、同じ奥付で、一字も違わないのに、違う。そのことを、彼女は今朝、駅前の書店で考えていた。考えて、言葉にできずにいた。それを、この人は、売店の前を通りかかっただけで、何の説明もなく分かっている。

 クロノは、手提げから書店の袋を取り出し、机の上の売店の袋の隣に置いた。

 二つの袋が並んだ。

 雅也は、それを見た。見て、しばらく何も言わなかった。それから、ふっと息を吐くように笑った。

「……君もか」

「……はい。私も、です」

「記録用か」

「……記録用、です。発売日に、平台から買った一冊と、そのレシートは、見本誌とは別の記録になるので」

 クロノは袋の中から、小さく折りたたんだレシートを取り出して見せた。十時七分、と印字されていた。

「……十時二分に、平台を見つけて。十時七分に、買いました。あいだの五分は……」

 そこで、彼女は言葉を切った。

 あいだの五分。女の子と、その母親と、踊っていた尻尾の話。それを雅也に話すべきかどうか、クロノは一瞬だけ迷った。迷ったが、迷っている顔を、この人の前で長く続けることはできなかった。三年半、ずっとそうだった。

「……小さな女の子が、表紙を見て、言ったんです」

「うん」

「……このお姉ちゃんの、しっぽ、踊ってる、と」

 雅也の手が、机の上で止まった。

「……お母様は、風じゃないの、と仰いました。でも、その子は、違うと。運動会で、ぱんぱかぱーんと鳴ると、自分の尻尾も踊るから、分かるのだと」

 雅也は、何も言わなかった。

 窓から入ってきた風が、カーテンの裾を持ち上げて、また落とした。一拍遅れて、音もなく。雅也は、そのカーテンを見ていた。見ているうちに、咳払いを一つした。

「……それで」

「……はい」

「……何て、答えたんだ」

「……踊っていました、と。……いいことが、あったので、と」

 雅也は、首の後ろを掻いた。

 掻いたまま、しばらく窓のほうを向いていた。こちらを見なかった。見なかったが、耳が赤くなっているのが、クロノの位置からはよく見えた。人間の耳は、ウマ娘の耳のように動いたりはしない。けれど、色は変わる。変わった色は、隠しようがない。

「……そうか」

 やがて、雅也は言った。

「……いい答えだと思う」

「……はい」

 クロノは、それ以上は何も言わなかった。机の上に並んだ二つの袋を見ていた。売店の白い袋と、書店の茶色い袋。どちらにも、同じ本が一冊ずつ入っている。同じ本が、違う場所から、違う時刻に、同じ机の上へ辿り着いている。

 記録として書くなら、それだけのことだった。

 けれど、クロノはその光景を、一眼レフで撮らなかった。撮ろうと思えば撮れた。カメラは手提げの中にあった。撮らなかったのは、撮ったら、この光景が記録になってしまうからだった。記録にしないでおきたいものが、今日はもう二つ目だった。

 

  六

 

 その夜、ラヴズオンリーユーは、書店の袋を提げて部屋に帰ってきた。

 夕方の配信を終えてから、わざわざ駅前まで出かけたのだという。クロノが朝に行った店とは別の、駅の反対側にある大きな書店だった。袋の口をそっと開けると、中から月の色の表紙が覗いた。

「ちゃんと、自分で買ってきたわよ」

 ラヴズオンリーユーは、それを両手でクロノの前に差し出して見せた。見せるだけで、渡しはしなかった。これは私の、という顔をしていた。

「平台に三十冊くらい積んであったの。でも、私が行ったとき、もう半分くらいになってた。レジの人が、今日はこれが一番売れてますって」

「……半分」

「そう。すごいでしょう」

 クロノは、何と答えていいか分からなかった。三十冊が半分になった、という数字は、記録としては明確だった。十五冊が売れた。けれどその十五冊が、どこへ行き、誰の手の中にあるのかは、記録のどこにも書かれていない。

 ラヴズオンリーユーは、自分の机に本を置き、その隣にスマートフォンを置いた。

「それとね。……クロノちゃん、今日、見た?」

「……何を、ですか」

「みんなの感想」

 クロノは、首を振った。

 見ていなかった。見ないようにしていた、というほうが正確だった。見たら、きっと止まらなくなる。止まらなくなって、夜が明けてしまう。明日は日曜で練習は軽いが、それでも夜更かしは、凱旋門賞まで一か月を切った身体によくない。雅也がそう言うに決まっているし、言われなくても分かっている。

「……見たほうが、よいでしょうか」

「見なくてもいいのよ。でも、見たいなら、一緒に見てあげる。一人で見ると、変なところばっかり気になっちゃうから」

 ラヴズオンリーユーはそう言って、クロノのベッドの端に腰かけた。配信で毎日ファンの言葉に触れている人の言い方だった。言葉の海に一人で潜ると、底のほうの暗いものばかりが目に入る。誰かと一緒なら、浅いところの光も見える。

 クロノは、少し迷ってから、自分のスマートフォンを手に取った。

 書名で検索すると、画面が、一瞬で埋まった。

 ――光の編年記、買ってきた。表紙の時点で無理。息できない。

 ――見開きの書架の写真、止まりすぎてて、一瞬、動画の停止ボタン押したのかと思った。これ写真だよね?

 ――パドックでずっと立って見てるときの立ち方そのまま。レース場で何回も見た背中。

 クロノの指が、画面の上で止まった。

 書架の写真。カメラマンが、動画の一時停止を見ているようだ、と言った一枚。同じことを、見知らぬ誰かが、同じ言葉で書いている。カメラマンの言葉を、その人は知らないはずだった。談話は資料編の最後のほうに小さく載っているだけで、発売日の夜に、そこまで読んだ人がどれだけいるかは分からない。それでも、同じ言葉に辿り着いている。

 写真というものは、撮った人の目を、見る人の中に移すことがあるのだ、とクロノは思った。

 画面を下へ送った。

 ――表紙の、裾の後ろ。布、ちょっと浮いてない? 風?

 ――え、ほんとだ。浮いてる。気づかなかった。

 ――屋内の撮影でしょ、図書館っぽいし。風なんてある?

 ――尻尾じゃない? 衣装担当さんのインタビューに、尻尾を押さえない構造って書いてあった。だから揺れがそのまま布に出たんだと思う。

 クロノの耳が、ゆっくりと、両方とも前へ倒れていった。画面に吸い寄せられるように。

 隣でそれを見ていたラヴズオンリーユーが、声を出さずに笑った。

 ――尻尾が揺れてるってことは、何か嬉しかったってこと?

 ――嬉しいときだけ揺れるわけじゃないでしょ。緊張でも揺れる子はいるし。

 ――クロノジェネシス、レースのときゲートの後ろで、尻尾がリズム取ってるの、現地で見たことある。規則正しく、とん、とん、って。あれに似てる気がする。

 ――わかる。宝塚のときも取ってた。ファンファーレのとき。

 ――え、じゃあこれ、撮影中に何か音楽でも鳴ってたってこと?

