家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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「雅臣?」

 

 携帯を閉じると、五条が同じ名前を言った。

 硝子は机へ電話を置いた。

 

「久世先輩だよ」

「それは知ってる」

 

 なら訊くな、と言いかけて、何を訊かれたのか分かった。

 名前で呼んだ。電話を切る前に、一度だけ。

 

 月曜の昼だった。

 夏油は窓際で弁当を広げていたが、そちらの箸も止まっていた。

 

「付き合ったの?」

「そう」

 

 五条が黙った。

 硝子は開いていた本へ目を戻した。

 

「……え、ほんとに?」

「お前が訊いたんだろ」

「訊いたけど。いつ?」

「土曜」

 

 五条が夏油を見た。

 夏油は、こちらを見たまま小さく笑った。

 

「おめでとう」

「誰に言ってんの」

「君に」

 

 硝子は一度、本の角を指で押さえた。

 

「……どうも」

「先輩、どんな顔だった?」

 

 五条がすぐに言った。

 

 川沿いで、自分の口元を隠した手が浮かんだ。

 そのあと肩のそばで聞いた声まで思い出し、硝子は本のページをめくった。

 

「お前には言わない」

「そこが一番面白いとこじゃん」

「だからだよ」

 

 五条は不満そうだった。

 夏油は弁当へ箸を戻した。

 

「じゃあ、今度から京都に会いに行くのかい」

「行くこともあるんじゃない」

「先輩ばっか来てたもんな」

 

 その通りだった。

 こちらから電話をしたり、待ち合わせの駅を選んだりはしていたが、長い時間を掛けて移動してくるのは、いつも向こうだった。

 

 京都にいる久世を、硝子は知らなかった。

 

 仕事へ出るところも、帰るところも。

 あれだけ文句の出てくる父親の顔も。

 

「何。もう行く日決めてんの?」

「まだ」

 

 今度は本当に、何も決めていなかった。

 次に会うのも、同じ駅だった。

 

 五条の携帯が鳴った。

 画面を見て、露骨に顔をしかめる。

 

「飯食ってんだけど」

「もう食べ終わっただろう」

「気分の話」

 

 そう言いながら立ち上がった。

 夏油が横へ置かれていた五条の鞄を持ち上げる。五条は受け取り、電話に出ながら廊下へ出ていった。

 

 硝子は、机の上の携帯を本から遠ざけた。

 

「さっきの電話、先輩から?」

「うん」

「元気そうだった?」

 

 硝子は夏油を見た。

 何を言っていたかまで訊くつもりはなさそうだった。

 

「元気だったよ。笑ってたし」

 

 夏油が笑った。

 

 硝子も少し笑って、読みかけの行へ戻った。

 

*

 

「元に戻せ、だそうだ」

 

 父が、紙を一枚滑らせた。

 雅臣は手元の書類を避けて受け取った。

 

 水曜の朝だった。

 冬に継続が決まったやり方を、始める前へ戻せという内容だった。

 

 理由の欄に、各家の負担の公平とある。

 

「事故でもありましたか」

「ない」

「では、何の負担でしょうね」

「待機の仕事が減った家がある」

 

 雅臣は紙を見た。

 

 収容先の返事が来るまで、仮の拘束場所へ人を置く。

 そのための金を受け取っていた家もある。久世もその一つだったが、空いた人員を次の仕事へ回せた。初めから、それを見込んでいた。

 

 同じように次の依頼を取れなかった家にとっては、減った分だけ損になる。

 

「うちだけ得をしている、と」

「そう見せるには、悪くない書き方だ」

 

 久世が封を担当したものに限る。

 自分たちで費用を持って始めるためにつけた条件が、今は責める箇所になっていた。

 

「これは?」

「こちらの返事を待っている。今のところ、止める指示は出していない」

 

 この紙を出した相手が、そこで納得するとは思っていなかった。

 次は責任の所在か。手配に掛かる費用か。それとも、別の仕事で久世の順番が遅くなるか。

 

 父は、余白へ線を引いた。

 

 紙を返される。

 雅臣は、元に戻せと書かれた一枚も重ねて受け取った。

 

 話を通す順番から決めなければならない。

 雅臣は手順を頭の中で並べた。

 

 

「来週の土曜も、東京か」

 

