――記録:イグゼリア中継環
中継環は記録上、閉鎖されている。
閉鎖の後も、廃棄物処理船の定時便が往復を続けている。
行きの積荷は登録されている。
帰りの積荷の欄も、埋まっている。
何が積まれているのかは書かれていない。
〈星間特務班《シグマ=レコード》任務ログ:オラクル・ダスク〉
任務番号:SD-11 / 対象:イグゼリア中継環
目的:
① 搬送便の追跡
② 帰りの積荷の行き先の確認
③ 改訂派の拠点の確認
構成員:
隊長 アシェル=ヴェルグ
解析担当 ユノ=スレイト
技術担当 ザイ=ノーヴァ
情報担当 レア=ミーネ
備考:
艦の識別信号は廃棄物処理船のタグで伏せたまま。
イグゼリアの予記注入は停止。記録上の事故は未確定。
認識できない回廊
《オラクル・ダスク》は廃星イグゼリアの重力圏を離脱し、何もない暗闇の只中へ進んでいた。
そこは物理的な星系図と、未登録宙域《C-0-R3》の境界線だ。
“記録される世界”と“記録されない世界”の断層。
その狭間に、巨大な銀色の環が浮かんでいた。墓標のような沈黙を纏っている。
対消滅通信中継施設《イグゼリア中継環(リレー・リング)》。
直径約六キロメートル。
かつて星系間の膨大なデータを中継した構造体は、今は宇宙の遺棄物として漂っている。
外壁を覆うのは、数十年にわたる宇宙塵の衝突痕だ。
無数の傷が、恒星の光を鈍く乱反射させている。皮膚病に冒された巨人の肌のように荒れ果てていた。
「……光学センサー、補正できません」
レアがモニターを睨む。その瞳に、不可解なデータ流が映り込む。
「リングの周囲だけ、背景の星空がねじれています。熱源による陽炎ではありません。空間座標そのものが、ゼリー状に波打っています」
その揺らぎは、こちらの観測を拒む「膜」のようにリング全体を包み込んでいた。
時折、銀色の装甲の表面が水面のようにぐにゃりと歪む。
歪みの奥に、本来そこにはないはずの「黒い質量」が一瞬だけ透けて見える。
物理的なリングの影に重なるようにして、次元の違う「何か巨大なもの」がへばりついている気配。
だが瞬きをすれば元に戻る。ただの古びた金属塊が鎮座しているだけだ。
「深入りして覗き込むなよ」
アシェルが静かに警告する。
「深淵だ。無記の海の向こう側だ。見ようとすればするほど、向こうからも見つかりやすくなる」
《オラクル・ダスク》は、その不吉な蜃気楼の中へあえて直進する。
船首が揺らぎの膜に触れた瞬間、船内の重力制御が一瞬だけ軋んだ。
ドン、という物理的な衝撃はない。
だが内臓の位置が数センチだけずれるような、平衡感覚の喪失が搭乗員を襲う。
窓の外で、自分たちの船の「影」が一拍遅れて追いかけてくるのが見えた。
この場所では、時間の連続性が薄皮一枚分だけ剥がれているのだ。
「搬送便、先に入港しています。第三ドックです」
レアが追跡画面を拡大する。
「積荷を降ろしています。運び込み先は、リングの内側です」
レアの指が次の画面へ移る。
「誘導ビーコン、捕捉。……廃棄物処理船タグ、認証パス」
声は硬いが、指先に迷いはない。
「警備システムは私たちを“ただのゴミ回収業者”だと誤認しました。ゲート開きます」
スラスターの噴射音が、船体骨格を通して低く響く。
微細な姿勢制御。
船体とドックは、金属同士が触れ合う硬質な音すら立てずに噛み合った。磁石が吸い寄せられるように。
「固定完了」
ザイの報告で、歪んだ感覚が急速に現実へ引き戻される。
完全な静止。
深海の底で水圧に耐えている時のような、張り詰めた圧力が船外から押し寄せていた。
エアロックが開く。
プシュ、という気圧調整の音が、死んだ施設に響き渡る。
「重力制御、正常。空気清浄度は……ギリギリ吸えるレベルか」
アシェルがバイザーの数値を一瞥し、ヘルムの気密を解いた。
バイザーは表示のために下ろしたままにする。
流れ込んでくる空気は冷たく、重い。
機械油と殺菌剤、そして微かに「オゾン」の匂いが混じっていた。高電圧が常に放電している場所特有の、焦げたような鋭い匂いだ。
「積荷、移送ラインに乗りました」
レアが端末を見たまま言う。
