久世雅臣について聞かれたとき、歌姫は、わりといい後輩だと答えることにしている。
挨拶ができる。連絡を返す。時間を守る。
こちらの話を最後まで聞き、分からないところは尋ね、納得できなければちゃんとそう言う。
これだけ揃っているだけでも、呪術師の後輩としては相当なものだった。
ただし、一緒になって腹を立ててほしいときには向かない。
「だから、向こうの確認不足でしょ。こっちがもう一回行くのおかしいじゃない」
「そうですね」
「あんたもそう思う?」
「はい。なので、先ほど断りました」
廊下を歩きながら、久世は鞄から一枚の紙を出した。
歌姫の名前が入っていた欄には、線が引かれている。
「断れたの?」
「引き受けると、また同じことが起こるだけですから」
「いつもの根回しね……よくやるわよ」
歌姫が四年、久世が三年だった頃の話だ。
その後に誰が行くのか尋ねると、改めて人を手配する担当のところへ返したという。久世自身が引き受けたわけではなかった。
「どうしても今日中なら僕が行ってもよかったんですが、三日前から分かっていたそうなので」
涼しい顔で言う。
ああ、と歌姫は思った。
これは、向こうが嫌いなときの声だ。
露骨に態度へ出すことは滅多にない。むしろ、気に入らない相手ほど丁寧に扱う節があった。何か頼まれて、久世がにっこりと「詳しく伺っても?」と言ったら、歌姫は少し離れることにしている。
長くなるからだ。
礼儀正しく、仕事ができて、腹の中はそれほど可愛くない。
それでも話は通じる。嫌なら嫌だと言えばいいし、引き受けられないものは理由を示せば無理に押しつけてこない。
だから、東京校の一年生を好きになったと聞いたときも、最初はそう身構えなかった。
硝子なら、嫌なものは嫌と言うだろう。
久世なら、それは分かるだろう。
そこまでは、今でも間違っていなかったと思っている。
*
「歌姫先輩。京都の久世って、普段もあんな感じ?」
東京校へ寄った帰り、二人で入った店でのことだった。
硝子は運ばれてきた飲み物のストローを、袋から抜きかけていた。
「あんなって?」
「なんか、ずっと感じいい」
「ああ」
歌姫は水を飲んだ。
「そうね。感じはいいわよ」
「その言い方」
「悪い子じゃないの。ちょっと、話してる途中で相手が帰れなくなってたりするけど」
「悪い奴じゃん」
「先に変なこと言った方も悪いのよ」
硝子が小さく笑った。
久世から聞いていたのは、礼をしたくて訪ねたことと、また会いに行くつもりだということだけだった。反転術式に興味があるとも言っていたが、それだけで京都から何度も出かけていくほど暇な後輩ではない。
「何か困ってる?」
「別に。帰れって言えば帰るし」
「ならいいけど」
「付き合ってほしいとは言われた」
歌姫はグラスを置いた。
「あんた、そういうの先に言いなさいよ」
「断ったよ」
「……あ、そう」
「うん」
硝子はメニューの端を指で押さえた。
「これ頼んでいい?」
「いいけど。久世は何て言ってたの」
「残念、って」
それから硝子は店員を呼び、普通に注文をした。
本当に、そこで話が終わったらしい。
振られたのか、あいつ。
つい昨日も、次に東京へ行く日を楽しそうに話していた気がする。
「まだ来てるんでしょ?」
「来るね」
「気まずくない?」
「向こうが気まずそうにしてないし」
硝子はストローの袋を細く折った。
「あと、面倒なの断ってくれる」
「面倒なの?」
「会ってほしいとか、顔だけ出してほしいとか。反転術式の話だって聞いてたのに、知らない家の息子がいるやつ」
歌姫は眉を寄せた。
「そんなの来るの?」
「来る。あいつに言うと来なくなる」
便利な虫除けの話をするような調子だった。
久世の顔を思い浮かべる。おそらく、相当嬉々としてやっている。
「それ、自分の分まで断られてるの分かってるのかしら」
「言ったよ。誰とも付き合う気ないって」
「何て?」
「じゃあ全部いらないね、って」
歌姫は額に手を当てた。
分かっている。間違いなく分かっている。
そのうえで、ほかの男もまとめて近づけなくなったことを喜んでいる。
「……仕事はできるのよ」
「知ってる」
注文した皿が来ると、硝子はすぐにそちらを向いた。
久世の話はもう出なかった。歌姫が京都校のことを話しても、特に名前を拾いはしなかった。
帰り際、硝子は「今日のは言わなくていいから」とだけ言った。
「どれ?」
「久世のこと聞いたやつ。いちいち喜びそう」
それは、まあ、喜ぶだろう。
