夏油は階段を下りたところだった。
片手に封筒を持っている久世がいた。最近よく見る姿だった。
「夏油君。今、いいかな」
「硝子なら、医務室ですよ」
「うん。今日は君に」
封筒が差し出された。
任務の資料だった。
「何故、あなたが持っているんですか」
「補助監督に頼んだ。君へ渡す役を、僕に譲って貰った」
夏油は封を開けた。
山間の集落で起きている、失踪と変死。呪霊の存在は確認されているが、被害との関係には不明な点が多い。
写真に写っているのは、苔のついた石段と、古い家屋だった。
「灰原の件と、関係が?」
「いや。そちらは、まだ調査中だよ。七海君には昨日、途中までだけど話した」
久世は封筒からはみ出た一枚を指した。
「こっち」
「神隠しと、変死……ですか」
「君には元々、こちらの資料だけが渡される予定だった」
夏油は記録の続きを読んだ。
いつもの資料だ。なんの情報もない。呪霊と思われるから、行ってこい。それだけだった。
「次はこれ」
久世がもうひとつ手に持っていた資料を、夏油に渡す。
それはまとまりのない、聞き取りの記録だった。
「子供?」
「調査に行った人が言うには、ね」
夏油は資料へと目を戻す。
村内にいる子供について、住民が呪いとの関連を疑っている。
子供の話を持ち出すと、住民の態度が変わった。案内を断られた。以降の調査は、術師の同行を要する。
「神隠しなら特級案件なのもわかる。でもこれは違うんだ」
「……どういうことですか」
夏油は顔を上げた。
「呪霊だけ祓って帰るには、後味の悪いもの」
思い当たるものは、いくつかあった。
死んだ人間のことを、もっともらしい理由をつけて悪く言う家族。被害が出ているのに土地を手放したがらず、後から来た者にだけ危険を押しつける人間。
呪霊を取り込んだ後も、帰り道で顔を思い出すことがあった。
「君の渡してくれた、変だと思った任務のまとめ、役に立ったよ。担当を決めるところに、同じ家の口添えが続いていた」
久世は声を少し落とした。
「非術師の家から出た呪術師は、呪術師と認めたくないらしい。夏油くんは特級だ。嫌がらせのつもりなのかもしれないね」
夏油は資料に目を戻した。
呪術師にも、嫌な人間はいる。
知っていた。それを知らないほど、ここで過ごした時間は短くなかった。
「……これは断った方がいいんですか」
「断るなら、僕から話を通すよ。行くなら、止めない」
「どちらを勧めているんです」
久世は夏油へと視線を向けた。
「僕は、君に選べるようになって欲しいんだ」
「先輩は、これを読んだ上で私が断れると思ってるんですか」
「思わないかな」
久世は少し困ったように笑ったが、目はそらさなかった。
「この任務は君向けだと思ってる。強い呪霊、子供、大人への対応。全てに対応できる呪術師は希少だからね」
「じゃあ何を選べと」
「君が受けると決めた任務として、行ってほしいんだよ」
夏油は封筒の端を指で押さえた。
「結果は同じでしょう」
「君が行くことはね」
同じではないのだろう。
久世が言いたいことは分かった。
分かったところで、断れるようにはならなかった。
「……行きます」
資料を封筒に戻した。
「現場を見ないことには、私にも分からないので」
「うん」
久世は頷いた。
「何かあったら、まず連絡して。対人の話が拗れたら、こっちでも引き取れる」
「全部、あなたに押しつけても?」
「全部は困るな。僕も暇じゃないからね」
夏油は僅かに口元を動かした。
久世はそれを見てから、廊下の端へ避けた。
*
呪霊への対処は、長くはかからなかった。
村から少し離れた沢にいた。被害が出ていた場所とも、残穢とも辻褄が合った。
取り込んだものを飲み下して、夏油は一度だけ目を閉じた。
案内の男が、終わったのかと聞いた。
「ええ。こちらは」
返事をして、水を飲んだ。
口の中に残る味は、流れなかった。
「子供の件も聞いています。会わせてください」
男は夏油を見た。
それから、連絡が行っていたのか、と言った。
連れていかれたのは、家屋の裏手にある小屋だった。
入り口には錠が下りていた。男が鍵を探す間、中で何かが動く音がした。
動物がいるのだと思った。
扉が開いてから、その考えがひどく不快になった。
二人いた。
格子の向こうで、身を寄せ合っていた。
同じくらいの背丈で、どちらも酷く痩せていた。短い髪の子が前に出て、もう一人を背中へ隠そうとした。
夏油は敷居を跨がなかった。
立ち止まったまま、男を見た。
「ここに、住ませているんですか」
「仕方がないんです。何をするか分からんので」
後ろから、年配の女が来た。