「行き先は最深部です。ラインは壁の中を通っています。私たちが歩ける道とは別です」
アシェルが足を踏み出す。
躊躇はない。
澱んだ空気を切り裂くように、彼らは境界線の向こう側へ踏み込んだ。
「……静かすぎるな」
先頭を行くザイが、アサルトライフルの銃口を下げたまま呟く。
「警備ドローンの一機も飛んでねぇ。まるで“客”が来るのを待ってたみたいだ」
「あるいは、警備なんて必要ないのかもね」
ユノがバイザー越しに周囲を見回し、眉をひそめた。
「ねえ、変だよ。ここの壁の表示、読める?」
通路の壁面には、案内用のホログラム板が等間隔で並んでいる。
『A-01区画』『中央制御室』『立入禁止』
フォントは明瞭だ。光の配列も正常。欠けもノイズもない。
だが「読もう」と意識した瞬間、意味が脳から滑り落ちる。
「……っ」
ユノが軽く頭を振る。
文字が溶けているわけではない。網膜には「A-01」という図形が映っている。
だが脳の言語野が、それを「場所を示す記号」として処理することを拒んでいるのだ。
何千回も書き取った漢字が、突然ただの線の集まりにしか見えなくなる。そのゲシュタルト崩壊を、無理やり起こされているような感覚。
「……気持ち悪い」
レアがこめかみを押さえる。
「データとしては受信してるのに、解析できません。文字化けや暗号化じゃない。『意味の消失』です。この看板、私の認識では『壁の染み』と同じ扱いになっています」
「“無記の海”の影響が出始めてるな」
アシェルが短く告げる。
「ここは境界線の上だ。物理法則と記録法則が混ざってる」
アシェルは看板から目を外した。
「記録が剥がれると、物は形だけ残して、何なのかを失う。看板は看板の形のまま、意味だけが消える」
一行は、認識できない回廊を進む。
その歩みは、泥沼を行くように重い。
角を曲がるたびに、強烈な既視感と未視感が同時に襲ってくる。
直進しているはずなのに、遠近感がおかしい。
十メートル先の扉が、どれだけ歩いても同じ大きさのまま近づいてこない。
ランニングマシンの上で、背景映像だけを見せられているような感覚だ。
「おい、足元を見ろ」
ザイが呻くように言う。
「俺たちの足音……聞こえてるか?」
軍用ブーツが金属の床を叩く。コツ、コツ、という硬質な音。
だがその音は、足が床に着いてからコンマ数秒遅れて鼓膜に届いていた。
因果律が狂っている。
「踏んだ」という事実と「音が鳴った」という結果の間に、微細なタイムラグが生じているのだ。
「見るな、聞くな」
アシェルが鋭く命じる。
「五感を切れ。自分の目や耳を信じるな。ここでは、お前たちの目と耳は正しい値を返さない」
アシェルは自身のバイザーに、マッピングデータの数値だけを投影していた。
バイザーの数値は、船から持ち込んだ記録だ。
ここの記録より長くもつ。だが長くいれば、それも剥がれる。
目の前の廊下が無限に続いているように見えても、距離計が「残り五メートル」を示していれば、それを事実として採用する。
床が天井に見えても、ジャイロセンサーが「水平」を示していれば、迷わず足を出す。
「計器の数値だけを頼れ。見えているものより、測ったものを信じろ」
三半規管と海馬が悲鳴を上げる。脳は「ここは異常だ」と警告を出し続けている。
その中を、シグマ=レコードは冷徹な数値の糸だけを命綱にして、認識の迷宮を突き進んだ。
「警備がいらない理由、わかったよ」
ユノが息を整えながら言う。
「この廊下、計器なしじゃ誰も最深部に着けない。迷路そのものが番人なんだ」
回廊の先で、壁の一面がガラスに変わった。
「……ここ、事務エリアみたいだね」
ユノが懐中電灯の光を、ガラス張りの部屋へ向ける。
かつては何十人ものオペレーターが働いていたであろう、広いフロア。
デスクが整然と並んでいる。端末のスクリーンはスリープモードのまま、薄暗いオレンジ色の待機光を点滅させていた。
「生活感があるのが、逆に気味悪いな」
ザイがデスクの一つに近寄る。
そこには飲みかけのマグカップが置かれていた。中身は乾ききって、黒いタール状の染みになっている。
その横に、ホログラム式のフォトフレームがある。
