第一章 六時の玄関
目を覚ましたとき、部屋はまだ夜の色をしていた。カーテンの合わせ目から差しこんでいるのは光ではなく、光になる前の、薄く水で溶いたような灰青の気配だけで、天井の隅にはそれすら届いていない。暖房のタイマーは切れていた。十二月の半ばの、夜明け前の空気というものは、音もなく床を這って、布団から出ている耳の先や鼻の頭から順番に温度を奪っていく。
早瀬雅也はしばらくのあいだ、自分がどこにいるのかを確かめるように、身じろぎもせず天井の暗がりを見つめていた。見慣れた天井だった。自分の部屋の、自分の天井だ。それなのに、何かが違っていた。空気の匂いが違う。いつもの、洗剤と、紙と、少し埃っぽい本の匂いの奥に、自分のものではない甘さが、ほんのかすかに混ざっている。
隣を見る前に、彼は台所のほうから届く小さな光に気づいた。スマートフォンの画面の光だった。冷えた廊下の先、ダイニングの椅子に誰かが座っていて、画面の青白い明るさが、その輪郭だけを闇の中に切り抜いていた。背筋が伸びている。こんな時間の、こんな冷えた部屋の、ありふれた木の椅子の上で、それでも背筋が伸びている。
膝の上に毛布をかけ、両手でスマートフォンを包むように持って、画面を指先でゆっくりと送っている。
雅也は、それが何をしている姿なのかを知っていた。四年間、見てきたからだ。起きたらすぐ、母国のニュースを確認する。遠征先のホテルでも、夏合宿の電波の悪い宿舎でも、エリザベス女王杯の朝でも、彼女はそれを一度も欠かさなかった。それが彼女の一日の最初の仕事で、彼女が自分に課した、誰にも命じられていない義務だった。
その習慣が、今朝も変わらずにそこにある。
雅也は起き上がろうとして、やめた。床板が軋めば、彼女は顔を上げるだろう。顔を上げれば、この静かな時間は終わる。彼はもう少しだけ、その光の中にいる横顔を眺めていたかった。画面の文字を追う目の動き。時おり小さく傾く首。ときどき、画面の何かに反応して、耳がほんのわずかに前へ寄る。
庶民文化の話題には興味津々だと本人は言っていたが、母国のニュースを読むときの耳の角度は、それとはまた違っていた。興味というより、注意だった。遠くにいる誰かの声を聞き漏らすまいとするときの、張りつめた集中。
やがて彼女は画面を伏せ、深く息を吐いた。白くはならなかった。部屋の中だからだ。それでも、その吐息がどれだけ長いものだったかは、肩の沈み方で分かった。
「……起きてるでしょ、キミ」
顔も上げずに、ファインモーションは言った。
「……いつから気づいてた」
「キミの呼吸が変わったときから。ふふっ、寝てるときと起きてるときって、全然違うんだよ?」
雅也は観念して身体を起こした。布団から出た瞬間に冷気が首筋を撫で、彼は思わず肩をすくめた。廊下に出ると、床の冷たさが靴下越しに足裏へ沁みた。ダイニングの照明のスイッチに手を伸ばすと、彼女が「あ、待って」と言った。
「まだ、つけないで」
「暗いだろ」
「うん。暗いね」
それ以上の説明はなかった。雅也は手を下ろし、彼女の向かいの椅子を引いて座った。スマートフォンの画面が伏せられた今、部屋の中の明るさは、窓の外から入ってくるわずかな灰青だけだった。それでも目が慣れてくると、彼女の顔が少しずつ見えてきた。寝癖のついていない髪。
どうしてこの人の髪は、朝から寝癖がつかないのだろうと、四年間で何度か思ったことを、また思った。毛布の端を握る指。その指先が白い。
「寒いか」
「ちょっとだけ」
「暖房、つける」
「うん」
今度は止められなかった。リモコンの小さな電子音が鳴り、壁の上の機械が低く唸りはじめる。温風が届くまでにはまだ少しかかる。そのあいだ、二人は黙っていた。黙っていることは、珍しかった。ファインモーションという人は、よく喋る。起きている時間のほとんどを、何かを知りたがることと、知ったことを誰かに話すことに使っている。それが、今朝は静かだった。
静かだということが、雅也にはひどく大きなことに思えた。
「何か、載ってたか」
「ん?」
「ニュース」
「……ああ。うん、いつも通り。向こうは今、夜の九時くらいかな。議会の予算の話と、港の工事の話と、あとね、どこかの町のクリスマスマーケットに、すごく大きなツリーが立ったって」
「そうか」
「写真、見る?」
「いや」
「ふふっ。見なくていいの?」
「……じゃあ、見る」
彼女はスマートフォンをもう一度起こし、画面をこちらに向けた。雨に濡れた石畳の広場に、電飾をまとった巨大な木が立っていた。灯りが濡れた地面に映りこんで、下からもう一本、逆さの木が伸びているように見えた。
「きれいでしょ」
「きれいだな」
「今日の夜には、私、この国にいるんだよ」
彼女はそう言って、画面を伏せた。笑っていた。いつものように。声の調子も、いつもと変わらなかった。変わらなかったから、雅也は何も言えなかった。
◇
湯を沸かしたのは、雅也だった。彼女が「朝ごはん、何にする?」と訊き、雅也が「何か作る」と言いかけたところで、彼女が戸棚を指さしたのだ。昨夜、二人でコンビニに寄ったときに彼女が買いこんだ、新作のカップ麺が三つ、並んでいた。
「……朝から、それか」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
「最後の朝ごはんだもの。日本の味にしたいの」
最後、という言葉を、彼女はさらりと言った。雅也はやかんに水を入れ、火にかけた。青い炎の揺らめきが、暗い台所の壁に弱い光を投げる。換気扇は回さなかった。音が大きいからだ。湯が沸くまでのあいだ、彼女はカップ麺の蓋の注意書きを、声に出して読んでいた。熱湯を内側の線まで注ぎ、蓋をして三分。
その三分という文字を読み上げたところで、彼女は小さく笑った。
「ねぇ、覚えてる?」
「……ああ」
「まだ何も言ってないよ?」
「どうして三分なのか、って訊いたんだろ。最初の日に」
「ふふっ。覚えてた」
四年前の春、街中で呼び止められたのが始まりだった。すみません、そちらの方、と。周りに誰もいないのに、そちらの方というのは自分のことだろうかと、確かめずにはいられなかった。コンビニのイートインで、彼女はカップ麺の食べ方を知りたがった。三分待つあいだ、黙っていられなかった。どうして三分なの。六分待ったらもっとおいしくなるのかしら。どうして。
キミ、説明が上手だね。
あのとき自分は、この人の人生にこれほど長く関わることになるとは思っていなかった。関わっていいのかどうかさえ、ずいぶん長く分からなかった。湯が沸いた。注いで、蓋をして、彼女がスマートフォンのタイマーを三分に合わせた。今度は黙っていた。二人とも、黙ってカップから立ちのぼる細い湯気を眺めていた。窓の外の灰青が、ほんの少しずつ、白に寄っていく。
鳥の声はまだしない。遠くを、新聞配達らしいバイクの音が通り過ぎていく。
タイマーが鳴った。彼女は蓋をはがし、割り箸を割った。割り箸は、右と左で太さが違ってしまった。彼女はそれを見て、また小さく笑った。四年のあいだに何百回と割り箸を割ってきたはずなのに、彼女はいつまでもこれが上手くならなかった。上手くならないことを楽しんでいるようにも見えた。
「いただきます」
手を合わせる所作は、どこまでも美しかった。背筋が伸び、指先がそろい、首がわずかに傾く。そのあとで麺をすする音は、ためらいなく大きかった。日本では音を立てて食べるものだと教えたのは、誰だったか。自分だったかもしれない。
「……おいしい」
「そうか」
「キミは?」
「うまい」
「ふふっ。キミの『うまい』って、全部同じ声だよね」
「うまいものは、うまいんだ」
「うん、分かってる」
彼女はスープを一口飲み、少し目を閉じた。まつ毛の影が頬に落ちていた。湯気の向こうで、その顔はなんだか遠かった。遠いのに、手を伸ばせば届く距離にあった。その矛盾が、胸の奥のどこかをゆっくりと押していた。言うべきことがあるような気がした。言わなければならないことが。けれど、それが何なのかを雅也は見つけられなかった。
行くな、と言うことはできない。それは彼女が選んだことで、彼女が四年前から、いや、生まれたときから引き受けてきたことの続きだった。待っている、と言うのも違う気がした。待つという言葉には、相手に何かを背負わせる重さがある。また会おう、は言えた。けれど、それは彼女が言うべき言葉のような気がした。
結局、彼は何も言わずに麺をすすった。スープが熱くて、舌の先が少し痛んだ。彼女も、何も言わなかった。あとになって、雅也はこの朝のことを何度も思い出すことになる。二人とも何かを言わなかったこと。言わなかったことが、言ったことと同じくらいの重さでテーブルの上に置かれていたこと。
それが二つの空になったカップと、右と左で太さの違う割り箸と一緒に、この朝の記憶のいちばん底に沈んでいることを。
◇
五時四十分に、彼女は身支度を始めた。洗面所から、水の音と、何かの蓋を開け閉めする小さな音が聞こえた。雅也はそのあいだに食器を洗い、テーブルを拭いた。それしかすることがなかった。暖房はようやく部屋を温めはじめていて、窓ガラスの内側がうっすらと曇っていた。指で拭うと、外は夜明けの手前の、紙のような白さになっていた。
向かいの家の屋根に、薄く霜が降りていた。
ソファの上には、ゆうべ二人で広げたものがまだ残っていた。四年分の記録だった。雅也の記録用紙の束と、ファインのノート。あの、見学席で他のウマ娘たちの表情を書きとめていたノートの、最初の一冊から最後の一冊まで。どちらも捨てていなかった。
彼女は、雅也が一枚残らず用紙を保管していたことに驚き、雅也は、彼女のノートが十一冊にもなっていたことに驚いた。
のれんの写真も、あった。ラーメン屋ののれんを、彼女が自分で撮った写真。一枚ずつ店の名前を読み上げながら、二人でそれがいつのことだったかを思い出した。この店は、初めて替え玉を頼んだ店。この店は、SP隊長が店主と三十分も話しこんでいた店。この店は、雨の日に二人とも傘を忘れて、店の軒先で雨宿りをしながら食べた店。
一枚ずつ、思い出に名前をつけていった。初詣の朝の境内。夏合宿の、潮の匂いのする夕暮れ。学園祭の人いきれ。名前をつけ終わるまでに、ずいぶん時間がかかった。
その束を、雅也はそっとまとめた。自分の用紙と、彼女のノートを、別々に。ノートの一冊が、手の中で開いた。第三年の、十一月のページだった。エリザベス女王杯の翌週。そのページには、ほとんど何も書かれていなかった。日付と、天気と、それから一行だけ。
――わたしは、どうして。
その先は書かれていなかった。雅也はノートを閉じた。あの時期のことは、よく覚えている。自分が何をしなかったのかも。彼女が笑い続け、その笑顔がどこか不安を感じさせるものになっていくのを見ていながら、一度だけ「何かあったか」と訊き、「ううん、なんにも」と返され、それ以上を訊かなかった。聞いてほしそうな顔をしていない人間には、聞かない。
心配しているからこそ、踏みこめない。その自分の癖が、いちばん悪い形で出た冬だった。
十二月のある日、彼女が一人でトレーナールームに来て、何も言わずに一時間座っていた。帰り際に、ねぇキミ、私どうして笑ってるんだろうね、と言って、泣いた。四年間で初めてだった。
「あのときは、悪かった。俺も、もう少し聞けばよかった」――言えたのは、それだけだった。
あのとき言えたのは、それだけだった。それ以来、毎日一度、今日困ったことはあったかと訊くようになった。理由は説明しなかった。彼女も、理由を訊かなかった。ゆうべ、彼女は一つだけ、ずっと言っていなかったことを言った。
「私、子供が産めない身体なんだって。お父様と、お姉様と、隊長と、お医者様しか知らないの。だから私の代で、この血は終わり。そう決まってるの。私がやるのは、終わらせ方を整えること。……変な役目でしょ?」
言うことが思いつかない、と雅也は答えた。「正直だね」と彼女は笑った。それから雅也は、「それが君の価値と何の関係があるんだ」と言った。言い方が悪かったと思って謝ると、彼女は、ううん、ううん、と二回首を振って、「ありがとう」と言った。今にして思えば、あれは彼女がこの国に残していく、最後の荷物だったのかもしれない。
持って帰るには重すぎたから、ここに置いていったのだ。雅也はその重さを、まだどこにしまえばいいのか分からずにいた。
「――雅也さん」
呼ばれて振り向くと、彼女が廊下に立っていた。昨日と同じ服だった。けれど、何もかもが整っていた。髪は一筋の乱れもなく、襟もとは正しく合わさり、コートのボタンは上まで留められている。胸もとに、緑色の小さなピンブローチが光っていた。三つ葉の形をしている。四年前の春にも、あれを着けていた気がした。王族の末裔として、人前に出るときの顔をしていた。
それでいて、耳だけが、少しだけ後ろに寝ていた。
「準備、できた」
「……ああ」
「忘れ物、ないかな」
「確認するか」
「ううん。隊長が、あとで全部確認してくれるから」
言ってから、彼女は少し困ったように笑った。
「……自分で確認するって、言えばよかったね」
「今からでも、できる」
「うん。じゃあ、する」
彼女は部屋の中をゆっくりと見て回った。ソファの上。ダイニングテーブル。洗面所。寝室。彼女が一歩ずつ歩くたびに、床が小さく軋んだ。雅也は後ろからついていかなかった。リビングの真ん中に立って、彼女の足音が部屋の中を一周するのを聞いていた。戻ってきたとき、彼女の手には一冊のノートがあった。
「これ」
「……君のだろ」
「うん。十一冊あるうちの、一冊だけ、置いていってもいい?」
差し出されたのは、最初の一冊だった。見学席の日々の記録。走りの分析ではなく、みんなの表情が書きとめられたノート。
「……どうして」
「分かんない。……ふふっ、分かんないことって、あるんだね」
雅也は、ノートを受け取った。表紙の角が少し丸くなっていた。四年分、彼女の鞄の中で揺られてきた丸さだった。
「預かっとく」
「うん。預けとく」
預ける、と彼女は言った。あげる、ではなく。
◇
六時ちょうどに、インターホンが鳴った。玄関を開けると、朝の冷気が一気に流れこんできた。空はもう白く、東のほうだけがかすかに桃色を帯びていた。吐く息が白い。門の前に黒い車が二台停まっていて、その手前に、黒いコートの女性が一人、まっすぐに立っていた。SP隊長だった。四年間、ファインモーションのそばにいた人。
彼女の部隊は全員がウマ娘で、この人はその中でもいちばん古くからファインを見守ってきた。耳は帽子の下に隠れていて、表情はいつものように読めなかった。
「おはようございます、早瀬さま」
「……おはようございます」
「お約束の時刻に参りました。殿下のお荷物は、こちらで」
「はい。……お世話をおかけしました」
隊長は、一瞬だけ雅也の顔を見た。何かを確かめるような目だった。それから、深く一礼した。いつもの礼より、ほんの少しだけ深かった。昨日の夕方、この人から鍵と一枚の紙を渡された。明日の朝、六時に迎えに参ります。それまでは、こちらから一切の接触をいたしません。殿下を、お願いいたします。その紙に何が書かれていたかは、覚えていない。
警護上の注意事項だったと思う。緊急時の連絡先。周辺の配置。雅也はそれを読んだはずだが、頭には入っていなかった。覚えているのは、渡すときの隊長の手が、いつもよりゆっくりだったことだけだ。
SP部隊の二人が、手際よく荷物を運び出していく。スーツケースが一つと、紙袋が二つ。昨夜の分の荷物は、それだけだった。この国で四年間を過ごした人の荷物のほとんどは、すでに先週、別便で送り出されている。ファインは玄関の上がり框に立ったまま、靴を履いた。かがむ動作さえ美しかった。靴べらを使い、踵を収め、身体を起こす。
その一連の動きのどこにも、ためらいは見えなかった。
それから彼女は、ドアの外へ一歩出た。朝の光が、彼女の髪の上で小さく跳ねた。冷気に触れて、耳の先がぴくりと動いた。彼女は門のほうへ、二歩、三歩と歩いていった。背筋は伸びていて、足取りは正確で、ロイヤル・テールと呼ばれる尻尾は、歩みに合わせて静かに揺れていた。四歩目で、止まった。振り返った。一度だけだった。
「ご機嫌よう、雅也さん」
「……ああ」
「またね」
「……ああ」
それだけだった。彼女は笑っていた。いつもの笑顔だった。けれど、その声の最後の音だけが、ほんのわずかに低く沈んでいたことに、雅也は気づいていた。笑顔のまま、声の調子だけが落ちる。それが彼女の本音の合図であることを、四年かけて覚えた。覚えたのに、今は何もできなかった。彼女は車に乗りこんだ。ドアが閉まる音は、思っていたよりずっと小さかった。
隊長が最後にもう一度雅也に一礼し、助手席に乗った。エンジンがかかり、二台の車は、白い息のような排気を残して、朝の住宅街の角を曲がっていった。
見えなくなっても、雅也はしばらく玄関に立っていた。角の向こうから、車の音が完全に消えるまで。消えてからも、少しのあいだ。さよなら、とは言わなかった。彼女は一度も、その言葉を使わなかった。またね、と言った。預けとく、と言った。それが何を意味するのかを、雅也は考えようとして、やめた。考えれば、何かに名前をつけてしまいそうだった。
名前をつけることが、まだ怖かった。
ドアを閉めると、部屋の中はさっきよりずっと静かだった。暖房の唸りと、冷蔵庫の低い音だけが残っていた。流しの横に、洗ったばかりのカップ麺の容器が二つ、伏せて置いてあった。捨てるつもりで洗ったのに、なぜかまだ捨てていなかった。テーブルの上には、一冊のノートがあった。雅也は椅子に座り、表紙に手を置いた。開かなかった。
ただ、手のひらの下にある紙の感触と、角の丸さを確かめていた。
窓の外で、ようやく鳥が鳴いた。冬の朝が、何事もなかったような顔をして、始まろうとしていた。
第二章 向こうの冬
雨は、音よりも先に匂いで来る。ファインモーションがそのことを思い出したのは、帰国して三日目の朝だった。まだ窓の外が暗いうちに目を覚まし、枕もとのスマートフォンに手を伸ばしかけたとき、閉めきった窓の隙間から、湿った土と、濡れた石と、遠くで焚かれている泥炭の燻った匂いが、細い糸のように部屋の中へ入りこんできた。日本の冬の朝は乾いていた。
空気が澄みすぎていて、吸いこむと喉の奥が少しだけ痛むような朝だった。こちらの冬は違う。空気そのものが水を含んでいて、吸いこむたびに胸の内側がしっとりと重くなる。
子供のころは、この匂いが嫌いではなかった。むしろ好きだった。雨の匂いがする朝は外に出してもらえないと分かっていたから、窓辺に椅子を運んで、ガラスに額をつけて、濡れていく庭を一日中眺めていた。生け垣の緑が色を濃くしていく様子。石塀の上で羽をふくらませている小鳥。遠くの丘を、羊の群れが白い点になってゆっくり移動していく様子。
外は、いつもガラスの向こうにあった。
スマートフォンの画面を点ける。ニュースを開く。国内の政治面、経済面、地方の話題。議会の審議が年末の休会を前に紛糾していること。港湾整備の予算が承認されたこと。北のほうで大雨による道路の冠水があったこと。一つずつ、丁寧に読んでいく。四年間、日本の朝でも同じことをしてきた。
画面の文字は同じ言葉で書かれているのに、窓の外の匂いが違うだけで、記事がまるで別のものに見えた。
読み終えてから、彼女はもう一つの画面を開いた。メッセージのアプリだった。いちばん上に、短いやり取りが残っている。帰国した日の夜に送った、「着いたよ」という一言と、それに対する返事。
――おかえり。
それだけだった。句読点もなく、絵文字もなく。彼らしかった。ファインはその四文字を、帰国してから何度読み返したか分からなかった。おかえり、と彼は書いた。いってらっしゃい、でも、さようなら、でもなく。ここが彼女の帰る場所であることを、彼は正しく知っていた。その正しさが、少しだけ寂しかった。時計を見る。朝の六時半。日本は、午後の三時半。
今ごろ彼は、トレーナールームで何をしているだろう。担当のいなくなった部屋で、四年分の資料の整理をしているだろうか。それとも、学園の事務に呼ばれて、また誰かに頭を下げているだろうか。
何か送ろうとして、指が止まった。何を送ればいいのか分からなかった。今日も雨です、と書けばいいのか。こっちは寒いよ、と書けばいいのか。どれも本当のことで、どれも、本当に言いたいことではなかった。本当に言いたいことは、まだ自分でも形にできていなかった。彼女は画面を消し、スマートフォンを伏せた。起き上がって、窓を開ける。冷たい湿気が顔に触れた。
夜明け前の庭は、黒と灰色の濃淡だけでできていた。濡れた芝生の上に、屋敷の窓から漏れる灯りが、黄色い四角をいくつか落としていた。
◇
