夜蛾に話が来たのは、実行当日の朝だった。
久世は途中で遮られても、最初から言い直すことはしなかった。問われたことに答え、返事を待ち、また先へ進んだ。
机の向かいで夜蛾が拳を握ったときだけ、口を閉じた。
「悟は」
「了承しています」
「本人から聞く」
「はい」
夜蛾は電話を取った。
短いやり取りの間、久世は立っていた。途中で受話器から五条の笑う声が漏れ、夜蛾の眉間が深くなった。
通話が切れる。
「今日まで黙っていたのは、俺が止めるからか」
「それもあります。先生に相談した後で、総監部への報告をしないでほしいとは言えませんでした」
「今なら言えるのか」
「もう、報告されたとしても、僕たちの方が早く動けるので」
夜蛾は机に置かれた二枚目を見た。
校内への滞在を求める者と、連れてくる家族の人数だった。
「研修の申し込みは、このためか」
「全員ではありません。実際の研修も予定どおり行います」
「俺の学校を勝手に使うな」
久世は黙った。
夜蛾は一覧を引き寄せ、順に目を通した。
「受け入れる人間も、校内の配置も、こちらで決める。お前から指示を出すな」
「お願いします」
「承認したと思うなよ」
「はい」
夜蛾は返事を聞き終える前に立った。
扉を開けたところに、夏油がいた。
「聞いたな」
「ええ。悟からも事前に」
「来い。人を入れる前に確認する」
夏油は頷き、久世を見た。
「少しだけ、話を」
夜蛾はそれを聞いて、廊下の奥へ去った。
夏油は見送ってから、久世へ向き直った。
「私に頼むことは、初めから決まっていたんですね」
「うん。君なら、複数の場所を同時に守れる」
「守っている間に何をするかも、もう少し早く聞きたかったですよ」
「反対した?」
「中身によります」
「だから、今回はこうした」
夏油の顔から、薄い笑みが消えた。
「私が考える時間は、邪魔でしたか」
「今回はね。気に入らないだろうけど」
夏油はしばらく久世を見た。
「……選べるようになってほしいと言ったのは、先輩でしょう」
「そうだね」
「今回は、私に選ばせなかった」
「そうだ。僕が選択肢を渡さなかった」
「随分、勝手ですね」
「自覚はあるよ」
久世は謝らなかった。
「君はここを守ることだけ考えて欲しい。殺したい人がいるなら、また別の機会に相談してくれると助かるよ」
夏油は廊下の先を見た。夜蛾が向かった方だった。
「ここは守ります」
「ありがとう」
「あなたの依頼を受けた、という意味ではありません。今日ここへ来る人たちを、私は守りたい。だから残ります」
「分かったよ」
「それと」
「うん?」
「次に同じことをしたら、今度は断りますよ」
「覚えておく」
「覚えるだけじゃなくて、守ってください」
久世は少し笑った。
「守るかどうかは、その時の状況によるよ。その時また話そうか」
夏油はそれ以上話さず、夜蛾の後を追った。
*
その夜、京都校へ最初の連絡が入った時、歌姫はまだ残っていた。
総監部の関係者が死んだという。
一人ではなかった。
確認を取っているうちに別の電話が鳴り、楽巌寺が学長室から出てきた。
「学生は」
「全員戻っています」
「寮から出すな。未確認の召集には応じさせるな」
歌姫が頷いたところで、別の端末が震えた。
術師の追加派遣を求める連絡だった。
署名を見て、歌姫は止まった。
さっき死亡したと聞かされた男の名前があった。
「学長」
楽巌寺は画面を見た。
「どこへ出せと」
「護衛です。ご自宅へ。ですが、この方は――」
「本人に繋げ」
繋がらなかった。
代わりに出た男は、家の決定だ、と繰り返した。
楽巌寺は電話を代わらせた。
「呪霊の出現は確認されたのか」
少しの間があった。
「では、そちらの家の護衛に、学校の学生は出せん」
相手の声が大きくなった。
楽巌寺は聞き終え、もう一度同じことを言った。
