夏油は、自分の両親の話をされているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「ご家族へも、いずれご挨拶に伺えればと」
京都から来た連絡役の男は、そう言って薄い封筒を差し出した。
受け取りかけた手を、夏油は止めた。
「……すみません。何のご挨拶でしょうか」
「今後のお付き合いについて、一度お話を。ご両親も、ご子息がどういった方々と関わっていくのか、お知りになりたいでしょう」
「先日のお話は、お断りしたはずですが」
「ええ。それは承っております」
男は少しも困らなかった。
応接用の低い机には、既に別の書類が何枚か並んでいる。来月の合同訓練、貸し出していた呪具の返却、補助監督の手配。男が夜蛾に届けに来た用件はそちらで、夏油が呼ばれたのは話が終わる間際だった。
断りの返事は確かに先方へ届いていた。夜蛾も確認している。だから夏油は、ありがとうございました、と言いに来たつもりだった。
「ご縁談だけがお付き合いではございませんから。来月には若い術師の方々をお招きする席もありましてね」
差し出された封筒は、机の上へ置かれた。
宛名はない。
「五条様と久世様の間でも、今後は交流を深めていこうというお話があるそうですし」
「悟と?」
口から、いつもの呼び方が出た。
男の目が、ほんの少し細くなる。
「ええ。久世のご子息が、こちらへ足繁く通っておられるとうかがっております」
夏油は夜蛾を見た。
夜蛾は男の持ってきた書類を揃えていた。手を止め、机に置かれた封筒を見る。
「その話は誰からだ」
「京都の方で」
「誰が、五条が望んだと言った」
男は、そこで初めて言葉を選ぶように口を閉じた。
「……そこまでは、私も」
「出所を確認してくれ。生徒個人の返事が欲しいなら、本人に聞け。家族へ先に話を持っていく必要はない」
「もちろん、ご本人のお気持ちは尊重いたします。ただ、ご家庭によっては、この界隈のことはなかなか——」
「必要な説明は、入学時にしてある」
夜蛾の声は大きくなかった。
男は短く頭を下げた。承知いたしました、と言い、封筒を鞄へ戻す。
夏油は、その手元を見ていた。
知らない男が、自分の家へ行こうとしていた。
家に電話をかければ、母か父が出る。学校で世話になっている人だと名乗れば、きっと話を聞くだろう。相手は夏油の名前を知っていて、学校の内情も知っていて、自分たちには分からないことを丁寧に説明してくれるのだから。
その場に夏油がいなければ、何がどう決まるのか。
「家族に、お会いいただく必要はありません」
自分でも思ったより硬い声になった。
「学校でのことは、私から話します」
男は夏油へ向き直り、先ほどと同じ丁寧さで頷いた。
怒った顔も、気分を害した顔もしなかった。
それが、かえって気持ち悪かった。
*
「何それ。傑んちに?」
教室へ戻って話すと、五条は机に乗せていた足を片方だけ下ろした。
「来させんなよ。長いぞ、あいつら」
「長いとか、そういう話じゃなくて」
「住所、教えた?」
「教えるわけないだろ」
「じゃ、しばらく大丈夫じゃね」
しばらく、という言葉が引っかかった。
夏油が眉を寄せると、隣で頬杖をついていた硝子が、だるそうに口を開く。
「何。勝手に調べて来るってこと?」
「来る奴は来るだろ」
「嫌すぎる」
「夜蛾先生が止めてくれたよ」
言ってから、夏油は鞄からノートを出した。授業はもう終わっている。机の上に何か置くものが欲しかっただけだと、自分で分かっていた。
五条が、下ろしていた足も机へ戻す。
「なら平気だろ」
「……悟は、あの先輩と何か約束した?」
「誰」
「久世先輩。これから交流を深める、とか」
「は?」
五条の顔が、初めて変わった。
嫌そうというより、何か妙なものを見つけた時の顔だった。サングラスをずらし、夏油を見る。
「誰がそんなこと言ってんの」
「さっきの人。京都で聞いたって」
「へえ」