 ――さすがに撮影でファンファーレは流さないでしょw

 クロノは、そこで画面を送る指を止めた。

 止めたまま、動けなかった。

 さすがに撮影でファンファーレは流さないでしょ。その一行の、最後の笑いの記号を、彼女はじっと見ていた。流していた。音響担当が、そっと手元のスイッチを入れて、ごく小さな音量で。閲覧室の奥のスピーカーから、午前中に流れたあの金管の旋律が、もう一度。

 正解の、すぐ隣まで、この人たちは来ていた。来ていて、自分で笑って、引き返していった。

 引き返していったことに、クロノはほっとした。ほっとして、そのほっとした気持ちの底に、別の何かがあることに気づいた。ほっとしたのとは、少し違う手触りのもの。誰も知らないことが、この世に一つある、ということの手触りだった。表紙は何万部も刷られて、何万人もの目に触れる。触れて、考察される。考察は正解の隣まで来て、引き返す。そして、表紙の布が持ち上がっている本当の理由だけが、写真の外に残る。

 あの閲覧室にいた数人と、自分と、あの人だけが、それを知っている。

「……クロノちゃん」

 ラヴズオンリーユーが、そっと言った。

「顔、すごく赤いわよ」

「……赤く、ありません」

「赤いわ。耳の先まで」

 クロノは、スマートフォンを胸の前で伏せた。伏せてから、自分の尻尾が、ベッドの上でさっきから小さく左右に動いていたことに気づいた。気づいて、止めようとした。止まらなかった。規則正しくはなかった。拍は取っていなかった。ただ、落ち着かなく、行ったり来たりしていた。

 ラヴズオンリーユーは、それについては何も言わなかった。代わりに、クロノの伏せたスマートフォンの上に、自分の手をそっと重ねて、画面をもう一度こちらへ向けさせた。

「ほら、こっちも見て。いいこと書いてあるわよ」

 ――中の、背表紙の年号読んでて赤くなってる写真、クロノジェネシスすぎて泣いた。花嫁衣装着てても、読んじゃうんだ。

 ――キャプションに『背表紙の年号に目を留めて』って書いてある。撮影中に年号読んでたってこと? かわいすぎる。

 ――誰か、この背表紙、何の本か特定して。

 ――三段目の、左から七冊目っぽい。金文字で年号が入ってる。拡大すると……明治の、四十何年?

 ――いや、大正じゃない? 字の形が。

 ――明治の年鑑なら、この建物の蔵書っぽい。前にテレビで紹介されてた図書館だと思う。

 クロノは、画面を見たまま、息を止めた。

 止めた息の中で、答えが喉元までせり上がってきた。明治の終わりの、四十四年の年鑑です。大正ではありません。金文字の「四」の縦画が、箔押しのときに少し潰れているので、拡大すると「元」にも見えますが、あれは四です。巻号は、左に小さく入っています。発行元は、当時の――。

「……訂正、したいんでしょう」

 ラヴズオンリーユーが、穏やかに言った。

「……っ」

「顔に書いてある。耳にも書いてある」

 クロノの耳は、画面に向かって、ほとんど前のめりになっていた。言われて初めて、彼女はそれに気づいた。慌てて耳を元の角度に戻そうとして、戻しすぎて、少し後ろへ倒れた。

「……しません。訂正は」

「うん」

「……私が、本人が、そこに何か書いたら……それは、記録の中に、本人の声が入り込むことになります。この人たちが、自分たちで調べて、自分たちで辿り着くのが……その、大事なので」

「うん。そうね」

「……でも、あの、四の字は……」

「うん」

「……箔押しの、潰れで……」

「うんうん」

 ラヴズオンリーユーは、もうこらえきれずに笑っていた。声を立てずに、肩だけを震わせて。クロノは、その笑いにつられるように、少しだけ口元を緩めた。緩めてから、スマートフォンを伏せ、代わりに手帳を開いた。

 今日の頁の、一番下のほうに、小さな字で書き込んだ。

 ――三段目左七冊目。明治四十四年。四の縦画、箔の潰れ。

 誰に見せるためでもない、訂正だった。書き込み終えると、胸の中で何かが、すとんと元の場所に収まった。

「……これで、大丈夫です」

「よかった。……じゃあ、今日はここまでにしましょう。これ以上見ると、クロノちゃん、朝まで訂正しちゃうから」

「……しません」

「するわよ。去年の、年鑑の誤植のときもそうだったでしょう」

 クロノは、反論できなかった。記録がある、と言われたら、この人の前でも反論はできなかった。

 

 日曜日の朝には、表紙の布の話は、もう一つの小さな流行のようになっていた。

 誰かが、表紙の裾の部分だけを拡大した画像に、丸い印をつけて投稿していた。その投稿が、一晩のあいだに何千回も共有され、共有されるたびに、少しずつ違う言葉が添えられていった。尻尾説。風説。衣装の重り説。撮影用の送風機が遠くで回っていた説。そして、どの説にも、それぞれの根拠と、それぞれの愛着があった。

 ――衣装担当さんのインタビュー全部読んだ。『止まった後に一拍遅れて布が落ちるよう、裾の内側の重りを後ろへずらした』って書いてある。つまり、表紙の布の浮きは、尻尾が揺れた一拍後の布。揺れた瞬間じゃなくて、揺れの余韻が写ってる。

 ――それ聞いて、表紙がさらに好きになった。余韻が写ってる表紙って何。

 ――ゴールの後に尻尾が三回揺れて、三回目だけ長いって話も載ってる。本人が衣装担当さんに教えたんだって。自分の尻尾の揺れ、数えてるの? 記録魔すぎる。

 クロノは、日曜の午後、トレーナー室の長椅子で、その投稿を読んでいた。

 読んでいたというより、読まされていた、というほうが近かった。部屋に入ってきたとき、雅也がスマートフォンの画面を見て、珍しく眉を寄せていたのだ。何を見ているのかと訊くと、雅也は、広報から送られてきた、と言って画面を差し出した。広報担当が、反響の様子を知らせるために、いくつかの投稿をまとめて送ってきたのだという。

「……記録魔、だそうだ」

 雅也は言った。

「……否定は、できません」

「否定しなくていい」

「……尻尾の揺れを数えたのは、宝塚の映像を、何度も見返したからです。……三十回くらい」

「知ってる」

「……ご存じでしたか」

「隣で見てた。十七回目あたりから、数えてるなと思ってた」

 クロノは、画面から顔を上げた。雅也は窓のほうを見ていた。窓の外の欅は、今日は風に揺れていなかった。

「……トレーナーさんも、数えていたのですか。私が、数えている回数を」

「……数えてない」

「……十七回目、と、今」

「……数えてた」

 撮影の日と、同じやりとりだった。見てない、見てた。数えてない、数えてた。クロノは、その繰り返しの中で、小さく息を呑んだ。それから、ほんの少しだけ笑った。

 笑いながら、次の投稿へ画面を送った。

 ――ラヴズオンリーユーちゃんの昨日の配信で、同室の子の本が出たって言ってて、それで知って買いに行った。同室なんだね、この二人。

 ――ラヴちゃん、自分で本屋で買ったって言ってた。ちゃんと袋に入れてもらったって、すごい嬉しそうだった。

 ――オークスの二人が同室で、片方の本をもう片方が買ってるの、なんか泣ける。

 クロノの指が、また止まった。

 オークスの二人。

 その言葉を、画面の向こうの誰かは、ただの事実として書いている。あのレースで、自分がラヴズオンリーユーの無敗を止めたこと。それは記録に残っていて、誰でも知っている。けれど、あの夜の資料室のことは、誰も知らない。扉が開いて、晩ごはん食べてないでしょう、と言われたことも。それ以来、毎晩のように、今日は食べたの、と訊かれていることも。

 記録に残ることと、残らないことが、同じ一つの出来事の中に、層になって重なっている。

 撮影の日のことも、そうだった。表紙に残ったものと、残らなかったもの。残ったものは何万人に見られ、残らなかったものは、数人の中にだけある。そして、残ったものの中に、残らなかったものの影が、ほんのわずかに、布の持ち上がりとして写り込んでいる。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……レース史の本を読むとき、私は、ずっと、書かれていることだけを読んできました」

「うん」

「……書かれていないことは、推測になるので。推測は、記録ではないので」

「うん」

「……でも、今、初めて、書かれていないことのほうを、知っている側に立っています」

 雅也は、窓から目を戻して、クロノを見た。

「……どんな感じだ」

 クロノは、少し考えた。

 考えている間、尻尾が、長椅子の脇で静かに一度だけ持ち上がって、下りた。揺れたのではなかった。何かの重さを確かめるように、持ち上がって、下りた。

「……少し、怖いです。……それと、少し、……」

 そこで、言葉が途切れた。

 続きは、出てこなかった。出てこなかったのではなく、出さなかった。雅也は、それ以上は訊かなかった。今日は、と彼女が言ったわけではなかった。けれど、今日ではない日に言葉になるのだろうと、あの企画書を読んだ日と同じように、彼は思った。

 

  七

 

 月曜日になると、言葉の温度が、少しだけ変わった。

 週末のあいだ、表紙の布や背表紙の年号をめぐって楽しげに交わされていた言葉の中に、別の種類の言葉が混ざり始めた。雅也がそれに気づいたのは、朝の練習のあと、広報担当から二度目のまとめが送られてきたときだった。今度の添え書きは、一度目よりも短かった。お二人のお耳に入る前に、念のため、とだけあった。

 ――指輪のページ、どう見ても本気の顔なんだけど。

 ――表紙、トレーナーさんの手が指輪の手をまだ離してないの、演出にしては自然すぎない?

