角を曲がったところで振り返る。追ってきていた足音はもう聞こえなかった。
崩れた露店の陰で息を殺してから旧ギルドへ走る。扉を閉めて閂をかけると、ようやく膝から力が抜けた。
広間は今日も静かだ。受付の机には埃が積もり、掲示板には色あせた依頼書が貼られたまま残っている。その真ん中に、依頼書の裏紙を複数張り合わせて作られた手書きの地図が張られてある。
俺とイズナで作った王都の地図だ。旧ギルドを真ん中に置いて、歩いて確かめた通りだけを線で描き足している。今日の分を書き込もうとして手が止まった。
線が引いてあるのは地図の端のほんの一角だけだった。防壁の輪の中の5%にも届かない。王城にいたっては場所の見当をつけただけで、そこまでの道は一本も引けていない。
毎日走り回ってこれだ。この街で何があったのか。どうして人が一人もいなくなったのか。それを知るために歩いているのに、まだ入り口にも立てていなかった。
扉を叩く音がした。二人で決めた叩き方だ。
閂を外すとイズナが立っていた。肩に自分の背丈ほどもあるラッシュボアを担いでいる。
「ただいま。コルム、これ焼いて」
「おかえり。……また大物だな」
「今日はこれしか見つからなかったのよ」
獲物を床に下ろして、イズナはふうと息をついた。彼女の姿を確認し傷が無いかを確認する。昔、返り血で汚れたという外套に新たなシミはできていなかった。それだけで地図の前で固まっていた肩が少し軽くなる。
○
厨房のかまどに火を入れるころには、外はすっかり暗くなっていた。
ボアの肉を切り分けて串に刺し、火にかける。脂が落ちるたびに火がはぜた。
「そっちはどうだった?」
イズナが隣にしゃがみ込み、串の向きを勝手に変えながら聞いてくる。
「東の市場の方に行ったんだけどでかいのが出た。たぶんトロールだと思う。建物の陰から急に出てきてさ。逃げるので精一杯だった」
「怪我は?」
「ない。足だけは速いから」
「逃げ足が速いのはいいことよ」
「それ褒めてないだろ。イズナの方は?」
「北。王城に向かって進んでみたの」
火を見たまま彼女は言った。
「城に近づくほど魔物が強くなるわ。それに数も多い。通りごとに群れがいて、とても抜けられなかった」
「王城に何かあるってことか」
「かもしれないわね。少なくとも今の私たちで行ける場所じゃない」
焼けた肉を皿に載せる。味付けも何もない焼いただけの肉だ。
イズナは熱いのも構わずかぶりついた。俺も一本取ってほおばる。腹が減っているせいか、焼いただけでもやけにうまい。
「明日はどうする?」
「トロールがいるなら東はやめておきましょう。南門から回って防壁沿いに地図を広げるの」
「分かった。水もそろそろ汲みに行かないとな」
肉を飲み込んでから俺は串を置いた。
「なあイズナ」
「なに?」
「俺、イズナがいなかったらとっくに死んでたと思う」
「急にどうしたの」
「本当だって。どこに魔物がいるとかどの魔物がどう動くとか、全部調べてくれてるだろ。俺一人だったら最初の日にくたばってた」
彼女は少し黙った。
「それを言うなら私のほうよ」
「何が?」
「雷竜の主から守ってくれたのは、あなたでしょう」
あのときのことはよく覚えていない。気がついたら雷竜の首が落ちていて、後ろにイズナがいた。ただ守らないとという強い想いがあったことだけは覚えている。
「……あれは体が勝手に動いただけだよ」
「それで十分よ」
まっすぐこっちを見て言われて顔が熱くなる。向こうも急に火の方へ向き直って串をいじり始めた。
ばさりと音がして、割れた窓から鳥が飛び込んでくる。
灰色の鳥は机の上を跳ねてイズナの前で止まる。足に細く巻いた紙が結びつけてあった。
「連絡鳥ね」
ほどいた紙を広げて目で追っていくうちに、彼女の眉が寄っていった。
「何て書いてある?」
「……ほかの街も同じみたい。魔物に襲われて辺境以外の街はほとんど全滅だって」
喉がつまった。王都だけじゃなかったのか。
「アナンタは?!」
声が上ずる。イズナは紙の端まで目を走らせてから顔を上げた。
「無事よ。辺境の街は襲われていないって書いてある」
体から一気に力が抜けた。師匠もギルドのみんなも生きている。
