発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第10話:四十日の宣告と、二人の企て

1. 朝の食卓と、四十日の告白

 

 上陸十五日目の朝。

 崖の上の研究所には、昨夜から弱火で煮込み続けていた肉骨スープの濃厚な香りが満ちていた。

 器に注がれたスープの表面には黄金色の豚の脂が浮かび、香ばしく焼いた干し魚と目玉焼きが皿に並んでいる。

 

「はい、ローナの分だよ。火傷しないようにね」

 

 テオドールが盆を運んできてくれた。

 昨日の午後に塗った羊脂と蜜蝋の軟膏のおかげで、ここ数日ずっと気になっていた皮膚のつっぱりやカサつきは驚くほど落ち着いている。けれど、足の裏の疲労が消えたわけではない。二本足で歩くたびに、土踏まずのない平らな足裏とふくらはぎには、ずしりと重い重力の実感が残っていた。

 

「いただきます!」

 

 熱いスープを木匙ですくい、濃厚な脂を喉の奥へ流し込む。

 胃袋がじんわりと温まったところで、向かいに座るテオドールと視線が合った。

 彼はスプーンを握ったまま、少し躊躇うように眉を寄せ、それから意を決したように静かに口を開いた。

 

「……ローナ。昨日の午後のことなんだけどね」

 

「ん? 何?」

 

「君が言っていた……『陸に上がってから一定の日数が経つと、自然に元の姿へ戻り始めてしまう』という話のことだ」

 

 テオドールの声には、昨日までの「触れていいのか迷う」ような探り合いの気配はなかった。

 眼鏡の奥の瞳は、静かで、誠実で――私が何者であるかをとうに察したうえで、正面から私の言葉を待っている。

 ああ、やっぱりこの人は、もうほとんど全部見抜いているんだ。

 言葉にされずとも、その眼差し一つで痛いほど伝わってきた。

 もう、下手な嘘で誤魔化す必要はない。この人と一緒に未来を探すなら、一番大切な数字を渡さなければならない。

 私は匙を置き、テオドールをまっすぐに見つめ返した。

 

「……およそ四十日よ」

 

「え……?」

 

「この二本の脚で陸にいられるのは、最初から決まっているの。およそ四十日間だけ。今日で十五日目だから……残りは二十五日くらいね」

 

「に、二十五日……!?」

 

 テオドールの手が震え、持っていたスプーンが皿に当たって乾いた金属音を立てた。

 彼の顔から、さっと血の気が引いていく。

 すべてを察して落ち着き払っていたはずの学者が、剥き出しの動揺を露わにして目を丸くしていた。

 

「たったそれだけ……!? もう一か月も残っていないじゃないか……! そ、それじゃあ、四十日を過ぎたら、君の身体はどうなってしまうんだい!?」

 

「期限が来る前に海へ戻れば、足は尾ひれに戻るわ。冷たい海の中で、何の傷もなく、元の元気な姿で生きていける」

 

「海に戻れば……安全に、生き続けられる……」

 

 テオドールは掠れた声で呟き、呆然と机を見つめた。

 その伏せられた瞳の奥で、激しい葛藤が渦巻いているのが見て取れた。

 危険を冒して陸に留まるより、海へ帰れば命は助かる。彼のことだ、誠実すぎる学者として「それなら君の命のために、海へ帰るべきだ」と言うべきなんじゃないかと、必死に思い悩んでいるのかもしれない。

 そんな正論を言わせてなるものか。彼が口を開いてしまう前に、私はテーブル越しに身を乗り出した。

 

「嫌よ!」

 

「え……?」

 

「冷たい海で、生の魚をかじるだけの生活に戻るなんて、もう絶対に嫌だわ! 温かい火があって、美味しいお肉があって……それに」

 

 私はテオドールの目をじっと見つめ、喉の奥から湧き上がる剥き出しの本音をぶつけた。

 

「テオドールがいるこの場所で、あなたと一緒に、来月もずっと暮らしたいのよ!」

 

 静かな台所に、私の声が響き渡った。

 テオドールは息を呑み、目を見開いたまま固まっていた。

 やがて、彼の眼鏡の奥の瞳が潤み、胸元を押さえるように強く息を吐き出した。

 彼は震える手を伸ばし、テーブルの上の私の手の上に、そっと自分の手を重ねた。

 