 書類を揃え終えたところで、父が言った。

 

「はい」

「家入の娘と会うのか」

「ええ」

 

 父は筆記具を置いた。

 

「あちらは、まだ来るなとは言わんのだな」

 

 雅臣は顔を上げた。

 父の知っている話は、そこまでだった。

 

「付き合うことになりました」

 

 言ってから、口元が動きそうになった。

 ここで笑うことではない。そう思ったところで、もう遅かったらしい。

 

 父が、少し長くこちらを見た。

 

「そうか」

「はい」

「なら、一度連れて来い」

 

 雅臣の指が、書類の端で止まった。

 

「都合を聞きます」

「母にも話しておけ」

「食事の席を用意するなら、誰を呼ぶかは先に教えてください」

 

 父の視線が、紙から戻った。

 

「まだ日も決めていない」

「決まってから増やされると、断る相手も増えますので」

 

 親族も跡取りが連れてくる相手なら顔を見ると言うだろう。

 硝子が会うと答えたとして、久世家の座敷に誰が何人並ぶかまで承諾したことにはならない。

 

「挨拶に来るなら、挨拶だけにしてください」

「お前の婚約を決める席だとは言っていない」

「それを、ほかの方にも同じように言っていただきたいんです」

 

 父は少し黙った。

 

「本人が来ると言ってからだ。先に騒ぐな」

 

 雅臣は口を閉じた。

 自分もまだ、訊いていなかった。

 

「……はい」

 

 父がまた筆記具を取る。

 話が終わったと思って立ちかけると、もう一度声がした。

 

「東京での仕事は、続けるのか」

「彼女が、ですか」

「ほかに誰の話をしている」

 

 雅臣は父を見た。

 

「続けるでしょう。まだ在学中ですし、その先のことは本人が決めます」

「こちらへ来るものと思っている者には、先に言っておけ」

 

 父は、今度こそ書類へ目を落とした。

 

「後で話が違うと言われるぞ」

 

 そう言う者の顔は、思い浮かんだ。

 交際したと知れば、その先の居場所まで決まったつもりになる。

 

 雅臣は持っていた紙を、鞄へ収めた。

 

「分かっています」

 

 父に言われなくても、と思った。

 それでも部屋を出てから、硝子へ何から話すかを、もう一度考えた。

 

*

 

 二週間後の土曜日、久世は約束の時間に来た。

 

 硝子は、改札を出てきた彼へ手を上げた。

 今日は濃い色の上着だった。こちらへ近づくと、すぐに笑う。

 

「待たせた?」

「二分くらい」

「そっか」

 

 差し出された手を取った。

 前のように、一度触れてから様子を見る間はなかった。

 

 先に歩き出した久世へ、硝子は横から言った。

 

「五条と夏油、何か余計なこと聞いてなかった?」

「色々」

 

 この前、談話室で電話を取ると、五条が横から口を出した。

 うるさいので携帯を渡したら、夏油まで加わっていた。

 

「答えた?」

「答えなかったよ」

 

 久世がこちらを見る。

 

「硝子ちゃんも、話してないんだろう」

「先輩がどんな顔したかはね」

 

 握っていた手に、少し力が入った。

 

「……それは、話さないでほしいな」

「考えとく」

 

 久世は何か言いたそうだったが、結局、言わなかった。

 硝子は横を向いて笑った。

 

 父親が会いたがっているという話は、食事を終えてから出た。

 

「嫌なら断るから」

 

 久世が言った。

 前の土曜よりは、普通に食べ終わっていた。皿の脇には、畳んだ紙ナプキンが置かれている。

 

「お前、親にも言ったの」

「父には」

「何て?」

「一度連れて来いって」

 

 硝子はグラスを置いた。

 

 そういう話になるのか、と、少し遅れて思った。

 恋人ができたことは、二人で会っている間だけの話ではなかった。

 

「顔を見たいって?」

「うん。ただ……」

 

 硝子は久世を見た。

 

「何も言わずに連れていくと、会わなければいけない人が増えるかもしれない」

「怖いこと言うな」

 

 久世が苦笑した。

 

 冗談だけではないらしかった。

 

