「二週間後の土曜はどうかな」
久世は、メニューの横へ手帳を開いた。
硝子は水の入ったグラスを持ったまま、向かいを見た。
「店、入ったばっかだけど」
「帰る前に決めるんだろう」
「そうだけど」
「先に決めておこうと思って」
返す言葉がなくなった。
硝子はグラスを置き、自分の携帯を出した。
今日と同じように、午後なら空いている。
そう伝えると、久世は手帳へ書き入れた。
「じゃあ、二時に。待ち合わせも今日と同じところでいい?」
「うん」
ペンが止まった。
手帳が閉じられ、鞄へ戻る。
たったそれだけで、次に会う日が決まった。
「久世先輩、やれば早いじゃん」
「……うん。そこは、返す言葉がないね」
久世は少し困った顔をした。
硝子はメニューを取った。
サンドイッチを食べ終えてからも、席を立たなかった。
久世は温かいコーヒーを、硝子は氷の残ったグラスを手元に置いていた。
寮を引き払ったときの話になった。
自分で運ぶつもりで詰めた本の箱が、持ち上げられても階段では邪魔だったと久世が言った。
「途中で分けたの?」
「うん。二つに」
「最初からそうすればいいのに」
「箱の数を減らしたかったんだよ」
「君は、この前買った本、読み終わった?」
「まだ」
「面白くなかった?」
「読んでないところがあるだけ。そっちみたいに、帰りの電車で長々読む時間はないから」
「それはそうだね」
久世が笑った。
それから、自分も最近は電車で書類を開いてしまうと話した。
そこから少し、仕事の話になった。
父を通さずに答えられるようになったのに、答えたあとで、父にも同じことを確かめる相手がいるらしい。
同じ返事を二度聞いてから納得するので、何のために担当を決めたのか分からない、と言う。
「お前、信用ないんじゃないの」
「僕の返事を聞く前から、父に電話するつもりでいるんだよ」
「じゃあ、しばらく二回ずつ言えば」
「父もそう言った」
嫌そうな顔だった。
硝子は笑ってしまった。
「似てること言わないでくれるかな」
「私、知らないし。お前の父親」
「それは、そうなんだけど」
久世はコーヒーを飲んだ。
まだ少し不満そうな顔で、もう一口飲む。
話がうまく進んだところでは、声が少し弾んだ。
うまくいかなかったところでは、相手に言わずに済ませたらしい文句が混ざった。
硝子は全部を覚えてはいなかった。
途中で紙ナプキンを取ってくれと頼み、聞き取れなかったところは訊き返した。
目の前で話しているのを見ながら聞く方が、分かりやすかった。
仕事の中身というより、久世がどの辺りで面白がり、どこで腹を立てているかが。
「……ごめん。長かったね」
こちらのグラスが空になったのを見て、久世が言った。
「別に。もう終わり?」
「その話は」
「ほかにもあるんだ」
久世は少し迷ってから、ある、と答えた。
硝子はまた笑った。
店を出て、川沿いの道へ回った。
五月の風は、日陰では少し涼しかった。
次に入る店を探すには、まだ腹が空いていない。
買いたい物もないので、そのまま歩いた。
久世は、さっきの仕事の続きを始めなかった。
硝子が今の授業について話すと聞いて、たまに訊き返した。
他校の話をする先輩だったのが、もう学校に通っていない人になった。
そう思って横を見ても、急に知らない男になったわけではなかった。
橋の手前で、久世が足を止めた。
硝子も欄干のそばへ寄った。
「この先にも店があるね。夕飯は、あちらで探そうか」
「うん」
川面に、傾き始めた日が光っていた。
久世の手が欄干に置かれる。上着の袖口から、時計が覗いていた。
今言うか、あとにするか。
硝子は少し考えた。
次に会う日は決まっている。
今日言わなくても、二週間後には、また会う。
それでも、また来る日を待ってから同じことを考えるのは嫌だった。
「久世先輩」
「うん?」
こちらを向いた。
「前に言ってた立候補、まだ有効?」
*
何の、と訊きそうになった。
そんなはずはなかった。
恋人にと、立候補したのは自分だ。
「……有効だよ」
雅臣は答えた。
自分の声だけ、普段と同じように聞こえた。
家入さんは、川を背にこちらを見ていた。
軽く首を傾けている。
「じゃあ、付き合おうか」
欄干へ置いていた指が、動かなくなった。
聞き取れなかったわけではない。
言葉の意味も分かる。
けれど、何と返すかを決める前に、別のことを考えていた。
「……何か、また縁談の話が来ている?」
家入さんの眉が、わずかに寄った。
