家入硝子がその男を蹴ったのは、邪魔だったからだ。
「そこに立ってるなら座って」
膝の裏を靴の先で小突くと、京都校の制服を着た男は、片手をベッドについて腰を下ろした。もう片方の腕を腹の前に抱えている。左の袖が、肘の少し上から黒く濡れていた。
「僕より先に——」
「そっちはもう終わった」
衝立の向こうから、終わりました、と律儀な返事がした。
硝子は返事をせず、男の袖を持ち上げた。布が傷に貼りついている。ちょっと痛むよ、と言おうかと思ったが、取れば済むので、そのまま剥がした。
「……っ」
「腕、下ろして」
「はい」
口調の割には素直だった。
肘から手首にかけて深く裂けている。傷の中に細かい木片が入り込んでいた。交流会で何をしたらこうなるのかは、聞かなくても大体分かる。窓の外では、ついさっきまでなかった場所に、ついさっきまであった木が横たわっていた。
「あれ、こっちにもいた」
原因の片割れが、医務室の入口から顔を出した。
五条は無傷だった。制服に土こそついているが、医務室へ来る用のある身体には見えない。後ろに立っている夏油も似たようなものだ。
「お前ら、全員拾ってこいって言われたんじゃないの」
「だから探してんじゃん」
「自分で歩ける人は先に戻ったみたいでね」
夏油がそう言いながら、男の腕を見た。
「すみません。そこまで巻き込んだとは」
「謝るの傑なんだ?」
「悟も謝りなよ」
「最後にあそこへ呪霊飛ばしたのお前だろ」
「その前に誰が——」
「外でやって」
硝子が言うと、ベッドの男が小さく笑った。
すぐに息を詰めたので、硝子は腕から顔へ視線を上げた。
「ほかは」
「え?」
「痛いところ」
「……右の脇腹も、少し」
「先に言えよ」
襟元を緩めさせ、脇腹に手を当てる。指先を置いた途端、男の肩がわずかに上がった。
人に道を譲って立っている傷ではなかった。こういうのは面倒だ。こちらが順番を決める前に、勝手に後回しになろうとする。重傷者を先に回したつもりで、結局もう一度全員を見る羽目になる。
「息、止めなくていい」
掌から呪力を流す。
折れたものが繋がり、裂けたものが閉じる。腕の傷に残った異物を取り除き、そちらも同じように塞いだ。男は途中から、傷口ではなく硝子の手を見ていた。
「動かしてみて」
長い指が開いて、握られる。
もう一度。
それから男は慎重に息を吸った。肩を回し、制服の破れたところをつまみ上げる。そこに穴が開いたままなのを、妙に不思議そうに見た。
「服までは直らないよ」
「うん。……そうだね」
笑うと、思ったより若い顔になった。
最初に腰を下ろすまでは、教師にでも付き添われてきた関係者のような喋り方だった。京都校の生徒だと分かっていても、硝子は一瞬、年を数え直した。
「家入さん、だよね」
「そうだけど」
「久世雅臣。京都の三年です」
硝子は机の上の用紙を顎で示した。
「そこ、名前書いといて」
男——久世は、用紙を見てから硝子を見た。
少し間があって、また笑った。
「分かった」
「なに」
「いや。ありがとう。痛くなくなった」
「治したからね」
五条が吹き出した。
硝子はそちらを見たが、五条は悪びれず、入口の枠へ肩を預けている。夏油の口元まで緩んでいた。
「楽しそうだな、お前ら」
廊下から夜蛾の声がした。
二人が同時に黙る。
「まだ向こうに倒れてる者がいる。来い」
「歩けるだろ、あいつら」
「五条」
「はいはい」
「返事は一度だ」
白い頭と黒い頭が消えた。少し遅れて、夜蛾の足音も遠ざかる。
静かになると、久世がまだ用紙を手にしていることが、急に目についた。
「書けた?」
「今」
差し出された文字は、腹が立つくらい整っていた。硝子がさっき自分で書いた走り書きの下に並ぶと、同じ用紙に見えない。
「反転術式で他人を治せる人には、初めて会ったよ」
「ふうん」
「噂は聞いていたんだけど、実際に見ると——」
「次、来るから」
廊下がまた騒がしくなっていた。
久世は入口を振り返り、立ち上がった。今度はどこも庇わずに動く。
