「じゃあ、もう課題ないんだ」
五条が言った。
久世は、医務室の机に置かれたプリントを見た。
「僕の分はね」
「暇じゃん。これやってよ」
「応援ならいくらでも」
「いらねえ」
五条が紙を引き戻した。
隣で夏油が笑っている。
三月の終わりだった。
久世は先週、京都校を卒業したという。
硝子は、椅子へ掛けられた彼の上着を見た。
今日はスーツだった。何度か見たことがあるのに、制服を着なくなったのだと聞くと、違うものに見える。
「寮は?」
「引き払ったよ。思ったより本が増えていて、運ぶのが大変だった」
「買うからだろ」
「そうなんだけどね」
久世は笑った。
机の向こうに座っている様子は、先月と変わらなかった。
冬の間も、何度か来ていた。
仕事のあとに本を開き、硝子が勉強をしていれば黙って読み、誰かが入ってくると顔を上げた。四人で夕食を取った日もある。
来る前に連絡があり、いる日はいる。それで特に困ることもなかった。
「これからは、御実家の仕事を?」
夏油が訊いた。
「うん。今まで父に通していた話も、いくつか僕が受け持つことになったんだ」
「忙しくなりそうですね」
「やりたかったことだから、楽しみでもあるよ」
そうだろうな、と硝子は思った。
さっきから、鞄の中の手帳を二度も確かめている。早く帰りたくて時計を見ている様子とも違った。
「四月から、ここの点検も別の人に来てもらうことになったから」
久世が言った。
「今日、その引き継ぎで先生と話してきたんだ」
「あれ、お前じゃなくていいの?」
「定期の点検ならね。いつも僕が来る必要はないよ」
「ずっと来てたじゃん」
硝子が言うと、久世はこちらを見た。
「来たかったからね」
五条が、プリントの端で口元を隠した。
隠すくらいなら黙っていればいいのに、声が漏れている。
「何だよ」
「べっつに」
硝子は五条の膝を、机の下で軽く蹴った。
「俺に当たんなよ」
「うるさい」
夏油は、二人の間に置いていた自分の鞄を引き上げた。
「私は先に戻るよ。悟、そのプリント、提出するのは君だからね」
「分かってるっつの」
五条も立った。
久世に卒業祝いを要求してから、夏油と出ていった。
「普通、逆じゃないかな」
扉が閉まってから、久世が言った。
「あいつに普通求めんな」
「卒業するのは僕なんだけど」
まだ少し納得していない顔をしている。
硝子は笑って、開いていた本へ栞を挟んだ。
「今日は飯、どうする?」
「帰るよ。夜に、家で一件あるから」
「そう」
今までにも、そういう日はあった。
来たら必ず夕食までいるわけでもない。
「来月は、今までみたいには来られないかもしれない」
久世が上着を取った。
「しばらく京都の方で、会っておきたい人が多くて」
「自分で増やしたの?」
「そうだね」
あっさり頷いた。
「家に戻ったら、すぐ始められるようにしていたものもあるから」
嫌々引き受けさせられた顔ではなかった。
硝子には細かな中身は分からない。ただ、卒業する前から話していたことが、いくつもあるのは知っている。
「まあ、落ち着いたら来れば」
「うん。また連絡するよ」
久世はそう言って、鞄を持った。
次に会う日を決めずに別れるのにも、慣れていた。
*
「それ、お父様に聞かんでええの」
直哉が、紙の上の金額を指した。
雅臣は頷いた。
「この範囲なら、僕が決めていい」
「あとで話ひっくり返されるんは嫌やで」
「それをしないために、先に決めてあるんだよ」
四月も半ばを過ぎていた。
久世家の座敷で、直哉と向かい合っている。
頼まれた拘束の仕事に人を出すだけなら、これまでもやっていた。
今は、どの依頼を受けるか、いくらで人と道具を出すかを、決められる範囲がある。
父に借りているものは、まだ多い。
それでも、返事をする前に父の帰りを待たなくていい話が増えた。
「俺が頼んでも、空いとらんかったら断るんか」
「先に日を押さえてくれるなら、その分は空けるよ」
「使わんかったら?」
「空けていた分は払ってもらう」
「ええ商売やな」
直哉が笑った。
雅臣は、その指の下から紙を引き抜いた。
「その間、ほかの依頼を断るからね。急に呼んで必ず人を寄越せと言われるより、僕も準備ができる」
