「お前、仲人にでもなるんか」
直哉が言うと、雅臣は紙から顔を上げた。
禪院家の客間だった。畳の上には、蔵の封印を更新するための書類が三つの束に分かれている。その脇に置かれた薄い封筒だけ、直哉の家とは関係がなかった。
雅臣が席を外している間に、直哉が開けたものだ。
「それ、君に見せるつもりで置いたわけじゃないんだけどね」
「置いとく方が悪いわ」
直哉は中の紙を膝へ落とした。
二つの家の名。息子の略歴。卒業後の居住地について。仕事の継続について。女一人に、随分と細かい条件をつけている。
家入硝子。
その名前は、ここひと月ほどで何度も耳にしていた。
東京にいる、他人を治せる反転術式の使い手。そして、目の前の男が、仕事のついでという顔をして会いに行く女だった。
「前のは引っ込めさせたんやろ。何でこっちは残しとんの」
「どこから聞いたの?」
「向こうから」
雅臣が小さく息を吐いた。
家へ出入りしている男が、先日、直哉の父へ愚痴をこぼしていた。久世の若いのが随分と熱心で、と笑っていたが、笑いながら言わなければならない時点で、負けた話だった。
直哉は、そういう話を聞くのは嫌いではなかった。
「久世が先に話つけとるとこへ、割り込むつもりはなかったんやて。えらい遠慮深いこっちゃな」
「僕がお願いしている相手だとは、伝えたよ」
「それで相手に引かせたんやろ」
「競合する相手がいると分かったら、考え直す人もいるからね」
競合。
直哉は鼻で笑った。
あの家は封印の維持でも呪物の移送でも、久世の手を借りている。今ここで跡取り息子の機嫌を損ね、何年も先まで面倒を持ち越したくはなかったのだろう。雅臣が仕事を盾に何か言ったかどうかなど、さして重要ではない。
わざわざ名前を出されれば、誰でもそこまで考える。
「本人、知っとんの」
「僕が好きだと言っていることなら、知ってるよ」
「そっちちゃうわ」
直哉が笑うと、雅臣も笑った。
襖が開き、帳面を持った女が入ってきた。
家の出入りの金を扱っている一人だ。直哉が子供の頃から見かける顔で、こちらへ一礼した後、雅臣の前へ帳面を置いた。
「こちらが前年の控えでございます。先ほどのお話ですが、東の蔵の分は——」
「置いといたらええ」
直哉は言った。
女の口が止まる。
雅臣が帳面を開いた。
「別に計上してあるんだね」
「はい。そちらは、秋の更新がございましたので」
女は直哉を見ずに答えた。
雅臣は指を頁に挟み、さっきまで見ていた書類を引き寄せる。
「ありがとう。少し借りていくよ」
「かしこまりました」
襖が閉まってから、雅臣はこちらを見た。
「あの説明は聞いておいた方がいいよ。最初の数字のままなら、東の分を二度払うことになっていた」
「ほな、最初からそう言えや」
「言いかけていたと思うけど」
「女が口挟むから長なるねん。聞かれたことだけ答えたらええ」
雅臣は返事をせず、数字の横に細く線を引いた。
「じゃあ、その聞く役は君がやってくれる? 向こうから教えてもらえないなら、抜けている分をこっちで探さないといけない」
「お前に任せとるやろ」
「なら、僕が聞いている時は邪魔をしないでほしいな」
顔は穏やかだった。
直哉は膝の上の紙を、雅臣の方へ投げて戻した。
「口の減らんやつやな」
「今ので減ったのは、君の家が払う金だけだよ」
それはそうだったので、直哉はそれ以上言わなかった。
雅臣は戻された紙を拾い、蔵の書類とは別へ揃えた。
「で、それ。断らせるんやないの」
「本人に聞くよ」
「何を」
「会いたいかどうか」
直哉は雅臣を見た。
冗談を言った顔ではない。自分がどれだけおかしなことを言っているか、分かっていないようにも見えた。
「選ばれたらどないすんねん」
「困るね」
「せやろが」
「でも、この内容なら、家入さんにとって悪い話ではないかもしれない」
雅臣は紙の端を指で整えた。
「片方は、籍を移しても東京での仕事を続けられる。もう片方は、相手の方が家を出てもいいと言っている。費用の話も、口約束だけではない」
