発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 拭った肌に戻る薄膜
上陸十九日目の朝。
昨夜吹き荒れた寒波のせいで、標本室の窓の外には灰色の雪雲が低く垂れ込めていた。
暖炉にくべた薪がパチパチと音を立て、昨日の濃厚な豚骨スープの残りに干し魚をほぐし入れた温かい朝食が、私たちの冷えた身体をしっかりと目覚めさせてくれる。
「さて、ローナ。昨日決めた通り、比較動物学の第四章――生殖期における外皮分泌の変化について、僕たちの手で確かめてみようか」
食後の机の上に、分厚い書物と拡大鏡、それに清潔なスライドガラスが並べられた。
テオドールが腕組みをして首を傾げる。
「問題は、どこを観察するかだね。君の手足や首筋には、ここ数日ずっと羊脂と蜜蝋の軟膏を塗り重ねている。油膜が混ざってしまっては、君の皮膚本来の分泌なのか、軟膏の残りなのか区別がつかないからね」
「それなら、いい場所があるわ!」
私が迷わず胸を張ると、テオドールは眼鏡を押し上げて目を瞬かせた。
「心当たりがあるのかい?」
「ええ! 二の腕の内側と、鎖骨のすぐ下よ。靴擦れや風の当たる手足と違って軟膏を塗ってないし……それにね、自分の肌に触っていると、そのあたりが一番しっとりとして、体温が高くなると吸い付くように滑らかになる気がするの」
「なるほど……! 軟膏の影響を避けられる上に、君自身の感覚で反応が敏感な場所か。さすがはローナだ、僕一人じゃ絶対に思いつかなかったよ」
テオドールは感嘆の声を漏らし、ぬるま湯で湿らせた柔らかな布を用意してくれた。
私は袖をまくり、二の腕の内側を差し出した。
テオドールが慎重に布で皮膚を拭き、乾いた布で水気を完全に拭い去る。
拡大鏡で覗き込むと、そこには軟膏の油気など微塵もない、冬の空気にさらされて少しカサついた地肌が現れていた。
「完全に拭き取ったよ。このまま少し時間を置いてみよう」
テオドールが懐中時計の秒針を見つめ、静かに時間を計り始める。
部屋の暖炉の温もりに包まれながら、私は腕を動かさずにじっと待った。
五分、十分――。
肌の表面がほんのりと温まった頃、テオドールが再び拡大鏡を肌へと近づけた。
「……あ」
テオドールが小さく息を呑んだ。
「どう、テオ? 何か見えた?」
「……薄い膜が、戻ってきているよ。見てごらん」
拡大鏡を渡され、私も自分の二の腕を覗き込んだ。
驚いたことに、さっきまで乾いていた皮膚の表面に、目に見えないほど微細な分泌物がじんわりと滲み出し、光を反射するごく薄い膜となって肌を覆い直していたのだ。スライドガラスをそっと押し当ててみると、微かな湿り気がガラスの表面に転写された。
「すごい……! 油を塗らなくても、自分で勝手に出てくるんだ!」
「ああ。外部から油を補わなくても、君の皮膚自身が、時間を置くと自発的に分泌物を表面へ送り出している……その事実がはっきりと確認できたよ」
テオドールは興奮に頬を上気させ、拡大鏡を持ったまま身を乗り出してきた。
「二の腕だけじゃない、鎖骨の下も確かめてみたい。もし体幹部と四肢で分泌のタイミングや量に違いがあるなら、重要な手がかりになるはずだ……」
テオドールは拡大鏡を握った手を少し上げかけたが――ふと、鎖骨が服を緩めなければならない無防備な場所であること、そして十五日目に手首の脈を測った時のことを思い出したのか、自らぴたりと指先を止めた。
知りたいという学者の熱意と、私への配慮の間で、眼鏡の奥の茶色い瞳が小さく揺らいでいる。
その迷いが手にとるように分かって、私は思わず口元を緩めた。
「鎖骨の下も確かめたいんでしょ? 観察を急ぎたいなら、遠慮しなくていいのに」
私が言うと、テオドールは少し照れくさそうに視線を落としながらも、正直に頷いた。
「……うん。無遠慮に急ぐべきじゃないとは分かっているんだけれどね。でも、もしここも同じように薄膜が戻るなら、君の身体を守る仕組みを解明するための、大きな一歩になるのは確かなんだ」
研究者としての素直な意欲を口にする彼に、私は頼もしさを感じていた。成果が欲しいのは、私だって同じなのだ。
「いいわよ、鎖骨も測らせてあげる。その代わり、条件があるわ」
