「こいつ、死ぬな」
「お前が喋るせいで、台詞が聞こえない」
硝子が言うと、五条は菓子の袋へ突っ込んでいた手を止めた。
「聞かなくても分かんじゃん。今から地下行くんだろ」
「じゃあ、口閉じて見てろよ」
画面の中で、男が懐中電灯を振った。
薄暗い階段。水の滴る音。先ほどから同じ場所へ戻ってくる男は、それでも、下から聞こえる女の声を追っていた。
「外へ出ればいいのにね」
今度は夏油が言った。
硝子はリモコンを手に取った。停止ボタンへ親指を置くと、二人が揃ってこちらを見る。
「見ないなら、止めるけど」
「見てるよ」
「見てんじゃん」
「だったら黙れって」
談話室のテレビは、硝子の部屋にあるものより画面が大きい。その一点で、ここへ持ってきた。
授業は午前で終わっていた。午後の呼び出しは今のところなく、硝子は夕方までに借りた映画を二本見て、返しに行くつもりだった。一本目の冒頭で五条が入り、途中で夏油も来た。
二人とも、用があったわけではない。
誰かいるから入る。テレビがついているから座る。そういうところが、二人はよく似ていた。
「……あ」
五条が言った。
硝子が見ると、口元で人差し指と親指を合わせる。もう喋らない、ということらしい。
画面の男が扉を開けた。
女は、そこにいなかった。
男の後ろにいた。
夏油が椅子の背から身体を起こす。その隣で、五条が声を立てずに笑った。硝子は二人の方を見ないようにした。こうなるところが好きで、もう一度借りたのだ。
男は女の顔を見て笑い、それから、相手が一言も喋っていないことに気づく。
さっきまで、名前を呼ばれていたはずだった。
男の笑顔が少しずつ消える。
硝子はそこを見届けてから、冷めた茶を飲んだ。
*
「で、あの女、最初から死んでたってこと?」
画面に文字が流れ始めると、五条は待っていたように言った。
「違うよ。最初に死んだのが男の方」
夏油が答える。
「は? いつ」
「お前が菓子取りに行ってた時」
硝子はケースを引き寄せた。
「そこでかよ。止めとけよ」
「黙っていなくなった奴に合わせて止めるか」
「傑も知ってた?」
「さっき言っただろ」
「じゃ、あの足音は?」
「もう一回見れば」
硝子がケースを渡しかけると、五条は受け取らずに顔をしかめた。
「そこまではいい」
知りたいことは多いくせに、知るために時間を使うかどうかは、また別らしい。夏油が隣から説明を始めると、五条はそれには最後まで耳を貸した。
硝子は二本目を手に取った。
「まだ見るの?」
「借りてきたんだから、見るよ」
「また似たようなやつじゃん」
「嫌なら帰れ」
五条は帰らなかった。夏油から聞いたばかりの話について、あの場面はおかしいだろ、と言い始めた。
硝子はディスクを取り出し、二本目と入れ替える。再生ボタンを押す前に、夏油がこちらを向いた。
「家入。久世先輩、最近も来てる?」
「さあ」
「さあ、って」
「お前と仕事から帰ってきた日から、私は見てない」
あの日は四人で夕食を食べた。久世とは食堂を出るところで別れ、それから数日、東京校では見かけていない。
少なくとも、硝子のいる部屋には来なかった。
*
二本目の途中で、硝子だけが呼ばれた。
医務室へ行き、戻ってきた術師の腕を治す。袖の下で血が固まり、傷の端には布の繊維が残っていた。
相手は何度も謝った。
学生さんにすみません。お休みだったのに。大した傷じゃないんですが。
硝子は、喋ってもいいが腕は動かすなと言った。
大した傷かどうかは、こっちで見れば分かる。どこをどう怪我したのかだけ、先に言ってくれる方がありがたい。
傷が塞がると、その人は一度、自分の腕を撫でた。指を握り、開き、硝子の顔を見て頭を下げる。
今度の、ありがとう、には、硝子も返事をした。
使ったものを片づけてから記録用紙を出す。
治療した場所を図に書き入れ、棚の本を開いた。治す時には迷わなかったところで、今は手が止まる。
