――記録:未登録宙域ノード C-0-R3
銀河標準暦08960。
一帯が「測距データ欠損帯」に指定された。
誰が指定したのかは記録にない。
星図に残っているのはその指定だけだ。
以後この宙域は「何もない」ものとして扱われてきた。
その空白へ巡回船《ミレサス》が入った。
廃星イグゼリアを出たあと航跡は途中で切れている。
乗員は十四名。
記録上の扱いは遭難。
遭難と判断した根拠は書かれていない。
星間特務班《シグマ=レコード》は前任務で、この宙域の縁に触れた。
そこで測った記録の欠落は、《無記の海》と呼ばれ始めている。
名はまだ仮称でしかない。
〈星間特務班《シグマ=レコード》任務ログ:オラクル・ダスク〉
任務番号:SD-06 / 対象:未登録宙域ノード:C-0-R3
目的:
① 巡回船《ミレサス》の所在確認およびログ断片の回収
② ノード:C-0-R3における無記現象のパターン観測
③ 実験体No.77 / 対観測存在の痕跡の確認
構成員:
隊長 アシェル=ヴェルグ
解析担当 ユノ=スレイト
技術担当 ザイ=ノーヴァ
情報担当 レア=ミーネ
備考:
母艦《オラクル・ダスク》の宙域侵入は行わない。接近はシャトルおよび無人プローブによる。
記録欠落が班員に及ぶ可能性があるため、全員を同一船に置き、証言の齟齬を検出可能な状態に保つ。
任務ログは重層バックアップ系を併用。欠落発生時の比較データを取得。
境界へ向かう船内
銀河標準座標からわずかに外れた宙域。
《オラクル・ダスク》の窓の外に、星図上では“何もない”とされる黒が広がっていた。
だがそれは、ただ暗いだけの空ではなかった。
届くはずの光が途中でほどけている。
視線を置いた瞬間に焦点がずれる。
何もないはずの場所に、星の名残だけがちらつく。
目を離すと消える。
戻すとまた同じ位置にある。
窓の縁に薄い反射が揺れた。
艦内灯がガラスに映っただけだ。
そう言い切るには、揺れ方が遅すぎた。
黒は平らではなかった。
底の見えない水面のように、静かに張っている。
ブリーフィングルームの卓上に簡易ホログラムが浮かぶ。
廃星イグゼリア。砕けた環と、失われた軌道の断片。
その外縁から、一本の細い線が伸びていた。
巡回船《ミレサス》の最終航路だ。
線は途中から細る。
実線が点になり、点の間隔が開いていく。
最後の数点は、拡大しないと見えない。
その先に線はない。
消えた跡もない。
何も引かれていない面が続いているだけだ。
アシェルはホログラムの沈黙を見下ろした。
「……ここから先は、航路じゃない」
星図の上では、最初から何も書かれていない面だ。
航路の方が、あとからそこに触れて消えた。
アシェルは線の末端を指で追った。
爪の先ほどの距離に、十四人と一隻分の記録が入っている。
その先には目盛りもない。
「ここが、ノード:C-0-R3? 正式名称もない、真っ黒ゾーン」
ユノがホログラムの端を指先で弾く。
空間の一点がわずかに滲んだ。
「“ノード”って言われると、何かあるみたいに聞こえるけどな」
ザイが腕を組んだまま呟く。
「実際には、座標ラベルを貼ろうとすると滑り落ちる“窪み”だ」
卓の向こうで、アシェルは黙ってそれを聞いていた。
「イグゼリア側での“抜け”と、C-0-R3近傍の“白紙ログ”は、ほぼ同期していた」
低い声で彼は事実だけを反芻する。
「二地点の間で、何らかの要因で、記録がこぼれ落ちている。
仮にそれを《無記の海》と呼ぶなら――」
「――今回は、その“海面”をちょっとだけなでに行く、だね」
ユノが言葉を継いだ。
「艦ごと突っ込むのは論外だよ。
《オラクル・ダスク》は安全圏に残して、シャトルで境界ぎりぎりまで接近。
プローブを使って“窪み”の中をのぞき込む。そういう計画」