「何かお礼を」
「いらない」
「でも」
「怪我人の相手は済んだ。元気な奴の相手までさせるな」
久世の唇が、一度閉じた。
怒ったのかと思ったが、次に出てきたのは笑い声だった。
「……うん。じゃあ、今日は帰るよ」
今日は、というところを硝子は聞き流した。
ちょうど次の怪我人が、五条に文句を言いながら運ばれてきたからだ。
*
十日後、その男が菓子折りを持って現れた。
硝子は医務室の机で、本に挟んでいた指を抜かずに顔を上げた。
「……京都の」
「久世です」
「どっか治ってなかった?」
「全部治ってるよ」
「じゃあ何」
久世は両手で持っていた箱を、少し持ち上げた。
「先日のお礼に」
「いらないって言っただろ」
「だから、みんなで食べられるものにしたんだけど」
丁寧な包装だった。菓子の名前より、包み紙に押された店の印の方が目立つ。いかにも、誰かに何かを渡し慣れている人間の選ぶ箱だと思った。
「先生に渡せば」
「夜蛾先生には、もう別のものを」
「用意がいいな」
「受け取ってもらえなかった」
硝子は顔を上げた。
久世は少し困ったように、しかし笑っていた。
「書類だけ受け取ってくださったよ」
「じゃあ、それもお前が食えば」
「二箱は、ちょっと多いかな」
自分で買ってきたくせに。
そう思うと少しおかしかったが、笑ってやるほどではなかった。硝子は本を閉じ、空いた机の端を指した。久世はそこへ箱を置くと、包装の角を指で軽く押さえた。
「座っても?」
「話、長い?」
「長くしない」
「じゃあ」
久世が丸椅子を引いた。
交流会の日には血で分からなかったが、制服はきちんと着ている方だった。袖口にも、襟にも、変な折れ方がない。ここにいる二人は、片方が着崩し、もう片方は形のせいで、どれだけ整っていても目立つ。普通の制服を普通に着た男子生徒が机の向こうに座っていることが、かえって珍しかった。
「今日は、それを渡しに来ただけ?」
「交流会で使った呪具の、点検結果を届ける用事があってね」
「それ、わざわざ生徒が運ぶんだ」
「ほかの人でもよかったんだけど、僕が来たいと言ったから」
硝子は、閉じた本の背を指で撫でた。
こういう時の返事は、もう何度かしている。
反転術式は、どうやるのか。いつできるようになったのか。ほかの人間にも教えられるのか。何人まで治せるのか。怪我はどこまで戻せるのか。
分かることと分からないことがあって、分からないことまで丁寧に聞けば答えが出ると思っている相手は、長居する。
「術式のことなら、説明しても分かんないと思うよ」
「聞く前に?」
「五条にも分かんなかったから」
久世はわずかに眉を上げた。
「それは、少し気になるな」
「あっちは相当気にしてる」
廊下から、誰が何を気にしてるって、と声がした。
硝子は扉を見ずに、箱を持ち上げた。
「菓子」
「お、何。俺に?」
「お前にだって」
「家入さんに持ってきたんだけどね」
訂正はしたが、久世は五条が箱を取るのを止めなかった。
夏油が一歩遅れて入ってきて、久世に気づく。軽く頭を下げてから、もう包みを開け始めている五条を見た。
「悟。せめて礼くらい」
「いいだろ別に」
「いいよ。食べてもらえれば」
「ほら。いいって」
「お前が言うことじゃないだろ」
聞き慣れたやり取りに戻ったので、硝子は本を開き直した。
「久世先輩。怪我の具合はどうですか」
「もうすっかり。家入さんのおかげでね」
「硝子は雑だけど、ちゃんと治すよ」
「聞こえてるぞ、夏油」
「褒めてる」
言いながら夏油も菓子を一つ取った。五条は既に二つ目の包装を裂いている。
久世はその手元を見ていたが、やがて硝子の本へ目を移した。
「邪魔しちゃったね」
「うん」
「本当にはっきり言うなあ」
責めるような声ではなかった。
硝子が顔を上げると、久世はこちらを見て笑っていた。返事を待っているらしい。何を返すのが正解なのか分からないので、何も言わなかった。
それでも笑顔は引っ込まなかった。
「じゃあ、今日はこの辺で」
「え、もう帰んの」
