家入さんのところへ帰りたい   作:an-ryuka

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「あのクソジジイが」

 

 久世の声だと分かったので、五条は引き返した。

 

 校舎の裏手に、雨を避けられる細い通路がある。渡り廊下へ出る手前で、久世が携帯を閉じていた。

 

 もう片方の手には紙の束を持っている。上の一枚を見直し、親指で眉の間を強く押した。

 

「誰のこと?」

 

 声をかけると、久世が顔を上げた。

 

 五条を見て、口元が動く。

 

「……聞こえた?」

 

「聞こえたから戻ってきた」

 

「通り過ぎてくれてもよかったんだけどね」

 

「いや、面白そうだったから」

 

 久世は笑わなかった。

 

 五条は柱にもたれ、相手の顔を見た。目の下が暗い。襟元は整っているが、髪の生え際が少し乱れていた。さっきまで、そこへ何度も手を入れていたのだろう。

 

 こちらを見た途端に直そうとして、途中でやめたような顔だった。

 

「硝子に振られた?」

 

「それは前からだよ」

 

「じゃ、何」

 

 久世は紙を一度揃え、また開いた。

 

「昨日、君は何時に戻ってきた?」

 

「五時くらい。何で」

 

「その後、任務は?」

 

「ねえよ。傑と飯食って、部屋戻った」

 

「だろうね」

 

 言い方が引っかかった。

 

 五条は柱から肩を離す。

 

「何。その間も僕は働いてましたって話?」

 

「僕は働いていたけど、それを君にどうこう言うつもりはないよ」

 

 久世は一枚を抜いて、こちらへ差し出した。

 

「これ。東京校の昨夜の配置について、そちらから説明を受けている?」

 

 五条は紙を取った。

 

 日付。担当者。引き継ぎ先。

 

 五条の名があった。その下には夏油と硝子の名もある。

 

 夜間支援。対応余力あり。

 

「何これ」

 

「こちらへ届いた、支援先の一覧だよ。君たちが校内にいるから、東京には余裕があるそうだ」

 

「俺、そんな仕事聞いてねえけど」

 

「君には、来ていないんだよ」

 

 久世が言った。

 

 五条は先を読んだ。

 

「何でこいつを運ぶのに、怪我人の話が要んの」

 

「僕も、それを聞いたよ」

 

「何て?」

 

「一件の任務として、まとめて確認するためだって」

 

 久世は、別の紙を示した。

 

 拘束開始時刻。終了時刻。

 

 随分と間が空いていた。

 

「その間、あんたが押さえてたわけ」

 

「そう。ただ、これは嫌がらせだ。僕がやってることに気づいたんだろうね」

 

 返事に、少し刺があった。

 

 五条は気にせず、紙の下を見た。

 

 責任者の欄に、知っている姓があった。

 

 顔まで思い出すのに、少し時間がかかった。以前、長い挨拶の途中で五条が席を立った時、誰より先に口を開いた男だ。

 

 最後まで聞いたところで、次の任務の話が早まるわけでもなかった。

 

「ああ、あいつか」

 

「知っているなら、話が早い」

 

 久世は薄く笑った。

 

「君が任務を片づけて、空いた時間に勝手に帰るのが気に入らないらしい」

 

「勝手に帰るも何も、終わってんだろ」

 

「そうだね。だから君に直接、もっと働けとは言いづらい。代わりに、君が帰った東京校は人が余っている、ということにする」

 

 五条は紙へ目を落とした。

 

 対応余力あり。

 

 その下に並んだ名前を、もう一度読んだ。

 

「硝子は?」

 

「処置の後、報告の確認が終わるまで残されていたそうだよ。別の人へ引き継いで帰っていいと言われた後で、本人の説明が必要だからと呼び戻された」

 

 五条は、朝の教室を思い出した。

 

 硝子は机に突っ伏していた。遅かったのか、と夏油に聞かれ、待たされただけ、と答えていた。

 

 何を待ったのかまでは、聞かなかった。

 

 医務室には五条の知らない仕事がある。それは、そういうものだと思っていた。

 

「先生には?」

 

「僕は今から、この記録を持っていくところ。夜蛾先生のところへ来ている依頼と、こちらが受け取った説明が違うからね」

 

 久世は残りの紙を、折れた順に直した。

 

「昨日だけではないんだ。ちょっと調べるだけのつもりだったのに。家入さんの仕事まで徐々に増やしてやがるんだよ、あのジジイ」

 

