家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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8.

 

「そこの心臓、拾ってもらえるかな」

 

 備品倉庫の戸を開けたところで、七海は足を止めた。

 

 上履きの先に、赤と青に塗り分けられた樹脂の塊が落ちている。

 奥では、見知らぬ上級生が人体模型を抱えていた。半分だけ皮膚のある顔が、こちらを向いている。

 

 少なくとも、呪われた物ではなさそうだった。

 

「これですね!」

 

 隣から灰原が拾い上げる。

 上級生は礼を言って、足元の紙袋を示した。

 

「その袋に、ほかの部品があるんだけど。持ち上げたら、底が抜けてしまって」

「それで、心臓が逃げたんですね」

「肺も逃げたよ」

 

 七海は、入口脇に積まれた空き箱を一つ取った。

 中を確かめてから、灰原へ渡す。

 

「ありがとうございます」

 

 先輩に礼を言われ、軽く頭を下げた。

 先輩の腕の中では、人体模型の頭が少し横を向いている。運ばれる当人だけが、この状況に興味を失っているようだった。

 

「君たちは、何か取りに来たの?」

「折り畳みの椅子です。夜蛾先生に、ここから借りていいって言われて」

 

 灰原が答える。

 

 入学して、一週間ほど経った。

 それぞれの部屋には机と椅子があるが、人が来たときに座れる場所は少ない。昨夜、七海の部屋へ来た灰原は床に座り、机の上が見えないからと、結局立っていた。

 

 それならと、今朝、使っていない椅子を借りる許可をもらったのだ。

 どうせなら自分の部屋にも欲しいと言う灰原の分と、合わせて二脚。

 

「椅子なら、その棚の向こうにあったよ」

「あ、ありました! 七海、これでいい?」

「脚を見てからにしろよ」

 

 開いてみると、片方の脚の先からゴムが外れていた。

 灰原はすぐに畳み、別のものと取り替える。

 

「本当だ。危なかった」

「床に傷がつく」

「そっちか」

 

 何がおかしいのか、灰原は笑った。

 

 先輩が模型を棚の空いたところへ下ろす。

 正面の蓋になる部分がないせいで、腹の中は大きく開いていた。

 

「二人が、今年の一年生?」

「はい。灰原雄です!」

「七海です。七海建人」

「久世雅臣です。家入さんから聞いているよ。新入生が二人来るって」

 

 家入という名前を聞いて、少しだけ話が通じた。

 二年の先輩だ。入学した日に顔を合わせ、そのあとも何度か廊下で会っている。

 

「久世先輩も、二年生ですか?」

「僕は四年。京都の方だけど」

 

 灰原の手が止まった。

 七海も、開きかけていた椅子から顔を上げる。

 

「京都校の?」

「うん」

「……こちらの先輩かと思いました」

「こちらへは、仕事で時々来るんだ。今日も午前中に用事があってね。これは、そのついで」

 

 久世が模型の肩を軽く叩いた。

 

「家入さんに頼まれて、探していたところ。見つかったのはよかったんだけど、ずいぶんばらばらに仕舞われていて」

「僕たちも手伝います!」

 

 早い。

 七海が灰原を見ると、向こうもこちらを見た。

 

「いいだろ? まだ時間あるし」

「一時半から授業だ」

「医務室へ運ぶだけなら、間に合うと思うよ。遅くとも十分で切り上げるから、お願いしてもいいかな」

 

 七海は壁の時計を見た。

 まだ一時十分を少し過ぎたところだ。

 

「それなら」

「ありがとう。じゃあ、棚の下に落ちているものがないか、見てもらえる?」

 

 頼み方が滑らかだった。

 返事をした時には、こちらのやることも決まっている。

 

 灰原はもう、しゃがみ込んでいた。

 

「肺がありました!」

「こっちにも何かあります」

「何だろう」

「腎臓じゃないですか」

「ああ。じゃあ、それも」

 

 七海は箱へ入れながら、隣の先輩を見た。

 ひどく慣れた様子で人の内臓を集めているわりに、名前はあまり分からないらしい。

 

「……家入さんが勉強に使うんですか」

「そう聞いているよ。先生に尋ねたら、昔使っていたものが倉庫にあるはずだって」

 

 久世は、模型の裏に貼られた古い管理票を見せた。

 東京校の備品に間違いはないようだった。

 

 灰原が棚の奥から腹部の蓋を見つけたところで、久世は時計を確かめた。

 

