独立1年目の春に出会い、その走りを一から作り上げていく。戦績は18戦17勝1敗。唯一の敗北は弥生賞5着。その後は大逃げを完成させ、GⅠを7勝。最長2200mまでを走り、長距離には出走しない。左前脚の異変を早期に発見して天皇賞(秋)を回避し、約7か月の休養を経て復帰。最後は天皇賞(秋)を制し、18戦17勝で現役を終える。雅也を支えるサブトレーナーは西澤千帆。よく喋り、よく笑う姉御肌の人物で、会見対応など裏方としてチームを支える。
続きの景色
第一章 依頼状
夜明け前のコースには、音が少ない。
三月の終わりの、まだ冬の名残を抱えた空気の中で、サイレンススズカは内ラチの外側に立っていた。芝は暗い灰緑色で、朝露を含んで重たく沈んでいた。東の空の低いところだけが、薄い水色から白へ、ほんの少しずつほどけかけている。風はまだ来ない。遠くの国道を走るトラックの音が、ときどき、ほとんど聞き取れない低さで地面を伝ってくる。
スズカは、ジャージではなく、薄手のコートを着ていた。
走らない朝の服だった。
引退してから、五か月が経っていた。
隣に、早瀬雅也が立っていた。黒いコートのポケットに両手を入れて、同じようにコースを見ていた。二人のあいだには、腕一本分ほどの隙間があった。触れてはいなかった。触れなくても、隣に誰かがいるということは、空気の温度で分かった。
現役のころ、雅也は毎朝このコースに来ていた。スズカの走りを、音だけで聴くためだった。三年以上、一日も欠かさずに。スズカが走らなくなった今も、彼は来ている。スズカも来ている。二人とも、走らない。ただ、立っている。
それが、この五か月のあいだに、二人の朝の形になっていた。
東の空が、白くなった。
最初の風が、コースの向こうから渡ってきた。芝の先が、いっせいに同じ方向へ傾いた。スズカの耳が、その風の来る方へ、わずかに向いた。
「……来ました」
「うん」
それだけだった。
風が、頬を撫でていった。冷たかった。けれど、冬の風の、骨に沁みるような冷たさではなかった。どこかに、土と、若い草の匂いが混ざっていた。
走っていたころ、この最初の風を、スズカは身体の前面で受けていた。スタートの直後、誰もいない前方から押し寄せてくる空気の壁。それを割って、割って、その先へ。
今は、横から受けていた。
立ったまま、頬で。耳で。コートの裾で。
それでも、風は同じように来た。
「……今日は、南寄りですね」
「分かる?」
「匂いが、少し甘いので」
雅也は、少しだけ笑った。
「俺には、冷たいことしか分からない」
「……それは、分かります」
「分かるのか」
「早瀬さん、さっきから、ポケットの中で手を握っています」
「……見てたのか」
「聞こえました。布の音が」
雅也は、ポケットの中で握っていた手を、ゆっくりとほどいた。それから、何も言わずにコースに視線を戻した。耳の先が、少しだけ赤くなっているのを、スズカは見た。寒さのせいかもしれなかった。そうでないかもしれなかった。
スズカは、それ以上、何も言わなかった。
空が、少しずつ明るくなっていった。
◇
封筒は、その日の昼に届いた。
トレセン学園の、トレーナー棟の二階。窓の外に、三月の終わりの薄い日差しが降りている。雅也のトレーナールームは、半年前とほとんど変わっていなかった。机、本棚、ホワイトボード、窓際の椅子。変わったのは、棚の一段だった。そこには、スズカの五年分の記録のファイルが、背表紙を揃えて並んでいた。十八冊。一レースに一冊。最後の一冊の背表紙には、雅也の字で、天皇賞(秋)と書かれていた。
その下の段は、空いていた。
スズカは、窓際の椅子に座っていた。現役のころ、いつも座っていた椅子だった。高等教育課程の講義が午前中で終わる日は、昼食のあと、ここに寄ることが多かった。理由を訊かれたことはない。訊かれても、たぶん、うまく答えられなかった。
ノックの音がして、西澤千帆が顔を出した。
「早瀬さーん。郵便です。……あ、スズカさん、こんにちは」
「……こんにちは、西澤さん」
「今日も来てたんですね。お昼、食べました?」
「はい。食堂で」
「何食べました?」
「……にんじんのポタージュと、パンを」
「えらい。この人なんて、さっきまで何も食べてなかったんですよ」
「食べたよ」
「コーヒーは食事じゃありません」
千帆は呆れた顔で雅也の机に封筒を置いた。サブトレーナーとして、〈ミザール〉が雅也とスズカの二人きりだったころから、彼の仕事を支えてきた人だった。よく喋り、よく笑う。回避の会見のときは、記者の質問を一人でほとんど引き受けた。
「それ、出版社からですよ。『月刊トゥインクル』の」
雅也が、封筒を手に取った。
白い、少し厚手の封筒だった。表には雅也の名前が、丁寧な手書きで書かれていた。差出人の欄に、編集部の住所と、一人の名前。
――乙名史悦子。
「……乙名史さんか」
「知ってる人ですか?」
「現役のころ、何度か取材を受けた。……レースのことに、すごく詳しい人だ」
「ああ、あの。記事がいつもものすごく熱い人ですよね」
千帆は、何かを思い出したように、くすりと笑った。
「一回、マイルチャンピオンシップのあとに、『二人三脚』って見出しつけた人じゃないですか?」
「……それは、別の媒体だったと思う」
「そうでしたっけ」
雅也は、封を切った。
中から、三枚の便箋と、一枚の企画書が出てきた。便箋は、丁寧な手書きだった。几帳面な文字が、罫線から一度もはみ出さずに並んでいた。
雅也は、それを読んだ。
スズカは、窓際から、その横顔を見ていた。
読んでいるあいだ、雅也の表情はほとんど変わらなかった。けれど、二枚目のところで、一度だけ、指が便箋の端を揃え直した。それから、三枚目。企画書。
読み終えて、雅也は、便箋を机の上に置いた。
「……スズカ宛てだった」
「……私に、ですか」
「うん。……正確には、君と、俺の両方に。窓口が俺なのは、たぶん、君に直接送るのは失礼だと思ったからだと思う」
雅也は、便箋を持って、窓際まで歩いてきた。
スズカに差し出した。
スズカは、それを受け取った。
――サイレンススズカさん、早瀬雅也トレーナー
書き出しは、そうなっていた。
――突然のお便りにて失礼いたします。『月刊トゥインクル』編集部の乙名史悦子です。
――スズカさんが競技を退かれてから、半年が経とうとしております。あの天皇賞(秋)の日、私は記者席におりました。最後の直線で、スズカさんの姿がスタンドの歓声の中に溶けていくのを、私はペンを持ったまま、一文字も書けずに見ておりました。
――あれから半年、私はずっと、一つのことを考えておりました。
――スズカさんの走りは、多くの方の記憶に残っています。けれど、スズカさんご自身が、ご自身の言葉で、あの五年間を語られたことは、まだ一度もないのではないか、と。
スズカは、便箋から目を上げた。
窓の外で、雲が、ゆっくりと流れていた。
また、便箋に目を戻した。
――つきましては、スズカさんへの長期インタビューと、写真撮影をお願いしたく、筆を執りました。現役時代の走りを振り返ると同時に、競技を退かれた今、スズカさんが何を学び、何を見て、これからどこへ向かわれるのか。そのすべてを、スズカさんご自身の言葉で、読者の皆様にお届けしたいのです。
――写真につきましても、スズカさんのご意向を最優先にいたします。お見せになりたいもの、お見せになりたくないもの、すべてお聞かせください。
――レースという場所は、走る方がいてこそ輝きます。その輝きの記録を、次の世代へ手渡すお手伝いが、私にできれば。
――ご検討いただけましたら幸いです。
――乙名史悦子
便箋の最後に、追伸があった。
――追伸。取材のお時間は、スズカさんのご都合に完全に合わせます。講義のお時間も、朝のお時間も、お邪魔いたしません。
スズカは、その追伸を、もう一度読んだ。
朝のお時間も。
この人は、知っているのだろうか、と思った。
夜明けのコースに、二人で立っていることを。
いや、知らないのかもしれない。ただ、現役のころのスズカが早朝に練習していたことを、記者として知っているだけかもしれない。
どちらにしても、その一行は、丁寧だった。
スズカは、企画書のほうに目を移した。
月刊トゥインクル、夏の特集号。巻頭の長期インタビュー。見開きで八頁から十頁。写真撮影は、取材とは別日に半日から一日。撮影場所は、本人の希望を最優先に、トレセン学園内、競技場、その他。
企画のタイトルの欄は、空白だった。その横に、小さく手書きで添えられていた。
――タイトルは、スズカさんのお話を伺ってから決めたいと考えております。
◇
「……どうする?」
雅也は、窓際の壁にもたれて訊いた。
スズカは、便箋を膝の上に置いたまま、しばらく黙っていた。
すぐには、答えが出なかった。
取材は、苦手だった。人の多い場所が、苦手だった。記者会見の、あの白い照明と、何十という目と、フラッシュの音。現役のころ、レースのあとの会見はいつも短くしてもらっていた。大阪杯のあと、不向きと言われていたコースについて訊かれて、走りました、とだけ答えた。それで十分だと思った。走ったことが、全部だった。
けれど、この手紙は、会見とは違うことを頼んでいた。
自分の言葉で、五年間を。
「……私は」
スズカは、便箋の文字を見下ろした。
「……あまり、話すのが得意ではないので」
「知ってる」
「……五年間のことを、全部、上手に話せる気がしません」
「全部は、話さなくていいと思う」
雅也は、壁にもたれたまま言った。
「話したいことだけ話せばいい。話したくないことは、話さなくていい。……乙名史さんは、たぶん、それを分かってる人だと思う。手紙に、そう書いてあった」
「……はい。書いてありました」
「受けるなら、打ち合わせを先にしてもらおう。何を話すか、何を話さないか、先に決めてから」
「……」
「受けないなら、俺から丁寧に断る。それでも、たぶん、あの人は怒らない」
スズカは、雅也のほうを見た。
「……早瀬さんは、どう思いますか」
雅也は、少しだけ考えた。
それから、言った。
「俺は、どっちでもいい。……本当に」
「……」
「ただ、一つだけ思うことがある」
「……はい」
「君の走りは、いろんな人がいろんな言葉で書いてきた。大逃げ。別の競技。コースを選んでる。逃げた。戻ってきた。……全部、外から見た言葉だった」
雅也は、窓の外に目を向けた。トラックが見えた。午後の練習を始めたウマ娘たちが、何人か、コースの上を走っていた。
「君が自分で、自分の走りのことを話したのは、たぶん、数えるほどしかない。……それを、話したいと思うかどうかは、君が決めることだけど」
スズカは、便箋を見た。
――スズカさんご自身が、ご自身の言葉で、あの五年間を語られたことは、まだ一度もないのではないか。
確かに、そうだった。
五年間、走ることが言葉だった。先頭で、誰もいない景色の中を走ることが、自分の言いたいことの全部だった。それ以上の言葉は、必要なかった。
今は、走っていない。
走らなくなった自分には、走り以外の言葉が、必要なのかもしれなかった。
「……少し、考えさせてください」
「うん。急がなくていい」
雅也は、壁から背中を離した。机に戻ろうとして、足を止めた。
「……あと、もう一つ」
「……はい」
「写真のこと。企画書に、撮影場所の候補がいくつか書いてある。勝負服のことも、少しだけ。……着たくなければ、着なくていい。それは、俺からも乙名史さんに言う」
スズカは、企画書に目を落とした。
撮影案の欄に、小さく、控えめに書かれていた。
――現役時代の勝負服でのお写真(ご本人のご希望があれば)。
ご本人のご希望があれば。
その一言が、括弧の中に、そっと置かれていた。
「……ありがとうございます」
「俺は何もしてないよ」
「……いえ」
スズカは、便箋と企画書を、丁寧に揃えた。
膝の上に置いた。
窓の外で、誰かが走っていた。一定のリズムで、芝を蹴る音。ガラス越しに、かすかに届いてきた。
スズカの耳が、その音のほうへ向いた。
しばらく、そのまま聴いていた。
その音を聴いているあいだ、スズカは、何も考えていなかった。手紙のことも、取材のことも。ただ、音を聴いていた。一完歩ずつ、正確に、芝を叩く音。少しだけ、右の着地が強い。たぶん、右に重心を預ける癖がある子だ。
ふと気づくと、雅也がこちらを見ていた。
「……今、走ってる子の音、聴いてた?」
「……はい」
「何か分かった?」
「……右の着地が、少しだけ、強いです」
雅也は、窓の外を見た。
しばらく、黙ってコースを見ていた。
「……ほんとだ」
「……」
「よく聴いてるな」
「早瀬さんに、教わったので」
「教えたのは、後ろの音を聴く方法だけだよ」
「……同じことです」
雅也は、少しだけ笑った。
それから、机に戻っていった。
スズカは、窓の外の音を、もう少しだけ聴いていた。
◇
その夜、スズカは寮の自室で、便箋をもう一度読んだ。
栗東寮の、二人部屋。卒業したあとも、学園の高等教育課程に在籍する学生のために、寮の部屋の一部が引き続き割り当てられていた。スズカの部屋は、変わっていなかった。向かいのベッドでは、スペシャルウィークが、明日のレースの資料を広げたまま、うつ伏せで眠りかけていた。
机のスタンドライトの小さな円の中で、スズカは、便箋の文字を指でなぞった。
ホットミルクを、両手で包んでいた。蜂蜜を、ひとさじ。
休養していたころ、この一杯が一日二杯に増えていた。今は、また一杯に戻っていた。
「……スズカさん、まだ起きてるんですか」
向かいのベッドから、半分眠った声がした。
「……ごめんなさい、スペちゃん。眩しかった?」
「いえ、全然……。何読んでるんですか?」
「……手紙。取材の、依頼の」
「取材!?」
スペシャルウィークが、がばりと起き上がった。
「すごい! どこからですか!?」
「……『月刊トゥインクル』から」
「月刊トゥインクル! 私、毎月読んでます! え、スズカさんが載るんですか!? 表紙ですか!?」
「……まだ、決めていないの。受けるかどうか」
「えっ」
スペシャルウィークは、ベッドの上で正座のような格好になった。
「……受けないんですか?」
「……分からないの」
スズカは、ホットミルクを一口飲んだ。
甘かった。蜂蜜の、柔らかい甘さが、舌の上でゆっくり広がった。
「……自分の走りのことを、自分で話したことが、あまりないから」
「……」
「上手に話せるか、分からなくて」
スペシャルウィークは、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ首をかしげた。
「……スズカさん、休んでたころ、私が毎日走りの話してたの、覚えてます?」
「……覚えてるわ」
「あのとき、スズカさん、全部聞いてくれてましたよね。いつもは、走ること考えてると、何も聞いてないのに」
「……ええ」
「私、あのとき、上手に話せてなかったと思うんです。今日のタイムがどうだったとか、坂路がきつかったとか、ごはんがおいしかったとか。ぐちゃぐちゃで」
「……」
「でも、スズカさん、聞いててくれて。……私、それがすごく嬉しかったんです」
スペシャルウィークは、にこっと笑った。
「上手じゃなくても、いいと思います。スズカさんの話なら、聞きたい人、いっぱいいますから。……私も、その一人です」
スズカは、ホットミルクのカップを持ったまま、スペシャルウィークの顔を見た。
まっすぐな笑顔だった。
スズカの目元が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「……ありがとう、スペちゃん」
「えへへ。……あ、でも、表紙だったら絶対買います。三冊買います」
「……三冊も、いらないと思うわ」
「一冊は保存用で、一冊は読む用で、一冊は実家に送る用です!」
「……ふふ」
スペシャルウィークは、満足したように布団に潜りこんだ。
「おやすみなさい、スズカさん」
「おやすみなさい」
しばらくすると、向かいのベッドから、規則正しい寝息が聞こえはじめた。
スズカは、便箋をもう一度だけ読んだ。
それから、スマートフォンを手に取った。
メッセージの画面を開いた。
一番上に、雅也の名前があった。
少しだけ考えて、打った。
――受けます。
送信してから、もう一行。
――話したいことだけ、話してみます。
既読がついた。
返事は、少しして来た。
――分かった。乙名史さんに連絡する。
――打ち合わせ、一緒に出る。
スズカは、画面を見て、少しだけ目を細めた。
――はい。
それから、もう一行だけ。
――おやすみなさい。
――おやすみ。
スタンドライトを消した。
窓の外で、春の夜の風が、寮の前の木々をかすかに揺らしていた。
スズカは、ベッドに横になって、目を閉じた。
明日の朝も、コースに行く。
たぶん、あの人も来る。
第二章 語ること、語らないこと
打ち合わせは、四月の最初の水曜日の午後に行われた。
場所は、トレセン学園の本館にある小さな応接室だった。乙名史悦子が、学園の外の喫茶店ではなくここを提案したのは、スズカが人の多い場所を苦手としていることを知っていたからだと、雅也はあとで気づいた。窓の外に、中庭の桜が見えた。満開を少し過ぎて、風が吹くたびに、花びらが斜めに流れていった。
約束の十分前に、応接室の扉がノックされた。
「――失礼いたします」
扉が開くと、一人の女性が立っていた。
深い色のスーツに、きちんとまとめた髪。肩からかけた大きな鞄の口から、分厚い手帳と、何冊もの雑誌の背表紙が覗いていた。眼鏡の奥の目が、部屋の中にスズカの姿を見つけた瞬間、ぱっと明るくなった。
「サイレンススズカさん、早瀬トレーナー。本日は、お時間をいただきまして、ありがとうございます」
深く、正確に頭を下げた。
「取材へのご協力、感謝します。お話できること、楽しみにしておりました」
スズカは、椅子から立ち上がって、頭を下げた。
「……サイレンススズカです。よろしくお願いします」
「早瀬です。よろしくお願いします」
乙名史の後ろから、もう一人、若い女性が入ってきた。編集部の水野と名乗った。記事の構成と進行を担当する人だった。乙名史より少し年下に見え、大きなノートパソコンを抱えていた。
四人で、低いテーブルを囲んで座った。
乙名史は、鞄から手帳を取り出して、膝の上で開いた。細かい文字が、びっしりと書きこまれていた。
「本日は、取材そのものではなく、その前の準備のお時間です。スズカさんが何をお話しになりたいか、何はお話しになりたくないか。それを伺って、取材の骨組みを一緒に作れればと考えております」
「……はい」
「ですので、今日は私が質問をするのではなく、スズカさんのお考えを伺う日です。途中で黙ってしまわれても、全く問題ございません。考える時間も、取材の一部ですので」
スズカは、少しだけ目を瞬かせた。
考える時間も、取材の一部。
そう言われたのは、初めてだった。
現役のころの会見では、沈黙は、いつも何かで埋められた。記者の次の質問か、西澤の補足か、司会の進行か。スズカが言葉を探しているあいだに、場は先へ進んでいった。
「……ありがとうございます」
乙名史は、にっこりと笑った。
「では、まず、大きなところから。……スズカさんは、この取材で、何を一番お話しになりたいですか」
◇
スズカは、すぐには答えなかった。
窓の外で、桜の花びらが一枚、ガラスに貼りついて、また風に剥がされて飛んでいった。
応接室の中は、静かだった。壁の時計の秒針の音が聞こえた。水野がノートパソコンのキーに指を置いたまま、動かずに待っていた。乙名史は、手帳を膝の上に置いたまま、ペンを持っていなかった。
雅也は、スズカの隣に座っていた。何も言わなかった。
「……走ることが、好きだった、ということを」
スズカは、ゆっくりと言った。
「……好きだった、ではないですね。……好きです。今も」
「はい」
「……勝ったことや、負けたことは、たくさん書いていただきました。でも、私が走っていた理由は、あまり、書かれていない気がします」
乙名史のペンが、静かに動きはじめた。
「……私は、勝ちたくて走っていたのではありません。最初は、自分でも、分かっていませんでした。……勝ちたいのか、走りたいのか。区別して考えたことが、なかったので」
「……」
「……走りたかったんです。先頭で。誰もいないところを」
スズカは、膝の上で手を組んだ。
「それを、話せたら、と思います」
乙名史のペンが止まった。
乙名史は顔を上げて、スズカを見た。眼鏡の奥の目が、わずかに潤んでいるように見えた。
「……素晴らしいですっ」
声が、少しだけ大きくなった。
「つまりスズカさんは、五年間、勝利という結果を追ったのではなく、純粋な走りの喜びそのものを追い求め、その果てにあの前人未到の――」
乙名史は、そこで言葉を止めた。
自分の声が大きくなっていることに、気づいたようだった。
咳払いを一つした。
「……失礼いたしました。つい」
「……いえ」
「私、取材に熱が入ると、話を大きくしてしまう癖がありまして。……編集部でも、よく注意されております」
隣で、水野が、小さく頷いた。
「乙名史さん、先月の特集でも見出しを三回書き直させられてましたよね」
「水野さん……」
「事実なので」
スズカは、二人のやり取りを見ていた。
それから、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「……大丈夫です。……前人未到、ではないと思いますけど」
「そ、そうですね。訂正いたします。……前人未到、は、取り消します」
乙名史は、手帳の一行に、細い線を引いた。
その几帳面な仕草を、スズカは見ていた。
この人は、大きく書こうとする。けれど、書いた言葉が本人と違うと分かったら、自分で線を引ける人だ。
スズカは、少しだけ、肩の力を抜いた。
◇
話は、それから一時間ほど続いた。
乙名史は、五年間の出来事を、一つずつ確かめていった。質問ではなく、確認だった。この時期のことは、お話しになれますか。このレースのことは。この出来事のことは。
スズカは、一つずつ答えた。
デビューのこと。話せます。
ジュニア級の三つのレースのこと。話せます。
弥生賞のこと。
スズカは、そこで少しだけ間を置いた。
「……話せます」
「よろしいのですか。唯一の、敗北のレースですが」
「……はい。あのレースがなければ、今の私はいないので」
乙名史は、ゆっくりと頷いた。
皐月賞からのG1のこと。話せます。長い距離に出なかったこと。
「……それも、話せます。……私が、決めたことなので」
大阪杯。宝塚記念。毎日王冠。
そして、第四年の、天皇賞(秋)の回避。
乙名史は、手帳のそのページで、ペンを止めた。
「……ここは、スズカさんのお気持ちを、特に慎重に伺いたいと思っております」
「……はい」
「回避のご判断については、当時、様々な報道がありました。私どもの媒体も、全てが正確だったとは申し上げられません」
乙名史の声が、少しだけ低くなった。
「……ご本人のお言葉で、お話しいただけることがあれば。そして、お話しになりたくないことがあれば、それも」
スズカは、しばらく黙っていた。
隣で、雅也が、身じろぎもせずに座っていた。
スズカは、あの秋のことを思い出した。
毎日王冠の一週間後。医療スタッフの部屋。専門医の、静かな声。今なら、休めば治ります。あと一戦走れば、分かりません。自分が口にした言葉。三週間前から、坂路の最後で、左が半歩だけ内に入ります。長い沈黙。一回で終わる景色なら、俺は止めません。……でも、あなたが見たいのは、その先でしょう。
まだ、続きがあります。だから、今日は、やめておきます。
その夜、初めて、短く名前を呼ばれた。
「……話せます」