「よう調べたな。相手の売り込みまでしてやる気か」
「家に都合のいいだけの話なら、僕も気にせずに済むんだけどね」
雅臣は面白くもなさそうに笑った。
直哉は机の端を爪で叩いた。
女の返事を聞く前に、周りを退かせる。残った話は自分の手で中身を確かめ、その上で本人へ持っていく。
選ばせる場所にまで、自分で立っていなければ気が済まないらしい。
ただ引っ込めてしまうより、手間がかかる。
「面倒な女やな」
「まだ何も頼まれていないよ」
「ほな、面倒なんはお前か」
「その話なら、最初からそう言っているつもりだけど」
雅臣は封筒へ二件分の紙を入れた。
直哉には、そこまでやる値打ちのある女なのか、まだ分からなかった。
会ったこともない。
少なくとも、雅臣は一度も連れてこようとはしなかった。
*
久世が持ってきた写真を、硝子は一枚ずつ裏返した。
二人とも知らない顔だった。
「自分が断られたからって、他の男を勧めに来たの」
「そういうことではないよ」
久世の返事は早かった。
医務室の机に、二つの家の資料が並んでいる。硝子の本を置く場所まで埋まり、久世はそれに気づくと、自分の側へ少し寄せた。
「私、相手を探してくれって頼んだっけ」
「頼まれていないね」
「じゃあ、何」
「僕が探してきたわけじゃないんだ。君のところへ話を持っていきたい、という人たちがいる」
「本人のところに来ないのかよ」
「来る前に、周りで確かめておきたいことがあるんだろうね」
硝子は写真をもう一度見た。
同じように正面を向き、同じようにかしこまった顔をした男が二人。片方は久世より少し年上に見える。もう片方は、写真だけではよく分からなかった。
その横に置かれた紙の方が、ずっと厚い。
家の来歴。親戚の名前。術式について。どこに住んでいるか。
読み飛ばしていくと、ようやく自分に関係のありそうな言葉が出てきた。
「進学費用?」
「医学を学びたいなら、卒業後も支援するという話だよ。学費だけじゃなく、必要な書籍や、見学の紹介も含めて」
「そんなことまで言ったの」
「君が何を希望しているかは、まだ伝えていない。向こうから出た条件だよ」
久世は別の頁を開いた。
「こっちは、結婚した後も東京を離れなくていい。相手は家督を継ぐ立場ではないから、家に常駐する必要がないそうだ」
「へえ」
「こっちの家は、仕事を続けること自体は認めている。ただ、家からの治療の依頼は優先してほしいと言っているから、そこは確認した方がいいね」
硝子は頬杖をついた。
久世は、妙に詳しかった。
どの条件が後から変わりそうか。誰が言ったことなら、別の人間がひっくり返しにくいのか。家を出る、というのが住所の話なのか、仕事の所属も含めた話なのか。
硝子が聞いていないところまで、既に聞いてきたらしかった。
「ちゃんと見たの、これ」
「見ているよ」
「全部?」
「ここへ持ってくる分はね」
硝子は、頁をめくりかけた手を止めた。
「持ってこなかった分もあるんだ」
久世がこちらを見た。
答えるまでの間は、長くなかった。
「それ、聞いてないけど」
「まだ、こういう書類になる前の話。僕も彼女が好きなので、お力添えはできませんとお伝えした」
「……それだけ?」
久世は少し首を傾けた。
「僕にそういう話を頼んで、そのあとも気持ちよくお付き合いできると思いますか、とは」
硝子は、持っていた紙を机へ置いた。
「喧嘩売ってんじゃん」
「引いてくださった方もいるよ」
硝子は机へ視線を戻した。
知らない男の写真が、こちらを向いている。さっき見た時より、男そのものには興味がなくなった。
この紙が用意されるまでの間、自分は何をしていただろう。
映画を見て、仕事をして、本を読んでいた。久世とも会った。その間に、この男は別の場所で、こういう話も聞いていた。
「それでも来るのかよ」
「僕を気にしない方もいるし、気にするからこそ、持たせたい方もいるんだろうね」
「面倒だな」
硝子が言うと、久世は深く頷いた。