「シャトルに全員乗るのは、リスク高くない?」
レアが聞く。
「逆に、誰かを艦に残す方が危ないかもしれない」
アシェルはホログラムを閉じた。
「無記の海が、観測者の側に食い込んでくる可能性もある。
全員同じ船にいる方が、齟齬を検出しやすい」
「イグゼリアと逆だな」
ザイが口を挟む。
「あんときは俺が外に残った」
「あれは扉一枚の話だ」
アシェルは短く返す。
「艦とシャトルじゃ遠すぎる。
離れたところで見てても、何が抜けたかを突き合わせられん」
「行って帰ってくるまでは、俺たち四人でワンセットってことか」
ザイが小さく笑う。
「ま、仲良し遠足ってことにしといてやる」
ユノが肩をすくめた。
「遠足先が“記録されない海”なのが、うちの班らしいけどね」
静かな笑いが一瞬だけ重い空気を和らげる。
アシェルは短く言った。
「目的は三つ。
ログと、パターンと、No.77の痕跡だ」
彼は顔を上げ、三人を見渡す。
「危険は高い。だが引き返す選択肢もない」
「決めたのはアシェルだしね」
ユノが片目を細める。
「No.77を追うって決めたのは、他でもないアシェルさ」
アシェルはその言葉に何も返さなかった。ただ静かに席を立つ。
「……シャトルへ。出るぞ」
座標が滑る宙域
シャトルが《オラクル・ダスク》を離れると、
窓の外の星々はゆっくりと密度を増し、やがて逆に間隔を空けていった。
「ナビゲーション、正確?」
レアが前方コンソールを覗き込む。
「計算上はね」
ユノは手元の端末を操作しながら答えた。
「座標系そのものは安定してる。C-0-R3の“窪み”に近づくまでは、普通の宇宙空間」
その言葉の直後、HUDの右上で数字がかすかに点滅した。
《座標ラベル書き込みエラー》
ザイが眉をひそめる。
「おいおい、フラグ立てたそばからこれかよ」
「まだ縁にも着いてないんだけど?」
ユノは苦笑しながら、エラーウィンドウを開いた。
「いまのは、タグ付けしようとした瞬間に一瞬だけラベルが飛んだだけ。本体の位置計算は生きてる。問題ない」
「いや、エラー吐いといて“問題ない”はねえだろ」
ザイがぼやく。
「“いつもよりちょっとだけ危険な宇宙空間”くらいに考えてくれれば」
ユノはあくまでいつもの調子だ。
「私たちの基準で『ちょっとだけ』は信用ならないよね~。まあでもそれが任務か」
レアが肩をすくめる。
シャトルはスラスターを微調整しながら、星図上では空白とされる一点へ近づいていく。
やがて窓の外が変わった。
正確には、変わらなくなった。
「……星が、動かない?」
レアが呟く。
遠い星々の位置が変わらない。
シャトルは進んでいるのに、背景が流れていかない。
「視差が死んでる」
ユノが即座に数値を出す。
「位置データと視覚情報の間にズレが出始めてる。
こっちは動いてるのに、“見えている宇宙”が更新されない感じ」
「全員、窓を見ろ」
アシェルが言った。
「右上の、赤い星」
四人が同じ方向を見る。
「動いてない」
ザイが言う。
「……動いてません」
レアが続けた。
ユノが窓から計器へ目を戻した。
「四人とも同じに見えてるなら、計器の故障じゃないね」
「無記の海の“水面”ってとこか」
ザイが前方を睨む。
「距離は?」
「……仮に測ってるだけ。
あと数千キロ、って答えが正しいかどうかも、もう分かんない」
それでも、シャトルは進み続けた。
数分後、HUDに新しい警告が灯る。
《ログタイムスタンプ不整合/短時間欠損を検出》
「来たね」
ユノが小さく息を吐く。
「みんな、一度深呼吸。
これから先、“記録にはあるのに覚えていないこと”と、
“覚えているのに記録がないこと”が出てくるかもしれない」
「俺たちの人生、今までもずっとそんなもんだろ」
ザイがぼそっと言った。
「ただ、今回はそれを仕事でやるってだけだ」
