白い欠片が、久世の口の中へ消えた。
歯だった。
奥歯の、根元が欠けたもの。血のついたガーゼの上に置かれていた時には、夏油にもすぐには分からなかった。
久世は水を一口飲み、喉を動かした。
椅子に縛られた男が、その喉を見ていた。
「……おい」
久世は空いた紙コップを机へ置いた。
「それ、誰の」
「あなたのですよ」
答えながら、男の右手首に巻かれた黒い紐へ手を伸ばす。
男が身を捩った。
夏油も一歩動いたが、その時には久世が紐を掴んでいた。男の背が椅子へ戻る。木の脚が床を擦り、それきり動かなくなった。
数秒後、男の肩が上下し、指先が椅子の肘掛けを掻いた。
「今は、術式だけを止めています。声は出せますから、聞かれたことに答えてください」
久世はそう言って、隣の丸椅子へ腰を下ろした。
医務室でも見た座り方だった。
背を丸めず、足も広げず、相手の顔が見えるところに落ち着く。今日は鞄の代わりに、男へ繋がった紐を持っていた。
白い壁。窓のない部屋。天井の蛍光灯は一本だけ、端が黒ずんでいる。
高専から車で一時間ほど離れた、呪詛師の一時収容に使う施設だった。
夏油がここへ来たいと言ったのは、五日前だ。
保管箱の修繕について聞きたかったことをまとめ、次に来た久世へ渡した。久世は目を通し、箱そのものについての質問と、術式による拘束についての質問を分けた。
後の方は、使うところを見た方が早いと言った。
だから、夏油は夜蛾へ話した。ちょうど押収物に紛れていた呪霊の処理も必要とされていて、そちらを担当することになった。
そして、もう一つ。
『僕の拘束が外れたら、君が動きを止めて』
途中の車内で、久世はそう頼んだ。
『できれば、喉は潰さないでほしい。これから話を聞くから』
その頼み方には、こちらが止められるかどうかを確かめる響きがなかった。
夏油も、できると思った。
今、椅子にいる男からは、それほど強い呪力を感じない。両頬が腫れ、唇は切れているが、目ははっきりしていた。捕まえた術師の報告では、声を聞いた相手の距離感を狂わせる術式を使う。壁際にいるはずの相手が手の届くところに見えたり、足元の床が急に遠く感じられたりするのだという。
捕縛時には、補助監督が階段を踏み外した。
命に別状はない。報告には、そうあった。
目の前の男は、夏油を見た。
「ガキまで連れてきてんのか。見世物かよ」
「彼は仕事で来ています」
久世が答えた。
調査官が、向かいの椅子へ座る。
彼は薄い書類を机に置き、写真を一枚、男の前へ滑らせた。
「昨日の続きだ。残りの品物をどこへやった」
写真には、紐のついた小さな包みが三つ写っていた。
厄除けとして売られていたものだ。
中身を開けた一人が死に、別の一人が行方不明になっている。夏油は車の中で、その報告も読んでいた。
「知らねえよ」
「二つは押さえた。最後の一つは」
「売ったって言ってんだろ。買った奴に聞け」
「誰に売った」
「知らねえ」
調査官の彼は写真を置いたまま、別の紙を出した。
男の左の眉が動く。
夏油はそれを見てから、久世へ目を向けた。
久世も、男の顔を見ていた。右手に紐を持ち、左手は膝へ置いている。口を挟むつもりはないらしかった。
「送り状に、お前が使っていた名がある」
「俺の字じゃねえな」
「この住所には誰がいる」
「行ってみりゃいいだろ」
男が笑った。
喉の奥で、もう一つ、小さな音が重なる。
夏油は反射で呪力を練った。
何も起こらなかった。
男の顔から、笑いが消えた。
「今のは、やめてください」
久世が言った。
紐を持つ手の位置は変わっていない。
「……何をした」
「術式は使えないと、お伝えしましたよね」
男は、もう一度喉を鳴らした。
何も起こらなかった。
夏油の方にも、調査官の方にも、視線を走らせる。二人とも倒れずにいることを確かめるようだった。
