断罪の徘徊者   作:牛倉弥兵衛

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観測規約改訂の夜:泥濘の用務員

――記録:イグゼリア中継環・中央サーバー室

 

その夜、中継環の配信記録に一件の更新が書き込まれた。

対象は中継環の全区画。

更新は配信の直前で止まっている。

停止の理由の欄には「整合性の不成立」とある。

管理責任者の氏名の欄は空いている。

更新者の署名の欄には、「医師」とだけある。

 

〈星間特務班《シグマ=レコード》任務ログ:オラクル・ダスク〉

 

任務番号:SD-11(継続) / 対象:イグゼリア中継環・中央サーバー室

目的:

 ① 中継環の管理責任者の確認

 ② 中継環からの予記の配信の阻止

 ③ 実験体No.77の処置の判断

 

構成員:

 隊長   アシェル=ヴェルグ

 解析担当 ユノ=スレイト

 技術担当 ザイ=ノーヴァ

 情報担当 レア=ミーネ

 

備考:

 実験体No.77は基準杭により隔離済み。

 管理責任者と接触中。

 

地図と画鋲

男はスピーカーのスイッチを切った。

手すりに両手を置き、こちらへ身を乗り出す。

白衣のようなコート。整えられた銀髪。

その目は患者のレントゲン写真を見る医師のように、冷たい慈愛に満ちていた。

次の声は、スピーカーを通さずに降ってきた。

円筒形の空間が、声をよく運んだ。

「名乗りは要らないと言われたからね。ここの者は私をドクターと呼ぶ。君たちもそれでいい」

男――改訂派の幹部であり、この施設の管理責任者は、世間話でもするように続けた。

「君たちがイグゼリアの地表で、私の大切な器具を壊してくれたことは知っているよ。索引核の断片だ」

ドクターは指を一本立てた。

「あれが何だったか、わかって壊したのかな? あれは爆弾ではない。画鋲だ」

講義をする口ぶりになった。

「少し、基礎の話をしようか。この宇宙には二つの層がある。一つは、君たちが這いつくばっている物理の現実。無秩序で、汚れていて、風雨に晒された荒地だ。もう一つは、私たちがC-0-R3で書き上げた論理の層。完璧な計算式で引いた、一枚の地図だ」

彼はうっとりと天井を仰ぎ、詩を吟じるように続ける。

「私はこの地図を、荒れた地面に敷こうとした。新しい地図――予記としてね。だが地面はあまりに粗野だ。因果の風が吹き、人々の迷いという泥が跳ね、せっかくの地図がめくれてしまう」

ドクターは残念そうに首を振った。

「だから地図は、継ぎ目のない一枚で書く。継ぎ目があれば、そこからめくれる。一か所でも浮けば、全部がめくれてしまうからね。そのうえで、端を地面に留める。あの黒い欠片は、論理を物理に留めるための特注の画鋲だ。イグゼリアに深く、深く打ち込むことで、私の地図は現実という地面に固定されるはずだった」