「残りは、向こうで揃っているか見てもらおう。椅子も出せた?」

「はい!」

「では、僕はこれを。箱は七海くんにお願いしていいかな」

 

 灰原が二脚の椅子を持ち、七海が内臓の箱を抱えた。

 久世は人体模型を抱き直す。

 

 廊下へ出て、灰原が訊いた。

 

「京都校って、ここと似てますか?」

「古い建物が多いところはね。君たちは、もう道を覚えた?」

「僕、昨日、寮へ戻ろうとして違う階段を下りちゃって」

「あそこ、下りる前に右を見た方がいいよ。渡り廊下があるから」

「そうなんですか!」

 

 七海は、箱を持つ手を少しずらした。

 

 自分たちが通う学校の近道を、京都の人に教わっている。

 やはり、何となく腑に落ちなかった。

 

 

 久世に人体模型を頼んだのは、前の晩だった。

 

 平面の図では分かりづらいところがあり、硝子が夜蛾に相談したら、古い模型の話が出た。ちょうど久世から翌日の来訪予定を知らせるメールがあったので、倉庫へ寄れるかと訊いたのだ。

 

 新入生のことを教えたのは、それより前だった。

 三月の終わり、頼んだ買い物を持って夕飯に来たときに話した。

 

 だから、顔を合わせれば分かるだろうとは思っていた。

 

 まさか三人で、一人を運んでくるとは思わなかったが。

 

「家入さん。見つかったよ」

「見れば分かる」

 

 硝子は椅子から立った。

 久世の肩越しに、模型の顔がこちらを見ている。

 

「お前らも手伝ってくれたんだ」

「はい。心臓が落ちてて」

「まず、そこから?」

 

 灰原が頷く。

 七海は、拾い集めた臓器の箱を机へ置いた。

 

 硝子は窓際の台を空けた。

 久世がそこへ模型を下ろし、少し後ろへ下がる。埃のついた制服の前を、手で払った。

 

「助かった。ありがと」

「どういたしまして。部品は揃っているか分からないから、確認してもらえるかな」

「うん」

 

 灰原が、箱の中を覗き込んでいる。

 

「これ、全部戻るんですよね」

「元は入ってたんだろうしね」

「戻すの、見ていてもいいですか?」

「授業は?」

「一時半からです」

「じゃあ、途中まで」

 

 久世が壁の時計を見て、小さく頷いた。

 何か約束でもしているらしい。

 

 七海は、先に手を洗いに行っていた。灰原もそれに続く。

 久世が袖口をもう一度払ったので、硝子は流しを指した。

 

「お前も」

「うん」

 

 並んで手を洗う背中が三つになった。

 

 硝子は模型の首を正面へ戻し、本を開いた。

 こういうものを使うのは、硝子も初めてだった。

 

「どれからですか?」

 

 戻ってきた灰原が箱へ手を伸ばす。

 

「まず、それ、全部出して」

「はい」

「七海、こっちのページ押さえてくれる?」

 

 窓から風が入り、本のページをめくろうとしていた。

 七海が手を置くと、久世は机のペン立てを窓側へ移した。

 

 箱の中身が半分ほど減ったところで、七海が時計へ目をやった。

 

「灰原。そろそろ」

「あ、本当だ。すみません、途中で」

「いいよ。運んでもらっただけで助かったし」

 

 硝子が言うと、久世も本から顔を上げた。

 

「ありがとう。僕も助かったよ」

「はい。失礼します」

 

 七海は頭を下げ、廊下に置いていた椅子を一脚持ち上げた。

 灰原も続きかけて、模型を振り返る。

 

「後で、完成したの見に来てもいいですか?」

「いいけど、そんな楽しみにするようなものでもないよ」

「気になるんです。最後まで入るところ」

 

 硝子は箱を見た。

 確かに、まだ少し残っている。

 

「じゃあ、ちゃんと戻しとく」

 

 灰原は、お願いします、と笑った。

 

 足音が遠ざかってから、久世が窓辺へ戻ってきた。

 

「元気な子だね」

「そうだね」

「七海くんは、しっかりしているし」

「それ、本人に言い過ぎるなよ。何かあるたびに灰原を見なきゃいけなくなる」

 

 久世が硝子を見る。

 硝子は肺を一つ手に取り、空いているところへ入れた。

 

「私も去年、五条と夏油を頼むって言われた」

「……それは、頼む相手が違うね」

「本人たちに言えって思ったよ」

 