スズカは、言った。
「……私が、走らないと決めました。それは、話します」
「はい」
「……それから」
スズカは、少しだけ言葉を探した。
「……異変に、気づいてくれた人がいました。診てくださった先生がいました。休んでいるあいだ、支えてくれた人たちがいました。……そのことも、話したいです」
乙名史のペンが、止まった。
「……異変に気づいた方、というのは」
スズカは、隣を見なかった。
見なくても、隣の人が、ほんのわずかに息を止めたのが分かった。
「……その方のお名前は、出しません」
スズカは、静かに言った。
「その人は、たぶん、自分の名前を出してほしくないと思うので。……でも、いなかったことには、したくないんです」
応接室が、静かになった。
乙名史は、長いあいだスズカを見ていた。
それから、手帳のそのページに、何かを書きこんだ。スズカの位置からは、文字は見えなかった。書き終えて、乙名史は顔を上げた。
「……承知いたしました。お名前は、一切、伺いません。記事にも書きません」
「……ありがとうございます」
「その代わり、スズカさんがおっしゃった言葉は、そのまま載せたいと思います。……気づいてくれた人がいた。診てくれた先生がいた。決めたのは、自分だった。……それが、あの秋の、本当の形だったのですね」
「……はい」
乙名史は、ゆっくりと頷いた。
それから、ほんの一瞬だけ、雅也のほうを見た。
何も言わなかった。
雅也も、何も言わなかった。ただ、膝の上に置いた手の指先が、書類の端を揃えるように、わずかに動いた。そこには、何の書類もなかった。
◇
話が、引退後のことに移った。
高等教育課程のこと。今、何を学んでいるのか。
「……話せます」
これからのこと。
「……まだ、はっきりとは決まっていません。でも、話せることは、話します」
そして、乙名史は、手帳の最後のページを開いた。
少しだけ、ためらうような間があった。
「……最後に、一つ。お二人のご関係について、伺ってもよろしいでしょうか」
スズカは、瞬きをした。
「……はい」
「現役時代の会見で、スズカさんは、これからもトレーナーさんと一緒にいると思う、とおっしゃいました。早瀬トレーナーは、引退したあとも本人がそう思っているなら、ちゃんと向き合う、とお答えになりました。……それから、お二人がご交際されている、という話は、学園の内外で、ある程度知られているようです」
「……」
「ただ、お二人は、それを公式に発表されたことはありません」
「……はい」
「ですので、この件については、お二人のご意向を完全に優先いたします。一切触れない、という選択も、もちろんございます」
乙名史は、ペンを置いた。
「どうなさいますか」
スズカは、隣を見た。
雅也は、スズカを見ていた。
何も言わなかった。けれど、その目が、君が決めていい、と言っていた。
五年間、何度も見てきた目だった。
スズカは、乙名史のほうへ向き直った。
「……訊かれたら、答えます」
「……よろしいのですか」
「……はい。隠していることでは、ないので」
スズカは、少しだけ考えてから、言葉を足した。
「……でも、二人のことは、二人のことなので。……一緒にいます、ということだけ、話します。それ以上は、話しません」
乙名史は、しばらくスズカを見ていた。
それから、ゆっくりと、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。それ以上は、私からは一切伺いません。記事でも、その一言以上のことは書きません」
「……ありがとうございます」
「早瀬トレーナーは、よろしいですか」
雅也は、少しだけ間を置いた。
「……本人が決めたことなので」
「……はい」
「それと、私のほうから一つだけ。……取材の場では、私は基本的に黙っています。訊かれたら答えますが、スズカの話を、私が補足することはしません。……本人の言葉で、書いていただきたいので」
乙名史は、目を丸くした。
それから、ふっと、柔らかく笑った。
「……早瀬トレーナーは、現役時代の取材でも、いつもそうおっしゃっていましたね。それは、本人が話すことです、と」
「……そうでしたか」
「はい。私、それをよく覚えております。……記者としては、正直、困ったこともございました」
「……すみません」
「いえ。今回は、それが一番ありがたいです」
◇
打ち合わせが終わったのは、午後の四時を過ぎたころだった。
乙名史と水野は、写真撮影の構成案を次回までに作ってくると言って、丁寧に頭を下げて帰っていった。撮影の場所も、衣装も、すべてスズカの意向を聞いてから決める、と乙名史は繰り返した。
応接室に、二人だけが残った。
窓の外で、陽が少し傾いていた。桜の花びらが、中庭の石畳の上に、薄い桃色の模様を作っていた。
スズカは、椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。
雅也は、テーブルの上の湯呑みを片付けていた。
「……早瀬さん」
「ん」
「……名前を出さない、と言いました」
「聞いてた」
「……よかったですか」
雅也は、湯呑みを持つ手を止めた。
少しだけ考えて、言った。
「……ありがとう」
「……」
「俺の名前を出さないでくれたことも。……いなかったことにしない、って言ってくれたことも」
スズカは、窓の外を見たまま、少しだけ耳を動かした。
「……本当のことなので」
「うん」
「……気づいたのは、早瀬さんです。私は、それを知っています。……それで、十分なので」
雅也は、何も言わなかった。
湯呑みを、盆の上にそっと置いた。
それから、窓際まで歩いてきて、スズカの隣に立った。
二人で、中庭の桜を見ていた。
風が吹いた。花びらが、また、斜めに流れていった。
「……乙名史さん、いい人でしたね」
「うん。……最初、前人未到って言いかけたときは、少しだけ焦ったけど」
「……ふふ」
「でも、自分で線引いてた」
「……はい。見ていました」
「ああいう人なら、大丈夫だと思う」
「……はい」
スズカは、窓ガラスに映った自分の顔を見た。
少しだけ、目元が緩んでいた。
自分では気づいていなかった。窓ガラスに映って、初めて気づいた。
話したいことを、話せた。話したくないことを、話さないと決められた。それを、誰かにきちんと受け取ってもらえた。
それだけのことが、思っていたよりずっと、身体を軽くしていた。
「……帰りましょうか」
「うん。寮まで送る」
「……はい」
二人で、応接室を出た。
廊下の窓から、傾きかけた陽の光が、斜めに射しこんでいた。二人の影が、並んで、長く床に伸びた。
影と影のあいだには、少しだけ隙間があった。
廊下の角を曲がるとき、その隙間が、ほんの少しだけ、狭くなった。
第三章 最初の二百メートル
取材の一日目は、四月の半ばの、薄曇りの午後だった。
場所は、学園の図書館の奥にある、小さな閲覧室を借りた。普段は論文や古い記録を読むための部屋で、窓が一つ、北向きに開いていた。直射日光が入らないので、部屋の中の光はどこまでも均一で、白い壁が柔らかく明るかった。古い紙と、革の装丁と、少しだけ埃の匂いがした。図書館の本館からは離れていて、人の声はほとんど届かない。
ここを選んだのは、スズカだった。
打ち合わせのあと、乙名史に、どこなら話しやすいかと訊かれて、少し考えてから答えた。静かなところがいいです。音が、少ないところが。
テーブルの上に、小さな録音機が一つ置かれていた。その横に、乙名史の手帳と、湯気の立つ湯呑みが二つ。水野は部屋の隅の椅子に座り、ノートパソコンを膝に乗せていた。雅也は、窓際の壁にもたれて立っていた。約束通り、黙っていた。
「……それでは、始めさせていただきます」
乙名史が、録音機のボタンを押した。
小さな赤いランプが灯った。
「スズカさん。まず、トレセン学園に入学された頃のことから伺ってもよろしいですか」
「……はい」
スズカは、湯呑みを両手で包んだ。
指先に、じんわりと温かさが移ってきた。
「……入学した頃は、走ることしか、考えていませんでした」
ゆっくりと、言葉を置いていった。
「今も、そうかもしれません。……でも、あの頃のことは、細かいところまで一つずつ残っているわけではありません。走りたいから、前に出ていた。それだけは、よく覚えています」
「当時から、逃げの走りだったのですね」
「……そう呼ばれていたと思います。でも、私自身は、ただ前に出ていただけです」
◇
本格化を迎えたのは、中等部の三年に上がる春だった。
身体が変わった、とスズカは言った。それまで、自分の脚が自分のものではないように感じることがあった。思ったより速く出てしまう。思ったより早く疲れる。脚の中に、自分の知らない何かが住んでいるようだった。それが、ある春の朝、急に、自分のものになった。
「……そのころ、何人かのトレーナーさんが、声をかけてくださいました」
「スカウトですね」
「……はい。ありがたいことでした」
スズカは、少しだけ視線を落とした。
「……皆さん、まず先行も覚えましょう、と。逃げだけでは難しい、と言われました」
「……」
「……正しいのだと思います。だからこそ、私は自分がしたい走りを、まだ上手く説明できませんでした」
乙名史のペンが、止まった。
「そのとき、スズカさんは、何とお答えになったのですか」
「……先頭は、譲りたくありません。……それでも、いいですか、と」
「……皆さん、何と」
「……いいえ、と」
スズカは、湯呑みを口に運んだ。
一口、飲んだ。
「……だから、お断りしました。頭を下げて」
「……」
「扱いにくい子だと、言われていたそうです。……でも、その頃の私は、そこまで気にしていませんでした」
スズカの声は、淡々としていた。責める色も、悔しがる色もなかった。ただ、事実を置いているだけだった。
乙名史は、手帳にペンを走らせた。それから、顔を上げた。
「……そこで、早瀬トレーナーと出会われたのですね」
「……はい」
スズカは、窓際のほうを、見なかった。
見なくても、そこに立っている人が、少しだけ背筋を伸ばしたのが分かった。
「……教官の方のグループ指導でした。十何人かで、同じメニューを走っていました」
「はい」
「……終わったあとで、声をかけられました。三コーナーの入りが、何周しても似ている、と」
「……四周とも」
「……教わったことはありません。自分では、そんなことまで見ていませんでした」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……身体が覚えてる。それ、たぶん、相当な武器です、と。……そう言われました」
「……」
「……速い、と言われたことはありました。でも、どこを通るかまで見てくれた人は、あまりいませんでした」
乙名史は、ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
「……そして、その方は、先頭を譲らなくていいか、とは訊かなかったのですね」
「……はい。訊かれませんでした」
スズカは、湯呑みをテーブルの上に置いた。
「……代わりに、別のことを訊かれました」
「どのような」
「……あなたは、勝ちたいんですか。それとも、走りたいんですか、と」
閲覧室の中が、静かになった。
水野のキーボードを打つ手が、止まっていた。
「……私は、すぐに答えられませんでした」
「……」
「……その二つを、分けて考えたことが、なかったので」
スズカは、窓の外を見た。
北向きの窓の外に、図書館の裏庭の、若い緑が見えた。薄曇りの光の中で、葉の一枚一枚が、同じ明るさで揺れていた。
「……八秒くらい黙っていた、と、あとから聞きました」
「八秒」
「……はい。自分では、もっと長かった気がします」
「……そして」
「……走りたいです、と。……勝つのは、そのあとについてくるのだと思います、と答えました」
乙名史のペンが、紙の上で、ゆっくりと動いた。
「……トレーナーさんは、何と」
「……分かりました。じゃあ、走り方から作ります、と」
◇
話は、契約の日のことに移った。
スズカは、そのときの二つの条件を話した。決めるのはあなたです、俺は選択肢を並べます。逃げること自体をやめろとは言わない、ただ、今のままではなく、逃げ方を変えてもらう。
「……変えるんですか、と訊きました」
「はい」
「……今のあなたの逃げ方は、前に出る方法であって、離す方法ではない、と言われました」
乙名史が、顔を上げた。
「前に出る方法と、離す方法。……その違いを、当時のスズカさんは、どう受け止められたのですか」
スズカは、少し考えた。
「……分かりませんでした」
「……」
「……その意味が分かったのは、もっとあとです。……一度、負けてからでした」
乙名史は、何も言わずに頷いた。そのことは、後で伺います、とでも言うように。
「……でも、そのとき、何となく」
スズカは、湯呑みの縁を、指先でそっとなぞった。
「……やめろ、と言われなかったことだけは、分かりました。……変えろ、と言われました。……その違いが、私には、うまく説明できません」
「……」
「……ただ、息が、しやすかったです」
閲覧室の中に、しばらく、何の音もしなかった。
録音機の赤いランプだけが、小さく灯っていた。
窓際で、雅也が、組んでいた腕をほどいた。ほどいて、また組んだ。スズカは、その布の擦れる音を、背中で聞いていた。
◇
「……最初の一年は、レースより、走り方を作る時間が長かったです」
スズカは、言った。
「……課題に合わせて走っていました。レース名や数字は、記録を見れば分かります。でも、毎回の細かい展開まで、全部は覚えていません」
「課題が、あったと伺っております」
「……はい。三つ」
スズカは、指を一本ずつ折っていった。
「……一つ目は、最初の二百メートルを、自分で作ること。外に誰がいても見ない。……その感覚を、身体に覚えさせました」
「はい」
「……二つ目は、千メートルを自分の身体で測ること。……呼吸の拍で数えていました」
「呼吸の拍」
「……最初は、全然合いませんでした。何度も走って、少しずつ合うようになった。その感覚のほうが、レース名よりも残っています」
「……三つ目は」
「……三つ目は、後ろとの距離を、目ではなく音で測ること」
スズカの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「……近づけば大きくなる。離れれば小さくなる。……最後に、聞こえなくなる。その変化を、ずっと聴いていました」
「……」
「……その、聞こえなくなる瞬間が、好きでした」
乙名史のペンが、止まった。
「……聞こえなくなる瞬間」
「……はい。後ろの音が消えて、自分の足音と、呼吸と、風の音だけになる瞬間」
スズカは、窓の外の、若い緑を見ていた。
「……そこから先は、誰もいないので」
乙名史は、長いあいだ黙っていた。
手帳の上で、ペンを持つ手が、わずかに震えていた。
「……それが、スズカさんの見ていた、景色なのですね」
「……はい」
スズカは、少しだけ間を置いた。
「……でも、まだ、あの頃は、そこまで行けていませんでした」
◇
デビューは、二年目の六月だった。
京都の、芝の二千メートル。
「……記録を見ると、序盤から先頭でした。……でも、私に残っているのは、ゴールまで走ったことと、風の感じです」
「無傷の一勝目ですね」
「……はい。でも」
スズカは、少しだけ首を振った。
「……あのときは、離すための走りだった、とは思っていません。……ただ、自分のほうが速かったのだと思います」
「……違いが、あるのですか」
「……後ろとの距離を、自分で作った、という感覚がまだありませんでした」
乙名史は、手帳に何かを書きこんだ。
乙名史は手帳を見た。ゴール後もしばらく走っていたことは、記録に残っていた。
スズカの耳が、ぴくりと動いた。
「……はい」
「なぜ、止まらなかったのですか」
「……止まる理由が、分からなかったので」
閲覧室の隅で、水野が小さく吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
スズカは、少しだけ困ったように首をかしげた。
「……おかしいですか」
「い、いえ。……失礼しました」
「……走ることが競技になった最初の日でした。……ゴールのあとも、もう少し走りたかった。それだけ、覚えています」
乙名史は、ペンを置いた。
両手を、膝の上で組んだ。
「……スズカさん。その日、トレーナーさんは、何とおっしゃいましたか」
スズカは、少しだけ考えた。
「……戻ってきたとき、少し困った顔で笑っていました」
「……笑って」
「……半周余計に走ったので。……でも、止めなかったです。止めろとは、言われませんでした」
窓際で、雅也が、小さく咳払いをした。
スズカは、振り返らなかった。
◇
札幌の、洋芝の千八百メートル。
「……あのレースで、初めて、後ろの音を意識していました。……細かい位置までは、今は覚えていません」
スズカは、目を閉じた。
「……洋芝は、足もとの音が少し低く聞こえました。それだけは、よく覚えています」
「音が、違う」
「……だから、いつもより耳を澄ませました」
「……」
「……後ろの音が、近すぎず遠すぎず、そのまま続いていた。……その感覚は、残っています」
「三馬身差の勝利でした」
「……はい」
スズカは、目を開けた。
「……レースのあとで、トレーナーさんに、一回も振り返らなかったな、と言われました」
「……」
「……振り返らなくても、聞こえていたので、と答えました」
乙名史は、ゆっくりと息を吐いた。
「……三つ目の課題が、初めて自分の感覚になった日だったのだと思います」
「……はい。そうだと思います」
京都での連勝が続いた。その数字や着差を、乙名史は記録で追った。スズカは、勝ったこと自体より、その日に残った音の話をした。
「……あの頃から、本物だと言われるようになりました。……逃げだけで大丈夫なのか、とも」
「両方の声が、あったのですね」
「……どちらも、聞こえていました。でも、全部を一つずつ気にしていたわけではありません」
「スズカさんは、どう思われていましたか」
スズカは、少しだけ考えた。
「……走ることに集中していると、周りの言葉は、あとから知ることも多かったです」
「……」
「……だから、その頃のことは、記事や記録のほうが、私より詳しいと思います」
乙名史が、くすりと笑った。
「それは、スズカさんらしいですね」
「……よく、言われます」
◇
三年目の二月、きさらぎ賞。
スズカは、そのレースの話になると、少しだけ目を伏せた。すべてのレースを同じ鮮明さで覚えているわけではない。それでも、いくつかの場面だけは、今も輪郭が残っていた。
「……楽な逃げ切りでした。細かいことは、あまり覚えていません」
「四連勝ですね」
「……レースのあとで、トレーナーさんが、今日は褒めるところがない、と言いました」
「何と」
「……今日は、褒めるところがない、と」
閲覧室の空気が、わずかに張りつめた。
乙名史は、ペンを止めて、窓際のほうを一瞬だけ見た。雅也は、壁にもたれたまま、動かなかった。
「……勝ったのに、ですか」
「……はい」
スズカは、湯呑みを手に取った。もう、ぬるくなっていた。
「……その日は、誰も並びかけてきませんでした。……だから、課題が試せなかった、という話だったのだと思います」
「……」
「……トレーナーさんは、そのことを言ったのだと思います。……楽に勝てたことは、褒めることではない、と」
「……スズカさんは、そのとき、どう感じられましたか」
スズカは、湯呑みを見下ろした。
しばらく、黙っていた。
「……少しだけ、悔しかったです」
「……」
「……意味が分かったのは、次のレースでした」
乙名史は、静かに頷いた。
手帳のページを、一枚めくった。
新しいページの一番上に、一つのレースの名前が書かれていた。
――弥生賞。
スズカは、そのページを見た。
耳が、ほんの少しだけ、後ろへ寝た。
それから、元に戻った。
「……話します」
「……そのレースのことは、話したいです」
「……そのレースのことは、ちゃんと、話したいので」
乙名史は、ペンを取った。
録音機の赤いランプが、静かに灯り続けていた。
窓の外で、雲が少しだけ切れて、薄い陽の光が、北向きの窓の縁を、白く光らせた。
◇
「――中山の、二千メートルでした」
スズカは、言った。
「……三月の、寒い日でした。……風が冷たかったことは、よく覚えています」
ゲートが開いた。いつものように、前に出た。そこへ、外から、二人が並びかけてきた。
「……初めて、並ばれた感覚が、はっきり残ったレースでした」
「……」
「……先頭は、誰にも譲りません。……いつも、そう言っていました。自己紹介でも」
「はい」
「……だから、譲りませんでした」
スズカは、湯呑みをテーブルに置いた。
「……譲らないために、競りました」
閲覧室の中が、静まり返っていた。
「……後から記録を見れば、千メートルが速かったことは分かります。……走っている私は、自分の拍を見失っていました」
「……」
「……自分の拍で、数えていなかったからです。……隣の人の足音と、自分の足音が、重なっていました。……重なった音の中で、自分の呼吸を、見失っていました」
スズカの声は、静かだった。
けれど、その静けさの下に、何かがあった。
「……四コーナーで、脚が上がりました。……直線で抜かれました」
「……五着、でした」
「……はい」
乙名史は、ペンを持ったまま、動かなかった。
水野のキーボードの音も、止まっていた。
窓際で、雅也が、ほんのわずかに目を伏せた。
スズカは、テーブルの上の自分の手を見ていた。
「……控室に戻っても、しばらく、何を言えばいいか分かりませんでした」
「……」
「……座ることも、できませんでした。……ただ、立っていました」
スズカは、少しだけ顔を上げた。
「……そのとき、トレーナーさんが最初に言ったのは、慰めではありませんでした」
「……何と」
スズカの耳が、少しだけ動いた。
「……今日は寒かったな。俺、スタンドで手がかじかんで、ストップウォッチのボタンが押せなかった、と」
「……え」
「……だから、あなたのタイムは俺も知らない、と」
乙名史は、しばらくぽかんとしていた。
それから、手で口元を押さえた。
肩が、小さく震えていた。
「……それは」
「……はい。笑わせようとしたのだと思います」
「……笑われましたか」
「……はい」
スズカの目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……少しだけ笑いました。それから、下手ですね、と言いました」
「……トレーナーさんは」
「……知ってる、と」
乙名史は、とうとう声を出して笑った。笑いながら、目元を指で拭った。
「……失礼しました。……素晴らしいです。本当に」
窓際で、雅也が、壁にもたれたまま、天井を見上げていた。
スズカは、それを見なかった。
見なくても、あの人が今、どんな顔をしているか、分かっていた。
「……それから、三行の紙をもらいました」
スズカは、言った。
その紙には、弥生賞の数字と、いくつかの修正点が短く並んでいた。スズカは、その文章を読み返しながら話した。
「……」
「……それから、最後に、一行だけ」
スズカは、少しだけ間を置いた。
「……あなたが一番速いのは、誰とも走っていないときです、と」
乙名史のペンが、紙の上で止まった。
「……答えは、言われませんでした」
スズカは、窓の外を見た。
「……三日くらい考えました。四日目の朝、先にコースへ行ったことは覚えています」
「……」
「……離せば、いいんですね、と言いました」