「……はずだった、か」

アシェルが低い声で言う。

「なら、俺たちはその楔を砕いた。留めるものがなければ、お前の予記は定着しない。違うか」

「普通ならそうなる。教科書通りならね」

ドクターは嬉しそうに頷いた。

それから、可笑しくてたまらないというふうにくすくすと笑った。

「だが君たちは、少々乱暴に抜きすぎた。画鋲ごと地面の岩盤を砕いてくれたおかげで……イグゼリアのまわりの現実は、支えを失って浮いてしまった」

彼は手すりを、愛おしそうに指でなぞる。

「想像したまえ。画鋲を抜こうとして、床板ごと剥がしてしまった子供を。おかげで私の目の前には今、何の抵抗もない、ふわふわと浮いた現実だけが広がっている」

アシェルは、イグゼリアの中庭で靴底に感じた軽さを思い出した。

底が一枚抜けたような軽さ。

あのとき、ユノの計器では重力値が定まらなかった。

「素晴らしいと思わないか? 地面が浮いているなら、もう画鋲で留める必要さえない。“それ”の出力で、この宙域ごと糊で塗り固めて、地図の方を定着させてしまえばいい」

ドクターは硝子の檻へ目を落とした。

「それに、君はさっき“それ”を黙らせてくれた。拒む声が止んだ今なら、糊はむらなく伸びる」

ユノが端末を見る。

「……定着率、上がってる」

声が硬くなる。

「四割を超えた。まだ上がってるよ」

ユノの指が止まる。

「……この予記、区画で分けてない。中継環の端から端まで、一本の行で書いてある」

「……地ならしを手伝わされたってわけか」

ザイが歯噛みする。

「楔を砕いて、檻まで静かにしてやった。とんだ親切をしちまったな、俺たちは」

「感謝しているよ、シグマ=レコード。君たちは最高の外科医だ。私が手を出しあぐねていた患部を、二か所とも綺麗に処置してくれた」

レアは手元の端末で、制御区画の配線を追っていた。

「隊長」

声を落とす。

「予記の受け口は、檻の基部の一か所だけです。実行のキーは、あの人が持っている端末にあります」

アシェルは目だけで頷いた。

 

柵の中の楽園

ドクターが指を鳴らすと、サーバー室の壁面モニターが一斉に切り替わった。

映し出されたのは、これから書かれるはずの未来だった。

荒廃したイグゼリアの姿はない。

かつて入植者が夢見た都市が、そこに建っていた。

計算され尽くした緑が茂り、街路は幾何学的に整えられている。

空は一点の曇りもない淡い青。

太陽光は常に最適な角度で降り注ぐ。

建物の影さえデザインの一部のように、不快な鋭さを削ぎ落とされている。

道路には塵一つない。

巨大な無菌室に街ごと封じ込めたような、プラスチックめいた清潔さが支配していた。

そして、人々がいた。

広場を行き交う人々は、誰もが微笑んでいた。

だがその笑顔は、奇妙なほど均質だった。

怒声もなければ、歓声もない。議論もなければ、駆け寄る足音もない。

恋人同士とおぼしき男女がベンチに座っている。

互いに見つめ合うことも、肌を擦り合わせることもない。一定の距離を保ち、満足げに並んでいるだけだ。

子供が転んだ。

泣き声は上がらない。

体が敷石に当たる寸前、石の表面がスライムのように形を変えて衝撃を吸い、優しく押し戻したからだ。

痛みという概念そのものが、物理法則の段階で取り除かれている。

子供はきょとんとした顔で起き上がった。

泥汚れ一つない服のまま、また目的のない歩行に戻っていく。

「見たまえ。これが私の治療だ」

ドクターの声が熱を帯びる。

「悲劇は起きない。争いは選択肢から消去される。誰も『あの時こうしていれば』と泣くことはない。人々は暖かな羊水のような部屋でまどろみ、ただ穏やかに瞬きをする。誰も星を見上げず、誰も荒野を目指さず、誰も傷つくような恋をしない。最初から正解だけを与えられ、危険な夢を見ることもない世界だ」

モニターの中の若者たちは、誰も空を見ていなかった。

視線は手元の端末に注がれている。

そこから流れてくるのは、安全で、適量で、決して中毒にならない程度の娯楽だけだ。

未知という言葉を知らない瞳。

恐怖がない代わりに、熱狂も憧れもなかった。

人間というより、丁寧に陳列された高級な果実のようだった。

傷むことを許されず、熟して落ちることも許されない。

ショーケースの中で、瑞々しさを保ち続けるだけだ。

「映像じゃありません」

レアが呟く。

「予記の中身を、そのまま絵にしています」

「……綺麗すぎて、吐き気がするね」

ユノが画面を睨む。

「これ、生きてる人間じゃない。ただの『家畜』だよ。失敗しないように、最初から狭い柵の中を歩かされてるだけ」

「失敗しないことが幸福だろう?」

ドクターは心底不思議そうに首を傾げた。

「なぜ高い場所を目指そうとする? そこは寒くて危険だ。なぜ未知を愛そうとする? そこには痛みがある。君たちは痛みを知っているはずだ。大切なものを失う辛さも、取り返しのつかない後悔も。それらを全部、仕様から削除する。小さく、暖かく、身の丈に合った幸福だけを与えようと言っているんだ」