アシェルは前方を見据えたまま、静かに声を出す。
「目標地点、仮到達。プローブ、展開」
漂う残骸、《ミレサス》
シャトルの腹部から、球形のプローブがいくつも放たれた。
白い光点となって散開し、C-0-R3の“窪み”の輪郭をなぞるように走る。
「外縁の密度、通常空間と大差なし。
重力の揺らぎも小さい。
ただし、ログにやっぱり穴が開き始めてる」
ユノの声は落ち着いている。
「数秒単位で、時刻ラベルが飛ぶ。
センサー自体は動いてるのに、“書き込む場所”だけが滑っていく」
「前と比べてどうだ」
アシェルが聞く。
「頻度が上がってる」
ユノが二つの表を並べた。
「イグゼリアのときは、一時間に二回から五回。
いまは四分で九回」
「深いところほど、よく滑るってことか」
「たぶんね」
ユノが印を打つ。
「あと、飛ぶ長さが揃ってない。
前は一秒未満ばっかりだった」
彼女は直近の並びを読み上げた。
「〇・四、〇・九、三秒、〇・二、また三秒、〇・六」
「三秒が二回か」
ザイが数を追う。
「間に短いのが挟まってる。
規則を探そうとすると、次で外れる」
「これが《無記の海》の表面、ってやつか」
ザイが低く言う。
やがて、前方に、別の物体が浮かんでいるのが見えた。
「……船?」
レアが窓の外を指さす。
銀灰色の船体が暗闇の中に静止していた。
外殻には焦げ跡ひとつない。
停止した姿勢のまま、機首がわずかに傾いている。
「巡回船クラス。型番が……一致」
ザイがズームをかける。
「《MIRESAS》。ビンゴだ」
アシェルは短く息を吸う。
「接舷する。外観に異常は?」
「少なくとも“事故って壊れた”感じじゃない」
ザイが答える。
「動力も切れてる。勝手に動き出す心配はなさそうだな」
「それ、フラグにならないといいけど」
ユノが言う。
シャトルは慎重に姿勢を合わせ、《ミレサス》のドックポートに接続した。
接続部の圧が上がるまで四人は待った。
「向こう側の気圧、生きてるね」
ユノが数値を読む。
「与圧は保ってる。空気も残ってる」
「動力が切れてて、気圧だけ残るか」
「漏れてないってことだよ。
閉めたまま止まった船って感じ」
アシェルはヘルムの記録系を確認した。
「入ったら、全員の時刻ラベルを常時送れ。
止まった時点で申告しろ」
「プローブと同じ扱いですね」
レアが自分の端末を叩く。
「中身が入ってるけどな」
ザイがハッチの脇に立つ。
空白のログ、歪む廊下
エアロックを抜けると、ひんやりとした無重力空間が広がっていた。
非常灯だけが薄く点いているが、人の気配は一切ない。
「生命反応、ゼロ。腐敗臭もなし。……無臭だな」
ザイが環境データを読み上げる。
「乗員の痕跡は?」
アシェルが尋ねる。
「呼気成分の残留もギリギリだ。
最低でも数年は人間が出入りしてない」
「数年前に、ここに人がいた。それだけは確か、ってことだね」
ユノが言う。
アシェルは通路の壁際に目をやった。
作業着が一着、フックに掛かったままだった。
その下の工具箱は蓋が開いている。
工具は留め具に差さったまま、一本も欠けていない。
食堂の入口を覗く。
テーブルにトレイが磁着されたまま残っている。
中身は乾いて縮み、縁に貼り付いていた。
椅子はレールの途中で止まっている。
「物は全部ある」
「持ち出した形跡はねえな」
ザイが工具箱の縁を指で弾く。
「イグゼリアは、出てくときに片付けた跡があった。
ここは何も片付いてねえ。
人だけいねえ」
ユノが船内ネットワークにアクセスを試みる。
「主機は完全停止。バックアップシステムだけ、細々と生きてる。
……ログ、取れるよ。ちょっと待って」
廊下を進むと、同じような景色が続いた。
何度か曲がり角を曲がるうち、ザイがぴたりと足を止める。
「おい」
「どうした?」
「ここ、さっきも通った気がするんだが」