スズカは、テーブルの上で、両手を静かに重ねた。
「……誰も並ぼうと思わないところまで、先に離せばいい。……そう考えました」
「……」
「……私は、争いたいわけじゃ、ないので」
閲覧室の中が、長いあいだ、静かだった。
録音機の赤いランプだけが、灯り続けていた。
「……トレーナーさんは、何と」
乙名史の声は、少しだけ掠れていた。
「……それだ、と」
スズカは、言った。
「……笑っていました。……その場で」
窓際で、雅也が、組んでいた腕をゆっくりとほどいた。
スズカは、そちらを見なかった。
◇
「――六週間後が、皐月賞でした。……同じ中山の二千メートルです」
スズカは、続けた。
「……同じ中山の、同じ二千メートルです」
「……」
「……変えたのは、最初の二百メートルだけでした。……外に誰がいても、見ないでください。見た瞬間、その人があなたのペースを決めます、と言われて」
ゲートが開いた。
「……二百メートルで五馬身、という数字は記録で知っています。私は、最初に風を受けたことと、後ろの音が小さくなったことのほうを覚えています」
「……」
「……一コーナーを回るころには、後ろの音が、かなり遠くなっていました」
スズカの声が、ほんの少しだけ、熱を帯びた。
「……そこから先は、自分の足音と、呼吸と、風の音だけでした。……誰も、並びかけてきませんでした。並ぼうと思う距離では、なかったので」
「……」
「……向こう正面で、風が、正面から来ました。……それを割って、割って、……三コーナーで、一度も内を見ませんでした。前だけを、見ていました」
スズカは、目を閉じた。
閲覧室の中に、あの日の中山の風が、一瞬だけ吹いたような気がした。
「……ゴールしても、すぐには止まりませんでした」
「……また、ですか」
「……一周、余計に走ったと、あとで聞きました」
乙名史が、小さく笑った。
「……地下バ道の出口で、トレーナーさんが、待っていました」
スズカは、目を開けた。
「……速かった。……それから、三コーナーで一度も内を見なかったな、と」
「……」
「……あれが一番難しい、と」
スズカは、少しだけ、自分の頭に手をやりかけて、やめた。
「……それだけでした。……それで、十分でした」
乙名史は、ペンを置いた。
手帳を閉じた。
「……はい。今日は、ここまでで大丈夫です」
「……もう、ですか」
「……記事を書く前に、私が泣いてしまいそうなので」
スズカは、少しだけ目を瞬かせた。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
「……はい。……ありがとうございました」
「こちらこそ。……本当に、ありがとうございました」
乙名史は、録音機のボタンを押した。
赤いランプが、消えた。
閲覧室の中に、北向きの窓からの、均一な白い光だけが残った。
第四章 崩さないで行ける一番遠いところ
取材の二日目は、一週間後の同じ時刻だった。
同じ閲覧室。同じ北向きの窓。ただ、この日は晴れていて、窓の外の若い緑が、一週間前よりはっきりと色を濃くしていた。直射日光は入らなかったが、反射した光が天井の白を少しだけ明るくしていた。
録音機の赤いランプが灯った。
「――皐月賞のあと、スズカさんは、NHKマイルカップに向かわれました」
乙名史は、手帳を開いたまま言った。
「当時、次に二千四百メートルを選ぶという見方もありました。……そのとき、どんな基準で決めたのか、伺ってもよろしいですか」
「……はい」
スズカは、湯呑みを両手で包んだ。
「……選択肢を、二つ、もらいました」
「二つ」
「……二千四百メートルに行くか、行かないか。……それぞれの、代わりに失うものと一緒に」
スズカは、記憶を手繰るというより、当時の自分が考えたことを、ゆっくりと辿った。
「……二千四百は、あなたの逃げが保たない距離です。保たせようとすると、離す量を減らすことになる。離す量を減らした大逃げは、大逃げじゃありません、と」
「……」
「……行きたいなら、行きます。準備はします。ただ、行けば、あなたの走りを一度崩すことになる。……それだけは先に言っておきます、と」
乙名史のペンが、紙の上を走った。
「……スズカさんは、どのくらい考えられましたか」
「……八秒くらいだった、と後から聞きました」
乙名史が、顔を上げた。
「……そうだったんですね」
「……そうかもしれません」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……大事なことを考えるとき、私は、少し時間がかかるみたいです」
「……それで、何とお答えになったのですか」
スズカは、窓の外を見た。
「……私が見たいのは、崩さないで行ける、一番遠いところです、と言いました」
閲覧室の中が、静かになった。
「……二千四百メートルの向こうにも、景色は、あるのだと思います。……でも、そこへ行くために、今の走りを崩したら、私が見たかったものは、見えなくなる気がしました」
「……」
「……だから、行きませんでした。……私が、決めました」
乙名史は、長いあいだペンを動かさなかった。
それから、ゆっくりと、一つの質問を口にした。
「……一番大きな舞台から逃げている、と言われることは、今もありますね」
「……はい」
「そのことについて、今、どう思われますか」
スズカは、少しだけ間を置いた。
湯呑みの中の茶の表面を、見下ろした。
「……批判は、正しい部分もあると思います」
乙名史の目が、わずかに見開かれた。
「……私は二千四百メートルを走っていません。……勝てたかどうかも、分かりません。そこは、記録に残らないので」
「……」
「……だから、その批判に、言い返すことは、ありません。……ただ」
スズカは、顔を上げた。
「……私が決めたことです。……誰かに止められたのではなく、崩さないで行けるところを選びました」
乙名史は、ペンを置いた。
両手を、手帳の上で重ねた。
「……ありがとうございます。……その言葉は、一文字も変えずに、載せます」
「……はい」
◇
話は、マイルチャンピオンシップから、第四年の春へと進んだ。乙名史はレースの記録を手元に置き、スズカには「覚えている範囲で」とだけ伝えた。
京都の千六百メートル。当代最強のマイル勢を相手に、最初の四百メートルで、勝負が終わった。
「……あのレースは、最初の印象しか残っていません。……後ろの音が、早い段階で小さくなったこと」
「音を聴く前に」
「……はい。細かい区間までは、記録を見ないと分かりません」
金鯱賞。中京の二千メートル。大差の、レコード。
「……あのレースのことは、あまり覚えていません」
「……覚えていない、のですか」
「……速すぎて。……走っていた感覚しか、残っていないんです」
スズカにとって、記録を見せてもらえば、数字や相手の位置関係は思い出せることが多かった。けれど、数字がそのまま記憶になるわけではない。レースが多くなるほど、記憶は重なっていき、勝ち負けや着差より、その日の風、足もとの音、走り終えたあとの息の深さのほうが、後からふいに戻ってくることがある。だから、思い出せないところを無理に埋めず、記録にあることは記録に任せ、残っているものだけを話したい。そうするほうが、あの時間には正直なのだと、取材を受けながら思っていた。 覚えていないことを、無理に埋める必要はないのだ。残っているものだけを、正直に話せばいい。
スズカは、少しだけ困ったように首をかしげた。
「……トレーナーさんは、あとで記録を見ながら、完成形の限界を測るための一戦だった、と話していました」
大阪杯。阪神の内回り、二千メートル。
「……コーナーが、四つありました」
「大逃げには向かないコースだと、当時、盛んに言われていました」
「……はい。聞こえていました」
「……どう乗り越えたかは、今なら記録と映像で分かります。……走っているときの私は、ただ前だけを見ていました」
「……離す場所を、いくつかに分けました。……その細かい順番は、今は記録のほうが正確です」
スズカは、指を三本立てた。
「……一度で離そうとしないこと。それだけは、覚えています」
「……」
「……三回目が終わったら、あとは前だけ見ていればいい、と言われました」
乙名史が、手帳のページをめくった。
「レースのあとの会見で、記者から、不向きと言われていたコースでしたが、と訊かれて、スズカさんは」
「……走りました、と答えました」
乙名史は、少しだけ笑った。
「……五文字でした」
「……はい」
「あの記事を書いたのは、実は、私でした」
スズカは、少しだけ目を瞬かせた。
「……そうだったんですか」
「はい。……あの五文字を、見出しにしたかったのですが、デスクに止められました。短すぎる、と」
「……」
「代わりに、見出しは『大逃げ、コースを選ばず』になりました。……私は今でも、走りました、のほうが良かったと思っております」
スズカは、湯呑みを口に運びかけて、止めた。
それから、少しだけ、目元を緩めた。
「……今回は、短くても、いいですか」
「……はい。今回は、私がデスクを説得いたします」
隅の椅子で、水野が、静かに頷いた。
◇
「――宝塚記念のことを、伺ってもよろしいですか」
乙名史の声が、少しだけ低くなった。
スズカは、湯呑みをテーブルに置いた。
「……はい」
「スズカさんの生涯で、最も長い距離のレースでした」
「……二千二百メートルです」
「梅雨の、重いバ場でした」
「……はい。雨が、前の日から降っていて。芝が、重かったです」
スズカは、目を閉じた。
「……足もとが、いつもより少し沈みました。……重い芝だったことは、よく覚えています」
「……」
「……三コーナーで、後ろの音が近づいてきました」
「……初めてのことでしたか」
「……何度も聴いてきた音だったので、近づいていることだけは、すぐに分かりました」
閲覧室の中が、静まり返っていた。
「……振り返りませんでした。……もう一度、離しました」
「……」
「……ゴールして、止まってから、初めて言いました。苦しかったです、と」
乙名史は、ペンを持ったまま、動かなかった。
「……それまで、あまりそういう言葉を使いませんでした。……でも、あのときは、本当に苦しかったので」
「……」
「……でも、あのときは、本当に苦しかったので」
スズカは、目を開けた。
「……トレーナーさんは、その場では、何も言いませんでした」
「……」
「……二千二百は、これで最後にします、と」
「……理由は」
「……本人が苦しいと言った距離を、二度使う理由がありません、と」
乙名史は、長いあいだ黙っていた。
それから、手帳に、ゆっくりと一行を書いた。
「……スズカさんは、その判断を、どう受け止められましたか」
「……嬉しかったです」
スズカは、はっきりと言った。
「……苦しいと言ったことを、ちゃんと聞いてもらえたので」
「……」
「……それから、苦しいと言っても、いいんだと思いました。……言ったら、聞いてもらえるんだと」
スズカは、少しだけ視線を落とした。
「……それが、あとで、大事なことになりました」
◇
毎日王冠。第四年の十月。東京の千八百メートル。
当代最強クラスの二人を相手に、影も踏ませずに勝った。生涯最高の走りだったと、多くの記事が書いた。
「……気持ちよかったです」
スズカは、それだけ言った。
「……後ろの音が、早い段階で消えました。……あとは、自分の音だけでした」
「……」
「……風が少し冷たくて、身体が軽かったことは、覚えています」
乙名史は、ペンを止めた。
手帳の次のページを、めくろうとして、少しだけ手を止めた。
そのページに何が書かれているのか、スズカには分かっていた。
「……話します。……ここは、覚えているので」
スズカが、先に言った。
「……打ち合わせで、お約束したことは、話します」
乙名史は、ゆっくりと頷いた。
ページをめくった。
「……毎日王冠から一週間後のことを、伺わせてください」
◇
「……異変に、気づいてくれた人がいました」
スズカは、静かに言った。
「……少しだけ気づいていたのかもしれません。でも、言葉にはしていませんでした」
「……」
「……その人が、学園の医療スタッフの方に、伝えてくれました。……それから、外の、専門の先生を紹介していただいて、詳しい検査を受けました」
スズカは、テーブルの上で、手を組んだ。
「……先生が、言いました。今は、走れます。でも、このまま走り続けたら、大きな怪我になるかもしれない。今なら、休めば治ります。あと一戦走れば、分かりません、と」
閲覧室の中が、しんと静まり返った。
窓際で、雅也が、ほんのわずかに身じろぎした。
「……そのとき、私も、言いました」
「……何を」
「……三週間くらい前から、坂路の最後で、左が半歩だけ内に入る、と。……痛くはありません。ただ、いつもと少し違いました」
「……」
「……痛くは、ありません。ただ、風の当たり方が、少し違います、と」
乙名史のペンが、紙の上で止まった。
「……隠さなかったのですね」
「……はい」
「なぜ、隠さなかったのですか」
スズカは、少しだけ考えた。
「……宝塚記念で、苦しいと言えたからだと思います」
「……」
「……それと、もう一つ。……その少し前から、レースの前に、その日の風を一度だけ言葉にする、ということをしていました。……自分の感じていることを、言葉にする練習を、していたので」
乙名史は、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと、一つの質問を口にした。
「……天皇賞(秋)を走らないと決められたのは、スズカさんご自身ですね」
「……はい」
「そのときのことを、伺ってもよろしいですか」
スズカは、窓の外を見た。
若い緑が、陽の光の中で揺れていた。
「……選択肢を、二つ、もらいました」
「……また、二つ」
「……はい。いつも、二つでした」
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
「……走れば、たぶん、勝ちます。でも、その先がなくなるかもしれない。……走らなければ、七か月くらいを失います。批判されます。戻れる保証は、誰にもできません」
「……」
「……長く、考えました」
スズカは、目を伏せた。
「……たぶん、生まれてから一番長く、考えました」
閲覧室の中に、何の音もしなかった。
録音機の赤いランプだけが、灯り続けていた。
「……勝ちたいかどうかだけでは、ありませんでした。……走れなくなるかどうかだけでも、ありませんでした」
「……」
「……続きが、あるかどうかでした」
スズカは、顔を上げた。
「……一回で終わる景色なら、止めない。……でも、あなたが見たいのは、その先でしょう、と言われました」
「……」
「……はい、と答えました。まだ、続きがあります。……だから、今日は、やめておきます、と」
乙名史は、ペンを置いた。
眼鏡を外して、目元を指で押さえた。
しばらく、そのままでいた。
それから、眼鏡をかけ直した。
「……申し訳ございません。取材中に」
「……いえ」
「……スズカさん。一つだけ、確認させてください」
「……はい」
「異変に気づいた方、決断のための選択肢を並べた方。……それは」
乙名史は、そこで言葉を止めた。
打ち合わせのときの約束を、思い出したようだった。
ゆっくりと、首を振った。
「……いいえ。伺いません。お約束しましたので」
「……ありがとうございます」
スズカは、窓際のほうを、見なかった。
見なくても、そこに立っている人が、今、どんな顔をしているか、分かっていた。
◇
休養のことを、スズカは、ゆっくりと話した。最初の二か月は走らなかった。その時間の細かな日付や出来事は、今では曖昧なものも多い。
最初の二か月は、走らなかった。人生で、一番長い、走らない時間だった。
「……最初の二週間は、毎朝、いつもの時間にコースへ行っていました」
「……走らずに」
「……はい。走らずに、立っていました」
「……」
「……三週目に、初めて、言いました。……風が、来ません、と」
乙名史のペンが、止まった。
「……走っていないと、風が、来ないんです。……立っているだけだと、風は、横から通り過ぎていくだけで。……前から来る風が、ありませんでした」
閲覧室の中が、静まり返っていた。
「……そのころ、同じ部屋のスペちゃんが、毎日、走りの話をしてくれました」
「スペシャルウィークさんですね」
「……でも、あの時期は、スペちゃんの話をよく聞いていました。……私が話す側ではなくて、聞く側だったので」
スズカの目元が、柔らかくなった。
「……それから、トレーナーさんが、録音を持ってきてくれました」
「録音、ですか」
「……私の足音の録音です。……映像ではなく、音だけ」
「……」
「……毎晩、少しずつ聴きました。……自分の足音を聴いていると、風が来る気がしたんです」
乙名史は、ペンを持ったまま、動かなかった。
隅の椅子で、水野が、ハンカチで目元を押さえていた。
「……あとは、ホットミルクを、一日二杯にしていました」
「……二杯」
「……蜂蜜を、ひとさじずつ。……いつもは、一杯なのですが」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……トレーナーさんは、気づいていたと思います。……何も、言われませんでしたけど」
窓際で、雅也が、小さく咳払いをした。
◇
五年目の五月。新潟の二千メートル。
約七か月ぶりの、復帰戦だった。
「……平らで、直線が長くて、コーナーが緩いコースでした。……身体に一番優しいところを、選んでもらいました」
「……」
「……今日は、勝たなくていい。無事に一周してください、と言われました」
「……」
「……勝ちました。……でも、数字としては、以前とは比べものにならないものでした」
乙名史は、手帳を見下ろした。
「翌日の記事には、かつての姿はない、と書かれました」
「……はい。読みました」
「……どう思われましたか」
「……その通りだと、思いました」
スズカは、少しだけ微笑んだ。
「……七か月、走っていなかったので。……あの日は、それでよかったんです」
「……」
「……地下バ道で、トレーナーさんが待っていました。……よかった、と言って、それから、しばらく何も言えなくなっていました」
乙名史が、顔を上げた。
「……何も、言えなく」
「……笑っていました。……長く笑っていたことだけは、よく覚えています」
窓際で、雅也が、壁から背中を離した。
何か言いかけて、約束を思い出したように、また壁にもたれた。
スズカは、振り返らなかった。
「……私は、勝ちました、とだけ、言いました」
「……」
「……それしか、言えなかったので」
◇
安田記念。東京の千六百メートル。復帰から、約四週間。
「……休む前より、マイルの時間を、丁寧に使えた気がします」
「世間の論調が、あの日を境に反転しました。休養は正しかった、と」
「……はい」
「トレーナーさんは、何と」
「……取り返してないな。続きを走ってる、と」
スズカは、言葉を置いた。
「……私も、そう思っていました。……休んだ分を、取り返そうとは、思っていませんでした。……ただ、続きを、走っていました」
札幌記念。洋芝の二千メートル。
「……四年前と、同じ場所でした」
「札幌ジュニアステークスと、同じコースですね」
「……三コーナーの入りが、四年前と似た位置だったと、あとから聞きました」
スズカは、窓際のほうへ、ほんの少しだけ顔を向けた。
それから、また乙名史のほうへ戻した。
「……四年前と同じところを通っていた、と言われました。……それが、少し嬉しかったです」
乙名史は、何も言わずにペンを走らせた。
二度目の毎日王冠。一年前と、同じレース。同じ勝ち方。
「……レースのあとで、トレーナーさんは、記者の方に、一年前と比べてどうかと訊かれて」
「……同じでした、とお答えになりました」
乙名史が、先に言った。
「……あの記事も、私が書きました」
「……」
「……でも、今なら、少し分かります。……同じだったことそのものより、続きに戻れたことが大事だったのだと思います」
スズカは、何も言わなかった。
耳が、ほんの少しだけ、動いた。
◇
そして、第五年の十月。東京の二千メートル。天皇賞(秋)。
一年遅れの、ラストラン。
乙名史は、手帳のそのページを開いたまま、しばらく何も言わなかった。
スズカも、何も言わなかった。
閲覧室の中に、北向きの窓からの白い光が、静かに満ちていた。
「……ゲートの前で、一言だけ、言われました」
スズカが、先に口を開いた。
「……何と」
スズカは、少しだけ考えた。
それから、首を振った。
「……それは、話しません」
「……」
「……ごめんなさい。……その言葉は、私の中に置いておきたいので」
乙名史は、長いあいだスズカを見ていた。
それから、深く、頷いた。
「……はい。承知いたしました」
「……ゲートが開いて、しばらくして、後ろの音が消えました」
スズカは、目を閉じた。
「……向かい風でした。……強い、向かい風でした。……その風を、割って、割って」
「……」
「……四コーナーを、回りました」
スズカの声が、ほんの少しだけ、揺れた。
「……一年前、走れなかった場所を、今度は走りました」
閲覧室の中が、完全に静まり返っていた。
水野の指が、キーボードの上で止まっていた。
窓際で、雅也が、目を伏せていた。
「……ゴールしても、止まりませんでした」
「……」
「……一周して、二周目に入りかけたところで、係の方に止められました」
乙名史が、小さく笑った。泣きながら。
「……戻ってきて、最初に言ったのは」
スズカは、目を開けた。
窓の外の若い緑を見た。
「……まだ、続きがありました」
◇
録音機の赤いランプが、消えた。
乙名史は、手帳を閉じて、長いあいだ膝の上に置いていた。
「……スズカさん」
「……はい」
「最後に、一つだけ。記事の最後に置く質問を、伺ってもよろしいですか」
「……はい」
「引退されて、半年が経ちました。……今、スズカさんは、どんな景色を見ていらっしゃいますか」
スズカは、すぐには答えなかった。
窓の外を見た。
若い緑が、風に揺れていた。その向こうの空は、晴れていて、どこまでも薄い青だった。
「……それは」
スズカは、少しだけ間を置いた。
「……撮影の日に、お答えしてもいいですか」
乙名史は、目を瞬かせた。
「……撮影の日に」
「……はい。……まだ、うまく言葉にできていないので」
乙名史は、しばらくスズカを見ていた。
それから、にっこりと笑った。
「……はい。お待ちしております」
第五章 シャッターの音
撮影の日は、五月の半ばの、よく晴れた朝だった。
スズカが二十一歳になって、二週間が経っていた。
午前八時。学園の第二コースには、誰もいなかった。生徒会を通じて、午前中の二時間だけ、このコースの使用が許可されていた。申請の書類を受け取ったシンボリルドルフは、一読して判を押したあと、書類を返しながら、雅也に一言だけ言ったという。
――スズカの走りの記録は、学園の記録でもある。良いものにしてくれたまえ。
それだけだった、と雅也は言った。
五月の朝の空気は、澄んでいた。夜のあいだに降りた露が、まだ芝の先に残っていて、低い角度の陽を受けて、無数の小さな光を散らしていた。コースの外周に植えられた木々は、若葉の盛りで、風が吹くと、葉の裏の淡い色がいっせいに翻った。遠くで、鳥が鳴いていた。
コースの脇に、機材が並んでいた。三脚が二本。大きな銀色のレフ板が一枚。黒いケースがいくつか。その真ん中で、カメラマンの桑田が、レンズを布で拭いていた。四十代の半ばくらいの、日焼けした男性だった。ウマ娘のレース写真を、二十年近く撮ってきたと自己紹介した。