「父と母に挨拶するくらいなら、と思ったんだけど。君がそれでよければ、そのつもりで話をする」

「親、私が何してるか知ってるんでしょ」

「知ってるよ」

「じゃあ、仕事の話もされる?」

 

 久世はすぐには否定しなかった。

 

「訊かれるとは思う」

「久世の家で働け、とか」

「そういうつもりで来てもらうんじゃない」

「雅臣は、そうだろうけど」

 

 言うと、久世が口を閉じた。

 

 硝子は、その顔を見ていた。

 怒った様子はなかった。ただ、言おうとしていたことを一つ戻したらしかった。

 

「……父には、東京での仕事を続けると話をしてある。君がこちらへ移るものと思っている人には、先に言っておくように言われた」

「いるんだ」

「いるだろうね」

 

 硝子は椅子の背へ体を預けた。

 

 付き合って二週間。

 京都へ移ると言われても、着替え一つ久世のところへ置いた事すらない。

 

「気が早くない?」

「僕もそう思う」

「勝手に部屋とか用意しないでよね」

「……してないよ」

「なに、その間」

 

 久世が笑った。

 硝子も、少し笑ってしまった。

 

 それから、机の上の自分の鞄を見た。

 読みかけの本が入っている。明日は学校にいて、進めておきたいところがあった。

 

「私、今の勉強も仕事も、続けるよ」

「うん」

「家の方で何か困るなら、行く前に聞いといて。座ったあとで説明されても面倒だから」

 

 久世は頷いた。

 そのあと、目が少し動いた。

 

「じゃあ、会うのは」

「親に挨拶くらいはする。相手が誰か、見たいんでしょ」

「……うん」

「私も、先輩が誰と喧嘩してるのか見たいし」

「父と喧嘩ばかりしてるわけじゃないよ」

「知ってる。仕事、一緒にやってんだろ」

 

 久世の顔が、少し変わった。

 今度は、考えていることが分かる顔ではなかった。

 

「何」

「いや。君を連れて帰るんだな、と思って」

 

 硝子はグラスへ手を伸ばした。

 

「日、決まってないけど」

「うん。そうだね」

 

 久世は頷いた。

 まだ、少し笑っていた。

 

 店を出てから、硝子は仕事の話を訊いた。

 電話で、元に戻せという話が来た、とだけ聞いていたものだった。

 

「あれ、どうなった?」

「前と同じ手順でやってもらえることになったよ」

「じゃあ、戻さなくていいんだ」

「文句を言ってきたところが納得したわけじゃないから、味方を増やしてるところだよ」

 

 久世は横断歩道の手前で止まった。

 

「うちに来る仕事を少し分けて、その代わり、うちが行かないところの記録ももらえるようにした」

「それ、お前が見るの?」

「最初はね」

「また読むもの増えるな」

 

 久世は少し笑った。

 

「増やしたかったんだよ」

 

 電話でも、そういうときは声が明るかった。

 硝子は青になる信号を見ていた。

 

「そんなに、人の仕事まで気になる?」

「気になるよ。待たせている人の顔も見ないで、返事を一つ遅らせれば済むと思っているなら」

 

 久世は向こうの歩道を見ていた。

 

「誰がどこで止めているのか、分かるようにしておきたい」

「分かったら?」

 

 こちらへ目が戻った。

 

「どいてもらう方法を考える」

 

 言い方は穏やかだった。

 硝子は、繋いだ手を見た。

 

「怒ってる?」

「うん」

 

 あっさり認めた。

 

「人が足りないのも、金が足りないのも分かるよ。足りているのに動かさない相手の機嫌まで、いつまでも取っていたくない」

 

 信号が変わった。

 久世が歩き出し、硝子も隣へ並んだ。

 

 その仕事をしている顔を、まだ見たことがなかった。

 今の声を向けられる相手も、知らない。

 

 付き合ったから、分かるようになったわけではなかった。

 

「京都、行ったらさ」

「うん」

「家だけじゃなくて、いつも行ってる店とかも連れてってよ」

 

 久世がこちらを見た。

 

「いいよ。何がいい?」

「選んで。私は知らないんだから」

 

 少し考える顔になった。

 すぐに一つ店を挙げ、いや、と自分で取り消す。

 

「そこは夜の方がいいな。昼なら、別のところが」

「そんなに悩む?」

「初めて連れていくんだよ」

 