無駄な期待を持たせたくないのかもしれない。
歌姫は頷いた。
*
翌年、卒業してからも、後輩との縁は切れなかった。
切りたい縁ほど切れない、ということも知った。
「歌姫、まだ怒ってんの?」
「あんたは喋るな」
洋館から戻った歌姫は、東京校で借りたタオルを膝に置いた。
髪の中に、まだ細かな埃が残っている。結界に閉じ込められていた間に思った以上の時間が過ぎていた。体を落ち着かせると急に腹が減って来たのに気づく。
その疲労を、五条は順調に増やしていた。
「助けに来たのに」
「助けてもらったことにはお礼言ったでしょ。その後に何を言ってもいいことにはならないの」
「悟。今はやめておこう」
「今じゃなくてもやめろ!」
硝子が、歌姫の肩に付いていた木屑を取った。
「先輩、お茶」
「ありがと、硝子……」
隣に座ってくれる後輩は本当に可愛い。
向かいの二人は見ないことにして、湯呑みを両手で包む。そのとき、脇に置いた携帯が鳴った。
久世からだった。
『ご無事と伺いました。お疲れかと思うので返信は結構です。資料は来週で構わないとの事です』
そういえば、京都校から借りていたものを返す予定だった。
完全に忘れていた。
「ほら、こういう後輩になりなさいよ」
思わず言うと、五条が顔を上げた。
「誰」
「久世。無事でよかったって」
「僕は無事にした方なんだけど?」
それはそうだが、そういう話ではない。
「それにあいつ、歌姫が嫌ってる連中にも、ああいう感じじゃん」
「それは知ってるわよ」
「じゃあ何で僕と比べんの」
「連絡の仕方の話してるの!」
「久世君か。彼とは最近、少し仕事をしたよ」
冥冥が、開いていた携帯を閉じた。
「どうでした?」
「いい取引だった。追加の仕事には追加の対価が要ることを、よく分かっている」
「ああ……」
「ただ、私の値段を下げる前に、依頼の方を削り始めたのは面白かったね」
歌姫には、その場面がかなりはっきり想像できた。
ではこちらは不要です、これは別に頼みます、それならいかがですか。たぶん、ずっと愛想よく。
「金はあるんだから、払えばいいじゃん」
「悟。そういうことじゃない」
夏油は苦笑してから、歌姫を見た。
「でも、話はしやすいですよ。知らない家の名前が出ても、聞けば説明してくれますし」
「で、長くなるんでしょ」
「……まあ、多少は」
少し考えた間に、心当たりの量が出ていた。
「こないだもさ。傑が一個聞いたら、あいつ、その話の二代前まで戻ったんだぜ」
「今の当主同士の不仲の理由だよ。知っておく必要はあった」
「お前、その前は僕と出かける話してたよな」
「だから途中で切り上げただろう」
「僕が切ったの」
硝子は黙って菓子の袋を開けていた。
歌姫が目をやると、自分の分を取る前に袋をこちらへ傾ける。
「硝子は聞かないの?」
「聞いてない。あいつ、夏油がいるとよく喋るし」
「ほら。硝子も嫌がってんじゃん」
「長い話がでしょ」
硝子は袋の中から一つ取った。
歌姫は、その手元を何となく見た。
「久世君は、ずいぶん熱心だそうだね」
冥冥が硝子へ向けた声には、からかいとも品定めともつかない響きがあった。
「そうですね」
「彼の家にも都合がいい相手だ。反対する理由は少ないだろう」
「冥冥さん」
歌姫が口を挟むより先に、硝子が答えた。
「家の出番って、まだ先じゃないですか」
まだ、という単語に反応しかけて、歌姫はやめた。
硝子は、ただ順番の話をしている顔だった。
「そうだね。まず君に選んでもらわないと」
冥冥も、それ以上は踏み込まなかった。
「あいつさ、硝子に振られると普通にへこむんだよ」
五条が笑った。
「こないだ来て五分くらいで追い出されてさ。門んとこで会ったら、すげー顔してんの」
「仕事で呼ばれたんだよ」
「知ってる。あいつも言ってた。なのにへこんでんの」
硝子の指が、袋の口をつまんだまま止まった。
「……ふぅん」
それきり、何も言わなかった。
ただ、少しして携帯を出した。画面は歌姫から見えない角度だった。
追い出したことを気にしたのか。
今度来る日を確認したのか。
久世と関係のない連絡だったのかもしれない。
歌姫は菓子を一つ取り、見ていなかったふりをした。
*
夏が過ぎてから、硝子と二人で会う機会は少し減った。
東京で起きたことは、歌姫にも伝わっていた。
硝子が何を見て、何をしたのか、その全部を知っているわけではない。
秋の終わり、東京校を訪ねると、硝子は医務室で本を読んでいた。
「これ、駅で見つけたから」
