家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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「血は落としたから」

 

 硝子が言った。

 

 傑は頷いた。礼を言うまでに、少し間が空いた。

 

 白い布の上に、黒い髪が出ている。硝子が梳いたのだろう。悟が連れて帰ってきたときには頬に張りついていた髪が、今は耳の脇にきちんと寄せられていた。

 

 顔を見ることができた。

 それだけだった。

 

 悟はベッドの向こうに立っていた。着替えろと言われたはずなのに、まだ血のついた服を着ている。傷はもうない。喉にも、額にも。服だけが、傑の知らないところで起こったことを残していた。

 

 何か話さなければと思った。

 

 硝子に、理子がどんな子だったか。

 どうして学校へ戻りたがったのか。沖縄で何をしたのか。水族館では、こちらが声をかけてもなかなか水槽の前から動かなかったこと。

 

 どれも、ここで話すことなのか分からなかった。

 

 扉が二度鳴った。

 

「家入さん、いる?」

 

 久世が入口に立っていた。片手に鞄を持ち、もう片方には、まだ開いたままの携帯電話を握っている。

 

「電話、何度かしたんだけど」

「あー……悪い。見てなかった」

 

 硝子がそう返して、言葉が途切れた。

 

 視線が悟に移り、傑を経て、ベッドに下りた。

 開きかけた扉が、その位置で止まる。

 

「……何があったの」

 

 携帯を閉じる音がした。

 

「任務で。こいつらが護衛してた子」

 

 久世が硝子を見る。

 

「私はどこにも行ってないよ」

「……そう」

 

 傑は椅子に座ったまま、膝の上の手を見た。

 

「護衛に失敗しました」

「君たちが?」

 

 確かめるように聞き返されて、頷いた。

 

 その先を待つ沈黙があった。

 

 久世は入ってきたが、ベッドには近づかなかった。足元に鞄を置く音がした。いつもなら、硝子に断られるところから始まる訪問だった。今日はそのための言葉を、何も持ってきていないらしかった。

 

「……星漿体?」

 

 傑は顔を上げた。

 

 久世は、理子の顔を見ていた。

 

「どうして、それを」

「同化の時期くらいは、うちでも把握してる。今朝から父のところに妙な連絡が続いていてね。東京に来れば、何か分かるかと思ったんだけど」

 

 そこで一度、口を閉じた。

 

「そうか。この子が」

「天内理子ちゃんです」

 

 名前を言うと、久世がこちらを見た。

 

 傑はもう一度、膝に目を落とした。

 

「薨星宮まで、連れていったんです。そこまでは、私が」

 

 言葉にすると、たったそれだけだった。

 

 手を差し出したことも。

 理子が泣いたことも。

 そのあと、手を取れると思ったことも。

 

「帰りたいって、言ったんですよ。あの子は。それで——」

「そんなことより、天元様は」

 

 傑の指が止まった。

 

 久世は携帯を開きかけていた。

 

「同化はしていないんだよね。天元様ご本人と、誰か話せてる?」

「……そんなこと?」

 

 久世の手が止まった。

 

「先輩」

「夏油君。先に確認させてくれ」

「今、何の話をしているか、分かってますか」

「分かってる。だから聞いてるんだ」

 

 傑は立った。

 

 椅子が床を擦った。腹の奥が引きつったが、それより久世の顔が目についた。こちらを見てはいる。話も聞いている。聞いたうえで、もう一度同じことを尋ねようとしている。

 

「この子が死んだんです」

「見れば分かるよ」

「それよりも、ですか」

「そうだよ」

 

 ためらいがなかった。

 

「同化に失敗したなら、これからの天元様がどうなるかの方が問題だ」

 

 傑は久世の胸元を掴んでいた。

 

 引き寄せた拍子に、久世の携帯が床に落ちた。

 

「取り消せ」

 

 久世の顎が上がった。襟が喉に食い込んでいる。傑の手を見て、それから、すぐ近くにある顔を見返してきた。

 

「……離してくれ」

「ここで言うことか」

「じゃあ、どこで聞けって言うんだ」

 

 声が変わった。

 

 久世が傑の手首を掴んだ。術式の気配はなかった。ただ、襟元を緩めようとしている。

 