「サイレンススズカさんの写真は、何度か撮らせてもらったことがあります」
桑田は、レンズを拭く手を止めずに言った。
「全部、レースの写真でした。遠くから、望遠で。……いつも、フレームの中に、スズカさんしかいなかった」
「……」
「後ろの子たちが、フレームに入らないんです。離れすぎていて」
桑田は、少しだけ笑った。
「今日は、望遠は使いません。近くで、撮らせてください」
「……はい」
スズカは、コースの内ラチの前に立っていた。
淡い色のシャツに、薄手のカーディガン。膝下までのスカート。足もとは、踵の低い靴。走るための服ではなかった。
乙名史が、撮影の構成案を書いた紙を手に、スズカの隣に来た。
「スズカさん。最初は、このコースを、一人で歩いているところを撮らせていただきたいと思っております」
「……はい」
「走らなくて、大丈夫です。……ただ、歩いてください。スズカさんが、歩きたいように」
スズカは、コースを見た。
誰もいない、朝の芝。露の光。内ラチの白い柵が、ゆるやかな曲線を描いて、向こうへ続いていた。
「……内ラチの、内側を歩いてもいいですか」
「もちろんです」
◇
スズカは、柵の切れ目から、コースの中へ入った。
芝を踏んだ。
靴の底に、柔らかい感触が返ってきた。露が、靴の縁を濡らした。
歩きだした。
ゆっくりと。一歩ずつ。
現役のころ、このコースを歩いたことは、ほとんどなかった。いつも、走っていた。ウォーミングアップの軽いキャンターでさえ、歩くよりずっと速かった。コースは、走るための場所だった。
歩くと、コースは、ひどく広かった。
走っているときには一瞬で過ぎていった直線が、歩くと、どこまでも続いていた。コーナーの曲線が、ゆるやかすぎて、曲がっていることにさえ気づかなかった。芝の一本一本が、見えた。露の粒が、見えた。
後ろで、シャッターの音がした。
かしゃり。
一度。
しばらく、何もなかった。
また、かしゃり。
スズカは、振り返らなかった。
後ろの音を、聴いていた。
シャッターの音は、足音に似ていた。一定ではなかった。何かを見つけたときにだけ、鳴った。鳴らないあいだ、桑田は、何を待っているのだろう。
スズカは、コーナーの入りで、足を止めた。
三コーナーの、入り。
現役のころ、何百回も通った場所だった。いつも、同じ位置を。教わっていないのに、身体が覚えていた位置を。
スズカは、その位置に立った。
そこから、前を見た。
直線が、向こうに見えた。誰もいない直線。朝の光を受けて、芝が、ゆるやかに白く光っていた。
風が来た。
前から。
立っているのに、前から風が来た。コーナーの入りの、ちょうどこの位置で、風が正面からスズカの顔に当たった。
耳が、その風のほうへ向いた。
かしゃり。
かしゃ、かしゃ、かしゃり。
シャッターの音が、続けて鳴った。
スズカは、それを聴いていた。
聴いていたけれど、振り返らなかった。
風が、来ていた。
休養していたころ、立っていても、風は来なかった。横から通り過ぎていくだけだった。前から来る風がないことが、あの頃は、一番つらかった。
今は、来ていた。
走っていないのに。
立っているだけで。
ただ、この位置に立っただけで。
◇
「……ありがとうございます」
桑田が、カメラを下ろした。
スズカが振り返ると、桑田は、カメラの背面の小さな画面を見ていた。その顔が、少しだけ、呆然としていた。
「……今の、見ますか」
スズカは、コースから出て、桑田のそばへ行った。
画面を覗きこんだ。
三コーナーの入りに、自分が立っていた。横顔だった。風が、髪を後ろへ流していた。耳が、前を向いていた。目は、まっすぐに、誰もいない直線を見ていた。
表情は、ほとんどなかった。
けれど、その横顔は、走っているときの自分と、同じだった。
「……レースの写真と、同じ顔してるんですよ」
桑田が、ぽつりと言った。
「望遠で撮ってたときと。……走ってないのに」
「……」
「今、風、来ました?」
「……はい。前から」
「……そうですか」
桑田は、画面から顔を上げた。
それから、少しだけ笑った。
「……二十年撮ってきて、初めて、風が写った気がします」
乙名史が、隣で、両手を胸の前で握りしめていた。
「……素晴らしいですっ」
声が、少しだけ震えていた。
「スズカさん、今の一枚は、まさに、走らずして走る、静寂の中の疾走、引退という名の新たなスタートラインに立つ――」
「乙名史さん」
水野が、横から静かに言った。
「……はい。失礼いたしました」
乙名史は、咳払いをした。
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
コースの外周の、少し離れた木陰に、雅也が立っていた。撮影の邪魔にならないように、最初からずっとそこにいた。腕を組んで、こちらを見ていた。
目が合った。
雅也は、何も言わなかった。
ただ、口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
◇
二つ目の撮影は、ロッカールームだった。
企画書の、括弧の中に書かれていた一行。現役時代の勝負服でのお写真(ご本人のご希望があれば)。
打ち合わせのあと、スズカは一週間、そのことを考えていた。
着るか、着ないか。
着たくない、わけではなかった。あの服は、好きだった。あの服を着て、何度も先頭を走った。あの服を着て、風を割った。
でも、あの服は、走るための服だった。
走らない自分が、あの服を着て、カメラの前に立つ。それは、何か違う気がした。あの服を着た自分は、走っている自分であってほしかった。
ロッカールームの窓際に、スズカは、勝負服をハンガーに掛けて吊るした。
着なかった。
ただ、吊るした。
窓から射しこむ朝の光が、布地を透かして、柔らかく色を浮かび上がらせていた。何度も洗われて、少しだけ色の褪せた布。袖口の、わずかな擦れ。背中の、汗が何度も染みては乾いた跡。
その足もとの床に、シューズを一足、置いた。
同じシューズを、何足もストックしていた。現役のころから、ずっと。これは、最後のレースで履いたものと、同じ型の、まだ一度も履いていない一足だった。
「……これで、いいですか」
スズカは、乙名史に訊いた。
「……着ないで、吊るすだけ、ですか」
「……はい」
スズカは、吊るされた勝負服を見上げた。
「……あれは、走るときの服なので。……走らない私が着ると、少し、違う気がして」
「……」
「……でも、あの服のことは、忘れていないので。……こうして、吊るしておきたいです」
乙名史は、長いあいだ、吊るされた勝負服を見ていた。
それから、深く頷いた。
「……はい。その形が、一番だと思います」
桑田が、三脚を立てた。
窓からの自然光だけで、撮った。照明は、使わなかった。
かしゃり。
吊るされた勝負服と、その下の、新しいシューズ。窓の光。ロッカールームの、古い木の床。
シャッターの音が、静かな部屋に響いた。
「……スズカさんは、フレームに入らなくていいんですか」
桑田が、ファインダーから目を離して訊いた。
「……はい」
「……分かりました」
桑田は、もう一枚だけ撮った。
撮り終えてから、少しだけ首をかしげた。
「……不思議ですね。スズカさんが写ってないのに、スズカさんの写真に見えます」
◇
三つ目は、高等教育課程の講義室だった。
午前の講義が終わったあとの、空いた教室。窓の多い、明るい部屋だった。机の上に、スズカが実際に使っているノートと教科書を広げた。運動生理学の教科書。身体の動きの解析についての、分厚い資料。ノートには、スズカの細い、丁寧な字が並んでいた。
「……いつも通りに、していてください」
桑田が言った。
「写真のために何かしなくていいです。講義のあと、いつもどうしてますか」
「……ノートを、見直しています」
「じゃあ、それを」
スズカは、ノートを開いた。
今日の講義は、着地の衝撃が身体の中をどう伝わっていくか、という内容だった。脚の骨、関節、筋肉、腱。一歩ごとに地面から返ってくる力が、どこを通って、どこで吸収されるか。
読んでいるうちに、スズカは、カメラのことを忘れていった。
指が、ペンを回しはじめた。
くるり、くるり、と。
考えごとをするとき、昔からの癖だった。
かしゃり。
シャッターの音が、遠くで鳴った。
スズカは、気づかなかった。
ノートの図を見ていた。脚の骨の図。着地の瞬間の、力の流れを示す矢印。
左前脚。
手根部。
あの秋、専門医の先生が、画像を指さして説明してくれた場所。
スズカは、ペンを回す手を止めた。
その図を、しばらく見ていた。
かしゃり。
また、シャッターの音。
スズカは、顔を上げた。
桑田が、カメラを下ろして、少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
「……すみません。今の、撮らせてもらいました」
「……いえ」
「……何を見てたんですか」
スズカは、ノートの図に目を落とした。
少しだけ考えて、言った。
「……私の身体のことを、ちゃんと知りたいと思って、勉強しています」
「……」
「……走っていたころは、身体の声を、あまり聞いていませんでした。……聞いていたのは、風と、足音だけで」
スズカは、ノートを閉じた。
「……今は、身体の声も、聞けるようになりたいです」
◇
昼食を挟んで、午後は、練習場だった。
午後の練習が始まる時間で、コースには何人かのウマ娘が走っていた。スズカは、コースの外周のフェンスの前に立って、それを見ていた。
撮影のために立ったのではなかった。
走っている子たちの音が、聞こえてきたからだった。
一人、二人、三人。それぞれの足音が、違うリズムで、芝を叩いていた。一人は、着地が少しだけ重い。一人は、コーナーで歩幅が詰まる。一人は、最後の直線で、呼吸が乱れる。
スズカは、それを聴いていた。
耳が、コースのほうを向いていた。
フェンスに、そっと手を置いていた。
かしゃり。
シャッターの音がした。
スズカは、気づかなかった。
コースの上で、一人の後輩が、スズカに気づいた。走りながら、一瞬だけ、こちらを見た。それから、慌てて前を向いた。背筋が、少しだけ伸びた。
スズカは、それを見て、少しだけ目元を緩めた。
見られていると思うと、背筋が伸びる。
自分もそうだった。あの人が、スタンドで息を止めて見ていると知ってから。
かしゃり。
◇
最後の撮影は、夕方だった。
学園の裏手の、並木道。
乙名史が、構成案の最後の二項目を、スズカに示した。
――⑥ 早瀬トレーナーと並んで歩くお写真(お二人のご了承があれば)。
――⑦ (ご了承があれば)
⑦の欄には、何も書かれていなかった。
「……⑦は、何ですか」
スズカが訊くと、乙名史は、少しだけ困ったように笑った。
「……実は、決めていないのです。……今日、撮影をしながら、何か見つかればと思っておりました。見つからなければ、それで構いません」
スズカは、構成案の紙を見た。
それから、少し離れたところに立っている雅也を見た。
雅也は、スズカを見ていた。
何も言わなかった。
君が決めていい、と、その目が言っていた。
「……⑥は、撮ってください」
スズカは、言った。
「……顔は、はっきり写らないように、してもらえますか。……早瀬さんの顔は」
「……スズカさんのお顔は」
「……私は、どちらでもいいです」
乙名史は、頷いた。
雅也が、ゆっくりと歩いてきた。
「……いいの?」
「……はい。……隠していることでは、ないので」
「……そっか」
雅也は、少しだけ笑った。
夕方の並木道は、若葉の影で、斑に染まっていた。西に傾いた陽が、葉のあいだから細い光の筋を何本も落としていた。風が吹くと、その光の筋が揺れて、道の上の影の模様が、ゆっくりと形を変えた。
二人で、並んで歩いた。
腕一本分の隙間を空けて。
いつもの、朝のコースと同じ距離で。
後ろで、シャッターの音がした。
かしゃり。
スズカは、振り返らなかった。
隣の人の足音を、聴いていた。
雅也の足音は、ウマ娘の足音とは違った。重くて、少しだけ不規則で、ときどき、石畳の継ぎ目で靴底がかすかに擦れる音がした。
五年間、この足音を、何度も聴いてきた。朝のコースに来るときの足音。地下バ道の出口で待っているときの、少しだけ落ち着かない足音。トレーナールームの前の廊下を、書類を抱えて歩く足音。
今は、隣で鳴っていた。
並木道の半ばまで来たところで、雅也が、ふいに立ち止まった。
「……スズカ」
「……はい」
「髪に、花びらがついてる」
「……え」
スズカは、足を止めた。
雅也が、スズカの頭のほうを見ていた。手は、動かさなかった。耳の近くだったからだ。
「……右の、耳の横」
スズカは、自分の手で、右の耳の横の髪に触れた。
指先に、小さな柔らかいものが触れた。
取った。
白い、小さな花びらだった。並木の、どこかの木から落ちてきたものだった。
スズカは、それを指先に乗せたまま、雅也を見上げた。
「……取ってくれても、よかったのに」
「耳の近くだったから」
「……」
「触らないって、決めてる」
スズカは、雅也の顔を見ていた。
五年間、この人は、一度も耳にも尻尾にも触れなかった。頭を撫でることはあっても、耳には、指一本触れなかった。それを、交際を始めた今も、変えていなかった。
スズカの目元が、ゆっくりと緩んだ。
それから、少し遅れて、はっきりと笑った。
かしゃり。
シャッターの音が、一度だけ鳴った。
二人とも、振り返った。
少し離れたところで、桑田が、カメラを下ろしていた。その隣で、乙名史が、両手で口元を覆っていた。
「……すみません」
桑田が、言った。
「……今の、撮っちゃいました。……使うかどうかは、お二人が決めてください」
乙名史が、手を口元から離した。
目が、赤かった。
「……⑦が、見つかりました」
小さな声で、そう言った。
◇
撮影が終わったのは、陽が沈みかけたころだった。
機材が片付けられていく音を、スズカは、並木道のベンチに座って聞いていた。三脚が畳まれる音。ケースの留め金が閉じられる音。桑田と水野の、短いやり取り。
乙名史が、ベンチの前に来た。
「……スズカさん。本日は、本当に、ありがとうございました」
「……こちらこそ、ありがとうございました」
「……それで、あの」
乙名史は、少しだけためらうように、手帳を胸の前で抱えた。
「取材の最後に、お訊きした質問なのですが」
「……はい」
「今、どんな景色を見ていらっしゃいますか、と」
スズカは、並木道を見た。
若葉の影。傾いた陽の、細い光の筋。石畳。風。
隣には、少し離れて、雅也が立っていた。機材を運ぶのを手伝おうとして、桑田に丁重に断られて、手持ち無沙汰に立っていた。
「……先頭の景色は、ずっと、誰もいない景色でした」
スズカは、ゆっくりと言った。
「……前に、誰もいない。後ろの音も、消える。……自分の足音と、呼吸と、風の音だけ。……それが、私の見たかった景色でした」
「……」
「……今は、走っていません。……でも、今日、三コーナーの入りに立ったとき、風が来ました。前から」
乙名史は、ペンを取り出して、手帳を開いた。
「……走らなくても、景色は、ありました」
スズカは、言った。
「……それから、今は、隣に、足音があります」
乙名史のペンが、止まった。
「……誰もいない景色も、好きでした。今も、好きです。……でも、隣に誰かの足音がある景色も、あるのだと、知りました」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……えっと。……その、以上です」
乙名史は、長いあいだ、ペンを持ったまま動かなかった。
それから、手帳に、ゆっくりと、一行ずつ書き写していった。
書き終えて、顔を上げた。
「……タイトルが、決まりました」
「……」
「スズカさんのお言葉から、いただいてもよろしいですか」
「……どの言葉ですか」
乙名史は、手帳のページを、スズカに見せた。
細い、几帳面な字で、一行だけ書かれていた。
――走らなくても、景色はあった。
スズカは、それを見た。
しばらく見ていた。
「……はい」
スズカは、頷いた。
「……それで、お願いします」
第六章 校正刷り
校正刷りが届いたのは、六月の初めの、雨の日だった。
梅雨入りの知らせが出た翌日で、朝から細かい雨が、トレーナー棟の窓ガラスを斜めに濡らしていた。空は低く、雲は重かった。部屋の中は、昼間でも蛍光灯をつけなければ暗かった。雨の匂いが、窓の隙間から、かすかに入りこんでいた。
乙名史と水野が、大きな封筒を抱えてトレーナールームに来た。封筒の角が、雨に濡れて少しだけ色を変えていた。
「お忙しいところ、失礼いたします」
乙名史は、傘を扉の外に立てかけてから、深く頭を下げた。
「本日は、記事の本文と、写真の最終選定をお願いしたく参りました」
テーブルの上に、校正刷りが広げられた。
見開きで十頁。白い紙の上に、黒い文字と、灰色の四角い枠が並んでいた。枠の中には、それぞれ番号が振られていた。写真が入る場所だった。
その横に、桑田が選んだ写真の候補が、何十枚も並べられた。印画紙に焼かれた、艶のある写真。
スズカは、ソファに座って、それを見下ろした。
雅也は、その隣に、少しだけ距離を空けて座った。
「……本文から、ご確認いただけますでしょうか」
乙名史が、校正刷りの最初の頁をスズカの前に置いた。
スズカは、それを手に取った。
一行目から、読みはじめた。
◇
文章は、スズカの言葉でできていた。
乙名史は、自分の言葉をほとんど足していなかった。質問の部分は短く、スズカの答えが、話したままの形で、ほとんど削られずに並んでいた。言い淀みも、残っていた。えっと。その。……の間も。
――走りたいです、と答えました。勝つのは、そのあとに、たぶん、ついてきます、と。
――その、聞こえなくなる瞬間が、好きでした。
――私が見たいのは、崩さないで行ける、一番遠いところです、と。
――批判は、正しいのだと思います。
――異変に、気づいてくれた人がいました。
スズカは、一頁ずつ、ゆっくりと読んでいった。
窓の外で、雨が降っていた。雨粒がガラスを伝い落ちる音が、部屋の中にかすかに響いていた。
乙名史は、向かいのソファに座って、黙って待っていた。手帳を膝の上に置いたまま、ペンを持っていなかった。
五頁目で、スズカの手が止まった。
大阪杯の段落だった。
――レースのあとの会見で、記者から、不向きと言われていたコースについて問われたとき、スズカさんの答えは五文字だった。
――「……走りました」
その下に、一行、空白があった。
それから、次の段落が始まっていた。
五文字の答えのあとに、何の説明も、解釈も、足されていなかった。
「……ここ」
スズカは、その空白を指でそっと示した。
「……何も、書いてないんですね」
「はい」
乙名史は、少しだけ笑った。
「最初の原稿では、この五文字のあとに、三行ほど書いておりました。批判に対して言葉ではなく走りで答える、真の競技者の――といったことを」
「……」
「デスクに削られました。……いいえ、正直に申し上げますと、自分で削りました。読み返して、この五文字のあとに何を書いても、全部、余計だと思いましたので」
スズカは、その空白を見ていた。
しばらく見ていた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
スズカは、また頁をめくった。
◇
八頁目に、見出しがあった。
記事全体のタイトルではなく、後半の章の、小見出しだった。
――奇跡の回避、そして伝説の復活へ。
スズカの手が、止まった。
乙名史が、それに気づいた。
「……そこは、まだ、仮のものでございます」
「……」
「編集部で、何案か出たのですが……。スズカさんの、ご意見を伺いたいと思っておりました」
スズカは、その見出しを、しばらく見ていた。
奇跡。
伝説。
どちらも、大きな言葉だった。
「……奇跡では、ないと思います」
スズカは、静かに言った。
「……気づいてくれた人がいて。診てくださった先生がいて。私が、休むと決めて。……七か月、休みました。……それだけです」
「……」
「……奇跡、と書かれると、その人たちのしたことが、なかったことになってしまう気がして」
乙名史は、何も言わなかった。
手帳を開いて、ペンを取った。
「……伝説、というのも」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……私は、続きを走っていただけなので。……伝説になるために、走ったわけでは、ないので」
乙名史のペンが、手帳の上で止まった。
それから、顔を上げた。
「……では、スズカさんなら、どうされますか」
スズカは、少し考えた。
窓の外を見た。雨が、降っていた。
隣で、雅也が、黙ってコーヒーを飲んでいた。何も言わなかった。約束通りに。
「……休んで、戻りました」
スズカは、言った。
「……それだけで、いいと思います」
乙名史は、ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
それから、手帳に、ゆっくりとその一行を書いた。
「……休んで、戻りました」
声に出して、読んだ。
「……短いですね」
「……はい」
「大阪杯の、走りました、と同じくらい」
「……はい」
乙名史は、少しだけ笑った。
それから、校正刷りの見出しの上に、赤いペンで細い線を二本引いた。その横に、几帳面な字で、書き直した。
――休んで、戻りました。
「……デスクは、また短すぎると言うと思います」
「……」
「今度は、私が説得いたします。……約束いたしましたので」
◇
本文の確認が終わると、写真の選定に移った。
テーブルの上に並べられた、何十枚もの写真。桑田が、それぞれに番号を振っていた。
スズカは、一枚ずつ、手に取って見ていった。
三コーナーの入りの、横顔。風が、髪を後ろへ流していた。
吊るされた勝負服と、新しいシューズ。窓の光。
講義室で、ノートを見下ろしている姿。指に挟んだペンが、回っている途中で止まっていた。ぶれていた。
「……ペン、回ってますね」
「……はい」
「桑田さんが、このぶれがいいとおっしゃっていました。止まっているスズカさんより、動いているスズカさんのほうが、スズカさんらしい、と」
「……」
スズカは、その写真を、しばらく見ていた。
それから、そっとテーブルに戻した。
練習場のフェンスの前で、コースを見ている写真。耳が、コースのほうを向いていた。フェンスに置いた手。
その写真の奥、ピントの外れたコースの上に、一人の後輩が小さく写っていた。スズカに気づいて、背筋を伸ばした瞬間の、ぼやけた後ろ姿。
「……この子、写っていますね」
「……はい。ピントは外れておりますので、どなたかは分かりません。……ただ、ご本人に確認が取れましたら、このまま使わせていただければと」
「……私から、訊いてみます」
「ありがとうございます」
並木道を、二人で並んで歩いている写真。
後ろから撮られていた。二人の背中。腕一本分の隙間。雅也の顔は、写っていなかった。スズカの横顔が、少しだけ見えていた。
「……こちらは、⑥として、使わせていただいてもよろしいでしょうか」
乙名史が、慎重に言った。
スズカは、隣を見た。
雅也は、コーヒーのカップを持ったまま、写真を見ていた。
「……雅也さんは」
「……俺の顔が写ってないなら、スズカが決めていい」
「……」
スズカは、写真を見た。
二人の背中。若葉の影。傾いた陽の光。
「……使ってください」
「……ありがとうございます」
最後に、一枚だけ、裏返しに置かれた写真があった。