アシェルはモニターに映る完璧な笑顔を見つめ、静かに口を開いた。

「……お前は、この世界の『羊飼い』のつもりか」

「私は群れを守るだけだ」

ドクターは即答する。

「迷える羊たちを柵で囲い、狼を遠ざける。そうして管理された群れだけが繁栄する」

「違う」

アシェルは言い切った。

「痛みは、その人間がその人間であるための“輪郭”だ」

ドクターの眉がわずかに動く。

「怪我の痛み。失敗の記憶。失った悲しみ。そのすべてが、今の俺たちを形作っている。痛みを消すということは、その人間が生きてきた記録を消すことと同じだ」

アシェルはドクターを指差した。

「お前が作ろうとしているのは人間じゃない。ただ呼吸して、消化するだけの末人(まつじん)だ。憧れも、後悔も、血を流して掴み取る意志もない。そんなふやけた幸福の中で、死ぬまでまどろんでいろと言うのか。自分の中に混沌を持たない人間に、星は産めない。お前の楽園の空に、星は一つも上がらない」

「……随分と、野蛮な意見だ」

ドクターは冷ややかに目を細めた。

「星など、見上げなければ首も冷えない。それに多くの人は、そんな高尚な苦悩など欲しがらない。彼らが欲しいのは、何も考えずに済む安楽な製品だ」

「ユーザーが欲しがろうと、俺は承認しない」

アシェルは腰の《基準杭》に手を掛けた。

「俺の人生はバグだらけで、継ぎ接ぎで、エラーログの山だ。だが俺は、俺の人生を愛している」

アシェルの瞳に、暗い炎が宿る。

「このクソみたいな人生を、もう一度最初から繰り返せと言われても――俺は笑って『イエス』と言うだろう。同じ傷を負い、同じ喪失を味わい、またここへ辿り着くとしてもだ。……俺が自分で選び取ったこの傷を、お前の『綺麗な偽物』と交換してやるつもりはない」

「……まさか、そこまでとはね」

ドクターは本当に残念そうにため息をついた。

「君は羊飼いにはなれない。君はただの……汚れ仕事を愛する『用務員(ジャニター)』だ。古いガラクタに埋もれて死ぬのがお似合いだよ」

ドクターはコートのポケットから、小型の端末を取り出した。

キーに指を掛ける。

「交渉は決裂だ。治療を強制実行する」

「止めろ!」

ザイがライフルを構える。

アシェルも床を蹴っていた。

それより速く、ドクターがキーを叩いた。

 

漂白

瞬間、世界が裏返った。

爆発ではない。衝撃もない。

視界の質感が、暴力的なまでの白さに書き換わった。

サーバー室の錆びた壁が、見る間に継ぎ目のない純白のパネルへ置き換わっていく。

床に染み付いた油汚れが、宙に舞っていた埃が、最初から存在しなかったかのように消える。

油と鉄の匂いが消えた。

代わりに、脳が痺れるほど無臭で清浄な空気が満ちた。

「な……っ!?」

レアが悲鳴を上げる。

「上書きです! 記録の側から書き換えられています、現実が後から合わされてる……! この場所の定義が、予記の定義に差し替えられています! 中継環全体が、ドクターの書いた予記に呑まれていきます!」