「うちで扱ってる結界だって、天元様の補助がある前提で組んでる。封じておけば済んでいたものを、封じておけなくなるかもしれないんだよ。どこから手をつけるかも、まだ分からない」

「だから、この子はどうでもいいと?」

「一人死んだ。ああ、悲しいよ。じゃあ、この後は? この後、何万人死ぬ? 誰が何を狙ってこれをやった? お前ら、そこまで——」

 

 傑の右腕が止まった。

 

 悟が手首を握っていた。

 

「傑」

 

 それだけだった。

 

 傑は悟を見た。いつの間にベッドを回ったのか、分からなかった。

 

「放せよ」

 

 どちらの手を言われたのか、一瞬分からなかった。

 

 硝子が床の携帯を拾った。

 

「やるなら外でやれ」

 

 傑は指を開いた。

 

 久世が一歩下がり、短く咳をした。喉元を押さえたまま、ベッドの方を見た。

 

 理子は動かなかった。

 

 椅子が擦れても、誰かが怒鳴っても。

 

「久世」

 

 悟が言った。

 

「天元は、今どうなってんの」

「……分からない。それを聞いてる」

「俺らも知らねえよ」

 

 久世の口が閉じた。

 

「夜蛾に聞きな」

 

 硝子が扉を指さした。

 

「戻ってる。あんたより知ってるかは、知らないけど」

「……うん」

 

 久世は、扉を見ずに悟を見た。

 

「殺した相手は、まだ動ける?」

「殺した」

 

 悟が答えた。

 

「一人?」

「直接やったのはな」

「依頼したのは」

 

 悟が黙った。

 

 傑には、またあの拍手が聞こえた気がした。

 あれだけ人間がいたのに、誰の声も覚えていない。顔も。手だけが、何組も何組も動いていた。

 

「盤星教」

 

 自分の声がひどく平らに聞こえた。

 

「連中のところに、理子ちゃんが運ばれていた。誰が金を出したのかまでは、知らない」

「場所は分かる?」

「分かる」

 

 悟が答えた。

 

「補助監督に聞けよ。送らせる」

「頼む。……そいつが高専の中まで入った方法は?」

「呪力がねえんだ、あいつ」

 

 久世の眉が動いた。

 

「ない?」

「全く」

 

 何か言いかけて、やめた。

 久世は一度目を伏せ、頷いた。

 

「分かった。そこは、あとで聞かせて」

 

 誰も返事をしなかった。

 

 鞄を拾ってから、久世は傑を見た。

 

 傑は見返した。

 

 何も言われたくなかった。天元の説明も、理子への弔意も。今この男がどちらを口にしても、もう一度手が出る気がした。

 

 久世は黙ったまま、扉へ向かった。

 

 廊下に出ると、すぐに電話をかける声がした。

 

「父上。東京です。同化が行われていません。はい、確認しました。天元様の状態は、これから——」

 

 扉が閉まった。

 

 悟の手が、まだ傑の腕に触れていた。

 

「もういいよ、悟」

 

 手が離れた。

 

 傑は椅子に座った。掴んだ指をゆっくり開く。爪が掌に食い込んでいた。

 

 天元のことを考えようとした。

 

 任務を受けたとき、説明は受けた。同化が必要な理由も、失敗すれば何が危ぶまれるかも。知らなかったわけではない。

 

 それでも、理子に手を差し出した。

 

 顔を上げると、悟がまたベッドの向こうに戻っていた。

 聞かなくても分かった。あの時点に戻ったとしても、悟は同じことを言う。傑も、同じことを言う。

 

 ただ、差し出した手の先にあったはずのことを、今はどうしても考えられなかった。

 

     *

 

 久世が職員室から出てきたとき、硝子は廊下の窓を開けていた。

 

 煙草に火をつけるつもりだったが、持ったまま忘れていた。

 

「家入さん」

 

 呼ばれて振り向く。

 

「帰るの」

「うん。一度、家に戻る」

 

 久世の襟はもう直っていた。

 

「天元様は?」

「今のところ、結界に異常はないそうだよ。ご本人のことは、まだ高専にも返事が来ていないそうだ」

 

 職員室の扉を示した。

 

「何をどこまでうちに知らせるか、という話もあるから」

「こんなときにも?」

「こんなときだから、余計にね」

 

