発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
第1話:泥浜の遭難者と、豚の脂の悪魔的な誘惑
1. 水温二度の不満と、嵐の砂浜
人間どもが陸の上でロマンチックに『母なる海』などと詩に詠い、酒場で歌い上げる世界の、これが冷酷な実態だ。
水温、およそ二度。
視界はわずか数メートル先すら届かない墨色の闇。四方八方から叩きつけてくる潮の流れに抗いながら、私――ローナは水平に広がる尾ひれを力任せに翻していた。
群れの仲間たちは「海こそが世界のすべて」「冷たい水が肌を引き締めて心地よい」などと呑気なことを言っているが、私に言わせれば冗談ではない。
私は生まれつきの寒がりなのだ。体温を保つためだけに、毎日何十匹もの生きたニシンを追い回し、血生臭い頭から骨ごとバリバリ噛み砕く生活にも、いい加減うんざりしていた。
味付けはいつでも『海水』。それ以外の味覚など、この暗い海には存在しない。
そんな私の肉体に、今夜、人魚の血が命じる繁殖の変態が始まっていた。
(あ、ぐ……っ、熱い……下腹部が……裂ける……!)
身体の芯から湧き上がるホルモンの熱に、血が焼かれる。
尾ひれの中央組織が縦に分かれ、内に眠っていた骨が伸びて二本の『脚』へと再編されていく激痛。喉の奥でも、陸上で声を出すための組織が盛り上がり、焼け火箸を飲み込んだような痛みが肺腑を貫いた。
女しか生まれない私たち人魚は、他種の雄――人間の男から種を奪い、腹の中の卵細胞を目覚めさせてクローンを産む。
長老のおばばが歌で叩き込んでくれた掟と知識は、明確だった。
変態が始まった最初の数日は、決して人前に姿を晒してはならない。波打ち際の岩陰や船着き場の桟橋の下に潜み、下半身を海水に浸して潤いを保ちながら、脚が二足歩行に耐え、喉の声が空気中で震えるようになるのをじっと待つこと。
そして男の種を受け取って受胎すれば、身体の熱は一気に冷め、数日で脚は尾ひれへ戻り、声も消えて海へ帰ることになる。
ただし、もし男と交わらなくても、およそ四十日の期限が尽きる前に海へ戻れば、冷たい海水と浮力によって脚は自然と尾ひれへ戻り、何事もなく海で生き続けられる。
――そう。海へ帰りさえすれば、助かるのだ。
繁殖に失敗しようが、四十日以内に海へ戻れば何の危険もない。
だから本来なら、予定していた入り江の岩陰に数日間潜伏し、身体の準備が整うのを待つはずだったのだ。
ところが今夜は、季節外れの猛烈な嵐だった。
目指していた岩陰の直前で、荒れ狂う大波に煽られ、私は岩礁を越えて吹き曝しの泥浜へと派手に打ち上げられてしまったのだ。
「――っ、げほっ! ごほっ……!」
ザバァァッ!と泥水の中に叩きつけられた。
肺が吸い込んだ乾いた冷気は、ヤスリのように喉を擦った。
咳き込むたび、喉の奥から「カハッ、カハッ」と無様な息が漏れる。乾いた空気の中での発声に、まだ慣れていない未完成な喉だ。
「つ、あ……っ……!?」
立ち上がろうとして、私は泥の中に崩れ落ちた。
二本に分かれたばかりの未熟な脚。
足首がぐらつき、膝が笑って、泥の中に投げ出されたタコのように力が入らない。
おばばからは「陸の重力は海とまるで違う、立つことすら骨が折れる」と聞いてはいた。けれど、実際に体験する重力は、話に聞くより何倍も凶悪だった。土踏まずのない平らな足底に、指の間の水かき。まだ二足歩行なんて到底できる状態じゃない。
それどころか、びしょ濡れの肌に吹き付ける嵐の夜風が、容赦なく体温を奪い去っていく。
(寒い……! 風が皮膚を削り取っていくみたい……!)
海の中なら泳げば熱が生まれた。だが陸の上では、風が体温を吹き消そうとする。
下腹部は熱病のように疼いているのに、手足の先は白く凍りつき、感覚が失われていく。
準備が整う前に陸へ投げ出されたせいで、海へ戻ろうにも、波打ち際まで這う力すら残っていなかった。
(嘘でしょ……私、こんなところで凍死するの……?)