 向きを少し変えると、部品が収まった。

 

「これ、家入さんが一人で運ぶのは大変だったね」

「うん。だから頼んだ」

「ちょうど来る日でよかったよ」

 

 久世の手が模型の肩を押さえる。

 ネジが緩んでいるようだった

 

「さっき、ずいぶん先輩っぽかったね」

「僕が?」

「うん。久世先輩」

 

 肩を押さえる指が、少し動いた。

 硝子はネジから目を離し、向かい側を見た。

 

「何」

「君にそう呼ばれるのは、珍しいなと思って」

「先輩だろ」

「そうだけど。普段は、名前付けないから」

「嫌だった?」

「嬉しい。もっと呼んで」

 

 硝子は笑った。

 ねじを回す。

 固着していたのか、最初の一回だけ少し力が要った。

 

「久世先輩、もっとそっち押さえて」

「はい」

 

 今度はすぐに返事が来た。

 丁寧すぎて、かえっておかしい。

 

 硝子が顔を上げると、久世は笑っていた。

 こちらが笑っているから合わせた、という顔ではなかった。

 

「……そんなにいい?」

「うん」

 

 そこで素直に頷かれるとは思っていなかった。

 

 硝子は模型へ目を戻した。

 緩んだ台座をずらし、奥のねじを探す。

 

 留め直し、台座を戻す。

 

「これならいいか」

「うん」

 

 窓際に収まった模型を、少し離れて見る。

 部屋の中に、黙っている人間が一人増えたようだった。

 

「夜、嫌じゃない?」

「何が?」

「暗いところで目が合うと、驚きそうだ」

 

 硝子は、その半分だけ皮膚のある顔を見た。

 さっきまで箱に入っていた肺も、七海が押さえていた図の心臓も、この中に収まっている。

 

「置いたの私だし。忘れなきゃ平気でしょ」

「忘れなければね」

 

 久世は、まだ少し疑っているらしかった。

 

 

 授業が終わってから医務室を訪ねると、窓際で人体模型がサングラスをかけていた。

 

 七海は扉の前で止まった。

 灰原だけが、そのまま入っていく。

 

「完成したんですね!」

「うん。首も直った。眼鏡は五条の」

 

 家入は机に向かったまま答えた。

 

「さっき、かけてみたら意外と似合ったからって」

「返さなくていいんですか」

「自分で取りに来るでしょ」

 

 模型は何も言わなかった。

 目元が隠れたせいで、むしろ昼より人間に近づいて見える。

 

 久世は、もう制服の上に薄い上着を羽織っていた。

 空になった箱を畳み、鞄を持つ。

 

 七海は、久世の横顔を見ないようにした。

 

 倉庫で会ったときには、よくできた先輩だと思った。

 愛想のよすぎる人だとも思った。

 何を尋ねても穏やかに返し、手を借りる段取りもいい。こちらが身構えなくて済むように、向こうが先に気を配っている。

 

 けれど、家入と話していると、たまに返事までの間が変わる。

 あちらの短い言葉を、すぐには流さずに聞いている。

 

 自分まで、そこに混ぜられたいわけではなかった。

 

   *

 

「遅え」

 

 寮の廊下へ出るなり言われて、夏油は悟を見た。

 腕時計を確かめる。待ち合わせまで、まだ十分あった。

 

「何時だと思ってるんだい」

「十一時五十分」

「十二時に下へ来いって言ったのは君だろう」

「俺はもう準備できてる」

「なら、そのまま待っていてくれ」

 

 髪を結び直しながら階段を下りると、灰原が顔を上げた。

 

「おはようございます!」

「おはよう。待たせたかな」

「いえ。五条さんが、夏油さんは寝てるから昼からにしようって言ってたので」

 

 傑は、後ろから来る悟を見た。

 

「何」

「別に」

「寝ぼけた奴連れてっても面倒じゃん」

 

 そう言って、悟は先に靴を履いた。

 

 五月も、もう終わりに近かった。

 昨日の任務から戻ったのは、夜中の三時だ。現場でそれほど手間取ったわけではない。移動に時間がかかり、帰りの車では途中まで眠っていた。

 

 今日は、午後から全員で街へ出る。

 言い出したのは灰原だった。

 

「久世先輩は?」

「向こうで合流するって」

 