 真面目に言われた。

 

 硝子は前を向いた。

 見てみたい、と言っただけで、仕事の話をしていた口が、こんなに忙しくなる。

 

「雅臣」

 

 呼ぶと、話が止まった。

 

「今は、今日行くところ決めようよ」

 

 久世が一度、瞬きをした。

 それから笑って、繋いだ手を軽く持ち上げた。

 

「そうだったね」

 

 京都へ持っていく荷物も、挨拶の言葉も、まだ考えなくてよかった。

 

*

 

 久世の家は大きかった。

 

 硝子が足を止めると、久世も振り返った。

 塀の向こうに屋根が見えている。門から玄関まで、まだ少し歩くようだった。

 

「奥は仕事で使っているところもあるよ」

「家だけでも広いだろ」

「うん。まあ」

 

 否定はしなかった。

 久世は門を開け、硝子が通るまで押さえていた。

 

 六月の日曜日だった。

 駅を出たときには降っていた雨が、今はやんでいる。硝子は傘を閉じ、手土産の袋を持ち直した。

 

 今日会うのは父と母だけ。

 勉強と仕事を続ける話も、先に伝えてある。

 

「ただいま戻りました」

 

 いつもと同じ声だった。

 けれど、その言葉を聞くのは初めてだった。

 

 母親は、座敷へ入る前に迎えに出てきた。

 硝子を見ると、目元を緩めた。

 

「遠いところを、よくいらして」

「家入硝子です。お招きいただいて、ありがとうございます」

 

 頭を下げ、持ってきた袋を差し出す。

 母親は両手で受け取り、そんなに気を遣わなくてもよかったのに、と言った。

 

「雨、大丈夫だった?」

「駅から少しだけだったので」

「よかった。さっきまで、随分降っていたでしょう」

 

 隣で久世が頷いた。

 

「傘は玄関に置いたよ」

「分かってるわよ。今、硝子さんに聞いてるの」

 

 久世が口を閉じた。

 硝子は、少しだけそちらを見た。

 

 座敷には父親がいた。

 こちらを見て座り直すと、改めて挨拶をした。

 

 目元は、久世と少し似ていた。

 笑ったときの口の形は、母親の方だった。

 

「雅臣から、話は聞いております」

「私も、少し」

「どんな話を?」

 

 硝子は隣を見た。

 久世が、こちらを見ていた。

 

「お仕事の話を」

「それだけですか」

「……その中で、お父様のお話も」

 

 父親の目が、息子へ向いた。

 

「あまり、いい話ではなさそうだな」

「そんなことないよ」

 

 返事が早かった。

 硝子は膝の上で手を重ねた。

 

 茶と菓子が出ると、最初は学校の話になった。

 

 今年で三年になこと

 寮に住んでいること。

 卒業してからも東京を拠点にするつもりで、今の勉強を続けたいこと。

 

 父親は途中で二つほど訊き返したが、こちらへ移れとは言わなかった。

 

「雅臣から聞いていたとおりですね」

 

 そう言って、湯呑を持ち上げた。

 硝子も茶を飲んだ。

 

 母親は笑った。

 

「忙しい子だから。待っているばかりでも、つまらないでしょう」

「会える日は、先に決めるようにしています」

「ちゃんと守ってくれる?」

「今のところは」

 

 久世が、何か言いたそうにした。

 硝子は横を見ずに茶を飲んだ。

 

「それならいいけれど」

 

 母親は自分の湯呑を、畳の上で少し動かした。

 

「硝子さんも、何でも一人でできるからって、遠慮しなくていいのよ。この子は頼まれるのが好きなんだから」

 

 それは、知っていた。

 断ってほしい話も、運んでほしい物も、頼んだことがある。

 

「頼むことがあるときは、頼んでいます」

「そういうときだけじゃなくて。何でも自分でできるように見せなくてもいいの」

 

 硝子は、持ち上げかけた湯呑を戻した。

 

「男の人は、自分がいなくても平気な顔をされるより、少し頼りにされる方が嬉しいものよ」

「母さん」

 

 久世が言った。

 さっきと同じ呼び方だったが、声が違った。

 