「条件……?」
「ええ。まずはこの二の腕のスライドガラスを、顕微鏡でしっかり調べて記録すること。それから、鎖骨を測る時は、部屋を暖炉の火でもっと暖かくしてから、手早く済ませることよ。寒がりな私を冷やさないようにね」
私の交渉に、テオドールはぱっと顔を輝かせ、力強く頷いた。
「もちろんさ、約束するよ。すぐに暖炉に薪を足して、万全の準備をしてから行おう」
テオドールは採取したスライドガラスを丁寧に木箱へ収め、黒いノートを開いてペンを走らせた。
知りたいという彼の熱意を受け止め、生活を守るための条件を出し合いながら、私たちは二人で、四十日の壁を破るための確かな観察を一つずつ前へ進めていった。
2. 二十一日目の予感と、前倒しの段取り
ノートに数字を書き終えたテオドールに、私は白湯の入ったマグカップを差し出しながら、ふと思い出したことを口にした。
「ねえ、テオ。皮膚のことで思い出したんだけど……もう一つ、おばばから教わったことがあるの」
「おばばさんの教えかい?」
テオドールが真剣な顔でノートから顔を上げた。
一昨日の焼き菓子での大失敗があるだけに、私も今回は茶化す気にはなれなかった。おばばの言葉を侮ってはいけないと、身をもって知ったからだ。
「上陸して二十一日頃になるとね……身体の芯にある繁殖の熱と衝動が、今より一段と強くなるって言ってたわ」
「二十一日頃に……熱と衝動が強まる?」
「うん。そこが一番の大きな節目なんだって」
テオドールは眉を寄せ、カレンダーへと視線を移した。
「今日が十九日目だから……あと二日後だね。どんな風に強くなるのか、具体的なことは聞いているかい?」
「ううん。そこまでは詳しく聞いてないわ。……でもね」
私は腕を組み、自分なりに考えた見通しを口にした。
「十四日目や十六日目の疼きだって、なんとか我慢できたじゃない? おばばは二十一日頃が峠だと言っていたから、その数日間を部屋でじっと大人しく休んでいれば、きっとやり過ごせると思うのよ。わざわざ外に出て男を探したりしなければ、何とかなるはずだわ!」
知識としては教わっていても、私自身、繁殖期のピークを実際に体験したことはない。
今の火照りや疼きが少し強くなる程度なら、部屋で暖かくして安静に横になっていれば乗り切れるはず――私はそう信じ切っていた。
テオドールは少し考え込み、それから優しく頷いた。
「なるほどね。……もしローナの言う通り数日間身体が重くなったり、強い熱が出るのだとしたら、その間は外出や力仕事を一切しなくて済むようにしておくべきだね。今日のうちに、市場への買い出しや薪の確保をすべて前倒しで済ませておこう」
「賛成よ! 三日か四日分、二人でぬくぬく籠もれるくらい、たっぷりと備蓄しておきましょ!」
私たちはコートを着込み、手早く市場へ向かう支度を整えた。
3. 港町の市場と、冬の備え
港へ続く坂道には、時折冷たい風花が舞っていた。
土踏まずのない足にとって、凍てつく冬の舗装路は気を抜くと滑りそうになる。私はテオドールに右腕をしっかりと支えてもらい、樫の杖をコン、コンと鳴らしながら、小股で着実に歩調を合わせた。
冬の朝市は、荒天を前に買い出しを急ぐ町の人々で賑わっていた。
「さあテオ、私の出番よ! いい薪と美味しいお肉は、目利きが命なんだから!」
私が鼻息荒く引っ張っていったのは、まず燃料を扱う薪問屋だった。
テオドールが手頃な杉の薪束に手を伸ばそうとしたのを、私は慌てて手で制した。
「駄目よテオ、杉は火つきはいいけどすぐに燃え尽きちゃうわ! 研究所の暖炉で毎日見てて覚えたの。部屋にずっと籠もるなら、火持ちが良くて煙の出にくい樫とブナの割り薪よ!」
私は積まれた薪の山へ歩み寄り、樹皮を指先で弾いて音を確かめた。
「おじさん! この奥のブナの薪、しっかり乾いて芯が詰まってるわね。これ三束と樫を二束、まとめて買うから、銅貨二枚負けてくれない? それと、崖の上の研究所まで配達を頼みたいの!」
「お、おいおい嬢ちゃん、ブナの乾き具合をよく見てるな……! 分かったよ、まとめて買ってくれるなら値引きして、夕方に荷車で上まで届けてやる!」
見事に値引きと配達を引き出した私に、テオドールは感心しきりだった。
