家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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6.

 

 白い欠片が、久世の口の中へ消えた。

 

 歯だった。

 

 奥歯の、根元が欠けたもの。血のついたガーゼの上に置かれていた時には、夏油にもすぐには分からなかった。

 

 久世は水を一口飲み、喉を動かした。

 

 椅子に縛られた男が、その喉を見ていた。

 

「……おい」

 

 久世は空いた紙コップを机へ置いた。

 

「それ、誰の」

 

「あなたのですよ」

 

 答えながら、男の右手首に巻かれた黒い紐へ手を伸ばす。

 

 男が身を捩った。

 

 夏油も一歩動いたが、その時には久世が紐を掴んでいた。男の背が椅子へ戻る。木の脚が床を擦り、それきり動かなくなった。

 

 数秒後、男の肩が上下し、指先が椅子の肘掛けを掻いた。

 

「今は、術式だけを止めています。声は出せますから、聞かれたことに答えてください」

 

 久世はそう言って、隣の丸椅子へ腰を下ろした。

 

 医務室でも見た座り方だった。

 

 背を丸めず、足も広げず、相手の顔が見えるところに落ち着く。今日は鞄の代わりに、男へ繋がった紐を持っていた。

 

 白い壁。窓のない部屋。天井の蛍光灯は一本だけ、端が黒ずんでいる。

 

 高専から車で一時間ほど離れた、呪詛師の一時収容に使う施設だった。

 

 夏油がここへ来たいと言ったのは、五日前だ。

 

 保管箱の修繕について聞きたかったことをまとめ、次に来た久世へ渡した。久世は目を通し、箱そのものについての質問と、術式による拘束についての質問を分けた。

 

 後の方は、使うところを見た方が早いと言った。

 

 だから、夏油は夜蛾へ話した。ちょうど押収物に紛れていた呪霊の処理も必要とされていて、そちらを担当することになった。

 

 そして、もう一つ。

 

『僕の拘束が外れたら、君が動きを止めて』

 

 途中の車内で、久世はそう頼んだ。

 

『できれば、喉は潰さないでほしい。これから話を聞くから』

 

 その頼み方には、こちらが止められるかどうかを確かめる響きがなかった。

 

 夏油も、できると思った。

 

 今、椅子にいる男からは、それほど強い呪力を感じない。両頬が腫れ、唇は切れているが、目ははっきりしていた。捕まえた術師の報告では、声を聞いた相手の距離感を狂わせる術式を使う。壁際にいるはずの相手が手の届くところに見えたり、足元の床が急に遠く感じられたりするのだという。

 

 捕縛時には、補助監督が階段を踏み外した。

 

 命に別状はない。報告には、そうあった。

 

 目の前の男は、夏油を見た。

 

「ガキまで連れてきてんのか。見世物かよ」

 

「彼は仕事で来ています」

 

 久世が答えた。

 

 調査官が、向かいの椅子へ座る。

 

 彼は薄い書類を机に置き、写真を一枚、男の前へ滑らせた。

 

「昨日の続きだ。残りの品物をどこへやった」

 

 写真には、紐のついた小さな包みが三つ写っていた。

 

 厄除けとして売られていたものだ。

 

 中身を開けた一人が死に、別の一人が行方不明になっている。夏油は車の中で、その報告も読んでいた。

 

「知らねえよ」

 

「二つは押さえた。最後の一つは」

 

「売ったって言ってんだろ。買った奴に聞け」

 

「誰に売った」

 

「知らねえ」

 

 調査官の彼は写真を置いたまま、別の紙を出した。

 

 男の左の眉が動く。

 

 夏油はそれを見てから、久世へ目を向けた。

 

 久世も、男の顔を見ていた。右手に紐を持ち、左手は膝へ置いている。口を挟むつもりはないらしかった。

 

「送り状に、お前が使っていた名がある」

 

「俺の字じゃねえな」

 

