家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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「お前、仲人にでもなるんか」

 

 直哉が言うと、雅臣は紙から顔を上げた。

 

 禪院家の客間だった。畳の上には、蔵の封印を更新するための書類が三つの束に分かれている。その脇に置かれた薄い封筒だけ、直哉の家とは関係がなかった。

 

 雅臣が席を外している間に、直哉が開けたものだ。

 

「それ、君に見せるつもりで置いたわけじゃないんだけどね」

 

「置いとく方が悪いわ」

 

 直哉は中の紙を膝へ落とした。

 

 二つの家の名。息子の略歴。卒業後の居住地について。仕事の継続について。女一人に、随分と細かい条件をつけている。

 

 家入硝子。

 

 その名前は、ここひと月ほどで何度も耳にしていた。

 

 東京にいる、他人を治せる反転術式の使い手。そして、目の前の男が、仕事のついでという顔をして会いに行く女だった。

 

「前のは引っ込めさせたんやろ。何でこっちは残しとんの」

 

「どこから聞いたの?」

 

「向こうから」

 

 雅臣が小さく息を吐いた。

 

 家へ出入りしている男が、先日、直哉の父へ愚痴をこぼしていた。久世の若いのが随分と熱心で、と笑っていたが、笑いながら言わなければならない時点で、負けた話だった。

 

 直哉は、そういう話を聞くのは嫌いではなかった。

 

「久世が先に話つけとるとこへ、割り込むつもりはなかったんやて。えらい遠慮深いこっちゃな」

 

「僕がお願いしている相手だとは、伝えたよ」

 

「それで相手に引かせたんやろ」

 

「競合する相手がいると分かったら、考え直す人もいるからね」

 

 競合。

 

 直哉は鼻で笑った。

 

 あの家は封印の維持でも呪物の移送でも、久世の手を借りている。今ここで跡取り息子の機嫌を損ね、何年も先まで面倒を持ち越したくはなかったのだろう。雅臣が仕事を盾に何か言ったかどうかなど、さして重要ではない。

 

 わざわざ名前を出されれば、誰でもそこまで考える。

 

「本人、知っとんの」

 

「僕が好きだと言っていることなら、知ってるよ」

 

「そっちちゃうわ」

 

 直哉が笑うと、雅臣も笑った。

 

 襖が開き、帳面を持った女が入ってきた。

 

 家の出入りの金を扱っている一人だ。直哉が子供の頃から見かける顔で、こちらへ一礼した後、雅臣の前へ帳面を置いた。

 

「こちらが前年の控えでございます。先ほどのお話ですが、東の蔵の分は——」

 

「置いといたらええ」

 

 直哉は言った。

 

 女の口が止まる。

 

 雅臣が帳面を開いた。

 

「別に計上してあるんだね」

 

「はい。そちらは、秋の更新がございましたので」

 

 女は直哉を見ずに答えた。

 

 雅臣は指を頁に挟み、さっきまで見ていた書類を引き寄せる。

 

「ありがとう。少し借りていくよ」

 

「かしこまりました」

 

 襖が閉まってから、雅臣はこちらを見た。

 

「あの説明は聞いておいた方がいいよ。最初の数字のままなら、東の分を二度払うことになっていた」

 

「ほな、最初からそう言えや」

 

「言いかけていたと思うけど」

 

「女が口挟むから長なるねん。聞かれたことだけ答えたらええ」

 

 雅臣は返事をせず、数字の横に細く線を引いた。

 

「じゃあ、その聞く役は君がやってくれる? 向こうから教えてもらえないなら、抜けている分をこっちで探さないといけない」

 

「お前に任せとるやろ」

 

「なら、僕が聞いている時は邪魔をしないでほしいな」

 

 顔は穏やかだった。

 

 直哉は膝の上の紙を、雅臣の方へ投げて戻した。

 

「口の減らんやつやな」

 

「今ので減ったのは、君の家が払う金だけだよ」

 

 それはそうだったので、直哉はそれ以上言わなかった。

 