「すごいね、ローナ。重い薪を背負って運ばずに済んで、本当に助かったよ」
「ふふん! 毎日暖炉の火の番を手伝ってる私の観察眼を甘く見ないでよね」
続いて向かった肉屋でも、私の機転は冴え渡った。
店先にぶら下がった肉の脂身の厚さと色合いをじっくり吟味し、塩漬けにした豚バラ肉の塊と、骨髄がたっぷり詰まった豚の脚骨(ゲンコツ)を指名して買い求めた。
「おじさん、この骨、スープの出汁を取るのに最高だから、オマケで豚の皮も少しつけてよ!」
「まいったね、器量よしの嬢ちゃんにそう言われちゃ断れねえや。たっぷり持っていきな!」
そして市場の帰り道、香ばしい甘い匂いが漂う焼き菓子屋の前で、私の足がぴたりと止まった。
一昨日の失敗を思い出して顔を赤らめる私に、テオドールが苦笑いを浮かべた。
「……約束通り、二人で少しずつ分け合う分として、一つだけ買っていこうか」
「うん! 一つだけよ、約束する!」
私たちは焼きたてのタルトを一つだけ紙袋に包んでもらい、テオドールの背負い籠に大切にしまった。
滋養満点の食材と確かな燃料が揃い、何日も部屋に籠もれるだけの豊かな備えが整ったのだ。
4. 慎重なひとかけらと、二人のノート
夕方、荷車で届いたブナの太い薪を暖炉にくべると、赤々と燃え上がる炎が、部屋を真昼のような温もりで包み込んでくれた。
台所では、さっそく買い込んできた豚骨と干し魚を大鍋でコトコトと煮込み、厚切りの塩漬け豚肉をじゅうじゅうと香ばしく焼き上げた。
「んん〜〜っ! 脂が乗ってて最高に美味しいわ!」
熱々のスープをすすり、カリッと焼けた豚肉を噛み締めると、濃厚な旨味が口いっぱいに広がって、寒空の下を歩き回った疲れが綺麗に溶け去っていく。
そして――食事が一段落したところで、私は棚の上の紙袋をちらりと見つめた。
テオドールがそれに気づき、ふっと優しく目を細めた。
彼は立ち上がると、市場で買ってきたあの焼き菓子を小皿に乗せ、机の上へ運んできた。
そして、果物ナイフを使って、親指の先ほどの小さなひとかけらを切り分けた。さらにそれを二つに割り、半分を私へ差し出してくれた。
「はい、ローナの分だよ」
「わあ……! ありがとう、テオ!」
私はそのごく小さなひとかけらを、壊れ物を扱うようにそっとつまみ、口の中へ放り込んだ。
舌の上で、濃厚な蜂蜜と野イチゴの甘酸っぱさがふわりと広がる。
ほんの少しの量だけれど、温かい食事の後に味わうその甘みは、涙が出るほど贅沢で美味しかった。
「んん……やっぱり、すっごく美味しい……!」
「ふふ、喜んでもらえてよかったよ。……でも、今日はこれでおしまいだ。食べた直後は平気でも、君のお腹がどう受け止めるかは、一晩経ってみないと分からないからね」
「うん、分かってるわ! 欲張らないで、ちゃんとお腹の様子を見る!」
私は満足感に浸りながら、素直に頷いた。
完全に禁止されるのではなく、こうして二人で相談しながら少しずつ楽しむことができる――それだけで、私の心は十分に満たされていた。
食卓を片付けた後、テオドールは机の上にあの黒いノートを開いた。
彼は文字がまだすらすら読めない私のために、ペンを走らせながら静かに読み上げてくれた。
「……『上陸十九日目。軟膏の影響なき部位において、皮膚表面の自発的な薄膜分泌の再出現を確認。二十一日前後に訪れるとされる熱と衝動の増大に備え、数日分の薪および食料の備蓄を完了。期限まで残り二十一日』……と」
ペンを置いたテオドールが、机の隣に座る私を静かに見つめた。
ふと、机の上で彼の指先が私の手に触れた。
その瞬間、素肌から直接伝わってきた彼の確かな体温に、二の腕の内側と下腹部が、きゅんと甘く熱を帯びた。
上陸十九日目。
身体の奥底で、静かに何かが満ちてきているのを感じる。
けれど、私はもう恐れていなかった。
私はテオドールの手を握り返し、彼の肩に自分の肩をそっと預けた。
「テオ。明後日、もしおばばの言う通り熱が強くなっても……部屋で二人で、ちゃんと乗り切ろうね」
「うん。どんな変化が来ても、僕が君のそばにいるよ」
窓の外では冬の冷たい夜風が吹いていたけれど、私たちの部屋には、明日と明後日の日々を迎え撃つための確かな備えと、揺るぎない温もりが満ちていた。