九十九由基が立ち上がりかけたところで、廊下の向こうから声がした。
「九十九さん、ですか」
夏油は顔を上げた。
書類の入った封筒を手に、久世雅臣がこちらを見ていた。いつもの、用事があるのかないのか分からない訪問とは違った。九十九の顔を確かめると、迷わず進路を変えてくる。
「そういう君は?」
「久世雅臣です。お話し中でしたか」
「久世。ああ、封印屋の」
九十九は浮かせた腰をベンチへ戻した。
「じゃあ久世君。君はどんな女がタイプかな?」
「家入さんですよ」
夏油は目を伏せた。
少しくらい考えてから答えればいいものを。
「へえ。具体的だね。家入硝子のどこがタイプなの?」
今度は考えた。
久世は封筒の端を指で揃え、ややあって首を傾げた。
「僕のこと、どうでもよさそうに見てきたところですかね」
「変わった入り口だな」
「でも今は、何をしてても大体可愛いと思ってしまうので。あまり参考にならないかもしれません」
「それ、本人には?」
「言ってますよ。付き合ってますから」
九十九が声を立てて笑った。
夏油には、最後に硝子が久世の話をしていたときの、ひどく面倒そうな顔が思い出された。あれを可愛いに含めているのだから、まあ、話は合っている。
「で、その家入さんを通り過ぎて、私に何の用だい?」
「お会いしたかったんです。呪霊を発生させないための研究をなさっていると伺って」
声の調子は変わらなかった。
けれど、封筒を持つ手が止まった。
「ずいぶん評判のいい伝わり方をしたね」
「任務を受けずに何をしているんだ、という話でした」
「そっちか」
「それで、何をしているのか聞いたんです」
九十九は笑いを残したまま、夏油を見た。
「ちょうど、その話をしてたところだよ」
*
久世が求めたのは、研究の成果を簡単に教えてくれという話ではなかった。
呪力を人からなくすのか。それとも、人が漏らさないようにするのか。現在、どちらを追っているのか。
九十九が答えるたびに、次の問いが少しずつ細かくなる。
「制御を覚えさせる方なら、訓練でどうにかなる範囲は、どれくらいあるんですか」
「非術師全員に教えれば済むなら、話は早いんだけどね」
「習得できないのか、教え方がないのか」
「そこを一緒にしないでくれるのは助かるよ。ただ、君んちの訓練をそのまま持っていっても無理だ」
「ええ。ウチに来るのは、既に術式がある人たちですから」
制御が難しい術師の訓練に、久世の家が立ち会うことは夏油も知っていた。
暴走しかけた術式を止める。そのために呼ばれる家だ。
「封じている間、呪力の漏れ方まで観察した記録はある?」
今度は九十九が尋ねた。
「僕の担当分には。昔のものは確認しないと分かりません」
「止まった術式の記録だけじゃなくて、止まらなかったものも見たいな」
「出せる範囲を調べます。個人名は伏せますが」
「条件と経過を削らなければ、それでいい」
「では、連絡先を伺っても?」
九十九はあっさり携帯を取り出した。
「資料一枚と引き換えに、私の予定まで買えると思わないでね」
「まず読んでいただけるものを出しますよ」
久世も携帯を出した。
家の名を使うとき、この人は隠さない。使うことができる場所を見つけると、ためらいなくそこに置く。
「できれば任務の方も、少しお願いしたいんですが」
「やだね」
返事は早かった。
久世は入力していた指を止め、顔を上げた。
「現場の負担は増えています」
「私が一件祓ってる間、私の研究を進めるのは誰?」
「だから研究をやめろとは申し上げていません。同時に進めるべきだと言っています」
「同時に進める人員を用意してから、私の配分に口を出してくれ」
久世は少し黙った。
「……それは、そうですね」
折れた、という声ではなかった。
要求を通すだけのものを持っていないと、数え直した声だった。
「でも、成果が出る時期を読めない以上、その間を今の人数で持たせるわけにもいかないでしょう」
「うん。そっちは変えなよ。研究が終わるまで待ってなくていい」
「そのつもりです」
「なら、私の不在を理由に止まらないでくれよ」
九十九は番号を送信した。
久世の携帯が、短く鳴った。
夏油は二人の顔を見ていた。
自分が口にするときには、怠慢を責める以外にならなかったことが、ここでは担当の取り合いになっている。
結局、明日の任務に来る人間は増えていない。
「もう一つ、君にも聞こうか」