桑田が、封筒から出すときに、わざと裏返しにしたものだった。
乙名史が、その写真の上に、そっと手を置いた。
「……こちらが、⑦でございます」
「……」
「桑田から、お二人がご覧になる前に、私どもは見ないようにと言われております。……ですので、私も、まだ拝見しておりません」
乙名史は、写真から手を離した。
「……お二人で、ご覧になってください。掲載するかどうかは、お二人でお決めください。掲載されない場合、この写真と、そのデータは、すべてお二人にお渡しいたします。編集部には、残しません」
スズカは、裏返しの写真を見た。
白い裏面に、小さく、桑田の字で番号が書かれていた。
⑦。
「……少し、席を外しましょうか」
乙名史が、立ち上がった。
「水野さん、廊下の自動販売機で、何か温かいものでも」
「……はい」
二人は、傘を持って、トレーナールームを出ていった。
扉が、静かに閉まった。
◇
部屋の中に、雨の音だけが残った。
スズカは、裏返しの写真を、しばらく見ていた。
雅也も、黙っていた。
「……見ますか」
「……スズカが、見たいなら」
「……雅也さんは」
「……俺は、どっちでもいい」
スズカは、雅也の顔を見た。
雅也は、少しだけ困ったように、首の後ろに手をやった。
「……いや。……見たい」
「……」
「正直に言うと、見たい」
スズカの目元が、少しだけ緩んだ。
写真を、表に返した。
◇
夕方の並木道だった。
斑の光と影。若葉。石畳。
その真ん中に、二人が立っていた。
スズカは、雅也を見上げていた。指先に、白い小さな花びらを乗せていた。
笑っていた。
目元が緩んで、口元がはっきりとほどけて、耳が、隣の人のほうを向いていた。
雅也は、スズカを見下ろしていた。手は、身体の横に下ろしたままだった。耳には、触れていなかった。
その顔も、笑っていた。
困ったように。けれど、それ以上に、嬉しそうに。
斜めに射しこんだ陽の光が、二人のあいだの、腕一本分の隙間を、細く照らしていた。
スズカは、写真を持ったまま、動かなかった。
自分が、こんな顔で笑うことを、知らなかった。
鏡で見たことはなかった。誰かに撮られたこともなかった。レースの写真は、いつも、前だけを見ている顔だった。
この写真の中の自分は、前を見ていなかった。
隣を、見ていた。
「……」
隣で、雅也が、何も言わずに写真を見ていた。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「……いい写真だな」
「……はい」
「桑田さん、上手いな」
「……はい」
「……スズカ、こんな顔で笑うんだな」
スズカは、写真から目を離した。
雅也を見た。
「……雅也さんも、です」
「……え」
「……こんな顔、しているんですね。私を見ているとき」
雅也は、写真の中の自分を見た。
しばらく見ていた。
それから、手元のコーヒーのカップを持ち直した。中身は、もう空だった。
「……しているらしいな」
「……はい」
「……知らなかった」
「……私もです」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
雨の音が、窓の外で続いていた。
◇
「……どうする?」
雅也が、訊いた。
スズカは、写真を膝の上に置いたまま、少し考えた。
この写真を、載せたら。
たくさんの人が、見るだろう。二人がどんな顔で互いを見ているのか。どんな距離で立っているのか。
隠していることでは、なかった。
でも。
「……これは、載せないでください」
スズカは、静かに言った。
「……」
「……⑥は、載せます。二人で歩いている写真は。……私たちが、どういう関係かを伝える写真なので」
「……うん」
「……でも、これは」
スズカは、写真の中の自分の顔を見た。
「……これは、私たちの時間なので」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。乙名史さんに、そう伝えよう」
「……はい」
「……この写真は」
「……この写真、もらってもいいですか」
「……うん。もちろん」
スズカは、写真を、胸の前にそっと抱えた。
ソファの背にもたれた。
しばらく、そのまま、窓の外の雨を見ていた。
隣で、雅也も、ソファの背にもたれた。
雨の音。蛍光灯の、かすかな唸り。遠くの廊下で、誰かが歩く音。
スズカは、写真を抱えたまま、目を閉じた。
撮影の日の、並木道の風を思い出していた。
隣の足音。石畳の継ぎ目で、靴底が擦れる音。
耳の近くの花びらを、取らなかった人の手。
身体が、少しだけ、緩んでいた。
自分では、気づいていなかった。
◇
雅也が、それに気づいたのは、五分ほど経ってからだった。
右の足首に、何かが触れていた。
柔らかくて、少しだけ温かいもの。
見下ろすと、スズカの尻尾が、ソファの端から垂れて、雅也の右の足首に、ゆるく巻きついていた。一巻き。締めつけるのではなく、そこにあることを確かめるように、軽く。
手入れの行き届いた、つややかな毛並みだった。空気抵抗を減らすために、欠かさず手入れしている、と彼女が言っていた尻尾。
スズカは、目を閉じたまま、写真を胸に抱えていた。
気づいていなかった。
雅也は、動かなかった。
足を引くことも、手を伸ばすことも、しなかった。
尻尾には、触れない。五年間、そう決めてきた。今も、変えていない。
だから、ただ、動かなかった。
足首の、柔らかい重さを感じながら、窓の外の雨を見ていた。
何も言わなかった。
言ったら、彼女は気づいて、ほどくだろう。ほどくのは、構わなかった。けれど、今、この雨の午後の、静かな時間の中で、わざわざ言うことでもないと思った。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。乙名史と水野だった。
扉の前で、足音が止まった。
控えめなノックの音。
スズカが、目を開けた。
「……はい」
声を出してから、スズカは、自分の尻尾がどこにあるかに気づいた。
一瞬、固まった。
耳が、ぴくりと後ろへ寝た。
それから、何も言わずに、尻尾を静かにほどいた。ソファの上に引き寄せて、膝の横に収めた。
雅也は、何も言わなかった。
窓の外を見ていた。
スズカも、何も言わなかった。
ただ、耳の先が、少しだけ赤かった。
「……失礼いたします」
扉が開いて、乙名史が顔を出した。両手に、温かい缶の飲み物を持っていた。
「……お決まりになりましたでしょうか」
スズカは、写真を胸に抱えたまま、立ち上がった。
背筋を伸ばした。
「……はい。⑦は、載せないでください」
乙名史は、スズカの胸の写真を見た。
それから、スズカの顔を見た。
何も訊かなかった。
「……承知いたしました」
深く、頭を下げた。
「データも、すべてお渡しいたします。編集部には、一枚も残しません」
「……ありがとうございます」
「いいえ」
乙名史は、顔を上げた。
そして、ほんの少しだけ、目を細めた。
「……桑田が、きっと喜ぶと思います。……自分が撮った中で一番いい写真が、誰の目にも触れずに、一番大事にされる場所へ行く、と」
第七章 反響
『月刊トゥインクル』の夏の特集号が店頭に並んだのは、六月の終わりの、梅雨の晴れ間の日だった。
表紙は、三コーナーの入りに立つスズカの横顔だった。
風が髪を後ろへ流し、耳が前を向き、目がまっすぐに誰もいない直線を見ている一枚。表紙の端に、控えめな文字で、特集のタイトルが刷られていた。
――サイレンススズカ 走らなくても、景色はあった。
スペシャルウィークは、発売日の朝、寮の近くの書店が開くのを店の前で待っていた。開店と同時に三冊を買い、息を切らして寮に戻ってきた。
「スズカさん! 表紙です! 表紙でした!」
部屋の扉を勢いよく開けて、三冊を胸に抱えたまま、そう叫んだ。
スズカは、机に向かって、講義の予習をしていた。
振り返った。
「……おはよう、スペちゃん。……本当に、三冊買ったの」
「はい! 保存用と、読む用と、実家に送る用です!」
「……ふふ」
スペシャルウィークは、一冊をスズカの机の上に置いた。
「スズカさんも、見てください! すっごく、綺麗です!」
スズカは、表紙を見た。
自分の横顔。
撮影の日、桑田のカメラの背面の小さな画面で、一度だけ見た写真だった。紙に刷られると、画面で見たときより、少しだけ色が深く見えた。芝の緑。空の薄い青。髪の、光を受けた縁。
「……不思議ね」
「え?」
「……自分の顔なのに、自分じゃないみたい」
「えー、スズカさんですよ、完全に」
スペシャルウィークは、自分の一冊を開いた。
読みはじめた。
しばらくすると、部屋の中が静かになった。ページをめくる音だけが、ときどき聞こえた。
スズカは、予習に戻った。
十分ほど経ったころ、向かいのベッドから、鼻をすする音がした。
振り返ると、スペシャルウィークが、雑誌を膝の上に広げたまま、目元を手の甲で拭っていた。
「……スペちゃん」
「……すみません、……弥生賞のところで」
「……」
「スタンドで手がかじかんで、ストップウォッチ押せなかった、って……トレーナーさん、そんなこと言ってたんですか……」
「……ええ」
「スズカさん、下手ですね、って……」
「……言ったわ」
スペシャルウィークは、また鼻をすすった。
それから、泣きながら笑った。
「……ずるいです、あの人。そういうの」
「……そうね」
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
「……ずるい人よ」
◇
反響は、その日の昼から、少しずつ広がっていった。
雑誌の記事と同時に、編集部のウェブサイトに、記事の一部と写真が数枚だけ公開されていた。それが、昼過ぎにはSNSで共有されはじめ、夕方には、スズカの名前があちこちの画面に並ぶようになった。
スズカ自身は、SNSをほとんど見なかった。
見ようと思わなかったわけではない。ただ、見方がよく分からなかった。現役のころも、記事やコメントを自分で探すことはなかった。走ることを考えていると、たまに、何も聞いていない。画面の向こうの言葉も、同じだった。
代わりに、西澤千帆が、トレーナールームで一つずつ読み上げてくれた。
「――『弥生賞のところで泣いた』。……これ、多いですね。同じようなのが、何十個もあります」
千帆は、スマートフォンの画面をスクロールしながら言った。
「『ストップウォッチの話で笑って、そのあとの三行で泣いた』『あなたが一番速いのは誰とも走っていないとき、って一文が刺さりすぎて電車で読めない』」
スズカは、窓際の椅子で、それを聞いていた。
雅也は、机に向かって、何かの書類を読んでいるふりをしていた。
「……こっちは、競技ファンっぽい人ですね。『二千四百に行かなかった理由を、本人の口から初めて聞けた。批判は正しい、と言い切るのが本当にスズカらしい』」
「……」
「『崩さないで行ける一番遠いところ、という言葉で、あの選択の全部が腑に落ちた。それでも俺はダービーを走るスズカが見たかったけど』」
千帆は、そこで少しだけ笑った。
「……正直な人ですね」
「……はい」
スズカは、頷いた。
「……その人の言う通りだと、思います」
「え」
「……私が走らなかったのだから、見たかったと思う人がいるのは、当然なので」
千帆は、スズカの顔を見た。
それから、少しだけ肩をすくめた。
「……ほんと、スズカさんって、怒らないですよね」
「……怒る理由が、ないので」
「そういうところです」
千帆は、また画面に目を戻した。
「――これは、ライブを見てた人ですかね。『ウイニングライブのスズカが好きだった。センターで、少しだけ照れたみたいに歌う顔。引退してもう見られないと思ってたけど、この記事の写真で、あの顔を思い出した』」
「……」
「『講義室の写真、ペン回してるのぶれてるのがいい。現役のころ、ライブの控室でもペン回してたって噂、本当だったんだ』」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……控室で、回していたかしら」
「回してましたよ」
雅也が、書類から顔を上げずに言った。
「本番前、いつも」
「……知りませんでした」
「知ってる」
千帆が、横で吹き出した。
◇
学園の中の反応は、もっと近くから届いた。
翌日の昼、食堂でスズカが昼食を取っていると、一人の後輩が、おずおずとテーブルの前に来た。
中等部の、小柄なウマ娘だった。手に、雑誌を一冊抱えていた。表紙の角が、何度も開いたせいで少しだけ丸くなっていた。
「――『あ、あの。サイレンススズカさん』」
「……はい」
「そ、その、練習場の写真の……後ろに写ってたの、私なんです」
スズカは、フォークを置いた。
撮影の日、フェンスの前でコースを見ていたとき、走りながらこちらに気づいて、慌てて前を向いた子。背筋が、少しだけ伸びた子。
校正の日、乙名史に頼まれて、スズカが本人に確認を取った子だった。載せてもいいですか、と訊くと、その子は顔を真っ赤にして、何度も頷いていた。
「……ぼやけてて、誰だか分からないんですけど。……でも、私なんです」
「……ええ。知っているわ」
「……あの日、スズカさんが見てるって気づいて、それで、背筋が伸びて」
後輩は、雑誌を胸にぎゅっと抱えた。
「……その日、自己ベストでした」
スズカは、瞬きをした。
「……そう」
「はい。……スズカさんのおかげです」
「……私は、見ていただけよ」
「でも」
「……あの日、走ったのは、あなただから」
後輩は、少しだけ目を見開いた。
スズカは、その子の顔を見た。
あの日、フェンスの前で聴いていた足音を思い出した。着地が、少しだけ重かった子。最後の直線で、呼吸が乱れていた子。
この子は、たぶん、あの三人のうちの一人だった。
「……あの日、あなたの足音を、聴いていたの」
「……え」
「……最後の直線で、呼吸が、少しだけ乱れていたわ。……自己ベストだったなら、きっと、そこを直したら、もっと速くなる」
後輩は、口を開けたまま、固まった。
「……でも、それは、あなたのトレーナーさんと、相談してね。……私は、聴いただけなので」
「……は、はい!」
後輩は、雑誌を抱えたまま、深く頭を下げた。
それから、走って食堂を出ていった。
スズカは、その背中を見送った。
フォークを持ち直して、少しだけ目元を緩めた。
◇
すべての反応が、祝福だったわけではなかった。
千帆が読み上げてくれた中にも、いくつか、違う色の言葉があった。
「――『⑥の、二人で歩いてる写真。素敵だけど、ここまで見せる必要ある? プライベートは守ってほしい』」
千帆は、少しだけ声を落として読んだ。
「『交際してるって、この記事で初めてちゃんと知った。おめでとう、なのかな。でも競技者としてのスズカが好きだったから、ちょっと複雑』」
「……」
「『トレーナーと担当が付き合うの、やっぱりちょっと引っかかる。引退後だって書いてあるし、ちゃんとしてるのは分かるけど』」
トレーナールームの中が、少しだけ静かになった。
雅也が、書類から顔を上げた。
千帆は、画面をスクロールする手を止めずに、続けた。
「……でも、その下に返信がついてて。『回避会見のとき、トレーナーは今は担当と生徒だって言い切ってた。あれ見てたら、ちゃんと線引いてた人だって分かる』って」
「……」
「それから、『スズカ本人が、一緒にいます、それ以上は二人のことなので話しません、って言ってるんだから、それでいいじゃん』って」
千帆は、スマートフォンを下ろした。
「……全体で見ると、おめでとうのほうが、ずっと多いですよ。数えてないですけど、見てれば分かります」
「……ありがとうございます、西澤さん」
「私は読んでるだけですよ」
スズカは、窓の外を見た。
梅雨の晴れ間の空が、白く明るかった。
「……複雑だと思う人も、いると思います」
スズカは、静かに言った。
「……私は、競技者でした。……それを好きでいてくれた人が、今の私を見て、少し寂しいと思うのは、当然だと思います」
「……」
「……その人たちに、何か言いたいとは、思いません。……言わなくても、いいと思うので」
「……スズカさん」
「……でも、⑥を載せたことは、後悔していません」
スズカは、窓から目を離した。
「……隠していることでは、ないので」
千帆は、しばらくスズカの顔を見ていた。
それから、にっと笑った。
「……ですよね」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、手元の書類の端を、一度だけ揃えた。
◇
その夜、スズカは、雅也と並んで、学園の裏手の並木道を歩いていた。
寮へ送る道だった。
梅雨の晴れ間の夜で、空気は湿って、少しだけ温かかった。並木の若葉は、昼間より色を深くして、街灯の光を受けて黒っぽく光っていた。どこかで、雨上がりの土の匂いがした。
「……一つ、気になることがあります」
スズカが、言った。
「……うん」
「……朝の練習場に行けば、スズカに会えるかな、という言葉がありました」
「……ああ」
「……その下に、行かないであげて、という返事が、いくつもついていました」
「……うん。俺も見た」
スズカは、少しだけ歩く速さを緩めた。
「……朝のコースは」
「……うん」
「……私たちの時間なので」
雅也は、何も言わなかった。
「……誰かが来たら、どうしようかと、少しだけ思いました」
「……来たら、どうする?」
スズカは、少し考えた。
「……追い返しは、しません。……人が多いのは苦手ですけど」
「……うん」
「……でも、立つ場所は、変えないと思います」
「……」
「……いつもの場所に、いつもの時間に、立ちます。……誰かに見られても」
雅也は、少しだけ笑った。
「……それでいいと思う」
「……はい」
「俺も、いつもの時間に行く」
「……はい」
しばらく、二人とも黙って歩いた。
石畳の上を、二人の足音が、並んで鳴っていた。
「……今日、食堂で、後輩の子に会いました」
スズカが、言った。
「……練習場の写真の、後ろに写っていた子です」
「ああ。……自己ベストだったって子?」
「……知っていたんですか」
「その子のトレーナーから聞いた。……スズカさんが見てたから、って喜んでたらしい」
「……」
「……で、スズカは、何か言った?」
「……最後の直線で、呼吸が乱れていた、と」
雅也は、足を止めた。
スズカも、止まった。
「……聴いてたんだ」
「……はい。あの日、フェンスの前で」
「……」
「……でも、あとは、トレーナーさんと相談してね、と言いました。……私は、聴いただけなので」
雅也は、しばらくスズカの顔を見ていた。
街灯の光が、その横顔を、斜めに照らしていた。
「……それ、一番難しいことだと思う」
「……何がですか」
「聴いて、気づいて、それを本人に渡す。……そこで止めること」
「……」
「気づくと、全部言いたくなる。直し方まで。……でも、それは、その子のトレーナーの仕事だから」
スズカは、雅也の顔を見上げた。
「……雅也さんは、いつも、そうしていましたね」
「……そう?」
「……私が走っているときも。……気づいたことを、全部は言いませんでした」
「……」
「……三つ並べて、答えは、言いませんでした」
雅也は、少しだけ困ったように首の後ろに手をやった。
「……あれは、そうするしか、なかったから」
「……はい」
「俺が答えを言ったら、スズカは、たぶん、その答えの通りに走る。……それだと、スズカの走りじゃなくなる」
スズカは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ、雅也のほうへ、歩く位置をずらした。
腕一本分の隙間が、ほんの少しだけ、狭くなった。
二人は、また歩きだした。
並木道の先に、寮の明かりが見えてきた。
スズカは、歩きながら、今日のことを考えていた。
たくさんの人が、自分の言葉を読んだ。自分の写真を見た。泣いた人がいた。笑った人がいた。複雑だと思った人がいた。見たかったと言った人がいた。
それを、全部、受け取ることはできなかった。
でも、全部、自分で話したことだった。
話したいことだけ、話した。話したくないことは、話さなかった。それを、乙名史が、そのまま書いてくれた。
だから、どんな言葉が返ってきても、それは、自分の言葉への返事だった。
寮の門の前で、二人は足を止めた。
「……おやすみなさい、雅也さん」
「おやすみ」
「……明日の朝も」
「うん。いつもの時間に」
スズカは、門をくぐった。
振り返らなかった。
けれど、門の内側で、一度だけ足を止めた。
後ろの足音が、遠ざかっていくのを、聴いていた。
石畳の継ぎ目で、靴底がかすかに擦れる音。
それが、風の音に紛れて、聞こえなくなるまで。
第八章 講義室の窓
スズカの一日は、夜明け前のコースから始まる。
五時半。いつもの場所に立つ。隣に、雅也が来る。二人で、最初の風が来るのを待つ。来たら、それを確かめる。今日は北寄り。今日は湿っている。今日は、まだ来ない。それから、少しだけ話す。昨日の講義のこと。今日の予定のこと。何も話さない日もある。
六時半に、寮へ戻る。
朝食。ホットミルクに、蜂蜜をひとさじ。スペシャルウィークが、隣の席で、山盛りのご飯を三杯食べる。
八時半に、講義棟へ向かう。
トレセン学園の高等教育課程は、学園の敷地の東の端の、比較的新しい建物の中にあった。引退した競技者や、高等部を卒業したあとも学園で学び続けたいウマ娘のための課程で、大学に相当する学部の課程と、さらにその上の、専門的な研究のための課程が置かれていた。
学園の外の大学とは、少しだけ仕組みが違った。
講義の多くは、ウマ娘の身体と競技に関わるものだった。運動生理学。身体動作の解析。競技心理学。コンディショニング論。栄養学。それに加えて、学園のトレーナーや医療スタッフ、専門職のもとでの実習があった。実習と言っても、学生が何かを判断したり処置したりすることはない。見て、聞いて、記録して、学ぶ。それだけだった。
受講生は、多くはなかった。一つの講義に、十人前後。年齢も、経歴も、ばらばらだった。数年前に引退して、学園の職員として働きながら通っている先輩。怪我で競技を離れて、それでもウマ娘の身体のことを学びたいと戻ってきた後輩。高等部を卒業したばかりで、トレーナーを目指している同年代。
スズカは、その中で、目立たないように座っていた。
目立たないようにしているつもりだった。
けれど、講義室に入ると、いつも、何人かが振り返った。
◇
その日の一限は、運動生理学だった。
講義室は、三階の南向きの部屋だった。窓が大きく、午前の光が、机の列の上にいっぱいに射しこんでいた。窓の外に、学園の第一コースが見えた。朝の練習を終えたばかりの芝が、光を受けて、まだ少しだけ湿って光っていた。
スズカは、いつも、窓際の後ろから二番目の席に座った。
窓の外が、見えるからだった。
講義が始まると、教授が、黒板に図を描いた。脚の骨の図だった。着地の瞬間に、地面から返ってくる力の流れを、矢印で描いていく。
「――一歩の着地で、身体にはこれだけの力がかかります。それを、骨と、関節と、筋肉と、腱が、分担して受け止めている。……どこか一か所に負担が偏ると、身体は、それを無意識に逃がそうとします」
教授は、チョークを置いた。
「逃がし方は、いろいろです。着地の角度を変える。歩幅を変える。接地の時間を短くする。……本人は、気づかないことが多い。痛みが出る前に、身体が勝手に、負担の少ない動きを選んでしまうからです」
スズカは、ペンを止めた。
黒板の図を見た。
左前脚。
着地の時間が、短くなる。
半拍、早くなる。
「……ですから、周りの人間が、その変化に気づけるかどうかが、とても重要になります。……本人の感覚より先に、動きが変わるので」