視界が白く霞みかけた、その時だった。
ジャリ、ジャリ、ジャリ。
風音を切り裂いて、砂利を踏む靴音が近づいてきた。
吹き荒れる飛沫の向こうで、黄色く温かな光――ランタンの灯火が揺れている。
「――っ!? だ、大丈夫かい!? 人が倒れているのか!?」
上ずった声とともに駆け寄ってきたのは、ずぶ濡れの黒いレインコートを着た、銀縁眼鏡の若い男だった。
首から革の標本箱を提げている。こんな嵐の夜に、打ち上げられた海洋生物の採集にでも出ていたのだろうか。
「ひどい寒気だ……! 唇が紫色になっている。手足も氷のように冷たい……!」
男は泥だらけの私の前に膝をつくと、自らのレインコートを脱ぎ捨てた。
そして、その下に着ていた分厚いウールの外套を脱ぎ、私の震える肩へとふわりと被せたのだ。
「――っ!?」
息が止まった。
重い。そして、乾いている。
男の体温がほんのり残ったぶ厚い羊毛の布地が肌に触れた瞬間、吹き荒れる風の冷たさがぴたりと遮断された。
(な……何これ? 風が……通らない……?)
「しっかりして! 僕の職場がすぐそこにある、背中に乗って!」
男は泥まみれの私を躊躇なく抱き上げ、背中に背負い込んだ。
人間の、乾いた皮膚の匂い。微かに混ざる石鹸と薬品の匂い。
そして背中越しに伝わってくる、驚くほど温かい心臓の鼓動。
(あ……あたたかい……)
男の肩に頬を預けたまま、私の意識はすうっと暗闇へと落ちていった。
2. 暖炉の火と、豚の脂の悪魔的な誘惑
パチッ、パチパチッ。
木が乾いた音を立てて爆ぜる音と、煙の香ばしい匂いで目が覚めた。
「……ん……?」
視界の端に、真っ赤な光が揺れていた。
部屋の隅。黒い鉄の囲いの中で、赤い怪物が木を喰らいながら激しく踊り狂っている。
(ひっ……!? ひ、火ィッ!?)
海中の生物にとって、火とは海底火山が噴き出すマグマと同じ、触れれば骨まで灰にする死の厄災だ。
私は思わず身を引こうとした。だが、喉からは「カハッ」と掠れた息しか出ない。
「わっ、起きたかい? 急に動いちゃだめだ」
小鍋を手にして小走りで戻ってきたのは、さっきの眼鏡の男だった。
男は慌てて私の肩を支え、掛け布を首元まで掛け直してくれる。
「大丈夫、あれは暖炉だよ。部屋を暖めるための火だ。閉じ込めてあるから、こっちには燃え移らないよ」
(へやを……あたためる……?)
言われてみれば、熱気は穏やかに波のように押し寄せてくるだけだった。
部屋の空気全体が、春の浅瀬のようにふわりと温もっている。
濡れていた皮膚はすっかり乾き、さらさらした綿の寝間着を着せられていた。凍えて強張っていた手足の先まで、温かい血が巡っていくのがわかる。
(危険な火を箱に閉じ込めて、暖を取るためだけに飼い慣らしているの……?)
水温二度の海で、岩陰に丸まって寒さに耐えていた日々を思い出す。
陸のサルどもは、火を部屋の中に招き入れ、快適な春を作り出しているのだ。
「喉が痛むかい? 温かいものを用意したよ。ホットミルクだ。蜂蜜を少し溶かしてあるから、少しずつ飲んでごらん」
男が差し出してきた陶器のマグカップ。
受け取ると、器そのものが手のひらをじんわりと温めてくれる。
湯気からは、甘い香りが立ち上っていた。おずおずと唇をつけ、舌先で舐めてみる。
「――っ!?」
温かい。
そして、甘い。
塩辛くない。苦くない。生臭くもない。
乳脂肪の濃厚なコクと、花の蜜の優しい甘みが、舌の上でとろけていく。一口飲み下すと、熱い液体が胃袋に落ち、そこから全身へ太陽の光が広がっていくような心地よさに包まれた。
「ごくっ、ごくっ……ぷはっ!」
「わ、一気に飲んだら火傷するよ!」
カップを空にして息を吐く私に、男は苦笑しながら、小さな皿を差し出した。
「お腹も空いているだろう。本当は僕の明日の朝食にするつもりだったんだけれど……少し固いパンと、塩漬けの豚肉(ベーコン)だ」
平たい皿の上で、赤身と白い脂身が香ばしい焼き目をまとっている。
肉食の私の鼻腔を、脂の匂いが猛烈に刺激した。
私は指先でその肉を摘み、口の中へ放り込んだ。
ジュワッ――!