「誰でもええわけちゃうで」
「誰を拘束するのか、分かっている分は先に教えてほしい。人も道具も、それを見て決める」
「俺がお前を呼んだら?」
「僕でないといけない理由があるなら、聞くよ」
直哉が少し目を細めた。
「話通したやつが来た方が早いやろ」
「毎回、同じ説明をさせないようにする。それでどうかな」
雅臣は、空いている日を二つ示した。
直哉は片方を爪で叩き、それからもう片方にも目を向けた。
「今月は、ここ二日やな。俺が頼む分だけや。家のほかのやつまで、お前に任せる言うてへんで」
「分かっているよ」
「当日、役に立たへんやつ寄越したら、次はないからな」
「そのために、先に話を聞いているんだよ」
雅臣は手帳へ書き入れた。
秋に始めた移送の試行は、三件とも終えていた。
家の待機が減り、その分の人員を別の依頼へ回せた。父へ出した収支をもとに、冬の終わりには、同じ範囲で続ける話もまとまっている。
それで何もかも変わったわけではない。
受け入れ先を勝手に増やせない条件は、そのままだ。
ただ、結果を持って次の話へ行ける。
今日は父の代理として聞いて帰り、明日はまた父の返事を運ぶ、という往復をしなくてよくなった。
「お前、学校やめたら、えらい楽しそうやな」
「卒業だよ」
「一緒やろ」
「提出するものは全部出したから、違う」
直哉が鼻で笑った。
「そこはどうでもええねん」
雅臣も少し笑った。
手帳を閉じようとして、別の用件を思い出す。
「そうだ。次に君のところで——」
「まだあるんか」
「聞いておきたいことがあるんだ」
直哉は、帰るために浮かせかけた腰を戻した。
「先に茶、替えてもらえ」
湯呑みの中は、とっくに冷めていた。
直哉が帰ったあとも、雅臣は座敷に残った。
空ける二日分の手配を済ませ、別の依頼の返事を書いた。
時計を見ると、もう夕方だった。
携帯を開く。
家入さんとのやり取りは、昨夜で止まっていた。
来週、こっち来る?
来週は難しそうだと返した。向こうからは、分かった、とだけ来ている。
三月に会ったときから、声は何度か聞いていた。
新しく読んだ本の話もしたし、彼女の勉強の邪魔にならない時間に、こちらから電話した日もある。
会いたかった。
電話を切る前には、次に東京へ行けそうな日を考えた。
それが、まだ決まらない。
学校同士の用事に合わせて寄ることは、もうできない。定期の点検も、自分で人に渡した。
それでも、東京へ行く用事そのものがなくなったわけではなかった。
今月後半に返事をもらえる話が、一つある。
それに合わせて別の面会も入れれば、往復の時間を取っても——。
雅臣は手帳を開いた。
空いているところへ、京都で済ませたい用件の印がついている。
どれも、自分で入れたものだった。
今まで会えなかった相手に会える。自分の返事で人が動く。そのあと何が起きたかも、こちらへ戻ってくる。
一つ片づけば、次に触りたいところが見つかった。
家入さんに会いに行く日だけが、その隙間に入るのを待っていた。
雅臣は、携帯をもう一度見た。
また予定が決まったら連絡する、と打って送る。
それから、直哉へ送る控えを手元へ寄せた。
*
落ち着いたら来れば、と言った。
そう言ったのは自分だった。
五月になって、硝子は少し後悔していた。
どうも、待っていても落ち着きそうにない。
三年に上がり、時間割が変わった。
七海と灰原も、もう一年生ではない。校内で顔を合わせれば話すし、五条と夏油のくだらないやり取りも、相変わらず耳に入った。
久世からも、連絡は来る。
来なくなってからも向こうから電話があった。話をしている分には、以前と変わらない。
それで、会ったような気になっていた。
少なくとも、電話を切った直後は。
休日に街へ出て、本を一冊買った。
書店を出たところで、いつか久世がこちらの荷物へ手を伸ばしたのを思い出した。
今日は医学書じゃない。軽かった。
駅へ向かう途中、前に二人で入った文房具店の前も通った。
帰ってから読めばいいと思って買った本を、電車の中で開いた。
数ページ読んで閉じたあと、携帯を出した。
来る日、決まった?