電源は生きているようで、数秒おきに画像が切り替わっていた。
「……おい、これ」
ザイが眉を顰める。
フォトフレームに映っているのは、笑顔の男女や子供の姿だ。
だが、その「顔」がない。
黒く塗りつぶされているわけでも、ノイズが走っているわけでもない。
目や鼻や口があるはずの場所が、つるりとした肌色の曲面になっている。
のっぺらぼうとは違う。最初から顔という器官を必要としない生き物の記録を見せられているような、生理的な拒絶感。
笑顔だということはわかる。だが、誰なのかが識別できない。
「個人の識別データが、概念ごと引き抜かれている」
アシェルが淡々と分析する。
「“誰か”がいた記録はある。だが“誰だったか”という固有性は、この領域では保てない。この写真の持ち主も、自分が誰を愛していたか、もう思い出せないだろうな」
ザイは顔をしかめたままだった。
アシェルの中では、何も軋まなかった。
一行は顔のない笑顔に見送られるようにして、事務区画を抜けた。
重厚な防火扉を越えると、不意に空気の質が変わった。
乾いた機械油の臭いが薄れる。湿った土と、腐った果実のような甘い匂いが漂ってくる。
『第三リクリエーション区画:アトリウム』
看板の文字は歪んでいる。だが緑色の光が、そこが「癒やしの場」であることを主張していた。
ゲートをくぐった瞬間、レアが思わず息を呑んで後ずさる。
「……植物、ですか? これが」
そこはかつて、美しい模造の森だった場所だ。
だが今は、緑色の地獄と化している。
植え込みの樹木は、上に向かって伸びていなかった。
重力の方向を無視して螺旋を描き、横へ、下へと、触手のように這い回っている。
葉の形もおかしい。光合成のための平面ではない。内臓のような球体がぶどうの房のように密集し、天井の照明に向かって脈動している。
「遺伝子の設計図が壊れてる」
ユノがバイザーの解析結果を見て、吐き気をこらえるように口元を覆う。
「『成長しろ』って命令だけが残って、『どういう形に』っていう定義が消えたんだ。だから細胞分裂のたびに形が変わってる。バラの花が咲くはずの場所にサボテンの棘が生えて、その先から人の指みたいな根っこが伸びて……」
「見るな」
アシェルがユノの肩を叩く。
「あれはもう植物じゃない。エラーデータの塊だ。関わると、お前の細胞の定義まで引きずられるぞ」
脈動する緑の回廊を、逃げるように抜ける。
その先に待っていたのは、打って変わって無機質な静寂だった。
最深部へ向かう通路には、個人の居室が並んでいた。
いくつかのドアは半開きになっていて、中の様子が覗ける。
ベッドは整えられ、読みかけの電子書籍端末がサイドテーブルに置かれている。
シャワールームからは、水滴の落ちる音が一定のリズムで響いていた。
「人がいた、って感じがしねぇな」
ザイが呟く。
「いや、物は揃ってる。生活の跡もある。だが……なんて言うか、“体温”がねぇ。最初から『そういう風に家具を並べた展示場』の中を歩いてる気分だ」
アシェルが、壁に掛けられた姿見の前を通る。
ふと、鏡の中を見た。
最初は、通路と背後のザイたちが映っているように見えた。
だが、アシェル自身の姿が映っていない。
「……!」
アシェルが一瞬、足を止める。
よく見ると、ザイやユノの姿も映っていない。鏡には無人の背景だけが、完璧な解像度で映し出されている。
アシェルは鏡に触れようとはせず、視線を外した。
「ここの記録に、俺たちは人として載っていない。ゴミ回収の船で入ったからな」
一拍置いて、付け足す。
「幽霊になったのは、俺たちの方かもしれない」
「冗談はやめてよ」
ユノが身震いする。
「早く行こう。最深部へ。ここに長居したら、私たちまで『最初からいなかったこと』にされそう」
一行は足早に居住区を抜ける。
背後の鏡の中で、誰もいないはずのベッドのシーツが、ふわりと微かに窪んだような気がした。
硝子の檻、混沌の核
最深部、中央サーバー室の前で、空間のずれが急に収まった。
レアが壁の数値を読む。
「この区画だけ遮蔽されています。上の制御区画も同じです。生体反応、上に数十」
「中で働く人間のためか」