振り返ると、何の変哲もない交差路だ。
右側には閉ざされたハッチ、左側には倉庫、正面にはエレベーター。
「違う区画のはずだよ。マッピングはそう出てる」
レアが言う。
「俺の足の記憶だと、さっきと同じ手すりの傷があったんだがな」
ザイは手すりの一部を指先でこする。
そこには、たしかに錆びた引っかき傷があった。
「……その傷のログ、さっきの区画には残ってない」
ユノがそっと告げる。
「さっき“同じ傷”を見たって記憶は、
私たちの頭の中にしかない」
「記録には乗ってない記憶、ってことか」
ザイが舌打ちする。
「だったら、気にしても仕方ねえ。
今ここにある傷を、ちゃんと“見てる”ことにしようぜ」
アシェルは一度だけ頷き、先を促した。
ブリッジ手前の中枢室で、ユノが声を上げる。
「わお、ここはデータの山だね」
壁一面に並ぶインターフェースパネルの中、一つだけがかすかに点滅している。
「《ミレサス》航行ログ。
……ただし、ほとんど空白」
ユノは表情を曇らせる。
「イグゼリア出港までは、教科書通り。
で、そのあと――」
ホログラムに、時間軸だけがずらりと並んだ。
そのほとんどが、本文の無い行で埋め尽くされている。
「……何も、書かれていない」
レアが呟く。
「時刻は進んでるのに。進行ログもエラーも、何もありません」
「しかし、現物はここにある」
アシェルが足元を軽く蹴る。
「船は動いて、ここまで辿り着いた。そして止まった。
なのに、その過程が“書かれていない”」
「止まった理由は分かる?」
レアが聞く。
「燃料は残ってるよ」
ユノがタンクの表示を出した。
「三割弱。減速に使った分を差し引いても、まだ動ける量」
「壊れて止まったんでもねえ」
ザイが機関区の方を顎で示す。
「主機は切れてるが、焼けても抜けてもねえ。
落としたってより、落ちたって感じだ」
「操作の記録は?」
アシェルが聞く。
「ない」
ユノが首を振る。
「停止の指示も、非常停止の反応も。
動いてた船が、書かれないまま止まってる」
ユノが別のレイヤーを開く。
「断片的なメモが、別階層に落ちてる。
……うわ、保存の仕方がぐちゃぐちゃだ」
断片ログが空中に浮かび上がる。
『……観測されていないのに、“在る”……』
『No.77は、“見なかったこと”にできない……』
『記憶の森のモデルを、ここに――』
言葉の切れ端だけが、継ぎ目なくちぎれていた。
「記憶の森?」
レアがその部分を拡大する。
「アルセリアの?」
「名前だけは同じ、って可能性もあるけどね」
ユノが返す。
「“モデル”って書き方だと、
アルセリア本体じゃなく、その仕組みを真似た実験場だったっぽいけど」
「アルセリアの何を真似たの?」
レアが断片を見比べる。
「あの森、見せる記憶を選んで、残りを沈めてたよね」
「その沈める側だよ」
ユノが即答する。
「平和共鳴用フィルタと戦争記憶封印シンク。
見せない方に回す仕組みが、あそこにはあった。
隊長が切り離したやつ」
アシェルは断片から目を離さない。
「観測から逃れる存在を作るなら、隠す側の設計がいる」
「順番が逆だけどね」
ユノが断片の並びを指でずらした。
「アルセリアは、あるものを見えなくしてた。
こっちは、見えなくすることを目的にして何かを作ってる」
アシェルは『No.77』の一文を見つめていた。
「……No.77は、“見なかったこと”にできない、か」
彼は指先でその行をなぞる。
「だが、今のところ“見えるもの”もない」
対観測存在の影
ブリッジに入ると、観測窓の前に、簡素な椅子が並んでいた。
しかし、座っている者は誰もいない。
「死体がない」
ザイがぽつりと言う。
「宇宙に放り出された形跡もない。
この船から、綺麗さっぱり“人だけ”いなくなってる」
「脱出ポッドは?」