 久世が、紙の角を強く押さえた。

 

 五条は顔を上げた。

 

 今度の声は、小さかった。

 

 久世は口を閉じ、鼻から息を吐いた。

 

「……失礼」

 

「俺に謝んの?」

 

「癖だね」

 

 五条は少し笑った。

 

 普段なら、その返事にも何か言っただろう。今日は紙の方が気になった。

 

「俺が見てねえから、こうなるって?」

 

「見ていたら、同じ書き方はしなかったと思うよ」

 

「先輩、俺に何させたいの」

 

 久世はすぐには答えなかった。

 

 五条はその間を待った。ここで言葉を濁されたら、紙を返して帰るつもりだった。

 

「名前を貸してほしい」

 

 久世が言った。

 

「今回は先に頼むんだ」

 

「君が、先に言えと言ったからね」

 

「何に使うの」

 

「次の呪術師の振り分けに、君も関心を持っていると伝えたい。実際にどこまで聞くかは、君が決めてくれればいい」

 

 五条は紙を二度折りかけ、やめた。

 

 久世がこちらの手元を見ていた。

 

 頭を下げるでもなく、笑って丸め込もうとするでもない。返事を待つ顔が、少し腹立たしかった。

 

 五条が何に腹を立てるか、分かっていて話している。

 

 それでも、そこに書いてある名前は自分のものだった。

 

「これ、借りる」

 

「先生に渡す分だから——」

 

「俺が持ってく。あんたも来ればいいじゃん」

 

 久世は少し目を細めた。

 

「……分かった」

 

 歩き始めたところで、五条は振り返った。

 

「ちなみに、さっきのクソジジイもこいつ?」

 

「うん」

 

「何て言ってきたんだよ」

 

「簡単に言うと、女にかまけてる余裕があったらもっと働け」

 

 五条は笑った。

 

 久世は笑わなかった。

 

「ああいうのを上からどかさないと、同じことになる」

 

「殺したい?」

 

「仕事を引き継がせてからならね」

 

 今度は五条が、少し黙った。

 

 冗談として流すには、答えが早すぎた。

 

「先に殺すと、残った書類を探すところから始めないといけない。あの人にしか通していない話もある。次の人を決める方が先だよ」

 

 久世は当たり前のように続けた。

 

 五条はその顔を見て、もう一度笑った。

 

「先輩、めんどくさくねぇの?」

 

「面倒だよ。でも毎回、下で待っているだけなのは嫌だから」

 

 職員室のある廊下へ出た。

 

 久世はそこで携帯を開いた。届いていたものを読み、何も打たずに閉じる。

 

「硝子?」

 

「今日はもう寝るって」

 

「会いに来たんじゃねえの」

 

「仕事もあるよ」

 

「会えねえじゃん」

 

 久世は五条を見た。

 

「……そうだね」

 

 それきり、何も言わなかった。

 

*

 

 夜蛾の机にも、同じ日付の紙があった。

 

 書いてある内容は、少し違っていた。

 

「応急処置を受けた術師から報告を取る。それだけの連絡だった」

 

 夜蛾が言った。

 

「家入を残せという指示は、その後だ。処置が済んだ後の確認は補助監督へ引き継げと、こちらからは伝えてある」

 

「でも、向こうは硝子待ちにしてたんだろ」

 

「その経路を確認していたところだ」

 

 夜蛾は久世の持ってきた紙を並べた。

 

 五条は机の横に立ち、日付と時刻を目で追った。

 

 六眼で見えていなかったものではない。

 

 見る場所に、自分が来ていなかっただけだった。

 

「これと、こっちは?」

 

「そっちは負傷者が増えた日だ。最初の見込みより搬送が遅れた。家入が遅くまで残ったのも、そのためだ」

 

 夜蛾が二枚を離した。

 

「遅れたものを全部、同じ理由でまとめるな」

 

「分かってるよ」

 

 五条は残った紙を指で叩いた。

 

「じゃ、これだけ聞けばいいんだな」

 

「何をする気だ」

 

「自分の仕事の話。俺がいるから余裕あるって書いてんだから、俺に説明できるだろ」

 

 夜蛾は五条を見た。

 

 止められるかと思ったが、そうは言わなかった。

 

「明日、担当者がここへ来る。俺から説明を求めてある。聞くなら同席しろ」

 

「決めた本人?」

 

