「じゃあ、お前には飲み残し渡せないな」
硝子が缶コーヒーを自分の側へ寄せると、久世は素直に頷いた。
「できれば、そうしてもらえると」
「できればなんだ」
「渡されたら、今みたいに言うよ」
テーブルの向こうで、夏油も自分の缶を少し引いた。
五条だけが、袋菓子を食べる手を止めない。面白そうに二人を眺めてから、久世を指差す。
「説明の順番、間違えたんじゃねえの」
「最初に言ったつもりなんだけど」
「まず『食いません』って言えよ」
それは確かにそうだった。
昼過ぎに現れた久世とは、談話室でコーヒーを飲みながら、しばらく普通に話していた。
その後、飲みかけの缶をきっかけに術式の話になった。
封印に近いことをする、と久世は言った。
髪・爪・血以外に唾液でも汗でも条件を満たせる。
触れている相手の動きや、術式の発動を止められる。声だけを封じることもできる。
「人の髪、食べたことあるんだ」
「必要だったからね」
「……味は?」
「刻めばほとんど分からないよ」
夏油が自分の前髪を耳へ掛けようとして、途中で手を止めた。
「それ、どのくらいあれば使えるんですか」
「相手と、何を封じるかによるよ。使えば取り込んだ分も消費するから、少量で何でもできるわけじゃない」
「髪1本で、俺を止められる?」
「無理だと思う」
「じゃあ何本?」
「君には触るところから難しいだろう。試す準備だけでどれだけかかるか」
五条は少しつまらなそうに鼻を鳴らした。
気にしているところが、ほかの二人とは違う。
「触らなきゃいいんだよね」
硝子が言うと、久世は手元のハンカチを持ち上げた。
「こういうものを間に挟んでも、繋がっていれば使える。拘束している方が効きやすいから、仕事では縄なんかも使うよ」
「……やだな、その術式」
「面と向かって言われると、少し傷つくね」
柔らかい声のままハンカチを畳む先輩を見て、硝子はコーヒーをもう少し自分の方へ寄せた。
「聞かれれば教えるよ。それに、五条くんはほとんど分かってそうだからね」
「聞いたせいで、今めちゃくちゃ考えてるけど」
「それは……慣れてもらうしかないかな」
久世はテーブルの端へ目をやった。
空き缶と、菓子の包み紙と、五条が使ったまま放置しているプラスチックのスプーンがある。
「いらないものなら、普段から片付けた方がいいとは思うよ」
「説教まで付いてきた」
「悟、そのスプーン捨てなよ」
「傑もそっちの缶」
「これはまだ飲んでる」
五条がスプーンをつまみ、何か思いついた顔をした。
「なあ硝子。こいつ、お前の飲みかけのコーヒー狙ってるんじゃねぇの」
「あげる予定ない」
「だってさ」
「僕を見なくても聞こえてるよ」
久世は五条の顔を見て、長く息を吐いた。
五条が楽しそうに笑う。
硝子は缶を持ち上げたまま、向かいの先輩を見た。
口をつけたものを渡す予定は、もちろんない。
ただ、警戒されると分かっていて、それを自分から話すところは妙だと思った。これから何度も来るつもりなら、黙っていた方が楽なはずだ。
「夜蛾先生にも話してあるの?」
「お話ししてあるよ。元々、久世家の仕事でも関わりがあるからね」
「家は関係ねぇじゃん」
五条が口を挟んだ。
「京都校の生徒だよ、僕は」
「硝子に振られてるし」
「それは来校許可の話と関係あるかな」
「硝子が断ったら逆上する男かもしんねえじゃん」
夏油が、さすがにそれは、と口を開きかけた。
久世の口元が、わずかに上がった。
「……君たちが近くにいるときに逆上するようなら、相当追い詰められてるだろうね」
「そこは普通に否定しろよ」
「しないよ。メリットがない」
そう言った久世を見て、硝子は少し吹き出した。
「先輩、たまに返事おかしいね」
「今のは五条くんが先じゃないかな」
確かにそうだったので、そこは頷いておいた。
廊下から硝子を呼ぶ声がしたのは、そのときだった。
任務から戻った生徒を一人、診てほしいらしい。歩いて来られる程度だと言うので、硝子は残りのコーヒーを飲み切って立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