「全部格納されたまま。シールも生きてる。使われた形跡なし」
アシェルは並んだ椅子の一つの前で足を止めた。
航法コンソール。
補佐席の方だ。
「ケイル=ドランの席だな」
「名簿の三行目か」
ザイが横に並ぶ。
「立会の字が足されてた一人だ」
アシェルはコンソールの縁に指を滑らせた。
「イグゼリアで77番を積むところに立ち会って、
この席まで乗ってきた」
「で、ここから先がねえと」
「ない」
ユノがコンソールのひとつにアクセスする。
「ここ、船内カメラのログが残ってる。……見てみる?」
「見えるものがあるなら、見ておくべきだ」
アシェルが頷く。
スクリーンに、過去のブリッジ映像が映し出される。
数人のクルーが忙しなく動き、誰かが笑い、誰かが退屈そうにあくびをしている。
「普通だね」
レアが言う。
「ここまでは」
ユノが早送りを始める。
やがて、映像が不自然に飛んだ。
時刻表示は連続している。
だが、画面の中のクルーの配置が、唐突に変わっている。
「……間が、ない」
レアが息を呑む。
「立ち上がる動作も、歩く動作も、全部すっぽ抜けてます。
なのに、誰も違和感を覚えた様子がありません」
「カメラの最後はどこだ」
アシェルが聞く。
「記録自体は、主機が落ちるまで続いてる」
ユノが映像の末尾まで飛ばした。
誰もいないブリッジが映っている。
椅子が並んでいる。
配置は今と同じだった。
「人が最後に映ってるのは」
「もっと前だよ」
ユノが時刻を戻す。
画面の中でクルーが持ち場についている。
誰も席を立たない。
次のコマで、席は全部空いていた。
「ここから末尾まで、ずっとこれ。
出ていく途中がない」
「航行ログの空白と、同じ時刻か」
「ずれてる」
ユノが二つを並べた。
「ログが白紙になるのは、その四日前から」
「船が書かれなくなってから、四日動いてたってことか」
ザイが低く言う。
「その四日、何が映ってる」
「普通だよ」
ユノが早送りを止めた。
「交代して、飯食って、笑ってる。
自分たちの船が書かれなくなってることに、誰も気づいてない」
「一人いる」
アシェルが画面の隅を指した。
航法補佐席。
一人だけ、席を立って自分のコンソールを覗き込んでいる。
また座る。
しばらくしてまた立つ。
「……ケイル=ドランだね」
ユノが時刻を追った。
「四日で十九回。
同じ画面を開いて、閉じてる」
「何の画面だ」
「航行ログ」
ユノが少し黙った。
「書かれてないことに、この人は気づいてたと思う」
「誰かに言ったか」
「記録にはない」
ザイが顎を撫でる。
「言わなかったのか、言ったけど書かれなかったのかは分からねえな」
さらに早送りする。
一瞬、画面の隅に黒い“なにか”が映った。
人のような輪郭。
しかし、顔がない。
顔のあるべき位置だけが、背景と同じ黒だった。
「今の、見た?」
ユノが巻き戻す。
同じフレームを停止する。
静止画には、何も映っていなかった。
「……何もいない」
レアが眉をひそめる。
再生すると、もう一度、同じポイントを通過する。
そこには、やはり“顔のない人影”が、じっとカメラ側を見ている。
「静止させると消えるのか」
ザイが画面を睨む。
「観測して“止めた瞬間”に、記録から滑る」
ユノが舌打ちした。
「対観測存在。
観測しようとしたとき、観測者の側が書き換わるタイプのやつ」
「今、俺たちが見てるログ自体、どこまで信用できるか分からねえってわけだな」
ザイが腕を組む。
アシェルはスクリーンに映る空虚なブリッジを見つめていた。
「……No.77は、どこにもいない。
しかし、“いなかった”とも言い切れない」
そのとき、ユノの端末が一瞬真っ白になった。
「うわ」
「どうした?」
「No.77関連のデータキーに触れた瞬間だけ、
