発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 冬の朝の手記と、海の記憶
上陸十六日目。
朝、目を覚ますと、研究所の窓ガラス一面に白い霜がびっしりと降りていた。
外は本格的な冬の寒さだ。けれど、暖炉の中で赤々と燃える薪の爆ぜる音と、台所から漂ってくる香ばしい匂いが、凍える空気を心地よい温もりで満たしていた。
「ローナ、おはよう。寒かっただろう」
テオドールが笑顔で鍋から深皿へと朝食をよそってくれた。
今朝の献立は、じっくり煮出した豚骨の濃厚なスープに、香ばしく炙った干し魚、そして厚切りのパンだ。
澄んだ脂が浮いた熱々のスープを口に含むと、骨から溶け出した旨味と塩気が喉を通って、冷えた身体の芯までじんわりと温めてくれる。
「んん……っ、温まる! やっぱり火の通ったスープは最高ね!」
「ふふ、気に入ってもらえてよかったよ。……さあ、朝食を食べたら、昨日の手記の続きを一緒に見ようか」
机の上には、昨日海事記録所で筆写してきた『群島沿岸水生誌・潮汐形態録』のノートが広げられていた。
テオドールは眼鏡を指先で押し上げ、ペンで記された図面と文章を指差した。
「この海域の沿岸に棲む『ヒレアシイモリ』という両生小動物の記録だよ。手記を書いた元海軍医師によれば、この生き物は秋の初大潮を迎えると、水生の滑らかな粘膜皮膚を脱ぎ捨てて、乾きに強い陸上型の硬い皮膚へと一斉に姿を変えるとある」
「陸上型……」
「うん。そしてね、ここだ」
テオドールがノートの一節を指先でトントンと叩いた。
「『冬期においては例外なく全個体が陸上型への変態を完了し、水生粘膜型は沿岸から完全に姿を消す。これは寒冷期を乗り切るための厳格な自然の掟である』……と結ばれている。つまり、季節の巡りとともに絶対に逆らえない体内時計が働いている、というのが彼の見解なんだ」
私はスープの匙をくわえたまま、手記の挿絵――細い四肢に水かきを持ち、尾ひれを残したトカゲのような生き物のスケッチをじっと見つめた。
そして、思わず吹き出してしまった。
「ぷっ……あはは! 何よそれ、全然違うわ!」
「えっ……? ち、違うのかい?」
「違うわよ! そのお医者さん、陸の上から乾いた岩肌しか見てないんじゃないの? 海の中じゃね、真冬の今だって、ヌルヌルの水生皮膚のまま元気に泳ぎ回ってるやつがそこら中にいるわよ!」
「な……真冬の今も、水生型のままで……!?」
テオドールが目を丸くして身を乗り出した。
「本当かい、ローナ? 手記には、冬には一匹残らず変態を終えていると明記されているのに……」
「本当よ! あいつら、冬でも波が静かな深い岩棚の隙間なんかじゃ、ヒレに綺麗な飾り膜をつけてスイスイ泳いでるもの。手記の『例外なく絶対に変わる』なんて、嘘っぱちだわ」
「一律の体内時計だけじゃない……? それなら、手記の説明だけでは何かが抜け落ちているということか……」
テオドールは唸り、手記と海図を交互に見つめた。
私は残りのスープをごくごくと飲み干し、口元を拭って立ち上がった。
「悩んでないで、見に行けばいいじゃない! この崖の真下の入り江にも、あいつらが冬を越す岩場があるはずよ。すぐそこなんだから、直接確かめに行きましょ!」
2. 崖下の小道と、十六日目の温もり
私たちは厚手の羊毛の外套を羽織り、崖下の入り江へと続く小道へ出た。
冬の潮風が冷たく頬を撫でる。
土踏まずのない平らな足裏にとって、ゴツゴツとした石の階段や傾斜のある小道は相変わらず気を遣う足場だ。けれど、数日前のようにへたり込むことはない。テオドールが用意してくれた頑丈な樫の木の杖を突き、彼に右腕を支えてもらいながら、一歩ずつゆっくりと岩場を降りていった。
「足元に気をつけてね、ローナ。凍って滑る岩があるから」
「平気よ。テオが隣にいてくれるもの」
岩の段差を降りる際、テオドールが私の右手をぎゅっと握りしめてくれた。
その瞬間、衣服越しではない素肌の掌から、彼の熱がじんと伝わってくる。
(――あ……)
上陸十六日目。
安定した発情が続く「第2期」に入った私の身体は、日ごとに体温が高まり、皮膚が敏感になっていた。
