「それ、くれない?」
硝子は煙草の灰を落としてから、久世に差し出した。
受け取った久世の指先が軽く擦れて、そのまま離れる。
「ありがと」
久世は硝子が咥えていたところを、何のためらいもなく唇に挟んだ。
医務室裏の段差に、二人で腰を下ろしていた。
「私の事どれくらい止められんの?」
「術式?」
「そう」
「使わないけどそうだね、……結構止められると思う」
久世は少し困ったように笑う。
「嫌?」
「嫌なら渡してない」
「うん。ありがとう」
久世は機嫌がよかった。
それで機嫌がよくなるのだから、安い男だと思う。
「今日は夜蛾先?」
「九十九さんみたいな大物はなかなか居ないよ」
「今日は、ついでじゃない?」
久世がこちらを向いた。
硝子はその顔を見て、少し笑った。
「冗談」
「……そういうところ、あるよね」
「何が」
「なんでもない」
手の中の煙草を見て、また口へ運ぶ。
硝子は自分の箱から一本抜いた。火をつけるより先に、久世がライターを差し出した。
「明日も東京?」
「夕方までは。何かある?」
「暇だったら飯行こ」
「行こう」
「暇だったらって言った」
「夕方以降は、もともと空いてるよ」
念を押すように言われて、硝子は頷いた。
久世の煙草が先に短くなった。立つかと思ったが、彼はそれを消しただけで、隣に座ったままだった。
*
翌日、七海は自分の足で医務室に入ってきた。
だから硝子は、まず運ばれてきた方へ行った。
「家入さん」
七海に呼ばれた。返事をしながら、灰原の身体に触れた。
服が邪魔だった。血で張りついた布を切り、確かめるべきところを確かめた。誰かが説明していたが、途中からはほとんど聞く必要がなかった。
「家入さん」
二度目には答えられなかった。
七海は、助けてくださいとも、どうですかとも言わなかった。
硝子が手を止めるまで、同じ場所に立っていた。
死んだ人間を生き返らせたことはない。
できると思ったこともなかった。
それでも、灰原から手を離すまでには少し時間がかかった。
「七海。座って」
言うと、彼は灰原を見た。
「先に」
「座って」
もう一度言った。
七海は近くの椅子へ腰を下ろした。硝子が傷に手を当てても、こちらを見なかった。
治せる傷だった。
硝子は黙って、それを治した。
夏油が来たのは、その後だった。
入り口で立ち止まり、灰原を見て、七海を見た。何か言いかけた口が閉じる。
「七海のこと、頼む」
硝子が言うと、夏油は頷いた。
手を洗った。指の間まで洗って、水を止めた。
袖口に血がついていた。捲っていたはずなのに、いつの間にか染みていたらしい。
着替えを取りに行こうとして、携帯が震えた。
『何時くらいになりそう?』
昨日の約束だった。
文字を打つのが面倒で、そのまま電話をかけた。
「今日、無理」
『分かった。忙しい?』
「灰原が死んだ」
受話口の向こうで、紙の擦れる音が止まった。
『……七海君は』
「生きてる。治した」
『そう』
それきり、少し間が空いた。
硝子は袖口を見ていた。
『夜蛾先生には連絡がつく?』
「もう来るって」
『分かった。そっちへ行く』
「飯は行けないよ」
『うん』
久世は、分かってるよ、と付け足した。
*
灰原に掛けられた布は、途中から急に平らになっていた。
七海はそこを見ないようにしていた。それで顔を見ると、今度は目を閉じていることが気になった。
灰原がこんなに長く黙っているところを、七海はほとんど知らなかった。
任務の説明をした。
二級として渡されたこと。現地で相対したものが、土地に根づいた信仰による呪いだったこと。自分たちでは手に余ったこと。
話している途中で、声が荒くなった。
説明したところで、灰原の身体は戻らない。
自分の傷だけが塞がっていた。
夏油は、休むように言った。
残った任務には五条が向かったと、それも教えた。
「……もうあの人一人で良くないですか」
言葉にしてから、先輩に聞かせるようなことではないと思った。
