発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 甘い見通しと、唐突な熱波
上陸二十一日目の朝。
灰色の雲から舞い落ちる細かな雪が、研究所の頑丈なガラス窓を白く染めていた。
けれど、部屋の中はまるで別の世界のように暖かかった。一昨日に買い込んだブナと樫の太い割り薪が暖炉の奥で赤々と熾火を作り、パチリ、と静かな爆ぜる音とともに豊かな温もりを放っている。
「ふふん、やっぱり私の見立て通りね! 火持ちが全然違うわ」
私は暖炉の前の椅子に深く腰掛け、両足を温めながら誇らしげに鼻を鳴らした。
朝食は、大鍋でじっくり煮込んだ豚骨スープに、塩漬け豚肉の厚切りを焼いたもの。一昨日の夕食後に恐る恐る口にした親指の先ほどのタルトの欠片は、昨日の丸一日を通しても胃もたれひとつ引き起こさなかった。
「お腹も全然痛くならなかったし、お肉の出汁は身体に染み渡るし、部屋はぬくぬくだし……おばばの言ってた二十一日目の峠なんて、こうして美味しいものを食べて部屋で大人しくしていれば、何事もなくやり過ごせるわよね!」
机の上で観察記録を整理していたテオドールが、眼鏡の奥の目を細めて柔らかく笑った。
「そうだね。ローナが薪をしっかり見極めてくれたおかげで、部屋の温度も一定に保てている。この調子で無理に出歩かず、静かに休んでいれば大丈夫そうだ」
二人して、嵐を前にした完璧な防備にすっかり安心しきっていたのだ。
――その根拠のない自信が、木っ端微塵に砕け散ったのは、午前中の陽の光が雪雲の隙間からかすかに差し込んできた頃だった。
それは、前触れもなく訪れた。
下腹部の奥深く、身体の中心にある見えない核のような場所が、きゅっと音を立てて引き絞られたかと思うと――次の瞬間、全身の血管という血管へ、煮えたぎる熱湯が一気に注ぎ込まれたような激震が走った。
「……っ!?」
息が、喉の途中で止まった。
心臓が肋骨の内側を突き破らんばかりにドクン、ドクンと早鐘を打ち、耳の奥で激しい血流の音がゴーッと唸りを上げる。
頭の芯がカーッと熱くなり、視界の端がチカチカと白く滲んだ。
「ローナ……? どうしたんだい、顔が急に真っ赤だよ」
机から顔を上げたテオドールが、異変を察知して立ち上がった。
私は椅子の背もたれにしがみつき、荒い息を吐き出しながら、必死で言葉を絞り出した。
「な、なんでも……ないわ。ちょっと、おばばの言ってた熱が……来ただけ……」
強がりを言おうとした唇が、小刻みに震えていた。
今まで経験した十四日目や十六日目の疼きとは、規模がまるで違っていた。内側から身体そのものを焼き尽くそうとするような、あまりにも圧倒的な熱波だった。
2. 刺さる声と、跳ね除けた毛布
「熱を測ろう。横になって、落ち着くんだ」
テオドールが慌てて駆け寄り、私を寝台へと誘導してくれた。
けれど、横になったからといって熱が引くはずもなかった。むしろ、静かに横たわったことで、全身の感覚が恐ろしいほど過敏に研ぎ澄まされていく。
「気を紛らわせようか。何か、君の好きそうな物語の続きでも読もう」
テオドールが私の枕元に椅子を引き寄せ、本を開いて穏やかな声で読み始めた。
普段なら、彼の落ち着いた心地よい声を聞いているだけで、海の話や遠い異国の街の風景がまぶたの裏に浮かんできたはずだった。
だが――。
「……っ、やめて、テオ!」
私は思わず両手で耳を塞いだ。
「えっ……?」
「声が……声がやけに大きく響いて、頭の芯に直接突き刺さるの……! 全然、お話が頭に入ってこない……!」
