「家入硝子という娘に会っているそうだな」
雅臣は、鞄へ伸ばしかけた手を戻した。
出張の用向きなら、昨夜のうちに報告してある。父が訊きたいのは、そちらではないらしい。
「会っていますよ」
「気に入ったのか」
「ええ」
否定する理由もなかった。
保健室で本を読んだ日から、ひと月ほど。その間にも雅臣は用事を見つけて二度、東京校へ足を運んでいる。
一度目は、硝子の仕事が長引いて、待っているうちに五条と夏油とばかり話して帰った。二度目は、保健室でそれぞれ本を読み、途中で五条が持ち込んだ菓子を四人で食べた。
何か特別なことをしたわけではない。会えば話し、手が空かなければ各々のことをする。
ただ毎回、家入硝子のいる時間に合わせている。事情を知らずとも、東京校の方では多少なりとも察しがつくだろう。
父は手元の紙を一枚めくった。
「話を進めたいなら、こちらから先方へ伝えることもできる」
「何の話をですか」
「お前が気に入った娘の話をしている」
だから、そのどの段階を進めるつもりなのか。
「結構です。今は」
「今は、か」
「縁談の話など、彼女にはしていませんので。家から先に話が行くと、説明することが増えます」
「相手の意向は?」
雅臣は少し黙った。
父は待っている。こういうときだけ、先を急がない。
「交際は断られました」
紙をめくる音が止まった。
「……では、何をしている」
「会いに行っています」
「断られたのだろう」
「会うことは断られていません」
父がこちらを見た。
その顔に呆れがあるのか、ただ考えているだけなのかは、長く一緒にいても判別しづらい。
雅臣は膝の上で指を揃えた。
「家の仕事は済ませています。そのあとの時間まで、問題にされることではないと思いますが」
「問題だとは言っていない」
父は紙を机に置いた。
「家としても悪い相手ではない。だから、必要なら話を通すと言っている」
「今は、何もしていただかない方が助かります」
今度は父が黙った。
雅臣は、こちらを見ている目を受けたまま続ける。
「僕個人で出入りできているところを、久世家からの働きかけに変える必要はないでしょう。東京校に余計な警戒をされては、せっかくできた繋がりも使いづらくなります」
「五条悟とも話しているのだったな」
「はい」
「そちらも含めて、放っておく方が得だと言うのか」
「少なくとも、今の段階では」
父はしばらく雅臣を見ていた。
それから、短く頷いた。
「分かった。お前に任せる」
これで、ひとまず家の方は動かない。
雅臣は小さく頭を下げ、ようやく鞄を取った。
「では、行ってまいります」
「ついでに、これも持っていけ」
父が別の封筒を差し出した。
表には、東京校宛ての照会とある。
「期限は」
「月内でよい」
「なら、次にします。今日は午後を空けてあるので」
「何をする」
「買い物です」
父の目が、もう一度上がった。
「その娘と?」
「はい」
まだ何か言いたそうだった。
こちらから説明を増やす気はなかったので、雅臣は黙って待った。
「……では、次に持っていけ」
封筒が机へ戻る。
雅臣はもう一度頭を下げて、部屋を出た。
廊下へ出てから、携帯を開く。
昨夜届いたメールは二行だった。
『一時には出たい。
その前に終わる?』
午前の用事は、余裕を持って終わるように組んである。
雅臣は時計を確認し、携帯を閉じた。
*
「帰り、これ買ってきて」
硝子が鞄を持ったところで、五条が一枚の紙を差し出した。
菓子屋の名前と、店までの道が書かれている。
「帰り道じゃないけど」
「近くね?」
「どこが」
その店へ寄るなら、駅から反対側へ歩かなければならない。
硝子は紙を返したが、五条は受け取らず、そのまま横へ向けた。
「先輩は?」
「家入さんの買い物が終わって、時間があればね」
久世が紙を見ながら答えた。
硝子は上着に腕を通す。
「私、本選ぶから。どのくらいかかるか分かんないよ」
「じゃあ、約束はしないでおこうか」
紙が五条の前へ戻った。
「ついでじゃん」
「君の言うついでは、結構遠いね」
久世が少し笑う。
机にいた夏油が、紙を覗き込んだ。
「悟、自分で行けばいいじゃないか」
「じゃ、傑行こうぜ」
「私まで?」
「暇だろ」