一族の屋敷は、この国の西寄りの、なだらかな丘に囲まれた土地にあった。古い石造りの建物で、壁は厚く、窓は深く、廊下は長い。冬のあいだは、どの部屋にも暖炉か、それに代わる暖房が入っていたが、廊下だけはどうしても冷えた。石の床を歩くと、足音が天井の高い空間に吸いこまれていく。日本の学園の、ワックスの匂いがする廊下とはまるで違った。
あの廊下では、誰かの笑い声がいつもどこかから反響していた。
帰国してからの一週間は、慌ただしく過ぎた。挨拶があった。屋敷に仕える人々への挨拶。親族への挨拶。一族と縁のある人々への挨拶。父のもとへ訪れる客人たちへの挨拶。ファインは一人ひとりに、正しい言葉で、正しい順序で、正しい笑顔で応じた。四年間離れていても、身体はそれを忘れていなかった。
背筋を伸ばす角度も、差し出された手を取るときの力加減も、目を合わせる時間の長さも、すべて覚えていた。覚えているというより、それは骨の中に書きこまれていた。
予定があった。年が明けてから本格的に始まる公務のための準備。慈善団体の後援についての説明。一族が長く支援してきた教育基金の報告書。文化交流事業の資料。彼女のために用意された机の上には、帰国した翌日から書類が積まれていた。どれも、彼女が引き受けるべきものだった。引き受けることに、不満はなかった。ファインは、それを嫌ったことが一度もない。
日本で、一度だけ訊かれたことがある。王族って、大変じゃないのか、と。大変だよ、と答えた。でも、嫌だったことは一度もないの。私は閉じこめられてたんじゃないの。守られてたの。ただ、ちょっとだけ、外が見たかっただけ。
その言葉は、今も本当だった。ただ、外を見てしまった今、窓の内側に戻ってくるということが、四年前に想像していたよりも少しだけ重かった。それだけのことだった。
「――我が妹よ。その書類の山は、君の美しい指先には少々無粋ではないかね」
書斎の扉にもたれて、姉がそう言った。帰国した日から、姉は毎日一度はこうして顔を出した。長い脚を組むように扉の枠に寄りかかり、芝居がかった仕草で片手を広げる。昔から変わらない。奔放で、開けっぴろげで、言葉のひとつひとつに余計な飾りをつけずにはいられない人。
自分が自由にレースの世界へ飛びこんだぶん、一族の務めを妹に押しつけることになったと、どこかで気にしている人。本人は決してそうとは言わないけれど。
「お姉様。ノックはしてほしいな」
「ノックとは、閉ざされた心の扉を叩くためのものだ。君の心は、いつだって開かれているだろう?」
「今は書類を読んでるの」
「ふむ。書類よりも、私の話のほうが君の人生を豊かにすると思うのだがね」
「……どんなお話?」
「日本の話を聞かせてくれたまえ。とりわけ、我が心の〝女帝陛下〟について」
ファインは思わず吹き出した。エアグルーヴのことだ。四年前、学園を訪れた姉が同室のエアグルーヴに一目惚れのような感情を抱き、それ以来ずっと、会うたびに芝居がかった口説き文句を浴びせかけている。エアグルーヴのほうは、姉の姿を見るなり全力で逃げるようになった。女帝と呼ばれる人が廊下を全速力で走り去っていく姿は、学園の小さな名物になっていた。
「エアグルーヴ、きっと今ごろ、お姉様がいなくてほっとしてるよ」
「なんと。それは由々しき事態だ。我が不在が彼女の心に平穏をもたらすなど、あってはならない」
「ふふっ、あってもいいと思うな」
姉は大げさに胸を押さえてみせてから、ふっと表情をゆるめた。
「……笑ったな」
「え?」
「帰ってきてから、君は一度も、そういう笑い方をしていなかった」
ファインは、書類の端を指でそろえた。
「……してたよ?」
「いいや。君がしていたのは、完璧な微笑みだ。私はそちらも好きだがね。だが、いま君が見せたのは、日本で覚えてきた笑い方だろう」
姉はそれだけ言うと、ひらりと手を振って扉の向こうへ消えた。足音が長い廊下を遠ざかっていく。ファインはしばらく、開いたままの扉を眺めていた。日本で覚えてきた笑い方。そんなものがあるのだろうか、と思った。自分では分からなかった。
けれど、もしあるのだとしたら、それを教えたのはきっと、ラーメン屋の湯気と、学園の廊下の笑い声と、それから、説明の下手な一人の人だった。
◇
クリスマスは、屋敷で迎えた。一族の伝統に従って、大広間に大きな木が飾られ、蝋燭が灯され、親族が集まった。暖炉では太い薪がはぜ、焼いた肉とスパイスと、干した果物をたっぷり使った重い菓子の匂いが、屋敷じゅうに満ちていた。子供のころから、毎年見てきた光景だった。四年ぶりに見るそれは、記憶の中のものより少しだけ小さく見えた。
自分の背が伸びたからかもしれない。あるいは、もっと大きな世界を見てきたからかもしれない。
食事の席で、親族の一人が日本での戦績について話題にした。十八戦十八勝。トリプルティアラ。エリザベス女王杯の連覇。こちらでもニュースになっていたのだと、その人は誇らしげに言った。一族の誇りだ、と。ファインは礼を言い、微笑んだ。誇りだと言われることに、異論はなかった。自分でも誇らしいと思っている。
けれど、その数字を口にされるたびに、彼女の頭の中に浮かぶのは、数字ではなかった。桜花賞のパドックで、一人ずつに「ご機嫌よう」と言ったこと。誰も返してくれなかったこと。レースのあとで、全員が返しに来てくれたこと。オークスのあとで、初めて「疲れた」と言ったこと。疲れるって、こんなに気持ちいいんだね、と。
秋華賞の表彰台で、なぜか涙が止まらなかったこと。
そういうものは、十八という数字の中には入っていなかった。入っていないものを、彼女はノートに書いていた。十一冊のうち、十冊を持って帰ってきた。一冊は、預けてきた。その夜、自室に戻ってから、彼女はスマートフォンを手に取った。日本は、もう翌朝の八時を過ぎていた。
――メリークリスマス。こっちは、大きな木と、蝋燭と、すごく重たいケーキでした。
送信してから、少し迷って、もう一枚写真をつけた。大広間の木の写真だった。返事は、十五分後に来た。
――メリークリスマス。こっちは、晴れてる。寒い。
それから、写真が一枚。学園の中庭の、葉を落とした欅の並木だった。枝の向こうに、よく晴れた青い空があった。冬の日本の、乾いた、突き抜けるような青。ファインは、その写真をしばらく眺めていた。欅の並木。引退会見の日の夕方に、二人で歩いた道だった。空が橙から群青へ移りかけていて、裸の枝がその色を細かく切り分けていた。吐く息が白かった。
日本だと、こういうときどうするの、と訊いた。好きな人と、恋人になった日。答えは決めなかった。決めるのは君だからな、と言われた。知ってる、と答えた。
あの写真を、彼はどういう気持ちで撮ったのだろう。たまたまそこを通りかかっただけかもしれない。何の意味もないのかもしれない。彼はそういう人だった。意味を込めるのが下手で、込めたとしても説明しない。説明しないくせに、あとになって、ちゃんと込められていたことが分かる。
――きれいだね。
そう返した。
――そうだな。
また、それだけだった。ファインは画面を胸に伏せて、天井を見上げた。言っていないことがあった。帰国の朝、玄関で言わなかったこと。帰国の前の夜にも、言えなかったこと。四年のあいだに一度も言葉にしなかったことの中で、いちばん大きなもの。引退会見で、みなさんの前では言えたのに。これから先も、この人と一緒にいたいです、と。あれは本心だった。
あのときは言えた。けれど、あれは宣言だった。自分に向けた、自分の人生の宣言。
本人に向かって、たった一人に向かって、言うべき言葉は別にあった。それを言えないまま、自分はここへ帰ってきた。帰らなければならなかったから。それは自分が選んだことで、選んだことを、ファインは後悔していなかった。けれど、選んだことと、寂しいことは、別のことだった。窓の外で、雨がまた降りはじめていた。
◇
年が明けた。新年の朝も、ファインは暗いうちに目を覚まし、ニュースを読んだ。それから日本の新年の様子を検索して、神社の境内に並ぶ人の列の写真を眺めた。三年前の一月、雅也が三週間かけてSP隊長と交渉し、人のいない早朝の境内で初詣を実現させてくれたことを思い出した。屋台が出ていなくて、ごめん、と彼は言った。本当は、屋台とか出てるんだが。
ううん、いいの、と自分は言った。キミが三週間、何をしてたか、私、分かってるよ。あの朝、彼は初めて自分の頭を撫でた。理由は、本人にも説明できないようだった。
今年は、こちらで新年を迎えた。こちらの新年には、屋台も、長い参拝の列もない。
――あけましておめでとう。
日本は、もう昼だった。
――あけましておめでとう。今年も、よろしく。
今年も、よろしく。その言葉を、ファインは何度も読み返した。よろしくというのは、何をよろしくということなのだろう。去年までなら、分かった。今年も担当として、よろしく。今年のレースも、よろしく。けれど今は、どちらでもない。担当契約は終わっていて、彼女はもう走らない。それでも彼は、よろしくと書いた。
意味を込めるのが下手な人だから、たぶん、何も考えずに書いたのだ。
そう思おうとして、うまくいかなかった。一月の最初の週から、公務が始まった。教育基金の理事会への出席。慈善団体の新年行事での挨拶。地方の学校への訪問。一日に二つ、三つと予定が入り、そのたびに車で移動した。移動の車の中で、SP隊長が次の予定の資料を読み上げる。ファインはそれを聞きながら、窓の外の、濡れた緑と灰色の丘を眺める。
隊長は、帰国後もファインのそばにいた。日本での警護任務が終わったあとも、本人の強い希望で、しばらくのあいだファインの身辺警護を続けることになっていた。長年見てきた人がそばにいてくれることは、ありがたかった。
「――殿下」
「ん?」
「少し、お疲れのご様子です」
「そう?」
「はい」
「ふふっ、気のせいだよ。時差がまだ抜けてないのかも」
隊長は、それ以上何も言わなかった。けれど、ルームミラー越しに、一瞬だけこちらを見たのが分かった。その目は、四年間、見慣れた目だった。何かを記録するときの目。ファインは窓の外に視線を戻した。疲れているつもりはなかった。ただ、少しだけ、眠かった。
第三章 微熱の理由
眠気は、午後に来た。最初に気づいたのは、一月の第二週の、教育基金の理事会の席だった。長いテーブルの端に座り、年間の支援計画についての説明を聞いていた。暖房がよく効いた部屋で、窓の外は薄曇りだった。説明している理事の声は穏やかで、資料の数字は整っていて、問題になるようなことは何もなかった。
それなのに、ふと気づくと、手元の資料の同じ行を三度読んでいた。
ファインは背筋を伸ばし直した。まぶたが重かった。視界の端が、薄い膜を一枚かけたようにぼやけていた。昨夜は十分に眠ったはずだった。いつも通り、夜の十一時に寝て、朝の六時に起きた。日本での生活と同じ時間割だった。時差のせいだろう、と思った。帰国して一か月近くが経っているのに、まだ身体が日本の時間を覚えているのかもしれない。
こちらの午後の三時は、日本の深夜の零時だ。眠くなって当然だった。
理事会が終わるまで、彼女は一度もあくびをしなかった。姿勢も崩さなかった。質問にも正確に答えた。それが終わって車に乗りこんだとき、シートに背中を預けた瞬間に、身体の芯から力が抜けていくのが分かった。眠気は、それから毎日来た。午後の二時か三時ごろ、何の前触れもなく、重たい毛布のように上から覆いかぶさってくる。
抗おうとすると、頭の奥がじんわりと痺れる。机に向かっていても、文字が目の上を滑っていく。三十分ほどでその波は引いていくのだが、引いたあとも、身体のどこかにぬるい疲れが残った。
食欲も、少し変わった。朝食の席で、いつもの紅茶の香りが、なぜか鼻についた。子供のころから飲み慣れた、屋敷の料理人が淹れる濃い紅茶。その香りが、今朝はひどく渋く、重く感じられた。一口飲んで、カップを置いた。料理人が心配そうにこちらを見たので、ファインは笑って、今日は喉が少し乾いてるみたい、とだけ言った。
反対に、無性に食べたくなるものがあった。
塩気の強い、温かい汁物だった。具体的に言えば、ラーメンだった。自分でもおかしくなって、夜、ベッドの中で一人で笑った。日本にいるあいだ、毎週のように食べていた。帰国してから一度も食べていない。だから恋しくなっただけだ。そうに違いなかった。四年間で、身体がすっかり日本の味を覚えてしまったのだ。
持って帰ってきたカップ麺が、トランクの底に三つだけあった。帰国の朝に雅也の部屋で食べたのと同じ種類のものだった。一つを取り出して、屋敷の厨房の隅でこっそり湯を沸かした。料理人たちが寝静まったあとの、薪の燃え残りの匂いがする厨房。石の床。銅の鍋が壁に並び、窓の外は真っ暗だった。
三分待った。誰もいない厨房で、黙って三分待つのは、思っていたより長かった。蓋を開けると、湯気が立ちのぼった。醤油と、鶏と、乾燥した葱の匂い。その匂いを吸いこんだ瞬間、鼻の奥がつんとした。ラーメンの匂いのせいではなかった。一口すすって、ファインは箸を止めた。おいしかった。おいしいのに、半分も食べられなかった。
途中で、胸の奥がゆっくりとせり上がってくるような感じがして、それ以上は喉を通らなかった。
残ったスープを見下ろしながら、彼女は首をかしげた。おかしいな、と思った。こんなこと、今までなかった。
◇
体温が、少し高かった。熱と呼ぶほどではなかった。朝、目を覚ますと、布団の中の身体がいつもよりほんのりと温かい。額に手を当てても、よく分からない程度の、ぬるい熱。レースに出ていたころの体調管理の習慣で、ファインは毎朝体温を測っていた。それが、二週間ほど前から、少しだけ高い数字のまま下がらなかった。風邪の引きはじめかもしれない、と思った。
こちらの冬は湿っていて、日本の冬とは身体の冷え方が違う。慣れない寒さで体調を崩すのは、珍しいことではなかった。
あるいは、燃え尽きたのかもしれない、とも思った。四年間、走り続けてきた。最後の三週間は、四年間でいちばん丁寧な調整だった。引退式では、全学年の生徒一人ずつに挨拶をして回り、三時間かかった。送別の会があり、ファンへの挨拶があり、帰国の準備があった。そうして走り終えた身体が、今になってようやく疲れを思い出しているのかもしれない。
引退した競技者が、張りつめていた糸が切れたように体調を崩すという話は、学園でも何度か聞いたことがあった。
どれも、ありそうな理由だった。ありそうな理由がいくつもあるということは、どれも決め手にならないということでもあった。ファインは、自分の身体のことをよく知っているつもりだった。レースのたびに、どこが張っていて、どこに疲れが溜まっていて、どこがまだ動けるかを、言葉にして雅也に伝えてきた。
彼は医療のことは何も判断しなかったが、そのぶん、彼女が伝えたことを一つ残らず記録し、学園の医療スタッフと、SP部隊の帯同医に正確に渡していた。自分の身体の声を聞いて、それを言葉にする。それは四年間で身についた習慣だった。
その習慣が、今は役に立たなかった。身体が何かを言っているのは分かる。けれど、何を言っているのかが分からない。知らない言葉で話しかけられているようだった。知らないことは、知りたい。いつもならそう思う。どうして、と訊きたくなる。教えて、と言いたくなる。けれど今回だけは、知りたいという気持ちの手前に、小さな、名前のない怖さがあった。
夕方の書斎で、ファインは窓辺に立っていた。空は低く、雲が西から東へ速く流れていた。丘の上の木々が、風に傾いていた。
日本の学園の窓からは、いつもトラックが見えた。誰かが走っていた。誰かが笑っていた。見学席で、彼女はそれをノートに書きとめていた。みんなの表情。走る前の顔。走っている顔。走り終えた顔。今、窓の外には、誰も走っていなかった。
◇
「――殿下」
SP隊長がそう呼んだのは、一月の半ばの、夜のことだった。ファインは自室で、翌日の予定の資料を読んでいた。いや、読もうとしていた。午後にまた眠気が来て、それが夜まで尾を引いていた。ページをめくる手が遅かった。隊長は部屋の入口に立っていた。黒い上着を脱ぎ、白いシャツの袖を少しだけまくっていた。勤務の時間ではないということだった。
耳は帽子に隠れておらず、その耳が、まっすぐにこちらを向いていた。
「お話がございます。少しだけ、お時間をいただけますか」
「うん。どうぞ」
隊長は部屋に入り、扉を閉めた。けれど、椅子には座らなかった。ファインの机から少し離れた場所に、いつもの警護のときと同じ姿勢で立った。
「この二週間ほど、殿下のご様子を拝見しておりました」
「……うん」
「午後の時間帯に、集中が途切れることが増えておられます。朝のお茶を残されるようになりました。お食事の量も、日によって大きく変わります。それから、昨夜、厨房で」
「……見てたんだ」
「申し訳ございません」
「ううん。隊長は、それがお仕事だもんね」
ファインは笑った。隊長は笑わなかった。
「殿下」
「うん」
「医師の診察を、お受けになるべきかと存じます」
ファインは資料を閉じた。膝の上で、指を組んだ。
「……大げさだよ。ちょっと疲れてるだけ。時差と、寒さと、引退したあとの気の緩みと。どれかだと思うの」
「どれかであれば、よろしいのですが」
「……」
「どれかであると、医師にそう言っていただくために、診察を受けるのです」
隊長の声は、いつものように平らだった。けれど、その平らさの下に、何かを押さえつけているような硬さがあった。ファインは、隊長の顔を見た。この人は、ずっと自分を見てきた。子供のころから。日本へ発つ日も、日本で初めてレースに出た日も、秋華賞の表彰台で泣いた日も、エリザベス女王杯の夜に一言も喋らなかった日も。
帰国の前の一晩を、誰にも邪魔されないように手配してくれたのも、この人だった。鍵と一枚の紙だけを雅也に渡して、明日の朝六時に迎えに参りますと言った人。
「……ねぇ、隊長」
「はい」
「日本にいたとき、隊長、あの人に何か言ったでしょう」
隊長の耳が、わずかに動いた。
「……何のことでございましょう」
「三年目の冬。私が、ずっと笑ってたとき」
「……」
「あの人ね、あとで教えてくれたの。隊長に言われたって。殿下は、困っていると仰らない方です、って」
隊長は、しばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ視線を落とした。
「……差し出がましいことを申しました」
「ううん。……ありがとう」
ファインは、組んでいた指をほどいた。
「私、困ってるって言わない方なんだね」
「はい」
「ふふっ。はっきり言うね」
「長年、拝見しておりますので」
「……そっか」
窓の外で、風が鳴っていた。石壁の角を回りこむときの、低い笛のような音。子供のころ、この音が怖くて眠れなかった夜があった。そのときもこの人は、部屋の外に立っていてくれた。
「……分かった。診てもらう」
「ありがとうございます」
「でもね、隊長」
「はい」
「このことは、まだ誰にも言わないで。お父様にも、お姉様にも。……分かるまでは」
隊長は、一瞬だけ迷うように目を伏せた。警護の責任者として、主人の体調の異変を上に報告しないことが何を意味するかを、この人は誰よりも分かっているはずだった。
「……先生には、私からご連絡いたします。診察の結果が出るまでは、殿下と、先生と、私だけで」
「うん」
「結果が出ましたら、その先のことは、殿下がお決めください」
「……うん」
隊長は一礼して、部屋を出ていった。扉が閉まる音は、静かだった。ファインは、閉じた資料の上に両手を置いた。決めるのは、私。四年前、日本で担当契約を結んだとき、雅也は二つの条件を出した。一つ目は、決めるのはあなたです、俺は選択肢を並べます、というものだった。ずいぶん変わった条件だと思った。
条件というのは普通、相手に何かを求めるためのものなのに、彼の条件は、彼女に決める権利を返すためのものだった。
その言葉を、ファインは四年間、何度も繰り返し聞いた。ローテーションを選ぶとき。レースの目的を言うとき。引退を告げたとき。決めるのは君だ。今、ここに彼はいない。それでも、決めるのは自分だった。自分で決めて、診察を受けると言った。それだけのことが、なぜだか、少しだけ誇らしかった。
◇
診察の日の朝も、ファインは暗いうちに目を覚ました。ニュースを読んだ。国内の記事を、上から順番に。北部で雪が降ったこと。港湾の工事が予定より早く進んでいること。どこかの町で、古い橋の修復が始まったこと。それから、もう一つの画面を開いた。最後のやり取りは、三日前だった。
――今日、学園の中庭で、エアグルーヴが花壇の手入れをしてた。冬でも咲く花があるらしい。名前は聞いたが忘れた。
――ふふっ、忘れちゃだめだよ。エアグルーヴ、きっと三回くらい説明してくれたでしょう?
