朝おきると、宿の机に手紙が置いてあった。
真ん中で折りたたまれてあるだけの簡素なもの。中には先輩の字で「王城に来てほしい」とだけ書いてある。
先輩が結界の点検に発って一週間になるが、そのあいだ何の知らせもなかった。手紙を置きすぐに靴を履く。
外に出るとあいにくの雨だったが、足取りは軽く感じる。
○
王城の門には誰もいなかった。
「すみません。イズナ先輩に呼ばれたんですが――」
武器を預かる詰所の方へも行くがやはりそこにも誰もいなかった。
預かってくれる人がいなくても、剣を持ったまま王城に入るわけにはいかない。剣はいつも預けている台の上に置いた。
鎧も外そうとしたが、右腕がまだ上がらないため、背中の留め具を探すのに手間取った。外した胸当てを剣の横に並べて門をくぐる。
中はいつも以上にしんと静まり返っていた。
先輩がどこで待っているのかは手紙に書いていない。誰かに聞けばいいと思っていたが、聞く相手が見つからないのは想定外だった。
「すみません、誰かいませんか」
返事はない。門の横の詰所にも、パーティのあった広間にも誰もいなかった。廊下を曲がっては声をかけ、階段を上がっては扉を叩いてみたがどこも同じだ。
それでも引き返そうとは思わなかった。先輩が来てほしいと書いたのだからきっとこの城のどこかにいるだろう。
歩き回るうちに廊下の突き当たりに大きな扉が見えてきた。玉座の間だ。
扉の前で足を止めると、中から声がした。
「待ってたわ。入りなさい」
先輩の声だった。俺は恐る恐る扉を押して中に入る。
暗い。天井のシャンデリアには明かりが入っていないし、窓の外は厚い雲に塞がれている。奥のほうに誰かが立っているのは分かるが、顔までは見えなかった。
「先輩、ですよね」
「ええ。適当に座って」
言われて周りを見回す。暗くて椅子らしいものは見当たらない。
「えっと地面にですか」
「空いてるここに座ればいいじゃない」
暗くてよく見えないが、杖で部屋のどこかをさしているのは伝わる。杖の先を目で追うと一段高いところに大きな椅子の影がある。
玉座だ。王様しか座れない椅子に先輩は俺を座らせようとしている。
冗談だと思った。先輩はたまにこういう言い方で俺をからかうからだ。
「先輩、さすがにそれは――」
笑いかけたところで、窓の外が白く光った。
雷鳴と一緒に部屋の中が一瞬だけ明るくなる。
先輩は玉座の横に立っていた。いつもの外套が胸のあたりから裾まで黒く濡れている。玉座の背もたれから座面にかけても同じものがべったりとついていた。
部屋はすぐにまた暗くなった。
「先輩。どこか怪我をしている……ですよね」
「ふふ。心配してくれてありがとう」
もう一度窓の外が光る。先輩は杖を下ろして、いつもと同じ顔で俺を見ていた。
「怪我をしている人はここには誰もいないわよ。私も、私以外もね」
★
鏡の前で口紅を引きながら、今日はどんな理由でコルム様に会いに行こうかと考える。
昨日は式典の礼服の仕立て直しを口実にした。その前は南門の通りを回る日取りの相談だった。どちらも私がわざわざ出向くような用事ではないと、きっと彼も気づいている。それでも彼は困った顔をしながら最後まで話を聞いてくれる。
イズナ様が結界の点検で王都を離れている今のうちに少しでも彼の近くにいたかった。
雷竜の主に襲われたあの日、彼は右腕を吹き飛ばされてまで私を守ってくれた。倒れた彼の下に血が広がっていくのを見て、私は初めて誰かを失うのが怖いと思った。目を覚ますまでの二日間、椅子の上で彼の手を握りながら目を開けたら最初に私を見てほしいとそればかり願っていた。
口紅を置いて侍女を呼ぶ。
「誰か。髪を結ってちょうだい」
返事がない。いつもなら扉の外に控えている侍女がすぐに顔を出す。卓の上の呼び鈴を鳴らしても、足音ひとつ聞こえてこなかった。
私は椅子から立って自分で扉を開ける。
廊下には誰もいない。扉の両脇に立っているはずの近衛の姿もなかった。いつも以上にしんと静まり返っている。
私は扉の枠を掴んだまま、そこから一歩も動けなくなった。
「殿下」
すぐ後ろで声がして肩を叩かれた。
びくっとしながら振り向くと、コルム様が立っていた。雷竜の主から私を護ってくれたあの日と同じ、冒険者の装いだ。胸当てをつけ、腰に剣を下げている。