鼓膜を揺らすわずかな空気の振動すら、まるで金属の針で脳を突かれるような鋭い刺激に感じられてしまう。
テオドールは息を呑み、慌てて本を閉じた。
「す、すまない……! 知覚がそれほど敏感になっているんだね」
それだけではなかった。
肩まで引き上げられていた柔らかな羊毛の毛布。普段ならふんわりと肌を包んでくれるはずのそれが、今は無数のトゲのようにチクチクと皮膚を刺し、耐え難い不快感となって襲いかかってきた。
「ああっ、もう! 痛い、熱い、チクチクする!」
私はたまらず毛布を足で跳ね除けた。
だが、冷たい外気に肌がさらされた瞬間、今度は背筋を氷の刃で撫でられたような激しい悪寒が走り、ガタガタと歯の根が合わないほど震えだした。慌てて毛布を引き寄せると、今度は火傷しそうなほどの熱気に包まれて窒息しそうになる。
「かけると熱くて刺さるのに、剥ぐと寒くて死にそう……! どうしてこんなに面倒くさいのよ、私の身体は!」
そして何より――私を最も狂わせたのは、すぐ目の前にいるテオドールの存在だった。
彼のまとう石鹸の匂い、吐息の温もり、そこに立っている気配そのものが、身体の奥深くにある野性の衝動を激しく刺激する。
抱きつきたい。彼の首筋に顔を埋めて、冷たい皮膚を貪るように触れ合いたい――本能が、激しい飢えのように叫んでいた。
「ローナ、大丈夫かい? 額に触れて熱を確かめてもいいかい?」
テオドールが心配そうに眉を寄せ、そっと手を伸ばしてきた。
触れてほしい。その手で私を強く抱きしめてほしい。
そう願ったはずなのに――彼の指先が、私の額の皮膚にほんのわずかに触れた瞬間。
「ひゃうっ……!?」
全身の神経に電撃が走ったような過剰な痺れが背骨を突き抜け、私は悲鳴を上げて身をよじり、彼の手から飛び退いてしまった。
下腹部がきゅうんと甘く締め付けられ、息が止まりそうになる。
「ご、ごめん……! 痛かったかい!?」
テオドールが慌てて手を引っ込め、青ざめた。
私は寝台の隅にうずくまり、乱れた息を吐きながら、涙目で彼を睨みつけた。
「痛くない……痛くないけど……! 触ってほしいのに、触られると頭がおかしくなりそうなの! もう、触ってほしいのか触られたくないのか、自分でも全然分からないのよ……!」
3. 本能の甘い罠と、図太い要求
寝台の隅で縮こまりながら、私は荒い息を繰り返した。
頭の奥底で、甘く抗いがたい衝動が渦巻いていた。
――いっそ、身を任せてしまえば楽になるのだろうか。
目の前にいる優しい男にすべてを委ね、身体の疼きに従ってしまえば、この狂いそうな熱も喉の渇きも消えるのではないか。
熱で朦朧とする中、私は無意識に手を伸ばし、彼の袖をぎゅっと引き寄せていた。
「……テオ……もう、いっそ……」
すがりつくような私の言葉と手の震えに、テオドールはハッと息を呑んだ。
けれど、彼は私の衝動に流されることなく、引き寄せられた袖の上から、私の手をそっと押し留めた。
「だめだよ、ローナ。……君が望んでいるのは、僕と一緒にここで暮らし続けることだろう? この熱に流されて、君の願いを手放しちゃいけない」
その真摯で揺るぎない声に、私の頭の芯で弾けるものがあった。
受胎すれば、数時間から数日で脚は消え、海へ戻らなければならない。
声を失い、テオドールと今のように話せなくなってしまう。
あの暖かい暖炉も、ふかふかのベッドも、香ばしい豚肉も、全部失ってしまうのだ。
――何を血迷っていたのか。私は、この便利で温かい陸の暮らしが大好きなのだ!