「君と違って、まだ提出するものがあるんだよ」
二人が話し始めたので、硝子は扉へ向かった。
「行こ」
「うん」
久世がついてくる。
背後で五条が何か言ったが、夏油の声と重なってよく聞こえなかった。
門へ向かう途中、硝子は隣を見た。
「午前の用事、終わった?」
「終わったよ」
「ならよかった」
外へ本を買いに行く、と話したのは前の来訪のときだった。
今使っている用語の本とは別に、図の多いものが欲しい。中身を見て選びたいので、少し大きな書店へ行こうと思っている。
そこまで言ったところで、久世が自分も行っていいかと訊いてきた。
彼が自分の本を買いに行くのだと思い、硝子は別にいいと答えた。
すると、付き添いのつもりだと返ってきた。
何が違うんだ、と訊いたら、こちらを優先して回るかどうかが違うのだと言う。
そういう区別を、一応しているらしい。
「お前、今日もその格好なんだ」
制服の上に羽織ったコートを見て言うと、久世は自分の襟元へ目をやった。
「ほかの方がよかった?」
「いや。いつも同じだなって」
「午前中は仕事だったしね。着替えを持つほどでもないかなと思って」
「そっか」
学校の外でも、やはり先輩に見えた。
当たり前だ。実際に先輩なのだから。
駅へ向かう道には、落ち葉が溜まっていた。
硝子がそれを踏みながら歩いていると、久世がさりげなく歩幅を狭めた。急いでいないときでも、彼の一歩は少し大きい。
「ゆっくりでいいよ」
先に言われた。
硝子は足元から顔を上げる。
「元からゆっくり歩いてる」
「うん。僕の方が速かった」
そう言って、本当にそれ以上は急がなくなった。
電話を取り出すこともなく、隣を歩いている。
「今日は、帰り何時?」
「まだ決めていないよ」
「決めてなくていいの?」
「遅くなるかもしれないと伝えてきた。明日の朝には戻っていればいいから」
硝子は、さっき五条へ返された紙を思い出した。
「じゃあ、あの店くらい寄れたんじゃない」
「君が本を選び終わってから考えればいいことだよ」
久世は歩く速さを変えずに答えた。
「先に買ってくると言ったら、そっちの用事も済ませないと帰れなくなるからね」
「……ふぅん」
「今日は、君の買い物に付き合うんだよ」
そういうことは、道を歩きながらでも普通に言う。
硝子は前へ向き直った。
書店に入ると、硝子は案内板を見て、まっすぐ奥の階段へ向かった。
専門書の売り場には、よく似た題名の本が何冊も並んでいた。
薄いもの。分厚いもの。図の多いもの。開いた途端に、今の自分には早いと分かるもの。
右から順に何冊か抜き、目次と中身を見比べる。
久世は一歩離れたところで棚を眺めていた。
「どんなのを探してるの」
「まず、どこに何があるのか分かるやつ。今の本、言葉は載ってるけど図が少なくて」
「ああ」
背の低い本を一冊抜いて、こちらに表紙を向けた。
硝子は受け取り、ぱらぱらとめくる。
「これくらいなら、分かりそう」
「よかった」
「でも、こっちの方が図は大きいんだね」
別の本を並べる。
一方は持ち歩きやすいが、図も文字も少し小さい。もう一方は詳しく見える代わりに、鞄に入れると場所を取りそうだった。
同じ部位が載っているページを探し、交互に見る。
用語の説明も少しずつ違う。
片方を戻しかけて、もう一度開く。
しばらくして、隣から声がした。
「両方あった方が便利そうだね」
「使いそうではあるけど」
「なら、揃えたら?」
硝子は顔を上げた。
「二冊?」
「この先も必要なものがあるなら、まとめて揃える話にしてもいいよ。高専への寄贈という形なら、通せると思う」
「……何の話?」
「資料を増やす話。君が使うものを選んでもらえれば、その方が無駄も少ないし」
久世は棚を見ながら、もう少し先の段まで目をやった。
選ぶ対象が増えている。
「久世家から?」
「うん。あぁ、気にするなら東京校に必要資料として請求するといい。制度としては――」
「待って」
硝子は、開いていた本を閉じた。
「私の本、買いに来たんだけど」
久世がこちらを見る。
「うん。家入さんが使うためのものだ」
「借りる本じゃなくて、自分の。書き込んだり部屋に持って帰ったりするやつ」
「君が使う分は、そのようにしておけば」