硝子はしばらく、その顔を見た。
隠していたのか。言うほどのことではないと思っていたのか。少なくとも、自分が聞かなければ、この男は二つの条件だけを説明して帰っただろう。
「先に言えよ」
「……そうだね」
久世は机の上で、指を組み直した。
「僕も、君に選んでほしい側だから。ほかの人が近づいてくるのを、何もせずに見ているつもりはなかった」
「付き合ってるって言ったりしてないよな」
「それは言っていない」
「勝手に決まったことにされるのは嫌だからね」
「分かってるよ」
硝子は、目の前の二件を指で叩いた。
「だったら、こっちも止めればよかったじゃん」
久世はすぐに返事をしなかった。
自分で持ってきた紙を見て、少しだけ唇を曲げた。
「君にとっても、要らないものかどうかは分からなかったから」
硝子は、写真から手を離した。
「会いたいと言われたら、会わせるの」
「……そうなるね」
「その顔で?」
久世がこちらを見た。
「どんな顔をしてる?」
「すげえ嫌そう」
久世は少し黙ってから、笑った。
「嫌だからね」
否定しなかった。
硝子は片方の資料を引き寄せた。
金を出す。住む場所を用意する。仕事も続けてよい。
書いてあることだけ見れば、困ることは少なそうだった。自分で金を払い、自分で次の場所を探すより、簡単になることもあるのだろう。
だからといって、この写真の男に会いたくなるわけではなかった。
「私が今、何か欲しがってると思った?」
「呪術界に居ながら医学をめざすなら、役に立つ条件はあると思う」
「本は、自分でも買えるよ」
「うん。今すぐ困っていると思ったわけではないよ」
久世は椅子へ座り直した。
「先のことを決める時に、選べるものが増える。そういう話だね」
その声を聞いて、硝子はもう一度、手元の紙を読んだ。
この男と結婚すれば、選べることが増える。
結婚しない、という方を選ぶだけで、手元からなくなるものでもあった。
特に惜しいとは思わなかったが、久世が捨てずに持ってきた理由は、少し分かった。
廊下から、近づく足音がした。
「あ、まだいた」
五条が顔を出した。後ろに夏油もいる。
「久世。先生、呼んでる」
「もう戻られた?」
「戻ったから呼んでんだろ」
久世は時計を見てから、硝子へ向き直った。
「少し、席を外すよ」
「これ置いてくの」
「まだ後ろに条件があるから、読んでもらえると助かる」
「私、頼んでないもので宿題増やされたんだけど」
久世は立ちかけたところで止まった。
「……戻ってから説明するよ」
「その方がいい」
久世が出ていくと、五条がすぐ机を覗き込んだ。
「何これ」
「私の縁談だって」
「あいつが持ってきたの?」
「うん」
五条が笑った。
「何やってんの、あいつ」
*
「この家、病院と繋がりがあるんだ」
夏油は机の端に立ったまま、紙を読んでいた。
「よく分かんねえけど、あるらしいね」
「条件は、ずいぶんいいように見えるけど」
「だろうな。硝子だし」
五条が言った。
硝子は椅子の背にもたれた。五条は見知らぬ男の写真を持ち上げ、すぐに机へ戻す。
「反転術式を他人に使えるやつなんか、金積んだってそうそう増えねえもん。家に一人いりゃ便利だろ」
「便利、ね」
「そりゃ、そうだろ。腕飛ばされても治せるかもしれねえんだぞ」
あまりにも普通に言うので、硝子は一度、自分の手を見た。
その手で何ができるかは知っている。
五条が言っていることも分かる。ただ、その話と結婚という言葉が、五条の中では少しもぶつからないらしかった。
「じゃ、治す時に頼みに来ればいいじゃん」
「頼んで来てくれるならな。どっかの家の嫁になったら、そっちが先って話にもなるし」
五条は紙の一行を指した。
先ほど久世が、確認した方がいいと言ったところだった。
「取られる前に取っときてえんだろ」
夏油が眉を寄せた。
「人の話だよ、悟」
「だから? 俺が取るって言った?」
「そういう意味じゃなくて」
「こいつらが何欲しいかって話じゃん」