「彼女に、そういうことをしてもらうために来てもらったんじゃない」

「してもらうって、何を? 私はただ、遠慮しなくてもいいと言ってるのよ」

「遠慮の話なら、それだけでいいだろう」

 

 母親の口元から、笑みが消えた。

 

「あなたには、言っていないでしょう」

 

 硝子は久世を見た。

 彼の手が、膝の上で揃っていた。

 

 こちらへ来る前、何度も話をしておくと言っていた。

 それで、この会話までなくせるわけではなかったらしい。

 

「頼りには、していますよ」

 

 硝子が言うと、二人ともこちらを向いた。

 

「でも、今日は会いたかったので来ました」

 

 母親は、一度まばたきをした。

 隣で、久世が動かなくなった。

 

 父親だけが、静かに茶を飲んでいた。

 

「……そう」

 

 母親が先に、息を吐いた。

 

「それなら、よかったわ」

 

 硝子は頷いた。

 膝の上で、指を組み直す。

 

 言ったあとになって、今のは本人と二人のときに言えばよかったと思った。

 久世がまだ、横から見ている。

 

 父親が菓子皿を少し前へ押した。

 

「どうぞ。雅臣も、食べなさい」

「……はい」

 

 久世はようやく視線を外した。

 母親は茶を足し、学校の休みはいつからかと訊いた。

 

 硝子は分かる範囲で答えた。

 先ほどの話を、納得してもらえたのかどうかは分からなかった。

 

*

 

 硝子が洗面所を借りている間に、母が廊下へ出てきた。

 

「雅臣」

 

 呼ばれると思っていた。

 雅臣は、座敷の前で足を止めた。

 

「お客様の前で、ああいう言い方をしなくてもいいでしょう」

「そのお客様に、言っていたでしょう」

「何がいけなかったの。あの方のためにもなる話よ」

 

 母は声を落としていた。

 怒っているときほど静かに話すことも、ある。

 

「あなた、頼りにされるのが好きでしょう」

 

 雅臣は答えなかった。

 

 好きだった。

 何か任されたとき、硝子が自分を選んだことが嬉しかった。

 引き受けたあとで、どこまでやればいいかを勝手に広げたこともある。

 

「……好きだよ」

「なら」

「できることまで、できないふりをして頼んでほしいとは言ってない」

 

 母の眉が寄った。

 

「そんなことは言っていないわ」

「そう聞こえる話をしたでしょう」

「どうして、そういう受け取り方ばかりするの」

 

 雅臣は、口を閉じた。

 言い直しても、同じところへ戻りそうだった。

 

 母は、髪の横へ手をやった。

 乱れてはいない。

 

「何でも、正面から言えば済むものじゃないの。あなたがずっと隣にいて、全部言い返すわけにもいかないでしょう」

 

 そのことは、分かっていた。

 

 母が言わなくても、別の人間が言う。

 家の外でも。自分のいない場所でも。

 

 そのたびに硝子へ上手くやれと言えば、こちらのすることは減る。

 それで何事もなく付き合えている顔をするのは、嫌だった。

 

「彼女に言う前に、僕にも聞いてよ」

「あなたには聞いているでしょう」

「僕が嫌だと言ったところは、聞かなかったことにしないで」

 

 母が黙った。

 

 座敷の中で、父が湯呑を置いた。

 

「そこまでにしておけ。廊下で続ける話ではない」

 

 こちらへ来る足音がした。

 雅臣は母から目を離した。

 

 硝子が角を曲がってきた。

 母はそちらを向くと、少し笑った。

 

「場所、分かりにくかったでしょう」

「教えていただいたとおりだったので」

 

 硝子は答え、雅臣の隣へ来た。

 

 何を話していたか、分かっただろうか。

 そう思って顔を見たが、彼女はこちらを見上げただけだった。

 

「雅臣の部屋、見てもいい?」

 

 雅臣は、返事を忘れた。

 

「部屋?」

「うん。本、どれだけあるのか見たい」

 

 駅からここまで来て、挨拶をして、出かける。

 自分の部屋へ案内するところは、今日の順番に入っていなかった。

 

「……片づけてはあるよ」

「なら、いいだろ」

 

 母が、雅臣を見た。

 

「お茶、そちらへ持っていく?」

「今は大丈夫。少ししたら、外へ出るから」

 