 玄関の壁に寄りかかっていた硝子が、携帯を閉じた。

 今日は制服ではなく、薄いシャツにパンツという格好だった。

 

「午前中は仕事の人と会ってるんだって」

「久世先輩っていつも仕事してますよね」

「今日は早い方に変えてもらったらしいよ」

 

 悟が振り返る。

 

「そんなにボウリングしたかったんだ」

「知らない。本人に聞けば」

 

 七海は灰原の隣で靴紐を結んでいた。

 結び終わると立ち上がり、まだ話している三人を見た。

 

「電車、そろそろじゃないですか」

「そうだね。行こうか」

 

 外へ出ると、日差しが思っていたより強かった。

 傑は目を細める。

 

 任務で出るときと同じ道なのに、駅へ向かう途中で、灰原が知らない店の看板を見つけていた。

 昼を食べるならあそこもよさそうだと言う。

 

 傑は看板を見た。

 いつからあったのだろう。何度も前を通っているはずなのに、気づいていなかった。

 

「夏油先輩、何食べたいですか?」

「何でも。とりあえず、量があるところがいいかな」

「朝食べてないんですか?」

「寝ていたからね」

 

 悟が、コンビニへ入っていった。

 

「今から買うのかい?」

「飲み物。お前も何か食っとけば」

 

 傑は少し考え、あとに続いた。

 空腹のまま遊び始めて、途中で機嫌を悪くするのも嫌だった。

 

 

 待ち合わせの柱の脇に、仕事帰りの男が立っていた。

 

 硝子は一度、その横を見た。

 ほかに、それらしい制服はない。

 

 男が顔を上げて手を振ったので、ようやく足を向ける。

 

「……先輩だ」

「僕だよ」

 

 久世は、薄い灰色のスーツを着ていた。

 片腕に上着を掛け、白いシャツの首元に、細い柄のネクタイをしている。

 

 顔はいつもの顔だった。

 けれど、近づくまで気づかなかったのは、服のせいだけでもない気がした。柱に背を預けず立っている姿が、周りの会社員に混ざっていた。

 

「制服じゃないんだ」

「午前中の用事がね。着替えるところまでは、間に合わなくて」

「それで投げんの?」

 

 五条が横から言った。

 久世は上着を少し持ち上げる。

 

「脱いでおくよ」

「下は?」

「君は僕にどうしてほしいんだい」

 

 灰原が笑った。

 七海は、先に建物の案内板を見ている。

 

 六人でエレベーターへ乗った。

 扉の横へ立った久世は、閉まる直前に来た人のためにボタンを押していた。

 

 硝子は、その手から肩へ目を移した。

 制服で隠れているときより、腕の形が分かる。

 

「似合ってるね」

 

 言うと、久世がこちらを向いた。

 

「スーツ」

「ありがとう」

 

 扉が閉じた。

 久世は前を向きかけ、もう一度、硝子を見た。

 

「着替えられなくて、得したかな」

「投げにくそうだけど」

「それは、まだ分からないよ」

 

 五条が、階数の表示を見上げていた。

 夏油は隣で、さっき買ったパンの袋を畳んでいる。

 

 エレベーターが止まると、扉の向こうから、ピンの倒れる大きな音がした。

 

 二つのレーンを、三人ずつで使うことになった。

 五条、夏油、灰原。

 硝子、七海、久世。

 

「こっち、静かそうですね」

 

 七海が言う。

 硝子は靴を履き替えながら、隣のレーンを見た。

 

 五条がもうボールを選んでいる。

 灰原は、その一つ一つを持ち上げていた。

 

「あっちがうるさいだけでしょ」

 

 久世が上着を畳み、荷物と一緒に置く。

 ネクタイを外してから、シャツの袖を肘の手前まで折った。

 

 久世が別のボールを持ち上げたところで、背後から大きな歓声が上がった。

 

「すごい、全部倒れました!」

「だろ?」

 

 五条が戻ってくる。

 投げたところは見ていなかったが、画面にストライクの表示が出ていた。

 

「まだ俺しか投げてねえけど、一位」

「みんな投げてから言いなよ」

 

 夏油がボールを取った。

 その背中へ、五条が、負けんなよ、と声を掛ける。

 

 久世は九本倒して、一本残した。

 二投目でも、その一本だけが残った。

 

 ボールが奥へ消えてからも、しばらくピンを見ている。

 

「もう帰ってこないよ」

 

 硝子が言うと、久世は振り返った。

 