「この住所には誰がいる」

 

「行ってみりゃいいだろ」

 

 男が笑った。

 

 喉の奥で、もう一つ、小さな音が重なる。

 

 夏油は反射で呪力を練った。

 

 何も起こらなかった。

 

 男の顔から、笑いが消えた。

 

「今のは、やめてください」

 

 久世が言った。

 

 紐を持つ手の位置は変わっていない。

 

「……何をした」

 

「術式は使えないと、お伝えしましたよね」

 

 男は、もう一度喉を鳴らした。

 

 何も起こらなかった。

 

 夏油の方にも、調査官の方にも、視線を走らせる。二人とも倒れずにいることを確かめるようだった。

 

「ふざけ——」

 

 声が途切れた。

 

 男は口を開けたまま、もう一度喉を動かした。息は出ている。言葉だけが出なかった。

 

 久世の口元が、わずかに緩んだ。

 

「どうしました?」

 

 男の顔が歪む。

 

 夏油は久世を見た。

 

 今の一言は、なくてもよかったはずだ。

 

「戻します。今度は、お話を聞いてください」

 

 男の喉から、掠れた音が漏れた。

 

 久世は彼へ少し顎を引いた。続けてどうぞ、という仕草だった。

 

     *

 

 話は、夏油が思っていたよりゆっくり進んだ。

 

 男は最初、何も知らないと言い続けた。写真をもう一枚出されると、会ったことはあると言い直し、その相手が既に見つかっていると聞くと、覚えていないだけだと腹を立てた。

 

 夏油には、殴ってでも聞き出したい、と思う瞬間があった。

 

 行方不明の女が、まだ生きているかもしれない。どこかで、この男が場所を言うのを待っているかもしれない。

 

 しかし男の腫れた顔は、既に誰かが殴った後の顔だった。

 

 ここで自分まで手を出したら、もう少しまともな返事になるのか。

 

 夏油は腕を組むのをやめ、両手を下ろした。

 

「久世だろ、お前」

 

 男が急に言った。

 

 久世は顔を上げた。

 

「ええ」

 

「本家のか」

 

「そうです」

 

「あんたんとこの親父に話を通せ。俺のこと知ってる奴がいる。ちゃんと話せば分かる」

 

「お名前は」

 

 男が人の名を言った。

 

 久世は、ああ、と頷いた。

 

「存じています。父にお伝えしておきます」

 

 男の肩が、僅かに下がった。

 

 その変化を見て、夏油の腹の奥が冷えた。

 

 知っている名を出すだけで、ここから話が変わるのか。

 

「では、品物の行き先を」

 

 久世は言った。

 

 男の顔が止まる。

 

「だから、そっちへ話を」

 

「お伝えしますよ。そちらのお返事が来るまで、ここで待つ理由はありませんから」

 

「おい、聞いてんのか」

 

「聞いています」

 

 声が大きくならない。

 

 男は怒鳴り、久世は同じ距離から返事をする。それを何度か繰り返しているうちに、夏油には、男が自分で自分の息を苦しくしているように見えてきた。

 

 調査官の彼が、机を指で一度叩いた。

 

「その住所にあるのか」

 

 男は答えなかった。

 

「受け取る人間は」

 

「……いねえよ」

 

「どういうことだ」

 

「廃屋だ。軒下。決まった場所に置いて、金を受け取って、それで終わりだ」

 

 調査官が紙へ何かを書きつけた。

 

 夏油は男の顔を見ていた。

 

 今の返事が本当なのかは、分からない。先ほどから、自分が何を知っているかさえ何度も言い直している。

 

 調査官は席を立ち、扉の脇にいた職員へ紙を渡した。回収班へ伝えるように言い、行方不明者の捜索範囲も改めて確認する。

 

 男が、その背中を見た。

 

「俺は頼まれたもんを運んだだけだぞ」

 

「中身が何か、知っていたんだろう」

 

 夏油が言った。

 