「来てないよ」
「僕の方にも来ていないんだけど、別のところから話が回ったのかと」
「来てないって」
先に相手がいると言っておけば、断りやすい話はある。
久世の家の名を出せば、引く相手もいる。
自分が知らないところで、彼女が困るようなことが起きていたのなら。
「ねぇ」
呼ばれて、顔を上げた。
いつの間にか、彼女の肩の向こうを見ていた。
「何か頼むために、付き合うって言ってると思ってる?」
「いや、そういう意味では」
そこで止まった。
そういうことを考えていた。
家入さんは、こちらの返事を待っていた。
「……何か理由があるのかと思った」
「あるよ」
雅臣は彼女を見た。
「私が、付き合ってもいいと思ったから」
その答えは、さっき聞いたものと同じだった。
今度は、ほかの話へ移れなかった。
家入さんがそうしたい。
今、目の前で言っている。
「嫌なら、そう言えよ」
「嫌なわけがないだろう」
思ったより強い声が出た。
彼女の目が、少し大きくなる。
雅臣は息を吐いた。
「ごめん。嫌じゃない。すごく嬉しい」
「そうは見えなかったけど」
「うん。……自分でも、もう少し上手く答えられると思ってた」
受け入れてもらえたら、何を言おうか。
そんなことは、考えたことがあった。
断られたときでさえ、笑って残念だと言えた。
断られなかったときの方が、何をしていいのか分からない。
「私に選ばれること、そんなに変なの?」
「変だとは思わないよ」
すぐに答えた。
けれど、そのあとが続かなかった。
今日、迎えに来てくれた。
夜も空けてくれて、次に会う日を決めろと言った。
一つずつ、嬉しかった。
そこから先まで喜んでいいとは、思わないようにしていた。
「……期待して、違ったら困るから」
「今、違わないって言ってるんだけど」
家入さんの口元が、少し動いた。
呆れたような、笑うのを堪えたような顔だった。
「何回言わせるんだよ」
雅臣は片手で口元を覆った。
隠してから、何を隠したいのか分からなくなった。
「聞いてもいいかな」
「まだ何かあるの?」
「どうして、そう思ってくれたのか」
聞きたかった。
役に立つ話が来ていないのなら、それ以上に。
家入さんは一度、川へ目を向けた。
「卒業して、来なくなっただろ」
「うん」
「思ったより、つまらなかった」
風が吹いた。
彼女は髪を耳へ掛け、その手を下ろした。
「電話すれば話せるけど、それでいいとは思わなかったし」
雅臣は、黙って聞いていた。
「だから、会う日を決めさせたんだけど」
「うん」
「今日来た先輩を見て、また二週間待つのかと思ったら、先に言っておきたくなった」
家入さんがこちらを見た。
「これで足りる?」
雅臣は笑おうとした。
うまく笑えているのか、分からなかった。
「寂しかった?」
少しだけ、いつものように言えた。
彼女が目を細めた。
「調子に乗るなら、やめるけど」
「違う」
手を伸ばした。
肩に触れたと思うより先に、腕の中へ抱き寄せていた。
家入さんが、小さく息を呑んだ。
持っていた鞄が、雅臣の脇へ当たった。
「……やめない」
顔が見えなくなった。
さっきまで見えていたのに、今は腕の中にいる。
背へ回した手を離せなかった。
「やめないで」
言ってから、自分で驚いた。
冗談めかすつもりだった声には、何も混ぜられなかった。
彼女はしばらく、何も言わなかった。
その間が、ひどく長く感じた。
「……やめないよ」
肩のそばで、声がした。
「だから、ちょっと緩めろ。強い」
慌てて腕の力を抜いた。
離そうとすると、彼女の手が背中へ回った。
手のひらが、上着の上へ置かれた。
雅臣は、もう一度息を吐いた。
さっきより、ずっと長く。
「好きだよ、家入さん」
言えたのは、それだけだった。
*
知ってる、と返すつもりだった。
何度も会いに来た。
面と向かって立候補して、そのあとも、隠す気のないことを言っていた。
知らない方が無理だった。
けれど、肩のそばで聞くと、うまく言い返せなかった。
「……うん」
それだけ答えた。
久世は、まだ動かなかった。
背中へ置いた手に、少しだけ力を入れると、こちらを抱いている腕が動いた。
今度は、さっきほど強くなかった。
胸元へ顔を埋めたままなのも落ち着かない。
硝子は少し顔を上げた。
「こういうときにも考えること多いんだね」
「今は、あまり考えられてないよ」
「だろうな」
久世が、困ったように笑った。
近かった。
話すときの口元まで、よく見えた。