「分かっているよ」

「念じれば倒れると思ってそうだった」

「倒れるなら、もう少し念じるけど」

 

 席へ戻ると、彼は紙コップの飲み物を取った。

 氷の音がした。

 

 久世はその後も二度続けて、同じ端の一本を残した。

 硝子がそれを指すと、何も言わずに笑った。

 

 今度の顔は、少し怖かった。

 

 ゲームの半ばで、夏油が携帯を出した。

 

 画面を見てから、通路へ少し離れる。

 五条が次の順番だと声を掛けたが、夏油は片手を上げて、そのまま電話に出た。

 

 硝子は、戻ってきたボールを持ち上げた。

 指を入れ直す。

 

 次に振り返ったときには、夏油が荷物のところへ戻っていた。

 

「ごめん。三時には出ないといけなくなった」

「任務?」

 

 五条が訊く。

 夏油は頷いた。

 

「向こうにいた人から応援の要請だって。詳しいことは車で聞く」

「どこ?」

 

 返ってきた地名に、五条が眉を寄せた。

 

「近くねえじゃん」

「迎えはここまで来てもらえるそうだから」

 

 久世が壁の時計を見た。

 三時まで、まだ少しあった。

 

「残りを投げる時間はありそう?」

「一ゲームくらいなら、たぶん」

「じゃあ、君たちの方を先に進めようか」

 

 五条が灰原を呼んだ。

 まだピンが降りてきていないレーンの前へ立たされて、灰原が振り返る。

 

「まだ投げられませんよ」

「準備はできるだろ」

 

 硝子は、抱えたボールを一度棚へ戻した。

 その隣で久世が、袖の折り目を直していた。

 

 何か言うのかと思ったが、呼ばれた自分の名前を見て、レーンへ出ていった。

 

 

 一ゲーム目は、どうにか最後まで投げられた。

 悟が一位だった。

 

 傑は、自分の数字を確かめてから靴を脱いだ。

 最後に欲しかった一本は取れなかったが、投げ終わってから出られた分、まだよかったと思った。

 

「残りは、楽しんできて」

 

 そう言うと、灰原が少し残念そうにした。

 

「また行きましょうね」

「うん。次はもう少し上手くなっておくよ」

「練習してくるんですか?」

「こっそりね」

 

 灰原が笑う。

 悟は、俺抜きで来んの、と不満そうな声を出した。

 

「君に勝つためだからね」

「言ってる時点でこっそりじゃなくね?」

 

 傑も笑って、自分の靴へ足を入れた。

 

 久世が、一緒に立ち上がった。

 

「僕もちょっと外へ出てくる。戻るから、先に始めていて」

 

 エレベーターへ向かう途中で、傑は先輩を見た。

 上着は置いたまま、携帯だけを持っている。

 

「先輩も、お仕事ですか」

「先生に話したいこと思い出したんだ。君の車が来てからでいいんだけど」

「夜蛾先生?」

「うん」

 

 階数の表示が、一つずつ下がる。

 エレベーターの中は、さっきまでいた場所よりずっと静かだった。

 

「昨日も、帰りが遅かったんだって?」

「三時くらいですね」

「今週、そういう日は何度あった?」

 

 傑は少し考えた。

 

「月曜も、日付が変わってからでした。途中まで別の人を送って、それから戻ったので」

「現場を出たのは?」

「九時頃だったと思います」

 

 久世は頷いた。

 それ以上、すぐには訊いてこなかった。

 

 一階に着いて、外へ出る。

 歩道を通る人を避けて、二人で柱の脇へ寄った。

 

「君たちが行けば早く終わる、というのは、よく聞くけど」

 

 久世が、道路へ目を向けたまま言った。

 

「早く帰ってこられるとは限らないんだね」

「移動は、どうしてもありますから」

「その時間まで、頼む方が数えているのかなと思って」

 

 傑は、手の中の携帯を見た。

 

 昨日の現場では、確かに早かったと言われた。

 予定していたより短く済んだから、近くの確認も頼めるかと訊かれて、それも引き受けた。

 一つずつなら、大した手間ではなかった。

 

 終わって車へ乗ったときには、ひどく喉が渇いていた。

 そのときになって、途中で飲み物を買えばよかったと思ったのだ。

 

「夜蛾先生には、今月も一度、仕事を外してもらっています」

 

 傑が言うと、久世はこちらを見た。

 