五条は制服のポケットから携帯を取り出した。
折り畳まれたそれを片手で開き、ボタンを何度か押す。指の動きに迷いがなかった。
「どうするんだい」
「聞く」
呼び出し音は二度で止まった。
「俺。今、久世んちの奴がこっち来てんの、そっちで何て話になってる?」
硝子が目だけを動かした。
夏油も、ノートから手を離す。
「そう、それ。京都の二年。……違う違う。親父の方じゃなくて」
五条が笑った。
あまり感じのよくない笑い方だった。
「俺が? いつ言ったよ、そんなの」
電話の向こうの声は聞こえなかった。
「顔は知ってる。話もした。そこまで。俺が来いって呼んだこと、一回もねえから」
椅子が後ろへ傾く。
夏油は、いつもの癖で倒れるぞと言いかけて、やめた。
「うん。そう伝えといて。——いや、そこはそのまま言えよ。俺が呼んだわけじゃない。頼んでもない。変な言葉足すな」
電話が切れた。
「何の話になってたんだ?」
「俺が久世んちの封印術に興味持って、あいつ呼びつけてるって」
「持ってるのか」
「見りゃ分かんじゃん」
夏油は一瞬黙った。
あの先輩が飲み込んでいるものを、五条は見ただけで指摘した。確かに、あれをした本人にとっては、分からないから習いに来てもらう、という話にはならないのだろう。
しかし夏油には、見れば分かることであっても、それを使う人間から聞く話は別にあるように思えた。
何か言う前に、硝子が鼻で笑った。
「菓子食ってただけのくせに」
「だよな。俺があいつの話、聞きたそうにしてた?」
「失礼ではあったよ」
「じゃあ伝わってんじゃん」
五条が携帯を畳む。
夏油はその手を見ながら、先ほどの男を思い出した。丁寧に頷き、封筒を引っ込めた男。あれだけ言えば、もう家へは行かないだろうと思っていた。
自分の返事がどう伝わったのか、夏油には確かめる相手も分からない。
五条は、知っている。
「それで、先輩が来なくなったりはしないのか」
「さあ」
「悟」
「来たいの、あいつじゃん」
五条は机から足を下ろした。
「自分で何とかすんだろ」
その顔は、少し楽しそうだった。
*
久世が現れたのは、その一時間ほど後だった。
夏油と五条は、訓練場から戻るところだった。五条が首にかけていたタオルを外し、夏油の肩へ引っかけようとする。避けたところで、渡り廊下の向こうから声がした。
「五条くん」
久世は笑っていた。
夏油は、その顔を見てすぐ、あまり機嫌がよくないのだと分かった。医務室にいた時は、もう少し目元まで動いていた。
「君、何を言ったのかな」
「俺は呼んでないって」
「……そう」
久世は足を止めた。
「新幹線を降りたら、家から連絡が来たよ。来週の東京行きは一度取り消し。今日も、残っている用事を済ませたらすぐ戻るように、と」
「残ってる用事あんの?」
「あったから来てるんだよ」
「じゃ、済ませて帰れば」
五条が笑う。
久世は返事をせず、畳んだ書類を鞄へ押し込んだ。紙の端が内側の布に引っかかった。入れ直す指に、少し力がこもる。
夏油は、声をかけるべきか迷った。
五条がこういう顔をする時に口を挟むと、大抵は余計に面白がる。しかし目の前の先輩を放っておけば、何もなかったように通り過ぎられる気もしなかった。
「先輩。悟が先輩を呼んでいる、という話になっていたそうですが」
「そう聞いてるよ」
「どうしてですか」
久世が夏油を見る。
「五条くんから術式について質問を受けたことは、こちらでも話したからね。今後も東京へ行く機会が欲しい、とも」
「あれ質問じゃねえよ。硝子に触らせんなって言ってたんだろ」
「うん。そういう話だったね」
「分かってんじゃん」
五条の声が、少し低くなった。
「で、俺が来いって言ったことになってんの、知ってた?」
「君から声をかけられていると思っている人がいることは、知ってたよ」
「直さなかったわけ」
「僕には、直す理由がなかった」
夏油は久世の顔を見た。