 母は頷いた。

 何か言い足しそうだったが、そのまま座敷へ戻った。

 

 雅臣は廊下の先を示した。

 

「こっち」

 

 硝子が隣を歩く。

 少し先へ行ってから、横を見た。

 

「さっきは、ごめん」

「どれの話」

 

 訊き返されて、詰まった。

 

「母の言ったことと、言い合いになったこと」

「ああ」

 

 硝子は前を向いた。

 

「お前の母親と私が話してる途中でもあったけどな」

 

 雅臣は、足を緩めた。

 彼女は歩き続け、半歩先からこちらを見る。

 

「こっちでいいの?」

「……うん。その先」

 

 黙っていればよかったとは、思わなかった。

 ただ、彼女が答えようとしていたのかどうかも、見ていなかった。

 

 彼女は、曲がり角で待っていた。

 

「次は、私の返事も待てよ」

「分かった」

 

 雅臣が隣へ戻ると、また歩き出した。

 

 自分の部屋の前まで来て、襖へ手を掛ける。

 さっきまで見ていたはずの中を、一度確かめてから開いた。

 

*

 

 本は、思っていたよりあった。

 

 机の隣に棚が二つ。下の段には大きな本が並び、上には文庫本が二列になっていた。

 部屋の真ん中には小さな座卓がある。

 窓の外は庭だったが、座ると塀と木の上の方しか見えなかった。

 

「電話してるときって、どこにいるの」

「大抵は、そこの机」

 

 久世が指した。

 机の端に、携帯の充電器が置かれていた。

 

「へえ」

 

 硝子は椅子の背へ、軽く手を置いた。

 自分が寮の部屋で壁にもたれていたとき、向こうはここに座っていたのか。

 

「座っていいよ」

「今はいい」

 

 手を離し、本棚へ寄った。

 

 前に借りた本があった。

 紙のカバーが掛かったまま、ほかの本の間に収まっている。

 

「それ、覚えてる?」

「忘れるほど昔じゃないだろ」

「そうだね」

 

 久世は少し笑った。

 

 硝子は背表紙を二つほど見てから、棚を離れた。

 鞄を座卓の横へ置き、畳に座る。

 久世も向かいへ腰を下ろした。

 

 いつもは、自分がいた場所へ彼が来ていた。

 医務室の椅子も、談話室の席も、先に知っているのはこちらだった。

 

 ここでは、襖の向こうにどんな部屋があるのかも分からない。

 

「お前んち、落ち着かないな」

 

 久世の視線が上がった。

 

「うん」

「もっと、知らない人が出てくるかと思った」

「今日は、父と母だけって話しただろう」

「本当に増えなかったんだなと思って」

 

 久世は、膝へ目を落とした。

 

「会わせたくない人もいるよ」

 

 硝子は、こちらを向いたままの顔を見た。

 冗談を言うつもりではなさそうだった。

 

「そ」

 

 久世は頷いた。

 何を言うか、まだ探しているように見えた。

 

「さっきから、ずっとそれ考えてる?」

「少し」

「少しか」

 

 目が合った。

 久世は息を吐き、笑った。

 

「……思っていたより、気になるね」

 

 硝子は座卓の角へ手を置いた。

 

「私が、会いたかったって言ったのは?」

 

 笑っていた顔が止まった。

 

「あれも、考えてた?」

「考えてたよ」

 

 今度は返事が早かった。

 

「母の前で言うとは、思わなかった」

「私も」

 

 言わなくてもよかったことまで、口から出た。

 思い出すと、今の方が少し恥ずかしかった。

 

 硝子は鞄から携帯を取り出し、時刻を見た。

 まだ、昼前だった。

 

「外、何時に出る?」

「君がよければ、もう少しここにいてもいいけど」

「じゃあ、そうする」

 

 携帯を鞄へ戻した。

 その間も、久世はこちらを見ていた。

 

「何」

「僕の部屋にいるな、と思って」

「見れば分かるでしょ」

「うん」

 

 頷いて、まだ見ている。

 

 硝子は彼の横へ移った。

 座卓の向かいでは少し遠かった。それだけのことだったが、久世は背筋を伸ばした。

 

「そんなに固まる?」

「固まってないよ」

 