電話が切れた。
その後にも依頼は来た。
こちらは本当に、呪霊の出た現場だった。派遣する人間はいる。だが、必要な承認が取れない。
歌姫は机の引き出しを開けた。
久世に言われて複写しておいた書類があった。
上が動けない時に、学校と地域の責任者の確認で術師を
動かす。
去年の日付が入っている。
「……そういうこと?」
声が漏れた。
予備の封具。確認先の一覧。二箇所へ同じ記録を残す、面倒な手順。
どれも新しいものではなかった。ただ、今夜になって、急に必要になった。
歌姫は久世へ電話をかけた。
電波が届かない場所にいる、という声がした。
次に、五条へかけた。
こちらは鳴った。
出なかった。
歌姫は電話を置き、台帳を開いた。
「学長。緊急の配属手段です。手続きの確認をお願いします」
楽巌寺が来た。
書類を一読し、印を押した。
「久世の案だな」
「はい」
楽巌寺は、印を戻す手を止めなかった。
「使えるものは使え。問い質すのは後じゃ」
歌姫は頷いた。
今から術師を送る先には、たぶん、今夜何が起きているか知らない人間がいる。
その人間を待たせる理由に、久世への腹立ちは使えなかった。
*
道が開いたのは、久世が三度目の照会を終えた後だった。
申請書に押された印の数が、増えたわけではなかった。前へ進んでよいという声が届き、案内された先に、それまでなかった空間が続いていた。
久世は一度足を止め、硝子を見た。
硝子は先へ行けと顎を動かした。
天元は、そこで待っていた。
「久世の者が、私の体を調べたいと言っていると聞いた」
「ご本人に伺わなければ、分からないことがありましたので」
久世は頭を下げた。
隣で硝子が、天元の顔を見ていた。
「家入硝子です。医師として同行しています」
「知っている」
「では先に。以前のお体の記録がありませんから、見ただけで変化を判断することはできません。ご自身の感覚も含めて、お聞きすることになります」
天元が頷いた。
久世は、用意してきた紙を開いた。
「同化の失敗後も、結界の機能に問題はない。外へ届いている報告は、そういう内容です」
「間違ってはいない」
「維持されているご本人の状態は、どうでしょうか」
天元は、自らに起きた進化について話した。
人間としての形を外れたこと。結界術によって、なお自我を保っていること。
久世は途中で質問を挟んだ。硝子も、天元が使った言葉の意味を二度聞き直した。
「つまり、不死だから状態も変わらない、というわけではないんですね」
「そうだ」
「変わった場合、外の結界に異常が出るより先に、連絡を頂くことはできますか」
「私に察知できる変化ならば」
久世は一箇所、書き直した。
「分かりました。そこは、連絡を受ける側を用意します」
「君は、何を求めてここへ来た」
「現状の維持です。今は、それ以上をお願いするつもりはありません」
天元はしばらく、久世を見ていた。
「維持できなくなる要因を知りたい、ということか」
「はい」
「ならば、話しておいた方がよいことがある」
久世は筆を止めた。
「今の私は、人間よりも呪霊に近い存在だ。呪霊操術の対象になる」
硝子の顔が上がった。
久世は、天元が続けるのを待った。
「私が取り込まれれば、結界だけの問題では済まない。進化した今の私は、星漿体に限らず、人と同化できる。術者にその意思があれば、それを利用される可能性がある」
久世は紙を見た。
そこには、さっきまで考えていた問い合わせ先の名があった。
「……どの程度の人数と、ですか」
答えを聞いて、もう一度天元を見た。
「国内の、人間全て」
「条件は要る。今この瞬間に、という話ではない」
「その条件を整えようとする者がいるんですね」
天元は、初めて聞く名を口にした。
「羂索。肉体を渡り歩き、長く生きている術師だ」
久世は、その名を書いた。
天元が説明を続ける。
