あの夜から、また数年が経った。
「来週の木曜には、京都へ戻ります」
東京の事務所で、久世雅臣は電話を耳に当てていた。
相手は、京都の本邸にいる父だった。
「午前中に工房を見て、午後は京都校へ。実習用の封具を替えるので、庵先生と確認を」
『泊まっていくのか』
「いえ。その日のうちに帰ります」
『家に戻るのに、日帰りとはな』
「家には毎日帰っていますよ」
父が鼻で笑った。
硝子と東京で暮らし始めて、もう何年も経つ。同じ話は何度かしたが、そのたびに久世の答えは変わらなかった。
久世家の本邸も、呪物を保管する蔵も、封具を作る工房も、京都に残っている。日々の管理は父や叔母、古くからの職人たちに任せた。
当主の久世が東京にいても、注文のたびに電話を待つ必要はない。
呪霊の存在を世間にじわじわと浸透させていた。心霊の存在、お守り、そういった名前で一般人向けの呪具をばらまいた後に、本物を公共機関へと混ぜていった。
呪術界が隠し続けていた技術を、非呪術師が使うための会社を作り、手の足りない仕事はほかの家と組んだ。研究に金を出す組織も設けた。
今の久世は、それらの事業に人と金を振り分け、新しい仕事を始める時には、取引先と条件を決める。
そのための東京事務所には、京都の本邸にいた頃より、よほど多くの人間が来るようになった。
電話を切ったところで、扉が開いた。
「やあ。今日はこっちだと聞いてね」
九十九由基が、厚い封筒を持って立っていた。
*
「九十九さん」
「何かな」
「これ、何ですか」
「船」
「読めば分かります」
机の上には、海外の領収書が並んでいた。
渡航費、宿泊費、調査用の機材。そこまでは、出発前に聞いていた。
船一隻を借り切る費用は、聞いていない。
九十九は向かいへ腰を下ろした。
「その島でしか採れない試料があったんだよ。次の定期便を待ってたら、観測したい時期が終わる」
「必要だったのは分かってるんですよ」
「ならいいじゃないか」
「なぜ連絡をしないんですか」
「したよ」
久世は携帯を出した。
該当するやり取りは、すぐに見つかった。
『少し寄り道する。戻るのが遅れるよ』
「このどこに船の話が?」
「海の向こうだとは思わなかった?」
「思いません」
九十九が笑った。
呪霊を生まなくするための研究には、今も久世が金を出している。成果がいつ出るか分からない研究を、目先の売り上げだけで判断されたくなかったので、そこは自分の手元に残した。
金の計算や振り込みをする者は別にいる。しかし、九十九から予定と報告を聞き出し、追加の支出を認める役は、なかなか代わりが見つからなかった。
「せめて借りる前に、額だけでも送ってください」
「断った?」
「断りません」
「だろう?」
「僕が同じことをして、九十九さんに払ってもらうことになったら?」
「私は逃げるね」
久世は黙った。
九十九は楽しそうに、鞄から小さな箱を取り出した。
「で、こっちが船の成果」
中には石片が並んでいた。採取した場所と時刻が、一つずつ添えてある。
人の住む側と、住んでいない側。同じ島で採った石なのに、後から込めた呪力の残り方が違うという。
「半日経つと、こっちだけ薄くなる。もう一度込めても同じだった」
「抜けた分は、どこへ?」
「それを調べたい。周りへ漏れてるだけなら、あまり嬉しくないね」
「ほかの条件は揃えたんですか」
「まず、これを見て」
九十九が記録を広げる。
久世は領収書を脇へ寄せ、椅子を引き寄せた。
五分ほど説明を聞いた後で、顔を上げる。
「次の調査は、いつからですか」
「来月。今度は島で採った直後から調べたい」
「機材も増えますね」
「そうなんだよ」
久世は予定表へ手を伸ばしかけ、止めた。
九十九が笑っていた。
「……今日は、その費用も決めてから帰ってください」
「話が早くて助かるよ」
「早く済ませたいんです」
誰か代わってくれないだろうか。
頭の中で何人か並べ、久世は小さく息を吐いた。研究を止めずにこの人へ文句を言い続ける役は、たぶん自分が一番向いている。
「それと、今回の報告書を」
「今、説明したじゃないか」
「書いてください」
机の端へ、紙とペンを置いた。
*
午後、七海が持ってきたのは、眼鏡の修理を頼む契約書だった。
非呪術師の人にも呪霊が見える眼鏡。
久世家や禪院家が共同で金を出し、禪院側の会社が製作と販売を担当している。久世側は、呪力を保つための部品を納めていた。
ただ、蝶番やフレームの修理まで術師がやる必要はない。そこは一般の眼鏡会社へ頼むことになっていた。
「この条件では、修理会社の社員が休日まで呼び出されます」