画面が全部白紙になった。ログ上は“正常動作”って記録されてるのに」
ユノは軽く笑ってみせた。
「やっぱり、ここまでは“触り”だね。
本格的に殴り合うのは、もう少し先になりそう」
「今、殴り合ったら負ける」
アシェルははっきりと言った。
「相手は、記録そのものだ。
こちらの刃を振るう前に、刃を振るったという記録ごと消される」
「イレーナの条件は、必要な場所だけで刃を振るえ、でしたよね」
レアが断片ログを閉じながら言う。
「必要な場所が、どこにも書かれてません」
「振るう相手もな」
ザイが顔をしかめる。
「だから今日は、“海辺まで見に来ました”って報告だけ、か……」
ユノが肩をすくめる。
かすった傷
船外に戻る頃、C-0-R3の“窪み”がシャトルのセンサーを強く揺らし始めていた。
「プローブの二番機、位置情報完全にロスト。三番機も妙な軌道を描き始めてる」
ユノが舌を鳴らす。
「回収は諦めるね。
どこにあるか書けない機体は、取りに行けない」
「そろそろ引き返した方がいいかもしれない」
「同感だな」
ザイが操縦席に座り直す。
「これ以上近づくと、シャトルごと“書き込まれない”領域に突っ込むかもしれん」
「これ以上深入りすると、もっと“大きなもの”を持っていかれます」
レアの声が硬くなった。
アシェルは窓の外を見たまま、すぐには答えなかった。
「ケイル=ドランは、十九回開いて閉じた」
「……はい?」
「気づいてた。
それでも、四日いた」
彼は操縦席の方へ顔を向けた。
「離脱軌道に移る。全員、固定」
アシェルの号令で、四人はそれぞれハーネスを締め直した。
シャトルがスラスターを吹かす。
窓の外の星々が、少しだけ“動き”を取り戻す。
「……ん?」
ふとアシェルは違和感を覚えた。
さっきまで、何を話していたのか。
ほんの十数秒分の会話が、きれいに抜け落ちている。
「今、何か言ったか?」
彼が問いかけると、ユノが首をかしげた。
「え? 引き返すって話をして、それから――」
彼女も、そこで言葉を止めた。
レアが静かに告げる。
「今、シャトルの時計が十一秒分、飛んでます」
コンソールのログには、確かに十一秒間の空白があった。
時刻の数字だけが飛んでいる。
「その十一秒の間、私たちの生体反応は連続してます。
心拍も脳波も。……ただ、何をしていたか思い出せません」
「“覚えていない”という記録だけが、残ってるわけか」
ザイが言う。
(四人とも、同じ十一秒で切れている)
アシェルは三人の顔を順に見た。
(抜けた中身は残らない。
抜けた場所だけが、四人分そろって残る)
ザイが苦笑した。
「お出迎えのキスみたいなもんだな、《無記の海》からの」
アシェルは窓の外の黒を一瞥し、短く頷く。
「海の匂いは嗅いだ。
次は、どう距離を取るかを考える番だな」
黒檀からの招待
《オラクル・ダスク》に戻ると、四人はすぐにデブリーフィングに入った。
卓の上に四つの表示が並んだ。
プローブが飛ばした時刻ラベルの列。
《ミレサス》の航行ログと、その空白の始まり。
ブリッジのカメラが最後に人を映した時刻。
シャトルの十一秒。
「時間軸を揃えるね」
ユノが四つを同じ目盛りに乗せた。
順番が出た。
航行ログが白紙になる。
四日置いて、ブリッジから人が消える。
数年の空白があって、班のプローブが穴を拾い始める。
「書かれなくなってから、人が消えるまでが長いな」
アシェルが目盛りを指した。
「四日あります」
レアが答えた。
「うちは、縁に入ってから十一秒だ」
ザイが言う。
「桁が違うな」
「近さが違うんだよ」
ユノが窪みの印を指した。
「ミレサスは外から入ってきて、途中で書かれなくなった。
私たちは、書かれない場所の縁を狙って寄っただけ」
「まとめると――」
ユノがホログラムを指し示す。