 男が顔を向けた。

 

「呪いのことを知らない人に、厄除けだと言って渡した。開ければどうなるか、分かっていたんじゃないのか」

 

「あいつらが欲しがったんだよ」

 

 男は夏油を見て笑った。

 

「金払えば自分だけ助かるって、そういうもん欲しがったんだ。何が入ってるかも確かめずに」

 

 夏油は一歩近づいた。

 

 久世がこちらを見た。

 

 止める言葉はなかった。

 

「知らないから、買ったんだろ」

 

「だったら、勉強になったんじゃねえか」

 

 夏油の足元で、影が膨らんだ。

 

 男の笑いが止まる。

 

 その顔を見てから、夏油は呪力を抑えた。

 

 胸の奥に、熱いものが残っていた。男が怯えたことを、少し気分がいいと思ってしまった。そのことまで気づいて、余計に腹が立った。

 

「夏油くん」

 

 久世が呼んだ。

 

「隣の処理が始まる。そちらへ行ってもらえるかな」

 

 夏油は男から目を離した。

 

「……先輩は」

 

「引き継ぎが来るまで、ここにいるよ」

 

 調査官の彼が戻ってきた。夏油へ短く頷き、扉を開ける。

 

 夏油は久世の手元を見た。

 

 紐は、まだ掴まれたままだった。

 

     *

 

 押収物の処理室には、蓋のない木箱があった。

 

 中に布の包みが二つ。一方は既に空で、隣の金属製の容器が、内側から小さく鳴っている。

 

「こちらが現場で回収したものです」

 

 補助監督が言った。

 

 厄除けとして売られていた包みの一つ。その中に押し込められていた呪霊だ。外へ出れば、人に取りつく。

 

 夏油は容器へ近づいた。

 

「処理の前に、確認することはありますか」

 

「ありません。記録は取りました。祓っていただいて構いません」

 

 封を外す。

 

 細い、幾つも関節のあるものが飛び出した。

 

 夏油の背後から伸びた大きな顎が、それを挟んだ。天井へ張りつこうとした脚が空を掻き、一度、ぎ、と鳴く。

 

 呪力の抵抗が弱まる。

 

 夏油が手を伸ばすと、その姿は縮み、掌に収まる黒い玉になった。

 

 補助監督が息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

「ほかに同じものは」

 

「今のところ、こちらにはありません」

 

 夏油は頷いた。

 

 掌の中には、まだ呪霊がある。

 

 声に似たものが、指の間から漏れた気がした。聞き取ろうとはしなかった。意味のある言葉だったとしても、今からやることは変わらない。

 

 口へ運ぶ。

 

 舌へ触れた途端、腹の奥が縮んだ。

 

 身体が、呑むな、と先に言う。

 

 腐ったものとも、苦いものとも違った。口にしてはいけないものを、間違いなく口へ入れてしまった感覚だけがある。噛まずに呑んでも、味は舌から離れない。

 

 夏油は喉を動かした。

 

 一度では落ちなかった。

 

 もう一度、息を止めて押し込む。

 

 隣で、補助監督が記録用紙へ丸をつけていた。

 

 その音を聞いて、夏油は顔を上げた。

 

「終わりました」

 

 いつも通りの声が出た。

 

 補助監督は頭を下げ、空になった容器を片づけ始めた。

 

 夏油は、水道の場所を聞かなかった。

 

     *

 

 戻ると、久世はまだ同じ場所に座っていた。

 

 男の口には布が当てられ、両手足の拘束も増えている。調査官は別室へ移ったらしく、代わりに職員が一人、扉の前にいた。

 

「終わった?」

 

 久世が聞いた。

 

「はい」

 

「早いね。助かるよ」

 

 夏油は頷き、先ほど立っていた場所へ戻った。

 

 久世は右手を動かさず、左の指で袖口を少し上げていた。時計を見たらしい。

 

「引き継ぎは、まだですか」

 