 ――この二人、実は婚約してるとか……ないよね?

 ――ないでしょ。企画の撮影だって、最初の頁に書いてある。指輪は小道具だって衣装担当さんのインタビューにも。

 ――小道具でも、あの顔は小道具じゃないって。

 雅也は、画面を指で止めた。

 止めたまま、しばらく動かなかった。机の上に置いた手が、書類の角を揃えようとして、何もないところで止まった。

 指輪のページの顔、という言葉が、何を指しているのかは分かっていた。撮り直しのカット。輪が指を通った瞬間、クロノが自分を見上げて、ほんの少しだけ笑った顔。あの顔が、演出にしては自然すぎると言われている。

 それは、そうだろう、と雅也は思った。演出ではなかったのだから。

 けれど、そう思ったことを、彼はすぐに自分の中で打ち消した。演出ではなかった、というのは正確ではない。あの一枚は、確かに企画の撮影として、ディレクターの指示のもとで、台詞なしで撮られたものだ。演出の中で撮られた、演出ではない表情。それを何と呼べばいいのか、雅也には分からなかった。分からないまま、画面の続きを読んだ。

 ――婚約とか言い出すの、やめたほうがいい。本人たち、これから凱旋門なんだから。

 ――トレーナーさん、会見とかほとんど出ない人でしょ。こういう騒ぎ、一番嫌がりそう。

 ――表紙の手、腰に添えてるカットも見た? 指の付け根だけで、掌ついてないの。あれ見て、変な想像する気が失せた。敬意しかない手だった。

 最後の一行を、雅也はもう一度読んだ。

 敬意しかない手。

 そう見えたのなら、よかった、と思った。思ってから、あの日の自分の手が冷たかったことを思い出した。写真に温度は写らない。写らないから、敬意しかない手に見える。本当は、温めるのを忘れるほど、動揺していた手だった。

 スマートフォンが短く震えた。広報担当からの電話だった。

「早瀬トレーナー。お忙しいところ恐れ入ります。まとめ、ご覧になりましたか」

「はい。拝見しました」

 公の声に切り替わっていることに、雅也は自分で気づいていた。一人称が変わり、語尾が変わる。考えるより先に、身体のほうが切り替わる。

「学園として、公式サイトに短い一文を出そうと考えております。本書の撮影は特別ビジュアル企画として行ったものであり、演出上の小道具や構図は、企画のために用意したものです、という趣旨で。ご本人と、トレーナーのご確認をいただいてから出したいのですが」

「文面を送っていただけますか。本人にも見せます」

「承知しました。それと、もう一件」

 広報担当の声が、わずかに言いにくそうになった。

「専門誌から、トレーナーへの単独取材の申し込みが来ております。本書の撮影について、と。……率直に申し上げると、お二人のご関係について伺いたい、という意図が透けて見える依頼でして」

 雅也は、少しだけ間を置いた。

「私個人についての取材は、お断りさせてください」

「はい」

「彼女の走りの話でしたら、お受けします。凱旋門賞に向けての調整のことでも、これまでのレースのことでも。ただ、渡仏の準備がありますので、時期は広報さんのご判断にお任せします。撮影の内容について訊かれた場合は、本に載っているとおりです、とお答えします」

「……本に載っているとおり」

「はい。載っていないことは、お答えしようがありませんので」

 電話の向こうで、広報担当が小さく息をつく音がした。笑ったのかもしれなかった。

「承知いたしました。そのようにお伝えします。……早瀬トレーナー」

「はい」

「撮影の日にディレクターが申し上げたこと、私どもも同じ考えでおります。撮っていないものは、お二人のものです。それは、刊行後も変わりません」

「……ありがとうございます」

 電話が切れた。

 雅也は、スマートフォンを机の上に伏せて置いた。置いてから、しばらく何もしなかった。窓の外で、秋の虫が一匹、昼間なのに鳴いていた。

 

 文面が届いたのは、昼過ぎだった。

 ――本書に収録した特別撮影の写真は、学園広報部とURAの企画として撮影したものです。衣装、指輪、構図などの演出は、すべて本企画のために用意したものであり、撮影に参加した個人の関係を示すものではありません。本書をお手に取ってくださった皆さまに、心より御礼申し上げます。

 クロノは、トレーナー室の長椅子で、その文面を三度読んだ。

 三度読んでから、雅也を見た。

「……正確な、文章です」

「そうだな」

「……一字も、嘘がありません」

「……そうだな」

 衣装も、指輪も、構図も、企画のために用意されたものだった。撮影に参加した個人の関係を示すものでもなかった。写真は、そうだった。写真に写っているものは、確かに、それだけだった。

 写っていないもののことは、この文章は何も言っていない。言っていないことを、言っていないと分かるように書いていた。カメラマンの談話と、同じ書き方だった。

「……これで、お願いします」

 クロノは言った。

「……私からは、何も足すことはありません」

「分かった。広報に返事する」

 雅也が返信を打つあいだ、クロノは自分のスマートフォンを取り出して、少しだけ画面を見た。見ないほうがいいと分かっていて、見た。ラヴズオンリーユーが隣にいないときに見るのは、これが初めてだった。

 ――髪の色、前より明るくなった? 昔の写真と比べると全然違う。大丈夫なのかな。

 ――それ、成長で色が変わる子もいるって聞いたことある。

 ――衣装担当さんのインタビューに、衣装の色と髪の明るさを合わせたって書いてあった。むしろ今の色だから、この衣装になったんだと思う。

 ――月の光みたいな髪、って誰かが書いてて、それ以外の言葉が出てこなくなった。

 クロノの指が、そこで止まった。

 月の光みたい、とラヴズオンリーユーが言った。同じ言葉を、見知らぬ誰かが書いていた。

 気にしていたことだった。写真を見比べるたびに、気にしていた。年を追うごとに、自分の色が薄れていくこと。レース史の年鑑に載っている、昔の自分の写真と、今の自分の写真が、同じ人だと分からなくなっていくのではないかということ。記録する人間にとって、記録の中の自分が、少しずつ別人になっていくのは、どこか落ち着かないことだった。

 けれど、画面の向こうの誰かは、その薄れた色を、月の光みたいだと言っている。

 ――心配してる人いるけど、宝塚の走り見たら大丈夫だって分かるよ。あの六バ身の年から、ずっと強くなってる。

 ――凱旋門前に、こんな一日がかりの撮影して大丈夫だったのかな、ってちょっと思った。

 ――撮影は七月って書いてある。宝塚から二週間後。ちゃんと調整期間の中でやってると思う。担当さん、そういうとこ抜かりなさそう。

 ――担当さん、会見でもいつも『彼女の走りです』しか言わない人だよね。今回もたぶん何も言わない。

 クロノは、最後の一行を見て、雅也のほうを見た。

 雅也は、ちょうど返信を送り終えたところだった。画面から顔を上げ、クロノの視線に気づいて、首を傾げた。

「……何だ」

「……トレーナーさんは、会見でいつも『彼女の走りです』しか言わない人だそうです」

「……書かれてるのか」

「……はい」

「……間違ってはいない」

 雅也は、少しだけ苦笑した。

「さっきも、取材を一件断った。俺個人のことを訊きたいって依頼だったから」

「……断ったのですか」

「君の走りの話なら受ける、って言った」

 クロノは、しばらく黙っていた。

 黙っているあいだに、耳が、雅也のほうへ静かに向いた。向いたまま、止まった。何かを聞き逃すまいとするように。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……婚約、と書いている方も、いました」