「連絡を扱った担当者だ」

 

「じゃ、決めたやつにも聞けるようにしといて」

 

 五条は机から手を離した。

 

 久世は夜蛾と、別の書類の話を始めた。今度はこちらでなく、京都で誰がどの時間に拘束を受け持ったかという話らしい。

 

 五条は少し聞いてから、部屋を出た。

 

 教室には夏油がいた。

 

 五条が帰ってきたのを見ると、開いていたノートから顔を上げる。

 

「遅かったね」

 

「久世捕まえた」

 

「また何か言ったのかい」

 

「俺が?」

 

「違うの?」

 

 五条は向かいの椅子を引き、背もたれを前にして座った。

 

 昨夜の話をすると、夏油は途中でノートを閉じた。

 

「だから、移送の連絡だけ何度も来ていたのか」

 

「傑にも来た?」

 

「来たよ。追加で呪霊を処理する可能性があるから、校内にいてくれって。結局、何もなかったけど」

 

「言えよ」

 

「何を?」

 

 夏油は眉を寄せた。

 

「夜、外に出る予定もなかった。何かあれば呼ばれるのは、いつものことだろう」

 

 五条は言葉を止めた。

 

 夏油なら、そう考える。

 

 自分も、硝子が医務室にいると聞いて、同じように済ませた。

 

「それで、あいつらが毎回好きに決めてんじゃねえの」

 

「そうかもしれないね。でも、呼ばれた方に言っても仕方ないだろ」

 

 夏油の声は、少し硬かった。

 

 五条は椅子の背を指で弾いた。

 

「……そりゃそうだな」

 

「明日、その話をするのかい?」

 

「うん」

 

「私の連絡も持っていく?」

 

「持ってきて。誰から来たか分かるやつ」

 

 夏油は頷き、携帯を取り出した。

 

 しばらくボタンを押してから、ふと五条を見る。

 

「久世先輩は?」

 

「先生と話してる。今日は硝子に会えねえんだって」

 

「……もう寝ているのか」

 

「すげえ嫌そうな顔してた」

 

 夏油は少しだけ笑った。

 

「それで悟を捕まえたわけか」

 

「捕まえたのは俺だって」

 

「そうだったね」

 

 夏油は携帯へ目を戻した。

 

 五条はもう一度言ってやろうかと思ったが、やめた。

 

 誰が誰を捕まえたのか、明日になれば、また少し違う話になりそうだった。

 

*

 

 翌日、やって来た男は、五条を見ると一度だけ足を止めた。

 

 すぐに夜蛾へ挨拶をし、差し出された椅子に座る。鞄から出した書類は、五条たちの前にあるものより薄かった。

 

 男の説明が終わるのを待ち、五条は差し出された携帯を受け取った。

 

「どーも。五条でーす」

 

 向こうで、咳払いが聞こえた。

 

 挨拶が始まりかけたので、五条は先に続けた。

 

「聞きたいんだけどさ。俺が任務終わって帰ったら、こっちに仕事回していいことになってんの?」

 

『そのような意味ではない。各所の余力を勘案して——』

 

「誰が空いてるか、誰に聞いた?」

 

 返事の前に、少し間があった。

 

 五条は机の端を眺めた。

 

『細かな行き違いは、担当間で調整を』

 

「決めたのあんただって聞いたけど」

 

 男が手帳へ目を落とした。

 

「今、みんないるよ。先生も。調整しようぜ」

 

 五条は笑ったまま、携帯を夜蛾へ渡した。

 

 そこから先の話は、ひどく早かった。

 

「変更した内容は、今日中に文面でくれ。現場への連絡と、こちらへの連絡を揃えるように」

 

 夜蛾が言い、通話が終わった。

 

 男が携帯をしまう。

 

 五条は立ち上がった。

 

「俺の名前が入るやつ、次から俺にも見せてね」

 

「……承知しました」

 

 廊下へ出ると、夏油が隣に並んだ。

 

「来る時は機嫌よさそうだったのにね、あの人」

 

 五条は笑った。少しだけ、気が晴れた。

 

*

 

 その週の終わり、硝子は街へ出た。

 

 誰かを治してほしいという連絡は来た。戻って処置をし、記録を書いた。帰っていいかと聞くと、いいと言われた。

 

 それで、本当に帰れた。

 

 門を出てから携帯が鳴り、またかと思って開いたら、五条だった。

 