 雅臣は戻された紙を拾い、蔵の書類とは別へ揃えた。

 

「で、それ。断らせるんやないの」

 

「本人に聞くよ」

 

「何を」

 

「会いたいかどうか」

 

 直哉は雅臣を見た。

 

 冗談を言った顔ではない。自分がどれだけおかしなことを言っているか、分かっていないようにも見えた。

 

「選ばれたらどないすんねん」

 

「困るね」

 

「せやろが」

 

「でも、この内容なら、家入さんにとって悪い話ではないかもしれない」

 

 雅臣は紙の端を指で整えた。

 

「片方は、籍を移しても東京での仕事を続けられる。もう片方は、相手の方が家を出てもいいと言っている。費用の話も、口約束だけではない」

 

「よう調べたな。相手の売り込みまでしてやる気か」

 

「家に都合のいいだけの話なら、僕も気にせずに済むんだけどね」

 

 雅臣は面白くもなさそうに笑った。

 

 直哉は机の端を爪で叩いた。

 

 女の返事を聞く前に、周りを退かせる。残った話は自分の手で中身を確かめ、その上で本人へ持っていく。

 

 選ばせる場所にまで、自分で立っていなければ気が済まないらしい。

 

 ただ引っ込めてしまうより、手間がかかる。

 

「面倒な女やな」

 

「まだ何も頼まれていないよ」

 

「ほな、面倒なんはお前か」

 

「その話なら、最初からそう言っているつもりだけど」

 

 雅臣は封筒へ二件分の紙を入れた。

 

 直哉には、そこまでやる値打ちのある女なのか、まだ分からなかった。

 

 会ったこともない。

 

 少なくとも、雅臣は一度も連れてこようとはしなかった。

 

     *

 

 久世が持ってきた写真を、硝子は一枚ずつ裏返した。

 

 二人とも知らない顔だった。

 

「自分が断られたからって、他の男を勧めに来たの」

 

「そういうことではないよ」

 

 久世の返事は早かった。

 

 医務室の机に、二つの家の資料が並んでいる。硝子の本を置く場所まで埋まり、久世はそれに気づくと、自分の側へ少し寄せた。

 

「私、相手を探してくれって頼んだっけ」

 

「頼まれていないね」

 

「じゃあ、何」

 

「僕が探してきたわけじゃないんだ。君のところへ話を持っていきたい、という人たちがいる」

 

「本人のところに来ないのかよ」

 

「来る前に、周りで確かめておきたいことがあるんだろうね」

 

 硝子は写真をもう一度見た。

 

 同じように正面を向き、同じようにかしこまった顔をした男が二人。片方は久世より少し年上に見える。もう片方は、写真だけではよく分からなかった。

 

 その横に置かれた紙の方が、ずっと厚い。

 

 家の来歴。親戚の名前。術式について。どこに住んでいるか。

 

 読み飛ばしていくと、ようやく自分に関係のありそうな言葉が出てきた。

 

「進学費用?」

 

「医学を学びたいなら、卒業後も支援するという話だよ。学費だけじゃなく、必要な書籍や、見学の紹介も含めて」

 

「そんなことまで言ったの」

 

「君が何を希望しているかは、まだ伝えていない。向こうから出た条件だよ」

 

 久世は別の頁を開いた。

 

「こっちは、結婚した後も東京を離れなくていい。相手は家督を継ぐ立場ではないから、家に常駐する必要がないそうだ」

 

「へえ」

 

「こっちの家は、仕事を続けること自体は認めている。ただ、家からの治療の依頼は優先してほしいと言っているから、そこは確認した方がいいね」

 

 硝子は頬杖をついた。

 

 久世は、妙に詳しかった。

 

 どの条件が後から変わりそうか。誰が言ったことなら、別の人間がひっくり返しにくいのか。家を出る、というのが住所の話なのか、仕事の所属も含めた話なのか。

 

 硝子が聞いていないところまで、既に聞いてきたらしかった。

 

「ちゃんと見たの、これ」

 

「見ているよ」

 

「全部?」

 