「ふざけ——」
声が途切れた。
男は口を開けたまま、もう一度喉を動かした。息は出ている。言葉だけが出なかった。
久世の口元が、わずかに緩んだ。
「どうしました?」
男の顔が歪む。
夏油は久世を見た。
今の一言は、なくてもよかったはずだ。
「戻します。今度は、お話を聞いてください」
男の喉から、掠れた音が漏れた。
久世は彼へ少し顎を引いた。続けてどうぞ、という仕草だった。
*
話は、夏油が思っていたよりゆっくり進んだ。
男は最初、何も知らないと言い続けた。写真をもう一枚出されると、会ったことはあると言い直し、その相手が既に見つかっていると聞くと、覚えていないだけだと腹を立てた。
夏油には、殴ってでも聞き出したい、と思う瞬間があった。
行方不明の女が、まだ生きているかもしれない。どこかで、この男が場所を言うのを待っているかもしれない。
しかし男の腫れた顔は、既に誰かが殴った後の顔だった。
ここで自分まで手を出したら、もう少しまともな返事になるのか。
夏油は腕を組むのをやめ、両手を下ろした。
「久世だろ、お前」
男が急に言った。
久世は顔を上げた。
「ええ」
「本家のか」
「そうです」
「あんたんとこの親父に話を通せ。俺のこと知ってる奴がいる。ちゃんと話せば分かる」
「お名前は」
男が人の名を言った。
久世は、ああ、と頷いた。
「存じています。父にお伝えしておきます」
男の肩が、僅かに下がった。
その変化を見て、夏油の腹の奥が冷えた。
知っている名を出すだけで、ここから話が変わるのか。
「では、品物の行き先を」
久世は言った。
男の顔が止まる。
「だから、そっちへ話を」
「お伝えしますよ。そちらのお返事が来るまで、ここで待つ理由はありませんから」
「おい、聞いてんのか」
「聞いています」
声が大きくならない。
男は怒鳴り、久世は同じ距離から返事をする。それを何度か繰り返しているうちに、夏油には、男が自分で自分の息を苦しくしているように見えてきた。
調査官の彼が、机を指で一度叩いた。
「その住所にあるのか」
男は答えなかった。
「受け取る人間は」
「……いねえよ」
「どういうことだ」
「廃屋だ。軒下。決まった場所に置いて、金を受け取って、それで終わりだ」
調査官が紙へ何かを書きつけた。
夏油は男の顔を見ていた。
今の返事が本当なのかは、分からない。先ほどから、自分が何を知っているかさえ何度も言い直している。
調査官は席を立ち、扉の脇にいた職員へ紙を渡した。回収班へ伝えるように言い、行方不明者の捜索範囲も改めて確認する。
男が、その背中を見た。
「俺は頼まれたもんを運んだだけだぞ」
「中身が何か、知っていたんだろう」
夏油が言った。
男が顔を向けた。
「呪いのことを知らない人に、厄除けだと言って渡した。開ければどうなるか、分かっていたんじゃないのか」
「あいつらが欲しがったんだよ」
男は夏油を見て笑った。
「金払えば自分だけ助かるって、そういうもん欲しがったんだ。何が入ってるかも確かめずに」
夏油は一歩近づいた。
久世がこちらを見た。
止める言葉はなかった。
「知らないから、買ったんだろ」
「だったら、勉強になったんじゃねえか」
夏油の足元で、影が膨らんだ。
男の笑いが止まる。
その顔を見てから、夏油は呪力を抑えた。
胸の奥に、熱いものが残っていた。男が怯えたことを、少し気分がいいと思ってしまった。そのことまで気づいて、余計に腹が立った。
「夏油くん」
久世が呼んだ。
「隣の処理が始まる。そちらへ行ってもらえるかな」
夏油は男から目を離した。
「……先輩は」
「引き継ぎが来るまで、ここにいるよ」
調査官の彼が戻ってきた。夏油へ短く頷き、扉を開ける。
夏油は久世の手元を見た。
紐は、まだ掴まれたままだった。