五条はそこで紙から手を離した。
夏油は何か言いかけ、結局、続きを読んだ。
「……生まれた子の所属?」
声が変わった。
硝子は顔を上げた。
「子供の話まであるの」
「そりゃあるだろ。何のための縁談だよ」
五条は驚かなかった。
夏油は、もう一度その行を読んだ。少し離れたところにも目を走らせる。
「相手が家を出ても、子供は向こうの家の管理に入るって」
「一緒に住まなくていいってだけか」
硝子が言うと、五条は、そうそう、と頷いた。
「でも、私のこれ、術式じゃないよ」
「知ってるよ」
「子供に同じことできるかなんて、分かんないだろ」
「分かんなくても、欲しいんだろ。出りゃ得だし、出なくても硝子はいるんだから」
夏油が五条を見た。
五条はその顔を見返した。
「何。俺に言うなよ」
「……まだ何も言ってないだろ」
「言いそうな顔してた」
硝子は机の上から、写真を二枚とも取り上げた。
少し前には、名前も知らなかった男だった。
その男と自分の間にできる子供の行き先を、知らない誰かが考えて、紙に書いている。
まだ産むとも言っていない。
薄い紙なのに、持っているのが急に嫌になった。
裏返し、資料の上へ重ねる。
「いらない」
言うと、五条はあっさり頷いた。
「だろうな」
「だったら、何であんなに普通に説明するの」
「普通の話だから」
夏油が溜息をついた。
五条は、それにも少し不服そうだった。
硝子は二件分を重ね、机の向こうへ押した。
条件が悪いから断ると言えば、もっと良くすればいいという話になるのだろう。
ここに何が書き足されても、知らない男と暮らしたいとは思わない。そのことを、どの項目に書けば伝わるのか。
久世なら分かるだろうか。
あの男も、本人を見れば機嫌がよくなるくせに、こういう紙はずいぶん熱心に読んでいた。
「家入、久世先輩に断ってもらうの?」
夏油が聞いた。
「持ってきたんだから、持って帰ってもらう」
「その返事を、先輩が使うことにもなるけど」
「何に」
「自分以外は断った、って」
硝子は夏油を見た。
「あいつも断ってるよ」
五条が声を立てて笑った。
夏油は一度口を閉じ、それから困ったように笑った。
「それは、そうなんだけどね」
「その辺は、本人に言っとく」
硝子は椅子を少し引き、窓を開けた。
外の空気が入ってくる。
五条が欠伸をして、夏油の肩を叩いた。
「行こうぜ。返事するなら俺らいねえ方がいいだろ」
「悟、さっきまで読む気だったじゃないか」
「もう飽きた」
五条は先に部屋を出た。
夏油は一度、机の上を見た。硝子が手を振ると、小さく頷いて後を追った。
廊下で、二人が何か言い合い始める。
途中から、夕食までの時間に何をするか、という話に変わっていた。
*
久世が戻ってくる頃には、硝子は写真も紙も封筒へ入れていた。
「二人は?」
「飽きて帰った」
「そっか」
久世はさっきの椅子へ座り、机の封筒を見た。
「どこまで読んだ?」
「読んでない。断る」
久世の指が止まった。
「両方?」
「両方。会わないし、結婚しない」
「……分かった。そう伝えるよ」
頷いてから、封筒へ手を伸ばす。
さっきまで、どの条件を説明する時も、こちらがどう受け取ったかを確かめるようにしていた。その顔から、何かが少し抜けた。
硝子は頬杖をついた。
「嬉しそうだな」
「君の前では、隠した方がよかった?」
「別に」
久世は笑った。
自分も断られていることを、忘れてはいないだろう。それでも、ほかの誰かと会う話がなくなるだけで、こんな顔になる。
硝子には、そっちの方が分かりやすかった。
知らない家から出された、長い条件の束よりは。
「ただ、断る理由を聞かれた時のために、少し確かめておきたいんだけど」
「子供の話、あったね」
久世が顔を上げた。
「あったよ。家を出る方も、そこは自由になる条件ではなかった」
「五条に聞いた」
「そこが嫌だった?」
「そこも嫌」
「なら、その部分を変えられるかどうか、向こうへ——」
「話増やすなよ」
久世が口を閉じた。