スズカは、ノートに、その一行を書き写した。
書き写してから、しばらく、その文字を見ていた。
あの秋、自分は、三週間前から、坂路の最後で左が半歩内に入ることに気づいていた。風の当たり方が、少し違うことにも。でも、それを言葉にしていなかった。痛くはなかったから。走れたから。
身体は、先に、負担を逃がしていた。
それに気づいたのは、自分ではなかった。
窓の外の、第一コースを見た。
あの人は、三年以上、毎朝、あのコースで、自分の足音を聴いていた。
ペンを持つ指が、くるりと回った。
一回。二回。
隣の席の先輩が、ちらりとこちらを見た。
スズカは、ペンを止めた。
少しだけ、耳が赤くなった。
◇
二限目は、実習だった。
学園の医療棟の一室で、医療スタッフの先生が、コンディショニングの記録の付け方を説明してくれた。担当トレーナーから上がってくる日々の記録。体重、食事、睡眠、練習の内容と量、本人の申告。それを、医療スタッフがどう読み、どこに注意を向けるか。
「――一番大事なのは、本人の言葉です」
医療スタッフの先生は、中年の、穏やかな声の女性だった。
「数字は、嘘をつきません。でも、数字は、変化が起きたあとにしか動きません。……本人の言葉は、ときどき、数字より先に、何かを教えてくれます」
「……」
「疲れた、とか。なんとなく重い、とか。風の当たり方が違う、とか」
スズカの耳が、ぴくりと動いた。
先生は、スズカのほうを見なかった。
けれど、ほんの一瞬だけ、話す速さが、ゆっくりになった気がした。
「……そういう、曖昧な言葉を、曖昧なまま受け取れるかどうか。すぐに何かの結論にしないで、それを、判断できる人のところへ、そのまま運べるかどうか。……それが、私たちの仕事の、半分くらいです」
実習のあと、先生が、スズカを呼び止めた。
ほかの受講生が部屋を出ていったあとだった。
「……サイレンススズカさん」
「……はい」
「来週の特別講義のこと、聞いていますか」
「……いいえ」
「外部から、スポーツ整形の先生をお招きします。……骨の疲労性の損傷を、早い段階で見つけた事例について、お話しいただく予定です」
スズカは、瞬きをした。
「……それは」
「……はい」
先生は、穏やかに頷いた。
「その先生から、あなたに、事前に確認してほしいと頼まれました。……事例は、昨年、学会で発表されたものです。本人の名前は伏せられています。講義でも、名前は一切出しません。……ただ、あなたがこの課程にいることを、先生はご存じです」
「……」
「あなたが、その講義を聞くのがつらいなら、あなたは欠席してかまいません。……それから、もし、事例そのものを講義で扱ってほしくないなら、先生は別の事例に差し替えるそうです」
スズカは、しばらく黙っていた。
窓の外で、午前の練習を終えたウマ娘たちが、笑いながら医療棟の前を通り過ぎていく声が聞こえた。
「……聞きたいです」
スズカは、言った。
「……その事例を、外から、聞いてみたいです」
先生は、少しだけ目を細めた。
「……分かりました。先生に、そうお伝えします」
◇
特別講義の日は、雨だった。
講義室の窓の外で、細かい雨が、第一コースの芝を静かに濡らしていた。誰も走っていなかった。雨の日の午後のコースは、灰色の空を映して、鈍く光っていた。
講壇に立ったのは、あの秋、スズカを診た専門医だった。
白髪の混じった、背の高い男性だった。一年半あまり前、医療棟の一室で、静かな声で所見を告げた人。今なら、休めば治ります。あと一戦走れば、分かりません。
専門医は、講義室を一度だけ見渡した。
窓際の後ろから二番目の席で、その視線が、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、スライドを映した。
骨の画像だった。
名前も、日付も、レース名も、どこにも書かれていなかった。ただ、手根部の、ごく小さな影が、赤い丸で囲まれていた。
「――この事例で、私が皆さんに伝えたいのは、診断の技術ではありません」
専門医は、穏やかに言った。
「通常の検査では、異常は出ませんでした。数字も、すべて正常でした。本人は、痛みを訴えていませんでした。……この状態で、この影を見つけられたのは、画像の性能のおかげではありません」
「……」
「一人のトレーナーが、担当の着地音が、左前だけ半拍早いと言いに来たからです」
講義室が、静かになった。
スズカは、ペンを持ったまま、動かなかった。
「そのトレーナーは、診断をしませんでした。医学的な主張も、一つもしませんでした。……ただ、音が違う、とだけ言いました。通常の検査で異常がないと伝えても、引き下がりませんでした。異常がないのは分かりました、ただ、音は違います、それが何を意味するのかは自分には分からないので、分かる方に見ていただけませんか、と」
専門医は、スライドを一枚進めた。
何も映っていない、白いスライドだった。
「私はこの事例を、学会でこう紹介しました。……気づくことと、診断することは、別の仕事である。気づいた者が、自分の分を越えずに、正しい場所へ運ぶ。それが、この事例で最も重要な医療行為だった、と」
雨の音が、窓の外で続いていた。
「……それから、もう一つ」
専門医は、少しだけ声を落とした。
「本人が、自分の感覚を、隠さずに言葉にしました。……三週間前から、坂路の最後で、左が半歩だけ内に入る。痛くはない、ただ、風の当たり方が少し違う、と」
スズカの指が、ペンを強く握った。
「その言葉がなければ、私の所見は、もっと遅れていたかもしれません。……本人の言葉と、周りの人間の気づき。その二つが揃ったとき、医療は、初めて間に合います」
専門医は、スライドを消した。
「……最後に。走らないと決めたのは、本人でした。私ではありません。トレーナーでもありません。……私は、それを、今でも、この事例で一番大事なことだと思っています」
◇
講義が終わって、受講生たちが講義室を出ていったあとも、スズカは席に座っていた。
窓の外の雨を、見ていた。
講壇の上で、専門医が、ノートパソコンを片付けていた。
しばらくして、専門医は、窓際の後ろから二番目の席まで歩いてきた。
「……久しぶりですね」
「……はい」
スズカは、立ち上がって、頭を下げた。
「……ご無沙汰しています」
「……聞いていて、つらくはありませんでしたか」
「……いいえ」
スズカは、少しだけ首を振った。
「……外から聞くと、不思議でした」
「……」
「……私の話なのに、私が知らなかったことが、たくさんありました」
専門医は、少しだけ目を細めた。
「……トレーナーさんは、お元気ですか」
「……はい」
「あの方は、今でも、あのことを誰にも話していないそうですね」
「……はい。……話しません。……自分の手柄になるから、と」
「……そうですか」
専門医は、窓の外の雨を見た。
「……私が学会で発表したときも、名前は伏せてくれと、あの方から頼まれました。……本人の名前ではなく、自分の名前を、です」
「……」
「変わった方ですね」
「……はい」
スズカは、窓の外を見た。
雨の中の、第一コース。誰もいない、灰色の芝。
「……変わった人です」
専門医は、少しだけ笑った。
それから、鞄を肩にかけた。
「……サイレンススズカさん。この課程で、何を学ぼうと思っていますか」
スズカは、すぐには答えなかった。
窓の外の雨を見ていた。
「……まだ、はっきりとは、決まっていません」
「……」
「……ただ」
スズカは、少しだけ言葉を探した。
「……走る人の身体の声を、聞けるようになりたいです」
「……」
「……私は、診断はできません。これからも、たぶん、しないと思います。……でも、あの人がしたように、音を聴いて、何かが違うと気づいて、それを正しい人のところへ運ぶことなら」
スズカは、窓の外の、雨に濡れた芝を見た。
「……いつか、できるようになりたいです」
専門医は、長いあいだスズカを見ていた。
それから、静かに頷いた。
「……それは、とても大事な仕事です」
「……はい」
「急がなくていい。……あなたは、休むことを知っている人だから、きっと、急がないでしょうけど」
専門医は、一礼して、講義室を出ていった。
スズカは、席に座り直した。
ノートを開いた。
今日の講義で書いた、最後の一行があった。
――気づくことと、診断することは、別の仕事。
その下に、少しだけ考えてから、自分の字で書き足した。
――気づいて、運ぶ。そこで、止める。
◇
講義棟を出ると、雨は小降りになっていた。
傘を差して、中庭を横切った。
図書館の前の、屋根のある回廊で、シンボリルドルフとすれ違った。
ルドルフは、書類の束を抱えていた。生徒会の仕事の途中らしかった。スズカに気づくと、足を止めた。
「……スズカ」
「……会長」
「講義の帰りかな」
「……はい」
「今日は、外部の先生の特別講義だったと聞いている」
「……はい」
ルドルフは、スズカの顔を見た。
何かを訊こうとして、やめたように見えた。
代わりに、回廊の外の、雨に濡れた中庭を見た。
「……高等課程に進んだ卒業生が、学園に残ってくれることを、私は心強く思っている」
「……」
「走ることを終えた者が、走る者を支える側に回る。……その循環があってこそ、この学園は、ただ速さを競うだけの場所ではなくなる」
ルドルフは、スズカのほうへ向き直った。
「君がそこにいることは、後輩たちにとって、何よりの道しるべになるだろう」
「……ありがとうございます」
「礼には及ばない。……事実を述べたまでだ」
ルドルフは、書類を抱え直した。
それから、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……もっとも、雨の日の道しるべは、傘を差していないと、道も知るべもなく濡れてしまうがね」
「……」
「……今のは、忘れてくれたまえ」
ルドルフは、少しだけ咳払いをして、回廊の向こうへ歩いていった。
スズカは、その背中を見送った。
少し遅れて、口元がほどけた。
「……ふふ」
傘を差し直して、トレーナー棟のほうへ歩きだした。
雨が、傘の布を、静かに叩いていた。
トレーナールームの窓に、明かりが灯っていた。
スズカは、その窓を見上げた。
今日の講義のことを、あの人に話そうかどうか、考えた。
専門医が、音の話をしたこと。名前を伏せたこと。学会で、自分の名前ではなく、あの人の名前を伏せてくれと頼まれたこと。
話したら、あの人は、たぶん、困った顔をする。
首の後ろに手をやって、少しだけ黙って、それから、何か別の話をする。
スズカは、階段を上った。
トレーナールームの扉の前で、傘を畳んだ。
ノックをした。
「……どうぞ」
扉を開けた。
雅也が、机から顔を上げた。
「……おかえり」
「……ただいま、戻りました」
スズカは、窓際の椅子に座った。
窓の外の雨を見た。
「……今日の講義は、どうだった?」
スズカは、少しだけ考えた。
「……変わった人の話を、聞きました」
「……へえ。どんな?」
「……音を聴いて、何かが違うと気づいて、……それを、正しい人のところへ運んだ人の話です」
雅也の手が、止まった。
スズカは、窓の外を見たまま、言った。
「……名前は、出ませんでした」
「……」
「……その人が、そう頼んだそうです」
雅也は、長いあいだ、何も言わなかった。
それから、手元の書類の端を、一度だけ揃えた。
「……そっか」
「……はい」
「……で、君は、どう思った」
スズカは、窓から目を離した。
雅也を見た。
「……私も、いつか、そういう人になりたいと思いました」
雅也は、スズカの顔を見ていた。
それから、ゆっくりと、首の後ろに手をやった。
少しだけ黙って、それから、言った。
「……雨、やまないな」
「……はい」
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
思った通りだった。
第九章 逃げたい子たち
記事が出てから、雅也のトレーナールームの扉は、よく叩かれるようになった。
最初は、七月の初めだった。
ノックの音がして、扉を開けると、中等部のウマ娘が一人、雑誌を胸に抱えて立っていた。緊張で耳が後ろに寝ていた。
「……あ、あの。早瀬トレーナーですか」
「そうですけど」
「わ、私、逃げで走りたいんです。……担当、してもらえませんか」
次の日も、似たようなことがあった。その次の日も。一週間で、五人。二週間で、九人。
全員が、逃げを目標にしていた。
全員が、雑誌を読んでいた。
スズカの現役中、〈ミザール〉への見学の希望は、何度も殺到した。第四年の毎日王冠のあとが一番多かった。雅也は、そのすべてを断った。担当は、スズカ一人だった。一人しか見ないと決めていた。スズカの走りの音を、毎朝、全部聴くためには、それ以上は無理だった。
スズカは、もう走らない。
雅也の担当は、今、誰もいなかった。
「……どうするんですか」
西澤千帆が、九人目の子が帰ったあとで、扉を閉めながら訊いた。
「……考えてる」
「半年前から、考えてるって言ってますよね」
「……うん」
「理事長からも、たづなさんからも、そろそろって言われてますよね」
「……言われてる」
千帆は、呆れたように溜め息をついて、雅也の机の前に椅子を引いて座った。
「……早瀬さん。一つ訊いていいですか」
「うん」
「スズカさん以外の子を見るのが、嫌なんですか」
雅也は、書類から顔を上げた。
千帆の顔は、真面目だった。からかっている色は、なかった。
「……嫌じゃない」
「じゃあ」
「……怖いのかもしれない」
千帆は、黙った。
雅也は、窓の外を見た。夏の午後の光が、第一コースの芝を白く照らしていた。何人かのウマ娘が、陽炎の中を走っていた。
「……俺は、スズカの音しか、聴いてこなかった。五年間、毎朝。……別の子の音を、同じだけ聴けるかどうか、分からない」
「……」
「聴けなかったら、また、気づくのが遅れるかもしれない」
千帆は、しばらく何も言わなかった。
それから、椅子の背にもたれた。
「……早瀬さんって、ほんと、変なところで臆病ですよね」
「……」
「でも、それ、たぶん、担当の子にとっては一番ありがたいことですよ。……気づくのが遅れるのが怖いって思ってるトレーナーのほうが、絶対、ちゃんと聴きますから」
雅也は、千帆の顔を見た。
千帆は、にっと笑った。
「……一人じゃなくていいんじゃないですか。二人くらいなら」
「……二人」
「スズカさんのときは、一人で全部やろうとしてましたけど。今は、私もいますし」
「……」
「それに、雅也さんが聴けない音は、スズカさんが聴いてくれるかもしれないですよ」
雅也は、少しだけ目を見開いた。
「……それは、違う」
「え?」
「スズカは、俺の担当を手伝うために学園にいるんじゃない。……自分の勉強をしてる」
千帆は、目を瞬かせた。
それから、少しだけ肩をすくめた。
「……はいはい。分かってますよ。言ってみただけです」
◇
その夜、並木道を歩きながら、雅也はスズカに話した。
担当を持とうと思う。二人くらい。
スズカは、少しだけ歩く速さを緩めた。
「……はい」
「……反対しない?」
「……雅也さんが、決めることなので」
「……うん」
「……でも、嬉しいです」
雅也は、スズカの横顔を見た。
街灯の光の中で、その目元が、少しだけ緩んでいた。
「……嬉しい?」
「……雅也さんが、トレーナーの仕事をしているところを、また見られるので」
「……」
「……私が走っていたころは、見ている余裕が、なかったので」
雅也は、何も言えなかった。
しばらく、二人の足音だけが、石畳の上に並んで鳴っていた。
「……逃げの子ばかりですか」
「……今のところ、全員」
「……ふふ」
「笑うところじゃないんだが」
「……いえ。……記事のせいですね」
「……君のせいとは言ってない」
「……言っていないけど、思っていますよね」
「……少しだけ」
スズカは、声を出さずに、少しだけ肩を揺らした。
それから、ふいに真面目な声になった。
「……雅也さん」
「うん」
「……私の代わりは、探さないでくださいね」
雅也は、足を止めた。
スズカも、止まった。
「……私の走りと同じ走りをする子を探したら、その子は、たぶん、苦しくなります」
「……」
「……その子には、その子の走る理由が、あると思うので」
雅也は、しばらくスズカの顔を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……分かってる」
「……はい」
「……それ、俺が最初に、自分に言い聞かせたことだった」
スズカは、少しだけ目を瞬かせた。
それから、耳が一度だけ動いた。
「……なら、よかったです」
◇
七月の半ばに、学園の選抜レースがあった。
雅也は、スタンドの端に座って、全レースを見た。
声をかけてきた子たちも、何人か走っていた。雅也は、それぞれの走りを、目と、耳で追った。スタートの音。コーナーの入り。直線での呼吸。
十二レース目で、雅也は、一人の走りに目を留めた。
小柄な、青い髪のウマ娘だった。
ゲートが開いた瞬間、誰よりも速く飛び出した。スタートの、最初の十数歩。その速さは、群を抜いていた。二百メートルで、後続を大きく引き離した。
それから、さらに離した。
離して、離して、離しつづけた。
スタンドがざわめいた。
千メートルの通過が、異様に速かった。雅也は、手元のストップウォッチを見て、それから、自分の呼吸の拍で数え直した。速すぎる。あのペースで、最後まで保つはずがない。
保たなかった。
四コーナーで、脚が止まった。
直線で、後続にまとめて交わされた。
それでも、そのウマ娘は、最後まで、全力で脚を動かしていた。止まりかけた脚で、それでも前へ。前へ。ゴール板を、よろめくように駆け抜けた。
六着だった。
雅也は、ストップウォッチを握ったまま、しばらく動かなかった。
スタンドの下で、そのウマ娘が、膝に手をついて、肩で息をしていた。汗が、青い髪から滴っていた。
それから、顔を上げた。
悔しそうな顔では、なかった。
笑っていた。
心底、楽しそうに。
「……ターボ、今日も一番速かったもん! 最初は!」
誰に言うでもなく、そう叫んでいた。
周りの子たちが、呆れたように笑っていた。
雅也は、スタンドを降りた。
◇
「――ツインターボさん」
コースの脇で、雅也が声をかけると、青い髪のウマ娘は、タオルを首にかけたまま振り返った。
「んあ? 誰だ?」
「早瀬です。トレーナーの」
「知ってるぞ! スズカのトレーナーだ!」
ツインターボは、目をきらきらさせた。
「雑誌で見た! ターボも逃げだから、ずーっと読んだ! 三回読んだ!」
「……ありがとうございます」
「で、何だ? ターボに何か用か?」
雅也は、少しだけ考えた。
それから、訊いた。
「……一つだけ、確認させてください。あなたは、勝ちたいんですか。それとも、走りたいんですか」
ツインターボは、きょとんとした顔をした。
それから、ほとんど間を置かずに答えた。
「どっちもだもん!」
「……どっちも」
「ターボは勝ちたいし、走りたい! 全力で! 一番前で! ……で、テイオーに勝つ!」
雅也は、少しだけ目を見開いた。
八秒どころか、一秒もなかった。
「……トウカイテイオーさんに」
「そうだぞ! テイオーはターボの終生のライバルだからな! ターボが勝つまで、ずーっとライバル!」
ツインターボは、胸を張った。
それから、ふいに、少しだけ声のトーンを落とした。
「……でも、みんな、ペース考えろって言う。最初から飛ばしすぎだって。後半のこと考えろって」
「……」
「ターボ、分かってるもん。最後、止まっちゃうのは。……でも、最初から全力じゃないと、ターボじゃないもん」
雅也は、ツインターボの顔を見た。
汗に濡れた、幼い顔。けれど、その目は、まっすぐだった。
「……ペースを考えろ、とは言いません」
「え」
「最初から全力なのは、あなたの武器です。……あのスタート、今日のレースで一番速かった。見てました」
ツインターボの耳が、ぴんと立った。
「……ほんとか!?」
「本当です」
「へへん! だろー!」
「ただ」
雅也は、少しだけ言葉を選んだ。
「全力の使い方は、変えてもらうかもしれません。……止まらないで、最後まで全力でいられる方法を、一緒に探します」
「……止まらない、全力」
「はい」
ツインターボは、しばらく雅也の顔を見ていた。
それから、ぱっと笑った。
「……それ、すっごいカッコいいぞ!」
◇
二人目に出会ったのは、選抜レースの翌週だった。
学園のダートコースの脇だった。
雅也は、芝のコースしかほとんど見たことがなかった。スズカは芝のウマ娘で、ダートの適性はなかった。五年間、ダートコースに足を運ぶ理由がなかった。
その日、ダートコースに行ったのは、トレーナールームの扉を叩いた十一人目の子が、ダートのウマ娘だったからだ。
「――トレーナーさん! ファル子の走り、見に来てくれたんですか☆」
コースの脇で、明るい茶色の髪をツインテールにしたウマ娘が、両手を振っていた。
スマートファルコン。
トレーナールームで、雑誌を胸に抱えて、ウマドルとして、ダートの逃げでトップを目指しています、と自己紹介した子だった。
「……はい。見に来ました」
「やった☆ じゃあ、ファル子、今から一本走りますね! しゃい☆」
スマートファルコンは、スタート位置に向かって駆けていった。
ダートのコースは、芝とはまるで違った。
砂の匂いがした。乾いた、少しだけ土っぽい、夏の陽を吸った砂の匂い。足を踏み出すと、靴の底が、柔らかく沈んだ。
スマートファルコンが、スタートを切った。
砂が、舞った。
最初の数歩で、先頭に立った。そのまま、後ろを引き離していった。
雅也は、その走りを見ていた。
芝の逃げとは、違った。スズカの大逃げは、離して、風を割って、後ろの音を消すための走りだった。スマートファルコンの逃げは、違う理由を持っているように見えた。
砂を、かぶらないための逃げだった。
ダートでは、前を走るウマ娘の蹴り上げた砂が、後ろのウマ娘の顔に飛んでくる。それを避けるには、前に出るしかない。前に出れば、砂をかぶらない。視界が開ける。自分の走りができる。
スマートファルコンは、一周を走りきって、ゴール板の前で速度を落とした。
砂埃の中で、振り返った。
両手でピースを作った。
「どうでしたか☆」
雅也は、少しだけ考えた。
「……砂を、一度もかぶってませんでしたね」
スマートファルコンの手が、止まった。
「……え」
「スタートの最初の三歩で、もう前に出てた。……後ろの子の砂が、一度もあなたの顔に届いてない」
「……」
「それが、あなたの逃げの理由ですか」
スマートファルコンは、しばらく雅也の顔を見ていた。
ピースの手を、ゆっくりと下ろした。
「……トレーナーさん、ダート、詳しいんですか?」
「……いいえ」
雅也は、正直に答えた。
「ほとんど知りません。……芝の子しか、見てこなかったので」
「……」
「だから、担当するなら、ダートのことは一から勉強します。ダートに詳しい先生にも、相談します。……俺一人では、たぶん、足りません」
スマートファルコンは、目を瞬かせた。
それから、少しだけ、困ったように笑った。
「……正直ですね、トレーナーさん」
「……よく言われます」
「ファル子、今まで、何人かのトレーナーさんに声かけたんです。……ダートなら任せて、って言ってくれる人もいました。……でも、ウマドルの話をすると、みんな、ちょっと笑うんです」
「……」
「ダートで、ウマドルって、って」
スマートファルコンの声が、ほんの少しだけ、小さくなった。
「ダートって、地味だって思われてるから。泥臭いって。……ファル子、それがずっと、ちょっとだけ気になってて」