七海が、赤線の引かれた箇所を示した。
「緊急時は速やかに対応すること。……また?」
「またです。試験販売の段階で、日曜日に修理の依頼が来たそうです」
「何が壊れたの」
「鼻に当たる部品が取れた、と」
「それで緊急?」
「販売担当者は、客が困っているのだから緊急だと言っています」
久世は契約書を引き寄せた。
一般企業へ勤めた後、呪術師へ戻ってきた七海には、こうした取引の点検も頼んでいる。
術師なら呼べば来る。来なければ次の仕事を減らす。その感覚で外の会社と付き合おうとする者は、まだいた。
それで揉めてから久世へ話が来るより、先に七海に見てもらう方がいい。
「休日の修理は受け付けない。販売店で代わりの品を貸せば済むよね」
「そのための在庫が必要です」
「販売費から出してもらおう」
「禪院さんには、すでにお伝えしました」
携帯が鳴った。
画面に出た名前を見て、久世は七海へ目を向けた。
七海は、どうぞ、と頷いた。
『雅臣君、またうちに面倒なん回してきたやろ』
「予備の眼鏡を用意する話?」
『それもや。毎日よう分からん電話ばっかり来るんやで。見えすぎて気持ち悪いから返品したい言う奴までおる』
「見える眼鏡を、何だと思って買ったんだろうね」
『知らんわ。お前んとこで聞いたれや』
「元締めやりたいって言ったの君だろう」
「儲かる話だけ言うたんや」
「責任もセットだよ」
電話の向こうで、直哉が舌打ちした。
『ほな、受付に人増やす。その分、こっちの取り分も増やすで』
「費用を出して。ほかに出資している家にも見せる」
『そっちはお前が話しといてや』
「金額を見てからね」
禪院家は久世家の部下ではない。利益が少なければ条件を変えろと言うし、納得しなければ仕事を引き受けない。
久世も、頼まれた額をそのまま出すつもりはなかった。
結局、受付を共同で設ける案と、禪院側だけで人を雇う案の、両方を比べることになった。
『いつ京都来るんや』
「来週の木曜。京都校の後なら寄れるよ」
『親父もお前に話ある言うとったわ。飯食ってけや』
「遅くならなければ」
『また東京帰るんか。こっちにも家あるやろ』
「あるよ。君も泊まりに来たことがあるだろう」
『女のとこ帰りたいだけやん』
「うん」
向こうが黙った。
「何か?」
『……別に。ほな木曜な』
電話が切れた。
久世は契約書へ目を戻した。
「予備の品で対応する方針は、これでいいかな」
「はい。あとは、この納期です」
七海が次の頁を開いた。
「こちらは、先輩の会社が出した条件ですね」
「……そこも?」
「連休が考慮されていません」
久世はカレンダーを見た。
呪術界の中だけで仕事をしていた頃は、あまり気にしなかった赤い数字が並んでいた。
*
夕方、久世は東京校へ車を回した。
夏油に渡す見学会の案内と、仕事を終えた硝子を迎える用事があった。
校舎へ入る前に、見慣れた白い頭が窓から出た。
「先輩。硝子、もう帰ったよ」
「……もう?」
「遅いから先帰るって」
携帯を見ると、確かに連絡が来ていた。
その下には、牛乳を買ったから買うな、とある。
「振られてんじゃん」
「同じところへ帰るんだよ」
「はいはい。あ、これもらった」
五条が菓子の箱を持ち上げた。
先週、硝子へ渡したものだった。
「それは君にあげたんじゃないんだけど」
「硝子が、持ってけって」
「ならいいよ」
五条は今も特級術師として現場へ出ながら、ここで教師をしている。
忙しさに波はあるが、何でもかんでも五条へ投げるしかなかった頃よりは、随分ましになった。
市販のお守りで防げる程度の呪霊なら、普通の人でも対処できる。眼鏡と呪具を使えば、非呪術師でも対応できる幅は増えた。警察には早々に、呪霊対策用の呪具契約を結んでいた。
それで済まないものに、訓練を受けた術師が出る。
ここまで持ってくるのに、何年もかかった。
段階を踏んで呪霊の存在を公にしても、恐怖からかえって被害が増えた時期はあった。
当時の判断を、今も責める人はいる。
羂索を追っていた数年間には、久世たちの事業そのものを敵に利用されかけた。五条や夏油とようやく片をつけた後も、計画は何度もやり直した。まだ完全には終わっていない。
呪霊がいなくなったわけでもない。
それでも、見える子供を見つけた時、どこへ相談すればいいかは、普通の学校の教師にも伝わるようになった。
「先輩、お待ちしていました」
その相談を受けて、子供たちのところへ出向いている夏油が、廊下へ出てきた。
親や学校と話し、必要なら保護し、高専を含めた受け入れ先を探す。呪霊を祓う以外にも、夏油の仕事は増えていた。