「君のお菓子を食べるのを見守っていても仕方ないだろう」
「これ、うまいよ」
「それはよかった」
久世は立ち上がり、椅子を元の場所へ戻した。
硝子はつい、腕を見た。あの日裂けていた辺りに、修繕の跡は見つからなかった。別の制服なのだろう。あれだけ怪我をして帰って、十日でまた来る気になるのだから、東京校を嫌いにはならなかったらしい。
「家入さん」
「何」
「次に何か持ってくるなら、何がいいかな」
「持ってくる前提なのやめろよ」
「手ぶらだと、君がすぐ帰れって言いそうで」
「持ってきても言うけど」
「……そうだったね」
五条が、菓子をくわえたまま肩を揺らした。
久世は一度そちらを見てから、硝子へ目を戻した。その目の動きに、初めて少しだけ、笑っていないものが混じった気がした。
しかし、次に口を開いた時には元通りだった。
「またね」
硝子は、本を持っていない方の手をひらひら振った。
*
「あれ、何しに来たんだろうね」
夏油が言ったのは、久世の足音が聞こえなくなってからだった。
「菓子配り」
「悟に聞いた私が悪かったよ」
「お礼だってさ」
硝子は文字を目で追ったまま答えた。
「それだけで京都から?」
「仕事のついで」
「久世んとこは、ああいうのが仕事みたいなもんだろ」
五条が空いた包装を箱へ押し込んだ。
「ああいうの?」
「顔売って、こっちに頭下げて、あっちにも頭下げて。捕まえた呪詛師を動かなくしたりもするけど」
「知り合いなのか」
「名前は知ってた」
夏油は、久世が帰っていった扉を見た。
京都の三年。それ以上のことを、夏油は知らなかった。交流会で顔を合わせる前から五条の方には名前が入っていて、その家がどういう仕事をしているのかまで共有されている。
だからどうだという話でもないはずなのに、五条の軽い言い方が少し引っかかった。
「そんなに知られてる家なの?」
「傑は知らなくても別によくね」
「今聞いてるんだけど」
「知りたいなら本人に聞けよ。また来る気っぽいし」
それはそうだ。
夏油は言い返すのをやめて、残っている菓子へ手を伸ばした。五条が箱ごと自分の方へ引く。
「お前、さっき一個食ったじゃん」
「悟はいくつ食べたんだ」
「数えてない」
「そうか。私は数えてたよ」
「よそでやれ、クズ共」
硝子が言った。
結局、二人とも追い出された。
久世が持ってきた箱も、一緒に出ていった。
*
次に来た時、久世は煙草を持っていた。
菓子の包み紙よりもずっと見慣れた色が、紙袋から現れた。しかも、一箱ではない。
机に置かれたカートンを見て、硝子は持っていたペンを止めた。
「……お前さあ」
「銘柄、合ってるよね」
「そういう話じゃなくて」
「違った?」
「合ってる」
「よかった」
久世が笑った。
硝子は続きを言おうとして、少しだけ言いそびれた。菓子を五条に渡した時も、この男は同じように笑っていたはずだ。それなのに、今の方が分かりやすかった。
持ってきたものが正しかったと分かって、喜んでいる。
そんな単純な顔をするのか、と思った。
「今日は何の用」
「君に会いに来た」
「ほかは」
「信用がないなあ」
久世は、そう言いながら別の封筒を出した。
硝子は半眼になる。
「あるじゃん」
「これは、あちらの二人へ」
ちょうど廊下を通りかけていた五条が、呼んだ、と顔を出した。その肩越しに、夏油がこちらを見る。
「君たちに渡すものを預かってるんだ。京都から」
「げ」
五条は封筒を一目見るなり、露骨に嫌な顔をした。
「見なくても分かる。いらね」
「受け取った後、どうするかは君が決めていいよ」
「ここで捨てていい?」
「ゴミ箱の持ち主に聞いて」
「駄目」
硝子は即答した。
夏油が自分宛ての封筒を受け取り、中を覗く。表情が止まった。
「……先輩。これ」
「縁談だね」
「任務の書類かと思ったんですが」
「任務より嫌な奴」
「悟、ちょっと黙って」
久世は笑っている。
夏油は封筒の中身を引き出しかけて、やめた。角の硬い台紙が入っている。写真らしかった。相手の顔を見てしまう前に、というような手つきで元へ戻す。