――四回だった。
その下に、写真が一枚あった。霜の降りた花壇の土から、白と紫の小さな花がいくつも顔を出していた。花びらの縁に、朝の光が細く光っていた。ファインは、その写真を指でそっと拡大した。花の名前は、たぶんクリスマスローズだった。エアグルーヴが、冬の花壇の主役だと言っていたのを覚えていた。
俯くように咲くのが特徴で、下から覗きこまないと顔が見えないのだと。
――今日は、ちょっと出かけてくる。
そう打って、送る前に、指が止まった。出かけてくる、というのは嘘ではなかった。屋敷の中の医療棟へ行くのは、出かけると言えなくもない。けれど、それは本当に言いたいことではなかった。本当に言いたいことは、まだ、形になっていなかった。彼女は文字を消した。代わりに、こう書いた。
――クリスマスローズっていうんだよ。下から覗くと、ちゃんと顔が見えるの。
送信した。日本は、午後の三時だった。返事は、すぐに来た。
――そうか。今度、覗いてみる。
ファインは画面を伏せて、目を閉じた。窓の外で、雨の匂いがしていた。
第四章 検査
屋敷の東の翼には、一族の人々のための医療棟があった。古い石造りの外壁の内側だけが新しく作り替えられていて、扉を一枚くぐると、廊下の空気がまるで違った。石の冷たさと泥炭の匂いが消え、代わりに、よく換気された乾いた空気と、消毒薬のかすかな匂いがあった。床は柔らかい素材で覆われていて、足音がほとんどしない。
窓は小さく、その向こうに、雨に濡れた中庭の芝生が見えた。
ファインがこの棟に入るのは、日本へ発つ前以来だった。子供のころから、何度も通った場所だった。ウマ娘の子供は身体の成長が速く、その変化を定期的に確かめる必要がある。一族の子供であればなおさらだった。背丈を測り、脚の骨の伸び方を確かめ、心臓の音を聞き、血を採る。そのたびに、同じ先生が診てくれた。
診察室の扉を開けると、その先生が、机の向こうから立ち上がった。
「お久しぶりでございます、殿下」
「ご機嫌よう、先生。……ふふっ、お元気そうでよかった」
「おかげさまで。殿下も、日本でのご活躍、こちらでも拝見しておりました」
白髪の、背の高い人だった。ウマ娘ではなく、普通の人間の男性で、その年齢は、ファインの記憶が正しければ、もう七十に近いはずだった。一族の主治医として四十年、この棟で働いてきた人。
子供のころのファインが注射を怖がって泣いたときも、脚の成長痛で眠れなかったときも、この人はいつも同じ静かな声で、分からないことは分からないと言い、分かることだけを丁寧に説明してくれた。
そして何年か前に、ファインの身体について、ある結論を告げたのも、この人だった。診察室の隅に、SP隊長が控えていた。いつもの黒い上着に戻っていた。ファインが目で合図をすると、隊長は小さく頷いて、扉の近くに立ち位置を移した。
「どうぞ、おかけください」
ファインは椅子に座った。先生も座り、手元の端末を開いた。
「隊長から、おおよそのことは伺っております。ですが、まずは殿下ご自身のお言葉で、お聞かせいただけますか」
「うん。……えっとね」
ファインは話した。午後の眠気のこと。紅茶の香りが鼻につくようになったこと。食欲の波のこと。ラーメンを半分しか食べられなかったこと。毎朝の体温が、少しだけ高いまま下がらないこと。できるだけ正確に、日付と時刻をつけて話した。四年間、雅也に体調を伝えてきたのと同じやり方で。先生は、一つずつ頷きながら端末に書きとめていった。
途中で何度か、短い質問をはさんだ。いつから。どのくらいの時間。ほかに気になることは。それから、女性の身体の周期についての質問があった。ファインは少し考えてから答えた。帰国してから、来るはずのものが来ていない。けれど、それはもともと不規則だったし、長距離の移動や環境の変化で乱れることは、これまでにもあった。
「なるほど」
先生は、そこで手を止めた。ほんの少しの間があった。先生は端末から顔を上げ、ファインのほうをまっすぐに見た。穏やかな目だった。けれど、その目の奥で、何かが慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
「殿下。一つ、立ち入ったことを伺わなければなりません。お答えになりたくなければ、そうおっしゃってください。それも、大切なお答えです」
「……うん」
「この二か月ほどのあいだに、どなたかと――」
先生の言葉はそこで途切れた。けれど、何を訊かれているのかは分かった。ファインは、膝の上で指を組んだ。隊長のほうを見なかった。見なくても、隊長がどんな顔をしているかは想像がついた。あの一晩を手配したのは、隊長だった。
「……はい」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「帰国の、前の夜に。……日本で」
先生は、それ以上何も訊かなかった。ただ、ゆっくりと一度頷いた。その頷き方は、子供のころに成長痛の場所を指さしたときと、まったく同じだった。分かりました、と言うための頷き。責める色も、驚く色も、そこにはなかった。
「ありがとうございます。お話しくださって」
「……先生」
「はい」
「でも、私は」
「存じております」
先生は、静かに言った。
「殿下のお身体については、私がいちばんよく存じております。何年もかけて、何度も調べて、そのうえで申し上げたことですから」
「……うん」
「だからこそ、です」
先生は立ち上がり、棚から検査の器具を取り出した。
「念のため、いくつか検査をさせていただきます。血液と、それからいくつかの数値を。結果が出るまでに少し時間がかかります。そのあいだ、殿下はこちらでお休みになっていてください」
念のため、と先生は言った。その言葉が、ファインの胸の中で、小さな石のように沈んだ。
◇
待合の部屋には、小さな暖炉があった。本物の火ではなく、電気の灯りが薪の形をなぞって揺れているだけのものだったが、それでも橙色の光は、部屋の空気を少しだけ柔らかくしていた。窓の外は相変わらずの雨で、中庭の芝生に水たまりが広がっていた。隊長は、部屋の隅の椅子に座っていた。勤務中に隊長が座るのを、ファインはほとんど見たことがなかった。
「……隊長」
「はい」
「隊長は、分かってたの?」
「……何を、でございましょう」
「先生が、何を調べようとしてるか」
隊長は、しばらく黙っていた。
「……可能性の一つとして、考えておりました」
「どうして言ってくれなかったの」
「私が申し上げることではございませんので」
「……」
「それに、申し上げたところで、殿下は信じなかったでしょう。……私も、信じておりませんでした」
ファインは、膝の上で手を握った。信じていない。そう、自分も信じていない。そんなことは起こりえないと、何年も前に告げられている。一族の中でもごく限られた人しか知らない、確定した事実。私の代で、この血は終わる。自分がやるのは、終わらせ方を整えること。そう育てられてきたし、そう納得してきた。納得したつもりだった。だから、これは念のためなのだ。
念のため、ありえないことを一つずつ消していくための検査。
そう思おうとした。思おうとすればするほど、胸の奥のどこかが、別のことを考えはじめていた。考えてはいけないと思えば思うほど、その考えは形を取ろうとした。ファインは目を閉じて、それを押し戻した。まだだめ。まだ、何も分かっていない。分かっていないことを、知っているように考えてはいけない。時計の針の音が聞こえた。雨の音が聞こえた。
遠くで、誰かが廊下を歩く足音が、柔らかい床に吸いこまれていった。
一時間が過ぎた。扉が開いた。先生が入ってきた。手に、一枚の紙を持っていた。その紙を持つ手が、ほんのわずかに、いつもより慎重だった。
「殿下」
「……はい」
先生は、ファインの向かいに腰を下ろした。紙を、膝の上に置いた。すぐには、それを差し出さなかった。
「結果を申し上げる前に、一つだけ、お約束させてください」
「……うん」
「これから申し上げることは、一度の検査の結果です。一度の結果では、私は何も断定いたしません。数日後にもう一度検査をし、別の方法でも確認をいたします。そのうえで、必要であれば、ほかの専門家にも見ていただきます。よろしいですか」
「……うん」
「その上で、申し上げます」
先生は、息を一つ吸った。
「妊娠を示す数値が、出ております」
雨の音が、急に大きくなった気がした。ファインは、先生の顔を見つめていた。先生の口が動いたのは見えていた。言葉も聞こえていた。けれど、その言葉が意味に変わるまでに、ずいぶん長い時間がかかった。一つずつの音が、耳の中で、ばらばらに転がっていた。にんしん。妊娠。
「……え」
それしか、言えなかった。
「繰り返しますが、一度の結果です」
先生の声は、変わらず穏やかだった。
「殿下のお身体について、私が以前申し上げたことを、私は撤回いたしません。あれは、何年もかけて、何度も確かめた結論です。ですから私は今、自分の検査を疑っております。検査の手順に誤りがなかったか。試料に問題がなかったか。数値の読み方に間違いがなかったか。……それを、これから一つずつ確かめます」
「……」
「殿下」
「……はい」
「今は、何もお考えにならなくて結構です。お考えになる必要があるのは、すべてが確かめられたあとです」
ファインは、頷いたつもりだった。首が、うまく動かなかった。
◇
二度目の検査は、四日後だった。その四日間のことを、ファインはあとになってもうまく思い出せなかった。公務には出た。予定されていた地方の学校への訪問も、慈善団体の会合も、一つも欠かさなかった。子供たちに笑いかけ、質問に答え、握手をした。それはできた。身体は、いつものように動いた。ただ、夜になると、眠れなかった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。暗がりの中で、手が勝手に腹部へ伸びかけて、そのたびに止めた。触れてはいけない気がした。触れたら、何かを信じてしまう気がした。信じたあとで、それが間違いだったと言われたら。
そのときのことを考えると、息がうまく吸えなくなった。終わらせ方を整えるのが、自分の役目だと思っていた。それを受け入れるまでに、長い時間がかかった。子供のころ、そのことを初めて知らされたとき、自分は泣いたのだろうか。覚えていない。覚えているのは、父が何も言わずに長いあいだ隣に座っていたことと、姉がいつになく静かだったことだけだ。
それから何年もかけて、ファインはそれを、自分の人生の一部として飲みこんだ。飲みこんで、そのうえで笑えるようになった。
その飲みこんだものが、今になって、喉の奥から戻ってこようとしていた。二度目の検査では、血液の検査に加えて、画像での確認が行われた。薄暗くした部屋で、診察台に横になった。冷たいジェルが肌に触れ、先生が機械を当てる。モニターの画面に、白と黒の、砂嵐のような像が映った。ファインにはそれが何なのか分からなかった。
先生は、長いあいだ黙ってその画面を見つめていた。機械をわずかに動かし、角度を変え、また止めて、見つめた。
部屋の中には、機械の低い駆動音だけがあった。
「……殿下」
「……はい」
「こちらを」
先生が、画面の一点を指さした。黒い、小さな、楕円形の影があった。砂嵐の中にぽっかりと空いた、小さな空洞。
「これが、何かは、まだ申し上げられません」
先生の声は、わずかに掠れていた。
「ですが、私が検査を疑った理由の一つが、今、消えました」
ファインは、その影にじっと目を留めていた。黒い、小さな楕円。何の形にも見えなかった。何の意味も持っていないように見えた。それなのに、目が離せなかった。隣で、隊長が息を呑む気配がした。この人が息を呑む音を、ファインは初めて聞いた。
◇
先生は、さらに専門家を呼ぶことを提案した。一族のためだけに働く医師を、この国と、隣の国と、さらに遠くの国から三人。いずれもウマ娘の身体を専門とし、長い経験を持つ人々だった。先生は彼らに、事情をほとんど何も伝えなかった。ファインの以前の検査記録と、今回の検査記録を、別々の日付のものとして、別々に渡した。
先入観なしに、それぞれが独立して見るように。
一人目は、以前の記録を見て、先生と同じ結論を出した。子を成すことはできない身体である、と。それから、今回の記録を見て、長いあいだ黙りこんだ。二人目は、以前の記録に誤りがないかを、三日かけて確かめた。誤りは見つからなかった。今回の記録にも、誤りは見つからなかった。三人目は、ファイン自身を診察したいと言った。
そして、自分の手で、もう一度すべての検査をやり直した。結果は、同じだった。
その間に、一月二十七日が来た。ファインの誕生日だった。二十一歳になった。朝、暗いうちに目を覚まし、ニュースを読んだ。国内の記事を、上から順に。それからスマートフォンの別の画面を開くと、日本時間の午前零時ちょうどに届いたメッセージがあった。
――誕生日、おめでとう。
その下に、写真が一枚。コンビニの棚の、新作のカップ麺の写真だった。今日発売のものらしかった。
――今日から出てた。緑色のやつ。
ファインは、声を出して笑った。笑って、それから、どうしてか分からないまま、涙が出た。日本で迎えたこの日は三度あって、三度とも、この人は覚えていてくれた。最初は十八歳になった日で、何をあげたらいいか分からないと本人に訊いてきて、結局、学園のみんなと一緒に祝ってくれた。二度目は、少しだけ上手になって、緑色の文具を選んでくれた。
三度目は、延長が決まったあとの一月で、何も言わずに、ラーメン屋ののれんの前で写真を撮ってくれた。
今年は、日本の零時ちょうどに。こちらはまだ、前日の午後三時だった。彼女が昨日の午後の眠気の中にいたとき、彼はこれを送っていたのだ。この人は、何も知らない。自分が今、何を抱えているのか。何を確かめている最中なのか。彼は何も知らないまま、日本の真夜中に、緑色のカップ麺の写真を撮っている。言わなければ、と思った。でも、何を。
まだ何も確かめられていない。確かめられていないことを、あの人に伝えて、そのあとでもし違ったら。あの人は、何を思うだろう。
あの人は、きっと何も言わない。言葉を探して、見つからなくて、ただ黙る。そういう人だった。黙ったまま、全部を自分の中にしまいこむ。それをさせたくなかった。
――ありがとう。緑色、すごくおいしそう。
それだけ送った。送ってから、枕に顔を押しつけて、しばらく動けなかった。
◇
二月の最初の週に、最終的な所見がまとめられた。先生と、三人の専門家が、医療棟の小さな会議室に集まった。ファインもその場にいた。本人が同席を望んだからだ。隊長は、扉の近くに立っていた。窓の外は、珍しく晴れていた。冬の低い陽が斜めに射しこんで、会議室のテーブルの上に、細長い光の帯を作っていた。所見は、先生が読み上げた。
妊娠は、事実として確認される。
複数の検査方法で、複数の医師が、独立して確認した。以前の診断記録にも誤りは認められない。以前の診断と、現在の状態とは、両方とも事実である。経過は、現時点で正常である。そして、最後の一文。
「――本件について、現在の医学で説明可能な機序は、見出されなかった」
先生はそこで、紙を置いた。誰も、何も言わなかった。三人の専門家は、それぞれ別の方向へ視線を向けていた。一人は窓の外を。一人は自分の手元を。一人は、ファインのほうを。ファインは、光の帯に目を留めていた。テーブルの上に、埃が一粒、陽の中を浮かんでいた。ゆっくりと、ゆっくりと、落ちていく。
「……先生」
「はい」
「分からない、ってこと?」
「はい。分かりません」
先生は、はっきりと言った。
「私たちには、なぜこうなったのかを、説明することができません。調べられることは、すべて調べました。これ以上調べても、今の私たちの知識では、答えは出ないと考えます。……それを申し上げるのが、医師としての、私たちの務めです」
「……うん」
「ですが、殿下」
「……はい」
「分からないことと、確かなことは、別です。殿下のお身体の中で起きていることは、確かです。そして今のところ、それは健やかに進んでおります」
先生は、手元の端末を操作した。会議室の壁のモニターに、画像が映し出された。数日前の、三人目の専門家による検査のときのものだった。砂嵐のような白と黒の中に、あの小さな影があった。以前より、少しだけ大きくなっていた。そして、その影の中に、もっと小さな、白い点があった。点は、動いていた。速く。小さく。規則正しく。ちか、ちか、ちか、と。
灯台の灯りのように。遠い街の窓の灯りのように。
「……これ」
「心臓の、拍動です」
ファインは、その点滅をじっと追っていた。息を吸うのを、忘れていた。点滅は止まらなかった。音はなかった。けれど、ファインにはそれが聞こえるような気がした。とても速い、とても小さな、足音のような音が。どこかへ向かって、懸命に走っている足音が。気づくと、頬が濡れていた。ファインは、それを拭かなかった。拭けなかった。手が、膝の上で震えていた。
会議のあとで、専門家たちが部屋を出ていったあと、先生だけが残った。
先生は、窓辺に立っていた。晴れた冬の空の、どこまでも薄い青を見上げていた。
「……殿下」
「……はい」
「これは、記録には残りません。私個人の、独り言としてお聞きください」
「……うん」
「四十年、この仕事をしております」
先生は、窓の外を見たまま言った。
「多くの方の身体を診てまいりました。分かったことも、分からなかったことも、ございました。そのたびに、分からなかったことは分からないと、申し上げてきたつもりです」
「……」
「……私に言えるのは、一つだけです」
先生は、振り返った。その目元の皺が、陽の光の中で深く見えた。
「ウマ娘には、まだ、我々が知らないことがあるのでしょう」
ファインは、何も言えなかった。先生は、それ以上何も言わなかった。静かに一礼して、部屋を出ていった。隊長が、扉の近くに立ったまま、動かなかった。ファインは、自分の手を見下ろした。震えは、まだ止まっていなかった。
「……ねぇ、隊長」
「……はい」
「私、これ、信じていいのかな」
隊長は、すぐには答えなかった。窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。
「……先生は、確かだと仰いました」
「うん」
「分からないことと、確かなことは、別だと」
「……うん」
「殿下」
隊長は、ゆっくりとファインのそばまで歩いてきた。そして、警護の距離を、初めて越えた。床に片膝をつき、ファインと目の高さを合わせた。
「信じてよいかどうかを決めるのは、私ではございません」
「……」
「ですが、殿下が信じたいとお思いなら、私は、それをお守りいたします」
ファインは、隊長の顔を見た。いつもと同じ、読めない顔だった。けれど、その目の縁が、わずかに赤かった。ファインは笑おうとした。うまく笑えなかった。だから、泣いた。声を上げて泣くのは、日本のトレーナールーム以来だった。
第五章 一族の食卓
父に話したのは、所見がまとまった日の夜だった。父の書斎は、屋敷の西の端にあった。壁一面の書棚と、重い樫の机と、窓辺の古い肘掛け椅子。子供のころ、ファインはこの部屋に入るのが少し怖かった。父はいつも忙しく、書類の山の向こうで、誰かと電話で話していた。この国の政府で要職にある人の、それが日常だった。
いずれ自分がその地位を継ぐことになるのだと、ファインは幼いころから知っていた。
四年前、日本の学園から画面越しに話したとき、父は言った。行く末に必ず苦痛が待つ茨道を進もうというのか、と。そして、最初の三年間だけ、という条件をつけて、レースに出ることを許した。三年目の冬、ファインが一年の延長を願い出たとき、父は短く答えた。一年だ。それと、ファイン。それを言うのに、三年かかったな。その父が、今、机の向こうで黙っていた。
ファインは、すべてを話した。体調の変化。隊長の進言。最初の検査。二度目の検査。三人の専門家。最終的な所見。説明のつかない、けれど確かな事実。それから、帰国の前の夜のこと。相手が誰であるか。
隊長が同席していた。先生も、所見の書類を持って同席していた。父は、話の途中で一度も口をはさまなかった。ファインが話し終えても、何も言わなかった。沈黙は、長かった。暖炉で薪が崩れる音がした。窓の外で、風が鳴っていた。時計の秒針が、何十回も、何百回も進んだ。ファインは背筋を伸ばしたまま、父の顔を見つめていた。
父は、机の上で組んだ自分の手に視線を落としていた。
この人がこれほど長く黙るのを、ファインは見たことがなかった。やがて、父は顔を上げた。
「……先生」
「はい」
「娘の身体は、無事か」
最初の言葉が、それだった。血筋のことでも、一族の名誉のことでも、外聞のことでもなかった。ファインは、胸の奥で何かが小さく軋むのを感じた。
