発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
荒れ狂っていた熱の第一波がようやく引き、薄い麻布の擦れる音だけが静まり返った部屋に落ちていた。
寝台の上で丸くなっているローナの呼吸は、規則正しい小さな寝息へと変わりつつある。額と首筋に当てた冷水の手拭いは彼女の高熱を吸って生温かくなっていたが、今は過敏になった神経を眠りの底へ沈めているようだった。
僕は水桶の横に置いた手帳に鉛筆を走らせる。
『冷水手拭いと麻布の使用後、熱感および知覚過敏は一時的に緩和。ただし深部の熱感は残存』
事実だけを書き留め、眼鏡を押し上げた。
未知の水生哺乳類が陸棲形態を維持できる限界――四十日のうち、すでに二十一日が過ぎ去った。身体の期限まで、残り十九日。今日突如として彼女を襲った激しい発熱と知覚過敏が、一体何日続くのかは分からない。同種の繁殖生理に関する知見など僕が調べた学術書には記載が見つからず、明日になればまた猛烈な波がぶり返すかもしれない。
机の端には、夕方に台所から運んできた僕の夕食が置かれていた。
欠けた深皿に残った豚骨スープと黒パン。スープの表面には白く凝固した豚の脂が張り、すっかり冷え切っている。看病と記録に追われ、口をつける暇もなかったのだ。
スプーンを差し入れると、固まった脂の膜がぷつりと鈍く割れた。その冷たい感触に、大学時代の記憶が胃のあたりをかすめる。
帝立大学の薄暗い標本室。
「マウラー教授、この鯨類の胸鰭骨格のスケッチをご覧ください。既存図譜の癒合様式とは異なっています。深度による特異な分化の可能性が――」
「テオドール君」
教授はスケッチを一瞥もせず、冷淡に言った。
「君の仕事は棚の瓶に正しい番号札を貼ることだ。先人の分類体系に疑義を挟む前に、既存の論文を百本写本して身の程を知りたまえ」
バタン、と目の前で木箱が閉じられた。反論しようとした僕から、同僚たちは一斉に視線を逸らした。学内の食堂でも、僕が議論を切り出せば皆が気まずそうに席を立った。反論は学問ではなく秩序への反逆と見なされたのだ。
この岬の標本室へ追いやられてからは、食事にかける手間も金も削るようになった。僕だって温かく香ばしい料理への好みは人並みにあった。けれど、限られた予算を薬品や機材に優先する以上、食事は常に後回しだった。一人きりの部屋で冷えたパンを胃へ流し込む時間は、ただ身体を維持するための味気ない作業だった。
スプーンを口元へ運ぼうとした、その時だった。
「……テオ」
掠れた、けれど芯のある不満げな声が寝台から飛んできた。
見ると、ローナが麻布から顔を半分出し、熱っぽい銀緑色の瞳で僕を睨んでいた。
「それ……冷え切ってるじゃないの」
「え? あ、起きてしまったかい?」
「白く固まった脂なんて、舌触りも悪いし胃にもたれるでしょ。なんでそのまま口に入れようとしてるのよ。ちゃんと鍋に戻して温め直してきなさいよ」
さっきまで息を乱していたはずなのに、人の食事に指図する勢いは衰えていない。
「いや、でも……これくらい平気だよ。君のそばを離れている間に熱がぶり返したら困るし」
「言い訳しないの!」
ローナは麻布をぎゅっと握りしめ、言い返してきた。
「助手が冷えた脂で腹を壊して倒れたら、明日の朝ごはんは誰が作るのよ! 私の手拭いは誰が絞るの! 私が快適に過ごすために、あなたには万全でいてもらわなきゃ困るのよ。ほら、さっさと行ってきなさい!」
呆れるほどの図太さだった。
病人の側から指図され、しかも反論の余地がない。
「……分かったよ。一本取られたな」
僕は思わず口元を緩め、深皿を持って立ち上がった。
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台所の暖炉に小さな鉄鍋をかけ、スープを温め直す。
すぐに鍋肌からチリチリと音が立ち、白かった脂が透き通る黄金色へと溶け出して濃厚な湯気が立ち上った。
器に戻した熱々のスープを手に、部屋へ戻る。
広い研究机ではなく、僕の足は迷わずローナの寝台のすぐ傍らに置かれた丸机へと向かっていた。
「温め直してきたよ」
声をかけると、ローナは麻布の縁から器を盗み見て、満足そうに鼻を鳴らした。
「よろしい。熱いうちに食べなさい」
椅子に腰を下ろし、スプーンでスープを口に含む。
――ジュワッと、豚骨の深いコクと熱い脂の甘みが、胃の腑へと染み渡っていく。
美味い。ただ空腹を満たすためだけの食事とは、まるで違う味がした。
大学にいた頃、僕が求めていたのは研究が認められることだった。今でもその思いは切実だ。
けれど、ローナと暮らすようになってから、自分の中に別の欲が根を下ろしていた。
あの大潮の三日前の夜、報告書の是非をめぐって声を荒らげて議論し、机に突っ伏して眠ってしまった僕に、彼女はそっとマフラーを掛け、温め直したスープを運んできてくれた。「助手が倒れたら困るからよ」と口を尖らせながら手渡されたあの器の温もりを、今でも覚えている。
大学では反論の先に拒絶しかなかった。けれど彼女とは、激しくぶつかり合っても、その直後に同じ灯りの下で温かい食事を分かち合えた。あの時間を、僕は失いたくなかった。
今、彼女は激しい熱と過敏さに苦しみ、標本の解剖を手伝うことも、海中の知恵を貸すこともできない。それでも、僕の居場所はここだった。
スプーンを動かす僕の横で、ローナが小さく身じろぎをした。
直接触れれば過敏な神経が跳ね上がってしまうが、少し離れた場所から見守り、同じ匂いと温もりを共有している距離なら、彼女の呼吸も穏やかさを保っている。
「テオ」
「ん?」
「明日の朝も……そのスープの残り、少しだけ飲ませてね。しっかり冷ましてからよ」
「ああ、約束するよ。冷水の手拭いも、ぬるくなる前に取り替える」
「うん……」
ローナは深く息を吐き、静かに瞼を閉じた。
最後の一口のスープを飲み干し、パンで器の底を綺麗に拭って口に入れる。
熱波の嵐はまだ始まったばかりだ。明日もまた厳しい試行錯誤が続くだろう。
残り十九日。
二人でこの暮らしを手放さないために、明日もまた、手探りで一日を積み重ねていこう。
僕はそっと水桶へ手を伸ばし、新しい手拭いを静かに冷水に浸した。