発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 朝の引き潮と、成熟した水生型
上陸十七日目、夜明け直後。
朝の引き潮の刻限に合わせて、私たちはまだ薄暗い崖下の入り江へと降り立っていた。
凍てつく冬の朝気が頬を刺し、息を吐くたびに真っ白な湯気が立ち上る。
昨日の約束通り、私たちはあの深い潮溜まりの前に陣取っていた。
「水底の深さは約一・二メートル……底層の水温は、外海の表層より二度ほど高いね。崖の奥の岩隙から、微かに温かい地下水が染み出しているのかもしれない」
テオドールが細い目盛り竿と寒暖計を海中から引き上げ、手帳に手早く数値を走り書きした。
私は樫の木の杖に体重を預け、冷たい水面へと身を乗り出した。
昨日見つけたあのヒレアシイモリは、今日も同じ平らな緑の岩の下に潜んでいた。私が海藻の端を小枝でそっと揺らすと、ぬらりと光る粘膜に覆われた身体をくねらせて、澄んだ水の中を優雅に泳ぎ出た。
「テオ、よく見て。あいつ、背中から尾にかけて黒い斑点模様がくっきり浮き出てるでしょ? それに、喉元のヒレ膜の縁が波打って、完全に開ききってるわ」
「……本当だ。幼体特有の未熟な斑紋じゃないね。成熟した成体に見られる特徴だ」
「でしょ? 子供だから水の中に残ってるんじゃないの。大人の個体が、冬の今でも水生の皮膚とヒレのままで暮らしてるのよ」
テオドールは感嘆の息を漏らし、手帳に鉛筆を走らせた。
「手記の『冬には一律に変態を終えて水生型は見られなくなる』という前提には、確かに疑問の余地ができたね。ただ、成体らしい姿に見えても、本当に成熟しきった個体なのか、それともこの潮溜まりの環境が変化を遅らせているのかは、まだ慎重に見る必要があるけれど……」
「でも、少なくとも冬だからって一匹もいないわけじゃないって確かめられたわ!」
「ああ、それは大きな前進だよ」
私たちは寒さに手先を擦り合わせながら、手応えを胸に入り江を後にした。
2. 黄金色の焼き菓子と、重い溜息
入り江からの帰り道、私たちは研究所で使う塩と油を買い足すため、港町の朝市へと立ち寄った。
そこで――私の欲深い鼻が、たまらなく甘く香ばしい匂いを嗅ぎつけてしまったのだ。
「焼きたてだよ! 濃厚な蜂蜜と野イチゴのジャムをたっぷり包んだ、焼き菓子はいかが!」
市場の角にある店先に、黄金色に焼き上がった手のひら大の丸い焼き菓子が並んでいた。表面にはツヤツヤとした糖蜜が塗られ、焦げたバターと甘酸っぱい果実の湯気が漂っている。
(――うわぁ……っ、美味しそう!)
私の胃袋が、ぎゅるりと音を立てた。
これまでパンの切れ端や肉パイの皮を少し食べたことはあったけれど、あんなに甘くて香ばしそうな焼き菓子は見たことがない。
頭の片隅で、おばばの教えがチクリと警告を発した。
――人魚の身体は海で生きる肉食だ。人間の作る甘い菓子や精製された粉は身体を壊すから、口にしてはならない――。
けれど、これまでの私はパンを食べても平気だったのだ。
(おばばの脅かしに決まってるわ。あんなにいい匂いがするのに!)