傷の位置は覚えている。切れていたものも、どう繋がったかも分かる。
名前だけが、出てこなかった。
索引を引き、目当ての図を見つける。目的の名前を書き写してから、隣の図にも目をやった。同じ腕なのに、見る向きが違うと、さっきまで見ていたものを見失う。
硝子は自分の腕を机へ置いた。
掌を返し、肘を曲げる。
こういうものを何も知らないまま、先ほどの人を治した。怖くなったわけではなかった。できるものはできるし、今さら名前が分からないから治せないとも思わない。
ただ、目の前に答えの載っている本があるのに、閉じるのは少し癪だった。
頁を一枚戻す。
しばらくして時計を見ると、映画一本の残りを見終えるより長く、そこにいた。
談話室へ戻ると、テレビは消えていた。
机に二本のケースが並び、上に紙が置いてある。
『返却、頼む』
五条の字だった。
その下に、小さく夏油の字が足されている。
『最後まで見た。結末は言わないでおく』
硝子は紙を裏返した。
何も書いていない。
「……私が借りたんだけど」
誰もいない部屋で言ってから、一本だけケースを開けた。
返すのは明日でいい。
止まっていたところを探し、今度は一人で見た。
*
久世が次に来た日は、硝子は談話室の机に本を広げていた。
午前に借りてきた本だった。医務室の机では図を二冊並べる場所がなく、こっちへ運んだ。テレビはつけていない。
引き戸を開けた久世は、まず本を見た。
「勉強中?」
「見りゃ分かるでしょ」
今日は薄い封筒を一つ持っていた。鞄の紐を肩から下ろしても、そちらは手に持ったままでいる。
「先生に渡すものがあるんだけど、まだ戻られていないみたいでね」
「さっき外にいたよ」
「校庭?」
「裏。倉庫の辺り」
「ありがとう。探してくる」
すぐには出ていかず、こちらを見る。
硝子は図の上に置いていた指を止めた。
「何」
「戻ってきてもいい?」
「私がいるかは知らないよ」
「分かった。急いでくるね」
そういう話ではなかったが、言い直す前に出ていった。
硝子は開いたままの本へ目を戻した。
別に、来てほしくないと言ったつもりもなかった。いたら話すし、いなければ話せない。それだけの返事をしたはずなのに、久世は妙に嬉しそうにする。
それで急がれても困る。
ただ、自分が立ち去る頃を見計らって邪魔をしない人、という顔をされるのも、それはそれで面倒だった。気を遣われていると分かれば、こちらも何か言わなければならない気がしてくる。
勝手に急いで戻ってくるくらいなら、放っておけた。
次の頁を開いた。
久世は思っていたより早く戻ってきた。
代わりに、夏油を連れていた。
「途中で会ってね」
「見れば分かる」
夏油は苦笑し、硝子の向かいへ座った。手には学校の封筒を持っている。
久世も隣の椅子を引いた。机の上を見てから、二冊目の本には触れず、鞄を足元へ置く。
「この間の件、報告が来ました」
夏油が言った。
「行方不明になっていた人が見つかったそうです。生きて」
「うん。こっちにも連絡があったよ」
「あの住所の近くにいたって」
「品物を回収したところから、辿れたらしいね」
硝子は顔を上げた。
「この前、二人で行ってたやつ?」
「そう。まだ入院しているらしいけど」
夏油は封筒を膝へ置いた。
「生きていてよかった」
こちらに言うというより、自分でもう一度確かめるような声だった。
硝子は、そう、と返して本へ目を戻した。
夏油の声がいつもより軽い。顔を見続けなくても、それは分かった。
「先輩の方は、もう終わりですか」
「今のところはね。あの人をもう一度外へ出すなら、呼ばれるかもしれないけど」
「また久世に頼むんだ」
硝子が言うと、久世は頷いた。
「こちらの予定が合えばね」
「ほかにできる人は?」
「いるよ。ウチにもいるし、ほかの家にも」
「じゃあ、そっちでいいじゃん」
「僕もそう思うことはあるね」
笑ってから、久世は硝子の手元へ視線を落とした。
「今、どこを見ていたの?」