「じゃあ、その話も聞いてみようかな」

「今日の分を、断るということですか」

「今日の要請は、現場の様子を聞かないと何とも言えないよ。君が必要なこともあるだろうし」

 

 久世は、携帯の端を親指でなぞった。

 

「僕が気になっているのは、いつも君たちに頼むのが便利になっていないか、という方」

 

 傑は少し黙った。

 

 人手が足りないのは、分かっている。

 自分や悟が行けば済むことなら、そうした方がいいと思う。助かったと頭を下げられることもあった。向こうにしてみれば、誰が何時に帰れるかより、今そこにあるものがいなくなる方が大事だろう。

 

 けれど今日、電話が鳴ったとき、画面を見る前に少し嫌だと思った。

 まだ、自分の順番が残っていたから。

 

「先輩が聞いたら、何か変わりますか」

 

 口にしてから、少し不躾だったかと思った。

 久世は怒らなかった。

 

「聞くだけなら、変わらないかもしれないね」

 

 通りを、一台の車が過ぎた。

 久世はそれを見送り、言葉を続けた。

 

「どこで誰に話せばいいかを知るんだよ」

「先生は、いろいろ教えてくれると思います」

「そうだね。まぁ期待はしないで」

 

 傑は頷いた。

 すぐに何とかしてくれると言われるより、その返事の方が聞きやすかった。

 

「先輩は、今日はもう何もないんですか」

「帰るまではね。家の用事も、今日は別の人に頼めた」

「いいんですか。電話に時間を使って」

 

 久世が、少し笑った。

 

「同じゲームの途中で人が減るのは、僕も嫌だから」

 

 その言い方は、子供っぽいほど率直だった。

 傑は、さっき自分が考えていたことを思い出した。

 

 悟の点数に勝てなくても、二回目なら何とかなるかもしれない。

 先輩が残していた端の一本を、自分なら取れる気もした。

 

 そういうことを、もう少し考えていたかった。

 

 迎えの車が見えた。

 傑が手を上げると、久世も道路の方へ向き直る。

 

「行ってきます」

「うん。気をつけて」

 

 ドアを開ける前に、傑は振り返った。

 

「私の分、誰か投げておいてください」

「五条くんが喜んで投げそうだけど」

「……負けたら、私のせいにされませんかね」

「勝ったら自分の手柄にすると思うよ」

 

 傑は笑った。

 それは、かなりありそうだった。

 

 

 久世が戻ったとき、硝子のボールは溝へ落ちたところだった。

 

 靴を履き直す彼と、目が合う。

 

「今の見た?」

「うん」

「忘れて」

「分かった」

 

 すぐに頷くのが、かえって腹立たしかった。

 

「夏油は?」

「車に乗ったよ。自分の分も誰か投げてほしいって」

 

 五条が片手を上げた。

 

「俺、もう投げた」

「そうだろうと思った」

 

 久世が、画面の数字を確かめる。

 夏油の名前の下に、ストライクが一つ増えていた。

 

 硝子は席へ戻り、紙コップを取った。

 氷は、もうほとんど溶けている。

 

「電話、長かったね」

「先生は今、手が離せないそうだから、あとで時間をもらうことにしたよ」

「じゃあ、何してたの」

「電話したかった相手の名前を、思い出していた」

 

 硝子が見ると、久世は肩を竦めた。

 

「役職と顔は出てくるのに、名前だけ出てこなくて」

「連絡先に入ってないの?」

「家に戻れば分かる。今は、もういいよ」

 

 携帯を鞄へ入れる。

 それから、自分の番だと気づいて立ち上がった。

 

 今度こそ、端の一本まで倒れた。

 

 久世が振り返る。

 硝子は、拍手を二つした。

 

「おめでと」

「ありがとう」

 

 あまりに満足そうだったので、笑ってしまった。

 その横で七海が、自分と久世の数字を見比べている。

 

「あと何回でしたっけ」

「二回かな」

「……そうですか」

 

 硝子は七海を見た。

 

「お前、結構勝ちたいんだな」

「やるなら、その方がいいです」

 

 久世が頷いた。

 そこは、意見が合うらしかった。

 

 遊び終わって外へ出ると、夕方の風が涼しかった。

 

 灰原は、七海へ自分の最後の一投の話をしていた。

 五条は夏油の分も投げたので腕が疲れたと言い、誰にも信じてもらえていなかった。

 

 硝子は携帯で撮った画面を見た。

 六人の名前と数字が、小さく並んでいる。

 