 雅也の手が、机の上で止まった。

「……読んだのか」

「……少しだけ」

「……そうか」

「……トレーナーさんに、ご迷惑は、かかっていませんか」

 雅也は、すぐには答えなかった。

 答えないまま、椅子の背にもたれ、天井を見た。天井には何もなかった。蛍光灯と、その縁に溜まったうっすらとした埃があるだけだった。

「俺は、いい」

 やがて、彼は言った。

「俺のことは、何を書かれてもいい。困るのは、君が走りにくくなることだけだ。凱旋門の前に、余計なことを考えさせたくない。……君が嫌なら、広報に頼んで、もう少し強い文面を出してもらう」

「……走りにくくは、なりません」

 クロノは、はっきりと言った。控えめな声だったが、迷いはなかった。

「……走っているときは、何も聞こえないので。……いえ、ファンファーレは、聞こえますが」

 雅也が、小さく吹き出した。

「……そうだな」

「……それに」

 クロノは、スマートフォンを膝の上に伏せた。

「……皆さん、本当に、よく見てくださっています。布の持ち上がりも、背表紙の年号も、トレーナーさんの手の、指の付け根のことも。……憶測もありますが、憶測は、憶測のままです。私も、トレーナーさんも、否定もしなければ、肯定もしない。記録に残っているのは、本の中のことだけで……」

 そこで、彼女は言葉を探すように、少し間を置いた。

「……本の外のことは、記録には、ありません」

「……うん」

「……ですから、大丈夫です」

 雅也は、クロノの顔を見た。

 大丈夫です、と言った顔は、嘘をついている顔ではなかった。けれど、全部を言っている顔でもなかった。雅也は、それを見分けることができた。三年半、この子の立ち姿と、言葉の途切れ方を見てきた人間として。

「……分かった」

 雅也は、それだけを言った。

 それから、少しだけ声を落として、付け足した。

「……本の外のことは、俺も覚えてる」

 クロノの耳が、ぴくりと跳ねた。

 跳ねたまま、しばらく戻らなかった。

 雅也はもう、窓のほうを見ていた。窓の外で、欅の枝がようやく少しだけ揺れていた。クロノも、同じ枝を見た。二人とも、何も言わなかった。

 

 水曜日には、言葉の流れは、また少し変わっていた。

 婚約という言葉は、ほとんど見かけなくなった。学園の一文が出たあと、何人かのファンが、それを引用して、もうこの話はやめよう、と書いた。その呼びかけが、静かに広がっていった。代わりに増えていったのは、本の頁の細部についての言葉と、十月の話だった。

 ――光の編年記、第一部のレース写真の並びが完全に年代順で、しかも一戦ごとにキャプションの日付と馬場が正確すぎる。資料として優秀。

 ――巻末の年表、たぶん本人が校正してる。そういう気配がする。

 ――凱旋門、パリの朝は湿気がすごいらしい。紙のメモがよれちゃわないか心配。

 ――この本持ってパリに行く人いそう。

 ――表紙の余韻の布、十月にもう一回見られるかな。ゲートの後ろで。

 クロノは、その最後の一行を、寮の部屋のベッドの上で読んだ。

 読んで、画面を閉じた。閉じてから、しばらく天井を見ていた。

 ゲートの後ろで。ファンファーレが鳴るとき。尻尾が拍を刻むとき。遠い異国のレース場で、自分の尻尾はまた、あの金管の和音に合わせて、勝手に揺れるのだろう。揺れているところを、日本の深夜に中継を見ている誰かが見て、表紙の布を思い出すのかもしれない。

 そのとき、あの布の持ち上がりの本当の理由を知っている人は、パドックの脇か、スタンドのどこかか、とにかくそう遠くない場所で、自分を見ているはずだった。

 クロノは、手帳を開いた。

 今日の頁に、今日の練習の記録を書いた。気温、湿度、芝の状態、坂路の本数、時計、息の入り方。書き終えてから、指が、また頁をめくりかけた。めくりかけて、今度は、やめなかった。

 撮影の日の頁が、開いた。

 一行分の白が、そこにあった。

 その白を見ながら、クロノは、トレーナー室で聞いた言葉を思い出していた。本の外のことは、俺も覚えてる。記録にはないことを、覚えている人がいる。自分のほかに、もう一人。

 白は、白のままだった。けれど、昨日までとは少し違う白に見えた。どう違うのかは、まだ言葉にできなかった。言葉にできないまま、クロノは手帳を閉じ、胸の上に置いて、目を閉じた。

 

  八

 

 木曜日の昼、学園の食堂は、九月の光でいっぱいだった。

 高い窓から差し込む光は、夏のあいだの白さを少しだけ失い、代わりに、ほんのわずかな金色を帯びはじめていた。長机の列の上を、その光が斜めに横切っている。トレイを運ぶ音、椅子を引く音、あちこちで交わされる笑い声。ウマ娘たちの食事の量は、人間の感覚からすれば驚くほど多く、山盛りの皿が行き交うたびに、湯気と出汁の匂いが波のように揺れた。

 クロノは、窓際の席で、定食の焼き魚をほぐしていた。

 今日は、何を食べたかを覚えている。焼き魚と、ひじきの煮物と、豆腐の味噌汁と、ご飯を三杯。ラヴズオンリーユーに訊かれたら、ちゃんと答えられる。そう思いながら箸を動かしていると、向かいの席に、誰かがトレイを置いた。

 顔を上げると、グランアレグリアだった。

 その隣に、カレンブーケドールが、少し遅れて腰を下ろした。二人とも、トレイの横に、同じ本を一冊ずつ置いていた。月の色の表紙。どちらの本からも、何枚もの細い付箋が、頁の間から色とりどりに飛び出していた。

 クロノの箸が、止まった。

「見たよ、これ」

 グランアレグリアが、本の表紙を軽く指先で叩いた。叩き方は軽かったが、表紙には触れていなかった。表紙の上の空気を、とん、と叩いただけだった。

「……ありがとう、ございます」

「お礼を言われるようなことじゃないって。買いたくて買ったんだから」

 桜花賞で、自分が勝った相手だった。あの日、クロノはゴールのあと、まず雅也を見て、それからグランアレグリアを見た。相手がどれほど強かったかを、誰よりも正確に言葉にできるのは自分だと分かっていたから。あれから何度も同じレース場で顔を合わせ、同期として、同じ食堂で何百回も食事をしてきた。

 グランアレグリアは、付箋の一枚を引いて、その頁を開いた。第一部の、レース写真の頁だった。桜花賞の一枚が載っていた。直線の半ばで、二人が並んで走っている写真だった。クロノのほうが半歩だけ外にいる。

「これ、選んだの本人?」

「……いいえ。広報の方と、編集の方が」

「そっか。……いい写真選ぶね。この半歩」

 クロノは、何も言えなかった。

 その半歩だな、と雅也が言ったことを思い出した。桜花賞のあと、内から来たのに気づいてたか、と訊かれて、分かっていたので半歩だけ外に、と答えたとき。あの半歩が、写真に写っている。写っていることを、写っている当の相手が、指差して見せている。

 カレンブーケドールは、自分の本を開かずに、トレイの横に置いたまま、やわらかい声で言った。

「表紙の、裾のところ。昨日、寮でちょっとした話題になっていて」

「……はい」

「理由は、訊かないでおくわね」

 クロノの耳が、はっとしたように、カレンブーケドールのほうへ向いた。

 カレンブーケドールは、微笑んでいた。秋華賞でも、京都記念でも、二着に入ったのは彼女だった。二度とも、ゴールのあと、最初に声をかけてくれたのも彼女だった。そして、去年の暮れ、雅也が入院していたあいだ、一人で抱え込んでいたクロノのところへ動いてくれた同期の一人でもあった。あのとき彼女は、何も訊かずに、ただ隣に座っていてくれた。今と同じ、やわらかい声で。

「訊かないでおくと、いつか教えてもらえる気がするから」

「……いつか」

「うん。いつか」

 グランアレグリアが、横から付箋を一枚、クロノのトレイの端に貼った。

「で、これ。サイン」

「……え」

「冗談。広報通さないとだめなんでしょ。昨日、談話室で聞いた」

「……どなたに、ですか」

「同じ部屋の子。真剣な顔して言ってた。クロノちゃんにサインねだる子がいたら、ちゃんと広報を通すように言ってねって。……あの子、完全にマネージャーだよ」

「……ラヴちゃん、が」

 クロノは、そう呟いたきり、しばらく言葉が続かなかった。発売日に自分で本を買ってきて、これは私の、という顔で見せてくれた人が、自分の知らないところで、そんなことまで言ってくれていた。