 顔を覗き込むと、目がこちらへ向いた。

 近づいた分だけ、あの座敷で見ていた顔とは違って見えた。

 

 硝子は、彼の頬へ手を添えた。

 

 そのまま、口づけた。

 

 離れると、久世がまばたきをした。

 声は出なかった。

 

 硝子は手を引っ込めようとして、手首のところでそっと止められた。

 

「……待って」

「何」

 

 久世が顔を寄せかけて、止まった。

 

「僕も、したい」

 

 硝子は、その目を見た。

 自分からしたくせに、そう言われると困った。

 

「……待ってるけど」

 

 今度は久世が近づいた。

 硝子は、目を閉じた。

 

 

 襖を開ける前に、久世が一度立ち止まった。

 

「普通にしてる?」

「何が」

「僕」

 

 硝子は顔を見た。

 口元が、少し緩んでいる。

 

「してない」

「……そっか」

「諦めれば」

 

 久世は片手で顔を覆いかけて、やめた。

 

「お腹空いた」

「うん。行こうか」

 

 玄関まで来た母親は、今度は食事もしていってと言った。

 硝子は今日の礼を言い、頭を下げた。

 

 父親も座敷から出てきた。

 

「雅臣。帰りの電車に遅れないように」

「分かっています」

「お前が引き止める方を言っている」

 

 硝子は靴を履きながら、少し笑った。

 久世は返事をせず、傘立てから二人の傘を取った。

 

 門を出ると、来たときより明るくなっていた。

 

 硝子は一度振り返った。

 玄関から、母親がまだこちらを見ている。

 軽く頭を下げると、向こうも頭を下げた。

 

 隣の久世が、門を閉めた。

 

 連れていかれたのは、通りから一本入ったところにある小さな食堂だった。

 

 久世は壁の品書きを見る前に、頼むものを決めていた。

 硝子は少し迷ってから、同じものにした。

 

「よく来るの?」

「仕事が遅くなったときとか。外で食べて帰るなら、ここに寄ることが多い」

「夜の店って言ってた方?」

「それは、また別」

「いくつ考えてたんだよ」

 

 久世が笑った。

 座敷にいたときより、ずっと楽そうな顔だった。

 

「食べ終わったらどこ行く?」

「雨もやんだし、少し歩こうか。さっき通らなかった方へ」

「遠い?」

「君の電車までには、ちゃんと戻るよ」

 

 午後は、久世の知っている道を歩いた。

 

 曲がる角で、彼の足は止まらなかった。

 この先は大きな通りへ出るとか、夕方は車が多いとか、訊く前に少しずつ教えてくれた。

 

 次に一人で来たら、全部は思い出せないだろう。

 それでも、駅から門までの道は、来るときより短く感じられそうだった。

 

 帰る前に、次に会う日を決めた。

 今度は久世が東京へ来る。

 

 駅へ着くと、彼は改札の手前で足を止めた。

 硝子は鞄から切符を出した。

 

「時間、余ったな」

「父に言われたからね」

「言われなかったら?」

 

 久世がこちらを見た。

 

「もう少し、手前でゆっくりしてたと思う」

 

 硝子は切符を持ったまま、彼の手を取った。

 ホームへ上がるには、まだ早かった。

 

 久世は、すぐに握り返した。

 

「いつもは、君がこっちに残るんだね」

「そうだよ」

「……そっか」

 

 繋いだ手が、二人の間へ下りた。

 

 しばらく、そのままでいた。

 行き交う人を避けて、柱のそばへ少し寄る。

 

「雅臣」

「うん?」

「帰ったら電話する」

 

 久世が、少し笑った。

 

「待ってるよ」

 

 硝子は頷いて、手を離した。

 改札を通り、向こう側から一度振り返る。

 

 彼はまだ、同じところに立っていた。

 

 列車が動き始めてから、硝子は鞄を膝へ載せ直した。

 

 久世はこのあと、さっき歩いた道を帰る。

 門を開け、靴を脱ぎ、あの廊下を曲がる。

 

 電話する頃には、机の前にいるだろうか。

 それとも、座卓の横で本を開いているだろうか。

 

 硝子は携帯を取り出した。

 

 乗った。

 

 短く打って、送る。

 返事が来るまで、画面を閉じずに待っていた。

 

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