「……僕もだ、ローナ」

 

 掠れた、けれど力強い声だった。

 

「僕も……君にいなくなってほしくない。来月も、その先も、君と一緒にここで暮らしたい。……だから、諦めないよ。あと二十五日もあるんだ。何としてでも、その四十日の壁を破る方法を二人で見つけよう」

 

 重ねられた手の温もりが、私の胸の奥深くまで染み渡っていく。

 彼も、私と同じように願ってくれていた。

 その事実だけで、身体の奥から熱い勇気が湧き上がってくるのを感じた。

 

 

2. 標本室の記録と、十五日目の接触

 

 朝食を終えたあと、私たちはすぐに標本室へと移動した。

 テオドールは机の引き出しから、あの黒い革表紙の非公開ノートを取り出し、新しい頁を開いた。

 

「これからは、君の身体の状態を毎日正確に記録していこう。体温、脈拍、肌の状態……日数の経過とともにどんな変化が起きているのか、基準となる数値を把握しなければ、何が変化の引き金なのか突き止められないからね」

 

「身体の……記録?」

 

「うん。簡単な項目だけでいい。……失礼するよ」

 

 テオドールが私の手首をそっと取った。

 親指の腹が、私の手首の内側の脈打つ場所へと優しく当てられる。

 彼がもう一方の手で懐中時計を見つめながら、秒針の音を数え始めた。

 

(――っ……)

 

 その瞬間、全身の皮膚がチリチリと甘く痺れた。

 上陸十五日目。

 彼も私と一緒にいたいと望んでくれている――そう知ったあとの身体接触は、昨日までとは比べものにならないほど強烈な熱を帯びていた。

 触れ合っている手首から、テオドールの指先の温もりが血管を通って全身へと広がっていく。

 下腹部の奥がきゅんと重く疼き、息が浅くなる。

 ドクン、ドクン、と早鐘を打つ自分の脈拍が、彼の指先に筒抜けになっているのが分かって、顔から火が出そうだった。

 テオドールも耳の端をわずかに赤くしながら、秒針を追っていた。

 

 けれど――。

 

「……脈拍数が、一分間に百回を超えている」

 

 テオドールが小さく呟き、ふっと眼鏡の奥の眼差しを研ぎ澄ませた。

 あの八日目の夜、プレパラートの切片を顕微鏡で覗き込んでいた時のような、熱心な学者の光がそこにあった。

 彼は懐中時計から目を離すと、私の手首の内側へと視線を落とし、親指の腹でトクトクと跳ねる脈動の感触を慎重に確かめ始めた。

 

「急に脈が跳ね上がっただけじゃないな。手首の内側の皮膚温も、さっきより明らかに上がっている……。感情の高まりによる一時的なものなのか、それとも体幹の熱が末梢へ波及しているのか……脈拍の変化と皮膚温の上昇に、何か連動した法則があるのかな」

 

 独り言のように考察を呟きながら、テオドールは手首の筋を真剣に見つめている。

 至近距離にある彼の真面目な横顔。

 甘い熱を感じていた私の胸と、未知の生理現象に知的好奇心を刺激されている彼の頭の中とが、ほんの少しだけすれ違っているのが分かって、私は可笑しさと照れくささに頬を膨らませた。

 私はそっと手首を自分の方へ引き寄せた。

 

「……テオ。真面目な顔で手首ばかりじろじろ見つめないでよ。調子が狂うわ」

 

「えっ? あ……す、すまない」

 

 テオドールはハッと我に返り、照れくさそうに手を引っ込めた。

 観察に夢中になっていた自分に気づいたのか、眼鏡のブリッジを直しながら少し決まり悪そうにしている。

 けれど、彼が真剣に記録を取ろうとしていること自体を責める気はなかった。成果が欲しいのは、私だって同じなのだ。

 

「いいけれど、気になったならちゃんと記録しておきなさいよね。私もこの四十日の期限を越えるために、確かな数字が欲しいんだから。……ほら、次は体温でしょ。額を測るなら、そっと当ててね」