ザイが言った。
「外の廊下は、捨て場ってわけだ」
扉が開く。
そこにあったのは、無機質なサーバーラックの列ではない。
巨大な円筒形の空間だ。その中央に、天井から床までを貫く巨大な「硝子の檻」が鎮座していた。
檻の中は、液体で満たされているようにも、濃密なガスで満たされているようにも見えた。
その白濁した霧の奥に、人の背丈ほどの黒い影が浮いていた。
「それ」は、そこにいた。
「……あ」
ユノが掠れた声を漏らす。
無意識に、端末の解析キーを叩いていた。
『対象を定義せよ』
「人型、身長百七十、炭素生命体、男性、あるいは女性、子供、老人……」
言葉が続かない。
ユノの口から出た単語は、宙に放たれた瞬間、灰のように意味を失って崩れ落ちていく。
「違う。これは、言葉じゃない」
檻の中にあるものは、生き物として読めない。
読めるのは「空白」だけだ。
世界というキャンバスに空いた、ぽっかりとした穴。
あまりにも完全な「無意味」が、そこに鎮座している。
だが人の脳は、その無意味に耐えられない。
黒檀から開示された記録の末尾に、一行だけ注記があった。
『読むべからず。しかし、読むことでしか到達できない』
脳が焼き切れるのを防ぐために、視覚野が勝手に手持ちの記憶をその空白に投影し始める。
ある時は、無垢な少年のように。
ある時は、威厳ある老人のように。
またある時は、古い神話の英雄のように。
観測者が形を決めようとするたびに、それは拒むように揺らぎ、別の形へずれていく。
変身しているのではない。
アシェルたちの脳が必死になって「読もう」として、失敗し続けているのだ。
「……気持ち悪いな」
ザイが吐き捨てるように言う。視線を逸らそうとするが、眼球が固定されたように動かない。
「目が離せねぇ。見たくもねぇのに、脳みそが勝手に『あれは何だ』って答えを探しに行きやがる。こいつは、情報のブラックホールだ」
アシェルは硝子の檻に歩み寄った。
至近距離で見ると、その影の輪郭は微細なノイズの集まりのように見えた。
文字のようにも見えるが、どこの国の言語でもない。
意味をなさない記号の羅列。
読み解こうとすれば発狂する、呪われたソースコード。
ユノが端末を向ける。画面には真紅の警告灯が点滅するだけだ。
「この波形……イグゼリアの断片と同じだよ」
《実験体 No.77》
黒檀の記録に、わずかな痕跡だけを残していた存在。
索引核の原型。索引が現在に足を置くための参照点。その器。
――索引は参照点がなければ動かない。
黒檀の部屋でアシェルが聞いた言葉が、形になってそこにあった。
「……こいつが、オリジナルか」
ザイが息を呑む。トリガーに掛かったままの指先が、微かに震えていた。
「実験体ってのは聞いてたが、こりゃひでぇ。脳だけ培養したとか、そんなチャチなもんじゃねえぞ。肉体も、精神も、運命さえも……“存在そのもの”を試験管で培養してやがる」
ユノが画面を睨む。
「でも、そこから先は解析不能。測定値が物理法則を無視してる」
ユノの声が上擦る。
「質量ゼロなのに、無限大。温度は絶対零度なのに、沸騰してる。全部が矛盾してるんだよ。世界中の計算間違いをひとまとめにして、無理やり人の形に押し込めたみたい」
その時、檻の中の空白が揺らいだ。
こちらを見た、という明確な動きではない。
ただ、その深淵がアシェルたちという観測者を「認識」した。
瞬間、影から不可視の「波」が放たれた。
空気の振動ではない。
脳髄の言語野に直接ねじ込まれる、情報の奔流だ。
『――――――』
言葉ではない。叫びですらない。
意味になる前の、スープ状の感情だ。
「痛い」「寒い」「産まれたい」「死にたくない」「私が正しい」「僕を選んで」
何億という、選択されなかった可能性。
おぞましい量の「ノイズ」が、アシェルたちの自我を塗りつぶしにかかる。
「ぐ、ぁ……っ!」
レアが膝をつく。
ヘルムの視聴覚センサーから、火花のようなノイズが散った。
「防壁が……透過されます……! これはハッキングじゃない……ただの“純粋な感情”です……!」
論理防壁は、悪意あるプログラムしか弾けない。
「意識を閉ざせ! 共感するな!」