「私にも、こういう話が来るんですか」
「君にも、というより、君だから来るんだよ」
「断っていいんですよね」
「もちろん。返事は先生を通して別の人に持たせればいい。僕の仕事は、今日これを君たちに渡すところまでだから」
「めんどくせえとこだけ残して帰る気じゃん」
五条の言うことが、珍しくもっともだった。
硝子はカートンに手を伸ばし、端を開けた。
「そっちは受け取ってくれるんだね」
「何か入ってんの?」
「ただの煙草が十箱」
「ならもらう」
一箱取り出す。
五条がそれを見てから、久世へ視線を移した。
「そういや硝子。そいつ、あんま触らせんなよ」
「何」
「縛る方の術式。だろ?」
最後の一言は久世へ向いていた。
久世は、五条を見た。
「触れた相手の動きを、少し止められるんだ」
「触るだけじゃ済まねえだろ。何か先に取り込んでる」
久世の指が、空になった紙袋の持ち手から離れた。
「……そこまで見えるんだね」
「だいたいな」
五条は鼻で笑った。
硝子は煙草の薄い包装を剥がしながら、久世を見る。少し黙った後、久世は肩を竦めた。
「相手の一部を取り込む必要があるんだよ。その上で、触れる」
「一部って?」
「髪とか、爪とか。血でもいいけど」
「取り込むって、食べるんですか」
夏油の声が、わずかに低くなった。
「飲み込めばいい。そういう条件だからね」
久世は軽く言った。
夏油はもう何も聞かなかった。封筒の端を持つ指だけが、一度、持ち直された。
硝子は手元の箱を見た。
「お礼のお礼に髪寄越せ、とか言わないだろうな」
「言わないよ。何のために来たのか分からなくなる」
「何のために来たんだよ」
「君に会うため、じゃダメかな」
今度は硝子を見るまでに間がなかった。
五条が、へえ、と声を上げる。
久世は気にした様子もなく、さっきと同じ顔で笑っていた。
「家入さん。付き合ってる人はいる?」
「いない」
「じゃあ、僕が立候補してもいいかな」
「駄目」
「残念」
早、と五条が言った。
どちらに対しての感想なのかは分からなかった。夏油は顔を横に向けている。笑っているのが、こちらからでも分かった。
硝子は新しい箱から一本抜いた。
久世は断られても、カートンを引っ込めようとはしなかった。そこはありがたい。
「君たちも止めたりしないんだね」
「今、硝子が止めたじゃん」
「そうだけど」
「本人が断ってますから、私たちにはどうにも」
夏油がいかにも丁寧に言った。
久世はそちらへ顔を向ける。
「もう少し残念そうに言ってくれてもいいんじゃないかな」
「それはすみません」
まったく残念そうではなかった。
硝子は煙草を指に挟んだまま、椅子の背へ体重をかけた。
「私のこと、ほとんど知らないだろ」
「そうだね」
あっさり肯定された。
「なら何で」
「この間、帰った後に、また会いたいと思ったから」
夏油が、今度は笑うのをやめた。
硝子は久世を見ていた。
この男が最後に帰った時、自分は何をしていただろう。途中までは覚えている。菓子を五条に渡して、本を読んで、長居するなと態度に出していた。それから。
それから、何もなかったはずだ。
「……変わってんな」
「そうかな」
「そうじゃね。よりによって硝子だし」
「お前はあとで殴る」
「触れねーけど」
五条が笑った。
硝子は丸めた包装を、その白い頭へ投げた。届く前に止まったので、落ちたら拾えよ、とだけ言った。
その横で、夏油がまだ封筒を持っていることに気づいた。
「それ、どうすんの」
「断るよ。どう断るかを考えてた」
「いらねえ、でよくない?」
「悟ならそれで済むんだろうね」
「君だって、嫌なら断って構わないよ」
久世が口を挟んだ。
「ただ、誰に断りを渡すかは選んだ方がいい。返事の意味が変わることがあるから。夜蛾先生なら、そのまま通してくださると思う」
夏油が顔を上げる。
「意味が変わる?」
「もう少し条件がよければ考える、という話になったりね」
「断ってるのに?」