五条に腹を立てたいわけではなかった。彼が行けば終わる。それが分かっていて、それでも自分たちは行った。灰原を置いてくるわけにはいかず、連れて帰ってきても、もう何もできなかった。
夏油は答えなかった。
七海も、それ以上は言わなかった。
しばらくして、扉が開いた。
久世先輩だった。声をかけずに入ってきて、灰原のそばで立ち止まった。
顔を見ていた。
七海が思っていたより、長く。
「夜蛾先生は」
夏油が小声で答えた。灰原の家族への連絡をしていると。
久世は頷いた。
「七海君。今、少し話せる?」
七海は膝の上の手を見た。
もう一度同じ説明をするのかと思った。
「報告なら、先ほど」
「現場の話は、今は聞かない。君に渡された任務資料がどこにあるかだけ、教えてほしい」
「鞄にあります」
「借りていいかな。元の調査資料と見比べたい」
七海は顔を上げた。
「査定の間違いですか」
「そう聞いた。どこで違ったのか、知りたい」
「調べるんですか」
「調べられるところからね。東京校の資料を、僕の一存では触れないから」
そこで初めて、久世は夏油を見た。
「夜蛾先生の許可は取るよ。先に、原本を上へ戻さず置いてもらいたい」
「私から言っておきます」
「ありがとう」
久世がこちらへ向き直った。
七海は鞄を指した。久世は中を勝手に開けず、手元へ運んできた。
留め具に指をかけると、爪の際に残った血が見えた。
灰原の血だった。
紙を出すまで、久世は待っていた。
「この件、上と話をする材料にするんですか」
資料を渡す前に訊いた。
久世は紙から目を上げた。
「うん。そのつもりもある」
否定くらいはすると思っていた。
夏油が、わずかに久世の方を向いた。
「灰原が死んだから?」
「死人が出ても、何も変えずに済ませるつもりなら。そこは使うよ」
七海は紙の端を握った。
言い方を変えない男だった。こちらが何を嫌がっているのか、分かっていないはずはなかった。
「灰原もそれを望んでいるとか、言わないでください」
「言わない」
「あいつは、そういう話をしていません」
「うん」
久世は灰原を見なかった。
七海を見たまま、続けた。
「僕が変えたいからやる。それだけだよ」
納得したわけではなかった。
それでも、何も調べられず、殉職という言葉で終わるよりはよかった。
七海が手を離すと、久世は資料を受け取った。
「写しを取って返す。君も持っていた方がいい」
それから、足元の鞄を椅子の隣へ置いた。
「今、残したいものがあるなら書いておいて。途中でやめても、そのままでいい」
「はい」
「用紙、ここにあるかな」
「私が持ってくるよ」
夏油が扉の方へ歩いた。
久世は七海に会釈をして、その後に続こうとした。
「久世さん」
呼ぶと、振り返った。
「分かったことは、私にも教えてください」
「もちろん」
七海は、布の下にある灰原の手を見た。
「私が間違えたことも、あったなら」
久世はすぐに答えなかった。
なかったよ、と言わなかったことだけは、少し信用できた。
「分かった。そこも含めて」
久世が出ていった後、夏油が紙とペンを持って戻ってきた。
七海はそれを受け取ったが、すぐには書けなかった。
任務のことを思い返そうとすると、行きの車で菓子の袋を開けていた灰原が出てきた。着くまでに食べ終われよと言った。大丈夫だと答えて、七海にも袋を向けた。
要らないと断った。
それだけのことを、やけにはっきり覚えていた。
「書けそうかい」
夏油に訊かれて、七海は頷いた。
しかし、ペン先を紙につける前に口が動いた。
「あいつ、車に菓子を置いたままです」
夏油は黙ってこちらを見た。
「帰りに食べるって。だから、まだ」
そこで言葉が止まった。
取りに行ってほしかったわけではなかった。菓子の始末の話をしたかったわけでもない。
夏油は空いていた椅子を引いて、隣に座った。
「うん」
それだけ言った。
七海は紙を膝に置いたまま、しばらく灰原を見ていた。