*
押収物の処理室には、蓋のない木箱があった。
中に布の包みが二つ。一方は既に空で、隣の金属製の容器が、内側から小さく鳴っている。
「こちらが現場で回収したものです」
補助監督が言った。
厄除けとして売られていた包みの一つ。その中に押し込められていた呪霊だ。外へ出れば、人に取りつく。
夏油は容器へ近づいた。
「処理の前に、確認することはありますか」
「ありません。記録は取りました。祓っていただいて構いません」
封を外す。
細い、幾つも関節のあるものが飛び出した。
夏油の背後から伸びた大きな顎が、それを挟んだ。天井へ張りつこうとした脚が空を掻き、一度、ぎ、と鳴く。
呪力の抵抗が弱まる。
夏油が手を伸ばすと、その姿は縮み、掌に収まる黒い玉になった。
補助監督が息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ほかに同じものは」
「今のところ、こちらにはありません」
夏油は頷いた。
掌の中には、まだ呪霊がある。
声に似たものが、指の間から漏れた気がした。聞き取ろうとはしなかった。意味のある言葉だったとしても、今からやることは変わらない。
口へ運ぶ。
舌へ触れた途端、腹の奥が縮んだ。
身体が、呑むな、と先に言う。
腐ったものとも、苦いものとも違った。口にしてはいけないものを、間違いなく口へ入れてしまった感覚だけがある。噛まずに呑んでも、味は舌から離れない。
夏油は喉を動かした。
一度では落ちなかった。
もう一度、息を止めて押し込む。
隣で、補助監督が記録用紙へ丸をつけていた。
その音を聞いて、夏油は顔を上げた。
「終わりました」
いつも通りの声が出た。
補助監督は頭を下げ、空になった容器を片づけ始めた。
夏油は、水道の場所を聞かなかった。
*
戻ると、久世はまだ同じ場所に座っていた。
男の口には布が当てられ、両手足の拘束も増えている。調査官は別室へ移ったらしく、代わりに職員が一人、扉の前にいた。
「終わった?」
久世が聞いた。
「はい」
「早いね。助かるよ」
夏油は頷き、先ほど立っていた場所へ戻った。
久世は右手を動かさず、左の指で袖口を少し上げていた。時計を見たらしい。
「引き継ぎは、まだですか」
「来てはいるんだけどね」
職員が、申し訳ありません、と言った。
久世はそちらへ向き直る。
「どのくらいかかるか、確認してもらえますか」
「いま、責任者の方で話をしておりまして」
「ええ。それは先ほどもうかがいました。僕が聞いているのは、あと何分こちらで拘束を続ける必要があるかです」
夏油は久世の手を見た。
紐を握る指の位置が、先ほどから変わっていない。
「食べた分を使うんだよ」
視線に気づいたのか、久世が言った。
「ずっと同じものが残っているわけではないから。待っている間も減る」
「……歯が?」
「取り込んだ分が、だね」
夏油は男を見た。
男もこちらを見ていた。
久世の手元へ視線を移し、すぐ戻す。
「今すぐ切れるほどではありませんよ」
久世が、男へ言った。
それから職員へ目を戻す。
「でも、予定を超えて待つなら、追加分の手配をお願いします。時間の分も、別になります」
「その程度でしたら、最初の依頼の範囲で——」
「どの程度か、まだ誰も答えてくださっていませんが」
声は変わらなかった。
職員は一度口を開き、閉じた。
「確認してまいります」
「お願いします」
扉が閉まった。
久世は小さく息を吐いた。
「先輩。私が押さえていましょうか」
「動かないようにするのは頼めるけど、術式までは止められる?」
夏油は男の口元を見た。
「……話させないようにすれば」
「途中で声を出されても、ここの人たちを巻き込まないようにできるかな」
夏油は返事を止めた。