「現在のところ、母体、胎児ともに、経過は正常でございます」
「今後は」
「経過を慎重に見守る必要がございます。前例のない事例ですので、通常よりも頻繁な診察と、万全の体制を整えるべきかと存じます」
「整えてくれ。必要なものは、すべて」
「承知いたしました」
父は、それからファインのほうを見た。書斎の灯りの中で、父の目は暗く、深く、何を考えているのか読めなかった。
「ファイン」
「……はい」
「お前は、それを望んでいるのか」
二つ目の問いが、それだった。ファインは、すぐには答えられなかった。望んでいるのか。考えたこともなかった。考えることが許されないと思っていたから。望む、ということの前に、ありえない、ということがあったから。けれど、あの画面の中の、小さな点滅を見たとき。ちか、ちか、ちか、と、懸命に走っているような、あの光を見たとき。
自分の中に湧き上がったものが何だったのかを、ファインは知っていた。
「……はい」
声が、震えた。
「望んでいます。……望んで、いいのか分からないけど。でも、望んでいます」
父は、また黙った。今度の沈黙は、短かった。父は深く息を吐き、椅子の背にもたれた。そして、窓のほうへ視線を向けた。窓の外は暗く、ガラスに書斎の灯りが映っていた。
「……あの男は、あのとき画面の向こうで、本人が決めることだと申したな」
ファインは、息を止めた。
「苦痛が来るのは本当だろう、だが今も苦痛はある、見学席から動けないことがあの人の苦痛だ、と。どちらの苦痛を選ぶかは本人が決めることだ、と」
「……覚えて、いらしたんですね」
「忘れるものか」
父は、ほんのわずかに口の端を動かした。笑ったのかどうか、ファインには分からなかった。
「あのとき私は、あの男を試した。あの男は、自分のことを一つも語らなかった。お前のことしか語らなかった。……だから、許した」
「……」
「隊長」
「はい」
扉の近くに立っていた隊長が、一歩前に出た。
「帰国の前夜の件は、お前が手配したと聞いている」
「はい」
隊長は、背筋を伸ばしたまま答えた。その声は、いつもと同じ平らさだった。
「あの一晩は、私が手配いたしました。警護計画を組み、ご報告を上げ、鍵を早瀬さまにお渡ししたのは、私でございます」
「……」
「処分は、いかようにも」
ファインは思わず立ち上がりかけた。
「お父様、隊長は――」
「座りなさい」
父の声は静かだった。ファインは、座った。父は、しばらく隊長の顔をじっと見つめていた。
「お前は、あのとき何を考えて手配した」
「……殿下が、四年のあいだ、一度もご自分のために何かをお求めにならなかったことを、考えておりました」
「……」
「最後の一晩くらいは、殿下のためだけのものであってよいと。……それだけでございます」
父は、目を閉じた。長い呼吸が一つ。
「……処分はしない」
「……」
「お前がいなければ、この子は今ごろ、自分の身体の異変を誰にも言わずに抱えこんでいただろう。……それだけで、十分だ」
隊長は、深く一礼した。頭を上げたとき、その耳が、わずかに震えていた。
◇
姉の反応は、父とは正反対だった。翌朝、ファインが姉の部屋を訪ねて同じ話をすると、姉は最後まで黙って聞いたあとで、椅子から勢いよく立ち上がった。
「――おお、我が妹よ!」
両腕を大きく広げた。
「なんということだ。なんという、なんという! この冬の灰色の空の下に、かくも眩い光がもたらされようとは! 天は我らを見捨てていなかった。いや、天などという曖昧なものではない。これは君自身が、あの遠い東の国で掴み取った――」
「お姉様、声が大きい」
「大きくて何が悪い! 今この瞬間、この屋敷の石壁の一つひとつに、この喜びを刻みつけてやりたいくらいだ!」
「秘密なの。まだ、限られた人しか知らないの」
「む」
姉は広げた腕を、中途半端な位置で止めた。
「……ならば、声は小さくしよう。だが喜びは小さくしない」
「ふふっ、それでいいよ」
姉はそれから、ファインが止める間もなく、手元の端末で何かを操作しはじめた。
「お姉様?」
「日本行きの航空券だ」
「……え?」
「君はいずれ日本へ行くのだろう? 行かねばならないだろう? あの男に会わねばならないだろう? ならば私も行く。当然だ。いつになるかは知らないが、とりあえず押さえておいた。三月、四月、五月。どの月でも対応できるように」
「……三つも?」
「空席は、待ってはくれないのだよ」
呆れるより先に、笑ってしまった。姉はいつもこうだった。誰よりも早く、誰よりも大げさに、誰よりも先に動く。それが周りを振り回すこともあった。けれど、いざというとき、実際に物事を動かしているのは、いつもこの人だった。それから姉は、端末を置いた。急に、静かになった。窓辺に歩いていき、背を向けたまま、外の丘を見た。
朝の光が、長い髪の縁を白く縁取っていた。
「……我が妹よ」
「……うん」
「私はね。君に押しつけたものを、今日まで下ろせずにいた」
ファインは、何も言えなかった。
「私が勝手にレースの世界へ飛びこんだから、一族の務めは全部、君の肩に乗った。君はそれを一度も嫌だと言わなかった。……言わなかったから、私はずっと、それを下ろす機会を失っていた」
「……お姉様」
「君の役目は、終わらせ方を整えることだと言われていたね。それを決めたのは君ではない。医者と、身体と、この家の歴史だ。君はそれを、黙って引き受けた」
姉は振り返った。いつもの芝居がかった表情は、どこにもなかった。
「……それが、終わるのだな」
ファインの目に、また涙がにじんだ。この一か月で、何度泣いたか分からなかった。四年間、日本でほとんど泣かなかったぶんを、今まとめて返しているようだった。
「……うん。たぶん、終わる」
「たぶん、ではない。終わるのだ」
姉はそう言って、ファインの頭をくしゃりと撫でた。子供のころ以来だった。
「さて。泣いている暇はないぞ、我が妹よ。やることが山ほどある」
「……うん」
「まずは、我が心の女帝陛下への手紙を書かねば」
「それは、あとでいいと思うな」
◇
親族の反応は、割れた。二月の半ば、一族のうちごく近しい人々だけが集められ、父から事情が説明された。先生も同席し、医学的な所見を読み上げた。説明のつかないこと。けれど、確かなこと。ファインもその場にいた。長いテーブルの端で、背筋を伸ばして座っていた。喜ぶ人がいた。血が続くことを、涙を浮かべて喜ぶ年配の親族がいた。
途絶えるはずだったものが続くのだと、神に感謝すると言った。
冷静に考える人がいた。日本との関係について、これを外交上どう扱うべきかを話しはじめる人がいた。親善のための公務と結びつければ、双方にとって好ましい形にできるのではないかと。そして、黙って眉をひそめる人がいた。相手は誰なのか、と、その人は言った。日本の、一介のトレーナー。王族の末裔を預かる立場にありながら、その相手と――。
「――彼との関係が始まったのは、担当契約が終わったあとです」
ファインは、その人の言葉をさえぎらなかった。言い終わるのを待ってから、静かに言った。
「四年間、あの人は一度も、私に対して一線を越えるようなことをしませんでした。隊長が、それをいちばんよく知っています」
扉の近くで、隊長が一礼した。
「……それは、そうかもしれないが」
その人は、それ以上は言わなかった。けれど、納得した顔ではなかった。ファインは、それでいいと思った。全員に納得してもらう必要はなかった。訂正しなければならないことは訂正した。それ以上を求めるつもりはなかった。会が終わったあと、ファインは父の書斎を訪ねた。父は窓辺の肘掛け椅子に座っていた。ファインは、その前に立った。
「お父様」
「……ああ」
「一つだけ、申し上げておきたいことがあります」
父は、顔を上げた。
「私、あの人と生きたいです」
声は、震えなかった。
「血筋のためじゃありません。使命のためでもありません。……この子がいるからでも、たぶん、ないんです。この子がいなくても、私はそう思っていました。一度目のエリザベス女王杯の夜から、ずっと」
「……」
「私が、そうしたいからです」
ファインは、一度息を吸った。
「反対なさるなら、伺います。お話も、いくらでもします。でも」
四年前、日本で、あの人が最初に出した条件を思い出した。決めるのはあなたです。
「決めるのは、私です」
父は、長いあいだ娘の顔を見つめていた。それから、ふっと視線を窓の外へ移した。
「……反対は、しない」
「……」
「するつもりなら、とうにしている。あの男を、三年、いや四年、お前のそばに置いておくことを許した時点で、私はもう、反対する資格をなくしていたのかもしれん」
「……お父様」
「ただし」
父は、もう一度ファインを見た。
「あの男とは、一度話をさせてもらう。お前抜きでだ」
「……はい」
「それと、ファイン」
「はい」
「それを言うのに、今度は一年で済んだな」
ファインは、思わず笑った。笑いながら、また少し泣いた。
◇
その夜、ファインは隊長を自室に呼んだ。
「お願いがあるの」
「はい」
「あの人に、伝えてほしいの」
隊長の耳が、わずかに動いた。
「……殿下ご自身からではなく、でございますか」
「うん」
ファインは、ベッドの端に腰かけていた。膝の上に、帰国してから一度も開いていなかったノートを置いていた。十冊のうちの、最後の一冊。第四年のノート。エリザベス女王杯の連覇と、引退と、帰国の前の夜までが書かれている。
「私が電話したら、たぶん泣いちゃう。泣いたら、ちゃんと言えない。ちゃんと言えないまま、あの人に中途半端なことを伝えたくないの」
「……」
「ちゃんと言うのは、会ったときにする。私の口で、あの人の顔を見て。……でも、それがいつになるか分からないでしょう? 何か月も先になるかもしれない。そのあいだ、あの人に何も知らせないのは、ずるいと思うの」
「ずるい、でございますか」
「うん。あの人が何も知らないで、日本の真夜中に、緑色のカップ麺の写真を撮ってるのを想像すると……なんだか、ずるいことしてる気持ちになるの」
隊長は、しばらく黙っていた。
「……承知いたしました。何とお伝えいたしましょう」
ファインは、少し考えた。伝えなければならないことは、たくさんあった。検査のこと。先生のこと。三人の専門家のこと。画面の中の点滅のこと。父のこと。姉のこと。自分が今、何を思っているか。けれど、それを全部隊長に言わせるのは違うと思った。それは、自分が言うべきことだった。
「……懐妊が確認された、って」
「はい」
「それと、医学的な説明は、今のところない、って」
「はい」
「それだけ」
「……それだけで、よろしいのですか」
「うん。それ以上は、私が言う」
隊長は、深く頷いた。
「日本時間の、何時ごろにいたしましょう」
「……あの人、夜は遅くまで起きてるの。資料を見てたり、ぼーっとしてたり。だから、日本の真夜中くらいがいいと思う」
「承知いたしました」
隊長は一礼して、扉へ向かった。その背中に、ファインは声をかけた。
「隊長」
「はい」
「あの人、たぶん、何か落とすと思う」
「……」
「驚くと、手に持ってるもの、落とすの。四年間で三回見た」
「……では、先にお座りいただくよう、申し上げます」
「ふふっ。お願い」
扉が閉まった。ファインは、膝の上のノートを開いた。最後のページには、帰国の前の夜のことが、短く書かれていた。
――名前をつけた。全部に。
その下は、空白だった。ファインはペンを取り、その空白に、一行だけ書き足した。
――終わらなかった。
書いてから、しばらくその文字を眺めていた。それから、その下にもう一行。
――どうしよう。私、その練習、してないよ。
第六章 深夜の国際電話
担当のいなくなったトレーナールームは、音がよく響いた。二月の夜の学園は、ひどく静かだった。窓の外のトラックには照明が落ち、冬の星が、乾いた空気の中でいつもより多く見えた。廊下の先の自動販売機の、低い唸りだけが、ときどき思い出したように聞こえてくる。暖房は八時で切れる設定になっていて、部屋の空気は少しずつ冷えていった。
早瀬雅也は、机の上に広げた資料を一枚ずつめくっていた。
四年分の記録だった。出走したレースの一つひとつについて、事前の検討、当日の天候とバ場、レース後の本人の言葉、面白かったこと三つ。四つ目の課題が加わってからは、他のウマ娘が今日何を考えていたか。それらを、年ごとにファイルに綴じていく作業を、年が明けてから少しずつ続けていた。急ぐ必要はなかった。学園からは、次の担当について何度か打診があった。
雅也はそのたびに、もう少し時間をくださいと答えていた。今より多く見る自信がない、と。それは本心だった。けれど、それだけが理由でないことも、自分で分かっていた。
この部屋を、まだ空にしたくなかった。四年間、この部屋にはいつも彼女がいた。窓際の椅子に座って、ノートに何かを書いていた。質問をしていた。どうして、と。教えて、と。ラーメン屋の地図を広げて、次はどこに行こうかと相談していた。SP隊長が扉の外に立っていて、ときどき、中の笑い声に合わせて肩を揺らしていた。今、窓際の椅子には誰も座っていない。
「――早瀬さん。まだいらしたんですか」
扉が開いて、西澤千帆が顔を出した。サブトレーナーとして、四年間、雅也の仕事を支えてきた人だった。コートを着て、鞄を肩にかけていた。帰るところらしかった。
「ああ。もう少しだけ」
「もう十時過ぎてますよ」
「うん」
「うん、じゃなくて。ちゃんとご飯、食べました?」
「……食べた」
「何を」
「……パン」
「パンは食事じゃありません」
千帆は呆れた顔で溜め息をつき、それから、机の上の資料に目をやった。
「……まだ、整理終わらないんですね」
「急いでない」
「知ってます」
千帆は、少しだけ声を落とした。
「殿下から、何か連絡ありました?」
「ときどき」
「お元気そうですか」
「……たぶん」
「たぶん、って」
「文字だけだから、分からない」
千帆は何か言いかけて、やめた。代わりに、鞄から小さな紙袋を取り出して、机の端に置いた。
「おにぎりです。コンビニのですけど。パンよりはましでしょ」
「……ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、お先に失礼します。……早瀬さんも、早く帰ってくださいね」
「うん」
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかっていった。雅也は、紙袋を見た。それから、また資料に目を戻した。ファインからの最後のメッセージは、一週間前だった。
――こっちは、珍しく晴れたよ。
それだけだった。その前は、誕生日の返事。緑色、すごくおいしそう。その前は、クリスマスローズの名前。下から覗くと、ちゃんと顔が見えるの。文字だけでは、分からなかった。彼女が元気なのかどうか。何をしているのか。何を考えているのか。四年間、隣で毎日見てきた人のことが、文字だけになった途端、急にうまく読めなくなった。声の調子が聞こえない。
耳の角度が見えない。笑顔のまま声だけが沈む、あの合図を拾うことができない。
今日、困ったことあったか。そう送ろうとしたことが、何度かあった。そのたびに、指を止めた。彼女はもう、自分の担当ではない。毎日一度その問いを投げかけることが許されていたのは、担当だったからだ。今それを送ったら、それは何の問いになるのだろう。答えを見つけられないまま、送らずにいた。聞いてほしそうな顔をしていない人間には、聞かない。
自分の癖が、また出ていることに、雅也は気づいていた。気づいていて、どうすればいいのか分からなかった。顔が見えないのだから、聞いてほしそうかどうかも分からない。分からないなら、聞けばいい。理屈では分かっていた。
窓の外で、風が鳴った。
◇
家に帰り着いたのは、十一時を過ぎたころだった。部屋は冷えきっていた。暖房をつけ、上着を脱ぎ、千帆にもらったおにぎりを一つ食べた。梅干しの酸っぱさが、疲れた舌に沁みた。もう一つは、明日の朝に回すことにした。ダイニングの椅子に座って、テーブルの上を見た。一冊のノートが、あのときのまま置いてあった。帰国の朝、彼女が預けていった最初の一冊。
雅也は一度も開いていなかった。預かっとく、と言ったのだから、勝手に開くのは違う気がした。ただ、毎晩帰ってくると、そこにあることを確かめていた。
湯を沸かして、茶を淹れた。マグカップを両手で持ち、その温かさを指先に移しながら、ぼんやりとしていた。テレビはつけなかった。何かを見る気にはならなかった。十二時を過ぎた。眠るべきだった。明日も朝から学園に行く用事がある。けれど、身体が椅子から動かなかった。一時を少し過ぎたころ、スマートフォンが震えた。着信だった。
画面に表示された番号は、見慣れない国際番号だった。
雅也は、一瞬だけ迷った。この時間に、知らない番号。けれど、その国番号には見覚えがあった。四年間、SP部隊や王家の関係者とのやり取りで、何度も見てきた番号だった。通話ボタンを押した。
「……はい」
『――夜分に失礼いたします。早瀬さま』
SP隊長の声だった。四年間、毎日のように聞いていた声。平らで、礼儀正しく、何を考えているのか読ませない声。その声が、国際電話の回線の向こうで、かすかに遅れて届いた。
「……はい」
『殿下より、お伝えするようにと』
「……はい」
心臓が、一度だけ強く打った。殿下より。ファインから。わざわざ、隊長を通して。この時間に。何かあったのだ、と思った。何か、悪いことが。体調を崩したのか。怪我をしたのか。一族の中で何か問題が起きたのか。頭の中を、いくつもの可能性が一瞬で駆け抜けた。マグカップを持つ手に、力が入った。隊長は、ほんの一瞬だけ、言葉を切った。
『――ご懐妊が、確認されました』
「…………は」
声が、出なかった。言葉は聞こえた。一つずつの音は、正しく耳に届いた。ごかいにん。かくにん。されました。けれど、それが意味に組み上がらなかった。知っている言葉のはずなのに、知らない国の言葉のように、音だけが耳の中で浮いていた。
『繰り返します』
隊長の声は、変わらず平らだった。
『ご懐妊が、確認されました』
「……あの、それは」
何を訊こうとしたのか、自分でも分からなかった。それは、どういう意味ですか。それは、誰のことですか。それは、本当ですか。どの問いも、言葉になる前に崩れた。頭の中に、帰国の前の夜の、彼女の声が響いていた。頭の中に、帰国の前の夜の彼女の声が響いていた。
――「私、子供が産めない身体なんだって。お父様と、お姉様と、隊長と、お医者様しか知らないの。だから私の代で、この血は終わり。そう決まってるの」
隊長は、続けた。
『――以上が、私がお伝えするようにと申しつかった全文です』
「……」
全文。それだけ。それだけを伝えるために、この人は今、遠い国から電話をかけてきた。雅也は、何も言えなかった。口を開けて、閉じた。もう一度開けて、また閉じた。喉の奥が乾いていた。
『……早瀬さま』
「……はい」
『座っておいでですか』
「……いえ」
言ってから気づいた。いつの間にか、自分は立ち上がっていた。椅子を後ろに押しのけて、テーブルに片手をついていた。いつ立ったのか、覚えていなかった。
『お座りください』
その言葉と同時に、手から何かが滑り落ちた。マグカップだった。床に落ちて、鈍い音を立てた。割れはしなかった。けれど、中に残っていた茶が床に広がり、湯気が細く立ちのぼった。靴下の爪先が、ぬるい液体に濡れた。雅也は、それを見下ろしていた。拾わなければ、と思った。拭かなければ、と思った。身体が動かなかった。
『……早瀬さま』
「……すみません」
『お座りください』
二度目のその言葉で、ようやく膝が折れた。椅子に腰を落とした。濡れた床に、足を置いたまま。回線の向こうで、隊長が小さく息を吐く気配がした。安堵のようにも、別の何かのようにも聞こえた。雅也は、目を閉じた。額に手を当てた。指先が冷たかった。何を訊けばいいのか。何を言えばいいのか。考えがまとまらなかった。まとまらないまま、口が勝手に動いた。
「……彼女は」
『はい』
「彼女は、無事ですか」
それが、最初に出てきた言葉だった。隊長は、少しだけ間を置いた。
『……はい。殿下のお身体は、現在のところ、健やかでいらっしゃいます。経過も正常であると、主治医の先生と、複数の専門家の方々が確認なさっております』
「……そうですか」
『はい』
「……本人は」
雅也は、言葉を探した。
「本人は、どう、したいと」
回線の向こうで、隊長が何かを飲みこむような気配がした。
『……殿下ご自身のお気持ちは、殿下ご自身の口から、早瀬さまにお伝えになるそうです』
「……」
『殿下は、お電話では泣いてしまって、きちんとお伝えできないとおっしゃいました。ですから、お会いになったときに、ご自分でと』
「……そうですか」
『はい。……それまでのあいだ、早瀬さまに何もお知らせしないのは、ずるいことだと』