*
硝子が夜蛾のところへ行くと、机の上に見覚えのない封筒が増えていた。
久世は椅子に座らず、脇に立っていた。電話を耳に当て、相手の話を聞いている。
「ええ。久世で保管している封印の記録と、照合が必要かもしれません。現地の信仰が絡んでいるなら」
硝子は手にしていた記録を夜蛾に渡した。
夜蛾は一枚ずつ確認し、低く礼を言った。
「七海は?」
「夏油がついてます。傷は塞いだ。今日はもう休ませる」
「分かっている」
久世の声が途切れた。
相手はまだ何か話しているらしかった。
「だから、こちらの封印が関わっていないと確認するために、資料を見たいと言っているんです」
いつもの声より、少しだけ硬かった。
「祓ったからもういい、では困ります。記録と違うなら、次に同じものを触る人間が判断できない。……はい。父には僕から話します」
電話を切ってから、久世は夜蛾に頭を下げた。
「調査時の資料は出してもらえそうです。今日中とは言ってもらえませんでしたが」
「助かる」
「ただ、今後の案件まで事前に回すかどうかは、別だそうです」
夜蛾が息を吐いた。
「そちらは俺からも話をする」
「お願いします。全部を久世で見ろと言われても無理なので、範囲を決めないと。祭祀や封印の記録がある土地だけでも、まず」
久世は手帳にいくつか書き足した。
硝子には、どこが通ってどこが断られたのかまでは分からなかった。
ただ、資料一枚貰うのにも、ずいぶん喋らなければいけないらしかった。
「家の仕事にしたの」
廊下へ出てから訊くと、久世は頷いた。
「その方が、僕が口を出す理由になる」
「本当に関係ある?」
「調べないと分からない」
「なくても調べさせるんだ」
「何もなければ、なかったと報告するよ」
悪びれずに言う。
硝子が見ると、久世は少し目を伏せた。
「間違えた人を一人見つけて、その人の不注意でした、で終わりそうだったから」
「そいつの不注意かもしれないじゃん」
「それはそれで、調べればいい。一人が見落としたら一人死ぬ仕組みは変えるべきだと思う」
久世は手元の資料を揃えた。
「照合を増やせば、手間も費用も増える。今までは要らなかったと言われるから、必要な証拠を持っていく」
硝子は、紙を揃える指を見た。
「灰原を?」
「うん」
返事は短かった。
廊下の奥で、電話が鳴った。
「……そのために死んだんじゃないけどね」
「うん。七海君にも言われた」
久世は口を閉じた。
何を言われたのか、硝子は聞かなかった。
医務室へ戻ると、五条がいた。
夏油と向かい合って立っていた。任務の話はもう済んだのか、二人とも喋っていなかった。
「終わったの」
「ああ」
五条はそれだけ答えた。
医務室の方を見ていた。普段よりずっと静かで、その顔を見るのが嫌だった。
「久世」
「うん」
「何が要る」
久世は少し考えた。
「現場に残っていたものと、事前の資料で違っていたところ。書面で残してもらえる?」
「それだけ?」
「今は。必要になったら、また頼む」
五条は机に置かれた紙を引き寄せた。
ペンが見つからず、硝子を見た。硝子は胸ポケットから一本抜いて渡した。
「壊すなよ」
「壊さねえよ」
いつもの返事だった。
その後は、紙の上をペンが走る音がした。
*
夏油が久世を呼び止めたのは、硝子が棚から新しいガーゼを取っているときだった。
「そうやって変えていけば、減るんですか」
何が、とは言わなかった。
久世も聞き返さなかった。
「今回の原因が分かれば、減らせるものはあると思う」
「思う、ですか」
「まだ調べてもいないことを、できるとは言えないよ」
夏油は黙った。
硝子はガーゼの包みを持ったまま、振り返った。
「……また、間に合わないかもしれませんね」
久世の手が止まった。
「そうだね」
夏油が顔を上げた。
しばらく二人は向かい合っていたが、久世はそれ以上、何も言わなかった。
やがて夏油が先に目を逸らした。
夏油は、医務室の奥へ戻っていった。