自分一人なら、多少感覚を狂わされても押さえ直せる。だが、ほかの人間が転ぶか、ぶつかるか、階段から落ちるかまで、全部見ていられるとは言い切れなかった。
久世は、夏油が顔を上げるのを待った。
「僕が今から車を運転するように言われても、困るだろう? その人にしかできないところは、その人にやってもらえばいいんだよ」
「……分かりました」
夏油は頷いた。
力が足りないと言われたのではない。それは分かった。それでも、代わると言って何もできなかったことが、少し悔しかった。
数分後、職員が戻ってきた。
「このまま移送に入ります。時間の変更についても確認が取れました」
「ありがとうございます」
久世が立ち上がる。
椅子から立たせる時も、廊下へ出す時も、紐は離さなかった。
男は途中で一度、歩みを止めた。
久世を見る。
久世は、どうぞ、と先を示した。
男は歩いた。
移送用の車両に組まれた拘束が確認され、引き継ぎの術師が頷くまで、久世の手は男と繋がっていた。
最後に指が開く。
紐が、膝の上へ落ちた。
男はすぐに何か言ったが、閉まる扉の音に紛れて、夏油には聞き取れなかった。
*
建物の外へ出ると、風が冷たかった。
夏油は息を吸い、うまく吸えなかった。
喉の奥に、まだ味が残っていた。空気に混ざって、さっき呑んだものまで戻ってくる気がする。
「何か飲もうか」
久世が言った。
夏油は顔を向けた。
久世はもう、自動販売機の方へ歩いていた。小銭を入れ、並んだ缶を見ている。
「何がいい?」
「いえ、自分で」
「口直しぐらい奢らせてよ。僕も飲みたいし」
夏油の足が止まった。
久世が振り返る。
「……口直し?」
「取り込んだんだろう。さっきの呪霊」
「そうですけど」
「あれ、不味いよね」
何か、すぐには返事ができなかった。
久世はボタンへ伸ばしかけた指を止めた。
「飲まない?」
「……お茶を」
缶が落ちる。
久世は腰を屈め、取り出した缶を夏油へ渡した。まだ少し熱かった。
「先輩も、食べるんですか」
「必要ならね。人間の一部だけが条件ではないから」
「でも、呪霊を」
「一部を取り込んで、触れる。やることは同じだよ。祓い切れなくても、少し止まってくれれば人を逃がせる場合もあるし」
久世は自分の缶も取り出した。
「もっとも、近づいて触る方が危ない相手には、やりたくないけどね」
夏油は缶の蓋を開けた。
薄い湯気が上がる。
「ああいう玉になるわけではないんですか」
「ならない。だから君が口にしているものと、まったく同じ味なのかは分からないけど」
久世は一口飲み、顔を少ししかめた。熱かったらしい。
「普通の食べ物だったら、二度と口に入れないね」
夏油は、そこでようやく息を吐いた。
「……そうですね」
軽い返事にしたつもりだった。
しかし、言ってから喉が少し緩んだ気がした。
不味い、と人に言ったことはある。五条にも、聞かれてそう答えたことがあった。何に似ているのかと聞かれて、答えを考え、やめた。
食べたことのない人間へ説明しようとすると、もう一度、その味を口の中で確かめることになる。
それは嫌だった。
久世は何に似ているか、聞いてこなかった。
「歯の方が、ましなんですか」
夏油は聞いた。
久世は缶を口元から下ろした。
「僕にはね」
「髪や爪では、駄目だったんですか。あの人のは」
「駄目ではないけど、何をどのくらい封じるかで、必要な分が違う。動きを一瞬止めるだけなら、それでも足りる」
「術式をずっと止めるなら、足りない」
「あの人を、あれだけの時間、という条件ならね。相手にもよる。君を止めようと思ったら、同じだけ用意しても足りないだろうな」
夏油は久世を見た。
「試さないでくださいよ」
「君を敵に回してまで、確かめたいことでもないよ」
久世は笑った。
先ほどの部屋で見た笑い方とは違っていた。そう思ったが、何が違うのかはうまく言えなかった。