中継環じゅうのスピーカーから、ドクターの優しい声が響いた。

『抵抗するな。受け入れたまえ。痛みは消える。汚れも消える。君たちの過去の傷も、全部なかったことになる』

ユノの端末に、残り時間が浮かんでいた。

「配信まで……あと、九十秒……」

読み上げる声が、途中で細くなった。

「クソッ、銃が……!」

ザイが叫ぶ。

構えていた無骨なアサルトライフルが、手の中で飴細工のように形を変えていく。

冷たい鉄の感触が消える。

銃身が滑らかな曲線になり、トリガーが溶けるように消え、凶器としての機能が剥ぎ取られていく。

数秒後、ザイが握っていたのは銃ではなかった。

白く丸みを帯びた、何の意味も持たない美しいオブジェだった。

ザイはそれを見下ろしたまま、動かなくなった。

踏み出したアシェルの足が、床の上で力を失った。

膝が折れかけ、その場に踏みとどまる。

「ふざ……けるな……!」

アシェルは歯を食いしばり、自分の掌を見た。

無数の小さな切り傷。銃ダコで硬くなった皮膚。

ナイフの扱いを覚えた時の傷。

初めて人を撃った時の、消えない火傷の跡。

それらが見る見るうちに薄れ、消えていく。

赤ん坊のように柔らかく滑らかな、何の歴史も刻まれていない新品の皮膚が、古い皮膚を食い破って現れる。

「やめろ……俺を、治すな……!」

叫ぼうとした。

だが、思考に白い霧がかかる。

(戦わなくていい)

(もう楽になろう)

(最初から、何も辛いことなどなかった)

脳のしわをアイロンで伸ばされるように、怒りという感情が去勢されていく。

恐怖すら感じないほどの、圧倒的な安らぎだった。

暖かい羊水の中に沈んでいくような、甘美な脳死。

拒む意志そのものが、受け入れる側へ書き換えられていく。

霧は胸の奥まで流れ込んだ。

その底の一か所だけを、何にも触れずに素通りしていった。

「……隊長」

レアの声が、遠くで間延びしていた。

「なんだか……もう、いいような気がします……」

それでも指だけが、端末の上から離れていなかった。

「アシェル……」

隣で、衣擦れの音がした。

「……私……何をしに……?」

ユノが膝をつく。

頬に残っていた疲れの影も、肌の小さな荒れも消えた。

陶磁器のように無機質な美しさだけが残る。

瞳から、戦う意志の光が消えかけていた。

代わりに宿っているのは、生まれたばかりの赤子のような、無垢で空虚な輝きだ。

ユノはザイの手の中の白いオブジェを見て、うっとりと微笑んだ。

「ここ、すごく……綺麗……」

「ユノ……!」

アシェルが手を伸ばそうとする。

だが、距離がつかめない。

力の抜けた足の中で、戦うための筋肉が作り替えられていく。

ただ歩くためだけの、柔らかな肉へ。

No.77の檻を見る。

中の黒い影もまた、無理やり幸福な夢を見せられているのか、痙攣を止めて静止していた。

輪郭から棘々しいノイズが消え、丸く、愛らしいだけの何かへ変わっていく。

悲鳴すら上げられない。

完璧な彫像のように固められていく。

このままでは、自分たちもあのショーケースに並べられる。

傷むことも、熟すことも許されない果実として。

「――チッ」

アシェルは舌打ちし、自分の腕を強くつねった。

痛くない。痛みさえ削除されている。

思考はほとんど白く塗られていた。

ただ胸の底の、霧が素通りしたあの一か所にだけ、考えが一つ残っていた。

霞む視界の中で、手が腰のホルスターを探った。

そこにある《基準杭》だけは、まだ冷たく、重く、鈍い鉄の感触を残していた。

記録上の分類は観測機器。武器ではない。

ドクターの予記が凶器として消せるのは、記録が凶器と呼ぶものだけだ。

記録で世界を書き換える男は、記録の分類を越えられない。

(なら、杭だ)

杭が打たれた一点では、杭の定義が他のどの定義よりも先に立つ。

同じ場所に相容れない定義が重なれば、弾かれるのは外から来た側だ。

ついさっき檻の前で、自分の手でそうした。

「ザイ、ユノ、レア! 寝るな!」

アシェルが叫ぶ。

「まだ仕事は終わってないぞ。この独りよがりな羊飼いに、用務員のやり方を教えてやる!」

アシェルは駆けた。

だがその歩みは、泥濘を行くように遅い。

戦わなくていい――システムからの慈悲深い干渉が、脳の運動野に直接ブレーキをかけてくる。

足が重い。

体が自分の意志ではなく、世界の幸福な筋書きに従おうとして強張り、止まろうとする。

(――重い)