 それから、トレイの端に貼られた付箋を見下ろした。何も書かれていない、黄色い付箋だった。

 何も書かれていない付箋を、彼女はそっと剥がして、手帳の今日の頁の端に貼った。あとで何かを書き込むためではなかった。空いたまま、そこに置いておくためだった。

 

 午後の授業のあと、校内新聞の広報委員の二人が、クロノを廊下で呼び止めた。

 一人は眼鏡をかけた小柄な生徒で、もう一人は背の高い、腕にメモ帳を抱えた生徒だった。二人とも、目が輝いていた。記事の種を見つけた書き手の目だった。クロノには、その目の輝き方がよく分かった。自分も、資料館で新しい年鑑を見つけたときには、たぶん同じ目をしている。

「次の号で、光の編年記の特集を組みたいんです。ご本人に、撮影の裏話を少しだけ」

「……申し訳ありません」

 クロノは、深く頭を下げた。

「……撮影のことは、本に載っていることがすべてです。載っていないことは、お話しできることが、ないので」

「そこをなんとか。書架の年号の話とか……」

「……それも、本に、キャプションが」

「表紙の尻尾の理由とか!」

「……それは」

 クロノは、そこで言葉を切った。

 耳が、ほんの一瞬、後ろへ倒れかけた。倒れかけたのを、今度は自分の意思で止めた。止めて、顔を上げた。

「……写真を見る方、それぞれに考えていただければ、と。カメラマンの方が、そう書いてくださっています。私も、同じ気持ちです」

 広報委員の二人は顔を見合わせ、それから、少し残念そうに、けれど素直に頷いた。

「分かりました。……じゃあ、せめて読者として、本の感想を載せる欄だけ作らせてください。生徒からの投稿で」

「……はい。それは、ぜひ」

 二人が去っていったあと、クロノは廊下の窓際で、しばらく立ち止まっていた。

 校内新聞。徒然、歴史語り。ライターC。

 次の号の原稿の締め切りは、来週の月曜だった。題材はまだ決めていなかった。決めていなかったが、今、廊下で頭を下げているあいだに、一つの題材が、頭の奥のほうで静かに形を取りはじめていた。

 記念写真帖の歴史。

 昔のレース場で、優勝したウマ娘の写真を集めて綴じた小さな帖面が、どのようにして作られ、どのようにして人の手に渡っていったのか。誰がそれを買い、どこにしまい、どうやって次の世代へ受け渡したのか。資料館の奥の、閉架の棚に、何冊か残っているのを知っていた。その中の一冊に、見返しの余白に鉛筆で小さく、持ち主の手による一行の書き込みがあるものがあった。何と書いてあったかは、もう半分かすれて読めなかった。けれど、読めないその一行のほうに、その帖面の本当の持ち主の気配が残っているような気がして、クロノは昔、その頁を長いこと眺めていたことがあった。

 自分の本のことは、一行も書かない。

 ライターCは、自分の勝利を書かない。書けない。一年目に、雅也にそう言った。自分のことは、書けないんです、と。それは今も変わらない。けれど、自分のことを書かずに、自分が今考えていることを書く方法なら、あるかもしれなかった。

 

 その週末、クロノは原稿を、最初に雅也に見せた。

 トレーナー室の長椅子で、雅也は四百字詰めの原稿用紙八枚を、一枚ずつ丁寧に読んだ。彼は歴史の知識では何も直せない。だから、いつも、面白かったところを具体的に言う。それが、一年目から変わらない、二人の原稿のやりとりだった。

 読み終えた雅也は、最後の一枚を膝の上に置いて、しばらく黙っていた。

「……どう、でしたか」

「……最後のところ」

「……はい」

「見返しの余白に、鉛筆で一行、持ち主の書き込みがある。半分かすれて読めない。でも、読めない一行のほうに、持ち主がいる気がする。……ってところ」

「……はい」

「ここ、面白かった」

 雅也は、原稿用紙の最後の一枚を、クロノのほうへ差し出した。差し出しながら、少しだけ目を逸らした。

「……それと、君のことは、一行も書いてないな」

「……はい。書いていません」

「書いてないのに……」

 そこで、雅也の言葉が止まった。止まって、続きは出てこなかった。首の後ろに手をやりかけて、途中で下ろした。

「……いい原稿だと思う」

「……ありがとう、ございます」

 クロノは原稿を受け取り、角を揃えた。揃える必要のない角だった。揃えながら、雅也が言いかけてやめた言葉の続きを、頭の中で補おうとして、やめた。補ったら、それは推測になる。推測は、記録ではない。けれど、言いかけてやめた言葉があった、ということだけは、確かに記録だった。

 翌週、校内新聞が配られた日の昼、食堂の隣のテーブルで、二人の下級生が新聞を広げていた。

「ライターCさん、今回、記念写真帖の歴史だって」

「え、タイムリーすぎない? 光の編年記、出たばっかりじゃん」

「ライターCさんも、あの本買ったのかなあ」

「絶対買ってるでしょ。歴史好きなんだから」

 クロノは、同じ食堂の窓際で、焼き魚をほぐしていた。

 耳が、隣のテーブルのほうへ、ゆっくりと向いた。向いたまま、戻らなかった。箸だけが、機械のように正確に、魚の身と骨を分け続けていた。

 買っている。書店の平台から、真ん中の山の上から二冊目を。レシートは十時七分。

 その記録を、彼女は、隣のテーブルの二人には言わなかった。

 

 家族からの便りは、その週の半ばに届いた。

 見本誌のうちの一冊を、クロノは発売日の前に実家へ送っていた。好きにしろ、と雅也に言われた三冊目ではなく、家族に送る分として最初から決めていた一冊だった。三冊目は、まだ引き出しの中で、除湿剤の隣に眠っている。

 届いたのは、短い手紙だった。封筒の中に、便箋が一枚だけ入っていた。

 ――本、届きました。ありがとう。家族全員で書斎に集まって、一頁ずつ回して読みました。途中で年表の頁になって、全員がそこで長いこと止まってしまって、気がついたら、全員、書斎で本を開いたまま寝ていました。起きたら朝でした。いつものことですが、今回は、いつもより少しだけ嬉しい寝落ちでした。年表の校正、よくできていました。

 クロノは、その便箋を、寮の机の上で何度も読んだ。

 読むたびに、書斎の光景が目に浮かんだ。天井まで届く本棚。机の上に積まれた古い資料。椅子の背にもたれて、あるいは床の敷物の上で、それぞれ別々の姿勢で眠っている家族。その真ん中で、開いたままの月の色の本が、年表の頁で止まっている。

 年表の校正、よくできていました。

 その一行に、クロノは、長いこと指を当てていた。表紙のことも、写真のことも、衣装のことも、家族は何も書いていなかった。書いてあるのは、年表のことだけだった。四か所の赤を入れた、あの年表。自分がこの本の中で、唯一、記録者として手を入れた頁。

 家族は、そこを見ていた。

 クロノは、便箋を丁寧に畳んで、手帳の後ろの見返しのポケットにしまった。

 

 最後の便りは、学園の広報担当が、トレーナー室まで直接届けに来た。

 厚紙の封筒が一つだった。差出人の欄には、カメラマンの名前と、その下に小さく、衣装担当の名前が並んでいた。二人連名の封筒だった。

 封を開けると、中から、四つ切りの写真が一枚と、名刺ほどの大きさの厚紙が一枚、出てきた。

 写真は、書架の前で、背表紙の年号を読んでいて頬を染め、耳が伏せかけたところで止まった、あの一枚だった。本に刷られたものよりも、ずっと大きく、ずっと鮮明だった。印画紙の上で、頬の赤みはインクよりも柔らかく、伏せかけた耳の毛並みの一本一本まで、窓の光を受けて淡く光っていた。