「それに、あの歯は、捕まえる時に折れたものだそうだから。使えるものがあるなら、それを使う」
「そのために、折ることもあるんですか」
久世はすぐには答えなかった。
夏油を見て、缶を持つ手を少し下げる。
「必要なら、すると思うよ」
風が、自動販売機の横へ溜まっていた枯葉を動かした。
「僕は、少し待てば安全になるかもしれない、というだけで待てないこともある。君も、そういう仕事をするんだろう」
夏油は、お茶を飲んだ。
否定はできなかった。
自分はあの男を、殴りたくなった。助けられるかもしれない人のために、という理由もあったが、それだけではなかった。
久世には、見えていただろうか。
「さっき、あの人の声を止めたのは」
「うん?」
「必要だったんですか」
久世は缶の縁へ目を落とした。
少し考えてから、夏油を見る。
「こちらの話を聞いてもらうには、早かったと思うけど」
「『どうしました』って、聞くのも?」
久世の口元が動いた。
困った顔には、ならなかった。
「それは、余計だったかもしれないね」
夏油は返事をしなかった。
久世も、それ以上は説明しなかった。
手の中の缶が、少しずつ冷えていった。
「慣れたら、平気になるんでしょうか」
夏油が言うと、久世はこちらを見た。
「仕事に?」
「……いえ。味の方です」
久世は、少しだけ口元を緩めた。
「僕は慣れないな。そもそも、食べずに済むなら食べたくない」
「そうですね」
そこは、迷わず返事ができた。
夏油は缶を両手で持ち直した。
この話を、もう少し続けてもいい気がした。どうすれば残った味が薄くなるのか。食事の前と後なら、どちらの方がましなのか。そういう、誰にも聞けなかったことが幾つかある。
「だから、さっさと呪術師なんて職業、なくなればいいと思ってるよ」
久世が言った。
夏油は顔を上げた。
「……何ですって?」
「呪霊がいなければ、こんなものを食べなくて済むだろう。人間を閉じ込めるために、わざわざ歯を呑む必要もなくなるかもしれないし」
久世は、残っていたお茶を飲んだ。
夏油は自分の缶を見下ろした。
先ほどまで、同じことについて話していたはずだった。
「なくせるものなんですか」
「今すぐできる方法は、知らないよ」
「だったら」
「でも、次の代も、その次も、同じことを続ける前提でいるのは嫌だね。呪霊が出た。人が死んだ。術師を向かわせた。……どこまで繰り返すんだろう」
夏油は、缶の側面を親指で押した。
「それでも、向かわなければもっと人が死にます」
「だから、今日も仕事をしたんだろう」
「その仕事を、なくなればいいって」
「なくて済むなら、その方がいいと思うよ」
久世の声は軽かった。
冗談で言っているようには見えない。それが夏油には、ひどく無造作に感じられた。
掌で暴れるものを押さえ、喉を通す。一つ増えるたび、次にできることが増える。遠くまで届く。間に合わなかった場所に、今度は間に合うかもしれない。
そのために呑んできた。
自分にできることがあるのだと分かってから、できることを増やそうとしてきた。
役に立つかもしれない力を、不味いからという理由で手放したくはなかった。
それを久世へ説明しようとして、夏油は一度口を閉じた。
目の前の先輩は、今持っている呪霊を捨てろと言ったわけではない。
分かっている。
分かっていても、すぐには頷けなかった。
「先輩は、何のためにこういう仕事をしてるんですか」
久世が夏油を見る。
「ウチは、家が家だからね」
「家に言われるから?」
「それだけなら、もう少し楽な仕事に寄せてもらうかな」
少し笑った。
「期待されていることをこなしておけば、口を出されずに済むことも増える。引き受けたい仕事もあるし、二度と引き受けたくない仕事もある。できるだけ、自分で選べるようにしたいんだよ」