「ここへ持ってくる分はね」

 

 硝子は、頁をめくりかけた手を止めた。

 

「持ってこなかった分もあるんだ」

 

 久世がこちらを見た。

 

 答えるまでの間は、長くなかった。

 

「それ、聞いてないけど」

 

「まだ、こういう書類になる前の話。僕も彼女が好きなので、お力添えはできませんとお伝えした」

 

「……それだけ?」

 

 久世は少し首を傾けた。

 

「僕にそういう話を頼んで、そのあとも気持ちよくお付き合いできると思いますか、とは」

 

 硝子は、持っていた紙を机へ置いた。

 

「喧嘩売ってんじゃん」

 

「引いてくださった方もいるよ」

 

 硝子は机へ視線を戻した。

 

 知らない男の写真が、こちらを向いている。さっき見た時より、男そのものには興味がなくなった。

 

 この紙が用意されるまでの間、自分は何をしていただろう。

 

 映画を見て、仕事をして、本を読んでいた。久世とも会った。その間に、この男は別の場所で、こういう話も聞いていた。

 

「それでも来るのかよ」

 

「僕を気にしない方もいるし、気にするからこそ、持たせたい方もいるんだろうね」

 

「面倒だな」

 

 硝子が言うと、久世は深く頷いた。

 

 硝子はしばらく、その顔を見た。

 

 隠していたのか。言うほどのことではないと思っていたのか。少なくとも、自分が聞かなければ、この男は二つの条件だけを説明して帰っただろう。

 

「先に言えよ」

 

「……そうだね」

 

 久世は机の上で、指を組み直した。

 

「僕も、君に選んでほしい側だから。ほかの人が近づいてくるのを、何もせずに見ているつもりはなかった」

 

「付き合ってるって言ったりしてないよな」

 

「それは言っていない」

 

「勝手に決まったことにされるのは嫌だからね」

 

「分かってるよ」

 

 硝子は、目の前の二件を指で叩いた。

 

「だったら、こっちも止めればよかったじゃん」

 

 久世はすぐに返事をしなかった。

 

 自分で持ってきた紙を見て、少しだけ唇を曲げた。

 

「君にとっても、要らないものかどうかは分からなかったから」

 

 硝子は、写真から手を離した。

 

「会いたいと言われたら、会わせるの」

 

「……そうなるね」

 

「その顔で?」

 

 久世がこちらを見た。

 

「どんな顔をしてる?」

 

「すげえ嫌そう」

 

 久世は少し黙ってから、笑った。

 

「嫌だからね」

 

 否定しなかった。

 

 硝子は片方の資料を引き寄せた。

 

 金を出す。住む場所を用意する。仕事も続けてよい。

 

 書いてあることだけ見れば、困ることは少なそうだった。自分で金を払い、自分で次の場所を探すより、簡単になることもあるのだろう。

 

 だからといって、この写真の男に会いたくなるわけではなかった。

 

「私が今、何か欲しがってると思った?」

 

「呪術界に居ながら医学をめざすなら、役に立つ条件はあると思う」

 

「本は、自分でも買えるよ」

 

「うん。今すぐ困っていると思ったわけではないよ」

 

 久世は椅子へ座り直した。

 

「先のことを決める時に、選べるものが増える。そういう話だね」

 

 その声を聞いて、硝子はもう一度、手元の紙を読んだ。

 

 この男と結婚すれば、選べることが増える。

 

 結婚しない、という方を選ぶだけで、手元からなくなるものでもあった。

 

 特に惜しいとは思わなかったが、久世が捨てずに持ってきた理由は、少し分かった。

 

 廊下から、近づく足音がした。

 

「あ、まだいた」

 

 五条が顔を出した。後ろに夏油もいる。

 

「久世。先生、呼んでる」

 

「もう戻られた?」

 

「戻ったから呼んでんだろ」

 

 久世は時計を見てから、硝子へ向き直った。

 

「少し、席を外すよ」

 

「これ置いてくの」

 

「まだ後ろに条件があるから、読んでもらえると助かる」

 