「よかった……」
「ただ辺境に帰るのは難しいそうよ。途中の街道はどこも魔物だらけで、馬車はもう走っていないって」
帰れない。そう聞いても、アナンタが無事だという安心の方がまだ大きかった。
「こんなことになるなんて思いもしなかったな」
「そうね」
「王都に来るまで、どんな依頼を受けようかってずっと考えてたんだ。まさか街ごと魔物の巣になってるなんて予想できるわけない」
「へー、どんな予定だったの?」
「アナンタから十日も馬車に揺られたからさ。その間ずっと考えてたんだよ。最初はどの依頼を受けて、それから……」
続きが出てこない。十日も考えていたはずなのに、何を考えていたのかが何ひとつ思い出せなかった。馬車の揺れも途中で泊まった宿も同じ荷台に乗っていた客の顔も、すっぽり抜け落ちている。
背中がすっと冷えた。俺は目をつぶって、覚えているいちばん新しいところまで記憶をたどる。
「コルム?」
「ちょっと待って。馬車に乗ってた間のことが全部思い出せないんだ。乗る前は……」
思い出したのはアナンタの朝の広場だった。荷台に背負い袋を放り上げたところで師匠の声がする。呆れた顔なのに声だけは真面目だ。たしか話していたのは――
「処女の女冒険者には気をつけろ」
口に出した途端、イズナが身を乗り出してくる。
「どこでその言葉知ったの?」
「え?師匠だよ。出発の朝に、王都に行くなら気をつけろって。意味は師匠もよく分かってなかったみたいだけど」
「懐かしい」
イズナは目を細めて笑った。
「知ってるのか?」
「知ってるも何も。私がこの街に来て間もないころに起きた事件から広まった諺みたいなものよ」
「事件?」
「よくある男女のいざこざだったの。女の冒険者が男に惚れて、それがこじれた。普通なら喧嘩で終わる話よ」
火に目を落としたまま彼女は続けた。
「でもその子にとっては初恋だったのね。しかも下手に力を持った冒険者だった。止めに入った人もたまたま居合わせた人も巻き込んで、ずいぶん死人が出たわ。ひどい事件だった」
「そんなことが……」
「そのせいで当時は冒険者同士の恋愛がタブーになったくらい」
「それ、いつくらいの話なんだ?」
「3……年前かしら」
3年前なら、俺がまだアナンタで師匠の後ろをついて回っていたころだ。
「じゃあイズナがこの街に来たのもそのころってことだよな。もしかしてイズナって俺の先輩?」
「まさか。そんな訳ないじゃない。今更あなたに敬語で話されてもむずがゆいわ」
すぐに首を振られた。
「大変だったのはそのあとなの。恋愛がタブーになったせいで、そのころ一人で活動してた女冒険者はずいぶん苦労する羽目になったわ。誰と組んでも変な目で見られて」
「イズナは?大丈夫だったのか」
「私はむしろ、あのいざこざを止めに入る側だったから。そっちで評価されたわ」
イズナは立ち上がると俺の隣に座り直した。肩が触れる。
「それにもう処女じゃないしね」
「え?」
聞き返すより先に腕が首に回ってきた。そのまま体重を預けられて背中が床につく。
「ちょ、待てって。イズナ」
俺の鎧の留め具が外れる音がした。俺の上で彼女は自分の上着の紐をほどいていく。
「やめろって。恥ずかしいだろ」
口ではそう言っているのに腕に力が入らない。押し返そうとした手はイズナの肩に触れたところで止まった。
唇が重なる。離れたとき、イズナの髪が頬にかかっていた。息が整わないまま俺は聞いた。
「……その二人はどうなったんだ」
「さぁ。二人で遠くに逃げたらしいわ」
「そんな事件を起こしたやつがまだどこかで捕まってないのか。気をつけないといけないな」
「そんなことより私に集中して」
彼女の指が首筋から胸へ下りていく。
彼女の肌を体に感じながらいつも俺は何かを思い出そうとする。しかし、思い出せない。
何か大切なことを忘れている気がした。思い出そうとした端から、指が触れたところに熱が集まっていく。背中が勝手に浮いて喉の奥から息が漏れた。腰の奥からせり上がってくるものに指先までしびれていく。
さっきまで考えていたことがほどけて、もう何を忘れていたのかも分からなかった。
耳元でイズナがささやく。
「ずっと一緒だよ。ここで二人で。ずーーっと、ね」