言い間違いをした様子はなかった。五条の反応を見ながらも、その言葉を取り消そうとはしない。
「君が呼んでいることになっていれば、僕が東京へ通っても、止めにくい人がいるんだよ。分かるだろう」
「分かるよ。だから直した」
五条はタオルを肩へ戻した。
久世の笑顔が消えた。
怒鳴りもしなかったし、睨むほど目を細めることもしなかった。ただ、表情を整える手間をやめたように見えた。
「……手間が増えるな」
「知らねえ」
「知ろうとしない、の間違いじゃないかな」
「俺がいつ頼んだんだよ。その手間」
久世は黙った。
渡り廊下の屋根から、乾いた葉が一枚落ちた。
五条はそれを避けもせず、頭の少し上で止まった葉を指先で弾いた。夏油の方へ飛んできたので、肩をずらす。
久世は葉の行方を見ていなかった。
「君が一言訂正する前に、どこへ話を通せば予定を崩さずに済むか、こちらにはこちらの順番があったんだよ」
「その前に俺に聞く順番はなかったわけ?」
今度は、久世が息を吐いた。
夏油は、二人とも相手の言い分は分かっているのではないかと思った。
五条は、先輩が困ると分かっていて電話をした。
久世も、五条がこの扱いを喜ぶと思っていたようには見えない。それでも、訂正はしなかった。
その上で、相手の方に動いてほしいのだ。
「先輩」
夏油が呼ぶと、久世は顔を向けた。
「今日、うちの両親へ挨拶に行きたいと言ってきた人がいます。五条と久世家の交流がどうとかいう話に、私まで入っていました」
「……君のご両親に?」
「ええ」
「誰が」
夏油は男の役目と、夜蛾へ書類を届けに来ていたことを説明した。久世は口を挟まずに聞いていたが、招待の席の話になると、もういいというように小さく頷いた。
「その席を設ける家は分かった。君のご実家へ行こうとしたことは、今聞いたよ」
「先輩も、普通のことだと思うんですか」
「珍しくはないね。本人より先に親と話がつけば、その方が早いから」
「何が早いんです」
「子供の将来を心配している親に、安心できる相手だと思ってもらうこと。それで本人が断りづらくなるなら、そちらから行くよ」
久世の声に、特別な感情はなかった。
「僕の母も、そういう話を信じやすい方だね」
自分の家のことまで同じ調子で付け足されて、夏油は返事に詰まった。
酷いやり方だと言えば、頷くかもしれない。しかし久世にとっては、酷いからなくなる話でも、今初めて顔をしかめる話でもないらしかった。
「……夜蛾先生が、止めてくれました」
「相手は引いた?」
「その場では」
「なら、この件は先生に任せよう。こちらからも何人も口を出すと、話を持っていく先が増える」
夏油は久世を見た。
「僕が連絡を取れば安心する?」
少しだけ、笑顔が戻った。
「……いえ」
夏油は答えた。
任せればどうにかしてくれそうだとは思った。それでも、ここで頼めば、次にこの男が誰かへ何を言うのか、自分には見えない。
久世は、そう、と頷いた。
「その方がいいと思うよ。先生を頼れるうちは、先生に聞くといい」
突き放された声ではなかった。
それなのに夏油は、何かを試されて返事を終えたような、少し不愉快な気分になった。
「最初から、それでよかったんじゃないですか」
「君のことはね」
久世が、五条を見る。
「こちらは、それだけでは済まないから」
「俺、済んだけど」
「そうだね。君はね」
五条が歯を見せて笑った。
「俺の名前、便利だろ」
「とても」
「使いたきゃ、今度は先に俺へ言えよ」
「言ったら考えてくれるのかな」
「その時の気分」
「……ああ、そう」
久世が時計を見た。
夏油にはその一瞬で、会話の何かが終わったと分かった。納得した顔ではなかった。ただ、これ以上ここに時間を使わないことにしたのだろう。
「夜蛾先生は職員室?」
「今は、たぶん」
「ありがとう」
久世は二人の横を通り過ぎた。
五条は追わなかった。
夏油は数歩進んだ背中に、もう一度声をかけた。
「先輩。来週は、何をしに来る予定だったんですか」