硝子は目を逸らした。
橋の方から、靴音が近づいてくる。
「そろそろ離して。ここ外じゃん」
「うん」
腕が離れた。
それでも、一歩下がるまで、久世の手は肩に残っていた。
硝子は鞄を持ち直した。
上着の前が少しよれている。手で伸ばすと、久世がそれを見て、また何か言いかけた。
「謝るなよ」
「……まだ何も言ってない」
「そういう顔した」
久世は一度、口を閉じた。
「嬉しいんだよ」
「それは、分かった」
思っていたよりずっと、分かってしまった。
夕飯の店へ向かう途中で、手が触れた。
硝子が横を見ると、久世はこちらを見ていた。
指先が離れかけたので、自分から掌を合わせた。
すぐに、握り返された。
「今度は強くしないでよね」
「気をつける」
真面目に返されて、笑ってしまった。
久世も笑った。
付き合うと言った。
言う前には触らなかった手を、今は普通に握っている。
普通に、のつもりだった。
曲がる角で、手を引かれるより先に、彼の方を見てしまった。
夕飯は、通りから少し入った店で食べた。
席に座るために手を離すと、そこだけ急に涼しかった。
久世がメニューを開いた。
何にするかを決めるのに、いつもより時間がかかっていた。
「それ、さっきも見てた」
「うん」
「決まらない?」
「決まった。硝子ちゃんは?」
硝子は、メニューの上から顔を上げた。
「……ちゃん?」
久世の目が、少し泳いだ。
今度はこちらも、見逃さなかった。
「そう呼んでみたかったんだ」
「急に変えるじゃん」
「今なら、と思って」
口元が緩んでいた。
さっきから、隠すのを諦めたような顔をする。
硝子はメニューへ目を戻した。
「私は、これ」
指で示す。
久世は覗き込んで頷いた。
聞き直さなかった。
今の呼び方をやめろとも言わなかった。
料理が来てからは、少しずつ、普段どおりに話せるようになった。
久世は硝子が話す途中で笑い、こちらが食べている間に話を続けた。
自分が食べるのを忘れていたので、先に食えと言うと、素直に箸を取った。
その様子がおかしくて、硝子も何度か笑った。
途中で、久世がふと真顔になった。
「次、二週間後で、よかったかな」
「さっき決めたじゃん」
「うん。でも、もう少し早く会えないかと思って」
硝子は箸を止めた。
「今日、まだ終わってないけど」
「分かってるよ」
言ってから、久世は自分で笑った。
「……分かってはいるんだ」
硝子はグラスを持った。
口をつける前に、少し考えた。
「来週は、夜なら電話できる」
「うん」
「決めた日も、勝手に動かすなよ」
「動かさない。何か入ったら、先に連絡する」
硝子は頷いた。
久世がこちらを見ていた。
また嬉しそうな顔をするので、今度はメニューを立てて隠すこともできなかった。
店を出たあと、駅まで手を繋いで歩いた。
暗くなった通りで、久世の歩く速さが、少しずつ遅くなった。
「電車、間に合う?」
「間に合うよ」
「ならいいけど」
改札が見えた。
行きには、柱のそばから一人でこちらへ来るのを眺めていた。
今は、隣にいる。
硝子は、その手を一度握り直した。
「また、二週間後ね」
「うん」
久世が足を止めた。
切符を出すために、繋いでいた手を離す。
指が離れるところを見ていたら、彼がこちらを向いた。
「今日は、誘ってくれてありがとう」
「先輩が来ないからじゃん」
「そうだね」
少し笑ってから、もう一度こちらを見る。
「……付き合ってくれて、ありがとう」
硝子は眉を寄せた。
「それ、毎回言う気?」
「今日は言わせてほしい」
真面目な顔だった。
硝子は、視線をその肩の辺りへ落とした。
「じゃあ、今日だけ」
「うん」
久世は頷いた。
改札へ向かい、通り抜けたあとで振り返った。
硝子は片手を上げた。
向こうも手を上げ、今度はホームへ向かって歩いていった。
寮へ戻ってから、携帯を開いた。
まだ、新しいメールは来ていなかった。
連絡先を呼び出す。
登録したときのままの、久世先輩。
硝子は編集の画面を開き、少し考えてから消した。
苗字も、先輩も。
雅臣。
打ち直して、保存した。
さっき、声に出して呼べばよかった。
そう思ってから、携帯を閉じかけた手を止めた。
新しい名前を選び、メールを開く。
着いた。おやすみ、雅臣。
送ったあと、鞄から財布を出すより早く、携帯が鳴った。
メールではなかった。
硝子は画面を見て、少し笑った。
「……早すぎ」
誰にも聞こえない声で言って、通話のボタンを押した。