「話を続けたい人が間にいれば、続ける口実を作るんだよ」
硝子は眉を寄せた。
五条は退屈そうに自分の封筒を揺すっている。説明を聞いた顔ではなかった。
「断った本人の意見は」
「直接届くとは限らないからね。だから、渡す相手を選ぶ」
久世は夏油に答えてから、五条を見た。
「君が教えてあげれば早いのに」
「聞かれてねえし」
「知らなければ、聞くこともできないだろう」
「今あんたが喋ってんじゃん」
久世が黙った。
それまで笑っていた口が、少しだけ真っすぐになる。
硝子はその顔を見て、ああ、と思った。さっき五条に菓子を取られた時より、今の方がずっと、機嫌が悪い。
「……夏油くん。次から、こういうものを受け取ったら先生に聞くといい」
「そうします」
「俺の分も出しといて、傑」
「自分でやれ」
夏油の返事が速かったので、硝子は少し笑った。
久世も笑ったが、五条に向ける顔はさっきより雑になっていた。それが分かると、綺麗な制服も、整った字も、少しだけどうでもよくなった。
「そもそもさあ」
五条が、久世の持ってきた紙袋を顎で示す。
「こんなもん預かってまで来たのに、振られて帰んの?」
「そういうことになるね」
「意味ねー」
「君たちにそれを届けることになったから、今日はここへ来られたんだよ。役には立った」
夏油が、自分の手元を見下ろした。
「……そのために引き受けたんですか」
「うん」
悪びれもしなかった。
五条が、うわ、と言う。
「俺らの方がついでじゃん」
「だから、君たちには手土産がないんだ。悪いね」
「前の菓子は」
「あれも家入さんに持ってきたものだよ」
夏油がとうとう声を出して笑った。
五条は不満そうな顔をしたが、すぐに硝子へ向き直る。
「だって。どうする?」
「どうもしない」
「だそうです、先輩」
「聞こえてるよ」
その返事が、それまでで一番普通だったので。
硝子も、少しだけ笑ってしまった。
*
五条と夏油が教室へ戻った後、久世は壁の時計を見た。
「そろそろ帰らないと」
「あっそ」
「本当に邪魔しちゃったね」
「分かってて来てんだろ」
「今日は、うん」
空の紙袋を畳む手が止まらなかったので、硝子はそこへ視線を落とした。
細い傷が、指の付け根に一つあった。
古い傷だろうか。交流会の時には気づかなかった。塞がってはいるので、治す必要もない。硝子はそれ以上見ずに、机の引き出しを開けた。
「煙草、ほんとにもらうよ」
「そのために持ってきたんだよ」
「付き合わないけど」
「二回言わなくてもいいんじゃないかな」
「後から返せって言われても、吸ったもんは返せないから」
「言わないよ」
久世は、今度は少し困った顔をした。
硝子はその顔の方が見ていて楽だった。最初からずっと同じ調子で微笑まれていると、何を言っても同じところへ落ちていくようで、返事をするのが面倒になる。
嫌なら、嫌そうにすればいいのに。
「先輩」
久世が顔を上げた。
「お礼はもう済んだろ」
「……うん」
「次から、それ言うなよ。治しただけで何回も来られたら、仕事増やした気になる」
畳みかけていた紙袋が、久世の手の中で小さく鳴った。
久世は一度、硝子の手元の煙草を見た。それから顔へ視線を戻し、口元を緩める。
「じゃあ、次は別の用事で来る」
「来いとは言ってない」
「分かってる」
分かっている奴の顔ではなかった。
久世は扉を開けたところで振り返り、またね、と言った。前回と同じ調子だったが、硝子は今度、手を振らなかった。
「次、菓子買うなら五条に渡せよ。ここに持ってくんな」
「君には?」
硝子は持っていた箱を軽く振った。
「しばらくいらない」
それだけで、また嬉しそうな顔になった。
扉が閉まってから、硝子は引き出しへカートンを入れようとした。入らなかった。奥には使いかけのライターと、芯のなくなったシャープペンと、いつ入れたか分からない飴がある。
カートンを開け、中身をばらして押し込む。
九箱は多かった。
一度手を止めて、扉を見る。
もう誰もいない。
硝子は奥の飴を捨て、煙草の向きを変えた。