触れ合った手のひらから、テオドールの熱が血液に混ざり込んで全身へと広がっていく。
下腹部の奥がきゅんと甘く痺れ、喉の奥が微かに渇く。
昨日、お互いに「来月も一緒に暮らしたい」と言葉を交わし合ったばかりだ。
彼が私を必要としてくれていると知ってからというもの、彼に触れられるたびに湧き上がる喜びは、以前とは比べものにならないほど濃密になっていた。
以前の私なら、この甘い熱に狼狽えて、慌てて手を引っ込めていただろう。
けれど今は――私は自分の指を絡め、テオドールの手を握り返した。
冷たい潮風の中で、彼の手の温もりがたまらなく愛おしくて、離したくなかったのだ。
テオドールが驚いたように足を止め、私を見つめた。
至近距離にある優しい瞳。彼の首筋から漂う、乾いた紙と石鹸の匂い。
ぎゅっと身を寄せて、彼の胸の中に飛び込みたい――そんな衝動が、身体の奥からふつふつと湧き上がる。
(……っ、駄目よ。落ち着きなさい、私)
胸の奥で、長老のおばばの警告が短くよぎった。
もし衝動に流されて彼の種を受け入れてしまえば、受胎をきっかけに身体の変化が始まってしまい、数時間から数日のうちに脚も声も失って海へ帰らざるを得なくなる。
そんなの、絶対に嫌だ。
テオドールが好きだからこそ、温かい部屋も、美味しい食事も、彼と過ごす陸の暮らしも、何一つ手放したくない。
私の貪欲な心が、甘い衝動にきっちりと手綱をかけた。
「……ふふ、どうしたのテオ? 私の手が冷たい?」
「あ、いや……すごく温かい手だな、と思ってね」
テオドールは照れくさそうに微笑むと、私の手を離さず、しっかりと握り直してくれた。
二人の歩幅を合わせながら、私たちは冬の海辺へと降り立った。
3. 冬の潮溜まりと、海の知恵
崖下の入り江は、黒々とした奇岩に囲まれた静かな入江だった。
外海の白波は防波堤のような大岩に遮られ、波打ち際には澄み切った潮溜まりがいくつも点在している。
テオドールが外套の裾を気にしながら、波打ち際の浅瀬を探そうとした。
「このあたりの石の下を見てみようか」
「待って、テオ。そこにはいないわよ」
私は彼の手を引いて制止した。
「え? どうしてだい?」
「あいつらは冬になると、波が直接ぶつかる場所からは逃げるの。冷たい外海の潮風を嫌うからよ。……あっち、崖の根元の影になっている場所。緑色の海藻が深くまで垂れ下がっている、あの深い潮溜まりよ」
海の中で暮らしていた頃の記憶が、鮮やかに私を導いていた。
私たちは岩を回り込み、崖の裂け目に隠れた細長い潮溜まりへと近づいた。
水深は腰の高さほどあり、水底には厚い海藻が揺れている。冬の木漏れ日が水面を透かし、底の岩肌を照らしていた。
「あそこの、平らな緑の岩の下……そっと覗いてみて」
私が小声で囁くと、テオドールは膝をつき、水面を乱さないように慎重に岩の隙間を覗き込んだ。
やがて、彼の息を呑む気配が伝わってきた。
「……いた。本当に、いるよ……!」
テオドールが指差した先。
冷たい海水の中、海藻の茂みから一匹のヒレアシイモリが優雅に滑り出てきた。
体長は手のひらほど。その体表は、乾いた鱗などではなく、瑞々しく光る半透明の粘膜に覆われていた。背中から尾にかけては薄いヒレの飾り膜が広がり、水呼吸を行うエラのような組織が微かに揺れている。
紛れもない、手記が「冬には水生型が見られなくなる」と記していた水生粘膜型の姿そのものだった。
「すごい……! 真冬の十二月だというのに、完全に水生の組織を保ったままだ……!」
テオドールは手記の写しを取り出し、水中の個体と食い入るように見比べた。
「手記を書いた医師は、もしかしたら波打ち際の乾いた岩場を中心に観察していたのかもしれないね。だから、冬になれば全個体が一律に陸上型へ変わると思い込んだんだろう……。手記の一律な説明だけでは、明らかに足りない!」
「でしょ? 言ったじゃない、私の言う通りだって!」
私が得意げに胸を張ると、テオドールはふと潮溜まりの上段、乾いた岩の割れ目にも目を留めた。