「私、頼んでないもので宿題増やされたんだけど」

 

 久世は立ちかけたところで止まった。

 

「……戻ってから説明するよ」

 

「その方がいい」

 

 久世が出ていくと、五条がすぐ机を覗き込んだ。

 

「何これ」

 

「私の縁談だって」

 

「あいつが持ってきたの?」

 

「うん」

 

 五条が笑った。

 

「何やってんの、あいつ」

 

     *

 

「この家、病院と繋がりがあるんだ」

 

 夏油は机の端に立ったまま、紙を読んでいた。

 

「よく分かんねえけど、あるらしいね」

 

「条件は、ずいぶんいいように見えるけど」

 

「だろうな。硝子だし」

 

 五条が言った。

 

 硝子は椅子の背にもたれた。五条は見知らぬ男の写真を持ち上げ、すぐに机へ戻す。

 

「反転術式を他人に使えるやつなんか、金積んだってそうそう増えねえもん。家に一人いりゃ便利だろ」

 

「便利、ね」

 

「そりゃ、そうだろ。腕飛ばされても治せるかもしれねえんだぞ」

 

 あまりにも普通に言うので、硝子は一度、自分の手を見た。

 

 その手で何ができるかは知っている。

 

 五条が言っていることも分かる。ただ、その話と結婚という言葉が、五条の中では少しもぶつからないらしかった。

 

「じゃ、治す時に頼みに来ればいいじゃん」

 

「頼んで来てくれるならな。どっかの家の嫁になったら、そっちが先って話にもなるし」

 

 五条は紙の一行を指した。

 

 先ほど久世が、確認した方がいいと言ったところだった。

 

「取られる前に取っときてえんだろ」

 

 夏油が眉を寄せた。

 

「人の話だよ、悟」

 

「だから? 俺が取るって言った?」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

「こいつらが何欲しいかって話じゃん」

 

 五条はそこで紙から手を離した。

 

 夏油は何か言いかけ、結局、続きを読んだ。

 

「……生まれた子の所属?」

 

 声が変わった。

 

 硝子は顔を上げた。

 

「子供の話まであるの」

 

「そりゃあるだろ。何のための縁談だよ」

 

 五条は驚かなかった。

 

 夏油は、もう一度その行を読んだ。少し離れたところにも目を走らせる。

 

「相手が家を出ても、子供は向こうの家の管理に入るって」

 

「一緒に住まなくていいってだけか」

 

 硝子が言うと、五条は、そうそう、と頷いた。

 

「でも、私のこれ、術式じゃないよ」

 

「知ってるよ」

 

「子供に同じことできるかなんて、分かんないだろ」

 

「分かんなくても、欲しいんだろ。出りゃ得だし、出なくても硝子はいるんだから」

 

 夏油が五条を見た。

 

 五条はその顔を見返した。

 

「何。俺に言うなよ」

 

「……まだ何も言ってないだろ」

 

「言いそうな顔してた」

 

 硝子は机の上から、写真を二枚とも取り上げた。

 

 少し前には、名前も知らなかった男だった。

 

 その男と自分の間にできる子供の行き先を、知らない誰かが考えて、紙に書いている。

 

 まだ産むとも言っていない。

 

 薄い紙なのに、持っているのが急に嫌になった。

 

 裏返し、資料の上へ重ねる。

 

「いらない」

 

 言うと、五条はあっさり頷いた。

 

「だろうな」

 

「だったら、何であんなに普通に説明するの」

 

「普通の話だから」

 

 夏油が溜息をついた。

 

 五条は、それにも少し不服そうだった。

 

 硝子は二件分を重ね、机の向こうへ押した。

 

 条件が悪いから断ると言えば、もっと良くすればいいという話になるのだろう。

 

 ここに何が書き足されても、知らない男と暮らしたいとは思わない。そのことを、どの項目に書けば伝わるのか。

 

 久世なら分かるだろうか。

 

 あの男も、本人を見れば機嫌がよくなるくせに、こういう紙はずいぶん熱心に読んでいた。

 

