家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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13.

 

「二週間後の土曜はどうかな」

 

 久世は、メニューの横へ手帳を開いた。

 硝子は水の入ったグラスを持ったまま、向かいを見た。

 

「店、入ったばっかだけど」

「帰る前に決めるんだろう」

「そうだけど」

「先に決めておこうと思って」

 

 返す言葉がなくなった。

 硝子はグラスを置き、自分の携帯を出した。

 

 今日と同じように、午後なら空いている。

 そう伝えると、久世は手帳へ書き入れた。

 

「じゃあ、二時に。待ち合わせも今日と同じところでいい?」

「うん」

 

 ペンが止まった。

 手帳が閉じられ、鞄へ戻る。

 

 たったそれだけで、次に会う日が決まった。

 

「久世先輩、やれば早いじゃん」

「……うん。そこは、返す言葉がないね」

 

 久世は少し困った顔をした。

 硝子はメニューを取った。

 

 サンドイッチを食べ終えてからも、席を立たなかった。

 久世は温かいコーヒーを、硝子は氷の残ったグラスを手元に置いていた。

 

 寮を引き払ったときの話になった。

 自分で運ぶつもりで詰めた本の箱が、持ち上げられても階段では邪魔だったと久世が言った。

 

「途中で分けたの?」

「うん。二つに」

「最初からそうすればいいのに」

「箱の数を減らしたかったんだよ」

 

「君は、この前買った本、読み終わった?」

「まだ」

「面白くなかった?」

「読んでないところがあるだけ。そっちみたいに、帰りの電車で長々読む時間はないから」

「それはそうだね」

 

 久世が笑った。

 それから、自分も最近は電車で書類を開いてしまうと話した。

 

 そこから少し、仕事の話になった。

 

 父を通さずに答えられるようになったのに、答えたあとで、父にも同じことを確かめる相手がいるらしい。

 同じ返事を二度聞いてから納得するので、何のために担当を決めたのか分からない、と言う。

 

「お前、信用ないんじゃないの」

「僕の返事を聞く前から、父に電話するつもりでいるんだよ」

「じゃあ、しばらく二回ずつ言えば」

「父もそう言った」

 

 嫌そうな顔だった。

 硝子は笑ってしまった。

 

「似てること言わないでくれるかな」

「私、知らないし。お前の父親」

「それは、そうなんだけど」

 

 久世はコーヒーを飲んだ。

 まだ少し不満そうな顔で、もう一口飲む。

 

 話がうまく進んだところでは、声が少し弾んだ。

 うまくいかなかったところでは、相手に言わずに済ませたらしい文句が混ざった。

 

 硝子は全部を覚えてはいなかった。

 途中で紙ナプキンを取ってくれと頼み、聞き取れなかったところは訊き返した。

 

 目の前で話しているのを見ながら聞く方が、分かりやすかった。

 仕事の中身というより、久世がどの辺りで面白がり、どこで腹を立てているかが。

 

「……ごめん。長かったね」

 

 こちらのグラスが空になったのを見て、久世が言った。

 

「別に。もう終わり?」

「その話は」

「ほかにもあるんだ」

 

 久世は少し迷ってから、ある、と答えた。

 硝子はまた笑った。

 

 店を出て、川沿いの道へ回った。

 五月の風は、日陰では少し涼しかった。

 

 次に入る店を探すには、まだ腹が空いていない。

 買いたい物もないので、そのまま歩いた。

 

 久世は、さっきの仕事の続きを始めなかった。

 硝子が今の授業について話すと聞いて、たまに訊き返した。

 

 他校の話をする先輩だったのが、もう学校に通っていない人になった。

 そう思って横を見ても、急に知らない男になったわけではなかった。

 

 橋の手前で、久世が足を止めた。

 硝子も欄干のそばへ寄った。

 

「この先にも店があるね。夕飯は、あちらで探そうか」

「うん」

 