「そのためですか」
「それもある。得意な仕事をしているのは、楽しいしね」
夏油は顔を上げた。
久世は、その視線に少し首を傾げる。
「今日の拘束が、ということではないよ。もっと短く、少ない手間で済ませる方法が見つかった時とか。人に渡した仕事が、もう自分を呼ばずに回るようになった時とか」
「……自分が、楽になることですか」
「そうだね」
あっさりと頷いた。
「楽をして、その時間にしたいことができれば、一番いい」
夏油は缶を片手へ戻した。
まったく違うところから、同じ場所に来た人間と話しているようだった。
久世は手を抜かなかった。拘束を外すこともせず、引き継ぎが来るまで待った。求められた役割は果たした。
それなのに、その仕事について話す時、夏油が大切にしているところへは、ほとんど触れない。
「選べる立場になったら、嫌な仕事はどうするんですか」
「ほかに適任者がいれば、その人に頼むよ」
「誰もやりたがらなかったら」
「必要なことなら、僕がやるんじゃないかな」
今度は夏油が黙った。
「やらなければ、ずっと残るだろう。いつまでも嫌なものが残っている方が、僕には邪魔だよ」
久世は空き缶を見下ろした。
「ただ、次も僕がやるのが当然、という話にはさせたくないね。人を増やすのか、手順を変えるのか、そもそもその仕事が出ないようにするのか。何かは変えたい」
「人を助けたいから、ではないんですね」
言ってから、夏油は少しきつかったかと思った。
久世は怒らなかった。
「君と同じ答えには、ならないと思うよ」
その返事が、夏油には一番嫌だった。
こちらの考えを聞く前に、もう自分とは違うものとして扱われた気がした。
「まだ、私の答えは言ってません」
久世が顔を上げた。
「……そうだったね」
少し間があった。
「それは、ごめん。聞くよ」
缶を捨てに行きかけていた足を戻した。
夏油は久世を見ていた。
言えば、またこの先輩の知っている何かに当てはめられるのかもしれない。その警戒はあった。それでも、ここでやめてしまえば、自分が何も言っていないことだけが残る。
「私は、呪いが見えない人たちを守れるなら、その力を使うべきだと思っています」
久世は黙っていた。
「あの人たちは、何に襲われているかも分からない。自分でどうにかできない。私たちには、それができる。だから、やる意味がある」
「うん」
「不味いのは嫌です。でも、嫌だからやめる理由にはならない。……なくなればいい、で、今やっていることまで軽くされるのは嫌なんです」
久世は少し目を伏せた。
考えているようにも、言葉を選んでいるようにも見えた。
「君が今日ここへ来てくれて、助かったよ。僕も、ここの人たちも。それは本当だ」
夏油は返事をしなかった。
「でも僕は、今日の仕事がなければよかったとも思ってる。あの女の人がいなくならず、階段から落ちた人も怪我をせず、君もあれを呑まなくて済んでいた方が、ずっとよかった」
「それは、私だって」
「だろうね」
久世が顔を上げた。
「だから、僕が変えたいと言った時に、今の仕事をやめて放り出す話だとは、思わないでほしいな」
夏油は口を開き、閉じた。
自分も、相手が言っていないところまで聞いていた。
それを認めるのは、あまり気持ちがよくなかった。
「……そこは、分かりました」
「ありがとう」
「でも、先輩の考えに全部納得したわけじゃありません」
「うん。僕も、まだやれる方法まで揃えたわけではないから」
久世は、ようやく空き缶を捨てた。
「ただ、食べずに済む方法は見つかってほしいね。あの味だけでも、充分腹が立つ」
夏油は少しだけ笑った。
「そこは、同感です」
口の中の不快感は、残っていた。
それでも、お茶をもう一口飲む気にはなった。
*
高専へ戻った時には、食堂が開く時間になっていた。