テオドールが向かいの乾物屋で塩の計量を頼んでいる隙に、私はポケットの銅貨を握りしめ、土踏まずのない足で小股に急いで屋台へと向かった。
そして、焼きたての甘い菓子を三つ買い求め、テオドールが戻ってくる前に、我慢できずにその場で一つ目を頬張ってしまったのだ。
「んんっ……! 甘い……っ!」
サクサクの生地から溢れ出す濃厚な蜂蜜とベリーの甘み。
その美味しさに夢中になり、私は研究室へ戻る坂道を歩きながら、残りの二つもあっという間に平らげてしまった。
……だが、研究所へ帰り着いて少し経った頃、異変がやってきた。
「う……ん……」
玄関で上着を脱いだあたりから、お腹の奥がゴロゴロと不穏な音を立て始めた。
痛いというほどではないけれど、胃のあたりがずしりと重く、膨れたような不快感が込み上げてくる。それと同時に、手足の先から力が抜け、全身に鉛を背負ったような酷いだるさと眠気が襲いかかってきたのだ。
「ローナ? どうしたんだい、動きが止まっているけれど……」
「テオ……なんか、お腹の具合が変で……身体がすっごくだるいの……」
私は標本室の椅子にへたり込み、情けなく机に突っ伏した。
テオドールが驚いて駆け寄ってくる。
「お腹が痛むのかい? 朝市で何か口にした?」
「うう……市場の、すごく甘い焼き菓子を……三つも食べちゃって……」
私は机に額を擦りつけながら、小さく打ち明けた。
「海にいた頃ね、おばばから『人間の甘い食べ物や白い粉は身体を壊す毒だから、絶対に食べるな』って教わってたの。……でも、パンを食べても平気だったから、脅かしだと思って油断しちゃったのよ……」
テオドールは目を丸くし、それからすぐに台所へ行って、湯気の立つ温かい白湯を持ってきてくれた。
「なるほど……おばばさんの教えか。普段は肉や魚ばかりを食べている身体に、あんなに甘い砂糖や小麦の塊を一気に三つも詰め込んだら、お腹が驚いて消化しきれなくなるのも当然だよ。おばばさんの言葉は、あながち嘘じゃなかったんだね」
「うう……面目ないわ……」
白湯の杯を受け取り、温かい湯気を吸い込みながら、私は小さく丸まった。
死ぬような大病ではないけれど、胃の重苦しさと身体のだるさに、自分の食い意地が心底情けなかった。
3. 繁殖期の告白と、選んだ意思
温かい白湯をちびちびと飲み、椅子の上で身体を休めているうちに、お腹の重苦しさと頭のぼんやりしただるさは少しずつ和らいできた。
向かいの席に座ったテオドールが、私の手首にそっと指を当て、脈拍を確かめてくれる。
その真面目で温かな眼差しを見つめているうちに――私の胸の奥で、ずっと燻っていた決意が形を帯びてきた。
(……教わった身体のことを、甘く見ちゃいけない)
お菓子のことだけではない。
テオドールは私のために、真剣に身体の仕組みを解き明かそうとしてくれている。
それなのに、一番根本にある条件を隠したままでは、これからの調査も見当違いな方向へ進んでしまうかもしれない。
「……テオ」
「ん? 脈は落ち着いているよ。まだだるいかい?」
「ううん、だいぶ楽になったわ。……それより、聞いてほしいことがあるの」
私は白湯の杯を机に置き、テオドールの手を両手でそっと包み込んだ。
彼は静かに私の目を見つめ返してくれた。
私は深呼吸を一つして、胸の奥底に秘めていた言葉を口にした。
「……前に話した、四十日の期限のことなんだけどね」
「うん」
「あの四十日っていうのは……実は、私の『繁殖期』の長さなのよ」
「繁殖期の……」
テオドールが目を見張り、私の言葉を待った。
私は彼の手を握りしめ、言い淀みながらも言葉を紡いだ。
「海では動かない骨が分かれて脚になって、喉に仮の声帯ができるのも、全部その期間だけのものなの。……そしてね、もし男の種を受け取って受胎したら、四十日を待たずに、すぐに海の中の姿へ戻り始めてしまうわ。数時間から数日のうちに脚も声も失って、海へ帰らなければならなくなるのよ」
「四十日を待たずに……受胎すれば、すぐに……?」
「そう。受胎していてもしていなくても、期限内に海へ戻れば、何の傷もなく海の中で生きていける。……でも、海へ戻ってしまったら、今のこの暮らしは終わってしまうわ」