身体を乗り換える。その身体に刻まれた術式を使う。
久世の手が止まった。
「夏油君の身体を奪えば、呪霊操術を使える」
「その可能性がある」
隣で硝子が、鞄を持ち直した。
久世には、さっき高専で片手を上げた夏油の姿が浮かんでいた。
「今、その羂索はどこに」
「分からない。今、誰の身体にいるのかも」
「高専の内外にいるかどうかは」
「ここから全てを見通せるわけではない」
久世は息を吐いた。
知らなければ、何も備えられなかった。夏油が死ぬことだけを考えても足りない。死んだ後に、その身体を誰が扱うのかまで問題になる。
「……この話を、外で知っている人は」
天元から得られた返事は、久世が期待していたものではなかった。
知らない名が更に増えたわけでも、調べればすぐ居場所が分かるわけでもなかった。
「帰ったら、夏油に話すぞ」
硝子が言った。
久世は頷いた。
「うん。五条君にも」
それから天元へ向き直る。
「彼を危険視して、先に殺そうと考える人間は出ます。この件は、報告先を限定させてください」
「君が判断するのか」
「当人たちと相談します。少なくとも、本人より先に総監部へは渡しません」
天元は、硝子を見た。
硝子も同じように見返した。
「知らなければ、死体の扱いだって変えられませんから」
久世は紙をめくった。
聞くべきことが増えていた。だが、今この場で待たせたままにしておく方が、困る人間もいた。
「今日の話を踏まえて、もう一度伺います。次も、連絡を通していただけますか」
返事を得てから、残っていた質問を絞った。
硝子がその横で、話された内容を書き留めていた。
*
携帯が繋がる場所まで戻ると、久世はすぐに夏油へ電話をかけた。
『終わりましたか』
「今、どこにいる?」
『校舎の前です。悟も戻りましたよ』
「そこにいて。二人に話がある」
少し間が空いた。
『何があったんです』
「君の術式について、知らなかったことが分かった」
受話器の向こうで、夏油が何か言った。
五条の声に替わった。
『悪い話?』
「かなり」
『天元、何かあんの』
「ある。そちらは?」
『予定どおり。直哉の方も終わった』
久世は足を止めた。
終わった。
何年もそのままだった名前の並びが、もう、今朝のものではなくなっていた。
「分かった。ありがとう」
礼を言い、歩き出した。
『あんま嬉しそうじゃないね』
「今聞いた話がなければ、もっと喜べたと思う」
『じゃ、こっち来てから喜べば』
通話が切れた。
直哉からのメールが入った。
『済んだで。親父が呼んどる。めんどくさいわ』
久世は返信を打った。
それを横から見ながら、硝子は思った。
地上の方は、たぶん予定どおりなのだ。
今のこいつには、そのことを喜ぶ暇もないらしい。
夏油と五条とはすぐに合流した。
天元を取り込める可能性も、肉体を渡る術師の名も。
「今、私が狙われているという証拠は?」
夏油の問いに、久世は首を振った。
「ない。ただ、君の術式があれば何ができるのか、本人が知らない状態にはしておけない」
「そうですね」
夏油は考え込んだ。
五条は、分かっている特徴をもう一度聞いた。硝子は、誰かに万一のことがあった時、遺体の確認と処置を誰に任せるかを話した。
久世は途中で電話を取り、地上の仕事へ戻った。
隣では、夏油が天元の話をもう一度、硝子に確かめていた。
その声が聞こえる間は、久世も目の前の書類に集中できた。
*
禪院直毘人は、息子が帰ってきても顔を上げなかった。
盃に酒を足した。
廊下に人がいる気配がしたが、直哉は振り向きもせず、下がれと言った。
「遅かったな」
「用があったんで」
「そうか」
直毘人の前には、今夜届いた連絡の控えがあった。
護衛の要請。術師の供出。会合への出席。
出した者はそれぞれ違うが、文面の切迫だけは似ていた。
「お前、何を持って帰った」