雅也は、もう一度目を閉じた。ずるい。その言葉が、あまりにも彼女らしくて、胸の奥の何かが軋んだ。
『殿下は、もう一つ、おっしゃっておいででした』
「……はい」
『早瀬さまは、驚かれると、手に持っているものをお落としになると。四年間で、三度ご覧になったそうです』
「……」
『ですので、先にお座りいただくようにと』
雅也は、床に転がったマグカップを見た。ああ、と思った。遅かった。
「……四度目です」
『……さようでございますか』
回線の向こうで、隊長の声が、ほんのわずかに揺れた。笑ったのかもしれなかった。この人の笑い声を、雅也は四年間で一度も聞いたことがなかった。
『早瀬さま』
「はい」
『殿下のお身体と、今後の警護と医療の体制については、私どもが万全を期してまいります。ご心配なさらないでください、とは申し上げません。ご心配なさるのは、当然のことですので』
「……はい」
『ですが、殿下は、お一人ではございません』
「……はい」
『それだけは、お伝えしておきたく存じました』
「……ありがとうございます」
『それでは。……夜分に、失礼いたしました』
通話が切れた。画面が暗くなった。部屋の中には、暖房の唸りと、冷蔵庫の低い音と、自分の呼吸の音だけが残った。
◇
床を拭いたのは、それから十分ほど経ってからだった。布巾を濡らして、茶の広がったところを拭いた。マグカップを拾った。取っ手の根元に、細いひびが入っていた。流しに置いて、しばらくそれを眺めていた。それから、また椅子に座った。テーブルの上の、ノートを見た。開かなかった。手を置くことも、しなかった。ただ、そのまま視線を置いていた。懐妊。
その言葉を、頭の中で何度も繰り返した。繰り返すたびに、少しずつ、それが意味を持ちはじめた。音だけだったものが、形になっていく。形になっていくにつれて、胸の奥に、何か大きなものがゆっくりと沈んでいくのが分かった。重いのか、温かいのか、冷たいのか、それさえ分からなかった。ただ、大きかった。
医学的な説明は、存在しない。雅也は、説明を探そうとした。どうして、と考えた。考えずにはいられなかった。彼女は子供が産めない身体だと言った。それは何年もかけて確かめられた事実だと。家族と、主治医と、隊長しか知らないことだと。それが、どうして。医学のことは、何も分からなかった。
トレーナーとして四年間、彼女の身体の記録を取り続けてきたが、その記録を判断するのはいつも医療の専門家だった。自分にできたのは、観察して、書きとめて、正しい人に渡すことだけだった。怪我の兆候を見つけたら医療スタッフにつなぐ。体調の変化に気づいたら帯同医に伝える。自分が診断することはない。できないし、してはいけない。
その自分が、今、説明を探そうとしていた。分からないことを、分かろうとしていた。分かるはずがなかった。複数の専門家が確かめて、それでも説明できなかったことを、医学の素人の自分が、深夜の台所で分かるはずがなかった。雅也は、探すのをやめた。やめた瞬間に、何かが、ふっと軽くなった。分からないままでいい、と思った。
分からないことは、分からないままでいい。今確かなのは、彼女が無事であること。経過が正常であること。そして、彼女が、自分の口で伝えたいと言っていること。それだけで、今は十分だった。
十分すぎるほどだった。雅也は、手のひらで顔を覆った。目の奥が熱かった。何に対する熱さなのか、自分でも分からなかった。喜びなのか、驚きなのか、恐れなのか。帰国の前の夜の、彼女の声が、また耳の奥で響いた。私がやるのは、終わらせ方を整えること。変な役目でしょ。あのとき自分は、それが君の価値と何の関係があるんだ、と言った。
言い方が悪かったと、すぐに謝った。
今も、その言葉を取り消すつもりはなかった。子供がいてもいなくても、彼女の価値は変わらない。それは今も本当だった。本当なのに、胸の奥で、何かがどうしようもなく震えていた。終わらなかったのだ、と思った。彼女が整えるはずだった終わりが、終わらなかった。それが、彼女にとって何を意味するのか。喜びなのか。重荷なのか。両方なのか。
雅也には分からなかった。分からないから、会ったときに聞こうと思った。彼女が話したいと言うことを、全部聞こうと思った。今度こそ。
窓の外が、白みはじめていた。結局、一睡もしなかった。雅也は立ち上がり、流しのマグカップを手に取った。ひびの入った取っ手を、指でなぞった。捨てようとして、やめた。何年もこの家で使ってきたカップだった。帰国の前の夜、彼女のために茶を淹れたのも、このカップだった。棚の奥に、そっとしまった。
第七章 数字の外側
エアシャカールがトレーナールームの扉を開けたのは、電話から三日後の夕方だった。ノックはなかった。扉が乱暴に開いて、冷たい廊下の空気と一緒に、黒い髪を低い位置で束ねた長身のウマ娘が入ってきた。制服の上に、くたびれたパーカーを羽織っていた。片方の耳に光るピアスが、窓から射しこむ夕陽を小さく跳ね返した。
脇に、使いこまれたノートパソコンを抱えていた。
「……いるな」
「いる」
「ならいい」
彼女は勝手に窓際の椅子を引いた。四年間、ファインがいつも座っていた椅子だった。シャカールはそれを知っていたはずだった。知っていて、そこに座った。あるいは、知っていたからこそ。パソコンを机の上に置き、開く。画面の光が、鋭い目元を青白く照らした。
「ファインから、聞いた」
前置きは、それだけだった。雅也は、手に持っていた書類を置いた。
「……いつ」
「昨日の夜。こっちの夜中の二時にかけてきやがった。向こうは夕方だ。時差くらい計算しろってンだよ」
「……そうか」
「電話じゃ泣くから言わねェっつってたらしいな、オマエには」
「……ああ」
「オレにはかけてきた」
シャカールは画面から目を離さずに言った。
「泣いてたぜ。最初の五分は、まともに喋れてなかった」
雅也は、何も言わなかった。
「そのあと、笑ってた。泣きながら笑ってた。どっちかにしろって言ったら、どっちもだって言いやがった」
「……」
「ったく。非論理的にもほどがある」
言葉は乱暴だった。けれど、その声は、いつもより少しだけ低かった。エアシャカールは、ファインの友人だった。四年前、ファインが初めて本気で走った模擬レースの相手。見た目は近寄りがたいほど鋭く、口も悪く、けれど実態は、綿密なデータと論理で勝利を組み立てるロジカリスト。嘘と方便を何よりも嫌う。
ファインの笑顔の奥にある嘘を、最初に見抜いたのもこの人だった。
四年前、雅也がファインの担当になるかどうかを迷っていたとき、この人は言った。覚悟もねェのに、半端に手ェ出すンじゃねェよ。雅也は一度引き下がり、三日後に戻った。覚悟はたぶんある、ただそれが足りてるかは分からない、足りてるかどうかを決めるのは俺じゃない、走るのはあの人だ、と言った。シャカールはそのとき、長いあいだ黙っていた。
「……で」
シャカールは、画面を雅也のほうへ向けた。
「これ、見ろ」
表計算のシートだった。十八の行。一行ごとに、日付、レース名、格、距離、競馬場、バ場状態、出走間隔、位置取り、上がりの推定値。いくつかの行には、着差が入っていた。秋華賞、三馬身半。大阪杯、半馬身。三年目の札幌記念、クビ。四年目の札幌記念、一馬身半。三年目のエリザベス女王杯、ハナ。
「ファインの十八戦だ。公開されてるデータと、オレが現地で取った計測と、アイツ本人から聞いた話を突っこんである」
「……いつから、こんなものを」
「最初からに決まってンだろ」
シャカールは鼻を鳴らした。
「アイツがオレに負けた模擬レース。あの日から全部取ってる」
雅也は、画面を見た。四年間、自分も同じものを記録してきた。けれど、自分の記録とは形が違った。自分の記録は、言葉が多かった。本人がどう感じたか。何が面白かったか。シャカールの記録は、数字だけでできていた。
「出走数、十八。四年で割って、年四・五。出走間隔は最短で中三週。中二週以下はゼロ。距離は千六百から二千四百。全部、アイツの適性の内側だ。マイルと中距離。先行。長距離は一回も使ってねェ。有馬も、天皇賞の秋も、ジャパンカップも、マイルチャンピオンシップも出てねェ」
「……ああ」
「批判されてたよな。相手を選んでるって。走らなかったから負けなかったんだって」
「された」
「半分は、正しい」
シャカールは、画面の一点を指で叩いた。
「負けにくい条件だけを選んで走らせた。そういう設計だ。勝率ってのは、走った回数で割った数字だからな。走らなかったレースは、分母に入らねェ」
「……」
「悪いとは言ってねェ」
シャカールは、すぐに付け加えた。
「アイツには三年って期限があった。延びて四年。その中で、一戦も落とさずに、一回も壊れずに、最後まで走り切るための最適解だ。オレが組んでも、たぶん似たような形になる。……ただ、それは強さの証明にはならねェって言う連中の言い分も、論理的には筋が通ってる」
雅也は、頷いた。東条ハナも、同じことを言っていた。出走数が少なすぎる、あれは強さの証明にならない、と。最後までその批判を崩さなかった。それは筋が通っていると、雅也自身も思っていた。
「で、だ」
シャカールは、シートをスクロールした。十八の行の下に、空白の行があった。その空白の行に、一つだけ文字が打ちこまれていた。
――十九。
「これが、今回のやつだ」
「……」
「どの変数にも入ってねェ」
シャカールは、椅子の背にもたれた。天井を見上げた。
「このシートには、十八戦分の条件が全部入ってる。距離、バ場、間隔、相手、天候、アイツの体調の申告。勝った理由を説明するための変数だ。オレはこれで、アイツの次のレースの結果を、かなりの精度で予測できた。……実際、十八回のうち、予測を外したのは内容だけで、結果は一回も外してねェ」
「……」
「今回のは、この表のどこにも入らねェ。どの列にも対応しねェ。距離でもバ場でも間隔でもねェ。……アイツの身体の中で、オレの表の外側のことが起きた」
夕陽が、窓の外で沈みかけていた。部屋の中が、橙色から灰色へ移っていく。雅也は照明をつけなかった。パソコンの画面の光だけが、二人の顔を照らしていた。
「……医者は、なんて言ってた」
雅也が訊いた。シャカールは、天井を見たまま答えた。
「アイツから聞いた範囲でいいなら」
「いい」
「医者が四人。主治医と、外から呼んだのが三人。別々に調べた。前の診断記録も洗い直した。前の診断に間違いはねェ。今の状態にも間違いはねェ。両方とも事実。経過は正常。そンで、なんでこうなったかの説明はつかねェ。……以上だ」
「……」
「な?」
シャカールは、顔を雅也のほうへ戻した。
「分かってることと、分かってねェことが、きれいに分かれてる。医者ってのは、こういうとこだけはちゃんとしてやがる」
「……ああ」
「分かってること。アイツは妊娠してる。複数の人間が、複数の方法で確かめた。前の診断も間違いじゃねェ。今のところ母子ともに問題ねェ。……分かってねェこと。なんで、そうなったか。それだけだ」
シャカールは、指を一本立てた。
「分かってねェことは、一個だけなンだよ」
雅也は、その指先に目を留めていた。
「……俺は」
「あ?」
「電話のあと、一晩、考えた。どうしてなのか」
「で、何か分かったか」
「……何も」
「当たり前だろ」
シャカールは、心底呆れたような声を出した。
「医者が四人がかりで分かんねェもんを、素人のオマエが台所で考えて分かるわけねェだろ。分かったら、そっちのほうが問題だ」
「……そうだな」
「数字が説明できねェなら、説明できねェって結論を置くしかねェ」
シャカールは、画面の「十九」の行を見た。
「それが一番正しい処理だ。説明できねェものに、無理やり説明をくっつけるのが、いちばんロジカルじゃねェ」
◇
照明をつけたのは、シャカールだった。完全に暗くなった部屋の中で、彼女は立ち上がり、壁のスイッチを乱暴に押した。蛍光灯が瞬いて、白い光が部屋を満たした。まぶしさに、雅也は目を細めた。シャカールは、窓際に戻らなかった。壁にもたれて、腕を組んだ。
「一個、言っとく」
「……ああ」
「これから、アイツの周りの連中は、たぶんこれを物語にしたがる」
「……物語」
「無敗のまま引退した姫サマに、奇跡が起きた。十八戦十八勝の、選ばれた身体だったから。一度も負けなかった特別な存在だから。……そういう話を、誰かが必ず作る。記者か、ファンか、アイツの親戚か、知らねェけど」
シャカールの声が、わずかに低くなった。
「十八戦十八勝ってのは、結果だ」
「……」
「そこから先まで、因果を作るな」
雅也は、シャカールの顔を見た。
「アイツは、十八回走って十八回勝った。それは、適性と、出走間隔と、判断と、アイツ自身の脚で積み上げた結果だ。……それと、今回のことは、関係ねェ。関係あるって証拠は、どこにもねェ。無敗だったから子供ができたなんて話は、クソみてェな非論理だ」
「……ああ」
「オマエも、やるなよ」
「……俺が?」
「オマエは、自分の手柄にしねェ人間だ。それは分かってる。……けど、逆に、アイツの走りを何かの前触れにしたがるかもしれねェ。十八戦のどっかに意味を探して、これにつながる線を引きたがるかもしれねェ。人間ってのは、そういう生き物だからな」
雅也は、少し考えた。電話のあとの夜を思い出した。説明を探そうとして、探せなくて、やめた。やめたあとで、少しだけ軽くなった。
「……しない」
「本当か」
「一晩やって、やめた」
「……そうかよ」
シャカールは、鼻を鳴らした。それが納得の音なのかどうか、雅也には分からなかった。
◇
しばらく、どちらも喋らなかった。廊下の先の自動販売機が、低く唸っていた。遠くで、夜間練習を終えたウマ娘たちの笑い声が聞こえて、すぐに遠ざかった。
「……なあ」
雅也が言った。
「あ?」
「俺に、何ができる」
シャカールは、しばらく雅也を値踏みするように眺めていた。四年前、覚悟の話をしたときと同じ目。
「……それ、訊くのか」
「訊く」
「定義からだな」
シャカールは、壁から背中を離した。
「守る、って言いたいンだろ。アイツを」
「……ああ」
「なら、守るってのを分解しろ」
彼女は、指を一本ずつ折っていった。
「アイツの身体。これは医者の仕事だ。主治医と、専門家と、たぶんこれから日本側の医者もつく。オマエは口を出せねェし、出すな」
「出さない」
「アイツの安全。これはSPの仕事だ。あの隊長と部隊がいる。四年間、一回も穴を開けなかった連中だ。オマエより百倍上手い」
「そうだな」
「アイツの立場。一族の中のこととか、外交とか、世間の目とか。これは親父さんと、一族の仕事だ。オマエにはどうにもならねェ」
「……ああ」
「で」
シャカールは、三本折った指を、雅也の前に突き出した。
「残りは、何だと思う」
雅也は、その三本の指を見た。医療。警護。立場。四年間、自分がしてきたことを思い出した。自分は医療をしなかった。警護もしなかった。王家との交渉はしたけれど、決めたのはいつも向こうだった。自分がしたのは、選択肢を並べることと、安全の条件を守りながら範囲を広げることと、それから――。
「……決めさせること」
シャカールの目が、わずかに細くなった。
「……続けろ」
「あいつが決めたことを、誰にも、上書きさせないこと」
「……」
「医者が何を言っても、一族が何を言っても、世間が何を言っても。最後に決めるのは、あいつだ。俺は、そのための場所を空けておく。……四年間、それしかしてこなかった」
シャカールは、長いあいだ黙っていた。それから、突き出していた手を下ろした。
「……それが分かってンなら、オレが言うことはねェよ」
「……」
「覚悟の話、覚えてるか」
「ああ、覚えてる」
「足りてるかどうかを決めるのは自分じゃねェって、オマエ言ったよな」
「言った」
「今回も同じだ」
シャカールは、パソコンを閉じた。
「オマエの覚悟が足りてるかどうかは、アイツが決める。オマエはアイツが決められる場所にいりゃいい。それ以上の計算は、いらねェ」
彼女はパソコンを脇に抱え、扉のほうへ歩いていった。ノブに手をかけたところで、止まった。振り返らなかった。
「……アイツ、笑ってたか」
「……え?」
「帰る日。オマエの前で」
雅也は、帰国の朝の玄関を思い出した。振り返った一度だけの顔。ご機嫌よう、雅也さん。またね。笑っていた。いつもの笑顔だった。けれど、最後の音だけが、ほんのわずかに沈んでいた。
「……笑ってた」
「……そうかよ」
「最後の音だけ、低かった」
シャカールの肩が、わずかに動いた。
「……そうかよ」
扉が開いて、閉まった。足音が、廊下を遠ざかっていった。いつもより、少しだけ遅い足音だった。
第八章 七センチ
二度目は、シャカールのほうから呼び出された。三月の最初の週の、夜の九時過ぎだった。スマートフォンに届いたメッセージは、四文字だけだった。
――来い。旧棟。
学園の旧棟には、今はほとんど使われていない情報処理室がある。古い端末が並び、窓は西向きで、夏は暑く冬は寒い。シャカールがそこを勝手に根城にしていることは、学園の中では半ば公然の秘密だった。雅也が扉を開けると、部屋の中は暗かった。モニターが三つだけ点いていて、その青白い光の中に、シャカールの横顔が浮かんでいた。
パーカーのフードを被り、膝を抱えるように椅子の上に足を上げている。キーボードを叩く音が、乾いた雨のように途切れなく続いていた。
古い暖房機が、窓際で頼りない音を立てていた。部屋の空気は冷えていて、埃と、熱を持った電子機器の匂いがした。
「……来たぞ」
「見りゃ分かる」
シャカールは振り向かなかった。
「そこ、座れ」
顎で示された椅子に座った。モニターの一つが、雅也のほうへ向けられた。またシートだった。けれど今度は、行の数が違った。二十行。
「……これは」
「オレのだ」
シャカールは、キーボードから手を離した。
「オレの二十戦」
雅也は、画面を見た。日付。レース名。格。距離。着順。着差。一番上の行は、デビュー戦だった。一着。その下に、いくつかのレースが続き、クラシックの行に来たところで、画面の中の文字が太字になっていた。皐月賞。一着。日本ダービー。二着。着差の欄に、「ハナ」とあった。その横に、赤い文字で、小さく数字が打ちこまれていた。
――0.07m。
菊花賞。一着。その下にも、行は続いていた。古馬になってからのレース。海外への遠征。一着の数字は、もう出てこなかった。二着、三着、それより下。いちばん下の行は、去年の暮れの有馬記念だった。それが二十行目だった。
「二十戦、四勝」
シャカールは、平らな声で言った。
「勝率、二割。連対率を入れても半分に届かねェ」
「……」
「三冠には、七センチ足りなかった」
雅也は、赤い数字を見た。七センチ。ダービーの直線、ゴール前の二人の追い比べ。雅也もあのレースを追っていた。スタンドで、ファインと一緒に。ファインは声を出さなかった。両手を胸の前で握りしめ、息を止めたまま見守っていた。ゴール板を過ぎた瞬間、どちらが先だったのか、誰にも分からなかった。写真判定の結果が出るまでの長い時間。掲示板に灯った数字。
ファインはあのあと、何も言わずに席を立った。どこへ行ったのかは知らない。戻ってきたとき、目が赤かった。
「パルカは、あのダービーの前に、七センチ足りねェって出してた」
シャカールは、モニターの隅の、黒い窓を指さした。そこには、雅也には読めない記号の列が、細かく流れていた。自作の予測プログラム。運命の女神の名前をつけたもの。
「何度回しても、同じ数字が出た。条件を変えても、変数を足しても、七センチ。……で、その通りになった」
「……」
「予測は、当たった」
シャカールは、椅子の背にもたれた。フードの陰で、その目がモニターの光を映していた。
「当たったのに、オレは走った」
雅也は、何も言わなかった。言うべきことが、見つからなかった。見つからないまま、黙っていた。
「……ファインに訊かれたンだよ」
しばらくして、シャカールが言った。
「こないだの電話で。二回目の。……キミは、七センチのこと、今どう思ってる? って」
「……」
「なんでそんなこと今訊くンだって言ったら、分かんないけど知りたいの、って。……アイツはいつもそうだ。知りたいって言やァ何でも許されると思ってやがる」
「……それで」
「それで、全部洗い直した」
シャカールは、キーボードに手を戻した。何かを打ちこむと、別のモニターに、グラフが表示された。二十の点が、横に並んでいた。
「二十戦分の、予測値と実測値の差だ」
点は、横一本の線の上下に、ばらばらに散らばっていた。線の近くにあるものもあれば、遠く離れたものもあった。
「パルカの予測は、だいたい当たる。けど、ぴったり当たったことは一回もねェ。いつも、ちょっとずつずれる。そのずれを、オレはずっと誤差って呼んでた。モデルの精度が足りねェから出る、消すべきノイズだって」
「……」
「で、四年かけて、そのノイズを消そうとした。変数を足して、条件を細かくして、計算を回して。……消えなかった」