携帯をしまいながら、九十九が言った。
「さっき夏油君が出した案なんだけどね。呪霊を生む非術師がいなくなれば、呪霊は生まれなくなる」
「非術師を皆殺しにする。どう思う?」
久世の視線が、夏油へ動いた。
夏油は目を逸らさなかった。
さっき口にしたときには、これほどはっきり自分に結びついた言葉ではなかった気がした。
「目的が、呪霊のない世界なら。ありでしょうね」
久世は答えた。
「ただ、呪術師からも非術師は生まれますよね」
「生まれるね」
「だったら、残した人たちの子供も選別し続けることになる。呪霊を殺していた人間が、今度は呪霊を生む人間を殺す。仕事が終わるようには見えませんが」
「殺される圧力がかかれば、生き残るために人間の側が変わる可能性はある。術師になる方向へね」
「変わるまで、何代ですか」
「分からない」
「途中で変わらなかったら?」
「そこまで分かってる研究じゃないよ」
九十九は平然としていた。
久世も、それを失点として扱う様子はなかった。
「では、変わらない間も回せるか考える必要があります。自分の子が対象になっても従うか。従わせ続けるために誰を使うか。そこまで含めた制度になりますね」
「君は、実施した翌日からのことを考えるんだな」
「後で困りますから」
久世は封筒を持ち直した。
「それに、人が減る不便さの方が勝ります。呪霊が消えても、食べるものにも移動にも困るようでは、僕には魅力がない」
「その辺が全部片づくとしたら?」
「その条件で、他の方法と比べます」
夏油の指先に、ぬるくなった缶の水滴がついた。
誰も、口にしたことを咎めなかった。
九十九は可能性を答え、久世は運用を考えている。口にしてしまった異常な考えが、二人が答えることで急に現実の形を帯びた。
「先輩は、非術師がいる世界を残したいんですね」
久世がこちらを見た。
「うん。僕はそこで暮らすつもりだから」
九十九は二人を交互に見た。
しばらくして、膝に手をついた。
「さて。私は行くよ」
「お引き留めしました。資料は、出せるものからご連絡します」
「期待してる。家の宣伝用にきれいにした成功例はいらないからね」
「失敗した人に怒られない範囲で、なるべく」
九十九が笑い、夏油の前で足を止めた。
「夏油君。さっきの方法が成立するかどうかと、君がそれをやりたいかどうかは、別の話だよ」
見上げると、彼女の顔から笑みが薄れていた。
「私たちの返事だけで、そこまで決まったことにしないでくれ」
夏油が何かを答える前に、九十九は片手を上げた。
靴音が廊下を遠ざかっていった。
*
「先輩は、反対すると思っていました」
靴音が聞こえなくなってから、夏油は言った。
「非術師を殺す話?」
「ええ」
「賛成はしてないよ」
「もっと、考えるまでもなく」
久世は少し困ったように眉を寄せた。
夏油の隣には、九十九が座っていた分の空きがあった。
そこへ封筒を置きかけて、やめる。自分が座り、膝に載せた。
「夏油君は、どうしてその話を?」
蝉が鳴いていた。
尋ねられた途端、口にできることがひどく少なくなった。
「……私たちが祓っているものは、非術師から生まれるそうです」
「うん」
「その処理をして、術師が死ぬ。私たちがどれだけ祓っても、彼らはまた呪霊を生む。そのことさえ、知らないまま」
久世は口を挟まなかった。
「私たちは、それを守っている」
缶の縁を、親指でなぞった。
守るべきだと言っていた。同じ言葉で、悟にも説いていた。
「知らない人間を、知っている側が一方的に憎むのは、筋が通らないと思うけどね」
静かな声だった。
夏油は親指を止めた。
「見えない人からすれば、呪霊なんて知りようもない。それを知っていて、教えないことにしてるのは、誰だ?」
「私が決めたことではありません」
「そうかな。教えたことで呪霊が増えるから話さない。どうせ信じないから話さない。そういった選択を呪術界の人はしている。僕含めてね」
拍手の音がした。
もちろん、そこではしていなかった。
「あの人たちは、人が死んだことを知っていましたよ」
久世の目が細くなった。
「盤星教の連中か」
「見えなくても、知っていた。女の子が一人死んだことを喜ぶくらいには」
「なら、それはあいつらの責任だ。呪霊が見えるかどうかとは関係ない」
「その連中も、私たちが守る人間の中にいる」
久世は即答しなかった。
夏油は、今度こそ相手の方を見た。