久世が振り返った。
「表向きの話?」
「……どちらでも」
「家入さんに会いたかったんだよ」
それだけは、夏油にも予想できた答えだった。
久世は少し肩を竦め、今度こそ歩いていった。
*
「あいつ、絶対また来るな」
五条が言った。
「来なくしたかったんじゃないのか」
「俺が呼んだことになってんのが嫌だっただけ」
夏油は、久世の消えた廊下の角を見た。
「……怒ってたね」
「怒るだろ。あんだけ準備してたみたいだし」
「分かってるなら、もう少し言い方が」
「傑は、あいつに勝手に使われてもいいの?」
「よくないよ」
「じゃ、いいじゃん」
夏油は五条の横顔を見た。
こういう時、五条の言い方に頷いてしまうと、その前にしていたことまで全部よかったことになる気がして嫌だった。相手の失敗を見つけたからといって、面白がって踏んでいいとは思わない。
しかし今、自分が久世に対して感じている苛立ちの一部は、五条のその一言で片づくものでもあった。
「……あの先輩、人の話は聞くね」
「聞いても使うじゃん」
「だから、安心できないんだろ」
「じゃあ、話さなきゃいい」
夏油は返事をしなかった。
聞きたいことはあった。
夜蛾へ聞けば済むことも多いのだろう。それでも、自分と二つしか年の違わない人間が、どうしてああいう話し方をするのかは、夜蛾へ聞いても分からないような気がした。
五条が、今度こそタオルを夏油の肩へ引っかけた。
「洗っといて」
「自分で洗え」
夏油はタオルを丸め、五条の胸元へ突き返した。
「ケチ」
「何とでも言え」
五条は笑いながら、自分のタオルを受け取った。
*
硝子が職員室へ行くと、久世が夜蛾の机の前にいた。
「東京へ来る口実を、今度は俺に作れということか」
「仕事はします」
「頼むと決めたわけじゃない」
帰ろうか、と硝子は思った。
聞きに来たのは、今夜、任務から戻る上級生がいるかどうかだ。待っていなければならないなら、夕食を先に済ませたい。途中で呼ばれると、戻った頃には大体冷めている。
しかし、足を引く前に夜蛾が顔を上げた。
「家入。どうした」
用件を伝えると、夜蛾は予定表を見た。
「今夜は帰還の予定はない。変わったら連絡する」
「分かった」
それで済んだ。
済んだのに、久世がこちらを見ているので、硝子は扉の横に立ったまま、少し首を傾げた。
「お前、何してんの」
「仕事の相談」
「五条と揉めたって聞いたけど」
「話が早いね」
「あいつ、楽しそうに喋ってた」
「だろうね」
声が少し低かった。
硝子は久世の顔を見る。
怒っているところを見に来たわけではない。五条が、自分の名前を勝手に使われたと言っていたので、何かしたのかとは思っていた。それでも、ここへ来たらもう帰っているものだと、何となく考えていた。
机の上には、久世が広げたらしい紙があった。
夜蛾が指で、その端を押さえている。
「この保管箱は、久世の方へ既に修繕を頼んである」
「ええ。先日お持ちした点検の報告にも、その旨がありました。まだ作業日が決まっていませんよね」
「担当を寄越すという返事までだ」
「日程を決めていただければ、僕を回すよう家の方へ話します」
「お前ができるのか」
「同じ型のものは扱っています。こちらが予定している交換用の封材も使えます」
久世は鞄から手帳を出した。
開いたページには、細かい字が詰まっていた。硝子には読めなかったが、夜蛾はそこを一度見て、久世へ返す。
「技術の確認は、お前の家へする。京都にも話を通す。授業と任務を勝手に空けるなよ」
「もちろんです」
「仕事が終わらなければ、そちらを優先しろ」
「分かっています」
久世の返事が、やけに素直だった。
夜蛾は書類を自分の側へ引いた。
「決まり次第、連絡する」
「ありがとうございます」
綺麗に頭を下げる。
顔を上げた久世は、先ほどより明らかに機嫌がよかった。職員室を出てくる時には、歩く速さまで少し変わっていた。
硝子は隣へ来た男を見上げる。