男と同じ説明をした。この二人がおかしな力で村の人間を脅かす。近くにいると悪いことが起こる。両親も同じだった。
「今回の被害を出していた呪霊は、処理しました」
夏油は言った。
「この子たちが原因だと判断したのは、何故です」
「だから、起こる前から分かるんですよ。この二人は」
「そこに何かいると、言ったんですか」
「そうやって脅すんです」
女が頷いた。
夏油は子供たちを見た。
目の下に痣があった。腕にも、乾いた傷がいくつか見えた。
「見えていたんだね」
問いかけると、長い髪の子が僅かに顔を上げた。
短い髪の子が、その前に出直した。
「こっちに来ないで」
夏油は頷いた。
その場にしゃがんだ。格子までには、まだ距離があった。
「私にも見える。沢にいたものは、もういないよ」
二人が、互いの顔を見た。
それだけで、後ろにいた女の声が大きくなった。
「ほら、知ってるでしょう。やっぱりこの二人が」
「知っていることと、起こしたことは違います」
口にしてから、廊下で聞いた声が思い出された。
夏油は男に向き直った。
「生まれつき、そういうものを見られる人間がいます。この子たちも、そうなのでしょう」
「だったら、何故止めなかったんです」
夏油は黙った。
「見えていたんでしょう。人が死んでるんですよ」
男の声には、取り繕ったところがなかった。
自分が何を言ったかも、分かっていない顔だった。
短い髪の子が、格子を掴んだ。
「行くなって、言った!」
女がそちらを見た。
「あそこには行かない方がいいって、美々子が」
「口を閉じなさい」
女が壁に立てかけてあった棒を取った。
長い髪の子が顔を伏せた。短い髪の子は動かなかった。格子を掴んでいた指だけが、急いで引っ込んだ。
夏油は立ち上がった。
「置いてください」
「余所の方には分からないんです。この子たちは」
「それを、置け」
女の動きが止まった。
夏油は、もう一度言うつもりだった。
その前に男が、小屋の内側へ手を伸ばした。
足元から、呪霊が伸びた。
男が壁にぶつかり、そのまま崩れ落ちた。
女が叫んだ。
止める時間はあった。
女に向き直るまでの間に。
夏油は止めなかった。
棒が床に落ちた。
それから、声も途絶えた。
子供が、夏油を見ていた。
さっきまで男と女に向けていたのと、同じ目に見えた。
夏油は口を閉じた。
「……鍵を、開けるよ」
声をかけてから、男の落とした鍵を拾った。
うまく合わず、二つ試した。
金具の音がするたび、長い髪の子の肩が動いた。
扉を開けて、夏油は脇へ退いた。
二人とも出てこなかった。
「ここから、出たい?」
短い髪の子が夏油を見た。
足元へ目を落とし、もう一度こちらを見た。
「……出たら、どこに行くの」
夏油は答えようとして、止まった。
呪霊は祓った。二人を閉じ込めていた人間は死んだ。扉も開いている。
それで、この子たちがどこへ行けばいいのか。
自分がここに残ることも考えた。
集まっている人間を見た。
誰とも、目が合わなかった。
「東京に、私の通っている学校がある」
夏油は言った。
「君たちと同じものが見える人間がいる。怪我を治せる人も」
「……そこも、こういうのがある?」
少女の目が、格子へ動いた。
「部屋に鍵はあるけど、内側から開くよ」
答えると、少女は後ろを振り返った。
二人で何かを話した。夏油には聞こえなかった。
聞こえる位置まで近づこうとは、思わなかった。
やがて、短い髪の子が立った。
もう一人の手を、両手で引いた。
*
電話に出た久世は、夏油の名を呼んだ。
「どうだった?」
声が、いつもと同じだった。
夏油は二人を見た。小屋から離れた石段に座っていた。自分が渡した上着を、二人の膝に掛けている。
「子供がいました」
「うん」
「二人です。閉じ込められて、殴られていた。呪力はあります」
久世が少し黙った。
「二人か。怪我は?」
「あります。硝子に診てもらいたい」
「動かせる?」
「自分で歩けています。……高専へ連れて帰りたいんです」
言うと、向こうで何かを閉じる音がした。
「分かった。夜蛾先生と家入さんに話す」
夏油は携帯を握り直した。
「それと」
「うん」
「村の人間を、二人殺しました」
久世の返事が止まった。
石段に座っていた子供の一人が、こちらを見た。夏油は少し向きを変えた。
「……君が?」
「はい」
「誰を」
「この子たちを閉じ込めていた人間です。目の前でも、殴ろうとした」
言ってから、夏油は目を閉じた。
「止めるだけなら、できました」
久世は何も挟まなかった。
「できたのに、殺しました」