「そこがなくなったら結婚したいわけじゃないって。相手知らないし、知りたいとも思わない。今の暮らしやめて、その人と何か始めたいわけでもない」
言ってから、硝子は机へ肘をつき直した。
久世は黙って聞いていた。
「条件がよくなれば、欲しくなるものでもないでしょ」
「……そうだね」
久世は封筒を自分の側へ寄せた。
「分かった。条件の修正は求めない。今は誰とも、こういう話を進めるつもりがない。それで返すよ」
「うん」
「会わずに断るのか、とは言われるかもしれないけど」
「言わせとけば」
久世は少し笑った。
「そこは、僕が聞いておくよ」
硝子は椅子の背にもたれた。
それが済めば終わりだと思うと、眠くなってきた。知らない男の写真を見るだけで、こんなに時間を使うことになるとは思わなかった。
久世は紙を鞄へしまいながら、続けた。
「ほかの話が君のところへ来たら、この二件も断ったと伝えておくといい。ただ、家によっては——」
「それ、そっちに回していい?」
鞄を閉じる手が止まった。
「……僕に?」
「同じ返事何回もするの、面倒くさい。相手に合わせた言い方とか、誰に言えば伝わるかとか、そっちの方が分かるでしょ」
「それは、分かると思うけど」
「じゃあ、その辺任せる」
久世は、鞄から手を離した。
引き受けたら何件増えるのか、という顔にはならなかった。
「いいよ。向こうの窓口も、こちらで揃えておく」
「私が誰かと決まったって言うのはなしね。お前も含めて」
「うん」
そこでは、少し笑い方が変わった。
残念そうに見せたのかもしれない。硝子は気にせず、先を続けた。
「断り方は任せる。迷うことがあったら聞いて。勝手に何か約束されるのだけは嫌だから」
「分かった」
久世は頷き、早くも何かを書きつけ始めた。
その手つきを見て、硝子は少しだけ考えた。
自分の知らないところで久世が相手を選ぶことを、何も知らされないままでいたいとは思わない。
けれど、一度知った後まで、自分で全部引き受けたいわけではなかった。
この男は、ほかの男を近づけたくない。
自分は、来るたび同じ説明をするのが嫌だ。
その二つが同じところへ向いているなら、使わせてもらえばよかった。
「家入さん宛てに来る縁談は、先に僕へ話を通してもらえるようにする。ただ、全部の経路を知っているわけではないから、直接届いたものは教えて」
「分かった」
「先生にも、君から頼まれた範囲を伝えておくよ」
「そこもよろしく」
久世は手帳を閉じて懐へと入れる。
「結構面倒なこと頼んだと思うんだけど」
硝子は言った。
「うん。分かってるよ」
「本当に?」
久世が顔を上げた。
「家入さんが自分で何度も断るより、僕が話した方が早い。それに、嫌々引き受けているわけでもないから」
それは見れば分かった。
少なくとも、知らない男の条件を説明している時より、今の方がずっと機嫌がいい。
「ならいいけど」
硝子は、取り戻した机の空きに本を置いた。
久世は、ようやく鞄を閉じた。
*
「全部断ったんか」
数日後、直哉は庭へ向かう廊下で雅臣を見つけ、声をかけた。
蔵の件で預けていた控えを返しに来たらしい。手にはもう、あの封筒はなかった。
「随分早く聞くんだね」
「お前が持っていった先、どっちも知っとるからな」
雅臣は、そうか、と頷いた。
直哉はその顔を見た。
もう一度、女に振られてきた顔には見えない。
「決まったわけやないんやろ」
「何が?」
「お前と、その女」
「付き合ってはいないよ」
「ほな、何をそんな機嫌ようしとんねん」
雅臣は少し考えるように、視線を庭へ向けた。
「家入さんに来る縁談を、僕に任せてくれることになったんだ」
直哉は足を止めた。
雅臣も立ち止まる。
「……断られて、仕事増やされてきたんか」
「そう言うと、ずいぶん嫌な話に聞こえるね」
「そういう話やろ」
「頼まれたんだよ」
雅臣は、なぜか、そこで笑った。
直哉には分からなかった。