「……っ、当たり前じゃない! 誰が手放すもんですか!」
私は袖から手を離し、寝台の枕をバシッと叩いた。
「おばばから聞いてはいたけれど……こんなの、想像以上じゃないの……! 部屋で大人しくしていればやり過ごせるなんて、完全に甘く見てたわ!」
苦しんでめそめそしてやるものか、という私の悔し紛れの叫びに、テオドールは息を呑み、それから真剣に頷いた。
「そうだね、僕たちの見通しが甘かった」
「反省はあとよ、テオ! 指示を出すから、手伝って!」
「な、なんでも言ってくれ!」
テオドールが背筋を伸ばす。私は息を切らしながら、矢継ぎ早に要求を叩きつけた。
「まず、この毛布は駄目! チクチクしない、目の詰まった滑らかな麻のシーツを持ってきて! それから、井戸の冷たい水で絞った手拭い! 額と、首の後ろに当てたいの!」
「分かった、冷水の手拭いと麻布だね!」
「それと……こんなに熱くて死にそうなのに、お腹だけはしっかり減ってるのよ! 朝のスープ、小鍋に取って、息でしっかりフーフーして冷ましてから持ってきて! ひと口ずつ、スプーンで飲ませて!」
「お腹が……? あ、ああ、分かった! すぐに冷まして持ってくるよ!」
テオドールは目を白黒させながら、台所と寝台の間を小走りで往復し始めた。
4. 引いていく波と、手探りの工夫
冷水で硬く絞った麻の手拭いが首筋と額に当てられ、肌を苛んでいたウールの毛布が滑らかな麻布へと替えられた。
ジュウと熱を吸い取られるような冷涼感に、私はようやく細い息を吐き出した。
「……ん……少し、冷えてきた……」
「手拭いがぬるくなったら、すぐに替えるからね」
テオドールは手早く水桶で布をすすぎ、絞り直してくれる。
やがて、荒れ狂っていた脈拍がわずかに落ち着き、身体を焼き尽くすようだった熱波が、潮が引くように一段階だけ引いていった。
完全に熱が消えたわけではない。下腹部の奥には重い火種が燻っているけれど、少なくとも息も絶え絶えだった狂乱からは脱することができた。
「はい、ローナ。スープ、しっかり冷ましてあるよ」
テオドールが小皿からスプーンですくい、息を吹きかけながらそっと差し出す。
直接肌に触れないよう気遣いながら、私の口元へと運んでくれた。
私はスプーンから、濃厚な豚骨のスープをひと口すする。
「……美味しい」
「よかった。一度にたくさん飲むと胃に障るから、少しずつね」
「うん……」
途切れ途切れのやり取りの中で、冷たい手拭いを替え、ひと口ずつスープを含み、刺激の少ない姿勢を探る。
直接肌に触れられると神経が跳ね上がってしまうが、彼が少し離れた椅子に座り、服越しに麻布の端を整えてくれる程度の距離なら、落ち着いて息をつくことができた。
麻布を握りしめながら、私はぽつりと呟いた。
「……二本の脚を保てても、こんなのじゃちっとも暮らしを楽しめないわ」
声や物語を拒絶する過敏な耳、服の擦れに怯える肌、食べることもままならない発熱。
ただ脚があるだけでは、私の望む人間の暮らしには届かないのだ。
テオドールは手拭いを水桶に浸しながら、静かに、けれど力強く頷いた。
「ああ。だからこそ、君がちゃんと暮らせるように、これからの過ごし方を手探りで整えていこう。冷やす間隔も、食事の摂り方も、こうして試していけばいい」
彼は机の上の黒いノートに、手短に水冷の間隔や麻布の感触をメモした。
その落ち着いた横顔を見ているだけで、胸の奥の焦りがすっと静まっていく。
まだ熱の波は何度もぶり返すだろうし、この強い波がいつまで続くかは、まだ分からない。
けれど、ただ怯えて嵐が過ぎるのを待つ必要はない。こうして工夫を重ねていけば、きっと乗り切れる。
「……ねえ、テオ」
「なんだい?」
「さっきのスープ、もうひと口ちょうだい。冷ましてね」
「ふふ、喜んで」
テオドールが嬉しそうにスプーンを手に取った。
窓の外では冷たい雪風が吹き荒れているけれど、私たちは確かに、この熱波と向き合って暮らしていくための最初の一歩を踏み出していた。
期限まで、残り十九日。
私は絶対に、この便利で温かい暮らしを手放したりはしない。