 久世の携帯が鳴った。

 

 画面を見てから、硝子に小さく頭を下げた。

 

「はい。……その記録は叔母上がご存じです。僕が戻るのを待たなくて結構ですから、先に。点検は、いつも担当している者に任せてください」

 

 窓から離れかけた足が止まる。

 

「全員戻す? 何のために」

 

 硝子は煙草を箱に戻した。

 

「現場を空けたら、何も起きていなくてもこちらで問題を増やすでしょう。人はそのままで、状態を確認してほしいんです。……はい。そちらはお願いします」

 

 通話を切ってから、久世は少しの間、携帯を見下ろしていた。

 

「あんたが全部見て回るわけじゃないんだ」

「僕が見ても分からない場所は、いくらでもあるよ」

 

 顔を上げた。

 

「普段触ってる人間に見てもらう方がいい。そもそも、そんな人数もうちにはいないしね」

 

 いつもなら笑うところで、笑わなかった。

 

 硝子は、久世の首の跡を見た。

 

「夏油には近づくなよ。今は」

「うん」

 

 返事は早かった。

 

「……言い方が悪かった」

「かなりな」

 

 久世は何も返さなかった。

 

 硝子は二人を取りなすつもりはなかった。久世がどれだけ切迫していようが、夏油はあの部屋で聞く必要のないことを聞かされた。

 何万人、のところでは、硝子も殴ってやりたくなった。

 

「家入さん」

「何」

 

 久世は一度、医務室のある方を見た。

 

「……いや。また連絡する」

 

 鞄を持ち直して、廊下を歩いていった。

 

     *

 

「先日は、すまなかった」

 

 久世が頭を下げた。

 夏油は、机の上に置いていた手を膝へ下ろした。

 

 帰ってきた日から、四日が経っていた。

 夜蛾から、久世が三人に会って謝りたいと言っていると聞いた。授業のあとならと答えたのは、傑だった。悟も硝子も、それでいいと言った。

 

 傑は、長く話すつもりではなかった。

 

「帰ってきたばかりの君たちに、何度も質問した。天内さんのことも、あんなふうに言うべきじゃなかった」

 

 顔を上げた久世は、三人を順に見た。

 

「君たちが大切にしていた人を、邪魔な話みたいに扱った。すまなかった」

 

 教室の窓は開いていた。

 風が入ってきて、傑が机へ置いたプリントの端をめくった。

 

 頭を下げられても、天内の顔が消えるわけではなかった。

 先輩がそれを求めているのかどうかも、分からない。

 

「反対なのは、変わりませんか」

 

 訊くと、久世はこちらを見た。

 

「あの子を、帰すことです」

 

 少し間があった。

 

「……同化をやめたあとにどうするか、確かめないまま賛成はできない。そこは、今も変わっていないよ」

 

 傑は頷いた。

 そう答えるだろうとは思っていた。

 

 それでも、実際に聞くと、胸の奥が固くなった。

 

「私は、帰そうとしたことは間違っていなかったと思っています」

「うん」

「もう一度同じことを聞かれても、帰っていいと言います」

 

 久世はしばらく黙っていた。

 頷いたあとも、こちらへ何か言い足すことはしなかった。

 

 傑は、膝の上の手を組み直した。

 

 あの日、差し出した手に、彼女の手が届くと思っていた。

 連れて帰ると決めたのに、その先を一つもしてやれなかった。

 

 久世に、分かったと言ってしまうのも嫌だった。

 何を分かったことになるのか、自分でも決められなかった。

 

 五条が窓の外へ目を向けた。

 

「天元とやり合うことになっても、どうにかなると思ってたしな」

 

 久世はすぐには答えなかった。

 

 鞄を床に置き、空いた手で口元に触れた。ほんの少し眉間が寄る。

 

「先輩が知っていたら、止めましたか」

 

 夏油が聞いた。

 

「同化させろと?」

「はい」

 

 久世は夏油を見て、それから五条を見た。

 

「言ったら、渡したの?」

「渡すわけねえじゃん」

 

 五条が即答した。

 

「なら、渡さない前提で考えるよ」

 

 夏油の指から、少し力が抜けた。

 

「……それでいいんですか」

「よくはない。急に言われたら困る」

 