久世はその背中を見送ってから、電話を取り出した。
硝子には、それが逃げたようにも見えた。
ただ、呼び出し音が鳴り始めてからも、久世はしばらく夏油のいた方を見ていた。
灰原の顔についた血は、硝子が拭いた。
顎のところに少し残っていた。新しいガーゼを湿らせ、そこだけもう一度拭った。
夏油は向かい側に立っていた。
「硝子」
「何」
「何か、私も」
「そこの袋、開けて」
頼むと、夏油はすぐに手を伸ばした。
開け口を探す指が、一度滑った。
硝子は見ていないふりをした。
整えたところで、眠っているようには見えなかった。
灰原は寝ている間も、もっと血色がよかった。以前、ここで治療を受けた後、そのまま寝たことがある。起こしたら腹が減ったと言われた。
何を食わせたのだったか。
売店のパンだった気もするし、何もやらず食堂へ追い出した気もした。
「これでいい」
使ったガーゼを片づけた。
夏油は袋を持ったまま、灰原を見下ろしていた。
「ご家族、来るんだって」
「ああ」
「顔、見られるようにはしたから」
「……ありがとう」
礼を言われても、返す言葉がなかった。
その後、夜蛾が来た。
硝子と夏油に、少し外へ出ていろと言った。硝子は頷き、夏油は何か言いかけてから、同じように頷いた。
廊下へ出ると、久世が壁際に立っていた。
また電話をしていたが、今度はすぐ終わった。
「今度は何」
訊くと、久世は首を振った。
「古い記録を叔母に頼んだ。あの人の方が詳しい。僕は明日、夜蛾先生と話をする」
「もう帰れば」
「君は?」
「ここにいる」
久世は時計を見た。
もう夕食の時間は過ぎていた。
「何か食べた?」
「いらない」
「分かった」
食べた方がいいとは言わなかった。
硝子は医務室の扉を見た。夜蛾の声が、低く聞こえていた。
「煙草」
「うん」
久世が鞄を持ち直した。
昨日と同じ裏口から出て、昨日と同じ段差に座った。外はもう暗かった。昼間は鳴いていた蝉も、今は聞こえなかった。
火をつけて、吸った。
久世は少し離れて座った。硝子が何も言わないと、彼も喋らなかった。
「お前、灰原のことどう思ってた?」
煙草が半分ほどになったところで、訊いた。
久世はすぐには答えなかった。
「よく挨拶をしてくれる子だった」
「うん」
「遠くからでも、見つけると呼んでくれたね」
その声は、硝子にも思い出せた。
呼ばれた方より、隣にいる人間の方が驚くような声だった。
「僕が来ると、君がどこにいるか教えてくれた」
「聞かれなくても?」
「うん。一度、先に君を呼びに行ってしまって」
「ああ。あったね」
忙しいときだった。
久世さんが来ました、と言いにきた灰原に、知ってる、と返した。約束していたので、本当に知っていた。
そうだったんですね、と灰原は笑った。
硝子は煙を吐いた。
「あいつ、寝起きでも腹減ったって言うんだよ」
「そうなんだ」
久世は少しだけ口元を動かした。
笑おうとしたのかもしれなかった。
硝子は煙草を灰皿に押しつけた。
吸いきる前に消したので、先がうまく潰れなかった。もう一度押すと、久世の手が動きかけた。
その手が止まる。
硝子は火が消えたのを確かめた。
「今日、何も治してない気がする」
久世がこちらを見た。
「七海は治したんだけど」
言い直して、膝に肘をついた。
彼は何も言わなかった。治したでしょうとも、君のせいじゃないとも。
しばらくして、名前だけ呼ばれた。
「何」
「隣、もう少し詰めてもいい?」
硝子は頷いた。
久世が近くなった。肩が触れて、そこに重さを預けた。
「何か言えば」
「……何を言っても、今は邪魔になりそうで」
「普段は平気で喋るくせに」
「うん」
久世の手が、硝子の手に触れた。
今度は止めなかった。
握るというより、指の間を埋めるくらいの触り方だった。
廊下から足音が聞こえた。
硝子は顔を上げ、久世は手を離した。
足音は裏口を通り過ぎて、遠くなった。
硝子はもう一度、同じところへ頭を戻した。