「腕」
「昨日、何かあった?」
「別に。分かんなかったから調べてるだけ」
硝子は、本の端を指で押さえ直した。
医療の勉強をしていると言うと、時々、立派だとか、皆が助かるとか、そういうことを言われる。何を読んでいるかより先に、そういう話になる。
久世は本を覗き込み、細かい文字へ目を細めた。
「……よく見分けがつくね」
「つかないから、調べてんの」
「ああ、そうだった」
夏油が笑った。
久世はそちらを一度見たが、特に取り繕いはしなかった。
「邪魔したね。続けて」
「もう閉じるよ」
硝子は栞を挟んだ。
目当ての箇所は見つかっていた。あと一つ、調べてもよいところはあったが、今やらなければいけないことでもない。
久世の視線が上がったので、先に言う。
「先輩が来たからじゃないよ。目が疲れた」
「まだ何も言ってないけど」
「顔」
久世が自分の頬へ触れた。
その仕草がわざとなのか、本当に気になったのかは分からなかった。夏油がもう一度笑ったので、硝子も少しだけ口元を緩めた。
*
「あれ。何してんの、お前ら」
五条が入ってきた時には、硝子は椅子の背にもたれ、夏油は机に置かれていた映画のケースを見ていた。
返したものとは別の、今朝借りてきた一本だ。
「今日は何。ホラー?」
「触るなよ。まだ見てない」
「俺、これ知ってる」
硝子は五条を見た。
「言ったら殴る」
「何を?」
「今言おうとしたこと全部」
五条は愉快そうに笑った。
残っている椅子へ腰を下ろしかけ、そこに久世がいることに気づく。というより、そこでようやく、気づいたことにする顔をした。
「座るとこねえんだけど」
「向こうにあるよ」
久世が、壁際に畳んである椅子を示した。
「あんたがそっち座れば?」
「先に座っていたのは僕だからね」
「京都からわざわざ来て、人の椅子取ってんじゃねえよ」
「君の名前が書いてあったかな」
「今から書いてやろうか」
「悟。そこのを持ってくれば済むだろ」
夏油が言った。
五条は夏油を見た。二人の間で一度視線が行き来し、それから、五条が折り畳み椅子を引っ張ってきた。
金属の脚が床を鳴らす。
「うるさ」
「文句しか言わねえな、お前ら」
五条は座ると、夏油の前にあったケースを取り上げた。
「あ、やっぱ知らねえや。似た題のやつだ」
「先にそれを言いなよ」
「この監督、こういうのばっか作ってんな」
「見てないんだろ」
「題で分かる」
硝子はケースを取り返した。
久世がこちらを見る。
「よく見るの?」
「暇なら」
「怖いものが好きなんだ」
「怖くないのも多いよ」
「この前のやつとかな」
五条が横から言った。
「肝心なとこ見てなかった奴が何言ってんだ」
「だから怖くねえんじゃん」
夏油が、前に見た映画の話を久世へ始めた。
五条は隣で何度も口を挟んだ。そんな場面はなかった、と言われるたび、あっただろ、と返す。やがて二本の映画を混ぜて話していたことが分かっても、あまり悪びれなかった。
久世は、聞いている間、何度か硝子を見た。
合っているか確認されているのだと気づき、一度だけ頷いた。次からも見るので、知らない、と手を振る。
「家入さんは、どの辺りが好きだったの?」
「最初の、男が振り向くところ」
「ああ。女の人が後ろにいた、っていう」
「うん」
男の顔が変わるところだと言えば、もう少し説明できたかもしれない。
声のする方へ歩けば会えると思っていた男が、会ってから、何に呼ばれたのか分からなくなる。女の姿を見る前より、見た後の顔の方が、ずっと怖い。
そこまで言うのは、面倒だった。
硝子は煙草を取り出した。
「ここ、吸っていいの?」
「外」
廊下の突き当たりに、裏庭へ出る戸がある。
硝子が立つと、久世も鞄を手に取った。
ついてくるかは聞かなかった。久世も聞いてこなかった。
外の空気は、部屋の中より冷えていた。
硝子は軒下で火をつけた。久世は少し離れたところへ鞄を置き、ポケットから同じ銘柄の箱を出す。