 久世の眉間に、今度ははっきり皺が寄った。

 

「君たちはその子を連れて出ていけばいいけど、残った結界も封印も、そのままなんだよ。動かせないものの方が多い。そっちの準備をする時間はほしい」

 

 五条が久世を見た。

 

「それでも駄目だったら?」

「何が駄目なのかによる」

「同化しなきゃ、どうにもなんねえってなったら」

 

 久世は口元から手を下ろした。

 

「その時点で、分かっていることを君たちに話す。そこまで聞いても返さないなら、返ってこないものとして次を考えるしかないだろう」

「諦めんの」

「君らから奪い返す役を、僕に期待しないでくれ」

 

 五条は笑わなかった。

 

 久世も笑っていなかった。

 

「天元様のことを放っておけないからって、同化を待つ以外のことまで、全部やめるわけにはいかないんだよ」

 

 夏油は膝を見つめたままだった。

 

「……一つ、聞いてもいいですか」

「うん」

「あの場に先輩がいたら、何か変わったと思いますか」

 

 久世は目を上げた。

 

 五条が夏油を見た。

 

「護衛のこと?」

「はい」

 

 少しの間があった。

 

「君と五条君を倒した相手だろう。僕がその場に増えても、殺される人間が一人増えただけだと思うよ」

 

 夏油は俯いたまま、頷いた。

 

「そうですか」

 

 久世は、その先に何も足さなかった。

 

「で。今日はほかに何かあんの」

「ない。謝りに来た」

「じゃあ、俺は行く」

 

 立ち上がった悟を、久世は引き留めなかった。

 

 傑も立った。

 頭を下げられたことには、何か返すべきなのかもしれない。

 けれど、気にしないでくださいとは言いたくなかった。

 

「謝っていただいたことは、分かりました」

 

 それだけを言った。

 

「聞いてくれて、ありがとう」

 

 久世が答えた。

 

 硝子は、窓際に残っていた。

 傑を見ると、先に行っていてというように、顎を少し動かした。

 

 *

 

 二人の足音が遠くなった。

 久世は、硝子へ向き直った。

 

 彼女は窓枠に片手を置いている。

 謝罪を聞いている間も、ほとんど姿勢を変えなかった。

 

「家入さんも、あの日はすまなかった」

 

 彼女が顔を上げた。

 

 あの日、家へ戻って、担当者が集めた記録を読んだ。

 実際の点検にも人が回り、今のところ異常は見つかっていない。

 天元の状態については、安定しているという報告以上のことを、まだ聞けていなかった。

 

 必要だと思った確認は、今も続けている。

 

 その話を始めそうになって、久世は口を閉じた。

 それを説明したくて、ここへ来たわけではない。

 

 窓の外を、誰かが歩いていた。

 久世の立っているところからは、その姿までは見えない。

 

 硝子が、窓枠から手を離した。

 

「あの日さ」

「うん」

「あそこに寝てたのが私でも、同じこと言った?」

 

 久世の目が止まった。

 

 硝子はその顔を見ていた。

 

「……天元様のことは、確認すると思う」

「『そんなことより』って?」

 

 返事がなかった。

 

 廊下の奥で、扉が開いて閉まった。

 

 久世はそちらを見なかった。携帯を持った手だけが、一度持ち直された。

 

「分からない」

 

 ようやく、それだけ言った。

 

 硝子は頷いた。

 

「家入さん」

 

 足を止める。

 

 久世は、何かを言い直すように少し口を閉じた。

 

「あの日、電話に出なかったのは、ずっと処置をしていたから?」

「そう。夏油の」

「……そっか」

 

 それは最初に、医務室で硝子を見つけたときと、同じ息の吐き方だった。

 

「出られないことくらいあるよ」

「うん」

「いちいち来るなよ。京都から」

 

 久世は少しだけ困った顔をした。

 

「連絡がつけば、来なかったかもしれない」

「ついても来ただろ。何かあったんじゃないかって」

 

 今度は否定しなかった。

 

 硝子は煙草をくわえ、外へ続く方へ歩き出した。

 

 背後で久世の携帯が鳴った。

 

「はい、雅臣です」

 

 呼び止められはしなかった。

 硝子が扉を押すときには、もう人を集める話の続きが始まっていた。

 

*

 