「来てはいるんだけどね」

 

 職員が、申し訳ありません、と言った。

 

 久世はそちらへ向き直る。

 

「どのくらいかかるか、確認してもらえますか」

 

「いま、責任者の方で話をしておりまして」

 

「ええ。それは先ほどもうかがいました。僕が聞いているのは、あと何分こちらで拘束を続ける必要があるかです」

 

 夏油は久世の手を見た。

 

 紐を握る指の位置が、先ほどから変わっていない。

 

「食べた分を使うんだよ」

 

 視線に気づいたのか、久世が言った。

 

「ずっと同じものが残っているわけではないから。待っている間も減る」

 

「……歯が?」

 

「取り込んだ分が、だね」

 

 夏油は男を見た。

 

 男もこちらを見ていた。

 

 久世の手元へ視線を移し、すぐ戻す。

 

「今すぐ切れるほどではありませんよ」

 

 久世が、男へ言った。

 

 それから職員へ目を戻す。

 

「でも、予定を超えて待つなら、追加分の手配をお願いします。時間の分も、別になります」

 

「その程度でしたら、最初の依頼の範囲で——」

 

「どの程度か、まだ誰も答えてくださっていませんが」

 

 声は変わらなかった。

 

 職員は一度口を開き、閉じた。

 

「確認してまいります」

 

「お願いします」

 

 扉が閉まった。

 

 久世は小さく息を吐いた。

 

「先輩。私が押さえていましょうか」

 

「動かないようにするのは頼めるけど、術式までは止められる?」

 

 夏油は男の口元を見た。

 

「……話させないようにすれば」

 

「途中で声を出されても、ここの人たちを巻き込まないようにできるかな」

 

 夏油は返事を止めた。

 

 自分一人なら、多少感覚を狂わされても押さえ直せる。だが、ほかの人間が転ぶか、ぶつかるか、階段から落ちるかまで、全部見ていられるとは言い切れなかった。

 

 久世は、夏油が顔を上げるのを待った。

 

「僕が今から車を運転するように言われても、困るだろう? その人にしかできないところは、その人にやってもらえばいいんだよ」

 

「……分かりました」

 

 夏油は頷いた。

 

 力が足りないと言われたのではない。それは分かった。それでも、代わると言って何もできなかったことが、少し悔しかった。

 

 数分後、職員が戻ってきた。

 

「このまま移送に入ります。時間の変更についても確認が取れました」

 

「ありがとうございます」

 

 久世が立ち上がる。

 

 椅子から立たせる時も、廊下へ出す時も、紐は離さなかった。

 

 男は途中で一度、歩みを止めた。

 

 久世を見る。

 

 久世は、どうぞ、と先を示した。

 

 男は歩いた。

 

 移送用の車両に組まれた拘束が確認され、引き継ぎの術師が頷くまで、久世の手は男と繋がっていた。

 

 最後に指が開く。

 

 紐が、膝の上へ落ちた。

 

 男はすぐに何か言ったが、閉まる扉の音に紛れて、夏油には聞き取れなかった。

 

     *

 

 建物の外へ出ると、風が冷たかった。

 

 夏油は息を吸い、うまく吸えなかった。

 

 喉の奥に、まだ味が残っていた。空気に混ざって、さっき呑んだものまで戻ってくる気がする。

 

「何か飲もうか」

 

 久世が言った。

 

 夏油は顔を向けた。

 

 久世はもう、自動販売機の方へ歩いていた。小銭を入れ、並んだ缶を見ている。

 

「何がいい?」

 

「いえ、自分で」

 

「口直しぐらい奢らせてよ。僕も飲みたいし」

 

 夏油の足が止まった。

 

 久世が振り返る。

 

「……口直し?」

 

「取り込んだんだろう。さっきの呪霊」

 

「そうですけど」

 

「あれ、不味いよね」

 

 何か、すぐには返事ができなかった。

 