「家入、久世先輩に断ってもらうの?」

 

 夏油が聞いた。

 

「持ってきたんだから、持って帰ってもらう」

 

「その返事を、先輩が使うことにもなるけど」

 

「何に」

 

「自分以外は断った、って」

 

 硝子は夏油を見た。

 

「あいつも断ってるよ」

 

 五条が声を立てて笑った。

 

 夏油は一度口を閉じ、それから困ったように笑った。

 

「それは、そうなんだけどね」

 

「その辺は、本人に言っとく」

 

 硝子は椅子を少し引き、窓を開けた。

 

 外の空気が入ってくる。

 

 五条が欠伸をして、夏油の肩を叩いた。

 

「行こうぜ。返事するなら俺らいねえ方がいいだろ」

 

「悟、さっきまで読む気だったじゃないか」

 

「もう飽きた」

 

 五条は先に部屋を出た。

 

 夏油は一度、机の上を見た。硝子が手を振ると、小さく頷いて後を追った。

 

 廊下で、二人が何か言い合い始める。

 

 途中から、夕食までの時間に何をするか、という話に変わっていた。

 

     *

 

 久世が戻ってくる頃には、硝子は写真も紙も封筒へ入れていた。

 

「二人は?」

 

「飽きて帰った」

 

「そっか」

 

 久世はさっきの椅子へ座り、机の封筒を見た。

 

「どこまで読んだ?」

 

「読んでない。断る」

 

 久世の指が止まった。

 

「両方?」

 

「両方。会わないし、結婚しない」

 

「……分かった。そう伝えるよ」

 

 頷いてから、封筒へ手を伸ばす。

 

 さっきまで、どの条件を説明する時も、こちらがどう受け取ったかを確かめるようにしていた。その顔から、何かが少し抜けた。

 

 硝子は頬杖をついた。

 

「嬉しそうだな」

 

「君の前では、隠した方がよかった?」

 

「別に」

 

 久世は笑った。

 

 自分も断られていることを、忘れてはいないだろう。それでも、ほかの誰かと会う話がなくなるだけで、こんな顔になる。

 

 硝子には、そっちの方が分かりやすかった。

 

 知らない家から出された、長い条件の束よりは。

 

「ただ、断る理由を聞かれた時のために、少し確かめておきたいんだけど」

 

「子供の話、あったね」

 

 久世が顔を上げた。

 

「あったよ。家を出る方も、そこは自由になる条件ではなかった」

 

「五条に聞いた」

 

「そこが嫌だった?」

 

「そこも嫌」

 

「なら、その部分を変えられるかどうか、向こうへ——」

 

「話増やすなよ」

 

 久世が口を閉じた。

 

「そこがなくなったら結婚したいわけじゃないって。相手知らないし、知りたいとも思わない。今の暮らしやめて、その人と何か始めたいわけでもない」

 

 言ってから、硝子は机へ肘をつき直した。

 

 久世は黙って聞いていた。

 

「条件がよくなれば、欲しくなるものでもないでしょ」

 

「……そうだね」

 

 久世は封筒を自分の側へ寄せた。

 

「分かった。条件の修正は求めない。今は誰とも、こういう話を進めるつもりがない。それで返すよ」

 

「うん」

 

「会わずに断るのか、とは言われるかもしれないけど」

 

「言わせとけば」

 

 久世は少し笑った。

 

「そこは、僕が聞いておくよ」

 

 硝子は椅子の背にもたれた。

 

 それが済めば終わりだと思うと、眠くなってきた。知らない男の写真を見るだけで、こんなに時間を使うことになるとは思わなかった。

 

 久世は紙を鞄へしまいながら、続けた。

 

「ほかの話が君のところへ来たら、この二件も断ったと伝えておくといい。ただ、家によっては——」

 

「それ、そっちに回していい?」

 

 鞄を閉じる手が止まった。

 

「……僕に?」

 

「同じ返事何回もするの、面倒くさい。相手に合わせた言い方とか、誰に言えば伝わるかとか、そっちの方が分かるでしょ」

 