打って、少し見た。
この間も似たことを訊いた気がする。
消した。
いま話せるか、とだけ送った。
寮の部屋へ戻る頃には、返事が来ていた。
硝子は鞄を置いて、電話を掛けた。
『家入さん。どうしたの』
「先輩、次はいつ来るの」
『東京?』
「うん」
『今、向こうの返事を待っているものがあってね。それが決まれば、ほかの用事も合わせて——』
硝子は、壁のカレンダーを見た。
「それ、決まらなかったら?」
『別の日を考えるよ』
「いつ?」
久世が黙った。
『ごめん。ずいぶん空いちゃったね』
「うん」
空いている。
もう、ひと月どころではなかった。
『君の都合も聞こうと思っていたんだけど、こちらが決まってからの方が——』
「私と会う日、先に決めればいいじゃん」
言ってから、硝子は窓の方を向いた。
カーテンの裾が、窓枠に引っかかっていた。
電話の向こうで、紙の擦れる音がした。
『……今度の土曜は?』
「午後なら空いてる」
『午前に一件あるけど、午後はまだ動かせると思う。確認して、今日中に連絡するよ』
「うん」
それで電話が終わった。
硝子は、引っかかっていたカーテンを外した。
窓を閉めると、部屋が少し静かになった。
二十分ほどして、携帯が鳴った。
『土曜の午後、空けたよ。二時には、そちらへ着ける』
「じゃあ、駅で」
『学校じゃなくて?』
「出かけるんだから、そっちの方が早いし」
『そうだね』
待ち合わせる駅と改札を決めた。
前に一緒に書店へ行ったときにも、通った場所だった。
『どこへ行こうか』
「まだ決めてない」
『何か、買いたいものがあるとか?』
「本なら今日買った。久世先輩は?」
少し間があいた。
『僕も、特には』
「じゃあ、何か食べればいいんじゃない」
久世が笑った。
『うん。そうしよう』
*
土曜、硝子が改札へ着いたときには、まだ五分ほど早かった。
柱の脇へ寄り、電車を降りてくる人を眺めた。
向こうから来る人の中に、久世を見つけた。
普段より薄い色の上着を着て、ネクタイをしていなかった。人を避けながら歩く横顔を、硝子はしばらく見ていた。
目が合うと、向こうが先に笑った。
人の流れを抜けて、こちらへ近づいてくる。
「久しぶり」
硝子は少し顔を上げた。
電話では気にしなくていい高さから、声がした。
「先輩、元気そうだね」
「うん。君は?」
「普通」
疲れていそうなら、何か言おうと思っていた。
その必要はなさそうだった。
久世の手には、小さな鞄があった。前に仕事で来たときの、書類で膨らんだものとは違う。
硝子はそれを一度見てから、顔へ目を戻した。
「用事、済んだ?」
「午前の分は。今日はもうないよ」
「そう」
久世は、改札の先へ一度目を向けた。
「この辺り、店がいくつか変わったね」
「しばらく来ないから」
「そうだね」
まだ笑っていた。
文句を言われているのは分かっているはずなのに、なぜか嬉しそうだった。
「何」
「顔を見られてよかったなと思って」
硝子は、駅の外へ目を向けた。
土曜の午後で、人は多い。
「まだ何もしてないけど」
「うん」
それ以上、言い足さなかった。
硝子は歩き出した。
久世が隣へ並ぶ。
電話では、ここから店まで一緒に歩けない。
信号で立ち止まることも、横を向いて顔を見ることもできない。
「今日は、何時までいられる?」
「夕飯も一緒に食べられるなら、そのあとまで」
「じゃあ、そうしろよ」
久世が、こちらを見た。
「君の予定は?」
「空けてある」
待ち合わせを決めたあとで、夜も空けていた。
久世は一度、口を開きかけた。
何も言わずに閉じてから、少し困ったように笑った。
「そっか」
信号が青になった。
硝子は人の流れと一緒に渡り始めた。