「そうでしょう。祓った呪霊が、誰を殺すはずだったかなんて選べない」
「……祓うことで、あいつらも助かる。それはそうだね」
「だから、相手ごとに分ければ済む話でもない」
久世は膝の封筒へ視線を落として、息をついた。
「それと呪霊を放っておくことは別の問題だよ」
「じゃあ誰があいつらに責任を取らせるんですか」
「そこを気にするなら、調べろ。知れ。手が届くところからだ。金を出した人間も、処分を止めた人間もいるだろう」
「その間に、また祓う」
「そうだね」
久世は、そこを誤魔化さなかった。
夏油は、口の中に残る味を飲み込んだ。
「私は、知られずに済むなら、それでいいと思っていました」
「今は?」
「それでいいはずだと、思っています」
久世がこちらを見る気配がした。
夏油は前を向いたままでいた。
「非術師には、知らなかったと言える。私には、知っているんだから自分で選べと?」
「知らない人間と、知っている人間に、同じ判断は求められない」
「知ってしまったら、選ばされる」
「選べるんだよ」
その返事を、ひどく残酷だと思った。
久世は否定してくれなかった。
「……私が断ったら、他へ回ります」
「それは、組んだ人間に返していい話だ」
「誰が行くんですか。悟ならいいんですか。後輩達なら?」
夏油は言った。
「決める人間には見えなくても、現場に出れば、助けられる人がいるんです」
声が少し強くなった。
「まだ助けられるのに、帰るんですか」
久世が息を吐いた。
「十人を助けさせて壊すより、八人助けて明日も八人助けられる方がいい」
「残りの二人には、明日がありません」
「そうだね」
「それで終わりですか」
「終わらせてるのは誰だよ」
声の底が、急に硬くなった。
「その二人を助ける人間がいないなら、そこを先に問題にするべきだろう。どうして君が無理をすれば届くからって、無理をすることまで入れてある?」
「十人助ければ必ず壊れると、決まっているわけじゃない」
「八人なら壊れないとも決まってない。だから、本人がまだ出来ると言っている間は使っていい、というやり方をやめろと言ってる」
久世は封筒を握り直した。
「断れば仲間に行く。行かなければ誰かが死ぬ。その二つを現場の人間に突きつけて、十助けろと押し付ける。命令してる側は、最後の二人が助かったら、自分の配置で足りたことに出来る。君が削った分は、どこへ行った?」
「先輩は、そこで帰れるんですか」
久世の手が止まった。
「……自分が倒れると次がもっと悪くなると判断したら、帰るよ」
「目の前にいても?」
「いるからといって、僕に出来ることが増えるわけじゃない」
夏油は黙った。
久世は、人を見捨てることを知らずに言っているのではなかった。
この人は、見てからでも離れると言っている。
「天内のときも、そうでしたね」
久世は何も言わなかった。
「彼女のことより、天元様だった」
「あの時は、天元様に何が起きているのか分からなかったから」
「分かっていますよ」
そんなことは、もう知っている。
結界がどうなるか。あの任務が何のためにあったか。知らずに彼女を連れて歩いていたわけではない。
夏油は唇を結んだ。
「私は、先輩みたいには考えられません」
「うん」
「人のためにやることを、そんなふうには」
久世はしばらく黙っていた。
「誰かのために、という言葉ほど、脆い言葉はないと思ってるけどね。僕は」
夏油が眉を寄せると、久世は続けた。
「戒めだよ。僕はどうやら、人のために動くのが好きなようだからね」
「それの何が悪いんです」
「誰も頼んでない。勝手にやるな、とは何度も言われてる」
久世は少し笑った。
「だから、実際に動く前に、僕がどうしてそれをしたいのかは考えるようにしてるんだ」
「君が納得して引き受けられる間はいい。でもそれは、相手のために動きたいから動いたという選択であるべきだ」
「だから、守るべきだと考えるんです。好き嫌いで選ばないために」
「好き嫌いで選べばいいと言ってる」
返事が出なかった。
引き受けたくない、と答えることも出来なかった。
久世は答えを催促しなかった。
それが待ってくれているのか、もう自分で考えろということなのか、夏油には分からなかった。
*
「僕は、君にもっと働けと言えるほど祓ってない」
しばらくして、久世が言った。
「君の術式を、君と同じように使ったこともない。祓うかどうかを僕に決められたくないのは、当然だと思う」