直哉の目が、父親へ向いた。
「何の話です?」
「手ぶらなら、出ていけ」
直哉は笑い、懐から折った紙を出した。
久世に持ち帰ってよいと言われた、三枚目だった。
直毘人は受け取った。
呪具の供給。保管の委託。外部の術師への貸与。
禪院家の名が、いくつかの要所に置かれている。
一方で、代金の決済と貸与先の選定には、別の家が挟まる形になっていた。
「……呪術界ごと弄る気か」
「これだけ見てそこまで分かるん気持ち悪いわ」
「禪院家は残るな」
「当たり前やん。何のために動いたとおもてんねん」
直毘人は鼻で笑った。
五条が動いた、と考えれば、今夜の死者の数には合点がいく。
だが、死んだ顔ぶれには、五条が特に好んで殺したがるとも思えない者が混じっていた。反対に、もっと露骨に五条の邪魔をしてきた男が生きている。
息子の持ち帰った紙には、そこの筋が通っていた。
殺されたのは、役職にしがみつくしかなくなった者と、人を動かす金だけは握っていた者。
金を受け取っていた方は、まだかなり残っている。
明日から誰に頭を下げるかで、忙しくなるだろう。
「久世の倅か」
直哉は答えなかった。
あの若い当主は、三月前、直毘人の前で丁寧に頭を下げた。
当主を継いだ挨拶と、今後も変わらぬ付き合いを願う言葉。
確か、息子とも引き続き親しくさせて頂ければ、と言っていた。
直毘人は紙を畳んだ。
「お前の名前はないな」
「うちの窓口は俺がやります」
「誰が決めた」
「今、お願いしてますやん」
直毘人が笑った。
「順番を覚えておったか」
「一応は」
昔なら、すでに自分が決めたことだと言い張っただろう。
その変化を喜ぶ気にはならなかった。どこで覚えたのか、見当がついていたからだった。
「やれ」
直哉の口元が上がった。
「ただし、蔵の中身を動かす時は私を通せ。外へ出す呪具もこちらで選ぶ。死んだ連中の穴埋めを、禪院家が無償ですると思うなと伝えておけ」
「そのくらい分かっとると思いますよ」
「分かっておるから、もう一つ取りに来いと言っとるんだ」
直哉は父親を見た。
直毘人は再び酒を飲んだ。
この話を潰せば、久世は別の家へ持っていく。
禪院家ほどの蔵はなくとも、いくつか纏めれば当座は足りる。その間、こちらは持っている呪具を眺めているだけになる。
だが、今なら必要とされている。
慌てて安く渡す理由はなかった。
「それから、明日の会合には出るな」
「どれです?」
直毘人は、届いた連絡の一つを指した。
「ああ。あいつら、まだ何かやるつもりなんですか」
「やる者を探しとるんだろう」
直哉が笑った。
直毘人は笑わなかった。
動いた息子も、その息子を動かした久世も、禪院家そのものを勝手に差し出せるわけではない。
そこを忘れるようなら、次は紙一枚では済ませない。
「直哉」
「はい」
「ワシが生きている間に済ませたかったことは、これで全部か」
直哉は、ほんの少し考えた。
「まだありますけど」
直毘人は盃を置いた。
「なら、せいぜい急げ」
*
久世が京都校へ呼ばれたのは、二日後だった。
歌姫は学長室に同席していた。
机の上には、臨時の職務分担と、空席となった役職の扱いを記した書類がある。
久世は時間どおりに来た。
服装も、挨拶も、三日前と変わらなかった。
目の下だけ、少し色が濃い。
「昨夜も徹夜か」
楽巌寺が聞いた。
「少しは休みました」
「ならば話はできるな」
「はい」
楽巌寺は椅子を示した。
久世が座った。
「三十二人」
楽巌寺が言った。
「一夜で、三十二人死んだ」
「承知しています」
「その翌朝には、後任の名前が出ておる」
「空けておけない仕事でしたので」
歌姫は久世の横顔を見た。
悪びれもしない、という言葉が浮かんだが、少し違った。
今それを表に出しても、話が進まないと考えている顔だった。
「儂にも、割り振りがあるな」