アシェルが叫ぶ。崩れ落ちそうになるレアの襟首を掴んで引き上げる。
「聞くな! それは言葉じゃない、ただのエントロピーだ! 意味を理解しようとしたら、お前の精神まで持っていかれるぞ!」
だが奔流は止まらない。
No.77から放たれる「選ばれなかった者たちの嘆き」は、物理的な障壁を透過する。レアたちの自我の殻を、内側から食い破ろうとしていた。
三人の視界が白濁する。
自分の記憶と他人の記憶が混ざり合い、自分が誰だったかという輪郭が溶けていく。
ノイズはアシェルの中にも流れ込んだ。
だが流れ込んだ先で、何にも触れずに沈んでいく。
「チッ……!」
アシェルは舌打ちし、腰のホルスターから「それ」を引き抜いた。
一見すると、無骨なショートソードに見える。
だが刃はついていない。
表面には溝が刻まれている。回路パターンのようにも、呪術的な幾何学模様のようにも見える。鈍色の鉄塊だ。
出自は不明。旧世界の発掘現場から回収された、現実を定義するための杭。
科学か魔法か、あるいは祈りか。今の文明では解析できないアーティファクト。
仕組みは誰にも分からない。使い方だけが、手順として残っている。
《基準杭(アンカー・パイル)》
「下がってろ。……俺が『隔離(クアランティン)』する」
アシェルは杭の柄にある認証センサーを握り込む。
ジャキリ、と内部機構が噛み合う音が、骨格を伝って脳髄に響く。
その痛みにも似た感触が、感情を切り離し、頭を計算だけに使う状態へ切り替えるスイッチとなる。
「権限行使(オーバーライド)。対象、実験体No.77」
班が任務の中で持つ、封印の権限だ。
アシェルの声からは、すでに人間的な抑揚が消えていた。
瞳からも、色が引いている。
彼は杭を逆手に構える。
記録上の分類は観測機器。武器ではない。
この空間を支配している「曖昧な定義」に、物理的な一点を穿って「明確な定義」を注入する。そのための巨大な入力端子だ。
「当該オブジェクトの存在形式を『未定義の生命体』から『破損データ』へ変更」
アシェルは無表情に告げると、鉄塊を振りかぶり、足元の金属床へ躊躇なく突き立てた。
――確定(エンター)。
床を穿つ衝撃と共に、不可視のコマンドが世界へ走った。
閃光も爆音もない。
気圧が急に変わった時のような、鼓膜を塞ぐ不快な閉塞感だけが通り過ぎる。
それは「断定」の力だ。
杭は使い手の身体を通して、定義を流し込む。
杭が打たれた一点では、その定義が他のどの定義よりも先に立つ。
同じ場所に相容れない定義が重なれば、弾かれるのは杭の外から来た側だ。
杭を抜いても、打ち込んだ定義はしばらくその場に残る。
読めないものに、こちらから読み方を押し付ける。
曖昧であるがゆえに無限の力を持っていた混沌に、「お前はただの破損データである」というレッテルを貼り付ける。その可能性を凍結させる処理だ。
『――――……』
脳内を侵食していたノイズが、唐突に断ち切られた。
電源プラグを乱暴に引き抜かれたスピーカーのように、No.77が沈黙する。
『破損データ』へ定義を書き換えられたことで、精神への干渉を強制的に遮断されたのだ。
揺らいでいた影が、檻の内側へ押し戻される。こちらへ伸びていた波が、そこで途切れた。
床に突き刺さった杭だけが、そこが現実であることを示す墓標のように佇んでいた。
「……隔離完了」
アシェルは床から杭を引き抜き、無造作にホルスターへ戻す。
体温の通わない瞳が、ゆっくりと本来の色を取り戻していく。
アシェルのこめかみに、鈍い痛みが残っていた。
「大丈夫か」
「は、はい……。ノイズ、消失しました……」
レアが震えながら頷く。
「すごい……。あの桁違いの演算量を、現場の封印権限だけで『凍結』したんですか……?」
「ただの事務処理だ」
アシェルは短く言い放つ。
「俺はあいつの悲しみになんて付き合わない。俺たちが立っているのは、誰かを蹴落として選んだ『現在』だ。今更、選ばなかった過去に泣きつかれても……迷惑なだけだ」
綺麗な世界、汚れた心臓
嵐のような情報の奔流が去り、サーバー室に乾いた静寂が戻る。
アシェルは、杭の効力が及んでいる硝子の檻へ歩み寄った。