 

「……うん、分かったよ」

 

 テオドールは小さく頷き、冷たい金属の検温器をそっと私の額に当てた。

 黒いノートに、ペンでさらさらと数字が書き込まれていく。

 親密な空気のなかで、学者の眼差しがふと頭をもたげる小さなズレを感じながらも、私たちは四十日の壁を破るための記録を、手探りで重ねていった。

 

 

3. 目的の資料――港の記録所と立ちはだかる壁

 

「さて……昨日読んだ本から、次に調べるべき具体的な手がかりは見えているんだ」

 

 ノートを閉じたテオドールが、机の上の海図を指差した。

 

「この海域に棲む水生動物や魚類が、季節や周期によって姿を変える記録だ。二十年ほど前に、この港の旧海軍駐在医師がまとめたとされる『群島沿岸水生誌・潮汐形態録』という手記が存在するらしい」

 

「水生誌……! それに、海の中の生き物の変化が載っているの?」

 

「ああ。この近海の潮の流れや水温の周期と、生き物の外皮や回遊の記録が詳細に記されているそうだ。僕たちが持っている大陸の専門書よりも、ずっと現場に即した情報が載っているはずだ。……その本が、港の海事記録所に保管されているらしいんだ」

 

「それなら、すぐに行って借りてきましょう!」

 

 私たちは身支度を整え、坂道を下って港町へと向かった。

 昨日の軟膏をくるぶしや足裏に塗っておいたおかげで、皮膚が靴に擦れる痛みは随分と軽くなっていた。

 けれど、土踏まずのない足にとって、急な下り坂は相変わらずの大仕事だ。小股でよちよちと歩く私に、テオドールは右腕を差し出し、絶妙な速度で寄り添って歩いてくれた。

 

 港の船着き場の近くにある海事記録所は、潮風で黒ずんだ堅牢な石造りの建物だった。

 重い樫の木の扉を開けて中に入ると、埃と羊皮紙の匂いが立ち込めている。

 カウンターの奥では、肘当てをつけた気難しそうな年配の記録係が、老眼鏡の奥から私たちを胡散臭そうに見上げた。

 

「何の用だね、若いの」

 

「失礼します。学術調査のために保管記録を閲覧したいのですが……『群島沿岸水生誌・潮汐形態録』を出していただけないでしょうか」

 

 テオドールが丁寧にお辞儀をして申し出た。

 だが、記録係は分厚い目録を鼻先でめくると、冷淡に首を横に振った。

 

「ああ、その本ならあるがね。閲覧は許可できんよ」

 

「えっ……? どうしてですか? 僕は帝立大学の助手です、身分証も……」

 

「大学だろうが何だろうが関係ないね。海軍の旧記録は準公文書扱いだ。正規の閲覧には海軍省の推薦状か、さもなくば特別開示手数料として銀貨二枚を納めてもらうことになっている」

 

「銀貨……二枚……!?」

 

 テオドールが絶句した。

 銀貨二枚といえば、先日のヴォルフからの報酬の半分以上、私たちの今月の食費と薪代がそのまま消し飛ぶ大金だ。

 テオドールが腰の革財布を握りしめ、青ざめた顔で唇を噛み締めている。

 

「そ、そんな……今すぐには用意できません。何とか数日だけでも閲覧させていただけないでしょうか……!」

 

「規則は規則だ。金がないならお引き取りを」

 

 記録係は取り付く島もなく、手元の帳簿へ視線を戻してしまった。

 目の前に目的の手がかりがあるのに、分厚い扉に阻まれてしまったのだ。

 

 

4. ローナの機転と、海の知恵

 

 テオドールが肩を落とし、諦めて引き返そうと踵を返しかけた。

 だが――私は引き下がらなかった。

 

(冗談じゃないわ。銀貨二枚くらいで、私たちの未来を諦めてたまるもんですか!)