シャカールの声が、わずかに低くなった。
「一回も、消えなかった」
雅也は、グラフの点を見た。線の上下に散らばった、二十の小さな点。どれも、線の上にはぴったり乗っていなかった。
「七センチも、この中の一個だ」
シャカールは、一つの点を指さした。線のほんのわずか下にある点だった。
「予測通りだった。予測通りに、負けた。……けど、それだって、ぴったりじゃねェ。予測値と実測値の差は、ゼロじゃなかった。ほんのわずか、ずれてた」
「……」
「オレは、そのずれを、ずっと自分の計算の失敗だと思ってた」
シャカールは、フードを後ろに払った。黒い髪が肩に落ちた。耳が、まっすぐに立っていた。
「違ェんだよ」
「……」
「説明できねェ残差ってのは、モデルが悪いって意味じゃねェ」
モニターの光が、その横顔の輪郭を白く縁取っていた。
「世界が、モデルより広いって意味だ」
雅也は、息を止めていた。窓の外で、風が鳴った。古い窓枠がかたかたと揺れた。
「オレのモデルは、どれだけ変数を足しても、世界を全部は写せねェ。どっかに、必ず入りきらねェもんが残る。オレはそれを、ずっと悔しいと思ってた。……今も思ってる。悔しいのは変わらねェ」
「……」
「けど、入りきらねェもんがあるから、七センチ足りねェって分かってても、走る意味があった」
シャカールは、自分の手を見下ろした。
「予測が外れる余地を、ゼロにはできねェ。……ゼロにできねェから、オレは毎回、ゲートに入れた」
長い沈黙があった。暖房機が、かすかな音を立てて止まり、また動きだした。
「……ファインのシートの、十九行目」
シャカールが言った。
「あれも、たぶん、同じとこに入ってる」
「……」
「因果を作るなって、前に言ったよな。今も言う。十八勝とは関係ねェ。無敗とは関係ねェ。……けど、オレのモデルに入りきらなかった七センチのずれと、医者のモデルに入りきらなかったアイツの十九行目は、たぶん、同じ場所から来てる」
「同じ場所」
「世界がモデルより広い、って場所だ」
シャカールは、椅子から足を下ろした。
「説明できねェものを、説明できねェまま置いとける場所。……オレはそれを、四年かかって、ようやく認められた」
◇
しばらくして、シャカールがぽつりと言った。
「……アイツ、怖がってたぜ」
「……ああ」
「終わらせ方しか練習してねェって」
雅也は、目を伏せた。電話のとき、隊長が伝えなかったこと。ファインが、自分の口で伝えると言ったこと。それをシャカールは、ファイン本人から聞いていた。
「子供のころから、ずっとそう言われて育ったンだと。自分の代で終わる。だから、終わり方をきれいにするのが自分の役目だって。……で、それが終わらなかった。終わらなかったから、何をすりゃいいか分かんねェって。練習してねェって」
「……」
「バカじゃねェの、って言ってやった」
シャカールは、鼻を鳴らした。
「練習してねェことを本番でやるのなんて、オレら全員、毎回やってきたことだろ」
「……」
「同じレースは二度とねェ。同じバ場も、同じ相手も、同じ天気も、同じ身体も、二度とねェ。どれだけ練習したって、ゲートが開いたら、その日のそのレースは、生まれて初めて走るレースだ。……アイツは十八回、それをやってきた。十八回、練習してねェ本番を走って、十八回勝ってきた」
「……」
「十九回目も、同じだ。そう言ってやった」
雅也は、シャカールの顔を見た。シャカールは、モニターのほうを向いていた。こちらを見なかった。けれど、その耳の先が、わずかに赤かった。
「……あいつは、なんて」
「泣いた」
「……」
「また泣きやがった。ったく、あのお姫サマは、日本にいた四年間より、帰ってからの三か月のほうが泣いてンじゃねェか」
言葉は乱暴だった。声は、ほんの少しだけ、揺れていた。雅也は、それ以上何も訊かなかった。訊かなくても、分かった。この人がどれだけ、ファインのことを考えているのか。数字と論理で身を固めて、感情を一つも表に出さないように見せて、それでも友人のために、四年分の自分のデータを一晩で洗い直す人だった。
「……ありがとう」
「あ?」
「あいつに、それを言ってくれて」
「礼を言われる筋合いはねェ。事実を言っただけだ」
シャカールはモニターの電源を一つずつ落としていった。部屋が、少しずつ暗くなっていく。最後の一つを落とす前に、彼女は手を止めた。画面には、まだ二十の点のグラフが映っていた。
「……オマエのシートは、どうなってンだ」
「……俺の」
「オマエも、四年分、記録取ってたろ。アイツの」
「取ってた」
「数字か」
「……ほとんど、言葉だ」
「言葉?」
「あいつが、何を面白いと思ったか。走る前に、今日の目的を何て言ったか。他のウマ娘が、何を考えてたと思うか」
シャカールは、しばらく黙っていた。
「……非論理的なシートだな」
「そうだな」
「予測には、一個も使えねェ」
「使えない」
「……けど」
シャカールは、最後のモニターの電源を落とした。部屋が、真っ暗になった。暗闇の中で、声だけが聞こえた。
「そっちのシートには、たぶん、残差がねェんだろうな」
雅也は、暗闇の中で、その言葉の意味を考えた。考えて、答えが出る前に、扉が開く音がした。廊下の常夜灯の薄い光が、細く射しこんだ。シャカールの背中が、その光の中を横切って、出ていった。
◇
一族の当主である、ファインの父と話をしたのは、その週の終わりだった。学園の応接室を借りた。理事長秘書の駿川たづなが、回線の手配をしてくれた。壁の大きなモニターに、画面越しに、四年ぶりにその人の顔が映った。背景は、重厚な書棚だった。机の上で両手を組み、背筋を伸ばしてこちらへ視線を向けていた。
記憶の中の顔より、少しだけ皺が深くなったように見えた。
「……早瀬雅也です。本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
雅也は、立ったまま一礼した。公の場の言葉で。私、と、敬語で。四年間で身についた切り替えだった。
『座りたまえ』
「失礼いたします」
雅也は椅子に座った。背筋を伸ばした。手を膝の上に置いた。画面の向こうの人は、しばらく黙って雅也を見つめていた。四年前と同じだった。あのときも、この人は長いあいだ何も言わず、画面越しにこちらへ視線を置いていた。行く末に必ず苦痛が待つ茨道を進もうというのか、と訊かれる前に。
『娘から、話は聞いているな』
「……隊長から、事実のみを伺っております。娘さんご自身からは、お会いしたときに直接伺うことになっております」
『……そうか』
その人は、ほんのわずかに目を細めた。
『では、私から訊こう』
「はい」
『お前は、どうするつもりだ』
雅也は、一度だけ息を吸った。この問いが来ることは分かっていた。この数週間、何度も考えた。どう答えるべきか。何を言うべきか。どれだけ考えても、長い言葉は出てこなかった。出てこないことが、たぶん、答えだった。
「……責任を取るとか、そういう言い方は」
雅也は、画面の向こうの目を見たまま言った。
「たぶん、違うと思うんです」
その人の眉が、わずかに動いた。
「私は、あの人と一緒にいたいです」
『……』
「子供がいてもいなくても、そうです。……引退会見の日に、同じ気持ちだと申し上げました。あのときから、変わっておりません」
『……』
「順番が逆になったのは、私の不手際です。それは、お詫び申し上げます」
雅也は、深く頭を下げた。顔を上げてから、続けた。
「……ただ、気持ちの順番は、逆になっておりません」
応接室の中は、静かだった。窓の外で、午後の陽が傾きかけていた。廊下の遠くで、誰かが笑う声がして、すぐに消えた。画面の向こうの人は、長いあいだ何も言わなかった。組んだ手の、親指がわずかに動いた。それだけだった。
『……四年前と、同じことを言うのだな』
「……」
『あのときお前は、娘のことしか語らなかった。自分のことは、一つも語らなかった。……今日は、自分のことを語った』
「……はい」
『同じことだ』
その人は、椅子の背にもたれた。
『娘は、自分で決めたと言った。お前と生きたいと。血筋のためでも使命のためでもなく、自分がそうしたいからだと。……反対するなら伺う、だが決めるのは自分だと、この私に向かって言った』
「……」
『あれに、そういうことを言えるようにしたのは、お前か』
雅也は、少し考えた。
「……いいえ」
『……』
「あの人は、最初から、そういう人でした。……私は、それを言っていい場所を、空けておいただけです」
画面の向こうで、その人は、目を閉じた。長い呼吸が一つ。目を開けたとき、その目は、ほんの少しだけ、柔らかかった。
『……娘は、春に日本へ行く』
「……はい」
『表向きは、親善のための公式訪問だ。その準備は、こちらで進める。……お前は、娘の話を、娘の口から聞け』
「はい」
『私からは、以上だ』
「……ありがとうございました」
雅也は立ち上がり、深く頭を下げた。画面が暗くなる直前、その人が、もう一言だけ言った。
『――あれを、頼む』
画面が消えた。雅也は、頭を下げたまま、しばらく動けなかった。
第九章 外堀
三月の屋敷は、少しだけ明るくなった。雨の日は相変わらず多かったが、晴れ間が長く続く日が増えた。丘の斜面に、黄色い小さな花が点々と咲きはじめた。生け垣の枝先に、硬い芽がふくらんでいた。朝の六時には、もう窓の外が白んでいた。ファインは毎朝、暗いうちではなく、薄明るい中で目を覚ますようになった。ニュースを読む。国内の記事を、上から順に。
それは変わらなかった。変わったのは、そのあとだった。スマートフォンを伏せてから、ベッドの中で、手のひらをそっと腹部に当てる。まだ何も分からなかった。膨らみも、動きも、何も。ただ、手のひらの下に、自分の体温があるだけだった。
それでも、毎朝そうするようになった。三度目の診察で、また画面の中の点滅を見た。前よりも、少しだけ大きくなった影の中で、白い光が、ちか、ちか、と瞬いていた。先生は、経過は正常だと言った。それ以上のことは言わなかった。言えることが、それしかないからだった。ファインはもう、信じていいのかとは訊かなかった。怖くなくなったわけではなかった。
夜中にふと目を覚まして、これが全部夢だったらどうしようと思うことは、今もあった。そういう夜は、枕もとのノートを開いて、一行だけ何かを書いた。今日食べたもの。窓から見えた花の色。先生が言ったこと。書いてから、また眠った。
書かないと、忘れちゃうでしょ?四年前、日本で雅也にそう言った。これ何かの役に立つんですか、と訊かれて。立たないよ、と答えた。でも書かないと忘れちゃうでしょ。だってそれしか持って帰れないもの。今は、持って帰るためではなく書いていた。持っていくために。これから先へ。
◇
準備は、周りが進めていた。ファインが知らないところで、というわけではなかった。書類は、毎日のようにファインの机に届いた。父の秘書から。一族の外務を担当する者から。医療棟の先生から。隊長から。そして、どういうわけか姉から。日本への公式訪問の名目は、親善大使としてのものだった。日本の文化機関との交流協定。教育分野での協力。
スポーツ振興、とりわけウマ娘のレースを通じた若い世代の国際交流。トレセン学園への表敬訪問。四年間、日本で学び、走ったファインがその役を担うことには、誰が見ても十分な理由があった。
けれど、届く書類をめくっていくと、その名目の下に、別の設計図が透けて見えた。滞在の期間が、決められていなかった。帰国の予定日の欄が、空白のままだった。日本での住居の資料があった。学園にほど近い、静かな住宅地の一軒家。警護上の利点と、医療機関へのアクセスについての詳しい説明がついていた。賃貸の契約期間は、三年だった。
日本側の医療体制についての資料があった。先生が日本の大きな病院の専門家と連絡を取り、ファインの経過を共有する手はずが整えられていた。出産まで、そして出産後まで。先生自身も、節目ごとに日本へ渡ることになっていた。
警護計画の資料があった。隊長の署名が入っていた。訪問期間中の警護体制と、それに続く長期滞在の警護体制が、別々に、けれど地続きに書かれていた。長期滞在の警護対象者の欄には、ファインの名前の下に、もう一人分の空欄があった。報道対応の資料があった。記者会見の想定問答が、何十項目も並んでいた。親善大使としての質問への答え。
レースの思い出についての質問への答え。そして、最後の数ページに、別の見出しがついた項目があった。
ファインは、それらを一枚ずつ読んだ。読みながら、少しだけ笑った。外堀を、埋められている。父が、姉が、隊長が、先生が、一族の人々が、それぞれの持ち場で、一つずつ石を積んでいた。ファインがどこへ向かいたいかを、誰もが知っていた。知っているから、そこへ続く道を、先回りして整えていた。それはありがたかった。ありがたいと、心から思った。
けれど、一つだけ、どうしても自分でやらなければならないことがあった。
書類の最後のページ、報道対応の資料の、別の見出しのついた項目。そこには、こう書かれていた。
――発表の形式・時期・内容については、殿下ご本人のご判断による。
その一行の横に、父の筆跡で、短い書き込みがあった。
――相手方への事前説明は、本人が行うこと。
◇
姉が書斎に来たのは、三月の半ばの夕方だった。
「――我が妹よ。君の旅支度は、順調かね」
「ノック」
「む。失敬」
姉は、開けた扉を一度閉め、改めて二度叩いてから、また開けた。
「……これでよろしいかな」
「ふふっ。よろしいです」
姉は、いつものように扉の枠にもたれた。けれど、その手には一冊の手帳があった。
「日程が決まった。四月の第二週に日本へ入る。到着の翌週に、公式の会見。会場は都内のホテル。先方の文化機関と、学園の関係者と、報道各社。……それから、我が心の女帝陛下も、学園にいらっしゃるはずだ」
「お姉様、エアグルーヴに会うために行くんじゃないよ?」
「分かっている。分かっているとも。これは公務だ。私は君の随行の一員として、厳粛に、礼節を持って――」
「会ったら、また逃げられちゃうよ」
「逃げる背中もまた美しいのだよ」
ファインは吹き出した。姉も、満足そうに笑った。それから姉は、手帳を閉じた。
「……それで、あの男には、いつ言うつもりだ」
ファインは、書類を揃える手を止めた。
「……会見の一週間前」
「一週間前?」
「うん。日本に着いて、少し落ち着いてから。あの人の家に行って、ちゃんと言う」
「……一週間前に、何を、どこまで言う」
「全部」
姉は、しばらくファインの顔を見つめていた。
「……会見の本当の中身も?」
「うん」
「あの男は、それを知らないのだろう? 親善のための訪問だと、そう聞かされているのだろう?」
「うん。お父様が、そう伝えたみたい。娘の話は娘の口から聞け、って」
「一週間前に、いきなり婚約会見だと知らされて、あの男はどうすると思う」
ファインは、少し考えた。あの人の顔を思い浮かべた。驚いたときの顔。固まる顔。言葉を探して、見つからない顔。資料を持ち直す手。苦笑。
「……たぶん、何か落とすと思う」
「……」
「それから、ちょっと待て、って言う。それから、黙る。長く黙る。……それから」
ファインは、窓の外を見た。夕陽が、丘の稜線を金色に縁取っていた。
「逃げないと思う」
姉は、何も言わなかった。
「怒らないと思う。困るとは思うけど。……困って、黙って、そのあとで、たぶん、すごく短いことを言う。長い演説は、あの人にはできないから」
「……ずいぶん、信じているのだな」
「うん」
「一週間前というのは、あの男を試すためかね」
「ううん」
ファインは、首を振った。
「試すんじゃないの。……あの人に、断る時間をあげたいの」
姉の眉が、わずかに上がった。
「引退会見のとき、私、あの人が担当だったから、ずっと言えなかったの。キミが断れなくなるでしょ、って思って。ずるいこと、したくなかったの。……今度も同じ。会見の前の日に言ったら、あの人は断れない。周りが全部決まってるのに、自分だけ嫌だって言えるような人じゃないから」
「……」
「一週間あれば、考えられる。考えて、嫌なら嫌って言える。……あの人が嫌だって言ったら、会見の中身は変える。親善大使の会見だけにする。そう、お父様にも言ってある」
「……それで、あの男が嫌だと言うと思うかね」
「思わない」
ファインは、即答した。
「思わないけど、言える時間は、あげたいの」
姉は長いあいだ、黙って妹の顔を見つめていた。それから、ふっと息を吐いて、扉の枠から身体を離した。
「……我が妹よ」
「うん」
「君は、ずいぶん強くなったな」
「……そうかな」
「四年前の君なら、全部一人で決めて、一人で飲みこんで、会見の場で初めてあの男に知らせていただろう。あの男が断れないように。……いや、違うな。四年前の君なら、そもそも欲しいとさえ言わなかったか」
ファインは、何も言えなかった。姉は、扉の外へ一歩出てから、振り返った。
「――君に、ご機嫌ようと言われた日本の子らは、幸せ者だな」
「……え?」
「いや。なんでもない」
姉はひらりと手を振って、廊下の向こうへ消えていった。
◇
同じころ、日本では、雅也が首をかしげていた。
「……早瀬さん」
トレーナールームで、西澤千帆が一枚の書類を手に、雅也の机の前に立っていた。
「これ、事務から回ってきたんですけど」
「うん」
「殿下の、日本滞在中のお住まいの資料です。警護の関係で、学園側にも共有しておくようにって」
「うん」
「……あの住居の契約期間、三年ですよ」
「……そうですか」
「そうですか、じゃないですよ」
千帆は、書類を机に置いた。
「親善大使の公式訪問ですよね? 三年って、何のための三年なんですか」
「……長期の事業なんだろう。教育協力とか、そういう」
「早瀬さん」
「うん」
「本気で言ってます?」
雅也は、書類を見た。住所。間取り。警護上の注意点。契約期間、三年。本気だった。少なくとも、そう思おうとしていた。春に彼女が来る。親善のための公式訪問として。父親からそう聞いた。娘の話は娘の口から聞け、と言われた。だから、彼女が来たら、話を聞こうと思っていた。二人で、これからのことを話そうと。
それは私的なことで、公式の訪問とは別のことだと、雅也は考えていた。
公式の訪問の書類に、自分との何かが書きこまれているはずはない。彼女は、そういうことを勝手に決める人ではない。そう思っていた。
「……それから、これも」
千帆は、もう一枚の紙を置いた。
「学園の事務から、早瀬さんのスケジュールの確認です。四月の第三週、一週間分、全部空けておくようにって。理由は書いてありません」
「……」
「親善大使の訪問で、どうして早瀬さんの予定が一週間も空けられるんですか」
「……挨拶とか、案内とか、あるんだろう。元担当として」
「一週間も?」
「……」
千帆は、深い溜め息をついた。
「早瀬さんって、本当に……」
「何だ」
「いえ。なんでもないです」
千帆は、それ以上何も言わなかった。けれど、トレーナールームを出ていくとき、扉のところで一度だけ振り返った。その顔は、呆れているような、笑いをこらえているような、何とも言えない表情だった。その週、SP部隊の日本側の連絡員が、警護計画の打ち合わせで学園を訪れた。雅也が挨拶をすると、連絡員は深く一礼した。
打ち合わせが終わって帰るときにも、一礼した。廊下ですれ違ったときにも、一礼した。一度の訪問で、四回頭を下げられた。
それが何を意味するのか、雅也には分からなかった。分からないまま、彼は四月を待っていた。
第十章 一週間前
彼女が日本に着いたのは、桜がほとんど散ったあとだった。空港には、報道陣が詰めかけていた。十八戦十八勝の無敗のまま引退し、帰国したプリンセスが、親善大使として戻ってくる。見出しには、そういう言葉が並んでいた。雅也は空港には行かなかった。行くべきではないと思った。公式の訪問の最初の場面に、元担当トレーナーが映りこむ理由はなかった。
テレビのニュースで、到着ロビーを歩く彼女の姿を見た。
春物の淡い色のコートを着ていた。胸もとに、緑色の三つ葉のブローチ。背筋が伸び、足取りは正確で、カメラの列に向かって、ゆっくりと手を振っていた。その斜め後ろに、黒いスーツの隊長が影のように付き従っていた。笑っていた。完璧な微笑みだった。画面越しでは、声の調子までは分からなかった。耳の角度も、よく見えなかった。雅也はテレビを消した。
その夜、メッセージが届いた。
――着いたよ。
帰国したときと同じ、四文字だった。
――おかえり。
同じ四文字を返そうとして、指が止まった。おかえり、でいいのだろうか。彼女の帰る場所は、向こうの国にある。十二月に、そう思って、おかえりと送った。今、彼女は日本にいる。日本に来たのだ。帰ってきたのではない。それでも、雅也は、同じ四文字を打った。
――おかえり。