「案内、持ってきたよ」
「ありがとうございます。ただ、一箇所変えようと思っています」
夏油は渡された紙を開き、見学後の予定を指した。
「この、当日に進路希望を提出するという部分です」
「寮や実習の人数は、早めに決まった方がいいだろう?」
「そのために、来るのをやめようとしている子がいます」
久世は紙へ目を落とした。
呪術高専へと来る子供が増えた。自分の呪力を扱う練習をする。その一環で呪具に呪力を込め、向いていれば製作の仕事へ進むこともできる。討伐へ進むのは、適性と本人の意思を確かめてからだった。
見学会では、その両方を見せる予定になっている。
「その子には、戦わなくてもいいとは伝えた?」
「ええ。ですが、仕事もまだ選びたくないそうです」
「希望を出したからといって、必ずそこへ行かせるわけじゃないよ」
「私たちはそう分かっています。その子には、ここへ来たら決めなければ帰れないように見えるんですよ」
窓際で、五条が菓子を噛んだ。
「見学なんだから、見て帰ればよくない?」
「そうしてもらいたいんだよ。私も」
夏油は久世を見ていた。
久世は、ペンを出した。
「……返事は帰ってから。次の募集に回ってもいい。その間、呪力の扱いだけ習いに来ることもできる。これなら?」
「いいと思います。継続して教える人員は、私から夜蛾先生に相談します」
「その実習に使う封具は、こちらで余分に用意するよ。京都校でも同じ相談が出るだろうから、庵先生にも話しておく」
受け入れを決め、教えるのは学校だ。
久世が引き受けるのは、両校で必要になる道具の手配と、その費用を出す家や会社との調整だった。高専で制御を学んだ者に、将来仕事を頼みたい家は多い。
「君、昔より遠慮なく言うようになったね」
「言わないと、そのまま決まってしまいますから」
夏油は、直された案内を受け取った。
五条が隣から覗き込む。
「これ、僕も何かやる?」
「当日は生徒の相手をしてくれ。壊さない範囲で」
「何を?」
「全部」
久世が笑ったところで、携帯が震えた。
『飯、先に食うぞ』
硝子だった。
久世はすぐに、帰る、と打った。
*
玄関の鍵が回る音を聞いて、硝子は鍋の火を弱めた。
「ただいま」
「遅かったな」
「高専までは行ったんだよ」
「五条から聞いた」
鞄を置きかけた久世が、顔を上げる。
「何を?」
「振られて帰ったって」
「それは僕も寂しかったんだけど?」
東京に借りた二人の家は、高専から車で三十分ほどの場所にあった。
京都の本邸ほど広くないし、食事を用意してくれる人もいない。先に帰った方が何か作るか、二人とも遅ければ買って済ませる。
久世は引っ越してきた頃、勝手に食器の位置を変えて怒られた。それ以来、台所で何かを動かす時は、硝子に聞くようになっている。
久世は上着を掛け、そのまま冷蔵庫を開けた。
見慣れない容器を見つける。
「これ何?」
「駅で買った。雅臣好きそうだろ」
「うん。好き」
蓋を開けて、そのまま一つ摘まんだ。
「皿、出しなよ」
「後でいい」
硝子はソファーに座ったまま、その横顔を見ていた。
久世はもう一つ摘まみ、容器を冷蔵庫へ戻した。
「風呂、先入れば。沸かすの面倒ならシャワーで」
「……先に、ちょっとだけ」
硝子が久世を見た。
久世は硝子へと腕を伸ばした。
背中に手を回すと、硝子は吸っていた煙草を灰皿へ置いた。
「仕事は?」
「明日は休み」
「そう」
硝子の手が背中へ回った。
久世は、ようやく肩から力を抜いた。
しばらくして、硝子が言った。
「ちょっとだけって、何分?」
「もう少し」
「お前のそれ長いんだよ」
久世は顔を上げた。
硝子が何か言いかける前に、頬へ短く唇を寄せた。
「……そういう誤魔化し方すんな」
「嫌だった?」
「風呂入れ」
背中を一度叩かれた。
久世は笑って手を離した。
硝子の吸いかけに手を伸ばし、そのまま流れるように吸いきった。揉み消すと、硝子へと振り返る。
「ねぇ、硝子ちゃん」
「ん?」
「……僕と結婚してくれる?」
久世は硝子を見ていた。
さっきまで笑っていた口元が、今は閉じている。返事を待っているらしかった。
「……まだしてなかったっけ」
久世が、ゆっくり瞬きをした。
「してないよ」
「そっか」
「うん」
久世が黙った。
「いいよ。結婚しても」
久世の口元が緩む。何か言おうとしたようだったが、その前に抱き寄せられた。
「……ちょっと、強い」
「ごめん」
腕は緩まなかった。
背中へ手が回り、肩口に顔を伏せられる。
「久世家の方は、僕から——」
「今、実務の話したらやめるぞ」
「やめないで」
硝子は肩に乗った頭を一度撫でた。