発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第3話:運河水門の夜舟と、隠された爪

1. 地下水門の濁り水

 

 湿った石段を下りるたびに、ペタ、ペタと平らな靴底が頼りなげに擦れた。

 ヴィンセントの腕をしっかりと掴みながら、クラウディアは厚手のウールスカートの裾をぎこちなく揺らして進む。足底全体を石に押し当て、小刻みにバランスを取り直しながらの歩行だったが、その足取りは一歩ごとに確実に安定しつつあった。

 

 第三保税倉庫の最下層。

 重い鉄の扉を抜けると、外の雨気を含んだ泥と潮の冷気が吹き込んできた。

 『運河水門(カーゴ・スルース)』。

 満潮時に運河から海水を引き込み、倉庫の底に横付けした艀(はしけ)へ直接木樽を積み下ろしするための、非公開の荷揚げ水路だった。

 

 ヴィンセントが掲げたランタンの光が、暗い水面を照らし出す。

 水深一・五メートルほどの水路に、荷繰り用の平底小舟が一艘、太い麻ロープで係留されていた。

 

「……海だ」

 

 クラウディアの足が止まった。

 水門の鉄格子の隙間から流れ込む冷たい潮の匂いに、碧い瞳が大きく見開かれる。

 鼻孔を広げて冷気を吸い込むと、マントの下で水かきのある指先がピクリと動いた。

 

(水……! 飛び込めば、海に戻れる……!)

 

 本能が水底へ還れと告げていた。

 だが、クラウディアは飛び込まなかった。

 水面に映る自分の姿を見下ろし、唇を噛む。

 

(……ダメだ。この脚じゃ、まだ無理だ)

 

 水に入ったところで、今の身体は二本の脚のままだ。水かきがあるため短距離を泳いだり浮いたりすることはできても、尾ひれのような推進力も持続力もない。

 しかもここは、巨大な商船や艀がひしめく保税区の心臓部だ。水門の外には無数の杭や鉄張りの防潮扉、浚渫(しゅんせつ)船のスクリューが待ち構えている。尾ひれを欠いた不完全な足かきで飛び出せば、外海に出る前に船乗りたちに見つかり、網で掬い上げられて教会へ引き渡されるのが関の山だった。

 

(……だから、今はまだ跳べない)

 

 クラウディアはヴィンセントに悟られぬよう、握りかけた拳を緩めた。

 

 

2. 二つの打算

 

「乗れ、クラウディア。揺れるぞ」

 

 ヴィンセントが小舟を引き寄せ、手を貸した。

 クラウディアは揺れる船べりに恐る恐る乗り込み、底板の上に腰を下ろした。濡れた麻袋の上に身を沈め、フードを目深に引き直す。

 

 クラウディアの当面の思惑は明快だった。

 この男の金と馬車を利用して、重警備の港湾包囲網を陸路で脱出する。そして、外海に面した静かな海岸線まで出たところで――隙を見て馬車から逃げ出し、海へ飛び込むのだ。

 

(あわよくば、その前にこいつから『種』をもらえれば一番いい)

 

 マントの下で、微かに火照る下腹部を意識する。

 男の温もりに触れてから、奥底で燻る重い熱。

 長老のおばばの教え通り、男の種を得て受胎すれば、身体の造り替えが起きて脚は速やかに尾ひれへと戻る。尾ひれさえ戻れば、時速数十キロの遊泳力で深海へ逃げ去ることができる。

 だが、種が得られずとも構わない。外海の安全な入江へ出られれば、四十日の発情期が過ぎて自然に尾ひれへ戻るのを待てばいい。

 

(せいぜい私を外海まで運びな、帳簿係。最後に笑うのは私だ……!)

 

 クラウディアは静かに息を潜め、従順な獲物のふりをして舟の底に縮こまった。

 

 一方、小舟のロープを解くヴィンセントの思考もまた、冷徹に回転していた。

 頭にあるのは、マウラーの手記にあった記述だ。

 『伝承および検体の証言:雄の種を受け入れた場合、四十日を待たず数日のうちに両肢の再癒合と陸上の声の衰退が進行する――』

 

(絶対に受胎させてはならない)

 