送信してから、しばらく画面を眺めていた。返事は、少しして来た。
――ただいま。
それから、もう一行。
――三日後の夜、キミの家に行ってもいい? ちゃんと、話したいことがあるの。
◇
三日後の夜は、晴れていた。四月の夜の空気は、まだ少し冷たかった。けれど、冬の乾いた冷たさとは違った。湿り気を含んで、どこかの庭の沈丁花の匂いが、かすかに混ざっていた。八時ちょうどに、インターホンが鳴った。玄関を開けると、彼女が立っていた。門の外に、黒い車が一台停まっていた。その横に、隊長が立っていた。隊長は雅也と目が合うと、深く一礼した。
いつもより、少しだけ深かった。それから、車の陰に下がった。SP部隊の他の隊員たちの姿は見えなかったが、どこかにいるのだろうと思った。
「……ご機嫌よう、雅也さん」
「……ああ」
四か月ぶりだった。彼女は、テレビで見たときと同じ淡い色のコートを着ていた。髪は、下ろしていた。春の夜の、玄関の電灯の光の中で、その顔は少しだけ痩せたように見えた。いや、痩せたのではなかった。何かが変わっていた。どこが、とは言えなかった。頬の線か、目の奥か、それとも立ち方か。耳が、まっすぐに雅也のほうを向いていた。
「……入っても、いい?」
「ああ」
彼女は靴を脱いだ。かがむ動作は、前と同じように美しかった。ただ、ほんの一瞬、身体を折る前に、手が腹部のあたりへ動きかけて、止まったのを、雅也は見た。見なかったことにはしなかった。けれど、何も言わなかった。ダイニングの椅子に、彼女は座った。十二月の朝と同じ椅子だった。雅也は向かいに座った。テーブルの上には、あのノートがあった。
四か月前に預かった、最初の一冊。
彼女はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「……開けた?」
「開けてない」
「ふふっ。キミらしい」
「預かっとくって言ったからな」
「うん」
彼女は、ノートの表紙に指先で触れた。丸くなった角を、なぞるように。それから、手を膝の上に戻した。背筋を伸ばした。雅也は、その姿勢を知っていた。レースの前、ゲートに入る直前の、彼女の姿勢だった。走る前に、今日の目的を一つだけ言う。四年間、毎回、彼女はこの姿勢で、その言葉を口にしてきた。
「……雅也さん」
「ああ」
「電話じゃなくて、ちゃんと言いたかったの」
彼女の声は、落ち着いていた。落ち着いているのに、最初の一音から、ほんのわずかに低かった。
「私、赤ちゃんができました」
部屋の中が、静かになった。冷蔵庫の低い音が聞こえた。窓の外で、遠くの車の音がした。
「……お医者様が、何人も調べてくれたけど、誰も理由が分からないんだって」
彼女は、まっすぐに雅也を見つめていた。
「でもね」
その目が、揺れた。
「いるの。……ちゃんと、いるの」
雅也は、何も言えなかった。知っていた。二か月前の深夜に、隊長から聞いていた。懐妊が確認されました。医学的な説明は、現在のところ存在いたしません。以上が全文です。あの夜、一睡もせずに朝を迎えた。説明を探そうとして、やめた。分からないままでいいと思った。知っていたのに。彼女の口から聞くのは、まるで別のことだった。いるの。ちゃんと、いるの。
その言葉が、耳から入って、胸のどこか深いところまで、まっすぐに落ちていった。落ちていって、そこで、静かに広がった。水面に落ちた一滴の雫が、輪を描いて広がっていくように。
雅也は、ゆっくりと息を吸った。肺の底まで吸って、それから、長く、深く、吐いた。それだけしか、できなかった。彼女は、黙って待っていた。雅也が何か言うのを。いや、待っていなかったのかもしれない。何も言わなくていいと、その目が言っているようにも見えた。
「……ファイン」
「……うん」
「……身体は」
「大丈夫。先生たちが、ずっと見てくれてる。日本の病院の先生にも、もう会ったの。経過は、正常だって」
「……そうか」
「うん」
「……怖くないか」
彼女の目が、わずかに見開かれた。それから、ゆっくりと細くなった。笑ったのではなかった。
「……怖いよ」
「……」
「ずっと怖い。今も怖い。……夜中に目が覚めて、全部夢だったらどうしようって思う。先生の言ったことが、明日には間違いでしたって言われたらどうしようって思う」
「……」
「それにね、私」
彼女は、膝の上で指を組んだ。
「ずっと、終わらせ方を整えるのが役目だと思ってたの。そういうふうに、育てられたの。子供のころから、ずっと。……だから、終わり方の練習は、いっぱいしてきたの。心の中で。何度も何度も」
「……」
「でも、終わらなかったの」
彼女の声が、また少し低くなった。
「どうしよう。私、その練習、してないよ」
雅也は、しばらく彼女の顔を見つめていた。それから、言った。
「……俺も、してない」
「……え?」
「何の練習も、してない。父親になる練習も、こういうときに何を言えばいいかの練習も。……何もしてない」
「……」
「だから、たぶん、下手だ。いろいろ」
彼女は、長いあいだ黙っていた。それから、ふっと、息が抜けるように笑った。
「……ふふっ」
「なんだ」
「シャカールにね、言われたの。練習してないことを本番でやるのなんて、自分たちはみんな毎回やってきたことだろって。同じレースは二度とないって」
「……聞いた」
「聞いたの?」
「本人から」
「……そっか」
彼女は、組んでいた指をほどいた。
「じゃあ、二人とも下手でいいね」
「……ああ」
「一緒に、下手にやろう?」
雅也は、頷いた。声は、出なかった。出したら、何かが崩れそうだった。
◇
しばらく、二人とも黙っていた。彼女が、テーブルの上のノートを手に取った。表紙を撫でた。開きはしなかった。雅也は湯を沸かした。棚の奥から、取っ手にひびの入ったマグカップを出しかけて、やめた。別のカップを二つ出して、茶を淹れた。彼女は、茶の香りを嗅いで、少しだけ顔をしかめた。
「……ごめんね。最近、お茶の匂いがちょっとだめなの」
「……そうか。白湯にするか」
「うん。ありがとう」
白湯を渡すと、彼女は両手でカップを包むように持った。十二月の朝と同じ持ち方だった。湯気が、彼女の顔の前で揺れていた。
「……それでね、雅也さん」
彼女が、いつもの調子で言った。明るい声だった。四年間、何度も聞いてきた声。新しいラーメン屋を見つけたときの。次のレースの目的を思いついたときの。
「ああ」
「来週の会見なんだけど」
「ああ、親善大使の」
「違うよ」
「……ん?」
彼女は、白湯を一口飲んだ。カップを置いた。にっこりと笑った。
「婚約会見だよ」
「…………は」
手に持っていたカップが、傾いた。中身がこぼれる寸前で、雅也はそれをテーブルに置いた。置いたというより、ほとんど落とすように。かたん、と硬い音がした。茶がカップの縁で大きく揺れて、一滴だけテーブルに跳ねた。
「ふふっ」
彼女は、心底楽しそうに笑った。
「責任、取ってね」
「……ちょっと待て」
「うん」
「……来週?」
「うん」
「婚約会見?」
「うん♪」
「……俺、聞いてないんだが」
「今、言ったよ?」
「……一週間前だぞ」
「一週間もあるよ?」
「……」
雅也は、テーブルの上に跳ねた一滴の茶を見た。それから、天井を見た。それから、彼女を見た。彼女は、笑っていた。けれど、その耳が、ほんのわずかに後ろへ寝ていた。
「……あれ? 怒ってる?」
「……いや」
「……困ってる?」
「……それは、まあ」
彼女の笑顔が、ほんの少しだけ、揺れた。雅也は、長いあいだ黙っていた。住居の契約期間が三年だったこと。一週間分空けられた自分のスケジュール。四回頭を下げたSP部隊の連絡員。呆れたような、笑いをこらえているような千帆の顔。全部、そういうことだったのだ。自分だけが、気づいていなかった。いや、違う。気づこうとしなかったのだ。
彼女が勝手に何かを決める人ではないと思っていたから。そして、それは正しかった。彼女は勝手に決めてはいなかった。周りが外堀を埋めていても、最後の一言だけは、こうして自分の口で、自分の前で、言いに来た。
一週間前に。一週間という時間の意味を、雅也は考えた。考えて、分かった。断る時間だ。彼女は、自分に断る時間をくれたのだ。引退会見のときと同じだった。キミが断れなくなるでしょ。ずるいことしたくなかったの。だから、終わるまで待ったの。雅也は、息を吐いた。
「……あのな」
「……うん」
「責任を取る、っていう言い方は、俺は使わない」
彼女の目が、わずかに揺れた。
「……うん」
「俺も、ファインと一緒にいたい」
「……」
「それだけだ」
雅也は、テーブルの上で、自分の手を見下ろした。
「……順番が滅茶苦茶なのは、俺のせいでもある。だから、俺も逃げるつもりはない」
言い終えてから、もっと何か言うべきだと思った。四年分の何か。この四か月の何か。いや、それ以上の何か。けれど、出てこなかった。出てこないことが、答えなのだと思った。顔を上げると、彼女がこちらへ目を向けていた。何も言わなかった。ただ、こちらへ視線を向けていた。その目の縁に、光るものがあった。
「……なんだ」
「……ううん」
彼女は、首を振った。
「……ふふっ」
「なんだよ」
「キミ、そういうとこだよ」
彼女は笑った。笑いながら、泣いていた。笑顔のまま、声の調子だけが落ちていた。いつもの、本音の合図だった。けれど今夜は、その合図の中に、雅也がこれまで一度も聞いたことのない音が混ざっていた。安堵の音だった。
第十一章 七日間
一週間は、長くはなかった。翌朝から、雅也の予定は、彼が自分で決めたものではなくなった。最初の打ち合わせは、ファインが滞在する住居の一室で行われた。学園から車で十五分ほどの、静かな住宅地の一軒家。庭に大きな木蓮があって、白い花がほとんど散りかけていた。玄関の前に一人、門の外に二人、SP部隊の隊員が立っていた。
応接間には、長いテーブルが置かれていた。一族の側からは、外務を担当する年配の男性が一人。姉が、なぜか正装で一人。隊長。先生から委任を受けた日本の病院の担当医が、医療面の説明のためだけに三十分。学園の側からは、駿川たづなが一人。そしてファインと、雅也。
「――早瀬雅也です。このたびは、よろしくお願いいたします」
雅也は立ち上がって一礼した。私、と、敬語で。一族の外務担当の男性は、ゆっくりと雅也を見た。値踏みするような目ではなかった。ただ、確かめるような目だった。それから、丁寧に礼を返した。会見の流れが説明された。前半は、親善大使としての公式発表。文化交流、教育協力、スポーツ振興。ファインが原稿を読み、質問を受ける。後半に、個人的な事柄の発表。
ファイン自身が述べる。一族を代表して外務担当が補足する。その後、質疑。雅也が答える場面も、当然ある。
想定問答の資料が、雅也の前に置かれた。ページをめくっていくと、自分に向けられるであろう質問が、いくつも並んでいた。二人の関係はいつから始まったのか。担当期間中から交際していたのではないか。トレーナーとして、どのように彼女を導いたのか。王族の末裔との結婚について、どう考えているのか。今後の仕事はどうするのか。答えの欄は、空白だった。
「答えは、ご自身の言葉でと、殿下から伺っております」
外務担当の男性が言った。
「私どもとしては、事実と異なることさえおっしゃらなければ、それで十分です」
「……承知いたしました」
雅也は、資料を閉じた。隣で、ファインが小さく笑った気配がした。
◇
二日目は、警護の打ち合わせだった。隊長が、会見当日の動線を一つずつ説明した。車の到着時刻。入口。控室。会見場への移動経路。記者席の配置。退出の手順。雅也がどこに立ち、どこを歩き、どの扉から出るか。そして、会見のあとの長期滞在の警護体制。雅也の自宅周辺にも、一定の配置がされることになった。
「早瀬さまには、ご不便をおかけいたします」
「いえ。……慣れます」
「慣れていただかなくとも結構です」
隊長は、真顔で言った。
「慣れたとおっしゃる方ほど、慣れていらっしゃいませんので」
ファインが吹き出した。雅也は、何も言い返せなかった。打ち合わせが終わって、隊長が部屋を出ていくとき、雅也と目が合った。隊長は一礼した。それから廊下で、もう一度すれ違ったときにも一礼した。玄関で見送られたときにも一礼した。三回だった。四年間、この人が雅也に一日に三回も頭を下げたことはなかった。
◇
三日目は、衣装の日だった。雅也が呼ばれる理由はなかったはずだったが、ファインが呼んだ。
「見てほしいの」
「……俺が見ても、分からないぞ」
「分からなくていいの。見てほしいだけ」
住居の二階の一室に、何着かの服が掛けられていた。一族の側で用意したもの。日本の仕立て屋が持ってきたもの。姉が勝手に持ちこんだ、明らかに派手すぎるもの。ファインは、そのうちの一着を選んだ。淡い緑の、落ち着いた形の服だった。胸もとに、三つ葉の刺繍が小さく入っていた。
「これにする」
「……それでいいのか」
「うん。私たちが暮らす国の花だもの。……私が、ずっと胸につけてきたもの」
四年前の勝負服にも、髪飾りにも、この三つ葉があった。今の故郷と、一族と、果たすべき使命への誇りの印。彼女はそれを、一度も外さなかった。走っているときも。泣いているときも。
「……似合う」
「ほんと?」
「ああ」
「キミの『似合う』って、全部同じ声だね」
「似合うものは、似合うんだ」
「ふふっ。そうでしょう?」
仕立て屋が採寸をしなおした。腹部のあたりで、少しだけ余裕を持たせるように、と先生の伝言があったらしかった。仕立て屋は何も訊かずに、黙って巻き尺を当てた。ファインは、その間、鏡の中の自分を見つめていた。雅也は、窓際に立って、それを見守っていた。鏡の中の彼女は、まっすぐに立っていた。けれど、その手が一度だけ、腹部の上で止まった。
止まって、それから、ゆっくりと離れた。
◇
四日目は、学園だった。親善大使としての表敬訪問の下見という名目で、ファインが学園を訪れた。理事長の秋川やよいが、扇子を広げて出迎えた。歓迎、と大きく書かれた扇子だった。廊下を歩くと、生徒たちが振り返った。あちこちから、ファインさん、と声がかかった。ファインは一人ずつに、ご機嫌よう、と返した。四年間と同じように。
中庭に出たとき、花壇の前に、背の高い人影があった。
エアグルーヴだった。しゃがみこんで、土の具合を確かめていた。ファインの姿に気づくと、立ち上がった。耳が、まっすぐにこちらを向いた。
「……ファイン」
「ご機嫌よう、エアグルーヴ」
「戻ったのか」
「うん。親善大使として」
「……そうか」
エアグルーヴの視線が、一瞬だけ、ファインの肩越しに雅也を見た。それから、ファインに戻った。何かを言いかけて、やめたように見えた。
「……元気そうで、何よりだ」
「エアグルーヴも」
「それで、その」
エアグルーヴの声が、わずかに低くなった。
「……今回は、姉君は」
「来てるよ」
その瞬間、エアグルーヴの耳が真後ろに倒れた。
「どこにだ」
「えっと……」
ファインが振り返るより早く、中庭の反対側の回廊から、よく通る声が響いた。
「――おお! そこにおわすは、我が心の〝女帝陛下〟ではないか!」
エアグルーヴは、何も言わなかった。言わずに、踵を返した。そして、走った。三冠の舞台でも見せたことがないのではないかという、見事な加速だった。花壇の縁を軽々と飛び越え、校舎の角を曲がり、あっという間に見えなくなった。
「待ちたまえ! なぜ逃げる! 私の愛はまだ言葉の半分も――」
姉がその後を追っていった。中庭に、ファインと雅也と、隊長だけが残された。ファインは、口もとを押さえて、肩を震わせていた。隊長は、何も見なかったような顔で、遠くへ視線を逃がしていた。けれど、その肩もまた、わずかに揺れていた。
◇
五日目の夕方、トレーナールームの扉が、ノックなしに開いた。
「……いるな」
「いる」
シャカールだった。パソコンは持っていなかった。彼女は部屋の中を一瞥した。窓際の椅子に、ファインが座っていた。四か月ぶりに、その椅子に。
「……よォ」
「シャカール!」
ファインが立ち上がろうとした。シャカールは片手でそれを制した。
「座ってろ」
「でも」
「座ってろっつってンだろ」
ファインは、座った。シャカールは、壁にもたれた。腕を組んだ。しばらく、ファインの顔を見つめていた。それから、ほんの一瞬だけ、視線を下に落とした。ファインの腹部のあたりに。すぐに、顔に戻した。
「……数字、見せろ」
「え?」
「経過の数字。医者からもらってンだろ」
「……うん」
ファインは鞄から、一枚の紙を取り出した。シャカールはそれを受け取り、黙って目を通した。長いあいだ、黙って読んでいた。
「……正常値の範囲内だな」
「うん」
「全部」
「うん。先生も、そう言ってた」
「……そうかよ」
シャカールは、紙をファインに返した。
「なら、いい」
それだけ言って、扉のほうへ歩きだした。
「シャカール」
ファインが、呼び止めた。
「……会見、来てくれる?」
「行かねェ」
「そっか」
「テレビで見る」
「……ふふっ。そっか」
シャカールは、扉を開けた。出ていく前に、振り返らずに言った。
「……好きにしろ」
「……」
「オマエが決めたなら、それでいい」
扉が閉まった。ファインは、閉まった扉を見つめていた。それから、窓の外を見た。夕陽が、トラックの向こうに沈みかけていた。誰かが走っていた。その足音が、遠くかすかに聞こえた。
「……キミ」
「ん」
「私、いい友達がいたね」
「……ああ」
「今も、いるね」
「ああ」
◇
六日目は、会見の予行だった。ホテルの小さな会議室を借りて、本番と同じ配置で椅子を並べた。記者役を、一族の側の随行員と、学園の職員が務めた。ファインは完璧だった。親善大使としての原稿を、一度も詰まらずに読んだ。質問にも、穏やかに、正確に答えた。背筋は伸び、視線は安定し、微笑みは崩れなかった。雅也の番が来た。
記者役の職員が、想定問答の一つを読み上げた。
「――早瀬さん。トレーナーとして、ファインモーションさんをどのように導かれたのでしょうか」
「……導いてはおりません」
雅也は、答えた。
「私」と、雅也は一人称を改めた。会見の場では、自然と敬語になる。
「ここまで来たのは、ファインモーション自身が走ったからです。私がしたのは、走れる場所を探して、頭を下げて回ったことだけです」
記者役の職員が、少し戸惑った顔をした。想定問答の模範解答とは違ったのかもしれない。外務担当の男性は、何も言わずに頷いた。次の質問。
「――お二人の関係は、いつから始まったのでしょうか」
「担当契約が終了した後です」
雅也は、はっきりと言った。
「在学中、担当期間中に、そのような関係は一切ございませんでした」
予行が終わった。控室に戻って、扉が閉まった瞬間に、雅也は椅子に座りこんだ。
「――……ああ、疲れた」
「ふふっ♪」
ファインが、隣の椅子に座った。
「キミ、今の切り替え、すごく早かったよ?」
「慣れた」
「慣れちゃだめだよ、そういうの」
「……じゃあ、どうしろと」
「どうもしなくていいの」
ファインは、雅也の肩に、こつんと頭を乗せた。
「どうもしなくていいけど、慣れちゃだめ」
「……難しいことを言うな」
「ふふっ。難しいことを言うのが、私のお仕事なの」
雅也は、何も言い返さなかった。肩に乗った重さを、動かないで受け止めていた。
◇
七日目の夜、雅也は一人で、家のダイニングに座っていた。テーブルの上には、あのノートがあった。明日、会見がある。そのあとで、このノートを彼女に返すべきかどうか、雅也は考えていた。預かっとく、と言った。預けとく、と彼女は言った。預かったものは、いつか返すものだ。けれど、明日のあとで、それを返す場所はどこなのだろう。彼女が帰る国か。
それとも、ここか。
雅也は、ノートの表紙に手を置いた。開かなかった。明日、彼女に訊こうと思った。
第十二章 婚約会見
会見場の照明は、思っていたよりも白かった。ホテルの大広間の一つを使った会場で、正面に長い机が置かれ、その後ろに、淡い緑の布を垂らした壁があった。机の前には、何十という記者の椅子が並び、その後ろにテレビカメラの列が壁のように立っていた。海外の報道機関の腕章も、いくつも見えた。
天井の照明に加えて、カメラ用の強いライトが何灯も向けられていて、机の上の白いクロスが、目に痛いほど光っていた。
控室のモニターで、その様子を追っていた。ざわめきが、画面越しにも聞こえた。何百人もの人間が、小声で何かを話している音。椅子を引く音。カメラの機材を調整する金属音。どこかで誰かが咳をする音。それらが混ざり合って、低い海鳴りのように、控室の壁を震わせていた。雅也は、ネクタイの結び目に指をやった。三度目だった。
「……キミ」
隣の椅子で、ファインが言った。
「そのネクタイ、もう完璧だよ?」
「……分かってる」
「分かってて、触ってるの?」
「……手の置き場が、ない」
「ふふっ」