「……」
「でも、ファル子は、ダートで一番になって、センターで歌って、ダートってこんなにキラキラしてるんだよって、みんなに見せたいんです」
スマートファルコンは、顔を上げた。
「……それ、変ですか?」
雅也は、少しだけ首を振った。
「……変じゃないです」
「……」
「勝って、センターで歌うことが目標なら、勝つ準備と、歌う準備を、両方やります。……ウイニングライブの練習なら、少しだけ手伝えます。音楽は、昔、少しやってたので」
スマートファルコンの耳が、ぴんと立った。
「……ほんとですか☆」
「本当です。……ただ、走りの準備は、ダートの先生と一緒に」
スマートファルコンは、しばらく雅也を見ていた。
それから、両手を胸の前で組んだ。
「……トレーナーさん。ファル子のこと、担当してください☆」
◇
八月の初めに、二人の担当契約が結ばれた。
ツインターボと、スマートファルコン。
雅也は、契約の日に、二人に同じことを言った。
「決めるのは、あなたたちです。俺は、選択肢を並べます」
ツインターボは、それ、雑誌に書いてあったやつだ、と目を輝かせた。
スマートファルコンは、じゃあファル子、いっぱい決めちゃいます☆、と笑った。
それから、雅也は、もう一つだけ付け足した。
「……俺の私生活のことは、たぶん、知ってると思います」
「知ってるぞ! スズカと付き合ってるんだろ! 雑誌で読んだ!」
「ターボちゃん、声大きい☆」
「……それは、仕事には関係ありません。二人とも、同じように見ます。……それだけ、言っておきます」
ツインターボは、きょとんとした。
「……当たり前だろ?」
「……」
「トレーナーは、ターボのトレーナーなんだから、ターボのこと見るに決まってるもん」
スマートファルコンが、くすくすと笑った。
「……ファル子も、そう思います☆」
雅也は、二人の顔を見た。
それから、少しだけ笑った。
「……そうですね」
窓の外で、夏の陽が、芝とダートの両方のコースを、白く照らしていた。
第十章 砂と、全力
最初の練習の日、ツインターボは、ウォーミングアップの途中で三回、全力で走りだそうとした。
「まだです」
「えー! ターボ、もう準備できてるもん!」
「身体が温まる前に全力を出すと、脚を痛めます」
「痛めないもん! ターボ、丈夫だもん!」
「……丈夫なのは知ってます。だから、長く丈夫でいてほしいんです」
ツインターボは、頬をふくらませた。
それから、しぶしぶ、軽いキャンターに戻った。三歩ごとに、少しだけ速くなりかけて、雅也と目が合うと、また落とした。
八月の午前の第二コースは、暑かった。
陽射しが、芝の上で白く跳ね返り、コースの向こうが陽炎で揺れていた。蝉が、外周の木々で、途切れなく鳴いていた。汗が、じっとしていても首筋を伝った。
雅也は、コースの脇で、ツインターボの走りを見ていた。
目と、耳で。
ツインターボの足音は、軽かった。小柄な身体の、弾むような接地。一歩ごとに、芝から跳ね返ってくるような音。スズカの足音とは、まるで違った。スズカの足音は、正確で、静かで、一定だった。ツインターボの足音は、楽しそうだった。
そして、ときどき、乱れた。
速くなりたい気持ちが、身体より先に出てしまうときに。
ウォーミングアップが終わった。
「――よし。じゃあ、一本走ってみましょう」
「やったー!」
「二千メートル。いつも通りに」
「いつも通りって、全力でいいのか!?」
「いいです。全力で」
ツインターボの目が、輝いた。
スタート位置に立った。
雅也が、手を上げた。
下ろした。
ツインターボが、飛び出した。
速かった。選抜レースのときと同じ。スタートの最初の十数歩で、身体が弾丸のように前へ出た。二百メートル。四百メートル。風を切る音が、コースの脇まで届いた。
雅也は、ストップウォッチを押さず、呼吸の拍で数えた。
速い。
速すぎる。
千メートルを過ぎたあたりで、ツインターボの足音が、少しずつ重くなりはじめた。軽く弾んでいた接地が、少しずつ、芝に沈みはじめた。
三コーナー。
四コーナー。
足音が、止まりかけた。
それでも、ツインターボは、脚を動かし続けた。前へ。前へ。重くなった脚で、それでも全力で。
ゴール板を、よろめくように駆け抜けた。
膝に手をついた。
肩で息をしていた。
それから、顔を上げた。
「……ど、どうだ! 速かっただろ!」
「……速かったです」
雅也は、コースの中へ歩いていった。
ツインターボの前に立った。
「最初の千メートルは、今まで見た中で、一番速いくらいでした」
「へへん!」
「最後の四百メートルで、脚が止まりかけてました」
「……むう」
「でも、止まらなかった」
ツインターボの耳が、ぴくりと動いた。
「脚が重くなっても、最後まで、前に出そうとしてた。……それも、見てました」
「……」
「それは、教えてできることじゃないです。……あなたの、一番の武器だと思います」
ツインターボは、しばらく雅也の顔を見ていた。
それから、少しだけ、目を逸らした。
「……みんな、最後止まるのダメって言うのに」
「止まるのは、ダメです」
「……」
「でも、止まりそうになっても止まらない気持ちは、ダメじゃない。……その気持ちを、最後まで持ったまま、脚も最後まで保つ方法を、探しましょう」
ツインターボは、汗を手の甲で拭った。
「……どうやって?」
「……一つ、試してほしいことがあります」
雅也は、コースの向こう正面を指さした。
「あそこ。向こう正面の、真ん中あたり。……そこで、一回だけ、息を吐いてください」
「息?」
「はい。大きく、一回。……全力のまま。速さは落とさなくていい。ただ、息を一回、深く吐く」
ツインターボは、きょとんとした。
「……それだけか?」
「それだけです」
「……休むのか?」
「休むんじゃないです」
雅也は、少しだけ笑った。
「次の全力のための、一息です」
「……次の、全力」
「あなたは、全力が一回しかないと思って走ってる。だから、最初に全部使ってしまう。……全力を、二回にしましょう。前半の全力と、後半の全力。そのあいだに、一回だけ、息を吐く」
ツインターボの目が、ゆっくりと見開かれた。
「……全力が、二回」
「はい」
「……それ、すっごいカッコいいぞ!」
◇
二本目。
ツインターボは、最初の千メートルを、一本目と同じくらいの速さで走った。
向こう正面の、真ん中。
雅也の耳に、ツインターボの呼吸が、一度だけ、大きく変わったのが聞こえた。
深く、長く、吐く音。
足音は、止まらなかった。速さも、ほとんど落ちなかった。
ただ、そのあとの足音が、少しだけ、軽くなった。
三コーナー。
四コーナー。
足音は、一本目より、ずっと長く保った。
最後の二百メートルで、また重くなりかけた。
けれど、ゴール板を越えるまで、止まらなかった。
ツインターボは、ゴールの先で、両手を突き上げた。
「――できたー!」
叫んだ。
「トレーナー! 全力、二回あったぞ! ほんとに二回あった!」
雅也は、コースの脇で、少しだけ笑った。
「……ありましたね」
「すごいな! 全力って、二回もあるんだな!」
「……一回目で使いきらなければ」
「ターボ、今まで知らなかったぞ!」
ツインターボは、跳ねるように雅也のところまで駆けてきた。
顔が、汗と興奮で真っ赤だった。
「もう一回! もう一回やる!」
「……今日は、ここまでです」
「えー!」
「二本、全力で走りました。……今日の分の全力は、もう使いました」
「……むう」
ツインターボは、頬をふくらませた。
それから、ふいに、ぱっと笑った。
「……じゃあ、明日の全力、取っとく!」
「……はい。取っといてください」
◇
スマートファルコンの練習は、午後だった。
ダートのコースは、午前中の陽を吸って、熱を持っていた。砂の表面が、白っぽく乾いていた。風が吹くと、細かい砂粒が、地面の上を低く流れていった。
コースの脇には、雅也のほかに、もう一人いた。
学園で長くダートのウマ娘を見てきた、年配のトレーナーだった。雅也が、担当契約の前に頭を下げて、相談役を頼んだ人だった。
「……砂の深さが、日によって違うんです」
年配のトレーナーは、コースの砂を、靴の爪先で少しだけ掘って見せた。
「今日みたいに乾いてる日は、表面が軽くて、脚が取られやすい。雨の翌日は、締まって、走りやすくなる。……逃げの子は、スタートの一歩目で、それを感じ取らないといけない」
「……一歩目で」
「ええ。芝より、ずっと一歩目が大事です。出遅れたら、前の子の砂をかぶる。かぶったら、視界も呼吸も乱れる。……ダートの逃げは、芝の逃げより、最初の数歩に全部がかかってる」
雅也は、それを手帳に書きとめた。
知らないことばかりだった。
五年間、芝の音だけを聴いてきた。ダートの砂の音は、芝とはまるで違った。低くて、ざらついていて、足が沈む瞬間に、かすかな摩擦の音がした。
「……トレーナーさーん☆」
スタート位置で、スマートファルコンが手を振っていた。
「準備できましたー☆」
「……お願いします」
スマートファルコンが、スタートを切った。
砂が、舞った。
最初の三歩。
雅也は、その音を聴いた。
一歩目で、砂に脚を取られかけた。わずかに。二歩目で、立て直した。三歩目で、前に出た。
それから、後ろを引き離していった。
スマートファルコンは、一周を走りきって、戻ってきた。
「どうでしたか☆」
「……一歩目で、少しだけ、脚が沈みましたね」
スマートファルコンは、目を瞬かせた。
「……え、分かるんですか?」
「……音が、少しだけ違いました」
「……」
「今日は砂が乾いていて、表面が軽いそうです。……一歩目の踏み込みを、ほんの少しだけ、浅くしてみてください。深く踏むと、砂に取られるので」
スマートファルコンは、年配のトレーナーのほうを見た。
年配のトレーナーは、黙って頷いた。
「……やってみます☆」
二本目。
一歩目の音が、変わった。
軽く、浅く。砂の表面を、なぞるように。
二歩目。三歩目。
スマートファルコンは、一本目より、ほんのわずかに早く、先頭に立った。
戻ってきたとき、スマートファルコンの顔は、少しだけ驚いていた。
「……今の、すごく走りやすかったです」
「……よかった」
「トレーナーさん、ダート、知らないって言ってたのに」
「……知らないです。今、教わりました」
雅也は、年配のトレーナーを見た。
「……俺は、音が違うと言っただけです。どうすればいいかは、この方に教わりました」
年配のトレーナーは、少しだけ苦笑した。
「……そういうところだけは、噂通りですね、雅也さん」
スマートファルコンは、二人の顔を見比べた。
それから、にこっと笑った。
「……ファル子、いいトレーナーさんに担当してもらえたみたいです☆」
◇
練習のあと、コースの脇のベンチに、スズカが座っていた。
講義の帰りだった。雅也が、今日から担当の練習が始まると言っていたのを覚えていて、少しだけ見に来た、と言った。
ツインターボが、真っ先に気づいた。
「――あっ! スズカだ!」
午前の練習のあと、寮で昼食を取って、また戻ってきていたらしかった。スマートファルコンの練習を、フェンスの外から見ていたのだ。
ツインターボは、ベンチまで駆けてきた。
「スズカ! ターボな、今日、全力が二回あったんだぞ!」
「……二回」
「そう! トレーナーが教えてくれた! 向こう正面で、息を一回吐くんだ! そしたら、全力がもう一回出てくる!」
スズカは、少しだけ目を瞬かせた。
それから、雅也のほうを見た。
雅也は、少しだけ首の後ろに手をやっていた。
「……それは、あなたが見つけたのね」
スズカは、ツインターボのほうへ向き直って言った。
「え? トレーナーが教えてくれたんだぞ?」
「……息を吐く場所は、教えてもらったかもしれないけど」
スズカは、静かに言った。
「……全力が二回あったのは、あなたが、最後まで止まらなかったから。……それは、あなたの脚が見つけたことよ」
ツインターボは、きょとんとした。
それから、ゆっくりと、胸を張った。
「……そうだぞ! ターボが見つけたんだ!」
「……ええ」
「……なあ、スズカ」
ツインターボは、ベンチの前にしゃがみこんだ。
「スズカは、どうやって最後まで速かったんだ? 大逃げで、最後まで」
スズカは、少しだけ考えた。
フェンスの向こうの、ダートのコースを見た。
「……私は、最後まで速かったわけでは、ないと思うわ」
「え」
「……後ろが、来なかっただけ。……最初に、離していたから」
ツインターボは、目を丸くした。
「……それ、ずるくないか?」
「……ずるいかもしれないわね」
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
「……でも、それは、私の走りなの。……あなたの走りは、あなたのトレーナーさんと、一緒に探して。……私の真似をしたら、あなたの全力が、一回に戻ってしまうかもしれないから」
ツインターボは、しばらくスズカの顔を見ていた。
それから、にかっと笑った。
「……分かった! ターボは、ターボの全力を二回やる!」
「……ええ」
スマートファルコンが、少し遅れてベンチのそばに来た。
スズカを見て、少しだけ緊張した顔をした。
「……スズカさん。同じ栗東寮の、スマートファルコンです。……あの、雑誌、読みました☆」
「……ありがとう」
「あの、一つだけ、訊いてもいいですか」
「……ええ」
「……スズカさん、ウイニングライブのセンターって、どんな気持ちでしたか?」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
思ってもいなかった質問だった。
「……少し、照れていたわ」
「……照れて」
「……走るのは好きだったけど、歌うのは、まだ慣れなくて。……センターに立つと、みんなが私を見ているから」
「……」
「……でも、嫌いでは、なかったわ。……みんなの声が、レースのときと、少し違って聞こえたから」
スマートファルコンの目が、きらきらと輝いた。
「……違って?」
「……レースのときは、歓声が、後ろに遠ざかっていくの。……ライブのときは、前から、来るの」
スズカは、少しだけ考えてから、付け足した。
「……風みたいに」
スマートファルコンは、両手を胸の前で組んだ。
「……ファル子、それ、絶対聞きたいです。前から来る歓声」
「……聞けるわ。あなたなら」
「……しゃい☆」
スマートファルコンは、小さく拳を握った。
雅也は、少し離れたところで、それを見ていた。
何も言わなかった。
スズカは、二人に、自分の走りを押しつけなかった。答えを、渡さなかった。ただ、聞かれたことに、自分の言葉で答えて、それから、そっと、二人のトレーナーのほうへ返した。
五年間、自分がスズカにしてきたことを、スズカは、何も言わずに、同じようにしていた。
雅也は、首の後ろに手をやった。
少しだけ、口の端が上がっていた。
第十一章 併走
スズカが引退後に初めて走ったのは、引退から四か月が経った二月のことだった。
学園の医療スタッフと、あの秋に彼女を診た専門医の両方に確認を取ってからだった。走ること自体に、医学的な問題はない。ただし、競技の強度では走らない。距離も、頻度も、本人の感覚と相談しながら、少しずつ。痛みや違和感があれば、その日はすぐにやめる。月に一度、医療スタッフのところで身体を確かめる。
決めたのは、スズカだった。
走りたい、と言ったとき、雅也は、選択肢を二つ並べなかった。代わりに、一つだけ訊いた。
――誰と、どのくらい走りたい?
スズカは、少しだけ考えて、答えた。
――ときどき、誰かと。……短く。
それから半年、スズカは、月に二度か三度、誰かと短く走った。スペシャルウィークの軽い練習に付き合ったこともあった。後輩に頼まれて、スタートの最初の数歩だけ一緒に走ったこともあった。
どれも、短かった。
どれも、勝つための走りではなかった。
◇
八月の終わりの夕方、ツインターボが、トレーナールームの扉を勢いよく開けた。
「トレーナー! ターボ、スズカと走りたい!」
雅也は、書類から顔を上げた。
窓際の椅子で、スズカが、講義のノートを読んでいた。
ツインターボは、そのスズカのほうへ、まっすぐに向き直った。
「スズカ! ターボと、きょうそうしてくれ!」
「……競争は、しないわ」
「えー!」
「……私は、もう、競争はしないの」
ツインターボは、頬をふくらませた。
それから、少しだけ、声のトーンを落とした。
「……じゃあ、一緒に走るのは?」
スズカは、ノートから顔を上げた。
ツインターボの顔を見た。
幼い顔。けれど、その目は、真剣だった。
「……ターボ、見てみたいんだ。スズカの、最初の二百メートル。……雑誌で読んだけど、読んだだけじゃ、分かんないから」
「……」
「隣で、見てみたい」
スズカは、雅也のほうを見た。
雅也は、何も言わなかった。
君が決めていい、という目だった。
スズカは、少しだけ考えた。
「……短く、なら」
「ほんとか!」
「……六百メートルだけ。……全力では、走らないわ」
「うん!」
「……それから、あなたのトレーナーさんが、いいと言ったら」
ツインターボは、ばっと雅也のほうを振り返った。
雅也は、少しだけ考えた。
ツインターボの、今日の練習量。脚の張り。睡眠。食事。午前中の走りの音。
「……今日の練習で、二回目の全力は、まだ使ってませんね」
「使ってないぞ! 取っといた!」
「……じゃあ、明日の朝、ウォーミングアップをちゃんとしてから。六百メートル、一本だけ」
「やったー!」
ツインターボは、その場で飛び跳ねた。
スズカは、ノートを閉じた。
窓の外で、夏の終わりの夕陽が、コースを橙色に染めていた。
◇
翌朝の第二コースは、夏の終わりの、少しだけ涼しい空気の中にあった。
夜明けから一時間ほど経って、陽が低く射しこみ、芝の露が、光を受けて細かく光っていた。蝉の声は、盛りを過ぎて、ところどころに間ができていた。風が、ときどき、コースを横切った。
スズカは、ジャージを着ていた。
久しぶりに、走るための服だった。
ウォーミングアップを、ゆっくりとした。脚を伸ばし、関節を回し、軽いキャンターで身体を温めた。医療スタッフの先生に言われた通りに。それから、自分の身体の声を、一つずつ確かめた。左の前脚。手根部。着地の音。
正常だった。
少なくとも、自分の耳には。
スズカは、コースの脇に立っている雅也のほうを見た。
雅也は、腕を組んで、こちらを見ていた。目と、耳で。
雅也が、小さく頷いた。
彼の耳にも、正常に聞こえているということだった。
コースの脇に、西澤千帆もいた。手にストップウォッチを持っていたが、押すつもりはなさそうだった。スマートファルコンも、午後の練習の前に、見学に来ていた。フェンスに両手をかけて、目を輝かせていた。
ツインターボが、スタート位置で跳ねていた。
「スズカ! 早く早く!」
「……今、行くわ」
スズカは、ツインターボの隣に立った。
スタート位置。
足もとの芝を見た。
何度、ここに立っただろう。現役のころ、何百回も。ゲートの中で。この線の上で。前には、誰もいない。いつも、誰もいなかった。
隣に、ツインターボがいた。
小さな身体を、低く構えて。前だけを見て。全力で飛び出す準備をして。
「……ターボさん」
「なんだ!」
「……私のことは、見ないで」
「え」
「……隣を見ると、あなたのペースが、私のペースになってしまうから。……前だけ、見て」
ツインターボは、少しだけ目を見開いた。
それから、きゅっと唇を結んだ。
「……分かった!」
雅也が、手を上げた。
下ろした。
◇
スズカの身体が、前へ出た。
最初の一歩。
芝が、足の裏で、柔らかく沈んで、それから、跳ね返ってきた。
二歩目。
身体の重心が、前へ、前へ、滑るように移っていった。
三歩目。四歩目。五歩目。
風が、来た。
正面から。
身体の前面いっぱいに、朝の空気の壁が押し寄せてきた。それを、割った。
久しぶりだった。
立っているときに頬で受ける風とは、違った。コーナーの入りで、正面から顔に当たる風とも、違った。自分の速さで、自分で作る風。自分の身体で、割っていく風。
隣で、ツインターボの足音が鳴っていた。
軽く、弾むように、全力で。
速かった。本当に速かった。スタートの十数歩で、ツインターボは、全身を弾丸のようにして前へ出ていた。
スズカは、その足音を聴いていた。
聴きながら、自分の足音を聴いていた。
二百メートル。
ツインターボの足音が、ほんの少しだけ、後ろにずれた。
スズカは、それを聴いた。
離そうとは、していなかった。全力でも、なかった。ただ、自分の身体が一番気持ちよく動く速さで、走っていただけだった。
それでも、ツインターボの足音は、少しずつ、後ろへずれていった。
三百メートル。
ツインターボの呼吸が、大きく変わった。深く、長く、吐く音。
二回目の全力のための、一息。
足音が、ほんの少しだけ、軽くなった。
追いついてきた。
スズカは、それを聴いて、少しだけ、目元が緩んだ。
四百メートル。
ツインターボの足音が、また、少しずつ後ろへずれはじめた。
けれど、止まらなかった。
全力で。最後まで。
五百メートル。
六百メートル。
スズカは、ゆっくりと速度を落とした。
風が、弱まっていった。
正面から来ていた空気の壁が、少しずつ、ただの風に戻っていった。
立ち止まった。
息が、上がっていた。けれど、苦しくはなかった。身体の中で、何かが、静かに温まっていた。
左の前脚。
着地の音。
正常だった。
◇
少し遅れて、ツインターボが、スズカの横で止まった。
膝に手をついた。
肩で息をしていた。
汗が、青い髪から滴っていた。
「……は、はあ、……は」
「……大丈夫?」
「……だ、大丈夫、だぞ」
ツインターボは、顔を上げた。
目が、まん丸だった。
「……スズカ」
「……ええ」
「……今の、全力じゃ、なかったのか?」
「……全力では、ないわ」
「……」
「……一番、気持ちよく走れる速さで、走っただけ」
ツインターボは、しばらく口を開けたまま、スズカの顔を見ていた。
それから、ぺたんと、芝の上に座りこんだ。
「……すっげー」
「……」
「スズカ、すっげー……」
ツインターボは、芝の上に仰向けに倒れた。
空を見上げた。
「……ターボ、全力二回使ったのに、全然、追いつけなかった」
「……」
「二百メートルで、もう、背中しか見えなかった」
ツインターボは、両手を空に向かって伸ばした。
「……でも、見えた」
「……何が」
「スズカの背中の、向こう」
ツインターボは、空に伸ばした手を、ぎゅっと握った。
「……ターボも、あそこ、行きたい」
スズカは、芝の上に仰向けになったツインターボを見下ろしていた。
それから、少しだけ、しゃがんだ。
「……行けるわ」
「……」
「……でも、私と同じ道じゃなくて、いいの。……あなたの全力は、二回あるのでしょう」
「……うん」
「……私は、一回しか、なかったわ」
ツインターボは、目をぱちぱちさせた。
「……そうなのか?」
「……ええ。……最初に、全部使って、離していたから」
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
「……あなたは、二回ある。……それは、私にはなかったものよ」
ツインターボは、しばらくスズカの顔を見ていた。
それから、がばっと起き上がった。
「……トレーナー!」
コースの脇に向かって叫んだ。
「ターボ、全力三回にする!」
「……三回は、まだ早いです」
雅也の声が、返ってきた。
「えー!」
「二回を、ちゃんと使えるようになってから」
「むう!」
フェンスのところで、スマートファルコンが、くすくすと笑っていた。