 もしクラウディアがどこかで男の精子を得て受胎してしまえば、脚は失われ、人間の女として馬車で運ぶ偽装計画は水泡に帰す。

 尾ひれに戻った人魚を陸路で帝都へ運ぶことなど不可能だ。金貨五百枚の取引は消し飛び、商会への横領も露見して破滅する。

 帝都の王立解剖学会へ納品し、受領書と為替手形を手にするその瞬間まで、この女には何としても二本の脚で立っていてもらわねばならない。

 

 ヴィンセントは壁の滑車レバーを静かに引き下げた。

 ガラガラと鈍い鎖の軋み音を立てて、水門の鉄格子が小舟の通る高さまで持ち上がる。

 彼は櫂(オール)を手に取ると、地下の石壁を突いて小舟を暗渠へと滑り出させた。

 

 

3. 水門突破と、暗渠の検問

 

 ザバ……、ザバ……。

 外は冷たい雨が降り続いていた。

 保税倉庫の地下から伸びる赤煉瓦の排水暗渠(カルバート)を、櫂の音を殺しながら進む。港湾の計理士として、倉庫の排水路や荷揚げ用の裏ルートの構造はヴィンセントの頭の中に完全に入っていた。

 

 だが――暗渠の出口が近づくにつれ、水面に揺れる赤い光が見えてきた。

 

「……伏せろ」

 

 ヴィンセントが低く囁いた。

 クラウディアは即座に舟の底へ身を沈め、麻袋の陰へと潜り込んだ。

 

 運河に架かる石橋のたもとに、二つのカンテラの光が揺れていた。

 小型の蒸気哨戒艇が一艘、水路を塞ぐように停泊している。船首には大聖堂の銀十字の旗が掲げられていた。正門だけでなく、水路にまで教区の警戒網が敷かれていたのだ。

 

「誰だ、そこの小舟! 停船せよ!」

 

 甲板から、マスケット銃を抱えた衛兵の怒声が飛んだ。

 強い光が一直線に小舟を射抜く。

 

 ヴィンセントは櫂を漕ぐ手を止めず、平然とした様子で舟を哨戒艇の舷側へと寄せた。逃げれば撃たれる。

 

「何をしている、こんな深夜に! 積荷を改める!」

 哨戒艇の兵長が銃口を向け、身を乗り出してきた。

 

「第三保税倉庫の主任検品員、ヴィンセント・クラインだ」

 ヴィンセントはコートの内ポケットから商会の公印が押された荷札を取り出し、兵長の目の前へ突きつけた。

「港湾衛生規約第十九条に基づく、定時廃棄物の搬出作業中だ」

 

「廃棄物……? 大聖堂からの通達が出ている。地下から悪魔の積荷が持ち出されるのを警戒中だ!」

 

「悪魔だと? そんな迷信に付き合っている暇はない」

 ヴィンセントは冷淡に鼻を鳴らし、小舟の底の麻袋を指差した。

「北洋船から預かった鯨肉の樽が地下で腐敗し、強烈なガスを噴き出していた。放置すれば他の寄託貨物に臭気が移り、商会に多大な損害が出る。夜明け前の引き潮を利用して、外海の投棄場へ沈めに行くところだ。……嗅いでみるかね? 強酸性の胃液と腐った脂の臭いを」

 

 兵長が顔をしかめ、小舟の底を覗き込んだ。

 麻袋に包まれた塊から漂ってきたのは――ヴィンセントの言葉通り、吐瀉物と動物性の脂が混ざり合った、強烈な饐(す)えた臭気だった。先ほどクラウディアが吐き戻したライ麦パンと、食べたばかりのマトンの脂の匂いだ。

 

「うげっ……! く、くせえ……! なんだこの臭いは!」

 

「言ったはずだ、腐敗した鯨肉状の有機物だと。これ以上足止めするなら、この腐敗物の処理遅延による損害証明書を大聖堂宛てに発行するが、貴方の名前で受領印を押してもらえるかな?」

 

「反吐が出る、商人の帳簿野郎め……! 行け、さっさと消えろ!」

 

 兵長は鼻を押さえ、忌々しそうに手を振った。マスケット銃が引かれる。

 

「ご協力感謝する」

 

 ヴィンセントは慇懃に一礼し、櫂を力強く水底へ突き立てた。

 小舟は哨戒艇の脇をすり抜け、雨煙る運河の暗がりへと滑り込んでいった。

 

 

4. 旧漁村の廃船小屋と、閉ざされた海

 