「あ。ありがとうございます」
紙袋を差し出すと、硝子が机の上を空けた。
歌姫が椅子を引く間に、本へ栞を挟み、湯呑みを二つ出す。湯を沸かす手つきが、前より少し慣れていた。
仕事の話をして、寒くなったという話をして、京都でよく行っていた店が臨時休業だった話をした。
「あいつも、そこ行く?」
歌姫は菓子の包みを破る手を止めた。
「あいつって?」
「久世先輩」
「行くわよ。何度か一緒に行ったことあるし」
「何頼むの」
「ええと……日替わりじゃない? あんまり覚えてないけど」
硝子は頷いて、自分の包みを開けた。
歌姫は、もう一度その顔を見た。
「何?」
「ううん」
去年は、京都校の話をしていても名前を拾わなかった。
まして、昼に何を食べるのかなんて。
「気になる?」
「京都で何してんのか、知らないから」
「聞けば教えるでしょ。喜んで」
「あいつに聞いたら、仕事の話になる」
それは、なりそうだった。
「じゃあ、仕事じゃない話を聞きたいって言えば?」
「そこまでして聞くことでもないし」
そう言って、こちらには尋ねるのか。
歌姫は菓子を口へ運んだ。ここで笑うと、たぶん続きを聞けなくなる。
「学校では、普通よ。課題やって、任務行って。空いてる時間も家の用事してること多いのはいいとして、昼食べながら電話してるのよ。怒られてるわ」
「誰に」
「私」
硝子が笑った。
「先輩にも言われてんだ」
「あんたも言うの?」
「飯のときくらい黙れって。こっちが頼んだことじゃないのまで、ずっと喋ってる」
言いながら、硝子は机の端へ置いた携帯をずらした。
紙袋を広げるためだった。中にはまだ二つ残っている。
「この前も、もういいって言ってるのに、その後どうなったかまで説明し始めて」
「報告したいんでしょ」
「聞いてないって」
「でも、あんたが困らないようにやってることなんじゃないの?」
硝子は少し眉を寄せた。
「だったら、終わったなら終わりでいいじゃん」
言葉が、そこで切れた。
湯呑みを持ち上げかけて、持ち直す。
「……いつまでその話すんだよってなる」
歌姫は、口を開きかけた。
面倒事を片づけるために来た男なら、片づけた話をするのはおかしくない。
硝子も以前は、便利そうにその話をしていた。
今は、報告が終わるのを待っている。
「ほかの話がしたいのね」
「同じ説明何回も要らないだけ」
返事は早かった。
歌姫はそれ以上追わず、お茶を飲んだ。
少ししてから、硝子が言った。
「京都でも、ああなの?」
去年も同じことを聞かれた。
歌姫は今度も、「ああって?」と聞き返した。
「休んでるとこ、見たことない。こっちが本読んでたら、自分も何かやってるし」
「何もすることがない時間を、あんまり作らないわね」
「やっぱり」
「迷惑なら言いなさいよ。仕事するならよそでやってって」
「邪魔じゃないよ。静かだし」
すぐに答えてから、硝子は湯呑みへ目を落とした。
「別に、何もしてなくてもいいのに」
歌姫は、もう菓子の包みを触らなかった。
何となく気づいていたつもりだった。
断った男が落ち込んでいたと聞いて、気にする。その男が地元で何を食べるのか、自分といない時間に何をしているのか、知りたがる。
ただ、それだけなら、親しい相手を心配しているのだと言われても頷けた。
けれど、今の一言は。
「硝子」
「何」
「あんた、結構ほだされてない?」
硝子は歌姫を見た。
笑わなかったし、嫌な顔もしなかった。
少しだけ、返事を選ぶような間があった。
「……歌姫先輩は、あいつ勧める?」
思っていなかった問いだった。
歌姫は椅子へ座り直した。
「仕事相手なら」
「それは知ってる」
また、間が空いた。
今度は硝子も、その返事を取り消さなかった。
「……正直に言うと、久世の家は面倒だと思う」
「うん」
「本人も、話が通じるからって、いつもこっちの望むことするわけじゃないし。言わなきゃ分からないことはあるわよ」
「分かっててもやることあるよね」
「あるわね」
二人とも、別の出来事を思い出していそうだった。
「でも、嫌なことを嫌だって言って、話を続けられる相手だとは思う」
硝子は湯呑みの縁を指でなぞった。
「ただね。あんたといるときの久世を、私はそんなに知らないのよ」
「あんまり変わんないでしょ」
「そう?」
歌姫が知っている久世は、誰かに五分で追い返されて、門まで落ち込んで歩いていくような男ではなかった。
少なくとも、それを五条に見つかるほど不用心ではない。
けれど、その話を繰り返すのはやめておいた。