「それは、分かると思うけど」

 

「じゃあ、その辺任せる」

 

 久世は、鞄から手を離した。

 

 引き受けたら何件増えるのか、という顔にはならなかった。

 

「いいよ。向こうの窓口も、こちらで揃えておく」

 

「私が誰かと決まったって言うのはなしね。お前も含めて」

 

「うん」

 

 そこでは、少し笑い方が変わった。

 

 残念そうに見せたのかもしれない。硝子は気にせず、先を続けた。

 

「断り方は任せる。迷うことがあったら聞いて。勝手に何か約束されるのだけは嫌だから」

 

「分かった」

 

 久世は頷き、早くも何かを書きつけ始めた。

 

 その手つきを見て、硝子は少しだけ考えた。

 

 自分の知らないところで久世が相手を選ぶことを、何も知らされないままでいたいとは思わない。

 

 けれど、一度知った後まで、自分で全部引き受けたいわけではなかった。

 

 この男は、ほかの男を近づけたくない。

 

 自分は、来るたび同じ説明をするのが嫌だ。

 

 その二つが同じところへ向いているなら、使わせてもらえばよかった。

 

「家入さん宛てに来る縁談は、先に僕へ話を通してもらえるようにする。ただ、全部の経路を知っているわけではないから、直接届いたものは教えて」

 

「分かった」

 

「先生にも、君から頼まれた範囲を伝えておくよ」

 

「そこもよろしく」

 

 久世は手帳を閉じて懐へと入れる。

 

「結構面倒なこと頼んだと思うんだけど」

 

 硝子は言った。

 

「うん。分かってるよ」

 

「本当に?」

 

 久世が顔を上げた。

 

「家入さんが自分で何度も断るより、僕が話した方が早い。それに、嫌々引き受けているわけでもないから」

 

 それは見れば分かった。

 

 少なくとも、知らない男の条件を説明している時より、今の方がずっと機嫌がいい。

 

「ならいいけど」

 

 硝子は、取り戻した机の空きに本を置いた。

 

 久世は、ようやく鞄を閉じた。

 

     *

 

「全部断ったんか」

 

 数日後、直哉は庭へ向かう廊下で雅臣を見つけ、声をかけた。

 

 蔵の件で預けていた控えを返しに来たらしい。手にはもう、あの封筒はなかった。

 

「随分早く聞くんだね」

 

「お前が持っていった先、どっちも知っとるからな」

 

 雅臣は、そうか、と頷いた。

 

 直哉はその顔を見た。

 

 もう一度、女に振られてきた顔には見えない。

 

「決まったわけやないんやろ」

 

「何が?」

 

「お前と、その女」

 

「付き合ってはいないよ」

 

「ほな、何をそんな機嫌ようしとんねん」

 

 雅臣は少し考えるように、視線を庭へ向けた。

 

「家入さんに来る縁談を、僕に任せてくれることになったんだ」

 

 直哉は足を止めた。

 

 雅臣も立ち止まる。

 

「……断られて、仕事増やされてきたんか」

 

「そう言うと、ずいぶん嫌な話に聞こえるね」

 

「そういう話やろ」

 

「頼まれたんだよ」

 

 雅臣は、なぜか、そこで笑った。

 

 直哉には分からなかった。

 

 女が男の好意を知っている。応じるつもりはないと言い、その男に面倒なことを任せる。雅臣もそれを分かった上で、嬉しそうに引き受けている。

 

 直哉なら腹が立つ。

 

 自分を何だと思っているのかと、相手を呼び戻すところだった。

 

「よう、そんな使われ方できるな」

 

「君もよく僕に用事を寄越すけど」

 

「俺と一緒にすんなや」

 

「一緒にはしていないよ」

 

 雅臣の返事は、妙に軽かった。

 

 直哉は少し眉を寄せた。

 

 この男が、ただ言われたことをやるだけの人間でないことは知っている。蔵の数字が違えば指摘するし、予定にない仕事を足せば別の費用を求めてくる。久世が持つ権限を曖昧にしたまま使おうとすると、こちらの家の誰がそれを引き受けるのかと、話を戻す。