「イグゼリアの貨物室と、C-0-R3の窪みと、《ミレサス》の航跡は、
全部《無記の海》の縁に引っかかってる可能性が高い」
「No.77は、その海に“沈んだ”か、
もしくは、海の向こう側からこっちを覗いてるか……」
レアが言う。
「どっちにしても、今の私たちでは手が届かないですね」
ザイが椅子にもたれ、天井を見上げた。
「記録されないものを狩るってのは、ずいぶんと厄介な仕事だな」
アシェルは報告書のドラフトを開いたまましばらく黙っていた。
彼自身にも小さな欠損が生じている。
C-0-R3へ向かう前のブリーフィングの一部が霞んでいた。
(……俺が、自分で決めたはずだ)
No.77を追うと決めた。
その決意の前後に、何か言葉を交わした気がする。
だが誰と何を話したのか、その輪郭が掴めない。
コンソールの隅で通知ランプが一つ点灯した。
「……暗号通信?」
レアが端末を開く。
「通常回線じゃない。三重暗号層。送信元IDは――」
一瞬の間をおいて彼女はその名前を読み上げた。
「星草商会・黒檀部門。イレーナ=ヴァルディス」
ユノが目を丸くする。
「おっと、来たね。闇の方からの営業が」
「写しはもう出してます」
レアが端末の履歴を並べた。
「イグゼリアから戻ったあとに。
相関のグラフと、欠落が二種類あることまでです」
アシェルはレアの側に歩み寄り、メッセージ本文を表示させた。
そこには簡潔な文面が並んでいた。
『C-0-R3宙域への接近、ならびに《ミレサス》の調査、ご苦労でした。
貴班が経験した“短時間の記憶欠損”について、
星草商会・黒檀部門は、その一部を補うだけの非公式記録を保有しています。
実験体No.77――対観測存在に関する情報の断片を、こちらは“まだ”忘れていない。
ただし、それらの開示には、いくつか条件が伴います。
条件の内容を知りたい場合は、この通信に返信を。』
「……拾ってたか」
アシェルは小さく呟いた。
「俺たちの“抜け”も、No.77も、全部」
「そりゃあ、あそこは星草商会の“記録の闇”だしね」
ユノが苦笑する。
「どんな条件を飲まされるか分かったもんじゃないですね」
レアが静かに言う。
「隊長は、元・星草商会の記録部員ですよね?
本当に“黒檀”と手を組むつもりですか?」
アシェルは一度だけ目を閉じ、それから端末を見下ろした。
「No.77を追うと決めたのは、俺だ」
淡々とした声だった。
「無記の海に沈んだ記録を、引き揚げてやるためには――
海辺の闇とも、手を組むしかない」
ザイがにやりと笑った。
「いいじゃねえか。
俺たちが“狩人”でいられるうちに、
闇の方からも獲物を引っ張り出してもらおう」
ユノが指先で返信ボタンの上にカーソルを滑らせる。
「じゃあ、返事は“詳しい話を聞こう”でいい?」
アシェルは頷いた。
「条件を聞く。飲むかどうかは、そのあとだ」
「先に管制だ」
アシェルは通信卓に向き直った。
「――《オラクル・ダスク》より管制へ。
任務SD-06、未登録宙域ノード:C-0-R3外縁調査、完了。
巡回船《ミレサス》を同宙域にて発見。船体健在、乗員十四名の所在は確認できず。
航行ログの大部分は空白。無記現象は班員にも及んだ。
船内記録に、静止時に消失する像を確認。
記録として保存できず。No.77との関連は不明。
外縁記録層《無記の海》の仮登録を維持する」
通信を送り終えてから、彼はレアを見た。
「出せ」
レアが短く息を吐く。
「了解です。……送信します」
送信ボタンが押される。
黒檀部門への返信が静かに宇宙に放たれた。
窓の外では《無記の海》の気配も見えない黒が広がっている。
そのさらに向こうで、誰かがこちらを観測し、記録しようとしている。
そんな感覚だけがアシェルの胸に残っていた。
第六話 未登録宙域ノード C-0-R3編:無記の海の外縁 了