「その辺で待ってて。長くなりそうなら言うから」
久世は何か言いかけたが、結局、頷くだけだった。
テーブルに置いた空き缶を、硝子は一度持ち直した。
「……これも捨ててくる」
「そんなに気を遣わなくても」
「先輩が言ったんでしょ」
夏油が笑い、久世は困った顔で見送ってきた。
*
硝子が出ていくと、先輩は鞄から文庫本を取り出した。
それで待つつもりらしい。
傑は、何となく手元の缶を見た。
さっきの話を聞いてから、すっかり持て余している。
「そんなに気になるなら、飲んで捨ててきたらどうかな」
久世が本を開く前に言った。
「……顔に出ていましたか」
「手に出てる」
缶の口を覆うように指を置いていた。
気づいていなかったので、傑は少し笑ってしまった。
「先輩を疑っているわけでは」
「警戒されるのは仕方ないよ。僕でも気にすると思うし」
家入さんに近づく口実は作っているしね、と久世は付け加えた。
傑は思わず吹き出しそうになった。自分で言うのか。
先輩の携帯が鳴った。
画面を見た久世は、まだ開いていない本をテーブルへ置く。
「失礼。少し外すね」
廊下へ出て、少し離れた窓の前で電話に出た。
こちらからは横顔だけが見える。
悟が空になった菓子の袋を丸めた。
「あいつ、ちゃんと胡散臭いよな」
「ちゃんとって何だい」
「隠す気があんのかねえのか分かんねえ」
傑にも、そこはよく分からなかった。
硝子に会うために仕事を引き受けるところまでは、分かる。術式を先に明かしておく理由にも納得した。
ただ、その両方をこちらへ話し、警戒されながら同じテーブルにつくのは、居心地が悪くないのだろうか。
そう思って見ていると、廊下の久世が眉間を指で押さえた。
「……終わる時間が分からないなら、交代の人を用意してください」
さっきより少し大きな声が、開いた扉から聞こえた。
「僕が寝なければ安全になる、という話ではありませんので」
口元には、まだ薄い笑みがあった。
相手には見えていないはずなのに、と傑は思った。
しばらくして戻ってきた久世は、携帯をしまいながら息を吐いた。
「待たせたね」
「仕事ですか」
「明日の。拘束役を頼まれているんだけど、終了時刻を決めていなくてね」
「さっきの術式で?」
「うん。尋問をする間、相手を押さえておくんだ。長くなること自体は構わないけど、休憩もなしで何時間もとなると、困る」
傑は、さっき見せられたハンカチを思い出した。
「ずっと、繋いだままなんですか」
「そう。僕は手を離せない」
「その間、相手に術式を使わせないように?」
「動きを止めることもあるよ。相手と状況に合わせる」
久世は椅子に腰を下ろし、冷めたコーヒーを飲んだ。
「そんなに長く押さえていられるなら、かなり強い術式ですね」
「準備をするからね。でも、絶対に外れないわけじゃない。ほかの拘束も使うし、誰かが対応できるようにしておく」
「俺がいりゃ、逃げられねえけどな」
「そうだね。明日の午後、代わってくれる?」
「やだ。暇じゃねえし」
「だろうね」
先輩は惜しむ様子もなく頷いた。
悟なら、逃げようとした相手を止められるだろう。傑もそう思う。
ただ、何時間も縄の端を持って座り続ける悟は、うまく想像できなかった。
「それも、京都校から回ってくる任務なんですか」
「今回は家の仕事。こういうことは昔からやっているから」
「先輩も?」
「うん」
それきり、説明は続かなかった。
傑が続きを待っていることに気づいて、久世が少し首を傾げる。
「何か気になる?」
「……いえ。尋問の場に、学生もいるんだなと」
「ああ」
先輩はそこでようやく、問いの意味が分かったようだった。
「学生だからというより、術式を持っているから呼ばれるんだよ。役に立つようになったら、仕事も増える」
隣で悟が、退屈そうに携帯を開いた。
驚くような話ではないらしい。
傑は入学してから、呪霊を祓い、その力を取り込み、次の任務へ行くことを覚えた。
自分にもできることが増えている、という実感はある。
目の前の先輩が何時間も人を拘束しているのも、その「できること」の一つなのだろう。
けれど、同じ話としてすんなり呑み込むには、少し時間が要った。