「学長のお力を借りたいと思っています」
「断れば、三十三人目か」
室内が静かになった。
「いいえ」
久世は答えた。
「お引き受け頂けないなら、別の方を探します」
「見つからねば?」
「条件を変えて、もう一度お願いします」
楽巌寺は久世を見ていた。
学生の頃、呼べば来た。
嫌な顔もせず、古い封印の補修をし、危険な呪詛師の拘束を手伝った。
命じたことを命じたとおりにする若者は、近頃では珍しかった。
従っていた時に、何を見ていたのか。
今なら、いくらでも考えようがある。
「儂が、お前のやり方を認めると思うか」
「思いません」
「では、なぜ来た」
「学校を止めてよいとは、お考えにならないと思ったからです」
歌姫は、膝の上で手を握った。
その一言が腹立たしかった。
実際、あの夜、自分もそうして台帳を開いた。
「先生」
歌姫が口を開くと、楽巌寺は止めなかった。
「私からも、一つ聞いていい?」
久世がこちらへ顔を向けた。
「こうなるって分かってたのね」
「はい」
「いつから?」
「……物心ついた時から、呪術界の仕組みは変えたかったんです。具体的に考え始めたのは家入さんに惚れてからで、今の形を作り始めたのは灰原が死んでからですね」
「は?」
「普通に暮らしたいんです。普通に暮らすには邪魔なものが多すぎる」
歌姫は息を吸った。
そのまま、大きく吐き出した。
「はぁ……。あんたの作った制度で助かった現場もある。そこは、ありがとう」
久世が頭を下げかけた。
「でも、あの夜、死人の名前で学生を呼び出す連絡が来た」
久世の動きが止まった。
「把握してる?」
「いいえ。どちらからですか」
歌姫は控えを渡した。
久世は目を通した。
「……ご家族ですね」
久世は、控えを机に置いた。
「……すみません。今の制度だと対応しづらいですね、これ」
楽巌寺が、職務分担の書類を手前へ引いた。
「儂は、危険な術師を処分することまで否定する気はない」
低い声だった。
「だが、誰が危険を量り、誰が命を下すのか。そこを一人の腹に収めることは認めん」
久世は聞いていた。
「ここにある臨時の権限には、終わりがない」
「後任が決まり次第、返すつもりです」
「つもりでは足らん。一月で失効させろ」
「一月では、全部は埋まりません」
「ならば延長を求めよ。その時には、お前以外の者が決める」
久世は書類へ目を落とした。
しばらく見ていた。
「……任務の割り振りまで止まる形にはできません」
「日常の職務は別じゃ。人事と例外的な処分の裁可について言っておる」
「その範囲でしたら」
久世はペンを出した。
欄外に追記し、二箇所を消した。
楽巌寺はその手元を見た。
修正の用意があることを、従順さと取り違える気には、もうならなかった。
「それと、この後任案は一人、差し替えろ」
示された名前を見て、久世は顔を上げた。
「理由を伺えますか」
「今朝、辞意を出した。死んだ男に恩があるそうじゃ」
久世が黙った。
「その者の仕事は、誰ができる」
「一部は心当たりがあります。残りは、前当主に確認しないと」
「では確認しろ。知識があることと、お前の下で働くことは同じではない」
久世は頷いた。
今度はすぐに何かを書き込まず、紙の端を折った。
楽巌寺は残りの書類を取り上げた。
「三十二人の死については、報告を残す。調べも止めん」
「はい」
「その返事を忘れるな」
久世が帰った後、歌姫は空いた椅子を見ていた。
「先生は、引き受けるんですか」
楽巌寺は答える前に、一枚の書類へ印を押した。
京都校の術師の引き継ぎ書類だった。
「引き受けねば、あやつは本当に別を探すじゃろう」
歌姫は学長を見た。
「止める者が要る」
楽巌寺は書類を返した。
「要らん上が消えたのも事実」
歌姫は受け取った。
机の隅に残った死者の一覧は、伏せられなかった。