 

 私はカウンターの前に踏み止まった。

 机の上には、開かれたままの港湾日誌と海図が置かれている。文字の練習を始めたばかりの私には、走り書きされた乱雑な文字も細かな地名もまだ読めない。けれど、日誌に羽根ペンを突っついていた記録係が、吐き捨てるように大きな溜息をついた。

 

「まったく、今朝の事故のせいでこっちまで大迷惑だ。船主組合から『古い水路誌を引っ張り出して事故原因を照合しろ』とせっつかれてるが、俺にどうしろってんだ……」

 

 テオドールが日誌の開かれた頁へ目を留め、小さく読み上げた。

 

「……今朝の事故記録ですか? 『第三南水路にて入港中の商船が暗礁に接触、舵を損傷。満潮二時間前の偏流によるものか』……?」

 

「そうだよ」記録係が頭を抱えて愚痴をこぼす。「船長は水深不足を主張してるが、あそこは昔から魔の水路で通っててね。熟練の水先案内人たちですら『海面は穏やかなのに、何かに船底を引きずり込まれるように舵が狂う』とお手上げ状態で、なぜ特定の刻限に事故が多発するのか原因がさっぱり掴めんのだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、海の中で泳ぎ回っていたときの感覚が鮮やかに蘇った。

 満潮の二時間前。海面は穏やかなのに、船底が横へ引きずり込まれる。

 私は海図の海峡部分を指差して、テオドールに尋ねた。

 

「テオ、この『第三』なんとかっていう水路は、この黒い岩礁と浅瀬の間にある海峡のこと?」

 

「えっ? あ、ああ……そうだよ。この狭い水路のことだけど……」

 

 テオドールが目を丸くする。私は確信を得て、カウンターに両手をドンとつき、記録係へと身を乗り出した。

 

「おじさん。水深が足りないんじゃないわよ。底潮よ!」

 

「……ああん? なんだい、嬢ちゃん」

 

 記録係が眉をひそめて私を睨んだ。私はニヤリと笑ってみせた。

 

「潮の流れよ! あの場所はね、沖の黒岩礁の東から回り込んでくる冷たい潮と、湾内の浅瀬で温まった潮が激しくぶつかる場所なの。満潮の二時間前になると、海面は穏やかでも、底の方では南東の岩礁に向かって猛烈な二重底潮が渦を巻いてるのよ。船の腹を横から引きずり込むような強い流れが出るから、舵が効かなくなって岩へ吸い寄せられるの!」

 

「……二重底潮……? おいおい、海面からは何も見えんぞ。そんな話、聞いたことも……」

 

 記録係は訝しげに鼻を鳴らしかけたが、ふと何かに気づいたように顔色を変えた。彼は背後の棚から、埃をかぶった古い海軍の事故記録綴りを慌ただしく引っ張り出し、激しい勢いで頁をめくり始めた。

 

「待てよ……! 十年前に同じ水路で座礁した海軍の小型快速艇の沈没調査報告……おい、どこだ……あった!」

 

 頁を指で押さえた記録係の目が、老眼鏡の奥で見開かれた。

 

「『船体は水面の風向と逆の南東方向へ押し流され、海底の岩礁に左舷から激突。引き揚げ部隊の潜水手は、海底付近で猛烈な冷水の偏流を証言』……! 合致してる……! 水先案内人たちの証言も、この記述も、全部辻褄が合うぞ……! だから海面が静かな満潮前ばかり、南東の岩へ船が引きずり込まれていたのか……!」

 

 記録係が震える手で報告書を握りしめ、信じられないものを見るように私を見つめた。

 当然だ。海面の様子しか見えない人間と違って、私はあそこの冷たい底潮に何度も揉まれ、岩陰で魚を追いかけて育ったのだから。

 私はふふんと得意げに鼻を鳴らした。

 

「海の底には底の流れがあるのよ。その時間帯はあの海峡を突っ切るのを避けて、潮が緩むのを待つか、岩の陰を大回りして底潮を避ける検討をした方がいいわ」

 

「お、おい……嬢ちゃん、お前さん、なぜそんなことを知っているんだ……!?」

 

「海の底の形と水の癖なら、誰よりも知ってるのよ。……ねえ、おじさん。長年誰も説明できなかった魔の水路の謎が解けて、これからの事故防止に役立つなら、すっごく価値のある情報でしょう?」

 