こちらへ向かってくる悲鳴が封じられたことで、このシステムが何をしているかが、目に見える形で露わになっていた。
檻の周囲には、無数の極太ケーブルとパイプが接続されている。そこから規則正しい青い光が、高圧ポンプのような唸りを上げて注入されていた。
改訂派が生成した「確定予記」のデータだ。
壁の中を通ってきた移送ラインも、檻の基部で終わっていた。
『明日の天気は晴れである』
『争いは起きない』
『誰も悲しまない』
『世界は美しい』
完璧で、清潔で、一切の不純物を含まない綺麗な予記。それをNo.77というフィルターに無理やり通すことで、現実世界へ定着させようとしている。
だがNo.77は、それを拒んでいた。
綺麗なデータが入るたびに、影の肉体が痙攣する。そのたびに、ドロドロとした黒いノイズを吐き出す。
吐き出されたノイズは遮蔽の外へ流され、どこにも記録されない。
記録されないものが溜まり、中継環の中に小さな無記の海を作っていた。
回廊を狂わせていたものの正体だった。
ユノがモニターを覗き込む。
「イグゼリア向けの行は止まったままだね。ここに流れてるのは別の予記。もっと大きいやつだよ」
ユノが配線の行き先を追う。
「C-0-R3で書いたものを、ここでこの子に通して定着させてる。中継環だから、定着させたものをそのまま配れるんだ」
数値を読み上げる声が、わずかに震えた。
「……定着率、四割を切ってる。こいつ、改訂派が押し付けてくる“完璧なシナリオ”を、全身全霊で拒んでる。管理された幸福なんて、死んでいるのと同じだって叫んでる」
アシェルは、分厚いガラス面に手を触れた。
冷たい。だがその奥に、杭でさえ消しきれない業火のような熱を感じる。
「皮肉な話だ」
アシェルが低く呟く。
「奴らは争いのない綺麗な世界を作るために、この世で一番“ドロドロとした混沌”を心臓に据えたのか」
「混沌だからこそ、フィルターになるんでしょうね」
レアが顔色を青くしたまま立ち上がる。
「予記が筋を一つ選ぶたびに、選ばれなかった筋が全部この子に押し込まれる。過去の分も、未来の分もです。さっきの声も、外に溢れているノイズも、それです。世界の汚れを、この子一人に押し付けてるんです。……これで、治療のつもりなんですか」
「つもりなんだろうな」
アシェルが吐き捨てる。
「患者を一人選んで、街じゅうの病を全部そいつに移す。それを“治療”と呼ぶ医者がいるなら、藪医者か、マッドサイエンティストのどっちかだ」
アシェルはガラス面から手を離した。
この悪趣味なシステムを組み上げ、管理している「飼い主」がいるはずだ。
そいつは今も、どこか特等席でこの惨状を眺めているに違いない。
その時、頭上のスピーカーから乾いた音が響いた。
パチ、パチ、パチ。
ノイズ混じりの拍手の音だ。
『――見事な手際だ。その《基準杭》の扱い、教科書通りだよ』
アシェルは驚かなかった。
来るべき時が来たというように、ゆっくりと視線を上げる。
サーバー室の上部、防弾ガラスで仕切られた制御室のバルコニー。
そこに、ひとつの人影が立っていた。
武器は持っていない。
白衣を思わせる清潔な衣服を纏っている。手のかかる患者を診る医師のような、穏やかな笑みを浮かべていた。
『ありがとう、シグマ=レコード。君が“整地”してくれたおかげで、バイタルも安定したようだ。やはり、少し負荷をかけすぎていたかな』
悪びれる様子は微塵もない。
「……藪医者のお出ましだな」
アシェルが低く呟く。
「名乗る必要はない。お前がここの管理責任者(アドミニストレーター)か」
『そうありたいと思っているよ。世界という病室のね』
男はバルコニーの手すりに手を置き、硝子の檻を見下ろした。
その眼差しは慈愛に満ちているようにも、実験動物を見る観察者のようにも見えた。
『紹介しよう。それが私たちの“献体”だ。言葉で語り尽くせない痛みを吸い上げ、この世界を浄化するための、尊い犠牲(ワクチン)』
アシェルは無言で、ホルスターの杭に触れた。
だが、抜かない。
まだ、打つ時ではない。
第十一話 観測規約改訂の夜:境界の実験体 了