女が男の好意を知っている。応じるつもりはないと言い、その男に面倒なことを任せる。雅臣もそれを分かった上で、嬉しそうに引き受けている。
直哉なら腹が立つ。
自分を何だと思っているのかと、相手を呼び戻すところだった。
「よう、そんな使われ方できるな」
「君もよく僕に用事を寄越すけど」
「俺と一緒にすんなや」
「一緒にはしていないよ」
雅臣の返事は、妙に軽かった。
直哉は少し眉を寄せた。
この男が、ただ言われたことをやるだけの人間でないことは知っている。蔵の数字が違えば指摘するし、予定にない仕事を足せば別の費用を求めてくる。久世が持つ権限を曖昧にしたまま使おうとすると、こちらの家の誰がそれを引き受けるのかと、話を戻す。
それが、女一人にはこれだった。
いや、違うのか。
女へ話を持っていくためには、今度から雅臣を通す。
本人に頼まれたという、一番使い勝手のいい理由を手に入れている。前のように、自分が好意を持っている相手だと匂わせるだけではない。
「……お前の窓口通さんと、会う話もできへんのか」
「直接来たものも、回してもらうことになってるよ」
「そら、ええ仕事やな」
直哉が言うと、雅臣は笑ったまま、否定しなかった。
しかし、それだけでもないのだろう。
直哉の知る雅臣なら、得な役目を取った時には、もっと、してやったりという顔をする。
今の顔は、それより少し間が抜けていた。
「一回、会わせてや」
「誰に?」
「お前の好きな硝子ちゃんに」
雅臣の顔がこちらを向いた。
「家入さんと言いなさい」
笑っていた。
だが、さっきまでとは違った。
直哉は雅臣を見返した。年下に言い聞かせるような口の利き方も、気に入らなかった。
「名前で呼んだだけやろ」
「会ったこともない相手に、ずいぶん親しげだから」
「ほな会わせたらええやん」
「君には会わせたくないな」
その返事には、間がなかった。
直哉は笑った。
「何や。取られる思うんか」
「そういう心配ではないよ」
「なら何」
「君が女の人にどういうことを言うか、僕は知っているからね」
直哉は舌で頬の内側を押した。
「向こうが気ぃつけたら済む話やろ。口の利き方くらい教えときや」
「教えるなら、君にだね」
雅臣が言った。
直哉は笑うのをやめた。
廊下の向こうに、人影がある。二人が立ち止まっているのを見て、別の方へ曲がった。
雅臣はそちらを見なかった。
「……誰に言うとんねん、お前」
「僕は、君とはこれからも付き合いたいと思っているよ」
雅臣は言った。
声は、相変わらず穏やかだった。
「だから、会わせない」
直哉は相手の顔を見ていた。
自分が何か言う。女が気分を悪くする。雅臣がこちらに腹を立てる。
その程度のことのために、禪院との付き合いを捨てるのか。
捨てるとは言っていない。
言っていないが、今の返事には、起きてから考えるつもりもなさそうだった。
直哉は鼻で笑った。
「大層なこっちゃな。付き合うてもないくせに」
「そこは、早く変えたいね」
雅臣の声が、元へ戻った。
今の話をした後で、その返事ができる。
直哉は呆れた。
女を一人連れてくるだけで、ここまで面倒になる男だっただろうか。どこを言えば嫌がるかは、もう分かった。そのくせ、なぜそこまで嫌がるのかは、分かった気になれなかった。
こんな顔をするところを、ほかの人間にも見せているのか。
東京では、もっと間の抜けた顔をしているのかもしれない。
「次、東京いつ行くん」
直哉が聞くと、雅臣はこちらを見た。
「教えないよ」
「別に、ついてく言うてへんやろ」
「今の話の後で、それを信じてもらうのは難しいんじゃないかな」
直哉は笑った。
雅臣も笑っていた。
少なくとも、何でも見抜いたような顔をされるよりは、今の方が話しやすかった。
「東の蔵の分、帳面直させといたで」
直哉は先に歩き始めた。
「二重に払う話にはなってへんか、帰る前に見とけよ」
「それはさっき確認した。直っていたよ」
「ほなええわ」
それについては、直哉も確認していた。
雅臣が見たかどうか、聞いておきたかっただけだった。