 哨戒艇の明かりが遠ざかり、運河の波が外海のうねりへと変わり始めた頃。

 小舟は旧市街の北端――かつてニシン漁で栄え、今は廃墟となった『旧漁村』の入り江へと滑り込んだ。

 

 打ち捨てられた木造の船揚場。

 ヴィンセントは小舟を腐りかけた桟橋に寄せ、舫いロープを結びつけた。

 

「上がれ、クラウディア。検問は抜けた」

 

 麻袋を跳ね除け、クラウディアが身を起こした。

 フードの下の碧い瞳が、感嘆の色を帯びてヴィンセントを見つめていた。

 

「……おまえ、本当に口の回るサルだな。鉄の棒を持った兵隊を、紙切れ一枚と嘘っぱちだけで追い払っちゃった」

 

「嘘ではない。お前を無傷で帝都へ運ぶための、実務上の隠蔽工作だ」

 ヴィンセントは桟橋の上へと手を差し伸べた。

「この廃船小屋の裏手に、手配した辻馬車が一台待たせてある。あの馬車に乗れば、正午には港湾の検問線を完全に越え、帝都へ続く中央街道へ入れる」

 

 クラウディアはヴィンセントの手を取り、よちよちと小股で桟橋へと這い上がった。

 冷たい雨がマントを濡らす。

 すぐ足元に波打ち際があった。引き潮の磯の香りが、強く鼻を突く。

 

(……海だ……!)

 

 クラウディアの心臓が跳ねた。

 自由の匂いだ。彼女はヴィンセントの手を振り払い、思わず波打ち際の波止場へ駆け寄ろうとした。

 だが――海原を見渡した瞬間、彼女の足がピタリと凍りついた。

 

「……っ……」

 

 目の前に広がっていたのは、穏やかな海ではなかった。

 旧漁村の入江の出口には、港湾防衛のために沈められた廃船の巨体と、鋭利な木杭の列が何重にも打ち込まれ、引き潮の激しい白波が轟音を立てて砕け散っていた。外洋へと続く狭い水道は激流と化し、岩礁に叩きつけるような逆潮流(リップカレント)が渦を巻いている。

 

 さらに沖合の暗礁には、大聖堂と港湾総督府が共同管理する巨大な石造りの灯台がそびえ立ち、強力な反射鏡の光芒が海上を絶え間なく薙ぎ払っていた。海面を泳げば即座に照らし出され、周囲を巡回する大型哨戒艇の標的になる。

 

(……越えられない)

 

 クラウディアは唇を噛み、濡れた拳を強く握りしめた。

 もし尾ひれがあれば、どんな激流も岩礁も一瞬で跳び越え、深海へと潜航できる。

 だが、今の自分にあるのは、土踏まずのない平らな二本の脚と、指の間の頼りない水かきだけだ。この脚で飛び込めば、あの杭列と砕波帯に叩きつけられて骨を砕かれるか、引き潮に呑まれて沖の監視網に引っかかる。

 

(……まだ、海は私を拒んでいる)

 

 野生の冷徹な直感が、無謀な脱出を押し留めた。

 いま逃げるべきではない。あの荒れ狂う外郭の防壁を越えるには、陸路で街道を走り、波の静かな外洋の砂浜や砂嘴(さし)まで出るしかないのだ。

 

「どうした。海を眺めていても馬車は来ないぞ」

 背後から、ヴィンセントの淡々とした声が降ってきた。

 

「……なんでもないよ」

 クラウディアは表情を隠すようにフードを引き下げ、振り返った。

「馬車ってやつに乗りに行くんだろ。早く連れて行きなよ」

 

 二人は廃船小屋の影へと足を速めた。

 そこには、御者が息を潜めて待機する一台の黒塗りの幌馬車があった。

 

「馬車での旅はおよそ一週間。帝都到着は変態開始から十八日前後の予定だ」

 ヴィンセントは懐中時計の蓋をパチンと閉めた。

「街道に入れば、教会の衛兵の追跡も振り切れる。……乗れ」

 

 手記にあるような激しい熱発や狂乱に見舞われる前に、何としても帝都の王立解剖学会へ納品し、金貨五百枚を回収する。

 一方のクラウディアもまた、馬車が港の監視網を抜け、静かな外海の砂浜に近づく好機を虎視眈々と狙っていた。

 

 雨煙る夜明け前の街道へ向け、車輪がきしりと音を立てて転がり出した。

 

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