 写真の裏に、鉛筆で一行、書かれていた。

 ――撮影の日に、ご本人が一番欲しがる一枚だと申し上げましたので。

 厚紙のほうには、細い糸が、何重にも巻きつけてあった。暗い銀から、ほとんど黒に近い色へ。糸の色が、ほんのわずかずつ変わっていく。その変わり方が、クロノの髪の毛先と同じ順番だった。衣装の裾の、一番下の縁に使われた糸の、余りだった。厚紙の端に、小さな字で、裁ち落としです、とだけ書かれていた。

 クロノは、写真と厚紙を膝の上に並べて、動かなくなった。

 動かないまま、尻尾だけが、長椅子の脇で、ゆっくりと床のほうへ下がっていった。力が抜けたように、けれど沈んでいるのではなく、何かを受け止めて、静かに重くなったように。

 雅也は、窓際に立ってそれを見ていた。何も言わなかった。

「……トレーナーさん」

 しばらくして、クロノが言った。声が、少しだけ掠れていた。

「……この写真を、私は、どこに置けばいいのでしょう」

「……どこでもいいだろ」

「……記録として、残すなら、アルバムに。でも……」

「うん」

「……これは、記録として、欲しかったのでは、ないような気がします」

 雅也は、窓から離れて、長椅子の近くまで来た。来て、クロノの膝の上の写真を、少し離れたところから見下ろした。

 背表紙の年号を読んで、頬を染めている顔。何読んでる、読んでいません、読んでるだろ、背表紙の年号を少し。あの日のやりとりが、写真の中からまだ聞こえてくるような気がした。

「……らしい顔、してるな」

 雅也は言った。

「カメラマンが言ってた。記録する人は、自分が一番自分らしくない顔をしてる写真を嫌がるって。……これは、らしい顔だ」

「……はい」

「だったら、記録じゃなくていい。君らしい顔の写真を、君が持ってる。それだけで、いいんじゃないか」

 クロノは、小さく息を呑んだ。

 それから、少しだけ笑った。笑いながら、写真を胸の前で両手に持ち直した。

「……では、手帳の、後ろのポケットに」

「入るのか、それ」

「……入りません。……畳むわけには、いかないので……机の、引き出しに。見本誌の、隣に」

「除湿剤の隣か」

「……除湿剤の、隣です」

 雅也は、声を出して笑った。

 糸の巻かれた厚紙は、手帳の裏表紙の内側に、クロノが透明なテープで貼った。撮影の日の頁ではなかった。あの頁の白い一行の近くには、何も貼らなかった。何も貼らないでおくことが、今の自分にできる、一番正確な記録の仕方だと、クロノは思った。

 

  九

 

 渡仏を三日後に控えた夕方、学園での最後の追い切りが終わった。

 芝のコースに、西日が長く伸びていた。九月の半ばの夕方は、夏の名残の熱をまだ地面のどこかに抱えていて、けれど空気のほうはもう、はっきりと秋の軽さを持っていた。走り終えたクロノの息は、ゴール板を過ぎてから十数歩で整った。整ったあとで、彼女はいつものように、コースの外に立っている雅也のほうを見た。

 雅也は、ストップウォッチを見て、それから顔を上げ、小さく頷いた。

 それだけで、クロノには分かった。予定どおりの時計。予定どおりの息の入り方。脚の運びに、左右の差はない。どこにも、気のせいの分の余白はない。

 クールダウンの歩様を見てから、二人はトレーナー室へ戻る道を歩いた。コースから校舎へ続く並木道で、両側に欅が植えられている。撮影の日に高窓の向こうで揺れていたものより、ずっと太く、ずっと古い木々だった。夕方の風が、その梢を渡っていくたびに、葉が裏返って白く光り、それから、また緑に戻った。

 蝉の声は、もうなかった。代わりに、植え込みの根元のほうから、秋の虫の声が細く途切れがちに聞こえていた。

「……トレーナーさん」

「ん」

「……少し、お話ししても、よろしいですか」

「いいぞ」

 クロノは、すぐには話し始めなかった。

 歩幅を少し緩め、並木の影と光が交互に落ちる道の上を、数歩だけ黙って歩いた。雅也も歩幅を合わせた。合わせたことに、クロノは気づいていた。この人は、いつも、自分の歩幅に合わせてくれる。百八十を超える背の人が、百五十をわずかに超えるだけの自分の歩幅に。

「……本が出てから、十日が経ちました」

「うん」

「……十日のあいだ、私は、あの本を、何度も読みました。見本誌と、平台から買ったものと、両方」

「うん」

「……でも、一度も、ちゃんと読めていない気がするんです」

 雅也は、黙って続きを待った。

「……資料館の本を読むとき、私は、記録する側の目で読みます。いつ、誰が、どこで、何を。……でも、あの本を開くと、その目が、途中でいなくなってしまうんです。年表の頁までは、大丈夫です。第一部のレースの写真も、なんとか。でも、第二部を開くと……」

「写ってるのが、自分だから」

「……はい。写っている自分を、記録として読もうとすると……写っている自分のほうが、それを拒むような気がして」

 クロノは、そこで一度、言葉を切った。

 並木の途中で、一本の欅の梢が、ひときわ大きく揺れた。二人とも、同時にそれを見上げた。

「……揺れ幅、二メートルくらい」

「……俺も、そう思う」

 クロノは、少しだけ笑った。笑って、また歩き出した。

「……それで、考えたんです。記録する人間が、記録される側に立ったとき、何を読めばいいのか」

「うん」

「……答えは、まだ、出ていません。でも、一つだけ、分かったことがあります」

 クロノは、手提げの中から手帳を取り出した。取り出しただけで、開かなかった。胸の前で、両手で持っていた。

「……あの本には、あの日の、一番大事なことが、載っていません」

 雅也の歩みが、ほんのわずかに乱れた。乱れたことを、クロノは見なかったふりをした。

「……それは、分かっていました。初校のときから。撮っていないものは、載りようがないと、広報の方も仰いました。……でも、本になって、何万冊も刷られて、平台に積まれて、皆さんが布の持ち上がりや、背表紙の年号や、トレーナーさんの指の付け根のことまで、あんなに、よく見てくださって……それでも、そこには、載っていないんです」

「……うん」

「……そのことが、最初は、少し……怖かったです。一番大事なことが、どこにも記録されていない、ということが」

「……最初は、か」

「……はい。最初は」

 クロノは、手帳の表紙を、指先で一度だけなぞった。

「……でも、記録されていないのではなくて……ここに、あるんです」

「……手帳に」

「……いいえ。手帳には、書いていません。書いてあるのは、あの日の、ほかのことだけです。……あの一行は、空けてあります。トレーナーさんが、そう仰ったので」

 並木の影が、二人の足元を横切った。光が、また戻ってきた。

「……空けてある一行は、書かれていない一行とは、違うんです。……それが、本が出てから、ようやく分かりました。本には、載っていない。手帳にも、書いていない。でも、なくなってはいない。空けてある、ということが、それ自体、一つの記録なんだと……」

 クロノは、そこで言葉を切った。

 切ったまま、しばらく続かなかった。耳が、ほんの少しだけ後ろへ倒れていた。自分のことを話しすぎたと思ったのかもしれない。自分のことを話すとき、この子の言葉はいつも少なくなる。少なくなるはずの言葉が、今日は、並木道の長さの半分ほど続いていた。

「……すみません。長く、なりました」

「いい」

「……それで、あの」

「うん」

「……余白は、余白のままで……よろしいのでしょうか」

 クロノは、立ち止まった。

 雅也も、立ち止まった。

 並木道の、ちょうど真ん中あたりだった。両側の欅が、夕方の風に揺れていた。西日が梢の隙間から細く落ちて、クロノの淡くなった髪を、銀色に透かしていた。撮影の日の、夕方の石畳の上と、同じ光り方だった。

 雅也は、すぐには答えなかった。

 答えを出してはいけない、と彼は思っていた。答えを出すための言葉ではなく、答えを出さないことを、もう一度ちゃんと言うための言葉を、探していた。言葉を考えるのは苦手だった。けれど、これは考えなければいけない言葉だった。