アシェルはその重さを噛みしめた。

そうだ。これが現実だ。

前に進むことは、いつだって重くて、苦しくて、面倒くさい。

自動で進む歩道なんて、俺の人生には一度もなかった。

「……ああ、そうだ……!」

アシェルは吠えた。

喉が鳴る。心臓が早鐘を打つ。

痛みは消されても、重さだけは残っている。

肉体を信じずに、一体何を信じろというのか。

バルコニーへ上がる階段は遠い。

だが、そこまで行く必要はない。

中継環は端から端まで、一枚の予記で書かれている。

一か所でも浮けば、全部がめくれる。奴自身がそう言った。

ユノの読みでも、予記に区画の切れ目はなかった。

ならば、どこに打っても同じだ。

杭は使い手の身体を通して、定義を流し込む。

通り道は自分の身体だ。

痛みが要るなら、自分で払えばいい。

「強制執行……!」

アシェルは《基準杭》を逆手に握り締め、大きく振りかぶった。

狙うのは、目の前の塵一つない純白の床だ。

「対象、当該座標! 定義変更……『苦痛』を承認せよ!!」

鉄塊が振り下ろされる。

手首を砕くような、鈍く重い反動が走った。

杭の先端が柔らかな床材を食い破り、その下にあるはずの硬いものに突き刺さる。

杭を握った手から、痛みが戻ってきた。

骨が軋み、掌の皮が裂ける。

消えかけていた火傷の跡が、裂けた皮の下から浮かび上がる。

銃ダコの硬さが、指の付け根に戻ってくる。

杭が打たれた一点だけは、予記の外にあった。

その激痛が杭の認証機構を通じて信号として増幅され、中継環の基幹系へ逆流した。

『警告。論理矛盾を検知』

『定義:「苦痛は存在しない」⇔ 入力:「深刻な苦痛を確認」』

『致命的なエラー。整合性が成立しません。更新を中断します』

無機質なシステム音声が、ドクターの甘い声を遮る。

足元から、世界そのものが軋む音がした。

物理的な破壊音ではない。世界の見え方そのものが割れる、耳障りなノイズだ。

「な……!?」

ドクターが初めて表情を崩す。

杭を中心に、完璧だった楽園のテクスチャが、劣化した塗装のようにひび割れ、剥がれ落ちていく。

純白のパネルが剥がれ、その下から薄汚れた錆色の鉄板が顔を出す。

無臭の空気に、焦げ臭い機械油の匂いが混ざり始める。

壁面のモニターで、整えられた街にひびが走った。

淡い青の空が剥がれ、その下から灰色の大気が覗く。

微笑む人々の広場が崩れ、冷却塔の残骸が映る。

死んだ星の、本当の姿だった。

「――ッ、痛ぇな!」

ザイが呻き、膝をついた。

手の中で丸いオブジェと化していた銃が本来の質量を取り戻し、ガシャリと音を立てて無骨なアサルトライフルへ戻る。

戻った重さに、指を挟まれたのだ。

「くそ……でも、痛ぇってことは……戻ったのか!?」

「……あ」

ユノが瞬きをする。

瞳から虚ろな安らぎが消え、いつもの鋭い理性の光が戻ってくる。

自分の手が汚れているのを見て、塗装の剥げかけた世界を見て、ユノは深く息を吐いた。

「……最悪。すごい悪夢を見てた気分」

「ロールバックしています!」

レアが端末を叩く。

「杭の定義が先に立ちました! 弾かれたのは外から来た予記の方です! 予記全体の整合が崩れて、更新ごと取り消されています! 元の座標が最優先に戻りました!」

「配信、止めたよ」

ユノが端末から顔を上げる。

「残り十二秒だった。中継環から外には、一行も出てない」

「杭の定義が残っているうちに、予記の受け口を閉じます」

レアの指が走る。

「隊長、これですぐには上書きし直せません」

サーバー室の景色が、完全に元に戻った。

薄暗く、寒々しく、汚れに満ちた現実へと。

 