「訊く方も、先輩が?」
「基本的には担当が別にいるよ。僕は拘束しているだけ」
久世が、少し嫌そうに笑った。
「相手が答えたことを聞いていなくて、同じ質問を繰り返すようなやり方をずっとされたら、ちょっと口を出すかな」
「……そんなこともあるんですか」
「あるよ。その分、僕が帰る時間も延びる」
そこには、さっきまでと変わらない調子の愚痴があった。
傑は頷いたが、すぐには次の言葉が出てこなかった。
先輩はそれを急かさず、本を手に取った。
余計なことを聞いたのだろうかと思ったところで、視線だけを上げてくる。
「夏油くんは、そういう仕事に興味があるの?」
「まだ、分かりません」
「そう。じゃあ、詳しく知りたくなったら夜蛾先生に聞いてみるといいよ。僕だと、うちのやり方に偏るから」
それだけ言って、しおりを抜いた。
傑は少し迷ってから、本の表紙を見る。
「何を読んでいるんですか」
久世が表を向けた。
見覚えのある題名だった。最近、駅の書店でも平積みにされている小説だ。
「面白いですか」
「まだ分からない。三分の一くらいまで来たところ」
「そこでまだ分かんねえの?」
悟が携帯から顔を上げた。
「主人公が、好きな人と喧嘩したまま会いに行かなくなったんだ」
「あー」
「先に話をすればいいのに、と思っているところ」
傑は少し笑った。
「話したくても話せないから、小説になるんじゃないですか」
「そうなのかもしれないね」
久世は不満そうな顔のまま、続きを読み始めた。
投げ出す気はないらしかった。
*
硝子が戻ると、久世は本を読んでいた。
夏油はその隣で、文庫本の帯をひっくり返している。五条だけがソファへ移り、長い脚を持て余すように投げ出していた。
「お待たせ」
久世が顔を上げる。
「もう大丈夫?」
「うん。部屋に戻った」
「そう。よかった」
「何の話してたの?」
「先輩の仕事とか、本とか」
夏油が帯を指で折り直しながら答えた。
「悟は途中で飽きちゃったけど」
「お前らが長えんだよ」
ソファの方から、不満そうな声がした。
硝子はテーブルの脇に置いていた鞄を開けた。
昼のうちに読み進めるつもりだった本が、そのまま入っている。薄い医学用語の本だが、開くたびに知らない言葉が出てくる。
「私、このあとちょっと勉強したいんだけど、先輩も本読むだけなら来る?向こう行くけど」
用語を覚えるのに、隣で五条が夏油をゲームに誘う声を聞いているのは、少し邪魔だ。
久世の動きが止まる。
「向こう?」
「医務室。今、誰もいないから」
「いいの?」
「静かにしてれば」
夏油が文庫本の帯を久世へ返した。
「よかったですね、先輩」
「うん」
素直に頷いた久世を見て、夏油がまた笑った。
短い間に、ずいぶん話すようになったらしい。
「硝子、寝るなら先にそいつ追い出せよ」
ソファから五条が言った。
「さっきの術式の話?」
「それもある」
「寝ない。勉強するって言ったでしょ」
「さっきも言ったけど、何もしないよ」
久世の方は、もう疲れたような返事になっていた。
途中の自販機で足を止めると、ついてきた先輩も止まった。
「さっきと同じのでいい?」
「……僕の?」
「うん」
久世はポケットに手を入れたが、硝子は先に小銭を入れた。
自分の分と合わせて二本。落ちてきた缶を取って、片方を渡す。
「ほら。これなら気にしなくていいでしょ」
久世は缶と硝子を交互に見た。
「ありがとう」
「煙草のお礼。あと、さっき待たせたし」
「煙草も、もともとお礼だったんだけど」
「じゃあ私が買いたかったから」
それでようやく、先輩は笑って受け取った。
医務室の窓は少し開いていた。
消毒液の匂いに、外の乾いた空気が混ざっている。硝子は白衣を椅子の背に掛け、机の上の記録用紙を引き出しへしまった。
代わりに本とノートを出す。
「そっちの椅子、使っていいよ」
久世が丸椅子を引いて、机の横へ座った。
脚が長いせいか、少し窮屈そうだったが、位置を直すと落ち着いたらしい。文庫本を開き、さっきの続きを読む姿勢になる。
硝子も自分の本を開いた。
読みの分からない言葉に印をつけ、ノートへ写していく。