「そういう話を増やすのが面倒なんだって」
学校へ話をして、置く場所を決めて、使うときの決まりを作って。
欲しい本を一冊選ぶために、どうしてそこまで増やさなければならないのか。
久世は口を閉じた。
手にしていた本の背を指で撫で、それから棚へ戻す。
「先に揃えておけば、必要になったときに困らないと思ったんだけど」
「必要になったら、また買うよ」
「……そうだね」
「今日は、私が読む一冊を選びたい」
彼は硝子の手元を見た。
少し考えてから、頷く。
「分かった」
言い方はいつもどおりだったが、納得したというより、一度引っ込めたように見えた。
まあ、実際に増やされなければそれでいい。
硝子は二冊を持ち直した。
「どっちの方が見やすいと思う?」
「僕が見ても分かるかな」
「医学の中身じゃなくて、字とか図とか」
久世が隣へ寄った。
二冊を開いて見比べ、少し目を近づける。
「図は、こっちかな。大きい方」
「だよね。でも、こっちの方が軽い」
「持ち歩くならそうだね。ただ、机で使うなら――」
小さい方の本を、少し閉じる。
指を緩めると、ページが戻ってしまった。
「これは、押さえていないと閉じるね」
「ああ」
「この前、ノートに写していたから。片手を取られると、使いづらいかもしれない」
硝子はもう一冊でも試してみた。
こちらは開いたところで、だいたい止まる。
机へ置いて読みながら書くには、確かにこちらの方がよさそうだった。
「……じゃあ、こっちにする」
「うん」
「もう一冊は、今のが分かってから考える」
小さい方を棚へ戻す。
棚へ戻した方まで買おうとは言わなかった
会計を済ませると、紙袋は思ったより重かった。
片手で持ち直していると、久世が手を出した。
「持つよ」
「持てるけど」
「うん。持てるのは分かる」
出した手は、そのままだった。
硝子は少し笑って、袋を渡した。
「じゃあ、よろしく」
「任せて」
久世は自分の鞄と反対の手で、それを持った。
役目ができると、機嫌がよくなるらしい。
階段の手前で、硝子は足を止めた。
文庫本の売り場は、一つ下の階にある。
「先輩は買わないの」
「せっかくだから、一冊見てもいいかな」
「いいよ。私のはもう終わったし」
今度は久世が先に立った。
目当ての棚があるらしく、少し迷ってから、数冊が平積みになったところへ向かう。
「この前の、読み終わった?」
「読み終わったよ」
「面白かった?」
「うん。途中で随分文句を言ったけど、最後まで読んでよかった」
「そういう感想なの」
「最後の方は、もう少し続きがあってもよかったな」
硝子は表紙を覗いた。
差し出された本の裏を見て、見覚えのある筋書きだと気づく。
「あ、それ映画になるやつ?」
「みたいだね」
「そっちは見ないの?」
「今のところは。本なら電車でも読めるから」
返した本を、久世が棚へ置く。
少し先の新刊を一冊取り、冒頭を読んでから手元に残した。
「決めるの早いね」
「僕のは、外れても困らないから」
「困る時って?」
「どうだろう」
こちらを見て笑った。
硝子は、さっき資料の棚を増やしかけた話を思い出した。
「しつこそう。見てたら分かる」
「そんなに?」
「さっきも、一回じゃ引っ込めなかったじゃん」
久世は困ったように眉を下げたが、否定はしなかった。
外へ出ると、さっきより人が増えていた。
久世は紙袋の持ち手を揃え、硝子の隣へ戻ってくる。買った文庫本は、自分の鞄に入れたらしい。
「ほかに見たいところは?」
「文房具。ノートも買いたい」
「分かった」
駅へ戻りかけていた足が、すぐに止まった。
店の並ぶ方へ向き直り、案内を探す。
「予定になかったけど、いいの」
「そのために空けてきたんだよ」
久世は店の入口を見つけると、こちらを振り返った。
「買うものを先に全部決めてからでないと、付き合えないわけじゃないから」
「へえ」
「そんなに意外?」
「さっき、本棚ごと決めかけてたから」
「……あれは、また別の話にしてもらえると」
少しだけ嫌そうな顔をした。
まだ言われるとは思っていなかったらしい。
文房具の売り場で、硝子はノートを二冊選んだ。