今度は、自分から話を続けられなかった。
電話の向こうで、久世が息を吐いた。
「今、他に怪我をしている人はいる?」
「いません」
「これから殺すつもりの人は」
夏油は小屋の方を見た。
人影が引っ込んだ。
「……今は、ありません」
「分かった」
久世は、その返事を受け取った。
「子供たちを連れて帰って。こちらに着いたら、もう少し話を聞く」
「帰って、いいんですか」
「君は帰りたい?」
夏油は目を開けた。
石段に座った二人が、こちらを見ていた。
「帰りたいです」
「うん。じゃあ、帰っておいで」
*
車の中で、名前を聞いた。
菜々子と、美々子。
菜々子が二人分答えてから、美々子が、小さく自分の名前を繰り返した。
「私は夏油傑」
名乗るのが、ずいぶん遅くなってしまった。
二人はその名前を、声に出しては呼ばなかった。
車が大きく揺れると、菜々子が美々子の手を握った。
窓の外を見ていた。村から離れる間は何度か後ろを振り返ったが、道路が広くなってからは、ずっと前を見ていた。
高専に着いた頃には、日が落ちかけていた。
久世が外で待っていた。
「おかえり」
夏油は車から降りた。
続いて降りようとした菜々子が、久世を見て止まった。
「……この人も?」
「見える人だよ」
答えると、久世は一歩下がった。
「久世です。中に、怪我を診てくれる人がいるから」
軽く笑って、それ以上は近づかなかった。
菜々子が先に降り、美々子へ手を伸ばした。
久世は二人の足元を見た。
夏油もそこで、二人が同じように爪先を庇って歩いていることに気づいた。
「家入さんは医務室にいる。先に行って」
「あなたは」
「夜蛾先生に、着いたって知らせてくる」
久世は廊下の先へ歩いていった。
夏油は二人に、ゆっくりでいいと声をかけた。
医務室には、いつもより低い椅子が置かれていた。
硝子が机から顔を上げた。
「こっち」
二人が夏油を見た。
「家入。さっき話した、怪我を治せる人」
「家入硝子。どっちからにする?」
硝子は二人に訊いた。
菜々子が美々子を見て、その腕を少し引いた。
「美々子から」
「分かった。そこ座って。痛いところ、触る前に言って」
美々子は椅子へ近づいたが、座らなかった。
硝子が待った。
夏油の方を見ているのだと気づいたのは、少し後だった。
「ここにいるよ」
壁際の椅子に座ると、美々子もようやく腰を下ろした。
硝子は、まず顔の傷を見た。
診るために顎へ触れると、美々子の背中が硬くなった。
「上向ける?」
硝子は手を離した。
美々子が自分で顔を上げるまで、待った。
夏油は、膝の上で指を組んだ。
美々子は顎を上げたまま、硝子の手を目で追っていた。
菜々子がその隣で、美々子の足に自分の足をくっつけていた。
*
久世に呼ばれたのは、二人の治療が済んでからだった。
隣の部屋までだと伝えると、菜々子が頷いた。
「ちゃんと戻ってくる?」
「戻るよ」
硝子は何も言わず、夏油を送り出した。
久世は空き教室で待っていた。
机に置かれた紙を見て、夏油はまた報告書かと思った。
違った。
部屋の使用についての申請だった。
「一週間は、ここに置ける。夜蛾先生から許可をもらった」
久世が言った。
「その先は、二人の状態と、他に身寄りがあるかも調べてからになる。君に聞いておきたいんだけど」
「はい」
「今夜、二人の近くにいてもらえるかな。知らない人間ばかりだと、落ち着かないと思う」
「そのつもりです」
「ありがとう」
夏油は椅子に座った。
座るように言われたわけではなかった。立っているのが、急に面倒になった。
「私が人を殺したのも、許可取ったんですか?」
久世は紙を置いた。
「許可は取ってない。取るつもりもない」
「止められたのに、殺したんですよ」
「うん。知っててやってる」
夏油は久世を見た。
「危なくなったら、あなたが止めてくれるわけではなかった」
「僕はそんな役目を負ったつもりはないよ。責任を押し付けようとするな」
夏油は口を閉じた。
「……今の言い方は、悪かった」
先に謝ったのは久世だった。
「君が危うい状態だとは思っていた。それでも、行かせたのは僕だ。君がここに戻ってこれる状態にまで戻すのは僕の責任だと思ってるよ」
「先輩が勝手に決めた責任でしょう」
「そうだね。僕がそうしたいから勝手に背負ってる」
夏油は机の角を見た。
あのとき、呪霊を止めなかったのは自分だった。
久世から連絡が来るかもしれないとも、後で咎められるかもしれないとも、考えていなかった。
久世はそれ以上、何も言わなかった。
村で起きたことを、初めから話した。