西澤千帆は、ストップウォッチを押さないまま、じっとスズカのほうを見ていた。
それから、雅也のほうを見た。
「……雅也さん」
「……うん」
「今、息、止めてましたよ」
雅也は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと、息を吐いた。
「……止めてた?」
「止めてました。スタートから、スズカさんが止まるまで、ずっと」
「……」
「引退しても、止めるんですね」
雅也は、何も言えなかった。
首の後ろに手をやった。
コースの上で、スズカが、立ち上がって、こちらを見ていた。
目が合った。
スズカは、少しだけ、首をかしげた。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
◇
その週の終わりの夜明け、スズカは、もう一度だけ走った。
今度は、雅也と。
いつものように、夜明け前のコースに立って、最初の風を待った。風が来て、それを確かめた。
それから、スズカが言った。
「……雅也さん」
「うん」
「……一緒に、走りませんか」
雅也は、目を瞬かせた。
「……俺が?」
「……はい」
「……俺、走るの遅いよ。スズカが同じコースを走ると、たぶん……」
「……十二分半、ですか」
雅也は、口を閉じた。
五年前、契約して数週間後に、初めて言った冗談だった。今日のタイム、俺が同じコースを走ると、たぶん十二分半かかる。スズカは、そんなに遅いんですか、と訊いた。走ったことがないので、想像です、と彼は答えた。スズカは、少し遅れて、ふふ、と笑った。
「……覚えてたんだ」
「……はい」
「……あれ、想像だって言っただろ」
「……だから、確かめてみたいです」
スズカは、コースの内ラチの切れ目を、指さした。
「……一周だけ。……雅也さんの速さで」
雅也は、しばらくスズカの顔を見ていた。
それから、コートを脱いだ。
「……笑うなよ」
「……笑いません」
「……たぶん笑う」
「……たぶん、笑いません」
二人で、コースに入った。
雅也が、走りだした。
遅かった。
ウマ娘の速さとは、比べものにならなかった。人間の、三十歳の、毎朝コースには来るけれど自分では走らない男の、ぎこちないジョギングだった。足音は重く、少しだけ不規則で、ときどき、芝の上で靴底が滑る音がした。
スズカは、その隣を走った。
雅也の速さで。
ゆっくりと。一歩ずつ。
自分の歩幅を、隣の人の歩幅に合わせた。自分の呼吸を、隣の人の呼吸に合わせた。
不思議だった。
こんなに遅く走ったのは、生まれて初めてだった。
風が、ほとんど来なかった。正面から来る空気の壁は、なかった。ただ、夜明けの空気が、ゆっくりと頬を撫でていくだけだった。
代わりに、隣の足音が、聞こえた。
重くて、不規則で、少しずつ荒くなっていく呼吸。
一コーナー。
二コーナー。
向こう正面で、雅也の足音が、少しずつ重くなった。
スズカは、それを聴いていた。
聴きながら、何も言わなかった。
隣で、同じ速さで、走っていた。
三コーナー。
スズカは、三コーナーの入りで、いつもの位置を通った。
隣の雅也は、少しだけ外を回った。
四コーナー。
最後の直線。
雅也の呼吸が、ひどく荒くなっていた。けれど、止まらなかった。
ゴール板の前で、雅也は、ようやく足を止めた。
膝に手をついた。
肩で、大きく息をしていた。
スズカは、隣で止まった。
息は、ほとんど上がっていなかった。
「……っ、……はあ、……はあ」
「……大丈夫ですか」
「……だ、大丈夫、……じゃない」
雅也は、膝に手をついたまま、顔を上げた。
汗が、額から顎へ流れていた。
「……何分、だった」
「……測っていません」
「……十二分半、より、……遅かった気がする」
「……そうかもしれません」
「……想像より、遅かった」
スズカは、雅也の顔を見た。
それから、口元に手を当てた。
肩が、小さく震えた。
「……笑わないって、言ったよな」
「……たぶん、って言いました」
「……」
「……ふふ」
スズカは、とうとう、声を出して笑った。
夜明けのコースに、その笑い声が、小さく響いた。
雅也は、膝に手をついたまま、それを見ていた。
それから、つられるように、笑った。
息が切れていて、ほとんど声にならなかった。
東の空が、白くなっていた。
最初の風が、コースを渡ってきた。
二人の、汗ばんだ頬を、同じように撫でていった。
「……雅也さん」
「……うん」
「……一番、遅い一周でした」
「……悪かったな」
「……いいえ」
スズカは、コースを振り返った。
今走った一周を。
一番遅くて、一番風が来なくて、一番、隣の足音がよく聞こえた一周を。
「……一番、長く、隣の音が聞こえた一周でした」
雅也は、何も言わなかった。
まだ、息が整っていなかった。
それとも、息を止めていたのかもしれなかった。
第十二章 東向きの窓
十月の半ばの夜、スズカは、雅也の部屋にいた。
学園から歩いて十五分ほどの、古いアパートの二階。部屋は二つ。台所と、居間と、寝室。居間の壁の一面が本棚で、その半分が、ウマ娘の身体とトレーニングについての本だった。残りの半分は、楽譜と、古い小説と、何年分かのレースの記録集。窓は西向きで、昼過ぎから夕方まで、よく陽が入った。今は、窓の外に、夜の住宅街の灯りがまばらに見えていた。
夕食は、二人で作った。
雅也が切って、スズカが煮た。にんじんと、玉ねぎと、鶏肉の、簡単なスープ。スズカが、学園の食堂で食べて気に入ったものを、見よう見まねで作ってみたものだった。少しだけ塩が足りなかった。雅也は、何も言わずに全部食べた。
食器を洗って、居間のソファに並んで座った。
テーブルの上に、湯気の立つマグカップが二つあった。
ホットミルクに、蜂蜜をひとさじ。
二つとも、スズカが作った。
「……甘い」
「……甘いのは、嫌いですか」
「嫌いじゃない。……スズカがいつも飲んでるのは、こういう味なんだなと思って」
「……はい」
雅也は、もう一口飲んだ。
「……五年間、毎晩これ飲んでたのか」
「……はい。……休んでいたころは、二杯」
「知ってる」
「……知っていたんですか」
「うん。……何も言わなかったけど」
スズカは、マグカップを両手で包んだまま、少しだけ雅也のほうを見た。
「……どうして、何も言わなかったんですか」
「……言ったら、一杯に戻そうとするだろ」
「……」
「二杯飲みたいなら、二杯飲めばいいと思った」
スズカは、何も言わなかった。
ただ、マグカップの縁に、そっと唇をつけた。
◇
しばらく、二人とも黙っていた。
窓の外で、遠くの電車の音がした。部屋の中は、暖房がまだ入っていなくて、少しだけ肌寒かった。スズカは、膝の上にブランケットをかけていた。雅也の部屋に来るようになってから、いつの間にか、ソファの端に置かれるようになったブランケットだった。
「……もうすぐ、一年ですね」
スズカが、言った。
「……引退して」
「……うん」
「……雅也さんと、一緒にいるようになって」
「……うん」
雅也は、マグカップをテーブルに置いた。
スズカは、窓の外を見ていた。
「……この一年、いろいろなことがありました」
「……うん」
「……取材を受けて。写真を撮ってもらって。……講義で、あの先生の話を聞いて。……ターボさんと走って。……雅也さんと、一番遅い一周を走りました」
「……あれは、忘れてくれ」
「……忘れません」
「……」
「……それから」
スズカは、少しだけ言葉を探した。
「……毎朝、コースに立ちました。……一日も、休まずに」
「……うん」
「……雅也さんも」
「……うん」
スズカは、マグカップを膝の上に下ろした。
「……それが、一番、よかったです」
雅也は、何も言えなかった。
スズカの横顔を見ていた。
部屋の明かりが、その輪郭を、柔らかく照らしていた。耳が、少しだけ、こちらを向いていた。
◇
「……一つ、考えていることがあります」
しばらくして、スズカが言った。
「……うん」
「……住むところのことです」
雅也の手が、止まった。
スズカは、窓の外を見たまま、ゆっくりと続けた。
「……寮には、課程にいるあいだは、いられます。……でも、課程が終わったら、たぶん、出ることになります」
「……うん」
「……そのときのことを、少しだけ、考えるようになりました」
スズカは、マグカップを両手で包み直した。
「……一人で暮らすのか。……それとも」
言葉が、そこで止まった。
部屋の中が、静かになった。
窓の外の電車の音が、遠ざかっていった。
雅也は、しばらく何も言わなかった。
言うべきことが、あった。
ずっと、あった。
いつからだろう、と思った。引退の翌朝か。回避会見の控室か。それとも、もっと前か。自分でも、分からなかった。分からないまま、それは、胸のどこかにずっとあった。言おうとするたびに、言葉が間に合わなかった。いつもそうだった。感情の本体は、いつも、遅れて届く。
今、言えば、それは、間に合うのかもしれなかった。
雅也は、口を開きかけた。
それから、閉じた。
今じゃない、と思った。
今、ここで言ったら、それは、スズカが先に切り出した話への、返事になってしまう。スズカが考えていることの、答えを、自分が先に決めてしまうことになる。
それは、違う気がした。
「……スズカは、どう考えてる?」
代わりに、そう訊いた。
スズカは、少しだけ目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと、考えはじめた。
◇
「……朝が、早いです。私も、雅也さんも」
「……うん」
「……夜明け前に、コースに行きます。……だから、コースまで、歩いて行けるところがいいです」
「……うん」
「……雅也さんは、夜、遅くまで記録を読んでいます」
「……ばれてる」
「……ばれています。……ターボさんとファルコンさんの記録。……二人分になってから、もっと遅くなりました」
「……」
「……私は、夜、早く寝ます。……講義の予習をして、ホットミルクを飲んで、寝ます」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……一緒に暮らしたら、雅也さんが夜遅くまで起きている音が、聞こえると思います」
「……ごめん」
「……いいえ。……たぶん、気になりません。……走ることを考えていると、たまに、何も聞いていないので」
「……それは、便利だな」
「……はい」
スズカの口元が、少しだけ緩んだ。
それから、また、真面目な声になった。
「……でも、一人の時間も、ほしいです」
「……うん」
「……私は、ずっと、一人で走ってきました。……前に誰もいない景色が、好きでした。……今も、好きです」
「……うん」
「……だから、ときどき、一人になれる場所が、ほしいです。……雅也さんと一緒にいるのが、嫌なのではなくて」
「……分かってる」
雅也は、少しだけ笑った。
「俺も、ほしい。……記録を読んでるとき、一人じゃないと、集中できない」
「……はい」
「部屋が、二つ要るな。最低でも」
「……はい」
「台所は、二人で立てるくらいの広さ」
「……はい。……今日、少し狭かったです」
「……ぶつかったな、二回」
「……三回です」
「……三回か」
スズカは、窓のほうを見た。
西向きの窓。夜の住宅街の灯り。
「……それから」
「……うん」
「……窓は、東向きがいいです」
雅也は、スズカの横顔を見た。
「……東向き」
「……はい」
スズカは、窓の外を見たまま、言った。
「……朝、起きたときに、最初の光が入ってくるほうが。……夜明けの色が、見えるので」
「……」
「……コースに行く前に、今日の風が、どっちから来るか、窓を開けて、確かめたいです」
雅也は、長いあいだ、何も言わなかった。
スズカの横顔を見ていた。
窓の外の灯りを見ている、静かな横顔。耳が、少しだけ、窓のほうを向いていた。
その耳が、ゆっくりと、こちらへ向き直った。
「……雅也さんは、何がほしいですか」
雅也は、少しだけ考えた。
それから、言った。
「……ピアノ」
スズカは、目を瞬かせた。
「……ピアノ、ですか」
「……うん。……実家にある古いやつ。いつか、置ける部屋がいいなと思ってた。……弾くかどうかは、分からないけど」
「……」
「弾かなくても、あるだけでいい。……蓋を開けたら、鳴るものが、部屋にあるって思うだけで」
スズカの目元が、ゆっくりと緩んだ。
「……聴いてみたいです」
「……下手だよ」
「……十二分半よりは、上手だと思います」
「……それ、もう言うな」
◇
話しているあいだに、夜が更けていった。
マグカップのホットミルクは、すっかり冷めていた。
スズカは、ソファの背にもたれて、窓の外を見ていた。雅也は、その隣で、同じようにもたれていた。
二人とも、少しずつ、言葉が少なくなっていった。
決まったことは、何もなかった。
いつ、とは、どちらも言わなかった。どこに、とも。ただ、もしいつか、と、仮定の形で、少しずつ、少しずつ、並べていっただけだった。コースまで歩いて行ける場所。部屋が二つ以上。二人で立てる台所。東向きの窓。ピアノを置ける部屋。
全部、仮定だった。
けれど、並べていくうちに、それは、少しずつ、形を持ちはじめていた。
見たことのない部屋の、見たことのない窓から、見たことのない夜明けの光が射しこんでくる。
スズカは、それを想像していた。
想像しながら、身体が、少しずつ、緩んでいった。
◇
雅也がそれに気づいたのは、スズカが、ソファの上で膝を抱え直したときだった。
左の足首に、柔らかいものが触れていた。
見下ろすと、スズカの尻尾が、ブランケットの端から出て、雅也の左の足首に、ゆるく巻きついていた。
一巻き。
六月の雨の日と、同じだった。
締めつけるのではなく、そこにあることを確かめるように、軽く。
スズカは、窓の外を見ていた。
気づいていなかった。
雅也は、動かなかった。
足を引くことも、手を伸ばすことも、しなかった。
尻尾には、触れない。
ただ、足首の、柔らかい重さを感じていた。
窓の外で、最終の電車が通り過ぎていく音がした。
「……雅也さん」
「……うん」
「……今日の話は、今日決めなくても、いいですか」
「……うん」
「……いつか、のことなので」
「……うん。いつかでいい」
「……急ぎたくないんです」
スズカは、窓の外を見たまま、言った。
「……休んでいたときに、覚えました。……急がないと、続きが、見えることがある、と」
「……」
「……だから、急がないで考えたいです。……雅也さんと、一緒に」
雅也は、足首の柔らかい重さを感じながら、言った。
「……うん。一緒に考えよう」
「……はい」
「……急がないで」
「……はい」
スズカは、少しだけ、身じろぎした。
それから、自分の尻尾がどこにあるかに、気づいた。
一瞬、固まった。
耳が、ぴくりと後ろへ寝た。
スズカは、雅也のほうを見た。
雅也は、窓の外を見ていた。
何も言わなかった。
スズカは、少しだけ迷った。
それから、尻尾を、ほどかなかった。
そのまま、また、窓の外に目を戻した。
耳の先が、少しだけ赤かった。
雅也は、何も言わなかった。
ただ、口の端が、ほんの少しだけ、上がっていた。
窓の外の夜は、深かった。
東向きではない窓の向こうで、夜明けは、まだずっと遠かった。
終章 続きの景色
十月の終わりの、夜明け前だった。
引退から、ちょうど一年が経っていた。
スズカは、いつものように、内ラチの外側に立っていた。薄手のコートの襟を、少しだけ立てていた。秋の終わりの空気は冷たく、吐く息が、うっすらと白かった。内ラチの向こうに、朝靄が低く溜まっていた。芝の先の露が、東の空のわずかな光を、細かく拾っていた。
一年前の今日も、ここに立っていた。
同じ時間に。同じ場所に。
あの日、スズカは、初めて、トレーナーさん、ではない呼び方をした。それから、あのときの続きです、と言った。これからも、一緒にいてください、と。
隣に、足音が来た。
石畳の上ではなく、芝の上の足音。少しだけ重くて、ときどき不規則な。
「……おはよう」
「……おはようございます、雅也さん」
雅也は、スズカの隣に立った。
腕一本分の隙間を空けて。
いつもの距離だった。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
東の空が、少しずつ、白くほどけていった。
◇
スズカは、コートのポケットから、一枚の写真を取り出した。
夕方の並木道。斑の光と影。
花びらを指先に乗せて、隣を見上げて笑っている自分。困ったように、けれど嬉しそうに笑っている、隣の人。
⑦。
誰の目にも触れなかった一枚。
あの雨の日に受け取ってから、スズカは、それを講義のノートのあいだに挟んで持ち歩いていた。誰にも見せなかった。ときどき、講義の合間に、そっと開いて見た。
「……持ってきたのか」
「……はい。……今日は、見たかったので」
雅也は、スズカの手元の写真を見た。
薄明かりの中で、写真の色は、まだほとんど見えなかった。輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいた。
「……もう少し明るくならないと、見えないな」
「……はい。……待ちます」
スズカは、写真を胸の前で持ったまま、東の空を見た。
待つことは、得意になっていた。
一年前の自分なら、たぶん、待てなかった。走ることばかり考えていて、走らない時間を、どうやって過ごせばいいか分からなかった。休養していた七か月で、少しだけ覚えた。この一年で、もう少しだけ覚えた。
風が来るのを待つこと。
夜明けを待つこと。
写真が見えるくらいに明るくなるのを、待つこと。
隣の人と一緒に。
◇
「……昨日、ターボさんが、トレーナールームに来ました」
スズカが、言った。
「……うん。聞いた」
「……来月のレース、全力を二回、使いきるそうです」
「……本人はそう言ってる」
「……ファルコンさんは、ダートの重賞で、センターを取るそうです」
「……それも、本人はそう言ってる」
「……雅也さんは、どう思いますか」
雅也は、少しだけ考えた。
「……二人とも、たぶん、自分で決めたことをやる」
「……」
「俺は、それを見てる。……音で」
スズカは、少しだけ目元を緩めた。
「……息を、止めないでくださいね」
「……止めてるらしい」
「……西澤さんに、また言われますよ」
「……言われると思う」
スズカは、声を出さずに、少しだけ肩を揺らした。
「……スペちゃんも、来週、レースです」
「……うん」
「……私、スタンドで見ます。……人の多い場所は、苦手ですけど」
「……うん」
「……スペちゃんが、私のときに、ずっと見ていてくれたので」
雅也は、何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
◇
東の空が、白くなった。
朝靄が、少しずつ薄くなっていった。内ラチの白い柵が、靄の中から、ゆっくりと形を現した。
スズカは、手元の写真を見た。
色が、見えるようになっていた。
若葉の緑。斑の光。石畳の灰色。自分の髪の色。隣の人の、コートの黒。
二人の、笑顔。
スズカは、それを、長いあいだ見ていた。
「……雅也さん」
「……うん」
「……取材の最後に、乙名史さんに訊かれました。……今、どんな景色を見ていますか、と」
「……うん。聞いてた」
「……撮影の日に、答えました。……走らなくても、景色はあった。……今は、隣に、足音がある、と」
「……うん」
「……あれから、半年、経ちました」
スズカは、写真から目を上げた。
東の空を見た。
白く、ほどけていく空。
「……今日、もう一度、答えてもいいですか」
雅也は、スズカの横顔を見た。
「……うん。聞く」
スズカは、少しだけ、息を吸った。
スタートの前と、同じように。
深く、一度だけ。
「……先頭の景色は、ずっと、誰もいない景色でした」
静かな声だった。
「……前に誰もいなくて、後ろの音が消えて、自分の足音と、呼吸と、風の音だけになる。……その景色が、好きでした。……今も、好きです」
「……うん」
「……一年前、走るのをやめました。……走らない私にも、景色はあるのか、分からなかったです」
「……」
「……でも、ありました」
スズカは、手元の写真を見た。
「……三コーナーの入りに立ったら、風が来ました。……講義室の窓から、誰かの足音が聞こえました。……後輩の子の、呼吸の乱れが聞こえました。……ターボさんの、二回目の全力が、隣で鳴りました」
「……」
「……雅也さんの、一番遅い一周の足音が、聞こえました」
雅也は、何も言わなかった。
「……走っていたころの景色は、前にありました。……今の景色は、隣にあります」
スズカは、少しだけ首をかしげた。
「……それから、これから見たい景色は」
スズカは、東の空を見た。
夜明けの色が、雲の縁を、薄い桃色に染めはじめていた。
「……東向きの窓から、見たいです」
雅也の息が、止まった。
「……朝、起きて、窓を開けて。……今日の風が、どっちから来るか、確かめて。……それから、二人で、コースに歩いて来て」
「……」
「……ここに、立ちたいです。……これからも」
スズカは、雅也のほうを見た。
「……いつか、の話です。……急いでは、いません」
「……」
「……でも、それが、私の、これから見たい景色です」
それから、少しだけ、間を置いた。
「……えっと。……その、以上です」
◇
雅也は、長いあいだ、何も言わなかった。
スズカの顔を見ていた。
夜明けの光が、その横顔を、少しずつ照らしはじめていた。耳が、まっすぐに、こちらを向いていた。走ることを考えていると、何も聞いていない耳。その耳が、今は、雅也の次の言葉を、聞こうとする角度にあった。
言うべきことが、あった。
ずっと、あった。
喉のところまで、来ていた。
けれど、雅也は、それを、もう一度だけ、飲みこんだ。
今じゃない。
スズカは、いつかの話だと言った。急いではいない、と言った。自分の見たい景色を、自分の言葉で、置いただけだった。答えを求めてはいなかった。
だから、今は、答えではなく、別のことを言おうと思った。
「……見たいな」
雅也は、言った。
「……俺も。その景色」
スズカの目元が、ゆっくりと緩んだ。
「……はい」
「……急がないで」
「……はい」
「……一緒に」
「……はい」
それだけだった。
スズカは、少し遅れて、はっきりと笑った。
写真の中の自分と、同じ顔で。
そのとき、最初の風が来た。
コースの向こうから。東から。
朝靄を払いながら、芝の先をいっせいに傾けながら、二人のところまで渡ってきた。
スズカの髪が、風に流れた。
手元の写真が、指先で、かすかに震えた。
スズカは、写真を、胸の前でそっと押さえた。
耳が、風のほうへ向いた。
「……来ました」
「……うん」
「……今日は、東からです」
「……うん。分かる」
「……分かるんですか」
「……今日は、分かった」
スズカは、雅也の顔を見た。
雅也は、東の空を見ていた。
夜明けの光の中で、その横顔は、少しだけ、照れているように見えた。
スズカは、何も言わなかった。
ただ、腕一本分の隙間を、ほんの少しだけ、詰めた。
尻尾の先が、雅也のコートの裾に、そっと触れた。
巻きつけは、しなかった。
ただ、触れていた。
今度は、自分で、分かっていた。
雅也は、動かなかった。
何も言わなかった。
二人は、そのまま、並んで立っていた。
夜明けのコース。誰も走っていない芝。東から来る風。
前には、誰もいなかった。
隣には、足音があった。
スズカは、目を閉じた。
風の音を、聴いていた。
隣の呼吸を、聴いていた。
それから、自分の心臓の音を。
走っていないのに、少しだけ、速く鳴っていた。
続きが、見たい、と思った。
この景色の、続きが