久世はその隣でペンの替芯を見つけ、一本手に取っている。ついでがあるのは彼も同じようだった。
会計を待つ間、紙袋を持っている手が目に入った。
机の上で本をずらしてくれたときにも見た手だ。
今は指に持ち手が食い込んで、少し赤くなっている。
「それ、重くない?」
「それなりに」
「やっぱ持とうか」
「もう少し持たせて」
「何それ」
久世は袋を持ち替え、空いた方の手を一度開いた。
「せっかく付き添いで来たんだから、何かしたいんだよ」
硝子は顔を上げた。
彼は、いつものように笑っていた。
それでも、今日は何となく、笑っているだけではないと分かった。
「本、選ぶの手伝ったじゃん」
「そうだったね」
「役に立ったよ」
「うん」
それから、少し声が柔らかくなった。
「でも、持ってたいかな」
硝子は先に列を進んだ。
店員へノートを渡しながら、これ以上余計な話を足さなくてよかったと思った。
駅へ戻ると、久世は時計を見た。
「五条くんの店、今からなら寄れるけど」
「でも、自分で行ってるかもよ」
「そうだね」
「私が訊く」
「助かるよ。まだ彼の連絡先は聞いてなくて」
「そっか」
知り合いの顔をして話しているので、三人とも同じくらい付き合いがあるような気がしていた。
五条へメールを送ると、すぐに返事が来た。
もう買った。ついでに夕方には戻る。
硝子はそれを久世へ見せた。
「よかったね。用事、増えなくて」
「うん。僕の代わりに伝えておいて」
「何を?」
「ちゃんと自分で買いに行けて偉いね、って」
硝子は笑った。
そのまま送るのはやめておいた。
*
高専へ戻ると、談話室に菓子の箱が二つあった。
五条は片方の蓋を開けて、何かを選んでいる。
「遅くね?」
「本、見てたから」
「先輩もずっと?」
「うん」
久世が答え、持っていた袋を硝子が引いた椅子の脇へ置いた。
五条はその中を覗き込んだ。
「一冊じゃん」
「選んだんだよ」
「そんなに迷う?」
「こいつ、棚ごと増やそうとしたんだよ」
久世がこちらを向いた。
夏油も、持ち帰ったらしい別の袋から顔を上げる。
「棚?」
「医学書を揃えて、高専に寄付する話になりかけた」
「は?」
五条が久世を見た。
それから、声を上げて笑った。
「何、そのジジイみてえな口説き方」
「口説いてはいないよ。あの話は」
「そこは口説いてねえのかよ」
五条がまた笑う。
久世は一度、何か言い返しかけてから口を閉じた。
「必要なものが揃っている方が、便利だと思ったんだけどね」
「それはそうですね」
夏油が頷く。
硝子は紙袋から本を取り出した。
「私は今日、自分で読むのを買いたかったの」
「ああ、なるほど」
夏油はそこで納得した顔になった。
久世はまだ何か言いたそうだったが、こちらが本を机へ置くと、そちらへ目を落とした。
「場所、取るね」
「でも、ここで見るなら置けるからいいの」
机の端へ寄せ、ノートを隣に開く。
書店で試したとおり、本は手を離しても開いたままだった。
「ほら」
「うん」
硝子が本を見ていると、横から菓子の箱が差し出された。
「先輩、一個いる?」
五条だった。
久世が、少し驚いた顔をする。
「貰ってもいいのかな」
「いらねぇなら俺が食う」
「悟」
夏油が呆れた声を出した。
久世は箱の中を見て、一つ取る。
「いただくよ」
五条はさっさと自分の分へ戻った。
硝子も一つ取ったが、何も言われなかった。
夕方、久世は午前の仕事の書類を取りに職員室へ寄ってから帰っていった。
硝子の本は、部屋へ持って帰るまで、机の上に開いておいた。
夜になって、続きを読もうと机に向かった。
新しいノートは、もう二ページ目が埋まりかけていた。
片手で本を押さえなくていいのは、やはり楽だった。
携帯を出して、メールを打った。
『この本、使いやすい。
今日はありがと。』
送ってから机へ戻る。
二つ目の用語を書いているところで、携帯が震えた。
『それはよかった。
僕が買った方も、当たりみたいだよ。』
硝子は画面を眺めた。
そういえば、表紙を少し見ただけで、どんな話なのかは聞いていなかった。
『読み終わったら貸して。』
今度は、返事が早かった。
『もちろん。』
硝子は携帯を机の脇へ置いた。
借りる本が一冊増えることには、別に文句はなかった。