 川面に、傾き始めた日が光っていた。

 久世の手が欄干に置かれる。上着の袖口から、時計が覗いていた。

 

 今言うか、あとにするか。

 硝子は少し考えた。

 

 次に会う日は決まっている。

 今日言わなくても、二週間後には、また会う。

 

 それでも、また来る日を待ってから同じことを考えるのは嫌だった。

 

「久世先輩」

「うん?」

 

 こちらを向いた。

 

「前に言ってた立候補、まだ有効?」

 

*

 

 何の、と訊きそうになった。

 

 そんなはずはなかった。

 恋人にと、立候補したのは自分だ。

 

「……有効だよ」

 

 雅臣は答えた。

 自分の声だけ、普段と同じように聞こえた。

 

 家入さんは、川を背にこちらを見ていた。

 軽く首を傾けている。

 

「じゃあ、付き合おうか」

 

 欄干へ置いていた指が、動かなくなった。

 

 聞き取れなかったわけではない。

 言葉の意味も分かる。

 

 けれど、何と返すかを決める前に、別のことを考えていた。

 

「……何か、また縁談の話が来ている?」

 

 家入さんの眉が、わずかに寄った。

 

「来てないよ」

「僕の方にも来ていないんだけど、別のところから話が回ったのかと」

「来てないって」

 

 先に相手がいると言っておけば、断りやすい話はある。

 久世の家の名を出せば、引く相手もいる。

 

 自分が知らないところで、彼女が困るようなことが起きていたのなら。

 

「ねぇ」

 

 呼ばれて、顔を上げた。

 いつの間にか、彼女の肩の向こうを見ていた。

 

「何か頼むために、付き合うって言ってると思ってる?」

「いや、そういう意味では」

 

 そこで止まった。

 そういうことを考えていた。

 

 家入さんは、こちらの返事を待っていた。

 

「……何か理由があるのかと思った」

「あるよ」

 

 雅臣は彼女を見た。

 

「私が、付き合ってもいいと思ったから」

 

 その答えは、さっき聞いたものと同じだった。

 今度は、ほかの話へ移れなかった。

 

 家入さんがそうしたい。

 

 今、目の前で言っている。

 

「嫌なら、そう言えよ」

「嫌なわけがないだろう」

 

 思ったより強い声が出た。

 彼女の目が、少し大きくなる。

 

 雅臣は息を吐いた。

 

「ごめん。嫌じゃない。すごく嬉しい」

「そうは見えなかったけど」

「うん。……自分でも、もう少し上手く答えられると思ってた」

 

 受け入れてもらえたら、何を言おうか。

 そんなことは、考えたことがあった。

 

 断られたときでさえ、笑って残念だと言えた。

 断られなかったときの方が、何をしていいのか分からない。

 

「私に選ばれること、そんなに変なの?」

「変だとは思わないよ」

 

 すぐに答えた。

 けれど、そのあとが続かなかった。

 

 今日、迎えに来てくれた。

 夜も空けてくれて、次に会う日を決めろと言った。

 

 一つずつ、嬉しかった。

 そこから先まで喜んでいいとは、思わないようにしていた。

 

「……期待して、違ったら困るから」

「今、違わないって言ってるんだけど」

 

 家入さんの口元が、少し動いた。

 呆れたような、笑うのを堪えたような顔だった。

 

「何回言わせるんだよ」

 

 雅臣は片手で口元を覆った。

 隠してから、何を隠したいのか分からなくなった。

 

「聞いてもいいかな」

「まだ何かあるの?」

「どうして、そう思ってくれたのか」

 

 聞きたかった。

 役に立つ話が来ていないのなら、それ以上に。

 

 家入さんは一度、川へ目を向けた。

 

「卒業して、来なくなっただろ」

「うん」

「思ったより、つまらなかった」

 

 風が吹いた。

 彼女は髪を耳へ掛け、その手を下ろした。

 