「――ッッ!?」
噛み締めた瞬間、カリッとした表面の奥から、熱々の豚の脂と塩気、そして濃厚な旨味が溢れ出した。噛めば噛むほど、甘い脂のジュースが舌を濡らす。
(豚の脂……! 火を通した肉の脂って、こんなに美味しいの……!?)
生魚の生臭い身をただ噛み砕くだけの生活と、何という違いだろう。
火を通して旨味を凝縮させ、脂の甘みを引き出す。これが陸の文化なのか。
「……口に合ったみたいだね」
男が少し目を細めて笑った。
だが、その手元を見ると、彼自身の皿には薄く切った固いパンが二切れ載っているだけだった。貴重な肉を、見ず知らずの私に全部譲ってくれたらしい。
3. 片言の会話と、小さな生活の現実
ふと、男が私の首元へ視線を向けた。
「……君の喉、甲状軟骨のあたりが少し変わった形に膨らんでいるね。それに、足の指の間にも薄い皮膜がある。歩き慣れていないようだし……」
ぎくり、と胸が跳ねた。
この男、観察眼が妙に鋭い。
「あ、怖がらせるつもりはないんだ。僕はテオドール。この町の外れにある海洋生物標本室で、助手を務めている。君の名前は? 自分がどこから来たのか、覚えているかい?」
テオドールの声。その抑揚と舌の動き。
人魚の耳は、水中の音を聞き分けるために発達している。テオドールの発声を真似るように、私は喉の奥の作りたての発声組織を震わせた。
「テ……オ……」
「えっ?」
「テオ……。わたし……ロ……ローナ……」
掠れ気味だが、鈴を転がすような声が出た。
テオドールは目を丸くし、それから少し照れくさそうに眼鏡の位置を直した。
「ローナ。声が出せるようになったんだね。綺麗な名前だ。……船が難破したのかい? 家の場所は?」
本当のことを言えば、標本にされるかもしれない。
私は首を横に振った。
「わ、からない……。おぼえて……ない……」
「記憶がないのか……無理に思い出さなくていいよ」
テオドールは眉を下げて息をついた。
それから暖炉の前にしゃがみ、薪の減り具合をじっと見つめて呟いた。
「とりあえず今夜はここで休むといい。……ただ、あまり部屋を暑くしすぎるわけにはいかないんだ。奥の部屋にはアルコール漬けの標本が並んでいるから、室温が上がりすぎると気化してしまう。それに、薪の買い置きもそう多くないしね」
テオドールは苦笑いしながら、薪を一本だけ暖炉に足した。
それから押し入れから、ふっくらと膨らんだ白い布団を抱えて持ってきた。
「僕の羽毛布団だ。これを掛けていれば、火を弱めても十分暖かいから」
身体の上に布団が掛けられた瞬間、私は息を呑んだ。
「……っ……!」
軽い。それなのに、自分の体温を逃さず、ふんわりと包み返してくれる。
雲の中に沈み込んだような柔らかさ。
胃の中の温かいミルクと豚の脂。暖炉の控えめな温もり。
「……ふあぁ……なにこれ……」
私は布団に頬をすり寄せ、小さく喉を鳴らした。
テオドールは「おやすみ、ローナ。僕は隣の作業場で標本の記録をつけてくるよ」と言い、ランプの灯りを小さくして部屋を出ていった。
4. 帰れる海と、手放したくない暮らし
静かになった部屋で、私は羽毛布団にくるまりながら考え込んだ。
天国だ。
風は吹かない。服は濡れていない。
食べ物は温かくて信じられないほど美味しい。
そして、この布団の柔らかさ。
だが、シーツの下で下腹部がきゅんと熱く疼いた。
陸上にいる間、身体は発情の熱に包まれている。
本来の掟は、人間の男から種を奪って受胎すること。
けれど、もし今テオドールから種を奪えば、数日で脚は尾ひれへ戻り、声も消えて、海へ強制送還されてしまう。
受胎したら、この布団も、暖炉も、香ばしい肉も、全部おしまいだ。
では、このまま居座り続けたらどうなるか。
およそ四十日。
受胎しないまま陸上に居座り続ければ、身体のホルモンが乱れ、脚が癒合しようとする痛みに見舞われ、最後は干からびて海の泡のように崩れて死ぬとおばばは言っていた。
――けれど、おばばはこうも言っていたのだ。
『期限が尽きる前に冷たき海へと身を投げれば、脚は自然と尾ひれへ戻り、何事もなく海で生き続けられる』
海へ帰れば、助かる。
四十日を迎える前にあの波打ち際へ戻りさえすれば、何の危険もなく、元の健康な身体で海を泳ぎ続けられるのだ。
(……でも)
私は羽毛布団をぎゅっと抱きしめた。
(あんな冷たい海に、誰が戻るもんですか……!)