 久世はボタンへ伸ばしかけた指を止めた。

 

「飲まない?」

 

「……お茶を」

 

 缶が落ちる。

 

 久世は腰を屈め、取り出した缶を夏油へ渡した。まだ少し熱かった。

 

「先輩も、食べるんですか」

 

「必要ならね。人間の一部だけが条件ではないから」

 

「でも、呪霊を」

 

「一部を取り込んで、触れる。やることは同じだよ。祓い切れなくても、少し止まってくれれば人を逃がせる場合もあるし」

 

 久世は自分の缶も取り出した。

 

「もっとも、近づいて触る方が危ない相手には、やりたくないけどね」

 

 夏油は缶の蓋を開けた。

 

 薄い湯気が上がる。

 

「ああいう玉になるわけではないんですか」

 

「ならない。だから君が口にしているものと、まったく同じ味なのかは分からないけど」

 

 久世は一口飲み、顔を少ししかめた。熱かったらしい。

 

「普通の食べ物だったら、二度と口に入れないね」

 

 夏油は、そこでようやく息を吐いた。

 

「……そうですね」

 

 軽い返事にしたつもりだった。

 

 しかし、言ってから喉が少し緩んだ気がした。

 

 不味い、と人に言ったことはある。五条にも、聞かれてそう答えたことがあった。何に似ているのかと聞かれて、答えを考え、やめた。

 

 食べたことのない人間へ説明しようとすると、もう一度、その味を口の中で確かめることになる。

 

 それは嫌だった。

 

 久世は何に似ているか、聞いてこなかった。

 

「歯の方が、ましなんですか」

 

 夏油は聞いた。

 

 久世は缶を口元から下ろした。

 

「僕にはね」

 

「髪や爪では、駄目だったんですか。あの人のは」

 

「駄目ではないけど、何をどのくらい封じるかで、必要な分が違う。動きを一瞬止めるだけなら、それでも足りる」

 

「術式をずっと止めるなら、足りない」

 

「あの人を、あれだけの時間、という条件ならね。相手にもよる。君を止めようと思ったら、同じだけ用意しても足りないだろうな」

 

 夏油は久世を見た。

 

「試さないでくださいよ」

 

「君を敵に回してまで、確かめたいことでもないよ」

 

 久世は笑った。

 

 先ほどの部屋で見た笑い方とは違っていた。そう思ったが、何が違うのかはうまく言えなかった。

 

「それに、あの歯は、捕まえる時に折れたものだそうだから。使えるものがあるなら、それを使う」

 

「そのために、折ることもあるんですか」

 

 久世はすぐには答えなかった。

 

 夏油を見て、缶を持つ手を少し下げる。

 

「必要なら、すると思うよ」

 

 風が、自動販売機の横へ溜まっていた枯葉を動かした。

 

「僕は、少し待てば安全になるかもしれない、というだけで待てないこともある。君も、そういう仕事をするんだろう」

 

 夏油は、お茶を飲んだ。

 

 否定はできなかった。

 

 自分はあの男を、殴りたくなった。助けられるかもしれない人のために、という理由もあったが、それだけではなかった。

 

 久世には、見えていただろうか。

 

「さっき、あの人の声を止めたのは」

 

「うん?」

 

「必要だったんですか」

 

 久世は缶の縁へ目を落とした。

 

 少し考えてから、夏油を見る。

 

「こちらの話を聞いてもらうには、早かったと思うけど」

 

「『どうしました』って、聞くのも?」

 

 久世の口元が動いた。

 

 困った顔には、ならなかった。

 

「それは、余計だったかもしれないね」

 

 夏油は返事をしなかった。

 

 久世も、それ以上は説明しなかった。

 

 手の中の缶が、少しずつ冷えていった。

 

「慣れたら、平気になるんでしょうか」

 

 夏油が言うと、久世はこちらを見た。

 

「仕事に?」

 

「……いえ。味の方です」

 