夏油が車を降りると、校舎の入口で五条が手を振った。
「傑。遅え」
「今、帰ったところだよ」
「見りゃ分かる。飯行くぞ」
夏油は時計を見た。
久世は鞄を持ち直し、職員室の方へ目を向けている。
「僕は報告を済ませてくるよ」
「あんたには言ってない」
「聞こえてるよ。君の邪魔はしないから」
五条が口の端を上げる。
久世は相手をせず、夏油へ軽く頷いて歩いていった。
「どうだった?」
背中が見えなくなってから、五条が聞いた。
「何が」
「久世。使えんの、あいつ」
「ちゃんと仕事をしてたよ」
「だろうな」
五条は、答えを知っていたような顔をした。
夏油は隣へ並ぶ。
「……悟は、ああいう仕事を見たことがある?」
「人、縛るやつ?」
「術式を使わせないようにして、話を聞く」
「あるよ」
五条はあっさり答えた。
「ほかのことができねえから、ああいうのを専門にやってる家もある。俺らがずっと見張ってるより楽じゃん」
夏油は、隣の顔を見た。
「何」
「いや。……似たようなことを言ってたなと思って」
「誰が。久世?」
「うん」
「一緒にすんなよ」
五条は不満そうに眉を寄せた。
それから、夏油の手元へ目を落とす。
「何飲んでんの」
「お茶」
「うまい?」
「普通」
夏油は残りを飲んだ。
味の話を、五条へしようかと思った。
けれど五条は既に、今日の食堂の揚げ物は何だったか、という話を始めていた。夏油も、それを遮ってまで話したいわけではなかった。
空になった缶を、入口の回収箱へ入れる。
食堂には硝子がいた。
先に食べ始めていて、五条に声をかけられても、箸を止めなかった。
「待っててくれてもよくね」
「先に食うって言っただろ」
「言った?」
「お前、返事した」
「傑、お前聞いた?」
「今、帰ってきたって言ったよね」
硝子が鼻で笑った。
夏油は食事を受け取り、二人のいる机へ戻った。腹は空いていた。匂いを嗅いで、少しだけ食べたくなくなったが、皿を置く。
「どうだった、仕事」
硝子が聞いた。
「終わったよ」
「それは分かる」
何から話せばいいのか、夏油には少し難しかった。
歯を呑むところを見た。人の声が途中で切れた。自分も、男を殴りたくなった。終わってからお茶を飲み、あの先輩が呪術師という職業をなくしたがっていると知った。
どこから始めても、食事をしながら聞きたい話ではなさそうだった。
「……久世先輩と、少し話した」
「それでこんな時間?」
「帰りの車を待っている間にね」
「お前ら、よくそんなに話すことあるな」
硝子は水を飲んだ。
その時、食堂の入口に久世が現れた。
こちらを見つけ、目元が動く。
夏油に、ではなかった。
「家入さん」
「何」
「ここ、座ってもいい?」
「空いてるよ」
硝子は、隣の椅子に置いていた鞄を自分の膝へ移した。
久世が少し目を見開く。
「ありがとう」
「俺んとこじゃなくて、硝子んとこ行くんだ」
五条がわざとらしい声を出した。
「今日、君と話す用事はないからね」
久世は涼しい顔で返した。
硝子が、自分の隣へ座った男を見る。
「飯は」
「ああ。……そうだね、取ってこないと」
「何しに座ったんだよ」
久世は少し困ったように笑って、もう一度立ち上がった。
夏油はその背中を見た。
先ほどまで、あの手はずっと紐を握っていた。
人の歯を呑んだ口で、術式が使えなくなった相手へ、どうしましたと聞いた。あの言い方は余計だったと指摘しても、困った顔にはならなかった。
今は、食事を取り忘れたくらいで、ああいう顔になる。
「傑」
五条に呼ばれた。
「食わねえの」
伸びてきた箸を、夏油は自分の箸で押し返した。
「食べるよ」
五条が不満そうに鼻を鳴らす。
久世が食事を持って戻ってきた。硝子の隣へ座る。
夏油はその向かいで、最初の一口を食べた。