呪霊のいた場所。小屋の中。男と女が言ったこと。子供たちが言ったこと。
久世は何度か、位置や順番を確かめた。
夏油が二人を殺したところでも、声の調子は変わらなかった。
「残った人間も、殺そうと思いました」
最後に、そう言った。
久世のペンが止まった。
「どうして、やめたの?」
夏油は答えを探した。
子供たちを連れ出さなければならなかったから、と言おうとして、それだけではないと思った。
全員を殺してからでも、連れ出すことはできた。
「二人が、私を見ていました」
久世は黙って聞いていた。
「私も怖かったんだと、思います」
「子供たちが?」
「はい。私は助けるつもりでいたのに、あの人たちを見るのと、同じ目で見ていた」
話しているうちに、小屋の中の匂いが戻ってきた。
「だから善い人間になろうとした、とか。そういうことでもなくて」
「うん」
「何をするか、先に言った方がいいと思った。急に近づかない方がいいとか。……その辺りから、村の人間のことを、あまり考えなくなった」
久世はペンを置いた。
「分かった」
よかったねとも、それでいいとも言わなかった。
紙を揃えて、封筒に入れた。
「村への対応は、こっちで引き受ける。東京校から出す報告は、夜蛾先生とも話す。君の説明が要るところは、また聞くよ」
「……任務の事故にするんですか」
「そうだね」
久世は考え込むように手を組んだ。
「……野良呪霊が殺したことにする。君は助けられなかっただけだ。助ける余裕がなかったことを、呪術師の心理的耐性の問題と結びつけたい」
夏油は久世を見た。
久世も目をそらさなかった。
「君のこと使うけどいい?」
その言葉を、どう受け取ればいいのかは分からなかった。
「……それで、私は何もなかったことになるんですか」
「表向きはね。君を呪詛師にするメリットなんてないし、君のことを嫌いなやつを付け上がらせるだけだ」
「先輩は、私が呪詛師じゃないと思ってるんですか」
久世は、少し気を抜くように笑った。
「呪詛師になりたいの? 」
夏油は何も言えなかった。
久世も決めてやらなかった。
「僕的には夏油くんには呪術師でいてもらった方が嬉しいけどね。今後が楽だから」
夏油の動きが止まる。
「……私が人を殺したことより、先輩の都合ですか」
「僕は僕の都合で話してる。君も、君の都合で話せばいい」
久世がまた、笑った。
「君は、どうしたい?」
夏油が椅子から立った。
扉へ向かってから、振り返る。
「久世さん」
「うん?」
「部屋、ありがとうございます」
久世は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
*
戻ると、硝子がこちらを見た。
「遅い」
「ごめん」
謝ると、それ以上は言われなかった。
美々子の顔からは痣が消えていた。足も、もう庇わずに歩いている。
ただ、廊下で大きな音がすると、二人とも同じように肩を縮めた。
「部屋、こっち」
硝子が先に歩いた。
空いていた部屋に、布団が二組並べてあった。新しい歯ブラシとタオルが置かれていた。
「二人、一緒でよかった?」
硝子が訊くと、菜々子がすぐに頷いた。
美々子も頷いた。
「じゃ、ここ使って。具合悪くなったら、夏油に言って」
硝子は夏油を見た。
「お前の分、隣に敷いてもらってるから」
「ありがとう」
「飯は後で来る。食べられそうなら、一緒に食べて」
夏油が頷くと、硝子は部屋を出ていった。
扉は閉めずに残していった。
菜々子が、入り口の辺りを見ていた。
夏油は少し待ってから、襖を指した。
「閉めてみる?」
菜々子は立ち上がった。
襖を少し動かして、元へ戻した。
もう一度動かし、今度は閉めきってから、自分で開けた。
「……鍵、ない」
「この部屋にはないね」
菜々子は美々子を見た。
美々子が布団の端に座った。
夏油は入口のそばに腰を下ろした。
二人が布団へ上がるまで、鞄を開くのは待った。
携帯には、久世から短い連絡が来ていた。明日、もう一度話せる時間を取ってほしい、と。
元々入っていた明日の予定は、思い出せなかった。
確認しようとすると、菜々子に呼ばれた。
「ねえ」
「何だい」
「ここから出るとき、言って」
夏油は携帯を閉じた。
「勝手に、いなくならないで」
美々子もこちらを見ていた。
夏油は二人に頷いた。
「分かった。出る前に、必ず言うよ」
菜々子が布団に座り直した。
美々子と肩を並べて、まだこちらを見ていた。
夏油は携帯を鞄にしまった。
廊下の向こうから、食器の触れ合う音がした。菜々子が顔を上げ、美々子も同じ方を向いた。
夏油も、二人と一緒に待った。