私は唇を噛み締め、視線を落とした。
「……私、テオのことが好きだから、もっとそばにいたいし、触れたいって思うの。でも、そうやって近づきたい気持ちのどこまでが私の本心で、どこからが身体の繁殖本能なのか、自分でもうまく分けられないのよ。だから……あなたにも本能だけだと思われるのが怖くて、言えなかったの。それに、もし衝動のままに近づいて受胎してしまったら、あなたと過ごすこの温かい生活を全部失うことになるのが怖くて……」
呆れられるんじゃないか、嫌がられるんじゃないか――そんな不安に胸が縮こまり、私は俯いた。
沈黙が落ちた。
けれど、テオドールは手を離すどころか――私の強張った指先を、もう片方の手も重ねて、ぎゅっと温かく握り直してくれた。
「……話してくれて、ありがとう、ローナ」
顔を上げると、眼鏡の奥の瞳は少しも揺らいでいなかった。
「本能か本心かなんて、無理に切り分ける必要はないよ。僕を好きでいてくれて、この暮らしを守りたいと願ってくれている……その事実だけで十分だ」
テオドールは私の手を包んだまま、真剣な眼差しで続けた。
「近づきたいのに、受胎すればこの場所を失ってしまう……そんなもどかしい思いを抱えていたんだね。……これからは、一緒に考えよう。四十日の期限も、受胎による退縮も、すべて生殖周期と深く結びついた変化なんだ」
「生殖周期……」
「うん。今朝のヒレアシイモリが冬でも水生型を保っていたのも、気候だけじゃなく、繁殖の時期や成熟度と連動しているからかもしれない。……まだ仮説だけれど、調べるべき方向がはっきりと見えてきたよ」
4. 一口の相談と、手元の記録
胃にはまだ少し重さが残っていたけれど、胸のつかえが下りたことで、気持ちはずっと軽くなっていた。
テオドールの誠実な言葉に心が温かくなると、私の図太い食い意地が、性懲りもなくむくむくと顔をもたげてきた。
「……ねえ、テオ」
「うん? まだお腹が重いかい?」
「ううん、だいぶ落ち着いたわ! ……それでね、さっきのお菓子のことなんだけど」
私が机越しに身を乗り出すと、テオドールはあからさまに警戒した顔をした。
「駄目だよ。あんなにだるそうに突っ伏していたんだから、あのお菓子はもう買わないよ」
「待って、完全に諦めるなんて言わないでよ! 理由が分かったんだから、工夫すればいいじゃない!」
「工夫って……君の身体には合わないんだよ?」
「空っぽのお腹にいきなり三つも詰め込んだのが悪かったのよ! ……ねえ、たとえばさ、二人でお茶を飲むときとか、しっかりお肉のご飯を食べたあとに、親指の先くらいに小さく切り分けて、二人で半分こにして味見するくらいなら、お腹もびっくりしないと思わない?」
「半分こ、ねえ……」
テオドールは呆れたように眉を下げ、それから苦笑いをこぼした。
「本当に君の食い意地には敵わないな。……まあ、一人で隠れて三つも平らげるよりは、二人で少しずつ試す方がずっと安全だね。完全に身体の調子が戻ったら、小さく切り分けて一緒に食べてみようか」
「やったあ! 約束よ!」
私が満面の笑みを浮かべると、テオドールは立ち上がり、机の上に広げてあった既存の資料を指差した。
港で書き写してきた『群島沿岸水生誌・潮汐形態録』と、これまで読んできた比較動物学の書物だ。
「さて、僕たちの企てを前へ進めよう。新しい本を当てずっぽうに探す前に、今ある記録を見直すんだ。この比較動物学の第四章――『水生脊椎動物における生殖行動と外皮分泌の変化』の項目がある。ここに、繁殖期に伴って粘膜や皮膚組織がどう変わるかの記述があるはずだ」
「生殖行動と……外皮の変化!」
「うん。手記には冬に全個体が陸上型になるとあったけれど、今朝見つかったヒレアシイモリの水生型は、繁殖状態と関係しているのか、それとも水温などの環境条件や別の理由で保たれているのか……それを照らし合わせながら読み解いていこう。僕たちの目的は、君の脚と声を、暮らせる状態で維持することなんだからね」
「ええ、絶対に手がかりを見つけましょう! テオ、早くそこを開いて!」
お腹の失敗も、隠していた秘密も乗り越えて。
私たちは机を並べ、残された日数の壁を破るための確かな頁へと視線を落とした。