そこには、水から完全に上がった別の個体がじっと潜んでいた。その皮膚は灰色に硬く角質化し、ヒレの膜も縮んだ陸上型の姿をしていた。
「……なるほど。同じ入り江の中でも、水生型のまま水中に留まっている個体と、陸上型に変わって岩隙にいる個体の両方が現実に存在しているわけだ」
テオドールは興奮を抑えるように眼鏡を直し、冷静に観察眼を走らせた。
「ただし、これだけで何が原因かを決めつけることはできないね。水深や日照の違いかもしれないし、あるいは単に体の大きさ――成長段階や年齢による差なのかもしれない。手記の記述が絶対ではないと証明できたけれど、何がこの変化を左右しているのかは、まだ慎重に見極める必要があるよ」
「うん。でも、冬だからって絶対に身体が変わっちゃうわけじゃないって分かっただけでも、大収穫じゃない!」
「ああ、その通りだ。ローナの案内のおかげだよ。君がいなければ、こんな場所庭先にあっても絶対に見つけられなかった」
テオドールが心からの感謝を込めて微笑みかけてくれた。
海で生きてきた私の記憶が、人間の学問の誤りを暴き、二人の未来の手がかりを掴み取ったのだ。
冷たい海風の中、私の胸は誇らしさと熱い充実感でいっぱいになっていた。
4. 湯気立つ骨スープと、明日の企て
研究所へ戻る頃には、すっかり正午を回っていた。
さすがに冷え切った海風を浴びて歩き回ったため、お腹はぺこぺこだ。
「テオ、お腹が空いて倒れそう! お肉、お肉を食べさせて!」
「あはは、分かったよ。すぐ準備するから座って待っていて」
暖炉に太い薪がくべられ、パチパチと心地よい爆ぜる音が部屋を満たす。
台所からは、じゅうじゅうと肉の焼けるたまらない音が立ち上った。
運ばれてきたのは、塩漬け豚肉の厚切りソテーと、朝の豚骨スープをさらに煮詰めて干し魚の出汁を合わせた濃厚なスープだ。豚肉の表面にはカリッと香ばしい焼き色がつき、噛み締めると熱々の脂と塩気がじゅわりと溢れ出す。
「はふっ、あふ……っ! んん〜〜っ、美味しい……っ!」
私は夢中で肉を頬張り、熱いスープを飲み干した。
冷えた身体の隅々にまで濃厚な滋養が行き渡り、手足の先までぽかぽかと温まっていく。
やっぱり、陸の暮らしは最高だ。この温かい部屋と美味しい肉がある限り、私は絶対に海へなんて帰りたくない。
食後、テオドールは机の引き出しからあの黒いノートを取り出した。
私の体温と脈拍を測り終えると、彼は文字を十分に読めない私のために、ペンを走らせながら静かに言葉を口にしてくれた。
「……『上陸十六日目。冬期の沿岸潮溜まりにて、水生粘膜型ヒレアシイモリの生息を確認。手記の一律変態説に重大な反証を得る。期限まで残り二十四日』……と」
インクを吸い取り紙で押さえたテオドールが、ペンを置いて私に向き直った。
「ローナ。手記の誤りが分かった以上、次は『何が変態を左右しているのか』を具体的に絞り込んでいこう」
「うん! 次はどうするの?」
「明日、朝の引き潮の時間を狙って、もう一度あの潮溜まりへ行こう。今日見つけたあの水生型の個体が潜んでいた岩の隙間で、水底の温度と深さを正確に測るんだ。そして、あの個体がまだ成長途中の幼体なのか、それとも成熟した成体なのかを確かめたい」
「成熟してるかどうかね! よし、あいつの模様とエラの形をじっくり見極めてやるわ」
「頼りにしてるよ、僕の優秀な助手さん」
テオドールが柔らかく笑い、机の上で私の手にそっと触れた。
その温もりに胸を弾ませながら――私は、真剣に生き物の変態条件を追おうとしている彼の横顔を見つめた。
この脚や声が、繁殖のための特別な変化であること。その事実を明かさなければ、これ以上調査を先へ進めることはできない。恥ずかしいからと黙っている場合ではないのだ。
(……次に身体の記録を取るとき、テオにちゃんと話そう)
心の中でそう腹を括ると、私は気合を入れ直すように不敵に笑ってみせた。
「助手をこき使うんだから、明日の夕飯もちゃんとお肉を奮発してもらうからね!」
「もちろん。君が満足するまで、いくらでも腕を振るうよ」
窓の外では冷たい冬の風が吹いていたけれど、私たちの部屋には確かな希望と、温かな熱気が満ちあふれていた。