風が通った。
封筒の口が、かさりと鳴った。
「でも僕は、君がまだ引き受けると答えてもいない分まで、上が予定に入れることには口を出すよ。君にやるならそのうち僕の家にも、同じようなことをやるからね」
夏油は目を上げた。
「危険な呪詛師をいつまで拘束するのか、次に誰が引き取るのか。それを決めないまま、止めておけと言ってくる。向こうが決めない時間まで、こっちが術を保たされる。断れば危険だ、被害が出るぞと言われる」
「断るんですか」
「期限も引継ぎも決めないままには受けない。既に受けたものなら、安全に手を離せる段取りを先に作る。その手間も請求する」
久世の声に、わずかな苛立ちが残った。
「出来る人間がその場にいるから、そいつに持たせておけばいい。そういう扱いを続けさせたくないんだよ」
「私の任務に、引継ぎ先はありません」
「だから、同じ方法で解決するとは思ってない。ただ、命令を出した人間が何を決めずに済ませたかは調べられる」
久世は鞄から手帳を出した。
白いページを一枚、切り取る。
「断る。数を減らす。学校を離れる。今のまま続ける。それぞれ誰が何を考え選んだか。どこまでが悪意で、どこまでがただの無知か」
紙に、番号と短い項目を書いていく。
「任務の割り振りや査定でおかしいものがあるなら、話を聞ける人間を探せ。すぐ変えられるとは言わない」
「変える気のない人間ばかりなら?」
「決める席から降ろす」
ペンが止まらなかった。
「降りなければ?」
「降ろせる力を集める」
「悟ですか」
そこで久世が顔を上げた。
「彼が引き受けてくれるならね。それを前提では動かないよ。彼は気まぐれだ」
夏油は、書きつけられていく文字を見ていた。
そこにあるのは覚えておくべき情報と優先順位、何を気にして誰と連絡を取るべきか。
「先輩が上に立てば、今度は先輩の都合で人を動かすんでしょう」
「そうなるね」
久世はペンを置いた。
「そのために、今も人に会ってる」
正しい人間を据える、とも、みんなのためになる、とも言わなかった。
久世は書き終わった紙を差し出す。
「僕が動かしたい話には、君を誘うこともあると思う」
「協力しなくても?」
「いいよ。話を理解した上で君がそれを選ぶなら」
夏油は紙を受け取らなかった。
久世は差し出し続けず、二人の間に置いた。
「先輩は、何のために呪霊を祓ってるんです?」
問いが少し変わったことに、久世は気づいたようだった。
表情がわずかに緩む。
「ウチは家が家だからね……」
苦笑して、手帳を閉じた。
「期待されてることをこなして、したくないことを減らして、したいことをする。そのためかな」
「全部ですか」
「出来れば」
久世は笑った。
「力がないから大変でね」
「先輩が、それを言いますか」
「僕はまだ当主じゃないし、九十九さんの予定一つ変えられないよ」
夏油は、さっきまで彼女が座っていたことを思い出した。
この人は本当に、あれを出来なかったこととして数えている。
「嫌なものを全部なくせるわけでもないでしょう」
「そうだね。なくせるものまで、そのままにしておく理由にはならないけど」
携帯が鳴った。
久世は画面を見て、メールを開いた。目元が少しだけ変わった。
「家入さん?」
「うん。仕事が終わったって」
短い返事を打ち、携帯を閉じる。
紙を受け取れとも、考えておけとも言わず、久世は立った。
「じゃあ、僕は行くよ」
夏油は頷いた。
隣が空いてから、置かれた紙を見た。
これを読んだ所で、次に飲み込むものの味が変わるわけではない。
盤星教の人間を思い出しても平気になるわけでも、非術師を守るべきだという考えが、元の形で戻るわけでもなかった。
紙の端を押さえた。
「先輩」
久世が振り向いた。
「先輩が上に行くために、私のことも使うんですか」
「使うよ。君は力があるだろう」
夏油は少しの間、久世を見ていた。
「どこか変だった任務の報告、要りますか」
久世の視線が、紙へ落ちた。
「うん。欲しい」
「私の方で、詳細が分からなかったら?」
「分からないままでいい。そこからは僕が調べる」
夏油は紙を二つに折った。
「……分かりました」
久世が廊下を歩き出す。
夏油は携帯を取り出し、直近の任務の連絡を開いた。
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