 久世は、少しだけ口元を緩めた。

 

「僕は慣れないな。そもそも、食べずに済むなら食べたくない」

 

「そうですね」

 

 そこは、迷わず返事ができた。

 

 夏油は缶を両手で持ち直した。

 

 この話を、もう少し続けてもいい気がした。どうすれば残った味が薄くなるのか。食事の前と後なら、どちらの方がましなのか。そういう、誰にも聞けなかったことが幾つかある。

 

「だから、さっさと呪術師なんて職業、なくなればいいと思ってるよ」

 

 久世が言った。

 

 夏油は顔を上げた。

 

「……何ですって?」

 

「呪霊がいなければ、こんなものを食べなくて済むだろう。人間を閉じ込めるために、わざわざ歯を呑む必要もなくなるかもしれないし」

 

 久世は、残っていたお茶を飲んだ。

 

 夏油は自分の缶を見下ろした。

 

 先ほどまで、同じことについて話していたはずだった。

 

「なくせるものなんですか」

 

「今すぐできる方法は、知らないよ」

 

「だったら」

 

「でも、次の代も、その次も、同じことを続ける前提でいるのは嫌だね。呪霊が出た。人が死んだ。術師を向かわせた。……どこまで繰り返すんだろう」

 

 夏油は、缶の側面を親指で押した。

 

「それでも、向かわなければもっと人が死にます」

 

「だから、今日も仕事をしたんだろう」

 

「その仕事を、なくなればいいって」

 

「なくて済むなら、その方がいいと思うよ」

 

 久世の声は軽かった。

 

 冗談で言っているようには見えない。それが夏油には、ひどく無造作に感じられた。

 

 掌で暴れるものを押さえ、喉を通す。一つ増えるたび、次にできることが増える。遠くまで届く。間に合わなかった場所に、今度は間に合うかもしれない。

 

 そのために呑んできた。

 

 自分にできることがあるのだと分かってから、できることを増やそうとしてきた。

 

 役に立つかもしれない力を、不味いからという理由で手放したくはなかった。

 

 それを久世へ説明しようとして、夏油は一度口を閉じた。

 

 目の前の先輩は、今持っている呪霊を捨てろと言ったわけではない。

 

 分かっている。

 

 分かっていても、すぐには頷けなかった。

 

「先輩は、何のためにこういう仕事をしてるんですか」

 

 久世が夏油を見る。

 

「ウチは、家が家だからね」

 

「家に言われるから?」

 

「それだけなら、もう少し楽な仕事に寄せてもらうかな」

 

 少し笑った。

 

「期待されていることをこなしておけば、口を出されずに済むことも増える。引き受けたい仕事もあるし、二度と引き受けたくない仕事もある。できるだけ、自分で選べるようにしたいんだよ」

 

「そのためですか」

 

「それもある。得意な仕事をしているのは、楽しいしね」

 

 夏油は顔を上げた。

 

 久世は、その視線に少し首を傾げる。

 

「今日の拘束が、ということではないよ。もっと短く、少ない手間で済ませる方法が見つかった時とか。人に渡した仕事が、もう自分を呼ばずに回るようになった時とか」

 

「……自分が、楽になることですか」

 

「そうだね」

 

 あっさりと頷いた。

 

「楽をして、その時間にしたいことができれば、一番いい」

 

 夏油は缶を片手へ戻した。

 

 まったく違うところから、同じ場所に来た人間と話しているようだった。

 

 久世は手を抜かなかった。拘束を外すこともせず、引き継ぎが来るまで待った。求められた役割は果たした。

 

 それなのに、その仕事について話す時、夏油が大切にしているところへは、ほとんど触れない。

 

「選べる立場になったら、嫌な仕事はどうするんですか」

 

「ほかに適任者がいれば、その人に頼むよ」

 

「誰もやりたがらなかったら」

 

「必要なことなら、僕がやるんじゃないかな」

 