『帰れた?』

 

『今から買い物』

 

『そ。甘いの買ってきて』

 

『自分で買え』

 

 返信して、携帯を閉じた。

 

 歩きながら、少しおかしくなった。

 

 何をしたのかは、夏油に聞いていた。五条はその話をすると、ジジイの電話が長かった、としか言わない。夏油によれば、十分もかからなかったらしい。

 

 医務室の仕事がなくなったわけではない。昨夜も一人来たし、来れば治す。

 

 ただ、治し終わった後の、誰が何を確かめているのか分からない待ち時間がなくなった。

 

 その間に眠れた。

 

 今日は出かけられる。

 

 硝子は本屋を覗き、目当ての本がなかったので何も買わずに出た。別の店で靴下を買った。喫茶店の前で足を止め、入り、窓際に座った。

 

 コーヒーが来るまでの間に、久世からメールが届いた。

 

 仕事で高専へ来る。用事が済んだ後、少し会えるか。

 

 硝子は店の時計を見た。

 

『四時くらいに戻る』

 

 そこまで打って、付け足す。

 

『五条は出てる』

 

 返事は、コーヒーより先に来た。

 

『そうなんだ。お礼は別にするよ。君はゆっくりしてきて』

 

 硝子は画面を閉じ、運ばれてきたカップを手元へ寄せた。

 

 飲み終わってから出た。

 

 駅の売店で、結局、五条に菓子を買った。高いものにはしなかった。

 

*

 

 久世は渡り廊下にいた。

 

 壁にもたれず、立ったまま手帳を見ている。硝子が近づくと、足音で顔を上げた。

 

「ああ、おかえり」

 

「どうも」

 

 返事をしながら、その目の下を見る。

 

「まだ寝てないの?」

 

「昨日は寝たよ」

 

「昨日は、ね」

 

「今日は早く戻れる予定だから」

 

 久世が手帳を閉じた。

 

 そのまま、こちらを見ている。

 

「何」

 

「いや。元気そうだなと思って」

 

「寝たから」

 

「うん」

 

 それだけの返事だった。

 

 なのに、妙に嬉しそうだった。

 

 硝子は自分の顔に何かついているのかと思い、頬に触れかけた。久世はその手を見ても笑っている。

 

「そんなにひどかった?」

 

「この前はね。話しかけるのを迷うくらいには」

 

「やめて正解」

 

「だろうと思った」

 

 久世は少し脇へ寄った。

 

 硝子は隣を通り、廊下の先へ進む。自販機で缶コーヒーを買うと、久世も一本買った。

 

 建物の脇には、日が当たる時間の短いベンチがある。今は端だけ明るかった。硝子はそこへ腰を下ろし、買い物袋を足元に置いた。

 

 久世は、座っていいかというようにこちらを見た。

 

「立ってんの?」

 

「座るよ」

 

 隣に、人一人分の重みが加わった。

 

 硝子は缶を開けた。さっき飲んだ方がおいしかった。当たり前だが、少し損をした気になった。

 

「五条、喜んでた?」

 

「何を?」

 

「ジジイに文句言うの」

 

 久世が笑った。

 

「そこは見ていないんだ。翌朝には戻らないといけなかったから」

 

「そっか」

 

「でも、助かったよ。向こうから確認の電話が来るようになった」

 

「何の」

 

「この分担で間違いないか、誰まで知らせればいいか。今までこちらから聞いても、返事がなかったようなこと」

 

「やればできるんじゃん」

 

「できるから、腹が立つんだよね」

 

 声は軽かったが、笑い方はそうでもなかった。

 

 硝子は缶を両手で持った。

 

「お前の待ち時間も減った?」

 

「減った。全部の案件ではないけど、無駄としか思えないいくつかは」

 

「じゃあ寝れば」

 

「そうする」

 

 素直な返事が、かえって信用できない。

 

 硝子が目を向けると、久世は付け加えた。

 

「今日はもう、ここで渡すものを渡したら終わり。夜の仕事は引き受けていないよ」

 

「渡したの?」

 

「うん」

 

「なら、終わってるだろ」

 

「ああ……そうだね」

 

 久世が自分の鞄を見た。

 

 硝子はその横顔を眺めた。

 

 目の下が暗くても、顔立ちは整っている。黙っていれば、煙草を一本欲しいと言う時に、わざわざ吸いかけを指定する男には見えない。

 