五条がいないと、それだけでずいぶん静かだった。
「家入さん」
「ん?」
「分からなくても治せるのに、勉強しているんだね」
硝子は書きかけの字を最後まで書いてから、顔を上げた。
久世は彼女の本へ目を向けている。
「治ったあと、動いていいか聞かれるから」
「ああ」
「先輩も聞いたでしょ」
「聞いたね」
「治したつもりです、しか言えないのも嫌じゃん。どこがどうなってたかくらい、分かった方がいいし」
久世は、本とノートをもう一度見た。
「そっか」
久世が文庫本を少し横へずらした。ノートを置く場所が広くなる。
空いたところへ本を寄せ、硝子は続きを書いた。
しばらく、ペンの音だけがした。
四つ目の言葉を写したところで、横から小さく息を吐く音が聞こえた。
久世が読んでいるページは、座ったときとほとんど変わっていない。
「つまんないの、それ」
「いや。そういうわけでは」
「さっきから進んでなくない?」
彼は本を見下ろした。
それから、硝子を見た。
「……思っていたより、落ち着かなくて」
「椅子、小さい?」
「それは大丈夫」
ほかに何かあっただろうか。
空調は入っていないし、外も静かだ。足元を見たが、邪魔になるようなものも置いていない。
「君と二人でいるの、初めてだなと思ったら、少し」
硝子は顔を上げた。
久世は笑っていた。
ただ、こちらと目が合うと、いったん本へ視線を戻した。
ああ、と硝子は思った。
そういうことも気にするんだ。
「いつも、そっちから色々言ってくるくせに」
「自分から言っているときは、言う準備ができてるからね」
そこを真面目に説明されるとは思わなかった。
硝子は少し笑ってしまった。
「じゃあ、そっち行って読めば。窓のとこ」
「ここがいい」
返事は早かった。
言った本人が、少し遅れて口を閉じる。
硝子はペンを持ち直した。
「……じゃあ、静かにしてて」
「うん」
今度こそ久世は本へ目を落とした。
硝子もノートへ向き直る。
みんなで話しているときは、もっと何でもうまく返す人だと思っていた。だから、さっきの返事は少し意外だった。
五つ目の言葉の横に、読み仮名を書く。
隣でようやく、ページをめくる音がした。
そのあとも久世は、何か言いたそうにこちらを見ることがあった。
硝子が顔を上げる前に、本へ戻っているときもあった。
いちいち訊いていたら勉強が終わらないので、そのままにした。
気づけば、窓から入る風が少し冷たくなっていた。
そろそろ出ようかと本を閉じると、久世もしおりを挟む。
少しだけのつもりが小一時間経っていたが、覚えたかったページまでは終わっていた。
「そろそろ帰らないと」
「そ」
結局、反転術式については一つも聞いてきていない。
「また、こういう感じになると思うけど」
ノートをしまいながら言うと、久世は顔を上げた。
「何が?」
「来ても、ずっと相手はできないよってこと」
彼は少し考えてから、頷いた。
「僕も、ここで出来ること持ってくるよ」
「ならいいや」
硝子は缶を手に取り、残りを飲みきった。
久世はそれを見ていた。
「……また来てもいいんだ?」
そこに引っかかるのか。
「来るくらいはいいでしょ。仕事の邪魔しなきゃ」
「うん」
「あと、来る前に連絡して。いないときもあるし」
久世は頷きかけて、やめた。
「連絡先を聞いてもいいかな」
硝子はポケットから携帯を出した。
久世も自分のものを取り出す。硝子が番号を読み上げるのにあわせ、打ち込む。
「これでいい?」
久世が確認してくる。
画面には、番号と、家入硝子の四文字が入っていた。
「合ってる」
一度だけ鳴らしてもらって、互いの番号を確かめる。
「ありがとう」
「付き合うのは断ったからね」
「それは、分かってるよ」
だったら何で、そんなに嬉しそうなんだ。
硝子が見ていると、久世は口元を手で隠すようにして、小さく笑った。
「次の、約束ができたなと思って」
硝子は空の缶を持つと、久世の缶を指さした。
「そっちは自分で持ってって」
「うん。そうするよ」
久世も自分の缶を持って、立ち上がる。
並んで部屋を出た。
今日一日で、空き缶だけは妙にきちんと片付くようになっていた。