 今度は夏油が黙った。

 

「やらなければ、ずっと残るだろう。いつまでも嫌なものが残っている方が、僕には邪魔だよ」

 

 久世は空き缶を見下ろした。

 

「ただ、次も僕がやるのが当然、という話にはさせたくないね。人を増やすのか、手順を変えるのか、そもそもその仕事が出ないようにするのか。何かは変えたい」

 

「人を助けたいから、ではないんですね」

 

 言ってから、夏油は少しきつかったかと思った。

 

 久世は怒らなかった。

 

「君と同じ答えには、ならないと思うよ」

 

 その返事が、夏油には一番嫌だった。

 

 こちらの考えを聞く前に、もう自分とは違うものとして扱われた気がした。

 

「まだ、私の答えは言ってません」

 

 久世が顔を上げた。

 

「……そうだったね」

 

 少し間があった。

 

「それは、ごめん。聞くよ」

 

 缶を捨てに行きかけていた足を戻した。

 

 夏油は久世を見ていた。

 

 言えば、またこの先輩の知っている何かに当てはめられるのかもしれない。その警戒はあった。それでも、ここでやめてしまえば、自分が何も言っていないことだけが残る。

 

「私は、呪いが見えない人たちを守れるなら、その力を使うべきだと思っています」

 

 久世は黙っていた。

 

「あの人たちは、何に襲われているかも分からない。自分でどうにかできない。私たちには、それができる。だから、やる意味がある」

 

「うん」

 

「不味いのは嫌です。でも、嫌だからやめる理由にはならない。……なくなればいい、で、今やっていることまで軽くされるのは嫌なんです」

 

 久世は少し目を伏せた。

 

 考えているようにも、言葉を選んでいるようにも見えた。

 

「君が今日ここへ来てくれて、助かったよ。僕も、ここの人たちも。それは本当だ」

 

 夏油は返事をしなかった。

 

「でも僕は、今日の仕事がなければよかったとも思ってる。あの女の人がいなくならず、階段から落ちた人も怪我をせず、君もあれを呑まなくて済んでいた方が、ずっとよかった」

 

「それは、私だって」

 

「だろうね」

 

 久世が顔を上げた。

 

「だから、僕が変えたいと言った時に、今の仕事をやめて放り出す話だとは、思わないでほしいな」

 

 夏油は口を開き、閉じた。

 

 自分も、相手が言っていないところまで聞いていた。

 

 それを認めるのは、あまり気持ちがよくなかった。

 

「……そこは、分かりました」

 

「ありがとう」

 

「でも、先輩の考えに全部納得したわけじゃありません」

 

「うん。僕も、まだやれる方法まで揃えたわけではないから」

 

 久世は、ようやく空き缶を捨てた。

 

「ただ、食べずに済む方法は見つかってほしいね。あの味だけでも、充分腹が立つ」

 

 夏油は少しだけ笑った。

 

「そこは、同感です」

 

 口の中の不快感は、残っていた。

 

 それでも、お茶をもう一口飲む気にはなった。

 

     *

 

 高専へ戻った時には、食堂が開く時間になっていた。

 

 夏油が車を降りると、校舎の入口で五条が手を振った。

 

「傑。遅え」

 

「今、帰ったところだよ」

 

「見りゃ分かる。飯行くぞ」

 

 夏油は時計を見た。

 

 久世は鞄を持ち直し、職員室の方へ目を向けている。

 

「僕は報告を済ませてくるよ」

 

「あんたには言ってない」

 

「聞こえてるよ。君の邪魔はしないから」

 

 五条が口の端を上げる。

 

 久世は相手をせず、夏油へ軽く頷いて歩いていった。

 

「どうだった?」

 

 背中が見えなくなってから、五条が聞いた。

 

「何が」

 

「久世。使えんの、あいつ」

 

「ちゃんと仕事をしてたよ」

 

「だろうな」

 