 夏油へ送る文に、二回目の点数は五条、と付け加えた。

 

 久世は駅で別れることになった。

 上着を着る前に、シャツの袖を戻している。

 

「次に来るの、いつ?」

 

 硝子が訊くと、彼は袖口から顔を上げた。

 

「まだ決まっていない。来るための用事、探さないとな……」

「そっか」

「また連絡するよ」

 

 硝子は頷いた。

 

 四月に持ってきた三つの封筒は、あのあと全部返したと聞いていた。

 借りた本も、もう返してある。

 今すぐ渡しておかなければいけないものは、特になかった。

 

 久世がネクタイを持ち、首元で少し迷った。

 

「今から締め直すの?」

「帰るだけなら、いらないかな」

「うん。そっちの方が楽そう」

 

 彼はネクタイを畳んで、上着のポケットへしまった。

 

 昼に見たときほど、仕事帰りの人には見えなかった。

 けれど、襟元が少し開いたシャツも、硝子は悪くないと思った。

 

「今日は、誘ってもらえてよかった」

「灰原に言っといて」

「言ったよ」

 

 久世が笑う。

 それから硝子の方へ、少し顔を寄せた。

 

「君にも、言っておきたかったんだ」

 

 駅の放送が流れた。

 硝子は彼の顔を見てから、改札の方を指した。

 

「電車、来るよ」

「うん」

 

 久世は体を戻し、四人へ手を振った。

 

 別のホームへ向かってから、硝子は自分の携帯を開いた。

 夏油から返事が来ている。

 

『二回目の私、ずいぶん上達したね』

 

 画面を見せると、五条が笑った。

 

「教え方がいいからな」

「お前が投げたんだろ」

 

 硝子はそう返しながら、次は自分で投げろ、と打った。

 

 送ってから、さっき撮った画面へ戻る。

 自分の点数は、あまりよくなかった。

 

 次は、もう少し倒したい。

 夏油だけ、こっそり練習するのもずるいし。

 

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人類創生と共に生まれ、現世において尚澱重なり蔓延る「呪い」▼そうした歴史と共に進んだ呪術▼それらを学ぶ為に設立された▼『東京都立呪術高等専門学校』▼卒業後も多くの呪術師が利用する活動拠点である▼しかし全ての人間が呪術師を目指し在学する訳ではない▼これは1人の男の補助監督としての記録である…▼「…なぁ伏黒、宵月さんって俺らより強くない?」▼「あぁ、この前1人で…


総合評価:166/評価:6.5/連載:2話/更新日時:2026年06月29日(月) 23:27 小説情報

氷叢家の種馬(ガチ)(作者:のりしー)(原作:僕のヒーローアカデミア)

氷叢零至(ひむられいじ)▼落ち目の氷叢一族に産まれてしまった鬼子。▼現役No.2ヒーローであるエンデヴァーの炎系個性に対抗しうる程の才を持ち産まれ……故にその個性は『コキュートス』と名付けられた。周囲の希望の願いと共に。▼ ▼しかし……▼幼き頃は神童で、育てば秀才……成人後はただのクズ。▼『あの』雄英高校に華麗なる推薦合格ゴールをブチかました後、この男は才を…


総合評価:3877/評価:7.8/連載:32話/更新日時:2026年09月17日(木) 21:38 小説情報

第七王子の護衛は胃が痛い(作者:波止場鐸樹)(原作:転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます)

異世界転生した男がロイドに振り回されながら胃を痛める、そんな話


総合評価:5816/評価:8.97/連載:8話/更新日時:2026年09月05日(土) 07:07 小説情報

誓って食い逃げはしません(作者:タカリ)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

スーパープレイボーイの主人公がよう実のDクラスに入学して女の子たちをナンパする話。▼・転生者ではない。▼・原作知識もない。▼・WR生でもない。▼・ただし逸般人。▼・アニメを見ながらの更新なので一年編で一旦終わりの予定。▼・二年生編が全部アニメ化したら多分二年生編もやる。


総合評価:2986/評価:7.49/連載:34話/更新日時:2026年08月01日(土) 19:42 小説情報

名前のない距離の隣で(作者:レゾリューション)(原作:ソードアート・オンライン)

GGOで銃集めにハマっている主人公とシノンの話▼


総合評価:3202/評価:8.61/連載:50話/更新日時:2026年09月22日(火) 17:04 小説情報


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