何度か一緒に吸っている。まだ、吸い終える速さは硝子より遅かった。
硝子は煙を吐いた。
「五条、嫌い?」
聞くと、久世は煙草を持った手を止めた。
「急に何?」
「さっき、ずっと嫌そうだったから」
久世は考え込むように黙った。
「君たちは毎日ああなんだろう」
「あれ以上の時もある」
「……そう」
少し間を置いて、久世が笑った。
「羨ましいね」
「どこが」
「こうやって、同じところに帰ってくるんだなと思って」
硝子は久世を見た。
本人は窓の方を向いていた。談話室の灯りが、硝子たちのいる軒下まで届いている。
「こっちにも、寮はあるけどね。……会いたい人がそこにいるのは、いいな」
今度はこちらを向いた。
硝子は目を逸らさず、灰を落とした。
「お前、そういうのよく言うよな」
「言わない方がいい?」
「思っただけ」
久世は笑った。否定されなかったことを、いちいち都合よく受け取っているようにも見えた。
硝子は、それを訂正しようとは思わなかった。
言うな、と言ったわけではない。かといって、もっと聞きたいと頼んだわけでもない。それを全部説明しなければいけないなら、話をすること自体が面倒になる。
久世は煙草を一口吸い、しばらくしてから言った。
「家入さんの、一口もらえたりしない?」
硝子は自分の手元を見た。
それから、久世の手元を見る。
「同じだろ」
「同じ銘柄だね」
「あるじゃん」
「君が吸ってるのがいいんだよ」
久世の顔を見た。
冗談を言った後のような顔をしていたが、冗談だから断られても構わない、とまでは思っていなさそうだった。
「気持ち悪いな」
「……駄目か」
「駄目だよ」
硝子は短くなった煙草を、灰皿へ押しつけた。
久世がそれを見ていた。
「そんなに残念そうに見るな」
「少し、言ってみたかったんだ」
「言えてよかったな」
久世は、そこで声を立てて笑った。
硝子も一度鼻で笑い、冷えてきた指を上着のポケットへ入れた。
相手が何を考えているのか、全部は分からない。
自分の吸いかけた煙草を欲しがる理由など、詳しく説明されても困る。
「先、戻ってる」
「うん。僕もすぐ行く」
硝子は戸を開けた。
*
五条と夏油は、テレビの前に座っていた。
画面では、知らない映画の予告が流れている。
予告が終わり、最初の画面へ戻る。
硝子はリモコンを手に取ったが、再生は押さなかった。
「待つの?」
夏油が訊いた。
「途中から来られて、説明するの嫌だし」
「それもそうか」
夏油は時計を見た。
五条は、まだ観てもいない本編より、さっきの予告の方が面白そうだと言い出した。
硝子は無視した。
しばらくして、久世が戻ってきた。
硝子は隣の鞄を床へ下ろした。
空いた場所を見てから、久世がこちらを見る。
「……ありがとう」
座るとき、鞄を自分の足元へ寄せた。
久世はテレビへ目を向けた。
最初の画面では、同じ短い音楽が繰り返されている。
五条が照明を一つ落とす。
雨音が、急に近くなったように聞こえた。
「先輩、こういうの平気?」
「分からない。あまり観たことがないから」
「じゃあ、面白いかも」
「僕が?」
「うん」
「映画の方も観てくれるかな」
硝子は笑って、再生を押した。
画面が暗くなり、廊下を歩く足音が始まる。
夏油が、五条の方へ少し体を傾けた。
「始まったら喋んなよ」
「お前が喋ってんじゃん」
「始まったらだって」
そのやり取りの横で、久世は姿勢を変えた。
背もたれへ体を預け、膝の上で組んでいた手をほどく。
画面の中で、女が扉を開ける。
音が止まった。
硝子は、隣の顔を見た。
久世がこちらを向いた。
少しだけ、笑った。
直後、テレビから悲鳴が上がった。
硝子は画面へ目を戻した。
女が走っている。その後ろで何かが動いたが、もう暗くて分からない。
「……今、何出た?」
「僕も見ていなかった」
五条が、二人の方を向いた。
「映画見ろよ」
夏油は、黙って肩を震わせていた。