彼女は、淡い緑の服を着ていた。胸もとの三つ葉の刺繍が、控室の照明の下で、かすかに光っていた。髪は、上品にまとめられていた。背筋が伸び、手は膝の上で静かに重ねられていた。完璧だった。四年前の春、街中で呼び止められたときと、何も変わらないように見えた。けれど、雅也には分かった。
重ねられた手の、上になっている右手の指先が、左手の甲を、ごくわずかに、何度も撫でていた。
「……緊張してるか」
「うん」
「……そうか」
「キミは?」
「してる」
「ふふっ。正直だね」
扉がノックされた。隊長が顔を出した。
「お時間です」
ファインは立ち上がった。雅也も立ち上がった。扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
「……ねぇ、キミ」
「ん」
「今日の目的、言っていい?」
雅也は、一瞬、何のことか分からなかった。それから、分かった。走る前に、今日の目的を一つだけ言う。四年間、毎回、ゲートの前で。勝つ、以外の目的を。
「……ああ」
「今日の目的はね」
彼女は、まっすぐに雅也を見た。
「始めること」
「……」
「終わらせ方じゃなくて、始め方をするの」
雅也は、頷いた。言うべき言葉を探した。四年間、ゲートの前で、何を言ってきたか。最後のレースでは、四語だけだった。
「……行ってこい」
彼女が、目を見開いた。
「楽しんで」
彼女は笑った。
「――うん」
◇
フラッシュが、一斉に焚かれた。会見場に足を踏み入れた瞬間、白い光が視界を埋め尽くした。シャッターの音が、雨のように降り注いだ。雅也は、目を細めないように努めた。前を歩くファインの背中を追っていた。彼女は、光の中を、ゆっくりと歩いていった。背筋を伸ばし、顎を引き、正面の机まで、一歩ずつ。その足取りには、一度の揺らぎもなかった。
フラッシュの嵐の中で、彼女だけが、静かな水面のようだった。
机の中央にファインが座り、その右に一族の外務担当が、左に雅也が座った。机の端には、学園の側から理事長と、文化機関の代表者が並んだ。隊長は、会場の隅に、影のように立っていた。司会者が、会見の開始を告げた。前半は、予定通りに進んだ。ファインが、親善大使としての原稿を読んだ。日本と一族の暮らす国とのあいだの、文化交流の協定について。
教育分野での、若い世代の相互留学の拡充について。ウマ娘のレースを通じた、国際的なスポーツ振興について。トレセン学園との協力関係について。
声は明瞭で、穏やかだった。一つひとつの言葉が、会場の隅々まで届くように、丁寧に置かれていった。質疑が始まった。記者たちは、最初は親善大使としての事柄を訊いた。協定の具体的な中身。今後の日程。日本での四年間が、今回の役割にどう生きているか。ファインは、一つずつ答えた。
「――日本で、私はたくさんのことを知りました」
彼女は、記者席を見渡しながら言った。
「知りたいことが、たくさんありました。ラーメンのこと。お祭りのこと。初詣のこと。……それから、夢に向かって全力で走っている、同じ年ごろのウマ娘たちのこと。私はずっと、その子たちと友達になりたかったの」
何人かの記者が、手を止めて顔を上げた。
「今度は、私が知ったことを、誰かに渡す番だと思っています。私の国の子たちが日本を知って、日本の子たちが私の国を知る。……そのお手伝いが、私にできたら、とても嬉しいです」
会場に、穏やかな拍手が起きた。雅也は、机の下で、自分の手が汗ばんでいるのに気づいた。
◇
前半の質疑が終わりに近づいたとき、ファインは、手元の原稿を閉じた。司会者が、次の質問者を指名しようとした。ファインは、それを穏やかに手で制した。
「……最後に、私個人のことを申し上げます」
会場が、静かになった。ざわめきが、潮が引くように消えていった。カメラのシャッターの音さえ、一瞬、止まった。ファインは、姿勢を正した。まっすぐ、前を見た。雅也は、その横顔を見つめていた。照明の白い光が、頬の輪郭を縁取っていた。耳が、まっすぐに、会場の奥へ向いていた。
「私は、こちらにいる早瀬雅也さんと、婚約いたしました」
一拍の、完全な沈黙があった。それから、会場が爆発した。フラッシュが、さっきの何倍もの勢いで焚かれた。シャッターの音が、嵐のように重なった。記者たちが一斉に何かを言いはじめ、椅子が軋み、誰かが立ち上がった。司会者が、静粛を求める声を上げた。ファインは、その嵐の中で、微動だにしなかった。静かになるのを、待っていた。
やがて、会場が少しずつ落ち着いていった。ファインは、同じ穏やかな声で、続けた。
「先日の引退会見で申し上げた通りです。私は、この人と一緒にいたいと思っています。一族の同意も、すでに得ております」
隣で、外務担当の男性が、静かに頷いた。
「……それと、もう一つ」
ファインの声が、ほんのわずかに、低くなった。笑顔のままだった。
「私は現在、子を授かっております」
二度目の沈黙は、一度目よりも長かった。誰も、何も言わなかった。フラッシュも、焚かれなかった。何百人もの人間が、息を止めているような静けさだった。
「経過は良好です。……医学的に説明のつかない部分があることも、あわせて申し上げておきます」
ファインは、記者席をゆっくりと見渡した。
「それ以上のことは、私にも分かりません」
そして、微笑んだ。
「ご機嫌よう。……どうぞ、末永くよろしくお願いいたします♪」
◇
質疑は、長く続いた。一族の外務担当が、まず補足の説明をした。一族として、この婚約を正式に承認していること。医学的な所見については、複数の専門家による確認を経ていること。説明のつかない部分があることは事実だが、母子の健康については万全の体制を取っていること。ファインが今後も親善大使としての公務を継続すること。
それから、記者たちの質問が始まった。
最初の何問かは、ファインに向けられた。いつ婚約を決めたのか。一族の反応はどうだったのか。今後はどこで暮らすのか。ファインは、一つずつ答えた。日本で暮らすつもりです。公務はこちらから続けます。一族の中にもいろいろな意見がありましたが、最後に決めたのは私です。それから、医学的な点についての質問があった。説明がつかないとは、どういう意味なのか。
「言葉の通りです」
ファインは、穏やかに言った。
「お医者様たちが、何度も、何人も、調べてくださいました。分かることは全部分かって、分からないことは分からないと、はっきり言ってくださいました。……私は、それがいちばん誠実なお答えだと思っています」
そして、雅也に質問が向けられた。
「――早瀬さん」
前の列の記者だった。
「トレーナーとして、ファインモーションさんを十八戦十八勝という偉業にまで、どのように導かれたのでしょうか」
雅也は、マイクに顔を近づけた。手元の資料を持ち直した。一度だけ。
「……導いては、おりません」
会場が、少しざわめいた。
「ここまで来たのは、ファインモーション自身が走ったからです」
雅也は、記者の顔を見て言った。
「私がしたのは、走れる場所を探して、頭を下げて回ったことだけです」
隣で、ファインが小さく息を吐いたのが分かった。雅也は、マイクから離れなかった。
「……それと、一点だけ、申し上げます」
会場が、また静かになった。雅也は、一度だけ、呼吸を整えた。この一週間、何度もこの言葉を考えた。予行でも言った。けれど今、この何百という目の前で、カメラの列の前で、世界中に向けて言うのは、まるで違うことだった。
「彼女との関係が始まったのは、担当契約が終了した後です」
言葉は、思っていたよりも静かに出た。
「在学中、担当期間中に、そのような関係は一切ございませんでした。……これは、はっきり申し上げておきます」
フラッシュが、いくつか焚かれた。雅也は、目を逸らさなかった。後ろの列から、別の記者が手を挙げた。
「――しかし、四年間、ほぼ毎日を共に過ごされたわけですよね。その中で、本当に何も――」
「ございません」
雅也は、記者の言葉が終わるのを待ってから、答えた。
「四年間、私は彼女の担当トレーナーでした。それ以上でも、それ以下でもありませんでした」
「では、いつから――」
「引退会見の日に、彼女が気持ちを口にしました。私も同じ気持ちだと申し上げました。その日、担当契約は終了しておりました」
記者は、しばらく雅也の顔を眺めていた。それから、別の質問に移った。会場の隅で、隊長が、ごくわずかに顎を引いたのが見えた。四年間、誰よりも近くで二人を見てきた人だった。最後の質問は、また雅也に向けられた。
「――早瀬さん。今回の件について、責任をどのようにお考えですか」
雅也は、少しだけ間を置いた。責任。その言葉を、この数か月、何度も避けてきた。
「……私は、彼女と共に生きていきたいと考えております」
雅也は、ゆっくりと言った。
「それを、責任という言葉で申し上げるつもりはございません。……子供がいてもいなくても、同じ気持ちでおりましたので」
会場の奥で、誰かが小さく息を呑んだ。司会者が、会見の終了を告げた。
◇
控室の扉が閉まった瞬間、雅也は壁に背中を預けた。
「……終わった」
「お疲れさま♪」
ファインが、椅子に座りながら言った。その声は、会見場のときより、ずっと高かった。明るかった。いつもの声だった。雅也は、壁にもたれたまま、天井を見上げた。蛍光灯の光が、目の奥に沁みた。心臓が、まだ速く打っていた。ネクタイを緩めた。指が、少し震えていた。
「……ファイン」
「なぁに?」
「……婚約会見だって、本当に一週間前に言ったよな」
「言ったよ?」
「……次から、もうちょっと早く言ってくれ」
ファインは、首をかしげた。
「次はないよ?」
雅也は、天井から視線を下ろした。彼女が、椅子の上から、こちらを見上げていた。笑っていた。完璧な微笑みではなかった。日本で覚えてきた笑い方だった。
「……そうだな」
「ふふっ♪」
雅也は、壁から背中を離した。彼女の隣の椅子に、腰を下ろした。何か言おうとして、何も思いつかなかった。代わりに、手を伸ばした。彼女の頭に。あの初詣の朝と同じように。理由は、今度は説明できた。けれど、説明しなかった。ファインは、目を閉じて、その手の重さを受け止めていた。
終章 終わらなかった朝
その夜、二人は住居の庭に出た。春の夜だった。空は晴れていて、街の灯りに薄められながらも、いくつかの星が見えた。庭の木蓮は、もうほとんど花を落としていた。芝生の上に、白い花びらが何枚も散らばっていて、それが月の光を受けて、ぼんやりと浮かんで見えた。空気は少し湿っていて、土と、若い葉と、どこか遠くの沈丁花の匂いがした。
門の外に、隊長が立っていた。背中を向けていた。
庭の中には、二人だけだった。ファインは、会見のときの淡い緑の服の上に、薄いショールを羽織っていた。髪は、ほどいていた。芝生の上をゆっくりと歩き、木蓮の木の下で立ち止まった。
「……ねぇ」
「ん」
「今日、みんなの顔、見てた?」
「……少しは」
「私ね、見てたの。記者さんたちの顔。一人ずつ」
「……」
「驚いてる人がいた。困ってる人がいた。怒ってるみたいな人もいた。……それからね、笑ってる人がいたの。一番後ろの列の、若い記者さん。婚約いたしました、って言ったとき、ちょっとだけ、口の端が上がったの」
「……よく見てるな」
「見学席で、ずっとやってたもの」
ファインは、木蓮の幹に手を当てた。
「みんなの表情を、書きとめてたの。走る前の顔。走ってる顔。走り終わった顔。……今日は、私のことを見てる人たちの顔を、書きとめたくなったの」
「……書くのか」
「うん。あとで」
彼女は振り返った。
「新しいノート、買ったの。日本に着いた日に。緑色の」
「……そうか」
「最初のページ、まだ何も書いてないの」
雅也は、ポケットの中に手を入れた。家から持ってきていた。何となく、そうしたほうがいい気がして。角の丸くなった、古いノート。
「……これ」
ファインの目が、わずかに見開かれた。
「預かってたやつ」
「……うん」
「返す場所が、分からなかった」
雅也は、ノートを差し出した。
「君が帰る国か、ここか」
ファインは、ノートを眺めていた。受け取らなかった。しばらくして、首を振った。
「……それ、キミが持ってて」
「……」
「ううん、違うな」
彼女は、少し考えるように首をかしげた。
「二人の家に、置いとこう。……私の十冊と、キミの記録の束と、一緒に。同じ棚に」
雅也は、ノートを持ったまま、しばらく動けなかった。二人の家。その言葉が、春の夜の空気の中で、ゆっくりと形を持った。
「……ああ」
「うん」
「……そうする」
ファインは、笑った。
◇
しばらく、二人で木蓮の下に立っていた。夜風が吹いて、枝に残っていた最後の花びらが、一枚、落ちた。ひらひらと、ファインの肩をかすめて、芝生の上に着地した。
「……ねぇ、雅也さん」
「ん」
「この子、走るのかな」
彼女の手が、ショールの下で、腹部の上に置かれていた。
「……知らん」
「ふふっ、冷たい」
「この子が決めることだろ」
「……うん。そうだね」
ファインは、自分の手を見下ろした。
「……ただ」
「うん」
「走りたいって言ったら、その日から、全力で調べる」
ファインは、顔を上げた。笑っていた。月の光の中で、その目が濡れて光っていた。
「ふふっ♪ それ、キミの一番いいところだよ」
「……そうか」
「うん。四年前から、ずっと」
雅也は、何も言わなかった。言わなくても、たぶん、伝わっていた。
「……それとね」
「ん」
「この子が走らないって言っても、同じでしょ?」
「……同じだ」
「ラーメン屋さんになりたいって言っても?」
「……調べる」
「お医者様になりたいって言っても?」
「調べる」
「王族の務めを継ぎたいって言っても?」
「……それは、君が教えてくれ」
「ふふっ。うん。教える」
ファインは、ショールの端を指で摘まんだ。
「私ね、ずっと、この血は私で終わるって思ってたの。だから、使命っていうのは、終わらせ方を整えることだって。……一族のみんなは、この子が生まれたら、血が続いたって言うと思う。喜んでくれると思う。それは、嬉しい」
「……」
「でもね。私にとっては、そうじゃないの」
彼女は、腹部に置いた手に、少しだけ力をこめた。
「血が続いたんじゃなくて、この子がいるの。……それだけなの」
雅也は、頷いた。
「……ああ」
「分かる?」
「分かる。……俺も、そうだ」
「ふふっ。よかった」
庭の向こうで、門の外の隊長が、ごくわずかに身じろぎした。背中を向けたまま。何かを聞いていたのかもしれない。何も聞いていなかったのかもしれない。ファインは、隊長の背中を見て、小さく笑った。
「隊長、きっと明日から、キミに一日五回くらいお辞儀するよ」
「……もう三回はされてる」
「ふふっ」
それから彼女は、雅也のほうへ一歩、近づいた。夜の中で、彼女の匂いがした。十二月の朝と同じ、ほのかな甘さ。そこに今夜は、木蓮の最後の花の匂いが、かすかに混ざっていた。
「……ねぇ」
「ん」
「今日から、呼び方、変えてもいい?」
「……好きにしろ」
「ふふっ。好きにする」
彼女は、少しだけ背伸びをした。耳もとに、口を寄せた。
「――雅也」
囁くような声だった。雅也の耳が、熱くなった。
「……ああ」
「ふふっ♪ キミ、耳が赤いよ」
「……うるさい」
「ふふっ、そうだね」
◇
翌朝、ファインは暗いうちに目を覚ました。いや、暗くはなかった。四月の朝の五時半は、もう窓の外が薄青かった。住居の二階の寝室の、カーテンの隙間から、白い光が細く射しこんでいた。枕もとのスマートフォンを取った。ニュースを開いた。母国のニュースを、上から順番に。議会の春の会期が始まったこと。港湾の工事がひと区切りついたこと。
どこかの町で、春の市が開かれたこと。
そして、その下に、一つの記事があった。一族の末裔が、日本で婚約を発表した、という記事だった。写真は、昨日の会見場の、ファインと雅也が並んで座っているところだった。雅也は、少しだけ強張った顔をしていた。ファインは、その記事を最後まで読んだ。記事は、概ね好意的だった。けれど、最後の段落には、一族の中に慎重な意見もあることが書かれていた。
相手が一介のトレーナーであること。医学的に説明のつかない部分があること。
ファインは、その段落を、二度読んだ。訂正するつもりは、なかった。訂正する価値を、認めていなかった。それは誰かの意見で、その人がそう思うことは、その人の自由だった。自分が決めたことは、それとは別のところにあった。それから、日本のニュースを開いた。同じ話題が、たくさん並んでいた。祝福の記事があった。驚きの記事があった。
担当期間中から関係があったのではないかと、遠回しに書く記事もあった。雅也の会見での発言が、その記事の中に、そのまま引用されていた。在学中、担当期間中に、そのような関係は一切ございませんでした。
SNSには、もっといろいろな言葉が並んでいた。ティアラ路線のファンたちの、おめでとうの言葉。四年間のレースを思い出す言葉。プリンセスを日本に取られた、という海外からの嘆き。担当だった相手と、という一点に引っかかる、トレーナーらしい誰かの投稿。それから、学園の生徒たちの言葉。
――あの人、四年間ずっと、SP隊長さんと喋ってる時間のほうが長かったよ。
ファインは、声を出して笑った。スクロールしていくと、ある記事の見出しが目に留まった。スポーツ紙の短い記事だった。エアシャカールが、記者の問いかけに一言だけ答えた、という内容だった。
――……好きにしろ。アイツが決めたなら、それでいい。
ファインは、その一行を、長いあいだ眺めていた。それから、その記事の下に、もう一つ短い記事があった。樫本理子が、学園の取材に答えていた。手続きは適正だったのでしょう。それだけ確認できれば、私に言うことはありません。東条ハナのコメントは、なかった。あの人はきっと、今も、出走数が少なすぎたと思っているのだろう。それでいいと思った。
それは筋の通った意見だった。
エアグルーヴのコメントも、なかった。記事によれば、学園の取材に対して、何も言わずに立ち去ったらしい。その直前に、どこかから姉の声が聞こえたという目撃談が、小さく添えられていた。
◇
ファインはスマートフォンを伏せ、ベッドから起き上がった。窓を開けた。四月の朝の空気が、部屋の中へ流れこんできた。乾いてはいなかった。冬の日本のように、喉の奥が痛むような澄み方ではなかった。けれど、向こうの国の湿った冬とも違った。若い葉の匂いと、どこかで焼いているパンの匂いと、遠い電車の音を運んでくる、日本の春の朝の空気だった。
庭の木蓮は、すっかり葉だけになっていた。その向こうの門の外で、交代の隊員が、隊長に何かを報告していた。隊長がこちらを見上げた。ファインが手を振ると、隊長は、深く一礼した。
ファインは、窓辺の机に向かった。鞄から、新しいノートを取り出した。緑色の表紙。まだ一度も開いていない。開いた。最初のページは、真っ白だった。ペンを取った。何を書こうか、少しだけ考えた。四年前、日本に来たばかりのころ、最初のノートの最初のページには、何を書いただろう。たしか、学園の練習風景を見た日のことだった。みんなの表情。走る前の顔。
走っている顔。走り終わった顔。
十一冊のノートは、それを書きとめるためのものだった。持って帰るために。書かないと、忘れてしまうから。それしか、持って帰れないから。このノートは、違う。持って帰るためのものじゃない。ファインは、一行目に日付を書いた。その下に、少しだけ間を空けて、書いた。
――これから。
書いてから、しばらくその文字を眺めていた。それから、もう一行。
――練習してないことを、たくさんする。
ペンを置いた。窓の外で、鳥が鳴いた。階下で、玄関のチャイムが鳴った。隊長が誰かを迎える声がした。聞き慣れた、少し低い、説明の下手な人の声だった。朝食を一緒に、という約束をしていた。ファインは、立ち上がった。ノートを閉じて、机の上に置いた。鏡の前で、髪を整えた。寝癖は、ついていなかった。それから、ほんの一瞬だけ、手のひらを腹部に当てた。
まだ、何も分からなかった。膨らみも、動きも。ただ、手のひらの下に、自分の体温があるだけだった。
その温かさの中に、あの小さな点滅があることを、ファインは知っていた。ちか、ちか、ちか、と。どこかへ向かって、懸命に走っている足音のように。
「――ご機嫌よう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。鏡の中の自分にか。窓の外の春の朝にか。階下で待っている人にか。それとも、手のひらの下の、まだ名前のない誰かにか。たぶん、全部にだった。ファインは、部屋の扉を開けた。階段の下から、朝の光と、湯の沸く音と、少し困ったような声が上がってきた。
「……ファイン。朝飯、何にする」
ファインは、笑った。
「ラーメン!」
「……朝からか」
「だめ?」
「……悪くない」
階段を下りていく足音が、春の朝の家の中に、軽く、弾むように響いた。終わらなかった朝の、その先へ。