 こちらに気づいて振り向いたので、硝子は缶へ視線を戻した。

 

「私の方まで直したんだって?」

 

「君の方?」

 

「医務室。確認待ち、別の人でよくなった」

 

「元々、引き継いでよかったはずなんだよ。僕は、違う説明が来ていた記録を渡しただけ。夜蛾先生が話を戻してくれた」

 

「ふうん」

 

「処置のことは分からないからね。そこは先生と、君たちの判断になる」

 

 久世は缶に口をつけた。

 

 手の甲に、小さな擦り傷があった。塞がっている。硝子は一度見て、そのままにした。

 

「何かさ」

 

「うん」

 

「五条が知っただけで終わるんだな、と思って」

 

 久世は飲み込んでから、缶を膝に置いた。

 

「今回のはね」

 

「毎回呼べば」

 

「それだと、今度は五条くんを待たせることになる」

 

 硝子は少し考えた。

 

「あいつ、待たないだろ」

 

「うん。だから、余計にね」

 

 確かに、待たない。

 

 帰る。文句を言う。面倒になれば途中を飛ばす。

 

 それができるやつが一人いることで、帰れた人間もいる。

 

 久世は鞄から手帳を出しかけ、やめた。

 

「また仕事?」

 

「思い出しただけ。明日でいいことだよ」

 

 手を戻した。

 

 硝子は足元の袋から、菓子の箱を出した。

 

「食う?」

 

「いいの?」

 

「五条に買ったけど」

 

「それは、いいのかな」

 

「全部は食わないよ」

 

 包みを開くと、個包装の小さな焼き菓子が八つ入っていた。一つ取って渡す。

 

 久世は受け取ったが、まだ少し箱を気にしていた。

 

「お礼するんだろ。お前がもっといいの買えば」

 

「……なるほど」

 

 納得したらしい。袋を開けた。

 

 硝子も一つ食べた。普通にうまかった。五条なら、もっと甘くてもいいと言うかもしれない。

 

「今日は、何を買ってきたの?」

 

「靴下」

 

「それだけ?」

 

「あと、それ。本はなかった」

 

「探しているものがあるなら——」

 

「いい。今度見つけたら買う」

 

 久世は口を閉じた。

 

 硝子はもう一口、缶のコーヒーを飲んだ。

 

「店でぶらぶらするのも用事なんだよ」

 

「……そっか」

 

「そ。買う物決まってなくても行くし」

 

「僕は、決めてから行くことが多いね」

 

「だろうな」

 

 久世は菓子の袋を折り畳んだ。

 

「でも、今日はいい買い物だったみたいだ」

 

「靴下だぞ」

 

「君が楽しそうだから」

 

 硝子は横を見た。

 

 久世はいつものように、言った後で取り消そうとはしなかった。少し笑って、こちらの返事を待っている。

 

 硝子は箱の蓋を閉めた。

 

「眠くないだけ」

 

「それは、よかった」

 

 やはり嬉しそうだった。

 

 そんなに違う顔をしているだろうか。

 

 自分では分からない。確かに、今日は相手の声を聞いても、返事を作るのが面倒ではなかった。

 

「私に会いに来るまで、何時間働いたんだよ」

 

「今日?」

 

「いつからでもいいけど」

 

「数えると腹が立ちそうな時間かな」

 

 久世が笑った。

 

 硝子は缶を膝に置いた。

 

「今会ってるのに?」

 

 隣が静かになった。

 

 見ると、久世はこちらを向いていた。

 

「何」

 

「……ううん」

 

 首を振る。口元の笑みが一度なくなって、それから、少し違う形で戻った。

 

「そうだね。今は、やめておく」

 

「うん」

 

 風が来た。

 

 足元の袋が倒れかけたので、硝子は靴の先で押さえた。久世が身を屈め、袋の向きを直した。

 

 戻ってきた顔に、さっきまで残っていた眉間の皺がなかった。

 

 硝子は缶の底を指で撫でた。

 

「今日入った店さ」

 

「うん」

 

「コーヒー頼んだら、砂糖が三つ来た」

 

「使った?」

 

「一個も」

 

「五条くんなら、全部入れそうだね」

 

「あいつなら足りないって言う」

 

 久世が笑った。

 

 硝子は店の話を続けた。

 久世は時々何か聞いた。硝子は覚えているところだけ答えた。

 

 手帳は、鞄の中に入ったままだった。

 

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