「電話すれば話せるけど、それでいいとは思わなかったし」

 

 雅臣は、黙って聞いていた。

 

「だから、会う日を決めさせたんだけど」

「うん」

「今日来た先輩を見て、また二週間待つのかと思ったら、先に言っておきたくなった」

 

 家入さんがこちらを見た。

 

「これで足りる?」

 

 雅臣は笑おうとした。

 うまく笑えているのか、分からなかった。

 

「寂しかった?」

 

 少しだけ、いつものように言えた。

 彼女が目を細めた。

 

「調子に乗るなら、やめるけど」

「違う」

 

 手を伸ばした。

 肩に触れたと思うより先に、腕の中へ抱き寄せていた。

 

 家入さんが、小さく息を呑んだ。

 持っていた鞄が、雅臣の脇へ当たった。

 

「……やめない」

 

 顔が見えなくなった。

 さっきまで見えていたのに、今は腕の中にいる。

 

 背へ回した手を離せなかった。

 

「やめないで」

 

 言ってから、自分で驚いた。

 冗談めかすつもりだった声には、何も混ぜられなかった。

 

 彼女はしばらく、何も言わなかった。

 その間が、ひどく長く感じた。

 

「……やめないよ」

 

 肩のそばで、声がした。

 

「だから、ちょっと緩めろ。強い」

 

 慌てて腕の力を抜いた。

 離そうとすると、彼女の手が背中へ回った。

 

 手のひらが、上着の上へ置かれた。

 

 雅臣は、もう一度息を吐いた。

 さっきより、ずっと長く。

 

「好きだよ、家入さん」

 

 言えたのは、それだけだった。

 

*

 

 知ってる、と返すつもりだった。

 

 何度も会いに来た。

 面と向かって立候補して、そのあとも、隠す気のないことを言っていた。

 知らない方が無理だった。

 

 けれど、肩のそばで聞くと、うまく言い返せなかった。

 

「……うん」

 

 それだけ答えた。

 

 久世は、まだ動かなかった。

 背中へ置いた手に、少しだけ力を入れると、こちらを抱いている腕が動いた。

 今度は、さっきほど強くなかった。

 

 胸元へ顔を埋めたままなのも落ち着かない。

 硝子は少し顔を上げた。

 

「こういうときにも考えること多いんだね」

「今は、あまり考えられてないよ」

「だろうな」

 

 久世が、困ったように笑った。

 

 近かった。

 話すときの口元まで、よく見えた。

 

 硝子は目を逸らした。

 橋の方から、靴音が近づいてくる。

 

「そろそろ離して。ここ外じゃん」

「うん」

 

 腕が離れた。

 それでも、一歩下がるまで、久世の手は肩に残っていた。

 

 硝子は鞄を持ち直した。

 上着の前が少しよれている。手で伸ばすと、久世がそれを見て、また何か言いかけた。

 

「謝るなよ」

「……まだ何も言ってない」

「そういう顔した」

 

 久世は一度、口を閉じた。

 

「嬉しいんだよ」

「それは、分かった」

 

 思っていたよりずっと、分かってしまった。

 

 夕飯の店へ向かう途中で、手が触れた。

 硝子が横を見ると、久世はこちらを見ていた。

 

 指先が離れかけたので、自分から掌を合わせた。

 すぐに、握り返された。

 

「今度は強くしないでよね」

「気をつける」

 

 真面目に返されて、笑ってしまった。

 久世も笑った。

 

 付き合うと言った。

 言う前には触らなかった手を、今は普通に握っている。

 

 普通に、のつもりだった。

 曲がる角で、手を引かれるより先に、彼の方を見てしまった。

 

 夕飯は、通りから少し入った店で食べた。

 席に座るために手を離すと、そこだけ急に涼しかった。

 

 久世がメニューを開いた。

 何にするかを決めるのに、いつもより時間がかかっていた。

 