 その次に久世を見たのは、十日ほどあとだった。

 

 学校の用事で来ると、前日に連絡があった。

 硝子は授業の時間を返した。それ以上のやり取りはしなかった。

 

 廊下で会ったとき、彼はもう鞄を持っていた。

 

「終わったの」

「うん。先生に渡すものは渡せたから」

「そっか」

 

 久世は少し足を止めた。

 

「じゃあ、また」

「うん」

 

 それで別れた。

 

 医務室へ戻ってから、硝子は机に置いた本を開いた。

 昼のうちに調べていたところへ、ノートの続きを書く。

 

 いつもなら、廊下で会えば一緒にここまで来た。

 今日は、どちらもそうしなかった。

 

 文字を一つ書き間違え、消した。

 書き直してから、次の行へ進んだ。

 

 *

 

 それから、また二週間が過ぎた。

 

 談話室から聞こえてきたのは、ひどく力んだ声だった。

 

「先輩、そこ、もうちょっと押さえてもらっていいですか!」

「押さえているよ。君が本体ごと回そうとするから」

 

 硝子は足を止めた。

 開いた扉から中を見る。

 

 机の上に、青いかき氷器が載っていた。

 灰原がハンドルを握り、久世が本体の下を押さえている。

 七海は横で、器を並べていた。

 

「何それ」

 

 訊くと、灰原が顔を上げた。

 

「家から送ってもらったんです! 家入さんも食べますか?」

「食べる」

 

 まだ、昼を少し過ぎたところだった。

 医務室で読んでいた本もノートも、そのまま置いてきている。暑くて、冷たいものを飲みに出ただけだった。

 

 久世が、こちらを見た。

 

「こんにちは」

「ああ。来てたんだ」

 

 今日来るという連絡は、もらっていた。

 先生との用事が何時に終わるかまでは、聞いていなかった。

 

「終わって出たところで、灰原くんに会ってね」

 

 言いながら、また本体を押さえる。

 削れた氷が、下の器へ落ちた。

 

 窓際には、五条と夏油がいた。

 五条は、シロップの瓶を三本、順に持ち上げている。

 

「練乳は?」

「ありますよ。冷蔵庫です」

「最初に言ってよ」

「来てすぐ見てましたよね」

 

 五条は聞いていない顔で、冷蔵庫を開けた。

 

 七海が、硝子の分の器を出した。

 

「何味にしますか」

「レモン」

「こっちにあります」

 

 七海が、黄色いシロップの瓶を手前へ寄せた。

 

 灰原がハンドルから手を離し、息をついた。

 

「結構、力いりますね」

「氷を増やしたからじゃない?」

 

 久世が中を覗いた。

 灰原がもう一度回し始める前に、手を差し出す。

 

「交代しようか」

「お願いします!」

 

 今度は灰原が本体を押さえた。

 久世がハンドルを回す。

 

 硝子は、七海と並んでできあがるのを待った。

 薄く削れた氷が積もっていく。少しできるたびに五条が覗き込み、夏油に邪魔だと言われていた。

 

「もういいんじゃないか」

 

 七海が言ったが、灰原はまだ器を見ていた。

 

「あと少し。盛った方が、おいしそうだろ」

「それ、こっちの分だぞ」

「うん。だから、いっぱいあった方がいいと思って」

 

 久世は黙って回し続けた。

 七海が自分で器を引いたところで、ようやく手を止める。

 

「次、家入さん」

 

 呼ばれて、硝子は空の器を差し出した。

 

「普通の量でいいよ」

「助かるよ」

 

 久世が少し笑った。

 それを見てから、硝子はシロップの瓶を取った。

 

 夏油が器の位置を直し、灰原が本体を支えた。

 硝子の分ができると、今度は久世の器が下へ置かれた。

 

「代わります」

 

 七海がスプーンを置いて、立ち上がる。

 久世はハンドルを渡した。

 

「じゃあ、普通の量で」

「分かりました」

 

 灰原が少し残念そうな顔をした。

 

「余ったら、灰原くんが食べればいいよ」

「おかわりの分もあります!」

「あるんだ」

 

 久世が椅子の背から鞄を取った。

 机の周りは、氷の欠片と器でいっぱいだった。

 