「その仕事、お前がやる予定じゃなかったんだろ」
「うん。担当を決める人のところで止まってた」
「じゃあ、仕事増やしたの」
「僕の分はね」
久世が鞄を持ち直す。
「五条くんの相手をする、という話なら、その間は他の人に回してもらえたんだけど。そういうわけにもいかなくなったから」
「自分でやって来ることにしたわけ」
「仕事として依頼が来れば、日程を確保できるからね。これなら、僕が勝手に五条家へ近づいているという話もされにくい」
硝子は廊下の先を見た。
教室へ行くにも、医務室へ行くにも、この廊下を通る。自分は入学してから、誰の家に近づくつもりで歩いているかなど、聞かれたことがなかった。
京都から来るだけで、そんな話になるらしい。
「家入さん」
「何」
「この後、少し時間ある?」
「夕飯食いに行く」
「ああ。……そっか」
「お前は?」
「もう戻らないと」
久世は時計を見た。
なら、何のために聞いたのか。
硝子が眉を寄せると、久世はそれを見て、少し笑った。
「帰る前に、ちょっと話せたらと思っただけ」
「話してるじゃん」
「うん」
その返事だけ、声が柔らかかった。
硝子は何となく顔を逸らし、階段へ足を向けた。
「じゃあな」
「またね」
階段を下りかけてから、硝子は一度振り返った。
久世はもう携帯を開いていた。
「僕です。来週の件で、変更をお願いしたいんですが」
丁寧な声だった。
先ほど自分へ返事をした声とは、少し違った。
*
翌週、久世は本当に保管箱を直しに来た。
硝子がそのことを知ったのは昼過ぎだった。食堂で五条が、今日は何しに来たの、と声をかけに行き、作業があるからと断られた話をした。
「へえ」
「硝子はって聞かれたから、知んね、って言っといた」
「さっきまで一緒に授業受けてただろ」
「今、どこかは知らなかったし」
夏油は五条の話に呆れていたが、途中で少し考える顔になった。
「午後も作業してるのかな」
「行ってくりゃいいじゃん」
「邪魔はしたくないよ」
「お前、そういうの好きだよな」
「何が?」
「めんどくさい話」
夏油は、箸を持ったまま五条を見た。
「普段から悟の相手をしているせいかな」
「慣れた?」
「忍耐はついたね」
硝子は二人を置いて先に食堂を出た。
今日は授業の残りも、呼ばれる予定もない。部屋へ戻って本を読むつもりだったが、廊下の窓から、校舎の裏手に人がいるのが見えた。
袖をまくった久世が、台車の脇で、職員の男と話している。
木の箱が二つ。
片方の蓋には、白い紙が何枚か、帯のように貼られていた。もう片方は開いたままで、中を指して何か説明している。
久世が男の手元を見て、首を横に振った。
男は手を引っ込めた。
声までは聞こえない。
硝子は少しだけ足を止めてから、窓の前を通り過ぎた。
*
夕方、医務室へ本を取りに寄ると、扉の横に久世がいた。
入らずに立っていたので、硝子は足を止めた。
「何してんの」
「待ってた」
「私が来なかったら?」
「その時は帰るよ」
当たり前のように言った。
硝子は扉を開ける。
自分が戻らなければ、仕事だけして帰ることになっていたのだろう。それを思うと、先ほど廊下から見かけた姿が、少しだけ違うものに見えた。
頼まれて、箱を直しに来た人。
そう聞けば、それで納得していたはずだった。
「終わったの」
「うん。先生への報告も済んだ」
「じゃあ、やっと暇なんだ」
「あと十五分くらいは」
「短いな」
「予定より少し長くかかったんだよ」
硝子は机から本を取り上げた。
久世の袖は下りていたが、手首の辺りに黒い汚れが残っている。気づいて指で擦っていたので、硝子は棚から消毒用の綿を出しかけて、やめた。
「そこ、水道あるよ」
「借りても?」
「聞く前に使ってくれ」
水が流れる。
硝子は本を鞄へ入れた。帰ろうと思えば、そのまま帰れた。久世も十五分と言っているのだから、いま自分が付き合う理由も、特にない。
机の端に残っていた椅子を引き、腰を下ろす。
「五条、邪魔だった?」