「あんたの方が知ってることも、あると思うけど」
廊下で足音がした。
硝子が先に、扉へ目を向けた。
*
「庵さん。いらしてたんですね」
扉を開けた久世は、制服ではなかった。
濃い色のスーツに、畳んだコートを腕へ掛けている。東京で人に会ってきたのだという。
「あんた、またこっち?」
「はい。夜蛾先生にお渡しするものがあったので」
歌姫の向かいで、硝子が小さく鼻を鳴らした。
久世はそちらを見る。
「それと、家入さんに会いに」
「最初からそう言えば」
「庵さんに説明してたんだよ」
歌姫はお茶を飲んだ。
私には別に、取り繕わなくていいのだが。
久世は机の上を一度見てから、空いている椅子へ鞄を置いた。
「お邪魔だったかな」
「別に。そっちは終わったの」
「うん。今日はもう帰るだけ」
答えたところで、携帯が鳴った。
硝子の目が、その音のしたポケットへ落ちる。
久世は表示を確認し、わずかに口元を引き締めた。
「ごめん。少しだけ」
廊下へ出る。閉まりきらなかった扉の向こうから、声が聞こえた。
「はい。それは先ほどお伝えしました。……いえ、僕から返事をしていい話ではありません。そちらでお決めになってから、ご連絡を」
歌姫は、つい硝子を見た。
硝子は菓子の紙袋を畳んでいた。聞こえてはいるだろうが、驚いた様子はない。
「……あの声、知ってる?」
「たまに聞く」
硝子は何でもないことのように答えた。
「もっと感じ悪い日もある」
そうか。
感じのいい顔だけを見せて、ここまで来たわけではないらしい。
戻ってきた久世は、短く謝って携帯をしまった。
「庵さん、帰りは何時頃ですか」
「私はもう少ししたら出るけど」
「よければ駅までご一緒しませんか。僕も帰るので」
歌姫が答える前に、硝子が顔を上げた。
「もう帰んの」
久世の手が、鞄に触れたところで止まった。
「……まだいてもいい?」
「帰るだけなんでしょ」
「うん」
「じゃあ座れば」
硝子は残っていた菓子を一つ、机の向こうへ置いた。
久世がそれを見て、それから硝子を見る。
「ありがとう」
「歌姫先輩が買ってきたやつ」
「ああ。ありがとうございます、庵さん」
礼を言い直した顔を見て、歌姫は少し困った。
普段もよく笑う後輩だ。それは間違いない。
けれど、こんなに簡単に、見ている側まで気恥ずかしくなるような顔をしただろうか。
硝子が三つ目の湯呑みを出した。
「あ。それなら僕が」
「座ってて」
久世は座った。
少し考えて、鞄を開きかける。
「それも今いい」
「……分かった」
膝に戻された手を見て、歌姫は口元を押さえた。
「庵さん?」
「何でもない。お茶、熱くて」
もう、そんなに熱くはなかった。
硝子は何も言わず、久世の前へ湯呑みを置いた。椅子に戻る途中、彼の首元に目を止める。
「それ、苦しくない?」
「え?」
「ネクタイ。もう終わったんだろ、仕事」
久世は襟元へ手をやり、少し迷ってから結び目を緩めた。
硝子はその手元を見ていたが、歌姫と目が合う前に自分のお茶へ視線を戻した。
「お二人は、何のお話をしてたんですか」
久世が歌姫へ尋ねた。
「京都の話」
「僕の悪口でも?」
いつもの、愛想のいい顔だった。
歌姫は頷いた。
「昼ご飯の途中で電話するなって話」
「それは……気をつけます」
「今も気をつけなさいよ」
久世は苦笑して、携帯を鞄の中へ移した。
硝子が、その鞄を自分の足元から少し遠ざける。
ほかにも話した。
何を食べるのか、何をして過ごすのか。
休んでいるところを見たことがないと、この子がどんな顔で言ったか。
久世の知らない話が、今日はずいぶん増えた。
「あんた、来年卒業でしょ。少しは暇になるの?」
「どうでしょう。家の方が増えるとは思いますが」
久世は考えてから、硝子へ目を向けた。
「東京には来るよ」
「そこは聞いてない」
硝子は菓子の包みを開けた。
それ以上は言わなかったので、久世も追いかけずにお茶を飲んだ。
歌姫は帰りの時間を確かめようと、携帯を開いた。
向かいから、小さく声がした。
「来るときは、連絡して」
「うん」
「いない日もあるから」
「分かってる」
聞き慣れたやり取りなのだろう。
久世は笑って、硝子は何でもない顔で菓子をかじった。
歌姫は携帯を閉じた。
「久世」
「はい」
「それ、もう一個あるわよ」
紙袋を押しやると、久世は中を見てから硝子へ向けた。
「家入さんは?」
「半分」
久世が包みを開き始める。
硝子は当然のように、受け取る手を出して待っていた。