経過観察

「……野蛮だね、本当に」

バルコニーの上で、ドクターがため息をついた。

背後の防弾ガラスにも、蜘蛛の巣のようなひびが入っている。

アシェルの流し込んだノイズの余波だ。

白いコートの袖に、剥がれた錆が一片、染みを作っていた。

ドクターはそれを見下ろし、指で払った。

染みは落ちなかった。

「せっかく、誰も傷つかないゆりかごを用意してあげたのに。自分で壊して、泥の中に戻りたがるなんて」

「余計なお世話だ」

アシェルは床から杭を引き抜き、血の滲む手でホルスターに納めた。

掌の火傷の跡は、元の場所にあった。

「泥遊びは用務員の特権でね。……降りてこい、ドクター。診察時間は終わりだ。ここからは、俺たちの監査の時間だ」

ザイが銃口をバルコニーへ向ける。

だがドクターは慌てる様子もなく、コートの襟を正した。

「いや、今日の治療はここまでにしておこう。君たちというウイルスへの抗体が、まだ足りなかったようだ。無理な手術は患者を殺す。……今回は、経過観察とするよ」

ドクターの姿が揺らぎ始めた。

ホログラムではない。

彼の周囲だけ、座標の定義が書き換えられていく。

立っている場所が、ここではないどこかとして定義し直されようとしていた。

「逃がすかよ!」

ザイがトリガーを引く。

乾いた銃声。

だが弾丸はドクターの体に触れる直前で宙に止まり、ぽろりと床に落ちた。

弾丸を通さない、という定義だ。

予記とは別に、自分の身の回りにだけ書いてあったらしい。

杭を打った一点から、バルコニーは遠い。

杭の定義も、そこまでは届かない。

「また会おう、シグマ=レコード。君たちがどれだけ泥を愛そうと、世界はいずれ綺麗になる。それは決定事項だ」

ドクターは最後に、アシェルへ穏やかに微笑んだ。

「君のその傷も、いつか必ず癒やしてあげるよ。……お大事に」

アシェルは答えなかった。

火傷の跡の残る掌を、ただ握った。

男の姿が、ふっと消えた。

同時に、檻へ注がれていた青い光が途絶えた。

ポンプの唸りが止み、サーバー室に完全な静寂が戻る。

「転送先、追えません」

レアが唇を噛む。

「座標が書かれる前に、消されています」

画面が切り替わる。

「……上の制御区画の生体反応も、消えています。数十、全部です」

「……逃げられたか」

ザイが銃を下ろした。

「深追いは無理だ」

アシェルは肩で息をしながら言い、壁に手をついた。

立っているのがやっとだった。

杭を使った強制干渉は、使い手の脳にも莫大な負荷をかける。

こめかみの奥で、檻の前から残っていた鈍い痛みが脈を打っていた。

鼻から、つ、と赤いものが垂れた。

「アシェル!」

ユノが駆け寄る。

「無茶しすぎだよ……! あんな規模の書き換えに生身で割り込むなんて、自殺行為でしょ」

「……止まったなら、それでいい」

アシェルは袖で鼻血を乱暴に拭った。

「それに、まだ終わってない」

アシェルは視線を、部屋の中央へ向けた。

ドクターはいなくなった。

だが、実験体No.77の檻は、まだそこにある。

中の黒い影は、強制された幸福からは解放されたものの、まだ不安定に揺らめいていた。

ユノが端末を向けた。

「檻の前に打ち込んだ定義、まだ残ってる。でも、薄くなってきてるよ」

ザイが檻の基部の配管を覗き込む。

「ポンプは止まってる。だが配管は生きてる。誰かが外から回せば、また流れるぞ」

「……用務員なら、最後まで掃除しないとな」

アシェルは重い足取りで、檻へ向かった。

 

第十二話 観測規約改訂の夜:泥濘の用務員 了

 

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