「今日は作業中に触られたくないものがあったから、近づかないでくれると助かると伝えたよ」
「それで引っ込んだの、あいつ」
「先生からも言われていたみたいだね」
「ああ」
それなら分かる。
「夏油くんも、途中で見に来た」
「結局行ったんだ」
「何?」
「こっちの話」
久世は洗った手を拭きながら、少し笑った。
「興味を持ってくれるのはありがたいね。ああいうものを使う機会も、そのうちあるだろうし」
「また何か説明した?」
「作業中だから、聞きたいことを覚えておいてもらった。今度、時間が合えば話すよ」
硝子は机の上でライターを探した。
鞄の脇へ落ちていた。拾い上げ、煙草に火をつける。窓は少しだけ開いていて、煙はゆっくりそちらへ流れていった。
久世がそれを見てから、自分のポケットへ手を入れた。
「吸うんだっけ」
「つい最近ね」
同じ銘柄だった。
箱の角がまだ硬い。取り出した煙草をくわえる動作も、どこか丁寧すぎた。
「お前、何でもやるな」
「何でもは、やらないよ」
久世はそう言って火をつけた。
一口吸い、少し間を置いて吐く。咳はしなかったが、煙を吐いた後で唇を軽く拭った。
「慣れてないなら、やめれば」
「君がそれを言うんだ」
「私が吸ってるから言ってんだよ」
久世が笑った。
硝子は煙草を持った手を、灰皿の上へ動かした。
「その箱の仕事、これからずっとお前がやるの」
「今回みたいな修繕は、その都度頼んでもらう。普段の確認は、今日いた人に引き継いだから」
「へえ」
「見てもらうところは決まってるし、あの人は道具の扱いも丁寧だったからね。変化があった時だけ呼んでもらえばいい」
「毎回来なくて済むわけだ」
「仕事の方はね」
硝子は顔を上げた。
久世がこちらを見ていた。
「何」
「いや」
笑っただけだった。
硝子は視線を外し、煙を窓へ吐いた。
分かりづらい男だと思っていた。何を考えているか聞いても、言った通りに受け取ってよいのか分からない。五条との一件などは、本人が何も嘘をついていなくても面倒が起きるという話だった。
そのくせ、今は見られている理由が分かった。
こちらが困るような期待を、顔に出さないでほしい。
そう思ったところで、久世の携帯が震えた。
久世は画面を見た。煙草を灰皿へ置き、携帯を開く。
「はい。……ええ、報告は済ませました」
硝子は椅子の背にもたれた。
「明日の件? それは、午前中にそちらから——」
久世は一度、壁の時計を見た。
硝子の目も、つられてそちらへ動く。
来てから、もう十分近く経っていた。
「……いま手元にないので、帰ってから確認します。急ぐなら、控えは事務の方にありますから、そちらへ聞いてください」
電話が切れた。
「いいの」
「何が?」
「仕事」
「急ぐ話ではなかったから」
久世が携帯を鞄へ入れる。
「いつもそのぐらい、適当に切ればいいんじゃない」
「今度からそうしようかな」
「絶対しねえだろ」
そう言うと、久世は少し考えてから笑った。
「毎回は、難しいね」
硝子は灰を落とした。
机の向こうにいる男は、携帯を出し直さなかった。
「で」
「うん?」
「あと五分、何話すの」
久世の指が、灰皿へ伸びかけたところで止まった。
硝子はその顔を見て、少しだけおかしくなる。
「ここまで来るのは考えてあったくせに、その先はないわけ」
「……そう言われると、選びたくなるんだよ」
「選んでるうちに終わるぞ」
「それは困るな」
久世が椅子を引いた。
ずっと立っていたことに、硝子はそこで気づいた。
「じゃあ、君、休みの日は何をしてるの」
「寝てる」
「……うん」
「今、つまんねえと思っただろ」
「起こさない方がいい時間があるな、と思った」
硝子は鼻で笑った。
「暇でも、電話に出るとは限らないよ」
「その前に、番号を知らないんだけどね」
「そういえば、そうだった」
久世も笑った。
硝子は、番号を教えようとはしなかった。
帰るまでの五分だけ、話に付き合った。