 五条は、答えを知っていたような顔をした。

 

 夏油は隣へ並ぶ。

 

「……悟は、ああいう仕事を見たことがある?」

 

「人、縛るやつ?」

 

「術式を使わせないようにして、話を聞く」

 

「あるよ」

 

 五条はあっさり答えた。

 

「ほかのことができねえから、ああいうのを専門にやってる家もある。俺らがずっと見張ってるより楽じゃん」

 

 夏油は、隣の顔を見た。

 

「何」

 

「いや。……似たようなことを言ってたなと思って」

 

「誰が。久世?」

 

「うん」

 

「一緒にすんなよ」

 

 五条は不満そうに眉を寄せた。

 

 それから、夏油の手元へ目を落とす。

 

「何飲んでんの」

 

「お茶」

 

「うまい?」

 

「普通」

 

 夏油は残りを飲んだ。

 

 味の話を、五条へしようかと思った。

 

 けれど五条は既に、今日の食堂の揚げ物は何だったか、という話を始めていた。夏油も、それを遮ってまで話したいわけではなかった。

 

 空になった缶を、入口の回収箱へ入れる。

 

 食堂には硝子がいた。

 

 先に食べ始めていて、五条に声をかけられても、箸を止めなかった。

 

「待っててくれてもよくね」

 

「先に食うって言っただろ」

 

「言った?」

 

「お前、返事した」

 

「傑、お前聞いた?」

 

「今、帰ってきたって言ったよね」

 

 硝子が鼻で笑った。

 

 夏油は食事を受け取り、二人のいる机へ戻った。腹は空いていた。匂いを嗅いで、少しだけ食べたくなくなったが、皿を置く。

 

「どうだった、仕事」

 

 硝子が聞いた。

 

「終わったよ」

 

「それは分かる」

 

 何から話せばいいのか、夏油には少し難しかった。

 

 歯を呑むところを見た。人の声が途中で切れた。自分も、男を殴りたくなった。終わってからお茶を飲み、あの先輩が呪術師という職業をなくしたがっていると知った。

 

 どこから始めても、食事をしながら聞きたい話ではなさそうだった。

 

「……久世先輩と、少し話した」

 

「それでこんな時間?」

 

「帰りの車を待っている間にね」

 

「お前ら、よくそんなに話すことあるな」

 

 硝子は水を飲んだ。

 

 その時、食堂の入口に久世が現れた。

 

 こちらを見つけ、目元が動く。

 

 夏油に、ではなかった。

 

「家入さん」

 

「何」

 

「ここ、座ってもいい?」

 

「空いてるよ」

 

 硝子は、隣の椅子に置いていた鞄を自分の膝へ移した。

 

 久世が少し目を見開く。

 

「ありがとう」

 

「俺んとこじゃなくて、硝子んとこ行くんだ」

 

 五条がわざとらしい声を出した。

 

「今日、君と話す用事はないからね」

 

 久世は涼しい顔で返した。

 

 硝子が、自分の隣へ座った男を見る。

 

「飯は」

 

「ああ。……そうだね、取ってこないと」

 

「何しに座ったんだよ」

 

 久世は少し困ったように笑って、もう一度立ち上がった。

 

 夏油はその背中を見た。

 

 先ほどまで、あの手はずっと紐を握っていた。

 

 人の歯を呑んだ口で、術式が使えなくなった相手へ、どうしましたと聞いた。あの言い方は余計だったと指摘しても、困った顔にはならなかった。

 

 今は、食事を取り忘れたくらいで、ああいう顔になる。

 

「傑」

 

 五条に呼ばれた。

 

「食わねえの」

 

 伸びてきた箸を、夏油は自分の箸で押し返した。

 

「食べるよ」

 

 五条が不満そうに鼻を鳴らす。

 

 久世が食事を持って戻ってきた。硝子の隣へ座る。

 

 夏油はその向かいで、最初の一口を食べた。

 

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