 

 それが、女一人にはこれだった。

 

 いや、違うのか。

 

 女へ話を持っていくためには、今度から雅臣を通す。

 

 本人に頼まれたという、一番使い勝手のいい理由を手に入れている。前のように、自分が好意を持っている相手だと匂わせるだけではない。

 

「……お前の窓口通さんと、会う話もできへんのか」

 

「直接来たものも、回してもらうことになってるよ」

 

「そら、ええ仕事やな」

 

 直哉が言うと、雅臣は笑ったまま、否定しなかった。

 

 しかし、それだけでもないのだろう。

 

 直哉の知る雅臣なら、得な役目を取った時には、もっと、してやったりという顔をする。

 

 今の顔は、それより少し間が抜けていた。

 

「一回、会わせてや」

 

「誰に?」

 

「お前の好きな硝子ちゃんに」

 

 雅臣の顔がこちらを向いた。

 

「家入さんと言いなさい」

 

 笑っていた。

 

 だが、さっきまでとは違った。

 

 直哉は雅臣を見返した。年下に言い聞かせるような口の利き方も、気に入らなかった。

 

「名前で呼んだだけやろ」

 

「会ったこともない相手に、ずいぶん親しげだから」

 

「ほな会わせたらええやん」

 

「君には会わせたくないな」

 

 その返事には、間がなかった。

 

 直哉は笑った。

 

「何や。取られる思うんか」

 

「そういう心配ではないよ」

 

「なら何」

 

「君が女の人にどういうことを言うか、僕は知っているからね」

 

 直哉は舌で頬の内側を押した。

 

「向こうが気ぃつけたら済む話やろ。口の利き方くらい教えときや」

 

「教えるなら、君にだね」

 

 雅臣が言った。

 

 直哉は笑うのをやめた。

 

 廊下の向こうに、人影がある。二人が立ち止まっているのを見て、別の方へ曲がった。

 

 雅臣はそちらを見なかった。

 

「……誰に言うとんねん、お前」

 

「僕は、君とはこれからも付き合いたいと思っているよ」

 

 雅臣は言った。

 

 声は、相変わらず穏やかだった。

 

「だから、会わせない」

 

 直哉は相手の顔を見ていた。

 

 自分が何か言う。女が気分を悪くする。雅臣がこちらに腹を立てる。

 

 その程度のことのために、禪院との付き合いを捨てるのか。

 

 捨てるとは言っていない。

 

 言っていないが、今の返事には、起きてから考えるつもりもなさそうだった。

 

 直哉は鼻で笑った。

 

「大層なこっちゃな。付き合うてもないくせに」

 

「そこは、早く変えたいね」

 

 雅臣の声が、元へ戻った。

 

 今の話をした後で、その返事ができる。

 

 直哉は呆れた。

 

 女を一人連れてくるだけで、ここまで面倒になる男だっただろうか。どこを言えば嫌がるかは、もう分かった。そのくせ、なぜそこまで嫌がるのかは、分かった気になれなかった。

 

 こんな顔をするところを、ほかの人間にも見せているのか。

 

 東京では、もっと間の抜けた顔をしているのかもしれない。

 

「次、東京いつ行くん」

 

 直哉が聞くと、雅臣はこちらを見た。

 

「教えないよ」

 

「別に、ついてく言うてへんやろ」

 

「今の話の後で、それを信じてもらうのは難しいんじゃないかな」

 

 直哉は笑った。

 

 雅臣も笑っていた。

 

 少なくとも、何でも見抜いたような顔をされるよりは、今の方が話しやすかった。

 

「東の蔵の分、帳面直させといたで」

 

 直哉は先に歩き始めた。

 

「二重に払う話にはなってへんか、帰る前に見とけよ」

 

「それはさっき確認した。直っていたよ」

 

「ほなええわ」

 

 それについては、直哉も確認していた。

 

 雅臣が見たかどうか、聞いておきたかっただけだった。

 

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