「それ、さっきも見てた」

「うん」

「決まらない?」

「決まった。硝子ちゃんは?」

 

 硝子は、メニューの上から顔を上げた。

 

「……ちゃん?」

 

 久世の目が、少し泳いだ。

 今度はこちらも、見逃さなかった。

 

「そう呼んでみたかったんだ」

「急に変えるじゃん」

「今なら、と思って」

 

 口元が緩んでいた。

 さっきから、隠すのを諦めたような顔をする。

 

 硝子はメニューへ目を戻した。

 

「私は、これ」

 

 指で示す。

 久世は覗き込んで頷いた。

 

 聞き直さなかった。

 今の呼び方をやめろとも言わなかった。

 

 料理が来てからは、少しずつ、普段どおりに話せるようになった。

 久世は硝子が話す途中で笑い、こちらが食べている間に話を続けた。

 

 自分が食べるのを忘れていたので、先に食えと言うと、素直に箸を取った。

 

 その様子がおかしくて、硝子も何度か笑った。

 

 途中で、久世がふと真顔になった。

 

「次、二週間後で、よかったかな」

「さっき決めたじゃん」

「うん。でも、もう少し早く会えないかと思って」

 

 硝子は箸を止めた。

 

「今日、まだ終わってないけど」

「分かってるよ」

 

 言ってから、久世は自分で笑った。

 

「……分かってはいるんだ」

 

 硝子はグラスを持った。

 口をつける前に、少し考えた。

 

「来週は、夜なら電話できる」

「うん」

「決めた日も、勝手に動かすなよ」

「動かさない。何か入ったら、先に連絡する」

 

 硝子は頷いた。

 

 久世がこちらを見ていた。

 また嬉しそうな顔をするので、今度はメニューを立てて隠すこともできなかった。

 

 店を出たあと、駅まで手を繋いで歩いた。

 暗くなった通りで、久世の歩く速さが、少しずつ遅くなった。

 

「電車、間に合う?」

「間に合うよ」

「ならいいけど」

 

 改札が見えた。

 行きには、柱のそばから一人でこちらへ来るのを眺めていた。

 今は、隣にいる。

 

 硝子は、その手を一度握り直した。

 

「また、二週間後ね」

「うん」

 

 久世が足を止めた。

 切符を出すために、繋いでいた手を離す。

 

 指が離れるところを見ていたら、彼がこちらを向いた。

 

「今日は、誘ってくれてありがとう」

「先輩が来ないからじゃん」

「そうだね」

 

 少し笑ってから、もう一度こちらを見る。

 

「……付き合ってくれて、ありがとう」

 

 硝子は眉を寄せた。

 

「それ、毎回言う気?」

「今日は言わせてほしい」

 

 真面目な顔だった。

 硝子は、視線をその肩の辺りへ落とした。

 

「じゃあ、今日だけ」

「うん」

 

 久世は頷いた。

 改札へ向かい、通り抜けたあとで振り返った。

 

 硝子は片手を上げた。

 向こうも手を上げ、今度はホームへ向かって歩いていった。

 

 寮へ戻ってから、携帯を開いた。

 まだ、新しいメールは来ていなかった。

 

 連絡先を呼び出す。

 登録したときのままの、久世先輩。

 

 硝子は編集の画面を開き、少し考えてから消した。

 苗字も、先輩も。

 

 雅臣。

 

 打ち直して、保存した。

 

 さっき、声に出して呼べばよかった。

 そう思ってから、携帯を閉じかけた手を止めた。

 

 新しい名前を選び、メールを開く。

 

 着いた。おやすみ、雅臣。

 

 送ったあと、鞄から財布を出すより早く、携帯が鳴った。

 メールではなかった。

 

 硝子は画面を見て、少し笑った。

 

「……早すぎ」

 

 誰にも聞こえない声で言って、通話のボタンを押した。

 

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