「……空けとけって言ったのは、俺だ」

 やがて、彼は言った。

「……はい」

「空けとけって言ったのは、そこに書く日があるからだ。……いつかは、言わない。言えない。君はまだ走ってるし、俺は君の担当だ。それは、あの日と何も変わってない」

「……はい」

「でも、空けてあるってことは、なくなってないってことだ。君が今言ったとおり。……俺も、そう思ってる」

 クロノは、雅也を見上げていた。

 見上げたまま、動かなかった。パドックの立ち方ではなかった。見ることに身体のすべてを使っているのでもなかった。動けないのとも、少し違った。ただ、そこに立って、聞いていた。

「……だから、余白のままでいい」

 雅也は言った。

「……余白のままに、しておいてくれ。俺が、ちゃんと書けるようになるまで」

 クロノは、小さく息を呑んだ。

 それから、ほんの少しだけ、口角を上げた。

「……はい」

 声は、震えていなかった。

「……余白のままに、しておきます。……待つのは、得意なので」

「……知ってる」

 そのとき、並木道の向こう、校舎のほうから、金管の音が聞こえてきた。

 吹奏楽の部か、式典の練習か、とにかく誰かが、校舎のどこかで、トランペットの短い旋律を吹いていた。ファンファーレではなかった。けれど、よく似た和音の積み方と、よく似た拍の刻み方をしていた。

 クロノの尻尾が、動いた。

 制服のスカートの後ろで、拍に合わせて、静かに、正確に揺れた。一、二、三。四拍目で少しだけ大きく。

 クロノは、それに気づいていた。気づいていて、止めなかった。止めないまま、雅也を見上げていた。

 雅也も、気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。見てない、とも言わなかった。見てる、とも言わなかった。ただ、見ていた。

 旋律は、四小節ほどで途切れた。

 途切れた瞬間、尻尾も止まった。止まってから、一拍遅れて、スカートの裾が、音もなく落ちた。表紙の布と、同じ落ち方だった。

「……余韻、ですね」

 クロノが、小さく言った。

「……布の」

「……うん」

 雅也は、それ以上は何も言わなかった。言わなかったが、首の後ろに手をやった。やって、掻かずに、そのまま下ろした。

 二人は、また歩き出した。

 

 トレーナー室に戻ると、雅也は机の引き出しを開けた。

 開けた引き出しの中から、薄い紙の包みを一つ取り出して、クロノに差し出した。

「……何ですか」

「パリの朝は、湿気がひどいらしい。……ファンがそう書いてた」

 包みの中から出てきたのは、手帳がちょうど一冊収まる大きさの、防水の布でできたケースだった。口のところに、細いファスナーがついている。中には、除湿剤の小袋が二つ、あらかじめ入れてあった。

「……これは」

「控室で、メモ帳がよれるのを見るのは、嫌だろ」

「……はい。とても、嫌です」

「だから、それに入れとけ」

 クロノは、ケースを両手で受け取った。受け取って、しばらく黙っていた。それから、手帳をそっとケースの中に滑り込ませた。手帳は、角の丸く擦れたところまで、ぴたりと収まった。ファスナーを閉めると、中の除湿剤の小袋が、かさ、と小さく鳴った。

 その音に、クロノの耳が向いた。

「……紙の、音がしました」

「除湿剤だ」

「……除湿剤の、音でした」

 クロノは、ケースを胸に抱えた。抱えたまま、深く頭を下げた。

「……ありがとう、ございます。……大切に、します。……パリで、毎朝」

「毎朝は、いい。湿ってる朝だけでいい」

「……パリの朝は、毎朝、湿っているそうなので」

 雅也は、苦笑した。

 苦笑しながら、開けたままの引き出しを閉めようとして、手が止まった。

 引き出しの奥に、二つのものが並んでいた。

 一つは、担当契約の日に、クロノから渡された写真。パドックを見ている自分の横顔が写った、一枚の写真。もう一つは、発売日の朝、学園の売店で買った、月の色の表紙の本。売店の白い紙袋から出されて、写真の隣に、表紙を上にして平らに置かれていた。

 クロノは、それを見てしまった。

 見てしまったことに、雅也も気づいた。

 二人とも、しばらく何も言わなかった。除湿機は、今日は止まっていた。窓の外で、秋の虫が細く鳴いていた。

「……見本誌が、七冊、ありますよね」

 クロノが、ようやく言った。

「……ある」

「……見本誌は、棚に」

「……棚にある」

「……売店で買ったほうは、引き出しに」

「……引き出しにある」

「……写真の、隣に」

「……隣にある」

 雅也は、引き出しを閉めた。閉める手つきが、ほんの少しだけ、いつもより丁寧だった。

 クロノは、防水のケースを胸に抱えたまま、小さく息を呑んだ。それから、少しだけ笑った。笑った拍子に、耳がふっと揺れた。

 記録しなかった。

 記録する必要がなかった。見本と、売っているのは、違う。棚にあるものと、引き出しにあるものは、違う。その違いを、この人は何も説明しない。説明しないまま、ただ、そうしている。そのことを、クロノは、どの手帳にも書かずに、覚えておこうと思った。

 

  十

 

 出発の前の晩、寮の部屋の床には、大きな旅行鞄が口を開けて横たわっていた。

 中身は、ほとんど詰め終わっていた。練習着、替えの蹄鉄、学園から支給された遠征用の上着、薄手のセーター。パリの九月の終わりは、東京よりずっと肌寒いのだと、雅也が調べてくれた資料に書いてあった。朝晩は十度を切る日もある。そして、湿気が多い。霧の出る朝が、珍しくない。

 ラヴズオンリーユーは、クロノのベッドの端に腰かけて、鞄の中身を一つずつ指差していた。

「パスポートは?」

「……入れました。上着の内ポケットに」

「乗る前に、もう一回確かめてね。変換プラグは?」

「……入れました」

「胃薬と、絆創膏と、のど飴は?」

「……胃薬と、絆創膏は。のど飴は……」

「はい、これ」

 ラヴズオンリーユーは、自分の机の引き出しから、のど飴の袋を一つ取り出して、鞄の隅に押し込んだ。押し込んでから、さらに、小さな紙袋を一つ取り出した。

「それと、これ。機内で食べて」

「……これは」

「クッキー。この前と同じの。機内食、たぶん食べるの忘れちゃうでしょう。窓の外の雲の形とか見てて」

「……忘れません」

「忘れるわ。ドバイのときも、三回に一回忘れたって、トレーナーさんから聞いたもの」

 クロノは、反論できなかった。記録がある、と言われたら、この人の前でも、やはり反論はできなかった。

 クッキーの紙袋を鞄に入れながら、クロノは、ふと思った。雅也とラヴズオンリーユーは、いつのまに、自分の食事の記録を共有しているのだろう。訊いてみたかったが、訊かなかった。訊いたら、この人はきっと、マネージャーだもの、と笑って答えるに違いなかった。グランアレグリアの言っていたとおりに。

 鞄の中身をすべて確かめ終えると、ラヴズオンリーユーは、机の上に目をやった。

 クロノの机の上には、二冊の本が並んでいた。見本誌と、発売日に平台から買った一冊。どちらも、月の色の表紙を上にして置かれている。

「……持っていくの?」

 ラヴズオンリーユーが訊いた。

 クロノは、少し考えた。

 考えるまでもなく、答えは決まっていた。決まっていたのに、少し考えるふりをしたのは、自分でもその答えを一度、声に出す前に確かめておきたかったからだった。

「……持っていきません」

「そう」

「……記録は、日本に置いていきます。パリへは、手帳だけ」

 クロノは、防水のケースに収めた手帳を、手提げの一番取り出しやすい場所に入れた。ファスナーの中で、除湿剤の小袋がかさりと鳴った。

「……本は、全部、走り終えてから、また読みます」

「全部、走り終えてから?」

「……はい。記録を読むのは、いつも、全部終わってからなので」

 ラヴズオンリーユーは、何か言いかけて、やめた。やめて、代わりに、やわらかく微笑んだ。

 クロノは、机の引き出しを開けた。

 除湿剤の小袋が三つ並ぶ、一番湿気の少ない引き出し。その中に、薄い紙に包まれたままの本が一冊、入っていた。雅也から渡された見本誌の三冊目。好きにしろ、と言われた一冊。家族の分でも、自分の分でもない一冊。その隣には、カメラマンが送ってくれた四つ切りの写真が、薄紙を挟んで平らに置かれている。