「そ、それは……! 港湾長や船主組合に報告すりゃ、大金以上の大発見だぞ……!」

 

「だったらさ! そのお礼に、あの『潮汐形態録』を夕方まで見せてくれたって、ちっともバチは当たらないんじゃない? 銀貨二枚よりもずっとお得な取引よ!」

 

 私が畳み掛けるように交渉を持ちかけると、記録係は呆気にとられたように口を開け、やがて降参したように豪快に息を吐き出した。

 

「……たまげた嬢ちゃんだ。分かったよ、俺の責任で特別に閲覧を許可してやる。ただし、持ち出しは駄目だ。夕方までここで書き写していきな!」

 

「やったあ! テオ、見た!?」

 

 私が勝ち誇って振り返ると、テオドールは感嘆と驚きに満ちた顔で、胸元を押さえて小さく息を漏らした。

 

「……すごいよ、ローナ。本当に、君には敵わないな」

 

 

5. 二人の祝杯と、確かな共犯関係

 

 海事記録所の閲覧席で、テオドールは猛烈な勢いでペンを走らせ、目的の手記から必要な記述をノートへと書き写していった。

 私も彼の隣に座り、図面や地名の部分を指差しながら、海の中の記憶と照らし合わせて手助けをした。

 夕暮れ時、記録所を出る頃には、テオドールの鞄には貴重な現場記録の写しがぎっしりと収まっていた。

 

「テオ! 私のおかげで銀貨二枚浮いたんだから、何かご馳走してくれないと割に合わないわ!」

 

 港へ続く大通りを歩きながら私が口を尖らせると、テオドールは心からの笑顔をこぼした。

 

「もちろん、ご馳走するよ。何が食べたいかい?」

 

「お肉! あの角の屋台で焼いてる、熱々のやつ!」

 

「早く、テオ!」

 私は彼の袖をぐいぐいと引っ張り、土踏まずのない足で小股に急ぎながら、市場の辻にある屋台を目指した。テオドールが苦笑しながら私の歩幅に合わせて支えてくれる。

 そうして買い求めたのは、焼きたての分厚い肉パイが二つ。

 港を見下ろす陽だまりの石段に並んで腰を下ろし、紙に包まれたパイを口いっぱいに頬張る。

 サクサクとした黄金色のパイ生地の中から、湯気とともに熱々の肉汁と胡椒の効いた粗挽き肉が溢れ出した。

 

「んんん……っ! おいひい……っ!」

 

「あはは、本当に美味しそうに食べるね」

 

 テオドールも自分のパイをかじりながら、隣の私を愛おしそうに見つめた。

 夕陽が海を茜色に染め上げ、心地よい潮風が私たちの髪を揺らしている。

 テオドールは鞄の中のノートをそっと撫で、静かに言った。

 

「この手記にね、気になる記述があったんだ。特定の海域で、水温と潮流の周期に合わせて、体表の組織を変化させる海棲動物の観察記録だ。……君の言う通り、僕たちの調査は、確実に一歩前に進んだよ」

 

「でしょ? 言ったじゃない、私を誰だと思ってるのよ」

 

 私が胸を張ると、テオドールはふっと眼差しを柔らかくし、私の肩に自分の肩をそっと触れ合わせてきた。

 衣服越しに伝わってくる彼の体温に、下腹部の奥がきゅんと甘く疼く。

 けれど、その疼きはもう、私を孤独に焦がすだけの苦痛ではなかった。

 彼も、私と一緒に生きたいと願ってくれている。

 その確かな温もりが、隣にあるのだから。

 

「残りは二十五日だね」

 

「ええ。でも、もうただ怯えて数えるだけの二十五日じゃないわ」

 

 私はパイの最後のひとかけらを飲み込み、テオドールの顔を見上げて不敵に笑った。

 

「さあテオ、帰ったらすぐに作戦会議よ! 今夜も美味しいお肉を食べて、あの手記を徹底的に暴いてやるんだから!」

 

「うん、やろう。二人でね」

 

 テオドールが力強く頷き、私の手を取って立ち上がらせてくれた。

 夕闇が迫る坂道を、私たちは肩を並べ、しっかりと歩幅を合わせて歩き出した。

 

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