 硝子は自分の分へシロップを掛け、一口食べた。

 冷たくて、喉の奥が少し痛くなる。

 

「あー、いてえ」

 

 五条が額を押さえていた。

 硝子はそちらを見る。

 

「早いんだよ」

「いけると思った」

「何に挑戦してんの」

 

 夏油が自分の器を持ち上げた。

 まだ半分も減っていない。

 

 五条は額を押さえたまま、練乳の蓋を開けていた。

 

 談話室の扉の脇に、長椅子がある。

 硝子はそこへ移って座った。

 開いた窓から風が入る。部屋の中にいるより、こちらの方が少し涼しかった。

 

 久世が器を持って出てきた。

 鞄を肩へ掛けたまま、一口食べる。

 

「先輩、もう帰る?」

 

 硝子が訊くと、彼はこちらを見た。

 

「食べ終わったら、そのつもりだったけど」

 

 硝子は自分の鞄を膝へ載せた。

 隣が空く。

 

「ここ、風来るよ」

 

 久世は長椅子を見た。

 鞄を肩から下ろし、隣へ腰を掛けた。

 

「本当だ」

 

 シャツの首元へ、少し風を通す。

 それから、器へスプーンを入れた。

 

 硝子は自分の氷を食べた。

 中までシロップが届いていなくて、白いところが残っていた。

 

「いちご?」

「うん」

「練乳かけないの」

「五条くんが持っているから、やめた」

 

 中を覗くと、五条はまだ蓋を開けたままの容器を持っていた。

 向かいの夏油が、かけすぎじゃないかと言っている。

 

 硝子は少し笑った。

 

 隣からは、スプーンが器に当たる音がした。

 久世は氷を崩して、端から食べていた。

 

 横へ目をやると、鞄の口から本が見えた。

 書店の紙カバーが掛かっている。

 

「今、何読んでんの」

 

 久世がこちらを向いた。

 

「時代物」

「珍しいね」

「勧められたから、試してみた」

 

 鞄から取り出し、紙カバーをめくって表紙を見せる。

 三巻、とあった。

 

「医者のふりをして、旅をする男の話」

「何でそんなふりすんの」

「最初の嘘で、引っ込みがつかなくなった」

「絶対、病人連れてこられるだろ」

「来るんだよ」

 

 久世が言った。

 声に、いくらか不満が混じった。

 

「最初は宿を貸してもらうだけだったのに、すぐ出ればいいところで、人を診てしまう」

「治せるの?」

「たまたま、何とかなる人が続く。周りにも詳しい人がいて」

「その人がやればよくない?」

「僕もそう思うんだけど、もう話が大きくなっていてね」

 

 硝子は、表紙の数字をもう一度見た。

 

「それで三巻まで読んだんだ」

「二巻の終わりが気になったんだよ」

「好きじゃん」

 

 久世が本を膝へ置いた。

 

「面白くなかったとは、言っていないよ」

 

 言い返す声が、少しだけ強くなる。

 硝子は笑った。

 

 わざわざ文句を言いながら、続きを買っている。

 この男のそういうところは、前にも見た。

 

「どこで終わったの」

「名前がね」

「名前?」

「最初に名乗った偽名を、本人が忘れていた」

 

 硝子は、口に運びかけたスプーンを下ろした。

 

「駄目だろ、それ」

「呼ばれたのに、返事をしなかったんだ」

「もう捕まるだろ」

「そう思って、三巻を買った」

 

 笑った拍子に、器の縁から少し水が落ちた。

 硝子は膝を引いた。

 

「あー、溶けてきた」

 

 スプーンで底を混ぜる。

 氷の山が崩れて、黄色い水が上がってきた。

 

 久世の返事がなかったので、横を見た。

 目が合った。

 

「何」

「……いや」

 

 彼は一度、器へ目を落とした。

 すぐに、こちらへ戻す。

 

「もう少し、ここにいたくなった」

 

 硝子は、スプーンを止めた。

 

 久世は笑っていた。

 さっき小説へ文句を言っていたときより、ずっと静かな顔だった。

 

「帰る時間、大丈夫なの」

「今日は、急がない」

 

 硝子は氷へ目を戻した。

 底の方を一口すくって、食べる。

 

「じゃあ、いれば」

 

 少し遅れて、うん、と聞こえた。

 

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