 クロノは、包みを開けなかった。

 この十日あまり、何度か開けようとした。開けて、誰かに渡そうか、あるいは自分でもう一冊持っていようか、と考えた。けれど、そのたびに、手が止まった。止まった理由が、今夜、ようやく分かった気がした。

 この一冊は、まだ誰のものでもない。

 誰のものでもない一冊を、誰のものでもないまま、ここに置いておく。包みを開けずに。表紙も、奥付も、まだ誰の目にも触れさせずに。いつか、全部を走り終えて、卒業して、担当という関係が終わって、それでも同じ気持ちでいられたら。そのとき、この包みを開けて、最初に誰に見せるのかを決めればいい。

 余白の一冊、だった。

 クロノは、引き出しをそっと閉めた。閉める手つきが、ほんの少しだけ、いつもより丁寧だった。それが、二日前のトレーナー室で見た誰かの手つきと同じだということに、彼女は気づいていて、気づかないふりをした。

「……もう、寝ます」

「うん。明日、早いものね」

 ラヴズオンリーユーは、自分のベッドに戻り、スタンドの明かりを一段落とした。

「……ラヴちゃん」

「なあに」

「……いろいろ、ありがとう、ございました」

「なに言ってるの。帰ってきたら、またいろいろするわよ。ご飯は食べたの、髪は乾かしたの、って。ずっと」

 ずっと、とラヴズオンリーユーは言った。

 その一言に、クロノの耳が、暗がりの中で、そっとそちらへ向いた。オークスの夜から、ずっと。今日は食べたの、と訊かれ続けてきた日々が、その「ずっと」の中に、全部、入っているような気がした。

「……はい。ずっと」

「おやすみなさい、クロノちゃん」

「……おやすみなさい」

 

 明かりを消す前に、クロノは、もう一度だけ手帳を開いた。

 防水のケースのファスナーを、音を立てないように少しずつ開け、手帳を取り出す。スタンドの、落とされた明かりの下で、今日の頁を開いた。

 ――九月十六日。出発前夜。荷造り完了。パスポート、上着の内ポケット。のど飴、ラヴちゃんより。クッキー、同じくラヴちゃんより。機内食、忘れないこと。

 書き終えてから、指が、頁をめくった。

 めくりかけて、やめる、ということは、もうしなかった。まっすぐに、撮影の日の頁まで遡った。

 頁の上半分の工程表。途中で一度途切れる時刻の書き込み。夕方に書き足した走り書き。衣装の裾の糸の色。ヘアメイク担当の言葉。背表紙の年号。ファンファーレ。欅の枝。手が冷たかったこと。そして――。

 頁の一番下に、一行分の白があった。

 撮影の日から、二か月あまりが経っていた。そのあいだに、本が刷られ、平台に積まれ、何万人もの人の手に渡った。表紙の布の持ち上がりが見つけられ、考察され、正解のすぐ隣まで来て、引き返された。背表紙の年号が拡大され、明治か大正かで議論された。指輪の顔が本気だと言われ、敬意しかない手だと言われ、月の光みたいな髪だと言われた。家族は書斎で寝落ちし、小さな女の子は、しっぽが踊っていると言い当てた。

 そのすべての真ん中に、この一行の白があった。

 何万冊の本のどこにも載っていない一行。何万人の考察のどこにも辿り着かなかった一行。書かれていない。記録されていない。けれど、なくなってはいない。

 空けてある。

 クロノは、その白を、指先でそっとなぞった。紙は、この二か月で何度も触れられて、そこだけ少し柔らかくなっていた。湿気のせいではなかった。

 最初、この白は、空白に見えた。何かが欠けている場所。書かれるはずだったものが、書かれなかった場所。けれど、本が出て、自分が記録される側に立って、何万人の目に見られて、それでもこの一行だけが誰の目にも届かずに残っているのを知ったとき、白の意味が、少しずつ変わっていった。

 欠けているのではない。取ってあるのだ。

 レース史の年鑑には、ときどき、こういう頁がある。まだ終わっていないレースのために、あらかじめ罫線だけが引かれた欄。優勝者の名前を書き込むための、空白の枠。その枠は、空いているからこそ、そこに何かが書かれる日が来ることを約束している。空白は、未来のための場所だった。

 余白のままに、しておいてくれ。俺が、ちゃんと書けるようになるまで。

 並木道で聞いた声が、耳の奥で、もう一度鳴った。

 クロノは、ペンを取った。

 取って、白の上に構えた。構えたまま、しばらく動かなかった。

 書くつもりはなかった。この一行は、自分が書くための一行ではない。返事の欄なのだ。自分が書いていいのは、この一行の外側だけだった。

 だから、彼女は、ペンを少しだけずらした。

 白の一行の、さらに下。頁の一番下の、ほんのわずかな余りの部分。そこに、本人以外には読めない走り書きではなく、誰にでも読める、ゆっくりとした字で、小さく書いた。

 ――九月四日、刊行。余白、そのまま。

 書き終えて、ペンを置いた。

 置いてから、耳にペンを挟もうとして、また挟めないことを思い出した。リングは、まだ完成していない。パリから帰ってきたら、また続きを考えよう、と思った。凱旋門の、その先。有馬の、その先。全部、走り終えた、その先。

 クロノは、手帳を閉じ、防水のケースに戻し、ファスナーを閉めた。除湿剤が、かさ、と鳴った。

 スタンドの明かりを消すと、部屋は暗くなった。窓の外で、秋の虫が鳴いていた。隣のベッドから、ラヴズオンリーユーの静かな寝息が聞こえていた。

 暗がりの中で、クロノは、胸の上で両手を重ねた。

 尻尾が、夏掛けの下で、一度だけ、ゆっくりと揺れた。拍は取っていなかった。ファンファーレは鳴っていなかった。ただ、揺れた。本人は、たぶん、それに気づいていた。気づいていて、止めなかった。

 

 出発の朝、空港の保安検査場の前で、クロノは足を止めた。

 夜明け前に学園を出て、雅也の運転する車で、まだ暗い高速道路を走ってきた。空港に着いたころ、東の空がようやく白みはじめていた。朝の空港は、人の数に比べて、ひどく静かだった。遠くで、搭乗を案内する柔らかなアナウンスが、いくつもの言語で繰り返されていた。

 保安検査場の入口には、磁気のゲートが並んでいた。一人ずつ、係員に促されて、そのゲートをくぐっていく。

 クロノは、その列の前で、小さく息を吸った。

 息を吸って、ほとんど声にならない声で、呟いた。

「……ゲートイン、完了」

 すぐ隣で、鞄を提げた雅也が、立ち止まった。

 いつもなら、彼は聞こえないふりをする。遠征の駅の改札で、クロノが同じことを呟くたびに、彼はいつも、聞こえないふりをしてきた。三回目で、笑ってしまったことがあるだけだった。

 今朝は、聞こえないふりをしなかった。

「……ゲートイン完了」

 雅也が、同じくらい小さな声で、そう言った。

 クロノは、雅也を見上げた。

 見上げたまま、小さく息を呑んだ。それから、少しだけ笑った。

 ファンファーレは、鳴っていなかった。空港のアナウンスが、どこか遠くで、次の便の搭乗開始を告げていた。けれど、クロノの尻尾は、上着の裾の後ろで、ほんのわずかに、一拍だけ、持ち上がった。持ち上がって、一拍遅れて、静かに落ちた。

 雅也は、それを見ていた。見ていて、何も言わなかった。

 二人は、並んでゲートをくぐった。

 手提げの一番取り出しやすい場所で、防水のケースに守られた手帳が、歩くたびにかすかに揺れていた。その中の一頁の、一番下に、一行分の白がある。何万冊の本のどこにも載っていない、その一行を抱えたまま、クロノジェネシスは、遠い異国の、まだ誰も書いていない一日へ向かって、歩き出した

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