水温二度の暗闇。凍えながら生魚をバリバリ齧り、海水味しか知らない毎日。
命は助かるかもしれない。けれど、こんな温かくて美味しい世界を知ってしまった後で、あそこへ戻れというのか?
嫌だ。絶対に嫌だ。
私はこの温かい部屋にいたい。あのカリカリの豚肉を、もっと食べたい。
受胎すれば即座に海送り。
だからテオドールに手を出させては駄目だ。
けれど、ただ寝ているだけでは、四十日の期限が迫ってくるし、そもそもテオドールだっていつまでも私をタダで養ってはくれないだろう。さっきの様子を見る限り、彼の暮らしだって決して楽ではなさそうだった。
(なんとかして、ここに居座る理由を作らなきゃ……)
5. 海の知識と、朝食の交渉
私は布団をめくり、ゆっくりと足を床へ降ろした。
立ち上がると、膝が小刻みに震える。
土踏まずがない足の裏。それでも、壁に手をつき、重心を左右に揺らしながら一歩を踏み出す。
ペタッ。ペタッ。
ペンギンのような小股歩きだが、ちゃんと歩けた。
隣の作業場の扉が、少しだけ開いていた。
ランプの灯りの下で、テオドールが机に向かって頭を抱えているのが見えた。
「弱ったな……この深海魚の標本、皮膚が薄すぎて、真水で洗ったら表面の粘膜が白濁して破けてしまった……。アルコールに浸ける前に、どうやって砂を落とせばいいんだ……?」
机の上には、嵐の後に浜で拾ってきたらしい、見覚えのある銀色の魚が載っていた。
深海に棲む、皮の柔らかい魚だ。
私はよちよちと扉の隙間から中へ入った。
「テオ」
「うわっ!? ろ、ローナ!? どうして起きて……それに、もう歩けるのかい!?」
驚いて立ち上がるテオドールに、私は机の上の魚を指差した。
「それ、真水……だめ。潮の水……つかうの」
「え……潮水? 海水で洗うのかい?」
「うん。うすい塩の水で、やさしく流す。そうしたら、皮、破けない。……あと、その魚のおなか、砂じゃなくて、岩のウニ……食べてる。ハサミでおなかを開けるとき、黒い汁……気をつけて。臭い、取れなくなるから」
テオドールはぽかんと口を開けた。
半信半疑のまま、彼は棚から保存用の薄い食塩水を取り出し、魚の表面にそっと垂らした。
白濁しかけていた粘膜が落ち着き、破れることなく細かな砂がするりと洗い流されていく。
「あ……本当だ! 組織が崩れない……! それに、胃の中の内容物まで……」
テオドールは信じられないものを見る目で、私を見つめた。
「ローナ、君……記憶がないんじゃなかったのかい? どうして深海魚の扱いを知っているんだ……? 普通の漁師だってこんなこと知らないぞ」
しまった、喋りすぎたかしら。
けれど、ここで引いては人魚の名が廃る。私はすかさず首を傾げ、もっともらしい顔を作った。
「……おぼえてない。でも……手と、あたまが……知ってたの。わたし、役に立った?」
「役に立ったどころじゃないよ! 貴重な標本を台無しにするところだった。ありがとう、ローナ」
テオドールが心底ほっとしたように、眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
よし、今だ。
私はすかさずテオドールの袖をきゅっと掴み、下から見上げた。
「テオ。わたし、役に立つ。お魚のこと、いろいろ教えてあげる。……だから、あしたもここにいていい?」
「え……?」
「それと……あしたの朝ごはんも、あの黄色いカリカリのお肉(ベーコン)……焼いて。おねがい」
テオドールは目を瞬かせ、それから吹き出すように笑った。
「あはは、君は本当に現金だなあ。……でも、そうだね。こんなに海の生き物に詳しいなら、僕の標本整理の助手として大歓迎だよ。分かった、明日もベーコンを焼こう。僕の分を少し分けるくらいなら、なんとかなる」
「ほんとう!? 約束よ!」
私は満面の笑みを作ってテオドールの手を握った。
チョロい……とは言えないけれど、交渉は大成功だ。
部屋へ戻り、再び羽毛布団に潜り込む。
ふかふかの温もりの中で、私は心の中で小さく拳を握りしめた。
海へ帰れば助かる。けれど、私は絶対に帰らない。
テオドールの研究を手伝いながら、この温かい部屋にしがみつき、いつか四十日を超えてもここで暮らせる方法を見つけ出してやるのだ。
人魚ローナの、快適な暮らしを長引かせるための生活が、こうして始まったのだった。