「コルム様。どうしてここに」
「静かに聞いてください」
彼は廊下の先に目をやってから、声を落とした。
「イズナ先輩が乱心しました。城の人たちを次々と殺して回っています」
言葉の意味がすぐには頭に入ってこなかった。
「一緒に逃げましょう。今ならまだ間に合います」
「お父様は。お父様はどうなったのですか」
彼は苦い顔をする。
「……分かりません」
それ以上は何を聞いても答えてくれなかった。
彼が私の手を取る。
握られた手が自分でも分かるほど震えていた。お父様の顔が浮かぶ。答えてくれないのは本当に分からないのか、それとも――。静まり返ったこの城の中で生きているのはもう私たちだけなのではないか。
怖い。
恐怖で支配されそうになった瞬間、彼がこちらを見る。
「あなたは絶対に俺が守る」
あの日と同じ目をしていた。私は頷いてその手を握り返した。
彼がいれば大丈夫だ。あの日も彼はこうして私の前に立ってくれた。震えていた指先に少しずつ温度が戻ってくる。やはりこの人は私だけの英雄なのだ。
裏口へ向かう廊下にも人の姿はない。コルム様は曲がり角のたびに足を止めて先を確かめ、私の手を引いて進んだ。裏口の扉を押し開けると、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
「あら、王女殿下。式典は終わったはずでは?」
イズナ様が立っていた。いつもと変わらない穏やかな顔で杖を手にしている。
コルム様が私を背に庇い、右手で剣を抜く。
「イズナ先輩、覚悟!」
踏み込んだ剣は、届く前に止まった。彼女は杖を持ち上げてもいない。見えない何かに掴まれたように、刃が宙で動かなくなっている。
コルム様は剣から手を離し、私の腕を掴んで走り出そうとした。
「あら、逃げるの?」
イズナ様の声が低くなった。
次の瞬間、彼の体が地面から浮き上がる。喉から苦しげな音が漏れて両足が宙を掻いた。
「やめてください!」
私は二人のあいだに飛び込む。
「イズナ様、申し訳ありません。わたくしが、イズナ様からこの方を取り上げようとしました。お怒りはすべてわたくしが受けます。ですから、どうかこの方の命だけは」
彼女が私を見下ろす。宙に吊られていた彼が地面に落ちて激しく咳き込んだ。
「そう。なら、こうしましょう」
イズナ様は杖の先で、私とコルム様を順に指した。
「どちらかがもう片方を殺しなさい。そうしたら、残ったほうは生かしてあげる」
私は彼を見た。
地面に膝をついた彼はまだ苦しそうに肩で息をしていた。それでも私を後ろへ下がらせようと手を伸ばしてくる。土のついた頬も、荒い息も、こちらを見上げる目も、全部が愛おしかった。私はこの人が好きだ。
「コルム様。わたくしを殺してください」
「……無理です。そんなこと、できるわけがない」
彼は首を横に振り、落ちた剣を拾おうともしなかった。
頬に冷たいものが落ちる。見上げると灰色の空から雨が降り始めていた。雨はすぐに音を立てて強くなり、髪も肩も濡れていく。
「降ってきたわね。二人とも風邪をひく前に対処してあげようかしら」
このままでは二人とも殺される。
私はイズナ様に向き直った。
「イズナ様。お願いがございます」
「なにかしら」
「コルム様の体を操って、わたくしを殺させてください」
彼女の目がわずかに見開かれた。それから雨の中で静かに頷く。
「……いいわ」
「殿下、何を言ってるんですか。そんなの、俺は――」
コルム様の手が剣を拾い上げた。
「やめてください、先輩!お願いです、殿下だけは!」
叫びながら彼の腕は剣を構えていく。刃先が震えているのが雨の向こうに見えた。
私は彼に近づく。濡れた前髪の下で彼の目が私を見ている。私は背伸びをして、彼の唇に自分の唇を重ねた。
あの日、私は彼に命を守られた。そのあと私にできたのは、彼が目を覚ますのを二日間待つことだけだった。その私が今、彼の命を助けることができる。それが何より嬉しかった。
唇を離すと、彼の腕が振り上がる。
「コルム様、お慕いしておりました」
剣が首を通るまでのわずかなあいだ、私は一切の痛みを感じなかった。
心が彼の愛で満たされていたのだから。
だけど、欲を言うならもうちょっと。もうちょっとだけ彼と――ふた――は――・・・・・・